Untitled - アンダー・ザ・ライト ヨガスクール

向井田みお の
インドで学んだ瞑想
2012 年版
- YOGA 的リアリティ瞑想 -
アンダーザライト ヨガスクール
『向井田みおのインドで学んだ瞑想 2012』
電子書籍出版記念ワークショップ ご参加の皆さまへ
この電子書籍は、ワークショップご参加の皆様に参加特典として、2 月 20 日
の「シヴァラートリ」に合わせて先行無償配布する第0版となっております。最
終校正前の原稿となりますため、今後 YOGA BOOKS にて販売される有料版とは
内容が異なる場合がございます。ご了承ください。
その他お気づきの点や著者へのご質問がありましたら、ぜひ以下のメールアド
レスへご連絡ください。2013 年度版にて反映させていただきます。
[email protected]
今後の改訂版や関連情報につきましては、以下をご参照ください。
ポッドキャスト:向井田みおの インドで学んだマントラ
ブログ:向井田みお の ヨガ哲学の旅
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YOGA BOOKS
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2012 年 2 月 20 日
アンダーザライト ヨガスクール
YOGA BOOKS
瞑想の前に唱えるマントラ
『ヴェーダ(聖典)』が讃えられる世界では、あらゆる障害を取りのぞく力を、
「ガネーシャ गनेश(障害を取り除き、道を開く力)」と呼んでいます。象の頭を
した姿がそのシンボルです。
私たちは “ 祈り ” という行いを通して、この象徴がもつ力を自分の味方につけ
ることができます。
瞑想において、Yoga において、障害がなくなるように。目的がスムーズに達
せられるように。祈りは、願いを具現化するための実践的な行いです。
祈りの際に、この「マントラ मन्त्र」を唱えるとさらに効果があがります。
शुक्लाम्बरधरं विष्णुं शशिवर्णं चतुर्भुजाम्।
प्रसन्नवदनं ध्यायेत् सर्वविघ्नोपशान्तये॥
シュックラーンバラダラン ヴィシュヌン
シャシヴァルナン チャトルブジャン
プラサンナバダナン ディヤーエット
サルヴァヴィグナ ウパシャンタエ
<意味>
白い衣をまとい、4 本の手をもち、すべてに行渡り、広がる者。月のよ
うな輝きを放ち、笑みを浮かべた,象の頭をもつ者「ヴィグネーシュヴァ
ラ विध्नेश्वर(障害を取りのぞく者、ガネーシャ)」に私は瞑想します。ど
うか瞑想をし、全体に心をつなぐ者が、すべての障害から解き放たれま
すように。
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒:॥
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
「シャンティ शन्ति(平和、静寂)」
目次
はじめに------------------------------------------------------------------------------------------- 6
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か ? <瞑想の定義>----------------------------- 19
第 2 章 何に瞑想をするべきか? < 瞑想の対象 >------------------------------- 49
第 3 章 だれが瞑想をしているのか? <Yoga 的瞑想者 >------------------ 127
第 4 章 何のために瞑想をするのか? < 瞑想の目的 >---------------------- 165
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか? < 瞑想の条件 >-189
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは? < 瞑想の方法 >
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ」を始めよう < マントラ瞑想 >----------- 287
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策 < 瞑想の障害 >------------------- 329
第 9 章 「マントラ(真言)
」について--------------------------------------------- 355
第 10 章 祈りのためのマントラ---------------------------------------------------- 367
おわりに--------------------------------------------------------------------------------------- 426
参考文献--------------------------------------------------------------------------------------- 428
イラストレーション:山田 久美子
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はじめに
Yoga でも、スピリチュアルな探求でも、宗教でも、やたらと “ 瞑想 ” と名の
つくものが溢れているようにみえる。
「瞑想をしましょう」。そういって息を止めようとしたり、考えをなくそうと
する試みに躍起になったりするテクニックを筆頭に様々な方法や考え方があ
る。呼吸だけを数時間も見つめたり、はたまた “ 過去生 ” にたどり着くような架
空の旅路についたり。実際あるのかないのかわからない “ チャクラ ” というエネ
ルギー・ポイントにアクセスしようとしたり、とにかく黙って坐り、「黙想こそ
瞑想なり」といって何も考えずひたすら坐り続けたりもする。黙想が瞑想とい
われたかと思えば、違う流派の人達は「瞑想とは呪文をひたすら唱えることで
ある」
。という。そうかと思えば、未来のお告げを聞こうと待っていたり、宇宙
人とコンタクトをとって未来の事情を伺ったり、アカシックレコードを解くこ
とや、ハイヤーセルフにアドバイスを聞こうとするのも瞑想だという。ガーディ
アンエンジェルや守護霊にご意見を伺うなど “ おすがりする ” のも瞑想だとい
う。挙句の果てには、踊り出したり、泣き出したり、笑い続けたりも “ ○○瞑想 ”
といって、“ 瞑想 ” にしたてあげてしまう。何と強引な…
瞑想とは、本当は何なのだろう? そもそも私たちは何のために瞑想をするの
だろうか。目的がはっきりしないと、手段に迷う。“ 瞑想 ” をする意味。瞑想か
ら期待できるメリット。目的に沿った確実なメソッドはあるのだろうか。
“ 瞑想 ” という名のもとに、たくさんの目的と方法論のバリエーションがある
ようにみえるが、肝心なところが曖昧だ。ズバリ、瞑想の “ 目的と手段 ” とは?
そんなシンプルな問いにすら、答えがみえない方法が罷り通っている気がする。
本質的に “ 瞑想 ” とは何のために、どうすることなのだろう? どこを目指し
ていて、そのための方法は何か、ということがどうもはっきりしないなぁ~、
と長い間疑問に思っていた。
Yoga では、体や呼吸についてのあれこれをマスターした人々が、次の修行の
段階として瞑想を志すという。だとしたら、瞑想をするということには、はっ
きりとした目的があり、そのためのメソッドが確立しているはずではないか。
私は、納得がいくことがしたかった。目的もよくわからず、だたフワフワ坐っ
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ていることに耐えられなかったのだ。
あんなにポーズや、呼吸についてはあれこれうるさい Yoga なのに、どうして
瞑想においては、この辺が曖昧なままであっても大丈夫なのだろうか。
長い歴史の中で、多くの人々に実践されてきた Yoga。Yoga の数あるメソッ
ドの中でも瞑想は最も大事であり、かつ最終的な修行だといわれているのは度々
耳にした。また、宗教活動を含む様々なスピリチュアルな探求でも、最終目的
は心をマスターし、己を深く知るために瞑想を極める事であるという話はよく
聞く。実際はどうなのだろう? 瞑想を治めた古の「ヨーギー योगी(Yoga の実
践者、達人)」は何を目的に、どうやって瞑想をしていたのか非常に気になる!
Yoga というジャンルにおいて、日本ではなかなか “ これが瞑想 ” といえるも
のに出会うのが難しい。Yoga の発祥の地インドから離れているため、だれが何
を瞑想と呼んでもいいような状況がある。“ 瞑想っぽさ ” や “Yoga っぽさ ” の雰
囲気があれば、それでよし。というような…。瞑想が迷走している。迷走によっ
て、瞑想が混乱している。
迷いと、混乱、そしてとりわけ Yoga の瞑想においては不確実で少ない情報し
かない状態に、業を煮やした私はインドに乗り込んだ。彼の地でかれこれ8年
…。ようやく、“Yoga 的な瞑想 ” といって遜色ない考えと方法論に出会ったよう
である。
その肝は、Yoga 的な考えの基盤となる『ヴェーダ(聖典)
』の教えの中にあっ
た。最古の聖典であり、Yoga のテクニックをバックアップする考え方も哲学も、
すべてここを起点としている。
そして
『ヴェーダ
(聖典)
』
は、
最終章に秘密がある。
『ヴェーダ(聖典)』は基本的に前半の章で「カルマの法則(行いの法則)」に
ついて教える。するべきこと、しない方がいいこと。どうしたら運を味方につ
け、欲しいモノを手に入れ、欲しくないものを避けられるか。それが、「マント
ラ मन्त्र」の威力であったり、お焚き上げなどにみられる「プージャ(儀式)」
という方法であったりする。また人として守るべき規律、規律を守ることで得
られること。守らなければどうなるか? ということ。とにかく、
「カルマ कर्म(行
い)」についての教えを説いているのが『ヴェーダ(聖典)
』の前半である。
しかし、その『ヴェーダ(聖典)』は最後の章で、突然テーマを変える。そ
もそもなぜ人は欲しいモノを手に入れたいのか。なぜ人はいつまでも欲しい!
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得たい!自分以外の何者かになりたい!と思うのか。人は何を手にしても、ま
た次を欲しがる。欲望はとどまることを知らない。私たちが何かを欲しがり、
探求することは尽きることがない。なぜなのだろう? 根本的な欲求、“ 求める ”
ということ自体に疑問を持った人に、『ヴェーダ(聖典)』の最終章は答える。
それが実は『ヴェーダ(聖典)』全体で伝えようとしているテーマになっている
のだ。
人はいつも何かを欲し、何かになろうとする。満たされない思い、何かが足
りないという焦燥感や何かを得なければ!というプレッシャーが人を突き動か
している。何かを探し求めて、中途半端に満足はするが、完全には心が満たさ
れない。そんな風に人生は過ぎていく。そのむなしさに耐えられなくなった人。
取りに行く生き方では、本当に望むものを得ることはできないと見抜いてしまっ
た人。探し続け、小さな喜びを得ることに意味を見いだせなくなった人。「何か
が物足りない、何か欲しいよぉ~」といいながら、もの欲しげに終わる生き方じゃ
だめだ!と、切実に思う人はいつの時代にもいる。
なぜ人は求める? なぜいつまでももっているものに満足できない? 本当には
何を望んでいる? 自分を心から満たすものを手に入れることができないまま、
走り回るだけ走って、空しく人生は終わるのか。それとも「本当は “ 求めてい
ること、足りないと思っていること、満たされないという思い ” からの自由が
欲しいのではないのか」と思って生き方を変えるのか。
求め続ける生き方に終止符を打たなければ、空虚な人生が続いてしまう。自
分が本当に望むのは、手に入れられるような物ではない。求める自分、足りな
いという思い、満たされていない気持ち。自分の根にある欲求が満たされない
限り、求める衝動は尽きない。だとしたら、自分は何かを欲しがることからの
自由を目指しているのではないか? そこまで思いが行き着いた人。その人に
『ヴェーダ(聖典)』の最終章の言葉が響く。
「“ 根源の満たされない思いや欲求からの自由 ”。
それは、実は人間が誰もが知りたいことである。
なぜならそれが本当の自由だからだ。
何に対する自由か?
それは、“ 苦悩や欲求からの自由 ” だ」。
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“ 苦悩と欲求からの自由と、人間の本質について ”。これが『ヴェーダ(聖典)
』
最終章で扱うテーマである。この特別な章は、『ヴェーダ(聖典)』の中でも、
「カルマの法則(行いの法則)」で運を味方にし、欲しいモノを手に入れようと
する生き方にアドバイスを与えるような前半の章とは趣を異にする。そのため
「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」といわれるこの聖典の部分は、
『ウ
パニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』という別名で呼ばれて
いる。
最終章は、尽きない欲望のプレッシャーに苦しみ、苦悩に悩む人間に対して、
痛快な教えのパンチを繰り出す。
「これを読んでいる今のあなたには、ちょっと信じてもらえないかもしれない
が、本当の自分自身の真実とは、すでに満ちている存在であるのだよ。“ 知・認
識の源 ” である。あまねく広がるものであるのだ。そのことを、Yoga の言葉で
いえば「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」とい
う。たまたま、あなたはその体や顔やキャラクターに限定されたようにみえる
が、人間の本質は限りがないものだ。
目にみえることだけがすべてだと、それが真実だと結論づけるのは、あまり
に早合点だ。あなたは自分の真実をまだ知らない。自分が思っている者以上の
存在が真実の自分自身なのだ。あなたは体でも、感覚でも、考えでもない。そ
れらすべてに満ち、機能させている根源こそが、あなたの事実だ。あなたは本
当は何者だ? どこから来て、どこへ行くのだ? 体が自分自身だ、体が終われば
自分も終わると、本当にそう信じているのか?
どうか、目覚めてほしい。無知の闇をとり払って、事実をみてほしい。あな
たこそが自由の意味であり、探している幸せの意味そのものなのだということ
を知るのだ。そうして事実を知り、悲しみや不安で溢れる海を越えることを願っ
ている。あなたはもうすでに自由だ。幸せなのだ。ただ真実を隠している無知
や勘違いに覆われて、みえていないだけだ。まるで、輝く太陽の前に立ち込め
る雲が、世界をどんよりと曇らせてしまっているように。
しかし、どんなに厚い雲が目の前にあっても、その後ろには遮られることの
ない太陽が輝いている。どんなに曇っている空でも、太陽の輝きがあるから薄
暗くても空をみることができる。空は輝きを失ったわけではない。雲を退けれ
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ば太陽の輝きは、同じ空に存在している。
同じように、私の事実はいつもここにある。自ら輝き、私に認識を起こす知
の源として。幸せや心地よさの意味として、ここにある。でもそれが、無知と
いう闇に遮られてみえない。ぼんやりと何か大事なものがあるとは解るのだが、
何があるははっきりとみることができない。それが無知、疑い、勘違い。事実
をみるためには、無知を退かせばいいだけだ。無知を退かす方法は、事実を教
える聖典の言葉と意味を理解することだ。事実の理解が、私たちの無知を落と
し、真実が何であるかをみせてくれる。私たちの事実とは、制限がない無限の
自由であり、無条件の幸せなのだ。
どうか、自由であれ。自分自身の事実を知り、幸せであれ!あなたが常に喜
びそのものであることを受け入れ、納得するまで、私は真実の教えを語り続け
よう」。
そういって、苦悩する私たちを『ヴェーダ(聖典)
』は教え導く。自分自身と
は、自由と幸せの意味そのものだということ。もはや、それが真実じゃないな
んていえないところまで、私たちに教えている。
聖典は我々がとらえられている苦悩の正体をみせ、知識の刃で呪縛を取りの
ぞく。苦悩に縛り付けられている私たちを自由へ解放する。この、苦悩の原因
を完膚なきまでに破壊し、呪縛を根こそぎ断つ鋭い刃のような教えが、『ウパニ
シャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』なのだ。
「人の苦悩や満たされない思いは、すべて自分自身を知らないという無
知に端を発している。
だから、問題は無知である。
問題が無知なら、解決は何か?
そう、無知を取りのぞくためには “ 知る ”、ということしかない。
人は自分の真実を知らない。知らずに、勝手に勘違いをして、自分に対
して結論を出す。自分は、この体とか、考えだとかいい張っている。
そうして誰もが不確かな結論に自ら縛られ、真実を知らないことから起
こる恐れや不安、自分の小ささや苦悩にはまって、嘆いている。
苦悩から解放され、自由になるには、事実を知ることだ。
自分とは一体何者なのかを。
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苦悩の原因とは何かを。
自分を苦しめているようにみえる世界とは、一体何のことだ? 本当の自
分とは?
この事実を理解することだけが、満たされぬ思いや苦悩に関する唯一の
解決策だ」
人に真実を告げる『ヴェーダ(聖典)』の最終章。聖典は満たされぬ思いや苦
悩があるのは、ただ自分の本質を知らないせいだという。『ヴェーダ(聖典)』
が告げる自分自身の事実を理解すること。事実の理解が、苦悩の根である無知
というヴェールを外す。真実を覆い隠し、私たちを混乱させる無知を取りのぞ
くには、本当のことを理解するしかない。
私はインドにおいて、この教えを教え続けて 50 年になる師、スワミ・ダヤー
ナンダジから瞑想の意味と目的を聞いた。Yoga はインドで生まれ、現在まで育
まれてきた教えだ。その Yoga の思想を支える、
『ヴェーダ(聖典)
』の最終メッ
セージが、最終章の『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)
』
にあるという。そこで貫かれる人生の目的とは何か。そのためには、人は何を
すべきか。
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)
』にいわせれば、“ 人
間は自由になるために生きている ”。いや、正しくいえば、“ 自由であることを
知るために生きている ”。「自分本来の姿を理解し、ありのままであれ。求め続
けている “ 安心と幸せ ” の意味そのものであるのが、自分自身だと知れ」。安心
と幸せの意味。自由の意味。それが私たちの本来の姿であると聖典はいう。で
は何が問題で、苦悩の原因なのかといえば、「事実を私は知らない。わかってい
ない」ということだけであるという。事実を理解すること。納得すること。" 事
実の理解 " に導く教えを伝えるのが、聖典の言葉である。でも、ただ知るだけ
では足りない。知識を自分自身のこととして " 納得・実感 " というところまで深
めるのが、瞑想や Yoga いうメソッドなのだ。
Yoga や瞑想は、事実を理解する心を準備する方法なのだ。それは、長い歴史
の中で人々に実践され、確立されてきたメソッドである。そのメソッドの根幹
は、徹底的に “ リアリティ(事実)” をみて、客観的な事実を理解すること。リ
アルな世界の背後にある、“ リアリティ ” をみること。この本で紹介する「リア
リティ瞑想」は、この原則に貫かれた方法である。聖典、Yoga、瞑想、私たち
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の生きる目的、真実の知識。これらが 1 つの原理につながって、ブレのない軸
をなしている。
師の元で学ぶうち、Yoga の本来の目的について、瞑想がもつ役割についての
私の理解は少しずつ深まっていった。目的が明白な瞑想は、プロセスにおいて
も深く、かつシンプルな明快さがある。現在もインドで毎日教えのもとに練習
を重ねているが、そうすることによって、Yoga の最もベースにある考え方、生
き方、聖典の伝える根本的な人間観、人生観がみえてきたような気がしている。
私たちは何を求め、本当は何を達成したいのか? 今していることと、求めて
いることの間にはっきりとしたつながりはあるのか? 一言でいえば、やりたい
ことと、今していることが一致しているのか? 人生の方向性と目的とそのため
にできること、今していることを、矛盾なく一直線に貫く。その生き方が Yoga
なのだ。Yoga のビジョンによって、私たちはゴールにつながるまっすぐな道を、
歩くことができる。生きることにおいて、はっきりしたゴールがある。そのた
めの方法論が確立している。明快な目的と手段をもって「生きている内に、望
んでいるものを得た!」という結果を出している人々が実際にいる。そういう
人達が広い心で教えてくれている。励まし、導いてくれている。
“ リアリティ ” を理解するための瞑想、伝統的な Yoga の手法の正しさを、実
在の賢者たちが自らの生き方で私たちにみせてくれている。インドには、賢者
だとか「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)」と呼ばれる人達が実在してい
る。彼らの存在は、この目的とプロセスの正しさの証であり、私たちは彼らが
実際に生きている姿、その背中をみて後に続くことができる。それが迷いなく
道を歩んでゆくことになる。
Yoga のゴールは、私たちが “ 本当に求めること ” でなければ意味がない。“ 悟
り ” という言葉にいいかえてもいいが、私たちが心から欲しいものでなければ、
手にしたとしても何の意味があるだろうか。「ハイ、悟りました」といいながら、
不満だらけ、自分を受け入れられず、緊張やプレッシャーが心にいっぱい!も
しそうだったら、その悟りに何の意味があるだろうか。
いろいろ欲しがっているようにみえるが、私が本当に欲しいのは何だろうか。
それは、満たされぬ思い、不安、恐れ、緊張や葛藤から解放され、あらゆる苦
悩から自由であること。何をしていようと、どこにいようと、誰といようと、
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どんな条件にいようと、「それでよし。これでいい。すべて OK !」ということ
ができるほど、心が幸せと、安心でいつも満たされているということ。それが
自由であるということ。
天国にいかなきゃ幸せになれない、○×にならなければ自由になれない、×
×をしなければ、悟れない。逆に、○○を買えば、絶対安心だ。そんな条件が
ついたような、“ 悟り ” や “ 生きるゴール ” は、安心でも幸せでも自由でもない。
そんなものは、もういらない。どこにいても、いつでも、何をしていても、誰
といても自由でなければ、幸せでなければ、安心でなければ意味がない。一時
的な満足は、もうさんざん味わって、そのはかなさと移ろいやすさに、むなし
ささえ覚える私たちだ。こんな私を納得させるのは、「もはや自分は何かを求め
る必要はない。なぜなら、“ 私がいる ” ということが、すでに自分が求めてきた
幸せと自由の意味であることがわかったから」というように、心の底から「す
べてこれでよし」といわせるような事実を理解すること。自分自身であること
を完全に受け入れ、世界を受け入れることだけだ。真実の理解が私たちを Yoga
のゴールへと連れて行く。事実の揺るぎない理解のみが、私たちを完全に満た
し、リラックスさせる。
インドにおいて人々に行われている Yoga は気休めではない。生き方そのもの
だ。明確な目的とは、私が心から望む幸せと自由にいたること。限界のない “ 幸
せ ” と、果てしのない “ 自由 ” に納得すること。それを可能にするのが瞑想や毎
日の規律ある生活に確立される Yoga の生き方。Yoga とは、その目的達成のた
めの明白な方法論だ。
その中でも瞑想は、
最も重要なメソッドの 1 つなのである。
Yoga 的な考え方の基盤となる最古の聖典『ヴェーダ(聖典)
』はいう。
「だれもが幸せになりたい。自由になりたい。そのために、普通の人は
何かを手に入れようする。幸せを探し求めてどこかにいこうとする。
しかしそれが解決法なのか? では何を一体手に入れればいい? パワー
か? マネーか? 完璧な体? 資格か? それとも超人的な能力か? どこ
まで手に入れればいい? 」
いずれにしろ、何かを得る、というプロセスをたどって手に入れることがで
きるものには限界がある。なぜなら、手に入れたり、どこかに行くという “ 行い ”
自体に限界があるからだ。限りのない幸せ、無条件の自由。いつでも、
どこでも “ 幸
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せ ” でいるために、“ 自由 ” であるためには、どうすればいいのか?
自由というものは、何かと引き換えに買うことはできない。幸せというもの
は、世界のどこかに転がっているわけではない。誰かがつくっているわけでも
ない。もし、“ 自由 ” という “ 物 ” があるのだとしたら、それはたぶんどこか世
界の中の 1 つの場所にだけある。1 つの場所にだけあるということは、それ以
外の他の場所には “ ない ” ということだ。そんな “ 自由 ” は 1 つの場所に限定さ
れてしまう。その場所にいなければ自由になれない、ということだ。
もし “ 幸せ ” という “ 物 ” があったとしても同じこと。ある一定の時間と場所
に限定される。そのものが形を保っていられる時間に限って幸せであるのなら、
その幸せには時間の限定がある。無条件で限りがない幸せと自由を求めるなら、
それは物や場所ではない。
聖典が語る唯一の “ 限りない自由や幸せ ” は、時間にも場所にも限定されな
い。だったら今、まさにここにも、自由や幸せはあるはずなのだ。そうでなく
ては、限りがない、ということにならない。無条件、永遠、無限ということは
そういうことだ。だとしたら、無条件の幸せや自由は、手に入れるものではなく、
はじめからここに “ ある ” ものということになる。今まさに、この瞬間に “ ある ”
ということでなければならない。
聖典の最終結論は、普遍であり、永遠の自由と幸せの意味とは、今この瞬間
の自分自身であるという。私たち 1 人 1 人の存在と事実が、今まさに、この場
所に “ ある ”。その “ 存在 ” が幸せであり、自由の意味である。これを理解する
ことが “ 真の解放 ” への唯一の道だ。「自分自身の真実こそが、自分が求めるこ
とのすべてである」。これが『ヴェーダ(聖典)』の最終的な教えだ。
私たちは手に入れられる何かが欲しいのではない。何かして、やっと手に入
れられるようなものでは、いつまでも満足できないことを、いい加減経験の上
で知っている。手に入れたいのは、変わることのない自由であり幸せなのだ。
もし聖典がいうように、それが “ 本当の自分自身 ” であるのなら、私たちは、
その “ 本当 ” の意味を理解しなければ納得がいかないだろう。果てしない自由や
無条件の “ 幸せ ” は、それになろうとしなくても、手に入れようとしなくても、
初めからここにある。これを知ることしかない。
「何かを求める自分が、求めていたものそのものであった」。だから、人生の
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諸問題に対するソリューションは自分を理解することしかない。自分の事実を
知り、堂々と自分自身であることに誇りと喜びをもって生きること。何をして
いても、たとえ世界でどんな役を演じていようと、完全に「それでいい!すべ
てこれでいい」といい切れるように。
自分自身であることに何の違和感も問題もなく、完璧な自分を、完璧に受け
入れている。自分自身こそが幸せと自由の意味であるということを納得し、自
分を受け入れること。それが、何かを求めて探し続ける生き方を終わらせるこ
とになる。自分を完全に受け入れている、ということは、もう足りないものも、
求めるものも、探さなければならないこともないということ。この “ 自由 ” へ私
たちを導く教えが『ヴェーダ(聖典)』の最終章「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖
典の最終章)」なのだ。
聖典の教えを理解する大事なステップとして Yoga や瞑想がある。瞑想は、自
分こそが自由の意味であると理解し、実感するための方法。聖典の知識を、実
感に変えることが瞑想の主目的なのだ。だから、瞑想のターゲットは徹底的に
リアリティ(現実、真実)をみることにある。あるがままの世界を客観的にみ
ること。あるがままの自分を徹底的に分析し、実感すること。それが、Yoga 的
な瞑想、リアルにアプローチする「リアリティ瞑想」だ。
瞑想自体のテクニックはシンプルなものである。しかし、そのテクニックを
生かすためには聖典の教えというビジョンが必要になる。この本では、瞑想の
テクニックと同時に、聖典の教えを展開することがメインである。前半は、ほ
ぼ聖典のビジョンの解説となっている。なぜなら、聖典が私たちに何をみせ、
何をわからせようとしているのか、それがわからなければ、瞑想の意味と目的
を明確にすることはできないからだ。ビジョンが確立すれば、自ずと「手段」
は 1 つに定まる。
聖典の解説の後に、具体的なテクニック、そして瞑想実践中にでてくる問
題点などをまとめた。後半には、瞑想や Yoga の練習の際に有効な「マントラ
मन्त्र」を意味と共に載せている。また 1 人でも練習できるように音声のヘルプ
も用意している。
ポッドキャスト『向井田みおのインドで学んだマントラ』
http://www.underthelight.jp/community/mio_india/
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聖典をベースに、長い歴史と伝統に体系づけられ、多くの「ヨーギー योगी(ヨー
ガの実践者、達人)
」と賢者たちの実体験に裏打ちされた本当の意味での Yoga
的瞑想を理解しよう。
この本は、
『ヴェーダ(聖典)』の教えを忠実に自分の生き方とし、50 年以上
説かれているスワミ・ダヤナンダ師の教えが基盤となっている。
私たちが瞑想の名のもとに、さらなる混乱と迷いに誘い込む嘘や間違いを見
抜けるように。だれかの思いつきで始めた “ 瞑想っぽい ” アイディアを迂闊に
買ったりしないように。本物を見極める賢さをもって、歩き始めた Yoga の道に
おいて迷わないように。生きている意味を知ること。自分が何を求めているか
がはっきりとわかっていること。Yoga をする私たちが「ムムクシュ मुमुक्षु(自
由を目指す者)
」として、きちんとしたメソッドで目的を達成できるように。道
を目指す者に祝福があるように。祈りをこめて。
静寂と平和がいつもこの場所にあるように。
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
2012 年 2 月
著者 向井田 みお
16
第1章
Yoga 的な瞑想とは何か ?
<瞑想の定義>
17
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
1.もう瞑想に迷わない!
伝統的な Yoga の経典には、瞑想をはっきりと定義する言葉が記されている。
सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:।
サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ
瞑想とは、心を 1 つの対象(具体的には、全体世界の秩序と法則の姿)
につなぐ、心でする行いのことである。
『ヴェーダーンタサーラ वेदान्तसार्』
それによると、“ 心でする行い ” こそが瞑想だという。だからこの定義に沿っ
ていないものは、厳密には瞑想とは普通いわない。
瞑想は、精神的でスピリチュアルな活動や、鍛錬法と位置付けられているが、
ひたすら黙って坐っていればいいというものでもない。瞑想は、沈黙や黙想と
は違う。だとすれば、一体何をどう行えば瞑想といえるのだろうか。 その方法
は? 結果は? それによって何のメリットがあるのだろうか。 はじめに、瞑想
について知っているようで知らないこの辺りの条件を、聖典に記されたビジョ
ンをもとにみていこう。
油断がならないのは、目をつぶって静かに坐り、いかにも瞑想しています!
という雰囲気たっぷりだったとしても、その人が瞑想をしているとは限らない
ということだ。
心が活動をやめて眠っていたら? それは瞑想ではない。単なる “ 居眠り ” だ。
心が何も考えていなければ? それは “ 沈黙、黙想 ”。瞑想とは違う。
心が悩む活動に忙しかったら? それは瞑想ではない。悩んでいるのだ。
雑念に弄ばれていたら? それは “ 迷走 ” だ。
一体 Yoga の精神的な修行法のうち、瞑想とはっきりいうことができるのはど
ういうことなのだろう。信頼できる聖典や Yoga の経典をリソースとした定義
18
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
は、瞑想についてどんなことをいっているのか。何をどうしたら瞑想といえる
のだろう。そして、瞑想に時間を費やすことの目的と結果は何か。
まず私たちは、“ 瞑想っぽい ” フェイク(偽物)と本当の瞑想との違いを見通
す必要がある。少なくとも瞑想において、目的と手段というメソッド(方法論)
がしっかりしているものでなければ、いつまでも瞑想において確実な成果を得
ることはできない。瞑想っぽいもので、その場しのぎの満足感や、一時の至福
感に浸るのなら、曖昧なままでもいいかもしれない。
「なんか、スピリチュアルっ
ぽいことをしている、あたしって素敵♡」と自己満足できるならそれでもいい
だろう。でも、私たちは Yoga を極めようとしている。Yoga で得ることができ
るといわれる、確実な何かを達成したいと思っている。
今の自分に納得がいかず、この生き方の延長では、自分はこの先本当に望ん
でいること、心から生きることに意味を見いだせるようなことはないかもしれ
ないと思って Yoga を志したのではないか。一般的な Yoga では飽き足らず、瞑
想をしてみようと思ったのではないか。このままではいけない、という思いが、
私たちに Yoga や瞑想を選ばせ、この道を歩かせている。生きる意味や目的を曖
昧にしながら、目の前に迫る楽しいこと、適当な気晴らしを追いかけて、深遠
な問題に触れないようにして、うまくやり過ごしてしまえたかもしれない。だ
けど、心の奥にいる自分が、無意味に、無目的に、さ迷うように生きることを
許さなかった。だからスピリチュアルな活動として Yoga をしようと思ったので
はないのか。
“ 今のままではだめだ。何かが違う ” ということはわかっている。でも “ 何が
違うのか ” がはっきりといえない。何か確実なものを自分は求めている。それ
に気がついているけれど、本当に自分が望むことは何かがよくわからない。
ただこの生活の範囲内、この延長上には “ 探しているものはない ” ということ
は、はっきりといえる。心の奥で何かがうごめいているようなのだ。満たされ
ることのないエネルギーの暗い渦から、浮かれた自分を冷静な目でみている者
がいるのだ。「何かが足りないよぅ、何か不安、どこか満たされてないよぉぉ」
。
それはいつもそういって、何かを手に入れても、どこにいっても、心の奥から
顔をのぞかせる。満たされることを知らない存在が、心の中心に居坐っている。
今まで何を手に入れたとしても、それによって味わえる喜びや達成感はほんの
一瞬、一時的なものでしかなかった。満足した気分はすぐに薄れて、また次の
19
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
別の何かへの欲求に私たちは駆り立てられてしまう。なぜなら、自分のこの中
心の思いがいつも満たされることがないからだ。私たちの中心が満たされるこ
とがない限り、沢山の物を得たとしても永久的に何かを探し続ける。何によっ
ても心から満足することがない。自分が手に入れてきたものによって本当に満
たされている気がしない。だから、私たちは確実なものを掴みたいと思う。
そしてそれは、Yoga で叶うような気がしている。だから、この探求に踏み出
したのではないか。このままでは確固たる「生きる目的」が達成できないよう
な気がしていた。満足を知らず、自分自身を受け入れることができず、いつも
自分に批判的な者が心の内にいる。そんな自分から自由になりたいと思ってい
た。
何も考えずに、やり過ごすように生きることもできたかもしれない。勉強を
して、仕事をして、適当に余暇を楽しんで、たまには旅行に行って気晴らしを
して、誰かと結婚して、離婚して、やがて老いて、穏やかに体を手放す生き方。
その時まで、“ 食べて、寝て、排泄し、子孫を残す ” という肉体維持の活動を続
けながら、目的も生きがいも特に感じられないまま、流され、時間を消化する
ように生きる。そういう生き方に疑問を持ったから私たちは Yoga をしようと
思ったのではなかったか? Yoga によって体を動かし、呼吸を整え、自分の肉
体と感覚と精神に向き合う習慣をつけ、今度はより深く自分の内面に迫ろうと
して瞑想を志したのではなかったか?
だったら、フェイク(偽物)では、私たちは満足できない。経典の定義で位
置づけることができない “ 瞑想っぽい ” 偽物が良くない、といっているわけでは
ないのだ。それで、満足できるのなら、それでもいい。実際それを求めている
人も大勢いる。人は何をしても自由だ。自由に好きなことをする権利はだれに
でもある。しかし、その方法で自分が心から望むことは得ることができるのだ
ろうか? 曖昧なことで誤魔化して、“ 結果 ” はでるのか。証はあるのだろうか。
たとえ、その瞑想といわれる何かが、誰かが思いついて始めた鍛練法だったと
しても、そこに自分が望む結果はあるのかどうか。
何をもって瞑想というのか。瞑想では何を目指し、何が達成できるのか。そ
のための具体的な方法とは何か。少なくとも瞑想において、
“ 目的と手段 ” をはっ
きりさせなければならない。そうでなければ、生きることの迷いに終止符を打
つはずの瞑想においても、迷い続けてしまうことになる。
20
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
瞑想における目的と方法が記されているのが、古典といわれる Yoga の経典
である。経典のベースとなる精神性やビジョンを示しているのが聖典である。
Yoga の場合は、『ヨーガスートラ』という経典、『バガヴァッドギーター』とい
う経典がある。それらの考えのベースは『ヴェーダ(聖典)
』にある。
この章では、経典と聖典にバックアップされた瞑想の定義をみていこう。ま
ず瞑想とは何かをはっきりさせよう。何のために行うのか、明確な目的をみつ
けよう。そうすれば、なすべき方法は自ずとみえてくるはずだ。さらに、
『ヴェー
ダ(聖典)
』の教えに基づいた瞑想の方法論、そして瞑想のテクニックや実践の
途上に起こる障害や問題なども知っておいたら怖いものなしだ。
私たちは確固たる意志で Yoga の目的に向かっていく。瞑想にもう迷わない。
Yoga で成し遂げたい目的とそのためのストレートな方法を自分のものにして、
揺るぎない態度で Yoga をしよう。本当に私たちが望むことにつながる Yoga の
道を、怯まずに歩んでいこう。
2.Yoga 的古典による瞑想の方法
しかしなぜ、今更 “ 伝統 ” や古典の経典に従った忠実な定義が必要なのだろう
か。大きな理由の一つとしては、それが確実に結果がでる方法だからだ。
今日まで伝統として残っているメソッドには、長い歴史の積み重ねの中で、
沢山の人に実践されてきたという証がある。今まで同じ方法を行ってきた多く
の人が、確実な結果を出してきたからこそ今日まで続いてきている。古典には
信頼に足るデータと実績がある。
Yoga を生み、育み続けてきたインドには、今も「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、
達人)」といわれる人や賢者といわれる人が実際に多く生きている。Yoga、
瞑想、
経典の学習、マントラの斉唱など、彼らは教えの伝統に守られた昔からのメソッ
ドを実践し、今も毎日のように同じ修行を積み、同じ聖典を学び、人間として
の深みに達し、自由に至っている。彼らの存在は伝統に基づく Yoga の正しさを
証明している。
心の中に葛藤や問題がなく、自分であることにくつろぎ、世界を偏見なくみ
21
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
ている、慈悲に溢れているような人。人々に囲まれ、世界と関わりあいながらも、
世界に振り回されず、確固たる真実に揺らぐことがない強さと、強さゆえの深
い慈しみと優しさをもつような人。自分と世界に何の不満もなく、完全に満た
され、くつろいでいる人。その人がいるだけで、周りの人までが幸せに満ち足
りた気持ちになるような人。その人たちが歩んできた Yoga の道は、伝統という
プロテクターに守られながら確実に結果をだす方法として私たちの目の前に広
がっている。その道のずっと先を歩いている「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、
達人)
」たちが、これからこの道を歩こうとする私たちを導いている。伝統と歴
史と人々の経験がつくってきた Yoga の道を歩くことで、私たちも彼らのように
心に葛藤や違和感なく落ち着いていることができるようになるだろう。望む自
分であるための確実な術を実践することができるようになるはずである。心の
奥に潜む満たされない自分と和解できるのは、きっとこの道にこそあると思え
る。
伝統や経典を重んじるのには理由がある。人々が長い間かけて保ち続けてき
た方法に従うことで、私たちも確実にメリットを得ることができる。だからこ
そ、多くの人に実践されてきたのだし、今も結果を出し続けている。その事実
が方法の正しさの何よりの証だ。マヤカシ物の Yoga に迷わないために、私たち
は教えの伝統をもつ確実な方法を知るために経典や聖典の教えに触れる必要が
ある。
Yoga の道において瞑想は要となる項目である。安定して坐るための体をつく
り、肉体のレベルから自分と向きあう練習「アーサナ आसन(姿勢、Yoga のポー
ズ)
」から始まる Yoga の手法において、瞑想は心を治めるために最終的に達成
すべき目標である。そして信頼できる方法に従った瞑想をすることで、私たち
は望む自由に至ることができる。Yoga で目指す自由とは、葛藤や問題から自由
であること。自分自身に和解し、自分であることを完全に受け入れ、心から自
分と世界にくつろぐことができるということ。
聖典はいう。
「自分自身の本質とは、自由という言葉や、幸せという言葉、満
たされているという言葉の “ 意味 ” そのものである」。そこまで深い自分の真実
についての教えを教えているのが、古典といわれる経典や聖典だ。聖典によっ
て伝えられる教えを理解し、真実を納得と実感に変えていく作業が瞑想である。
Yoga の経典『ヨーガスートラ』によれば、最終的に Yoga のテクニックのすべ
22
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
てが、瞑想へと続いているのだ。
3.経典で規定される瞑想とは?
सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:।
サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ
瞑想とは、心を 1 つの対象(具体的には、全体世界の秩序と法則の姿)
につなぐ、心の行いである。
『ヴェーダーンタサーラ वेदान्तसार』
経典の言葉では「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」という。はじめにみた瞑想の
定義を、さらに詳しくみていこう。
“ 瞑想とは何か? それは心の活動である ”
「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:(心の活動)
」
。100%心で為される行
いが、瞑想であると聖典はいう。そうすると心でする行いはすべて瞑想になる
のだろうか。
「悩みも、考えごとも、怒ることも、すべて心の行いだけれど、そ
れが瞑想? 」「妄想も、夢をみるのも心の活動ですが、瞑想なの? だったら、
普通に過ごす時間のほとんど、私は瞑想状態ということになるのですが…? 」
。
こうなることを考慮して、経典は譲れない条件として、もう 1 つ言葉を挟ん
で瞑想を規定する。それは、何に対する “ 心の活動 ” なのか、ということ。心の
活動を向ける “ 対象 ” が定義には規定されている。心の活動を何に向けるのか?
その対象は「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という言葉で表さ
れる。
ゆえに、瞑想とは、全体世界の現れに心をつなぐ行いのこと。
瞑想はただ眼を閉じて、静かに坐っていればいいというものではなく、む
23
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
しろ、積極的な心の活動。さらにいえば、心を全体世界、「サグナブランマ
सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という対象に向け続ける活動を意味する。
しかし、経典のいう瞑想の対象「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)
」
とは一体何だろう? 瞑想で私たちが心を向けるべき先は “ 全体世界 ” らしいが、
なんだかスケールが壮大すぎてよくわからない。この内容については、後で時
間をかけてゆっくり見ていこう。
今は、“ 瞑想とは 1 つの対象に心を向ける活動である ” ということを心にとど
めておきたい。申し訳ないが、目を閉じてボーっとすることや、ただ黙ってい
ることは Yoga では瞑想とはいえない。ここが揺れると、
スピリチュアルマーケッ
トに出回る怪しい瞑想商品に振り回されてしまうことになりかねないので強調
するが、Yoga で定義される瞑想とは、積極的な心の活動のことだ。アクティブ
でありながら、静かな行い、それが瞑想なのだ。ウトウトと夢とうつつの間を
さまよったり、雑念に遊んだり、妄想にゆらゆら揺れたり、静かに押し黙って
いることは、瞑想とはいえないのだ。
4.瞑想を構成する 3 つの要素
“ 全体世界に心をつなぐ活動 ”、それが瞑想の定義。この瞑想は、3 つのファ
クターで構成される。
①「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」
②「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」
③「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」瞑想をすること
瞑想する人が、瞑想の対象に、瞑想をする。この 3 つが揃って初めて瞑想は
行われる。あたりまえ、といえばあたりまえなのだが、経典はこの辺りをきっ
ちりさせている。
24
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
① 瞑想をするのはだれ? ⇒ 「坐ろう!」としている自分。 これが一番大切な要素だ。瞑想しようとする私は「ディヤーター ध्याता(瞑
想する人)」と呼ばれる。
② 何に瞑想をする? ⇒ 瞑想をする自分は、心の動きを 1 つの対象
に向けている。
瞑想する人が心を向けている対象は「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)
」と
呼ばれる。定義によると、対象は「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世
界の現れ)」である。そのポイントからみれば、瞑想とは “ 世界に心をつ
なぐ行い ” のこと。しかし、私たちはいきなり全世界に向かって、心を
定めることはできない。1 つの対象に心をつなぎとめておく作業が瞑想
だけれど、“ 全世界 ” は瞑想の対象としてはあまりにも広大すぎる。
私たちの心が、世界全体を一度に考えることは無理だ。だから私たちは
“ 全体世界 ” を象徴しているシンボルをもつことになる。このシンボル
化された全体世界の象徴を対象に、私たちは瞑想をする。
シンボルには、“ 音と形 ” という 2 つのタイプがある。音で表したシン
ボルが「マントラ मन्त्र」である。全体世界を維持する様々な力と法則
の象徴を音で表現したものである。形のシンボルは、自然の理を表現し
た絵や写真や像だ。私たちは “ 音か形 ” どちらも瞑想の対象として選ぶ
ことができる。
瞑想とは、
「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」に心の動きをつなぎとめて、
考えを 1 つの流れに方向付けることである。
③ 瞑想で行われていることは? ⇒ 瞑想する人が心を 1 つの対象に
つなげること。
瞑想そのものは、「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)
」と呼ばれている。1 つ
の対象に心をつなぎとめておく行い、活動が瞑想である。ぼーっと、黙っ
て坐っていても瞑想にはならないのだ。
25
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
この 3 つの要素が揃って初めて瞑想がスタートする。最終的に瞑想が深まっ
た時、3 つの要素はすべて融合し、1 つになる。瞑想のレベルが深くなるにつれ、
瞑想する人の心は瞑想の対象と一体化する。瞑想をする人と瞑想の対象との境
目が、瞑想の深まりとともに無くなる。こんな風に、“ 主体と対象 ” が一体化す
ることが自然に起こる深い瞑想である。
『ヨーガスートラ』という Yoga の経典では、主体、対象、行いの 3 つの要素
から始まり、そこで達成される瞑想の深まる境地を、
「サヴィカルパ・サマー
ディ सविकल्प -समाधि(対象に一体化する瞑想状態)」と呼んでいる。
「サマーディ
समाधि(深い瞑想状態)」とは、行いをする主体と、行いの対象(客体)そして
行い自体がすべて一体化した深い精神状態、心のありようのこと。別名、
「सम्म्यग्
आहित बुद्धि サンミャク アーヒタ ブッディ(しっかりと治められた『ブッ
ディ बुद्धि(心、知性)、自分自身に確立した心』)」という。これが、
「サマーディ
समाधि(深い瞑想状態)」の状態である。
「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」状態にいるとき、私たちの中には緊張
や恐れが全くない。自分であることに心からくつろぎ、リラックスしている。
まるでスヤスヤ何もかも忘れ眠っている時のように、不安や苦しみがない。世
界で何が起こっていようと関係ない。世界に身を置きながらも、自分自身に完
璧に安らいでいる。瞑想で体験する深まりは、はっきりした意識をもちながら、
この一体感と安心感、絶対的なくつろぎにとどまることである。その時、恐れ
や不安、葛藤から自由な自分を知ることができるのだ。
私たちは、普通自分と世界を分けて物事をみている。しかし、深い瞑想の境
地では自分が世界と離れているという感覚や思いがない。離れているものなど
何もないという一体感の中で、私たちは心からリラックスする。実は、私たち
は何かと “ 離れている ” という思いをもつ時に、恐れや不安を感じる。瞑想の深
まりの中で一体感を深いレベルで知った時、自分が世界から離れているという
感覚は起こらない。瞑想する人、瞑想の対象、瞑想することがすべて一体になっ
ている。その一体感にいる時、私たちの中には 1 ミリの恐れも不安の原因もな
い。なぜなら、何も自分自身から離れたものなどないと瞑想の深まりの中で実
感するからだ。恐れから自由ということは、世界に対して無敵な状態だ。
「サマー
ディ समाधि(深い瞑想状態)」は、私たちが心からの安心とくつろぎと心地よさ
を感じる体験になる。無敵で自由な自分を知ることができるのだ。
26
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
瞑想のスタート時点では、瞑想をする自分と瞑想の対象は分かれている。こ
んな風に別れている状態が「サヴィカルパ सविकल्प(主体と対象と区別のある状
態)」だ。ここからスタートして得られる深い一体感を
「サヴィカルパ・サマーディ
」
सविकल्प - समाधि(離れた状態から、瞑想によって一体化する状態、その経験)
という。
ところで、実際「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」の状態とはいかなるも
のなのだろう? Yoga をしていたら、だれもが気にしている一度は味わってみ
たい状態。
「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」は日本語で “ 三昧 ” などといわ
れている。話によればそれは、とんでもなく心地の良い状態であるらしい…。
そればかりでなく、地上では聞いたことのない美しい音が聞こえるとか、青い
光をみるらしい、どうも体がちょっと浮くらしい…などと、サマーディに関し
ては、ファンタジックな噂が多くある。
しかし、私たちは「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」に近い状態を毎日経
験している。それが、深く眠る体験なのだ。熟睡中は、「眠り、寝ている人、眠
りの対象(少し前は夢)」という区別がない。深い眠りについているとき、この
区別が一体化して、自分の中で 1 つになっている。その証拠に、寝ている時に
は外の世界も自分のこともなんだかよくわからなくなっている。とにかく心地
よく、すべてが 1 つになっている状態である。これが、自分から離れたものな
どない、無敵な自由を実感する経験。限りなく「サマーディ समाधि(深い瞑想
状態)」に近い。だから熟睡中私たちは、恐れからも、不安からも、葛藤からも
解放されている。夢の世界を超えた深い眠りのもとにいる人は、怒ったり、不
安になったり、悔しさでいっぱいになったりはしない。どんなに悲しいことが
あっても、苦しい現実に襲われても、私たちは眠っている時、すべてから解放
された束の間の自由を味わい、自分自身にくつろぐことができる。
熟睡中の心地よさは、外の世界のもので埋めたわけではない。新たに獲得し、
何かを得ることで味わう安らぎでもない。くつろぎや心地よさや静けさや安心
感は、自分自身の意味として、すでに私とともにあった。心地よさは、はじめ
からここにあったのだ。私たちが何の邪魔もなく自分自身でいられる時、“ 幸せ
であり、心地よさ ” の意味である自分を知るのだ。恐れを知らず、悲しみを知
らない、苦悩のない境地。静かに満ちている安らぎ。それが自分自身の本当の姿。
深く眠る時、そういう自分を誰もが体験する。悩みや問題から解放され、自分
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第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
自身にくつろげる時間。だからだれもが良い眠りが大好きだ。
ところで、眠っている時、体は活動していないし、考えも感情も意志も働い
ていない。それなのに私たちは眠りから覚めた瞬間、
「ああ、気持ちよかったぁ
~」といっている。なぜだろう?
それは、考えが働いてなくても、たとえ体が丸太のように動かなくなってい
ても、自分自身の存在までが消えてなくなることはないからだ。感情や意志が
機能していなくても、自分自身がいなくなることはない。むしろ自分のもって
いる様々な機能が眠っている間に休むことで、私たちは本当の自分自身にとど
まることができる。
聖典の教えによると、自分自身の意味とは、熟睡中体験している “ 安心、静寂、
心地よさ ” そのものである。私たちは皆、自由と心地よさの意味として存在し
ている。本当の私たちの意味を知り、深く自分を納得するための経験の 1 つが
眠りである。
ここからわかることは、心地よさは、獲得するものではないということ。幸
せも安心も、わざわざつかまなければならないものではない。外に取りに行く
必要は全くない。幸せも、安らぎも初めからここにある。眠りや瞑想は、純粋
な自分自身の意味そのものにとどまることができる。熟睡の後や、深い瞑想の
気持ちよさは、歪みや偽りのない自分自身にとどまっていたことを意味してい
る。安心、静寂、心地よさとは、外にあるものではなく、自分自身の真実に他
ならないことが理解できる。
外の物を付け足すこともなく、獲得する努力など必要ない心地よさが私たち
の素の状態。これが真実であるから、私たちは誰もが常にそうでありたいと願っ
ているし、求めている。
私たちは幸せでありたい、安心していたい。実際何かを探して忙しく日々生
きているようだけど、突き詰めれば皆「幸せと安全」を探求している。瞑想の
意図は、探している “ 幸せや安らぎ ” は初めから自分自身の意味としてあると知
ることでもある。
自分以外の何かなんて存在しない、という事実を知る時、私たちは恐れの “ 原
因 ” から自由になる。自分とは違うものがある、異質な何かがある、という考
えが無いとき、私たちは不安にはならない。離れているものなどないと知る時、
28
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
何かに対して恐れる理由がなくなる。恐れがないということは、不安や怒り、
嫉妬、落ち込み、悲しみ、自己卑下や受け入れられなさなど、自分を苦しめる
原因から自由になるということ。いや、自由になるというよりは、初めから自
由である自分を知るだけだ。
自分自身の事実の理解と実感が、瞑想の深まりの中で起こる。そして違和感
も不都合もなく、ただ自分自身であることができる。そこまで深い瞑想「サマー
ディ समाधि(深い瞑想状態)」は、意志の力や努力では起こせない。まるで “ 熟睡 ”
のように、一定の条件が揃った時に自然に起きる。「熟睡してやる!」と一大決
心しても、条件が揃わない限り、熟睡状態には入れない。
「よぉし、寝るぞ、がっ
ちり寝てやるぞぉ、さあ、寝よう、寝よう、寝よう!」と鼻息荒く腕まくりし
ている間は、絶対に熟睡できない。瞑想も同じ。瞑想は気合いでも、凄まじい
努力と意志でも、勢いでも、厳しい修行でもない。
よい眠りは意志と努力で獲得するわけではない。眠りのために私たちができ
ることは、眠るまでの準備のみ。眠りの時間を確保し、安全な場所をみつけ、
快適な布団をしつらえ、体を適度に温め、心を落ち着かせ、リラックスして、
体を横たえる。ここまでが私ができる行いだ。後は、熟睡が起こるのを待つ。
深い瞑想も同じように、準備することはできる。静かで安全な場所を見つけ、
瞑想の時間を確保し、快適な座をしつらえ、心を鎮め、リラックスして坐る。
私が意志と努力によってできる行いはここまで。後はある一定の条件が揃うこ
とで、深い瞑想は起こる。
ただ瞑想が眠りと違うのは、瞑想中はどんなに深くても考えや感覚という機
能までが活動休止にはならないということ。瞑想中、考えは眠りに落ちている
わけではない。だから、活動している考えと感覚によって、はっきりと一体感
をみることができる。
また、熟睡は初めから肉体と機能にセットされプログラムされた本能である。
だから私たちは “ 熟睡 ” するために努力しなくてもいい。眠くなれば、体が自然
に準備をする。眠りという本能のために、体や生理機能、精神が勝手に熟睡へ
の準備を行う。しかし “ 深い瞑想 ” というのは私たちの活動の初期設定にはな
い。だから瞑想を練習すること、瞑想を準備することに対して、明確な瞑想の
目的と意志が必要とされる。瞑想は自然に起こるが、瞑想の練習は意志のもと
29
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
に行い、深い瞑想が起こるための条件を努力によって準備する必要がある。準
備をしたら、あとは瞑想が起こるまで、ひたすら練習を重ねる。
こうして練習を続けることで、やがて “ 深い瞑想 ” が起こる。そのための一
定の条件というのが、
「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」
「デーヤン ध्येयम्(瞑
想の対象)
」
「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」という 3 つの瞑想のファクターが融
合すること。そのためには、集中力と落ち着き、客観的な態度が不可欠だ。そ
れに加えて、瞑想の練習と聖典の学びと規律ある Yoga 的生活など、様々な恩恵
によってもたらされるものである。
अभ्यासेन तु वैराग्येण च गृह्यते।६.३४
瞑想を極めるためには、たゆみない練習と物事に対する客観的な態度、
落ち着きあるのみ。
それによってアルジュナ君、キミは自分の心を扱えるようになる。
『バガヴァッドギーター』6 章 34
瞑想はイベントではない。たった一度の瞑想体験が、ドラマティックに人生
を変えたりすることはない。深い瞑想の体験で、信じられないような明るい光
をみるとか、天上の音を聞く等、ありえないような出来事にでくわすことは期
待しない方が賢明かもしれない。瞑想の練習は、ドラマを感じることでも、ロ
マンを追いかけることでもない。ひたすら、現実的に、客観的であり続けるこ
とだ。
己のあり方をみるために、毎日、朝晩、決まった時間に静かに坐るという地
道な積み重ねが、確実に瞑想の質を向上させる。どんなに忙しくても、瞑想の
時間を確保し、地道に己に向かい続ける。そうするうちに、徐々に何かが少し
ずつ変化する。
体を動かす Yoga はたった一度のイベントでは意味がない。日常生活の習慣と
なって初めて効果をもたらしてくれる。同じように、心の活動である瞑想は毎
日の中で習慣づけ、練習することで初めて意味をもつ。
30
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
<瞑想の準備のためにできること。“ 目的をはっきりさせる ” >
瞑想を深めるための準備は、Yoga で鍛えた強い意志にゆだねられている。そ
して毎日続けるモチベーションを維持するためにも、目的ははっきりさせてお
く必要がある。
「何のために、何を目指して自分は瞑想をするのか? 」
。ここに
迷いがなければ、瞑想の練習を続けることは苦にならない。瞑想における方向
性を定め、揺れないようにするために、Yoga 的考え方の背景を学んでおくこと
は非常に有効なのだ。
Yoga 哲学は一見難しい言葉ばかりで不安になるが、恐れるに及ばない。細か
い言葉やサンスクリット語がわからなくても大丈夫!なにしろ Yoga の哲学は大
変に明るい。学べば学ぶほど、明るいビジョンに勇気づけられ、世界に対する
恐れや、自分に対する違和感が薄らいでゆくのを感じると思う。なんといって
も、聖典の第一声は「タット・トヴァン・アシ तत् त्वन् असि(あなたは、もう今
のままで完璧だ!)」であるのだから。
『ヴェーダ(聖典)』のビジョンに触れる度に、「それでいいのだ!」と力強く
いわれる。
「それでいい。それでいいのだ!今あなたが、あなたでいることが、そのまま
で完全なのだから。本当のあなたの姿を歪めずに見て、知りさえすればいい。
今でも、この瞬間でさえ、あなたは完璧である。ここにいること。何かを知り、
認識することができていること。存在し、知覚と認識が起こっている。という
ことがあなたには、はっきりみえている。それがすでに真実を表しているじゃ
ないか!? 自ら存在し、自ら明らかであり、満ちている者。それがあなただ。
足りないものなど何もない。完璧なあなたを脅かすものなど何もない。存在の
意味そのもの、自由の意味、安心であること、幸せであること、満ちていること。
それらの言葉の意味があなたなのだ。あなたの本質が、“ 心地よさ ” という言葉
が運ぶ意味である」。というように、今ここにいる私たちを、とにかく全肯定。
100%あなたはそれでいい!といってくれている。
でももし、あなたが「いや、ちょっとまってくださいよ。自分は完璧なんて、
そんなんじゃないですよ。私は不安や恐れや苦悩でいっぱいなんですって。幸
せの意味だなんてとんでもない。何を能天気なこといってんですか? !」なん
ていったなら?「それはあなたが、自分自身の本当の姿を知らないからだ」
。そ
31
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
う聖典はいう。
私たちは Yoga をして、まるで理想的な完全な自分になろうとしている、か
のようにみえる。しかし、実際は Yoga をしようとしなかろうと、聖典のビジョ
ンからすれば、すでに私たちは完璧なのだ。自分以外の何かになろうとしなく
てもいい。自分自身以外の何かを付け足さなくても大丈夫。“ 自分自身の本質と
は、自由・幸せという言葉が明らかにしている「意味」そのもの ”。この事実を
知らないことだけが、内なる世界に問題を生む。自分についての無知が、私た
ちを恐れと不安と苦悩の渦に突き落としている。私の問題は、自分を “ 知らな
いこと ”。それだけが唯一の原因だ。
だったら、この問題に対するアプローチは何だろう? そう!解決方法は “ 知
る ” ことしかない。とるべき方法はただ 1 つ。自分自身の事実を理解すること。
さらに、それを実感すること。事実に揺らがなくなるまで、はっきりと、徹底
的に自覚すること。
Yoga のゴールは本来の自分自身、完全なる自由の意味、幸せの意味である自
分を知り、実感することでしかしかない。私たちが自分自身をはっきり理解し
た時、今までの世界と自分の見方が 360 度変わるだろう。体や感覚という機能
は今までと変わらずにそのままありながら、世界へ対する態度、自分に対する
態度がまるで違ったものになるに違いない。
瞑想は、Yoga の道を歩く私たちが明るいビジョンで世界と自分を受け入れる
ことができるようになるための最も確実で、最も大切なプロセスだ。私たちは
Yoga の教えとともに、瞑想を実践する。
そうすることで聖典が伝える本来の自分自身にしっかり足をつけ、堂々と世
界を生きていけるようになる。「心配することなかれ!完全なる者よ」。経典は
いつもそういって、心強いエールを送りながら私たちを導いている。
5. 瞑想の鍵を握る「ディヤーター(瞑想する人)
」
ところで、瞑想の結果を得ようと焦らなくても、ちゃんとした方法で練習を
していれば、いつか必ず深い瞑想は起こる。そのためにも、瞑想についての基
32
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
礎を理解して、とにかく瞑想の練習を実際にスタートしてみよう。瞑想はロジッ
クじゃない。アクションだ!それに自分自身の本質は不滅で永遠なるものだが、
この肉体が生きる時間は限られている。できるだけ早く実践して、習慣にして
しまった方がいい。
瞑想の実践において、一番大事なキーファクターとなるのは、「ディヤーター
ध्याता(瞑想する人)」。つまり、私が瞑想をするとしたら、「どんな私が瞑想す
るのか? 」ということ。…何をいっているんだ?「私は私、1 人じゃないの?
」と思うかもしれないが、実は私達の中には沢山の役割が存在している。
私たちは社会の中で、毎日いくつもの役を演じて生きている。関わる人や関
係によって自分の役割を変えて生きている。あたりまえすぎて、もはやそのこ
とすら忘れているかもしれない。さらに、自分とは心なのか、感情なのか、考
えなのか。体なのか、暑さ寒さや飢え渇き知る者なのか。一体何者なのだろう、
という、自分自身に対する混乱もある。
だからあえて “ どんな自分が瞑想をしているのか ” をはっきりさせておく必要
がある。効果的な瞑想の鍵を握っているのは「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」
だ。
私たちはある日思いたって、急に「瞑想をしよう!」と坐ることはできる。
静かな場所を選び、時間を確保し、意志のもとに心の活動に集中することはで
きる。しかし、自覚的にできるのはここまで。ひとたび深い瞑想にはいったら、
瞑想をしているのは、「瞑想しよう!」と決めたり、考えたりする意志ある私で
はない。なぜなら深い瞑想中、意志を行使する私の中心は瞑想の対象と一体化
していて、自由意志を使う人がいなくなる。だから意志は使われない。たとえば、
眠っている時に「さて、もっと深く寝ようかな!」とか「眠りをこう展開させ
よう」とか、決めたり選んだりしようとしても、自分の中心は深い眠りに吸収
されてしまっているのと同じように、瞑想中は意志が働かない。瞑想をしてい
る「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」は、決めたり選択したりする意志がなく、
だから迷ったり悩んだりもしない自分である。
さらに、瞑想中は全くの素である。社会の中で演じている様々な “ 役割 ” を、
瞑想中は手放している。瞑想中の自分とは、演じている役割でもなく、役を演
じようとする意志の持ち主でもない。瞑想をしている間は、あらゆる役からも、
33
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
演じることからも、何かを選び決断する意志の持ち主であることからも解放さ
れている。そのシンプルでベーシックな自分が「ディヤーター ध्याता(瞑想す
る人)」なのだ。
< “ 役割 ” を演じること>
私たちは皆、必ず何かの “ 役 ” を演じながら生きている。人々と関わりあう社
会の中で生きるということは、だれもがそれぞれに役割をもって演じながら生
きるということである。1 人の人は、1 つの役だけではなく、相対的な関係の
上にいくつもの役をもっている。誰かに対して自分はどういう役割を求められ
ているか? 関わる人によって、自分が求められている役は違う。関わる人と同
じだけの数の役を常に演じながら、私たちは世界という大きなドラマに参加し
ている。
瞑想で坐っている「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」は、何の役も演じて
はいない。役をもたず、人々と関わり合わず、ただ全体世界の中で生きる “ シ
ンプルな個 ” として私たちは坐っている。どんな役も演じていないベーシック
な、素の自分。社会的な責任を担っていない自分は、どちらかというと自然界
の生物に近いかもしれない。全体世界の中で、自然のあるがままを知覚し、認
識する者。その個には、役もなければ、名前もない。世界を維持する秩序と自
然の理の中で、静かに息をし、知覚している存在。生きるために担っている役
割に縛られず、演じることを要求されず、ただある自分。
だから素の自分は外の世界に対して「こうであったらいいのに!、こうして
欲しい」という欲求や期待というプレッシャーがない。プライドや蔑みもない。
落胆や有頂天になることもない。偏見と主観で世界を歪めることなく、ありの
ままの世界を客観的に認識する。
「あたしがする!」とか「俺がいる!」とか、「これが、わたくしの物!」な
どという自己主張がない。“ 自分 ” という概念に限定された自己主義的主張がな
く、シンプルに自然の法の中で息づいている。淡々と全体世界とのつながりの
中に在り続ける。その “ シンプルな個 ” が瞑想をする者である。
例えていうなら、夢を見ている時、私たちは自分の考えがつくり出した世界
の中にいる。記憶をもとに自ら想像した夢の世界の中で、“ 自分 ” という 1 つの
34
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
ポイントを置いて、そこを中心にドラマを展開する。夢の世界に “ 私 ” という小
さな点をおいて世界と関わりあい、周りに期待し、時に喜び、時に落胆し、恐れ、
楽しみ、世界のドラマをつくり出し、つくり出されたドラマに自ら夢中になる。
しかし、熟睡が起こったらどうだろう? 夢の世界にいた “ 私 ” は、演じてい
た役も、小さなスタンドポイントも手放す。役を手放した以上、当然、役につ
いていた期待や主観、様々な感情に踊らされることはなくなる。「私、私!」と
いっている小さなポイントが無くなれば、そこにすがりついていた考えや感情
や悩みは、当然寄る辺を失う。その熟睡は夢の世界を体験している “ あなた ” の
意志や考えや期待と無関係に、ただ起こる。
熟睡する時、あなたは眠りの世界に満ちる者としてあり続ける。夢の世界を
展開していても、眠っていても、あなたというこの “ 存在 ” は変わらない。あな
たをベースにどちらもある。夢の世界のベースとしてすべてに広がり、同時に
夢を展開させるのはあなただ。あなたの存在は、夢で問題を抱えようが、悩も
うが、夢中になろうが、はたまた熟睡しようが、何も変わらずに、夢と眠りの
どちらにも満ちている。
夢の世界に満ちながら、夢の世界のドラマとも、その中の役とも一切関わり
合わない。ドラマを繰り広げるベースでありながら、それでもドラマに巻き込
まれることがない。その自分には、恐れも不安も、苦悩もない。眠りの世界の
法則の中に、ただある。
同じようなことが、世界と、世界に生きる自分との関係においても起きてい
る。眠っている自分と、夢の世界の関係と同じように、世界は、自分自身とい
う存在をベースにしてある。世界に自分は、1 つの “ 私 ” というポイントを置い
て、ドラマに参加している。本当の自分自身は “ 世界のベース、存在 ” である
にもかかわらず、1 つの私というポイント、それにつけられた名前や場所に縛
られ、関係に取り込まれ、能力や考え、もち物など自分の付属物に限定される。
自分自身の事実を忘れ、世界のドラマに夢中になる。だから、喜びも苦悩も、
悩みも、恐れもリアルになる。
瞑想をする時は、私たちはこのドラマにのめりこんでいた 1 つのポイント “ 私 ”
という考えを手放している。当然、“ 私 ” というポイントに絡みついていた悩み
や問題たちも行き場を失う。その自分には、恐れも不安も、苦悩もない。
35
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
役を演じているとき、私たちは純粋に役割だけをもっているわけではない。
“ 役の上に起こっている様々な問題 ” も一緒に背負っている。それぞれの役には、
それぞれに問題や課題が課せられている。私たちは役ごとに抱える課題をこな
し、問題に直面して悩み、苦悩し、時に楽しみながらドラマを生きる。それ自
体に問題はない。問題は 1 つの役に特有の問題が、別の役とも混ざり合い、混
乱を引き起こしているということ。さらに、混乱した自分は、役を演じている
本来の自分を忘れ、役のリアリティだけを、よりリアルに感じてしまっている。
そして、役に没頭し、役の中だけの問題に無我夢中になり、“ ベースにある本来
の自分 ” が何者かわからなくなってしまう。
「私とは何か」
。これが思いだせない…。私たちが問題にハマってしまうカラ
クリはここにある。この混乱は瞑想の妨げになる。「瞑想をしよう!」そう決め
て、場所を定め、座をつくり、体を坐らせる。目を閉じ、瞑想の対象に集中し、
瞑想を始める。ここまでは意志でできることだ。しかし、これだけでは瞑想は
起きない。
目を閉じた後の数分間はたぶん大丈夫。心も落ち着き、なんとなく坐ること
に安すらぎすら感じる。しかし、しばらくすると、心はあちこちに飛びまわる。
目を閉じて、静かにすることで、外の刺激に飛び出していけない心は、内なる
世界に縛りつけられる。
心は閉じ込められた内なる世界を忙しなく走り廻り、終わりのない考えの鎖
につながれ、不毛なループを廻りだす。瞑想中、雑念に苦しむとか、普通にし
ている時よりもかえって落ち着かない、などの経験はだれにでもある。役を引
きずって、混乱したままの考えが、私を静かに坐らせないのだ。心はどんなに
内なる世界を走り回っても、そこから逃れられはしない。
瞑想で坐ることによって、心は坐る前より落ち着かなくなっているような気
がする時がある。その理由は、“ 坐っている人 ” の中心が落ち着いていないから
だ。この中心の落ち着きが、瞑想に必要な心の準備となる。瞑想に適した質が
あるということだ。これが準備できていない限り瞑想はできない。
瞑想は、“ 坐る人 ” の内面をはっきりと映し出す。その人の生き方における姿
勢、世界や人々に対する態度、その人を取り囲む様々な状況に対する反応や心
のあり方を浮き彫りにする。自分に起こりうる様々な出来事に対して、どんな
36
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
とらえ方をしているのか。自分の内面は、瞑想中に如実に浮き上がる。普段か
ら自分がもっている世界に対する姿勢、物の見方は瞑想中に何にも飾られるこ
となく現れてしまう。
瞑想に適した質が足りない人、瞑想の準備ができていない人は、世界に反応
する。世界を受け入れることよりも、物事の原因を考えることよりも、
まず起こっ
たことに対して反応し、世界に挑もうとして、かえって振り回される。主観や
偏見を挟みこんで、世界に対峙している。自分の意向に合うものや好みのもの
だけをつかもうとし、嫌いな物や都合の悪いことは避けようとする。それが思
考と行動のパターンになる。
私たちは、
「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き ・ 嫌い)
」という思いによって
染まった、主観でできた色眼鏡をかけて世界を見ている。私達の中にあるどん
なに複雑な感情や思いも、この 2 つのシンプルな主観がベースになっている。
好きなものは、手に入れたい、残したい。嫌いなものは、避けたい、手放したい。
2 つの思いに振り回され、私たちは世界を評価する。世界に期待し、裏切られ、
落胆する。人によって何が好きか嫌いかは違うが、人の主観はすべてこの 2 つ
が原因となっている。
主観を通して世界をみたら、私たちは世界のありのままの姿をとらえること
ができない。歪んだ視界で世界と自分を見れば、自分の心に映るリアルは歪む。
世界は自分だけの “ 好き嫌い ” という主観的な思いを軸にしてあるわけではな
い。自分にとって受け入れられることもあれば、受け入れられないことも世界
には起こる。心は、受け入れられないことに対して逃れようとし、反撃し、あ
がく。受け入れられないことが多くあれば、心はくつろぐことができず、
荒れる。
思い通りにならない自分や世界に対して不満を抱え、不満のある人が、瞑想の
ために坐り目を閉じれば、当然数々の不満が不協和音のように心の中で鳴り響
く。これでは、瞑想どころではない。瞑想をしない時の方が、気を紛らわせる
ことができるため、よっぽど落ち着いていたかもしれない。
またもう 1 つ、私たちの思いを複雑にし、主観をつくり、瞑想を妨げる感情
がある。それが、恐れや不安である。私たちは誰もが子供の頃、まだ世界に無
防備だったころに誰かの言葉や態度に傷つけられた記憶をもっている。「世界は
自分を傷つける」。この思いが、だれの心の奥底にもある。だから世界から、自
分を守ろうという態度をとる。受け入れられないこと、自分を傷つけるような
37
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
状態を避けようとする。
自分の心の奥に潜む、“ 傷つけられた子供 ” はいつまでも自分のことを “ 傷つ
けられる対象 ” としてみている。自分だけが守る小さな聖域に踏み込まれたと
感じたら、恐れをもつと同時に相手を攻撃する。本当はありのままの世界には
あるはずのない、小さな自分だけのテリトリーをつくる。それがエゴ。その場
所を必死になって守るため、ただ 1 人、世界を敵に回し戦おうとしている。
それだけではない。他人によって “ 傷つけられる対象 ” の自分は、
条件が変わっ
たら、誰かを “ 傷つけるかもしれない者 ” になる。あんなことをしてしまった自
分、こんなことをいってしまった自分。自分が世界に傷つけられたように、きっ
と自分は誰かを傷つけているに違いない。後悔や自責の念はこの思いから湧い
てくる。
本当は “ 自分が許さない限り、世界は自分を傷つけることができない ” のに。
体は傷つけられることもあるだろう。でも心に関しては、私が許さない限り、
つまり自分のことを “ 傷つけられる者 ” としてみていない限り、世界は私の心に
傷を残すことはできない。自分自身とは、傷つけられることも、傷つけること
もない。本当の自分は、誰からも傷つけられもしない、傷つけもしない。
経典がいう “ 自分の真実 ” とはそういうものらしい。傷つけない、
傷つかない。
ここを理解し、瞑想によって “ 真実の自分 ” を実感しない限り、私は世界に対し
ていつまでも “ 悲しき被害者 ” か “ 罪深き加害者 ” になってしまう。
瞑想中、目を閉じたとたんに、世界に対する主観的な見方と、自分に対する
歪んだ結論や偏った態度は顕著になる。自分に対して、世界に対して、利己的
で身勝手な見方をしていたら、思いもよらない感情が瞑想中に出てきたりする
ことは当然なのだ。
なぜなら、目を開けて心を外のことに忙しく働かせている時には、自分の中
心に根を張る思いに気がつかずにすんでいた。私たちは、一生心の奥底の思い
に気がつかないふりをして、なんとかやっていくこともできるだろう。心の内
なる悲鳴に耳を貸さなくても十分にやり過ごしてしまえる程、私たちは忙しく
生きることができるかもしれない。
しかし、Yoga や瞑想の目的は、こういう窮屈な自分を根本から解放すること
にある。根もとにある問題から解放されなければ、私たちが本当にめざす自由
38
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
はない。瞑想や Yoga で得ようとする自由への道は、「自分を誤魔化すことはも
うやめよう」という姿勢がスタート時点にある。当然、自分を騙すことができ
ないことは、初めは苦しい作業になるだろう。「心の奥の思いを適当な気晴らし
で、うやむやにするのはもうやめよう」という決意のもとに問題の核心と向き
合うことは、いうのは恰好いいし、簡単。けれど、けして楽なことではない。
けれど、この “ 問題の中心 ” と向き合わない限り、私たちはいつまでも同じパ
ターンで絶望し、同じパターンで混乱し、同じパターンの苦悩にとらわれ続け
ることになるのだ。
शुखं त्विगानीं त्रिविध> शृणु मे चरतर्षभ।
स्ब्यासाद्रमते यत्र दु:खान्तं च निगच्छति॥
यत्तगग्रे चिश्यमिव परिणमेऽमृतोयमम्।
तत्सुसुखं सात्चिकं प्रोक्तमात्मबुद्धिप्रसादजम्॥
バーラダ族の誉れ高き者、アルジュナよ。
人が知る 3 つのタイプの幸せについて、どうか聞いてほしい。
落ち着きがあり、物事を深く考えることができる者は、繰り返し瞑想を
練習することで、本当に得るべき幸せを手に入れ、苦悩に終わりを告げる。
それは、初めは毒のように苦いが、練習を重ねるうちに蜜のように変わ
るだろう。
この幸せは「サットヴァ सत्त्व( 純性 )」と呼ばれ、自分自身の本質を、
明確に自覚することから生まれる。
感覚の喜びから得ることができる幸せは、初めは蜜のようだが、そのう
ち毒のようになる。
これは「ラジャス रजस्(動性)」から生まれる一過性の幸せである。
また、楽なこと、怠惰なこと、やる気がないだけのこと、それらから生
まれる一見 “ 幸せ ” に思える経験は、初めから終わりまで人を惑わせ、
愚行に走らせる。
これは「タマス तमस्(鈍性)」の幸せといわれる。
『バガヴァッドギーター』18 章 36,37
39
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
6. 本当の瞑想ができる瞑想者であるために
世界に対する主観的な物の見方を、客観的な見方に変えていくこと。それが、
瞑想のためにすべき心の準備である。自分だけの歪んだ物の見方や主観は、努
力で変えていくことができる。深い瞑想は意志では起こすことはできないが、
瞑想するため心の準備は、私たちの意志と努力でできることだ。いや、むしろ
努力あるのみ。そして何事も “ 客観的にとらえること ” に重きをおいた「リアリ
ティ瞑想」の練習を習慣化していくと、少しずつ何かが変わる。それは確かだ。
本来瞑想には、劇的な変化やドラマ、イベント性は期待できない。ある日を
境に、瞑想を通じて驚くような変化が起きたという発言は、嘘か本当かは知ら
ないが、沢山溢れている。「突然青い光が目の前をグルグルとまわり、天にも昇
る心持がした」、
「1000 の鐘が一度に鳴り響いた感覚がおきた」
とか、
「クンダリー
ニという潜在的な力が開けて、背骨を駆け抜けていった!」、「光が脳天に差し
込んでから、ある声が聞こえたのです」、「ある日瞑想をしていると、空から澄
んだ声が聞こえた。その日から私のすべてが変わったのだ」云々。…こんな営
業トークに目を眩ませてはいけない。
スピリチュアルな探求をする人はどこかロマンティックなところがある。確
かに、スピリチュアルロマンは魅力的だが、何も本質的なものを解決しない。
一時のイベントは所詮イベントなのだ。過ぎ去ったらまたいつもの “ ふてく
された ” 自分と付きあっていかなくてはいけない。刺激的なイベントが過ぎれ
ば、また次の刺激を求めることになるだろう。次なる刺激を私は求めて、“ 瞑想
的 ” イベントからイベントに走り回ることになる。しかし、私たちはそもそも、
瞑想で何をしたかったのか。何を求めていたのか。イベントだろうか? 天の声
を聞いたり、ハイヤーセルフの姿をみることだったのだろうか? 超常現象だろ
うか? いいや、違う。
私たちは、ただ何かが足りないという自分の中の不満や小ささや、意味のな
さをどうにかしたいと思っていたはず。自分を責めたり、受け入れられずにい
る苦悩から自由になりたい。葛藤やプレッシャーのない、落ち着いて幸せな自
分でいつもいたい。そのためにできることは、物を手に入れることではなく、
別の方法を取らなければどうにもならないと思っていた。そこから、Yoga や瞑
想をはじめたのではないか。もしそれが動機なら、超常現象は私たちの問題を
40
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
解決しない。
同じ問題、同じ悩みは、いつの時代も、どんな場所にもある。現代日本で私
たちが抱えている問題は、大昔のインドで Yoga を志す人達も同じように抱えて
いたのだ。なぜなら、自分の中の恐れや不安から派生する、“ 自分自身の受け入
れ難さ ” や “ 世界に対する違和感 ” は人間ならだれでもがもつ共通の問題だから
だ。
何も持たずにある日突然ただ 1 人、この世界に放り出されような自分。自分
は、世界に対しても、自分に対しても無力。何が真実か、確固とした知識を持
たないままたたずんでいる。だから不安だし、世界を恐れる。私たちは皆同じ
問題を心の奥で抱えている。
いにしえの「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」たちもスタート地点は
同じ、人間特有のこの思いから自由になろうとすることからはじまっていた。
伝統的な瞑想は、この根本的な問題にアプローチする方法でもある。何が真実
なのか。悩む自分とは何なのか。
『ヴェーダ(聖典)』の教えに基づき、徹底的に “ リアリティ ” をみることで、
私たちは望まない自分から自由になる。なぜなら、受け入れ難い自分とは、た
だ自分を知らないという無知だけが原因なのだから。私たちが問題と思ってい
ること。その原因は実は世界にはない。原因は、あくまでも私たちの自分自身
に対する無知とそれゆえの勘違い。だから知ること、解ることが問題を取りの
ぞく。苦脳からの解放。そのキーは “ 自分を知ること ”。聖典の教えに沿った瞑
想は、現実をできるだけ客観的にみること、自分自身の真実を実感することに
主題がおかれている。
自分のどこに問題の根があるのか。世界の何に自分は不満なのか。しっかり
と現実を直視しなければならない。「問題のある場所は? 苦悩のある場所はど
こだ? 」私が抱えるこの苦しみや強いプレッシャーは、家の中に落ちているわ
けではない。隣の家にもない。目の前に坐る同僚の席にも、会社のどこをさが
しても “ 苦しみ ” はない。家族の誰かがもっているわけでもない。別れたパート
ナーが隠しもっている、というわけでもない。
「問題、苦しみが起こっているのは、ここだ」。現実を冷静にみるうちに、自
分の心がいうだろう。そして、問題が起こっている場所にしか、解決はない。
41
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
とてもあたりまえのことだ。しかし、これに気がつかない程、私たちは混乱し、
何かにすがりたいと思ってしまう。
「部屋の中で落とした “ 針 ” は、部屋の中をちゃんと探さなければ見つからな
いよ。どんなに部屋の中が暗くても、“ 針 ” はそこにしかない。たとえ外が明る
くても、外に探しに行くわけにはいかない。いくら探したふりをしても、落と
した場所以外で “ 針 ” は絶対に見つからない。“ 問題 ” が無いところに “ 解決 ”
はない。逆に問題のあるところにだけ、解決がある」。
自分の抱える問題の原因は、外の世界にはない。だから苦悩を取りのぞくた
めに、世界のどこを探しに行っても解決はみつからない。探すべき場所は、問
題のあるところのみ。それは自分の考え方、ものの見方、認識である心の中に
しかない。“ 自分の中心 ” が問題であれば、解決は “ 自分の中心 ” にしかないのだ。
瞑想は、この “ 自分の中心 ” にあるものの見方を変える。
問題や、苦しみを抱えている原因は、私が現実的に、客観的に世界を見てい
ないからかもしれない。だれの生活にも、体が痛むことや、心が重くなるよう
な出来事はある。しかし、それを「なぜ自分だけこんなに苦しいのだ!」と悩
んだり、
「もう絶望だ!」といってみたりすることは、ある出来事や状況から自
分が勝手に判断した結論でしかない。
「自分の見方が、問題や苦悩をつくる」と聖典はいう。問題の原因をはっきり
させることも、瞑想の目的である。「ただの出来事を問題にしてしまうのは、実
はこの自分なのでは? 」。落ち着いて自分と向き合うことで、問題の核心に触
れることになる。それによって解決の糸口がしだいにみえてくる。「私の主観的
な見方と、自分で勝手に出した結論が ” 苦悩 “ をつくっている。だったら客観的
に、ありのままにとらえられるように自分が変わったらどうだろう? 」
変わるべきは世界ではない。世界は、私がどんなに泣いて嘆いても変わらな
い。私は世界を変えられない。このことを潔く認めること、これが客観的であ
る初めの一歩。
「何が起こっても仕方ない。世界はそうなっているのだから」と
いう認識。隣に坐っている誰かさんがどんなに気に食わなくても、私にその人
を変える力も権利もない。恋人や家族がどんなに自分のいうことを聞いてくれ
なくても、それは仕方ない。私には他人を変えられない。これが世界に対する
客観的な態度。
42
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
そして、勇気をもって知っておくべきことは、“ 変えられるのは、私の「世界
の見方、とらえ方」のみ ” ということ。自分には変えることができない世界の
事実をそのまま受け止めること、認められることが私にできること。この態度
が、私の心に映る世界を変える。
現実をみる瞑想と、瞑想ができる心を準備する過程で、私たちは毎日関わり
あう世界に対する態度や、人々に対する自分の態度を変えていく。緩やかなプ
ロセスだけれど、客観的に物事をとらえられる広さと大きさをもって世界に接
することができてくる。この広さと大きさが、心の成熟や、ゆとりと呼ばれる。
心の成長があって初めて、私たちは確実に真実に近づくことができる。
そして真実を理解した時、求める自由はもうそこにある。世界は自分をとら
えられない。世界は自分を傷つけることができない。なぜなら、ありのままを
ありのままに知ることのできる心には、「こうなってほしい!、ああしたい!」
という欲求自体がないのだから。欲求がなければ、不満も葛藤も、プレッシャー
も落胆もない。
内面の変化は、とてもゆっくりしたプロセスで起こる。長い間積み重ねた “ 主
観的な物の見方 ” や “ 世界への期待 ” が問題をつくり出しているとしたら、同じ
くらい長い時間をかけて問題をゆるめて、ほどいていくしかない。
逆に一時的なイベント瞑想は、その瞬間だけに起こるインパクトある出来事
で終わってしまう。私の内面を何も変えず、問題の根源を解決することもない。
客観的に、ありのままに世界をみること。目の前に広がる世界をそのまま受
け入れることのできる悩みのない大きな心。その心で自分自身の本質を確信す
ることができる。変わりゆく世界の渦に巻かれながらも、自分自身の本質を見
失わずにいることができる。さらに、このゆとりとキャパシティーが優しさや
慈悲という形をとって現れるようになる。
「自分にも、世界にも問題はない」。事実の理解に基づく葛藤のない落ち着い
た心に、深い瞑想は自然に起こる。この心を準備するために私たちは、適切な
アプローチとメソッドで瞑想の練習をする。
毎日自分と向き合う時間を確保し、坐り、一定時間自分の主観的な見方を正
していく。意志と努力によって心の準備が整ったら、意志の働きとは無関係に
瞑想は起こるのだから、あせらずに安心してやっていけばいい。
43
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
瞑想はテクニックではない。深い瞑想への扉の鍵を開けるのは、瞑想をする
人の態度と心構えにある。そういう質を適切にもつ人を、経典は「ディヤーター
ध्याता(瞑想する人)」という。
7.肝心なのは “ 瞑想者 ”
瞑想における一番肝心な要素はこの “ 瞑想をする人 ”。Yoga の経典
『バガヴァッ
ドギーター」には、瞑想について記された章がある。全 18 章のうち、第 6 章
はまるごと瞑想について書かれている。
しかし実際は、瞑想そのものや方法について記されているのはたったの 3 行
のみ。後は、
「誰が瞑想しているのか? 瞑想するべき者とは? 」ということが
述べられている。
श्रीभगवानुवाच
अनाश्रित: कर्मफलं कार्यं कर्म करोति य:।
स संन्यासी च योनी च न निरग्निर्नचाक्रिय:॥६-१॥
「バガヴァーン भगवान्(全知全能の象徴)」クリシュナはいった。
「自分には何かが足りない、だがら何かを足さなければ!」
そいういう不安から、何か手に入れられる結果を得ることだけを期待す
る。
そんな不安から湧いてくる期待や願いから解放されている人が、
「サン
ニャーシー सन्न्यसी( 結果に期待することを捨てた人 )」と呼ばれる。
内から湧く不安は、自分の歪んだ物の見方にあり、この偏見に満ちた見
方は「ラーガドウェーシャ रागद्वेष( 好き ・ 嫌い )」に原因がある。
その視点で世界をみて自分勝手に選り好みすることから解放されている
人が、真の「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)
」といわれる。
“ 行い ” をマスターした人。その人には儀式や、義務の束縛がない。
『バガヴァッドギーター』6 章 1
44
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
誰が瞑想をしているのか。これが瞑想を決定づける要素になる。
8.瞑想はアクティブな “ 心の活動 ”
瞑想の定義は、
「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:(心の活動)」。サンス
クリット語で心は、「マーナサ मानस(心)」。「マー मा」という音には “ 考える ”
という意味が含まれている。英語の「mind(マインド)
」の語源にもなっている。
「ヴャーパーラ व्यापार(活動)」は、“ 活動 ” という意味。この 2 つの言葉によっ
て、瞑想とは “ 心でする活動・行い ” と定義される。
なぜ経典がわざわざと明確に定義しているのか。それは、心以外の行い、つ
まり体や言葉でする行いのすべてを否定したいからだ。だから、瞑想という言
葉を使いながら、体を動かしたり、言葉を発したりする行いは、Yoga の伝統と
経典に基づく瞑想のカテゴリーにはいらない。
瞑想といったら、純粋に “ 心でする行い ” のことなのだ。それゆえ、この本で
展開する “ 瞑想法 ” では、瞑想をしている時に呼吸をコントロールしたり、体を
動かしたり、声を発するなど、心以外の体や言葉を使った活動は一切しない。
古典の定義に基づいた「リアリティ瞑想」は、2 つのステップを踏む。
1 つ目のステップは、「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」となるために、心
の準備をすること。
その次に
「デーヤン ध्यय
(瞑想の対象)
」
を 1 つに決めて、
心を活動させること。
े म्
心をつなげる対象を「デーヤン ध्येयम्( 瞑想の対象)
」という。
「リアリティ
瞑想」では、伝統的で信頼があり、効果的な “ 瞑想の対象 ” として、「マントラ
純粋な心の活動をする。
「マ
मन्त्र」を使う。「マントラ मन्त्र」という音に対して、
ントラ मन्त्र」を使う瞑想の本来の方法は、「マントラ मन्त्र」を唱えながら、手
や体を動かすことも、
呼吸に合わせることも、
声に出して発声することもしない。
45
第 1 章 Yoga 的な瞑想とは何か?
私たちは、Yoga のベースである聖典に忠実な方法で瞑想を行う。忠実であれ
ばあるほど、メリットを得やすい。自分独自の解釈でねじ曲げたり、寄り道解
釈をしたりしないことが、Yoga の目的にまっすぐつながる方法だ。だからここ
では、マントラを唱えている間は、唱えることだけに集中して、他のことは一
切しない。
伝統とは、効果があるのかどうかもわからない、怪しい慣習やしがらみのこ
とではない。実際に多くの人が経験し、結果を出し続けてきた信頼あるメソッ
ドだけが伝統的な方法として残っている。今日まで多くの Yoga を極めた Yogi
達がメリットを得てきた方法だから、そのままのやり方をフォローすることで、
私たちも同じようなメリットを得られると期待できる。
自分の望みがわかったら、迷わずに、まっすぐにそこに辿りつく確実な道を
私たちは歩いていこう。Yoga において、瞑想において、
もう悩まない、
迷わない。
方法を定めたら、黙々と練習をつむのみ。そうして Yoga の先人達がみていた
ビジョンで、自分と世界を受け入れることができるようになる。無条件の自由
に向かって、私たちは前に進んでいくだけだ。
46
第2章
何に瞑想をするべきか?
< 瞑想の対象 >
47
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
1.瞑想の対象「デーヤン」とは?
瞑想の定義:「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:
(心の活動)
」
瞑想は心の活動、心の行い。この定義には続きがある。それが、瞑想の対象
をはっきり限定する一言「サグナブランマ ・ ヴィシャヤ सगुणब्रह्म विशय(全体
世界の現れ)
」だ。全体世界の現れを対象にして心を「活動」させること。それ
が瞑想なのだ。
“ 瞑想の対象 ” である「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」とは
」とは、今現在私たちが
何か。
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)
生きている世界全体のことだ。様々な “ 名前と形 ” をもって現れ、止まることな
く躍動し続けている世界全体を指し示す言葉が、「サグナブランマ सगुणब्रह्म
(全体世界の現れ)」だ。世界全体がそのまま “ 瞑想の対象 ” となるのだ。
世界全体が瞑想の対象? 個人活動である瞑想の対象にしては、スケールが大
きすぎるのでは…?
その通り! 「リアリティ瞑想」 のスケールは、想像より遥かに広く大きい。
リアリティに “ 瞑想 ” することは、限りなく大きな全体世界とのつながりをハイ
ライトする大いなるプロジェクトなのだ。瞑想は、世界一静かで、超個人的な
行いでありながら、そのコンセプトは計り知れないほどに大きい。
それはさておき、ここからは肝心の「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界
の現れ)」を掘り下げてみよう。
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」は、私たちの生きるこの世
界そのものである。
ところで、この世界を維持しているものとは何だろう? 世界はでたらめに動
いているわけではない。だとしたら、世界を上手く回している 1 つの秩序とも
「自
然の理(ことわり)
」ともいえる力と法則が働いているはず。世界は、なんでも
かんでもテキトーに現れているわけではない。
48
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
星がぶつかりあわずに、絶妙な距離で動いているのも、大地から食べ物が生
えてくるのも、雲が雨を降らせるのも、すべてこの法則と力によって秩序のも
とにきちんと行われているからだ。虫だって、海だって、私たちの体のミトコ
ンドリアにだって、象も山も賢者だって、皆この法則につながれ、展開している。
だから全体の 1 つの世界としてスムーズに動いている。季節の巡りや時間の流
れや空間にも同じ秩序が働いている。秩序ある法則は、自然界のすべてにくま
なく広がり、動く物も動かない物も含めたすべてを維持している。空間に風を
生み、雲に水を運ばせ、大地に降らせ、食物をつくり出し、生物を養う。天体
に散らばるあらゆる星を動かし、星座をつくる。太陽の輝きが、
温度と光を与え、
暑さや寒さや、季節をもたらす。月が海の動きをつくりだす。海の動きが世界
の流れをつくる。あらゆる生物が、この 1 つの自然の法則の中で生きている。
何一つとして例外はない。もちろん私たちただって。世界から離れてはいない。
世界を維持する法則は、私たちの体・感覚・考えの中に満ちている。私の体
や考えにくまなく広がる。大気と肺の気圧差から呼吸のリズムができているこ
とも、体に風が巡り、血液が流れ、栄養が体の隅々に運ばれているのも、すべ
てが同じ 1 つの法則。
さらに、全体世界を展開させている秩序のもとには、いくつもの細かい部分
を司る法則が連なり、調和しあう。そして全体として 1 つのハーモニーがつく
られている。
たとえば 1 つの肉体には、循環や、呼吸や、排泄や、消化といったそれぞれ
の部分を統治する法が幾つもつながっている。さらに、肺、胃、脳などの部分
があり、さらに肺胞、粘膜、などパーツにわかれ、さらに 1 つ 1 つの細胞がそ
れぞれのルールで動きながら、体全体として上手く調和しあい、すべてが 1 つ
の全体として動いているように。
光の法則が、世界に色を生む。同じ光の法則が私たちの目にその色を映す。
世界に季節をもたらす風の法則が、私たちに呼吸をさせ、栄養を運び、体を養
う。空間の法則が音を現し、同じ法が、耳の空間において音を共鳴させ、私た
ちに聴覚を起こす。水の法則が、流れながら大地を潤すように、私たちに味を
もたらし、肉体に栄養をしみこませる。地の法則が、土をつくり、その上で様々
な植物を生み出し、実を実らせ、香りを放たせる。その香りを同じ地の法則が
治める鼻で、私たちは匂いを感じている。熱の法則が、私たちの体の温度を保
49
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ち、命の火を灯しているように、熱は世界に温度をつくり、湿度をつくり、様々
な生物の活動を生み出している。こんな風に全体世界の活動は、沢山の法則が
集まった 1 つの秩序として、世界を動かす。世界の活動は、この秩序によって
“ 現れ、維持され、もとに戻る(終わる)” という 3 つの状態をサイクルのよう
に繰り返し続けている。始まりもなく、終わりもなく。そしてこの法則と秩序
そのものが、全体世界であると『ヴェーダ(聖典)』はいう。
こういった特徴をもちながら、今この瞬間も生きて躍動する全体世界を、
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という。「サグナブランマ
सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」は、別名「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
とも呼ばれる。“ 特徴がある ” という点から世界をみたら、全体世界は、「サグ
ナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という言葉で表現される。その特徴
を現す原理、力という点からみれば、「√ ईश् イーシュ(治める、統治する)
」
という語源をもとに派生した “ 世界を統治する者、法のもとに治める者 ”「イー
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」という言葉で表現される。それが世界なのだ。
私たちは「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の中で、全体世界の秩序と法
にあらゆるレベルでつながりながら、“ 個 ” として生きる。世界の秩序から離れ
て存在するものなどない。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と “ 個 ” はつな
がり、大きな流れで共に巡っている。個人の人生は全体の中にある。それなのに、
私たちは、うっかりこの事実を忘れてしまう。そして、まるでたった一人で世
界の中で生きているような気がして、世界を恐れ、不安になる。また反対に、
「自
分 1 人で生きているんだ!」といって尊大になることもある。いずれにしろ、
事実をしっかり知らない限り、私たちは世界から離れていると思ってしまいが
ちなのだ。
「自分を悩ませ、苦しみを与え、傷つけ、試練にたたき落とそうとしているの
が世界だ」といってすねてみたり、「思い通りにならず、不条理なのが世界とい
うモノなのさ、ハハハ」といって斜に構えたり。「世界から自分は拒絶されてい
る。だれも受け入れてくれやしない…」と思い込んでいじけてみたり。そうやっ
て世界を敵に仕立てあげて、1 人悩むのだ。人間は。
私たちは普段あまりにも忙しく、全体世界とのベーシックなつながりを忘れ
てしまう。そうして勝手に悲嘆にくれている。傍から見たらちょっとバカバカ
50
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
しいことを、皆がしている。1 人孤独に暮れなずみ、涙を流したりするが、あ
まりにも自分の主観たっぷりの世界に沈み込みすぎている。客観的な世界と自
分のつながりがまるでみえていない悲劇のヒ―ロー&ヒロインのなんと多いこ
とか!けれど、悩む本人はとても苦しい。本気で悲しみ、本気で世界を恐れ、
苦悩する。
だから、私たちは世界と自分自身のつながりをあえてハイライトしてみてみ
る必要がある。よく物事をみること。ありのままの事実とは何か知ること。そ
れが苦しみから自由になる方法となると、Yoga はいう。
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」を瞑想の対象にする Yoga の
瞑想は、リラックスし、落ち着いた心ではっきりと世界と “ 個 ” のつながりをみ
る。客観的にみて、どう考えても自分から離れようのない世界を改めて確かめ、
自分勝手な孤独や悩みから自由になることを目的としている。私たちの体にく
まなく満ちる「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」を瞑想の対象として、心を
つなぎとめ世界と自分の関係を強くする。世界と自分は離れていない。この瞬
間も自分と世界はつながっている。
この事実を確信することが私たちに心からの安心を与える。安心感が心にゆ
とりをつくる。何が起きようと、どこにいようと世界は正確に物事を展開させ
ている。私たちはこの完全な秩序の中でそれぞれ役を与えられ、それをこなす
ことで、世界に参加している。世界と深い関わりをつくっている。事実を知れば、
恐れなどない。よくよく考え、大きな視点で世界をみれば、
本当は敵などいない。
自分は世界と 1 つである。このことを理解することで、” 大きく、広い心の持
ち主になること “。これが、まず Yoga 的な瞑想で得ることができる 1 つ目のメ
リットだ。
孤独に突き落とされることもなければ、成功や失敗という人生の荒波を全部
自分の責任にして自分を責めたり、思い通りにならない世界を責めたりもしな
い。無駄な被害者意識にとらわれない。プレッシャーや抑え難い葛藤や圧力か
ら解放され、自分も、世界も憎まない。そうやってできたゆとりある心に、自
分を許し、世界を受け入るスペースができてくる。広い心の持ち主は、自分も
他人も責めたりしない。だから世界と自分に心地よくくつろぐことができるの
だ。
51
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
私たちは、Yoga によって究極の自由と幸せを目指している。そのための準備
として、心を扱う。Yoga の目的は、超人になることではない。超能力者や魔法
使いになることは、Yoga のゴールではない。水の上を歩いたり、風を止めたり、
手のひらから火をだす必要性もなければ、関節を外してありえないポーズをと
る必要も一切ない。そんなことが何になる? そもそも、Yoga は自然の法則や
秩序から自由になろうとする試みではない。
むしろ、この法則と秩序と一体になること、離れようのないつながりをみて
融合すること、一体化することが Yoga なのだ。Yoga の語源は、「ユジ√ युज्」
つながる、1 つになること。それが、私たちが本当に望んでいることなのだ。
自分が世界から離れていない事実を理解すること。自分に心地よくあり続け
ることができること。それはどんな時でも、どんな場所でも、どんな条件のな
かでも、恐れなく、不安がないということ。苦悩がないこと。
いにしえの賢者たちが目指していた自由とは、世界と自分が離れている、と
結論づけてしまう思いこみや、それゆえの孤独からの自由。自分に冷たく不都
合で、理不尽な世界、という誤った認識からの自由。敵がいない世界に生きる
こと。苦悩のない、恐れのない世界にくつろぐこと。これが『ヴェーダ(聖典)
』
がいう自由の意味。世界と関わりあいながら、それでも自由だ、ということ。
さらに、個人である私たちは、それぞれ世界とただつながりあっているだけ
ではない。つながり合う、関わりあう以上の事実がある。それは、“ 自分と世界
は本質的にはただ 1 つの真実である ” ということだ。個人の狭くて小さいスタ
ンドポイントから世界を見ているのではない。
さらに『ヴェーダ(聖典)』の最終章「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終
章)
」は、その法を存在させているレベルまで掘り下げる。最終的な聖典のメッ
セージは、世界と自分はただ 1 つの存在であるということ。その “ 存在 ” が、
絶対に揺らぐことのない、変わることのない真実である。
そこまで私たちを連れていこうとしている聖典のビジョンは、
「タット・トヴァ
ン・アシ तत् त्वन् असि(You are the Whole. あなたの本質とは全体である)
」と
いう 1 文で表現される。
52
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
私たちはこの広くて大きなビジョンを理解するために瞑想をする。なぜなら、
真実の理解に本当に望む自由と幸せがあるからだ。自分の中にも外にも広がり、
動き、流れ、躍動し続ける “ 全体世界 ”。この世界と積極的につながろうとする
行いが、瞑想なのだ。
あえて、世界と自分の事実である 1 つのつながりをみる。この活動のことを
「サグナブランマ ・ ヴィシャヤ सगुणब्रह्म विशय
(全体世界の現れを対象に)
」
「 マ ー ナ サ・ ビ ャ ー パ ー ラ ハ मानस व्यापार:।( 心 を 活 動 さ せ る こ と )」
という。それが、瞑想の定義だ。
ここで改めて、瞑想の定義をもう一度みてみよう。
सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:।
サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ
瞑想とは、心を 1 つの対象(全体世界の秩序と法)につなぐ、心でする
行いのことである。
『ヴェーダーンタサーラ वेदान्तसार कथोपनिषद्』
瞑想は、“ 個 ” である私たちが全体とのつながりを意識的に自覚するための行
いなのである。
2.瞑想で自分と世界とのつながりをみる
もともと、私たち生物は、自覚しようとしていなかろうと、全体と常につな
がりあっている。たとえば、1 つの “ 波 ” は、つねに全体である “ 海 ” とつながっ
ているように。波に自覚があってもなくても、波は海とつながっている。離れ
ようにも、波は海から離れられない。波と海の間に実質の距離はない。
53
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
同じように、私たち “ 個 ” と全体世界の間には、距離は介在しない。“ 個 ” が
全体から離れることはできない。波が海から離れることはできないように。
“ 波 ” のすべては “ 海 ” である。その形において、動きにおいて、
性質において。
波のすべてのレベルに “ 海 ” が広がっている。“ 海 ” 全体を維持している法則と
秩序も、1 つの波にあまねく浸透している。
同じく “ 個 ” である私たちの中にも、世界を維持する力や法と秩序はくまなく
広がっている。それはどんなに小さなレベルにも浸透している。1 つ 1 つの細
胞に、その中の動きと機能に、目ではみえない微かな感覚や考えの中にも世界
を維持するルールがいきわたっているのだ。
もし、“ 波 ” に自意識があって、こんな風に思っていたらどうなるだろう?
波 「僕は、ちいさな波だ。遅かれ早かれ、岸にぶつかって死ぬ。思え
ばつまらない人生だった。沖を無目的に漂うことしかできない無力な奴
だ、僕は。大きな波のように誰かを感動させる力も僕にはなかった。キ
レのある波のように、サーファーを喜ばすことすらできない。僕にたい
した価値はない。この海の世界には、無数の波がある。その誰とも僕は
打ち解けられずにいる。無数の波と比べて、僕はあまりにも小さい。僕
の存在なんて、まるで意味がない」
孤独を抱えた 1 つの波は、大海原で無力を噛みしめている。1 つの波として、
他の波と比べて、苦悩におちいっているのだ。
波 「そういえば、この海の世界を治めているとしている者がいると聞
いたことがある。それは海全体を統治する全知全能者だときいている。
僕の小ささ、無意味さをどうしたらいいだろう? もし願いが届くなら、
祈りを聞いてもらえるなら、僕は祈ろう。どうせ、じきに終わる人生だ。
なんでもやってやるさ。どうか、この孤独を埋めることができるように。
この人生じゃなくてもいい。せめて次の生では、1 つの波としてもっと
誇らしく、立派に生きることができるような何かが僕に与えられますよ
うに。今度こそ誰もが認めるような特別な能力や素敵な形、恵まれた性
質が与えられますように」
54
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
この祈りが全体である海に届いたら、海はどう応えるだろう ? 波から、
1 ミリも 1 秒も離れていない海。波と海の間には、空間や時間がつくる
ような距離はない。波と海の関係を離し、“ 波 ” に孤独を与えるものな
ど本来はないはず。“ 波 ” は知らないだけなのだ。波と海のつながりを。
自分と世界の関わりを知らず、勝手に孤独におちいっている。“ 波 ” は 1
つの波という形をとる自分と、全体である “ 海 ” との関係を知らないが
ゆえに “ 幻想的な孤独 ” に浸っているといってもいい。客観的な事実を
知らずに、勝手に孤独に沈む “ 波 ” をもし救えるとしたら、何ができる
だろう? その術は何だろう?
海 「おおぉ~い、孤独に沈むそこのキミィ!どうしたんだ、一体? い
やに深刻じゃないか!えっ? まあ、とりあえず、ゆっくり息を吸って、
ゆっくり吐いて。そうして自分を取り囲む世界、海をみてみなさいよ。
まあまあ、
落ち着いて。
他の波をみるんじゃない、
全体の海をみるんだよ」
波 「ちょっと、あなた一体何なんですか? やけに自信たっぷりで。人
が孤独で死にそうになってるというのに。あなただってよく見たら、僕
とそんなに変わらない小さい波じゃないですか。それなのに、何を全能
者みたいな視点で語っているのですか? 」
実は、全体である海は、孤独の波に直接「あんたの事実は海なんだ!」とい
うことを伝えたくて、1 つの波の形をとって教えに来ていたのだ。
海 「まあまあまあ。私はとりあえず波の形をしているようにみえるが
ね。実際は “ 海 ” なのだよ。まあ、キミと同じようにね。落ち着いた心
でよく見てみなさいよ。まずは、私の言葉を嘘でもいいから信じてさ。
あんたは、たしかに小さい 1 つの波だ。だけど海から離れている波なん
てあるか? キミのどこを指しても、その事実は “ 海 ” じゃないのか? 」
波 「…」
海 「その事実を見もしないで、勝手に “ 自分は孤独だ。あー悲しい ”
とか、“ 自分は無意味だ ” なんてこという。そんなこといって。悲劇の
ヒーローにでもなったつもりか? キミが今まで海から離れたことがあっ
55
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
たか? 今の今まで、一瞬でも離れていたことがあったか? もし離れて
いたというなら、それはいつだ? キミが何かに失敗したとき、他の波か
ら批判されたとき、他の波と比べたとき、自分を無力に思うとき、“ 自
分は全体の海から離れている ” だの “ 孤独だ ” だのと、いっていたので
はないか? 」
波 「…」
海 「もしキミが海から離れているというなら、その距離はキミの無知
がつくり出している。キミが “ 事実をみてない ” ということが、自分と
海を離しているんじゃないかな? 事実をよく見もしないで、自分の考え
の中だけで、“ 海から離れている自分は孤独だ。他の波から離れてたっ
た一人で世界を生きている ” なんて、勝手に結論づけたのじゃないか?
だとしたら、キミは海の真実を知らない。波という形をとっている自分
の事実を見ていない。本当は波であるキミは、海から離れたことなどな
いのに。そうだろう? どうやって海から離れて生まれて、生きていられ
る ? 沖を漂っていられる? キミが羨ましい思っていた他の波も皆、同じ
だ。どの波も海だ。どんな波も、海に満たされている。もし、本当にキ
ミが “ 全体から離れている ” という孤独や、無力さや、小ささや、悲し
みや絶望から自由になることを望むのだったら、キミができることは何
だ? 」
波 「そ、それは…事実を知ること? 」
海 「えらい!そうだ、そのとおり。なかなか筋がいいじゃないか。こ
れは、見込みがあるぞぉ~。そうそう。自分自身の事実と、世界である
海の事実を知ることがキミの悩みを、孤独と無力と悲しみを取りのぞく
のだよ。そうだな? 」
波「…確かに、あなたのいうとおり。そうかもしれない。僕は海だ。だっ
て、波は海だから。でも…」
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
海 「え? え? 何? まだ何かある? “ でも…” だと? でも何? この事実
を知ったら、キミの孤独なんて笑い話でしょうが? 」
波 「でも…僕にはあなたの理屈はわかっても、納得できないのです。
納得というか、なんていうか、実感できないんです」
海「はぁ~やれやれ。私のいうことが “ 理屈 ” だと? そうか、“ 理屈 ”
というわけか。“ 波は海に満たされている。どの波も海とつながってい
る。一体である ”。この事実が “ 机上の空論 ” とでもいうわけか? 」
波 「いや、そこまではいってないですけど…」
海 「キミの発言はね、いつも語尾が弱いぞ! “ けど…” ってなんだ?
まいったね。事実をみるためにキミがまずできることは、その心の疑い
を弛めることだ。緊張をほどくことからはじめて、リラックスして大き
く構えないと。点の視点で見た物事がすべてだと思ってはいけない。天
の視点でみるんだ。狭い視野で、自分や世界をジャッジして生き辛い思
いをして過ごすために人生はあるんじゃない。キミの人生は自由になる
ためにあるんだ。生きる目的は、自由であり幸せであることなんだよ。
本当のことを知るには、大きな視点が必要だ。それが物事の見方を変え
る。認識を変えるんだ。真実に足をつけて、自分と周りを、落ち着いて
見すえないと」
波 「僕にできるのでしょうか? 」
海 「できない理由なんてないだろう? キミは死ぬほど “ 悩める ” 繊細
さがある。考える力もある。それで十分。緊張をほどいて、全体の海の
世界の事実を受け止めてみることだ。そして自分自身の事実を理解する
んだな」
波 「悩むことが能力だなんて、はじめて知りました」
57
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
海 「そんなことも知らなかったか? すごい能力なんだぞ、“ 悩める ” と
いうことは!キミは、自分が思っていること以上の存在なのさ。キミの
事実は、自分が考えていること以上だ。本当のキミは、今のキミが知っ
ていることより、ずっとずっと壮大なものなんだよ。実際、我々の真実
はとてつもないよ。限りがない。時間においても、空間においてもね。
始まることも終わることもない。それがキミや私の、他の波の、海の事
実だ」
波 「…」
海 「全体とのつながりを “ 実感できない ” と、キミはいったな? それ
には、あえて “ 海と波 ” つまり “ 全体と個 ” の関係の事実をハイライト
してみていく必要がある。海という全体を深く考えること。そして、自
分の心をつなげることがその方法になる。“ 全体と個 ” の離れ難い関係
をしっかりみるんだ。
そうして、真実を実感に変える。ま、言葉を変えれば瞑想する、ってい
うことになるのだが」
波 「瞑想ですか? 」
海 「アザトイかな? 」
波 「い、いえいえ…」
海「じゃあ、まずはリ
ラックスすることから
始めようか? 」
58
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
孤独や不安に思う波に必要なことは、自分から離れているものなど何もない
という事実を知ることしかない。1 つにつながる “ 個 ” と全体との事実を知った
ら、理解し、納得し、自分のこととして実感する。事実を知るためには、経典
の教えとお話しの中の海のように直接教えを教える者が必要。さらに、事実を
実感するためには、瞑想が不可欠なのだ。
瞑想は世界のありのままの事実を、ありのままに受け止められるように心を
整える。自分の小さな考えや結論によって歪めずに事実をみること。やがて、
客観的に世界をみることができるようになった心に、深い “ 瞑想状態 ” は自然に
訪れる。その体験は聖典が最終的に明かす “ 真実 ” の理解において、とても大事
な役割を果たす。
そのために、まずはリラックスし、経典の定義に沿って瞑想すること。世界
の象徴に心をつなげ、自分と世界のつながりを真っ直ぐな心でしっかりみる。
それが、「リアリティ瞑想」である。
瞑想は、リラックスすることから始める。とにかく、焦って不安がいっぱい
で緊張溢れる心や、妄想満載の知性に世界のありのままが映るはずがない…ス
ケールの大きな事実を考えることなどできない…。だからまずは、ゆったりと
くつろぐ。落ち着いて、静かなスペースを心につくる。自分のために贅沢に時
間を使うこと。心に “ ゆとり ” をつくり、このゆとりのスペースに、歪みない客
観的な事実が入り込んでくる。そこから客観的な事実をみるようにする。観的
事実であるありのままの “ 全体世界 ”。自分はその全体とつながっているという
ことを理解し、心をつなげること。それがこの瞑想法のポイントである。
3.全体世界とつながる “ 個 ”
たとえば、森に生える 1 本の木は、木に自覚があろうとなかろうと、全体の
森とつながりあって生きている。
私たち人間も同じ。“ 個 ” である人間は、常に世界という全体とつながり、全
体の中で生きている。肉体も、感覚も、生理的な機能も、考えも、感情も、す
べてのレベルで私たちは全体世界とつながりあっている。全体世界を動かして
59
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
いる同じ法則と秩序によって、私たちは生まれ、養われ、生かされている。我々
が自覚していようと、自覚がなかろうとこれが事実。私たちは、瞑想でこの全
体とつながってゆく。
木と森の例と違うのは、私たちは “ 考える ” という特別な機能をもつ “ 個 ” で
あるということだ。どの辺りが特別かというと、考える機能をもつ者は全体と
のつながりを自覚できていないとき、“ 孤独感、孤立感 ” を感じてしまう。孤独
や不安を感じたとき、私たちは森の木のように静かにたたずんでいられない。
残念ながら。思いっきりリアクションをとってしまうのだ。
孤立感を感じ、不安になると、私たちは世界を恐れ、悩み、苦しむ。居たた
まれない状態から何とか逃れようとし、どうにかしようとソワソワする。不安
を取りのぞくことが出来そうな何かを探しにいったり、恐れから逃れるために
どこかに行こうとする。
その点、木は悩まない。頭をかきむしったり、孤独の中で悶絶したり、孤独
な魂の悲哀をこめた詩を吟じたりはしない。人間は孤独と恐れから始まる感情
に振り回され、苦悩し、愚かで悲しい言動をしてしまう。
しかし、この違いに人間だけに開かれた可能性がある。人間は苦悩を感じる
が、同時に苦悩から抜け出る能力ももっている。まず、苦しみから自由になる
ことを望むことができる。だまって苦悩の中で悩むだけではない。そこからの
自由を望み、願い、助けを求めることができる。また望んだ願いを叶える能力
も意志もある。さらにどうしようもないときには、“ 祈る ” という万能薬までも
与えられているのだ。
苦悩からの自由は、「自分は “ 個 ” として、広い世界に生きるが、片時も世界
から離れたことがない。世界と自分は常につながっている。“ 個 ” と全体は離れ
たことがない 1 つの事実だ」。ということを理解し、自覚した時に、叶えること
ができる。理解、自覚には高い思考の力と意識が必要だが、人間はこの力をもっ
ている。事実を理解し、納得することで私たちは、すべての生き物たちが望む、
限りない自由へ至ることができるのだ。
私たちは、とても親しい友達といるとき、孤独にはならない。自分と同じ考
え方をする人と分かち合えたときに疎外感や孤立は感じない。自分と離れてい
ないものに対して、恐れも不安も感じない。私たちは、自分の手足に脅威は抱
60
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
かない。しかし、他人の手足の動きは、ときにとても恐ろしい…。
とにかく、自分は世界から離れていない。離れようにも離れられない。自分
のどんなところにも、世界が広がっている。肉体にも、感覚にも、考えにも、
気ままで不機嫌な感情にも、忘れっぽさにも、怒りにも、喜びにも、オロオロ
するしぐさのなかにも、イライラして八つ当たりする中にも、くつろぎの中に
も、憎しみにも、嫉妬にも、絶対的なものを敬う気持ちにも、自分の中の崇高
さにも世界のルールが満ちている。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が私た
ちにくまなく広がっている。私たちは、世界とぴったりつながっている。世界
そのものともいえる法則と秩序につながれ、一体になり、一緒に流れ、変わり
ながら、ダイナミックに生きている者が、私なのだ!
この事実を理解している者の、どこに不安があるのか? 何に恐れを抱くとい
うのか?『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)
』はこのこ
とを一言でいい表す。
「タット ・ トヴァン ・ アシ तत् त्वन् असि(You are the Whole.)
あなたは、全体世界である」
瞑想を最終的な “ 方法 ” とし、瞑想の達成をゴールとする Yoga の道では、こ
の文の意味にどれだけ迫ることができるかが、探求のバロメーターとなる。
「自分は全体世界である」。事実を、どれ程はっきりと自分のこととして実感
できるか。理解の深さが、瞑想の深さである。その深さは様々な Yoga の修行法
によって到達できる。
4. “ 全体と個 ” のつながりを自覚するための瞑想
さて、ながながと瞑想の定義と目的をみてきた。定義と目的がはっきりすれ
ば、そのためにするメソッドは自ずと明快になる。瞑想の目的は、“ 全体 ” との
つながりをみること。ではそのためにはどうすればいいだろう。
Yoga 的瞑想の方法論はシンプルだ。存在するかしないかわからない物をイ
メージしたり、過去に旅立ったりもしない。空想に遊ばない。私たちにとって
61
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
瞑想は「リアリティ(事実)」をみること。ファンタジーや、イマジネーション
は、本来の瞑想の目的を果たすためには必要ない。
ここからは、客観的にリアルをみるための具体的な瞑想方法をみていこう。
1. まずは、リラックスをする。
これが無くては何も始まらない。イライラ、ドキドキ、ザワザワ…そんな擬
態語満載の心で落ち着いて坐れるか? 無理である。
だから、まずはリラックスして静かに落ち着いていることが坐るためには大
事。瞑想の前には、冷静に、客観的に物事をみる心を養うために、意識的にリラッ
クスする必要がある。
2.全体とつながる自分であるようにする。
瞑想をする者=全体とつながる個とは、この自分に他ならない。だが、普段
私たちは沢山の役を演じているために、つい自分の本質を忘れてしまう。“ 役 ”
と、“ 役を演じる者 ” の境界をはっきりさせるのがこのステップの目的。私の本
当の姿は、役ではない。だから、演じている役に生じる問題は、本来の私とは
関係ない。
社会で生きることは、そこで関わる人と同じ数だけの役を演じるということ。
自分に求められる役割は、関わる人によって違うから、私たちは普段同時に幾
つもの役を演じている。そして、自分が演じている “ 役 ” の視点から、世界を見
ていることもある。1 つの役に起きた問題や影響を他の役までひきずってしま
うこともある。どこからどこまでが、どの役の問題か? というボーダーを曖昧
にしたまま、世界に接している。
さらに、自分自身と、役との境界までもぼんやりしている。さらにさらに!様々
な役をひきずったまま、別の役を演じている他人とも関わっている。
役と役、役と自分。同じように沢山の役を演じている他人。関係性が複雑に
絡み合った私には、世界の物事のありのままの姿が映っていないことが多い。
からまった役の主観で、世界をみていたりもする。
62
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
演じている役の立場にとって都合のいいこと、悪いこと。偏見や、勝手な思
いつき。こういう主観が世界のありのままの光景をねじ曲げてしまう。主観を
上乗せした心に映る世界は、どうしたって歪んでいる。鏡の上に埃や汚れ、歪
みがあれば、世界は凸凹に、汚れとともに歪んで映るように。
私たちは自分の心に映り込んだ歪んだ景色を、真実の世界だと思っている。
心に映った世界をベースにして、物事を評価し、判断し、リアクションをとる。
そして役の都合や主観でみている歪んだ世界が、私の心の中で問題を起こして
いる。
この世界には法則と秩序のもとに、起こるべきことが起こっている。あるべ
きことがあるだけだ。世界に問題はない。あるのは、ただの出来事。出来事の
連続。
それなのに、ただの出来事を私は “ 問題 ” にしてしまう。世界の単なる出来事
が “ 問題 ” になり、私の心ではなんと苦悩になってしまう!うーん、不思議だ。
同じ世界の光景をみて、問題や悩みにしない人もいるのに。苦悩や悩みは主観
的に世界を映す私たちの心にだけ起こっている。
もし、この “ 問題 ” や苦しみ悩みから自由になりたいのだとしたらどうしたら
いいだろう? それは物事を歪めてみる視点、偏見や主観という独自の “ ものの
見方 ” から離れるようにするしかない。だって、世界にはもともと問題はない
のだから…。そうはいっても、「じゃあ一体どうしたら、主観でなく、客観的に
物事をとらえることができるのさ? 」と思うかもしれない。
まずは、私たちが客観的になっている状態を意図的につくっていこう。天才
的トラブルクリエーターの私たちだが、いつもそんな偏見いっぱいで世界をみ
ているわけではない。“ 客観的な視点 ” をもって、ありのままを映す時もあるの
だ。それは、私たちが自然と関わるとき。
自然の雄大な光景を心に映しているとき、私たちは客観的に自然のあるがま
まを心に映している。自然を見ているとき、私たちは自然を評価しない。自分
の意見や欲求を自然に押し付けたりしない。「あの山にいうことを聞かせてや
りたい!」というエゴイスティックな考えもない。
「星や空はこうあらねばなら
ぬ!」過剰な期待も、内なるプレッシャーもない。海や雲を見て、ライバル心
を起こしたり、嫉妬したりもしない。だから、大自然を見ているとき、私たち
63
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
にはストレスがない。自然と接するときの私たちは、全体とつながるシンプル
な “ 個 ” の状態でいることができる。
自然をみたり、自然と触れあうとき、私たちは期待や欲求から自由だ。“ オリ
ジナルな素の自分 ” に戻れる瞬間でもある。客観的になっているからこそ、あ
りのままの世界を映すことができる。そのとき、私たちの心はかなりくつろい
でリラックスしている。心地よさを感じている。何も足りないことなどない。
不満がないから期待もない。自分自身に対して違和感がない。だから心地よく、
シンプルな自分でいることができる。これが全体と関わる “ 個 ” である。
瞑想はこのシンプルな “ 個 ” である必要がある。ストレスのない自分が目を閉
じて、坐る。心を全体につなげる。そうすることで、自分自身の事実をかなりはっ
きりと実感することができる。瞑想のメリットを最大限に味わうことができる。
そして、それは本質的な自分自身であるからこそ心地よく、内から湧く幸せを
実感する経験となる。
深い瞑想の準備をするために、客観的な視点で自分と世界を意図的にみる。
シンプルに知覚し、役を演じていないオリジナルな自分でいる。そういう自分
が全体世界と関わる “ 個 ” である。“ 個 ” である自分が、世界のあるべき姿を受
け止め、リラックスし、心をオープンにして、瞑想をしているのだ。
『バガヴァッドギーター』では、この全体と関わる “ 個 ” のことを、
「バクタ
भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放つ者)」と呼んでいる。瞑想には
いる前に、私たちは全体世界を信頼し、心をオープンにする。リラックスし、
悩みや複雑な思いは全部「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」に投げてしまう。
一時全部の不安も恐れも、世界に放り投げて、預けてしまう。世界に自分を解
き放って、心を軽くする。そうやって世界と関わる「バクタ भक्त(全体と関わ
る個、全体に自分を開け放つ者)」となって静かに目を閉じよう。
3.全体世界とつながる自分が瞑想をする
客観的な視点で、リラックスし、役を演じていない素の自分を静かに坐らせ
る。全体につながる “ 個 ” である自分が心を世界に開いて、1つの対象に心をつ
なげる。そうして瞑想がはじまってゆく。
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
5.“ 瞑想の対象 ” の必要性
さて、いよいよ瞑想がはじまる。しかし、だ。瞑想の対象や瞑想の定義はわかっ
たけれど、実際心をどこにつなげていけばいいのだろう? まだその肝心なこと
をはっきりさせていなかった。
聖典は、瞑想の対象を “ 全体世界=「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界
の現れ)」” と定めている。
「んー? 、全体世界といきなりいわれましても…。一体どうすればいいのや
ら」。急に “ 世界 ” に心をつなげよ、といわれても、目を閉じて心をつなげるな
んて、ちょっと途方もない。もはや私には、取っ掛かりすらみえない…。この
スケールの大きな対象の、一体どのポイントに心をつなげればいいというのか?
そう、だから “ 全体世界 ” という瞑想の対象は、聖典によってシンボライズさ
れている。シンボルには 2 つのタイプがある。1 つは “ 視覚化 ” されたシンボル。
像とか、絵、写真、幾何学模様という形で全体世界を象徴しているもの。もう
1 つが “ 音、文字化 ” されたシンボル。これが「マントラ मन्त्र」と呼ばれる音。
シンボル化された全体世界が、瞑想の対象となる。形か音か? シンボルの現
し方の違いによって、瞑想法もそれぞれ特色がある。
6. 瞑想の対象:2 つのシンボルと瞑想のタイプ
1. 視覚化したシンボルに瞑想する方法
全体世界を視覚化したシンボル、像や絵や写真などに対する瞑想法は、その
対象に向かって心の中で『ヴェーダ(聖典)』に従った儀式をする。それが聖典
で規定される、視覚化する瞑想方法なのだ。
ちなみに心の中でする儀式は、
「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)
」
と呼ばれる。「マーナサ मानस(心)」において、「プージャ(儀式)
」をする。
心の中で、ぽぉ~っと、「ああ、神様ぁ~」などとぼんやりすることは、瞑想
にならない。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の対象に向かって心の中で儀
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
式を行うことが瞑想となるのだ。しかしこれは、儀式になじみがないと、なか
なか難しい方法だ。
1 つの象徴に心を向けながら、
『ヴェーダ(聖典)』のメソッドに従った「プー
ジャ(儀式)」を心の中で行う。常に考えの流れを 1 つの対象に向けていくのと
同時に、形式に基づいた儀式の動きや唱えるべき祈りも注意深く行わなくては
ならない。勿論、
「プージャ(儀式)」の手順や祈りの言葉はあらかじめ覚えて
おく必要がある。だからこの行いは記憶力、集中力に対する大きなチャレンジ
となる。
「プージャ(儀式)」の習慣があまりない私たちは、ヴィジュアル瞑想
は少々の慣れと努力が要求される。
2.音の対象に瞑想すること
2 つ目のタイプは、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」を音でシンボル化し
た対象に心をつなげる方法。この音のシンボルを「マントラ मन्त्र」という。
「マ
ントラ मन्त्र」に瞑想する方法は「ジャパ जप(マントラ瞑想)
」と呼ばれている。
全体世界の音の象徴、音・文字化した象徴に心をつなぎとめること。
心で「プージャ(儀式)」をするタイプよりは、音の対象の方が実践しやすい。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」のメソッドは、「マントラ मन्त्र」という短い音
を心で繰り返すこと。そして心が音からそれたら、その度に意志の力で、引き
戻すこと。方法はそれだけ。非常にシンプルな方法だが、それでいて効果は絶
大なのだ。
というわけで、瞑想においても効率のよく結果をだすために、私たちは音の
対象に心をつなげる「ジャパ जप(マントラ瞑想)」を実践していこう。Yoga の
土地インドでも、
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」が断然有意義な瞑想法だとされ、
インドの「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」達のほぼ全員が「ジャパ जप
(マントラ瞑想)」をしているといってもいいくらい、信頼あるメソッドなのだ。
音か形か? どちらを瞑想の対象として選んだとしても、狙いは “ 全体との一
体感 ” を実感すること。この 1 つに尽きるし、目的も結果も全く同じだ。方法
だけに違いがある。だからまずは、簡単に実践できて、効果を出しやすい方に
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
集中してみよう。
瞑想のプロセスとは “ 心の準備をして、自分が決めた対象に集中する ” とい
うことだけ。これが Yoga 的瞑想のシンプルな骨格。方法はシンプルだが、練習
するほどに “ 瞑想の深さ ” が変わってくる。そして瞑想の深さによって、私たち
の “ リアリティ ” をとらえる次元が変わるのだ。
Yoga 的瞑想は、複雑なステップをマスターすることでなく、シンプルな方法
を繰り返し練習することで “ どれ程深められるか ” がポイントなのである。
7.「サグナブランマ(全体世界の現れ)
」とは?
しつこいようだが、経典に定義されている瞑想の定義をもう一度確認しよう。
瞑想とは、「サグナブランマ ・ ヴィシャヤ सगुणब्रह्म विशय(全体世界の現
れ)」を対象にした心の行い。
「सगुणब्रह्म विशय मानस व्यापार:। サグナブランマ ヴィシャヤ マー
ナサ ヴャーパーラハ」。
瞑想は心を活動させること。そう!瞑想は活動だったのだ。でも何にむかっ
て? それは「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)に向かって。
全体世界を象徴した対象であるイメージのシンボル、または音のシンボルに
むけて心の動きをつなぐこと。それが瞑想。
ここからは、言葉の意味として瞑想の対象「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全
体世界の現れ)
」を掘り下げてみてみよう。まずは、「サグナ सगुण(特質のある
もの)
」という言葉。「サ स(共にある)」+「グナ गुण(特徴、特質)」=「サ
グナ सगुण(特質のあるもの)」。さらに、後ろに続いているのが「ブラフマン
「√ बृह् ブルフ(大
ब्रह्मन्」という言葉。「ブラフマン ब्रह्मन्」という言葉は、
きく広がる、増える、拡大する)」という語源から派生する。“ 際限なく広がり、
大きくなる ” という意味がある。
67
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ふ~ん…。わかったような、わからないような。一体この語源から派生して
できた言葉「ブラフマン ब्रह्मन्」は何を示しているのだろう?
聖典は、
「ブラフマン ब्रह्मन्」とは世界の源であり、変わることのない 1 つの
ベースであるという。世界ができているベースのベース。真実、
存在。同義語だ。
簡単にいえば、そこに “ ある ” ということの意味。“ 存在 ” そのもの。
『ヴェーダ(聖典)』も『ヨーガスートラ』などの Yoga についてのノウハウを
教えている経典も、この「ブラフマン ब्रह्मन्」を理解することが、“ 悟り ” で
あるという。Yoga では悟りのことを、
「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)
」という。
「√ मुच् ムチ=解放すること、自由になること」という語源から派生した言葉
が「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」。それは限りない自由への解放を意味して
いる。
聖典にいわせれば、本当の自由は「ブラフマン ब्रह्मन्」の知識を知ることで
のみ可能になるという。生物を自由へと解放する唯一の扉を開く鍵が、
「ブラ
フマン ब्रह्मन्」 を自分自身の事実として知ること。自分自身が「ブラフマン
ब्रह्मन्」であると知り、それが真実であると理解すること、実感すること。
有名な『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の一節に
は、こんな詩篇がある。、
विज्ञाते सर्वमिदं भवतीति।
この知識(「ブラフマン ब्रह्मन्」)を知ることは、世界のすべてを知った
ということと、まるで同じことを意味する。
『ムンダカ・ウパニシャッド मुण्डकोपनिषद्』1.1.3
तरति शोकमात्मवित्।
「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」を自
分自身の事実「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」と知る者は、
68
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
すべての悲しみを超える。
『チャーンドギャ・ウパニシャッド छान्दोग्यौअनिषत्』7.1.3
もちろん “ この知識 ” とは、「ブラフマン ब्रह्मन्」 だ。Yoga を含めた様々
なスピリチュアルな探求を志す求道者たちは全員、最終的には「ブラフマン
ब्रह्मन्」の意味を知ることを目標としている。
ん? 何なんですか? この「ブラフマン ब्रह्मन्」という言葉は?「ブラフマン
ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」とは、世界の真実を指し
示す言葉。そして聖典は、「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく
広がるもの)」は、私たちの事実「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」で
あるという。「ブラフマン ब्रह्मन्」と「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」
は 1 つ真実である。これが聖典が告げる唯一の教え。世界の真実を自分自身の
事実として理解せよ、という。
Yoga を極めることを人生の目標にしている人達は、「ブラフマン ब्रह्मन्(存
在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」が自分自身の本質である、というこ
とを知り、実感することを目指している。「アートマン आत्मन्(人、生き物の真
実)」は「ブラフマン ब्रह्मन्」。「ブラフマン ब्रह्मन्」は、
「アートマン आत्मन्(人、
生き物の真実)」。この理解を確立することが、
「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)
」
。
あらゆる束縛、苦悩、悲しみ、ついには輪廻のサイクルから解放され、自由に
なること。
一体全体、この「ブラフマン ब्रह्मन्」とは何なんだ? なんだか、とっても
素晴らしいじゃないか。
「知れば悟る!」なんていう知識があるなんて知らなかっ
た。それに、「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」
が指している “ 意味 ” が、
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」という私た
ちの真実であるというのは、一体どういうことだろうか。しかも、なぜそれで
悟れるのだろう。究極の自由といわれる「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」と
はどう結びつくのだろう。ますますもって良くわからない…。
聖典の教えを簡単にいうとしたら、「ブラフマン ब्रह्मन्」という言葉は、“ 究
極の知、存在、あまねく広がる事実 ” を意味する。この世界の “ 存在の根源 ” で
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
あり、かつ “ あらゆる物を現す知・認識の源 ” であり、“ すべてに広がり満ちて
いる ” ベースである。この「ブラフマン ब्रह्मन्( 存在、知・認識の源、あまね
く広がるもの)」こそが、私たちの真実の姿であるという。
「むむぅ~。現時点では、まったく納得いきません…」。「自分が『ブラフマン
ब्रह्मन्』で、全体、存在、知識と世界を現す根源だなんて、そんなことあるは
ずないじゃないか!だいたい、3 日前の晩に何食べたかすら思い出せない自分
がなんで知の根源なんていえるんだ? 」と思われるかもしれないが、でもまあ
まあ、ちょっとまって。聖典のいうことを聞いてみようじゃないですか。だっ
て、知ればあらゆる苦悩を越えられるというのだ。それに、インドには実際こ
の知識を知り、苦悩を超え、世界と自分に物凄くリラックスしている「ヨーギー
योगी(Yoga の実践者、達人)」たちが今も沢山いる。彼らは賢者といわれ、大
勢の人が憧れ、従っている。だから、大丈夫!聖典の正しさは実証されている。
8.世界の源=「ブラフマン
(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」とは?
『ヴェーダ(聖典)』の世界観では、現在現れている世界は、始まりも終わり
もないサイクルを繰り返しているという。混沌とした “ 原因 ” の状態から、世界
はある時、形をもって現れる。現れた世界は、変わり続けながら、しばらくの
間 “ 維持 ” される。やがて、形ある世界は、現れる前の形なき “ 原因 ” の状態に
戻る。
「現れ⇒維持⇒収束(破壊)」というサイクルを繰り返しているのが世界だ。
たとえていえば、一粒のリンゴの種は、りんごの木、葉、花、実が現れる可
能性がつまった “ 原因の状態 ”。種からりんごの木の様々な形が現れる種の中に
は、りんごの木の要素ががすべてつまっているが、潜在的な可能性だけが種の
中にあるだけで、現れる形は全くみえない。世界も同じように、形が現れてい
ない潜在的な可能性だけの状態がある。
りんごの種を土にまき、水と光と時間を与えることで、はじめて種からりん
ごの木という世界が現れる。可能性が形になる。種から、芽になり、芽が木に
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
なり、木に葉っぱが茂り、花を咲かせ、実をつける。現れたりんごの木の世界は、
めまぐるしく変化する。1 つの種が、芽、木、花というように沢山の形となり、
色鮮やかに現れる。世界も同じだ。1 つの可能性から、空、風、火、水、地と
いう要素が現れ、これらが組み合わされ無数の形をつくっている。私たちがみ
ている多種多様な物に色彩にあふれた世界が展開している。
やがてりんごの木は、季節と共にさらなる変化をとげ、実をつけ、実は種と
なる。りんごは、再び種へ、可能性の状態に戻る。世界も一定時間、派手に現
れ展開する。そして再び原因の状態に戻るのだ。
この繰り返しのサイクルは、「創造、維持、破壊」という言葉で表される。こ
の 3 つの流れを、始まりもなく、終わりもなく、サイクルとして繰り返してい
るのが世界だ。
これが、『ヴェーダ(聖典)』の世界観を支える 3 つの根本的要素だ。Yoga の
本や、ヒンドゥー文化、ヒンドゥー教の本や神話に必ずでてくる「ヒンドゥー・
トリニティー(世界をシンボル化した 3 つの姿)」とは、この世界のサイクルを
象徴的に表している。
【メモ】
「ヒンドゥー・トリニティー
(世界をシンボル化した 3 つの姿)」
右の図はインドでは有名な “ 全体世界 ” を
象徴する御三家。
この 3 つのシンボリックな姿が、「創造、
維持、破壊」を繰り返す全体世界を表して
いる。
71
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
右から、「創造」の象徴
= 「ブランマージ ब्रह्मा(ブランマ神、創造神)
」
中央が「維持」の象徴
= 「ヴィシュヌ विष्णु(秩序と維持の力、すべてに行渡る者)
」
左が、「破壊」の象徴
= 「シヴァ शिव(時間、すべてを 1 つにする力の象徴)
」
はっきりいえば、この 3 つが世界のすべてである。これが『ヴェーダ(聖
典)』の世界観だ。
聖典の言葉を使うとしたら、
「創造」=「スルシュティ सृष्टि(創造)」
「維持」=「スティティ स्थिति(維持)」
「破壊・収束」=「ラヤ लय(破壊・収束)」
この 3 つのサイクルを繰り返して、世界は今も巡り続けている。
サイクルを巡り続ける世界のベースとなるのが「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極
の知、存在、あまねく広がるもの)」なのである。世界がどんなに変化し、巡り
続けても、それを支えている「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あまね
く広がるもの)」は変わることがない。
「ブラフマン ब्रह्मन्」は世界の基盤であり、世界の根源である。すべての原因
という意味で、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」
は、
「創造・維持・破壊の原因」「スルシュティ・スティティ・ラヤ・カーラナ
सृष्टि -स्थिति –लय-कारण(創造・維持・破壊の原因)」とも呼ばれる。世界の
展開とサイクルの原因、“ 活動 ” の根源、が「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、
存在、あまねく広がるもの)」であるという。
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
現れている時も、現れていない時も世界の源は、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究極
の知、存在、あまねく広がるもの)」。すべてが「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、
存在、あまねく広がるもの)」によって現れ、支えられている。
『ヴェーダ(聖典)』の最終章『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最
終的な教え)
』のファイナルメッセージは、この「ブラフマン ब्रह्मन्」が私たち
の真実、ということ。
「世界は『ブラフマン ब्रह्मन्』です」。…そういわれても、「ほぉ~、そうです
か…」としかいえないが、「その世界を現す根源『ブラフマン ब्रह्मन्』とは、あ
なたの事なのだ!」といわれたら、私たちはちょっと本気になって聞いてみよ
うと思う。
何故、世界の根源が私自身であると聖典はいうのか? 今はそう思えなくて
も、もしそうだとしたら?「自分は何者か? 私は誰なのだ? 何なのだ? 」。も
しこの疑問に答えがでるのだとしたら、聖典の言葉は私たちに教えをもたらす
ものになる。
世界の本質的な原因である「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あま
ねく広がるもの)」こそが、私の真実である。
「アハン・ブランマ・アスミ अहं ब्रह्म अस्मि」
私の真実は世界の源「ブラフマン(究極の知、存在、あまねく広がるも
の)」である。
『ヴェーダ(聖典)』は、私たち生物の本質を、「アートマン आत्मन्(人、生き
物の真実)
」という言葉で呼ぶ。「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」の実
体とは「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」である、
というのが聖典の教えだ。
自分が関わる以上、他人事では済まされない。何を根拠に聖典は、“ 私の真実
とは「ブラフマン ब्रह्मन्」である ” というのだろう? 私たちは、真剣に掘り下
げて考える。
私たちは、限られた体をもち、感覚をもち、考えをもってこの世界に現れて
73
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
いるようにみえる。とてもじゃないが、こんなちびっこの自分が、
世界の根源「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」だなんて思えない。そんな発想すらなかったし、イコールで
つなげるには、あまりにもレベルが違いすぎるでしょ? と思う。
聖典のビジョンは、壮大すぎて私には理解不能…。毎日ちっぽけな出来事で
悲しんだり怒ったりイライラしたり。そんな自分がなんで
「ブラフマン ब्रह्मन्
(存
在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」でいられる? さっきも電車で足
を踏まれてムカムカ。スケールの小さすぎる出来事に捕らわれっぱなしの私が
どうして、世界の根源なんていえる?
だが、私たちがどんなに「矛盾してるじゃないかっ!」と大声で叫ぼうが、
聖典は絶対に教えを変えない。『ヴェーダ(聖典)』は、
「
『ブラフマン ब्रह्मन्(究
極の知、存在、あまねく広がるもの)』を根底にして、まるで小さな体をもって
世界に現れているのが、“ あなた ” である」という。まるで!まるで、小さな体
をもっているようにみえる? !けれど、私たちの実態、本当の姿は「ブラフマ
ン ब्रह्मन्」である、というのだ。
…なかなか、どうして、難しい。どうして等式で結びつくのだろう? それで
も、もしかして。もしかして、本当の自分とは、自分の想像以上のもの、「ブラ
フマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」だとしたら、どん
なに自由になれるだろう。
私たちには世界という舞台でプレイヤー(役者)として活躍できるように、
体や役割が与えられている。躍動する大舞台に参加するプレイヤーとして、私
はまるで小さな生物 “ 個 ” として存在している。その私が、世界の舞台で様々な
役を演じて、日々ドラマをつくり出している。では、役のベースは何か?
役者は、ドラマの中で役を演じている。役は、本来の役者自身ではない。役
はドラマの中だけのことであって、本質的な役者自身とは違う。役と自分自身
の間に物理的な距離があるわけではないが、役と本人には確実な違いがある。
同じように、私たちは日々自分自身でありながら、本当の素の自分とは違う役
を演じている。本質的に存在する自分自身が、役をもって世界という大仕掛け
のドラマに参加しているかのようだ。ドラマの中で様々な状況に遭遇し、喜怒
哀楽を表現するのは “ 役 ” である。それでは、本質的な自分自身とは何なのか?
74
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
聖典は、はっきりという。
本質的なあなたは、「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広が
るもの)」である。「タット・トヴァン・アシ तत् त्वन् असि(You are the Whole.
あなたの本質とは全体である)」
私たちの本来的な姿は、役から自由な存在である。私たちは、役を演じる前
にまず純粋な存在として “ 存在している ”。“ 存在 ” は、場所・時間においても
限定されることがない、永遠なるもの。役を演じる前にも、
役を演じ終わっても、
本質的な自分自身である “ 存在 ” はいつもここにある。
さらに私たちは、あらゆる知恵と認識のベースとなる “ 知 ” であるとも聖典は
いう。私たちの目に物をみせ、耳に聞こえることを起こすベースとして。心に
「な
るほど!わかった!」といわせる意識の源として。そんなことが起こるのは、
私たち自身が “ 知・認識のベース ” があるから。そのベースこそが私の事実であ
る。
存在、“ 知・認識の源 ”。これは「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あ
まねく広がるもの)」を意味する。だから、聖典は私たちの事実は「ブラフマン
ब्रह्मन्」であるという。「ブラフマン ब्रह्मन्」は、時間にも空間にすら制限され
ず、あまねく広がり、世界を満たしている。始まりも終わりもない。限りがなく、
無限であり、永遠であり、“ 自由 ” という言葉の意味である。
「ブラフマン ब्रह्मन्」が世界のすべてに行渡り、広がっている。限りなく、満
ちている。足りないところなどない。そのことを私たちは ” 幸せ “ という感覚や
体験という形で知ることができる。でも実は、「ブラフマン ब्रह्मन्」である私た
ちは、“ 幸せ ” という言葉の意味そのものであるというのだ。完全なる自由、幸
せや心地よさの意味、すべてに広がり満ちているということ、それらを認識す
る “ 知・認識の源 ”、それが自分自身の本質。
自分自身の本質が「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あまねく広がる
もの)
」であると知る者は、本当の自由と幸せの意味を知る。だから、自分自身
の真実を知ることは、自由の意味を知るという事だ理解することは、すべての
苦悩を打ち破り、制限のない幸せ、自由という意味に至るということだ。それ
75
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
が「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」といわれている。
自分の事実を理解した時、その人を縛りつけるものはなくなる。葛藤、問題、
プレッシャー、欲望、悲しみ、怒り、無知という姿をした束縛は、自由を繋い
でおくことはできない。まるで、空気をどこかに縛りつけることはできないよ
うに。
自分自身が自由の意味だと知る者を、一体何が束縛したりするのだろう? 自
由の意味とは、自分自身の事であると理解すること、これが Yoga で目指す “ 悟
り ”、「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」 である。
瞑想は、最終的にこの理解を確立するための手段となる。自由の意味、幸せ
の意味、静けさ、心地よさ、1 つである全体を瞑想において私たちは知り、実
感することができるからだ。
『ヴェーダ(聖典)』のビジョンに忠実であり、伝統に守られ、多くの人々に
実践されることで体系化されたメソッドである瞑想、それがこの本で伝える「リ
アリティ瞑想」
である。
その方法は、
最終的な Yoga ゴールにまっすぐにつながる。
何のために、Yoga をするのか? 何のために、瞑想をするのか? 目的におい
て曖昧さがない。だから手段と方法に迷いがない。私たちは『ヴェーダ(聖典)
』
のビジョンに裏打ちされた確実な Yoga の道を歩こう。どんなにこの世界に「瞑
想のようなもの」が溢れていたとしても関係ない。揺らぐことなく、自分が本
当に望む自由を目指すのだ。
9.「ブラフマン(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」
を定義する 3 つの言葉
ところで、肝心の「ブラフマン ब्रह्मन्」 って一体何? ここまでひっぱられ
たら、嫌でも気になるだろう。というわけで、ここでは、あの「ブラフマン
ब्रह्मन्」をしっかりみていこう。
まず、「ブラフマン ब्रह्मन्」という言葉は、3 つの言葉で指示され、定義され
ている。語源は、「√ बृह् ブルフ(大きく広がる、増える、拡大する)
」
。
76
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
「ブラフマン ब्रह्मन्」は確かに計り知れない程大きく広がるものなのだが、語
源から漠然と「ただぼんやり、大きなもの」というように狭く解釈されないよ
うに、3 つの方向から言葉の意味が正確に指し示されている
「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あまねく広がるもの)」を指し示す
3 つの言葉、それが「サッティヤン・ニャーナン・アナンタン सत्यं- ज्ञानम् -
अनन्तम्(存在・知・限りなく満ちるもの)」だ。
1.「サッティヤン सत्य(真実、存在)」
2.「ニャーナン ज्ञानम्(知、根源的な知恵)」
」
3.「アナンタン अनन्तम्(限りないこと、終わりが無いこと)
ここに示された 3 つの言葉はどれも「ブラフマン ब्रह्मन्」
を示している。
「サッ
ティヤン・ニャーナン・アナンタン सत्यं- ज्ञानम्
अनन्तम्(存在・知・限りな
く満ちるもの)」は、「サット・チット・アーナンダ सत् चित् आनन्द(存在、
知、限りなく満ちるもの)」ともいわれ、どちらも全く同じ意味を示す。
Yoga の本では、「サッチダーナンダ सच्चिदानन्द(真実、知、限りなく満
ちるもの)
」と書かれている場合が多い。これらの言葉すべてが、「ブラフマン
ब्रह्मन्」の意味だ。
「ブラフマン ब्रह्मन्(①究極の知 ②存在 ③あまねく広がるもの)
」
①「究極の知」=「ニャーナン ज्ञानम्(知、根源的な知恵)
」
「ブラフマン ब्रह्मन्」は知識の根源。世界のすべての物事は意味と形をもって
現されているけれど、そのベースは知識。虫の体も、私たちの体も、山も牛も
空間も町もテレビも無秩序に世界に現れているわけではない。絶妙に原子が組
み合わされ、分子が構成され、物質となっている。それは、精密な法則と秩序
77
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
という形で現れた “ 知識 ” に他ならない。この絶対的なベースとなる “ 知・認識
の源 ” が「ブラフマン ब्रह्मन्」。
世界はでたらめではない。“ 知 ” のベースである「ブラフマン ब्रह्मन्」が、
様々
な形で現れる世界を支えている。世界の物質は、粒子が組み合わさり、原子と
なり、原子が組み合わさって分子となり、様々な物事の “ 機能と形 ” になってい
る。
世界が現れ、機能し、1 つ 1 つ存在する物が形と意味をもっているのは、こ
の “ 知 ” をベースにして組み合わせられているから。そうして、秩序ある 1 つ
の世界が意味(知)をもって構成されている。
“ 生物 ” の視点からみれば、この “ 知 ” は、“ 知ること、わかること ” のベース
でもある。
たとえば、私たちの目は物事を映すという機能をもっている。でも、“ 目 ” そ
のものは何も “ 知ること ” はできない。外の世界を “ 視覚 ” 的なデータとして取
り入れるだけ。視覚という形で、世界のデータを運んでいる。目から入ってき
たデータは、判断や考えが生まれる場所である脳に伝えられる。
しかし、脳だって物質。たんぱく質と水でできたフルフルな、プリンみたい
なもの。どうしてここに「わかった!」が起こるのか? 脳は、心や考えがある
場所とされているが、脳という場所、物質だけでは、知覚・認識は起こらない。
『ヴェーダ(聖典)』はこの不思議にこう答える。それは、その場所に “ 知・
認識の源 ” である「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がる
もの)
」があるからだ、と。物質が「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、
あまねく広がるもの)」の輝きを反射することによって、
認識が起こる。まるで、
蛍光灯というただの物質に、電気が通うと、物質が光、輝き、機能するように。
これはあくまでたとえ話でしかないが、蛍光灯を光り輝かせる電気のように、
脳という物質に活動を起こし、機能させ、ヒラメキを起こすのは「ブラフマン
「ブ
ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」である。さらに、聖典は、
ラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」が私たちの真実
だという。私たち “ 個人の真実、本当の姿 ” のことは、サンスクリット語で「アー
トマン आत्मन्(人、生き物の真実)」という言葉で表現されている。聖典は私た
ちの内なる真実「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」とは、世界を現して
78
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
いる根源「ブラフマン ब्रह्मन्」に他ならない、というのだ。私たちの真実とは、
体でも感覚でも、考えでも感情でも、死後フラフラ旅をする魂でもなく、「ブラ
フマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」であるのだ!
私は “ 知・認識の源 ” =「ブラフマン」であるから、
ただの物質である場所に「わ
かった!」というヒラメキが起こる。この知の源は、“ 意識 ” ともいわれる。私
たちに “ 意識 ” させる源、“ 意識的に ” させる根源。それが「ブラフマン」
。そし
て、
「ブラフマン」とは、「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」である。だ
から、私たちは物事を意識する。知覚し、認識するのだ。
私たちは、単なる物質ではない。食べ物でしか維持することができないよう
な、たんぱく質やカルシウムの塊は私たちの本来の姿ではない。私とは、その
肉体に活動を起こし、機能させ、輝かせ、考えさせ、認識させ、感情を起こす
原因である “ 知・認識の源 ” =「ブラフマン」なのだ。この
「ブラフマン ब्रह्मन्」は、
個人という視点からみたら「アートマン आत्मन्(人、
生き物の真実)
」といわれる。
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」は、世界という視点で見たら「ブラ
フマン ब्रह्मन्」といわれている。「アートマン」も「ブラフマン」も、どちらも
ただ 1 つの同じ真実 “ 知・認識の源 ” を現している。認識させ、
存在させている源、
変わることなくどこにでも広がっている存在が、私達の事実。
“ 知 ” のベースである私が、目や耳という感覚器官や考えを機能させ、輝かせ
ている。脳という場所で “ 知る、わかる、認識できる ” という現象を起こし、目
には “ みえる ” ということを、耳には “ 聞こえる ” という知覚を起こしている。
「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」である知の源、私がこの体にいるから、認識が起こっている。
もう一度、蛍光灯の例えをみてみよう。“ 蛍光灯 ” という道具は、それ自体は
自ら光らないし、輝かない。ただのガラスや鉄、フィラメントという物質。そ
の物質でしかないものに、電気が流れると、光が起き、輝きだす。蛍光灯が光り、
周りを照らすことができるのは、電気という光の源があるから。
同じように、私たちの感覚や考えは、“ 認識する ” ためのメカニズムが詰まっ
た道具でしかない。道具は自ら輝かない。そこに私という “ 知・認識の源、認
識の原因 ” があるから、考えという道具に “ 認識 ” がおこる。“ 知・認識の源 ”
があって、はじめて私たちの感覚や考えは「わかった!」ということができる。
」という。別名、
「ニャー
この “ 知・認識の源 ” を「チット चित्(知、意識のベース)
79
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ナン ज्ञानम्(知、根源的な知恵)」。それが私たちの真実であるのだ。
श्रोत्रस्य श्रोत्र मनसो मनो यद्वाचो ह वाहं स उ प्राणास्य प्राणश्चक्षुश्यश्चक्षुरतिमुच्य धीरा: प्रेच्यास्माल्लोकादमृताभवन्ति।१-२
「ブラフマン ब्रह्मन्」 は耳の耳、心の心、話すことの話すこと、生命の
生命、そして目の目。
賢者は “ 何がすべての認識を起こし、行いを起こしているか? ” という
問いの答えを知っている。
認識の源を知っている。
この “ 知・認識の源 ” こそが、他でもないこの自分自身の本質であると
知る。
自分自身の本当の事実を理解する者は、自分に満ち足りている。
すべての物事を機能させているベースとして、存在する自分。
“ 知・認識の源 ” である自分。
賢者は儚く移り変わる世界に、
“ 満ち足りているもの ” を探しに行ったり、
幸せの意味を追い求めたりはしない。
なぜなら、すでに自分自身が満ちていること、幸せであることの源であ
り、存在であり、すべてに広がるものであると知るからだ。
『ケーノウパニシャット केनोपनिषत्』1-2
自分自身の真実が「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広が
るもの)」であるということを、私たちは、“ 知る、わかる、認識する ” という
現象を通して理解する。
しかしそれでも、
「まさか、私が『ブラフマン ब्रह्मन्』だったなんて…。そん
な計り知れないものが自分の事実だなんて!」と思っているかもしれない。普
通の人はそう思う。何千年の前のインド人だって、多くの人はそう思っていた。
「ありえないよ…」。
『ヴェーダ(聖典)』で “ 最も敬うべきものである ” といわれている「ブラフマ
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」
。“ 至高の輝き ” であり、
“そ
れだけが唯一の事実 ” といわれている「ブラフマン ब्रह्मन्」。それがまさか自分
自身だなんて。誰が信じられる? 自意識があるゆえに、
コンプレックスを抱き、
誰もが自分の事を受け入れられずにいる、それが人間の共通の思いだ。それな
のに、この受け入れ難い小さな自分が「ブラフマン ब्रह्मन्」なんて? !「やっ
ぱり、ありえない…」。インドの「ヨーギー योगी(Yoga の実践者)」たちの多く
も、そう思っていたのだ。
だから、聖典はあえていうのだ。皆が理解しがたいことだから、教える必要
があるといって。皆が見逃し、理解することがないから、あえて伝える必要が
あるという聖典の言葉は、スケールの小さい考えでは及ばない事実を告げる言
葉だ。
そうでなければ聖典の意味がどこにある?「あなたは、小さい。無力な個人
だ」。…そんなこと、わかってるよ。わざわざいってどうしようというのだろう?
「人生は苦しみだ。悲しみだ」。そんなこといわれなくたって、嫌ってほど知っ
ている。
「人生は苦悩の連続」。…そうだよ。だから何? 聖典にそんなわかりきっ
たことをいってもらう必要はない。
聖典は、皆が知らずに通り過ぎ、あたりまえのように思いこんでいるその “ 思
いこみ ” に揺さぶりをかける言葉を伝える。今まで信じて疑わなかったけれど、
自分を小さく無意味に感じさせる思いや考え、個人の苦悩の原因をアタックす
る。「本当にそれは、悩む必要があるのかな? 悲しむ価値があるのかい? 」
無力を感じ、悩みの海に溺れ、自信を失う私たちに聖典の言葉は、苦悩を肯
定するのでなく、苦悩の無意味さを教えるのだ。「あぁ悲しい、あぁむなしい。
生きている事って、つらいよな」という個人に向かって聖典はいう。
「いいや、あんたは、完璧だ!どんなに苦しく、世界の中で惨めに感じていて
も、それでもあなた自身の本質は、本当の姿は、完璧なのだ。メソメソ泣いて
いたってかまわないよ。それでもあなたが完璧である、という真実は変わらな
い。『ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)』があな
たの事実だ。世界を支える存在であり、“ 知・認識の源 ” があなただ。あなたの
“ 存在がある ”、あなたがいるから世界があるのだよ!」
聖典にいわせれば、私たちは本来あるはずのない苦悩を抱えたりする。だか
81
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
らあえて聖典は、事実を教える必要があるといる。そうして “ あるはずのない
悲しみや悩み ” の実態をみて、そんなものとっとと手放せばいいという。私た
ち個人が苦しみや悲しみを越えていけるように。自分自身の本来の姿を知り、
安心し、納得し、幸せであり自由であるように。聖典の言葉は私たちを苦悩か
ら完全に自由にするためにある。
聖典が伝えたい教えの意図をくみ取りながら、もう一度「ブラフマン ब्रह्मन्(存
在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」という言葉をみていこう。
「ブラフマン ब्रह्मन्」の定義であった 3 つの言葉
「サット・チット・アーナンダ सत् चित् आनन्द
(存在、
知、
限りなく満ちるもの)
」
この 3 つの言葉に指し示されている意味が、私たちの事実だという。私たち
の認識とは反対に、聖典は自信満々に、力を込めていう。「あんたの事実は『ブ
ラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
』だっ!」と。
もし、理解しがたいのだとしたら、私たちの認識の方に問題があるのか
も? ここでは一度謙虚になって、聖典の言葉をまずは丸のみしてみよう。そ
うして考えていこう。私たちが「聖典がそういっても、私だけは『ブラフマン
ब्रह्मन्』じゃない!」なんていう理由を。聖典の正しさと、私たちが事実に抵
抗していることの無意味さを考えてみよう。
<「ブラフマン ब्रह्मन्」じゃない!なんて、いえない理由>
「ブラフマン ब्रह्मन्」
= ①サット सत् 存在 ②チット चित् 知 ③アーナンダ आनन्द、限りなく満ちるもの
①「サット सत्(存在・真実)」 ⇒ “ 私はいる ” ということ
私はか誰に確かめなくても、はっきりと “ 存在している ”。世界もまた疑いな
く “ 存在している ”。まさかここに、揺らぎはないだろう? この疑問のない “ 存在 ”
が
「ブラフマン ब्रह्मन्」である。“ 私はいる ” というのは、
否定しようのない事実。
82
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
それが、存在を証明している。存在は、誰かに確認する必要もない。私たちは、
Yoga をしているから存在しているわけではない。瞑想したから、存在している
のでもない。悟りを開かなければ、存在できないのではない。何をしても、し
なくても、誰かに指摘されなくても、間違いなく “ 私はいる ” このだれもが知っ
ている事実が、「サット सत्(存在・真実)」の意味である。
“ 私はいる ”。“ 私は『サット सत्(存在・真実)』である ”。そして、この当た
り前の自分自身の本質 “ 存在 ” を常に自覚することを望んでいる。その証拠に
私たちは、自分の存在が、誰かに無視されたり、自分の存在を軽く見られたり、
無きものにされることに耐えらない!自分の本質が何にも代えがたい “ 存在 ” で
あるからそう思うのだ。自分はいる、ここにいる。存在していることが自分の
本質である。
だから、それを自覚し、自分自身の真実であることを常に望んでいる。
②
「チット चित्
(知の源)
」
⇒ “ 私は知る、
わかることができる ” ということ。
私たちが “ 知・認識の源 ” であることは、私たちの自然に湧く欲求、求めてい
ることをみることからも理解できる。
さらに、“ 知・認識の源 ” である私たちは、無知であることに耐えられない!
知りたい、原因を理解したい、解りたい、謎のまま放っておけない。誰に教え
られなくても、子供の頃から二言目には「なぜ? どうして? 」
といっている。 “ 無
知、知らないことがある ” ということは、“ 知・認識の源 ” である私たちのあり
方と矛盾している。だから知るための欲求、知りたいという思いがわくのは当
然なのだ。あらゆる “ 知 ” のベースである自分自身の事実からみれば、無知は、
自分の中に違和感を作るものになる。だからだれもが自分の本質と矛盾する “ 無
知、知らない事 ” に我慢がならないのだ。
③「アーナンダ आनन्द(満ちていること、幸福の意味)
」
「ブラフマン ब्रह्मन्」は、世界に限りなく広がっている。存在も、認識も、
世界を形作る様々な知恵が世界を満たしている。それが
「アナンタン अनन्तन्(普
83
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
遍、永遠に満ちるもの)」である。
「アーナンダ आनन्द(満ちていること、幸福の意味)」と同じ意味の言葉が「ア
ナンタン अनन्तन्(普遍、永遠に満ちるもの)」である。
“ 満ちている ” ということの意味は、何も足りないものがない、欠けているも
のがないということ。私たちはこの満ちている、ということを “ 幸せ ” という感
覚や経験を通して知ることができる。私たちが幸せを感じ、リラックスしてい
る時、満ち足りているということの意味そのものになっている。
“ 何かが足りない ” という思いは、心の中で不安と違和感になる。なぜなら、
不安や恐れや怒りや貪欲、嫉妬などの思いは、自分の本来の姿ではない。だから、
心の中にあるこういう思いに私たちは違和感を覚え、居心地の悪さを感じる。
しかし、幸せで満ちたりている時、私たちはまったく自分にも世界にも居心地
の悪さを感じない。
ということは? 自分の本質とは、満ち足りているということ、幸せ、心地よ
さ、ということ。不安や恐れという異物がなければ、自分の本質を妨げるもの
はない。その時 “ 幸せ ” を感じているとしたら、私たちの本質は幸せの意味その
ものだということができる。
私たちは何か特別な物を得たから “ 幸せ ” になっているのではない。勘違いし
てはいけない。私たちの本質が “ 幸せであり、平和 ” なのだ。物や状況は、この
本質的な自分自身を引き出しているきっかけにすぎない。
私たちは初めから、満ちている。と聖典はいう。幸せの瞬間のあの広がり、
あの充実。満ち足りた時の、静寂に近いような至福の満足感。それはすべて、
自分自身が現れている瞬間である。私たちは、自分が「幸せ、静寂、満ち足り
ている」ということの意味そのものだからこそ、幸せであることをいつも求め
ている。自分も、他のだれかも、皆いろいろな物を欲し、何かになろうとして
いるが、それは何のためだろう? 最終的に何が欲しいのか?
よくよく突き詰めて考えれば、皆ただ自分自身のままで在りたいということ。
それは、一言でまとめれば、“ 幸せ ” であり続けたい、ということ。幸せの意味、
心地よさの意味、自分自身であること。これが、すべての生物が望んでいる無
条件の “ 幸せ ” だと、聖典はいう。「あなたが欲しいのは、スバリ幸せでしょう
84
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
~」。…そんなことは、聖典にわざわざいってもらわなくても、私たちは皆わかっ
ている。
いやいや、しかし聖典が普通じゃないのは、ここからだ。「その求めている幸
せの根源が、あなたの真実、本来の姿なのだ」というのだ。「自分自身の本当の
姿だから、あなたはいつも幸せでありたいと思っているのだ。“ 幸せ ” や “ 自由 ”
が自分の事実だからこそ、自然の欲求としてあなたは求めるのだ」
。
自分自身の真実を否定されているから、私たちは不幸や制限に耐えられない。
本来自由な存在であるから、狭さや小ささを脱け出したいと思うのだ。私たち
は、自分から自然に沸く欲求から、自分の事実を理解することができる。
「…でも私は時々、猛烈な不幸を感じるのですが…? 」
「孤独に陥り、悲しみ
に打ちひしがれ、悔しさに涙を流すことさえあるんですよ。そんな私が、幸せ
の意味だとは? いくら聖典だからって、少々強引なのでは? 」。こんな風に疑
問をもち、聖典が断言することを、なぜ私たちは素直に受け入れられないのだ
ろう? 聖典が事実であると、感じられないことが多いのはなぜ? なぜ生きるこ
とは苦痛で問題だらけと、思ってしまうのだろう?
それは、無知と混乱が、私たちの本来の姿を隠しているからだという。私た
ちは、自分自身の本当の姿がみえていない。自分の内なる真実をみる機能を、
実は私たちはもっていないのだ。だから知らない。事実に無知であるのは、仕
方のないことなのだ。
だから、私たちが真実を知るためには、自分以外の何か “ 道具 ” が必要になる。
まさに自分自身のことであるから、自分にはみえないのだ。まるで自分の顔だ
けは、直接この目でみることはできないように。だから、自分の目や顔をみる
ためには、自分以外の道具が必要。それが、鏡。鏡という道具を通して、私た
ちは自分の顔をはっきりみることができる。
同じように、自分自身の最も内側である「アートマン आत्मन्(人、生き物の
真実)」は、自分以外の外の道具が必要になる。それが、『ヴェーダ(聖典)』の
最後「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」=『ウパニシャッド(奥義書、
ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の言葉であり、教えであり、ビジョンなのだ。
自分自身を指し示すこの教えによって、私たちは自分を知る。まるで、鏡で顔
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
をはっきりみるように。聖典の言葉によって、私たちの本質は、
「ブラフマン
ब्रह्मन्」であることをはっきりと知ることができるのだ。
さらに、私たちは日常の忙しさや疑い、不安、恐れ、画策、嫉妬、憎しみ、
混乱した考えや、迷いで、完全に自分の本来の姿を見失っているばかりか、も
はや知ろうとも思わない。それほどに無知と混乱の闇に飲まれている。知ろう
ともしない。見ようともしない。それでは、客観的なリアリティ、自分自身の
事実は絶対に知ることができない。
しかし、そんな私にだって、たまにはいい時がある。世界と自分が争わず、
心が葛藤や忙しさで荒れ狂わず、妙に落ち着き、しみじみと幸せを感じる時が
ある。思えば、心が落ち着いているとき時、偏見や主観は静かに静まっている。
ありのままのことをそのまま受け取れる開いた心である時は、私にだってある。
その時、私たちは自分自身の本質にゆったりと心地よくくつろぐことができる。
たとえば、“ 喜び ” の瞬間、“ 嬉しさ ” を味わう瞬間、美しい自然に圧倒され
我を忘れた時、誰かと心から分かち合うことができたとき、大笑いをして何も
かも忘れたとき、深く眠った後の充実した静かな喜び、“ 静寂 ” の瞬間。そんな
時、私たちの真実を妨げているものはない。
喜びの経験の中で、私たちは “ 幸せの意味 ” である自分自身を取り戻してい
る。幸せや喜びや、平和や静寂は私に付け足されたのではない。自分自身の本
質として、初めからここにあったのだ。世界と、自分の本来の姿が歪められずに、
まっすぐ心に映り込んでくる瞬間、私たちははっきりと、“ 満ちている自分自身 ”
の意味を知る。
ここは勘違いしやすいが、私たちは “ 幸せや喜び ” というものを探しているの
ではない。何の妨げもなく自分自身の本来の姿でありたいだけなのだ。
物や出来事は私の本質をひっぱりだすサインだ。“ 幸せ、喜び、静寂 ” とは、
満ちている自分自身の意味を指し示している。「ブラフマン ब्रह्मन्」を定義する
最後の言葉が「アーナンダ आनन्द(満ちていること、幸福の意味)」。自分の本
当の姿でいつもいたいと、すべての生物が願っている。
私たちが「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」で
なかったことなどない。過去も、未来も、今現在も。私の本質とは、「ブラフマ
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第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」である。
Yoga や瞑想は、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、
存在、
あまねく広がるもの)
」
になる方法ではない。「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がる
もの)」を獲得するためでもない。「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あ
まねく広がるもの)」である自分たちの本質をただ知るために、
Yoga はある。
「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」という言葉で示されている自由の意味、幸せの意味、心地よ
さの意味そのものである自分自身の存在を自覚するために瞑想がある。
何かになろうとするプロセスは、必ずどこかの地点で終わりがくる。そのス
テータスに成りあがったときに終わり、やがて時の流れと共に変わる。どこか
に行くことは、いずれもとに戻り、また違うところにいくことでもある。何か
を得るということは、何かを失う事である。私たちはそんな不安定なものが欲
しいわけではない。
私たちが欲しいのは、無条件の自由。無条件? !もしそんな自由があるとす
るなら、今この瞬間も、私たちは自由であるはずだ。永遠に変わらない幸せが、
もしあるとするなら、今ここにいても、この体のまま、この考えをもったまま、
憎たらしい人の目の前にいながらも、幸せであるはずなのだ。そうでなければ、
無条件とはいえない。
変わらない、限りがないということは、過去も今も、未来も在り続けている
はず。ここにも、あそこにもなければならない。時間にも、空間にも限られて
いない、ということはそういうことだ。
永遠であるものを、「残念だけど今はまだないのですよ…」なんていうことは
できない。無限なるものを、「今ちょうど “ 無限 ” をきらしていて、すいません
ねぇ~」なんていうこともできない。もし今ないのだとすれば、それは “ 永遠 ”
でも “ 無限 ” でもない。無限であり、永遠である存在に、“ 死後に ” とか “ 天国
で ” という条件をつけることはできない。“ あまねく広がるもの ” に、
“ 悟った後 ”
でしか辿りつけないとか、“ 天国に行ってから、” なんて条件をつけることはで
きない。
“ 永遠 ” とは、時間を超えているということだ。逆にいえば、どんな時間にも
ある、ということ。“ 無限 ” とは、空間を超えているということだ。その裏の
87
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
意味は、どの空間にもなければおかしいということ。聖典のいう「モークシャ
मोक्ष(悟り・自由)」は「ブラフマン ब्रह्मन्( 存在、知・認識の源、あまねく
広がるもの)」である自分自身を知ること。それは、今、ここにいる、そのまま
の自分自身が「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」
でなければ、おかしい。
過酷な修行の後にとか、死後にとか、
「サマーディ समाधि」になってからとか、
悟ったらとか、○○アーサナができるようになってから…じゃないと、人は悟
ることができない? 数々の条件を越えないと、私たちは「ブラフマン ब्रह्मन्」
になることはできない? 真実に条件なんてない。だれかが語る制限だらけの
「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」など、言葉遊びにすぎない。無限ということ、永遠という事、
「ブラフマン ब्रह्मन्」は真実で、何にも限られることがない。
でなければ、真実はどこにあるというのだ? いつになったらそれに成ること
ができるというのだ? 条件つきの “ 悟り ” なんて、もっともらしい顔をした嘘。
そんなものは欺瞞。これをしたら自由、あれをしたら自由、
お札を買ったら自由、
出家したら悟り、全財産寄付したら自由、光を見たら悟り、鐘の音を聞いたら
悟り、どこそこに行ったら OK…そんな営業トークに、Yoga をする私たちは騙
されない。マヤカシのアイディアなんていらないし、買わない。
“ 自由 ” の意味、“ 永遠 ” という言葉が指し示すこと、それは「どこまでも限
りがない」ということ。だったらそれは、今ここにもある、ということでなけ
ればならないはず。
(究極の知、
『ヴェーダ(聖典)』はいう。
「私たちの本質は、
『ブラフマン ब्रह्मन्
存在、あまねく広がるもの)』である」。それは、この瞬間もそうなのだ。今ここに、
こうして本を読んだり、Yoga をしていたり、何をしていても、私たちは「ブラ
フマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」である。
なぜ、今も私たちは「ブラフマン ब्रह्मन्」 であるのに、自由だと思えない
のだろう? 永遠で無限で、幸せだと、胸をはっていうことができないのだろう?
「私が私自身である。それがすべて。これでいい!」となぜ胸を張って、声高
らかにいえない?
それは、ただ “ 知らない ” ことが原因だ。自分自身の真実を知らず、確かな
88
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ものに足をつけていない。だから不安になる。自分と世界を恐れる。私たちは、
自分自身の本質を知らない。真実に無知なだけなのだ。
無知であることに、罪はない。だけど、私たちは “ 本当の自分自身 ” をみる
ための道具を使うことができる。それで知ることができる。その道具が『ヴェー
ダ(聖典)
』である。知ることで私たちは、本来の自分自身 ” 自由、幸せ “ の意
味になる。あらゆる苦悩から解放され、永遠で、無条件の ” 自由と幸せ “ である
自分にくつろげる。
最終章の『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の言葉
が私たちに真実をみせる。聖典の教えは、私たちに「本質的な自分自身の真実」
を教える。そして、Yoga の経典は、聖典が語る “ 真実 ” を理解し、実感するた
めの方法を教える。その真実を指し示す聖典の言葉が、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究
極の知、存在、あまねく広がるもの)」。「ブラフマン ब्रह्मन्」とは私自身の事実
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」である。
「タット・トヴァン・アシ तत् त्वन् असि
」
(あなたの真実の姿とは、『ブラフマン ब्रह्मन्』である)
「アハン・ブランマ・アスミ अहं ब्रह्म अस्मि
(私の真実は『ブラフマン ब्रह्मन्』である)」
10.
「ニルグナ(特質に限定されないもの)
」と
「サグナ(特質のあるもの)」
Yoga は、聖典が語る “ 真実 ” を理解し、実感するための方法。瞑想は、Yoga
の数あるメソッドの中でも “ 自分自身の本質 ” を知り、納得するための手段。こ
のはっきりした目的と方法に貫かれた瞑想法が「リアリティ瞑想」
。そして、
「リ
アリティ瞑想」は、経典の規定通り、「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界
の現れ)」を対象にした心の活動。ここからは、瞑想の対象「サグナ सगुण(特質
のあるもの)」の言葉の意味をクリアにしていこう。
89
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
瞑想の定義
「サグナブランマ ヴィシャヤ マーナサ ヴャーパーラハ सगुणब्रह्म
विशय मानस व्यापार:।」
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」に、心をつなぎとめ
ることが瞑想」
瞑想の対象は、「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)
」
。
「ブラフマン
ब्रह्मन्」という言葉に、「サグナ सगुण(特質のあるもの)」という言葉がつい
ている。これは、一体?「ブラフマン ब्रह्मन्」と関係があるのかな?
そう、そのとおり!「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あまねく広が
るもの)」という言葉は前のセクションでみたとおり。「グナ गुण(特徴、特質)
」
という言葉は、特徴、特質、性質という意味。この「グナ गुण(特徴、特質)」
をもつものを「サグナ सगुण(グナをもつもの、特質のあるもの)
」という。
「サ」
という音が、共にある、ある、という意味が含まれる。逆に、質を持たないも
のを「ニルグナ निर्गुण(グナを持たないもの、特質に限定されないもの)
」とい
う。
「ニル、ニ」という音は、“ ない、消えた、反対 ” という意味をもつ。
「グナ गुण(特徴、特質)」がない、ということは特徴などに限定されることが
ないということ。特質がないのだから変わることもない。時間や空間にすら縛
られることも無く、条件付けされることもない。ということは、あらゆること
から自由であるということ。
さらにいえば、質を持たない「ニルグナ निर्गुण(特質に限定されないもの)
」は、
時間と空間において永遠で、変わることがない、という意味。“ 永遠にして普遍 ”、
などというものは、そんなめったやたらにあるものではない。それは、この世
に 1 つしかない。1 つしかないからこそ、真実だといえる。
「ニルグナ निर्गुण(特
質に限定されないもの)」といえるのは、この世にただ 1 つ。それが「ブラフマ
ン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」である。
さて、肝心なポイントは、私たちの瞑想の対象である「サグナブランマ
सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」である。質がない永遠、普遍の「ニルグナ निर्गुण
90
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
(特質に限定されないもの)」とは反対に、多種多様な性質をもっているものが
「サグナ सगुण(特質のあるもの)」。私たちが今生きるこの世界のすべては、
「サ
グナ सगुण(特質のあるもの)」である。世界のどんなものも色があり形があり、
名前と機能という “ 特質 ” がある。だから全体世界は「サグナ सगुण(特質のあ
るもの)」。カラフルでバリエーション豊かな「サグナ सगुण(特性をもつ)
」であ
る世界。時間と共に、移ろい、一瞬もとどまることなく変わり続ける。
しかし、その本質はといえば、それが「ブラフマン ब्रह्मन्」
である。世界の現れ、
現象のベースは、“ 存在、根源的な知 ” である「ブラフマン ब्रह्मन्」
。世界は「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」に支えられ、あまねく満たされている。「ニルグナ निर्गुण(特
質に限定されないもの)」である「ブラフマン ब्रह्मन्」をベースにある種の力に
よって現れた結果がこの世界。
では、何によって世界が現れているのか? それは世界の現象を現す力「マー
ヤー・シャクティ माया-शक्ति(可能性の力、現す力)
」
。この力を使って現れた
世界全体を聖典は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」という。「イーシャ√
ईश्(治める、法を司る)」という語源から派生した「イーシュヴァラ ईश्वर( 全
体世界 )」は、力を使い、世界を統治する者、という意味。その「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」を “ 性質や特質 ”、という観点からみて表現した言葉が、
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」なのである。世界の多様性・
多種性は、大きく以下 3 つの質に分けられる。世界に現れている様々なものは、
すべてこの 3 つの質をもつ。3 つのバランスによって、世界には質が異なるい
ろいろな物が現れている。
全体世界の 3 つの質
1.静けさ、知、純粋な質「サットヴァ सत्त्व( 純性 )」
」
2.動きと、行動を司る質=「ラジャス रजस्(動性)
3.停滞、収束、重さの性質「タマス तमस्(鈍性)
」
91
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
たとえば、動かない石や、岩の塊は「タマス तमस्(鈍性)
」の要素をたくさん
もっている物質。風や川の流れや、動きの速い火などは、
「ラジャス रजस्(動性)
」
の質が多くある。人間の知性や、静かな光景、知の現れである本などは、「サッ
トヴァ सत्त्व( 純性 )」の質を多くもつ。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が現したバリエーション豊かな世界が「サ
グナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」。
「イーシュヴァラ ईश्वर( 全体世界 )」は、世界を現しただけでなく、今も自ら
世界として現れている。「イーシュヴァラ ईश्वर( 全体世界 )」は、この世界を現
わし、維持していている原因からみたときの名前。「サグナ सगुण( 特質をもつ )」
という質があり、変化していく特徴からみたら同じ世界は「サグナブランマ
सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という言葉で表される。どちらも同じ、1 つの全
体世界のことを指し示している。
11.「サグナブランマ(全体世界の現れ)に心をつなぐ瞑想
私たちはこの全体世界の中で “ 個 ”として生きている。瞑想は、“ 個 ”である
私たちが、全体とのつながりをはっきりとみることを目的としている。
それによって、自分自身とは全体であるというビジョンを理解し、自分から
離れているものに対する恐れや不安、そこから湧いてくる様々な感情から自由
になる。物や人に頼らない大きな安心感を自分にみるために、“ つながり ” をあ
えてハイライトしてみる。そのために瞑想をする。
だから、私たちの「瞑想の対象」は、チャクラでも前世の守り神たちでも
ない。私がつながりたいのは、全体世界そのもの。対象は、「サグナブランマ
सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」つまり、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
となる。
世界は、今現在もそうであるように、様々な質をもち、変わり続け、動き続
ける。その躍動する世界には源がある。変わることなくすべてを存在させ続け
92
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
るベース。その存在を、「ブラフマン ब्रह्मन्」 と呼ぶ。世界の根源は確かに「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」 なのだが、「ブラフマン ब्रह्मन्」 は「ニルグナ निर्गुण(特
質に限定されないもの)」全く質も、特徴もない。
特質のないものに、私たちは瞑想することができない。なにしろ、とっかか
りがなさすぎる… もはや心をつなぎとめるポイントすらない。
「ブラフマン
ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」は、その “ 限りなさ ” ゆえに、
個人が心をつなげる対象にはなれないのだ。限りのないものに、どうやって心
をつなぐのか。
Yoga は不可能を可能にしたりはしない。不可能なことは、不可能だ。とても
現実的。だから、「ブラフマン ब्रह्मन्」 は「瞑想の対象」にはならない。
「ブ
ラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」あくまでも、理解
するもの。
“ 瞑想の対象 ” となりえるのは、質のある全体世界である。瞑想は、「サグナ
ブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」を「ヴィシャヤ विशय(対象)
」にし
た心の行いとなる。別のいい方をすれば、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、
あまねく広がるもの)」をベースに現れた「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
に、私たちは “ 個 ” として心の動きをつなぐ。
瞑想とは全体世界に心をつなぐ行いのこと。
瞑想の対象=「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)
」
=「イーシュヴァラ(全体世界)」
Yoga の考えのベースとなっているインド哲学では、この世界の本質は物質で
もなくエネルギーでもなく、それらに “ 存在 ” を与えている “ 究極の知 ” である
という。現代科学では、この世界のすべての物質の正体はエネルギー。それは
素粒子といわれる極小さな粒が常に動きまわり、動き回る力と粒子によって、
この世界は生まれ、保たれているという。
『ヴェーダ(聖典)』の世界観では、現在科学がいきついた素粒子というコン
93
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
セプトすら支えている「根本的な存在」がある、というのだ。目にみえるものも、
みえないものにも、すべてを意味のもとに存在させているもの、それが 「ブラ
フマン ब्रह्मन्」。科学では、素粒子があるから世界は現れている、というところ
まではいきついているが、そもそも、なぜ “ 世界の現れ ” があるのか? “ 存在し
ている ” ということの本質は何か ? そこまで暴くことはできない。
『ヴェーダ(聖典)』は、この “ 存在 ” そのものを、「ブラフマン ब्रह्मन्」とい
う言葉で現す。世界が現れているのは、まず “ 存在 ” =「ブラフマン ब्रह्मन्」
があるからであるという。
なぜ素粒子がいろいろな物質になったり、人の体になったり、空気になった
り、
水になったりするのか? は科学では確かめようがない。
『ヴェーダ(聖典)
』
は、そこには “ あまねく広がる知 ” があるからだという。さらに、この “ 究極の
知 ” は、私たちに “ 解る、知る、認識できる ” という認識(意識)を与えるベー
スになっているという。
“ 究極の知 ” もまた「ブラフマン ब्रह्मन्」を指す言葉の 1 つ。この “ 存在 ”、
“ 究極の知 ” はすべてにあまねく広がっている。そして世界を支えている。
変わることのない、あまねく広がる源が「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、
存在、あまねく広がるもの)」である。「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、
あまねく広がるもの)」が世界として今も昔も、これから先の未来も変わること
なくあり続ける。“ 存在 ” そのものには、時間の束縛がない。
「ブラフマン ब्रह्मन्」は時間に限定されない。“ あまねく広がる ” ということは、
空間的にどこかに閉じ込めることができない。「ブラフマン ब्रह्मन्」は、普遍
的で、どんな小さなものにも、大きなものにも “ ある ”。
“ 存在 ” の源「ブラフマン ब्रह्मन्」が、「形と名前」を現すパワーをもって、
世界として現れている。「ブラフマン ब्रह्मन्」をベースにして、形をもって現れ
た世界を「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と呼ぶ。
94
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
12.瞑想の対象として
「イーシュヴァラ(全体世界)」を理解する
「サグナブランマ सगुणब्रह्म
(全体世界の現れ)」に心をつなぐ行いが瞑想。
「サ
(全体世界の現れ)」は “ 特徴、
特質 ” があるもののこと。
グナブランマ सगुणब्रह्म
質というポイントからみたら、世界は質だらけ。それ故、「サ=共にある」
をつけて、
「サグナ(グナ質がある)ブラフマ」という。「サグナブランマ
सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」は、あらゆる質を含んだ世界を表す言葉。
次に考えられることは、この質を持った世界は、きっと “ 現した何か ” がある
はず。現す力と、力の主。その観点でみたら、“ 力と知をもった何か ” が世界を
現し、ダイナミックに全体をまわしている。この “ 力と知をもった世界を現す
何か ” に付けられた名前が「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」
。
「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」が、始まりも終わりもなく、
「出現(創造)―維持―収束
(破壊)」というサイクルで世界を巡らせている。
そういうと、なんだか「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は、白いローブ
をまとった髭のおじさんが雲の上で自慢の杖を振り回して世界を動かしていそ
うな気がするが…。
そうではない!『ヴェーダ(聖典)』の世界観でいう “ 力と知をもった何か ”
=「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は、現れている全体世界そのものである。
今も変わりながら、1 つの方向に向かって流れ、うねり展開する世界が「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」とは世界を現し、
維持し、
収束させながら、
そのままこの世界の姿の現れとしてある。そして世界を展開させる秩序として、
法として、くまなくこの世界に満ち、広がっている。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が力を使って現した結果として、この現
象世界は「ジャガット जगत्(世界)」とも呼ばれている。
結局、世界ってなんだ? 用語が複雑に絡まるので整理しよう。聖典は「世界」
という 1 つの現れに対して、多面的な見方をする。それは、世界に対する明快
95
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
な理解を我々に促している。
『ヴェーダ(聖典)』によると、現象としての世界「ジャガット जगत्(世界)
」は、
(全体世界)」によって現されたプロダクトだ。
「イーシュ
「イーシュヴァラ ईश्वर
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」が力と法則と秩序をもって、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究
極の知、存在、あまねく広がるもの)」をベースに世界を現した。
たとえれば、土器を作る人が土をこねてつくったプロダクトが土器。
「イーシュ
ヴァラ ईश्वर( 全体世界 )」が、知と法則を用い、力を使ってこねて作ったプロダ
クトが「ジャガット जगत्(世界)」だ。。
世界を現す “ 知と法則と力 ” を含めた全体の世界が、
「イーシュヴァラ ईश्व(
र 全
体世界)
」
。土も、土器を作る人も、できた土器もすべてをひっくるめた言葉が
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」なのだ。そのベースとして、
“ 存在を与え、
知の源であり、あまねく広がっている ” 原理が「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、
存在、あまねく広がるもの)」である。
世界は単純に、2 つのものでできている。1 つは、“ 私たちが知っているも
の ”、もう 1 つが “ 私たちが知らないもの ”。世界には知っているものと、知ら
ないものがある。とてもシンプルに世界を語れば、私たちにとって、世界はたっ
た 2 つのもので成り立っている。自分の事として考えてみればすぐわかる。世
界は、私が知っているものと、知らないもので出来上がっている。なんにも難
しくない。すごく当たり前のように聞こえる。その世界のベースが、「ブラフマ
ン ब्रह्मन्」である。ということは、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」が現し
た結果である世界、「ジャガット जगत्(世界)」にあるすべてのものは、「ブラ
(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」
からは離れていない。もっ
フマン ब्रह्मन्
といえば、私が知ろうが、知らなかろうが、世界にあるもののすべての本質は「ブ
ラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」
。
すべての源が、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」
である。あらゆるものに “ 存在 ” を与え、物質を絶対的な知によって構成し、
「名
前と形と機能」のベースとなっている。生物には “ 認識の源 ” として、「知る、
96
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
わかる」という認識を起こす存在。それが「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認
識の源、あまねく広がるもの)」。「ブラフマン ब्रह्मन्」がこの世界のすべてにあ
まねく広がり満ちている。私たちが知るもの、知らないもの、の源として「ブ
ラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」が満ちている。
「ブ
」が、
「力を行使す
ラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あまねく広がるもの)
る者、法を治める者、創造者」の形をとって現れるとき、世界は「サグナブラ
ンマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」と呼ばれる。
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」のまたの名が、“ 力を行使
」
。このこ
する者、法を治める者 ” つまり「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
とから、一般に「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は “ 神 ” や「絶対者」と
翻訳されることが多い。“ 全知全能の神 ” と、そういってもいいのだが、私たち
が “ 神 ” という言葉を使うと、条件反射で “ 雲の上にいる、長い髭をはやした光
に包まれたおじいさん ” 的な一個人がイメージされてしまう。杖の動き 1 つで
采配を振るような、そんな父のような姿のイメージが “ 神 ” という言葉には付き
まとっている。誰かに罰を与えたり、誰かには祝福を与えたり。誰かを天国に送っ
たり、地獄に付き落としたり…。しかし『ヴェーダ(聖典)』のビジョンでは、
天界で全権力を握る “ 個人 ” は存在しない。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は、今現実に現れている世界そのもの。
自らの法則と秩序によって現れ、自らダイナミックに躍動する。
世界が様々にカラフルに分かれ、違いがあるのも、様々な人や生物が、別々
の活動するのも、すべて公平な「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」の 1 つの
法則と秩序に基づいている。この法則は「秩序」という側面をクローズアップ
したら、
「ダルマ धर्म(秩序、然の理)」と呼ばれる。「ダルマ धर्म(秩序、守
るべきこと)
」は世界に行いもって参加している私たちのスタンドポイントから
みれば、「カルマ कर्म(行いの法則)」とも呼ばれる。
全体世界は秩序によって治められ、個人は秩序と調和である世界に「カルマ
」をもって参加する。私たちが何か行いを世界に放ったら、この法
कर्म(行い)
則を巡って、相応の結果が自分のもとに戻ってくる。私たち1人1人の顔の違
いも、体の違いも、境遇も運命の違いも、すべてそれぞれがしてきた「カルマ
97
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
कर्म(行い)」の結果でしかない。その人がしてきた「カルマ कर्म(行い)」が、
世界の法則を通り、結果となり行いをした人の前に人生のシナリオとして現れ
る。個人の「カルマ कर्म(行い)」と結果を公平に結び付けている法則が、「カ
ルマの法則(行いの法則)」。
完全に平等で狂いのない法則によって、私たちは世界という舞台で、運命の
シナリオを生きる。どんなことも、世界には起こるべきことが起きている。世
界に間違いはない。Yoga 的なビジョンでは、空の上の誰かが、個人の宿命や運
命を決めたりしているわけではない。
世界の活動に参加する個人が、自らの選択と意志と行いで積んだ「徳・不
徳」の結晶が運命であり宿命。その「カルマ कर्म(行い)」の結果を、体験とし
て消化するのが生きる事なのだ。
水は高いところから低いところへ流れるというのは自然界のルール。同じ
ように、
「行いと結果」も完全に平等で公平な自然界のルールで成り立つ。りん
ごは木から離れたら地面に吸い寄せられるように。世界の法則と秩序は、完璧
で間違いがない。だから、世界に不公平は無い。私たちが今それぞれに直面し
ていることは、単純に、過去にしてきたことが、結果になって現れているだけ
なのだ。
その「法則」を維持する者が「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」。世界
である「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は、私たちを運びながら、今この
瞬間も動き続けている。
13. 世界って何のこと?
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は現れている世界そのものであり、生
きた “ 法則と秩序 ” として、休むことなく動き続け、ダイナミックな流れをつ
くる。しかし、世界は “ 法と秩序と力 ” だけで現れているわけではないようにみ
える。沢山の物質がある。石や建物や、土や空気など。息をしない物体もある。
物質は、「カルマの法則(行いの法則)」とは無関係に宇宙のどこにでもある。
98
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
何か物質的な要素がなければ世界として “ 形 ” を現すことはできない。だから
『ヴェーダ(聖典)』が世界を説明する時、“ 物質の原因 ” と “ 知の原因 ” という
2 つの観点を用いる。
【世界の現れの原因】
・世界を形つくっているもの「物質の原因」
」
「ウパーダーナ・カーラナ उपाधाण-कारण(物質の原因)
・世界を現す知恵と力「知の原因」は
「ニミッタ・カーラナ निमित्त-कारण्(知の原因)
」
世界はこの 2 つの原因によって現れ、維持されている。むむむ…。難しいなぁ
~。では解りやすく例えてみよう!
1 つの「土器」が、ここにある。土器は完璧に土からできている。土が、
土器の原因。ゆえに、土器の場合、土が「ウパーダーナ・カーラナ उपाधाण-
कारण(物質の原因)」である。
でも、土器は急に土から湧いてきたわけではない。土の中に土器が転がって
いるわけではない。地面を掘っても土器がポコポコでてくることはない。
土が土器になるには、土という “ 物質の原因 ” だけでは不可能。土を土器の形
にし、“ 水をいれる ” という機能をあたえ、“ 土器 ” という名前を付けた存在な
しに、単なる土は “ 土器 ” にはならない。土が土器になるには、物質の他、土器
をつくる人の知識(知)と技術(つまり力)が必要である。この知と力のことを、
「ニミッタ・カーラナ निमित्त-कारण्(知の原因)
」という。
同じように世界は、現れた世界を形作る物質の原因「ウパーダーナ・カーラ
ナ उपाधाण-कारण(物質の原因)」と現すための知恵と力の原因「ニミッタ・カー
ラナ निमित्त-कारण्(知の原因)」という、2 つの原因が必要だ。
99
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
しかし、この例えには限界がある。あたり
まえだが、
「土器をつくった人」と “ 土 ” は、
離れている。“ 土器をつくった人 ” と “ 土器 ”
も離れている。つくられたプロダクト “ 土器 ”
は、製作者 “ 土器を作った人 ”(知の原因)
から空間的にも時間的にも、離れる。結果と
原因が、別々の場所に存在する。
逆に、この場合離れていないと困る。「土器」を買ったら、もれなく「土器を
つくった人」もついてくる!? そんなことがあったら、大変だから。この世界
に現れている物は、すべて時間と空間によって、「結果と原因」が別々に分かれ
ている。
【メモ】
「時間と空間」
「時間と空間」も「ジャガット जगत्(世界)」の一部分である。
古典物理学においては、“ 時間と空間 ” は絶対的なものとして考えられていた
が、現在物理学では、そのコンセプトは否定されている。“ 時間と空間 ” は相対
的なものだ。この事実について、『ヴェーダ(聖典)』は 5000 年以上も前から
主張し続けている。
『ヴェーダ(聖典)』の最終章『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最
終的な教え)』の 1 つ「タイティリーヤ・ウパニシャッド तैत्तिरीयोपनिषत्」
には、
“ 時間と空間 ” の相対性についてはっきりと記載されている。
世界は、大昔誰か特定の個人によって “ 創造された ” のではない。“ 存在 ” と
いう唯一絶対的なものをベースにして “ 現れている ” のだ。
तस्माद्वा एतस्मागत्मन आकाशस्संभूत:।
आकाशाद्वायु:।वायो-र्ग्नि:।अग्नेराय:।अद्भ्य: पृथिवी।
100
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
その絶対なる「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がる
もの)」から空間が現れた。
空間から、風が現れ、風から火が生まれた。
火から水が現れ、水から大地が生まれた。
『タイティリーヤ・ウパニシャッド तैत्तिरीयोपनिषत』1.2.1
“ 時間と空間 ” は「ジャガット जगत्(世界)」の一部である。土器のたとえと
「ウパーダーナ・カー
世界が違うのは、世界「ジャガット जगत्(世界)」の場合、
ラナ उपाधाण-कारण(物質の原因)」は「ニミッタ・カーラナ निमित्त-कारण्(知
の原因)」から離れていない。この 2 つの原因はイコールであり、今この瞬間の
世界そのものとして 2 つ同時に現れている、ということだ。
世界を現す者と、現れた物理的世界は、1 つの原因をもとにして現れる。
「世
界を現す知と力の原因」は「物質の原因」。これが土器の例えと、世界との決定
的に違う点である。
どんな物も、つくられたモノは、“ 知の原因 ” =メーカーの存在を必ず含んで
いる。
「ジャガット जगत्
(世界)」も同じように、“知の原因 ” によって現れている。
“ 知の原因 ” は、
自然の法則という形で、
今も現れ続けながら世界を維持している。
もし私たちが「ジャガット जगत्( 世界)」の “ 知の原因 ” である側面を深く
考えていったら、世界の現れには “ 絶対的な知と力をもつ存在 ” がなければなら
ないことがわかる。
全体世界を現すことができる “ 知と力をもつ存在 ”。それ自体が “ 物質の原因 ”
でもある者によって世界が現れている。うーむ、だとしたら、力という点でも、
知のリソースという点でも世界を現したのは “1 人の個人 ” には不可能だ。だか
ら「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」とは、全体世界そのものを意味するこ
とになる。
つまり、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は自ら世界を現し、同時に世
界そのものになって現れているのだ。
101
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
「ジャガット जगत्(世界)」とは、その「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
が現したプロダクトにすぎない。現れの結果である「ジャガット जगत्(世界)
」
は、原因から独立して存在していない。
もう1つ例をみてみよう。1 枚の “ シャツ ” というプロダクトは、糸という物
質の原因と、メーカー(製作者)の「知と力」の原因からできている。糸を世
界に現した知恵も、「メーカー(製作者)」の知識も、根源的な “ 知 ”「ブラフマ
ン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」によって支えられ、存在
している同じように、世界も「ブラフマン ब्रह्मन्( 究極の知、存在、あまね
く広がるもの)」に根源的な “ 知と存在 ” を頼りながら、
「世界」
という結果=
「ジャ
ガット जगत्(世界)」を現している。
なぜ「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」がわざわざ「ジャガット जगत्(世界)
」
なんてものをつくっているのか? なんで世界なんてあるんだろう?
『ヴェーダ(聖典)』の答えは、世界とは、私たち個人が「カルマ कर्म(行い)
」
の種を実らせ、刈り取ることができるようにするためにある、という。すべて
の個人が積んできた行いの結果を経験に変えて消化するために「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」が世界を現したと。
世界には、無数の生物が存在するが、その1つ1つの生命は過去に膨大な行
いを積んできている。「カルマ कर्म(行い)」が人によって為されたら、その結
果は必ず与えられなければならない。行いをした張本人によって経験され刈り
取られなければならない。それが「カルマの法則(行いの法則)」の法則。法則
がある以上は守られなければならない。
それぞれ個人が積んできた膨大な「カルマ कर्म(行い)」は、種のように結果
を実らせ、刈り取られる可能性の状態となって個人の名のもとに蓄えられてい
る。それらの可能性は、可能性のままでは終われない。経験という形で実を結
ばない限り、解消されることはない。だから、膨大な可能性は実を結ぶことを
今か今かと待っている!無数の生物がした行いの数々。それによって積まれた
「カルマ कर्म(行い)」たちの「早く結果として、現してくれ~」というプレッ
シャーに押し出されて「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」世界を現している。
102
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
種は土に撒かれない限り、実を実らせることはないように、「カルマ कर्म(行
い)
」も実らせる土地が必要。個人のカルマの種を育て、実りをつけるようにす
るための土地が「ジャガット जगत्(世界)」というわけなのだ。
「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」は個人がもつカルマの結果を実らせ、
刈り取らせるために、
世界「ジャガット जगत्(世界)」という土壌を用意する。
「イーシュヴァラ ईश्वर
(全体世界)
」が世界を現したい!と望んでいるから世界があるわけではない。
すべての生物が積み重ねた「カルマ कर्म(行い)」のプレッシャーが、
「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」に世界を創らせる。
これが『ヴェーダ(聖典)』のいう “ 世界 ” である。だから何が起きても、私
たちに世界を責める資格はない。どんな結果も世界のせいではない。自分の行
いの結果が、戻されてきているだけなのだ。
毎日の生活の中で、世界に起こる物事はいつも都合よく、楽しく、心地の良
いものでもない。どちらかというと、不都合で、苦しく、大変な出来事に遭遇
していることの方が多い。でもそういう面白くない出来事に対して私たちは誰
かを責めたりすることも、自分を責めることもできない。したとしても、意味
がない。世界を嘆いても、世界に不満をいっても、どうにもならない。Yoga 的
には、すべての出来事は、過去の自分の行いが実っただけの事。世界は絶対的
な平等な法則と秩序に従って完全に動いて、現れるべきことを現している。泣
いてもしかたない。
もし私たちが苦しい出来事から成長できるとしたら、自分に起こっている出
来事を「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の法を通って正確に過去の自分の
行いが果実として贈られてきたと、理解し、冷静に受け止められる客観的な態
度を養うことだ。何に対しても逃げも、否定も、溺れることもなく、“ 物事に対
する客観的な態度 ” をもつこと。これが Yoga の可能性。懐深く、広い人間へと
成熟するための道。世界の事実と自分自身の理解に基づいた、客観的なビジョ
ンと態度を養い、大きな人間に成長していく術が Yoga なのだ。
自分が「カルマ कर्म(行い)」を世界に放ち、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世
界)
」が結果を返してくる。個人と全体世界は、「カルマ कर्म(行い)」を通して
コミュニケーションがとれるようになっている。それがスムーズに為されたと
き、私たちは充分に成長し、自分と他人を労わり世界のありのままを、そのま
ま受け止められるようになる。それが広く大きく、オープンな心をもつ人間の
103
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
証であり、そのオープンさは Yoga で得ることができる。
こんな風に全体世界とコミュニケーションをとっていくもまた Yoga といわれ
る。この場合は「アーサナ आसन(姿勢、Yoga のポーズ)
」はしないが、
「カル
マ कर्म(行い)
」を通して全体とつながることを目的とするため、「カルマヨー
ガ कर्मयोग(行いの Yoga)」と呼ばれている。
14.「イーシュヴァラ(全体世界)」を理解するために
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は「物質」と「知と力」の両方の原因
を併せもち、世界を現す。尚かつ、自らが「法と秩序」となり、生きながら世
界を維持し続ける。やがて、現れた世界は、現れる前の可能性だけの状態に戻る。
全体世界は、この「現れ、維持、収束(一時的な終わり)」をサイクルのよう
に繰り返す。それが『ヴェーダ(聖典)』のビジョン。
この世界は、始まりもなければ、終わりもない。そこに生きる生物にも、始
まりもなければ、終わりもない。「カルマ कर्म(行い)」にも始まりはない、終
わりもない。輪のように、どこが始まりでどこが終わりかもわからない。ただ、
繰り返し続けている。
人間にもはじまりはない。人間の無知にもはじまりがない。生死を繰り返し
続ける原因となっている無知。私たちが自分自身の本質、「ブラフマン ब्रह्मन्」
であることに対する無知。無知から望みが生まれ、強い希望が生まれ、行いが
生まれ、結果が生まれ、輪廻が繰り返されている。終わりなき生死を繰り返す
束縛の原因ともなる無知。
唯一、はじまりのないもののなかでも、人間の無知だけは終わりにすること
ができる。だから輪廻から自由になる「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)
」
というゴー
ルが、人間にだけには開かれている。
なぜ人間だけなのか。なぜなら人間には、「シャクティ शक्ति( 力 )」という特
別な力が与えられ、行いを選択できる、自由意志が与えられているからだ。
「イー
104
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が世界を現し、維持し、
収束させる時に使う「力」
「物質の原因」
を「シャクティ शक्ति( 力 )」と呼ぶ。「シャクティ शक्ति( 力 )」は、
同様、世界の創造物、現れた物のすべてに広がる。もちろん私たちの体や考え
にもこの力が満ちている。「シャクティ शक्ति( 力 )」によって、私たちの体は動
き、活動する。考えは、世界の鮮やかな情報を取り込み、分析し、深く熟考す
るものとして機能することができる。何かを望むことができる。世界に対して
反応することができる。真実を知ることができる。これらはすべて、
「シャクティ
शक्ति(力)」のなせる技である。
人間がもつ 3 つの「シャクティ शक्ति( 力 )」
① 望み、願える力、欲望を抱ける力
=「イッチャー・シャクティ इच्छा-शक्ति(望める力)
」
② 行動できる力
=「クリヤ・シャクティ क्रिय-शक्ति(活動する力)
」
③ わかる、知ることができる力
=「ニャーナ・シャクティ ज्ञानशक्ति(認識する力)
」
本来 Yoga では、欲望を抱けるのは力だ。それは、人間の特権! 欲望を悪者
扱いしない。望む力を自分がちゃんとイニシアティブもって、ハンドルを握っ
ていることができていれば、欲を持てることは特権として楽しめる。でも、
もし、
欲望にハンドルを握られていたなら? その時が問題なのだ。私たちは欲望に
振り回されてしまう。そして、つい良からぬことに手を出したり、人として守
るべき一線を越えてしまったり、本当はしたくもないことをして、誰かを傷つ
けてしまう事にもなりかねない。問題はそこだけ。強い意志をもって、自分が
欲望を使えるのなら、それは素晴らしい「シャクティ शक्ति( 力 )」をもっている
ということ。望めるなら、どんどん願いを叶えていけばいい!
「 イ ー シ ュ ヴ ァ ラ ईश्वर( 全 体 世 界 )」 の も つ こ の 3 つ の「 シ ャ ク テ ィ
शक्ति( 力 )」を、私たちも “ 個 ” のレベルで同じようにもっている。
105
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
<全体と個は 1 つ。なのに、なぜ私は未だに孤独を感じているのか? >
もし、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が私のすべてに広がっているとい
うことが事実なら、なんで私は未だに孤独だったり、世界を恐れたり、不安を持っ
たりしてしまうのだろう?「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」と私はつながっ
ている。それなのに、なんで私たちは時に孤独におちいってしまうのだろう?
それは、
「私がいる」と自分を認識している考えは、ある特定の場所を必要と
するからだ。その場所にしか、考えの私はいることができない。たとえば、「私
がいる」という考えは、この肉体の中だけに限られてしまっている。
私たちは、“ 考える自分 ” がいないところに、“ 自分はいない ” と思ってしまう。
“ これが私 ” という考えは、この肉体に限定され、全体世界に “ 考えの私 ” は広がっ
てはいない。
それ故、私とは、“ この体 ” に限定されてしまうのだ。小さな体に限定されて
いる “ 考える私 ” は、広い世界の中で、孤独な小さな存在として不安定に立っ
ている。周りの世界と比べて、自分を小さく、意味もないと思ってしまったり、
小さな体を取り囲む世界に対して恐れをもつ。この恐れが世界との距離をつく
る。これが孤独感として自分に迫ってくる。
その感覚は、時にとてもリアルに感じる。しかし、リアルの背後にあるリア
リティ(事実)から見れば、恐れも孤独も、無意味さも本当のことを知らずに
自分が勝手に出している結論にすぎない。
変わらない事実は、個と全体はつながっているということ。それなのに、事
実がみえない自分は、“ いいや、私は世界から離れ、小さくポツンと存在してい
る不安定な生物 ” などと、勝手に決めて孤独におちいってしまうのだ。
なんと!孤独も恐れも、事実を知らない自分が出した勘違いということか?
聖典にいわせればそういうことになる。だから、落ち着いて、客観的になって、
瞑想をする必要があるのだ。リラックスして何が真実か? をみる必要がある。
もし混乱し、大事な真実を忘れているのなら、意図的に事実を確認し、ハイラ
イトする必要がある。瞑想はそのためにあるのだ。
たとえば森に生えている一本の木には、“全体としての森 ” が浸透しているが、
一本の木は、森全体には広がってはいない同じように、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全
106
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
体世界)
」は個人の中に浸透しているが、個人は全体世界には広がっていない。
相対的な世界ではこれもまた事実だ。
海と波の例でいうと、全体としての海から生まれた 1 つの波は、1 つの波の
ようにみえるが事実は海である。波は海から生まれ、海に維持され、やがて海
に帰る。波は海で満ちている。しかし、1 つの波が海全体に広がっているわけ
ではない。波という 1 つの形の中にしか、波はいることができない。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は、私たちの中に広がっている。しかし、
私という “ 考える私 ” はこの体という場所にしかいることができない。だから、
“ 自分とはこの体と考えにすぎない ” と結論づけてしまいがちなのだ。そうやっ
て世界から離れた自分を思う事で、孤独になり、不安になる。この狭さや不安
から解放されるために、あえて私たちは “ 全体と個 ” のつながりを意図的にみる
必要がある。それは瞑想でできる。全体とつながる事実を、あえてみることを
しなければ私たちは、混乱し、孤独を感じ、無駄に悩み続けてしまう。
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」に対する瞑想とは、
“ 全体と個 ”
のつながりをハイライトするためにある。瞑想によって、私たちは、“ 全体から
離れているという ” 個人的な思いこみを、“ 全体とつながる自分 ” という事実に
置き換えることができる。
すでに個と全体、私と「イーシュヴァラ ईश्वर( 全体世界 )」はつながっている。
それが事実。しかし、“ この体にいる考える自分 ” という限定を自分に植え付け
て、
「小さい体の小さな私」と長い時間オリエンテッドしてしまっているのが普
段の私たちだ。孤独を感じたり、世界の誰かと比較して落ち込んだり、焦った
り…。それは、つながりがあるのに、事実をみていないということだ。
さらに聖典や先生に「全体とあなたはつながっている!」といくらいわれて
も、私たちは慣れ親しんだ考え方に固執してしまう癖もある。
「あなたは全体だ!」といわれて、「ほほぅ!そうか!なるほどっ!」とその
瞬間思ったとしても、Yoga のクラスを飛び出たとたんに、いつもの「小さい自
分」という考え方に戻ってしまったりする。
考えの習慣によって、毎日 Yoga や瞑想をしていても、
満員電車に揺られたり、
お店の店員さんにお釣りを間違えられたり、会社でイケスカないない同僚と鉢
合せになったりしただけで、「自分は世界とつながっている」
。という経典のビ
107
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ジョンはどこかへ飛んでしまう。
考え方は習慣だ。「瞑想」 はこの「考え方」、世界に対する「物の見方」の習
慣を少しずつ変える。
「世界と自分はつながっているのは、わかったよ。自分の本質が「ブラフマン
ब्रह्मन्」であることも、もう何度も聞いたよ。そんなのは 1 度聴けば理解でき
るさ。なんでわざわざ、そんな当たり前のことに 「瞑想」 して、時間を使わな
いといけないの? 」そう思っている人もいるかもしれない。
でも、たとえ聖典のビジョンを一時理解していても、私たちは長い間引きずっ
てきた習慣からは、そう簡単には逃れられない。長い時間かけてつくられた習
慣や考え方の癖は、聖典のビジョンを理解したつもりになっていても、咄嗟の
時に私たちにリアクションさせ、様々な感情を引き起こす。この真実の理解か
ら、離れてしまっているような習慣、習慣的な考え方やモノの見方を「ヴィパ
リータ バーバナ विपरीतभावन(習慣的な考え方や態度)」という。これはなか
なか手ごわい敵だ。聖典を理解したつもりになっていても、習慣的に私たちは、
いつまでも自分を孤独、小さい、無意味と感じてしまいがちだからだ。
この癖を正し、事実に基づいてリアルに世界をみる。自分をみる。そのために、
瞑想をすることは重要な意味がある。
「ハイハイ、私は「ブラフマン ब्रह्मन्」なんでしょ? 聖典のビジョンは、も
う重々承知しておりますよっ」と思っても、もし他人を変えようとしてイライ
ラしたり、悲しみにくれたり、怒りの炎にのまれたりしているうちは、瞑想を
して、長い間引きずってきたオリエンテーションを変えていく必要がある。事
実を知っている、ということと、納得し、実感している、ということ。この 2
つの間には、思っている以上のへだたりがある。
毎日の生き方の中で Yoga をして、いつも客観的に世界と自分をみることがで
きるようになるまで瞑想の練習が必要とされる。人として大きく成長し、視界
を広げ、大きなビジョンで自分と世界をとらえられることができるまで飛躍し
なければ、真実をただ知識として知っている、ということと、深く理解してい
るという事の間には越えることのできない距離があり続けるままだ。
揺れ動く感情や過剰なリアクション、世界に対する受け入れ難さ、自分に対
する違和感がある限り、私たちには成長し、変わることができる可能性が沢山
108
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ある。
“ 瞑想 ” は世界と自分のつながりを強調する。そうして、自分に対する凝り固
まった考え、世界を近視眼的にみる見方と態度を変える。
長い間もち続けた私たちの習慣的な “ 考え方 ” や “ 物の見方 ” を変えるのは、
1 日の瞑想イベントや短期強化合宿や集中コースでは不可能だ。長い時間かけ
てつくられた偏見や主観というオリエンテーションは、同じように、長い時間
かけて解いていかなければならない。
“ 瞑想 ” は狭い見方をする習慣「ヴィパリータ バーバナ विपरीतभावन(習慣
的な考え方や態度)」を、聖典のリアリティに基づいた広いビジョンに置き換え
るために大きな役割を果たす。瞑想によって、全体とのつながりをはっきりみ
ることが悩み多き自分を変えていく。
どんな時も揺れることなく、はっきりと自分と全体とのつながりをみること
ができるまで続ける必要があるメソッドが瞑想なのだ。やがて、「瞑想」 の深ま
りとともに、自然に私たちの孤独感や不安、恐れは解消されてゆく。
15. 瞑想の次の段階
「ニディッデャーサナ(聖典のビジョンの熟考)
」
私は、
「これが私だ」と何の根拠もないままに、自分の体や体のコンディショ
ン、考えや感覚だけを自分だとする結論を出し続けてきた。しかしそのレベル
で出していた “ 私 ” に対する結論は、1 つの “ 考え ” にすぎない。
「これが自分だ」といって指し示す場所は、この体。世界の中でこの体は、ほ
んの小さな 1 ピコにも満たない一点にすぎない。
『ヴェーダ(聖典)』の最終章『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最
終的な教え)』はこう教えている。
「あなたの本質とは、考えではない。まして、感覚でも肉体でもない。それら
を存在させ、認識を起こし、世界のすべてを輝かせる源『ブラフマン ब्रह्मन्』
109
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
である。あなたの本質である『アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)』とは、
世界のすべてを存在させる源『ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あま
ねく広がるもの)
』を意味している。“ 根源のレベルでみれば、この自分と世界
は全く同じ 1 つの存在である」。
「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」が指し示す “ 私 ” とは、世界の中
の 1 点としてあるこの体のことではない。「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最
終章)
」別名『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』が指
し示している ” 私 “ の意味は、本質的な自分自身「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
過去・現在・未来といったすべての時間に連なり、あらゆる空間に普遍に広が
る “ 知・認識の源 ” である存在を指差して、“ 私 ” の真実だという。
たとえば、先ほどの “ 海と波 ” の例。
全体としての海から生まれた 1 つの波は、海から生まれ、海に維持され、や
がて全体の海に帰る。海は波に満ちるが、波は波という 1 つの形の中にしかい
ない。しかし、この 1 つの波が、「私とは、波であり、それはまた海だ。でも、
波と海、その本質はどちらも “ 水 ” だ!」と知ったらどうなるだろう? もう一
歩深いレベルで波が自分を認識していたとしたら?
「私の真実は、“ 水 ” だ。波という形で一時現れているがその本質は “ 水 ”。私
の体の隅々まで “ 水 ” が満ちている。そして海の本質もまた “ 水 ”。海はどんな
に大きくても、海にどんなにたくさんの波があったとしても、本質からみれば
“ 水 ” なのだ。ここからみれば、波の私と、海のどこに違いがある? 他の波と
私という波の、どこが違う ? 何を比べる? すべてが全く同じ水である。ただ
1 つの “ 水 ” という真実がある。波は水から生まれ、水として生き、水に帰る。
過去も、今も、そして未来もずっと “ 水 ” であるという事実は変わらない。海も
同じこと。どんなに大きくても、その真実は水であることには変わらない。私
の真実は、ここにある。水である私は、生まれることも、死ぬこともない。た
とえ、波としての形がどんなに変わったとしても、大海原のどこにいたとして
も、“ 水 ” である私は永遠だ。こんなことを語っている今も、限りなく海に広がっ
ている」。
こんなことをいえる波は、真実を理解している。相対的な海の世界から、絶
110
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
対的な水である己の真実をみている。その時波は “ 波という形態 ” からも “ 海 ”
という状況からも自由だ。時間と空間もこの波を縛ることはできない。ただ “ 水 ”
として、“ 水 ” のまま、すべての波と関わり、果てしない海に広がる。
波は、1 つの波という形をもちながらも、自分の真実を知った瞬間から自由
になる。この自由こそが Yoga 的悟り、「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」 である。
私たちも同じように理解することができる。
「私は、世界に体をもって生れているかのようである。しかし、その本質は『ブ
ラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)』である。世界の真
』である。
実もまた『ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
この事実が私の体や感覚や考えを超える。自分と世界は、本質において全く同
じ 1 つの “ 真実 ” である」
ここまでの “ 自由 ” に『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教
え)
』は私たちを連れていこうとしている。最終的には、真実を理解し、私たち
は完全に自由になる。今を生きながら、この体にいながら、完全な自由の意味
を知るのだ。
それは、聖典のビジョンの理解と、「ニディッデャーサナ निदिध्यासन(聖典の
ビジョンの熟考)」と呼ばれる “ 真実のビジョンを確立するための熟考 ” によっ
て完成すると経典はいう。 “1 つの対象に心を活動させる瞑想 ” を積んだ後、”
形なき、姿なき真実を徹底的に追求し、深く考える “ という熟考である。
「リアリティ瞑想」は、「ニディッデャーサナ निदिध्यासन(聖典のビジョンの
熟考)」の前の段階でするべき理解、“ 全体と個 ” とのつながりを確立する。
まず、全体と個のつながりを自分自身の事実としてみる。そして、全体と個
の本質を熟考する。本質においては何の違いもない 1 つの真実をみる。だから
全体と個のつながりをみる瞑想という段階を飛ばして、いきなり熟考をするこ
とはできない。それは、小学校を卒業して、いきなり博士課程に進もうとして
いるようなことである。何事も順を追っていかねば。
「リアリティ瞑想」における「瞑想の準備」と「瞑想のプロセス」は、ゆくゆ
くはこの「ニディッデャーサナ निदिध्यासन(聖典のビジョンの熟考)」に至る道
筋となる。
「ニディッデャーサナ निदिध्यासन(聖典のビジョンの熟考)
」
の結果が、
111
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
「ニルヴィカルパ・サマーディ निर्विकल्प समाधि(1 つの真実への深い熟考)
」と
呼ばれている。瞑想は、聖典のビジョンを完全に自分自身の事実として理解す
るための、適切な順序とメソッドにフォローした確実な方法なのだ。
16. 瞑想の対象としての「イーシュヴァラ(全体世界)
」
“ 全体と個 ” のつながりをがっちり、強固にしていくことが瞑想の目的。その
ためには、瞑想の対象が、“ 全体世界 ” を象徴している必要がある。そうであっ
て初めて、全体と私たちはつながるという意味の瞑想ができるのだから。
しかし、全体世界の中にいる私たちは、世界を象徴した 1 つのシンボルに心
をつなげるしか方法がない。
“ 全体世界 ” では、漠然としすぎて、心の動きをつなげることはできない…私
たちがもっている「考え」という機能は、ぼーんやり世界をなんとなく思う、
ということでは集中できない。「考え」は 1 つのポイントにつなぎとめられては
じめて、1 つの流れに定めることができる。心を 1 つの方向に定めることが瞑
想であるから、瞑想には象徴的な対象、瞑想のシンボルが必要なのだ。
瞑想における「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の象徴
伝統的に「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の象徴は、「音か意味」とい
うシンボルをとる。音のシンボルが「マントラ मन्त्र」。通常、
私たちは
「音と意味」
のつながりを「名前」といっている。“ 全体世界 ” を象徴した 1 つの「音と意味」
もまた、「名前」と呼ばれる。「マントラ मन्त्र」は「イーシュヴァラ ईश्वर(全
体世界)」の特徴につけられた名前でもある。
1 つの全体世界は、どの観点からみるか? ということによって様々な「音と
意味」を現す名前がつけられている。ヒンドゥー文化圏内でのポピュラーな
「イー
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の名前の一例を見てみよう。
「シヴァ शिव(時間の象徴)」、「ヴィシュヌ विष्ण(
ु 維持の象徴)」、「ラーマ
112
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
राम(秩序、法の象徴)」、「クリシュナ कृष्ण(喜びの象徴)」、「ラクシュミー
लक्षुमी(豊かさの象徴)」。
どの名前も、全体世界を様々な観点でとらえた音の象徴である。そして、全
体世界を象徴する “ 音と意味 ” は、別にヒンドゥー文化圏内にある名前だけとは
限らない。
「アッラー」も「イエス」も「ブッダ」も、全体世界の象徴がその名前の意味
に含まれて、使われている場合が多くある。
」の “ 音と意味 ” の象徴に心
瞑想では、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
をつなげるために、上に列挙したような名前を使うが、基本的にはどんな音で
あっても構わない。その音が全体世界を象徴しているのなら、何と呼んでもい
いという。
それに私たちが世界を何と呼ぼうと、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」
」ではない
は混乱しない。混乱する者は、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
のだから。
極端にいえば、その “ 音と意味 ” を使う人のビジョンに、“ 全体世界 ” という
コンセプトがあるのならば、どんな音でも構わない。その人が、1 つの名前に
全体世界をみているのだとしたら、どんな音でも瞑想で使うことができる。瞑
想で得るべき効果に変わりはない。
さらに、もう 1 つのシンボル、“ 形 ” の象徴は、像や絵で表されている。形の
象徴を対象に、心をつなぎとめることもまた瞑想である。これもまた、全体世
界を背後にみているのなら、象徴はどんな形をとっていたとしてもいい。どん
な形にも、私たちがその背後に全体をみることができるのなら瞑想の対象とし
ては、何を選んでも構わない。
ヒンドゥー・テイストでなくてもよい。「シヴァ」や「ガネーシャ」ばかりが
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」ではないのだから。太陽も、月も星も、
銀河系宇宙も、地球もすべてが「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」だ。私た
ちがそこに全体を見て、心をつなぐことができるのなら、自然のエレメントも
瞑想の対象となる。山も、海も、川も、丘も、石にすら、私たちは全体を喚起
113
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
することができる。
あらゆる自然現象は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の現れである。ど
んなものにも「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の存在がある。それをみて
全体世界を喚起できるならば、象徴は音でも形でも、どんな物でも構わないと
されている。
もしあなたが、
「海を触ってみて」といわれたら、どうするだろう? しゃか
りきに海の全表面を触ろうと試みる? ボートにのって大海原に繰り出して全身
で触ろうとするか? 海を触るのに、海のすべてに触る必要はない。だいたいそ
んなことは不可能だ。“ 海を触る ” には、波打ち際の足もとにやってきた小さな
波に触れるだけで十分。どの波も海であるし、どんな小さな波も海なのだから。
同じようなことが、「全体とつながる」ための祈りや瞑想の「対象」にもいえ
る。私たちが全体世界とつながるために、宇宙すべての姿を想定することはな
い。太陽や、月や海や空も、星も、花も、絵も、小さな石も、銅像も、模様も、
瞑想の対象となる。
実際に Yoga で行う「スーリヤ・ナマスカール सूर्य-नमस्कार( 太陽礼拝 )」は、
太陽が全体世界の象徴となっている。心だけでなく、祈りの言葉を捧げながら、
全身を使って祈りを捧げていく「全体とつながる行い」なのだ。
17.瞑想と祈りの背後にある事実
形や名前はあくまでも象徴。その後ろにある「事実」に私たちは瞑想し、祈っ
ている。
「リアリティ瞑想」では、瞑想の対象として「イシュタ・デーヴァター इष्ट-
देवता(自分好みの神の象徴、像)」を象徴として使う。
私たちは瞑想する対象に、必ずしもヒンドゥー文化の「イシュタ・デーヴァター
इष्ट-देवता(自分好みの神の象徴、像)」を選ばなくても大丈夫。「シヴァ शिव」じゃ
ないとご利益がないとか、「ガネーシャ गनेश」に瞑想はすべき、なんていう決ま
114
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
りごとは全くない。
Yoga がインドという文化圏内で生まれたから、その土地で使われている象徴
を使うのが一般的である、というだけである。日本で Yoga をする私たちは、瞑
想の対象として全体世界をその背後にみることができるのなら、何に心を繋ご
うと自由だ。ブッダでも、仏でも、弥勒でも、富士山でもいいのだ。
ある人を振り向かせたい!あの人の気を惹きたい!そのためにためにはどう
するだろう? 振り向かせるために、その人の体のすべてに触る必要はない。髪
の毛をちょっと触ったり、肩先にほんの少し触れたり、小指をつっついたりす
るだけで十分。
それと同じように、瞑想は、全体世界である「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世
界)
」を自分の味方につけるための行い。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
とつながるための「カルマ कर्म(行い)」。私たちは、瞑想をして「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」の注意を惹きつける必要がある。そのために「マントラ
」の名前を呼ぶ。もしくは、
मन्त्र」という形で「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
絵や像の象徴に心をつなげて祈る
相手が全体世界だからといって、世界に向かって叫ぶ必要もなければ、世界
のすべての像に祈る必要もない。
1 つの対象が、自分にとって全体世界を象徴してさえいればいい。何を対象
」
にしても、背後にある事実全体は 1 つ。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
をそこにいつもみることができれば象徴はどんな形でも OK。
「このご神像でな
ければだめ」
、
「このマントラでなければ効果がない」などということはない。
本当の Yoga や瞑想は、私たちをある 1 つの教義や慣習、誰か人間がつくり出
したルールに縛り付けたりしない。
“ 個 ” は全体につながりながら生きている。“全体と個 ” は離れては存在しない。
その事実だけをみることができるのなら、形式にこだわる必要はない。私たち
は選べる自由がある。
この理解が私たちを、宗教やカルト的な縛りから自由にする。Yoga は何も私
たちに押し付けない。瞑想は何かを信じよ、などと強制したりしない。そんな
必要は全くないから。
115
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
しかも私たちは、“ 偶像崇拝 ” をしているわけではない。瞑想や祈りの対象で
ある全体世界を、石や紙の上に、像や写真や絵という形で投影しているだけだ。
一見、石や紙に瞑想したり、祈りを捧げているようにみえるかもしれないが、
私たちは石や紙や銅像とつながろうとしているわけではない。「音や形」で現さ
れた物の背後にある事実、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」を見ようとし
ている。
そのためには、実は人間としての成熟や全体に対する深い理解が求められる。
瞑想や祈りは、石や紙の上の像や絵の背後に、全体世界の事実をみようとする
試みでもある。当然、人間としての総合的な大きなキャパシティーが求められ
る。少なくとも理解力、創造力、集中力。
練習が深まるに従い、私たちは自ら定めた 1 つの対象だけに全体をみる。そ
れだけではない。この世界のすべてを「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と
してみることができるようになる。自分の目に映るあらゆるものが「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」であると理解することができる。
全体と確実につながるビジョンをもつ人に、恐れや不安が生まれるだろうか?
何からも離れず、どんなものも自分と違いはない。その確固たる理解がある人
に、恐れや不安が湧くだろうか? 自分と違わないもの対して、どうして怒り、
憎しみ、嫉妬、が起こるというのだろう?
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の深い理解のあるところに、「苦悩」の
原因はない。知識のあるところに、無知はありえない。光がある場所に、闇は
同時に存在することができないように。無知と混乱がないところに、苦悩や恐
れや不安が入り込む余地はない。
18.3 つの「カルマ(行い)」
瞑想の対象を理解したところで、最後の定義を見ておこう。それは、瞑想は
結局何をするのか? という事である。
瞑想は “ 行い ” である。行いの事をサンスクリット語では、
「カルマ कर्म(行
116
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
い)」という。瞑想は心でする行い、「カルマ कर्म(行い)
」である。
【メモ】
「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:(心の活動)
」
「ビャーパーラハ व्यापार:(活動)」と「カルマ कर्म(行い)」は単に活動
を意味する。通常 “ 意志によって私たちが選んでする活動 ” を「カルマ कर्म(行
い)」という。
瞑想は自然になされることではなく、必ず私たちが意志のもとに選択して行っ
ている。瞑想の定義においては、「ビャーパーラハ व्यापार:(活動)
」と「カ
ルマ कर्म(行い)」は、同じ意味で使われている。
瞑想は心でする「カルマ कर्म(行い)」。「マーナサン・カルマ मानसम् - कर्म(心
でする行い)」「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:
(心の活動)
」である。
『ヴェーダ(聖典)』の世界観では、
「カルマ कर्म(行い)
」を 3 つのカテゴリー
「カルマ कर्म(行い)」の 3 つ
1.体を使う行い=「カーイカン・カルマ कायिकम्-कर्म
(体を使う行い)
」
2.言葉を使う行い=「ヴァーチカン・カルマ वारिकम्-कर्म(言葉を使
う行い)」
」
3.心を使う行い=「マーナサン・カルマ मानसम्-कर्म(心を使う行い)
で分けている。
瞑想は「マーナサン・カルマ मानसम्-कर्म(心を使う行い)
」
。
「マントラ
मन्त्र」を声に出して唱えたり、歌を歌ったりすることは「ヴァーチカン・カル
マ वारिकम्-कर्म(言葉を使う行い)」。そして「プージャ(儀式)」をしたり、
体を使って Yoga をすることは、「カーイカン・カルマ कायिकम्-कर्म(体を使
117
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
う行い)」。
「カルマ कर्म(行い)」をするということは、何かをしようと決断して、選択
し、世界に “ 行い ” を放つ、ということである。そして世界に放たれた行いは、
どんな形であれ世界に影響を与える。私たちが “ 行い ” を世界に放てば、世界の
法則「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」がそれを受け止める。そして、
「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」が、必ずそれと見合った “ 結果 ” を私たち 1 人 1 人
に返してくる。私たちは “ 行いと結果 ” をつなげている「イーシュヴァラ ईश्वर
(全体世界)」の法則を、「カルマの法則(行いの法則)
」と呼ぶ。私たちが、1
人 1 人異なる体と顔をもって、異なる境遇を生きているのは、過去に行った「カ
ルマ कर्म(行い)」の積み重ねの違いに他ならない。
過去に積み上げた膨大な「カルマ कर्म(行い)」の蓄積を、「サンチタカルマ
सञ्चितकर्म (過去にした行いの蓄積)」という。「サンチタ」とは良く積み上
げられた、という意味。そして現在私たちの人生で毎日刈り取られている「カ
ルマ कर्म( 行い )」の結果を、「プラーラブダ・カルマ प्रारब्धकर्म( 今生で消
化される行いの結果 )」という。「プラ」とは、“ すぐ目の前で ” という意味、
「ラ
ブダ」とは “ 得られるもの ”。まさに、私たちのすぐ目の前で実る結果を「プラー
ラブダ・カルマ प्रारब्धकर्म( 今生で消化される行いの結果 )」というのだ。
さらに、私たちは今現在、過去の「カルマ कर्म( 行い )」の結果を消化しなが
らも、現在進行形で新しい「カルマ कर्म( 行い )」の結果をつくっている。今し
ている私たちの「カルマ कर्म( 行い )」の 1 つ 1 つが、未来の運命をつくる!
未来に摘み取られる予定の、今現在行っている「カルマ कर्म( 行い )」の結果
は、「アーガミ・カルマ आगमि-कर्म( 現在つくっている未来に影響する行いの
結果 )」という。
「アーガミ」とは、“ もうすぐ来る、やってくる ” という意味で
ある。
118
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
我々の「運命」を決める「カルマ कर्म( 行い )」の 3 種
1.「サンチタカルマ सञ्चितकर्म(過去にした行いの蓄積)」
過去に積み上げた膨大な行いの結果。
輪廻転生をつくり出す原因。
たった一度の人生で使いきれない程のカルマが積まれている。
2.「プラーラブダ・カルマ प्रारब्धकर्म( 今生で消化される行いの結果 )」
現在進行形で消化中のカルマの結果。
「サンチタカルマ सञ्चितकर्म(過去にした行いの蓄積)
」の一部。
「プンニャ पुण्य्(徳)」と「パーパ पाप(不徳)
」が組み合わされてつく
られている現在の運命。
3.「アーガミ・カルマ आगमि-कर्म( 現在つくっている未来に影響する行
いの結果 )」
現在積み上げ中、未来に消化される予定のカルマの結果。
「カルマ कर्म(行い)」は単なる「動き」や「活動」ではない。人間が自由意
」という。
志によって選択し、決断した「動き」のみを「カルマ कर्म(行い)
」
。この世界で「カルマ
意志をともなわない活動は、「クリヤー क्रिया(動き)
कर्म(行い)」ができるのは、実は人間だけである。
動物には意志がない。動物は、自然のプログラムで動いている。意志によっ
て行いを選択しないから、動物のすることは 100%「クリヤー क्रिया(動き)」
である。
だから動物は「カルマの法則(行いの法則)」によって積まれた過去の結果を、
自然のプログラムの中で消化するだけ。自分から新しい「カルマ कर्म(行い)」
を生みだすことはない。自然の法則そのままに生きるから、動物には悩みがな
い。何をしてもただありのままの自然の法と秩序だけが、動物にはある。だか
119
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
ら動物は悩まない。逆にいえば、悩めないのだ。
しかし、人間は違う。新しい「カルマ कर्म(行い)」をつくることができる。
「カルマの法則(行いの法則)」に束縛され、影響されながらも、法則に新しい
変化をつけることができる。新しい「カルマ कर्म(行い)」をすることで、予
定されていたはずの運命を少し変えることができるのだ。
19. 瞑想で幸運をつかむ:「カルマ ( 行い )」のメカニズム
私たちが「カルマ कर्म( 行い )」をすると、2 種類の結果が現れる。ここでは、
行いとその結果の関係をみていこう。
「カルマ कर्म(行い)」の結果
① すぐに目にみえる形で現れる結果
「ドリシュタ・パラ दृष्टफल(目にみえる結果)」
たとえば、右手と左手を勢いよく合わせる、という「カルマ कर्म(行い)
」
をすれば音が鳴る、という結果が起こる。連続してそれを行えば、拍手
になる、という結果が起こるように、行いをしたら直ぐ目にみえる形で
得る結果
② 今は目にみえない結果
「アドリシュタ・パラ अदृष्टफल(目にみえない結果)
」
行いをしてから結果になるまで、タイムラグがあるもの。
“ 因果応報 ” のコンセプトはここにある。
⇒「プンニャ पुण्य्(徳)」
⇒「パーパ पाप(不徳)」
120
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
行いが直ぐに形になる「ドリシュタ・パラ दृष्टफल(目にみえる結果)」は問
題ない。問題は、“ みえない結果 ”「アドリシュタ・パラ अदृष्टफल(目にみえな
い結果)」である。これが、実は私たちの運・不運の鍵を握っているのだ。
みえない結果は、徳の高い、良い行いをした場合は、「プンニャ पुण्य्(徳)
」
という形で貯められる。それが、私たちに「幸運・ラッキー」な出来事という
結果になる。反対に、不徳といわれる「ダルマ धर्म(秩序、法)」に反する行い
をした場合は「パーパ पाप(不徳)」という形で蓄えられる。これが実を結んだ
ときに、つらい、苦しい、痛みを伴う経験として現れる。
今「運がいいね!」といわれている人は、過去に作った「プンニャ पुण्य्(徳)
」
の実を摘み取っている状態である。「何をやっても、ついてませんよ…トホホ
ホ」。そんな風に思う人は、この人生において過去にした行いの「パーパ पाप(不
徳)」を現在消化中なのである。
ドキドキッ…「パーパ पाप(不徳)」には心当たりがありすぎる!自分の人生
はもしかしたら、これから先「パーパ पाप(不徳)」を消化することばかりなの
かもしれない。きっと自分は過去に、いうにいわれぬあんな事やこんな事をし
でかしてるはず。「ああぁ…過去の己の悪行の数々を思いだすだけでも、先行き
思いやられますよ…」と一瞬ため息をついたかもしれない。そして、ものすご
い不安に駆られたかもしれない。
でも大丈夫。そんなに心配しなくても、なんと、
「カルマ कर्म(行い)」と結
果の法則には救済措置がある。それは、過去に「パーパ पाप(不徳)」を積んで
しまったとしても、今現在している良い、徳の高い “ 行い ” で中和できるという
こと。あきらめるなかれ。すべてが過去の行いだけで決まっているわけではな
い。あきらめて投げやりにならず、未来は今の行いで変えていけるのだ。もち
ろん、運を味方につけるような行いをつみ “ 運がいい ” 人生をいきる可能性だっ
て私たちには開けている。
「カルマの法則(行いの法則)」によれば、一度世界に放たれた「カルマ कर्म(行
い)
」の結果を回収するには、行いをした本人が消化するしかない。過去にして
しまった行いはもうどうしようもない。それは体験して消化するしかない。過
去を変えることも、逃げる事もできない。しかし、今からする良い行い「プンニャ
पुण्य्(徳)」が、予定されている「パーパ पाप(不徳)」の結果として痛みや苦し
121
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
みという経験に対する「抗体」となって働く。私たちは過去を変えることはで
きないが、今何をどう行うか? によって、未来に叶う結果の現れ方を変えるこ
とができるのだ。しかも、「カルマ कर्म(行い)」には「カルマ कर्म(行い)」を
もって制すことができる。
「だったら「プンニャ पुण्य्(徳)」を作る行いを積極的にするべきじゃないで
すかっ!」そう思うだろう。過去の不徳の結果を中和するために「カルマ कर्म(行
い)
」、今「プンニャ पुण्य्(徳)」となる良い行いを積極的につくることを「プラー
ヤスチッタ・カルマ प्रायश्चित्त-कर्म(過去のカルマを中和する行い)
」という。
苦しい経験となるような「パーパ पाप(不徳)」を積んでしまった、と心当たり
があるようなら積極的に今「プンニャ पुण्य(
」
् 徳)」となる「カルマ कर्म(行い)
をして未来を変えていこう。
過去につんだ「パーパ पाप(不徳)」に対する抗体となる「プンニャ पुण्य(徳)
」
्
をつむ特別な方法がある。「おおぅ!? そんな方法あるなら早く教えて、教
えてほしいっ」
。その気持ちに応えて、これからいかに「プンニャ पुण्य(
् 徳)」
を多くつくっていけるか? 過去の悪行を中和できる方法を見ていこう。
「プンニャ पुण्य्(徳)」を作る行いは、以下 2 つ
人生に幸運をもたらす「カルマ कर्म(行い)」の 2 種
1.「プールタカルマ पूर्त-कर्म(善行、寄付、人助け)
」
世の為人のためになる行い、意味のある公共事業や、寄付、ボランティ
ア活動、人に教える、お金だけじゃなく、時間やエネルギーを分かちあ
う、困っている人を支えるなど。
これらの行いが「プンニャ पुण्य्(徳)」をつくる。
2.「イシュタカルマ इष्टकर्म(全体世界とつながる行い)
」
『ヴェーダ(聖典)』の儀式をしたり、瞑想をする、Yoga をするなど、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と関わりあう行い。
122
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
「カルマ कर्म(行い)」の結果として、すぐには目にみえない結果である「プ
ンニャ पुण्य्(徳)」は、どれくらいの信頼とエネルギーを費やしたか? によっ
て影響力が変わってくる。
心でする「カルマ कर्म(行い)」よりも、言葉でする「カルマ कर्म(行い)」
の方が多くの「プンニャ पुण्य्(徳)」をつくる。心よりも言葉よりも、体を使っ
てする「カルマ कर्म(行い)」はさらに大きな「プンニャ पुण्य(
」を作る。
् 徳)
体を使う行いと比べれば、瞑想はどちらかというと「プンニャ पुण्य(
」
् 徳)
よりも、“ 落ち着く、客観的になる ” など目にみえる効果「ドリシュタ・パラ
瞑想をすることでも「プ
दृष्टफल(目にみえる結果)」を多く生み出す。それでも、
ンニャ पुण्य(
् 徳)」は作れる。だから瞑想の練習を積むことによっても、未来を
変えていくことはできるし、幸運といわれることも起こりやすくなる。
Yoga や瞑想をより深めやすい環境を得ることや、信頼できる師との出会い
は、特別な「プンニャ पुण्य्(徳)」によるものである。瞑想や Yoga を続けるこ
とによって、私たちは探求の障害を取り除き、Yoga の道を歩むスピードを加速
させることができる。
123
第 2 章 何に瞑想をするべきか?
124
第3章
だれが瞑想をしているのか?
<Yoga 的瞑想者 >
125
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
前の章までで瞑想の 3 つの要素のうち 2 つ、「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」
と「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」をみていった。「瞑想の定義」を通して、
「ディ
ヤーナン ध्यानम्(瞑想)」とは何か? ということをみた後、何に瞑想するのか?
「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」について詳しくみた。ここからは、瞑想の 3
つ目の要素「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」について、みていこう。瞑想
をするのは私だが、一体どんな自分が坐るべきか? をはっきりさせていこう。
1.瞑想をする人は、客観的な心で世界をみる
「瞑想をする者」を「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」という。私たちは
瞑想をするとき、
「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」である必要がある。ど
ういうことだろう?
瞑想は客観的に物事をみることができる心で、自分と向き合い、坐る必要が
ある。瞑想するのは私に他ならないが、
「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」
とは、
ありのままの世界を歪めることなく、客観的に認識することができる心の状態
が準備できた人。つまり瞑想をする自分は、落ち着いた客観的な心をもって坐
る必要があるということだ。
普段の私たちは必ずしも瞑想ができるような落ち着きをもって、客観的に物
事を見ているわけではない。自分特有の主観や偏見をもって物事をねじ曲げて
観ていることが多い。
人の心は、様々な疑惑や不安、入り乱れた感情、葛藤など問題が積み上げら
れている。こんな状態の心には、世界のありのままは映らない。まるで、埃が
積もった鏡は物事をぼやけさせ、歪めて映すように。乱れた水面の湖に映る世
界は、屈折し、歪み、揺れるように。同じように、心が乱れ、主観という歪み
があれば、世界をまっすぐに映すことはできない。ありのままをみることがで
きない心で深い瞑想をすることはほぼ不可能。
心が乱れているということは、内側に葛藤や問題が多くあるということ。主
観で世界を歪めている、ということは世界を受け入れていない、ということだ。
126
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
冷静で客観的な見方をしている自分、“ シンプルにありのままを認識している
自分 ” でいるとき、私たちの心に問題は起こっていない。たとえば、大自然を
目の前にしたとき、私たちはその光景を歪めない。ありのままの自然の姿を認
識する。
雄大な自然をみているとき、心が落ち着き、晴れやかなのは、世界をありの
ままに、自分の主観や希望や欲求を載せず歪めることなく受け止めることがで
きているからだ。
一方、自分の目の前にいる人を「大嫌い!どこかいってくれー!」という主
観を載せてみたら、私たちの心や感情は自然を映した時とは違う動きをする。
乱れて、落ち着かない。憎しみ、競争心、嫌悪…違和感ある窮屈な問題に心が
とらわれてしまう。動悸がする、イライラする、体が震える、という症状まで
でる。
なぜなら、主観を載せた物事をみる心が、ありのままの世界に抵抗している
からだ。 “ 嫌い ” という主観を全面に出して、世界を映し、世界を拒絶しよう
とする。その受け入れられなさの現れが、イライラだったり、ドキドキだった
りする。
こんな風に、世界に抵抗したり、拒絶したり、ありのままを受け止めること
ができない心は、思い通りにならないことに対するストレスや、苦悩、孤独、
プレッシャーで今にも溢れてしまいそうだ。その原因は、偏った欲求や主観を
のせて世界を歪めてみる “ 私たちの心のあり方 ” にある。
主観たっぷりの心に映る世界は、事実とは違い、歪んでいる。そんな心で、
静かに落ち着くことなんてできるはずがない。なぜなら、世界はいつも自分の
主観に沿って、自分の都合に合わせて動いているとは限らない。自分にとって
気に食わないこと、期待はずれなこと、イライラさせられること、不安にさせ
られること、恐れを世界から与えられることが多くある。そんな中でどうして
冷静でいられる?
自分にとっての不都合を突きつけてくるのが世界と思っていたら、どうして
くつろげるというのだ? そんな風に世界を心に映していたら、リラックスする
なんて難しい。抵抗し、拒絶し、イライラし、どこかいつも足りてないように
思う自分に、納得なんてできるだろうか?
127
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
そんな落ち着かない、不安や怒りだらけの自分が瞑想で目を閉じれば、すぐ
に心は思いが叶わぬ世界する不満や、「こう変えてやろう!」という未来への欲
求や野心でいっぱいになってしまうだろう。瞑想中、過去の思いや、未来への
計画という雑念にとらわれて、自分に深く向き合うことができないのは当然だ
ろう。ありのままにある世界を受け入れることができない主観たっぷりの心が、
落ち着いて坐らせてくれない。これでは、瞑想は難しい。
私たちは、客観的で落ち着いた心でなければ、静かに坐ることですらできな
い。瞑想をする人、「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」であるためには、シ
ンプルに認識をする心である必要がある。主観に歪められることなく、世界に
起こるありのままを客観的に認識することができる心の状態にしておく必要が
ある。
私たちは、普段沢山の偏見と自分独自の見方を世界に押しつけて物事をみて
いる。たとえば、
「○○さんは、今日も私に対して怒ってる」、「××上司はいつ
も自分だけを敵視して、つらくあたる」、「△△さんは、どうかしているに違い
ない、だってあんなことするなんて」「あの店の□□はこうすべきだ」
「恋人の
☆さんは、もっと自分に優しく接するべきだ」など。
世界をこんな風に評価しているということは、ありのままのその人をみたり、
出来事や状況をみていないということ。普段の生活の中では、私たちはありの
ままを見ていないことがあまりにも多い。自分の見方で世界をみて、自分の思
いだけで世界を判断する。そうやって、自分勝手に出した結論に、憤慨してい
たり、悲しんでいたりする。事実は違うかもしれないのに。
そうして自分だけが見ている世界を “ 事実 ” だと決めてかかって、単なる外の
出来事や罪なき他人を “ 問題 ” にしてしまう。聖典曰く、
この主観的な見方のベー
スには、「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き ・ 嫌い)」という思いがある好き・
嫌い、この両極端の思いをベースにして、私たちは世界を主観的に判断してい
る。
「これは好き、だから手に入れたい、手もとに置いておきたい」と思ったり「こ
れは嫌い、だから避けたい、手放したい」と考えたり。好きと嫌いという 2 つ
の思いに世界を染めて、物事を判断し、行動を決めている。
「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)」それ自体は、何も悪くない。動
物から人間まで、すべての生きているものが、それぞれの “ 性質、傾向 ” として
128
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
この 2 つの思いをもっている。牛は緑の草が好きで、枯れた草より、若い柔ら
かい草が好き。リスにもそれぞれ好きな実があり、嫌いな実がある。たとえ悟
りを開こうと人間である以上「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)
」が
無くなることはない。
しかし問題はこの 2 極の思いに振り回され、判断と行動までもが影響される
ことにある。この思いに振り回されている限り、私たちは世界のありのままの
景色を歪めてみてしまう。
心は鏡のようだ。鏡に問題がなく、きちんと磨かれ、つるんとした表面でい
たら、そこにはありのままの世界が映りこむ。鏡が歪んでいたり、
汚れていたら、
世界の光景は鏡にある問題の上に映しだされる。同じようなことが、私たちの
心のありようと世界の見方の関係に起こっている。
「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き ・ 嫌い)」という思いは、誰もがもってい
る思いであるし、それ自体は何も悪くはない。自分がコントロールできている
のなら、「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き ・ 嫌い)
」は世界をより味わい深い
ものにしてくれる。世界の経験にコントラストをつけ、体験をより豊かなもの
にしてくれるだろう。しかし、もし自分が「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き
・ 嫌い)」に引きずられていたら、この思いは様々な問題を起こす。
心が嫌いなもの、都合の悪い物を醜く映し出す。好きなものや都合のいい状
態を過剰に美化して映す。ありのままを映すことができない。そして、こんな
風に心に映った世界をみて、醜い物をさけ、美化されたものだけを得たいとい
う衝動に駆られる。
思い通りにならなければ、世界は自分にとって嫌な物ばかり与える、試練だ
けを与えるひどいところだと思うかもしれない。生きることはつらいことだ、
と悲嘆にくれてしまうかもしれない。好きな物を手に入れられなければ、「なぜ
だー!」と怒りも湧く。歪んで映った世界を事実と決めて、世界を “ 好き・嫌い ”
という要素で 2 つに分けてしまう。
好きな物はできるだけ掴み取り、自分の物としてとどめようとする。嫌いな
モノは避け、できるだけ排除しようとする。その欲求に叶わないものが、自分
を悩ませる問題になる。
私たちの独自の主観や欲求に染まる心が問題をつくる。「ラーガドウェーシャ
129
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
रागद्वेष(好き・嫌い)」に突き動かされていることが行動や考えの基準になる。
そんな状態で世界に寛いだり、落ち着いて自分の事実と向き合うことはできな
い。
しかし、もし心に少しゆとりがあれば、こうとらえることができる。「この思
いはあくまでも自分がとらえた見方でしかない。世界の事実には “ 好き・嫌い ”
もない。物事は自分の内なる「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)
」の
色に染まりはするが、本当はたぶん違うのだろう」
これくらいの冷静さ落ち着きで物事に接していれば、緊迫した問題は私たち
には起こらない。たとえば、凹凸鏡のカラクリが判っていたら、私たちはそこ
に映る光景を楽しめる。細長くなった自分、ずんぐりむっくりした自分。鏡に映っ
た変化を笑って楽しめる。
しかし、そのカラクリを知らずに、鏡に映った世界だけがすべてだと思って
いたら、細長く映った自分を心配したり、ずんぐりとした姿に映った自分を受
け入れられずに憎んでしまったり、という愚かしい “ 問題 ” に巻き込まれてしま
う。
だから、瞑想は主観的ではなく客観的に物事をみる心を準備した自分が「ディ
ヤーター ध्याता(瞑想する人)」として坐る必要がある。瞑想の練習では、客観
的な心で坐れるように、「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)
」を一時的
に心からそらしておく。自分の思いだけで世界を判断しないように、ありのま
まの世界を映しだせる心を準備する。客観的に物事をみることができる人のみ
が、瞑想をできる「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」となるのだから。
それでは一体どうやって瞑想ができる「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」
になれるのだろう? そのためには、客観的である心の状態を意図的に準備する
テクニックが有効になる。
私たちが限りなく客観的でいることができているときとは、どんなときだろ
う?「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き ・ 嫌い)」に奪われず、主観に歪められ
ず、客観的に物事をみることができる問題を抱えていない「シンプルでオリジ
ナルな自分」とはどんなときだったか?
そもそも、自分にそんな状況あったかなぁ? そう思うかもしれない。が、ちゃ
んと物事を客観的にとらえているときは、誰にでもある。
130
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
たとえば、私たちが美しい自然にリラックスして接しているときだ。空や、
山や、川、星をみるとき、私たちは主観をのせていない。「もっとこんなふうな
らいいのに」
「ああだったらよかったのにぃ~」という要求もなく、そのままの
光景を心に映し出している。
自然の光景を見ているとき、私たちの心には問題のない自分、シンプルな素
の自分がいる。そしてありのままであり、問題と緊張がないリラックスした状
態を、私たちは心地よい体験として味わう。素の自分でいることに、くつろぎ
を感じることができる。だから、自然の景色をみることを私たちは大切にして
いるし、そういう時間が好きなのだ。自然を前にするとき、私たちは自分に違
和感がない状態、一番親しみがある心の状態を思い出す。
“ 瞑想をする人 ” は心に問題がない自分、客観的に物事をみている素の自分で
ある。その心の状態である自分が落ち着いて坐り続け、自分と向き合うことが
」である。
できる。それが、「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
客観的であればある程、私たちはリラックスできる。それゆえに瞑想の初め
には、「瞑想をする、シンプルな自分」でいるためのステップを踏む。
まずは、瞑想をする前に “ ありのままを映すことができている心の状態であ
る自分 ” であるために、心の中で自然を思い起こしてみる。たとえば、山や川、
空、海、緑の牧草、花など。そして、ありのままの自然を心に映し出すことが
できている客観的な自分を再現する。あえて、客観的である心の状態をつくり
だすのだ。さらに、落ち着きとは逆の緊張している状態や、問題のある状態と
はどう違うのか? をみてみる。私たちは、特有のプレッシャーを持ったり、欲
求を抱えている時、くつろぐことができない。その時世界のありのままをみる
ことはない。だから、瞑想の前に私たちは “ 素の自分 ” を取り戻すためのプロセ
スをたどる必要がある。
131
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
<瞑想の前の準備>
まずは落ち着こう
瞑想の前の準備としては、まずは落ち着くこと。ゆったりとまっすぐ坐る姿
勢をつくって、リラックスする。リラックスしながらも、規律のある姿勢を保
つことが瞑想の坐り姿勢である。そこから体の緊張を楽にし、呼吸を観察する
ことで、心の緊張を弛める。
客観的になる。次に客観的になるメソッドで、心配事や他人に対して自分が
抱える問題を手放す。自分に対するコンプレックスや、主観的なとらえ方をし
て起きている問題を客観的に受け入れるように、心を静かに観察する。という
一連のメソッドを瞑想の準備として行う。そうやって、始めて私たちは静かに
」となることができる。
自分の内に坐れる「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
आत्मसंस्थं मन: क्त्वा न किञ्चिदपि चिन्तयेत्
心を意志のもとに扱い、客観的にみることができる人は、自身の本質
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」に確立している。
その人の心は、真実以外のことで揺れることはない。
『バガヴァッドギーター』6.25
2.なぜ客観的じゃないといけないのか?
私たちは普段、幾つもの役を演じて生きている。そして、“ 役 ” にはそれぞれ、
役に特有の問題がついてまわる。役についている問題が、役だけに治まらず、
演じているはずの “ オリジナルな自分 ” にまで影響を与えることがある。
瞑想では、静かに坐る “ オリジナルな自分 ” が「ディヤーター ध्याता(瞑想す
る人)」である。しかし、この中心が問題に引きずられると、私たちは瞑想中様々
な思いに駆られ “ 迷走 ” に走り出してしまう。
目を閉じて、坐ったとたんに出てくる諸問題たち、雑念、感情のザワメキ、
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
過去へのやり切れない思い、未来への見果てぬ計画に心が弄ばれる。
「なぜあんなことをしてしまったんだろう」、「あれをしておけばよかった」と
いう後悔と自責。そして「なぜあの人はあんなことをしたんだろう? 」
、
「なぜ
私にあの人はこうしてくれないのだろう? 」と、期待と裏切りに傷つくことも
ある。
私たちの心に住んでいるこれらの思いたちは、目を閉じて坐ることで、より
一層際立ってみえることがある。自分を取り囲む人々は、私を傷つけるように
思える。この被害者意識から解放されなければ瞑想はおぼつかない。憎しみ、
痛み、嫌悪、それらは私たちの心でわめき散らすノイズだ。頭の中で瞑想を妨
げる目にみえぬ虫。はねの生えた生きのいい虫が私たちの心で大暴れしている。
「何か、あの人に対してしなければ」、
「なぜあの人はこんな風なのか? 」
、
「な
んで私はこんなに憎んでいる? 」。
様々な思いたちが羽音を立てて、私を落ち着かせず、静かに坐らせない。頭
にザワザワ騒ぐ虫がいて、どうして静かに坐ることができる? この心の中の虫
を退治しない限り、私たちは瞑想どころが、静かに落ち着いて坐ることもでき
ない。しかし、この虫は力づくでは追いだせない。追い出そうと力むことで、
さらに虫は暴れるからだ。
…どうすればいいのだろう? この場合の対策は、ノイズと暴れる虫の原因で
ある問題を “ 受け入れる ” ということしかない。
「でも、簡単に受け入れる…っていわれても…。そもそも受け入れられないか
ら、問題なんじゃないか!」。“ 受け入れること ”、これもなんだか、手あかのつ
いたような表現で、具体策を欠いているように感じる。
「だいたい、受け入れるっ
ていったって、そんな簡単に受け入れられたら、こんなに悩んでないっていう
のっ!」といいたくなる気持ちもよくわかる。
“ 受け入れること ” なんて、そんなホイホイ簡単にはできるはずがない。「試
練を受け入れよ。批判を受け入れよ」。「ハイ、受け入れましたっ!」。…そんな
に簡単に解決がつくなら、そもそも悩みになっていない。悩みから自由なら、
瞑想の必要なんてない。どうやって、私を傷つけるようにみえる人、私の気分
を害するようなことばかりいう人、嫌なことばかりする人を肯定できるという
のだろう?
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
しかし、私が避けようと、否定しようと、肯定しようと、現実的にみれば、
私には彼らを変えることはできない。人を変えることは不可能だし、私の権利
でもない。誰かを変える権利を、私たちは誰ももっていない。世界は変えるこ
とができない。
ではどうすればいい? 変えられるのは、自分の考え方、
物事のとらえ方だ。“ 受
け入れる ” というよりむしろ、自分の心に引っかかってくる人達に、
意図的に「自
由を渡す、自由をあげる」ということを試みる。そうやって、自分の心、考え
を変えていくように努める。「彼らは、彼らの領域で、ありのままでいていいの
だ!」そういって、彼らの自由を認める。思い切って彼らに自由をあげるのだ。
思っているだけでは効果がない。心の中で言葉に出して、はっきりそういっ
てしまうのがいい。
「彼が彼のままで、好きなように振る舞う自由を、私はあげ
よう。彼女があるがままでいる自由を、私は彼女に渡そう。彼らに自由をあげ
よう。自分の心から自由にしよう」。
人の行いや言動には、それぞれそうせざるを得ない理由がある。生まれ育っ
た事情や、環境がそうさせているのかもしれない。両親や、過去に傷ついた事
件がそう発言せざるをえないような境遇をつくっているのかもしれない。人に
はそれぞれ違うバックグラウンドがある。
もしかしたら、その人は私に向かってとげのある言葉や、批判的なことをい
い放った後、激しく後悔しているかもしれない。まるで、私と同じように。思
わずいいすぎた、いらないことをいってしまった時、私たちは激しく後悔し、
自分を責めてしまう。そうせざるを得なかった自分を反省し、後悔の中で問い
正そうとして苦しむことがある。その人も同じようなのではないか?
もし私が、その人と同じような環境で育ち、同じような条件にいたらきっと
同じことをしただろう。誰の心にも「傷ついた場所、傷つきやすいポイント」
があるように。過去の出来事や記憶から、とてももろく、繊細な “ 悲しい子供 ”
が誰の心の中にもひとりぼっちでたたずんでいる。この “ 悲しい子 ” を守るため
に、私たちはだれもが不本意に他人を批判したり傷つけるようなことをいった
り、やったりしてしまうことがある。
皆が同じように傷つきやすい存在を心に抱えている。それを世界から守ろう
として必死なのだ。自分を傷つけるような人も、実は自分と全く同じ事情やそ
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
れぞれのバックグラウンドがある。だから、彼らには罪はない。彼らの領域で、
そうせざるをえなかった自由を認めよう。
彼らに自由をあげる。彼らの行いではなく、彼らの事情や背景を受け入れる
のだ。「彼らは傷つきやすい。まるで自分と同じようじゃないか? !」
。そうし
て、私の心からも解放する。すると私の心で暴れ回っていた虫は、静かにどこ
かへ飛び立っていくのだ。
3.頭蓋骨の中で騒ぐ虫を追い払おう
もし憎んでいる人、大嫌いな人が心で暴れて、瞑想を邪魔してきたらどうし
たらいいだろう?「こいつは、私に不都合ばかりいう、嫌なことばかりする。
だから何かしなくては!」その人と上手くやっていくために私たちはあれこれ
画策する。逃げや攻撃の策を講じたりもする。それが心のノイズとなり、私た
ちを静かに坐らせない。
「受け入れること」。「彼らを自由にすること」。こちらが反撃したり、反応し
なければ他人は私を傷つけることはできない。
理屈はわかる。ごもっとも、とも思う。でも実際はなかなか難しい。そんな
に簡単に、自分の心に傷をつくった相手を受け入れたり、許したりできるもの
でもない。言葉では、
「自由にしよう」、
「受け入れよう」
。そういったとしても、
内心ハラワタが煮えくりかえるようだ。
それはそうだ。瞑想のために坐るだけで、問題と向き合うだけで、もっとも
らしい言葉をいうだけで、問題を受け入れ、爽やかになれるのなら、最初から
こんなに悩んだりしない。そんな時、どうすればいいのだろう? 何か自分にで
きることなんてあるのだろうか?
Yoga の古典経典、『ヨーガスートラ』はいう。それは、“ 行動に出る ” こと。
行動が事態をかえることがある。思いを行いに出して外に出す事で私たちは、
心の状況をかえることができる。内面の思いとは正反対の行いをして、思いを
プロセスさせる方法で私達は自分の中の憎しみや嫌悪から自由になれる!そう
Yoga の経典はいう。
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
その方法は「プラティパクシャ・バーバナ प्रतिपक्ष-भावन(思いと正反対
の事をする態度)」といわれる。思いとは反対の “ 行い ” をする。そうすることで、
自分の態度を “ 受け入れ態勢 ” にもっていくのだ。はじめは、憎たらしいあいつ
やこいつに、怒り心頭で「もう自由をあげたり、受け入れるどころじゃないで
すよ!プンスカ!」と思うかもしれない。
しかし、“ 行い ” という形でこの激しい感情を外に連れ出すうちに自分の緊張
や「ドウェーシャ द्वेष(嫌悪)」が徐々に弛み、次第に態度が変わっていく。そ
れが “ 行い ” のもつ力であるという。
世界は変えられない。しかし、私たちは自分の思いと態度を変えることがで
きる。これは口でいうほどたやすいモノではない。しかし、思いは “ 行い ” とい
う形にして外に連れ出すことでプロセスできることも確かだ。ではでは、圧倒
的な憎しみや恐れや様々な感情に迫られ、自分を頼りなく感じる時、まるで助
けがなくどうしていいかわからないときに、できることをみていこう。
「プラティパクシャ・バーバナ प्रतिपक्ष-भावन(思いと正反対の事をする態度)」
メソッドはシンプルだ。ただ、行動あるのみ。
どうしても苦手な人、憎んでしまっている人、許せない!なんとかしてやり
たい、そんな思いを自分がもっている人に対して、“41 日間、毎日お花をあげ
る ”。そういう行いをあえてするのだ。
花を贈られて怒る人はいない。そして花は愛と平和の象徴だと昔からいわれ
る。最初はたぶん、
「なんで、あんなことされて、あんなことをいわれた私が、
あいつに花なんかあげなきゃいけないんだ!? 」と怒り再沸騰、複雑に心は荒
れ狂うかもしれない。花を渡したとたんに、「やっぱり取り返してやるー!あん
な奴、花より、罵詈雑言の方がよっぽどお似合いだぜっ」と、きっと思う。
しかし、これは自分のためにするのだ。自分の心に生まれ、自分の中に違和
感をつくっている “ 憎しみと嫌悪 ” をプロセスするために。そして瞑想で坐れる
ように自分になるために。
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
41 日間というのは、経典にはないが “ 憎しみ ” という手強い感情をプロセス
するには一定期間必要であり、効果がある丁度いい日数であるといわれる。
初めは、自分の煮えたぎる “ 憎しみ ” と、正反対の行いをしている自分が苦し
い。本当は、憎まれ口の 1 つも吐き捨ててやりたいっ!!
そう思いながら、それでも笑顔で花を渡す。「ハイお花、どうぞ」。「どうか、
私のために、花を贈らせてくださいね」。そういいながら花を渡す。2,3 日は
怒りで顔がこわばって、声が震えるかもしれない。しかし、
だんだん慣れてくる。
1 週間たつころには、花を渡すときに少し笑顔が混ざるかもしれない。2 週間
もたてば、花を渡すのが習慣になって、普通に笑顔を作れるようになる。次の
週には、花について、天気についての会話が少しずつ入り込んでくるかもしれ
ない。翌週には、世間話の 1 つもできるくらいお互い心が開いてくるだろう。
そうして 41 日経つ頃には、“ 憎しみ ” は力を失う。敵と思い込んでいた人と、
何かを分かち合えるようになる。それが “ 行い ” の力だ。
花が渡せなくても、“41 日間だけ、優しい言葉を 1 日一言だけでもいう ”、“41
日間、花のような笑顔を毎朝 1 回は届ける ” というように、心の思いとは正反
対の “ 行い ” をする。こればっかりは、ただ坐って考えていてもだめだ。論理や
理論は、しぶとい “ 思いや感情 ” を消化するダイナミックな力がない。私たちは、
“ 行い ” によって自分の思いを変えていけるのだ。
世界は変えることはできないが、私たちは自分の態度と思いを変えることが
できる。自分の世界の見方は、広く大きな正しいビジョンと意志と努力で変え
ることができる。
自分が感じている世界、自分が見ている世界のありのままを知ることができ
るように、私たちは客観的になる必要がある。その心を準備できた自分が、初
めて瞑想で坐れる人になる。
愛する人が、憎しみの対象になる事実
いかに普段私たちが客観的に物事をみることができていないか? 主観的な期
待と偏見をのせてみているか?
つくづく思い知るのは、私たちが愛し、思いやりや気づかいを注いでいる人
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
ほど、自分の憎しみの対象になりやすい、ということ。「好きで、大事なのに、
憎たらしい!好きだからこそ、余計許せない!」。なんなんだ? この矛盾した
思いは…。
愛するからこそ、目が曇る。自分の過剰な思いをのせ、期待までのせてその
人を見ているので、自分の大切な人を客観的にとらえることができない。
「こうしてくれたらいいのに、もっとこうなってくれたらいいのに」。「もっと
受け入れてくれたらいいのに、優しくしてくれたらいいのに~」とか…。心を
開いて許しているがゆえに、過剰な期待をその人にかける。そして自分の期待
が叶えられないと、憎み、イライラする。「なぜ、どうして? 」と思ってしまう。
父親、母親、息子、娘、兄弟、恋人、パートナー…。愛する人達だけど、皆ど
こかで、あなたの心をイラつかせ、憎しみを抱かせることがあっただろう。
しかし、自分が愛し、期待をかける人も、その人なりの考えや背景がある。
彼らのバックグランドを自分はすべて理解しているわけではないが、皆それぞ
れに、課題をもち、抱える問題や事情があることはわかっている。そこは自分
には入り込めない領域だということも。そう思って、客観的に彼らを受け入れ
ることができれば、愛する人は愛する人そのままの姿で、自分とともにいてく
れる。
もし、愛する人にイライラしている自分に気がついたら瞑想で坐った時に彼
らが障害になるようだったら、瞑想の前に次のようなことを心の中でいうこと
で、主観と欲求たっぷりの思いを解放することができる。
「いま自分の心の中にいる人は、あくまでも私のとらえ方、私の見方で見た人
だ。それは、その人のありのままを映しているかもしれないし、間違っている
かもしれない。自分の主観で都合よく、見ているだけかもしれない。
今自分の心にいるこの人を、ありのままであるようにしよう。自由にしよう。
私から自由を渡そう。自分はその人のバックグラウンドや事情を考えずに、一
側面しかみていないかもしれない。その人があるがままでいられるように、私
から解放しよう」
。そう自分の心ではっきりということで、私たちは愛する人に
対する憎しみやイラだつ感情から自由になれる。
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
4.世界は変えられない
ありのままの世界を客観的に受け入れることができる人は、自分の中に問題
がない。偏見や主観から生まれる葛藤や内圧がない。様々に複雑に絡み合った
感情や固執した考え方や習慣、癖でその人の心の鏡は歪んでいない。鏡が歪ん
でなければ、ただあたりまえに、ありのままの世界が映る。そういう人だけが、
本当の意味で瞑想できる「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」である。
私たちは様々な主観や期待という色に染まった眼鏡をかけて世界をみてい
る。時には世界を正しくみることはあるかもしれないけれど、歪めて見ている
ことの方が多いかもしれない。この見方を客観的に変えていく方法が、瞑想の
準備でできる。
世界は私が許さない限り、私を傷つけることができない。しかし、私が許し
てしまえば、世界が私に入り込んできる。そして私を傷つける。
役を演じてないシンプルな “ オリジナルの素の自分 ”
私たちは、普段の生活で関わる人と同じ数だけの関係性の中で、常に “ 役 ” を
演じて生きている。意識していようが、いなかろうが、誰もがそうしている。
たとえ賢者といわれる人であれ、「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)
」で
あれ、聖者であれ同じこと。世界の関わりの中で生きることは、役を演じるこ
とだ。Yoga のためにすべてを捨去り、世捨て人のような生涯をかけて真実を探
求する生き方「サンニャーサ सन्न्यास(出家の生き方、捨て去ること)
」を選択
した人でさえ、皆役を演じて、世界と関わりあっている。
役を演じることは、自分に与えられた役割をこなすこと。そこに全く問題は
ない。むしろ役を演じていなかったらこの世界では生きていけない。世界とい
う大舞台に、皆がそれぞれの役を演じながら、一瞬毎にドラマをつくっている。
皆それぞれがこの世界というドラマの主人公なのだ。
ドラマが起こる舞台には、役なしには登場することができない。決められた
役がないのに、強引に舞台にいたら邪魔などころか、とってもイタイことになっ
てしまうだろう…。それと同じように、世界で生きていれば、私たちのだれも
が完全に役から自由になることはない。
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
だから、私たちが目指している “ 自由 ” は、ドラマを止めてしまうこと、世界
から脱出することではないといえる。自由になるために、世界から飛び出して
しまおうとすることは、解決法としてはあまりにも単純すぎる。しかもその試
みは不可能だ。
私たちは苦悩や、問題から自由になりたいだけなのだ。自分を苦しめるもの
や、恐れから自由であれば、世界と深く関わろうがいまいが、役を演じていよ
うがいまいが、関係ない。苦悩から常に自由であれば、どんな状況の中にいた
としても常にリラックスできる。無条件の自由。そのレベルでの “ 自由 ” を目指
している。
Yoga の目的は “ 世界から脱出策 ” や “ 世界を止める説 ” を主張する考えより、
遥かに洗練され、遥かに大きな視野にたっている。私たちは、
“ 自分を自由にする ”
というプロジェクトの始まりにいて、瞑想をしようとしているそれは、“ ただの
出来事を苦悩に変えてしまう ” 自分の物事に見方に革命を起こすことなのだ。
どんな役を演じていようと、本質的な自分自身を見失わずに真実の視点から
いつも物事をみる。客観的な態度と見方をいつももって世界と関わる。客観的
な心に世界と自分の事実が映りだす。自分自身の本当の姿を知り、さらに自分
とは、聖典が告げるように “ 自由の意味 ” であることを納得する。これが瞑想で
果たせる事である。
さて、本来、私たちの問題や、葛藤や、悩みはこの演じている役にだけ起こっ
ている。自分の役と別の役を演じる他人がぶつかりあい、ドラマを起こす。そ
して役には、様々な問題が生まれる。ドラマの中で、悩み、苦しみ、だからこ
そ人間として成長できる。また役の喜怒哀楽がドラマを彩るスパイスにもなる。
インドでは人生は 16 の違う味がする、実に豊かで味わい深くも、スパイシー
なものであるといわれている。
だとしたら、私たちが役を楽しめない程の大きな “ 問題 ” を抱え、苦悩する原
因はどこにあるのか? 私たちが世界というドラマを楽しめなくなっている原因
は、役と、役を演じている自分の境目がみえなくなってしまっていることにあ
る。役がリアルになりすぎて、本当の自分自身とは何者なのか? ということを
忘れ、混乱する。そこに問題や苦悩がある。
私たちは世界でいろいろや役割を担い、役を演じている。そうやって世界に
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
参加している。だから自分自身の本来の姿は、役ではない。瞑想で坐る際には、
役のまま坐るのではなく、役を降ろした本質的な自分、素の自分になって坐る
必要がある。そうでなければ、瞑想中に役の問題を背負い込むことになってし
まう。坐って静かにしていたら、どうしても内側ではさまざまな役たちが、ざ
わめき始めてしまう。これが “ 雑念 ”。自分でも驚くようなスピードで心は動き、
次から次に何の脈絡もない考えが駆け巡っていくような経験を瞑想中にしたこ
とがある人は多いかと思うが、その原因がこの役と、役を演じる者との境界の
曖昧さから湧いてくる “ 役 ” たちによるざわめきと雑念。
瞑想で坐れる「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」となるためには、素の自
分である必要がある。役を演じていない素の自分。だから、瞑想の前には、意
図的にすべての役を一度降ろしてしまうようにする。それが、客観的になるテ
クニックの中に組み込まれている。
役は人や物や状況との関係性の中だけで起こっている。親と接するときは、
自分は娘・息子であり、自分の子供と接するとき自分は親の役を務める。私た
ちの親も、彼らの両親と接するときは、娘・息子になる。絶対的な役はない。
いつも役は関係の中で変わり続ける。それでも、唯一 1 つだけ私たちには変わ
らない関係がある。それは、自分という存在は “ 全体世界とつながりながら生
きる個 ” としてある、という最もベーシックな関わりである。
世界と私は、役を演じる前から関わりあっている。私たちは役を演じる以前
に、“ 全体世界と関わりながら生きる個 ” なのだ。肉体・生理機能・感覚・感情・
考え、どのレベルでも個人である私は、全体と関わっている。体に起こるすべ
ての機能や動きを、私たちは自分の意志で動かしてはいない。呼吸や心臓の動
き、体温の調節、消化、眠りなどの活動は自然の摂理とも、理ともいえる秩序
によって治められている。私たちの本能やシステムを維持しているのは、自然
を維持する 1 つの法則と同じルール。その法則と力が、肉体を動かしている。
考えという機能や感情を働かせている。
意志とは無関係に、体の中の血液は巡り、酸素や二酸化炭素が駆けまわる。
目は「よし、見よう!」と意識しなくても物を映し、鼻は匂いを運び、考えは
私の意志とは関係なく、次々と連鎖的につながって思考のパターンをつくりだ
す。
141
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
全体世界を維持している秩序と法のもとに、これらの動きはプログラムされ
ている。心臓を動かそうとしなくても、自然の力が秩序をもとに自動的に動か
すから、私は生きている。どの人も “ 全体世界とつながる “ 個 ”” として生きて
いる」
。世界と離れて生きているものなどない。そして、この強い結びつきは、
たとえ私がどんな役を演じていようとも変わることがない。
聖典は、全体世界のことを「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と呼び、全
体と関わる個のことを「ジーヴァ जीव(個人)」と呼ぶ。個VS個、個人同士、
「ジーヴァ जीव(個人)」の間での関係は多種多彩だ。関わる人の数だけ関係が
あり、役割があり、現れては消え、どうにでも変化する。しかし、個&全体、
「ジーヴァ जीव(個人)」と「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」の関係は変わ
らない。ただ 1 つの特別なつながり。この変わらない関係の中心にいるのが、
「オリジナルな自分」である。役を演じていても、演じていなくても私たちは「オ
リジナルな自分」として全体と関わって生きている。全体世界とのつながりに
は、
対個人間で生まれるような、問題は生まれない。葛藤もない。それどころか、
全体との関係をはっきりと知ることで私たちは安心できる。「世界と自分は離れ
ていない」
。孤独感や孤立感は、自分と全体のつながりがみえていない時に起こ
る。不安や恐れも同様。
私たちは瞑想する時、リラックスし、くつろぎ、混乱のない状態でいる必要
がある。そうしないと自分の深い部分に向きあって坐ることができない。瞑想
において安心と心地よさ、落ち着きとくつろぎは、“ 全体と個 ” の絶対的な関係
を知ることで可能になる。個人どうしの関係は関わる相手によって変わり、時
に誤解や争い、軋轢が生まれることもある。しかし、“ 全体と個 ” の関係はどん
な時も変わらない。絶対的な信頼がある。この関係を、瞑想を練習することで
強調し、深い信頼を私たちの内から引き出すことができる。そのことで世界を
信頼し、心地よくくつろぐことができる。リラックスした心には、恐れや葛藤
という主観や偏見がない。その心に事実が映りだす。そして自分自身の事実を
知る者は、自由の意味を知る。瞑想は、自由への飛躍のための、大事なプロロー
グなのだ。
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第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
5.「瞑想する人」は
シンプルに「知る、わかる」ことができる人
誰が瞑想をしているのか?
これは実は、何度も確認する必要がある大事な点。なぜなら、私たちは心を
準備することなく突然坐っても、瞑想することはできないからだ。瞑想をする
ためには、私たちは「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」である必要がある。
それは、瞑想を準備するいくつかのステップを踏むことで可能になる。なぜ
「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」でいる必要があるのか? そして、そのた
めにはどうすればいいのか? その方法を見ていこう。
私たちは世界で生きる時、2 つの関係性をもって生きている。1 つは
「個と個」
のつながり、もう一つは「個と全体」のつながりである。
生物は、いつも誰かと関わりあって生きている。誰とも関わらないで生きて
いる人はいない。人間だけじゃなく、動物も、植物も、虫も、個である以上、
他の “ 個 ” と関わりあいながら生きている。“ 個 ” の事をサンスクリット語では、
」は、体
「ジーヴァ जीव(個人)」という。生きている「ジーヴァ जीव(個人)
と感覚と心という 1 つのユニットで構成される。このユニットが他のユニット
と関わりあって、社会がなりたっている。
また、同時に 1 つの個である「ジーヴァ जीव(個人)」は、全体世界とも関
わりあっている。森に生える 1 本の木は、森全体と関わっている。それと同時
に 1 本の木は、他の木々とも関わりあっている。
同じように、私は全体と関わりあいながら、同時に他の人とも関わっている。
全体と関わりあう時、私はただシンプルな個だ。しかし、他の人と関わるとき、
私はその関係性に見合った分だけの役を演じている。
たとえば、誰もが両親に対しては “ 息子もしくは娘 ” である。この役をもって
いない人はいない。“ 親子 ” という関係だが、父と関わる時、母と関わる時は、
違う関係性が成立している。私は “ 父 ” に対して、“ 母 ” に対して、それぞれ違
う役をもっている。父にはいうかもしれない事を、母にはいわなかったりする。
143
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
父に対する怒りは、母に対する怒りとは違っていたりもする。だから、私が演
じている役は、関係する人の分だけある。そして、その役柄に相応しい事をす
ることを求められている。私は両親にとって息子もしくは娘という関係があり、
同時に兄弟もしくは姉妹に対する関係もある。祖父祖母に対する関係において
孫という立場で接するし、社長に対しては、従業員という役をもつ。私は様々
な役をもつが、実際にそれは全部 1 人の私である。1 人の人間が、娘になり息
子になり、兄弟になり、妻・夫になり、伯父・叔母になり、友達になり、上司・
部下になる。1人の人が演じる役割は実に多彩だ。両親と関わる時は、
娘・息子、
それと同時に兄弟をみたら私は兄弟や姉妹としては反応しなくてはならない。
こんな風に役割のシフトは自動的に行われている。人はいつも 1 つの役から別
の役にとっさに切りかえることができる。
“ シンプルな人 ” とは、「全体世界と関わり、つながり合う個」
ところで、役の切り替えは、私という「ジーヴァ जीव(個人)
」が全体世界
に関わる時はどうなっているのだろう?
全体世界「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と個である私が関わる時、私
は父でも、息子でも娘でも、母でも、伯父叔母でも、敵でも見方でもない。役
を演じることなく、ただ “ 個 ” として、全体と関わっている。
Yoga の経典『バガヴァッドギーター』は、この全体と関わる “ 個 ” のことを
「バクタ भक्त(全体と関わる個、献身者)」と呼ぶ。もう少し厳密にいえば、
“全
体と関わる個 ” である自分事実を知っている者のことである。
実際には、全体と関わっていない人などこの世界にはいない。しかし、多く
の人は自分と世界の関わりを忘れてしまう。「バクタ भक्त(全体と関わる個、
全体に自分を開け放つ者)」とは、様々な役を演じる以前に、自分の素とは “ 全
体とつながり合う個である ” ということの方に、よりはっきりとリアルをみて
いる人のこと。
よくある Yoga 本の解説には、「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分
を開け放つ者)」は、“ 献身者 ” と訳される。しかし、本来の意味は、神の気を
144
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
引こうとして歌を歌ったり、捧げものをしているだけの人を指すだけではない。
「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放つ者)
」とは、全体「イー
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と関わる中心人物を意味する。“ 全体と個 ” と
のつながり、この特別な関係性をより強調するのが、瞑想なのである。
私という個のリアリティは、1 つの役というよりも、全体の中でつながるシ
ンプルな存在の方にある。より自分をリアルな観点からとらえる。それが客観
的であること。私たちは客観的で、落ち着いた状態で、瞑想をする必要がある。
瞑想をするにはシンプルな個、「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分
を開け放つ者)」であることが求められている。どういう意味か?「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」と関わりあうという事は、他の個と関わりあいの中で役
」は、たくさん
を演じているのとは違う。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
いる個の内の 1 人ではないからだ。もっともベーシックで、生物の根幹をなす
関わりが個と全体との関係なのである。
この関わりを理解し、“ 個 ” として全体をつながることが私たちに安心とゆと
りをもたらす。安心とゆとりのある心にだけ、深い瞑想は起こる。だから瞑想
をするうえでこの関係の理解は不可欠なのだ。本当は特に理解をしなくても、
“全
体と個 ” は深く関わりあっている。しかし問題は個人の方に、自覚がないこと
…もしくは日々の忙しさですっかりファンダメンタルな関係を忘れ、自覚が無
くなってしまうこと。ベーシックな関係を忘れて、たった一人で世界に生きて
いるなどと思ってしまうことである。そして勝手に、世界から離れているといっ
て孤独を抱えたり、絶望にとらわれたりする。
事実は違う。我々が、最も基本的な “ 全体と個 ” の関係を、はっきりと自覚し
ているのなら、世界で起こることは全く問題にならない。自分と離れていない
ものに、恐れや不安の原因はない。私たちの “ 恐れ ” は、自分と離れたものにの
み生じている。
しかし、私たちは、混乱してしまう。混乱したうえで、事実がみえなくなっ
ている。“ 全体と個 ” の最も深くベースにある関係を忘れてしまう。そうして、
忙しく幾つもの役を同時にこなし、それぞれの役の問題をまぜこぜにしている
内に、真実をみることの意味さえ忘れ、自分が何者かが判らなくなる。これが
145
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
個人に問題を引き起こしている。
Yoga 的瞑想の準備ステップは、この混乱を落とす。そして、“ 全体と個 ” の
関係を再確認する。そのためには、あえてつながりをハイライトするような “ 行
い ” をする必要がある。Yoga や瞑想や「プージャ पूज(儀式)」といった行いは
皆、“ 全体と個 ” の関係を再確認することが目的である。自分と全体との明白な
つながりをみる。自分の事実を知ることで心配や問題を解消する。“ 全体の中で
生きているベーシックな個 ” を呼び起こす。これが、瞑想の準備ステップでで
きること、すべきことなのである。自分の体を含めた全体世界は、
「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」である。“ 現れた質、特徴、” という視点からみたら「サ
グナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」という。「イーシュヴァラ ईश्वर(全
」は同じ意味をも
体世界)」と「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)
つものであり、視点を少し変えた時の別々の言葉というだけである。
瞑想とは、
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)
」を「ヴィシャヤ
」にした「マーナサ・ヴャーパーラ मानस व्यापार:(心の活動)」で
विशय(対象)
ある、というきっちりと定義される。それは、個である「ジーヴァ जीव(個人)
」
が「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に心をつなげること。さらにいえば、
“ 個人が全体と関わる、その関係性を再認識する ” という心の活動なのである。
その意を含まない行いは、どんなに “ 瞑想っぽく ” みえても、Yoga 的では瞑想
とはいわない。
6.「イーシュヴァラ(全体世界)」と
「サグナブランマ(全体世界の現れ)
」
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の理解なしに、私たちは「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」と関わりあう事はできない。私たちは生まれた時から今
」と関わりあっている。
まで、そして未来も「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
その関係は、出たりはいったり、始めたり、終わりにしたりもできない、
数分間だけ熱狂的に「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と関わり「バクタ
146
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放つ者)」になって、数分後は熱が
冷めて関係は終了するということにもならない。
この世界のすべてが「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」である。
「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」は全体である。それは、私たちの体・感覚・機能・
考えや感情どのレベルにも、法則として浸透し、1 つの完全な秩序をつくり出
している。
森に生える 1 本の木には、その中に全体である森の秩序が広がる。森のルー
ルに満たされて、森のシステムの中で一本の木として、また森として生きてい
る。何があっても木には、「僕は森じゃない!」といえないように、木は森から
離れることがない。
一本の木と森の全体性を理解することは、私たちが「イーシュヴァラ ईश्वर
(全体世界)」と個の関係性を認識することと同じ。特別な関係性は、
“ 個と全体 ”
に常にある。個と全体の関係性は変わることも、置きかえられることも、終わ
ることもない。これは、客観的な事実だ。
これが事実であるから、私たちは安心することができる。そして、安心して
つながりを深める瞑想をする時、私たちはリラックスしている。心からの安心
感、リラックスは、高い客観性があることの証でもある。
客観的になり、事実を再認識する。私たちが個として、全体と関わるという
」
事実。その全体とは常に活動し、躍動する「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
である。
私たちは個として物事を認識する。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」は
全体としての意識、認識をする存在である。私は常にこの認識の存在、
「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」と関わりあっている。どんな時も。
この事実は、はっきりと理解される必要があるのだ。私という個は、まず全
体と関わりあっている。そのベースの上に、様々な役を演じている者である。
バリエーションに富んだ役の前にまず、「個と全体」のより深い関係をもつ個人
なのだ。全体と関わりあう個の上に、父、母、兄弟、友人、などの関係性をプ
ラスしている。
147
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放つ者)
」は、
「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」と関わる個としての認識を常にもつ「ベーシックな人間」
である。そのベーシックな私が様々な役を演じる。
問題は、私たちがベースを忘れてしまいがちということだ。時々個として全
体との関係を思い出したりする。けれど、多くの時間この関係を忘れて過ごし
ている。そして時々私は「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放
つ者)
」になる。お寺や境界に行くときだけ、Yoga をしている時だけ、日曜日
だけ、
「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放つ者)
」になったり
する。
現実は、全体と関わる「バクタ भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放
つ者)」の私が、どの役割にも浸透している。この “ つながり ” をみることが、
「ヨー
ガ योग(つながること、1 つの全体であること)」と呼ばれる。私たちは「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」とのつながりを自覚する時、全体世界に安心し、落
ち着くことができる。
だから、瞑想の前に全体世界とつながる「バクタ भक्त(全体と関わる個、全
体に自分を開け放つ者)」ベーシックな自分を呼び起こす必要がある。「バクタ
भक्त(全体と関わる個、全体に自分を開け放つ者)」である自分。素の自分。
それを呼び起こすことは瞑想の準備。
その準備ができて、
はじめて瞑想ができる。
毎日私は沢山の人と出会い、関わりあっている。その私が瞑想中は、全体世
界と関わりあう者となる。毎日演じている様々な役割、父母、妻、夫、義理の
○○、娘、同僚など、すべてから一時解放され、全体と関わりあう素の自分で
いるために、演じているすべての役をいちど、手放すのだ。
そうして瞑想をする人は、完全に客観的な存在となる。瞑想中私たちはベー
シックな人間であり、世界とつながる個であり、「知る、わかる」ことができる
意識的な存在の中心である。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」との関わり
だけを残したすべての役を手放し、全体となる。
普段私たちの心には、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」は、出たりはいっ
148
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
たりしているようにみえる。時々思い出したように手を合わせたり、祈れる心
や謙虚さをみせるが、多くの時間を私たちは忘れて過ごす。つながりをわすれ
ることで不安になる。問題や恐れを抱える。
だからあえて、「マーナサ मानस(心)」「ヴァーチカ वाचिक(言葉)
」
「カー
イカ कायिक(体)」という 3 つのレベルで全体と関わる行いがなされる必要が
あるのだ。
Yoga の経典は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と “ つながる ” 行いを
意図的にすることが、「ヨーガ योग(つながること、1 つの全体であること)」
という。“ 私たちは全体世界と一時も離れることなくつながりあっている ” とい
う事実の認識を確立するための要となる行いが Yoga なのだ。疑いや障害を取り
除き、事実にしっかり足をつけて認識を確固たるものにする。
そうやって個人が意志によって行った「カルマ कर्म(行い)」は、「ドリシュ
タ・パラ दृष्टफल(目にみえる結果)」「アドリシュタ・パラ अदृष्टफल(目に
みえない結果)」という 2 つの結果を生む。「アドリシュタ・パラ अदृष्टफल(目
にみえない結果)」は「プンニャ पुण्य्( 徳)」と「パーパ पाप(不徳)」 という
さらなる 2 つの結果を生む。
瞑想では、
「プンニャ पुण्य(徳)
」という特別な徳を積むことができる。
「プンニャ
्
पुण्य्(徳)」は、Yoga 的な探求を成功させるために不可欠なファクターとなる。
自分自身の知識を知るための基礎つくりと、そのために必要なサポートや祝福
を瞑想によって得ることができる。
さらに、“ 瞑想をするベーシックな人 ” は、緊張から自由である。そもそも、
ありのままをみることができる人は緊張から解放されることなど必要ないのか
もしれない。しかし、緊張は意図しなくても起こってしまう類のものだ。だから、
私たちはいつも自分を弛めることが必要とされる。
瞑想にはいる前のテクニックでは、体、呼吸、感覚そして心に対して客観的
になることで自分自身を楽にするメソッドを行い、緊張を弛める。
149
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
7.瞑想をする “ シンプルな人 ”
瞑想をする「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」は、
“ シンプルな人 ” である。
それは、もっているものがシンプルとか、着ている服や佇まいがシンプルだと
いうことではなく…「主観や偏見で歪んだ見方をしない認識の中心」がシンプ
ルである、という意味である。
複雑に歪める主観がないこと。あるがままをシンプルにただ認識すること。
認識、考え方のシンプルさを意味している。
私たちは様々に演じている役の関係性の中にいると、役という視点から、世
界を独特の見方でとらえがちである。
自分特有の考え方で、世界の情報をとりいれ、それをもとにジャッジし、物
事に対して結論をだす。
そしてその結論に自分自身で悩み、とらわれる、という事をしてしまいがち
なのだ。たとえば、顔をしかめた友人をみただけで、「ああ今、彼女は私に対し
て何か不満があるのかも? なんで怒っているんだろう? 」などと勝手に判断す
る。顔をしかめた友人は、ただ単にくしゃみを我慢しただけなのもしれないの
に。瞑想に映る光景をそのままとらえるのではなく、必ず独自の解釈を入れて
みてしまう。そうやって、小さなことにいちいちくよくよ悩んだりする。
さらに私たちは役ごとに、関わっている人が違う。演じている役の視点で世
界をみて、違う関係性の中でそれぞれ問題をつくっている。そして、どこから
どこまでがどの役にくっついてる問題かももはやわからなくなって混乱する。
混乱が混乱を呼ぶ。混乱した個人が、瞑想で坐っても、そこで起こることは “ 混
乱 ” に他ならない。坐っていても、落ち着かない。心は問題から問題に走り回り、
あまり瞑想の成果がよくわからないまま、時間だけがたっているのを知る。
「あれ、瞑想って時間のムダ? 」と少しでも感じてしまったら、瞑想を習慣
にするのは難しい。
だから、瞑想をする前に私たちは、まず「混乱した人から⇒シンプルな人」
になる必要がある。それが瞑想をする前の準備なのだ。シンプルな人 ” は、
「た
だありのままを認識をする存在」ともいえる。このシンプルに認識し、ベーシッ
クな人が認識の中心が存在している。
150
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
「役を演じず、偏見を載せず、物事をシンプルに知り、認識する者」シンプル
な人は、「主観と偏見」から自由に、客観的に物事を見ている。
たとえば、あなたが丘を見たとしよう。「あ、丘だ」とあなたはいう。バスを
見たとしよう。
「ああ、バスだ」。とあなたはいうだろう。何か音を聞いたとし
よう。
「なんか音がするな」。という。ただそれだけだ。あるがままをあるがま
まに認識する人。シンプル。自分の意見や考えを交えずに、世界をただ観るこ
とができる人だ。このシンプルな認識の主体が私たちの中核にいる。
この中心が世界の情報を把握する。その後、“ 考える ” 主体であるあなたが、
役を演じるあなたが、ありのままの情報の上に「こうしたい、ああしたい、こ
うあればいい」好き嫌いを基準にした “ 考え ” をのせて物事を判断する。
たとえば、3 人の人が道を歩いていたとする。鈴木さん、佐藤さん、加藤さん。
あなたは後ろから彼らの名前を 1 人ずつ呼ぶ。
「鈴木さぁーん」。すると鈴木さんが反応し振り向く。
「佐藤さぁ~ん」。佐藤さんも同じように反応して、振り返るだろう。
「加藤さん」。加藤さんも反応して振り向くはずだ。
もしあなたが大きな声で「愚か者!!」といったら、多分 3 人とも同時に振
り返る。彼らは何を聞いたのだろう? 耳は音を拾うだけで、
考えない。ただ「愚
か者!」という音に鼓膜を震わせただけだ。音の意味を拾いあげて、反応した
のは誰だ?
それが、“考える ” あなただ。“考える人 ” は、
「愚か者!」
という音の意味を拾う。
そして考える。
「なぜ誰かが私を愚か者!なんて呼ぶのだろう? 」
。そんな風に
考えて、振り返るのは、その人がその “ 愚か者である ” というアイディアを買っ
てしまったからだ。愚か者を自分の事だと、考えて振り返ったのは、“ 考える人 ”
だ。耳じゃない。認識でもない。
もしかしたら、幼いころ、ずっと昔に、誰かがその人のことを「愚か者、
バカ者」
と呼んだのかもしれない。その時と同じように嫌な気持ちになり、たぶん考え
ただろう。
「私は愚かじゃない。馬鹿じゃない。それなのに、なぜ彼らは私の事
を愚かだなんていうのだろう? 」。反発し、リアクションをとってみせるのも、
その人は “ 愚か者 ” という考えに影響を受け始めているからだ。疑いが心の中に
151
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
広がる。
「もしかしたら、私は愚かでバカなのかもしれない…」。そのアイディアを不
本意ながら、買ってしまう。だれもがそうやって、“ 音を聞く ” シンプルな人か
ら、“ 意味を取って自分と結び付ける ” 考える人となり、世界に反応している。
だから、“ 愚か者 ” の意味に、心当たりがある 3 人が同時に振り返るのだ。
この例えから、私たちに起こっていることを理解することができる。私たち
が世界と関わる時、まず五感を通して取り込まれた情報をもとに、
シンプルな “ 認
識 ” が起こる。そして、この “ 認識 ” の後に、考えて「反応」を起こす。基本的
に私たちは、役を演じる前に、世界にリアクションする前に、認識をする “ シ
ンプルな人 ” である。“ シンプルな人 ” は、偏見という考えに染まらずに、全体
世界とつながりあっている “ 個 ” である。この人が “ 瞑想をする人「ディヤーター
”
ध्याता(瞑想する人)」だ。客観的にありのままを知ることができる主体。
私たちは、瞑想の準備ステップを踏むことで、まず演じている役を降ろし、
「役
の問題」から離れる。そして、自分の考えが誰かの考えや過去の記憶に影響を
受けているとしたら、その影響を客観的になることで外していく。
そうして偏見や主観に埋もれることなく、世界のありのままを認識する “ シ
ンプルな人 ” であるようにする。そうして、はじめて落ち着いて静かに坐れる。
だからといって、“ 考える人 ” が考えることは、悪いことではないのだ。
「も
し自分が、瞑想前のステップをわざわざしなくても、ずっと “ シンプルな人 ” だっ
たら問題ないじゃないか? !」と思うかもしれない。だから、「考えが悪い、
考えが私を悩ませ、苦悩に陥れる。だから、考えることをやめよう」そんな風
な結論を出して、実際に “ 考えないことに徹する ” 瞑想に果敢に取り組むことを
推奨する教えもある。しかし、それはあまりに短絡的すぎるのではないか?「考
えが問題を起こすのだから、考える事をやめてしまおう!」という人達は、そ
の単純さがこんなたとえ話にちょっと似ている。
とある病院の診療室にて。
医者「どうしました? 」
152
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
患者「先生、頭が痛くて痛くて。ズキズキして、寝ても起きても辛いんです」
医者「そうですか…問題は頭なんすね」
患者「そうなんです、頭が痛いから食欲もないし、動くのもダルイのですよ」
医者「それじゃ、頭をとっちゃいましょう。問題は頭なんですから。すぐ楽
になりますよ~。さ、全身麻酔しますから横になって」
「考えることが悪い」と、考えを糾弾し、苦悩から逃れるために “ 考えない ”
ことを選択する人たちは、“ 頭痛に対して頭を取る ” という解決法を試みること
に似ている。彼らは自分たちの都合に合わせて Yoga 的経典まで同じような意味
合いで解釈する。「Yoga とは、心の止滅である」。そうではない。オリジナルの
経典はこうだ。
योग: चित्त वृद्धि निरोध:। ヨーガ(ス)チッタ ヴルッディ ニローダ(ハ)
『ヨーガスートラ योगशूत्र』1.2NCH transcription
「ニローダ」という言葉を、“ 止滅 ” とか “ 滅すること ” と解釈すれば “ 心を止
める ” ことが、Yoga になってしまう。彼らの解釈では、“ 止める ” だけではま
だ足りない。“ 止めたうえで、滅する ” のだ。何と痛ましい…。
心は考えたり、感情を味わったり使うためにある。考えを止めようとする人
たちは、心を動かさず、心を捨てゾンビのように生きるのが目標なのか? そん
なものを目指すのか? 苦悩や悩みと引き換えに? 高すぎる代償だと思う。そん
なことをしたいとは思わない。しかもそんなことは不可能だ。なぜなら、動き
回ること、が心の性質だからだ。心は多彩な世界に向かって飛び回る。そうやっ
て世界を体験するようにできている。
“ 考える ” ことは、人間だけに許された特権だ。それだけ、高い感度と質をも
つ “ 思考する能力 ” が私たちには与えられている。
153
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
牛は、明日を考えない。考えられない。しかし、この裏のメリットは、未来
を恐れないということだ。猫は過去を振り返らない。それは後悔しないという
ことだ。魚は「泳ぐべきか、止まるべきか? それが問題だ」ということを微塵
も思ったりしない。彼らは悩まない。悩めないのだ。
しかし、人間は考える。考えるからこそ悩む。苦悩する。だが、その裏のメ
リットは、
「だからこそ自由を目指せるのだ。苦悩から自由になろうとすること
ができるのだ」ということ。私たちはこの世界に生きながら、完全に束縛や苦
悩から自由である、という次元の生き方を目指して生きることが視野にはいる
ようになっている。その次元を、“ 悟り ” といったり、Yoga 的表現では、「モー
クシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」 という。“ 考える、悩む ” ことができるというのは、
自由を目指す可能性があるということ。しかし同時に考えることは、問題を作
ることも確かだ。心配し、不安になり、恐れ、落ち込むという、考え故の苦悩
に私たちが陥ることがあるのも事実だ。
「考えなければ、心配も寂しさも、孤独も怒りもない」。それは正しい。熟睡
しているとき、私たちは考えない。だから苦悩がない。全くその通りだ。しか
し、苦悩から自由になりたいからといって、四六時中寝ているわけにはいかな
い。考える機能を停止して、世間から背を向けて自分の世界だけに生きるわけ
にはいかない。考えることは私たちに広い次元と可能性をみせてくれるが、同
時に苦悩をつくり出す。それは本当のことで、どうにもならない。この “ 考え ”
に対して Yoga は、「確かに考えは問題の原因でもあるが、一体考えることの何
が私に苦悩を引き起こすのか? 」ということを見極める。そのために、問題に
しっかりと向き合う。苦悩の原因を見極める。
“ 考える ” という私たちの特権は、こんな風に意味があることに使うようにで
きている。意味のある事に適切に使えば、“ 考え ” という機能を与えられている
ということは、この上ない祝福だ。逆に、もし適切に使わないで悩んでばかり
いたら、考えは呪いだ。
悩みは “ 考え ” という機能の本来の役割を満たすことがない。「悩むことは何
か? そこからどうすれば私たちは自由になれるのか? 」。そう、このポイント
を考えることで、私たちは “ 考える ” 機能を有効活用できる。
Yoga は、“ 問題 ” に真剣に向き合い、苦悩の原因をみて、その根を解決しよ
154
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
うとするアプローチだ。苦悩に対して “ イジケテふて寝 ” もしくは、“ 考えを抹
殺してゾンビに ” という解決法は、本来の Yoga の目的とは著しくかけ離れてい
る。
『ヨーガスートラ』の「ニローダ निरोध(客観的であること)
」という言葉の意
味は、“ 止める ” というよりも、どれだけありのままの世界を “ 客観的に ” 受け
止めることができるか? という意味である。
「心を放って、本能の赴くままにほったらかしにしないこと。客観的に物事を
とらえ、主観や偏見でとらえた世界に衝動的にレスポンスしたり、反発的なリ
アクションをしないように努める事。“ だれかの表情や言動 ” を伺いながら、恐
る恐る生きたり、内なる恐れや怒りなどの感情に突き動かされたり、世界の出
来事に振り回されることがないように定めること」
。というようなことを、Yoga
では目指す。そのために、考えをきちんと整える。主観的な自分だけの見方や
偏見たっぷりの思いを、客観的な見方がベースにある考え方に変えていくこと。
8.問題は “ 考え方 ” であり “ 物事の見方 ” である
“ 考える ” こと自体は問題ではない。それ自体は、
苦悩にはならない。“ 考える ”
ことは苦悩をつくりだすことも確かだが、苦悩から自由になることができる可
能性は “ 考える ” ことだけにある。問題は “ 考える ” ことではなく、
私たちの「考
え方」だと Yoga の経典はいう。考えそのものを敵にするのではなく、考え方の
問題を冷静に見て、問題の原因を改める。
「自分特有の物の見方、主観」が世界のありのままの出来事や、
単なる他人を “ 問
題 ” にしたり “ 苦悩の原因 ” にしてしまったりする。経典は、主観的な考え方の
ベースは、「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)
」という 2 つ思いであ
るという。この 2 つの思いを通して世界をみると、私たちは世界を歪めて心に
映し出してしまう。
だから世界を問題にしないためには、「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・
嫌い)
」に引きずられないようにすること。他人やただの出来事を「苦悩」に変
換してしまわないように。ありのままを映しだす “ 客観的な物の見方 ” をする。
155
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
その見方を練習する方法が Yoga の鍛練法であり、その中でも効果が高いのが瞑
想の練習である。
深い瞑想は客観的な物の見方をする人でなければ、起こらない。本当に瞑想
で坐ることができるのは、物事を偏見無く、フラットにみることができる視野
の広さと、心にスペースがあることが条件になる。
体、体の動き、感覚、考え、心を含む自分をありのままに受け入れる事。
世界を客観的にみること。
客観的であるがゆえの落ち着きと、ゆとりは、瞑想の練習でのみ得ることが
できると、経典はいう。
この本で紹介している「リアリティ瞑想」では、瞑想の練習を 2 段階に分け、
瞑想ができるための心を準備する。
この 2 つの段階を経て、私たちは Yoga で最も必要とされる “ 客観的なビジョ
ン ” を得る。理論はこれだけ。あとは、毎日実践して、練習する。完璧な瞑想
をする人、客観的になるのが初めはどんなに難しくても、毎日練習することが
必要。もしかしたら年単位での練習を積んで、結果がでるかもしれない。心の
訓練は今までしていなかったら、それなりの時間がかかるのは当然。思い通り
にいかなくても、とにかく瞑想のために 1 日 5 分でも、10 分でも坐ってみる。
泳ぎを覚えたかったら、水に飛び込むことしかない。丘のうえでは、いくら
完璧なコーチについて練習したとして、一生泳げるようにはならない。同じよ
うに、瞑想をしたければ、瞑想に飛び込み、実際に瞑想を練習するしか道はな
いのだ。そして時間がかかっても、正しいメソッド、伝統に基づく方法で練習
を積んでいれば必ず結果はでる。心配無用。安心して坐ろう!
9.瞑想は自然に起こるもの 意志の力では瞑想はできない
愛がある人が、愛する人になる。慈悲をもつ人が、慈悲深い人になる。優し
さのある人が、優しい人になる。勇気ある人が、勇敢な人となる。同じように、
156
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
瞑想の質がある人にのみ、瞑想は起こる。
深い “ 瞑想 ” は意志の力ではできない。それは自然に起こるものである。瞑想
ができる質を備えた時に、瞑想は自然に起こる。それまで私たちは、強い意志
と努力によって “ 瞑想が起きるために必要な質 ” を養うことができる。
“ 瞑想の質 ” を備えた者だけが、瞑想できる。瞑想の場所も完璧、タイミング
も座もしっかりとある。さあ、座ろう。といって、坐る事はできる。目をつぶ
る。背筋を伸ばす。呼吸を深くする。ここまでは、すべて意志でできることだ。
しかし、ただ静かに坐っていることが瞑想ではない。
① 瞑想にはいる前の準備:客観性を高める
ターゲット:心にスペースをつくること、落ち着きとリラックスを養う
こと
② 瞑想の練習:心の動きを意志の内に治める
ターゲット:心を自分の道具にすること,自分自身の本質をみること
最 初 の 定 義 で 見 た よ う に 瞑 想 は、「 マ ー ナ サ・ ヴ ャ ー パ ー ラ ハ मानस व्यापार:।(心の活動)」。ただ坐っているだけでは、瞑想は起こらない。
目を閉じて坐ったとたん、心がいろいろな事に引きつけられていく。外の音、
匂い、過去の思い、終わったら何たべようかな? 未来の計画、予定、心配事、
家族のこと、友達の事、今朝きいたニュースについて…など、心はどこへでもいっ
てしまう。瞑想から遠く離れたところへ、出かけていってしまう。だからたと
え体は坐っていても、心がぼんやりしたり、雑念に遊んでいたりすることは瞑
想とはいわない。
瞑想のもう一つの定義は、「サグナブランマ ・ ヴィシャヤ सगुणब्रह्म विशय
(全体世界の現れを対象にすること)」に対する心の活動。
自分で選んだ瞑想の対象に心をつなげようとする。しかし、心はひょいひょ
157
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
いとどこかへ行く。その内眠たくなる。気づけば、夢を見ていたりする。もし
くは、くるくる変わる心模様に弄ばれ、へたをしたら瞑想をする前よりも落ち
着かなくなっている。瞑想に伴うはずの「深さや静寂」といったものが全く感
じられない。
なぜなのだ? 心があちこち飛び回る事に対して、私たちはまるで無力だ。そ
んな風にみえる。それは、瞑想をしようと静かに目を閉じたとたんに、“ 考えの
中心にいる自分 ” が内なる心の世界に閉じ込められ、内なる世界を右往左往し
ながら翻弄されるからだ。考えの中心の自分は、いつもは外の出来事に対して
リアクションをとる。しかし、瞑想中には表へ刺激を求めて飛び出せない。だ
からそのかわりに内なる世界をあちこちに動きまわる。
また瞑想することで落ち着かなくなるもう 1 つの理由は、瞑想をしようとし
て、私たちが目を閉じて静かに坐ると、自分が今までもっていた生き方に対す
る態度や人々に対して抱える気持ちなどが表面化してくることがあるからだ。
様々な気持ちを抱える考えの “ 私 ” は、心のどこかに罪悪感と自責、そして他人
から傷つけられ、傷つけられることに対する恐れをもっている。普段は閉じ込
めているその恐れや不安が、瞑想で落ち着いた時に心に浮上してくることが多
くあるからだ。
だれもが、自分を取り囲む環境や状況や、人々に深く “ 傷つけられた ” という
思いを抱えている。“ 自分は傷ついた、傷つけられた ” と感じている。それは、
自分を守る術を知らなかった幼い時に、傷つけられた記憶が中心になっている。
世界は、私が傷つけられることを許してしまった時に、私の心に入り込み、
傷をつける。物理的な体は、誰かによって傷つけられることがある。しかし精
神的な心の傷に関しては、私が世界の侵入を許し、傷つける事を許さない限り、
私を傷つける事はできない。
だれも子供の時はこの事を知らない。そして世界から自分を守る術もしらな
い。だから、世界が自分の心を傷つける事を防ぐことができず、世界に傷つけ
られる経験をしている。一度できた傷は、膿んだり、悪化したりしながら、傷
跡を後まで残す。傷跡は、世界に対する恐れ、自分が傷つけられる対象である、
と思いとなって心に刻み込まれる。“ 世界は私を傷つける ” その思いが確かにな
158
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
ればなるほど、恐れはリアルになる。そして、自分が傷つけられる対象である
と思う事は、同時に、自分も他人を傷つけることがあるという裏面の意味も含
んでいる。
自分自身に関して、自分がしたこと、しなかった事のどちらに関しても、私
は罪悪感をもつことになる。そして自分は他人を傷つける。自分は正しい事を
していない、
といって自分を責める。
この思いについては聖典も同じように語る。
किमहङ्साधू नाकरवम्।
किमहं पाप-मकरव मिति।
なぜ私は正しい事をしなかったのだろう?(するべきであった)
なぜ私はするべきでないことをしてしまったのだろう?(しなければよ
かった)
『タイティリーヤ・ウパニシャッド तैत्तिरीयोननिषत् 』2.9
という 2 つの後悔と、自分に対する罪悪感。これは『ウパニシャッド(奥義書、
ヴェーダ聖典の最終的な教え)』がいうように、私たちに共通の思いであり、問
題である。
世界から傷つけられることへの恐れ、自分の行いに関する罪悪感を私たちは
だれもがもつ。その思いをもちながら、心穏やかに瞑想をすることは難しい。
目をつぶり座れば、自分が考えもしないような様々なことが、頭に思い浮か
んでくる。誰かが自分を傷つけるのではないかという恐れや、自分が内にもっ
ていた罪の意識が、あらゆる考えを起こす。私たちは瞑想中、このノイズに圧
倒されてしまう。静かに目をつぶり、程良くリラックスし、自分に向き合おう
とすれば、内なる不安と罪の意識が私たちを襲う。この緊張と考えの束縛を弛
めない限り、瞑想をするのは難しい。瞑想ができるというのは、緊張が少なく、
自分と世界にくつろいでいられるスペースが心にあること。それは、“ 瞑想的な
質 ” が自分にあるということである。そうでなければ、深い瞑想は起こらない。
たとえば、“ 愛 ” のように。愛がもともと心にあるから、その溢れる思いが外へ
159
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
出ていくことができる。愛がある人が、愛する人になる。
「あー、今日は忙しいから、明日の午後 4 時から少し愛しますよ」。「今から 5
分間、愛しますから、待っていてくださいます? 」という自分の都合で条件設
定ができないのが “ 愛 ” だ。
愛のないものに対して、「愛してやる!」とどんなに意気込んでも、誓っても
無理。なぜなら、愛のあるものや人に対してだけ、愛は自然に湧くものだからだ。
自分の中に愛があるから、愛することができる。それは自然の発露なのだ。
瞑想も同じように、瞑想の質が自分の中にあるからこそ、自然に瞑想が起こ
る。自分の体を座らせて、ある一定の時間目を閉じ、静かにしていることはで
きる。しかし、瞑想が起こるのは、自分に瞑想の質がある時である。それには、
物事に対する客観的な態度や成熟が “Yoga 的、
瞑想的 ” になっている必要がある。
瞑想はイベントではない。想像もつかない色がみえたり、音が聞けたりして、
天にも昇るような心持になることではない。
瞑想は、世界と自分に対してもっている態度や生き方から自然に発生する。
「深
い心の静寂」が、心に現れることである。それは、意志の力で起こすことはで
きない。
「深い心の静寂」は、私たちが客観的に物事をみているときにのみ可能
である。
恐れ、怒り、心配、悲しみという主観の色に染まらずに、自分と世界をとら
えることができる客観的な物の見方をもって、はじめて瞑想は起こる。その質
は、日々の行いと態度を Yoga にし、瞑想の練習によって養う必要がある。
『バガヴァッドギーター』では、日々の生き方を Yoga にする方法を
「カルマヨー
ガ कर्मयोग(行いの Yoga)」という。
आरुरुक्षोर्मुनेर्योगं कर्म कारणमुच्यते।
योरढस्य तस्यैव शम: कारणमुच्यते॥
瞑想の質をもち、瞑想をマスターしたいと思う “ 見極め ” がある者にとっ
て、「カルマヨーガ कर्मयोग(行いの Yoga)」はその手段であるといわ
れる。
160
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
一方「サンニャーサ सन्न्यास( 出家の生き方、捨て去ること )」という
生き方は、すでに瞑想の質をもち、瞑想をマスターした者が自然と行き
つく生き方である。
『バガヴァッドギーター』6.3
「カルマヨーガ कर्मयोग(行いの Yoga)」とは、自分のするべき事をすること。
世界に任されている然るべき役割を逃げたり、誤魔化したりせずに引き受け、
果たすこと。毎日の中で、自分がしなければならないことを、きちんとする。
そして、行いをした結果を謙虚に、恐れずに受け止めること。自分が世界に放っ
た行いが、様々な法則をめぐって相応の形で戻ってきているのが行いの結果だ。
今、私たちの目の前にある 1 つ 1 つの出来事は、自分の行いの結果でしかない。
全体世界の法則に貫かれて、自分がした行いだけが、間違いなく結果として返っ
てきている。その事実を日々の出来事の中で客観的に受け止めること。この態
度で生きることを、「カルマヨーガ कर्मयोग(行いの Yoga)
」という。
常に客観的な思いと態度で、自分と世界に向きあっていくことで、心の中の
後悔や自責、ウジウジした思い、失敗だの成功だの勝手に決め付けるジャッジ
や偏見から解放されていく。この行程を Yoga では、“ 心の浄化 ” と呼んでいる。
समत्वं @योग @उच्यते
योग: कर्मसु कौशलम्
२-४७
२-५०
行いの結果を客観的に受け止める事。
「ラーガドウェーシャ रागद्वेष
(好き・嫌い)」から行いを選ぶのではなく、
自分が果たすべき事をすること。
世界の中で自分に任された役割をありのままに引き受ける事。
それが「カルマヨーガ कर्मयोग(行いの Yoga)」の態度で生きるという
ことである。
『バガヴァッドギーター』2 章 4,50
161
第 3 章 だれが瞑想をしているのか?
加えて、“ 瞑想の質 ” を高めるには、実際に “ 瞑想を練習する ” 必要がある。
“ 瞑想の質 ” は、実際に瞑想の練習をしない限り得ることはできない。瞑想の質
を高めるために、私たちは普段から “ 瞑想 ” を試み、座り、練習する。
ある一定時間座り、心を落ち着け、自分と向き合う時間をもって実践しなけ
れば、どんなに理想的で有効なメソッドを知っていたとしても、100 年たって
も瞑想は起こらない。
瞑想をしたければ、“ 瞑想 ” をするしかない。圧倒的な静寂に満ちている瞑想
が自分に起こっているつもりで、瞑想の練習を積み重ねる事。
まずはやってみる!そして練習を続けることで、いつか必ず深い瞑想はおこ
る。瞑想の質を高める術は、この 2 つしかない。生き方を Yoga にする
「カルマヨー
ガ कर्मयोग(行いの Yoga)」。“ 瞑想 ” が起こっているつもりになって、座り続け
る事
さてそのためには、どういう条件が必要か? どうやって瞑想をするべきなの
か? 瞑想に適した時間や場所、姿勢、方法を次の章でみてみよう。
162
第4章
何のために瞑想をするのか?
< 瞑想の目的 >
163
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
何のために私たちは瞑想するのか? その目的を再度深く考えてみよう。
聖典の言葉でいえば、以下の 2 つが瞑想の目的である。
①「アンタッカラナ・シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」
文字どおりに読めば、「アンタ अन्त(内なる)」「カラナ करण(道具)
」
の「シュッディ शुद्धि(浄化)」。
葛藤、迷い、疑い、混乱から解放されるため、心を浄化するために瞑想
をする。
様々な葛藤やプレッシャー、感情や偏見、主観的な見方の原因「ラーガ
ドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)」から世界と自分を評価したり、
批判したりすることから自由になることを目指す。
②「アンタッカラナ・ナイシチャルヤ अन्त:करण नैश्चल्य(心を定め
ること)」
「内なる道具」である心を、「チャラ चल(チャラチャラ動き回る)
」こ
とをさせないように、1 つの目的に定めること。
何もしなければ、心は無制限にどこへでも行って動き回ってしまう。そ
の動き回る性質は止めることができない。けれども、心の動きを 1 つの
方向に定めることは可能だ。対象を定め、意志の力によって心の動きを
自分が望む方向に流し続ける。そうすることで、自分の心を扱えるよう
になってくる。考えが暴れ出しそうな時、静かな状態に引き戻すことが
できるようになる。心を扱うことができれば、心に弄ばれることはない。
また、自分が心の主であって、心は自分の道具であるという関係性をはっ
きりさせる。心は自分の道具だ。自分が心に操られているのは、どうも
おかしい。この自覚を明確にし、自分が奴隷のように心に引きずりまわ
されることを防ぐのだ。
164
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
この 2 点が聖典に沿った、瞑想の目的である。Yoga でめざす「モークシャ
मोक्ष(悟り・自由)」は、最終的には自分の事実を確信すること。それが唯一
にして最後の手段なのであるが、聖典のこのビジョンを正確に理解するために、
瞑想は事実の理解を間接的にサポートする大事なメソッドとなる。
聖典のメッセージは一言。
「タット ・ トヴァン ・ アシ तत् त्वन् असि(You are
the Whole. あなたの本質とは全体である)」。「あなたこそが全体である。真実
である」。これ以上でもこれ以下でもない。
世界の真実を、自分自身の事として納得することが、人を自由にするという。
確かにそうかもしれない。もし、聖典の真意が理解できたとしたら、世界は自
分の恐れの対象ではなくなる。
世界とは自分のことであり、自分自身が世界に満ちているという事実が心底
納得できているのであれば、この世のどこに自分を脅かすものがある? 何が自
分に限界をみせ、制限できるのだろう?
聖典のビジョンが自分の知性に定着した時、私たちは聖典と同じ視点で世界
をみることになる。おそらく、世界をみる視点は 360 度変わり、世界は全く違
う光景にみえるだろう。真実は何も変わらないまま、自分にとって世界に対す
る理解と態度は革命的に変わるに違いない。
事実を理解した時、私たちは経典で描かれる聖者のように、恐れることなく、
すべてを慈しみ、愛と信頼に溢れる大きく広い心で葛藤も嫌悪も憎しみもなく、
自分と世界にくつろぐことができる。それが自分自身の意味とは、自由であり、
幸せであるということを知りつくした人である。その人の心には、いつでも、
どこにいても、誰といても、どんな状況でも問題がない。苦悩が無い。彼を苦
しめ、悩ませるものは世界に存在しない。なぜなら、彼自身が世界のすべてで
あると確信しているから。自分と世界に対する事実。
しかし、これはただ単に聖典の言葉を知って、覚えていたからといっても
何もならない。いくら聖典を丸暗記しても、「タット ・ トヴァン ・ アシ तत् त्वन्
」。「アハン ・ ブラン
असि(You are the Whole,あなたの本質とは全体である)
マ ・ アスミ अहं ब्रह्म अस्मि(私の真実は世界の源『ブラフマン(究極の知、
存在、あまねく広がるもの)』」という行を何万回繰り返そうと、理解にはつな
がらない。心の底からの「わかった!」といううなずきにならなければ、聖典
165
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
の言葉を知っても、意味の理解に至らない。そして、聖典のビジョンは私たちの、
心の中で深い納得に変わらない限り、私たちを何も変えない。
事実は、
「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)
」や、『ヨーガスートラ』
が伝える言葉という形によって運ばれる。その意味と経典の教えに対する理解
と納得は、私たちの心の中でのみ起こる。そして、聖典の理解を可能にするた
めには物事を歪めずに受け止められる客観的な心が必要だ。それは、Yoga と瞑
想によって準備することができる。
『バガヴァッドギーター』という経典は、この教えを理解するためにいかに心
を養い、浄化し、準備するか? という Yoga の方法を徹底的に語る。浄化され、
準備ができた心とは一体どういうことをいうのか? 、賢者といわれる者の心、
「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」がもつような心のあり方に、どうやっ
たら自分の心を成熟させることができるか? 数あるメソッドの中でも特に大事
なのが瞑想だというのだ。
Yoga の経典による瞑想の目的は、「アンタッカラナ ・ シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」と「アンタッカラナ・ナイシチャルヤ अन्त:करण नैश्चल्य(心
を定めること)
」
。どちらも、聖典のビジョンを理解するために不可欠な心のイ
ンフラストラクチャーとなる。聖典のビジョンを理解するために心を準備しよ
う。
「あなたは、“ ブラフマン(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)” である」
。
「あなたの存在こそが、絶対であり、この世界の源だ」こんな風に聖典は私た
ちの事実を語る。
しかし、突然そんなことをいわれても私たちは戸惑う。「この 155 センチの
ちびっこの私が全体? 」「昨日の昼ごはんのことも思いだせない自分が “ 知・認
識の源 ” だなんて、何いってんだ? 」。多くの人がそんな風に思うのが当然だ。
自分が思っている自分、生まれた時から、ずっとこの体や能力や心が自分と思っ
ている私に、聖典の語る真実は唐突過ぎて、大きすぎて、なんだかよくわから
ない。
いくら権威ある聖典だからといっても、スイスイ鵜呑みにするにわけにはい
かない。飲みこむには、ちょっとビジョンが大きすぎる。
しかし、聖典はあきらめない。聖典のビジョンと瞑想の目的聖典は最終章で
166
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
こんな風に私たちに語りかけているようにみえる。
「おい、そこのキミ!どうかあきらめるなかれ。あなたは何を望むのかね?
何が生きている証として欲しいのかね? 何をしたい? 何を目指し、どこに向
かっている? 本当に欲しいものと、今自分がしていること。この 2 つの間に関
わりをちゃんとみているか? もっと掘り下げれば、今までの生き方で何を求め
てきたのだ? 何を探していた? ビックになること? 金もちになること? いい
仕事? それとも、素晴らしいパートナーと結婚して家庭をつくる? 資格? 非
の打ちどころのない容姿? 車か? それらはいったい何の為だ? 」
。
聖典は私たちの本音を奮い立たせようとして、私の心に鋭く問いただしてい
るかのようにみえる。
「こんなにまくし立てられて、さぞ困っているだろう。スマンね、つい興奮し
てしまって。でももしあなたが、自分が望むことをわからないなら、私が一言
でいってしまおう。いろんな物を求めているようにみえるが、結局あなたは、
安心と幸せが欲しいのだろう? それだけを求めて、あなたは今までいろいろな
物を追い掛けてきたのだろう? それらの一部は叶ったかもしれない。ほとんど
のことは、叶わなかったかもしれない。けれど、あなたが心から望む絶対的な
安心と幸せは、まだ手に入れていないのだな。なぜなら、こんな本を読んでい
るということは、まだまだ何かを探している過程にいるということだからな。
これからも、安心と幸せのために人生を驀進していく気か? いろんな策を練っ
て奔走するのか? もう少し考えたらいい。あなたが本当に欲しいものは、物の
ように手に入れることや、場所のようにどこかに行ったりすることで叶うと思っ
ているのかなぁ? 今までの延長線上にある生き方で自分が納得いくとでも思っ
ているのだろうかな~? それともあなたは心のどこかで、本当の望みは、どこ
まで行ってもどんな物を手にしても、叶わないような気がしているのかもしれ
ない。なぜなら、あなたが今までやってきたことのすべての結果が、証明して
いるように思うからではないかな? 」。
こんな風にズバリいわれたら、私たちはグウの音もでない。
「よかろう。それでもいいだろう。納得いくまで欲しいモノを手に入れて、探
し続ければいい。それもある時点までは大事なことだ。そのために、私も協力
しよう」。
167
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
この聖典のいう協力は、『ヴェーダ(聖典)』の前半の章に記されている。「カ
ルマカンダ कर्मकण्ड(行いの章)」と呼ばれるこの章は、人間が欲しいモノを
得るための術を教える。人としての道「ダルマ धर्म(秩序、守るべきこと)」に
したがって、いかに望みの物を手にいれるか? その方法を詳しく人間に伝えて
いる。欲しいモノを手に入れる方法の 1 つとして「プージャ(儀式)
」や「マン
」
トラ मन्त्र」や祈り方、物を手に入れるための「ウパーサナ उपासन(瞑想の一種)
を教える。
そして、「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)
」の圧力に押し出され、
湧きあがる不安や欲望を解消するために何かを得たり、安心と幸せを得たよう
な気持ちになれるようなものを、手にするための助言を与えている。聖典は続
けていう。
聖典「でもな、そろそろ “ 欲しいモノを手にいれる ” とかいう、そんな
やり方じゃだめなことに気づき始めているだろう? 現に、いつまでも満
たされていないだろ? 物を求め続けるだけでは、何も根本的には解決さ
れていない。いくら欲しいモノを手に入れても、その満足が続くのはほ
んの一時でしかない。そして、すぐにまた次の何かを手に入れようとい
う気持ちに駆り立てられる。なぜだ? なぜ手に入れた物では、心から満
足できない? 探すこと自体から自由になるゴールを手に入れられないの
はなぜなのだ? 本当はわかっているだろう? 手に入れられる物や状況
はすべて “ 限り ” があるということを。時間に対する限界も、空間に対
する限界もある。何かを手にするということは、何かを失わなければな
らないということが、この限界を証明している。物をもつことでしか得
ることができない幸せ、その状況の中でしか味わえない幸せなら、もう
それが限界なのだ。それとも、物や状況がいつか自分に究極の安心と幸
せを与えてくれるとでも思っているか? 」
私「…」
聖典「では、こう聞こう。いつ幸せでいたい? どこで安心したい? ど
んな状況で安心と幸せを感じていたい? 」
私「…それは、幸せでいられるのなら、いつでも、どこでも幸せでいた
いですよ…。どんなところにいて、どんな人といても、常に幸せでいた
168
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
いとも満たされていたいとも思っているのです」
聖典「つまり、無条件、ということだな? 無条件で、限りが無い安心
と幸せが欲しいのだな? 」
私「そ、そうです。お、おっしゃるとおり…」
聖典「じゃあ、それは何かをして手に入れることでは叶わない。なにせ、
そんな物はこの世にはないからな。聖典である私がはっきり断言しよ
う。あなたが求めているような物や場所はこの世界のどこにもありはし
ない。それがわからなければ、あなたは永遠に求め続け、探し続けるだ
ろう。たとえその肉体を手放してもね。きっと次の新しい体を、服を着
替えるように手に入れて、ずっとずっとあてもなく探すことになるんだ
な」
私「えぇぇぇー。そんなのいやですよ。ずっと探し続けるなんて。そん
なのむなしいじゃないですか」
聖典「おっと? それが、むなしさことだとわかるのか! たいしたもん
だな。本当にそうだろ? いつまでたっても人間は物では絶対に満たされ
ることはない。その探求の無意味さにまず気がつくことから本当の人生
の目的の探求は始まるのさ」
私「ちょっと、どうすればいいのか、教えてくださいよ」
聖典「まずは、あこがれの物や場所から得られる最大のメリットを考え
てみてほしい。それを手にしたら自分がどう変わり、どうなるのか。そ
して、もしその求めた物が手に入らなかったらどうなるか? もしくは手
に入れても壊れたり失くしたりしたらどうなるか? 考えてみてほしい。
手に入れられるものの限界と結果を知り、見極めなければならない。こ
の見極めを「ヴィヴェーカ विवेक(見極め、識別)
」という。何かを獲得
しようと思う時、まずどうやって手に入れるか、手段を考えるだろう。
それでももし手に入らなかったら落胆し、悲しみ、怒るかもしれない。
もし、自分の物にできたら、浮かれて有頂天にもなるかもしれない。次
は、それを失わないように恐れ、心配をする。失ってしまったらきっと
悲しむな。あなたのことだ。きっと、不条理だ!とかいって嘆くかもし
れんな。たとえ失わなかったとしても、時間がたつにつれて手に入れた
169
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
ばかりの頃の新鮮さや喜びは薄らいでゆくだろう。そして遅かれ早かれ
次の物が欲しくなってソワソワしてくる。なぜなら、満たされていない
自分の中心は、物で埋めあわせることなどできないから。満たされない
思いを抱えたまま、新しい物を獲得しようと次なる行いを始める。これ
が永遠に繰り返される。
物で限界を知ること、そして、物を探求することに対してむなしさを抱
くことを「ヴァイラーギャン वैराग्यम्(冷静さ、諦観)
」という。物では
もう自分は満たされないと知る。問題は自分の中心に居坐る “ 満たされ
ていない ” という思いだ。ここから自由にならない限り、むなしい探求
は続いていくだろう。そのためにはどうすればいいか? だいたい “ 満た
されない思い ” とは何なのか? 根拠は? 本当に自分は満たされていな
いのか? だとしたら何が足りない? 何を足すべきなのが?
ここを追求していくのが Yoga の道だ。Yoga の道とは、満たされない自
分の思いの正体を暴き、満たそうとする試みだ。自分に満たされていな
いと思わせるのは何なのか? 満たされない思いに実体はあるのか? そ
れとも単なる思いこみなのか? じっくり考える。問題の核心を見極め、
解決に至ろうとすること。そのことを「ヴィヴェーカ विवेक(見極め、
識別)」という。
この思いから解放されるためには、何が必要なのかを教え、満たされな
い自分自身の正体を明らかにするのが、経典の教えであり、聖典のビジョ
ンだ。Yoga は聖典の告げる自分の正体を深く理解するために、必要な
心と態度を準備することができるのだ。
もう少し考えてみてほしい。無条件の安心と幸せをあなたは望んでい
る。もしそんなものがあるのだとしたら、それはどうあるべきか? 無条
件というのなら、死んだら、とか、悟ったら、とかいう条件もなしだ。
それは、今でも、ここでも、安心と幸せでなければおかしいだろう? 」
私「まあ、そうですが…」
聖典「もし無条件の安心と幸せがあるのなら、あなたが今も、ここにい
ながら、まさに安心と幸せでなければならないだろ? 」
170
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
私「そのとおりです…」
聖典「聖典が教えることを、はっきりいおう。あなたが一生懸命探して
いるものは、実はあなたの本質だ。なぜなら、あなたの本当の姿とは、
“ 安心と幸せ ” の意味だからだ。もしそうでなければ、今、ここで、無
条件に安心と幸せであることなんて可能か? 他にどんな形があり得る
と思う? 究極の安心と幸せは、すでに今のあなたがそうなのだ、という
ことにしか答えはない。いま、ここで、この場所で、何をしていても。
あなたが、幸せで満ちているということの意味でなければならない。そ
れが無条件ということだ。聖典である私は何度もあなたのような人にい
う。探している安心と幸せの意味こそが、あなた自身の真実だと。その
あなたの真実を指し示す言葉を『アートマン आत्मन्(人、
生き物の真実)
』
というのだ」
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」とは? 語源から確認しよう。
① すべてに行き渡る者(√ आप् : मन् )
② あらゆるものを維持する者、収束させ自分の内に引き戻す者(आ +√ धा)
③ 食べつくす、経験しつくす者(√ अद् + अत् )
④ 存在するもの、在り続ける者(√ अत )
という 4 つのルートからできている言葉が 「アートマー आत्म( 人、生き物の
真実 )」。聖典はこれが私たちの真実であるという。あなたの本質を意味する言
葉であり、その意味をもって聖典は結論をいう。この「アートマン आत्मन्(人、
生き物の真実)
」は、あの「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく
広がるもの)」である。
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」である自分自身の意味が、「ブラフ
マン ब्रह्मन्」
。
「ブラフマン ब्रह्मन्」とは、変わることなく、世界の根源として
171
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
あまねく広がり、存在・知 ・ 認識の源であり、限りなく満ちているもの。
それが、私たちの真実。
限りなく広がること、満ちている「ブラフマン ब्रह्मन्」であることは、安心
であり、幸せであり、満ちているという事の意味である。自分自身がすでに「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」 であるということを知る。それが Yoga 的悟り「モークシャ
मोक्ष(悟り ・ 自由)」の意味だ。
聖典「事実を理解することが悟りなのだよ。どうしてそういえるかって?
だって、あなたはいつだって、安心と幸せの意味を求めてきたんじゃな
いか? Yoga をしているのも、いろいろな理由があるかもしれないけど、
突き詰めてみたら “ 幸せになりたい ”“ 安心したい ” というシンプルな欲
求を満たせると思っているからじゃないのか? なぜこの 2 つを求める
のか? ならなら、それがあなたの本質に他ならないからだろう?
心から求めているのは、それがあなたの本当の姿だからだ。自分の本質
にあり続けることが、絶対的なくつろぎと安心を人にもたらすことがで
きる。自分自身であることを、私たちは “ 心地よい ” と思うのだよ。揺
らぎない “ 心地よさ ” が欲しいのさ。自分の本当の姿を知り、そこに揺
れることがないということは、何にも代えがたい安心だ。
安心と幸せのために、あなたは何かになろうとしたり、何かを手に入れ
ようする必要はない。すでに安心と幸せであるのは、自分自身の事実だ
と知ること。あなたができることは、ただそれを理解することだけなの
だ。私のいうビジョンを理解するために、心を準備する必要がある。
それが瞑想なのだよ」
私たちは、聖典のビジョンを受け入れられるだけのキャパシティーをもつた
めに瞑想をして心を整える。揺れない心と、世界を客観的にみることができる
大きなキャパシティーをもつこと。集中し、1 つの探求において心を意志のも
とに扱ってゆく。そのための瞑想の目的が「アンタッカラナ・ナイシチャルヤ
अन्त:करण नैश्चल्य(心を定めること)」こと。
172
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
葛藤、疑惑、恐れ、激しい「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)」か
らの圧力、そういった心を騒がせる要素を静めていくことを「アンタッカラナ・
シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」と呼んでいる。もう 1 つ瞑想の結果
について加えれば、瞑想をすることで私たちは「幸運・ラッキー」をつくりだ
せるのだ。Yoga の道は、実は沢山の運が必要だ。健康な精神と体、明晰な考え
や、人間的なゆとりと成熟、師との出会い、Yoga を探求できるための十分な時
間や場所、着実な成長、脇道に逸れることなく Yoga という 1 つの目的に向かっ
て歩み続ける事。
Yoga の探求に有利に働く条件をバックアップしてもらうためには、みえる法
則、みえない法則のどちらも自分に有利に働かせ、運を味方につけなければ難
しい。十分なサポートや正しい道に導かれる幸運の元となるのは、自分の善行
の結果である「プンニャ पुण्य(徳)
」である。聖典に従った瞑想では、
「プンニャ
्
पुण्य्(徳)」を作ることができる。
」をつくれるのは、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」
「プンニャ पुण्य(徳)
्
とのつながりをつくるような瞑想や「プージャ(儀式)」。これは、「イシュタカ
ルマ इष्टकर्म(全体世界とつながる行い)」と呼ばれる。もしくは、「プールタ
カルマ पूर्तकर्म(人、生き物に貢献する行い)」と呼ばれる社会的な貢献、
働き、
善行、人助け。この 2 つの行いで私たちは幸運の元、「プンニャ पुण्य्(徳)」を
つくることができる。
運を味方につける方法を知ったら、あとは実行のみ。いい行いをして、瞑想
をして、
「プンニャ पुण्य्(徳)」をつくり、幸運・ラッキーをどんどん味方につ
けていこう。きっと、Yoga の道を歩む速度が加速する。
173
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
1.瞑想のメリット
瞑想の定義、対象、主体、そして目的をみたうえで、聖典に基づく瞑想をし
てどんなことがメリットとしてあるのかを見てみよう。
心の混乱を治めることができるようになる。
たとえば、心は悲しみの色に一時染まることがある。だれか大事な人が傷つ
いた時や、人々が望まないことに直面し苦しんでいるのをみたときなど。その
時、悲しみ色に染まった心を、自分自身だととらえてしまったら、私=悲しみ
になってしまう。それは大問題となる。
心は鏡のような道具である。外の出来事や、外の世界から五感を通じて取り
込んだ情報は、心に映しだされる。自分自身とは、それを認識する者である。
認識の源である自分自身は考えがどんな色に染まろうと、一緒になって同じ色
に染まることはない。流れ、変わりゆく心に映し出される考えを認識している。
“ 自分自身 ” とは考えに “ 認識 ” を与える存在。そこに常に在り続け、変わる
ことがない。自分の本質とは、考えという形で心に浮かぶフレームに光をあて、
“ 知る、解る ” を生みだす存在なのだ。認識の根源である自分は、考えがどんな
に変わっても、影響されないし、変わらない。
しかし、この本質が、混同と混乱によってまるでみえなくなってしまうこと
がある。心の色が、自分自身になってしまうことがある。そうして、考えを染
める色である “ 悲しみ ” が、自分にとってリアルになってしまう。その私にゆと
りはなくなる。混乱した私は、悲しみに打ちのめされてしまう。
真実は違う。心は私の道具だが、私自身ではない。真実の理解が確立してい
る時、たとえ心が何色に染まろうが、私は自分の本質は変わらないことを知っ
ている。
真実の “ 認識と自覚 ” が私にゆとりをもたらす。心が悲しみや怒りに染まっ
ても、“ 自分自身 ” は巻き込まれない。冷静な距離を保てる。怒りや悲しみも、
自分自身が照らし出し、心に 1 つの考えを生む。自分とは、心に起こる考えを
みて、認識をする者。だから、どんな感情が起ころうと、自分の芯までが、怒
174
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
りに侵食され、悲しみに塗り替えられることはない。
真実の理解に裏打ちされた心のゆとりが、私を問題から自由にする。自由な
私は、問題をもつことができるほど余裕であり、逆にいえば、自由でもある。
自由の意味が判っていれば、どんなことも楽しむことができる。何が起こって
も、この自由は消えない。なぜなら、それは自分自身の本質であり、それは、
「ブ
ラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」なのだから。
ここまで自由でいられることが、瞑想を極めることのメリットである。瞑想
を練習することで確実に、自分の内面にゆとりができる。さらに内なる自分の
」のテクニックを駆
奥深くまで到達するような「जप ジャパ(マントラ瞑想)
使して瞑想を行う事で、自分自身の核・中心にアクセスできることになる。そ
れによって、本当の自分自身とは、「感情でも、考えでも、感覚でもない」とい
う事実を知ることができる。より自分自身の真実に確立することができる。
「自分自身とは感覚でも、感情でも考えでもない。
どんなものも、自分を揺らすことはできない “ 存在 ” そのものである」
この理解が、何が起ころうと、どんなに感情に激しく揺さぶられようと、“ 自
分自身の核まで揺らすことはできない ” という確信となる。
それが強さとなり、大きさになり、ゆとりになる。揺れる感情から、一歩引
いて、物事を客観的にとらえることができる広いビジョンをもつことができる。
感情の波に飲まれることがない。感情と一緒になって、揺れたり、巻き込まれ
たりすることがない。確かな理解によって、感情をマスターしているのだ。自
己に確立し、常に堂々としている自分自身を私たちは信頼する。それが強さと
誇りとなり、自分を信じ、受け入れられる証となる。
2.感情のマスターになる
असंयतात्मना योगो दुष्प्राप इति मे मति:।
वश्याअत्मना तु यतता शक्योऽवाप्तुमुपायत:॥
心と感情をマスターしていない者にとって、Yoga はなしがたい。
175
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
しかし、心は客観的になり、適切な方法で瞑想を練習することで、必ず
マスターできるようになる。これが私の知る事実だ。
『バガヴァッドギーター』6 章 36
普段私たちは、道具である心に、引きずられ、弄ばれているかのようにみえ
る。さらに、道具である心と、それを使う主である自分の区別がなく、曖昧になっ
た境界が、混乱を引き起こす「リアリティ瞑想」では、心を自分の道具として
扱う練習をする。
心の動きを注意深く観て、自分が求める方向へ心の動きを運んでいけるよう
なテクニックとなっている。具体的には、マントラを使って心の動きを 1 つに
定め、心に “ マントラを唱える ” という 1 つのオペレーションを課す。どんな
に途中で心が動きたがっても、1 つに決めた対象に心をつなぐ、という課題に
従わせるようにする。
あくまでも心を扱うのは自分の方で、心は私のためにある道具、という本来
あるべきポジションを確かにするのだ。心の手綱を、しっかりと意志のもとに
握り締める。そうやって、心を扱うようにしていけば、普段の生活の中でも私
たちは常に心のマスターでいることができる。
今までは考え、衝動、リアクション、感情…いろいろな思いに翻弄されて続
けていたかもしれない。しかし、瞑想の練習を重ねて自分が心の主である、と
いうことをはっきりさせることができる。道具が主人を振り回す、なんていう
ことが本来あってはならない。心を自分の道具として扱う。このアプローチが
いかに大事かということは、『バガヴァッドギーター』や「ウパニシャッド(奥
義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)の中でも強調されている。
この体は目的に向かって走る馬車。私は馬車を扱い走らせる者である。
経典『バガヴァッドギーター』そして、『カタ・ウパニシャッド कठोपनिषद्』
という聖典には、私たちの心と体の関係を示した有名なフレーズがある。
176
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
“4 匹の馬に引かれた馬車がこの肉体である。
4 匹の馬と馬車全体は 5 つの感覚器官。4 匹の馬は手綱がかけられ、馬
車が引かれる。
手綱は運転手の手にしっかりと握られている。
行くべき先を知り、最短に安全にたどり着けるよう操縦するのは運転
手、知性である。
冷静な運転手は馬を自由自在に操って、必ず目的の場所へ辿りつく。“
この例えはメタファーである。馬車の冷静な運転手は知性、意志を示す。ど
こに行くべきか定め、方向と道を知り、障害を蹴散らして前に進む。馬車の司
令塔は、私たちの知性だ。この体を扱う者は、行くべき場所はどこかを知り、
何を達成するべきなのかを知る。そのためにどの道を進み、どうやって馬(体)
を扱い、手綱(心)を捌くか? を冷静に判断する。ここに迷いや混乱がなければ、
人生はスムーズだ。
(イラストレーション:久保玲子
向井田みお『やさしく学ぶ YOGA 哲学 バガヴァッドギーター』より)
177
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
逆にここが迷い、混乱していたら、私たちは生きることにおいて迷う。どこ
に行けばいいのか、何をしたらいいのか? に悩んでしまう。目的地が定まらな
いから、心や体や感覚の赴くままに馬車は進む。運転手が完全に、馬に操られ
てしまっている。
Yoga は一見体や呼吸、感覚をコントロールしているようにみえる。しかし、
本当は人生をどこに向かって走り進めるか? どの道を進むか? を明確にするこ
とがメインコンセプトだ。
手綱は心である。心は知性によってしっかり自分の手に握られ治められてい
る。4 匹の馬と馬車は、みる、聞く、味わう、嗅ぐとい感覚器官であり、馬車
全体が “ 触れる ” という触覚を表す。馬と馬車は、私たちの五感である。そして、
馬が進んでいく道は感覚器官を引きつける対象物である。それゆえ、運転手は
五感の動きと五感につながった心に常に注意深くあり、進む方向や障害に対し
てシャープな知性をもつ必要がある。
馬車の後部には、馬車の持ち主がゆったりとくつろいで坐っている。これが
私たちの本質、
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」があって初めて馬車
は意味があるのだ。
「マントラ मन्त्र」を繰り返すという作業を与え得られた心は、運転手つまり
知性にしっかりと使われる。このメソッドを「जप ジャパ(マントラ瞑想)」
というが、それによって私たちは感情と考えをマスターすることができる。強
い意志の力をつける練習をする。馬車に乗る自分自身を本当に求める所へ連れ
て行くために、意志と知性をもって心と体をしっかり扱うようにする。
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」では、心を「マントラ मन्त्र」という 1 つの
対象につなげて、考えを流し続ける。
瞑想は心の動きを止めることでもなければ、無になることでもない。静かな
行いではあるが、意志の力をもって積極的に心を活動させることである。
一番大事な点は、心の動きをシャープに、注意深く観ること。そしてもし心
が「マントラ मन्त्र」から反れたら、必ず元の場所に連れ戻すこと。雑念の中で
心が彷徨い出したら、「マントラ मन्त्र」を唱えるという作業に引き戻すこと。
178
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
そしてまた唱えることを続けるようにする。そのプロセスによって、自分の心
を道具としてうまく扱っていけるようになる。
普段の生活でも、自分は心の動きを冷静にとらえているということを、常に
忘れていない。怒りや憎しみなど強力な感情に突き動かされそうになっても、
暴れようとする心を静かな場所へ連れ戻すことができる。少なくとも、感情の
ままに行動しないように、慎みと思慮ある行いを常にすることができるように
なる。
意志でできる瞑想のほとんどは、心の動きを観察し、望まない方向に流れ出
したら引き戻すという鍛練である。この練習によって、私たちは必ず感情のマ
スターとなり、自分の心を最高の道具として扱えるようになる。
3.創造力を開発する
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」は「マントラ मन्त्र」を知性の宿る場所で唱
え続けること。このマントラを唱えている場所は、頭の中でも普段私たちが認
識し、知覚した情報を整理するところ。またその場所には創造と、機敏さ、注
意深さ、集中力という力も集結している。だから「जप ジャパ(マントラ瞑想)
」
をすることで、自ずとその大事な場所を意志のもとに開発していることになる。
注意深く心の動きを観ながら、この場所にとどまって「マントラ मन्त्र」を唱え、
心がマントラから離れそうになる度にここに連れ戻し、つなぎとめるようにす
る。そうすることで、注意力、集中力を養える。心の動きに機敏に対応するこ
とで、より繊細にもなる。それによって “ 気づき ” が多くもたらされるだろう。
それが、新たなアイディア、発想の切掛けとなり、何からも抑制されることの
ない創造力を発揮できることになるといわれている。
心に「ゆとり」をもつために
「リアリティ瞑想」は、私たちが抱える感情や特有の考え方・主観を、冷静に
みるためのゆとりを与えてくれる。ゆとりがあるから、私たちは自分の内なる
問題を客観的に見つめることができる。
179
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
Yoga 風にいえば、それができたら、私たちは自らを治める者「スヴァーミ
स्वामि(自らを客観的にとらえることができる者)」となるという。
「スヴァーミ स्वामि(自らを客観的にとらえることができる者)
」とは、自分
の心をマスターした者の事。インドでは、出家して知識の火の色であるオレン
ジの衣をまとったものは、“ スヴァーミ ” と呼ばれる。出家をしたら、名前が “ ス
ヴァーミ・サッチダナンダ ” や “ スヴァーミ・ダヤーナンダ ” というように「ス
ヴァーミ・○○○」と変わる(*日本語の発音では、“स्वामि スワミ ” と表記し
ても発音は、ほぼ同じ。本によっては、「スワミ・○○」と書かれていることも
多いが意味も全く同じである)。
余談だけれど、インドでは出家したらパスポートの名前や預金通帳や戸籍の
名前までもが、「スヴァーミ・○○○」と変わる。これは、出家した者が “ 自ら
を治める者 ” =「スヴァーミ स्वा」であることを、社会が認めているということ。
自分を自ら治める人を、国や地方の権力者ですら治めることはできない。だか
ら「スヴァーミ स्वा」インドでの出家者は、税金の義務も、年金の義務もない。
あらゆる義務から解放されている。本人以外にその人を治めることができない、
という理由で大変に尊敬されている存在である。
しかし Yoga をするのは、必ずしも出家して「スヴァーミ स्वा」の称号をもつ
者とは限らない。むしろ家庭や仕事をもちながら Yoga を極める人の方がインド
でも多い。
『バガヴァッドギーター』でもいわれるが、私たちは “ 出家 ” という
形をとらなくても、Yoga や瞑想の練習を積むことで、すべての人が形式ではな
く意味による「スヴァーミ स्वामि(自らを客観的にとらえることができる者)
」
となることができる。
また、瞑想でできた内なるゆとりは、多少の不自由や自分の境遇、世界で起こっ
ている出来事に対して、広い視野をもって受け止められるキャパシティーも与
えてくれる。
この世界のすべては、法則と秩序である「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」
の現れである。世界には起こるべきことが起こっている。私たちにも、それぞ
れしてきた行いの結果が完全な法則と秩序を通って目の前に現れている。世界
は完璧で、絶対的に平等な秩序のもとに巡っている。それが「イーシュヴァラ
ईश्वर(全体世界)」である。
180
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
何が起こっても、どんな事態に見舞われても、客観的な人はこの事実を見失
わない。全体世界と個はつながっている。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
と自分は離れることなく、1 つにつながりあっている。この理解が時に予測不
可能なことや、つらくショックな出来事に対する緩衝材(ショック・アブザー
バー)のような働きをする。すべてのことが起こるべき事。過去にした「カル
マ कर्म(行い)
」が、実を結んでいるだけの事。つらいことや、不快や痛みを伴
う経験は、
「パーパ पाप(不徳)」な行いの結果が 1 つ消化されたという事。喜び、
嬉しい経験は、過去にした「プンニャ पुण्य्(徳)」の行いの結果が実ったという
こと。こんな風に自分にも、世界にもあるべきことが起こっている。自分も
「イー
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の秩序と法則につながり、体の状態も、空腹や
渇きや怒りや悲しみや楽しみもすべてこの法則の中で自然に起こっていること
なのだ。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と自分の関係を理解することが、リアル
な世界の背後にあるリアリティを私たちに心のゆとりをもたらし、人生で曝さ
れる様々な出来事からのインパクトを弛めてくれる。
4.「ジャパ(マントラ瞑想)」 心を治めるテクニック
人間の特権である自由意志とは、実は “ 自由意志 ” を行使している時にある訳
ではない。むしろ、意志を “ 一時停止 ” することができる能力の中にある。意志
を自由に使える。止める事すら自由にできる。これが人間に備わる自由。
“ 客観的に体を観る、呼吸を観る、感覚を観る、心を観る ” といったテクニッ
クで、自分を客観的に観察している時、私たちは自由意志を一時的に休止・ホー
ルドしている状態にある。一連の瞑想で行うオペレーションによって、私たち
は自分の意志とは無関係に動いている内側の機能に対して、大事な気づきを得
ることができる。
自分の中には、意志に基づいて行いをしている部分と、意志とは関係なく動
きが起こっている部分がある。呼吸を観察している時、呼吸は自分の意志とは
無関係に自然のリズムで起こっていることが解る。同じように、感覚の動きも
自然の中で起こっている。私たちは意志を使っているわけではない。
「聞こえる」
181
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
ということが起こっている。
「みえる」ということが起こっている。
「触れている」
ということが起こっている。
私たちの心が覚めていて、耳があり、耳の鼓膜を震わせる対象物があれば、
「聞
こえる」という現象がおこるのだ。私の意志とは全く関係なく。
知覚できる “ 私 ”、意識できる “ 自分 ” がいて、心があり、感覚器官があり、
そこに何か刺激する物の切掛けがあれば、感覚は起こる。そのことを、瞑想の
準備をする中ではっきりと私たちは知ることができる。
「自由意志」
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」を日常的に練習するという事は、
を一時的にホールドする自由な時間をもてるということ。感覚や体のシステム、
思い、考えを自然のプログラムにすべてを委ねることができる時間をもてると
いうこと。または、“ 意志を休止すること ” は、“ 選ぶこと、選択し、迷う事 ”
からの自由や、行いの結果に曝されるプレッシャーからも解放されることをも
意味している。“ 意志を使うこと ” を停止する自由を、つまりプレッシャーから
自由になれる時間を私たちはもっとうまく利用することができるようになる。
さらにいえば、自分自身の本質、「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」
は自由意志をもって何か行いをすることやプランを立てたり、選択すること
はない。何かを獲得しようとする計らいからも全く自由である。
「アートマン
आत्मन्(人、生き物の真実)」に意志はない。「アートマン आत्मन्(人、生き物の
真実)
」に意志は必要ない。何かをしようとも考えない。真実は、自ら奮い立た
せて何かを達成する欲求からも、企みからも自由である。
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」はただそこに “ ある ”。私たちの本
質は、ただいつもここに “ ある ” だけだ。“ 瞑想 ” で私たちは、自分自身の本当
の姿である「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」になるのではない。なろ
うとしなくてもすでに「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」であり、
過去も、
今も、これから先の未来もずっと「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」で
ある。ただそれだけなのだ。静寂であり、平和であり、永遠であり、自由と幸
せの意味である「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」で私たちは “ 在り続
ける ”。私たちの真実とは、誰が何といおうと今現在も「アートマン आत्मन्(人、
生き物の真実)」なのだ。その「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」の意味が、
「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」なのだ。私
182
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
たちは、けして消えることのない、変わることのない存在であり、知識のベー
スであり、満ちている。簡単にいえば、私たちの事実とは、「なるほど!わかっ
た!」といって知識や認識を起こすベースであり、心地よさ、
幸せの意味であり、
自由な存在なのだ。本来は。ただその事実を知らないことだけが、私たちの心
に問題をつくっている。真実とは知るべき事であり、成るべき事ではない。
私 た ち は、
「 ア ー ト マ ン आत्मन्( 人、 生 き 物 の 真 実 )
」 と「 ブ ラ フ マ ン
ब्रह्मन्」の事実を理解できる心を準備するために瞑想をするのだ。
5.イマジネーションよりもリアリティを
「リアリティ瞑想」においては、何かを想像すること、架空の物(たとえばチャ
クラやクンダリニなど)を思い浮かべる事をしないほうが、「自分自身の真実と
は限りない存在である」というリアリティ(現実)がはっきりと理解でき、現
実の自分に心地よくいることができるようになる。
瞑想にはいる前の準備として、客観的な心で落ち着くために自然の光景を思
い、体をヴィジュアライズ(視覚化)するテクニックが組み込まれているが、
この世に実在しないモノを想像しているわけではない。自分が知っていること、
自然界の海や山や緑の森などを思い浮かべる事は、イマジネーションではない。
「思い浮かべる」という言葉は使っていても、それはむしろ、「思い出す」とい
うこと、記憶を基盤にした現実に則した行い。
瞑想の準備で「星を思い浮かべるように」といわれた時、私たちはすでに知っ
ている星を思い出している。実際には星が出ていない心の中に、私たちがすで
に知っている「星の知識」をハイライトして心に星を見ているのだ。瞑想には、
現実にはないものをイマジネーション(想像)するタイプの手法も多くある。
それらは、自分の心を内に探求していく、という事に関しては何らかの貢献を
しているのかもしれないが、『ヴェーダ(聖典)』をベースにするトラディショ
ナルな手法ではない。
私たちがしようとする「リアリティ瞑想」は、リアルな世界に、現実にある
ものの実態を知ることが目的だ。
183
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
そのものの本質とはなにか? すでにここにある世界とは何か? そこに生きる
私のリアリティとは何なのか? どこまでも客観的に、事実にのみアプローチし
ていくことが経典に基づいた伝統的な瞑想の要である。リアリティに瞑想し、
研ぎ澄ました心で、私たちはリアルといわれる世界の本質 “ リアリティ ” に迫
る。その実態を理解した時、実は世界に自分を脅かすものや傷つけるものなど
ないことを知る。
恐れは、真実を知らないことから湧いてくる思いでしかない。恐れという色
に染まった考えがあるだけだ。「なーんだ、勘違いが自分を恐れさせ、不安にさ
せていた原因だったのか!恐れの実体なんて事実に関する間違い、無知によっ
て起こっていた妄想にすぎなかったんだな。それに対して本気で悩んだり泣い
たりしていたなんて。なんとバカで、愚かで、無垢でかわいかったんだろう、
自分は!」そんな風に悩みの実態を「バカバカしい」といって笑い飛ばせる程の、
ゆとりと自由を手にする。その時自分自身を完全に受け入れることも、くつろ
ぐこともできる。
世界と自分自身に客観的であるとき、どちらも完全に受け入れることができ
る。抵抗したり、反発する理由がなくなってしまう。私たちは心からくつろぐ
ことができる。それこそが、Yoga で目指している自由の意味なのだ。どんな世
界の中にいても、自由。それは自分自身が自由の意味であることを知るから可
能になる。
「マントラ मन्त्र」のリアル
「リアリティ瞑想」では、心をつなぎとめる瞑想の対象として「マントラ
मन्त्र」を使う。瞑想で使う「マントラ मन्त्र」にはいくつかのバリエーション
がある。そのほとんどが、
『ヴェーダ(聖典)』の中に記されている言葉。どの「マ
」
ントラ मन्त्र」にも共通しているのが、皆「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
を様々な側面で見た時の名前であるということだ。
1 つの世界は、様々な見方、側面でとらえることができる。どの観点で世界
をみるか? によって、全体を象徴する呼び方が変わるだけなのだ。
たとえば、Yoga の先生の○○さんは、Yoga のクラスでは “ ○○先生 ” と呼ば
184
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
れる。同じ人が家に帰ったら、“ お母さん ” と呼ばれる。ご近所の方からみれば
“ ○○さんの奥さま ”、友達からみれば “ ○○ちゃん ” 職場の人から見れば、“ □
□ができる、○○さん ” というように、1 人の人間に対して、どの立場でみる
かによって、様々な呼び方がある。全体世界も同じだ。
世界はある種の絶大な力で現れている世界を巡らせる絶対的な力、「現れ、維
持され、やがて収束する」という 3 つの力に対して、それぞれの呼び方がある。
絶大な力を 3 つの側面でとらえたそれぞれの言葉が「マントラ मन्त्र」となって
いる。
世界を現す力と法則は、「ブランマージ ब्रह्मा(ブランマ神、創造神)」と呼
ばれる。維持する力と原理は、「ヴィシュヌ विषुणु(秩序と維持の力、すべてに
行渡る者)」という音で表される。すべてを収束させ、
原因の状態に戻す法則は、
「シヴァ शिव(すべてを 1 つにする力の象徴)」という音で呼ばれる。またこ
の力は、あらゆる物事の変化を 1 つの流れに治めるという意味で、
「時間の法則」
とも考えられている。
世界を豊かさという視点でみれば「ラクシュミー लक्षुमी(豊かさの象徴)
」と
呼ばれるし、すべての知恵は、「サラスヴァティー सरस्वती(知の法則の象徴)」
という音がついている。これらはみな名前でありながら、「マントラ मन्त्र」と
して扱われてもいる。「マントラ मन्त्र」は世界を維持している現実的な法と秩
序の名前でもある。
私たちが普段見ている世界、動いている世界、リアルな世界、その背後にあ
る事実。目にみえる法則も、目にみえない法則も含んだ「リアリティ」の現れ
が「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」であると聖典はいう。この世界を維持
している力と法に敬意を称して付けられた音が「マントラ मन्त्र」。「リアリティ
瞑想」では、マントラが瞑想の対象となり、ここに心の動きを 1 つに繋いで、
流れをつくってゆく。瞑想において「マントラ मन्त्र」は心を扱うための道具と
もなる。マントラを使って、自分の心を上手く扱っていけるように練習する。1
つの対象に向かって、心の動きを定める。意志の力と、客観的に心の動きをみ
ることができる冷静さが要求される。この練習によって、私たちは心のパター
ンをよみ、癖や性質も把握することができる。その練習をつんで、偏見や歪み
のない心を準備してはじめて、私たちは「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)」
185
第 4 章 何のために瞑想をするのか?
に至る深い瞑想できる。「マントラ मन्त्र」瞑想はイマジネーションではない。
リアリティ(現実)を見すえた瞑想法なのである。
186
第5章
いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
< 瞑想の条件 >
187
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
瞑想の定義、瞑想の対象、瞑想をする人、そのためにできる準備。誰が、何
のために、どうすることが瞑想なのか? 瞑想の枠組みがはっきりしたところ
で、さらに具体的に、いつ? どこで? どれくらい瞑想をするべきなのか? こ
の辺りの条件をみていこう。
1.瞑想に適した時間帯:瞑想はいつするべき?
静かに集中できる時間帯であれば、基本的に瞑想はいつ行ってもいいとされ
る。そうはいっても、静かな時間で、頭がフレッシュに冴えている時がよいので、
ベストタイミングは朝一番である。太陽が昇る前の、朝 4:00-6:00。この夜
明け前の時間帯を Yoga の経典は「ブランマ・ムフルタ ब्रह्म-मुहुर्त」という。
大地が落ち着き、大気が静かになり、空気が澄んでいる特別な時間帯。瞑想や
「プージャ(儀式)」に最も適した時間だとされている。
次によいのが、夕方日が沈む前の午後 4:00-6:00。
『ヴェーダ(聖典)
』の
世界観では、生命活動の中心にある “ 太陽 ” の位置を基準に、瞑想や儀式に適し
た時間を定めている。地球からみて、1 日の中で太陽は 3 つのポジションをとる。
① 夜明け前
② 真昼(太陽が頂点に位置する)
③ 夕方、日没前
こ の 3 つ の 時 間 帯 が 大 変 祝 福 さ れ た 時 間 と さ れ、
『 ヴ ェ ー ダ( 聖 典 )
』
に 記 さ れ た 伝 統 的 な 生 き 方 を す る 人 た ち は、
「サンディヤーバンダナン
सन्ध्यावन्दनम्」という太陽に敬意を示す儀式を行う。瞑想も、この時間にで
きたら素晴らしい。しかし、忙しい現代人にはなかなか難しいかもしれない。
基本的に「जप ジャパ(マントラ瞑想)」は時間があるときなら、1 日のど
の時間帯に行ってもよい。細切れの時間帯を活用するのでもいい。
理想的には、朝起きて、シャワーを浴び、体を清め、坐る場所をきれいに清
めた後に、静かに坐るのがベスト。また、夜寝る前の静かになれる時間も理想
的である。
188
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
瞑想に適した時間帯はあるものの、自分に向き合う落ち着いた静かな時間が
一定時間確保できるのであれば、瞑想はいつでも行うことができる。禁止され
ている時間もない。
インドでは、特別な時、たとえば月食日食が起こる時や、満月、新月、月の
暦で特別に吉兆とされた日には、ここぞとばかりにいつもより長く、しっかり
と瞑想がなされる。なぜなら瞑想をする目的の1つとして、瞑想によって「プ
ンニャ पुण्य्(徳)」という徳を積むことができるとされるからだ。特別に吉兆な
日に、徳を積む行いをすることで、「プンニャ पुण्य्(徳)
」ポイントが普段より
も格段に上がるのだそうなのだ。「プンニャ पुण्य्(徳)」とは、ラッキー・幸運
の元。なんとなくいつもついている人は、過去に貯めた「プンニャ पुण्य(
」
् 徳)
が、毎日結果として実を結んでいる。逆になぜかいつも不幸に見舞われるとい
う人は、
「パーパ पाप(不徳)」が、「カルマ कर्म(行い)
」の結果としてその人
のもとに返ってきている。多くの「プンニャ पुण्य्(徳)
」があれば、ラッキーな
ことはたくさん起こる。私たちは「カルマ कर्म(行い)」をして、世界を味方に
つけ、運をよくすることができるのだ。瞑想は、「プンニャ पुण्य(
् 徳)」をつく
る「カルマ कर्म(行い)」でもある。
だから、私たちも時間が長く取れたり、気持ちの落ち着いている時に、長め
にしっかりと瞑想をするといいといわれる。特に Yoga の道では、師との出会い
や、正しい教えを受けることができる環境やタイミングを得るために、
沢山の「プ
ンニャ पुण्य्(徳)
」が必要なのだ。毎日しっかり瞑想をして、運の元をつくって
いこう。障害のない Yoga の道を歩き、世界を味方につけるために。
とにかく毎日 “ 同じ時間に、同じ場所で、できるだけ継続すること ” を目指
そう。瞑想のターゲットが “ 心の浄化 ” と、自分と向き合う事であるのならば、
瞑想はいつ行ってもよいのだから。
条件に縛られることが、瞑想の練習を怠ってしまう理由やいい訳になるくら
いなら、1 日の中で一番自分にとって都合のよい時間にした方がいい。どの時
間に瞑想をしても、大丈夫!肝心なのは、歯を磨くように瞑想を習慣化し、短
い時間でも毎日行い続けることなのだ。
189
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
2.瞑想の長さ
瞑想の理想的な時間は、「ムフルタ मुहुर्त(時間の単位)」を目安にするとよい
と経典はいう。
1「ムフルタ मुहुर्त(時間の単位)」= 48 分
48 分姿勢を変えずに座り続けることができたら、その人は「アーサナシッダ
आसन सिद्ध( アーサナを治めた者 )」といわれる。経典がいうところの “ アー
サナをマスターすること ” の概念は、48 分間不動でしっかりと座れる、という
ことである。
しかし、瞑想はこれだけの時間やらなければならないという規定はない。「ム
フルタ मुहुर्त(時間の単位)」ですら、1 つの目安にすぎない。
一番の基準は、自分が「もう少しやりたいなぁ」と思うところで切り上げる
こと。食べることと一緒だ。「後一口食べたいなぁ~」というところでやめてお
けば、体に負担がかからないし、また次のご飯をおいしく味わえる。同じよう
に瞑想も「もうすこし坐っていたいな~」というところで、やめておくのが続
けるコツ。そうすれば、瞑想の習慣は心地の良い時間、1 日の楽しみとして毎
日のルーティンの中に組み込みやすくなる。
大事なことは、“ 瞑想を年に一度のイベント ” にするのではなく、体のメンテ
ナンスをするように、毎日毎日あたりまえのように続けていくこと。体をいた
わるように、心をいたわる。心を生涯最高の友とするために、
きちんと向き合い、
手入れをすることを習慣化しよう。
बन्धुरात्मात्मनस्तस्य य्नात्मैवात्मना जित:।
अनात्मनस्तु शत्रुत्वे वर्तात्मैव शत्रुवत्॥६-६॥
自分の心を自分自身でマスターすることができた者にとって、心は最高
の友である。
一方、心を自分で治めることのできない者にとって、心は最大の敵とな
る。
190
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
『バガヴァッドギーター』6 章 6
瞑想の長さを「マントラ मन्त्र」の回数で定める。瞑想は、自分にとって心地
の良いだけすればよい。ふむ、了解!「何時間するべし」。と、絶対的な基準で
瞑想の長さは決められない。それでも、リラックスして坐り、落ち着いて瞑想
を終えるまで、おそらく 30 分くらいが目安となるだろう。
私の師匠であるダヤナンダジは、よくこんなことをいう。
「瞑想は長くすればいい、ってもんじゃない。意識的に、素の自分となり、全
体とつながり、瞑想本来の目的のために坐るのであれば、瞑想の長さはどれく
らいでもかまわんよ。瞑想を続けて毎日行う事は、まず間違いなく我々に必要
なことだが、目を閉じて坐ることだけに 1 日の貴重な時間を費やす必要はない。
毎日の中で、自分が担う課題もこなさなくてはいけない。それも大事な Yoga の
道である。するべき事をおろそかにしないこと。それでいて、スピリチュアル
な鍛練である、Yoga や瞑想も続けていくこと」。
また瞑想の長さは時間ではなく、何回「マントラ मन्त्र」を唱えるか? 回数
である程度設定することもできる。
理想的には、108 回「マントラ मन्त्र」を唱えることが、深く集中するために
良いとされる。
「マントラ मन्त्र」の長さにもよるが、時間にして 15-30 分。ど
うしても時間がない場合は、27 回。27 回(108 の 1/4)というのも「マント
ラ मन्त्र」を唱える回数としては非常に良いとされている。
3.「マントラ」を 108 回唱えることの意味
日本では “ 煩悩の数 ” とされている 108 という数字。実は 108 という発想の
オリジナルは、『ヴェーダ(聖典)』にある。
インドでは、108 という数が吉兆とされ、何かにつけて 108 回することがよ
いこととされている。たとえば、1 つのマントラの後ろに実は 108 の他の音が
191
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
含まれていたり、108 回唱える、拝む、書くなど、何かをするときも 108 とい
う数は特別に扱われている。『ヴェーダ(聖典)』では、108 という数字は大事
な数とされているが、“ 煩悩 ” の数ではない。
この世界のすべてが「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」である、というの
が『ヴェーダ(聖典)』の世界観。その「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」を
構成しているのは、無数の “ 形とそれに伴う名前と機能 ” である。名前は音の連
なりでできている。瞑想では、全体世界である「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世
界)
」とつながることが目標となるのだが、一度に世界のすべての名前を端から
挙げて唱えていくことはできない。
尚かつこの世界は、肉眼でみえている世界の他、肉眼では確認することがで
きない 14 の別次元の世界で構成されているという。というわけで、この世に
存在するすべての物の名前を斉唱することは不可能だ。
しかし、まるですべての名前を唱えるのと同じようになると考えられている
のは、あらゆる言葉のベースとなっているアルファベットをすべて唱えれば、
物の名前をすべて述べたと同じ事になるとされている。つまり、あらゆる名前
が音のつながりによってだけ構成されているのだから、ベーシックな構成要素
である音の数だけ唱えれば、すべての名前を唱えたと同じことになるというの
だ。
聖典は、サンスクリット語で表記されている。このサンスクリット語のアル
ファベットは अ(ア)から始まり、ह(ハ)で終わり、全部で 54 音ある。とい
うことは、聖典の世界観では 54 音以外で発音される名前はこの世界には存在
しないことになる。54 音で世界のすべての名を表現することができる、と考え
られているのだ。54 音が様々に並べ替えられ、組み合わされて物の名前となっ
ている。
ゆえに、サンスクリット語アルファベット「अह
v‚Ì’ † ‚É A ¢ŠE‚Ì すべ
ての名前、言葉が含まれている。54+54=108、108 の文字だけで世界のすべて
がカバーされている。
だから、1 つの「マントラ मन्त्र」を 108 回唱える事で、
全世界「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」のすべての “ 形と名前 ” を唱えたと同じ事とされている
192
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
のだ。
108 という数は、全体世界における「名前と形」という現れのすべてであり、
“限
りないこと、あまねく広がるもの ” の象徴である。という理由で
「जप ジャパ
(マ
ントラ瞑想)
」
では、
「マントラ मन्तर् 」
斉唱は 108 回が理想的であるとされている。
4.瞑想にふさわしい場所と適した座
शुचौ देश े प्रतिष्ठाप्य स्थिरमासनमात्मन:।
नात्युच्छितं नातिनीचं चैलाजिनकुशोत्तरम्॥
तत्रैकाग्रं मन: कृत्वा यतहित्तोन्द्रियक्रिय:।
उपविस्यासने युञ्ज्याद्योगमात्मविशुद्धये॥
瞑想をする場所は、清潔で、静かで、土台がしっかりとしていること。
標高が高すぎる場所、もしくは、坐る場所が高すぎるところで瞑想はで
きない。
また低すぎるところでも、瞑想は難しい。
座は、草でできたマットの上に、自然死した動物の皮でできたシートを
敷く。
その上に柔らかい布を重ねる。
その上に座り、心を瞑想の対象に 1 つに結び付ける。
その人は心の動きと五感を自分の意志の内に治めている。
瞑想は、心の浄化「アンタッカラナ・シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心
の浄化)」のためにある。
『バガヴァッドギーター』6 章 11.12
瞑想にふさわしい場所は、『バガヴァッドギーター』もいうように、標高が高
すぎず、低すぎない所。そして、坐る場所も高過ぎたり、低過ぎたりしてはい
けない。
193
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
間違っても標高の高い山の上や、バーのストゥールのような不安定な場所で
瞑想しないように。高山病的な症状を “ トランス ” 状態として有難がることは瞑
想の効果をあげることにはつながらない。逆に、海抜の低いところはなんとな
くぬかるんだ空気が立ち込めているし、淀みやすく不安定であると考えられて
いる。
さらに自分が坐る場所であるが、瞑想中うっかりウトウトしても高くて不安
定なところから転がり落ちるリスクを避けるためにも、高すぎる場所では瞑想
はしないこと。逆に、低くぬかるんだ場所では、関節を痛めてしまう可能性が
あるので低い場所で瞑想することも避ける。
」
という。
坐る “ 座 ” のことは、サンスクリット語では「アーサナ आसन(坐る座)
瞑想の座は関節を痛めないよう、固めに土台を作ったうえに、柔らかい布など
を敷いておく。経典がいうように、必ずしも動物の皮である必要はない。
昔の「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)」たちは、弟子や献身者から
自然死した動物、とくに鹿の皮を贈られた場合に、それを瞑想の時に使用して
いたとされる。鹿の皮は、土の湿気を吸い取り、湿気による体へダメージを防ぐ。
いにしえの「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)
」たちが瞑想をしていた
であろう家や洞窟は、湿っぽく、ぬかるんでいる場所が多かったといわれる。
ぬかるみで瞑想のために長く坐ると、関節を痛めてしまう。鹿の皮は、この湿
り気を防ぐ効果があったとされる。また、鹿は昔から「シャーウチャ शौच( 清潔、
清浄 )」の象徴であった。
「シャーウチャ शौच( 清潔、清浄 )」を守ることは、Yoga や『ヴェーダ(聖典)
』
にフォローして生きる人々にとって特に大事されてきた。身辺を清潔に保つこ
と、体と心の浄化はスピリチュアルな探求を志す者にとって最初に心にとどめ
ておくべきことであり、守るべきルールである。
たとえば、
『ヴェーダ(聖典)』の世界観がベースにあるインドでは、「シャー
ウチャ शौच( 清潔、清浄 )」を守るために他人が手をつけた食べ物を取らない。
他人の唾液によって汚されている可能性のあるものは、清浄ではないとされる
からだ。だから、1 つの器から皆で “ まわし飲み ” とか、他人と同じ食器から食
べ物を食べる “ 鍋 ” や “ 大皿料理 ” の習慣がない。さらにコンサバティブな地域
194
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
では、水の飲む時にもコップに口を絶対につけない。コップを顔の上高く掲げ
て、そこから水を体に “ 注ぎ込む ” ようにして飲み物を飲むのだ。
というように、「シャーウチャ शौच(清潔、清浄)
」はとても大事なこととさ
れる。数ある生物の中でも鹿が「シャーウチャ शौच( 清潔、清浄 )」のシンボル
とされているのは、鹿は生物の唾液がついたものは絶対に口にしないという性
質を生まれながらにもっている。
生まれついての清浄を保つ動物が、Yoga 的な生き方で大きな価値を置かれる
「シャーウチャ शौच( 清潔、清浄 )」のシンボルであるとされている。その理由
から瞑想の座に “ 鹿の皮 ” を用いるようにいわれているが、現代では、動物の皮
と似たような質をもつ素材でできたマットがあるのだから、動物の皮である必
要はない。
としかく肉体にダメージを与えない快適な場所で、快適な座の上に、安定し
て坐ること。そうやって瞑想は為されるべきであるといわれている。
Yoga は我慢比べでもないし、体を痛めつける苦行でもない。体は私たちが生
きる目的を達成するために必要な媒体、希望や願いを具現化するための大事な
道具である。その体は空、風、火、水、土という 5 大要素から成り立つ自然界
の物であり、全体世界、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」によって与えられ
ものである。私たちが選んで手にしたものではない。世界から贈られたこの体
という場所に対して、私たちは一時的な所有権を与えられているだけだ。一見
この体は自分の物のようにみえるけれど、“ 一定期間、まるで自分の物のように
扱える権利と自由 ” が与えられているだけだ。体や感情、考え、生理機能など
の生きる機能を含めたすべてを私たちは世界から一時的に預かっているにすぎ
ない。生きる目的を叶えるために、この場所が一時的に個人に与えられている。
自分 1 人で体を作ったのではないし、自分だけで養って、生きているわけで
はない。
『ヴェーダ(聖典)』の世界ではよくいわれるが、どの肉体も、「アート
マン आत्मन्(人、生き物の真実)」が宿る神聖な寺である。このお寺において、
私たちは “ 全体とつながり、真実をみる ” という生物全体の共通の生きる目的を
果たすことができる。そういう場所を私たちは信頼されて、世界から預けられ
ている。だから自覚と責任をもって、大事にしなければならないのだ。勝手な
修行で痛めつけたりしてはいけない。瞑想でも Yoga でも体は大事に扱ってゆく
195
第 5 章 いつ、どこで、どれくらい瞑想をするべきか?
ものだとされている。
瞑想をする際は、体は快適に、心地よくをモットーにしよう。もし床に坐る
のがつらければ椅子に坐っても、背もたれの助けを借りても全く構わない。
ただ注意としては、いくら快適だからといって寝転がったりしないこと。そ
んな姿勢で瞑想すれば、必ず “ 迷走 ” の末、たちまち眠りに落ちてしまうことに
なるから。
196
第6章
Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
< 瞑想の方法 >
197
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
何が瞑想か? 瞑想は誰が何のためにするのか? いつどこで行うべきか? 瞑
想についての定義と含みながら、実際に瞑想をするための条件についてみたの
は前章まで。ここからは、いよいよ瞑想を実践するための具体的な方法をみて
いこう。そして、実際に瞑想を始めよう!
前に見たように、瞑想をするために、まず私たちは<瞑想者>である必要が
ある。普段の生活の中で担っている沢山の役柄を降ろして、世界のありのまま
を認識し、心に問題や葛藤のない「オリジナルでシンプルな素の自分」が瞑想
する。その目的は、自分と全体世界とのつながりをハイライトすること。客観
的で大きく広く物事をとらえられる心を準備すること。
「サグナブランマ सगुणब्रह्म(全体世界の現れ)」に自分もいる、ということ
を実感する。そうしてリアルな世界の、リアリティをみる。現実的でかつ、実
践的な「リアリティ瞑想」の準備をしよう。
実際の瞑想において、私たちが意図的にするほとんどの作業は、“ リラックス
をして、客観的になること ” に費やされる。緊張や問題がない解放された心で、
役を演じていない “ 素の自分 ” になるために、瞑想のメソッドがあるといっても
いい。そこまでできたら、後の瞑想の深まりは自然に起こることだから。
私たちは世界の中で、たったひとりで生きているわけではない。様々な関係
性の中で役割を演じている。日常生活とは世界の中で自分に求められていた役
をその場その場で、こなしているということに他ならない。それはどの人も同
じこと。だれもが例外なく、私たちは皆それぞれに、果たさなければならない
役割がある。
この世界は、私たちが人としてさらに成長し、願いや希望を叶えるため、そ
して過去にしてきた「カルマ कर्म(行い)」の結果の果実を摘み取り、消化する
ためにあるのだと聖典はいう。個である各々が、「カルマ कर्म(行い)」の実を
刈り取っているために、世界は様々な形と多彩なバリエーションに満ちている。
人も、動物も魚も虫も、みな役割を世界の中でこなし、「カルマ कर्म(行い)」
を消化している。
たとえ悟りを開いた「ヨーギー योगी(ヨーガの実践者、達人)」といわれる
人や賢者でさえ、事情は同じだ。この世界を生きる者で、役を逃れられる者は
198
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
いない。役割の数を減らすことはできるが、何かの役から完全に自由になるこ
とはできないのだ。
Yoga のゴールである 「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」 は、役から自由にな
ることは目指していない。それは不可能なことだから。Yoga の最終的なターゲッ
トである自由の意味とは、「役を演じながらも、自由の意味で在り続ける」とい
うこと。
「世界というドラマの中で、様々な役割を演じながらも、それでも自由
な自分を知る」ということなのだ。
どういうことだろう? それは、“ 役を演じる自分 ” つまり自分自身と、“ 役 ”
を混同しないということ。まるで、舞台の役者と、役の関係のように。
役者は舞台の上で、自分が役を演じている事を知っている。自分は役ではな
い、この事実ははっきりしている。だからドラマの中で、どんな役を演じよう
と基本的には完全に役から “ 自由 ” だ。
ドラマの中で、役には様々な問題が起こる。苦しいこと、困難、苦痛、苦悩…。
その度に役者は本気で苦しんでみせる。苦悩に苛まされ魂で叫び、号泣するか
もしれない。怒りに燃え、嫉妬に狂い、運命の歯車に押しつぶされそうなこと
もあるだろう。悲劇のどん底で悶えながら断末魔をあげたり、叫んだり、どん
なこともドラマの中には起こりえる。
しかし、ドラマの中でいかに悲惨な状況にたたき落とされても、役者は心の
奥では実は喜んでいる。彼が演じる役が難しい状況を迎えるほどに、きっと心
でこう思っているに違いない…。「うぅむ、なかなかノリに乗って、迫真に迫る
演技ができてるじゃないか!いいぞぉ~。見ろ、観客はみんな泣いてる。役者
冥利に尽きるなっ、ハハハ!」。泣き崩れながらも、
「俺は天才か? !」と内心
では思っているかもしれない。誰もが目を覆いたくなるような、八方ふさがり
の状況に追い込まれながら、悲劇のヒロインになりきって、「あたしって、完璧
な役者だわ」
。と、ほくそ笑んでいるかもしれない。役に見事にはまるほど、演
者としての内なる喜びは高まる。役と一体化するほど、みる者を圧倒し、感動
させる。
役者は喜怒哀楽を表現する。役についている問題と、その問題によって影響
される感情を、まるで本当に自分に起こった事のように演じる。迫真の演技と
いわれて評価され、見ている人を感動させる。“ まるで、本当に自分に起こった
199
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
ことのように…”。
ここがポイントなのだ。この “ まるで ” が役と自分自身との距離。実際に物理
的な距離などないけど、認識の上で確実に距離がある!本当の自分自身と、演
じている役。その距離が明確であるほど、リアルな世界にいるよりも、よりリ
アルに役を演じてみせることができる。舞台を心から楽しむことができる。そ
れこそ演者にとっての喜びである。
その余裕は、自分は自分自身であって、どの役でもない、という自己認識に
基づいていて起こっている。演者として冷静であればあるほど、役者は役に没
頭できる。戻るべき場所を知っているから、ドラマの世界ではどんなところま
でもいける。大胆に、思いっきり、リアリティの中に存在している “ つくり上
げられた世界 ” の中で、のびのびと己の才能を発揮できる。
役者である者は、はっきり “ 自分の真実 ” を自覚している。“ 自分はあくまで
も演者であって、役ではない ” という事実。だから力いっぱいドラマの世界を
楽しめる。本物の世界以上に、課せられた自分の役を生き生きと演じることが
できるのは、
「役は役、ドラマはドラマ自分は自分」という、揺るがない事実が
ベースにあるからこそ。
彼はドラマを怖がらない。どんな役を演じ、どんな状況にいても心の中には
微塵の恐れも不安もない。役がどれほど葛藤し、悩もうと、現実の彼には一切
関係がない事を知っている。それほどのゆとり、スペースが心にあるのだ。だ
から彼にとってドラマはエキサイティングで、自分を試す痛快な舞台になる。
ドラマにくつろぎ、楽しんでいる。限りある役を演じることができるほどに、
彼は “ 自由 ” だ。自分が自由の意味であることを、知る者なのだ。
役者は自由の意味を知っている。真の自分は、役からも、ドラマからも自
由である。がんじがらめの状況にある役を、力いっぱい悲惨に演じることがで
きるほど自由なのだ。あらゆる束縛と制限の中にいて、それを楽しめる程、余
裕なのだ。
ドラマの中では、涙を流し、切羽詰まる表情をみせながらも、内心は全く余裕。
彼の本質は、ビクともしない。同時に何役演じようが、問題ない。ドラマにお
いて、” 悲しめる程に、自由。役の苦痛や苦悩を持てる程に、自由 “Yoga の自由、
「モークシャ मोक्ष(悟り ・ 自由)」とは、この役者の自由度に近い。
200
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
自由になるために、世界から逃たり、逸脱したり、終わりにしたりする必
要はない。自由へのキーは、本当の自分、世界というドラマの大舞台で演じて
いる役割である自分を客観的に、冷静に理解して生きるということ。そうすれ
ば、私たちは、“ こんなに小さな体を持てる程に自由。窮屈な関わりの中にいて、
それを楽しめるほどに自由 ” であることを知る。それは、自分自身の真実とは
何か? 自分とは本当は何者なのか? この根源的な疑問にしっかり答えられるだ
けの深い理解があってこそだ。
さらにいえば、無条件の自由は、今このまま、ここで、この瞬間にもある。
今も、過去も、未来も、世界にいながらも自分が自由でなかったことなどない。
“ 自分自身とは、自由の意味である ” 自分の真実「アートマン आत्मन्(人、生き
物の真実)」は、
「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」
であり、
「ブラフマン ब्रह्मन्」は自由という言葉が指し示している意味そのもの。
それが私たちの本当の姿だと聖典はいう。
」のシナリオの中で、
私たちはだれもが、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
主役を張っている。役をもってドラマに参加している。自分の本当の姿を知っ
ている人は、どんな役を演じようと全然動じない。様々なできごとを楽しむ余
裕すらある。体は舞台に立つための衣装のようなもの。世界の出来事や条件は、
まるでドラマの設定、舞台装置。「カルマ कर्म(行い)」と結果はストーリーを
運ぶシナリオ。そして、自分はこの世界の大きな舞台にたって、変化が激しく
異様にリアルなドラマの役を演じている。どんな役を演じようが、役がどんな
状況にいようが、コスチュームがどんなに変わろうが、演じている自分自身は
変わらない。ドラマの渦中にいながら、ドラマから全く自由。この事実を理解し、
真実に足をつけて世界に立つ自分は無敵だ。
リアルな世界の背後に広がる自分自身のリアリティに確立している。舞台の
上の役を世界は驚かせたり、不安にさせたり、涙を流させたりもするが、本当
の自分自身を脅かし、悲しませることはできない。
客観的にドラマを見て、役を演じているということを知る者が本当の自分で
ある。この事実に、役者は絶対に揺れない。どんな役を演じても、役の問題が
自分自身の問題となるような混乱はない。世界の何も、自分自身に手出しする
ことはできない。影響を与えることも、傷つけることも、汚すこともできない。
本当の意味で、この世界は私を傷つけることはできない。世界は、私が許さな
201
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
い限り、私に何もすることはできないのだ。
私たちの事実とは、この世界にいながら全くの自由な存在だということ。だ
から自由になるために死後に行くというあの世を待ったり、社会から身を隠し
て洞窟にはいったり、森で 1 人生きる必要はない。悟ること、束縛から自由に
なること、Yoga 言葉でいう「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)
」とは、自分が何
者であるか? そのリアリティを知るだけなのだ。
『ヴェーダ(聖典)』最終章である『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典
の最終的な教え)
』はこの真実を教えている。真実からみれば、私たちが「モー
クシャ मोक्ष(悟り ・ 自由)」でなかったことなどない。過去も、現在も、未来
も私たちの真実自由だ。自由とは、自分自身の事実の事なのだ。
या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी।
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुने:॥२-६९॥
すべての人、すべての生き物たちがまるで深い夜のような、無知の闇の
中にいたとしても、賢者は自分自身をマスターし、真昼の様な真実に目
覚めている。
逆に、すべての者が “ これがリアルだ! ” と、疑わずに、はっきりとみ
ている物事において、賢者は無知の闇をみる。
『バガヴァッドギーター』2 章 69
役者自身と、その人が演じている役の間には物理的な “ 距離 ” はない。しかし、
何をもって自分自身とするか? その認知の間に決定的な距離がある。
夢の中で苦しい思いをしている者と、夢を見ている自分との間には物理的な
“ 距離 ” はない。夢で苦悩している者と、夢を見ている者に距離がない。これが
混乱をつくり出している。しかし、夢を見ている者と、夢から目覚めた者の間
には認識の上に明白な距離がある。だから、目覚めた者は、夢の苦悩や問題か
らは全く自由だ。賢者や「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、
達人)
」といわれる人々
は、大勢の人が無知の闇にいて苦悩に縛られていたとしても、真昼のようにはっ
202
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
きりとした真実に目覚めている。自分を何者としてみているのか? この認識に
おける距離のみが、私たちを自由にする。
Yoga の様々なメソッドは、聖典のこの教えを、どうすれば理解し、実感する
ことができるか? 確実な術と方法を教える。
役を演じ、ドラマの渦中にいながらも、自由である自分自身に「本人」が早
く気がつくように。生物のすべてが自分自身の真実に、目が覚めるように。そ
して苦悩や悲しみから自由であるように、聖典は教えるのだ。
तस्मादज्ञानसम्भूतं हृत्स्थं ज्ञानासिनात्मन:।
छित्त्वैनं संशयं योगमातिष्ठोत्तिष्ठ भरत॥४-४२॥
アルジュナよ。自分自身についての事実を知らないことから、心に疑惑
や葛藤が湧いてくる。
苦悩や問題のルーツは、無知である。
しかし、無知の根は、知恵という鋭い刃で切り取ることができる。
事実を知ることだけが、心に根をはる無知を晴らし、自由の意味を知る
術だ。
真実に目覚めるのだ。
さあ早く!今こそ立ち上がって、Yoga の道を歩め!
『バガヴァッドギーター』4 章 42
瞑想の練習は、“ 自分自身の真実 ” を自覚するために行う。世界という大掛か
」が描いたシナリオがある。
りな舞台に、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
そこに自分は役をもってドラマに参加している。瞑想は、このドラマやドラマ
で演じる私たちが、本来あるべき真実という場所に戻るためにある。
瞑想も Yoga も、自由になるためにするのではない。自由を獲得するのが目的
ではない。なぜなら、もうすでに私たちは今でも自由なのだから。自由、「モー
クシャ मोक्ष(悟り・自由)」は、ただ事実を知ることだけだ。
事実を知るための唯一の手段が、聖典の教えを理解すること。教えを理解す
203
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
るために心を準備する必要がある。知識が確立するための心を用意することが
Yoga である。そして瞑想は、すでに自由である自分自身を知り、本当の自分で
在り続けるためにする。
自由である自分自身を知り、真実に揺らがないこと。すでに自由な自分を、
どれ程リアルに実感できるか? 自分自身の本質を、迷いと混乱なくはっきりと
理解しているか? 真実をしっかりと確立するために Yoga や瞑想はある。
瞑想では、迷いや混乱にはっきりした認識の境界線・ボーダーを引いていく。
自分自身の事実と、自分が演じている役や世界との関わりの間に、はっきりし
た距離をつくる。自由であるためには、社会からドロップアウトして、役から
降りる必要はない。役を演じながら、自分自身の真実と役を担う自分の間に明
白な違いをみることができればいい。
真実の理解が深まれば深まるほど、瞑想は深くなり、私たちは世界にどこま
でもくつろぐ。今もし混乱や苦悩があり、不安であるというのなら、「自分自身
についての無知」が根底にある原因なのである。
実は、Yoga は気休めに安全になってみたり、リラックスしている気分に浸る
ようなお気楽で中途半端なメソッドではない。完全なるリラックス、フルサイ
ズの安全と幸せに至ろうとする道なのだ。
私たちは自分が苦しんでいる苦悩や問題の原因、根っこをみて、問題を根本
的に解決しようとしている。苦悩の原因を根こそぎ取り除かない限り、自分は
世界にくつろぐことができない。
苦悩に苛まされる人に向かって、「大丈夫ですよ~、みんなが悩んでいるので
すよ~」とか「“ 私は自由だー、問題なーい、完璧だー、最高だぁ…” と、とに
かく呪文のように唱えて、否定的な感情を打ち消せ!」などとはいわない。問
題と混乱の上にポジティブっぽい思想を上乗せして、自分にいい聞かせ、みる
べき問題をうやむやにしたりもしない。
むしろ、不安とは何か? 問題とはなにか? 何が悩みの原因か? その本質に
迫る。不安の根源にピンポイントでアプローチし、問題は根っこから取りのぞ
く。生半可な、生ぬるい道ではないのだ。
204
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
もし、
「他人も世界も信じられない、受け入れられないよぉ~。もう、自分だ
けは許せない!なんといっても自分が一番信頼できない。この自分から脱け出
したい」
。こんな風に心のどこかで思っているなら、
「まだまだ真実を知る可能
性が広がっている!」ということだ。根本の問題の解決は、事実を知ることだ
けにある。
「私の苦悩の実体とは、何なのか? だいたい、ホントに悩むに値するものな
のか? 」それを解ることだけが、自分を問題から解放する。瞑想はこの解放の
ために必要な落ち着きと余裕をつくり出し、本格的に問題を解決しようとする
ための確実なメソッドとなる。
1.“ 瞑想する人 ” であるために
私たちが、毎日演じている役。1 人の人には、関係性の中で様々な役割がある。
父・母との関係において、自分が求められている役は “ 息子や娘 ”。兄弟との関
係においては “ 長男・長女、弟・妹 ” という役割。友人関係においては、“ 友人 ”。
職場においては “ 上司・部下・社長・従業員 ” それぞれ。子供に対しては “ 親 ”
という役、ご近所さんとの関係においては “ 良き隣人 ” など。皆が多くの役を演
じている。
演じることは、「モークシャ मोक्ष(悟り ・ 自由)
」とは何の関係もないし、問
題もない。自由になることの意味は、役から離れることではないのだから。世
界における自分の役の多彩さを、大いに楽しめばいい。
問題がおこるパターンは “ 役の問題が自分自身の問題になる ” という場合。私
たちは本来の自分自身と役との関係に、混乱してしまいがちだ。混乱を持った
まま、“1 つの役の問題をいつまでもひきずって、別の役にまで影響を与えるこ
とがある。” ということが、混乱をさらに複雑なものにする。問題は自分に対す
る混同と混乱。混乱からの脱却を図るには、まずは、冷静になることだと Yoga
のメソッドは教える。落ち着いてみれば、何が真実で、何がその上に映ってい
るだけなのか、がみえてくる。問題の本質は何かが、
次第に明らかになってくる。
客観的にみてみれば、私たちの演じる役は、私たちの本質的な事実ではない。
205
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
演じている役と、演じている自分の境界をみる必要がある。事実を見極めるこ
と。ここから本格的な Yoga が始まり、見極めによって執るべき正しい方法を手
にすることができる。Yoga という名の元で、“ 超能力開発や超常現象獲得 ” を
主張する人も大勢いいる。内なる世界のエネルギーと時間を使うことは、根本
的な自分の問題の解決にはなりえないことが解る。
“ 真実と、そうでないものを見極めること ” それが様々な混乱を整理する。こ
の冷静さと客観性は、瞑想を準備するメソッドで養うことができる。リアルな
世界の後ろに広がる絶対的な “ リアリティ(真実)” をみること。自分自身のリ
アリティが「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」と呼ばれる。世界のリア
リティは「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」と
呼ばれる。リアリティにおいて、この 2 つは全く同じ 1 つの真実である。ただ
1 つの自分自身と世界のリアリティを理解するために、私たちは瞑想する。そ
れが自分を束縛や制限、苦悩から解放する唯一の術であるからだ。聖典のビジョ
ンに基づく真実を納得するために、
「リアリティ瞑想」は最も有効な方法である。
それではこれから具体的な瞑想方法を見ていこう。
2.「リアリティ瞑想」の方法
実際の瞑想の前に、まずは全体の流れをみてみよう。
スタート:初めの儀式:「サンカルパ संकल्प(誓い)
」を立てる
瞑想に向かっての心構えを言語化し、目的を具体的にするのが狙い。
それによって、瞑想中の雑念や、眠気との戦いに対する自分の確固たる
意志を定める。誓いの言葉には祈りの要素も含まれている。全体世界に
対して謙虚な態度で瞑想に望む姿勢を準備することができる。
Level1:リラックスすること。
206
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
正しく坐り、体や顔の力を抜く。
心を落ち着かせるために有効な「プラーナーヤーマ प्राणायाम(呼吸法)
」
を何度か繰り返す。
Level2:冷静で客観的になる。「瞑想をする者」となる。
自然の光景から家族や友達やライバル、自分の体や機能、心まで、自分
を囲んでいる “ 世界 ” を客観視するための方法をとり、瞑想ができる準
備をする。
Level3:自分の本質をみる。全体とのつながりを強固にする。
ターゲットは、瞑想のために心を整えること。
自分の体、呼吸、感覚、考え、感情といった “ 自分自身の本質と自分の道具 ”
という境界があいまいになり、混乱が起こりがちなポイントを客観的に
とらえていく。
瞑想開始:
「マントラ मन्त्र(真言)」を唱える「जप ジャパ(マントラ瞑想)
」
聖典の定義に従って瞑想を開始する。
「サグナブランマ・ヴィシャヤ सगुणब्रह्म विशय(全体世界の現れを対
象にすること)」につながること。具体的に瞑想の対象に、
「マントラ
मन्त्र」を用いる。
「マントラ मन्त्र」を繰り返し唱え、心の活動・思考の流れを 1 つに絞る
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」を実践する。
それでは、それぞれの項目を詳しく見てみよう。
207
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
3.スタート:「サンカルパ(誓い)」を立てること
瞑想を始める前に、効果的なテクニックを 1 つ加えることができる。これを
するとしないとで、瞑想の流れは序盤から大きく変わってくる。それが「サン
カルパ सङ्कल्प(誓い)」。一言でいえば、意志表明・誓いのこと。自分の望みや
思いを “ 行い ” という形で表すとき、意志を固め、具体的な目標を言語化しはっ
きりと自分自身と世界に対して表明する。自分の中の「やろう!」とう思いを
意図的に言葉で誓う。それによって、単なる願望を確固たる決意に変える。
これから瞑想をしようとする自分自身に対しての誓いでもあり、世界に対す
る正々堂々とした決意表明、宣言でもある。行いに対する自覚が高まると同時
に、様々な目にみえない障害を取り除き、スムーズにことが運ぶよう世界に協
力を要請し、サポートを得るための祈り、という意味も含まれる。インドでは、
「プージャ पूज(儀式)」をする前、もしくはここ一番のイベントの前には必ず「サ
ンカルパ (सङ्कल्प(誓い)」を立てる。
自分に対しては決意を、そして自分を取り囲む世界に対しては祈りをはっき
りと表明することで、目にみえる力と法則、また肉眼では確認できない力と法
に全面的な協力を要請することができるのだという。自分の努力と、世界から
の協力、その 2 つを得て、瞑想を成し遂げようとするために「サンカルパ (सङ्कल्प
(誓い)」を立てる。
「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)」は、瞑想をする前、Yoga をする前、何かを実
行しようと決心した時にする。クリアな意志表明は、事の成就を左右する重要
なファクターになる。
瞑想以外にも、何かをやり遂げたい、という意志が高まり、いよいよ実行に
移す時など、様々なシーンで「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)
」は立てることがで
きる。どんな小さなことでも、何事かをなすときには、まず自分の意図を明確
にする必要がある。何をどうしたいのか? そのために必要なものは何か? 行い
の最終的な目的は何か?「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)」によって、曖昧な態度
で自分が迷わないようにする。
私たちは時々、物事が「上手くいくのがあたりまえ~」などと、尊大なこと
を思いがちだが、実はすべてを世界に頼って生きている。物事が上手くいくの
208
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
も、思い通りにならないのも、自分を取り囲む周りの世界次第。瞑想をするに
あたっても、外から、内から障害がないように、自分の意図を “ 言葉と形式 ” を
通してしっかり宣言し、目にみえる力、目にみえない力両方を味方につけるた
めに祈る。
「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)」を立てて、眠りや雑念や、潜在意識に阻まれ
ることなく、明確な目的のもとに瞑想をしていこう。
「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)」の実践方法
この方法は、インドの『ヴェーダ(聖典)』に基づいた伝統的なメソッドだ。
現代の心理学や脳科学の分野で研究されていそうなテーマであるが、“ 意志を
明確にする ” ことの大事さが、インドでは『ヴェーダ(聖典)
』が世界に現れた
当時から、長い歴史のなかで考えられ、実行されてきたという。その手法の有
効性は、Yoga の歴史上現れた数々の賢者や「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、
達人)」によって証明されている。彼らが行ってきたことに私たちが心を開いて、
「シュラッダー श्रद्धा(信頼、信念)」をおけるのなら、時代も国も違う現代
日本の Yogi である私たちにも、そのメソッドは有効に働く。
<方法>
・背中、頭、首のラインをまっすぐに、瞑想の姿勢で坐る。
・左手の手のひらを上向きにして右腿の付け根におき、その上に右手を、
握手するように重ねる(次頁写真参照)。
・目を閉じて、心を集中する。そして、これから達成したいこと、行う
予定のことについて目的を明確にして、心の中で視覚化する。
・祈りの言葉を唱える。
その後、自分の思いを自由に言葉に出して、決意表明をする
209
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)」
左手の上に、右手を重ねて写真のようにしっかり合わせる。
組んだ手を右の腿の付け根において、誓いの言葉を宣言する。
ममोपात्त समस्त दुरितक्षयद्वारा श्रीप्रमेश्वर प्रीत्यर्ठं देव जपं करिष्ये।
マモーパーッタ サマスタ ドリタクシャヤ・ドヴァーラー シュリーパラメーシュヴァラ プリーティヤルタン デーヴァ・ジャパン・カリッシェー
210
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
形式よりも、意味と態度が肝心。サンスクリット語なんて覚えなくても大丈
夫。誓いの内容は、母国語ではっきり宣言しよう。ここに載せたサンスクリッ
ト語表記の文言は、伝統的な誓いの言葉であるので参照にしていただければそ
れで OK。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の前の「サンカルパ (सङ्कल्प(誓い)
」の言葉
ममोपात्त समस्त दुरितक्षयद्वारा श्रीप्रमेश्वर प्रीत्यर्ठं देव
जपं करिष्ये।
マモーパーッタ サマスタ ドリタクシャヤ・ドヴァーラー シュリー
パラメーシュヴァラ プリーティヤルタン デーヴァ・ジャパン・カ
リッシェー
<意味>
私はこれから「जप ジャパ(マントラ瞑想)」を「イーシュヴァラ ईश्वर
(全体世界)」とつながるために行います。
どうか、私が今まで積んできた行いの結果からなる後悔や自責の念を伴
う「ドゥリタ दुरित(過去の不徳な行いの結果現れる障害や困難)
」を取
り除いて、
「デーヴァ देव(世界の秩序を維持する力と法の象徴)
」の祝福
を受けられますように。
誓いは、サンスクリット語である必要はない。心配しなくても大丈夫!自分
が一番しっくりくる言葉で思いを具体化して、言語化することに意味があるの
だ。自分に対して誓い、世界に対して宣言をする。それによって、これから行
い物事に対して、確固たる決意と謙虚な態度を準備することが目的であるのだ
から。何語でも構わないから、心の中でしっかり “ 言葉 ” で誓いを立てること。
「私はこんな決意をして、今からこれを行うつもりです。世界を維持する目で
みえている力、そしてみえない力と法則。どちらの力と法も自分の行いをスムー
211
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
ズに形にできるよう支えられますように。思いを実現するために、全面的な協
力とサポートが世界からもたらされますように。どうか自分に最大限の祝福が
あるように。
これまで積んできた自分の「カルマ(行いの結果、業)」がどうか邪魔をしな
いように。もし障害になるファクターが自分の中にあるとしたら、どうかそれ
らが解消していくように。自分が決めたことを完遂することができるように」。
最後に思いを込めて自分自身に誓う。
4.<瞑想実践>準備1:リラックスすること。
リアリティ(真実)をみるためには、何が無くとも、まずは落ち着いて、リラッ
クスしている必要がある。慌てて乱れた心には、真実をみるゆとりも、スペー
スも残念ながらない。なぜなら、それどころじゃないからだ。
冷静に客観的に物事をみることができる態度と、ありのままを受け入れられ
るゆとりがある心に、真実はまっすぐにはいってくる。慌てたり、緊張したり、
混乱していたり、心配事や問題を抱えた状態でリアルな世界の背後に広がる真
実をみつめるのは、ちょっと難しい。いや、不可能なのだ…。
まずは、ゆっくりとゆったりと自分と世界にくつろぐ。瞑想のメソッドの前
に、まずは心と体をリラクッスした状態にする。リラックスし、客観的に物事
を受け取る余裕をもち、自分と世界に心を開いていく状態を準備としていこう。
212
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
Level1:
瞑想の前に自分にくつろぎ、リラックスするためのテクニック
1.正しく坐る
2.目を優しく閉じ、瞼をストレッチする。
目の緊張、顔の緊張、体の緊張を取りのぞく
3.目の位置を固定する
4.くつろぎと浄化の為の呼吸法
」を
「ナディーシュッディ नादीशुद्धि(ナディー(経路)の浄化)
10 回程繰り返す
5.自然の呼吸の流れをみる
「プラーナ・ヴィークシャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)
」
瞑想に適した坐り方、姿勢
समं कायशिरोग्रीवं धरयन्नचलं स्थिर:।
संप्रेक्ष्य नासिकाग्रं स्वं दिशश्चानवलोकयन्॥
प्रशान्तात्मा विगतभीर्ब्रह्मचारिव्रते स्थित:।
मन: संयम्य मच्चित्तो युक्त आसीत मत्पर:॥
瞑想のために、体を動かず、しっかりと土台に腰を据えて坐る。
頭、首、体をまっすぐに保ち、まるで鼻の先をみるかのように視線をまっ
すぐにする。
そのまま視線は動かさず、どの方向にも動かさないように定める。
心が静寂である人は、恐れから自由である。
「ブランマチャリヤ ब्रह्मचर्य(学生、
『ヴェーダ(聖典)
』を学ぶ者)
」
として規律ある生活と聖典の言葉に忠実に生きることを確立している。
213
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
そのように瞑想する者は、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」を完全
に自分自身の事実として理解することを最終的な目標として、五感やマ
インドをそれ以外の対象から引き離しておくことが可能になる。
『バガヴァッドギーター』6 章 13,14
正しく坐る
(イラストレーション:久保玲子)
背中を伸ばしてまっすぐに坐る。
瞑想のための坐り方は、
「सुखासन スカーサナ」「स्वस्तिक-असन スヴァスティ
カーサナ」
「पद्मासन パドマーサナ(蓮華坐)」という坐り姿勢が Yoga 経典に
よるお勧めである。
経典は脚をクロスさせる坐り方を勧めてはいるが、体の形や姿勢が “ 瞑想の
深さ ” を決定するわけではない。なので、基本的には自分の体にとって負担が
なく、快適な坐り方を選択すれば OK。聖典は坐り方について、小難しいことは
いわない。Yoga は形式主義ではない。
30 分ほどまっすぐに坐っていられるように、快適に座をつくっておくこと。
お尻の下にクッションをいれてもよいし、関節が痛む場合はイスに坐っても構
わない。体の事を一定時間忘れるくらいの快適さで坐ることができればベスト
だ。
ただし、横になったり、背中をべったり床につける姿勢で瞑想をすれば、必
ず眠りに落ちてしまう。寝っ転がるのは避けること。
214
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
胴体を床から垂直に伸ばし、余計な緊張は落とすが、安定させておく。瞑想
中はできるだけ体の事を気遣わなくていいように、初めに安定した快適な坐り
姿勢をつくっておこう。
最終的に目指すのは、48 分間=1「ムフルタ मुहुर्त(時間の単位)」、1 つの
姿勢を変えずに坐り続けていられるようにすること。そのために、快適であり、
リラックスできることを心がける。Yoga 的には、48 分坐ることができる人を
アーサナの達人=「アーサナ・シッダ आसनसिद्ध(アーサナを達成した人)」
という。
どんな姿勢で坐ってもよいが、一度選んだ姿勢は変えずに、同じ姿勢で一定
時間坐り続けていられることを目指そう。つまり、瞑想の間は、体に煩わされ
ることから自由になるということ。
最初は 10 分ですら、難しいかもしれない。しかし、
毎日坐っていれば自然に “ 坐
る力 ” はついてくる。心配するには及ばない。何事も「アッビャーサ अभ्यास(繰
り返しの練習)」あるのみだ。
とにかく坐り方は、瞑想中体の心配をしなくていいように、快適に。しかし、
快適すぎて眠りに落ちないよう注意する事。それだけ。
『ヨーガスートラ』も「アーサナ आसन(姿勢、Yoga のポーズ)」に関しては
このようにいう。
स्थिरसुखमासनम्।२-४६
スティラ・スカン・アーサナン
「アーサナ आसनम्(坐り姿勢)」とは安定し、快適である事である。
『ヨーガスートラ』2 章 46
215
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
手の位置:
肩の力を抜き、両腕をゆったりさせ、両手の指を組み合わせる。親指と親指
を合わせる。このポジションは、自分の “ 感覚器官(触感)” の働きを客観視す
る時に重要になる。
顔の位置、目の位置:
坐り姿勢が決まったら、目の位置を定めよう。視線は、上下左右のどこにも
傾かず、まるで鼻の先をみるかのように、まっすぐ前に向けておく。そして優
しく目を閉じる。
経典『バガヴァッドギーター』には、
“नासिकाग्रं स्वं दिशश्चानवलोकयन्॥६-१३
鼻の先をまるでみるかのように ”
『バガヴァッドギーター』6 章 13
という表現が出てくるのだが、あくまでも “ まるで ” がついている。これを誤
解して、
「集中するには鼻の先をみよ。経典にも「ナーシカグラン नासिकाग्र(鼻
ं
の先)
」と、ちゃんと書かれているのだぞぉ」という Yoga の先人たちもいる。
そういうことをいい出す師を師事するお弟子さんは皆 “ 寄り目 ” で Yoga をして
いることになる…。しかし、そんなことは経典はいっていない。“ 目を真っ直ぐ
に位置にしておく ” ということを、まるで鼻先をみるように、という表現で表
しているだけなのだ。それに、比較的鼻の低い、ひたべったい系が多い国民で
ある我々日本人に、「ナーシカグラン नासिकाग्रं(鼻の先をみる)
」ことは意外に
厳しい。
インドのヨーガ道場、アシュラムでは、年に何人か “ ひらべったい顔族 ” の
アジア人が訪れては、そこの Yoga 導師(グル)に、「鼻の先がみえないので、
“ 着け鼻 ” をしてもいいのか? 」とか「Yoga のために整形は許されるのか? 」
などという質問を大真面目にぶつけているらしいのだ。宴会芸をするわけじゃ
ないんだから、しっかりしてほしい。慌ててはいけない。Yoga の経典解釈は、
216
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
しっかり意味をとるようにしていれば納得のいくことがきちんと書かれている。
さて、鼻先問題はこれくらいにして。私たちの顔の筋肉の状態は、
体のコンディ
ションと連動している。顔が緊張していれば、体も強張る。逆に、顔の力が抜
ければ、体の余計な力が抜ける。そして顔の力を抜くキーは、“ 目の力を抜く ”
ことにある。
「目をつぶってください」といわれると、思わず瞼をギュッと閉じてしまうが、
瞑想の場合は、優しくソフトに閉じるのがよい。驚くほどにリラックス効果が
高いのが、意図的にゆっくりと、ゆっくりと瞼を閉じていくというテクニック。
心でゆっくり 10 数えながら上瞼を下の瞼に重ねてゆく。これを 3 回繰り返し
てみよう。目が楽になり、顔の力がフワッと抜けて、体が楽になるのを感じら
れるはずである。
リラックスのコツ:目の力を抜く
一度目を開けて、ゆっくりスローモーションのように、瞼を閉じる。下瞼に
優しく上瞼が触れていく感触をみるようにして、ソフトに瞼を重ねる。頭の中
で 10 数えながら、10 秒かけて目を閉じるくらいゆっくりと行う。両目の位置
はまっすぐ前方に向けておく。そしてまた目を開け、同じようにゆっくりと閉
じる。これを 3 回繰り返す。
3 回目に、瞼を合わせたら、少し上瞼を引き延ばすようにストレッチする。
そして瞼からスゥ~ッと力を抜く。まるで、ブッダの像のように、上瞼は緊張
が無く、不自然な皺が寄らないようにする。眼球の力を抜き、目の奥の力も和
らげる。シンプルな方法だが、リラックス効果は絶大である。
くつろぎと浄化の為の呼吸法:
「ナディーシュッディ नादीशुद्धि(ナディー(経路)の浄化、浄化の呼吸法)
」
を左右 10 セット
さらにくつろぎ、神経を安らげ、体を浄化するために「ナディーシュッディ
नदीशुद्धि(気の通り道を浄化する呼吸法)」という呼吸法を行う。この呼吸法は、
Yoga のテクニックの内の 1 つ、呼吸をコントロールする「プラーナーヤーマ
217
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
(呼吸法)
」
。
左右の鼻腔から交互に息を吸い、
息を吐くことを、
繰り返す。
प्राणायाम
ところで、私たちの鼻の穴は、だてに 2 つ開いているわけではない!いつも
私たちは両方の鼻の穴から無秩序にスースー息を吸って吐いてしているように
みえるが、実はそうわけではない。なんと左右の穴は、1 ~ 2 時間ごとに状況
によって吸い分けているのだ。おぉ、Yoga で気がつく人体の神秘。体は “ 右と左 ”
のどちらの穴から空気を吸い込むかによって、体の機能を維持し、うまくバラ
ンスをとっているのだという。
Yoga には、肉体を丹念に扱う「ハタヨーガ हठयोग(肉体の働きに重きを置
いた Yoga)
」という流派がある。その Yoga は、人間の体は「太陽と月」の影響
で成り立っている、というコンセプトに基づいて様々なテクニックが提唱され
ている。
陰陽 ” の考え方にも似ているのかもしれないが、肉体の右側は「ピンガラ
पिङ्गल(太陽の影響をもつ気の通り道)」、左側は「イダ―इडा(月の影響をも
つ気の通り道)」という 2 つの気の通り道があり、太陽と月の影響がバランスを
とり合いながら、体を維持しているというのだ。
右の鼻は「ピンガラ पिङ्गल(太陽の影響をもつ気の通り道)
」につながり、
左の鼻は「イダ―इडा(月の影響をもつ気の通り道)
」につながる。
体は 1 ~ 2 時間ごとに微妙なバランスをとるために吸いこむ側を決めてい
る。「ハタヨーガ हठयोग(肉体の働きに重きを置いた Yoga)」の手法では、こ
の体の特性を利用し、あえて意図的に左右均等に呼吸を扱うことで、肉体と精
神のバランスに革命を起こそうとしているのである。
そして体の左右のバランスを最も取りやすくなる呼吸法が「ナディーシュッ
ディ नदीशुद्धि(気の通り道を浄化する呼吸法)」。左右の鼻の穴を交互に使い、
均等に息を吸い、息を吐く。この呼吸法によって、気もしくは神経の通り道と
もいわれる「ナディー नदी(気の通り道、川)」が浄化され、体のバランスがと
れ、精神が落ち着くという。
「ハタヨーガ हठयोग(肉体の働きに重きを置いた Yoga)」のテクニックを利用
して、
私たちも体を浄化し、
リラックスし、
瞑想ができる心と体を準備していこう。
218
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
「ナディーシュッディ नदीशुद्धि(気の通り道を浄化する呼吸法)」
「ハタヨーガ हठयोग(肉体の働きに重きを置いた Yoga)
」のテクニックでは、
左右の手の形から、位置、カウントまで細かく規定されているが、瞑想の前の
準備としてするなら、あまり神経質になる必要はない。基本的には手の使い方
は、扱いやすいように、好きな形で行えばよいとされる。
一応伝統的には、右手は、人差し指と中指を折り曲げた「ヴィシュヌムドラ
विषुणुमुद्रा」という “ 印 ” を結ぶ。呼吸法を行う際は、右手の親指で右の鼻腔
を閉じ、右の薬指で左側の鼻腔を閉じる。それを交互に繰り返す。
「ナディーシュッディ नदीशुद्धि(気の通り道を浄化する呼吸法)
」で呼吸を
繰り返す際に、伝統的に以下の『ヴェーダ(聖典)』に記された「マントラ
मन्त्र」を唱えることができる。
1.右手の親指で右の鼻をふさぐ。左から息をゆっくり、静かに吸い込む。
5 カウント、頭で数える。
2.右手の薬指で左の鼻もふさぐ。少し息を保持する。
3.親指を離して、右から息を吐く。5 ~ 10 カウントで吐ききる。
4.指のポジションをそのままにして、直ぐに右から息を吸う。
(5 カウント)
5.右の鼻腔を親指で閉じ、楽にできるところまで息を軽く保持する。
左から息を吐く(5 ~ 10 カウント)
はじめに戻って左から吸い、これを 10 回ほど繰り返す。
「ナディー नादी(気の通り道)」が浄化され、精神が落ち着き、瞑想の
準備が整ってゆく
*詳しくはマントラの章参照。
219
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
<息を吸いながら唱えるマントラ>
ओं भू:। ओं भुव:। ओं सुव:। ओं मह:। ओं जन:। ओं तप:। ओँ सत्यम्।
オーム ブー । オーム ブヴァハ । オーム スヴァハ । オーム マハハ । オーム ジャナハ । オーム グン サッティヤン ।
<保持する時に唱えるマントラ>
ओं तत्सवितुर्वरेण्यम्। भर्गो देवस्य धीमहि। धियो यो न: प्रचोदयात्॥
オーム タッサヴィトゥルヴァレーンヤン バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナ プラチョーダヤート
<吐きながら唱えるマントラ>
ओं आपो ज्योतीरसोऽमृतं भूर्भ्हुवस्सुवरोम्॥
オーム アーポー ジョーティー ラソー ブルタン ブールブヴァ スヴァローン
*左からはじめた上記<吸い⇒保持⇒吐き>を、
右からの吸いで続ける。
さあ、これで坐る準備が整い、リラックスもできた。呼吸によって体を整え
たら、次のステップは心の準備だ。
演じている役を降ろして、悩みや苦悩を一時的に世界に放り投げて、楽に素
の自分でいるようにする。心に葛藤やプレッシャーがないシンプルな、素の自
分でいること。偏見をのせずにありのままに自分と世界を受け止められる客観
的な自分が、瞑想で静かに座ることができる。瞑想をするときは、
「ディヤーター
ध्याता(瞑想する人)」でいるためにいくつかのステップを踏む。この方法をみ
ていこう。
220
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
冷静で客観的な「ディヤーター(瞑想する人)」であるために
瞑想している間、私たちは主観や偏見をのせずにありのままの自分と世界を
受け止められる客観的な心を準備する必要がある。ただシンプルに世界を認識
している「ベーシックな存在、個」であるようにする。このベーシックな存在
である自分が、全体世界「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」とのつながりを
ハイライトし、実感することができるからだ。普段、人々の間で演じている様々
な “ 役柄 ” を一時手放し、全体世界とつながっているシンプルな個のままである
ようにする。なぜなら、私たちの問題や緊張は、ほとんどがこの “ 演じている役 ”
に付随しているからだ。
毎日の生活の中で、素の自分であることを忘れ、役を演じている自分、役にくっ
ついているややこしい問題や物の見方が自分自身だと思ってしまっている。そ
うやって、役や役を取り囲んでいる狭い世界の中でやりくりすることに心を奪
われ、小さな世界にとらわれ、はまる。そんな時、私たちは本来 “ 役の上だけ
にある問題 ” を、そのまま “ 自分自身の問題 ” にすりかえてしまっている。そう
して本気で悩んでいたりする…。
素の自分でいることで、役と役を演じる自分との間にある境界をみる。そう
して、問題がある場所と、同じ自分でありながら問題を抱えていない自分自身
をよく見極めるようにする。
どうしても頭を占拠して離れない問題を抱えているときは、一時的に瞑想の
前に世界に悩みや問題を預けてしまう。思い切って放りなげる。世界の法則と
秩序である「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に一時すべてを委ね、心の負
担を預け、自分の心を解放する。瞑想の時間だけでも、問題から自由な自分で
いるようにしよう。瞑想で使うマントラの中の言葉「ナマハ नम:(心を開き、委
ねる態度)
」を唱えることで、私たちは世界に自分のいろいろな諸事情を意図的
に預けることができる。実は私たちは、毎日の生活の中で無意識ながらも、完
全に「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に心を開け放ち、何もかも預けてい
る時がある。それが、深く眠る時。無意識のうちに私たちは心をとらえている
苦悩や問題を「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に預かってもらっているのだ。
だから寝ている時は、大変自由!気分がいい。しかし一時的にしか預けていな
いために、眠りから覚め、起きたとたんにまた自分だけの小さな世界の大きな
問題にとらわれる。
221
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
もし、いつも私たちが、心を世界に開け放ち、自分で抱え込まず世界に委ね
きることができていたら…? 熟睡しているときだけでなく、目が覚めていても
世界を信頼して「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」を解放することができて
いたら? 心はとても軽く楽になり、心地よい自由にいつもくつろいでいること
ができるだろう。自分をとらえる問題がない心は、客観的で自由。この自由な
心のスペースに、真実がありのままに、まっすぐに映りだす。リラックスした、
事実を映すスペースがある広い心で常にあるようにすることが毎日の Yoga に
よって可能なのだ。
瞑想はこの Yoga の主要なメソッド。初めは意図的に心を開くことをするが、
最終的には目を閉じていても、目を開いていても自然に「イーシュヴァラ ईश्वर
(全体世界)
」委ねることができるようになる。心をオープンにして、『ヴェー
ダ(聖典)
』のビジョンをそのままダイナミックな世界のおいてみることができ
るようになる。毎日の瞑想と、生き方を Yoga にする「カルマヨーガ कर्मयोग(行
いの Yoga)」を続けていこう。
私たちは、毎日沢山の役を演じている。人と関わる時、役をもっていない人
など誰もいない。1 人の人が、時には父や母となり、時に息子・娘になり、兄
弟になり、上司や部下になり、友人になり、誰かの相方になったりする。
その時、1 つの “ 役 ” に付随している問題や葛藤を、別の “ 役 ” を演じている
時までひきずってしまうことがある。1 つの役に起こる問題を解決しないまま、
モヤモヤした思いだけが別の役まで影響する。どこまでがどの役か? ボーダー
があいまいになった問題が、何役にも覆いかぶさり、どの役を演じていても、
なんだか気分がすぐれず、問題にとらわれてしまう。
そんな状態で、瞑想を始めたとしてもうまくいかない。モヤっとしたまま坐っ
ても、心は問題に対してどうにかしようと画策し、走り回ってしまうだろう。
目を閉じたりしたら、さらに、この “ 迷走 ” は顕著になる。そんな状態を打破す
るにはどうしたらいいのだろう? この打開策を提示しているのが瞑想の 2 つ目
のステップである。
その方法は
“ 役柄を意図的に一時的に手放すこと ”
222
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
“ 客観的な視点で物事をみて、” 役 “ に付随している問題から解放されること ”
これができて始めて、私たちは自分に向き合い、くつろぎ、落ち着いて坐る
ことができる。
役から自由になるということは、役を演じていない「オリジナルな、
素の自分」
でいるという事。
最もベーシックな “ 個 ” であり、物事を認識する主体である自分は、歪んだ主
観や偏見や、ジャッジを挟まずに客観的に世界をみることができる。
シンプルで、意識的な自分には、外の世界に対する要求(ディマンド)や自
分に対する不満がない。
そこまで素に戻る作業をするのが、客観的になる<レベル 2:瞑想の準備>
である。
5.<瞑想実践>準備 2:冷静で客観的な “ 瞑想者 ” となるために
Level2:
冷静で客観的な “ 瞑想者 ” となるために
1.外の世界のものは、外の世界のままであるように。外の世界におい
ておく。内なる世界にインストールしてしまわないようにする。
自分が客観的であることとは、一体どんな事? 客観的に物事を見てい
る自分の状態を、確認するそのために、まず “ 自然の光景を視覚化して
みる ” 山や川、空や星と関わる時の自分の心のあり方を見てゆく。
2.町、他人、自分と関わりあう人々、家族、パートナー、友達、仕事
仲間気になる人を思い浮かべ、彼らを客観的にとらえるようにする。
主観的な見方があったら、客観的なビジョンをもつためのテクニックを
練習する。
3.客観的な態度する Yoga 的祈りで瞑想をスタートさせる。
223
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
स्पर्शान्कृत्वा बहिर्बाह्यांश्चक्षऊश्चैवान्तरे भ्रुवो:।
प्राणापानौ समौ कृत्वा नासाभ्यन्तरचारिणौ॥
यतेन्द्रियमनोबुद्धिर्मुनिर्मोक्षपरायण:।
विगतेच्चाभयक्रोधो य: सदा मुक्त एव स:॥
外の世界の対象物は、外の世界のままにしておく。主観的に物事をみて、
自分の内側に取り込まないように。まるで両目を眉の間に向けるように
中心に集中し、吐く息をみる。鼻腔を通る空気を感じ、呼吸を均等に、
リズミカルにする。
瞑想をする者は、“ 話す、動く、排泄する ” など体の生理・活動機能で
ある「カルマ・インドリヤ कर्मेन्द्रिय(生理機能、活動機能)
」と、
“ 聞く、
みる、感じる ” などの五感「ニャーナ・インドリヤ ज्ञानेन्द्रिय(五感)
」
、
「マーナサ मानस(心)」、
「ブッディ बुद्धि(知性)」を、
意志の内に治める。
瞑想をする者、その中でも限りない自由 「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」
が視野に入っている者は、人を束縛するような欲望から離れ、恐れ、怒
りから解放されている。
『バガヴァッドギーター』5 章 27,28
ここからは、他人との関係性においていかに客観的でいられるか? をター
ゲットにする。沢山の人々の中で、関わる人によって様々に役を変えて、常に
自分は役を演じている。関わる人が多い程、心は忙しく、混乱もしやすい。特
に忙しい人ほど、自分を見失わないためにも、瞑想が必要かもしれない。その
場合、瞑想において客観的な心を準備するために、一度すべての役を降ろし、
役に付随している問題から解放されるためにはどうしたらいいか? いくつかの
有効な方法をみていこう。
それと共に “ 外の単なる出来事 ” を、自分の中に “ 問題 ” としてインストール
してしまっていたり、“ 事件 ” として騒いだりしてしまうことを避けるようにす
る。
224
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
本当は何もしていない他人のことを、「あの人は私に都合の悪い事ばかりする
敵」と考えることや、「嫌な奴」「憎いやつ」と敵視することは、多くの偏見を
心にもっているということ。反対に「異常な程愛おしい人」などと、たっぷり
自分の思いや主観を乗せて世界をみること。そんな見方が、あるがままの物事
を歪める。こういった主観的な見方によって生まれ、歪んだ “ とらわれ ” を外し
ていこう。
広く大きなビジョンで世界をとらえ、客観的に物事をみることで、主観や偏
見によってつくり出されたとらわれから自由になることができる。
自分の見方や考え方がつくり出して、自分の中だけにある問題たち…その解
決は、外の世界をいくら探しても見つからない。出来事を問題化して、それに
しがみついているのは、他でもない “ 自分本人 ” だからだ。
私たちは、偏見や「好き嫌い」という好み、趣向、過去のトラウマなどの自
分特有の “ 色眼鏡 ” をかけて世界をみている。そして、ありのままの物事を歪め
て取り込んでいる。
さらにその上に、感情を重ねたり、意見を上乗せしたりして、事態を複雑に
してしまっているのが私たちの内なる問題の正体だ。
問題から解放されるために、問題を自分から解放するために、意図的に、客
観的な見方で物事を認識する必要がある。
ありのままを歪めず、まっすぐに映し出せる穏やかな湖の水面のような、磨
かれた鏡のようなマインドを持てるように心がける。これは瞑想を習慣にして、
何度も何度も世界のとらえ方を改めていく練習でのみ可能になる。
瞑想を毎日の積み重ねること。そこにはあまりドラマティックな展開はない
けれど、地道に少しずつ、努力を重ねてゆく。
そうして、瞑想にはいる前だけでなく、毎日の
生き方のなかで、心にモヤモヤをつくり出して
いる小さな問題たちから解放されよう。
225
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
客観的なビジョンで世界をみる
स्पर्शान्कृत्वा बहिर्बाह्यां 外の世界の事は、外の世界のままに、
ありのままにしておく。
『バガヴァッドギーター』5 章 27
瞑想にはいるための心の準備として、『バガヴァッドギーター』では賢者クリ
シュナが “ 客観的な見方 ” について述べている個所がある。
「外の世界の物事は、外の世界のままにしておく」。私たちは、外の世界の物
事を、特殊な偏見や主観であふれた内なる世界に取り入れて、自分だけの問題
をつくり出してしまうことが少なからずある。単なる外の出来事を、悩みや苦
悩に変換して内なる世界にダウンロードしてしまうことが何と多いことか!
Yoga 的には、苦悩や問題の原因は “ 自分の勘違い ” にすぎないということは前
にも書いたが、その理由はここにある。ありのままの事実をそのまま心に映す
ことをせず、自分だけの特殊な見方で歪め、色づけて世界を心に取り入れてい
る。問題の根はここにある。
世界に問題があるのではない。世界に対する自分の見方に問題があるのだ。
だから、あえて瞑想の前には客観的に物事をみる練習をする。主観的、とも
すれば近視眼的な物の見方から応じる問題を手放さなければ、瞑想中までも心
の問題をもち続けることになってしまう。
沢山の問題を抱えたまま目をつぶれば、心は雑念で乱れ、荒れ狂ってしまう
だろう。瞑想どころではなくなってしまう。
客観的に物事をとらえている “ 自分 ” とは、どういうことなのか?
たとえば今、思い浮かべてみて欲しい。真っ青な空に、まっすぐに聳え立つ
山を。その空に浮かんでいる白い雲。降り注ぐ太陽の光。風に揺れている緑の木。
木漏れ日に照らされた小さな花のつぼみや、色鮮やかに咲いた花。凪いだ穏や
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第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
かな海。赤やオレンジ染まる夕焼け。自然の雄大な光景を思い浮かべてみる。
どうだろう? これらを思い出しているとき、私たちの心には「いいや、山は
こうあるべきだ」。とか「太陽はあんな風に照らすべきだ、」などいう何らかの
欲求やという期待や不満はあるだろうか?
おそらく、
「山はこうでなければいかんっ!」とか「海は、こんな風であった
らいいのにィ~」とかいうディマンド(要求)は無いはず。
勝手な期待や過剰な思いを外の世界に押し付けていない時、私たちの心は静
かに落ち着いている。今、目を閉じて、自然の光景をいくつか思い出しただけ
でも、考えの配列はまっすぐになり、ありのままの自然に心の静けさと心地よ
さを感じることができるはず。瞑想をする前に客観的で落ち着きた心を準備す
ることは、瞑想を深めるための大事なステップとなる。
実は普段私たちの心に苦しい葛藤やプレッシャーをつくり出している原因
は、欲求や期待に染まる自身の思いなのだ。
私たちは自分の体、心からはじまり、家族、友達、関わる人すべてを含む “ 世界 ”
に沢山の欲求や期待をのせてみている。期待通りに行くことを渇望し、思い通
りになることを期待しすぎて時に焦ったり、イライラしたりもする。しかし、
私たちがよく知っているとおり、物事のほとんどが自分の期待通りにはいかな
い。ありのままの世界は、自分の都合で動いているわけではないから、当たり
前といえば当たり前なのだが…。だが、それでも自分の中で高まった欲求は、
この客観性すら見失わせ、思慮深さや知性を惑わせる。そうして、世界に突き
つけられた結果に落胆したり、悲しんだり、恨んだり、怒ったり、状況を責め
たりしてしまう。
自分の欲求とありのままの世界。この距離に私たちは普段苦しんでいるのだ。
特に甘えがあったり、気を許していたり、期待を載せやすい身近な人々に対し
て、こうした心の葛藤は起こりやすい。
私たちは全く知らない人や、顔見知り程度の他人とはいい争ったり、けんか
したりはしない。けれど、自分の周りの小さな世界を構成する近しい人々には、
イラっとしたり、怒ったり、嫌悪したりもする。いい争いや喧嘩もする。八つ
227
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
当たりしたり、焼きもちを焼いたり、憎んだり…もう、いろいろなことが起こる。
こういった心に受け入れ難い思いを作る原因は、その人たちに対して載せて
いる自分の思惑や欲求なのだ。ありのままの世界を受け入れられていない!と
いう証拠が、周囲に対する自分の心の違和感や葛藤という形で表われている。
逆に自然を見ている時のように、欲求や期待という思いを上乗せせず、世界
を歪めずに受け入れることができている時、心の緊張やプレッシャーは、限り
なくゼロに近い状態である。誰もが雄大な自然をみるとホッとしたり、自分を
取り戻したような心地よさを感じる。ありのままの世界を真っ直ぐ心に映し出
しているとき、私たちの心は “ 満たされている ” という本来あるべき状態にくつ
ろぐことができる。聖典のビジョンでは、心は不満や心配で出来上がっている
のではない。私の心のもともとの質は、冴えて、澄んで、知性的である。なお
かつ、心を扱う私自身は、もともとが幸せの意味そのもの、“ 満ちている ” こと
の意味であり、認識の源であり、絶対的な存在である。本当の私の姿は、もは
や文句や不満をいう隙間すらない…はず。でもそのことに私たちは普段気がつ
いていない。自分自身の本当のことがわからない。それでも、
自然を見ている時、
何か大事なことに触れたような感じを覚えている。ありのままを歪めずに心に
映し出す時、自分自身の本来の姿を垣間みる。足りないことなどなく、恐れに
も揺れず、静かな誇りと静寂に満ちていて、心地よい清々しさ。欲求を上乗せ
せず、雄大な自然を心に映し出す時、私たちは本当の自分に喜ぶ体験をしてい
る。本来の自分自身でいることができるから、私たちは皆雄大な自然をみるこ
とが好きなのだ。
美しい自然に対する時、私たちは内なる欲求から自由だ。葛藤がなければ、
私たちの心に問題や苦悩は起こらない。 欲求や自分の期待、思いをのせずに自
然を見ている時、つまり外の世界をありのままに認識することができていると
き、心に問題は起こっていない。穏やかに、ありのままの事実をそのまま心に
取り込んでいる。
これが、客観的であるということ。『バガヴァッドギーター』の 5 章でいわれ
る “ 外の世界を、外の世界のままにしておく。” ということ。この客観性は、瞑
想をするためには必定であるのだ。
心がつくり出す問題の原因は、私たちの期待や欲求という主観。この主観を
228
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
瞑想の前にはできるだけおさえ、客観的に世界をみて心に問題をつくりださな
いようにする。葛藤や欲求に目が曇り、何がリアルなのか? がみえなくなって
しまわないように。事実をみるための瞑想の前には、あえて客観的な見方で世
界をとらえる練習をする必要がある。なぜなら瞑想の目的は、“ 世界と自分は密
接につながりあっている。それがただ 1 つの事実である ” というリアルな世界
のベースになる本当の “ リアリティ ” を見て、実感することにあるからだ。
自分と世界の真実を理解して、苦悩から完全に自由である自分で在り続ける
こと。これが、瞑想の目的である。その自由は、すべての生物が心から望んで
いることでもある。瞑想は、私たちが本当に望んでいることにつながるための
大事なメソッドなのだ。
ちなみに Yoga の目的は「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」と呼ばれ
る本来の自分自身とは、「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広
がるもの)」の意味であることを知ること。「ブラフマン ब्रह्मन्」とは、“ 幸せの
意味であり、自由の意味 ” である。それが自分自身の真実であるということを
納得すること。この理解によって私たちは、完全に苦悩を超え、自由になる。
聖典の教えをしっかり理解するための ” リアリティ瞑想 “ によって私達の心は
真実を深いレベルで納得し、穏やかで静かな心地よさにくつろぐことができる
ようになる。自分自身とは、幸せの意味、満ちているということの意味、自由
の意味であることを実感する。
さらにこの瞑想方法が、巷にある「イマジネーション瞑想」と違うのは、心
に思い浮かべたり、心をつなげる対象は自然界に実際に存在し、確認できるも
のだけであるというとことだ。頭の中だけでつくり出した想像物に心を遊ばせ
たりしない。ありのままを、ありのままに見て、心にまっすぐ取り入れる練習
が「リアリティ瞑想」のメソッドになる。
この瞑想の練習を続けることによって、世界に対する客観的な見方は、瞑想
をしていない時にも確立していく。世界と関わり、忙しく体や考えを動かしな
がらも聖典のビジョンに基づいた自分の事実に揺らぐことなく、どんな時も客
観的に世界をとらえることができるようになる。その時私たちは、いつ、どこ
で、誰といようと、どんな状況にいようと、苦悩や問題から完全に解放される。
Yoga の結果として私たちが目指すべき無条件の “ 自由 ” はそこにある。
229
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
瞑想をするための心の準備として、客観的に世界をみる大切さはわかった。
では、具体的にどうしたら物事を客観的にとらえることができるのかをみてい
こう。
さらに客観的であることの大事さはわかっていても、どうしても主観的になっ
て心が騒いでしまう時にはどうすればいいか?
その対処法も含めて理解し、瞑想に向けて着実に準備をしよう。
偏見や主観はどの辺にあるのか?
客観的に物事をみるための意図的な練習は、まず意志の働きも、
努力もなく “ シ
ンプルに ” ありのままを認識する自分であるようにすることから始める。
海、山、空、それらを思い浮かべた時の自分の心の状態をみてみる。足りな
いもの、不満が心に無い状態、欲求、要求、不満がなく、外の世界と関わりあ
う自分をみる。自然の雄大さを見ている自分の心には、緊張や葛藤もなく、た
だそこにある自然を受け止め、認識するシンプルな存在である。それが客観的
に世界をとらえているということだ。森、木、飛び交う鳥たち、芝生、牧草を
食む牛などのどかな自然界の光景を思い、それを受け止めているときの自分の
心の状態。その客観的な心をもって、瞑想をしていく。
自然をみているときの素の自分に慣れてきたら、次に、もう少し自分の日
常に近い都市に視点を移してみよう。町、公園、道をゆく人々、
ビル、
それらを思っ
た時、心の状態は自然を見ていた時と同じ状態でいるだろうか? 客観的にあり
のままを、欲求なくみることができているだろうか?
次に身近な自分の世界を思い浮かべる。普段自分と関わる人々、家族、仕事
関係の人、趣味の知り合い、恋人、憎んでいる人、ライバル…それらを客観的
にとらえるようにする。
そして最後に自分の肉体、呼吸を始めとする生理機能、五感、感情、心の動き、
考えを客観的にみてゆく。そうやって、様々な範囲で世界をとらえ、客観的に
世界をみている自分の心の状態を冷静に調整し、瞑想のために準備をする。
230
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
もし心が動揺したり、騒いだり、自然をとらえている時と違う変化や違和感
がおこったら、それは習慣として偏見や主観をのせて世界をみているというこ
と。心が揺れている個所に、自分の主観がある。自分の考え方、物事の見方に
おいて、主観的な見方をしてしまいがちなところを知る。
自分なりに主観をのせてしまいがちな範囲を明らかにしていったら、ぜひそ
の見方を偏見のない客観的なとらえ方にシフトしていきたい。その方法をこれ
から見ていこう。
私が気にする “ あの人たち ” を内なる世界から解放する
自分の母、父を思い浮かべてみる。どうだろう? 心は揺れていないだろうか?
少なくとも、大自然を心に映していた時とは違うはずだ。
関係性が近ければ近いほど、私たちは自分の期待や欲求をその人たちに上乗
せしてしまいやすい。だから、愛する人が一番憎い人なったり、家族など近し
い関係の人々を嫌い、憎んでしまったりもする。
“ 彼女がこうであったらよかったのに ”、“ 彼はこうするべきだったのに ”、“ あ
の人はもっと自分の事を考えるべきだ ”、“ もっと自分は大事にされるべきだ。
ケアして欲しい、気にかけてほしい ”、“ 家族がもっと優しくしてくれればいい
のに ”。こんな思いにとらわれているのなら、それは自分の期待や欲求、願望を
のせて世界をみているということだ。
そして、もしこういう内なる思いに気がついても、しつこく残っているよう
なら、自分の中には “ 救いがない状態 ” があることになる。主観や欲求に気が付
いているのに、どうにもならない…。
“ ○○が、こんな風であったらいいのに。あんな風でなければいいのに。” な
どという他人に対する要求や期待は、現実を客観的にとらえきれていない自分
の思いから派生している。
私たちは、たとえどんなに強い期待や望みをもって相手に迫っても、たぶん
叶えられることがない。自分の強い欲求は、世界を変えたりしない。私たちが
231
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
他人を変える事はできないのだ。
この絶対に満たされない欲求は、私たちの中にやり切れない思い、行き場の
ない怒りや悲しみというフラストレーションやストレスという形で残る。それ
があらゆるネガティブな感情の原因となる。
もしこういったやり切れない思いに対して行動を起こさなければ、自分の中
には、満たされない思いがどんどんたまり、プレッシャーではち切れそうになっ
てしまうだろう。そしえ、ある日とふとした切っ掛けでキレたり、壊れてしま
うことがあるかもしれない…。恐ろしいことだ。それ程私たちは、自分の内側
に対してはどうにもできず、お手上げなのだ。どうすればいいのだろう? ホン
トに困ったことだ。
しこういった “ とらわれ ” に対処する方法が Yoga にはある。まず一つできる
ことは、意図的に彼らに “ 自由 ” をあげる、ということだ。自分が誰かを物凄
く気にしているとしたなら、その人があるがままでいる自由を自分の心から積
極的に渡すことをする。
私が自由を人にあげようが、あげまいが、人々はすでに自由だし、自分の思
惑とは違う風に振る舞うだろうが、これは自分の心に巣食う偏見を取りのぞく
ためにあえて「この人を自分の心から、見方から自由にしよう!」と、積極的
に心に宣言する。そう強くいって、自分の思いから自由にする。
歪んだ見方でとらえ、自分の世界だけに映しこまれた人々は、必ずしもその
人たちの本当の姿をとらえているわけではない。ありのままの彼らに、私たち
は自分特有の幻想をのせてみている。
特に、
「ラーガドウェーシャ रागद्वेष(好き・嫌い)」という思いに染め上げて、
私たちは自分の周りの人々を見ていることが多い。だから、人々の中に、“ この
人は、自分が好きな人 ”、“ こういうタイプの人は苦手、嫌いな人 ” というカテ
ゴリー分けができてしまう。リアルな世界にカテゴリーなど本当はないのに。
好き、嫌いの思いが、人々のあるがままを歪め、偏見に満ちた振舞いをしてし
まうのだ。
自分が見ている世界、カテゴリーに分けた世界は、間違っていることも多く
あるだろう。その疑いをきちんと認識する。自分の見方は、間違っている可能
性がある。本当は人々を憎んだり、嫌ったりする正当な理由など無い。私が特
232
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
定の人に苦手意識を持ったり、嫌う理由は、その人達の中にはない。事実とは
違う見方をする、自分の方に間違いがあるのかもしれない。そういう疑惑を残
しておく。
そして、客観的にみて解放することで、自分勝手に人々に出した評価や偏見
や、意見の押し付けから彼らを解放するのだ。それが相手に “ 自由をあげる ” と
いうことの意味である。
私たちの肉体や感情や、考えは、すべて全体世界を動かしている 1 つの秩序
とルールに従って動いている。
ということは、そう、だれもが似たような思い方を物事に対してしている。
もし、自分が立場を変えて、相手と同じようなバックグラウンドを抱えてい
たとしたら、きっと同じように振る舞うだろう。同じことを考え、同じような
行いをするだろう。きっと同じことをしただろうと考えてみる。
自分に憎まれ口をたたく人も、批判する人も、冷たい態度を取る人も、媚び
たり、怒ったり、好ましくない態度をとっている人も、その人たちなりの事情
があるのだ。人は理由もなく、怒ったりしない。
表に現れている態度の後ろには、様々な諸事情があり、その人なりのロジッ
クもある。怒りも、批判も、好ましくない態度も言葉も、1 つのルールに従っ
て起こっている。怒りや激しい感情の噴出なりの中にも、ルールと秩序は存在
する。
感情と心理も全体世界のルールに司られている。だから万人共通の “ 心理学 ”
が確立する。“ 心理学 ” は、生物に共通の感情や思いを司る秩序とルールをみる
学問である。人々の態度や行動にはそれなりの論理が必ずあり、全体の法から
離れて機能することはない。そこを考慮する。
どんなに憎たらしい人がいても、どんなに嫌な奴!と思う人がいても、「もし
自分が彼らと同じ立場にいたら、きっと彼らと同じことをしただろう。きっと
自分も同じようなことをいうだろう」。と相手の立場にたって考えてみる。人に
は誰もがそうせざるをえない、そう振る舞わざる、そんな言葉をいわざるを得
ない理由がある。人にはそれぞれ、言葉や行いを生みだす理由、
背景があるのだ。
233
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
私につらく当たるあの人の態度も、批判だらけの彼の言葉も、彼女の嫌味も、
冷たい他人の表情も、皆理由があるのだ。もしかしたら、そんなことをいった
り、
行った「リアリティ瞑想」することを望んでなかったかもしれない。けれど、
そうせざるを得なかった事情がどんな行いの後ろにもある。まるで自分と同じ
ように、人も同じようにプレッシャーや問題を抱えている。“ 彼らにはそうせざ
るを得ない何らかの理由があるのだ。” と、言葉や行いの背景があることを知っ
ておくこと。そうすることで、私たちは他人の行いを批判したり反発するので
なく、その人の自由と権利を尊重することができる。
この態度が他人に対して、客観的になるということである。“ 相手に自由をあ
げる ”、というベースには、その人のあり方をそのまま認め、受け入れるという
ことがある。自分の周りの人々を、その人たちがいるべきスペースにあること
を尊重し、自由であることを認める。そうして、自分の歪んだ内なる世界に、
他人を引きずり込まないようにする。外の世界のものは、外の世界のままに。
瞑想にはいる前には、この客観的な物の見方を練習する。
何かを嫌い、憎む気持ち、嫉妬、蔑み、疑惑…自分の中にある違和感。そう
いう思いが、最終的に他人への “ 思いやり ” と “ 信頼 ” となるまで、客観的な物
の見方の練習を続けていく必要がある。
私たちは、いつでも、誰に対しても、他人のあり方を認め、自由を尊重し、
その人達のありのままを映せる大きく広い心を持てるようになるまで、成長す
ることができる。自分の内に違和感を覚える憎しみの思いよりも、自然に湧き
あがる慈しみで、物事のすべてをみることができるまで、私たちは自分を高め
ることができる。
“ 優しさ、思いやり、慈しみ ” の方が、憎しみや嫌悪よりも、私たちの本来の
あるべき姿に近い。“ 愛や信頼 ” は疑いや批判よりも、素の自分のあり方に近い。
その証拠に、恐れや怒りや疑い、憎しみに心を占領されているとき、私たちは
落ち着かず、苦悩を感じ、そこから逃れたいと思う。逆に優しい思いや、愛や
信頼の気持ちが心にある時、なんともいえない満たされたような、嬉しさや喜
びで溢れている。その幸せな気持ちが、私たちを微笑ましたり、周りの人を助
けたり、分かち合ったりできるゆとりとなり表われる。なにより私たちは、い
つでもそういう状態でいれたら、と願っている。それは、自分の真実の姿でい
ることができるからだ。
234
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
私たちのもともとの性質である慈悲や共感や思いやりを邪魔しているのは、
自分だけの歪んだ主観や偏見でしかない。これらは、意志と努力で正すことが
できる。その方法が、瞑想であったり、この章のメインである客観的な見方を
して心を整える方法であったりするのだ。練習を重ねるうちに、やがてごく普
通に “ 大自然 ” に対するような客観的な態度で、誰にでも接することができるよ
うになる。心の広い、大きな人間へと成熟することができる。それは、深い瞑
想ができる「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」の質を備えた心の持ち主となる、
ということだ。
Yoga の道は、悟りの前段階として、この “ 人間的な大きさと深さ ” を養う必
要性が暗黙のうちに織り込まれている。人として大きく成長することが、「モー
クシャ मोक्ष(悟り・自由)」への大事なステップであるということが、Yoga 的
な生き方において示唆されているのだ。
なぜなら、Yoga のゴールである、「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」は、自
分は全体とつながっている。それ以上に、全体と自分は、
ただ 1 つの事実である、
という、事実の理解でしかないからだ。事実を理解することが、世界に在りな
がら、この小さな体に生きながら、自由になるための唯一の道なのだ。これが
悲しみの海を越える術となっているのだ。
Yoga で目指す “ 自由 ” とは、世界から逃げることではない。世界に背を向けて、
1 人洞窟に籠ったり、山の中で孤独になることではない。すべてのしがらみや
人間関係を断ち切って自由になるのではない。
世界にいながら、今を生きながら、しがらみや関係の中でまるで揉まれてい
るようにみえながら、自分は完全に “ 自由 ” である、ということを知り、納得
することだ。私たちは誰もが不自由で小さな体や、どうにもならない関係に囲
まれている状況を持てる程に、“ 自由 ” なのである。何があろうと、なかろうと
真実においては問題ない。それこそが本当の自由だ。その自由は、今、ここに、
現実に私たちの事実として、まさにこの瞬間にもある。私たちは今すでに「モー
クシャ मोक्ष(悟り・自由)」なのだ。…ただそれに気が付いていない、その真
実を自分で認めてないだけなのだ。
「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」とは、世界は自分を脅かさない、恐れの原
因ではない、ということを確信することでもある。自分と一体である世界に、
235
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
誰が敵をみて、何を恐れるというのか?
そこまで「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」のビジョンを深く理解
するには、
かなりの大きさ、
人間的に成熟したキャパシティーが求められている。
隣の人も許せないような小さな思い、すぐ近くの周りの人達も受け入れられ
ないような狭い心の人間に “ 自分は全体である ” というビジョンが定着するス
ペースがどこにある? 心にゆとりがなければ、事実の理解はむずかしい。その
ためにも、私たちは自分の狭さや小ささから、大きくグロウ・アウト!成長し
て越えていく必要がある。常に客観的であろうとする「リアリティ瞑想」の準
備は、この人間的成長を著しく促進するステップとなるのだ。
しかし、
「それは、わかりますよ。理由としてはね。人はそれぞれの事情から、
本当は望んでいない振舞いをしてしまうことも、世界の法と秩序の中で感情も
動くから、恐れや怒りに言動が支配されてしまうことがあることも、仕方がな
いということも知っているつもりなんですよ。本当の意味で世界に憎むべきも
のはない、ということだって納得いっているつもりですよ。でも!でも、やっ
ぱり、あいつだけは憎いんですよォ!!」。そんな風に、許せないことも沢山あ
る。理由はわかっている。背景も理解している。聖典が伝えたいことも、納得
がいく。それでも自分の中に巣食う憎しみや嫌悪、恐れ、プレッシャー、葛藤、
は “ 習慣 ” として残ってしまう。これが「ヴィパリータ バーバナ विपरीतभावन(習
慣的な考え方や態度)」。
長い時間をかけて、ごく当たり前のように積み重ねてきた習慣は、聖典のに
わか理解や意志を超えた、“ 本能的な生理や反射 ” といったものに近いかもしれ
ない。怒りや、憎しみや生理的な嫌悪は、自分の意志ではどうにもならないも
のでもあるのだ。
聖典が何を私たちにみせようとしていて、自由の意味を教えようとし、どこ
へ導いてくれることも解るがゆえに、この自分の本質と相反する感情や思いを
みることは心苦しいのだ。Yoga をしていなかった時の方が、
よっぽどお気楽で、
楽しそうだったと、いわれることもあるほどにかえって悩んでしまうこともあ
る。それに対して私たちはどうすればいいのか? なす術はあるのだろうか?
Yoga で目指すべき、大きく広い心の人間でありたい、と思う気持ちがある。
が、それと同時に、全く教えのエッセンスと矛盾する感情が自分の中で葛藤し、
236
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
渦を巻いている。内から高まるプレッシャーに押しつぶされそうになって、叫
び出しそうになることもある。
その時、私たちができる賢明な行いは、“ 祈ること ” である。祈りという行い
の形にして、自分の中の問題を一時的に開け放ってしまう。
一体どこに? 問題の預け先は、全体世界である。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全
体世界)
」に自分の解決できない問題を委ねて、自分の中からプレッシャーを解
き放つ。特に瞑想の前には、祈りを通じて「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」
に自分の重荷を預けてしまう。それが “ 祈り ” という行いでできることである。
どんな要求が心にあっても、私たちは他人を変える事はできない。私たちに
はどうすることもできないことがある。考えても仕方ない。心配しても仕方な
い。心配しようがしまいが、物事は現れ、消える。現れては消え、変わり続け、
私たちの意志とは関係なく巡り動き続けるのが世界だ。
「これを失ってしまっ
たらどうしよう? あれが手に入らなかったらどうしましょー」と不安になって
も、どうしようもない。もっているものはいつかどこかへ行く。もっていない
ものは、いつか自分の物もとにやってくる。心配しても仕方がない。世界はこ
んな風になっているのだ。
この事実を認めながら、それでも受け入れ難く思い、救いを感じられずにい
る自分の状態を、“ 祈ること ” で打破することができる。
救いがないように思う事、自分の力ではもうどうにもならない “ ヘルプレス ”
な状態に直面したら、私たちは外に助けを求めることができる。「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」に不安や違和感ある思いを放り投げ、“ 祈り ” というアク
ションをとることで恐れや苦悩を越えることができる。それは、最も建設的で
賢い行いだと、聖典はいう。
6.Yoga 的 “ 祈り ” について
自分には、どうすることもできないことがある。過去の愚かしい行いでのた
うち回りたくなったり、後悔や自責、憎しみ、嫉妬、わかっているけど、引き
ずってしまう習慣や癖に苦しむ自分がいる。葛藤、焦げるような思い、絶望感、
237
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
悲しみ、虚無…そこから解放されたい!どうにか楽になりたい!こんな風に自
分の力が及ばない内なるプレッシャーをみたら、私たちは助けを求めることが
できる。
自分の悩みを、世界、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に放り投げ、一時
預かってもらうのだ。そんなことは、“ 祈り ” という言葉と行いによって可能に
なる。私たちはどうにもならない自分の心の重荷を、祈りによって軽くするこ
とができる。
祈りは、“ おまじない ” ではない。怪しい呪いごとでもなく、実践的で建設的
な行いといわれる。自分の問題に謙虚に認め、救いを求める賢さと冷静さがあ
り、
どうしようもなさからブレイクスルーする手段を見出そうとする人が “ 祈る ”
ことができる。
私たちは、自分の欲求を満たすために祈るのではなく、客観的になるために
祈るのだ。そのためには、以下のような文言を、世界に対するオープンな心と
態度をもって、はっきり言葉にしていうことが有効になる。
「どうか、自分に受け入れられることと、受け入れられないことを見抜ける賢
さがあるように。受け入れられることは、恐れずに受け入れる強さとキャパシ
ティーを、受け入れられないことに関しては、そこまで自分が大きく成長でき
る意志と勇気を与えられますように」。そういって、どうにもならないことに関
して、
自分の中で戦う事をやめる。
心配や不安や不満問題を世界に放ってしまう。
今は難しくても、いずれ、いろんな感情やプレッシャーをプロセスできるよ
うになる。人間として大きく成長していけるように。導きとサポートと祝福が
あるように。謙虚な態度で祈りながら、同時に問題を自分の中から一時的にリ
リースする。内なるプレッシャーを弛める。特に客観的でありたい瞑想の前に
は、自分の力ではどうにもならない問題を、大きいなる存在に委ねてしまおう。
考えたって仕方ない。具体的に自分の割り切れない感情やリアクションに関し
て助けを求める言葉を世界に向かって投げかける。どんな言葉で語ろうと構わ
ない。全体世界、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に向かって、自分を開け
放ち、委ねる態度で祈れば、その行いは必ず世界に届く。行いの結果も必ずも
たらされる。それが世界の法則と秩序だからだ。
238
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
客観的な祈りの言葉
祈りの対象があれば、その名前を宣言する。
「ナマハ नम:(あなたに委ね、自分を開け放ちます)
」
という言葉で、自分の委ねる態度、真摯な思いを告げ、宣言する。
「どうか、私が自分の力で変えることができないことを潔よく認め、世
界から与えられていることを祝福された思いをもって受け入れることが
できるように。冷静さと正常さを与えてください。自分の意志と努力で
変えることができることに対して、変えていける強い意志と勇気を、変
えられない事を、受け止めることができる広さと、大きさを。変えられ
ること、変えられないこと。どうかこの 2 つの違いをはっきり見分ける
賢さを与えてください」。
まとめ:瞑想の前に、客観的であるための実践法
しばらくの間、自分が受け入れ難いと思っている人を思い浮かべる。たとえ
それが自分のパートナー、父、母、親戚、友達、会社の人たち、ライバル、など。
「これがこの人のありのままだ」。といってそのままの彼女、彼をみる。「彼ら
があんな風であるのは、それぞれバックグラウンドがあるのだ。そうならざる
をえない事情がそれぞれにある。人にはいろいろある。自分に人を変えること
はできない。彼らが自ら “ 変わろう ” としない限り、
彼らが変わることはない」
。
そうやって、自分の気になる人がする言動にも、その人なりの背景と理由が
あることを理解する。そんな風に振る舞わずにはいられなかった彼や彼女の事
情を思ったうえで、彼らに自由を渡す。
「これは、あくまでも私の見方で見ている人たちだ。私の認識にだけ映る人達
なのだ。その認識は、本当の彼らの姿を反映しているわけではないかもしれな
い。私の認識は、あっているかもしれないし、間違っているかもしれない。あ
239
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
くまでも私の見方でみている人達だ。今自分が嫌悪感や恐れをもっている人達
も、自分は正しくとらえていないかもしれない。自分の思いに映る人達が、自
分の中にあるだけなのだ」。
そういって、次々に気になっている人、憎んでいる人、苦手な人、逆に意識
してしまう人などを思い、その人たちに “ 自分から自由を渡す ”。その人たちが
あるがままでいるように自由を認め、自分の主観からも彼らを解放する。
そうすることによって、自分の独自の見方、偏見、主観というフィルターに
掛けた人物像とそれに付随する問題が自分の中で次第に意味を失っていく。悩
みや問題にならなくなってしまう。ありのままに心に映る世界は、自分の中に
問題や苦悩をつくり出したりはしない。悩みの種であった人達が、心の中で力
を失ってゆく。まるで、山や海をとらえている時のように、心が騒ぐことも動
くこともない。
こんな風に達観していくのは、一度だけの練習では無理かもしれないが、毎
日瞑想をする度に “ 気になる人を自分の内なる世界から解放する。相手に自由
を渡す ” という客観的になるメソッドを行う事によって、自分の偏見や主観的
な見方でつくり上げた問題から自由になる。自分にとって違和感を覚える人を
1 人 1 人思い浮かべて、とにかくリリースする。勘違いや、見間違いから起こっ
ている、取るにたらない問題は、とっとと解放してしまおう!
「今、自分の心に映るこの人達は、あくまでも私の物の見方でみている人々だ。
私はその人たちの真実や、すべてを見ているわけではない。もしかしたら、あ
りのままのその人たちを、歪めてみている可能性もある。完全に間違って見て
いる可能性すらある」と、理解する。
もし、特に誰かがあなたを悩ませているのなら、是非その人を思い浮かべよ
う。そして、その人がその人のままであるように、自由を渡す。そうやって、
自分の中から解放する。
相手を自由にすることは、狭い物の見方をしている自分の偏狭さを解放する
ことでもある。客観的に見てみたら、私たちが思っている問題とは、“ 問題 ” と
してたいして深い意味をもっていないことがほとんどだ。落ち着いてありのま
まをみれば、気がつく。
「ん~、実に小さなことで悩み、貴重なエネルギーと時間をロスしてしまった
240
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
な」
、
「よぉ~くみてみれば、今まで抱えていた対人関係の悩みは、全く悩みと
しての価値すらない。すべてが自分だけの偏見に満ちた世界観に基づいていた
わけだから。そんなことで思い煩わされるばやいじゃない!もっと人間として
大きく成熟することに時間を使わなければならんよ」
。
彼ら、彼女たちが今そのままであることを認める。彼らがいる領域において、
彼らをどこまでも自由にしておく。
「ありのままのこの人に、私はもう自分の見方を押し付けない。いい加減、こ
の狭い世界観からあの人もこの人も自由になってもらおう」と、言葉に出して
みる。
この方法が心を騒がせる人、イライラさせる人の原因である自分の主観と偏
見から解放する。さらに、自分自身も特有の見方でとらえた人々から解放され
る。これが人を客観的にとらえる、実践的な手法になる。
「その人のありのまま、すべてを受け入れなさい。この世に悪人などいないの
ですから」などと、偽善をいっているわけではない。
「自分がなんだかんだと思っ
ている “ あの人 ” は、ただ自分の認識の中にいる。自分の見方の中に映っている
だけ。良いも悪いもない。本当のところ、私には “ あの人 ” のことは、よくわか
らないのだ」。
自分の都合のいいように他人に変わってもらう必要はない。自分がその人を
変えようとすること、世界を変えようという無意味な策も努力も全く必要ない。
偏った見方によって、実在しない “ 問題 ” と一緒に取りこんでしまった「あ
の人」や「この人」に対する感情や思いを自分の中から解放する。
「ええ? こ
んなことだけで、本当に自分が変わる? 」そう思っている人がいたら騙された
と思って一度でもいいから、実践してみてほしい。自分の中から解放して、相
手に自由をあげる。自分を悩ます人がたくさんいるなら、もう全員に自由をあ
げまくる。
この方法は瞑想で坐る度に行う。自分の中の問題、苦しい内圧から自由になっ
て、他人の存在にビクともしない客観的な見方による不動の強さ広い心をもつ。
世界のありのままを楽しむゆとりすらある「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」
となって、瞑想にのぞもう。
241
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
7.<瞑想実践>準備 3.自分の本質をみる 全体とのつながりを強固にする
Level3:
自分の本質をみる。全体とのつながりを強固にする。
ターゲットは、瞑想のために心を整えること。自分の体、呼吸、感覚、
考え、感情といった “ 自分の道具 ” と、それらを機能させ認識を起こす
源である “ 自分自身 ” をはっきり見分ける。私たちは、普段 “ 自分 ” と
いう考え、つまり自己意識によって、本当の自分とただの道具の境が曖
昧になっていることが多い。だから、肉体が自分のすべてになってしまっ
たり、体のコンディションや五感のキャパシティー、感情、考え、資格
やもち物、能力などが自分になってしまう。自分と、自分でないもの。
この 2 つの見極めをする。そうして混乱が起りそうなポイントを客観的
にみて、問題を心の中からリリースしよう。
1.自分の肉体を客観視する。
2.呼吸観察「プラーナ・ヴィークシャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)
」
3.感覚(特に繊細な感覚である “ 触覚、触れている感覚 ” をみる)
、
心の動きをみる。
自分の体を客観的にとらえる
さて前のセクションでは世界を客観的にとらえる大事さとその方法について
みていった。次に客観的になるべきは、“ 自分自身 ” について。私たちは、自分
自身の本質と、自分の道具である体・感覚・考えの間に混乱を起こしがちである。
自分を客観的にとらえるステップは、この混乱を解消するためにある。
自分の体・呼吸・感覚・考えを注意深く、丁寧に観察することによって、そ
242
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
れらは自分に与えられた道具であり機能であり、自分自身の真実ではないとい
うことを見極める。見極めることで、混乱を解消していく。
どんな風に混乱が起こっているかというと、私たちは、「私とは、この肉体の
ことだ」
。と信じて疑わない時がある。そして、肉体の形や大きさや、コンディ
ションが自分自身のすべてだと思いこみ、体に対するコンプレックスを、自分
自身の本質的な問題にしてしまうことがあるのだ。
しかし、実際肉体は何も問題を抱えていない。たとえば、自然のプログラム
で機能している体は、とにかくひたすら体に運ばれてきた栄養を消化する。そ
の中の一部を、危機に備えて貯め込む。沢山の栄養がはいってきたら、たくさ
ん貯める。体はそうプログラムされているから、その通りにする。貯蔵庫が増
えて膨らんできても、全く問題ではない。むしろ飢えに対処でき、飢饉に耐え
られる体を準備できているから大成功、実にグットジョブ!ちゃんと仕事をし
ている。
ところが肉体に宿る私たちの考えの中心はそうは思っていない。体が大きく
なると「ガーン、太ってしまった!ちょっとたるんで実に醜い。こんなんじゃ
ダメだー」という。そんな風にいって、ショックに感じ、コンプレックスを抱
いているのは誰だろう?
体でも、呼吸でも、感覚でもない。私の中心にある “ 考え ” がコンプレックス
を抱いてしまうのだ。歪んだ主観をもつ中心。私の考えが、自分自身と肉体の
区別を曖昧にして、混乱し、独自の主観にとらえて、本来何の問題もないとこ
ろにコンプレックスや悩み、問題、苦悩を見てしまう。
体や顔に関して、小さな価値観や主観によってつくられたコンプレックスを
抱き、そのコンプレックスを “ 自分自身への受け入れ難さ、不満 ” にしてしま
う。そうして、自分の事を自分で認められず、受け入れられず、人生をまるご
と、肉体や顔の悩みだけで終えてしまう人も残念なことだが大勢いる…この悩
みは、体や顔に対してねじ曲がった主観をのせてみている混乱から起こってい
る。
自分が関わるコミュニティーや小さな枠の中だけで共有される美意識や習慣
に左右され、その中で比較し、優劣を勝手につけ、自分と他人をジャッジして
しまう。そういう考えが、自分の中にあるはずのない問題をつくりだす。その
243
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
結果、自分を狭い競争に駆り立て、苦しめてしまう。
この体や顔は、自然界のプログラムで動いている。他人と違う顔や体が世界
から与えられているのは、己の「カルマ कर्म(行い)」の結果と、今回の人生に
おける生きる目的が違うからだ。ありのままをその通りにみていたら、自然の
メカニズムや世界の法則と秩序、その中に体をもって自分が生きていることは、
全く問題にならない。
事実を真っ直ぐに見ていないために、
問題や苦悩が起こる。
瞑想で坐るためには、私たちは事実をそのまま客観的に受け止めることがで
きる心を準備する必要がある。そうしなければ、深いレベルで自分自身の真実
を実感する瞑想はできない。
だから、あえて自分の体、感覚、心に対して客観的になるメソッドを瞑想の
前に行う。そうすることで、自分に対する誤解と混乱から生まれている問題、
プレッシャーから自由になることができる。
具体的な方法としては、この肉体の在り様を、ヴィジュアライズ(視覚化)
すること。頭の上から脚の先までを少しずつ、各部分ごとにみていく。まるで、
息をする銅像をとらえているように、自分の体を対象化して客観視する。そう
することで、私たちは、“ 自分の体 ” に起こっている事と、“ 自分の心 ” に起こっ
ていることの違いを見極めることができるようになる。
「この肉体とは、自分に与えられた場所である。世界を様々に経験できる場所
がこの肉体だ。体は完全に自然界の物質だけでできている物だ。自然のプログ
ラムの中で育まれている。自分が一時的に与えられらた顔と体は、ただこんな
風にある」。という体に関する事実を認識する。
体は自然界のものだが、そこに主観をのせてコンプレックスを生んでいるの
は自分の混乱した考えでしかない。問題はどこにあるのか? そこを冷静にみる
ことで、私たちは、ある程度コンプレックスから自由になることができる。
「私の体は、世界からの預かり物。自分が生きて、この生で達成すべき事を具
現化するための道具である。まるでこの体は私のもち物のようであるが、私は
体ではない。体は、私にとって自己実現するための場所だ。よく動き、考えの
私を乗せて、めまぐるしく進んでゆく “ 乗り物 ” のようである」
。
体は大切に扱うべきものだが、同時に客観的にとらえることができるもので
244
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
ある。体は自然の法則と秩序で動いている。どのレベルにも「イーシュヴァラ
ईश्वर(全体世界)」の秩序が行渡って、機能している。体の形や色や大きさな
んて、本来私たちを悩ませる類のものではない。
私たちは体の問題を、自分自身の問題にして、必要以上に深刻に悩む癖がつ
いている。体と自分自身の境界をあいまいして、勝手に抱えている問題がたく
さんある。
体の色やサイズや長さ、体重が増えたり減ったりすること、鼻の低さや、髪
が無くなった!など、そんなことが人生の大問題のようになる…。単なる “ 肉
体の変化や状況 ” が、自分自身の根幹を揺るがす問題になってしまうのはなぜ
だろう? それは、“ 肉体が自分のすべて ”、という混乱した自分自身の見方に起
因している。
Yoga では、
「肉体は私の道具でしかないもの。自分自身は体を使う者であり、
選択し、決断し、人生の方向性を決める者」である。扱う側である自分自身と
扱われる体、この境界を初めからしっかりとつけている。“ 考えと肉体 ”、“ 自
己意識と自分自身 ”。問題の混同をさけ、もっと本質的で重要なテーマに向かっ
て生きていこうと考えている。そのために、客観的に自分の体をとらえていく
テクニックをする。それによって何が事実で、何が主観、思い方の癖なのか?
問題の本質とは何なのか? を冷静にみることができる。
私たちが抱えている問題は、ほとんど混乱と勘違いで起こっている。客観的
に物事をみるメソッドは、混乱と勘違いを少しずつ取りのぞく。迷い、主観、
歪んだ物の見方。これらが取り除かれていくにつれて、私たちはどうでもいい
ことにもはや悩んだり苦悩したりしなくなる。“ 考え ” という人間だけがもつ特
権を、悩みなんかで無駄にしない!
真実を理解するために客観的に肉体、生理機能、五感、考えを意図的にとら
えていく方法は有効であり、瞑想をする前には不可欠な準備となる。
245
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
肉体を客観視する方法
まずは、自分の頭のてっぺんを視覚化してみよう。
そこを起点に、
下に降りながら 1 つ 1 つの体のパーツを観て、
客観視する。
頭⇒オデコ⇒まゆ毛⇒両目の瞼⇒鼻⇒唇⇒顎⇒右耳⇒右の頬⇒左耳⇒左
の頬⇒顔全体⇒頭の後ろ
次に首から下も同様に各パーツごとに視覚化する。
首⇒右肩⇒右腕⇒右手⇒右指先⇒左肩⇒左腕⇒左手⇒左指先
胸⇒お腹⇒おへそ⇒背中⇒お尻
さらに下がって
右腿⇒右ひざ⇒右ふくらはぎ⇒足首⇒右足⇒指先
左腿⇒左ひざ⇒左ふくらはぎ⇒足首⇒左足⇒指先
それから体全体を視覚化する。
これがこの体のあるがまま、ということを理解する。
身長⇒体重⇒歳⇒性別⇒健康状態⇒肌の色⇒全体的な見た目
一度この体のある状態をざっと見渡してみる。
自分の体はまるで「息をしている像」のようである。
呼吸が流れ込んでいる「生きている像」のようである、
自分の体をみる。
このステップを踏んで、完全に自分の体を客観的にとらえていこう。
246
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
体は自然の法で生き、自分の過去の「カルマ कर्म(行い)」を材料にして生み
だされた。今回の生で自分が生きる目的を叶えるために世界から預けられ、体
験をする場所として肉体はある。過去にした「カルマ कर्म(行い)
」の結果を “ 経
験 ” という実りの形で収穫する場所であり、また新たな「カルマ कर्म(行い)
」
の種を撒く土壌である。
自分自身がめいいっぱいこの体を使い切ったら、後は捨てるだけ。肉体はこ
の次元の世界で、生きる目的を達成するための場所。目的を叶えたら、後は使
い捨てる道具なのだ。どこにももって行くことはできない。使い終わった肉体
は世界を構成する空、風、火、水、土というエレメントに戻る。そうして別の
誰かの体を生みだす要素となる。その事実を知れば、この肉体の何に執着でき
るのだろう?
呼吸を客観的にみる
肉体を客観視した後には、肉体を流れる生理的機能を客観視する。自然
に起こっている呼吸をみる。呼吸の観察は、「プラーナ・ヴィークシャナン
प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)」という。ありのままに起こっている呼吸を、た
だ観る。コントロールはしない。
呼吸をコントロールすることは「プラーナーヤーマ प्राणायाम(呼吸法)
」と
いう。吸う息、吐く息、止める息の長さを変えて調整する。瞑想の準備段階で
初めに行った「ナディーシュッディ नदीशुद्धि(気の通り道を浄化する呼吸法)
」
は「プラーナーヤーマ प्राणायाम(呼吸法)」である。
呼吸の観察「プラーナ・ヴィークシャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)
」で
は、吸う息、吐く息を意識的に観察する。よくあることだが「“ 呼吸を観察する
ぞっ!」と意識し過ぎると、呼吸が止まったり、ぎこちなくなってしまう。そ
んな時は、息をできるだけ長く吐く。それを何度か繰り返すこと。やがて呼吸は、
自然のリズムに戻る。こうして自然におこっている呼吸を観察する。自然のリ
ズムを変えることなく、意図的に体に入ってくる息、出ていく息のサイクルを
みる。
“ 呼吸を観察する ” テクニックは、心を静め、穏やかにするために非常に有効
247
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
な方法である。スピリチュアルや宗教的な探求における瞑想法の中には、「呼吸
の観察」だけを提示している流派もある。しかし、我々にとって呼吸の観察=「プ
ラーナ・ヴィークシャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)
」は客観的であるため
の準備段階。瞑想に至るための 1 つのステップだ。
「プラーナ・ヴィークシャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)
」
において、
呼吸は “ 観
られる対象 ” となる。そして自分自身は、肉体のメカニズムである呼吸を “ 観る
主体 ” となる。
普段は分かれている “ 物事をとらえる主体と、とらえられる対象 ” が、肉体
という 1 つの場所において一体化される。“ 主体と対象(客体)
” が 1 つになる時、
私たちは自分の内に深いくつろぎ、リラクゼーションを感じることができる。
だから瞑想で、呼吸を観察するテクニックを最初にしていくことは、大きな意
味がある。
しかし、私たちの瞑想はここで終わらない。「プラーナ・ヴィークシャナン
प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)」は瞑想のための 1 つのステップである。さらに繊
細で、自分自身の核心に近づいた内なる感覚をも観察し、自分自身の本質とは
何か? を見極めてゆく。
さて、“精神を穏やかに静める “ という効果が非常に高い
「呼吸の観察」
テクニッ
クであるが、私たちは瞑想の前に限らず、日常生活でも行うことができる。もし、
自分が興奮していたり、激しく乱れていたり、怒りで取りとめもなくなってし
まったときは、
「呼吸をただ観る」だけで、自然と心は落ち着いてくる。そうそう、
不思議なことだが、大抵の事は呼吸を整えるだけでどうにかなるものらしい…。
たとえ心が揺れても平常心にすぐに戻ることができる。「プラーナ・ヴィーク
シャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)」というテクニックは、私たちに肉体への
客観性と、心の静けさをもたらしてくれるテクニックになる。
五感をとらえる:“ 触覚・触れている感覚 ” を客観視する
体のある部分が何かと触れている。この “ 触れている ”、という感覚を意識的
にみるようにする。
248
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
脚が床に触れている、お尻が座に触れている、触れていることが起こってい
る場所を 1 つ 1 つ観る。組み合わせた指と指、合わせた親指どうしの感覚。上
瞼と下瞼が合わさっている感覚。唇。「触れている」という感覚を客観視する。
なぜ、“ 触れている感覚 ” を観るだけで、心は深い静けさに落ち着くのだろう?
触れている感覚は、自分の肉体という場所の中で起こっている。呼吸の観察
同様、自分自身は、“ 感覚を観る主体 ” であり、感覚は自分によって “ 観られて
いる対象 ” である。普通「主体(行いをしている人)と対象(行いによって把
握されること)」は離れた場所にある。しかし、感覚をみるテクニックでは、
「主
体と対象」のどちらも、自分の体という同じ場所にある。観察することによって、
「主体と対象」は 1 つになる。対象は自分から離れていない。主体と対象の隔
離が無い “ 一体感、全体 ” を、触覚の観察でも私たちは体験することができる。
一体感を味わっている時、私たちは心地よく、自分に安心している。
なぜなら、自分と離ているものがない事を知るからだ。以前別の章でも書い
たように、私たちは自分自身と離れたものがあるときのみ、恐れや不安を抱く。
呼吸や感覚を観ている時、私たちに何かと離れているという感覚、疎外感はな
い。だから、リラックスできるのだ。くつろぎながらも、冷静であり、客観的
であり、注意深くある。瞑想に相応しい状況を準備できる。
深い瞑想が起こる心を準備するために、感覚をみる。5 つの感覚の中でも特
に繊細で、外の物を必要としない “ 触覚、触れていること ” をとらえるテクニッ
クで、より深いレベルで全体とのつながりをハイライトすることができる。
心の動きを客観的に観る
自然、人との関係、役割、体、呼吸、五感、ここまで客観視した後は、
いよいよ “ 心 ”
を観てみる。
ところで、
「観察されている!」と知ると、心はオスマシしてしまう。見られ
ていると意識した心は、たいてい穏やかさを装い、静かにすましているものだ。
ここぞとばかりに、暴れたりはしない。全く良くできている。まるで私たちの
普段の生き方を表しているようだ。
249
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
まあ、心のそういう態度もそのままにしておこう。そんな心を意識している
のが、私自身なのだ。
“ 心を 意識する人 ” とは、最もシンプルな知覚、認識の中心にいる自分自身
である。世界の中で何の役も演じずに、認識を起こす。だからこそ問題も抱え
ていない、オリジナルな自分。そのシンプルでオリジナルな自分が、“ 個 ” とし
て全体世界とつながっている。瞑想は、シンプルな認識の中心である自分自身
が、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」と関わりあい、そのつながりを強調す
る。この全体世界と関わりあう認識の中心である自分が、
「ディヤーター ध्याता(瞑
想する人)
」の事実である。役を演じず、他の関わりを一度脇へおいて、全体と
のつながりを確認することが「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)
」なのだ。
…ところで、何も “ 認識の中心である自分 ” なんていわなくても、“ 個 ” であ
る私は、瞑想する前からすでに「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」と関わりあっ
ていたはず。この肉体も、呼吸も、心臓の動きも、考えも感情もすべて「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」の法則と秩序によって動いている。つながりをあえ
てハイライトする必要がどこにある?
ごもっとも。本当に、私たちがもしいつも世界とのつながりをみることがで
きているのなら、あえてつながりをハイライトする必要もないだろう。しかし、
残念のことに、私たちはこのつながる事実を、日々の忙しさでうっかり忘れて
しまうのだ。またシンプルな個は、様々な “ 役 ” を演じる事によって埋没してし
まう。
切っても切れない全体世界とのつながりはあるのだが、みえていない。事実
がみえていないことによって、世界に孤独を感じたり、世界に対して恐れたり、
不安になったり、傷つけられたと被害妄想にとらわれたり、世界は思い通りに
ならないよー!といってフラストレーションを抱えたりして、悩み苦しむ。
だから、あえてつながりを確信する必要がある。様々な感情が傷つく経験は
つながりを忘れていることが原因だからだ。私たちは、瞑想によって「全体と
関わる意識的な個」である自分を自覚し、つながりを強調し、内なる恐れや不
安の原因を取り除いていくのだ。
瞑想をするのは、
「全体世界の中に在り、知覚し、意識する主体」である自分。
主観や偏見から自由であり、問題や葛藤、緊張から解放されている者。瞑想の
250
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
準備プロセスによって、この客観的な自分であるようにする。世界に恐れず、
揺らがず、冷静に客観的にすべてをありのままに認識する自分を、瞑想によっ
て思い出し、確立する。
まとめ:客観的になるメソッド
瞑想のために客観的な心を準備するためにできることをまとめてみよう。
物事をありのままにみることができるニュートラルな視点をもって、人は初
めて効果のある瞑想ができる。そのために、自分の中に蔓延っている主観的な
見方、それによってつくられた問題を少しずつ剥がしてゆく。
主観的な問題は、まるで頭の中でブンブン音を立てて飛び回る虫のようだ。ぐ
るぐると同じ問題の周りを飛び回って、実に落ち着かない。 この “ 問題・苦悩 ”
という名の虫を心の外に出さない限り、自分の深い部分と向き合う瞑想をする
ことは、不可能だ。
寝ている時に、蚊が「プーン」と飛んでいるだけで、落ち着けない繊細な私
たちたちだ。どうして頭の中で「ブンブン、ブンーン!」と、“ 悩み ” という音
を立てて回る虫を飼いながら、心穏やかに坐ることができるのだろう?
そう。だから、このザワザワ虫に取りつかれたら、ぜひ見つけ次第、早々に
お引き取り願おう。というわけで、うるさい虫は以下の方法で外に連れ出して
しまう。
<頭の中の “ 虫 ” を追い払おう!大作戦>
この方法の内容を簡単にいうと、今自分がつかまれている問題、関係する
人々、物事、様々な事情をあえて、自分の “ 外 ” においておくように視覚化する
のだ。
頭の中でどうしても気になって、心に入り込んでくる人や物事を視覚化する。
そして次のような意味合いの言葉を自分なりに唱える。
「外の問題や物事は、外の世界のままにおいておこう。自分を悩ませているあ
の人も、外の世界のままに、ありのままにしておく。その人がいる範囲、その
251
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
人が生きている領域である外世界のままにして、置いておこう」
。
自分がみて、自分が受けとった外の物事や他人の問題は、あくまでも自分の
知覚と考えの中にだけ起こっている。
ある特定の物事や人と、自分の考え方の “ 関係 ” の中でだけ、問題は起こる。
その “ 関係 ” を、あえてそのままにしておく。解決しようと焦ったり、問題を取
り除こうと鼻息荒く挑まないこと。受け入れて、受け流す。
心に問題を起こしている原因は、自分特有の「人や物事」に対するとらえ方
にあるのだ。それを正すには、自分の見方を変えていくしかない。が、荒っぽ
いやり方や、力ずくで自分を抑え込んでもだめなのだ。心が抵抗してしまう。
主観的な考え方で問題にはまっているのをみたら、
「それらは皆、外の出来事
だ。そういう物事は、その場所だけにいてもらおう。こっちにこないように、
自分が取り入れないように、外の世界のありのままにある情報として、おいて
おこう」。
あえてそういって、客観的にとらえられるようにする。外の物や人に、自分
を悩ませる自由を与えない。外の出来事や人々を、“ 問題 ” として自分の中には
いりこませない。自分の心と頭を外の者につかませたりしない。そうするため
には、“ 関わらない ” こと。
ありのままのことは、そのまま受け入れて、放っておく。どうせ外の世界の
ことだ。どんなにはまって、心配しても、あるようにしかならない。
心の中に入り込んできた外の物や人につかまってしまうのは、それに抵抗し
たり、まともに考えようとしたり、あれこれ策を練ってしまうからだ。外の世
界の事は、外の世界のままに。そういって、フワ―っと置いておく。
「世界はあるべき事だけがある。起こるべき事だけが起こる。世界に起こるこ
とは、1 つの法則と秩序の中で生み出されている。その動きに間違いはない。
もし間違いだと思うなら、その思いこそが間違い。自分には、自分の必要な物
が与えられ、育まれ、気に食わないあの人も同じルールと秩序で生きている。
だから、他人や外の世界は、そのままにしておく。あるがままの世界を、自由
に解き放っておく。」
こんな意味の事を自分なりに心でいってみる。あまりにもシンプルな方法だ
252
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
が、あえて言葉で心にいい聞かせることで、心は冷静に、物事に対して客観的
になることができる。
部屋の中で元気いっぱいに暴れる虫は、ホウキをもって追いまわしている内
は追いだせない。完全に虫のペースで、虫に弄ばれてしまっている。
窓を開け放ち、扉を開いて、静かに少しじっとしていれば、やがて虫は勝手
に出ていく。心の中の虫も同じだ。外の世界に対してオープンに心を開け放ち、
リアクションせずに少しじっとしている。外の世界のものは、外の世界のこと。
自分を悩ませる他人も、状況も外の世界のもの。それらは、自分の内側にとり
いれず、外の世界のあるべき領域にそのままおいておこう。
追わず、つかまず、静かにあるがままを見ながら、受け流す。それが客観的
であるという事。ある時点で起こる問題は、必ずどこかの時点で収まる。入っ
てくるものは、必ず外へ出ていく。変わりゆく世界はそうなっている。自分も
虫と一緒に揺れたり騒いだりして、踊らされない。ただありのままを映して、
静かにしていれば、そのうちどこかへ消えさる。
このただじっと黙って待つことが私たちは難しいのだ。ムズムズムズ…なん
とかしたくなる。しかしあえて、静かにしておく。暴れ出しそうな虫をみて、
リアクションしたくなるが、放っておこう。そうできることが、Yoga で培える
静かな強さなのだ。
問題にとらわれて不安になり、ヘルプレスに感じ、恐れて藁に飛びついてい
るのが普段の私たち。しかし、冷静になろう。問題から一刻も早く抜け出そう
として焦ってつかもうとしているのは、藁でしかない。何の助けにならないど
ころか、かえって事態を複雑にする。
「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」といわれる人達も、世界で生きてい
る以上いろいろなことがある。しかし彼らが悩みで悶絶する私たちと違うのは、
静かに出来事が流れていくのを待つことができる大きさと強さと、客観的な態
度なのだ。
253
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
<自分を客観視するメソッドのまとめ>
1.自分の体の状態を客観的にとらえる
頭からつま先まで、自分の体の在り様を視覚化する。
「まるで呼吸をす
る仏像のよう」。そんな風に自分の体・顔に対して思えるくらいまで、
この体を客観視する。
2.自然に流れている呼吸の観察
「プラーナ・ヴィークシャナ(呼吸の観察)」。
呼吸の観察で、心は静けさと落ち着きを取り戻す。
3.“ 呼吸の観察 ” から、“ 五感が起こしている感覚 ” をみる
五感の中でも最も繊細で、広範囲に体に浸透している “ 触れている ” 感
覚を敏感にとらえる。呼吸の流れを追うことから、呼吸が自分に触れて
いるという “ 触感 ” をより繊細に観る。そのことで、自分に対するさら
なる客観視が可能になる。呼吸という動きから、感覚に意識を向けるこ
と。
4.今ある “ 心の状態 ” に注目する
感覚をとらえているのは、自分の心である。体の各場所に起こる感覚と
いう現象を、“ 考え ” のフレームに映しだして知覚している。その “ 心の
状態 ” をみているのが、自分自身である。自分は心すら観察している「知
覚の主、意識の中心」であることに気がつく。意識的な自分、
この最もベー
シックな自分こそが、瞑想をする者「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」
である。
ここまで客観的になることをして、初めて瞑想をする「ディヤーター
ध्याता(瞑想する人)」の自分を準備することができる。
ここからいよいよ、瞑想がはじまる。
254
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
8.【瞑想開始】瞑想が始まる!世界とつながる
充分にリラックスして、瞑想で坐れるための客観的な心も準備した!よしっ。
実質上、瞑想はここからはじまる。
瞑想はサンスクリット語で「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)
」という。
瞑想を構成するファクターは、
①「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)」
②「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」
③「デーヤン ध्येयम्(瞑想の対象)」
の 3 つ。
前の章では、
「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」になるための準備をみて
いった。
「リアリティ瞑想」の全体の流れ Level1 ~ Level3 までのステップでは、
冷静で客観的、かつリラックスしている “ 認識の主体 ”「ディヤーター ध्याता(瞑
想する人)
」となること。呼吸を観察したり、感覚や心を観たりと、いろいろな
テクニックがあるが、要は「役割から解放され、心に問題と葛藤のない “ オリ
ジナルで素の自分 ” であること」。この「オリジナルな自分」=「ディヤーター
ध्याता(瞑想する人)」が瞑想をする。
瞑想で理解すべきコンセプト:個と全体は 1 つである
自分は、全体世界とつながっている。瞑想は、そのつながりをはっきりとみて、
不安や揺らぎが入り込まない程、確かなものにするために行う。
実は、瞑想しようがしまいが、私たちはすでに「全体とつながる個」である。
知ろうが知るまいが、私たちは生まれる前から全体世界とつながっているし、
今もつながっている。
誰も世界から離れてなどいない。世界を維持する法則と秩序が自分たちの中
255
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
にもくまなく巡り、働いているからこそ、こうして目を開けて本を読めるし、デー
タとしてとりこんだ文字を認識し、メッセージを汲み取ることができている。
その間も、自分の思いや意志とは全く関係なく肉体は呼吸をし、心臓はリズ
ミカルに動いているは、まさに全体世界を動かす自然の法則が今も自分の中で
働いているから。もし、コーヒーを飲みつつこの本を読んでいるとしたら、飲
み込む活動も、消化も同時に行われている。こんなことが可能なのは、体と考
えにとてつもない程の完全な秩序と力が行き渡っているからだ。にもかかわら
ず!私たちときたら、この一番ベーシックな関係をつい忘れてしまったりする。
全体世界との関係は生きる個としての自分にとって、どんな関係とも比べら
れない。特別であり、絶対的な関係である。他の誰かとの関係と代えることも
できないし、比較もできない。“ 個と全体 ” という絶対的な関係をベースにして、
“ 個と個 ”“ 個と社会 ” などの相対的な関係が成り立っている。
たとえば、社会的な関係、人間同士の関係、家族をはじめとして、友人、会社、
学校での関係や物とのつながり、様々な状況という形で現れている関係性。そ
れらは “ 全体と個 ” の関係があって、初めて成立している 2 次的なものなのだ。
私たちは普段、社会の中で 2 次的で変わりゆく関係ばかりに気を取られ、表
面的な関係性に束縛される。様々に演じている役の中で心を忙しく動かし続け、
基本的な生物として、どういう立場に自分が置かれているのか? を見ていな
い。そうして、移ろいゆく関係に巻き込まれ、そこで起きる幾つもの問題を抱
えたりもする。
表面的な関係の前に、私たちには絶対に変わることのない「個と全体」の関
係がある。しかし、これは当たり前すぎる事実であり、私たちはあえて見たり、
ハイライトすることをほとんどしない。
全体世界と関わる自分、この事実がみえていない。まるで自分 1 人で世界に
生きているように感じる。たった 1 人で複雑な世界と関わり、挑んでいると思っ
てしまう。大きな世界にありながら、“ 自分 ” の小さなワールドにとらわれる。”
自分の物 “” 自分だけの○○ “” 自分だけの領域 “ そうやって世界を分断し、離れ
た思いに閉じこもる。
ここから、主観が生まれ、偏見が生まれ、自分だけの狭量な物の見方が始ま
る。自分だけの小さな世界を生きていくようになり、小さなマイ・ワールドを、
256
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
いつも大きな世界と比べ孤独になり、惨めになる。比較することで、自分を必
要以上に小さく感じ、時に無意味な存在のように思うことすらある。
さらに、この自分の幻想でしかない小さな世界を守るために、私たちは必死
になっている! “ プライド ” という形で、大きく広がる実世界から、自分の世界
を傷つけられないように守ろうとする。“ これは自分のもの ” と所有権を主張し
て、世界に抵抗する。小さな世界に生きる者から見れば、大きな世界は自分か
ら離れている存在であり、脅威を与え、恐れさせ、時に自分から大事なモノを
奪うものである。
“ 自分は、世界から離れている ” という思いが、疎外感を生み、心の奥底に恐
れと不安をつくりだす。その恐れから不信感が生まれ、世界に対して抵抗する。
傷つくことを恐れ、自分は守らなければならないと思って、小さな自分を守る
ために世界に対して高い壁をつくる。壁の向こうの世界にいつも脅威を感じな
がら、恐る恐る生きている。恐れから自分を守ることが、生き方のプライオリ
ティーになってしまう。
自分にとっての最重要課題は世界から “ 身を守る ” 事。「安全」と「安心」を
少しでも多く獲得し、マイ・ワールドを守ることが何よりも大事なことになる。
そのために、様々な物を手に入れようとする。物ばかりでなく、自分を守って
くれそうな資格や、権威、パワー、知名度、財産、パートナー、子孫などでテ
リトリー固める。
しかし、どんな物を手に入れても、自分の中心の恐れが消えることはない。
自分を守れると思われた物を手に入れ、力や財産をどれだけ獲得しても、いつ
もどこか何かが足りないような気がするし、心の奥にある恐れや不安はいつま
でも残るだろう。逆に、物や力を手に入れるほどに、
自分の足りなさを思い、
「もっ
ともっと次が必要だ!」と感じ、ハングリーで貪欲な、
終わることのないハンティ
ングに駆られる。なぜなら、手に入れられる物をいくら集めても、中心に巣食っ
ている恐れの原因に直接アプローチしないからだ。
なぜ恐れるのか? そこを見すえた解決でなければ、どんな物を手に入れて
も、一時的に安心した気分になり、また不安になる、ということを永遠に繰り
返すだけだ。ちなみに、何かを手にしようとし、何かになろうとし、不安を解
消しようというアプローチは、Yoga 的には、「サンサーラ सम्सार(苦悩の繰り
257
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
返し)」と呼ぶ。永遠に続くむなしい繰り返しである「サンサーラ सम्सार(生と
死、苦悩の繰り返し)」から、自由になる方法が Yoga の道となる。
「ううぅ~、もうこのやり方では、たぶん自分はいつまでたっても満足できな
いに違いない。どうすればいいんだぁ? !」と、思う者への打開策が “ 問題の
根本解決法 ” としての Yoga。Yoga は、恐れの原因、問題のルーツにアプロー
チする方法を提示するのだ
今自分を振り返ってみれば、Yoga を志し、瞑想をしようとしているのも、
「自
分はなんかいつも不安だ。なんかいつも満たされていない。こんな不安で、孤
独で、小さくて、自分であることに違和感を覚える。世界と自分をいつも喜ん
でいられるわけではない。自分のことが自分で、どうも受け入れられていない。
不満だらけで、不安だらけで、非力な自分をなんとかしたいよー!ガオー!」
…という思いが根底にあり、そこからすべてが始まっていたかもしれない。
私たちの誰の心の根底にもある不安感、疎外感は、ふとしたきっかけで顔を
覗かせる。それは誰かの冷たい視線や、心ない発言や、多くの人に認めらない
ということ、批判されたことや、自分の意に反するような状況に襲われること
などが引き金となる。通常は心の奥で眠るこの思いたちが、何かの拍子で外に
現れる時、私たちはとてつもない不安を覚え、時に絶望感すら感じる。どうに
かしたい ! と切実に思っている。
多くの人が、自分の世界だけに生き、多かれ少なかれこのような思いをもっ
ている。そして、通常のセラピーやヒーリングというものは、この疎外感や孤
独感を一時満たすようなことをする。もしかしたら、“ 世界に受け入れられてい
る。” そう思えるような言葉や施術が、私たちを満たし、救うことがあるかもし
れないしかし、それらは、世界から孤立していると思いこむ人の間違った認識
や関係性を肯定してしまう。セラピーやヒーリングや通常の哲学などは、“ 自分
とは孤独な存在であること、小さな生物であること ” を認めてしまう。
「そうだ、
あなたは孤独だ。そして、私もまた孤独なのだ」。そんな風にいう哲学や宗教が
ある。
「そのとおりですね。あなたが思うように、世界は限りなく広くて、大き
いのです。それに比べてあなたという人はあまりにも小さくて無力。わかりま
す、
わかります。なぜなら、私も同じだからです。だから小さい者同士、
支え合い、
癒しあいながらやっていきましょうよ」というセラピーもある。
258
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
宗教や哲学にわざわざいってもらわなくても、セラピーに行かなくても、私
たちはこの「孤独感、絶望感、疎外感」をいつも心の奥ではっきり自覚し、こ
の不安を共有できる体験を求めている。同じように考える詩人の言葉を本から
拾ったり、音楽にのせた一編のフレーズに共感を見出すかもしれない。自分と
同じような孤独感をもつ人の言葉を聞く。考えに同調する。その共有体験が、
不安を抱えながらも今日を生きる自分の支えとなっているのだろう。
しかし、いくらそれらを求めたところで、根底の不安は変わらない。“ 絶望感 ”
の根もとにいる「自分を孤独に思ってしまうのははぜか? 」という問題のスター
トポイントにアクセスしない限り、いつまでたっても拭いきれない不安は残る。
そうやって、その場しのぎで一時的な、安心や満たされたような体験を渡り歩
き続けるのだろう。
しかし、Yoga という道、Yoga のコンセプトを支える『ヴェーダ(聖典)
』は、
この孤独感や不安をスッパリ否定する。
「あなたは、
世界から離れてなどいない。
あなたの事実は、全体世界から離れようにも離れられない。その体にも考えに
も、抱えている恐れにも、小さな悩みや怒りにすら、この世界を維持する法則
と力が満ちているのだから」。
自分と世界の絶対的なつながりを認識し、納得しない限り、私たちの孤独や
不安の問題は終わることがない。だから Yoga の教えはこんな風にいう。「だい
たい恐れなど、今まさにつながっているあなたと世界の事実を知らないことか
ら生まれた考えにしかすぎない。問題は、真実を知らないことにある。無知が
あなたに “ 孤独だー、不安だ―” などと、執るに足らないことをいわせる。真実
を知る賢者は、悲しむ必要のないことを悲しんだりしないものだ」
。
श्रीभगवानुवाच
अशोच्यानन्वशोचस्त्वं @ओरज्ञावादांश्च @भाषसे।
गतासूनगतासूंश्च @नानुशोचन्ति @पण्डिता h॥२-११॥
「バガヴァーン भगवान्(全知全能の象徴)」はいった。
「アルジュナ君!キミは悲しむに値しないことを、悲しんでいる。
もっともらしい事をいって勝手に打ちひしがれている。
そして、必要がない悲しみを正当化するために、まるで賢者のような言
259
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
葉を語っている。
言葉は賢者のようだが、その心は悲しみにくれている。
しかし、その悲しみにも絶望にも、正当な理由なんかない。
本当に真実を知る者は、現れては消えてしまうような、変わりゆく物に
対して悲しんだりしたりはしないものさ」。
『バガヴァッドギーター』2 章 11
Yoga 的コンセプトの核になる聖典の最終章『ウパニシャッド(奥義書、
ヴェー
ダ聖典の最終的な教え)』が、哲学やセラピーと決定的に違っている点は、私た
ちの根底にある “ 絶望感や恐れ ” を徹底的に否定する点だ。
人間が覚える孤独や絶望を、キッパリ真っ向否定。事実を知らずに、無知の
上に自分の思いを乗せて、勝手に孤独に落ち込んでいる人間に、気持ちがいい
くらい、きっぱり頭から全否定する。
「世界から離れているなんていう思いは、あなたの大きな勘違いさ。あなたは、
自分の事を知らなさすぎる。事実を知らないでいる。事実を知る人は、“ 悲しみ
に暮れなずむ…” なんて、バカバカしいことはしないものだよ」
。
この印象的なセリフは、『バガヴァッドギーター』という Yoga の経典の冒頭
にある悲しみに暮れていた主人公を、賢者は励ますどころが悲しみごと全否定
する。この言葉が教えの始まり。孤独や不安や悲しみを、初めから聖典は否定
するのだ。
Yoga の師の教えは、悲劇の主人公の悩みを一刀両断に打ち捨てることから始
まるのだ。
「キミは無知故に、“ 自分は世界から離れ、小さく、無力だ、無意味だ。だ
から悲しい ” なんていってしまっている。センチメンタル気分に浸るのもいい
けど、ほどほどになっ。まさか世界一の戦士のキミが、本気で泣くほど悩ん
でしまうなんて、こっちもびっくりしたさ。キミの事実とは、そして人の事
実とは、世界から離れたりしていないということ。世界は誰からも離れていな
い。それ以上に、キミは世界だ。世界の事実とはあなたのことなのだ。何が悲
しい? 何が孤独だ? 事実を知る者は、今あなたが溺れている悲しみの海を、
260
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
ぐんぐん渡ることができるのさ(『チャーンドギャ・ウパニシャッド
तरति शोकमात्मवित्।』7 章 1.3)」
Yoga 的なコンセプトの根幹にある、『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖
典の最終的な教え)』や『バガヴァッドギーター』という経典は、「あなたは孤
独ではない。世界から離れていない」それが事実なのだ、という。
「もし孤独や絶望を感じているとすれば、それは事実を知らずにいるからだ。
あなたが自分の事実を知らないことが、悲しみや絶望を生んでいる」。という。
経典の最終的な教えはここにある。悲しみに沈む私たちに向けて、
その原因の “ 無
知 ” を射るための、教えという矢を放つ。
「タット・トヴァン・アシ तत्
त्वन् असि(You are the Whole. あなたとは全
体である)」
経典の言葉で、絶対的な “ 世界と自分のつながり ” をいうとすれば、私たち個
人の真実は「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」であるという。世界の真
実は、
「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」という言
葉で語られる。この「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」は、あの「ブラ
フマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)」である。この私とは、
あの世界の事実、
「ブラフマン ब्रह्मन्」である。自分自身とは、“ 存在・知・認
識の源・満ちるものである。” これが事実だ。「オーム タット サット ओम् @
तत् @सत्(これだけが真実だ。)」以上教え終わり。
聖典のファイナルメッセージは、実に簡潔である。経典は始終一貫してこの
事実を伝える。最初にみたように、「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あま
ねく広がるもの)」を根源にして世界は現れている。世界は、
絶対的な
「存在と知」
というベースの上に多彩な形をもって現れる。絶対的な
「存在と知」
に満たされ、
限りなく世界は広がっている。現す力と、現すための意志と知識、そして現れ
た現象をすべて合わせて “ 全体世界 ” という。そうやって現れているこの全体世
界を、Yoga の言葉では「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」というのだ。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は、動く物も、動かない物も含めたあ
261
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
らゆる物を現し、秩序と法のもとにすべてを維持している。
星が均等の位置を保ち、転回し、動きが起こる。その動きの力によって重力
が起こり、風が生まれる。風が生物を呼吸させ、命を運ぶ。動きが熱と光となり、
あらゆる命の火を燃やし、目を輝かせる。私たちの体も、体の機能も「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」の法則と秩序に満ちている。息が体を通り、血液が
巡る。考えが働く。感覚を通じて私たちは世界を心に映し、
全体世界を理解する。
世界を現す根源である「絶対的な知」が自ら輝き、私たちに “ 認識 ” をもたら
す。“ 知・認識の源 ” によって、私たちは、みることができる。知ることができ
る。わかることができる。
世界の源である「絶対的な存在」が、私たちを存在させている。誰に確かめ
てもらわなくても、私はいる。ここにある。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の真実、
「絶対的な存在」
、“ 知・認識の源 ”
が私たちに満ちている。全体世界と私はつながりあい、ただ 1 つの事実がそこ
にある。
私たちのすべてのレベルに「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が広がる。
体にも、感覚にも、感情にも、考えにも。法則として、秩序として、力として。
どこからが個で、どこからが全体だろうか? 全体が個に満ちている。
絶対的な “ 源 ” をベースにして躍動する「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」
は、私という個を覆い尽くしている。知っていようが、知るまいが、今も昔も
そして未来もずっと、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」がこの世界に広がり、
」である。
私たちの中に行渡っている。私は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
世界も自分も、その源はただ 1 つの真実「ブラフマン ब्रह्मन्(究極の知、存在、
あまねく広がるもの)」なである
世界は私たちを傷つけない。私たちがそれを許さない限り、世界は私に手出
しすることができない。
262
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
世界は私を責めたりしない。私がそれを許さない限り。私は世界を知らず、
自分を知らなかったから、世界が傷つけ、責めるのを許してきた。しかし、今
は違う。私は世界だ。私と世界の源はただ 1 つの真実である。
「アハン・ブラン
マ・アスミ अहं @ब्रह्म @अस्मि(私の真実は世界の源)
「ブラフマン ब्रह्मन्」であ
る)」この事実を知る者を、世界の何も傷つけることはできない。
恐れを放ち、悲しみを越え、苦悩から自由になるために、私たちは Yoga をし、
瞑想をする。私たちが目指す無条件の自由へのキーは、事実を知ることである。
ただ知るだけでなく、揺るがぬ事実として自分の中に確立させるために。
知っている、ということと、わかっている、納得しているということは大違
いだ。真実に心から納得することで、私たちの根に巣食う問題は癒される。
「リアリティ瞑想」は、個と全体をつなげるのではない。1 つになろうとする
のではない。初めからつながり、1 つである「個と全体」のリアリティを納得
するだけだ。事実を理解することだけが目的なのだ。
森に生きる木は、知っていようがいまいが、森に満たされている。森という
全体は、1 本 1 本の木という生命からなる。そして、森全体も 1 つの生命体と
して機能し、生きている。
海も同じだ。波は知らないかもしれないが、海という全体に行渡られ、海の
上を漂っている。そして、1 つ 1 つの波で構成されながら、海は 1 つの生命と
して生きている。
私たちも同じだ。1 人 1 人の個人が「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の
力と秩序に満たされ、生きている。過去も、未来も、現在も。すべての時間と、
空間に「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」のルールが現れている。その中に
私が生きている。そして、無数の生命体に構成された全体世界「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」もまた、1 つの生命体として生きているのだ。
私たちの孤独や悲しみという問題は、この事実に “ 自覚がない ” というだけ。
事実を知らない、それだけが問題なのだ。
だから、解決は知ることにある。何かを得たり、獲得したり、どこかに行く
ことは解決にならない。経典は、この事実を教えるためにある。経典は、真実
を自覚せず思い悩む “ 個 ” に向かって、何度でも語りかける。“ 個 ” を全体へと
263
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
解放するために、自由のために、真実を教える。
その知識を一番初めに教えたのは誰か? それは「イーシュヴァラ ईश्वर(全
体世界)
」自身である。聖典の教えは、だれか一個人が考え出したアイディアで
はない。ひらめきでも、哲学でもない。「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」
が自ら言葉になって、教えとして現れたといわれる。
だから、聖典は単なる本ではない。「プラマーナ प्रमाण्(知識を得るための
術)
」というステータスが聖典には与えられている。聖典の言葉とは、それ以上
遡りようがない、事実を語る言葉。真実を知るための術である。
悩み、悲しみ、苦悩する “ 個 ” を自由にすることだけが、聖典の本意だ。完全
なる慈悲、完結なる教え。さらに、世界は苦しみもがく “ 個 ” の耳に、直接届く
ような術も用意している。
「全体世界と個」の事実を教える者
「全体世界と個」の事実を教える者、それが「グル गुर(
」である。経典エッ
ु 師)
センスを生きた言葉で語り、自由を求める者へ直接教えることを使命にする者
を「グル गुरु(師)」という。
गुकारस्त्वन्धकारो वै रुकारस्तन्निवर्तक:।
अन्ध्कारनिरोधित्वाद्गुरुरित्यभिधीयते॥
「グ」という音は、暗闇を表す。「ル」という音は、追い払う者、という
意味である。
無知という暗闇を追い払う者を「グル गुरु(真実を教える者)
」と呼ぶ。
『グル・ストートラム』
私たち個人の心に宿る「グ गु(暗闇)」の形をした無知を、
「ル रु(追い払う)
」
ために、グルと呼ばれる師たちが生きている。真実の教えが悩める個人に響く
264
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
よう、メッセージをグルの声に変え、音という形で無知を打ち破る。教えが光
のように闇を照らす。無知によって凍りつく苦悩を溶かす “ 火 ” のような知識を
告げる者たち。
Yoga とは、サンスクリット語では「ヨーガ योग(融合する、1 つになる)」
という。エクササイズやリラックス法の 1 つとしての一面が取り上げられるこ
とが多いが、もともと Yoga とは、経典と「グル गुर(
ु 師)」が告げる知識を知り、
“ 真実 ” であることを納得し、自由に至るためのプロセスであり、道である。
瞑想を含む Yoga は、真実を深く納得するための心を準備するメソッドであ
る。教えの詰まった種は、私たちの心という土壌に撒かれて、初めて花をつけ、
実を結ぶことができる。教えの種を花開かせるための、土壌つくりが Yoga であ
る。体、感覚、考えという私たちが与えられた肥沃な大地は、意志と努力によっ
て耕すことができる。Yoga によって充分に準備ができた心に、教えの種が撒か
れることによって、私たちは本当に心から望むことを成就させることができる。
その Yoga の最終的な手段が、瞑想である。瞑想の目的とは、真実の理解を深
く納得に変える事。“ 真実の理解 ” が “ 理解 ” という形の花を咲かせ、“ 納得 ” と
いう実を結ぶ時、私たちは完全なる自由 「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」 に解
放される。
9.瞑想の 2 つの方法
『ヴェーダ(聖典)』をベースにした、トラディショナルな瞑想は、瞑想の対
象を何とするか? によって次の 2 つの方法に分けられる。どちらも、同じ目的
につながっている。またどちらかを選ばなければならないということでもない。
私たちはこの 2 つどちらも行うことができるし、どちらか一方でも大丈夫だ。
伝統的には、2 つのタイプの瞑想 “ 1をしてから 2 をする ” というように順序通
りに行う。
1.イメージ「プラティマ प्रतिम(像の対象)」に瞑想をすること
2.音、言葉「プラティーカ प्रतीक(音の対象)
」に瞑想をすること
265
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
この 2 タイプは、別々に行う事もできるし、同時にすることもできる。
① イメージに瞑想をする方法
「プラティマ प्रतिम(像の対象)」といわれる対象に「マーナサ・プージャ
मानस-पूज(心で行う儀式)」をすることで、瞑想の対象とのつながりを
ハイライトするタイプの瞑想。
この方法によって、集中力を養いながら、祈りと心の儀式による「カル
マ कर्म(行い)」の結果として「プンニャ पुण्य्(徳)
」という特別な徳を
積むことが期待できる。
② 音、言葉に瞑想する方法
心の中で像の対象に「プージャ पूज(儀式)」をした後に、
「マントラ
「マントラ मन्त्र」を
मन्त्र」という音の象徴に瞑想をする。具体的には、
繰り返す「जप ジャパ(マントラ瞑想)」という行いをすること。自ら選
んだ「マントラ मन्त्र」を繰り返すことで、瞑想を深める。
ではそれぞれの具体的な方法を見ていこう。
イメージ「プラティマ प्रतिम(像の対象)」の瞑想
瞑想の準備が整った「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」は、
「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」とつながるための瞑想をする。
“ 個と全体はすでに、つながっている ” という事実は述べたが、私たちは長い
期間 “ 個と全体は別れている ” という概念を脳に植え込んでしまっている。そ
んなオリエンテーションをもっているため、事実をしばしば忘れてしまうのだ。
そうして 1 人孤独に苦悩することが多いのだ。残念ながら。だから、あえてつ
ながりを自覚する必要がある。
266
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
恐れや悩みから自由になるために、“ 自分は全体世界とつながっている ” とい
う事実をあえて認識する作業が、インドで日常的に為されている「プージャ पूज
(儀式)」や祈り、瞑想である。
それらは、長く抱えてきた「全体世界と自分は離れたものである」というオ
リエンテーションを、書きかえることができるプログラムということもできる。
「全体世界は自分とつながりあっている。自分の肉体、感覚、感情、考えのす
べてのレベルにおいて、自分と世界を離すものは何もない」事実を再確認する
こと、リ・オリエンテーションするのがこのメソッドのテーマだ。
この瞑想方法は、「プラティマ प्रतिम(像の対象)
」という写真や像の形をし
た「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の象徴に向かって心の中で「プージャ(儀
式)」を行う。そのことを「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)
」と呼ぶ。
」といえばこのメソッ
『ヴェーダ(聖典)』の世界で「ディヤーナン ध्यानम्(瞑想)
ドを指しているのが一般的である。
実践「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)」
この方法は、
『ヴェーダ(聖典)』をバックグラウンドとする文化と習慣があ
る場所では受け入れられやすい。一般的に儀式の習慣のない日本ではなじみの
ないことが多く出てくるので、困難に感じるかもしれない。
この方法は行ってもいいし、ピンとこなければ特にしなくても大丈夫。私た
ちには、別の “ 音を対象にする ” という瞑想法もある!次のセクションで述べ
る、
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」を中心に私たちは行っていこう。ここでは参
考として、伝統的な方法を記しておく。
」
1.「イシュタ・デーヴァター इष्ट-देवता(自分好みの神の象徴、像)
を心の中心に思い浮かべる
2.その像に向かって、心の中で「プージャ पूज(儀式)
」をする。
心で行う「プージャ पूज(儀式)」も、これから述べるマントラを唱え
る瞑想「ジャパ जप(マントラ瞑想)」も、どちらも「イーシュヴァラ
267
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
ईश्वर(全体世界)」とつながっている事実を理解する効果的な方法とな
る。「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)
」によって、私たち
は自ら選択した像を心に思い浮かべ続け、心の中で「プージャ(儀式)
」
をする。これが、一定の集中力を要求される瞑想となる。
3.「イシュタ・デーヴァター इष्ट-देवता(自分好みの神の象徴、像)
」
を心に浮かべ続けながら、花を捧げ、祈りを捧げるという動作を心の中
で行う。
一連の動きを思い続け、同じタイプの考えによって思考の流れをつくり
だすことを「サジャーティーヤ・ヴルッディ・プラヴァーハ सजातीय-
वृत्ति-प्रवाह(同じ種類の考えで構成された絶え間ない思考の流れ)」
という。
心の中で儀式をすることは、同じような「ヴルッティ वृत्ति(考え、マイン
ドの 1 フレーム)」をつくり続けること。これらの考えが 1 つのグループ
「ジャー
ティー जाती(グループ、塊)」として流れ、一連の思考の流れをつくり出す。
「プージャ पूज(儀式)」の動作という考えを 1 つ 1 つつくり続けて、1 つの思
考の流れが完成する。この流れは、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」に続
いている。それが、イメージ「プラティマ प्रतिम(像の対象)」への瞑想法であ
る。心の中で行う「プージャ पूज(儀式)」は、はっきりと心に「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」の象徴を思い浮かべる。それと関わる心の活動を「ディ
ヤーナン ध्यानम्(瞑想)」と呼ぶ。
視覚化した象徴に心をつなぐ
「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)」
『ヴェーダ(聖典)』が影響している文化圏では、事前に約束をしていないお
客さんは、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の化身として特に大切にされ
る。
「アティティ अतिथि(不意の客人)」と呼ばれるお客さんに対して最大のも
268
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
てなしをすることが「プンニャ पुण्य(徳)
」を招く行いとなるといわれるのだ。
्
家庭で毎日行われる「プージャ पूज(儀式)」は、お客さんを招くように「イーシュ
ヴァラ ईश्वर
(全体世界)」の象徴を招くようにして行われる。心の中でする
「マー
ナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)」も同じように、不意のお客さんとし
て、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の象徴をもてなす。
以下のステップが「プージャ(儀式)」の流れとなる。
【
「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)」の手順】
*各マントラの意味と解説は 11 章「マントラ मन्त्र」の章をご参照ください。
インドの家庭で行われる儀式のほぼすべてが、「アティティ अतिथि(不意の
客人)」をお迎えするステップで構成されている。迎え入れ、
坐る場所を準備し、
足を洗い、手を洗い、清潔な布や香りのよい花でもてなし、ごちそうを振る舞う。
そして最後にお帰りいただく、という流れとなる。
通常 “ 像 ” に対して行う場合は、サンスクリット語の「マントラ मन्त्र」を唱
えながら、花を捧る。
<「プージャ(儀式)」の流れ>
心の中に「イシュタ・デーヴァター इष्ट - देवता(自分好みの神の象徴、像)
」
を思い浮かべる。
その対象に向かって、
」をする。
1.花を捧げながら、「ナマスカーラ नमस्कार(敬礼)
2.祈りを捧げる。
自分の言葉で祈るのでもよいし、願いを告げるのもよい。
自分なりの誓いを告げるのでもよい。
269
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
< 11 ステップの「プージャ(儀式)」の前にする浄化と準備>
手順
マントラ
1
ランプをつける
―
2
花を添えながら
ディーパ ジョーティ パランブランマ
マントラを唱える
ディーパジョーティル ジャナールダナハ
ディーポー メー ハラトゥン パーパン
ディーパジョーティル ナモーストテー
「ブラフマン ब्रह्मन्」を象徴するランプを灯し、
この光が闇を取りのぞくように、私の「パーパ
पाप(不徳)」も取り除きますように。
3
アーチャマニーヤン
「アッチュターヤ ナマハ(終わることがない者
3 つのマントラを唱
へ)」
えながら、手のひら
「アナンターヤ ナマハ(限りのない者へ)」
にすくった水に 3 回
「ゴーヴィンダーヤ ナマハ(すべての生物を守
口をつけて、体と心
る者へ)」
を「プージャ(儀
私は心を開き、委ねます。
式)」のために浄化
する。
4
グルへの敬意を示す
गुरुब्रह्मा @_गुरुरर्विष्णु: @गुरुर्देवो @महेश्वर:
गुरुस्माक्षात् @परं @ब्रह्म @तस्मै @श्रीगुरवे @नम:
グル ブランマー グルヴィシュヌフ グルデー
ヴォー マへーシュヴァラ
グル サクシャーット パランブランマ タスマ
イ
シュリーグラヴェー ナマハ
270
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
5
ヴィグネーシュヴァラ
शुक्लाम्बरधरं विष्ण ुं शशिवर्णं चतुर्भुजाम्।
प्रसन्नवदनं ध्यायेत् सर्वविघ्नोपशान्तये॥
シュックラーンバラダラン ヴィシュヌン シャシヴァルナン チャトルブジャン
プラサンナバダナン ディヤーエット サルヴァヴィグナ ウパシャンタエ ॥
6
「プラーナーヤーマ
1.
प्राणायाम(呼吸法)」
<吸いながら唱える>
心を落ち着かせ、自
分を清めるために
「プラーナーヤーマ
प्राणायाम(呼吸法)」
を 1 セット行う。
ओं भू:। ओं भुव:। ओं सुव:। ओं मह:। ओं जन:। ओं तप:।
ओँ सत्यम्।
オーム ブー । オーム ブヴァハ । オーム ス
ヴァハ । オーム マハハ । オーム ジャナハ ।
オーム グン サッティヤン ।
2.左の鼻腔を薬指で閉じ、も親指で閉じたまま、
息を保持する。その間以下の「マントラ मन्त्र」
を唱える。
<保持する時に唱える>
ओं तत्सवितुर्वरेण्यम्। भर्गो देवस्य धीमहि। धियो
यो न: प्रचोदयात्॥
オーム タッサヴィトゥルヴァレーンヤン バルゴー デーヴァッシャ ディーマヒ
ディヨー ヨー ナ プラチョーダヤート
3.左の鼻腔を薬指で押さえたまま、右をふさい
でいた親指を離し、右から息を吐く。
<吐きながら唱える>
ओं आपो ज्योतीरसोऽमृतं भूर्भ्हुवस्सुवरोम्॥
オーム アーポー ジョーティー ラソー ブルタン ブールブヴァ スヴァローン
271
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
7
「サンカルパ
ममोपात्त समस्त दुरितक्षयद्वारा श्रीप्रमेश्वर (सङ्कल्प(誓い)」
प्रीत्यर्ठं देव पूज ं करिष्ये।
これから「プージャ
マモーパーッタ サマスタ (儀式)」をするこ
ドリタクシャヤ・ドヴァーラー とと、その意図を表
シュリーパラメーシュヴァラ 明する。
プリーティヤルタン デーヴァ・プージャン・カリッシェー
8
座る場所を清める
पृथ्वि त्वया धृता लोका: देवि त्वं विष्णुना マントラを唱えなが
धृता।
ら、右手に水をすく
त्वं च धारय मां देवि पवित्रं कुर ु चासनम्॥
い、その水を自分が
プルティヴィー ドルター ローカーハ 座る場所に撒き、
デーヴィ トヴァン ヴィシュヌナー ドルター
「プージャ(儀式)」
トヴァン チャ ダーラヤ マン デーヴィ をする大地を清め
パヴィットラン クル チャーサナン||
る。
9
10
空間を清める
आगमार्थ ं तु देवानां गमनार्थ ं तु रक्षसाम्।
右のマントラを唱え
कुर्वे घण्टारवं तत्र देवताह्वानलाञ्छनम्॥
ながら、ベルを鳴ら
アーガマルタ トゥ デーヴァーナーン し、音によって「プー
ガマナールタン トゥ ラクシャサーン
ジャ(儀式)」をす
クルヴェー ガンターラヴァン タットラ る空間を浄化する。
デーヴァター フヴァーラーチャナン
水を清める
ओम् गङ्गे च यमुन े चैव गोदावरि सरस्वति।
「プージャ(儀式)」
नर्मदे सिन्धु कावीरि जलेऽस्मिन् सन्निधिं कुरु॥
で使う水を浄化する。
オーム ガンゲー チャ ヤムネー チャイヴァ
ゴーダーヴァリー サラスヴァティー
ナルマデ― シンドゥ カーヴェーリ ジャレー
スミン サンニディン クル
272
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
11
自分に「プージャ(儀
देहो देवालय: प्रोक्त: जीवो देवस्सनातन:।
式)」をする
त्यजेदज्ञाननिर्माल्यं सोऽहं भावेन पूजयेत्॥
「プージャ(儀式)」
デーホー デーヴァーラヤ プロークタ を行う自分自身に敬
ジーヴォー デーヴァスサナータナ
意示す。この体は、
ティヤジェーダ ニャーナ ニルマールルヤン 神聖なお寺であると
ソーハン バーヴェーナ プージャイェー
いう意味のマントラ
を唱える。
以上の準備をして十分に清めてから、通常 16 のステップを踏む「プージャ(儀
式)」を行う。
<「プージャ(儀式)」16 のステップ>
手順
1
マントラ
お出迎えをすること
「アスミン ビンベー シュリー・デーヴァー
「アーヴァーハナン
ディヤーヤーミ」
आवाहनम्」
「アスミン ビンベー シュリー・デーヴァー
アーヴァーハヤーミ」
この場所に、私が委ねる対象の○○を招きます。
2
3
「アーサナ आसन
「アーサナン サマルパヤーミ」
(坐る座)」を用意する
座る場所が私によって捧げられます。
お客さんの足を洗う
「パーディヤン サマルパヤーミ」
「パーディヤン पाद्य
足を洗うお水を捧げます
(両足)」
4
手を洗う
「アールギャン サマルパヤーミ」
「アールギャ आर्घ्य
手を洗う水を捧げます。
(両手)」
273
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
5
心の浄化
「アーチャマニーヤン サマルパヤーミ」
「アーチャマニーヤン
心を浄化します。
आचमनीयं समर्पयामि」
6
飲み水を捧げる
「マドゥパルカン サマルパヤーミ」
「マドゥパルカン
मधुपर्कं」
7
体を洗う「スナーナ
「スーナーナン サマルパヤーミ」
ン सुनान(お風呂)」
「スナーナンタラン アーチャマニーヤン サマ
ルパヤーミ」
8
きれいな服を贈る「バ
「バストラン サマルパヤーミ」
ストラン वस्त(
्र 布)」
「ウパヴィータン サマルパヤーミ」
神聖な糸
「ウパヴィータン
उपदीतं」
9
飾りを施す
「アーヴァラナン サマルパヤーミ」
「アーヴァラナン
आभरण(飾り)」
10
良い香りのペースト
「ガンダーン ダーラヤーミ」
(ガンダーン)
「ガンダッシヨウパリ ハリドラーンクンクマン
サンダルウッドの香り
サマルパヤーミ」
パワーの象徴
「クンクム कुम्कुम् (赤い粉)」
11
お花を供える
「プシュパーニ पुषुप
(花)」
274
「プシュパーニ サマルパヤーミ」
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
12
お香を供える
「ドゥーパン サマルパヤーミ」
「ドゥーパ धूप 」
13
火ディーパ
「ディーパン サマルパヤーミ」
「दीप(ランプ)」
「ドゥーパンディーパンタラン アーチャマニー
ヤン サマルパヤーミ」
14
お食事、供物を捧げ
「ナイヴェーディヤン サマルパヤーミ」
る
1.プラーナーヤ ソヴァーハー
「ナイヴェーディヤン
2.アパーナーヤ ソヴァーハー
(食べ物)」
3.ヴャーナーヤ ソヴァーハー
体を巡る 5 つの「プ
4.ウダーナーヤ ソヴァーハー
ラーナ प्राण(力)」
5.サマーナーヤ ソヴァーハー
へそれぞれ捧げる。
6.ブランマネ ソヴァーハー
「ナイヴェーディヤン ニヴェーダヤーミ」
「ナイヴェーディヤンタラン アーチャマニーヤン サマルパヤーミ」
「タンブーラアルタン アクシャターン サマルパヤーミ」
15
「アラティ अरति」
「カルプーラ ニーラージャナン サンダルシャ
カンファーという熱
ヤーミ」
で溶ける燃料の一種
न तत्र सूर्यो भाति न चन्द्रतारकं।
に火を灯し、「マント
नेमा विद्युतो भान्ति कुतोऽयमग्नि:।
ラ मन्त्र」と共に儀式
तमेव भान्तमनुभाति सर्वं
の対象に明りを灯す。
तस्य भासा सर्वमिदं विभाति॥
ナ タットラ スーリョウ バーティ
ナ チャンドラターラカン
ネーマー ヴィッユトウ バーティ クトーヤマグニヒ
タメーヴァ バーンタン アヌバーティ サルヴァン
タッシャ バーサー サルヴァミダン ヴィバーティ
「アーチャマニーヤン サマルパヤーミ」
275
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
16
マントラ
「マントラプシュパン サマルパヤーミ」
花を捧げながら右の
マントラを唱える。
<過去の「パーパ पाप
<過去の「パーパ पाप(不徳)」を落とす>
(不徳)」を落とす>
यानि कानि च पापानि जन्मान्तरकृतानि च।
マントラを唱えなが
तानि तानि विनश्यन्ति प्रदक्षिणपदे पदे॥
ら、自分の体を中心
ヤーニ カーニ チャ パーパーニ に右回りに3回廻る。
ジャンマーンタラ そのことが自分を清
クルターニ チャ
め、自分に対する
ターニ ターニ ヴィナッシャンティ プラダク
巡礼となり、過去
シナ
の「パーパ पाप(不
パデー パデー
徳)」を落とすことに
なる。
「ナマスカーラ
「プラダクシナー ナマスカーラン サマルパ
नमस्कार」最大限の敬
ヤーミ」
意を示すための動作
「マントラヒーナン クリヤーヒーナン バク
(お辞儀、五体投地)
ティヒーナン
を祈りの言葉と共に
マヘーシュヴァラ
捧げる
ヤップージタン マヤーデヴァ パリプールナン
マントラを唱え、
タダストゥテー」
「プージャ(儀式)」
を終える。
マントラの間違い
「アスマーッド ビンバーット アーヴァーヒタ
や、「プージャ(儀
ン シュリーデーヴァー ヤタースターナン プ
式)」の不手際などを
ラティスターパヤーミ」
許してもらうマント
ラを唱える。
276
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
「プージャ(儀式)」
「カーエーナ ヴァーチャ をしている場所に招
マナセーンドリヤルヴァー
いたように、元の場
ブッディヤートマナー ヴァー 所にここからお帰り
プラクルテーソヴァバーバ ください、というマ
カローミ ヤドヤット サカラン パラスマイ ントラを唱えて送り
ナーラーヤナイェーティ サマルパヤーミ」
だす。
「体、言葉、心を
使ったすべての行い
を「イーシュヴァラ
ईश्वर(全体世界)」
に捧げるためにしま
す。これで「プージャ
(儀式)」を終わりに
します」。
という内容の右のマ
ントラを唱え、「プー
ジャ(儀式)」を終え
る。
まるでだれか、特別なお客さんが不意に訪れた時のように、自分が心を繋ご
うとする全体世界の象徴を手厚くトリートするのが、「プージャ(儀式)」。形式
はなじみがないマントラや動作がはいるので難しく感じるが、大事なのは形式
より態度である。
5 つの要素を捧げ、祈りの言葉を唱えながら、自分の心の奥にある思いを汲
みあげる作業が「プージャ(儀式)」である。それを頭の中だけで行うのは、
瞑想の際にする「プージャ(儀式)」は、心の中だけで行う「マーナサ・プー
ジャ मानस-पूज(心で行う儀式)」であるからかなりの集中力が必要とされるし、
初めは難しいことだと思われる。
瞑想でする「プージャ(儀式)」は困難だが、私たちは普段の生活の中で体を
使って、実際に小さな「プージャ(儀式)」をすることができる。全体世界の象
277
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
徴にアクセスする行いをすることはできる。毎日自分は全体とつながっている
ことを自覚するためにも「プージャ(儀式)」をするメリットはある。
日本でできる簡単な「プージャ(儀式)」は、祭壇をつくり、「火」をいれた
ランプを灯す。水とベルを用意して、「空・風・水」の要素で場を清め、「地」
の要素である香りと、食べ物を供える。あとは、いくつかの「マントラ मन्त्र」
と祈りの言葉を唱えることで充分「プージャ(儀式)」となりえる。
体を動かして行う「プージャ(儀式)」も、心の中だけでする「マーナサ・プージャ
」を積む行いとなる。
मानस-पूज(心で行う儀式)」も、特別な「プンニャ पुण्य्(徳)
以上が、
「プラティマ प्रतिम(像の対象)」に心をつなげるタイプの瞑想法である。
「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)」で得られる 2 つ
のメリット
1 つは、実際に心の中で「捧げる」という行いと言葉によって、より深く全
体とのつながりを実感できる。祈りは、行いを伴うことで、より大きな効果を
もたらすことができる。祈るだけではなく、「プージャ(儀式)」という積極的
なアクションをプラスすることで祈り自体の力が増す。
また形式をともなった “ 行い ” によって、願いが成就するパワーが加速する。
それによって、“ 全体とつながる “ 個 ”” がよりリアルになり、つながりが強化
される。繋りが強化されることで、私たちの内側に巣食う「イーシュヴァラ
ईश्वर(全体世界)」と離れていると感じる恐れ、不安、孤独感が解消される。
メリットの 2 つ目は、「アヴァーンタラ・パラ अवान्तर-फल(集中力を得る
こと)」ができることである。
像のイメージを浮かべながら、同時に供物と言葉を捧げる動作を心の中だけ
で行うことは、一定の集中力が要求される。この瞑想の練習で獲得された集中
力によって、より深い瞑想をするための基礎つくりができる。
そしてさらなるメリットとしては、音と共に、対象を視覚化する事で、創造
力が高まることである。
278
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
10.「プラティーカ प्रतीक(音の対象)」への瞑想
これは、
「マントラ मन्त्र」を唱える「ジャパ जप(マントラ瞑想)」と呼ばれ
ている。客観的に物事を意識する “ 素の自分「ディヤーター
”
」
ध्याता(瞑想する人)
が、
「マントラ मन्त्र」を心の中で唱え続ける。認識が起こる場所に、「マントラ
「プラティーカ प्रतीक(音
मन्त्र」をしっかりと定めて、斉唱を繰り返す。これが、
の対象)」に向けて心を活動させる瞑想となる。「ジャパ जप(マントラ瞑想)」
については詳しくは次章で展開するが、簡単に手順を見ていこう。
「プラティーカ प्रतीक(音の対象)」への瞑想
=「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の手順
① マントラを置く場所を決める。
頭の中で簡単な計算をし、答えがでてきているところが、普段私たちが
思考し、知覚する場所である。その場所を、「マントラ मन्त्र」を置く中
心とする。
② 決めた場所で「マントラ मन्त्र」を繰り返し唱える。
「マントラ मन्त्र」を唱える事、斉唱することは、インドでは英語表現を
使って “chanting チャンティング ” といわれる。
「ジャパ जप(マントラ
瞑想)」を唱えることは、「マントラ・チャンティング」といわれること
が多い。
③ できれば「マントラ मन्त्र」を 108 回唱える。
難しければ、27 回(どちらも吉兆な数とされる)
。最初は 10 分間、と
時間を決めた方がやりやすいかもしれない。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」で肝心なことは、
「マントラ मन्त्र」を唱
えながら、しっかり心の動きをとらえること。もし心がマントラから離
れてしまったら、元の場所に連れ戻す。その場所で「マントラ मन्त्र」
279
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
を繰り返す作業を続ける。たとえ、心が「マントラ मन्त्र」から離れて
しまっても、必ず「マントラ मन्त्र」を連れて、初めにこの場所に帰っ
てくること。これが “ 意志でできる瞑想 ” である。
④ 瞑想を深めるために「マントラ मन्त्र」と「マントラ मन्त्र」の間に起
こる “ 沈黙 ” に集中する。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の際に、「マントラ मन्त्र」と「マントラ
मन्त्र」の間に は “ 沈黙、静寂 ” が起こる。この沈黙は、どんな考えも映
していない。マントラからも、考えからも自由な完全に静かな瞬間があ
る。この静寂をみることによって、解ることがある。それは、マントラ
という考えの間に静寂があるのではないということ。むしろ静寂が初め
からベースとしてあって、そこにマントラという形の考えが置かれてい
る。初めに沈黙があって、そこに思考がつくり出されていることを認識
する。
そして、聖典は “ この静寂こそが、自分自身の真実を物語っている ” と
いう。私たちの事実は、「完全な存在であり、知・認識の源であり、あ
まねく広がるものである。どんな考えにも縛られない、絶対的な静寂が
自分に初めから満ちている、ということを知ること。それが “ 存在 ” の
意味であり、“ 自由 ” である。
⑤ マントラの間にある “ 静寂 ” を観る自分が、
「マントラ मन्तर् 」
を唱える。
沈黙を観ている自分が「マントラ मन्त्र」を唱える。マントラとマント
ラの間の静寂を観察し、静寂を観ている存在が、次のマントラを唱える。
この作業を続けることで、瞑想は深まる。
一定の回数マントラを唱えたら、一度完全に唱える事をやめてみる。し
ばらくしてまた一定回数唱える。何度か “ 唱えて、やめる。そしてまた、
唱える ” というラウンドを繰り返す。
このテクニックによって、“ 意志を使って考え、つまり行いをする自分
の中心 ” と “ 意志や考えに染まらず、考えを支えている意識であり “ 知・
280
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
認識の源 ” である自分自身 ” の区別をはっきりと見極める。マントラを
繰り返しながら、間に起こる静寂を観る。そうして、自分自身の本質と
は、考えや意志すら支えている、認識の源であることを実感するのだ。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」によって “ 自分自身の真実の姿 ” とは何なのか?
思考か? 静寂か? そのどちらが自分自身の事実を明かしているのだろう?
私の本質とは “ 静寂 ” である。この静かなベースのうえだけに、考えが起こっ
ているのだ。これを理解させる「ジャパ जप(マントラ瞑想)」は、自分自身の
事実を実感するための大事なメソッドとなる。
11.
「マントラ」の威力
よく人々が口にする「マントラ मन्त्र」の威力。しかしそれは、
「マントラ
मन्त्र」自体にあるわけでも、マントラをもつことにあるのでもない。ましてや、
だれか信頼できる人に「マントラ मन्त्र」を授けてもらう「マントラ・ディーク
シャー मन्त्र-दीक्षा(マントラを授かる儀式)」によって威力が伝授されるわけ
ではない。
「マントラ मन्त्र」は、それを “ 唱えること ” によってのみ威力が発揮される
ことになる。“ 唱えるために “ 使わなかったら、
「マントラ मन्त्र」は意味がない。
「マントラ मन्त्र」は道具だ。使う者によって、潜在している威力を発揮するこ
とができる道具なのだ。いいかえれば、私たちの真摯な態度と信頼が、マント
ラに威力を持たすことになる。
「
『ジャパ जप(マントラ瞑想)』は、同じ言葉を繰り返しているだけでつまん
ないなぁ~。そんなメカニカルな単純作業が効くなんて思えんよ」。という人も
いるだろう。
同じ「マントラ मन्त्र」を繰り返し唱える事。初めは、変化のない繰り返しを
「単純だ、メカニカルだ」と思って、抵抗するかもしれないが、実は 1 つのター
ゲットに心の流れを繋いでおくことは難しいのだ。注意深さと鋭い観察スキル
281
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
が要求される。
それ故、同じ「マントラ मन्त्र」の繰り返しはメカニカルにはならない。心を
野放しにして自由に遊ばせている方が、よっぽどメカニカルなのだ。なぜなら
心は、脆く緩やかなつながりでどこまでも方向性なく、それこそメカニカルに、
流れていく習性があるからだ。
「同じ音、同じ言葉」を意図的に唱え続ける、という意識的な心の活動に従事
することで、だらだらつながりあい、流れゆく考えの動きを矯正することいく
ことができる。そのことの方が心にとっては変化であり、チャレンジである。
「心に意識的な活動をさせること」が瞑想である。今、この瞬間にしている作
業に意識をおくこと。という作業が「ジャパ जप(マントラ瞑想)」であり、そ
れはけして単調な作業などではない。
「マントラ मन्त्र」を繰り返すことによって、私たちは「予測不能な動きをす
る心を、予測可能なものにする」という大きなチャレンジに挑んでいる。「繰り
返し続けること」それが、心の動きを予測可能なものとする。この作業が心を
扱うことになる。心を自分の意志の内に治める、ということになるのだ。
それでも、もし「『マントラ मन्त्र』をリピートするだけの瞑想なんて、単純
作業だ」
。というのなら、実際やってみるといい。マントラをたった 20 回繰り
返すことが、自分に対してどれだけ挑戦か!!きっと実感することができる。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」では、「マントラ मन्त्र」を唱えることで、心に
ある「ヴルッティ वृत्ति(考え、マインドの 1 フレーム)
」をつくり続けること
が、どれほど意志と根気のいる作業かが解る。マントラを繰り返す途中で、きっ
と心は動き回りたがる。なぜならそれが心の習性だからだ。あなたが意図しな
くても心は勝手に「マントラ मन्त्र」から離れる。それは当然だし、自然なこと
だ。“ 動きまわる ” という心の自然な習性を意志によって、離れた心を「マント
ラ मन्त्र」に再び連れ戻すことこそが瞑想である。意志と努力と注意深さによっ
て、単純作業にみえることが瞑想になるのだ。“ 心を 1 つの方向に流し続ける。
そこから離れたら、必ず意志の力で心を元の場所に連れ戻す ” こと。これが瞑
想なのだ。
それが自然にできるようになった時、私たちは自分の心を扱えるようになる。
道具として。最高の友として私は自分がイニシアティブをもって心を使うこと
282
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
ができるようになる。
もう心に翻弄されない。
思いや感情に踊らされたりしない。
自分の心を苦もなく操れるようになった時、私たちは注意深さと意志の力に
支えられた確固たる落ち着きと客観性という瞑想の質を得ることができる。そ
の時、深い瞑想は自然に起こるのである。
聖典に基づく「リアリティ瞑想」で重きが置かれているのは、像やイメージ
に瞑想をする「マーナサ・プージャ मानस-पूज(心で行う儀式)
」よりもむしろ「ジャ
パ जप(マントラ瞑想)」である。次の章では、「ジャパ जप(マントラ瞑想)」に
フォーカスして、その意味や方法の詳細をみていこう。
283
第 6 章 Yoga 的瞑想の方法と準備とは?
284
第7章
Yoga 的瞑想「ジャパ」を始めよう
< マントラ瞑想 >
285
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
यञ्जानां जपयञ्जोऽस्मि
あらゆる Yoga のテクニック、儀式の中でも、もっとも際立っているの
が「ジャパ जप(マントラ瞑想)」である。この世界に、私は「ジャパ
जप」のもつ力として現れている。
『バガヴァッドギーター』10 章 24
「リアリティ瞑想」は最終的に「ジャパ
जप(マントラ瞑想)」という伝統的
な瞑想のテクニックに至る。先の章では、「ジャパ
जप(マントラ瞑想)」につ
いて簡単な手順を見ていったが、この章で改めて、意味、効果、注意点などを
確認していこう。
1.「ジャパ(マントラ瞑想)」の意味
「ジャパ
जप」とは、「マントラ मन्त्र」という音のつながりを繰り返し唱える
瞑想法である。
「ज ジャ」とは、「生と死のサイクル、輪廻を断ち切る」という
意味をもつ音であり、「प パ」とは、「あらゆる不浄と無知を破壊する」という
意味を含む音である。
ちなみに「マントラ मन्त्र」は、 「マン मन्(考える)」「トラ त्र/त्रै(守る、道
具)
」という意味を含む音で構成されている。心の道具、
考える機能を守るもの、
それが「マントラ मन्त्र」である。
「ジャパ
जप(マントラ瞑想)」は、Yoga 的な悟り「モークシャ(悟り、究極
の自由)」へつながる間接的なメソッドとなる。「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」
の障害となるのは、一言でいえば、「無知」である。
何についての無知か?「自分が無知なことなんて、わざわざいわれなくても
わかってるよ!」といいたいところだが、聖典は、全人間共通の誰もがもつ無知、
苦悩の原因となる無知があるという。それは、“自分自身と世界の真実に対する、
286
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
絶対的な無知 ” である。普段は、この “ 無知 ” の上に、
“ 不浄 ” と称される極めて “ 個
人的で主観的な物の見方 ”、つまり “ ひとりよがり ” を上乗せして物事をみてい
る。無力の上に重ねられた偏見や間違った物の見方から、私たちは不安や恐れ、
苦悩という一連の問題をつくりだしている。
これらを取り除けるのは、無知と反対にある “ 知恵、知識 ” である。知識を理
解するということは、『ヴェーダ(聖典)』的にいえば、“ 無知という暗闇に、光
を照らすこと。” 光のあるところに、闇は存在できない。同じように、真実の知
識を理解している場所に、無知はない。私たちは知識によって、あらゆる問題
の根源である無知を取りのぞく。無知がなければ、恐れがない。恐れのないと
ころに苦悩はない。『ヴェーダ(聖典)』の知識を理解することは、
あらゆる苦悩、
問題からの自由を意味している。
「サムサーラ सम्सार(生と死、
苦悩の繰り返し)
」
を越える知恵、問題の根源を根こそぎ断つ知識、それが、
『ヴェーダ(聖典)
』のエッ
センス『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)
』である。
そして、自分自身の事実を理解した者が、再び無知に戻り苦悩を重ねること
はない。輪廻を断ち切る知識を知る者は、二度と「サムサーラ सम्सार(生と死、
苦悩の繰り返し)」の世界には戻らない。真実を知ることは輪廻の終焉を意味す
る。
この知識の理解に至るためには、心を相応に準備しなければならない。磨か
れた鏡にのみ、光はまっすぐに反射し、ありのままの事実を映し出すことがで
きる。波が収まり、落ち着いた静かな湖の側面にだけ、空や山や周りの世界が
歪められずに映し出される。
『ヴェーダ(聖典)』のエッセンス「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)
」
の知識は、自分自身と世界のありのままの事実を教える知識である。葛藤やプ
レッシャーで心が騒いで落ち着かず、欲望にかき乱された心には、ありのまま
の事実は映らない。
幾つもの石が投げ込まれ、コケや水草で埋め尽くされた湖の水面は、山や空
をそのまま映すことができないように。ほこりやシミの付いた鏡には、世界が
歪んで映りこんでしまうように。
だから私たちは、ありのままの世界を映すために、静かに水を湛えた湖のよ
うな落ち着きと静寂に澄み渡った心を準備する必要がある。この心を準備する
287
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
ことが、瞑想をすることの意味である。
「アンタッカラナ ・ シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心の浄化)
」
「アンタッカラナ・ナイシチャルヤ अन्त:करण नैश्चल्य(心を定めること)
」
そのための効果的な方法が、「ジャパ जप(マントラ瞑想)」である。Yoga の
経典はいう。「ジャパ जप(マントラ瞑想)」は 「モークシャ मोक्ष( 悟り・自由 )」
の基礎を築く。
その意味からすれば、
単なる自己規律やテクニックを越えている。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の種類
「ジャパ जप」とは、1 つの「マントラ मन्त्र」を繰り返し唱える瞑想である。
「マ
ントラ मन्त्र」を繰り返し唱える「ジャパ जप」には “ どんな風に唱えるか ” によっ
て以下 4 つにわかれる。
1.「ウッチャジャパ उच्च-जप」
…大きい声で「マントラ मन्त्र」を唱える事
2.「マンダジャパ मन्द-जप」
…自分と、自分の周りにいる人が聞こえる程度の声唱えること
3.「ウパーンシュジャパ उपांश-ु जप」
…自分だけに聞こえる声で唱える
4.「マーナサジャパ मानस-जप」
…声に出さず心の中で唱える
私たちは瞑想において、“「マントラ मन्त्र」を繰り返す ”「ジャパ जप」とい
うテクニックを使うわけであるから、「マーナサジャパ मानस-जप」をする。瞑
想の定義に従えば、瞑想とは「マーナサ・ヴャーパーラハ मानस व्यापार:।(心
の活動)」である。ゆえに、瞑想でする「ジャパ जप(マントラ瞑想)」はあくま
でも心の中で唱える事。
288
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」は一見 “ 同じ言葉を繰り返す ” という単純な手
法にみえるが、実は我々の心の奥深いところまで届く微細なテクニックである。
“ マントラを繰り返す ” というシンプルな方法であるために、だれもがガイド
なしに、簡単に取り組めるようにみえる。それゆえ解釈や方法、意味において
曖昧になりやすい点もある。
また、一般的に流布している「マントラ瞑想」の中には、正誤確認を経典と
しておらず、一個人のヒラメキやアイディアが伝えられ、多くの人に流れてい
る事も少なからずある。次のセクションからは、あえて聖典のビジョンと伝統
に忠実に従った「ジャパ जप(マントラ瞑想)」における注意点をみていこう。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の注意点
注意 1:
瞑想として行う「ジャパ जप(マントラ瞑想)」は声にださず、心の中で
だけマントラを唱える事。
注意 2:
「マントラ मन्त्र」を呼吸に合わせないこと。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」においては、
「マントラ मन्त्र」を唱える時、
呼吸に合わせる必要は全くない。むしろマントラを唱えることと、呼吸
を合わせてはいけない。本来、瞑想は呼吸とは無関係である。呼吸は「プ
ラーナーヤーマ प्राणायाम(呼吸法)」という別のテクニックで行うべき
こと。2 つの異なる方法論をミックスさせないこと。あくまでも「マン
トラ मन्त्र」にのみ集中するのが「ジャパ जप(マントラ瞑想)
」の正し
く伝統的な行い方である。
注意 3:
「マントラ मन्त्र」を唱えている間、関連する像や形を頭でイメージする
289
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
必要はない。
誤解している人も多いが、「ジャパ जप(マントラ瞑想)
」は純粋に、
「マ
ントラ मन्त्र」という音を使う瞑想法である。私たちがもつ “ 考え ” とい
う道具のメカニズムでは、同時に 2 つの事をオペレートできない。それ
でも、考えの動きは瞬間的「クシャニカ क्षणिक(瞬間的)
」であるから、
まるで “ イメージと音 ” の両方を頭に起こすことができるように感じる。
が、実際は違う。瞑想の対象が “ イメージと音 ” では、考えを使う場所
も違えば、オペレーションの行程において全く違う作業になる。伝統的
な方法によれば、この 2 つは混ぜるべきものではない。
瞑想において、イメージの対象は前の章でもみたとおり、
「プラティマ
「ジャパ जप(マ
प्रतिम(像の対象)」という。その対象に瞑想するのは、
ントラ瞑想)」とは違う方法論に基づいている。別のタイプの瞑想とし
て確立しているのだ。
<「プラティマ प्रतिम(像の対象)」への瞑想>
自分の好みのイメージに心をつなぎとめる瞑想法を、「イーシュタ・デーヴァ
ター・ディヤーナン ईष्ट-देवता ध्यानम्(好みの像を対象にした瞑想)
」という。
「イ
シュタ・デーヴァター इष्ट-देवता i 自分好みの神の象徴、像)
」を 1 つ選択し、そ
の像に対して心の中で「プージャ पूज(儀式)」をする。そのことを、
「マーナサ・
プージャ मानस पूज(心でする儀式、イメージの対する瞑想)」という。それは、
通常「ジャパ जप(マントラ瞑想)」にはいる前に、心の儀式として行う事になっ
ている。
「ジャパ जप
(マントラ瞑想)」は音の対象に集中すること。
「プラティマ प्रतिम
(像
の対象)」は、イメージを対象にした瞑想法。この 2 つを同時に行う事はできな
い。タイプの違う瞑想法を混ぜこぜにしないこと。異なる方法論を混ぜ合わせ
ることで、本来得られるはずの「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の効果が十分に
得られなくなってしまう。
290
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
2.瞑想の対象を決める:音かイメージか?
音の対象(意味のある音、名前や文)=「プラティーカ प्रतीक(音の対象)
」
例:
「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」
「オーム・イーシャーヤ・ナマハ ओम् ईशाय नम:」
「マントラ मन्त्र」はすべて、音の対象となる。
イメージ、像の対象(形や絵、像、模様など)=「プラティマ प्रतिम(像の対象)
」
例:イメージや石造、お寺のご神体などはすべて
「プラティマ प्रतिम(像の対象)」と呼ばれる。
たとえば以下にあげるものが、
「プラティマ प्रतिम(像の対象)
」と「プラティー
カ प्रतीक(音の対象)」の例である。
「プラティーカ प्रतीक(音の対象)」: 「プラティーカ प्रतीक(音の対象)
」
:
「サラスヴァティー सरस्वती
「ラクシュミー लक्षुमी
(知の法則の象徴)」
(豊かさの象徴)
」
「プラティマ प्रतिम(像の対象)」:
「プラティマ प्रतिम(像の対象)
」
:
291
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
「イシュタ ・ デーヴァター इष्ट - देवता(自分好みの神の象徴、像)」
というコンセプト
『ヴェーダ(聖典)』の世界観では、世界に現れたすべてのものは「名前(音)
と形(イメージ)」という 2 つの特徴をもっている。たとえば、
この世界は「イー
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」という音(名前)で表現されるが、
同時に創造、
維持、収束というサイクルを表すヴィジュアルイメージもある。
また「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」という 1 つの世界を様々なアスペ
クトで見た時、どのポイントからクローズアップするか? という見方によって
同じ「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」がそれぞれ別の名前で呼ばれること
がある。この名前という音の表現が「マントラ मन्त्र」といわれている。それぞ
れの名前には、音にあったイメージもある。
シヴァ शिव たとえば、「シヴァ शिव」という音は、「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」を「1 つに収束させる力、
原因の状態に戻す力」という観点から観た時に、呼
ばれる名前である。「シヴァ शिव」という音が喚起す
るイメージは、左のようなイメージとなる。
「収束させる力」は、別名「破壊の力」
。それは、
“ けして後には戻れない ”、という意味も含んでいる
ので、「シヴァ शिव」は別名「時間を司る者」とも呼
ばれている。それだけではく、
「シヴァ शिव」という
「ガネーシャ गनेश」 音自体には、“ 祝福・吉兆 ” の響きも含まれる。Yoga
の道を歩む者にとっては、「シヴァ शिव」は「ヨーガ
यग」を治める者、教え諭す者、としての意味もある。
同じように「ガネーシャ गनेश」という音は、「障
害を取り除き、道を開く力と法則」である。あらゆ
る困難と障害を取りのぞく力の象徴として、長い鼻
を駆使して目の前の障害をなぎ倒し、まっ直ぐ目的
に向かって進む象の姿で表現されている。
292
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
『ヴェーダ(聖典)』の教えでは、この世界は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体
世界)
」によって現され、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」が現れている。
他宗教にみられるような “ 一神教 ” とも “ 多神教 ” とも違う。「神は 1 つではな
い。神は沢山いるわけでもない。すべてが神なのだ」
。それが
『ヴェーダ
(聖典)
』
のコスモロジーだ。
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」は自らが、宇宙を運行させる法則と秩序
そのものとして現れている。世界は全体として 1 つの法則で動いているが、細
部を維持する沢山の法則の連なりによって構成されている。たとえば、全体と
しての宇宙は 1 つだが、そこには無数の恒星があり、惑星があり、太陽、月、
地球がある。それぞれの星にも法則がある。
地球も 1 つの惑星として宇宙の中にある。地球の動きも、宇宙全体を維持す
る法則と秩序で動いている。そこには空、風、火、水、地という 5 つの要素
があり、循環させる力や、リズムや流れをつくる法など幾つもの法則と秩序が
細部にまで行き渡っている。そうして、多様性に富む宇宙が維持されている。
『ヴェーダ(聖典)』の宇宙観では、これら細部を維持する法則にもそれぞれ名
前があり、イメージがある。だから、“ ヒンドゥー教には、2000 以上の神々が
いる! ” というアイディアになって広まっているのだ。ちなみにもともと、ヒ
ンドゥー教という 1 つの宗教はない。『ヴェーダ(聖典)
』をベースにしていた
文化と生き方がある、といった方が正しいだろう。
瞑想の対象を選択することにおいては、多彩な「名前とイメージ」の中から、
私たちは好きなものを選べる自由がある。すべて最終的には 1 つの「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」につながっているのだから、象徴する像や名前は何
を選んでも構わないとされているのだ。
人間には、それぞれ “ 好みや趣向 ” があり、自由意志もある。意志を行使して
選べる自由もある。儀式や祈りや信仰も、その人が最終的に真実を理解し、苦
悩を手放すことに至ることができるのならば、何を選んでもよいとされる。
そう、人間は自由であるべきであるのだ。それがたとえ宗教でも、スピリチュ
アルな探求であったとしても。…なんというか、とても余裕なのだ。『ヴェーダ
(聖典)』は 1 つの像や名前や、コンセプトに人を縛り付けたりしないのである。
ところで、その『ヴェーダ(聖典)』にいわせると、
人が生きる目的はただ 1 つ。
293
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
はっきりとした、生きるためのゴール、そのための方法が確立している。自分
と世界の本質はただ 1 つである。という事実に気がつくことが最終的に生きる
目的である。基本的に、その目的のために手段は何を選ぼうとその人の自由意
志に任されている。
瞑想においても、心をつなげることができ、肝心なことが理解できるのなら
ば、対象は何でもよいとされる。紙でも写真でも、石でも、山でも、川でも、
幾何学模様でも構わない。
世界に心を開こうとしている人を、限定された 1 つの名前や形、1 つの教義
に縛りつけたりしない。教義や像や「マントラ मन्त्र」を押しつける事もない。
どの入口からはいってもいい。人それぞれに好みやテイストがあるのだから、
好きなこと、やりやすい事から始めていって、最終的に究極を目指せばいい。
すべての生物が望み、狙う方向はただ 1 つ。それが、自分自身の真実を知る
こと。真実を理解して、自分の思いや偏見、主観、苦悩や過去に積んだ「カル
マ कर्म(行い)
」から解放され、自由になること。自分自身とは、幸せ・安心・
自由の意味であることを知ること。自分自身に納得し、完全に受け入れること。
そして、今この瞬間にも、「それでいい!すべて完璧だ!」と胸を張って堂々と
いえること。恐れも、緊張も、迷いもない。今ここで自由になること。これが
ただ 1 つの目的なのだから、それぞれ好きなところ、入りやすいところから始
めればよい。
『ヴェーダ(聖典)』は人に選択する楽しみと、ゆとりを自由と共に与えている。
スピリチュアルな探求も生きる事も、瞑想も、儀式も一定基準はあるが、基本
的には好きなようにすればよい。だから、瞑想の「マントラ मन्त्र」もイメージ
も、自分の好みで選んでよい。これが懐の深い「イシュタ ・ デーヴァター इष्ट
- देवता(自分好みの神の象徴、像)」というコンセプトになっている。
3.マインド(心)と考えのパターン
私たちの考えは、次から次に変化する。1 つの考えから次の考えへ、とめど
なく移り変わる。そう、よく例えられるがまるで “ 元気いっぱいの猿 ” のように。
294
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
次から次に脈絡なく、木の枝から枝へジャンプして移り変わる。私の心に映し
出される考えもまるで、
ウキッキキキー!と飛び回る猿のよう。
全く予測不能…。
おそらく心が変わっていくきっかけは、リズムであったり、音であったり、
内容の関連性であったり、そこにはマインド(心)の独自のロジックがあるに
違いない。いずれにせよ、私たちにとって心の動きは予測不可能。マインドの
中には “ 考えるリスト ” もなければ、方向性もない。それがマインド(心)のも
つ性質である。
考えのパターン
私たちの心は、常に動いている。たとえばこんな風に。この本を読んでいる
途中、風が吹いてきた。ページが風で捲られる。
窓を閉めようとしてふと外へ目を向ける。家の前に見かけない車が停まって
いる。外車らしい。
「あれ? なんでこんな込みはいった住宅地に外車が? ドイツの車かな? 」
「どっかでみたことあるけど、名前が思い出せないや」「いやそれより、なぜ外
車が? なんだろう? 私に会いに来てるのかな? そんなわけないな」
「それより
あの車種はなんだっけ…」「そういえば、同級生だったOOOが乗っていたんだ
よな~」
「OOOって、去年までドイツにいたらしいよな」
「今どうしているかな?
」
「OOOとは、よく一緒にあそこの蕎麦屋にいったな」。「今度また一緒にいこ
う。ところでまだやってるのかな、あの蕎麦屋」
「ドイツにはさすがにないだろ、
蕎麦屋」
「ドイツといったらザワ―クラフトかな? 酸っぱいキャベツ」
「そうだ、
ランチはキャベツの炒め物でも作ろうかな~。おっと、調味料あったけ? 」
「ゴ
マ油が、たしかどこかにあったようなー」「んー、そういえば、お腹すいたな」
「朝ごはん何食べたっけ? 」…と、このように考えはとめどなく続く。
何かを見て、聞いて、知覚しただけで、考えのつながりは瞬時に起こる。瞑
想の本を読んでいたはずなのに、車をみて、同級生から蕎麦屋、そしてあるか
ないかわからない調味料、曖昧な記憶の中の朝ごはん、そんな所まで行きつい
ている…。考えには、まったく脈絡がない。1 つの考えから、次の考えへ、短
絡的で、深い意味がないままにつながりあい、流れるように動き続ける。
295
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
私たちの考えという機能は、同時に沢山の事を考えているようだが、実は一
度に 1 つの事だけを認識することができる。映画のように、1つのフレームに
ただ 1 つの考えが映る。映画は、1 秒に 16 のフレームが映り変わることで、ま
るでなめらかな動きをみせる。考えも、1 フレームには 1 つの考えだが、1 秒
間に沢山のフレームが移り変わることで、まるで考えが流れているようにみえ
るのだ。
この考えの 1 つ 1 つのフレームを、「ヴルッティ वृत्ति(考え、マインドの 1
フレーム)
」という。私たちは瞬時に膨大な量のフレームを生みだすことができ
る。1 つ 1 つの考えがつながり、まるで、流れているようにみえる、
考えの流れは、
無数のフレームで構成されている。
それでも一瞬一瞬の考えは、1 つのフレームに映るただ 1 つの考えにすぎな
い。1 つのフレームに映るものを、それぞれ 1 つの考えとして、私たちは物事
を認識しているのだ。
だらだらと流れているような考えだが、実に膨大な量の “ 考えのフレーム ” が
私たちの中では処理されていることになる。ホスト・コンピューターのように
総合的に機能する心のなかで、もの凄い速さでフレームが、移り変わり、処理
される。だから私たちは、まるでいろいろな考えを同時にしているような気分
になっている。瞑想をしながら雑念とか、音と形の対象を同時に思い浮かべた
り、
「マントラ मन्त्र」を呼吸に合わせたりできるような気がしている。しかし、
基本は一度に1フレームずつ、考えが処理されている。
この 1 つ 1 つのフレームに映る考えたちは、お互いに何か脆いつながりで関
わりあっている。そして、そのつながりが流れをつくり出す。考えと考えのつ
ながりは統語論的なシンプルな音やリズムの関わりあいかもしれないが、マイ
ンド独自のロジックによるという。今この瞬間の考えのフレームは、マインド
独自のやり方で繋いだ次の考えのフレームとつながる。しかし、このつながり
のメカニズムは私には予測不能。何がどういう切っ掛けでつながっているのか
よくわからない。だから、考えの流れを追おうとして、つながりの意味をみよ
うするが、考えの流れには一定の方向性はないようにみえるのだ。どこに向かっ
て、どう流れているのか? それは、私たちの理解を越えている。ただはっきり
しているのは、心は考えを次から次に浮かべることができるということだけ。
それがマインドのもつ性質である。考えの流れは、私たちに予測がつかないか
296
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
ら、心を自分の手の内に治めるのは難しいといわれる。
メカニズムが完全に理解できないものを扱うのは困難である。それ故、ある
程度のテクニックが必要とされる。「ジャパ जप(マントラ瞑想)」のテクニック
も、考えのメカニズムを暴くためにあるのではない。予測不能の心を扱うため
の 1 つのテクニックにすぎないのだ。ポイントは、予測不能な心のメカニズム
を理解することではなく、理解不能なものでも、特徴と性質をとらえて、どう
扱えばマスターできるのか? ということにある。
心は自然に動く。流れ、高速回転する。この考えの性質をとらえて、
瞑想をし、
心を自分の道具としてマスターすることを目指している。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」のテクニックとは、動き続ける心に、1 つのオ
ペレーションを与えること。「マントラ मन्त्र」を唱え続けるという命題を心に
課し、“ マントラという音 ” という 1 つの考えのフレームを意図的に起こす。1
つの「マントラ मन्त्र」を唱える、ということは “ マントラに染まった考えのフレー
ム ” が 1 つ出来上がるということ。まるで写真のように、
私たちの “ 知・認識の源 ”
というベースの上に “ マントラという音 ” という考えが映る。
“ マントラの音 ” という 1 つのフレームを作ったら、次もまったく同じ “ マン
トラの音 ” というフレームをつくる。マントラを唱える事で、新しい “ マントラ
が映る考えのフレーム ” を作る。マントラを唱え続けることで、
“ マントラ・フレー
ム ” をつくり続ける。そうして 1 つ 1 つの “ マントラ・フレーム ” がつながりあっ
て、まるで映画のように 1 つのマントラが映る考えたちが流れだす。同じマン
トラのフレームをつくり続けていくことで、私たちは予測不可の心の動きを人
工的に “ 予測可能 ” なものにする。そうやって、心の動きを治めようとしている
のだ
「ジャパ जप」の肝心なポイントは、選んだ 1 つの音や文をとにかく “ 唱え続
ける ” ということにある。同じ考えのフレームをつくり続け、1 つの方向に考
えの流れ、心の動きを意志のもとに扱えるようにするのである。
実際に練習してみると納得するが、マインドの力は強力で、すぐに軌道を外
し、独自のロジックで動こうとする。気を抜くと、あっという間に心はマント
ラから離れ、全く違う事を考え始めていることがある。
自然に起こっている “ 考え ” の流れには脈絡がなく、方向性もない。だから、
297
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
“ 考え ” の視点からみれば、軌道を外れる、なんていうことはそもそもないのか
もしれない。だって最初からこの人には、軌道なんてないのだから…。
しかし、
「ジャパ जप」をしているときは、私たちは意図的に考えをつくりだし、
1 つの方向を生みだそうとしている。マインドの “ 流れて、動きつづける ” とい
う特徴を自分の手の内に治めるために。ターゲットは、マインド・心の特性や
性質を生かしながら、自分の意志で扱えるようにすること。
心を敵にするのではない。考えを潰そうとしているわけではない。Yoga や瞑
想によって、心の活動や特性を否定し、考えを “ 止滅 ” させ、無感情で無表情な
ゾンビのようになりたいわけではない。私は、むしろ “ 考える ” という高い能力
をもち、独自のロジックで動けるようなキャパシティーと可能性をもつ心を自
分の生きる目的のためにしっかり使っていきたいのだ。そのために、心の性質
や独自の能力は尊重しながら、脈絡のない動きに方向性を定め、“ 意志があるこ
の自分 ” がイニシアティブを握るために心を扱う。
心に振り回されるのではない。マインドの奴隷になるのではなく、“ 私が心を
扱う主であり、王である ” ことをしっかり自覚して、もっと自由自在に高い能
力を楽しむために、そして自分の定めた目的のために生かせるようにするのだ。
だから、私たちは瞑想中、マントラという軌道に乗せて意志のもとに流れを
作った “ 考え ” の動きをを冷静にとらえ続ける必要がある。マインドの動きがマ
ントラからずれたことに気づいたら、意志の力でなんとしてもマントラに連れ
戻すのだ。
意志のもとに心を扱う事。心が離れたら、何度でも連れ戻すこと。これが瞑
想のメインである “ 心の活動 ” なのだ。それを繰り返すことで、
私たちは “ 考え、
マインド ” の性質を掴み、学び、やがてマスターすることができるようになる。
4.「マントラ」を繰り返す瞑想のテクニックとメリット
ここまで書いておいてなんなのだが…。実は私たちは 有史以来 “ マインドの
動き、考えのパターン ” の謎を学ぶメソッドをもっていない。
「どうして心は動
くのか? なんで私のマインドは次から次に変わって、ちっとも落ち着かないの
298
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
か? 」そんなことは、わからない。誰も知らない。けれど、世界のメカニズム
の中でそうなっているのだ。ふん、考えても仕方がない。だから謎を探求する
より、なぞは謎のまま置いておいて、上手くお付き合いできる術を学ぼう。
さらに!これも衝撃の事実だが、この世に直接マインド動きに働きかけるテ
クニックなどない。マインドの動きを弛める、止める、操る、コントロールする。
そんな都合のいいテクニックなどないのだ、本当のところ。
私たちがしようとしている瞑想、「ジャパ जप(マントラ瞑想)」は、マインド
の動き、性質自体に直接働きかけをしたり、マインドを知るための方法論では
ない。ただ、マインドの摩訶不思議さはあるがままにしておいて、不思議な力
と特徴をもつマインドを、一定時間意志のもとに上手く使いこなせるようにな
る、ということだけをターゲットにした練習法なのだ。
マインドのメカニズムは未知のままでもいいし、動きを変える必要もない。
どうしたら扱えるようになるか? を目指すのである。
複雑なコンピュータのシステムは理解できなくても、道具として上手く使い
こなしていける。インターネットの複雑なシステムの詳細はつかめなくても、
メリットを得る使い方はマスターできる。同じように、心という全くの未知な
る能力のシステムは知らなくても、道具として扱う事は可能なのだ。瞑想はそ
のための方法。
<「ジャパ जप(マントラ瞑想)」のメカニズム>
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」はまず、1 つの「マントラ मन्त्र」を選択する
事から始まる。その後は、シンプルに選んだ「マントラ मन्त्र」を唱え続けるの
み。そうして自分のマインドに決まったオペレーションと方向性を与える。考
えの流れを自分が決めた方向に定めて、考えそのものを道具として使いこなせ
るようにする。
常に同じ「マントラ मन्त्र」という考えのフレームをつくり続けることによっ
て、考えは「マントラ मन्त्र」から「マントラ मन्त्र」へ流れるようになる。頭
の中心で 1 つマントラを唱える。そうすると、1 つのマントラが映った考えの
フレームができあがる。このフレームが「ヴルッティ वृत्ति(考え、マインドの
299
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
1 フレーム)」。
たとえば、
「オーム ओम्」というマントラを唱えたら、頭の中心には「オーム
という音が映った考えのフレーム=ヴルッティ」が出来上がる。こんな風にフ
レームができる事を “ 認識 ” と呼んでいる。
りんごをみたら、目からはいった情報が頭に「りんごという物体が映った
考えのフレーム」ができる。過去に同じように作った「りんご・ヴルッティ
वृत्ति」と今知覚している「りんご・ヴルッティ वृत्ति」を照らし合わせて、私た
ちは「あっ!りんごがある!」いうのだ。りんごの認識が起こる。
パンの焼ける芳しい匂いを嗅いだら「パンの香りが映った考えのフレーム」
ができる。過去の記憶としてある同じような「パン・ヴルッティ वृत्ति」が一致
することで、認識が起こる。そして私たちは「ああパンが焼けたんだなぁ~」
いうのだ。
同じように、触れること、聞くこと、味わう事。五感を通した情報が私の中に
「ヴ
ルッティ वृत्ति(考え、マインドの 1 フレーム)」をつくる。これを認識して、
私たちは世界を知る。
瞑想においては、外の世界の情報を取りに行くのではなく、自分で意図的に
“ マントラ ” という音が映る考えのフレームを作るのだ。1 つマントラを唱える
ごとに、
「マントラ・ヴルッティ वृत्ति」が出来上がる。1 つフレームができたら、
次もまた同じマントラを唱えることで、新しい「マントラ・ヴルッティ वृत्ति」
をつくる。マントラの後に起こるべき次のフレームもマントラ。その次も同じ
マントラ、その次も、その次も…そうやって同じ考えのフレームをつくり続け
ることで、心の動き方の方向を定めることができる。1 つの「マントラ मन्त्र」
を唱えたら、当然次も同じ「マントラ मन्त्र」がやってくる。こうすることで、
考えの流れと、マインドの次の動きが予想可能になる。マインドという相手の
動きを察しながら、イニシアティブは自分がしっかりと握り、まるで無秩序な
動きをするマインドに 1 つの方向性をつくっていくのだ。
マントラを唱えながら、同時に私たちは冷静にこの考えの流れを観るのだが、
もし、マントラとマントラの間に、全然違う考えに染まったフレームが差し込
まれてきたら、それは自分が今望んでいない考えであるということが解る。い
わゆる、“ 雑念 ” という奴です、こいつが…同じ色に染まった考えのフレーム
300
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
に、全く違う考えに染まった考えの形をみたら、さらに意図して同じ「マント
ラ मन्त्र」のフレームをつくって、定めた 1 つの方向に戻ってくること。そうやっ
て、心をつなぎとめてゆく。「マントラ मन्त्र」を唱えるというオペレーション
から外れていこうとするマインドを、意志のもとに扱うのだ。
だから瞑想中は、自分のマインドの動きに対して創造的であり、非常に客観
的でもあり、かつ冷静な目撃者としてのスタンスである。望まない動きが出て
きたら、必ず引き戻す。元のオペレーションに戻り、元のマントラという考え
につなぎとめること。
このプロセスにおいて、予期しない考え、つまり雑念を避け、意志をもって
マインドの動きを維持することができるようになる。
それが苦もなくできるようになったとき、私たちは日常の中でもマインドを
道具として扱っていくことができるようになる。いろんなシチュエーションで、
マインドを強くあるべき方向に定めることが、いとも簡単にできるようになる
という。
心が自分の望まない方向に流れそうになったら、冷静に対処し、あるべき所
に連れ戻す。そんなことが普段からできるようになっている人は、大抵の事に
おいては心を乱したり、見失ったり、逆に心に自分が弄ばれたりすることがな
くなる。
何かの事情で思わず怒りに狂いそうになっても、怒鳴ったり、手を挙げてし
まいそうになっても、常に客観的に心を観ることができる自分がいる。意志に
よって、望まない事態を避けることができる。良からぬ行動に至る考えを、然
るべき落ち着いた場所に戻せるようになる。
これが心と感情をマスターするということ。それは、正しい「ジャパ जप(マ
ントラ瞑想)」のテクニックと練習によって可能なのだ。
यतो यतो निश्चरति मनश्चञ्चलमस्थिरम्।
ततस्ततो नियम्यैतदात्मन्येव वशं नयेत्॥६-२६॥
瞑想中どんな理由であれ、心が定まらないという事は、どこかに流れ続
けているということだ。
301
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
心が対象から離れたときはいつでも、自分自身の気づきと意志をもって
必ず元の場所に戻ってくる事。
心を意志によって、もとに連れ戻すことができるようにすること。
それが、心を扱う瞑想ということだ。
『バガヴァッドギーター』6 章 26
5.「マントラ」を使うことの意味
考えが他の対象にそれたら、「マントラ मन्त्र」に連れ戻す。考えが独自の
やり方で彷徨いだしたら、必ず客観的な気付きと意志の力で、元の「マントラ
मन्त्र」に帰ってくる。これが実質の心の活動である “ 瞑想 ” だと経典は教えて
いる。
もしからしたら。ここで 1 つ疑問がわくかもしれない。
「もし、マントラを繰
り返すことと繰り返す心を冷静にみる事、そして、引き戻すことが「ジャパ जप
(マントラ瞑想)
」のテクニックというのなら、別に対象は「マントラ मन्त्र」
じゃなくてもいいのでは? わざわざなじみのないヒンドゥー世界の「マントラ
मन्त्र」をもちださなくても、いろんな音が使えるんじゃないかなぁ? 日本にだっ
て神聖なものは沢山あるわけだし…」。
瞑想にはどんな音でも効果があるのだろうか? たとえば、
「ガジャ…がじゃ
…がじゃ…がじゃ…がじゃ…」とか「ムヌ…ムヌ…ムヌ…ムヌ…ムヌ…ムヌ…」
とか?
それでも効果はあるという。なんと!同じ音を繰り返すことが、心を落ち着
かせ、血圧を下げたり、心臓の鼓動を落ち着かせ、脈拍のスピードを下げたり
することができると現代医学でも証明されている。「ということは、どんな音で
も繰り返すことによって、落ち着きと安定は得られるというわけか? 」どうも
そういうことらしいのだ。
しかし「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」たちは、つけたしていう。
「も
し、その音をあなたが真面目に繰り返し続けることができるのならね。どんな
音でもいいだろう。でも、無意味な音を唱えることに、人はどこまで真摯でい
302
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
られるかな? 」。
どんな音でも、音に集中し、考えのフレーム「ヴルッティ वृत्ति(考え、マイ
ンドの 1 フレーム)」をつくり、そこに心をつなぎとめることができるようにな
るという。瞑想と同じような効果はあげられるだろう。しかし、もし、私たち
が真剣に意味のない言葉を唱え続けることができるのなら、である。
意味のない音を唱えていると、きっと瞑想中心がささやきだすだろう。「ねー
ねー、ところで、なに? この “ がじゃ、がじゃ ” って音。どっからでてきた? 」
「音
だよ。“ 姿形 ” という対象のない、ただの音。ピュア・サウンドってやつだよ。
瞑想の象徴的なイメージが何もつかない純粋な音さ」。…いつか心の中で、対話
が始まってしまう。「ああそう、何でもいいけどさ。でも響きがどうも…“ がじゃ
がじゃ ”、って。それはないだろ? 瞑想から最も遠い音だよ」「いやいや、だか
らさーそれは…」と心の中で自己問答を繰り返している内に「がじゃ・マントラ」
はどこかへ行ってしまっている。
というわけで、どうも意味のない音では私たちは真剣になれない。かといっ
て、意味があればどんな言葉でもよい、というわけでもない。「まる…まる…ま
る…」
「りんご…りんご…りんご…りんご…」。これらの音には意味があるけれ
ど、
「まる」という言葉にも「りんご」にも、瞑想の中心者である「オリジナル
な素の自分」を喚起する力がない。唱えてみると解かるが、「りんご」とかいっ
た時点で、頭の中にはヴィジュアルが自動的に出来てしまう。音だけを対象に
した瞑想が成り立たない。それに、「りんご瞑想」は、なんだか奥行きが足らな
い。自分の深い部分に到達できると思えない。りんごから先へ進めない…それ
では意味がないっ!
このように、心に一定の規律をもたらしたり、単に落ち着くためのテクニッ
クとしてなら、どの音を繰り返すことでも効き目はある。考えの流れ方をみる
だけなら有効かもしれない。しかし、
「ジャパ जप(マントラ瞑想)
」
をするにあたっ
ては、瞑想の対象として意味深い言葉を選ぶことが経典と「ヨーギー योगी(Yoga
の実践者、達人)」の教えの伝統によって推奨される。できれば深遠な意味が含
まれ、唱えることで、気持ちが正されるような音が瞑想には相応しい。しかも、
他の音では代わりになれないような重要な意味があり、音自体に威力があれば
なおよし。
303
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
瞑想中に喚起されるべき「オリジナルな素の自分」とは、
「ディヤーター
ध्याता(瞑想する人)」のこと。すべての役を降ろして、全体世界とつながって
いる “ 個 ”、ベースの自分である。ただ世界と関わっている個として、
「イーシュ
ヴァラ ईश्वर(全体世界)」とつながっている者として、純粋に世界に存在して
いる者として瞑想をしているのだ。
社会の中で演じる役割や立場からも、全く自由な “ ベースにある自分。役の
立場から世界を観る必要もなければ、ジャッジする必要もなく、主観や偏見か
ら自由である存在。世界に対してただひたすらオープンに、ありのままを認識
する自分。その自分に、世界のありのままのできごとが、何の歪みもなくその
まま映しだされている。映し出された光景の、認識だけがそこに起こる。
瞑想中は、音を聞いているのではない。触れる事を感じているのではない。“ 聞
こえる ” という認識が、自分の場所で起こっている。“ 触れている ” という認識
が、肉体という場所で起こっている。それだけなのだ。
瞑想中は、瞑想をする自分になろうとしているわけでもない。「ディヤーター
「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)
」
ध्याता(瞑想する人)」になるのではなく、
であるだけなのだ。
マントラは、ベースにいる自分を呼び起こす音である必要がある。つまり、
“ シンプルに全体とつながりあっている個 ” を呼び覚ますような意味がマントラ
に含まれていることが望ましい。
…ほほぅ、なるほど。 ん? でもちょっとまって。どういうことだ?
瞑想をしている自分が、全体世界の中で生きている “ 個 ” であることを素直に
認識できるような音。瞑想という行いに相応しい意味を含んでいる言葉。それ
が
「マントラ मन्त्र」である。というのなら、
「マントラ मन्त्र」
という 1 つの言葉、
もしくは音には “ 全体世界の現れ ” が意味として含まれている必要があるという
ことだ。なぜならその言葉によって、瞑想をする私は全体世界を思い、自分と
のつながりを自覚できるということになるのだから。「イーシュヴァラ ईश्वर(全
体世界)
」が表現されている音が、“ 瞑想の対象 ” として相応しいマントラにな
りえるということだ。その音によって、私たちは素の自分を喚起できるし、そ
の言葉を用いる事で、真剣に全体とのつながりを、確信に変えるような瞑想を
することができるのだから。
304
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
残念ながら世界の中に沢山ある物の 1 つ、創造された物に与えられた 1 つの
名前には、その力はない。さっきも見たように、「りんご」は世界に現れた物の
うちの 1 つでしかない。りんごという音は、“ 赤くて丸いアイツ ” というフォー
ムを私の考えに起こすことはできるが、全体世界を思い起こさせる意味の広が
りがないのだ。
「マントラ मन्त्र」を繰り返し唱える瞑想では、普段社会や家族という関係性
の中で埋没している「オリジナルの素の自分」を引き出す必要がある。役を演
じていない “ ベースの自分 ” の核心に触れることが、瞑想をする意味であるの
だから。『ヴェーダ(聖典)』に記され、長い歴史と伝統の中で使われてきた「マ
ントラ मन्त्र」はどれも全体世界を象徴する音となっている。その音を繰り返す
ことが全体世界とつながりあっている “ 個 ” としての自分を引き出す事になる瞑
想では、客観的で苦悩や問題のない「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」が呼
び起こされる必要がある。「ディヤーター ध्याता(瞑想する人)」が瞑想をする
ことで初めて、深い瞑想は自然に起こるようになっているのだ。
今現在も多くの人に使われている「マントラ मन्त्र」は、Yoga の歴史が物語
るように、何人もの賢者がその効果を修行の経験として立証してきた。多くの
音や言葉が「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」たちによってふるいにか
けられ、“ 結果を出し続けている音 ” だけが今残っているのである。そんな音が、
利用可能だとしたら、私たちもぜひ恩恵を受けるべきだ。
この本では、
『ヴェーダ(聖典)』に記され、確かな伝統のもとに、多くの人
が効果をだしてきた確実な「マントラ मन्त्र」を載せている。自分が唱えやすい
もの、心に何か神聖な気持ちを呼び起こす音を選んで、日々の瞑想にぜひ使っ
ていこう。
6.瞑想用の「マントラ」は意味のある音を選ぼう
「意味のない音」では、瞑想は真剣になれない。それは、
さっき「がじゃがじゃ・
マントラ」の例でみたとおり。単なる “ 集中のテクニック、
落ち着くための目的 ”
として使うなら、意味のない音だとしても、「繰り返す」という動作が効果をあ
げる。イライラしたり、心臓の鼓動が激しく乱れた時も、意味のない音でも “ 繰
305
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
り返し唱えると ” ということが私たちを落ち着かせる、らしい。
しかし、私たちは音を “ 瞑想 ” の対象として使うのだ。リラックスや集中力を
つけることが最終ターゲットではない。良識ある私たちは、意味のない音を唱
え続けることにどこまで耐えられるだろうか? どこまで真剣になれるだろう?
きっと、途中でみんなバカバカしくなるか、笑ってしまう。
「がじゃ…がじゃ…がじゃ…がじゃ…」「ぼ…ぼ…ぼ…ぼ…」「にゅい…にゅい
…にゅい…にゅい…」こんな無意味な音を唱えてじっとしていられるほうが、
どうかしているのかもしれない。唱えていることで、かえって心が落ち着かな
い。に心の奥でこんな葛藤が起こるに違いない。心の中の冷静な自分がいいは
じめるだろう…。
「おいっ、いいかげんにしなさいよ。なんだよ、さっきから “ ぼ…ぼ…ぼ…ぼ ” っ
て。え? どうかしちゃったの? 」これに対して瞑想をする自分がいう。
「ちょっ
と黙って、静かにしたまえ!いつもそうやって、キミは批判するんだよな。きっ
とキミはもはや何の可能性も信じられなくなっているのさ。とにかく、この瞑
想で自分は成長し、客観的になるのだよ。人間として成熟し、大きくあるため
に行う真剣な修行なんだから、ほっといてくれないかな」
「ところで、
なぜに “ ぼ?
”」
「うるさいよ。そうなっているんだよ」「ふ~ん、へんなの。なんで、意味の
ない事に耐えられる? 」「静かにっ!これは、瞑想用に自分に特別選ばれた音
なんだからっ」
「ほほぉ~、そう。ちょっと足りないお人よしのキミには丁度い
いかもね。なんでまた “ ぼ ” なんて、ぬぼーっとしたキミにぴったりな音が選ば
れたかね~」
「んもぉう!! どうしてそんな風にいうのさ ! いい加減ほっと
いて欲しいなっ」
「ねーところでさ、そんな音地味に唱える瞑想より、もっとい
い方法探しに行かない? 」と心の会話がエンドレスに続いていく。いつの間に
か瞑想どころではなくなっている。
「マントラ मन्त्र」はぜひ意味のある音を選びたい。そして、できれば伝統が
あって、音自体に力があり、多くの人に今までメリットがもたらされてきたも
のを。瞑想にふさわしいとされ、現在でも使われている「マントラ मन्त्र」は、
すべて『ヴェーダ(聖典)』に記されている。この本で紹介している「マントラ
मन्त्र」はそういう意味で、安全で、確実にメリットをだしてきたといわれてい
るものだけを載せている。「マントラ मन्त्र」の章にリストを載せたので、その
中からどれを選んでも構わない。
306
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
たとえ、「ओम् नम: सिवाय। オーム・ナマ シヴァーヤ」「ओम् श्री गनपतये
नम:। オーム・シュリー・ガナパタエ・ナマハ」という「マントラ मन्त्र」の意
味がわからなかったとしても、「この言葉は『ヴェーダ(聖典)』に記された、
深遠な意味がある音なんだ」ということを理解していることが大切なのだ。
意味が判らなくても、“ 意味のある音を唱えている ” ということを知っておく
ことが大事なのだ。「自分は意味のない音を唱えている」
。と思いながら行うこ
とは全く真剣度が違ってくる。「マントラ मन्त्र」の意味のすべてを把握してい
る必要はないが、これは十分に意味があり、聖典が保証している優れた音であ
ると知る。瞑想にふさわしいものである、ということを知り、
信頼するからこそ、
心を開いて瞑想に真剣に取り組めるようになる。
Yoga や瞑想では、自分が真剣に向きあってすべき事に対して、“ この方法で
間違いがない! ” と信用していることが大事だ。揺るぎない指針に従って、まっ
すぐに目的を成就させるためには、迷いや疑いは、妨げであり障害である。こ
んな風に、ある物に対し心を開いて信頼することを「シュラッダー श्रद्धा(信
頼すること)」という。
教えと方法の正しさを裏付ける経典や聖典に対する「シュラッダー श्रद्ध(
ा 信
頼、信念)」をもつ事は、Yoga の道を歩む上で、とても大事なのだ。
7.考えと考えの間にある “ 静寂 ”
「マントラ मन्त्र」を繰り返す事は、“1 つの考えのフレーム ” から次のフレー
ムの間に起こるマインドの動きをみることでもある、
私たちが意図的に何かをしない限り、考えはもろいつながりによってつなが
りあい、どこまでもだらだらと続く。そんな考えの流れには方向性もなく、次
から次に湧いてくるため考えのリストも無い。
次にマインドが何を考え、どこに行くのかは、私たちには予測不能。マイン
ドはその性質に従って、ただ脈絡なく動き、考えを流す。考えの 1 つ 1 つは独
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第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
立せず、お互いにつながりあい、絡まりあっている。まるでゆで過ぎたスパゲッ
ティーのように。麺を一本とろうとすると、全部の麺が絡まりあってくっつい
た塊になっている…。
考えも同じだ。1 つの考えを独立させて取りのぞくことはできない。考えと
考えはお互いにつながりあって、1 つの流れを作るグループ、塊となっている。
さらに考えは、瞬間的な動きをする。1 つの考えは 1 つの
「ヴルッティ वृत्त(考
ि
え、マインドの 1 フレーム)」に映る。映画のフレームのように瞬間的な動きを
担う。そしてどんなに素早く瞬間的に動くようにみえても、1 つの考えのフレー
ムと、次のフレームの間には必ずギャップがある。
脈絡なく考えを野放しにしているときは、マインド独自の “ つながり ” によっ
て、私たちは 2 つの考えの間に本来あるべき “ ギャップ ” をはっきりと自覚で
きない。
「マントラ मन्त्र」のように 1 つの完結した音を繰り返すことは、2 つ
の考えというフレームの間にできる “ 考えどうしのつながり ” を取りのぞく事
になる。1 つ 1 つの「マントラ मन्त्र」はそれだけで完結し、
独立した考えのフレー
ムとなり、音と音の間には、はっきりとした間が空く。すると、考えの間にあ
る、” ギャップ “ がみえてくる。考え通しがつながらなければ、だらだらとただ
流れていく考えの性質を意図的に断ち切ることになる。1 つの考えが、次の考
えとのつながりを持たなければ、考え独自の “ チェーン(鎖のようなつながり)”
は断てる。これがまさに “ チェーン・シンキング(止まらない考えの流れ)” を
一時的に治める方法になる。
「マントラ मन्त्र」を唱えている瞑想の間、わたしたちはこの考えの間のギャッ
プをはっきりと自覚する。そして、普段は考えのつながりでみえなくなってい
るが、このギャップには、どんな考えも映し出されていない、独特の “ 静寂、
静けさ ” があることが判る。考えに染まらない “ 自分 ” の状態がみえてくる。
「マントラ मन्त्र」という考えに染まったフレームと、次の「マントラ मन्त्र」
のフレームの間に介在するこの “ 静けさ、沈黙 ” とは何なのだろう?
どんな形の考えも持たない “ 静寂 ”。 Yoga 的には、この静けさを「シャンティ
शन्ति(平和、静寂)」と呼んでいる。
308
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
私たちはいつも “ 平和 ” とは、獲得できるものだと考えている。努力によって
得ることが可能だと信じていたり、何か代償を払って自分のものにする “ 何か ”
だと思ってしまう。
だから多くの人は、
「Yoga をして、平和な心、静かな心を得たい!!」という。
賢者に向かって「私の望む事はただただ、心の静けさ、平安だけです。だから
どうかそれを獲得する方法を教えてください ”」といってみたりする。
いつも心が騒がしく、休むことがないと、私たちは平和とは新たに獲得する
物、得るものだと思ってしまう。動き続ける心、忙しなく流れる考えの合間に
訪れる束の間の “ 静けさ、平和 ” は、獲得するものだと思う事。普段の自分にま
るで欠けていて、そればないようにみえるから、“ 静寂や穏やかさ ” は何らかの
手段を講じて得なければならないものだと確信している。そうして、手に入れ
た “ 平和や静けさ ” で心を飾ろうとしている。
しかし、そもそも “ 心の平和や静けさ ” は、どこかで手にはいるものなのだろ
うか。もしそうなら、常に私たちはそれを獲得しなければならなくなる。…本
当にそうだろうか? 心の静けさや平和は、得るべきものなのだろうか?
しかし、私たちは何の努力もすることなく、時々心に静寂を体験する。だか
ら静寂が自分の中に無いとはいえない。もし私たちの考えとは逆に、静寂は得
るべきものでないとすれば、初めから “ ここにある ” ということになる。すると、
静寂こそが本来の私たちのあるべき自然の姿なのだろうか?
こんな話がインドにはある。ある時、心の平安を願い、静寂を求めた若者が
いた。彼は、静けさを求め、とある賢者のもとに行き、尋ねた。
「人々は、あなたを賢人だという。心の安定とは何かを知る人だという。だか
らどうか、教えてほしいのです。私のこの騒ぐ心をどうすればいいのかを。苦
しみの声をあげ、暴れる心を、どうすればいいのかを。どうしたら、あなたの
ように、常に平和で静かな心でいられるのか? 私はそうなりたいのです。どう
かその術を教えてください」。
真摯に尋ねる若者に、賢者は静かに答えた。
「心を騒がしくしたり、忙しくするために、今まであなたはきっと沢山の事を
309
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
したり、考えたりしてきただろう。心の “ 騒がしさ ” のために、あなたは多くの
事をしなくてはならなかっただろうね。しかし、“ 静けさや平安 ” のためにあな
たがしなければならない事というのは、実際にはあるのかな? 」
そういって賢者は静かに沈黙した。
心の静けさのために私たちがしなければならない事は何か? 賢者のいうとお
り、心を騒がしくするために、私たちは沢山の事をしている。多くの事を考え、
未来のために次から次にプランをたて、過去のことを思い返し、反省したり落
ち込んだりする。沢山の雑事をこなすことで、心の忙しさがつくられている。
せわしなさ、騒がしさは、私たちがつくりだしている。そうでなければ、心は
忙しくなれない。
望んでいない心の騒がしさは、私たちの考えによって、わざわざ “ つくり上
げたられたもの ”。それなのに、私たちには自覚的がない。
物事は勝手に組み合わさり、つくりだされているようにみえる。まるで意図
せず積み上げたレンガが自然に壁を築いているように。
たとえば、誰かが特にこれといった目的もなく、「そこにレンガがあったから
…」という理由で空き地の隅にレンガを積み上げたとする。積み上げられた結
果 “ 壁 ” のような形になり、なんだかんだしている内にポスターが貼られたり、
空き地の仕切として使われたり、子供の秘密基地になったりと、“ 壁 ” としての
機能を果たすことがある。しかし、無造作にレンガを積み上げた人は、“ 壁 ” と
作ろうという意図はなかった。それでも無目的に積み上げられたレンガの壁が、
自ずと壁として機能しているとしたら、そこにはクリエーションがある。偶然
が何らかの結果をもつことに、世界の “ 不思議さやミラクル ” がある。
考えも同じ様だ。考えは意図せずとも、勝手に起こり、集まり、脈絡なくつ
ながる。私たちがつくりだした 1 つ 1 つの考えが、流れをつくりだしている。
しかも、考えの主人である私のいう事など “ 考えの流れ ” は全く聞いてもくれな
い…勝手に湧いて、勝手に流れ、考えの張本人の私の事まで流れに巻き込みな
がら,とうとうと行き先も知れず流れ続ける。それこそ、“ 奇跡 ” である。
しかし、私たちはそう簡単にこの “ 奇跡 ” を楽しむことができない。偶然でき
310
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
た壁にミラクルは感じても、自分の中に起こっている “ 考えの奇跡 ” には、その
不思議さを無邪気に喜ぶことができない。
なぜなら考えの流れのプロセスには、“ 救いのない自分 ” がたたずんでいるか
らだ。私たちは、考えに翻弄されている無力の自分を、そこにみてしまう。
心はいつも何かのきっかけを見つけだしては、忙しく動き、より早い流れを
つくり出すことがある。そのきっかけは、朝抜けた 10 - 20 本の髪の毛かもし
れないし、朝からどうしようもないほど降る大雨かもしれないし、同僚の不機
嫌な顔かもしれない。そんなきっかけを見たととたん、私たちの心は騒ぎ、荒
れる。
私を中心にした様々な考えが集まり、動くことで心が騒がしくなる。これら
の考えは私のものであるには違いない。しかし、私とは、考えの塊ではない。
なぜなら、私は考えを観ることができている。考えに巻き込まれている無力な
状態さえ知ることができているのだ。
ということは、なんだろう? 心の荒れ模様に飲みこまれている時、考えの中
心にありながらも考えを観ることができる、考えに巻き込まれていない “ 本質
的な自分 ” と、考えに染め上げられ、雑多な “ 考えと一緒になって巻き込まれて
いる自分 ” との区別がつかなくなっている、とうことだ。
考えに翻弄される自分と、考えを客観視することができる自分。私たちは無
意識にもこの 2 つの自分を知り、イライラしてしまう。観えているのに、どう
にもできないことに、無力を感じる。なぜ自分は考えにつながり、巻き込まれ
てしまっているのだろう? と、そう思う。自分には、自分自身の本来の姿が明
白にみえていない。ぼんやりと観えることはあるけれど、考えと考えを使う本
来の区別がつかない。そうして、自分が自分の心に引きずられてしまう。ここ
に心の問題の原因が潜んでいる。この問題から逃れたいために、静寂や落ち着
きを探すようになる。
しかし、外の世界には静けさはない。欲しい心の落ち着きや安心感はどこに
行っても獲得できない。そうして焦って、本当の解決にはならないような、上
辺の “ 静けさや落ち着きを与えてくれそうなモノ ” を掴んで、安心したような気
持ちになる。自分を騙してしまう。だから、いつまでたっても納得いかず、「何
311
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
かが足りない。何かが欲しい、安心するために何か手に入れなければ!」とガ
ツガツしてしまったり、「あるはずのない幻の静けさを求めて彷徨うスピリチュ
アル放浪者」となって終わりなき探求に明け暮れるような生き方をしてしまう。
それでも、私たちは心の深いレベルで、知っている。考えや忙しさの方こそ、
わざわざつくりだしたものだということ。そのベースにあるのは、実は自分自
身の本来の姿である静けさだということを。静けさや落ち着きは本来の自分と
してあるのだ。ややこしいが、自分自身の本質だからこそ “ 静けさや安心 ” が欲
しいのだ。
私たちは、皆自分自身に納得いった状態でくつろいでいたいと思っている。
なぜならその時にのみ、“ 心地よさや幸せや、安心 ” を感じることができるから
だ。だから解決は、自分自身の事実を知り、事実のままにあるようにすること。
それだけだ。考えに染まらない自分には、静けさがはっきりと観えている。考
えに染まらない静寂こそが、本来の自分自身である。
「リアリティ瞑想」は、本来の自分であるこの静けさを実感することを目的と
する。自分自身のリアルな姿にしっかりと足をつける。“ 心地よさの意味 ” であ
り、” 安心や幸せの意味 ” である自分を納得する。何があっても自分自身を受け
入れることができ、
揺れることなく、
静かで平和である自分で在り続けるために。
瞑想は、自分とは初めから “ そうありたいと望み、探し続けてきた存在その
もの ”、であることを確信するための術なのだ。
8.考えの始まり
スピリチュアル界に蔓延している、ポピュラーなアドバイスにこういうもの
がある。
「考えを許してはいけません。あなたがしっかりコントロールしなければ、考
えは、集まり、脈絡なく動き、とめどなく流れてしまうのです。考えはまだツ
ボミの内に摘み取らなければなりません」。
う~ん、たいへんごもっとも。一見、説得力のある見解のように聞こえる。
312
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
だから多くの人に受け入れられている。“ 考えを許さない、考えを摘み取る ” な
んて、なんだか響きもストイックで素敵だ。スピリチュアル・ロマンに溢れた
そんなセリフをいうのは簡単だ。…ふむ、いうだけなら、誰でもできる…。
しかし実践となると大変なのだ。どうやったって、私たちは考えの強力な力
に屈してしまいそうだ。それに実際のところ、考えにツボミなんてない。ツボ
ミなんて、可愛い時はあるのだろうか? 考えは、いきなり満開に咲き乱れた状
態で私のもとに現れる。私たちの多くは、感情や考えや思いに流されて生きて
いる。
考えが現れたと気がつくころには、すでにツボミはおろか、花どころか、考
えの花は様々な記憶や感情という他の蔓と絡まりあい、巨大なジャングルを形
成していたりする。出てきた瞬間に摘み取れるツボミのような、生易しい考え
などは存在しない。
そもそも考えは、自分から離れたもののように、止めたり、摘み取ったりで
きるようなものではない。考えは、自分から離れてなどいない。私という存在
を中心にして、初めから自分とつながりあっていたものが考えだ。“ 私 ” なくし
て、考えは起こり得ない。それをどうやって摘み取り、無くしていこうという
のか? 考えと混乱のスタートポイントには、いつも自分がいる。考えが始まっ
た時から、私は己の考え自体に巻き込まれ、飲み込まれ、自分のことがみえな
くなっている。それゆえ、“ 私は考えだ ”、と思いこみ、“ 考えは私だ ”、と疑い
もなく信じてしまう。「考えをツボミのうちに摘み取れ」というアドバイスは無
意味であるばかりか、役にたたない。もっといえば、人に罪悪感だけを与える
ことになる。
「私は考えをつぼみの内に摘み取れなかった。だから私は混乱して
いるのだ。あ~そしてこんなにもまた流されている…瞑想しても雑念ばっかり。
なんてダメな奴なんだ、自分は!トホホホホ」と。
考えを摘みとれないとしたら、実際に私たちはとりとめのない “ 考え ” に対し
て、何ができるだろうというのだろう? そのアドバイスすらない。
Yoga の瞑想法は考えにどうしようもない程流されてしまう私たちに、実践的
な方法を提言している。それは、考えを失くす、摘み取るという不可能を可能
に変えるような、夢の方法ではない。
形成された “ 考えのつながり ” を、断ち切るような、意味のある “ オペレーショ
313
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
ン(作業)” をマインドにさせるということだ。つながりあい、方向を持たずに
ただ流れている考えの間にギャップをつくること。
2 つの考えの間に起こるギャップは、どんな考えにも埋め尽くされていない
。だから流されようがない。このギャップには、考えに染まらない “ 静寂 ” があ
る。この静寂をあえてしっかりとみる。さらにその静寂にとどまるようにする。
考えの間に現れる “ 静寂 ”。この静寂をみているとき、自分は内なる問題にと
らわれていない。忙しさ、騒がしさ、葛藤、感情の揺れ動きというから静寂の
瞬間は、解放されている。そして、静寂にとどまっている時、私たちは自分以
外の物を何も必要としていない。何かを得たいとも、したいとも、避けたいと
も思わない。そして、心に余計な欲求が湧いていない状態を私たちは非常に心
地よく感じる。“ 静けさ ” であり “ 平安 ” であることがわかっている自分は、外
の世界に何かを求める必要がない。
私は静寂になぜくつろげるのか? なぜ静けさを、心地よく感じるのだろう?
なぜなら、静寂こそが自分自身の本質だからだ。“ 静寂 ” とは、自然な自分のあ
るがままの姿なのだ。静寂にとどまる時、自分の中には違和感が全くない。自
分に対する違和感とは、自分が受け入れ難いと信じ込んでいる事。何かが足り
ないという思いや、恐れや不安、心配、小ささ、無意味さ、悲しみ、怒り、貪欲、
嫉妬、そういう思いであり、感情であり、考えがない。
私たちが内なる静寂にとどまるとき、自分が認められない思い、欲求、恐れ
から解放されている。居心地の悪さがないということは、静寂であるがままの
自分を邪魔するものがないということを意味している。受け入れられない考え
たちが、自分自身を攻撃したり、抑制したりすることがないということ。だか
らこそ、自分自身である静寂にとどまることができるし、また心地よく思うこ
とができる。
ああ、なんということなんだ!自分の考えや思いが、心に葛藤や緊張を生み、
自分自身のありのままを妨げていたなんて…苦悩の原因を自分がつくりだし
て、自分で編んだ縄に自らはまり、束縛されている。
「あーきついよー、苦しい
よー、ここから脱けだしたいよー」。などといって。下手をしたら、縄から脱け
出そうと暴れることで、縄を複雑に絡め、より一層束縛の結び目を固くしなが
ら自由を夢見て泣いたりしているのだ。無駄な苦労にも程があるじゃないかっ!
314
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
私たちは、自分自身でいられる時だけに、心地よさや幸せや喜びを知ること
ができるというのに。なんとも、悲しくも可笑しい、愚かしい人間のあり様だ。
私たちは、違和感のない自分自身であるときに、心地よさを経験として味わ
う。そういう風になっている。たとえば、喜びの中にいるときやリラックスし
ているとき、慈しみや、信頼や、愛の中にいるとき、誰かと心から理解しあっ
たとき、慈悲や優しさが自分から溢れている時、楽しいと思える事を夢中でし
ている時、私たちは自分自身であることを完全に受けいれている。
違和感を作る原因も、抑制したり邪魔をしたり自分自身を否定してしまう考
えたちがそこにはない。だから心地よいのだ。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」する時、マントラとマントラの間に起こってい
るようにみえる “ 静寂 ” は、“ 自分の本質とは何か? ” をまるではっきりと宣言
しているようだ。安心であることの意味、心地よさの意味、自由であることの
意味、幸せという事の意味。それが、本来の自分自身の姿なのだ。この事実が、
静寂にとどまる時、明らかになる。
瞑想をする時、私たちは「マントラ मन्त्र」を唱える事によって考えを意図的
に作る。独立した 1 つの「マントラ मन्त्र」という考え。そしてすぐに続けて同
じ「マントラ मन्त्र」という独立した考えを起こす。私たちは “ 考え ” を意図的
に起こす。つくりだされたのは “ 静寂や平和 ” ではない。わざわざつくり出され
たのは “ 考え ” の方なのだ。
考えが起こる前から “ 静寂 ” はあったのだ。そこに自分は考えをつくりだし
て、静寂の上にのせているだけだ。
私の本質とは、考えではない。私とは、“ 静寂 ” だ。もっといえば “ 静寂 ” と
いう言葉が意味している、心地よさであり、落ち着きであり、安堵であり、く
つろぎである。それは、つくり出されたものではない。私が獲得したものでも
ない。静寂ははじめからここにあった。自分自身の本質として、
真実としてあり、
今もこの瞬間も私たちの事実としてここにある。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」では、意図的にマントラの音という考えのフレー
ムをつくりだす。意志のある私は、“ 考え ” のフレームを自ら選ぶことができる。
315
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
自らの意志で選んだ考えのフレームを、瞑想をしている時には断続的につくり
続ける。
では、静寂は? 考えのフレームの間に起こる “ 静寂 ” は、意志によってつく
られているわけではない。私たちに静寂は作れない。私たちの存在として、
“ 知・
認識の源 ” として、考えのベースとして静寂はすでにそこにあった。考えの間
にポロポロと沈黙が挟まっているのではない。逆だ。“ 静寂 ” から、すべての考
えが生まれているのだ。
9.“ 考え ” と “ 静けさ ” の性質
考えがない、ということが一見 “ 心の平安 ” であると、
多くの人が思っている。
考えがない状態とは、努力や行いによって達成されるべきものである、とする
修行法も宗教も多くの人々に信じられてきた。
「静けさが欲しければ、考えを失くすべきだ。心の平和が欲しなら、考えをや
めなければならない」。などという、“ 心の止滅 ” を説き、提唱するような哲学
も多くある。かくして “ 考え ” は敵視され、マインドは、抑制され、否定される。
“ 精神修行 ” や “ スピリチュアルな鍛練法 ”“ 宗教上の荒行 ” などという名の元
で動く、話す、食べる、など本来外の世界に向かって開かれている行動器官や、
見たり、聞いたり、味わったり、触れたりという感覚器官を押さえつけることで、
考えを止めようとするテクニックが開発されてきた。
たとえば、Yoga にありがちな修行法だが、呼吸を止めたり、体を一部不自然
な動きに固定するなどして動く考えをコントロールしようとするテクニックが
ある。
しかし、Yoga において最終的には何を目指すべきか? この肝心なところを
見すえた私たちは “ 考えを止める ” 事に興味はない。そんなこと不可能だし、そ
こに力を向けてもメリットがないことを知る。
“ 止まらないものを、止めようとする試み ” それは、あまりに意味がないし、
失敗する度に自分を否定し、蔑んでしまうことや傷つけてしまうこともあるだ
316
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
ろう。私たちのターゲットは、考えの性質、マインドの特性を理解して、それ
を扱えるようにすること。止めたり、無くしたりすることではない。
心という道具を自分の最高の道具として、友として、上手く扱う方法を身に
つけようとしている。だから、私たちは心から逃げない。考えを敵にしない。
思いや感情を無理に潰さない。
考えることや、
動き回る機能をもつ心を恐れない。
そしてさらに、自分自身とは “ 静寂 ” の意味である、という事実を実感するの
だ。すべてのアプローチが、物事を客観的にとらえ、あるがままの事実を認識
することに向かっている。
考えは自分の許可なく起こることもあれば、私の指示の範囲内でも起こすこ
ともできる。「ジャパ जप(マントラ瞑想)」においては、
考えは意図的に私によっ
てつくられる。完全に私の認識の範囲内に、考える機能を治める。考えは、自
分の本質である “ 静寂 ” の上に映り、認識は自分自身である “ 知・認識の源 ” で
あることによって起こっている。
考えが映しだされたことで、静寂はまるでどこかへ行ってしまったかのよう
にみえる。だから、再び静寂を感じた時に、静寂とは “ 努力によって獲得したもの ”
のように感じてしまう。
しかし、静寂は私の事実として、どこにもいかずに初めからそこにあるのだ。
静寂をみるということは、自分自身の本来のある姿に戻る、ということを意味
している。
10.さらなる静寂の意味
瞑想中、私が気づくべきこと。それは、自分自身とは 2 つの考えの間にある “ 静
寂 ” であるということ。
もしすべての考えが起こるごとに静寂を見ていったら、私たちは自分自身を ”
考え “ だと思うだろうか? それとも ” 静寂 “ こそ自分の本質だと思うだろうか?
ある時、考えは浮かびあがり、やがて考えは消える。考えが浮かびあがる前、
私は “ 静寂 ” であった。考えが消え去る時も、私は “ 静寂 ” である。初めから私は “ 静
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第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
寂 ” としてあり、“ 静寂 ” はどんな考えが起ころうとあり続け、最後まで “ 静寂 ”
のままである。
自分自身としてある変わることがない内なる静けさは、考えがどんなに騒が
しく変わろうとも、関係ない。そこに在り続ける。それが私の本質である。不
満も、欲求もなく、恐れや苦悩もない。静寂の意味とは、私の本質なのだ。
これが「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」のメッセージ。別名『ウ
パニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の教えである。聖典は、
この不動にして、普遍の静寂を「アートマン आत्मन्(人、
生き物の真実)
」と呼ぶ。
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」は存在であり、
“ 知・認識の源 ” であり、
すべての物の根源として満ちているこの “ 満ちていること ” が、幸せという言葉
の意味である。それが自分自身の真実だ。静寂を観ていく中で、私たちはこの
事実を確信する。
この「アートマン आत्मन्( 人、生き物の真実)」とは、あの「ブラフマン
ब्रह्मन्」である。あまねく世界に広がり、すべての物事の根源である「ブラフ
マン ब्रह्मन्(究極の知、存在、あまねく広がるもの)
」
。それが自分自身の真実
であるという。
私の真実とは、世界の真実である。「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)
」
とは「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)
」である。
それが、ただ 1 つの変わることのない事実である。
「タット ・ トヴァン ・ アシ तत् त्वन् असि(You are the Whole. あなたの本質と
は全体である)」。最終的な瞑想の目的は、この聖典の教えを実感するためだけ
にある。
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の練習だけでは、ここまでのビジョンを私は得
ることができないかもしれない。しかし、「ジャパ जप(マントラ瞑想)」をする
ことで、聖典のビジョンを理解するための心の準備が十分にできるようになる。
自分に関する深遠な事実とは何かを、はっきりと理解するためのキャパシティー
と落ち着きを養うことができる。騒がしく動き、流れる考えとともにありなが
らも、瞑想によって私は自分の本質が “ 静寂 ” であることを理解する。
そのために、考えを自分の道具として完全に扱えるようにする。自分なすべ
きことに集中し、そこに “ 心 ” を方向づけ、意志をもって自分のもとに連れ戻し
318
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
てゆく練習が「ジャパ जप(マントラ瞑想)」である。
何度も、何度も、心が離れてしまう度に自分の課した対象と作業に連れ戻す
ようにする。それを繰り返し練習する。繰り返し、繰り返し、心の動きを注意
深く見て、心がそれてしまう度にもとに戻す。そのうち、自分の “ 心 ” のパター
ン、やり方がみえてくる。“ 心 ” の動きが明らかになってくる。パターンが解れ
ば、もうこっちのもの!やがて、自分が王様のようにイニシアティブをもって、
“ 心 ” を完全に意志のもとに扱うことができるようになる。
その時、自分はもはや “ 心 ” にもてあそばれてなどいない。心の動きを、ある
べき方向に動かし、ハンドルを握っているのは、この “ 私 ” なのだ。“ 心 ” はこ
の “ 私 ” が使う最高の道具となる。最高の友となる。そのために心を扱ってゆく。
これが、瞑想の目的である。
प्रषान्तमनसं ह्येनं योगिनं सुखमुत्तमम्।
उपैति शान्तरहसं ब्रह्मभूतमकल्मषम्॥
実際、最も優れた最高の “ 幸せ ” というのは、心が静まり、葛藤や問題
のすべてを治めた瞑想をする者にある。
その人の人生には、欠陥も、足りないことも、プレッシャーもない。
それが、自分自身の真実「ブラフマン ब्रह्मन्」を知るということだ。
『バガヴァッドギーター』6.27
11.
「ジャパ(マントラ瞑想)」を
より効果的にするためのメソッド
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」のテクニックは、同じ 1 つのマントラを繰り返
すことのみ。果たしてそれが、テクニックといえるのかは不明だが、それだけ。
心がマントラからそれた、必ずマントラに戻ってくる。そしてまた唱え続ける。
それだけなのに、これがなかなかどうして、意外とむずかしい。心はいつの間
にかマントラから離れて行ってしまう…。気がついたらマントラからだいぶ遠
319
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
くまで、心は勝手に旅をしていたりする。我ながら心の放浪癖には困っている。
もしくは、マントラとマントラの間にサッとうまいこと、別の考えをすべり込
ませて、考えの軌道を変えることもある。マントラを唱えている流れの後ろ側
で、もう 1 つの雑念のループもつくっていたりして、まるでその間マントラと
雑念の “ パラレル思考 ” になってしまったり。
そんな時はどうしたらいいのか? ここからは、より深く瞑想するためにでき
る細かいテクニックをみてみよう。テクニックというよりは、“ 注意点 ” という
感じであるが。とにかく「ジャパ जप(マントラ瞑想)
」を効果的に実践するた
めの助けになるアイディアをみてみよう。
「マントラ मन्त्र」と「マントラ मन्त्र」の間の “ 静寂 ” をみること
瞑想を始めた時の、私たちの集中のポイントは “「マントラ मन्त्र」を唱える
事 ” にある。唱えることに慣れてきたら、徐々にこの “ 集中のポイント ” をシフ
トする。ここにコツがある!つまり、集中のポイントを「マントラ मन्त्र」を唱
える事から、
「マントラ मन्त्र」と「マントラ मन्त्र」の間にある “ 静寂 ” をみる
事に、変えていく。静寂に集中のポイントを徐々に移すようにする。そのことで、
さらに深く自分の内側へ入り込み、瞑想のレベルが深まってゆく。
マントラ
静寂
この静寂に集中する
マントラ
静寂
マントラ
静寂
さらに、この静寂である自分が
自分の深い場所に
次のマントラを唱える
アクセスする
マントラを唱えるという事は、意志によって考えのフレームをつくり出すこ
と。普段はとめどなく自動的に浮かび上がり、流れている考えに、自ら新しい
変化を起こす。それが「ジャパ जप(マントラ瞑想)」である。
前に述べたことのおさらいをすると、“考え ” のフレームのことは、
「ヴルッティ
幾つもの「ヴルッティ
वृत्त(
ि 考え、マインドの 1 フレーム)」という。マインドは、
वृत्ति(考え、マインドの 1 フレーム)」によって形成される。1 つのフレーム「ヴ
320
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
ルッティ वृत्ति(考え、マインドの 1 フレーム)」には、1 つの考えだけが映る。
1 つ 1 つのフレームが集まり、流れることで、考えという動きがつくりだされ
ている。まるで、映画のように 1 つ 1 つのフィルムが、16 個集まり、それが 1
秒間に流れることで、スムーズな動きがつくり出されているように。
1 つの考えだけが映る「ヴルッティ वृत्ति(考え、マインドの 1 フレーム)」
をつくり続けることで、まるで流れるような思考をつくっている。マントラを
唱えるときは、この「ヴルッティ वृत्ति(考え、マインドの 1 フレーム)」の 1
つにマントラを映していることになる。
通常、私たちが特に何も考えていないときにも、「ヴルッティ वृत्ति(考え、
マインドの 1 フレーム)」はつくられている。1 つの「ヴルッティ वृत्ति(考え、
マインドの 1 フレー
マインドの 1 フレーム)」と次の「ヴルッティ वृत्ति(考え、
ム)」には、マインド独自のロジックがあってつながりあっている。
そのロジックは私たちには、よくわからない。だからマインドのメカニズム
は、未だに解明されていないのだ。おそらく、言葉のもつ音やリズムや、似て
いるようなイメージなどで、このフレーム通しが関係しあい、つながりあって
いるのだろう。しかし、この考えたちのつながりは、けして強くない。もろい
つながりであるのだが、だからこそ、考えは風のように自由に行き来し、時に
脈絡なく起こり、1 つの方向性を定めることもなく、とめどなく流れてゆく。
この流れは意図的にハンドルを自分が握っていない限り、どこまでも自動的
に続く。考えはつながりあって、動き続け、流れるということがその特徴、性
質なのだ。何もしなければ、ただ独自のペースで考えはどこまでもとどまるこ
となく、流れ続ける。だから考えの方に、イニシアティブをとられたら、自分
は考えの流れに飲まれ、巻き込まれてしまう。そんな風にマインドは動いてい
るのだ。
このマインドの仕組みを私はよく経験している。たとえば、他愛もない会話
をしているとき、それがどこから始まって、どう流れ、どこへ行くか誰にもわ
からない。会話は考えの表われであり、マインドの構造の中で起こっている。1
つの事を話している時は、前の事を忘れ、次の考えは予測不能。これが続くか
ら、さっきまで自分が何を話していたか思い出せなくなるようなことが起こる。
321
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
他の人の心も自分と同じようなメカニズムで動いている。だから複数の人と会
話していても、やっぱりどこに流れていくかはわからない。それに、今までし
ていた会話のトピックのつながりを確認するために、会話をトラック(追跡)
するのは、とても難しいのはこういうマインドの構造があるからだ。
マントラを唱える場合は、1 つの「ヴルッティ वृत्त(
ि 考え、マインドの 1 フレー
ム)
」をマントラの音に染める。マントラの音という考えのフレームは、“ 1つ
のマントラ ” ごとに完結する。1 フレームに、1 つのマントラ。全く同じ「マン
トラ मन्त्र」の音で構成された、1 つ 1 つの「ヴルッティ वृत्ति(考え、マイン
ドの 1 フレーム)」は、それぞれが独立し、フレームが互いにつながらない。つ
ながらなければ、マインドは無目的に流れない。だから自分の意志でマインド
を 1 つの方向に動かすことが可能になるのだ。これが自分の考え、心を扱うこ
とができるようになる「ジャパ जप(マントラ瞑想)」のメカニズム。
さらに、
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」では、唱えるマントラが深まるごとに、
「マントラを唱えている自分」と「唱えられているマントラ」の間にある距離
が縮まる。深さが一定レベルになると、一体感を覚える。この一体感が、
「サヴィ
カルパ・サマーディ सविकल्प - समाधि(対象に一体化する瞑想状態)」である。
唱えている者という主体と、唱えられているマントラ客体が一体化する。「ジャ
パ जप
(マントラ瞑想)」を続けていくことで、
「サマーディ समाधि(深い瞑想状態)
」
のマインド状態は自然に起こるようになる。
さらに深いレベルの瞑想のために
【静寂が「マントラ मन्त्र」を唱える】
さらに瞑想を深めるための秘訣。唱えているマントラとマントラの間に起こ
る “ 静寂 ” に注目するプロセスから、この静寂を観ている自分が今度は次のマン
トラを唱えるようにする。マントラとマントラの間の静寂を観ていながら、同
時に “ 観ている自分 ” が常に次のマントラを唱える。
これを繰り返し続けていくことで、「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の度合いは
一層深まる。
静寂そのものである自分、心の動きすらとらえる自分、認識の背後に存在す
322
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
る “ 知・認識の源 ” としての本質的な自分をはっきりと確信する。心を観ている
存在、本質的な自分は Yoga 経典では、「サークシ・チャイタニア साक्षीचैतन्यम्
(心の目撃者、意識)」と呼ばれる。私たちは、“ 変わりゆくものをすべて目撃
している静かなる存在 ” である自分自身の本質にしっかりと足をつけるような、
深い瞑想をすることができるのだ。
「マントラ मन्त्र」を置く場所を決める
瞑想中心が落ち着かなくなってきた場合、マントラを唱える場所を決めた時
にするメソッドを再度挟み込むようにする。マントラから心が離れ、戻るべき
場所に迷う場合は、頭の中でいくつか簡単な暗算をしてみる。答えが出ている
場所が、認識と思考の中心。その場所に再び「マントラ मन्त्र」をおいて唱え続
けるのだ。認識が起こり、創造が起こる場所にしっかりと「マントラ मन्त्र」を
置き直すことは、心が離れてしまう度に行う。何度戻っても、やり直しても構
わない。シンプルなメソッドであるがゆえに、1 つ 1 つをしっかりと行ってい
こう。
「マントラ मन्त्र」を唱えるスピードに変化をつける
「マントラ मन्त्र」が安定しているときは、特に必要のないメソッドだが、呼
吸と「マントラ मन्त्र」を唱えることの連動が気になったり、心がとにかく動き
まわりたい!違う方向に考えの流れを変えたい!などとウズウズしているよう
な時は、唱えるスピードを変えて、変化をつけてみることも有効。マントラを
意図的に早く唱えたり、遅く唱えたりしながら変化をつけ、さらに集中できる
状況をつくり出すそう
“ 静寂 ” の中で、マントラ斉唱を止める。
マントラを唱え、間におこる “ 静寂 ” に集中できている時の自分を、私たちは
心地よいと感じる。その時、あえて一度マントラを唱える事を止める。
意図的にマインドを動かす事を止め、“ 静寂 ” に在り続けるようにする。何の
323
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
考えにも染まらない、“ ベーシックで、オリジナルな自分 ” にしばらくたたずむ。
自分自身であるだけで、もし “ 心地よさ ” を感じているのならそれをはっきり
と、積極的に自覚するようにする。こう頭の中で呟いてみよう。自覚がさらに
立体的になる。
「私は今 “ 心地よさ ” そのものだ。“ 心地よさ ” が私である。心地よく、満ち足
り、幸せである。今、外の世界の物や状況に全く頼らず、深い “ 心地よさ ” を感
じている。この事実が、自分こそが “ 心地よさ ” という言葉の意味であり、
“ 幸せ ”
の意味であることを証明している。“ 満ち足りている ” ということの意味は、自
分自身のことだ」。
役割を手放し、問題と緊張と葛藤から解放された「オリジナルな素の自分」
であるだけで、味わえる心地よさ。静寂である自分の本質を制限するものがな
いとき、私たちは素の自分を理解する。安心という言葉の意味、幸せや喜びの
意味、静けさの意味が、他ならぬ自分自身であることを納得する。それが、
『ヴェー
ダ(聖典)
』の最終的な教えのエッセンス。自分自身の真実を実感するというこ
となのだ。
幸せとは、外の物ではない。状況でもない。幸せは、ここにある。私が、幸
せの意味である。“ 心地よさ、くつろぎ、幸せ、満ちている事、大きく広がるこ
と ”…。素の自分であることが、それらの言葉の意味である。この事実を意識的
に自覚する。そして、最後はこの言葉ですら手放す。幸せの意味そのものとして、
何も持たずしばらくその状態にいる。しばらくしてから再び「マントラ मन्त्र」
を唱える瞑想を始める。何度か「マントラ मन्त्र」を繰り返す作業の後、
再度「マ
ントラ मन्त्र」を手放す。さらに深く、自分自身の本質的な “ 意味 ” を自覚する。
これを幾度か繰り返す。この瞑想の経験は、自分自身の真実を確立するため
の肝心なステップとなる。
324
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
12.
「リアリティ瞑想」&「ジャパ(マントラ瞑想)
」
メソッドチャート
「リアリティ瞑想」の全体の流れをまとめてみてみよう。全部網羅して約 30
分の行程である。
初めの儀式:「サンカルパ सङ्कल्प(誓い)」を立てる
ममोपात्त समस्त दुरितक्षयद्वारा श्रीप्रमेश्वर प्रीत्यर्ठं देवजपं करिष्ये।
マモーパーッタ サマスタ ドリタクシャヤ・ドヴァーラー シュリーパラメーシュヴァラ プリティヤルタン デーヴァ・ジャパン
カリッシェー
私はこれから「ジャパ जप(マントラ瞑想)」
(「プージャ(儀式)
」
)を「イー
シュヴァラ ईश्वर(全体世界)」とつながるために行います。どうか、私
が今まで積んできた行いの結果からなる後悔や自責の念を伴う「ドゥリ
タ दुरित(過去の不徳な行いの結果現れる障害や困難)
」を取り除いて、
「デーヴァ देव(神々たち)」の祝福を受けられますように。
Level1:リラックスする。
正しく坐る⇒
意図的に目を閉じるリラックス法⇒
「プラーナーヤーマ प्राणायाम(呼吸法)」⇒
呼吸の観察「プラーナ・ヴィークシャナン प्राणवीक्षणम्(呼吸の観察)
」
325
第 7 章 Yoga 的瞑想「ジャパ(マントラ瞑想)」を始めよう
Level2:客観的になる。「外のものは、外のままに」
自然をとらえている客観的な状態の自分を意識する⇒
周りの世界を客観的うけとめる⇒
心に引っかかる人を自分の心からアンインストールする⇒
自分の体、呼吸、感覚、心の全レベルを観る
Level3:「マントラ मन्त्र」と唱える
「ジャパ जप(マントラ瞑想)」の開始
「マントラ मन्त्र」の場所を決める⇒
「マントラ मन्त्र」を唱える⇒
「マントラ मन्त्र」の間の静寂を観て、静寂である自分が「マントラ
मन्त्र」を唱えるようにする⇒
マントラを休止、静寂の意味をみて、しばらくとどまる⇒
「マントラ मन्त्र」をさらに繰り返す
326
第8章
瞑想の邪魔をするものへの対策
< 瞑想の障害 >
327
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
瞑想を始めた。
…うん。それはいいが、なんだかうまくいかない。坐ったとたんに眠りに襲
われる。雑念ばかり湧いて集中できない。昔の記憶にとらわれてしまう。坐っ
たことによって、かえってソワソワ心が落ち着かない…。
瞑想に特有の障害や困難はある。だれもが直面し、もちろん、インドの Yoga
の達人や賢者といわれる人達の前にさえ立ちはだかっていた共通の問題がある
のだ。この章ではこれから先、瞑想を練習していく私たちが直面するかもしれ
ない障害をみていこう。
瞑想に関する障害や困難には何があるのか? そして、その困難に対処できる
対策法は何か?「瞑想につきものの障害や困難は、だれにでもあるんだ!」と
いうことを理解して、多少の障害はむしろ挑戦!として楽しみながら乗り越え
ていけるような心構えができればいいと思う。これから歩む道に何が起こるか
想定できれば、恐れるに値しない。
瞑想を困難にする障害は誰にでも起こる。正しいメソッドでしていれば、だ
れもが共通の問題を抱えるはずなのだ。だからこの問題と対策をみていこう。
多くの達人や賢者たちが同じように瞑想において悩み、1 つ 1 つ越えていった
方法を私たちも実践しよう。
1 人で不安になったり、道において迷うことはない。対策を知っていれば、
安心して瞑想に打ち込める。後は実践のみ、繰り返しの練習あるのみ。
これから始める瞑想がスムーズに実践していけるように転ばぬ先の杖を備え
ておこう!
328
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
【障害 1】眠り
Q. 瞑想をしていると、不覚にも眠たくなってしまう…。「うぉぉぉ~瞑想し
なきゃ、
」と思っているけれど、いつも圧倒的な眠気にコロッと打ち負かされて
しまう。体は揺れに揺れ、ガクッと頭が前に落ちてふっと我に返ることや、後
ろにひっくり返りそうになったりもする。ひどい時は、気がついたら “ 迷走 ” は
おろか、いつのまにかドリーム・ワールドの住人に…。どうしたものやら?
「ラヤ लय(眠り)」への対策:
瞑想中の眠気。これは賢者ですら悩ませる。Yoga の達人達が口々にいう。
「最
終的な瞑想の敵は「ラヤ लय(眠り)」である。」
なぜ眠くなってしまうのか? そして、この眠気にどう対抗していけばよいの
だろう? 眠くなってしまう理由は、以下のとおり。
A1. 眠りが足りないから。
ハハハ。睡眠不足は瞑想中に眠りを引き起こす。当たり前なのだが、意外と
忘れがち。灯台元暗し。足元からしっかり確認していこう。睡眠不足で坐ると、
瞬く間に眠りに落ちてしまう。人の体は足りない睡眠時間を補完するために、
睡眠に限りなく近い状態である “ 瞑想中 ” の人間を眠りにひきずりこむ。だか
ら、しっかり良い眠りをとって、瞑想に望むこと。
まあ、これあたりまえすぎるとして…
しかし、盲点は、以外にあたりまえのところにあることが多い。瞑想が我々
の生活習慣を見直させてくれる切っ掛けとなるかもしれない。しっかり眠って、
しっかり座れるよう日々の生活を注意深く見直し、もし必要なら生活リズムを
改めていこう。Yoga は睡眠、食事など当たり前の日常生活においても、慎重な
心がけが不可欠。充分に眠っていない人、食べ過ぎて眠気に負けてしまう人、
そういう人には瞑想はできない。
…と、経典『バガヴァッドギーター』もいっている。逆にストイックになり
すぎて、眠らない人、食べない人にも瞑想はできない。Yoga と瞑想をするには、
329
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
規律ある日常生活、毎日のルーティンワークもおろそかにせず、バランスよく、
リズミカルで健康的な生活を送ることが望ましい。スピリチュアルな探求であ
り、修行である Yoga の道は、しっかりした日々の生き方という土台を築いてい
ることが大前提だ。弛み過ぎず、緊張しすぎない生活を、瞑想ライフをおくる
上では心がけよう。
नात्यश्नतस्तु यो‍गोऽस्ति न चैकान्तमनश्नत:।
न वातिस्वप्नशीलस्य जाग्रतो नैव चार्जुन॥
瞑想は食べ過ぎる人にも、
充分に食べない人にも達成されることはない。
眠り過ぎる人にも、充分に寝ない人にも瞑想は達成されない。
『バガヴァッドギーター』6 章 17
युक्ताहारविहार विहास्स्य युकुतचीष्टस्य कर्मसु।
युकुतस्वप्नावबोधस्य योगो भवति दु:खहा॥
程良く食べ、程良く活動し、程良く眠る。
すべての活動、毎日の生き方において、きちんとした規律を心がけてい
る人に瞑想は達成される。
日々の活動を注意深く行う。
基礎的な規律ある生活がベースにある人にとって、瞑想は悲しみを破壊
する手段となる。
『バガヴァッドギーター』6 章 18
A2. 深いリラックス状態におちいっているため。
「リアリティ瞑想」は、まずは体と心をリラックスさせ、「オリジナルの素の
自分」になることからスタートする。はて? 普段の生活で私たちが “ 身も心も
リラックス ” している状態、というのは、いつだろう?
330
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
それは、眠っている時。もっといえば、熟睡状態の時。特に緊張した毎日を送っ
ていれば、身も心もリラックスした状態というのは眠っているときのみだ。
体は、リラックスしている時、活動を休止して、眠りに落ちる。これが条件
反射になっている。だから瞑想で深くリラックスすれば、当然体は眠りの態勢
にはいる。それは当然。また普段私たちがすべての役を降ろして、
シンプルで
「オ
リジナルの素の自分」になっているときも、唯一眠っている時である。
ということは? 瞑想の前にするリラックスをして、客観的になっている状態
では、眠っている条件を 2 つも含んでいる!これは、いつ眠りについてもおか
しくない。古のヨーギーや賢者たちすら悩ませていた瞑想中の眠気。これを乗
り越えるのは、なかなかタフな作業になるだろう。
私たちの体は、ほぼ自然のプログラムで動いている。条件が揃ったら、自動
的にしかるべき状況に向かって動き出す。そうなると、“ リラックスしていて、
素の自分である状態 ” になったら、当然体の反応としたら “ 眠りに落ちる ”。
瞑想の目的を達成するためには、かなりの意志の力が試される。なんとかこ
の自然のプログラムに逆らって眠りに落ちることなく、リラックスして、客観
的である瞑想の状態を維持しようとするのだから。
そのために、できる対策はあるだろうか?
瞑想の障害「ラヤ लय(眠り)」からの打開案:
・眠りに対して、あきらめないこと。
こればかりは、意志の踏ん張りどころ。Yoga の力の試し所。眠りには断固対
抗しなくてはならない。絶対的な “ 心地の良さ ” を連れて我々を惑わす眠気に対
抗するのは、生易しいことではない。しかし、ここは必ず意志の力で、
「起きよう!
起きて瞑想にカムバックしよう!」と奮闘してみせることが大事だ。Yoga で培っ
た意志と規律は、ここでこそ役に立つ。土俵際で眠気を打ち負かす!くらいの
気概が必要。最後まであきらめずに眠気には、断固とした意志と態度で臨もう。
「目的は、起きていてもリラックスして、ありのままを受け入れられる客観的
331
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
な自分で常にあることだ。それが、この世界で生きながら自由であるというこ
と。その目的のための瞑想をしているのに、誘惑にまけて安眠を貪る気か? !」
と自分に問いかけ、決死の覚悟で瞑想に舞い戻ってこよう。とにかく眠りに
対してあきらめてはいけない…
・深い呼吸を意図的に繰り返す。
眠気は必ず前兆とともに、ヒタヒタと静かに座る私たちに忍び寄ってくる。
瞑想中、眠気のサインがきて、ウトウトが始まりそうになったら、まずは、大
きく息を吐きだそう。肺から全部の空気をだす勢いでしっかり、静かにかつゆっ
くりと、息を長く吐ききるそして、深くゆっくりと、肺に新鮮な空気が十分に
満ちていくまで吸い込む。何度かゆっくりとこの深い呼吸を繰り返す。体に酸
素に満たされ、きっと眠気から覚めることができる。それでも眠気が収まらず、
フラフラになっていたとしたら、次の対策をどうぞ。
・立ち上がって軽い運動をしてみる。
それこそインド由来の “ ヒンドゥースクワット ” を 10 回程やってみる。それ
でもだめなら、その場を走る。とにかく、体に強引にでも動かし、刺激を与え
て目覚めようとすること。眠気に対抗しているのならば、途中で瞑想を中断し
ても構わない。
目が覚めて、
リフレッシュしたら再度瞑想に戻ればいいのだから。
・水で顔を洗う。後頭部に水を少しかける。
これは最終手段だ。冷たい水で顔を洗い、その水を後頭部にかけると絶対に
目が覚める。そうやって、目が覚めたら、また瞑想に戻ればいい。何としても
避けたい事態は、瞑想中眠くなって、あきらめてそのまま眠ってしまう事。そ
れを許し続けてしまうと、瞑想をすれば、必ず眠るという、“ 瞑想→リラックス
→眠り ” という新たなプログラミングができてしまう恐れがある。このプログ
ラムを体が取り入れてしまったら、“ 瞑想と眠り ” は今後 1 セットになる。瞑想
を始めたら必ず眠ってしまうことが習慣化されてしまう。
332
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
一度習慣化されてしまったら、これを解除するのは大変な努力を強いられる。
だから何とか初期の段階で、眠らないような努力をすること。瞑想中眠くなっ
てしまったら、
「いま自分は重大な土俵際に立たされているのだ!」くらい真剣な自覚で、な
んとか眠りを打ち負かすことが肝心である。しかし、今までいろいろな瞑想を
してきて、さんざん瞑想中安眠を貪ってしまっている…すでに “ 瞑想⇒眠り ” が
習慣化されてしまった、という人。瞑想しなければ眠れない、そんな体になっ
てしまっている…という心当たりがある人。
「ひょっとして、もう手遅れ? 」いやいや、心配しなくても大丈夫。プログ
ラム解除は大変なだけで、不可能ではない。気づいた時に、習慣を改める努力
をすれば、必ずや快適にして深い瞑想ができる日がやってくる。それは、繰り
返しの練習によってのみ可能になるのだ。
Yoga の経典『バガヴァッドギーター』にもこうある。
अथ चित्तं समाधातुं न् शक्नोषि मयि स्थिरम्।
अभ्यासयोगेन ततो मामिच्छाप्तुं धनञ्जय।।
アルジュナよ!もし今、深く瞑想できず、真実に確立していないとして
」によって瞑想を練習す
も、「アッビャーサ अभ्यास(繰り返しの練習)
れば、必ずキミは真実に辿りつくであろう。
『バガヴァッドギーター』12 章 9
とにかく、あきらめない!ことが肝心。瞑想も「アーサナ आसन(姿勢、
Yoga のポーズ)」と同じように、「アッビャーサ अभ्यास(繰り返しの練習)
」あ
るのみなのだ。また、食べ過ぎ、食べなさすぎ、眠り過ぎ、睡眠不足も瞑想の
大敵、というのも経典の引用をみていったとおり。Yoga にプライオリティーを
おいて、普段の生活を改めるところから始めよう。瞑想を志す人は、
体のコンディ
ションに普段から気を使うこと、毎日の生活習慣においてもシャープでアラー
ト(敏感)な感覚を磨き続ける必要がある。
333
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
というわけで、快適に瞑想するためには、生活習慣全体を改めることが求め
られている。大袈裟にいえば、生き方を改める、ということ。
「生き方を Yoga にする」ということ。しっかりした生き方をしている、その
延長線にテクニックはある。基盤があって、テクニックが有効になるのだ。瞑
想や「アーサナ आसन(姿勢、Yoga のポーズ)」という Yoga のメソッドとテクニッ
クは、真摯な態度と、日々の生き方がベースにあってこそ最大限に効果を発揮
する。
そしてこれらのプロセスを背後で支える聖典の教えを理解することは、単な
るテクニックを越えている。高い志をもって、瞑想を達成しようと思ったら、
いやでも生き方全体が変わってゆく。どんなに長い人生も、日々の細かい行い
の選択と決断、習慣の連続でしか構成されていない。
「何を基準に物事を選び、どういう態度で自分は世界と向きあっていくのか?
」一瞬一瞬世界から突きつけられる状況に、私たちは真剣に向き合う。そこに
生き方が現れる。この心がけが Yoga 的な姿勢を決定する。これが、日々の「カ
ルマ कर्म(行い)」を Yoga にすること。
「カルマヨーガ कर्मयोग(行いの Yoga)」とは実際この心がけと態度のことを
示している。どんなに Yoga の華やかなテクニックに長けていたとしても、ベー
スが不安定では本質的な真実の理解はできない。特に瞑想は、テクニックでは
どうにもならないことでもある。シンプルな方法をどれだけ真摯に行うことが
できるか? この態度が瞑想の深さに比例する。
334
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
【障害 2】過去の記憶にとらわれてしまう。
Q. 瞑想をすると、過去に閉じ込めていた記憶の蓋が開き、パニックに陥り
そうになる時がある。パニックまでいかなくても、過去にした事やその時の思
いが繰り返し脳裏をよぎり、瞑想に集中できない。過去のとらわれから、解放
され、瞑想に集中するにはどうしたらいいのだろう?
A. 過去への対策 1 受け入れる。「Welcome !fear.」もう恐れに、恐れない。
瞑想は、深くリラックスし、何の役割も演じずに「オリジナルの素の自分」になっ
ている状態からスタートする。様々な人間関係から解放された
「素の自分」
には、
ある種のスペース、心のゆとりができる。しかも、かなりリラックスした状態で、
素になっている。
実は、他の差し迫った問題がなく、心に “ ゆとり ” が生まれた人のスペースを
狙って、ここぞとばかりに過去の受け止めきれなかった記憶や、プロセスされ
ずに閉じ込められていた思いが押し寄せてくることがある。通常私たちの未処
理の思いや感情は、
自分に受け止めらそうもない時、
外に解放されることはない。
過去の出来事において、様々な事情で表に表出させることができなかった感
情や思いは、強引に抑え込えこまれ、フリーズさせられている。それらは記憶
の中の、未処理のファイル(潜在意識)の中に格納されている。私たちは、過
去のどんなことも実は忘れてなどいない。
思い返す事やプロセスすることが許されない事情がある時、一時的にカバー
をかけられ、未解決フォルダーに投げ込まれているだけだ。それは、私たちの
正常な精神を守るために働いている自然の摂理、全体世界の法則なのだ。ちな
みにこの危機を回避する力、思いを一度隠しておく力を「アーヴァラナ・シャ
クティ आवरणशक्ति(隠す力、閉じ込める力)」という。
この力によって、思いや感情はプロセスされることがないまま、心に貯めこ
まれている。それらの思いは然るべき時がきたら、プロセスされなければなら
ない。そうしなければ、心が淀み、重たい荷をずっしり背負い込んでいるよう
なことになってしまう。
人間的な成熟、成長のためには、飲み込みきれない、受け止められない思い
335
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
を上手くプロセスして、外に解放することで可能になる。
さて、閉じ込められ、鬱積した思いたちだって、黙って大人しく閉じ込めら
れているだけではない。自分にゆとりができたときに、今こそ外に出ていくチャ
ンス!とばかりに記憶の蓋をバタバタと開けて飛びだしてくる。彼らだって重
くて暗い心の闇をぬけだし、外に出たいのだ。
それらの思いは原因をつくった張本人に認めてもらわない限り、解放される
ことがない。過去に閉じ込められた思いたちは、私に認められ、受け止められ
ない限り、潜在意識の中に潜み続ける。
だから、この思いたちも外にでて、プロセスされることを待っているのだ。
認められることを今か今かと、待っている!そして、私たちの心にゆとりがで
きた時を狙って、過去の思いたちは飛びだしてくるのだ。
リラックスした時、心を許したとき、理由がわからない感情が押し寄せるこ
とがあるのはこのためだ。1 人になって寛いだときにふと悲しい気持ちや不安
に襲われたり、自然の中で心を解放した時に突然涙が流れたり、ということは
誰もが経験していると思う。好きな人といて心を完全に許した時に、自分でも
わからない怒りや不満の感情が何の前触れもなく、堰を切って飛びだしてしまっ
た、ということもあるだろう。
それが私たちの心のメカニズムなのだ。そうやって、このめまぐるしい世界
の中で、自分を守っている。恐れ、疑問をもち、理不尽で不可解だと思ってい
る世界の中で、何とかやりくりしていくために。
瞑想しているときに限って、過去に傷つけられた記憶や逆に傷つけた記憶、
愚かな行い、馬鹿げた言動、その時の恥ずかしさや後悔、自責の念が湧いてど
うしようもなくなることがあるのも、同じ理由だ。瞑想のためにリラックスし、
客観的になった自分の心に生まれた “ ゆとり ” のスペースにむかって、閉じ込め
られた記憶たちが、我先に認めてもらうために突進してくるのだ。
記憶の「恐れ」や「不安」の原因は、その多くが子供時代につくられている
という。誰もが子供のころは無邪気で何も知らない。無知ゆえの幸せの状態が
ある。世界について何も知らないからこそ、「自分が世界の王様」であるように
振舞うことができる。たとえば、赤ちゃんは、何も知らないから、恐れがない。
336
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
しかし、お母さん、お父さん、家族、自分を世話する人々から始まり、日々
新しい人に出会い、様々な場所にいき、世界を知るようになると事情が変わる。
知れば知るほど、世界に対峙する自分は小さい者のように感じられる。世界の
中で不都合なことも苦痛も、理不尽も経験する。その度に自分の非力を感じ、
世界に対して恐れを抱くようになる。
さらに子供の時は、世界に対して自分を守る術を知らない。プロテクション
も、武器も持たずに世界に丸裸で飛び込んでいるようなものだ。そうして、傷
つく経験を沢山もつことになる。
誰もが同じように、恐れや心配や不安を子供時代に拾い集めている。世界は
自分の前に大きく立ちはだかっているように感じる。他人や環境から傷つけら
れた経験は、世界に対する恐れになる。
「世界は自分を傷つけることがある」という思い。それに対して自分はなすす
べがないという不安感。この解決しがたい恐れと不安は、潜在意識として取り
込まれる。子供時代に原因を遡ることができる恐れや不安は、未解決のまま大
人になっても潜在意識の中に残っている。私たちは最初に出くわした「恐れや
不安を与える」タイプの人や状況が記憶に刻まれている。
だから大人になっても、その時の恐れを彷彿させる人や状況に、同じような
恐れを抱くようになる。恐れと不安の原体験が、だれもが抱えている私たちの
内面にある「傷つきやすさ」だ。原体験が様々なように、
「傷つきやすいポイント」
いわゆるトリガーは、人によって違うが、繊細で傷つきやすい部分を誰もがもっ
ていることは同じ。
人それぞれに、苦手に思っているタイプの人がいる。自分が、
どうにも弱くなっ
てしまう状況がある。恐れ、不安、怒り、悲しみ、僻み、恨み、様々な感情が、
それぞれの子供の時の原体験と共に記憶の中で凍りついたままになっているか
らだ。
それらの感情は、各原体験によく似た人の出現や状況がきっかけとなって外
に飛びだしてゆく。なぜかわからないけど、イライラする、怒りがわく、悲し
くなる、というのは、自分にとって未消化のままの「感情」が、トリガ―によっ
て引き出されたからだ。誰かに対して怒っていたり、憎んでいたり、何かを恐
れていたり、悲しんでいたりするようにみえるが、実は恐れや怒りや悲しみの
337
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
原因はすべて自分の中にある。今わたしを怒らせ、イライラさせるあの人も、
悲しませる人や事柄も、ビクビクさせる人の怒鳴り声も、みんな切っ掛けにす
ぎない。そして、記憶と共に仕舞いこまれた潜在意識にある感情は、認め、プ
ロセスし、解放していかない限り、一生私たちの人生に居座り、私たちをコン
トロールし続ける。
潜在的な記憶は、現代心理学で使われるタームと思われるが、Yoga の経典で
はずっと昔から「カシャーヤ कषाय(潜在的な記憶、意識)
」と呼ばれて、しっ
かり認識されていた。なぜなら、それらは昔から Yoga や瞑想を極めようとする
求道者たちにとって道を阻む障害とされてきたからである。
その人自身に受け止めてもらうために外に出たがっている記憶は、リラック
スした状態を素早く察知し「今こそ解放のチャンス!」とばかりに、外に出て
いこうとする。瞑想をする人は、潜在意識の感情たちにとって恰好のターゲッ
トだ。
「この人はリラックスし、心に潜む俺たちと向き合おうとしているぜ!解放さ
れるのは今しかないっ! GO,GO!」そう思った感情たちはどんどん生々しい記憶
や思い出、感情という形を伴って心に駆け込んでくる。それが瞑想中に湧く思
いや残像であったり、表面化した痛みや悲しみなのである。潜在意識にある感
情たちを、認めて、受け入れ、プロセスしなければならない。
*「カシャーヤ कषाय(潜在的な記憶、意識)」
一見、波一つたてず静かに澄んだようにみえる水面の湖。しかし、どんな湖の
水面下にも、過去に亡くなった有機物の死骸が 1 つや 2 つあるものだ。腐りか
けた死骸は、時折プクップクッと思いだしたように泡をたる。泡は水面を揺ら
し、静かな湖面をかき乱す。
私たちの潜在意識「カシャーヤ कषाय(潜在的な記憶、意識)
」とはこの例え
にとてもよく似ている。過去に葬り去ったように思えた記憶は、今一見とても
穏やかそうにみえる人の心を揺らす。過去に閉じ込めた解放されるべき思いや
感情は、その人にゆとりができた時に現れる。特に、瞑想中は、解放されたがっ
ている過去が押し寄せることが多くある。
そんな時どうしたらいいのだろう?
338
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
潜在意識の影響を乗り越えるための方法なんてあるのだろうか? 突如現れる
思いたちをどうハンドルすればいいのだろう?
私たちができるただ 1 つの方法は、「思い切って受け止める」という事だ。し
かし、
「受け止める」というのも、何だからよくいわれているけど意味が曖昧な
言葉の 1 つだ。「あなた自身を受け止めて、ありのままを受け止めましょう。過
去を許しましょう~」スピリチュアル界のセレブたちの常套句。
でもいったいどうやって?
受け入れましょう♪なんてきれいごとのように、他人ごとのように聞こえる。
「受け入れられないからこんなに苦しいんじゃないか!そんなに簡単に過去を
許し、恐れを手放せたら苦労はしないさ」そんな風に思う。
それに対して Yoga が提言する解決法は、恐れをただ受け止めよう、なんて無
責任なことはいわない。しかし、もっとずっと積極的だ。それは、“ 恐れを歓迎
する ” ということ。受け入れるのではない。自ら歓迎してしまうのだ。
「よく来た!恐れよ、よくここに現れたなっ、怒りよ!」そういって恐れから
始まる、あらゆる感情を歓迎する。もう恐れに恐れない。 Welcome Fear! 大
作戦「ようこそ!よく来た、私の恐れ」
恐れる時こそ、逃げずに、抵抗せずに、恐れを歓迎する。恐れからはじまる
不安や不信、嫉妬や疑問、憎しみ、あらゆる割り切れない感情に対して、受け
入れるのではない。“ 歓迎する ” のだ。
過去の思いが、恐れや、不安や悲しみや怒りという感情と共に現れてきたら、
しっかりこういおう。小さな声で呟いてもいい。「よくきたなぁ~!過去の恐れ
や怒りたち。
ウェルカム、
ウェルカム!歓迎するよ。
さあ、
どんどんくるがいいさ」
ちょっとオーバーなくらいな言葉で思い切り受け入れ態勢をみせる。そうい
いきってしまったら、少なくとも私は “ 恐れることに ” に恐れてはいない。あら
ゆる感情に対して受け入れる以上に、許す以上に、大歓迎してしまうのだ。
多分、ここに書かれている文字を読んでいるだけでは、納得がいかないかも
しれない。しかし、これは不思議な程、潜在意識に働きかけることになる。
普通、恐れがやってきたら、私たちは「逃げだしたい」と思う。「恐れから逃
げだしたい」と思う時、私たちは「恐れ」に対する「恐れ」をもっている。
339
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
だから、逃げようとすることは、ダブルの「恐れ」を抱えることになる。も
ともとの恐れと、恐れに恐れる恐れ…もう恐れだらけだ。ここからの脱出を図
るのは、「恐れ」を歓迎する、という逆説的な方法でしかない。
そして、そんなことができるようになるためには、私たちは心に「スペース、
ゆとり」をもっていなくてはならない。「心のゆとり、スペース」は唯一瞑想を
練習することによって得ることができる
「恐れ」は取りのぞく必要はない。実際、恐れは歓迎されるべきなのだ。死の
恐れ、名声、地位、ステータス、権力、力、仕事などを失う事への恐れ。それ
らすべての恐れは、逃げるのでなく私によって迎えられるべきである。「恐れ」
は何もしない。「恐れ」は私から何かを奪う力をもっていない。
私が「恐れ」を歓迎して受け入れた時、私たちの心の中で薄暗い影を落とし
ていた思いはどこかへ行ってしまう。恐れを筆頭にした過去の記憶たち、つま
りその出来事に関して感情と共に凍りつかせた過去の自分は、だれかに受け止
められたがっている。誰かに知ってもらいたい、そして受け止めてもらいたい。
それらの感情を生みだした本人に、認めてもらいたいのだ。もし張本人に、
“ ウェルカム! ” といって歓迎されたとしたら? 感情や記憶はもうそれだけで、
満足なのだ。
認められた時、これらの受け入れ難い感情たちが再び心に浮かび上がってく
ることはない。受け止められることが、プロセスされることなのだ。これも口
でいうのは簡単だ。それはよくわかっている。思わぬ怒りや恐れや後悔に心が
とらわれてしまう時、私たちはまず逃げたり、抵抗しようとするのが普通だ。
また無理やり抑え込んでしまったり、マントラやおまじないの言葉でねじ伏せ
てしまいたくもなる。それも当然だ。
でも、恐れや感情を避けたり、別の気晴らしに逃げ込むことで避けたり、他
の考えや探求に没頭したふりをして誤魔化そうとすればするほど、それらの感
情は私たちの中で確かなものになってしまう。思いでしかない恐れが、恐怖感
という実体をもち始めてしまう。
たとえば、体が震えたり、青くなったり、心臓の動きが不連続になったり。
でももし、一度「恐れ」などの感情を歓迎しまったら、少なくとも「恐れ」へ
の恐れはなくなる。
340
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
さもなければ、「恐れ」を恐れることを恐れ、それをさらに恐れ…と終わりな
き恐れのスパイラルにおちいってしまう。だから、無理を承知でいうのだ。
「ウェ
ルカム!よくきたなっ!」と。はっきりと、そういうだけでいい。心の中でも、
言葉にだしたとしても。
これこそ、魔法の力をもった言葉だ。いったとたんに、「恐れ」が無くなる。
「よくきたなっ、“ 恐れ ”。ハハッ私はもう “ 恐れ ” に恐れたりしないのだよ。
」
こういえると、私たちの心にはある種のスペースが生まれる。このゆとりは瞑
想の練習の賜物でもある。瞑想の練習によってリラックスする事、客観的にな
ることができて、ゆとりをもつことがなければ、たぶん「ウェルカム!」と呟
くことすら難しい。恐れに巻き込まれた瞬間、「歓迎すること」なんて忘れてし
まうだろう。
「ゆとり」は私たちの中にある。私たちの内に発見されるべきものとして。瞑
想は私たちにもともと備わる心の「ゆとり」を発掘する際の大事な助けとなる。
これが瞑想によってすぐに得ることができるリターン、メリットでもある。
さて、しかしだ。もし、受け入れ態度をみせても、なんだかすっきりせず、
心に何か残っていたら、余すことなくその思いを紙に書くことでプロセスを完
結させよう。洗いざらい、すべての気持ちを余すことなく、書き殴る位の勢い
で書くのだ。どんな言葉を使ってもいい。どんなに荒く粗雑な表現でもいい。
とにかく、なんでも一度文字化して、言葉という形で外に連れだしてしまう。
言語化することで、はっきりと気持ちを形にして外に一度だしてしまう。
思いのたけをすべて書ききったら、その紙を思いっきり破いて棄てるか、燃
やす。そうして、過去に置き去りにした幼い自分とイタイケナ思いたちをプロ
セスする。瞑想は、こういった私たちの潜在意識に潜む「カシャーヤ कषाय(潜
在的な記憶、意識)」を発掘し、心の負荷を外していく優れたチャンスを与えて
くれる。
潜在意識をプロセスしていくこと。それが実は瞑想の目的「アンタッカラナ
・ シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」のもつ意味の 1 つである。
A. 過去への対策 2 Yoga 的祈り。悲しみや怒りという大きな感情の波に揺れ
動かされる時、私たちは必ずしもそれを文字にし、冷静かに受け止め、プロセ
341
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
スできるとは限らない。何の助けも見いだせず、無力感に叩きのめされること
もある。パニックに陥りそうなとき、孤独感に苛まされるその時、どうすれば
いいのだろう?
圧倒的な救いのなさ、無力感を感じる時、私たちは素直に無力を認め、大き
な力に委ねてしまうことができる。それが “ 祈り ” だ。Yoga 的な “ 祈り ” は、
実際に無力でヘルプレスな自分を救い出す有効な手立てとなる。ヘルプレスで
救いのない自分を認める。何か言葉を超えた大きな力に助けを求め、委ねよう
とする。
自分以外の何かに解決を見出そうとする前向きな態度は、もはや “ 勇気 ” とも
いえる。救いがない状態の自分を冷静にうけとめ、助けを探そうとすることは、
実践的かつ現実的でもある。
1 人で問題を抱えて立ちいかなくなった時、無力な自分を取り囲み、常に支
えとなる大いなる存在に救いを求めることができることは、非常にプラクティ
カルな解決法と Yoga ではいわれる。
私たちはたった一人で世界から孤立し、生きているわけではない。その考え
の後ろにある謙虚さと、全体世界とつながりながら生きている自分についての
事実の理解が私たちを祈らせる。そして実際 “ 祈り ” の結果が私たちを救うだろ
う。
Yoga 的祈り:
祈りという行いは、積極的なアクションだ。自らの意志のもとに行う「カル
マ कर्म(行い)」である。「欲しいモノはよくわからないけど、
なんでもいいから、
とにかく良くなりますように。」というような、ぼんやりとしたお願いとは訳が
違う。“ 祈る ” という「カルマ कर्म(行い)」は、自分が何をしたいのか、その
ためにどういった助けが欲しいのか? ということを具体的に、明確にすること
でもある。
はっきりした願いを、世界を維持する法と秩序に向かって宣言する。そうす
ることで、目にみえるレベル、目にはみえないレベルで働くあらゆる力と法を
味方につけることができる。
342
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
フワフワした希望を、ふんわりいってみることは “ 祈り ” ではない。意志をもっ
て、目的を明白にし、心、言葉、体を使った 3 つの方法で形にすることができ
る行いが “ 祈り ” なのだ。
私たちは今自分のもつキャパシティーでは、越えられないような困難な問題
にでくわした時、そこから解放される道を “ 選ぶ ” 必要がある。その時、私たち
が “ 選べる ” 行いの 1 つが祈りである。
「祈り」は人から強制されて行うことはできない。100%自分の意志に基づく
行い。また「祈り」の結果は私たちには推測することすらできない。自分が世
界に放った行いが、何らかの形で結果として戻ってくる「カルマの法則(行い
の法則)
」の存在は知ることできるが、そのメカニズムや因果関係に至っては推
測すら及ばない。祈りの結果、望んだとおりのことが起こるかもしれないし、
起こらないかもしれない。どうなるかは、だれもわからない。
それでも祈りという行いは、この複雑な「カルマの法則(行いの法則)」に有
効な働きかけをすることができる、という事実は『ヴェーダ(聖典)』が記して
いる。
「祈る」という行いは、“ 自由意志 ” の力を 100%使った行いであり、世界を
巡らせる大きな法則に委ねること。全体の法に働きかける以上、願いは明白で、
具体的であればある程、具現化しやすい。
さらに、祈りは自分自身の望みを汲みあげる行いだ。本当は何が欲しいのか?
何が望みなのか? 自分の心の奥深くにある本当の願いを、祈る度に汲み上げ
る。はじめは、何もかも欲しくて、雑多に多くの事を願うかもしれない。祈り
に至る前に、私たちは自分と向き合う時間をもつことになる。望みをはっきり
させなければ、結果につながる行いとしての祈りを慣行することができないか
らだ。
だから、祈る度に私たちは自分自身と向き合う。祈りを通して私たちは、自
分自身を探求する。そして心の奥にある望みが、祈りによって徐々にはっきり
と姿を露わにする。
しかも、祈りの結果に関しては、私たちは世界の法を信頼し、委ねることし
かできない。目の前に与えられた結果に関しては、行いの結果として祝福をもっ
て受け入れることだけが、私たちにできることだ。祈りは私たちのキャパシ
343
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
ティーと可能性を広げる。
すべての出来事にいえることだが、私たちは簡単に物事を “ 成功・失敗 ” とい
う 2 極に分けることはできない。結果はなんであれ、世界の法を通って自分の
行いが実ったものであり、今の失敗が成功につながることもあるし、成功は次
の困難に立ち向かうためのはずみ、かもしれない。物事の因果関係、「カルマの
法則(行いの法則)
」は深遠だ。先の結果として世界から何がもたらされるかは
誰にもわからない。何をもって出来事を “ 成功だ、とか、
失敗だ ” とかいうのだ?
そんな風に「カルマの法則(行いの法則)」の現われを短絡的に結論づけるわけ
にはいかない。現実的で、大きな視野に立って物事をとらえれば、すべて起こ
るべくして起こっている。世界に失敗はない。
祈ることで、私たちは客観的に、謙虚に自分がつながる全体世界をみること
ができるようになる。どんな “ 結果 ” も引き受けられる強さと大きさを養うこと
ができる。賢さと謙虚さと実用的な考えをもって、選ぶ行いこそが「祈り」だ。
人を成長させる祈り方は、Yoga における大事な修行の 1 つとして経典にも記
されている。それが、『Yoga Sutra(ヨーガスートラ)』でいわれる、
「イーシュヴァラ・プラニダーナ ईश्वरप्र्णिधान(全体世界に委ね、祈
ることができること)」
『ヨーガスートラ』2 章 32, 45
という態度である。
祈りの実践
< 過去に振り回され、不安、悲しみ、落ち込み、怒りを抱えてしまうときの祈り >
自分 1 人の力ではどうにもならない思いや感情が暴れだしそうな時、私たち
は以下のような言葉を心でいい、祈りという形で外に吐き出すことができる。
そして、ただ無力さとむなしさをぼやくだけではなく、はっきりと言葉にして
344
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
救いを求める願いを表すことが、全体世界に対して働きかけをする「カルマ
कर्म(行い)」となる。
祈りにも、様々な内容があるが、客観的で現実的な祈りの内容は以下のとお
り。この内容を含めながら、自分の心の内にある思いを祈りによって汲み上げ、
謙虚な姿勢で世界、
「イーシュヴァラ ईश्व(
」
に悩みを委ねてしまおう。
र 全体世界)
「どうか、自分の力ではどうにもならないことを認め、受け入れることができ
る広さと大きさを与えてください。意志と努力で変えられる事は、変えること
ができる強さと意志と勇気を与えてください。変えられる事、変えられない事
の違いを知る賢さと知恵が、いつも私にありますように。
」
この体に関する限り、自分には限られた能力、知性、感情が与えられている。
そして体、知性が含まれた小さな個というユニットは、全体世界につながり、
機能している。体の隅々、考えのどんな小さな部分にも、全体を維持する法と
秩序が満ち、動いている。
今、この瞬間にも、ダイナミックに世界を動かし続ける力と法則と秩序が、
自分を支えている。全体を司る法と力に、私たちは個としての限界を委ね、救
いを求めることができる。「祈り」という意志ある行いによって、全体世界に呼
び掛け、この力をよりピンポイントで必要な部分へと働かせることができる。
「行い」を世界に向かって放てば、必ず「結果」が法を巡って自分の元へとやっ
てくる。祈りという「カルマ कर्म(行い)」の結果を、喜びをもって受け止めら
れるような強さと賢さと広さを、さらに祈ることができる。
「どうか、自分の力ではどうすることもできないこと、変えられないことを、
素直に受け止められる心の深さと広さ、成熟が私にあるように。意志と努力で
変えられることに対しては、変えていくことができる強い意志の力があるよう
に。変えることができないこと。変えることができること。この2つの違いを
見極める知恵と賢さが私にあるように。」
過去を変えることはできない。子供の時の出来事、それについて思ったこと、
両親、環境、友達…過去におけるすべての事はどうすることもできない。今ま
での人生で起きたことは、誰にも変えることができない。起きたことは、すで
に起きてしまったこと。これに対して、今の自分にできることは何もない。過
去に起きたことに関して、今の私が悔いる理由はない。そして、悲しみ、落ち
345
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
込み、怒る、理由はない。起きてしまったことは、すでに過ぎ去った事。その
時の自分には、そうするしかなかっただけのことだ。
だから、過去に起きたことに対して、“ 今悩んでいる ” という状態を手放そう。
起こったことのすべてを、“ 人生を彩る出来事の 1 つ、自分を成長させた 1 つ
の出来事 ” として、今の自分が受け止めてしまえるように。
失敗と思ってしまったことも、後悔も、恥ずかしさも、事件も、もしそこか
ら自分が何かを学ぶことができたのなら、それは大事な経験であり、学びなの
だ。ただ後悔や罪の意識に苦しんでいるだけでは、何もならない。過去は変え
ることはできない。受け止めることしかない。苦い出来事も、学びに変えるこ
とができるのは、自分のとらえ方次第。
ただし、今と未来に対しては、変ることができる。いくらでも修正できる。
未来を変えるための努力が、今きちんとできるように、物事を適切な方向に進
められるような能力と意志の強さをこの瞬間に祈ることができる。後悔よりも、
前向きな今と未来を自分はつくっていこう。
貴重な時間を、変えられないことを思い悩み、苦しんで、無意味なものにし
てしまわないように。これから変えることできる可能性はいくらでもあるのに、
可能性のない事にとらわれて、無駄な時間を過ごすのはもうやめよう。
今、変えられること。
今、変えられないこと。
この 2 つの違いを見極めることは、簡単なことではない。それには物事に対
する理解と客観的な物の見方・考え方が必要だ。過去にとらわれて、今を無駄
にすることではなく、今できることに自分が進んでゆけるように。知恵と賢さ
がいつもあるように。
こんな風に冷静で前向きな祈りを、私たちはすることができる。今に目覚め、
この瞬間に起きていることに集中するために祈る。行いを自由に選べる特権を
従えて、この瞬間に目覚めていよう。私たちの意志も自由も考えも、後悔する
ためにあるのではない。
流れる時間の一瞬一瞬を常にみている “ 自分の存在 ” は、どんな時も揺れるこ
とがない。その証拠に、いつも私たちは、今という瞬間に気がつくことができる。
346
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
自分の存在は、どんな時もあり続ける。現れたり、消えたりする断続的なも
のではない。そして物事は移り変わる。この言葉をつぶやいている時でさえ、
常に言葉は時間とともに流れ、変わり続ける。
しかし、“ 私の存在 ” は、どうだろう? 言葉が移ろい、時間が過ぎてゆくこ
とを観ている自分はここにいる。“ 自分という存在 ” はいつも、今ここにある。
その自分は、全体世界と常につながっている。今、この瞬間にも。
すべての出来事が、全体の法と、秩序につながれて、流れの中で起きている。
あるべきことがある。起こるべきことがおこっている。本当は自分に、失敗な
どないのだ。沢山の種類の豊かな体験があるのだ。
過去の自分を責める理由はない。自分と同じように世界とつながりあってい
きている他人を責める必要もない。どんな出来事も、全体の中にある。変わる
ことがない自分自身の存在をベースに、すべて起こるべきことが展開している
だけなのだ。
世界のあるがままに、自分の個人的な責任をもちこむ必要はない。大きな全
体世界の流れに、自分を責める事や後悔する習慣も、悩みも苦しみも解き放っ
てしまおう。
【障害 3】雑念で心が乱れる
Q. 瞑想中、雑念が出てきて仕方がない。雑念に弄ばれつづけ、
心はあっちいっ
たり、こっちにいったり…集中しようと決意したとたんに、流される。もう瞑
想というよりは “ 迷走 ” なんです。一体どうすればいいのでしょう?
雑念への対策:
『バガヴァッドギーター』という Yoga の経典の中でも、
文武両道で国民的ヒー
ローだった主人公アルジュナが同じ事を師に聞いている。
347
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
अर्जुन उवाच
योऽयं योगस्त्वया प्रोक्त: साम्येन मएहुसूदन।
एतस्याहं न पश्यामि चञ्चलत्वात् स्तिथिं स्थिराम्॥
चञ्चलं हि मन: कृष्ण प्रमाथि बलवद्द्ढम्।
तस्याहं निग्रहं मन्ये वायोरिव सुदुष्करम्॥
アルジュナが聞いた。師クリシュナよ。あなたが語った Yoga とは、す
べてに共通の 1 つの根源をみること、それは客観的なビジョンと心の静
寂に定まるから可能であるという。しかし、私の心は乱れている。どう
しようもなく揺れに揺れて、静けさに定まった心で世界をみる事などで
きない。
心は動き回る。しかも、乱れて、動揺する。まるで心は強い力で私をか
き乱す暴君のようだ。そんな心を扱い、治めることは、私には不可能な
ことのように思う。心を扱うことは、風をつかむことのように難しい。
実際、風をつかむことの方が、よっぽど簡単なように私には思われる。
『バガヴァッドギーター』6 章 33, 34
『バガヴァッドギーター』のストーリーが展開されていた当時、主人公のアル
ジュナは世界最強の戦士、そして世界一有名な弓の名手であった。尋常でなな
い集中力と精神力をもつアルジュナですら、心に関してはこの弱気発言である。
国民的ヒ―ローの彼ですらこのあり様なのだから、現代人の凡庸な私には、
それはそれは強大な敵にもなりうるだろう。心を扱いきれない、というのは当
たり前なのかもしれない。
それに対する Yoga の師匠、クリシュナの答えはこうである。
श्रिभगवानुवाच
असंशयं माबाहो मनो दुर्निग्रहं चलम्।
अभ्यासेन तु कौन्तेय वैराग्येण च गृह्यते॥
348
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
「バガヴァーン भगवान्(全知全能の象徴)」クリシュナはいった。
「アルジュナ君、心に関しては全くキミのいう通りだな。心は動揺し、
乱れ、マスターすることは非常に難しい。でもな、心を治めるのは不可
能ではないのだよ。それは不断の努力「アッビャーサ अभ्यास(繰り返し
の練習)」と、普段から物事を客観的にみる「ヴァイラーギャン वैराग्यम्(冷
静さ、客観視)」によって達成することができるのだから。
」
『バガヴァッドギーター』6 章 35,36
Yoga の師匠は、「アッビャーサ अभ्यास(繰り返しの練習)
」と、客観的に物事
をみる「ヴァイラーギャン वैराग्यम्(冷静さ)」ことで不動の心をモノにできる
といっている。
何に対しても客観的な見方ができるようには、
「アッビャーサ अभ्यास(繰り返
しの練習)
」しかないという。ありのままをとらえることが当たり前にできるよ
うになるためには、“ 瞑想 ” の練習を積み重ねるしかない。 そして Yoga の師匠
は、
瞑想中に荒れる心、
雑念で飛び回る心に関しては以下のように提言している。
यतो यतो निश्चरति मनश्चञ्चलमस्थिरम्।
त्त्स्ततो नियम्यैतदात्मन्येव वशं नयेत्॥
どんな理由であれ、絶え間ない変化と刺激の中で心は落ち着かずに流
れ、瞑想中ですらいつの間にか心は奪われ、どこかへ去ってしまう。そ
れに対しては必ず意志をもって “ 連れ戻す ” こと。走り去る心を元の瞑
想の対象に “ 引き戻す ” ことは、自分の意志でのみできるのだから。そ
うすれば、心は必ずいつかキミの手の内に治めることができるよ。
『バガヴァッドギーター』6 章 26
瞑想中、私たちは心を 1 つの対象に定める。जप ジャパ(マントラ瞑想)」
では、「マントラ मन्त्र」を対象に、心の動きを 1 つに定めている。思考の流れ
を 1 つに定めようとする試みが瞑想である。もし、心が「マントラ मन्त्र」を繰
349
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
り返し唱える事から離れていったら、必ず元の流れに連れ戻す。これが意志で
できる瞑想である。
心の動きを客観的にみる。心が自分の意志に反して離れていったら、必ず元
の作業「マントラ मन्त्र」を唱えることに連れ戻すこと。心は私が使う道具であ
る。心を意志の元で使っているのは、私である。この関係性をはっきりさせて
おくのだ。ハンドルを握る主導権は私の方にあり、心は私に使われる物である。
それは、
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」のように、集中のポイントを明確に定
めた瞑想の練習を積み上げることではっきりさせることができる。道具である
心と、それを使う主人である自分との関係。
その意味で「जप ジャパ(マントラ瞑想)」は、心を扱う最も有効な方法で
ある。心は揺れ動くという性質をもつものだ。自然にしていたらフラフラと脈
絡なく、方向もなく、リズムや音や刺激に引きつけられて歩きまわる性質をも
つのが心である。だから私たちは心の動きを予測できない。
しかし、「जप ジャパ(マントラ瞑想)」においては、「マントラ मन्त्र」とい
う一つの考えに定めようとしているため、心の次の動きが予測可能になる。「マ
ントラ मन्त्र」から「マントラ मन्त्र」へ。瞑想中は心の動きが定まっているは
ずである。「マントラ मन्त्र」から「マントラ मन्त्र」へ。心の動きの方向を定め
ることによって、私たちは予測不能な心を扱い、その性質を理解し意志のもと
に扱い、マスターすることができる。
「アッビャーサ अभ्यास(繰り返しの練習)」によって “ 瞑想的な資質 ” が自分
にできたとき、深い瞑想は自然に起こる。それまで、私たちが意志によって行
うことができる瞑想とは心の動きを 1 つの対象につなげること。
心に冷静に対峙し、観察し、軌道から外れようとしたら、元の対象に連れ戻
す事である。この地道な作業によって、私たちは心を扱うことができるように
なる。それが瞑想の練習である。それが自然にできるようになったとき、私た
ちは必ず心の主人となり、瞑想をできる質を備えることになる。その時、深い
瞑想が向こうから必ずやってくる。Yoga の経典が保障している。心配すること
はない。
インドの「ヨーギー योगी(Yoga の実践者、達人)」達ですら、心が動きまわっ
て仕方ない…。というような同じ悩みを抱えていたのだ。彼らはここに記した
350
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
ことと同じ対処法で、それを克服した!
瞑想のメソッドとテクニックにおいて外してはならないことは、
『ヴェーダ(聖
典)
』の教えをバックボーンにした、適切な理論に裏打ちされた正しいメソッド
に従う事だ。そして、意志をもってそれを実践すること。それさえあれば、必
ず瞑想は達成することができる。瞑想を達成し、心を扱い、私たちは心を自分
の最高の友にすることができる。
そうして、Yoga のゴールへとぐんぐん近づいていく。Yoga の道の向こうに
広がる限りない自由は、もうすぐそこにみえている!
安心して、しっかり瞑想の練習にはげんでいこう。
351
第 8 章 瞑想の邪魔をするものへの対策
352
第9章
「マントラ(真言)
」について
353
第 9 章「マントラ(真言)」について
瞑想に適したマントラ
Yoga に対する真摯な態度と、目的に向かって努力しようとする意志があれば
誰でも自分の「マントラ मन्त्र」をもつ資格がある。
「ぜひ、自分も『ジャパ जप(マントラ瞑想)』をやってみたい」と、そう思う
人は誰でも自分専用の「マントラ मन्त्र」をもつことができる。
自分の「マントラ मन्त्र」をもつ事、それは単に気まぐれや思いつきではなく、
この人生の前にも Yoga を志したことがあり、鍛錬していた時の記憶
「サンスカー
ラ संस्कार(過去の経験による意向、記憶)」によるものだろうとも経典はいう。
「Yoga を極める」という目標が前世からつながる糸となり、今世の私たちの生
き方も貫こうとしている。
Yoga をしたい、瞑想をしたい、マントラをもちたいと思うということは、い
く世にも渡った願いと記憶に突き動かされているからであるという。それ程私
たちの自由を求める願いは根深い。
とにかく、真剣な試みがあれば、瞑想の道具として「マントラ मन्त्र」は誰も
がもつことができる。「マントラ मन्त्र」の出典はすべて『ヴェーダ(聖典)』で
ある。膨大な種類のマントラがある。「プラパンチャ・サーラ प्रपञ्च-सार」とい
う本では、全「マントラ मन्त्र」を確認することができるがそのボリュームたる
や尋常ではない。
普通「マントラ मन्त्र」は、いくつかのサンスクリット語の音が組み合わされ
てできている。中には 1 音だけのものもある。このサンスクリット語の 1 音は、
「ビージャクシャラ बीजाक्षर(マントラの種)」と呼ばれる。その音がマントラ
として扱われる場合、
「ビージャマントラ बीजमन्त्र(1 音マントラ)
」といわれる。
すべての「マントラ मन्त्र」に共通しているのは、音の中に全体世界を治める
力と法の意味が表現されているということである。全体世界は、「イーシュヴァ
ラ ईश्वर(全体世界)」である。それは、法則と秩序として今も展開し、どんな
些細なことにも行き渡る。細部を治めるのは、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世
界)
」の法則と秩序につながった細かい法の連なりだ。これらの様々な法と力の
象徴を、サンスクリット語では、「デーヴァ देव(神々たち、法則)
」という。
354
第 9 章「マントラ(真言)」について
たとえば、世界のあらゆる力、パワー。私たちが望んだり、体を鍛えたり、
動かしたり、決断するのも皆パワーがあるからこそ。このパワーも全体世界の
法則と秩序のもとに働いている。
このパワーの象徴は「シャクティ शक्ति( 力 )」と呼ばれている。
「シャクティ
शक्ति( 力 )」という言葉を、1 音で表したら「フリム ह्रीम्」という音になる。だ
から、パワーを象徴するマントラは「フリム ह्रीम्」となる。
同じように、“ 豊かさ ” を統制する法則と秩序は、「ラクシュミー लक्ष्मी(豊
かさ)」と呼ばれる。
「ラクシュミー लक्षुम(豊かさの象徴)
」
を 1 音で表現すると、
ी
「シュリム श्रीम्」という音になる。ゆえに、豊かさを象徴であるマントラは
「シュ
リム श्रीम्」
。
トータルな全体世界は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」であるが、これ
を 1 音で表せば「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)
」となる。
「ओम् オーム(全
体世界を現す 1 音)」は特別に「プラナヴァ प्रणव(神聖な音)
」とも呼ばれる。
実は「ビージャマントラ बीजमन्त्र(1 音からなる真言)」は、普通のマントラ
斉唱とは違い、宗教上の規律と、『ヴェーダ(聖典)』による規定された生き方
をする者にのみ用いられるべきであるとされる。聖典の規定に満ちた生き方は、
インドでさえ現在は困難だ。
聖典に規定されている約束事を「ニヤマ नियम(規定、ルール)
」というが、
これに従えない人々が、「ビージャマントラ बीजमन्त्र(1 音からなる真言)」を
使用するのは、無責任な行いとされる。
この理由からも読み取れるように、私たちは「マントラ मन्त्र」なら、なんで
もかんでも瞑想に使用してよい、というわけではない。昔から「ヨーギー योगी
(ヨーガの実践者、達人)」たちが瞑想において使用し、実践し、安全で高い効
果を得ているという伝統的な「マントラ मन्त्र」を瞑想では使うことが望ましい。
そして肝心なのは、「マントラ मन्त्र」はどれを使うか? ということよりも、
どう使うか? ということだ。どんな態度で、どう使うかが、マントラの効果を
引き出すファクターである。どのマントラを誰にもらうか? は、あまり重要で
はない。真摯な態度で、きちんと習慣づけられた瞑想の中で「マントラ मन्त्र」
が使われて、初めて威力が発揮される。
355
第 9 章「マントラ(真言)」について
ここの本に載せた「マントラ मन्त्र」はどれも意味があり、瞑想において高い
効果があげられると実証されたものだけだ。ここから、自分にとって印象深い
もの、相性のよい音の響き、好みによって自由に決めて良い。ただし、一度「マ
ントラ मन्त्र」を決めたら、途中で変えずに瞑想で使い続けること。インドでは、
一度与えられた「マントラ मन्त्र」は一生使う。
例外は、出家した時だけ。「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」以外の他の
音は捨て去り、出家後は、オーム 1 音だけを携えて生きてゆく。それでも、出
家者だろうが、在家であろうが、どの階級に属していようが Yoga を達成するこ
とを主眼においた生き方をする者は「マントラ मन्त्र」を使った瞑想「जप ジャ
パ(マントラ瞑想)」は一生続ける、ということは変わらない。
繰り返すが、
「マントラ मन्त्र」自体はどれを選んでも同じである。「マントラ
मन्त्र」を唱える事で何かが起こるだろう、と期待している人がいるかもしれな
い。
しかし、
「マントラ मन्त्र」に力を与え、効果を発揮させ、Yoga 的生き方に有
効となるのは、どれだけ真摯な気持ちで繰り返し練習したか、ということだけ
だ。一度選んだら、瞑想する度に何度も唱える。「マントラ मन्त्र」は道具でし
かない。力を与えることができるのは、使う人のみである。
さあ、それでは、第一印象とひらめき、直感で自分の一生の友を手にいれよう。
*ここに掲載した「マントラ मन्त्र」はすべて『ヴェーダ(聖典)』がベースとなっ
ている。それぞれの音は「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」を象徴し、伝統
に基づいた効力のある神聖なものだけだ。ここからどれを選んだとしても、瞑
想を続けることで、必ず「マントラ मन्त्र」は威力を発揮する。特別な力を持っ
た「マントラ मन्त्र」だけを厳選して載せている。
*多くの 「マントラ मन्त्र」 には、「ナマハ नम:」という言葉が使われている。
これは、悩みや葛藤で狭く閉じている自分を広く開け放ち、全体世界の法と秩
序、大いなる力に委ねる、明け渡す真摯で謙虚な態度を示す言葉である。
「ナマハ नम:( 自分を明け渡し、委ねること )」
この一語の中に、瞑想をする自分、Yoga をする自分、スピリチュアルな探求
を志した自分の思いがすべて内包されている。
356
第 9 章「マントラ(真言)」について
*また瞑想では、短い「マントラ मन्त्र」であるほど効果を上げやすいといわ
れる。簡単で、覚えやすく、唱えやすい「マントラ मन्त्र」をどれだけ心の道
具として使っていけるか? これが「マントラ मन्त्र」瞑想の目的であるからだ。
この辺りも踏まえて、自分にあった「マントラ मन्त्र」を選ぼう!
【瞑想に適したマントラ】
対象
「マントラ मन्त्र」
特徴
「イーシュヴァラ ईश्वर 」
ओम् ईशाय नम:।
総合的に全体世界を表す
全体世界の象徴
オーム・イーシャーヤ・
マントラ。「イーシャ ईश्
すべてを治め、統治する
ナマハ
(統治する、治める)」
すべてを統括する法と力
力と秩序の現れ
の象徴。バランスの取れ
た「マントラ मन्त्र」
「シヴァ शिव 」
ओम् नम: सिवाय।
「シヴァ शिव」という音
すべてを 1 つにする
オーム・ナマ シヴァーヤ
は、それだけで吉兆、神
力の象徴
聖とされる。Yoga を教
え導く存在でもある。す
べてを原因の形に戻す
力、通称 “ 破壊を司る者 ”
として「シヴァ शिव」は
象徴される。吉兆と祝
福、そして様々な障害と
「パーパ पाप(不徳)」
の破壊の願いをこめて唱
えることができる。
357
第 9 章「マントラ(真言)」について
「ガネーシャ गनेश 」
ओम् श्री गनपतये नम:।
象の頭をもつ神。あらゆ
障害を取り除き、
オーム・シュリー・
る困難と障害を取りのぞ
道を開く力
ガナパタエー・ナマハ
く力の象徴に心をつなぐ
ことで、進むべき道が切
り開かれ、追い風を受け
ることができる。
「ヴィシュヌ विष्णु
ओम् नमो नारायणाय:।
世界のすべてにあまねく
(秩序と維持の力、
オーム・ナモー
行渡り、秩序を形成し、
すべてに行渡る者)」
ナーラーヤナーヤ
維持する力の象徴。
平和と Yoga の最終的な
ゴールの達成を意味す
る。
「ドゥルガー दुर्गा」
ओम् श्री दुर्गायै नम:।
「ドゥルガー दुर्गा」と
「シャクティ
オーム・シュリー・
は、
越え難い困難のこと。
शक्ति( 力 )」の象徴
ドゥルガーヤイ・ナマハ
また自分の内と外、どち
らにしても困難を越えさ
せる力を与える存在も
「ドゥルガー दुर्गा」と
いう。
10 本の腕に武器をも
ち、虎に乗る姿で描か
れる。人々を悪や誘惑、
苦悩という「ドゥルガー
दुर्गा」から守る力の現
れである。
358
第 9 章「マントラ(真言)」について
「サラスヴァティー
ओम् श्री सरस्वतियै नम:
あらゆる知恵の象徴。
सरस्वती」
オーム・シュリー
この象徴に心をつなげる
知の法則の象徴
サラスヴァティヤイ・
ことで、物事を深く理解
ナマハ
し、記憶し、必要な時に
必要なデータを取りだ
し、扱えるようになる力
を得ることができるとい
われる。
「ラクシュミー लक्षम
ु ी」
ओम् श्री लक्षुम्यै नम:।
あらゆる豊かさの現れ。
豊かさの象徴
オーム・シュリー・
財産、能力、子孫、物
ラクシュミヤイ・ナマハ
質、知力、恵まれた容姿
など、様々な形で現れる
豊かさを象徴する。世界
の豊かさを手にし、味わ
いたいという願いに直接
効果があるといわれる。
「ダクシナムルティが
ओं नमो भगवते 「シヴァ शिव」の化身で
दक्षिणामूर्ति シヴァの化
दक्षिणामूर्तये मह्यं あり、すべての生物が
身)
श्रीयं मेधां प्रज्ञं 最終的に「モークシャ
知恵と 「モークシャ
प्रयच्छ स्वाह॥
मोक्ष(悟り・自由)」を
オーム ナモー 達成できるように導く力
導くスピリチュアルの探
バガヴァテー
の象徴でもある。
求を示す力
ダクシナムルタイェー
「マッヒャン(私に)」
マッヒャン シュリーヤン
「シュリー(豊かさ)」
メーダーン プラグニャン
「メーダー(知恵)」
プラヤッチャ ソヴァーハ
「プラグニャ
(理解)
」
が、
मोक्ष( 悟り・自由 )」 へ
「プラヤッチャ(与えら
れるように)」
359
第 9 章「マントラ(真言)」について
「ウマー उमा」女神
ओं नमो भगवते あらゆる力、豊かさ、知
「シャクティ
उमामहेश्वराय मह्यं 恵のシンボルである。
शक्ति( 力 )」と豊かさ、
श्रीयं मेधां प्रज्ञं 「マッヒャン(私に)」
知恵の象徴
प्रयच्छ स्वाहा।।
オーム ナモー バガヴァテー
ウマーマヘーシュヴァラーヤ
マッヒャン シュリーヤン
メーダーン プラグニャン
「シュリー(豊かさ)」
「メーダー(知恵)」
「プラグニャ
(理解)
」
が、
「プラヤッチャ(与えら
れる)」ように、という
意味をもつ「マントラ
プラヤッチャ ソヴァーハ
मन्त्र」。
「ラーマ राम」
राम राम राम राम ラーマという音は語源√
「ダルマ धर्म( 秩序、守
राम राम राम राम रम् ラム(喜ぶ)から派
るべきこと )」と「喜び」
ラーマ ラーマ ラーマ
生している。この音を唱
の象徴
ラーマ ラーマ ラーマ
えるだけで、心が開き明
ラーマ ラーマ
るく前向きになる。
また、「ターラカマント
ラ तारकमन्त्र 」ともい
われ、自由と救いと悟り
をもたらす強力な力があ
るマントラといわれてい
る。
360
第 9 章「マントラ(真言)」について
「ラーマ राम」
श्री राम राम 秩序と、正しさを守る法
「ダルマ धर्म( 秩序、守
रामेते रमे रामे 則の象徴。
るべきこと )」の象徴
मनोरमे।सहस्रनाम 「ダルマ धर्म(秩序、
तत्तुल्यं रामनाम 守るべきこと)」を確立
वरानने॥
श्रीरामनाम वरानन ०म् नम इति
シュリー ラーマ ラーマ
ラーメーテ ラメ― ラ
メ― マノーラメ
サハスラナーマ する基盤となる力。
障害や問題から強い意志
によって守られるよう
に、常に適切で正しい道
を歩んでいけることを願
うのに最適な対象であ
る。
タットゥリャン
ラーマナーマ ヴァラーナネー
シュリーラーマナーマ
ヴァラーナーナ
オーム ナマ イティ
「कृष्ण クリシュナ(ヴィ
हरे राम हरे राम
別名「マハ・マントラ
シュヌの化身)」
राम राम हरे हरे।
महमन्त्र(偉大なるマン
すべての魅力、喜びの象
हरे कृष्ण हरे कृष्ण トラ)」といわれる。
徴
कृष्ण कृष्ण हरे हरे।।
「カリユガ कलियुग(鉄
ハレー ラーマ の時代)」といわれ、精
ハレー ラーマ
神的な活動、Yoga 的な
ラーマ ラーマ 探求には非常に困難な時
ハレー ハレー
である現代には、最適な
ハレー クリシュナ
マントラされている。
ハレー クリシュナ
過去のあらゆる「パーパ
クリシュナ クリシュナ
पाप(不徳)」の結果、罪
ハレー ハレー
の意識や障害の原因を取
マハ―マントラ
り除けるとされる。
『カリサンタラナ・ウパ
ニシャッド』より
361
第 9 章「マントラ(真言)」について
「कृष्ण クリシュナ(ヴィ
ओम् नमो भगवते 「クリシュナ कृष्ण」と
シュヌの化身)」
वासुदेवाय।
は、「कृष् クルシュ(存
すべての魅力、喜びの象
オーム ナモー 在)」
「न ナ(アーナンダ、
徴
バガヴァッテー 喜び)」という意味であ
ヴァースデーヴァーヤ
る。またすべての者を惹
きつける者という意味も
ある。
世界を維持する「ヴィ
シュヌ विषुणु(維持する
力)」の化身であり、『バ
ガヴァッドギーター』で
は悟りの知恵と、そこに
至る知恵である Yoga と
瞑想を主人公に教えた。
Yoga を極めるために、
自分の真実である喜びと
魅力を実感するために唱
えられるマントラ。
「ガヤトリ गयत्रि」
ओम् भूर्भुव॒स्स्व॑:।
真実の知識を求め、
知恵の象徴
तत्स॑वि॒तुर्वरे॑ण्यं।
Yoga の達成を願うすべ
भर्गो॑ दे॒वस्य॑ ての探求者に最もふさわ
धीमहि।धियो॒ यो न॑:
प्रचो॒दया॑॑त्।
オーム ブーブバ ス
ヴァハ ।
タッサヴィトゥルヴァ
レーンヤン バルゴウ デーヴァシャ
ディーマヒ ディヨー ヨー ナ プラチョーダヤート
しいとされる伝統あるマ
ントラである。
<意味>
オーム
天と地と、その間の空を
治める最も偉大なる存在
よ。自ら輝き、全知全能
であり、全世界の法則と
秩序の現れに私たちは心
をつなげ、瞑想します。
どうかその者の大いなる
知恵が、私たちを真実に
導きますように。
362
第 9 章「マントラ(真言)」について
ちなみに、有名な「ソーハン सोऽहम्」という言葉が「जप ジャパ(マントラ
瞑想)
」として紹介されていることが多いが、これは「जप ジャパ(マントラ
瞑想)」のマントラではない。
「マハ―バーキャン महावाक्यम्(真実を明かす一文)」といわれる意味をもった
「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」の文である。ゆえに、「जप ジャ
パ(マントラ瞑想)」で使用する「マントラ मन्त्र」としては勧められていない。
同じく、「アハン・ブランマ・アスミ अहं ब्रह्म अस्मि(私は「ブラフマン
「タット・トヴァン・アシ तत् त्वन् असि(あなたの本質とは全
ब्रह्मन्」である)」
体である)」も「マハ―バーキャン महावाक्यम्(真実を明かす一文)
」である。
これらは、
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」ではなく、一通り聖典を勉強
した後に、教えの意味をより深く実感するための熟考「ニディッデャーサナ
निदिध्यासन(聖典のビジョンの熟考)」で用いられる文章である。
熟考は、対象を 1 つに定めた瞑想とは、方法論が違う。この 2 つは混同され
るべきものではない。私たちが今目指したいのは、心を扱うための瞑想。その
ためには、
「जप ジャパ(マントラ瞑想)」テクニックが最大に効果を発揮され
るマントラを選ぶ必要がある。瞑想の目的を達成するためには、目的に合致し
た適切な道具を選ぶべきなのだ。
ゴールとメソッドと正しいツール。このアライメントを守り、まっすぐ私た
ちは得るべきものを手にするために適切な「マントラ मन्त्र」を選びたい。
「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」について
」
。
Yoga のクラスでよく先生方が唱える「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)
これもマントラだが、瞑想で使うには実はかなりアドヴァンスなテクニック。
慣習として、究極の自由を追求することだけを生き方に選んでしまった人、つ
まり、出家する人のみが使う。
なぜなら、「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)
」には、特別の力がある音
だと昔から伝えられている。音に秘められた力によって、瞑想をする人はこの
世の物事に対する欲求や野心を失い、激しくスピリシュアルな探求を求めるの
だという。やがて、出家しかない!と人に決断させてしまう力のある音らしい。
363
第 9 章「マントラ(真言)」について
364
第 10 章
祈りのためのマントラ
365
第 10 章 祈りのためのマントラ
この章では、毎日行う Yoga の練習、クラス、瞑想など修行を効果的にする祈
りのための「マントラ मन्त्र」をまとめている。Yoga の修行は、Yoga マットの
上とは限らない。自分の心がけ次第で、毎日の生き方の中で実践することがで
きる。
瞑想をすること、食事をとること、お風呂で体を清めたり、勉強することな
ども、自分の態度が開かれることによって Yoga になるのだ。その態度を養うた
めに、自分の心にある思いを言葉に載せて世界に運ぶために祈りのマントラは
ある。
祈りによって、自分はこの世界でたった一人で生きているわけではない。ど
んな時も世界を維持する法則と秩序に見守られ、絶大な力と知恵によって育ま
れている。世界と自分はつながり合う 1 つの事実である。その事を常に思うた
めにも、マントラを唱える事は意味をもつ。
常に、全体とつながる自分をみる。孤独や絶望は、この事実を忘れ、混乱した ”
私 “ の中の思いにだけにある。Yoga の教えや修行は、混乱をとりのぞき、無知
の闇を暴くためにある。
自分の真実とは、自由ということである。幸せ、という言葉の意味である。
事実をただ実感すること、自分を受け入れ、自分に納得することが Yoga の目的
である。
Yoga の目的を果たすために、「マントラ मन्त्र」や祈りはある。祈りや「マ
ントラ मन्त्र」は Yoga の道を歩く私たちを導き、ぐんぐん背中を押す力強いサ
ポーターとなる。しかも、迷いなく、着実に Yoga の道を進むために、
「マント
ラ मन्त्र」という強力な道具を活用できる自由も私たちにはある。
この体も、考えも、感覚も、一時的に世界から私たち 1 人 1 人に預けられて
いる。体は “ 神聖なお寺 ” である。生きる目的は、この場所でのみ体現される。
私たちの体という寺が毎日 Yoga で清められ、整えられ、
瞑想によって神聖な「マ
ントラ मन्त्र」が響き、大切に磨かれているように。「マントラ मन्त्र」唱える程
にパワー UP する。毎日どんどん活用していこう。
366
第 10 章 祈りのためのマントラ
1.ご飯の前のマントラ(食事とは、消化の火に捧げる儀式)
ブランマパナン♪ 『バガヴァッドギーター』4 章より ब्रह्मार्पणं ब्रह्महवि: ब्रह्माग्नौ ब्रह्मणा हुतम्।
ब्रह्मैव तेन गन्तव्यं ब्रह्मकर्मसमाधिना॥
ブランマールパナン ブランマハヴィヒ ブランマナウ ブランマナーフタン
ブランマイヴァ テーナ ガンタゥヴャン ブランマカルマサマーディナー
ブランマー アルパナン(「ブラフマン(存在、知・認識の源、あまねく
広がるもの)」に捧げること)
ブラフマ ハヴィヒ(「ブラフマン ब्रह्मन्」への供物が)
ブランマ ナウ(「ブラフマン ब्रह्मन्」の火に)
ブランマナー フタン(「ブラフマン ब्रह्मन्」によって捧げられる)
ブランマ イヴァ テーナ ガンタッウビャン(その人によってのみ、
「ブラフマン ब्रह्मन्」は達成される)
ブランマ カルマ サマーディナー(その人は「ブラフマン ब्रह्मन्」に
とどまる)
<意味>
私がする “ 捧げる ” という行いは「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
捧げる物、供物(客体、目的)は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
供物を捧げる火(場所)は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
供物を捧げる者(主体)は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
このように、行いのすべてに「ブラフマン ब्रह्मन्」をみる者は、「ブラフマン
ब्रह्मन्」にとどまる。
<解説>
『バガヴァッドギーター』4 章 24 番目の詩篇である。食事の前の祈りとして、
この詩は唱えられることが多い。
367
第 10 章 祈りのためのマントラ
全体世界の現れの源(原因)は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
現れた世界のすべて(結果)も「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
実際、原因と結果そのどちらも「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
という意味の詩篇である。
私たちのする行いの本質は、すべて「ブラフマン ब्रह्मन्」であるという。
世界を現す原因と結果が、「ブラフマン ब्रह्मन्」であるという。
一体どういうことなのだろう?
たとえば、ここに金の指輪があるとする。
指輪の本質、源、原因は金である。金の質は何も変えないで、形だけをトントンと
変えいく。その結果として現れた形が、指輪。指輪の実質は金である。
金から離れて、指輪は存在しない。つまり結果は原因から離れていない。
リアリティの観点でみれば、“ 指輪 ” とは、一時的に穴のあいた丸い形と、“ 指輪 ”
という名前という条件を与えられたものでしかない。実質、存在しているのは
指輪ではなく、金である。“ 指輪 ” は金に条件付けをしている “ 名前と形 ” に他
ならない。リアルな指輪の “ リアリティ ” は金である。
全く同じことが、聖典のビジョンによる世界のとらえ方である。
世界の源(原因)は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
すべてのものは、「ブラフマン ब्रह्मन्」を源にして現れている。
現れた “ 世界 ” は、多種多様にわかれているが、根源はすべて「ブラフマン
ब्रह्मन्」である。現れた結果としての世界も「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
この「ブラフマン ब्रह्मन्」は世界の源というだけではなく、私の真実そのも
のである。
実際に私たちがする普段の行いのすべてが「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
行いをする者、行いの対象、目的、手段、結果において「ブラフマン ब्रह्मन्(存
在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」が私たちに満ちている。
『ヴェーダ(聖典)』は、
「ブラフマン ब्रह्मन्」を理解することが、人を「モークシャ
मोक्ष(悟り・自由)」という最終的な Yoga のゴールへつなぐという。
どうやってこの事実を理解するか?
そして、真実の理解は実際私たちに何をもたらすのか?
368
第 10 章 祈りのためのマントラ
このことを教える実践的に真実の知識と、それを知るための Yoga という生き
方をガイドする経典が『バガヴァッドギーター』である。
この詩篇は、食事の前に毎回唱えられることが多い。
” 食べる ” という事の中にすら、真実を見出すことができるということを教え
ている。『ヴェーダ(聖典)』の世界観では、食事は自分自身に対する「プージャ
(儀式)」とされている。食事とは、食べ物という供物を、体を巡る 5 つの「プ
ラーナ प्राण(生理機能を司る力)」に捧げるということ。
消化の火に食べ物をくべる。
捧げる対象も、捧げる物も、捧げている本人も、すべての源は「ブラフマン
ब्रह्मन्」であると理解することが Yoga のゴール「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」
への手段であるという。
私たちは、どんなに忙しくしていても食べる事を忘れることはないはず…
毎回の食事の度にこのマントラを唱え、食べるということは、「ブラフマン
ब्रह्मन्」に捧げる儀式である神聖な行いであることを自覚する。Yoga において
理解すべき事を理解し、「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」へ続く道を一歩一
歩進んでいこう。
369
第 10 章 祈りのためのマントラ
2. 勉強の前に学びの妨げがないように祈るマントラ
【サラスヴァティー】
「サラスヴァティー सरस्वती(知の法則の象徴)」のマントラ
सरस्वति नमस्तुभ्यं वरदे कामरूतिणि।
विद्यारम्भं करिष्यामि सिद्धिर्भवतु मे सदा॥
サラスヴァティ ナマストゥッビャン ヴァラデー カーマルーピニ
ヴィッディヤアランバン カリッシャーミ シッディルバヴァトゥ
メー サダー
サラスヴァティー(「サラスヴァティー सरस्वती(知の法則の象徴)
」
)
ナマストゥッビャン(あなたを信頼し、心を開け放し、委ねます)
ヴァラデー(恩恵を与える者よ)
カーマルーピニ(美しい姿をした者よ)
ヴィッディヤーランバン(勉強の始まりに)
カリッシャーミ(私は行います)
シッディルバヴァトゥ(どうか成功がありますように)
メー(私に) サダー(いつも)
<意味>
「サラスヴァティー सरस्वती(知の法則の象徴)」よ。
知恵を与えるものであり、美しい姿をした者よ。
私は勉強の始まりに、あなたを信頼し、心を開き、委ねます。
どうかいつも私に成功がありますように。
<解説>
この祈りは、勉強の前に唱えると非常に有効。
理解、記憶、適切なタイミングで必要なことを思いだせる能力。この 3 つが知
370
第 10 章 祈りのためのマントラ
性の働きである。この働きを司るのが、「サラスヴァティー सरस्वती(知の法則
の象徴)」。
Yoga や経典の勉強前にこの「マントラ मन्त्र」を唱えることで、3 つの知性の
働きを強力にし、知恵と賢さの象徴を味方につけることができる。
「サラスヴァティー सरस्वती(知の法則の象徴)」は知の法則を司るシンボル。
また、勉強の知恵だけではなく、芸術や音楽というダイナミックな知の現れも
含んでいる。人間としての人生において、知識の探求というのは最も基本的な
探求のベースとなる。学ぶことが、人間の知性を養い、規律を与える。
『ヴェーダ(聖典)』の世界観では、学ぶことは人間の特権でもあり、義務でも
ある。
371
第 10 章 祈りのためのマントラ
3. お風呂の前に(水を清める)
ओम् गङ्ग े च यमुने चैव गोदावरि सरस्वति।
नर्मदे सिन्धु कावेरि जलेऽस्मिन् सन्निधिं कुरु॥
オーム ガンゲー チャ ヤムネー チャイヴァ ゴーダーヴァリー
サラスヴァティー
ナルマデ― シンドゥ カーヴェーリ
<意味>
ガンジス川を守る女神「ガンガー」をはじめとする神聖な 7 つの川
ヤムナー、ゴーダーヴァリー(ヤムナー川 etc7 つの川)
サラスヴァティー
ナルマダー シンドゥ カーヴェーリー ジャレースミン(私の目の前にある水に)
サンニディン クル(この場所に宿り、清めてください。)
どうか、それぞれの川を守る力の主たちよ。
私の目の前にあるこの水に宿り、どうか7つの川を流れる水のように、聖なる
ものとして清めてください。
<解説>
『ヴェーダ(聖典)』の文化、「ダルマ धर्म(秩序、規律)」を支えてきた場所に
は、7 つの川が流れている。それがこのマントラに記されている 7 つの川。
その川を法則と秩序のもとに治める 7 つの象徴(神々と称される存在)が、自
分の目の前にある水に宿り、まるで 7 つの川の水のように神聖なものに浄化さ
れるように祈るマントラである。お風呂にはいる前、お寺である自分の体を清
める水も清める。この「マントラ मन्त्र」は『プージャ(儀式)』に使用する水
を清めるためにも使われる。
インドでは、使い古したバケツに汲んだ一杯の水が、神聖な清めの道具と変化
させることができる力をもつマントラとされ、毎日人々の生活の中で唱えられ
ている。
372
第 10 章 祈りのためのマントラ
4. 空間を清める(Yoga の前、瞑想の前に空間を浄化する)
आगमार्थ ं तु देवानां गमनार्थ ं तु रक्षसाम्।
कुर्वे घण्टारवं तत्र देवताह्वानलाञ्छनम्॥
アーガマルタ トゥ デーヴァーナーン ガマナールタン トゥ
ラクシャサーン
クルヴェー ガンターラヴァン タットラ デーヴァター
フヴァーラーチャナン
*この「マントラ मन्त्र」を唱えながら、ベルを鳴らす
ベルの響きとマントラの音によって、空間を浄化することができる。
『ヴェーダ(聖典)』の教えの中では、空間が生み出す性質が “ 音 ”。
空間から音が生まれ、音は空間の法則によって響くことができる。
だからマントラの音が、空間を浄化することができるのである。
<意味>
この空間に、Yoga や瞑想を妨げる障害や破壊的な力が去るように、神聖な力
と秩序を司る者を招き入れます。
鳴らしているベルの音によって空を浄化し、修行をスムーズに推し進める協力
的な力を歓迎します。
373
第 10 章 祈りのためのマントラ
5. 自分の体、自分自身を讃えるマントラ
(この体は “ 神聖なお寺 ” である)
देहो देवालय: प्रोक्त: जीवो देवस्सनातन:।
त्यजेदज्ञाननिर्माल्यं सोऽहं भावेन पूजयेत्॥
デーホー デーヴァーラヤ プロークタ ジーヴォー デーヴァスサナータナ
ティヤジェーダ ニャーナ ニルマールリャン ソーハン バーヴェーナ プー
ジャイェー
<解説>
自分自身に対して、
「マントラ मन्त्र」を唱え、讃える儀式を「アートマー・プー
ジャ」という。『ヴェーダ(聖典)』の教えでは、“ この体は、お寺である ” という。
この寺を治める者である私は、全体世界とつながる「ジーヴァ जीव(個人)」
である。
「ジーヴァ जीव(個人)」である自分自身の本質には、ある時点から起こっ
たというような、“ 始まり ” のポイントがない。時間に制限されることはない。
その自分に向かって「プージャ(儀式)」をする。
<意味>
この体は神聖なお寺である。この体に宿る自分自身は、始まりもない。終わり
もない。
全体世界と離れることがなく、何からも束縛されることがない自分の本当の姿
を理解できますように。
真実の理解によって自分自身を讃えることができますように。
そして、無知の闇に飲みこまれ、自分自身の本質を見間違え、ぐったりとしお
れたような花のような悲しみや苦しみを取りのぞくことができますように。
374
第 10 章 祈りのためのマントラ
6. 過去の罪悪感を浄化する
यानि कानि च पापानि जन्मान्तरकृतानि च।
तानि तानि विनश्यन्ति प्रदक्षिणपदे पदे॥
ヤーニ カーニ チャ パーパーニ ジャンマーンタラ クルターニ チャ
ターニ ターニ ヴィナッシャンティ
プラダクシナ パデー パデー
*「マントラ मन्त्र」を唱えながら、時計回りに 3 回まわる。
これが、自分の体を中心にした “ 巡礼 ” になる。体を巡礼することで、過去の
罪深さや後悔の念を浄化できるといわれる。
「プラダクシナ प्रदक्षिण(巡礼)」をすることが「プンニャ पुण्य्(徳)」をつくり、
過去の「カルマ कर्म(行い)」を中和する。
<意味>
どうか、この人生において、もしくはこの体の前の生によって積み重ねていた
過去の罪悪感や、後悔を取りのぞくことができますように。
巡礼をする度に、過去の行いの結果による苦悩や災難の種がなくなりますよう
に。
375
第 10 章 祈りのためのマントラ
7.「プラーナーヤーマ(呼吸法)」のためのマントラ
通常の左右の鼻腔から交互に一定のカウントをとりながら息を吸って吐くこ
とを、
「ナディーシュッディ नदीशुद्धि(気の通り道を浄化する呼吸法)
」という。
この呼吸法は体を浄化する。さらに、この浄化パワーを UP させるために、「マ
ントラ मन्त्र」を唱えることができる。浄化と心を落ち着かせる効果が高まると
いわれる。
*右手の人差指と中指を折り曲げ、
「ヴィシュヌムドラ विष्णुमुद्र(手で結ぶ印)」
を作る。この「プラーナーヤーマ प्राणायाम(呼吸法)」中は、親指と薬指を用
いるようにする。
1.右の鼻腔を親指で閉じ、左から息を吸い、この
「マントラ मन्त्र」を唱える。
<吸いながら唱える>
ओं भू:। ओं भुव:। ओं सुव:। ओं मह:। ओं जन:। ओं तप:। ओँ सत्यम्।
オーム ブー । オーム ブヴァハ । オーム スヴァハ । オーム マハハ ।
オーム ジャナハ ।
オーム グン サッティヤン ।
2.左の鼻腔を薬指で閉じ、も親指で閉じたまま、息を保持する。
その間以下の「マントラ मन्त्र」を唱える。
<保持する時に唱える>
ओं तत्सवितुर्वरेण्यम्। भर्गो देवस्य धीमहि। धियो यो न: प्रचोदयात्॥
オーム タッサヴィトゥルヴァレーンヤン バルゴー デーヴァッシャ
ディーマヒ
ディヨー ヨー ナ プラチョーダヤート
376
第 10 章 祈りのためのマントラ
3.左の鼻腔を薬指で押さえたまま、右をふさいでいた親指を離し、右から
息を吐く。
<吐きながら唱える>
ओं आपो ज्योतीरसोऽमृतं ब्रह्म भूर्भुवस्सुवरोम्॥
オーム アーポー ジョーティー ラソー ブルタン ブールブヴァ スヴァ
ローン
*上の<吸い⇒保持⇒吐き>を、右からの吸いで続ける。
<吸い⇒保持⇒吐き>で 1 セット。これを 10 回程繰り返すと
「ナディー नदी(気の通り道、川)」を浄化し心を落ち着ける高い効果を得る
ことができる。
<意味>
オーム ブー । オーム ブヴァハ । オーム スヴァハ । オーム マハハ । オーム
ジャナハ ।
オーム グン サッティヤン ।
「この地上より上のレベルにあるという 7 つの世界を治める者。
「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」と呼ばれ、すべてのベースとなる者。
現れているあらゆるものの基盤であり、秩序を治める力は、世界で最も讃えら
れてしかるべきものである。」
オーム タッサヴィトゥルヴァレーンヤン バルゴー デーヴァッシャ
ディーマヒ
ディヨー ヨー ナ プラチョーダヤート
「私たちは、これからこの全知全能なるものとつながるための瞑想をします。
どうか、彼が私たちの知性を適切に働かせ、正しい方向に導きますように。」
オーム アーポー ジョーティー ラソー ブルタン ブールブヴァ
スヴァローン
377
第 10 章 祈りのためのマントラ
「この知と力は、川における水、海における水のようである。
輝くものの中の輝き、光である。
食べ物における味である。
すべてのもののエッセンスである。」
それは、『ヴェーダ(聖典)』の基盤となる知であり、地上、天界、下界という
3 つに分かれたレベルの世界すべてに行き渡る。それが「ओम् オーム(全体
世界の原理、源)」である。
378
第 10 章 祈りのためのマントラ
8.Yoga のクラスや練習 個人的な瞑想の前後に唱えると効果的な「マントラ」
① Yoga の練習、瞑想、クラスがスムーズにすすむように
【サハナーヴァヴァトゥ♪】
स॒ ह ना॑ववतु। स॒ ह नौ॑ भुनक्तु।
स॒ह वी॒रर्यं॑ करवावहै। ते॒ज॒जस्विना॒वधी॑तमस्तु॒।
मा वि॑द्धिषा॒वहै॑॥
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
[कृष्ण याजुर्वेद]
オーム サ ハ ナーヴァヴァトゥ| サ ハ ナウ ブナクトゥ|
サハ ヴィールヤン カラヴァーヴァハイ|
テージャスヴィ ナーヴァディ タマストゥ|
マー ヴィッヴィ シャーヴァハイ|
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ ॥
サ(彼が) ハ(本当に) ナー(私たち 2 人を)アヴァトゥ(守りますように)
サ(彼が) ハ(本当に) ナウ(私たち 2 人を) ブナクトゥ(養いますように)
サハ(共に) ヴィールヤン カラヴァーヴァハイ
(私たち 2 人が聖典を勉強し、理解するキャパシティーを獲得することができ
ますように)
テージャスヴィ(輝き) ナー(私たち 2 人に)アディータン(勉強したことが)
アストゥ(あり続けますように)
マー ヴィッヴィ シャーヴァハイ(お互いに誤解することなどがありません
ように)
<意味>
379
第 10 章 祈りのためのマントラ
どうか「イーシュヴァラ ( 全体世界 )」が Yoga を学ぶ者と教える者の両者を守
りますように。
世界全体が、私たちが Yoga の教えを理解し、吸収できるキャパシティーと賢
さを養いますように。
Yoga の教えを伝える者と受け取る者、その間に誤解や諍い、両者を別つもの
がありませんように。
穏やかに学ぶべきことを学んでゆけますように。
自分自身と、その周りと、世界からもたらされる様々な障害がないように。
平和に穏やかに、Yoga の学びがあり続けますように。
<解説>
このマントラのベースは『ヴェーダ(聖典)』は、4 つのヴェーダのうちの 1 つ、
「クリシュナ・ヤージュルヴェーダ(黒ヴェーダ)」である。
勉強や、Yoga、経典の教えを理解するクラスをはじめる前に、インドでは必ず
唱えられ、「教えをつたえる人」、そして「教えを受け止める人」が共に唱える
ことで効果があるマントラとなる。
クラスの中で、お互いに学びを理解し、深め、覚え、集中する能力を高めてい
けるように。
何の邪魔も、障害もなくスムーズに学べるように。
伝える者、受け取る者の間にどんなレベルでの誤解も、問題も起こることがな
いように。
380
第 10 章 祈りのためのマントラ
②『ヴェーダ(聖典)』のエッセンスすべて含まれているマントラ
【プールナマダ♪】
ओम्
पूर्णमद: पूर्णमिदं पूर्र्णात्पू्र्णामुदच्यते।
पूर्णस्य पूर्णमादाय पूर्णामेवावशिष्यते॥
ओम् श॒न्ति श॒न्ति श॒न्ति:॥ [शुक्र याजुर्वेद]
オーム
プールナマダ プールミダン プールナーット プールナムダッチャッテー ।
プールナッシャ プールナマーダーヤ プールナメーヴァ ヴァシッシャッテ
オーム シャンティ シャンティ シャンティ ॥
<意味>
限りなく満ちる「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるも
の)」という真実がある。
世界には、この真実「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広が
るもの)」が満ちている。
限りなく広がる源「ブラフマン ब्रह्मन्」から、この世界は現れた。
限りのない「ブラフマン ब्रह्मन्」から、現れた世界の何を取り除いたとしても、
そこには限りないなるものだけが在り続ける。
<解説>
『ヴェーダ(聖典)』の最終章である『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典
の最終的な教え)』のビジョンを伝える「マントラ मन्त्र(真言)」である。実
際に、この「マントラ मन्त्र」の内容を理解することが、『ウパニシャッド(奥
義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』を学ぶ、理解するということになる。
聖典のすべてのビジョンがこの短い「マントラ मन्त्र」に収められている。イ
ンドでは Yoga や「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」のクラスの終わ
りに、「すべてを伝えきった」「これが教えのすべてである」という意味で唱え
られる。
381
第 10 章 祈りのためのマントラ
この「マントラ मन्त्र(真言)」の後ろに、「オーム・タット・サット ओम् तत् सत्(これが真実である)」という一文を付け足し、教えの “ とどめ ” とする。
クラスの終わりでも初めに使っても、
「プージャ(儀式)」の際に唱えてもよい。
<メモ>
この「マントラ मन्त्र(真言)」は「シュックラ・ヤージュルヴェーダ(白ヤー
ジュルヴェーダ)」という『ヴェーダ(聖典)』が土台となる。
「シュックラ・ヤージュルヴェーダ(白ヤージュルヴェーダ)」の特徴は、最後
の「シャンティ」の発音にある。シャの音を 1 音下げて発音し、他の 3 つの『ヴェー
ダ(聖典)』と「クリシュナ・ヤージュルヴェーダ(黒ヤージュルヴェーダ)」
と区別をつけているのだ。
382
第 10 章 祈りのためのマントラ
③. Yoga の成就と平和を願うマントラ
【サルヴェーヴァヴァントゥ♪】
सर्वे भवन्तु सुखिन:। सर्वे सन्तु निरामया:।
सिर्वे भद्राणि पश्यन्तु। मा कश्चिद् दु:खभाग् भवेत्॥
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
サルヴェー バァヴァントゥ スキナハ
サルヴェー サントゥ ニラーマヤーハ
サルヴェー バッドラーニ パシャントゥ
マーカスチッドゥッカバー バヴェー
<意味>
バァヴァントゥ(ありますように)スキナハ(幸せで平和で)
サルヴェー(すべての生物が)サントゥ・ニラーマヤーハ(病や苦しみから解
放されますように)
サルヴェー(すべての生物が)バッドラーニ・パシャントゥ(世界の豊かさを
楽しみ、味わうことが出来ますように)
マーカスチッドゥッカバー・バヴェー(誰も、悲しみや苦悩を経験しませんよ
うに)
<解説>
この世界に生きるすべての者の、苦しみが取り除かれ、幸せと平和があるよう
にという慈悲と祈りの言葉で綴られる「マントラ मन्त्र(真言)」である。
苦しんでいる人達がこの世界にいることを知った時や、だれかが苦境におち
いっている時にその人のためにこの言葉を使って祈ることで苦境を脱する効果
がある。
『ヴェーダ(聖典)』の価値観においては、他人や他の生物のための平和と幸せ
を祈ることができるということは、高い人間的成熟の証であり、また自由意志
を十分に発揮できる心の広さと大きさがあることを意味している。祈るという
行いは、非常に徳の高い行いである。
383
第 10 章 祈りのためのマントラ
「瞑想」や Yoga の練習の前後に唱えることもできる。また、こうした全体の平
和と幸せの祈りは、複数の人間で同時に行うと “ 集団の力 ” が発揮され、祈り
の効果が高まる。クラスに参加している者全員で心を 1 つにして唱えることで、
きっとその祈りが苦しみの渦中にいる人々に届くはずである。
384
第 10 章 祈りのためのマントラ
④ Yoga の成就を祈るマントラ
【アサトーマ♪】
असतो मा सद्गमय। तमसो मा ज्योतिर्गमय।
मृत्योर्मा अमृतं गमय॥
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
アサトー マー サッガマヤ
タマソー マー ジョーティルガマヤ
ムルッティヨールマー アムルタン ガマヤ
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
<意味>
「アサット असत्(真実でないこと)」から「サット सत्(真実)」へ。
「タマス तमस्(鈍性、無知)」から「ジョーティ ज्योति(光、知恵)」へ。
「ムルティユ मृत्य(
ु 死、限りあること)」から「アムルタ अमृत(無限、永遠)」へ。
どうか真実の知によって、私が導かれますように。
<解説>
Yoga 的成長と進歩、経典の学習による成就を望む祈りである。私たちが自分
自身の事実を知らず、無知のまま混乱している状態を「アサット असत्(真実で
ないこと)」という。それは生死を繰り返す「サンサーラ सम्सार(生と死、苦
悩の繰り返し)」という形で現れている。「サンサーラ सम्सार(生と死、苦悩の
繰り返し)」の束縛から自由になることが Yoga の目的である。
自分とは何者か? 自分自身の真実とは一体何なのか? それがわからずに、人
は迷い、混乱している。無知がすべての苦悩の根源だとしたら、解放は無知を
取りのぞくことにある。それは、無知の闇に、知恵という光をもたらすこと。
この「マントラ मन्त्र」には、私たちが無知の闇から知恵の光へ、苦悩や束縛
385
第 10 章 祈りのためのマントラ
といった限界から無限の真実へと導かれることを願う祈りが込められている。
どうか、真実の知識が自分に与えられるように。
自分の内なる怠惰や混乱が、闇に差し込む一条の光となる知識を妨げることが
ないように。
Yoga の道において、障害がないように。
自分の Yoga や「瞑想」の前後に、クラスの前後、経典の学習時に唱えると効
果的がある。
386
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑤.あらゆる障害を取りのぞくマントラ
【
「ガネーシャ गनेश」マントラ】
शुक्लाम्बरधरं विष्णुं शशिवर्णं चतुर्भुजाम्।
प्रसन्नवदनं ध्यायेत् सर्वविघ्नोपशान्तये॥
シュックラーンバラダラン ヴィシュヌン
シャシヴァルナン
チャトルブジャン
プラサンナバダナン ディヤーエット
サルヴァヴィグナ ウパシャンタエ ॥
<意味>
月のような輝きを放ち、笑みを浮かべた,象の頭をもつ者「ヴィグネーシュヴァ
ラ विध्नेश्वर(障害を取りのぞく者、ガネーシャ)」に私は瞑想します。
どうか瞑想をし、全体に心をつなぐ者が、すべての障害から解き放たれますよ
うに。
<解説>
ヒンドゥー文化の神話では、
「シヴァ शिव(時間とすべてを 1 つにする力の象徴)」
の息子であるのが「ガネーシャ गनेश(障害を取り除き、道を開く力)」である。
「ガネーシャ गनेश(障害を取り除き、道を開く力)」のイメージは、象の頭をも
つ者として表現されている。象は、自分が獲得するべきターゲットを決めたら
その長い鼻であらゆる障害を取り除きながらジャングルの中を迂回せず、まっ
すぐに向かってゆく。その目的に一直線に突き進んでいく力が、象の頭をもつ
者の姿として描かれている。
「ガネーシャ गनेश(障害を取り除き、道を開く力)」は、この世界を滞りなく運
行させる「障害を取りのぞく力と法」の象徴である。「ガネーシャ गनेश(障害
を取り除き、道を開く力)」の別名は、「ヴィグネーシュヴァラ विध्नेश्वर(障害
を取りのぞく者、ガネーシャ)」ともいう。
387
第 10 章 祈りのためのマントラ
インドでは、「瞑想」や「プージャ(儀式)」の前、経典の勉強や Yoga の前に、
まずこの障害を取りのぞく力の象徴に祈りを捧げる。この「マントラ मन्त्र(真
言)」は、Yoga のクラスの前、
「瞑想」の前に唱えることが望ましい。それによっ
て、誤解、疑い、集中力の低下、妨害などにみられる Yoga の目的達成におけ
る障害を取りのぞくことができるといわれる。
388
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑥平和を祈るマントラ
【ソヴァスティ・パタ♪】
स्वस्ति प्रजाभ्य: परिपालयन्ताम्।
न्याय्येन मार्गेण महीं महीशा:।
गोब्राह्मणेभ्यश्शुभमस्तु नित्यम्। ソヴァスティ プラジャービャフ パリパーラヤンタン ।
ニェーイェーナ マルゲーナ マヒーン マヒーンシャーハ ।
ゴー・ブランマネービャ シュバマストゥ ニッティヤン ।
लोकास्समस्तास्सुखिनो भवन्तु॥
ローカ― サマスター スキノー ババントゥ ।
काले वर्षतु पर्जन्य:।पृथिवी सस्यशालिनी।
देशोऽयं क्षोभरहित:। ब्राह्मणास्सन्तु निर्भया:॥
カーレー ヴァルシャトゥ パルジャンニャハ ।
プルティヴィー サッシャシャーリニー ।
デーショーヤン クショーバラヒタハ ।
ブラーンマナー サントゥ ニルバヤーハ ॥
<意味>
ソヴァスティ プラジャービャフ パリパーラヤンタン ।
ニェーイェーナ マルゲーナ マヒーン マヒーンシャーハ ।
ゴー ブランマネービャ シュバマストゥ ニッティヤン ।
すべての人が幸せでありますように。
この世界が秩序と正しさの元で治められますように。
いつも知恵と豊かさがありますように。
389
第 10 章 祈りのためのマントラ
ローカ― サマスター スキノー ババントゥ ।
どうか、すべての生きとし生けるものが幸せでありますように。
カーレー ヴァルシャトゥ パルジャンニャハ ।
プルティヴィー サシャシャーリニー ।
デーショーヤン クショーバラヒタハ ।
ブラーンマナー サントゥ ニルバヤーハ ॥
どうか適切な時に雲が雨を降らし、大地が食べ物を養いますように。
この世界の豊かさが失われることがありませんように。
知恵と賢さによって、人が恐れから自由になりますように。
<解説>
平和と豊かさを祈るための「マントラ मन्त्र(真言)」である。Yoga のクラスや、
瞑想、
「プージャ(儀式)」の前後に唱える。また Yoga のクラスや、瞑想に限らず、
毎日の生活の中でも唱えることができる。
1日の終わりに、眠りに就く前に、もしくは朝起きたばかりの1日を始める際
に、世界が平和であることに心を向ける。「マントラ मन्त्र(真言)」の意味を
思いながら、唱えることが世界の平和への祈りとなる。平和への「マントラ
मन्त्र(真言)」を唱えることは、大きく優しい慈悲の心を自分の中で育むこと
になる。
他人のために、他の生物のために、世界のために祈ることができることは、
心にゆとりがあることを意味し、人間としての深さと成熟があるという事を指
し示す。この心のスペースと、高い人間性を培うためにも、「マントラ मन्त्र」
を毎日唱えることは有効である。
390
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑦願いを叶える力を得るためのマントラ
【「デーヴィ देवी(女神)」サルヴァマンガラ♪】
सर्वमङ्गलमाङ्गल्ये शिवे सर्वर्थसाधके।
शरण्ये त्रयम्बके गौरि नारयणि नमोऽस्तु ते॥
サルヴァ マンガラ マーンガルイェー シヴェー サルヴァルタサーダケ
シャランイェー トラヤンバケー ガオリ ナーラーナニ ナモーストゥ テー
サルヴァ マンガラ マーンガルイェー(すべての吉兆、祝福の形をとる者)
シヴェー サルヴァルタサーダケ(「シヴァ शिव」のパートナーであり、
あらゆる望みを叶える術をもつ者)
シャランイェー(すべての生物の困難や苦悩からの救いであり、
)
トラヤンバケー(真実をみるための目がある者へ)
ガオリ (この美しい姿をもつ)ナーラーナニ(女神に)
ナモーストゥ テー(私はすべてを開け放ち委ねます)
<意味>
この世界のあらゆる吉兆と祝福という姿で現れ、
「シヴァ शिव」に「シャクティ
शक्ति( 力 )」を与える者であり、あらゆる望みを叶える術をもち、全生物の困
難の救いとなる美しい姿をもつ「デーヴィ देवी(女神)」へ、私は今すべてを
開け放ち、委ねます。
<解説>
「デーヴィ देव(
ी 女神)」は女神の総称。「シヴァ शिव」に「シャクティ शक्ति ( 力 )」
を与えるパートナーが女神であり、
多種多様な姿と名前をもって讃えられている。
世界を現す根源に力を与え、この世界を鮮やかに現す「シャクティ शक्ति ( 力 )」
と知恵の象徴が、女神の姿で表現されている。別名「ドゥルガー डुर्गा」 「チャ
ンディー चण्डी」「カーリー काली」 「ウマー उमा」「パールヴァティー पार्वती」
とも呼ばれる。現れた世界という観点からみれば、「シヴァ शिव」 とは、世界
を現す 「知・認識の源」、女神「シャクティ शक्ति( 力 )」は物質の根源のシン
ボルである。
391
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑧病気の家族や友達、知人のために祈るマントラ
【シヴァのマントラ:トラヤンバカン♪】
【ムルテュンジャヤ・マントラ】
ओम्
त्रय॑म्बकं यजामहे सुग॒न्धिं पु॑ष्टिवर्ध॑नम्।
उ॒र्वा॒रु॒कमि॑व॒ बन्ध॑नान्मृ॑त्योर्मुक्षिय॒ माऽमृता॑त्॥
トラヤンバカン ヤジャーマヘ シュガンディン プシュティヴァルダナン ।
ウルヴァールカミヴァ バンダナーン ムルッティヨール
ムクシーヤ マームルタート ॥
トラヤンバカン(3 つの目)
ヤジャーマヘ(私たちは捧げます)
シュガンディン(良い香りを)
プシュティヴァルダナン । @ i(豊かさを広げる者シヴァへ)
ウルヴァールカミヴァ(すいかのように) バンダナーン(蔓、束縛から)
ムルッティヨール(死の)
ムクシーヤ(自由になるように) マームルタート(限りあること、
制限を超えるように)
<意味>
豊かさをもたらす力の象徴である、3 つの目をもつ「シヴァ शिव」よ。
その高貴な香りを放つ者に、私たちは自らを開け放ち、祈る。
どうか、私たちが死という限界や死の恐れから解き放たれるように。
まるで然るべき時がきたら、自ら自分を束縛していた蔦から自然に離れてゆく
スイカのように。私たちが死に象徴される限界から、成熟を深めた時に解放さ
れることがあるように。
392
第 10 章 祈りのためのマントラ
<解説>
このマントラは「ルッドラム रुद्रम्(シヴァへの 11 章からなる祈り)」の
中に組み込まれている一節であり、通称「ムルッテュンジャヤ・マントラ
「シヴァ
मृत्युञ्जयमन्त्र」と呼ばれている。この「マントラ मन्त्र(真言)」によって、
शिव(時間の法則と収束させる力の象徴)」の力を喚起し、死に代表されるあら
ゆる「限界」を超えていけるとされる。また病や死の淵で苦しんでいる人のた
めに、この「マントラ मन्त्र」を 11 回、もしくは、108 回唱え、祈ることは
非常に大きな効果を示すといわれる。
393
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑨ Yoga の導きを確実にするためのマントラ
【シヴァのマントラ:ナマステーアストゥ♪】
नम॑स्ते @अस्तु @भगवन् @विश्वेश्वराय॑ @महादे॒वाय॑ @त्रयम्बकाय॑
त्रिपुरान्त॒काय॑ त्रिकालाग्निका॒लाय॑ कालाग्निरु॒द्राय॑
नीलक॒ण्ठाय॑ मृत्युञ्ज॒याय॑
सर्वेश्व॒राय॑ सदाशि॒वाय॑ श्रीमन्महादे॒वाय॒ नम॑:॥
ナマステ アストゥ バガヴァン ヴィシュヴェシュヴァーラヤ
マハーデーヴァーヤ トラヤンバカーヤ トリプラアンタカーヤ
トリカーラーグニカーラーヤ カーラーグニルッドラーヤ
ニーラカンターヤ ムルテュンジャヤーヤ サルヴェーシュヴァーラーヤ
サダーシヴァーヤ シュリーマンマハーデーヴァーヤ ナマハ
ナマステーアストゥ(あなたに委ね、祈る謙虚な態度があるように)
バガヴァーン(全知全能である者よ)
ヴィシュヴェシュヴァーラヤ(世界を治める者へ)
マハーデーヴァーヤ(偉大なる者へ)
トラヤンバカーヤ(3 つの目をもつ者へ)
トリプラーンタカーヤ(トリプラという悪を滅ぼす者へ)
トリカーラーグニカーラーヤ(現在、過去、未来 3 つの時間を滅ぼす者)
カーラーグニ・ルッドラーヤ(死の 3 つの火を消す者へ)
ニーラカンターヤ(青き喉をもつ者へ)
ムルテュンジャヤーヤ(死を越える者へ)
サルヴェーシュヴァーラーヤ(すべてを統治する者へ)
サダーシヴァーヤ(吉兆なる者へ)
シュリーマン・マハーデーヴァーヤ (限りない力をもち、神々の輝きの
源である者へ) ナマハ(私は信頼をもって、すべてを開け放つ)
394
第 10 章 祈りのためのマントラ
<意味>
私は、あなたを信頼し、委ねる態度をもって祈る。
全知全能であり、世界を治め、
偉大なる力と真実を見すえる 3 つの目をもつ者よ。
悪を滅ぼし、時間と死の限界を滅ぼし、障害を打ち破る者。
すべての法を司り、祝福にみち、輝きのなかの輝きである者へ、
今私は、自分のすべてをあなたに開け放つ。
<解説>
『ヴェーダ(聖典)』の中の、
「ルッドラム रुद्रम्(シヴァへの 11 章からなる祈り)」
の一節である。「ルッドラム रुद्रम्(涙を流させる者)」は「シヴァ शिव」の別名
でもある。すべての破壊、すべてを 1 つに収束させる力を象徴している。
「シヴァ
शिव」という音自体には、“ 吉兆、幸運のしるし、祝福 ” といった意味がある。
イメージでは、3 つの目をもつ者で描かれるが、この 3 つの目は、“ 真実をみ
ることができる目 ” というシンボライズである。
聖典のいう Yoga のゴールは、世界と自分自身についての真実の姿を知り、理
解すること。それによって、あらゆる限界、死すら超える完全なる自由に至る
事である。“ リアルの背後にあるリアリティ ” を知ることが、人を束縛、苦悩
から解放する。3 つの目をもつ者とは、真実の知識を理解する目をもつ者のシ
ンボルである。肉眼ではみることができない真実「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、
知・認識の源、あまねく広がるもの)」を、知恵によってまるでみるようにはっ
きりと知ることができる者、それが 3 つの目をもつ者である。その者は、Yoga
のゴールを知り、達成に至った者。そして、Yoga を導く者とされる。それゆえ、
「シヴァ शिव」は “Yoga の神 ” といわれ、すべての Yoga のメソッドは「シヴァ
शिव」から伝えられたという伝説が有名な神話の形で人々に伝えられている。
また「シヴァ शिव」は、「ダルマ धर्म(秩序、守るべきこと)」に反すること、
Yoga の道における障害となるものを破壊し、
あらゆる限界を超えるものである。
*この「マントラ मन्त्र」は、『ヴェーダ(聖典)』の厳格な発音ルールに従っ
て正しく唱えられるべきであるとされる。
音声を確認してから、練習することが強く勧められている。
練習以外の儀式や祈りの中で、間違えて発音したり、「マントラ मन्त्र」を間違
えることは、「パーパ पाप(不徳)」になるとも伝えられているために、しっか
り練習してから用いるべき「マントラ मन्त्र」である。
395
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑩ グルの導きを得るためのマントラ
【グルブランマ♪ 】
गुरुब्रह्मा @_गुरुरर्विष्णु: @गुरुर्देवो @महेश्वर:
गुरुस्माक्षात् @परं @ब्रह्म @तस्मै @श्रीगुरवे @नम:
グル ブランマー グルヴィシュヌフ グルデーヴォー マへーシュヴァラ
グル サクシャーット パランブランマ タスマイ シュリーグラヴェー
ナマハ
「グル गुर(
ु 真実を教える者)」は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。
「グル गुरु(真実を教える者)」は、「ヴィシュヌ विषुणु(秩序と維持の力、す
べてに行渡る者)」であり、「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)
」である。
「グル गुरु(真実を教える者)」は絶対的な事実である。
その「グル गु(真実を教える者)」に私は自分を開け放ち、委ね、敬意を示
します。
<解説>
「グル गुर(真実を教える者)
」とは、
「グ गु(暗闇、無知)」 「ル रु(取りのぞく者)」
ु
である。自分自身の真実に無知があり、無知ゆえに混乱があり、迷いや勘違い
が起こる。この根源的な無知を、取りのぞく者を「グル गु(真実を教える者)」
という。
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の言葉を使いながら、
真実のビジョンを教え、聞く者の無知を取りのぞく者が、伝統的には唯一の「グ
ル गुरु(真実を教える者)」である。教えの伝統と方法論に基づいて、言葉を注
意深く扱い、「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」、「ブラフマン ब्रह्मन्」
についての知識を示す者が「グル गुरु(真実を教える者)」。「グルパランパラン
गुरुपरम्परं @(教えの伝統)」というつながりの中で間違いなく、知識を伝統
396
第 10 章 祈りのためのマントラ
の形式によって伝えていくことができる者が「グル गुरु(真実を教える者)」で
ある。1 人の個人を指し示すこともできるが、この伝統的な教えを一番初めは、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」である。そのことから、このマントラは、
「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」を喚起し、敬意を示す意味である。
瞑想の前や Yoga や「プージャ(儀式)」の前に、唱えると効果があり、世界か
ら祝福を受けることができるとされるマントラである。
397
第 10 章 祈りのためのマントラ
ु 師)
⑪聖典を勉強する前に唱える「グル गुर(
」を讃えるマントラ
【グルヴァンダナン♪】
①
श्रुतिस्मृतिपुराणानाम् आलयं करुणालयम्।
नमामि भगवत्पाद शङ्करं लोकशङ्करम्॥१॥
シュルティ スムルティ プラーナーナーン アーラヤン カルナーラヤン
ナマーミ バガヴァットパーダ シャンカラン ローカシャンカラン
②
शङ्करं शङ्कराचार्यं केशवं बादरायणम्।
सूत्रभाष्यकृतौ वन्दे भगवन्तौ पुन: पुन:॥२॥
シャンカラン シャンカラーチャールヤン ケーシャヴァン バーダラーヤナン
スートラバーシャ クルタウ ヴァンデー バガヴァンタウ プナッフ プナハ
③
ईश्वरो गुरुरात्मेति मूर्त्तिभेदविभागिने।
व्योमवद् व्याप्तदेहाय दक्षिणामूर्त्तये नम:॥३॥
イーシュヴァロー グルラーメーティ ムールティベーダ ヴィバーギネー
ヴィヨーマヴァッド ヴャープタデーハーヤ ダクシナームールテャエー
ナマハ
④
गुकारस्त्वन्धकारो वै रुकारस्तन्निवर्त्तक:।
अन्धकारनिरोधित्वाग् गुरुरित्यभिधीयते॥४॥
グカーラス トヴァンダカーロ ヴァイ ルカーラス タン ニバルタカハ
アンダカーラニローディットヴァ グルリッティヤービディーヤテー
398
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑤
सदासिवसमारम्भां शङ्कराचार्यमध्यमाम्।
अस्मदाचार्यपर्यन्तां वन्दे गुरुपरम्पराम्॥५॥
サダーシヴァ サマーランバーン シャンカラーチャールヤ マッディヤマーン
アスマダーチャルヤ パルヤンターン ヴェンデー グルパランパラン
<意味>
①
シュルティ(『ヴェーダ(聖典)』) スムルティ(『バガヴァッドギーター』な
どの経典) プラーナーナーン(神話) アーラヤン(これらは) カルナーラ
ヤン(慈悲の宝庫である) ナマーミ(私は敬意を示します) バガヴァットパー
ダ(尊敬すべき存在である)シャンカラン(師シャンカラ) ローカシャンカ
ラン(この世界に幸せをもたらす者に)
私は、慈悲の宝庫である師シャンカラと、『ヴェーダ(聖典)』、経典、神話な
ど教えの伝統と、世界に幸せを与える存在である者たちに敬意を示します。
②
シャンカラン(「シヴァ शिव」と) シャンカラーチャールヤン(師シャンカラ)
ケーシャヴァン(「ヴィシュヌ विष्ण(秩序と維持の力、
すべてに行渡る者)」と)
ु
バーダラーヤナン(聖者ヴャーサに) スートラバーシャ クルタウ (解説を
してくれた者に) ヴァンデー(私は敬意を示します) バガヴァンタウ(尊い
ものたちに) プナッフ プナハ(何度も何度も)
「シヴァ शिव」と「ヴィシュヌ विष्णु(秩序と維持の力、すべてに行渡る者)」
がもたらした『ヴェーダ(聖典)』や神話と、『バガヴァッドギーター』を記し
た聖者ヴィヤーサ、聖典に解説を施した師シャンカラに、私は幾度も敬意を示
します。
③
イーシュヴァロー(「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」に) グルラーメーティ
(師に) ムールティベーダ ヴィバーギネー(まるで分かれているように現れ
399
第 10 章 祈りのためのマントラ
た者) ヴィヨーマヴァッド(空間のように) ヴャープタデーハーヤ (すべ
てに行渡り広がる者)ダクシナームールテャエー(「ダクシナムルティ」とい
う「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」の象徴に) ナマハ(自分を明け渡し
ます)
空間のようにこの世界に広がり、まるで「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」、
師、自分自身に分かれたように現れているただ 1 つの真実と、真実を象徴した
形の表われである「दक्षिणामूर्ती ダクシナムルティ」に、自分を明け渡し、敬
意を捧げます。
④
グカーラス(グという音は) トヴァンダカーロ(暗闇を意味し) ヴァイ(ま
さに) ルカーラス(ルという音は) タン ニバルタカハ(それを取りのぞく
もの、という意味を表す) アンダカーラニローディットヴァ(知識を教える
ことによって、無知という暗闇を破壊し取りのぞくものであるので) グルリッ
ティヤービディーヤテー(その者はグル(師)と呼ばれている)
グという音は闇を、ルという音は、取りのぞくという意味である。聖典の知識
を教える者は、知識によって無知の闇を取りのぞく者であるから、まさに彼は、
「グル गुर(
ु 真実を教える者)」と呼ばれている。
サダーシヴァ サマーランバーン(「シヴァ शिव」から始まり) シャンカラーチャールヤ マッディヤマーン(中間に師シャンカラがいる)
アスマダーチャルヤ パルヤンターン (私たちの目の前にいる先生に)ヴェ
ンデー(私は敬意を示します) グルパランパラン(「グルパランパラン
गुरुपरम्परं (教えの伝統)」に)
「シヴァ शिव」はじまり、中間に師シャンカラがいて、私たちの目の前にいる
先生までずっと続いてきたこの聖典の教えの伝統に私は敬意を示します。
<解説>
『ヴェーダ(聖典)』とそのエッセンス『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖
典の最終的な教え)』の教えは私たちの無知の闇を取りのぞく。私たちが知ら
ない自分自身の本当の姿は、「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」という
400
第 10 章 祈りのためのマントラ
言葉で聖典は表現されている。そして、その意味とは「ブラフマン ब्रह्मन्(存
在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」であるという。これが聖典の教え
「タット・トヴァン・アシ तत् त्वन् असि(You are the Whole, あなたの本質とは
全体である)」。
これを知ることによって、私たちの自分自身に対する無知、世界に対する無知
が取り除かれる。自分とは全体世界のことである、世界と自分の本質はただ 1
つの真実である、ということが理解できた時、人は苦悩や「サンサーラ सम्सार(生
と死、苦悩の繰り返し)」から自由になる。悲しみと苦しみで溺れている海を、
知識によって渡ることができる。
この教えは「イーシュヴァラ ईश्वर(全体世界)」から直接教えられ、伝統の中
で今日まで伝えられてきた。この教えと教えのメソッド、教えを運ぶ者に敬意
を示し、彼らの慈悲と助けを得るためにこの「マントラ मन्त्र」は唱えられる。
伝統的には『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』や、
「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)」のテーマを学ぶ際に唱えられてい
る。
401
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑫「ウパニシャッド(奥義書)」のエッセンスを理解するマントラ 1
【ナタットラ♪】
न तत्र सूर्यो भाति न चन्द्रतारकं।
नेमा विद्युतो भान्ति कुतोऽयमग्नि:।
तमेव भान्तमनुभाति सर्वं
तस्य भासा सर्वमिदं विभाति॥
ナ タットラ スーリョウ バーティ ナ チャンドラターラカン
ネーマー ヴィッユトウ バーティ クトーヤマグニヒ
タメーヴァ バーンタン アヌバーティ サルヴァン
タッシャ バーサー サルヴァミダン ヴィバーティ
<意味>
太陽は自ら輝かない。
星も月も自ら輝くことはない。
だとしたら、この目の前にある小さな火などは、いうまでもない。すべての輝
きは、“ 知・認識の源 ” によってのみ輝かされている。(認識されている)“ 知・
認識の源 ” によってのみ、この世界のあらゆるものが輝くのだ。(認識される)
<解説>
この「マントラ मन्त्र」は『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的
な教え)』からの引用である。(「カタ・ウパニシャッド कठोपनिषद्」、「ムンダカ・
ウパニシャッド मुण्ड्कोपनिषद्」)通常は、
「プージャ(儀式)」の最後に、小さな “ カ
ンファー(樟脳)” のかけらを灯して、ご神体を照らす際に唱えられる。
私たちの体、感覚、考えを含めたこの世界に現されたすべてのものは自ら輝く
ことがない。ここでの “ 輝き ” とは、“ その存在を認識される ” という意味で使
われている。存在しているどんなものも、認識されなければ無いも同然である。
認識は “ 私 ” によってのみなされている。
この目が太陽を輝かせる。しかし、この目は自ら輝いていない。マインドの光
402
第 10 章 祈りのためのマントラ
によってのみ目は物を映すことができる。そしてマインドですら、自ら輝きは
しない。マインドを “ 輝かせている ” つまり、機能させているものがある。そ
れが “ 知・認識の源 ” のである。“ 知・認識の源 ” のみが自ら輝きを放つのだ。
それは、
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」と呼ばれる。私の真実とは、
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」である。目がみえ、心が物をとらえ、
認識を起こしているのは、私の存在があるからである。この私は “ 存在 ” であり、
“ 知・認識の源 ” である。それが私の真実である。真実の私とは、世界の真実
である「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・認識の源、あまねく広がるもの)」と、
全く同じ “ 存在 ”“ 知・認識の源 ” である。
「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」は「ブラフマン ब्रह्मन्(存在、知・
認識の源、あまねく広がるもの)」である。
私の真実と、世界の真実はただ 1 つの事実である
この事実を教えるのが『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教
え)』なのだ。事実を自分の事として理解する者は、あらゆる恐れと苦悩を破
壊する。束縛が解かれ、自由を知る。それが「モークシャ मोक्ष(悟り・自由)」
であるといわれる。
この「マントラ मन्त्र」には、
『ヴェーダ(聖典)』の全ビジョンが含まれている。
人が知るべき事、生きる事において目指すべき事。真実とは何であるか? とい
うこと。
そして、深い意味を持った「マントラ मन्त्र」は、儀式の度に人々に唱えられ、
心に刻まれているのだ。
403
第 10 章 祈りのためのマントラ
⑬「ウパニシャッド(奥義書)」のエッセンスを理解するマントラ 2
【マントラ・プシュパン♪】
ओं॑ त्द्ब्र॒ह्म। तद्वायु:। तदात्मा। तत्सत्यम्। तत्सर्वम्॑। तत्युरो॒र्नम:। अन्तश्चरति॑ भूतेषु गुहायां विश्वमूर्तिषु।
त्वं यज्ञास्त्वं वषट्कारस्त्वमिन्द्रस्त्वँ रुद्रस्वं विष्णुस्त्वं ब्रह्म त्व॑ प्रजापति:।
त्वं त॑दाप॒ आपो॒ ज्योती॒ रसो॒ऽमृतं ब्रह्म॒ भूर्भुवसुवसुवरोम्॥
オーム タッドブランマ
オーム タッドバーユフ
オーム タダートマー
オーム タットサッティヤン
オーム タップローナマハ
オーム タットサルヴァーン
アンタス チャラティ ブーテシュ
グハーヤーン ヴィシュヴァ ムールティシュ
トヴァン ヤグニャストヴァン ヴァシャッカーラストヴァン
インドラストヴァン グン
ルッドラストヴァン ヴィシュヌストヴァン ブランマ トヴァン
プラジャーパティヒ
トヴァン タダーパ アーポー ジョティー ラソー ムルタン
ブランマ ブー ブバスヴァロー
「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」タッドブランマ(あの「ブラフマン
ब्रह्मन्」は、)タッドバーユフ(あの風である。)
タダートマー(自分自身、魂である。) タットサッティヤン(真実、存在である)
オーム タットサルヴァーン (世界のすべてである)
タップロー(外にあるすべての生物である)
404
第 10 章 祈りのためのマントラ
ナマハ(この「ブラフマン ब्रह्मन्」に深く祈りが捧げられるよう私たちは
祈ろう) アンタス(内なる世界に) チャラティ(動きに)
ブーテシュ(すべての生物に) グハーヤーン (知性にある)
ヴィシュヴァ ムールティシュ(姿形あるすべて生物に)
トヴァン ヤグニャストヴァン(あなたは捧げられる)
ヴァシャッカーラストヴァン(供物を捧げる事)
インドラストヴァン グン(神々の守り主であるインドラ)
ルッドラストヴァン(あなたはルッドラである) ヴィシュヌス トヴァン(あなたはヴィシュヌである)
ブランマ トヴァン プラジャーパティヒ
(あなたは創造者ブランマジである)
トヴァン(あなた) タダーパ(川を流れる水) アーポー(海に満ちる水) ジョティー(輝き) ラソー(味)アムルタン(すべてのエッセンス)
ブランマ(『ヴェーダ(聖典)』という知識体)
ブーブバスヴァロー(3 つの世界)
< 意味>
オームという音は「ブラフマン ब्रह्मन्」である。それはまた、全体世界を司
る「ヒランヤガルバ हिरण्यगर्भ(考えを起こす力、物質、生物を機能させる原理)」
である。これが、“ 個 ” の事実である。それは究極の真実である。すべてである。
この世界そのものである「ブラフマン ब्रह्मन्」に私は自分を開け放とう。
「ブラフマン ब्रह्मन्」は、すべての生物の知性の中に源として宿っている。「ブ
ラフマン ब्रह्मन्」にすべてを捧げよう。
「ブラフマン ब्रह्मन्」は、神々の守護者インドラであり、破壊者ルッドラであり、
維持する者ヴィシュヌであり、創造者ブランマジーである。川と海に満ちる水
である。輝く物のなかの輝きそのものである。食べ物の味である。すべてのエッ
センスである。『ヴェーダ(聖典)』という知識そのものである。3 つの世界の
すべてであり、オームである。
405
第 10 章 祈りのためのマントラ
9.平和のための 10 のマントラ
シャンティ・マントラ①
स॒ ह ना॑ववतु। स॒ ह नौ॑ भुनक्तु।
स॒ह वी॒रर्यं॑ करवावहै। ते॒ज॒जस्विना॒वधी॑तमस्तु॒।
मा वि॑द्धिषा॒वहै॑॥
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム サ ハ ナーヴァヴァトゥ| サ ハ ナウ ブナクトゥ|
サハ ヴィールヤン カラヴァーヴァハイ|
テージャスヴィ ナーヴァディ タマストゥ|
マー ヴィッヴィ シャーヴァハイ||
オーム シャンティ シャンティ シャンティヒ ॥
サ
(彼が)
ハ
(本当に)
ナー
(私たち 2 人を)
アヴァトゥ
(守りますように)
サ(彼が) ハ(本当に) ナウ(私たち 2 人を) ブナクトゥ(養いますように)
サハ(共に) ヴィールヤン カラヴァーヴァハイ(私たち 2 人が聖典を
勉強し、理解するキャパシティーを獲得することができますように)
テージャスヴィ(輝き) ナー(私たち 2 人に)
アディータン(勉強したことが) アストゥ(あり続けますように)
マー ヴィッヴィ シャーヴァハイ(お互いに誤解することなどがありま
せんように)
406
第 10 章 祈りのためのマントラ
<意味>
どうか「イーシュヴァラ ( 全体世界 )」が Yoga を学ぶ者と教える者の両者を守
りますように。
世界全体が、私たちが Yoga の教えを理解し、吸収できるキャパシティーと賢
さを養いますように。
学んだことが、輝きとなりますように。
Yoga の教えを伝える者と受け取る者、その間に誤解や諍い、両者を別つもの
がありませんように。
穏やかに学ぶべきことを学んでゆけますように。
自分自身と、その周りと、世界からもたらされる様々な障害がないように。
平和に穏やかに、Yoga の学びがあり続けるように。
407
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ②
ओं शन्नो मित्र: शं वरुण:।शन्नो भवत्वर्यमा।
शन्न इन्द्रो बह्स्पति:। शन्नो विष्णुरुरुक्रम:।
नमो ब्रह्मणे । नमस्ते वायो।त्वमेव प्रत्यक्षं ब्रह्मासि।
त्वमेव प्रत्क्षं ब्रह्म वदिष्यामि | ऋतं वदिषयामि।
सत्यं वदिष्यामि।तन्मामवतु।तद्वक्तारमवतु।
अवतु माम्। अवतु वक्तारम्॥
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム シャンノウ ミットラ シャン ヴァルナハ|
シャンノー ババ トヴァルヤマー
シャンナ インドロ ブラスパティヒ シャンノウ ヴィシュヌ|
シャンナ インドロ ブラスパディ シャンノウ ヴィシュヌ ルルクラマハ|
ナモー ブランマネー|ナマステーヴァーヨ|トヴァメーヴァ プラッティ
ヤクシャン ブランマーシ|
ソヴェーヴァ プラッティヤクシャン ブラン
マ ヴァディッシャーミ|
ルタン ヴァディシャーミ|
サッティヤン ヴァディシャーミ|
タンマーマヴァトゥ|タッドヴァクターランマヴァトゥ|
アヴァトゥマーン|アヴァトゥ ヴァクターラン|
<意味>
オーム シャンノウ ミットラ シャン ヴァルナハ|
(私たちに太陽と海の祝福がありますように)
シャンノー ババ トヴァルヤマー
(先祖たちの祝福がありますように)
シャンナ インドロ ブラスパティヒ シャンノウ ヴィシュヌ ルルクラマ
408
第 10 章 祈りのためのマントラ
ハ|
(神々を統括者インドラと神々の守護者ヴィシュヌの祝福がありますように)
ナモー ブランマネー ナマステーヴァーヨ|
(世界の創造者ブランマージに敬意を捧げます)
トヴァメーヴァ プラッティヤクシャン ブランマーシ|
(あなたはまさに “ 感覚 ” の源である)
トヴェーヴァ プラッティヤクシャン ブランマ ヴァディッシャーミ|
(あなたは “ 認識 ” の源である)
ルタン ヴァディシャーミ|(私が正しく事実を理解しますように)
サッティヤン ヴァディシャーミ| (いつも私が語る言葉が真実であります
ように)
タンマーマヴァトゥ|タッドヴァクターランマヴァトゥ|(どうか私と先生が
守られますように)
アヴァトゥマーン|アヴァトゥ ヴァクターラン|(どうか私と先生を真実へ
導いてください)
シャンティ シャンティ シャンティ
409
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ③
ओम् यश्छन्द॑सामृष॒भो वि॒श्वरू॑प:। छन्दो॒ब्योऽध्य॒मृता॑॑त् संब॒भूव॑।
स मेन्द्रो॑ मे॒धया॑॑ स्पृणोतु। अ॒मृत॑स्य देव॒ शार॑णो भूयासम्।
शरी॑रं मे ॒ विच॑र्षणम्। जि॒ह्वा मे॒ मधु॑मत्तमा।
कर्णा॑॑भ्यां भूरि॒ विश्रु॑वम्। ब्रह्म॑ण: को॒शो॒ऽसि मे॒धया पि॑हित:।
श्रुतं मे॑ गोपाय।
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム
ヤスチャンダサー ルシャボー ヴィシュヴァルーパ|
チャンドービョー アムルターット サンバブーヴァ|
サ メンドロー メーダヤー スプルノートゥ
アムルタッシャ デーヴァ シャラノー ブーヤーサン|
シャリーラン メ ヴィチャルシャナン|ジッフヴァーメ マドゥマッタマー
|
カルナビャーン ブーリ ヴィシュヴァン|
ブランマナ コーショーシ メーダヤー ピヒタハ|シュタン メー ゴーパーヤ
|
<意味>
ヤ(オームは) チャンダサー(『ヴェーダ(聖典)』のマントラの中
でも) ルシャボー(もっとも偉大で) ヴィシュヴァルーパ(世界
のあらゆる物の形に浸透している。)
チャンドービョー(『ヴェーダ(聖典)』のマントラは) アムルターット(永遠に変わらず) サンバブーヴァ(存在している。)
410
第 10 章 祈りのためのマントラ
サ メンドロー メーダヤー スプルノートゥ(それは変わること
のない知恵であり、強さである。)
アムルタッシャ デーヴァ ダーラノー ブーヤーサン(どうか永
遠の知識を深く考える者に私がなれますように。)
シャリーラン メ ヴィチャルシャナン(私の体が強く健康であり
ますように)
ジッフヴァーメ マドゥマッタマー(この舌が、いつも優しさのあ
る言葉を語りますように)
カルナビャーン ブーリ ヴィシュヴァン(この耳を通して、沢山
の真実の教えを聞くことができますように)
ブランマナ コーショーシ メーダヤー ピヒタハ
(私の知性において「ブラフマン ब्रह्मन्」の真実を隠すものが取り除
かれますように。)
シュタン メー ゴーパーヤ(私が聞いた教えの数々が、どうか守
られますように)
シャンティ シャンティ シャンティ
「シャンティ शन्ति(平和、静寂)」
411
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ④
ओम् अहं वृक्षस्य रेरिवा। कीर्ति: पृष्ठं गिरेरिव।
ऊर्ध्वपचित्रो वाजिनीव स्वमृतमस्मि। द्रविणँ सवर्चसम्। सुमेदा अमृतोक्षित:।इति त्रिशङ्कोर्वेदानुवचनम्। ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム
アハン ヴルクシャシャ レーリヴァー
キールティヒ プルシュタン ギレーリヴァ
ウールドヴァチットラウ ヴァージニーヴァ ソヴァムルタマスミ
ドラヴィナグン サヴァルチャサン
スメーダー アムルトウクシタハ
イティ トリシャンコール ヴェーダーヌヴァチャナン
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
<意味>
オーム
『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の知識を学び、自分自身について
の事実を理解した聖者トリシャンクはこう宣言した。
アハン ヴルクシャシャ レーリヴァー
(私は、「サンサーラ सम्सार(生と死、苦悩の繰り返し)」の木を維持するもの
である)
キールティヒ プルシュタン ギレーリヴァ
(私の名声は、まるで切り立った山のピークのようである)
ウールドヴァチットラウ ヴァージニーヴァ ソヴァムルタマスミ
(私の意識は完全に浄化され、まるで太陽のように、純粋に輝く。)
412
第 10 章 祈りのためのマントラ
ドラヴィナグン サヴァルチャサン(最も輝ける宝石のように、この知識は私
の中で輝きを放っている)
スメーダー アムルトウクシタハ(死から完全に自由になる絶対的な輝きであ
る知識が私に授けられた)
イティ トリシャンコール ヴェーダーヌヴァチャナン
(これが『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』を治めた
聖者トリシャンクの言葉である)
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
413
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ⑤
ओम्
पूर्णमद: पूर्णमिदं पू्र्णामुदच्यते।
पूर्णस्य पूर्णमादाय पूर्णामेवावशिष्यते॥
ओम् श॒न्ति श॒न्ति श॒न्ति:॥ [शुक्र याजुर्वेद]
オーム
プールナマダ プールミダン プールナーット プールナムダッチャッテー ।
プールナッシャ プールナマーダーヤ プールナメーヴァ ヴァシッシャッテ
॥
オーム シャンティ シャンティ シャンティ ॥
<意味>
オーム
アダハ(あれが)プールナン(満ちている)
イダン(これが)プールナン(満ちている)
プールナーット (満ちているものから)プールナン(満ちているものが)
ウッチャッテー(現れている)
プールナッシャ プールナン アーダーヤ
(この満ちているものから、満ちているものを取り除いたとしても)
プールナメーヴァ アヴァシッシャッテ(満ちているものだけが、残る)
オーム シャンティ シャンティ シャンティ ॥
414
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ⑥
ओम् आप्यायन्तु ममाङ्गानि वाक्प्राणश्चक्षु: @श्रोत्रमथो बलमिन्द्रियाणि च सर्वाणि।
सर्वं ब्रह्मौपनिषदम्।
माहं ब्रह्म निराकुर्याम्। मा मा ब्रह्म निराकरोत्।
अनिराकरणमस्त्वनिराकरणं मे अस्तु।
तदात्मनि निरते य उपनिषत्शु धर्मास्ते मयि @सन्तु ।ते मयि सन्त।
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥६॥
オーム
アーピャーヤントゥ ママーンガーニ バークプラナーチャクシュ シュロートラマト バラインドリヤーニ チャ サルヴァーニ
サルヴァン ブランマ ウパニシャダン
マーハン ブランマ ニラークリャーン
マーマー ブランマ ニラーカローット
アニラーカラナマス トヴァニラーカラナン メー アストゥ タダート
マニニラテー
ヤ ウパニシャッス ダルマーテーマイサントゥ テーマイ サントゥ
オーム♪シャンティ シャンティ シャンティ
<意味>
「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」
アーピャーヤントゥ ママーンガーニ(どうか私の体が強く養われますように)
バーク(話す力) プラーナ(生理機能を維持する力) チャクシュ(みること)
シュロートラマト(聴くこと)
バラインドリヤーニ チャ サルヴァーニ(五感のすべてが、すべてがどうか
成長しますように))
サルヴァン ブランマ ウパニシャダン(『ウパニシャッド(奥義書、ヴェー
ダ聖典の最終的な教え)』によって明かされている「ブラフマン ब्रह्मन्」のす
べてを)
415
第 10 章 祈りのためのマントラ
マーハン ブランマ ニラークリャーン
(私が否定することがありませんように。)
マーマー ブランマ ニラーカローット
(「ブラフマン ब्रह्मन्」が私を否定することがありませんように。)
アニラーカラナマス トヴァニラーカラナン メー アストゥ
(「ブラフマン ब्रह्मन्」の教えが私自身の事実としてありますように、私によっ
て否定されることがありませんように。)
タダートマニニラテー ヤ ウパニシャッス ダルマーテーマイサントゥ テーマイ サントゥ
(「ウパニシャッド」によって教えられる「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」
を知るための質が私たちに在りますように。真実を知るための祝福がいつも私
にありますように。)
416
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ⑦
ओम् वाङ् मे मनसि प्रतिष्टिता।
मनो मे वाचि प्रतिष्ठितम्।आविरावीर्म एधि।
वेदस्य म आणीस्थ:।
श्रुतं मे मा प्रहासी:।अनेनाधीतेनाहोरात्रान् सन्दधामि।
ऋतं वदिष्यामि।सत्यं वदिष्यामि तन्मामवतु। तद्वक्तारमवतु। अवतु माम्। अवतु वक्तारमवतु वक्तारम्।
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム
ヴァーグ メー マナシ プラティシュティター
マノー メー バーチ プラティシュティターン
アーヴィラーヴィルマ エディ
ヴェーダシャ マ アーニースタハ
シュルタン メー マー プラハーシー
アネーナーディーテーナー
ホーラートラーン サンダダーミ
ルタン ヴァディッシャーミ
サッティヤン ヴァディッシャーミ
タンマーマヴァトゥ タドヴァクターラマヴァトゥ
アヴァトゥ マーン アヴァトゥ バクターラン
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
417
第 10 章 祈りのためのマントラ
<意味>
ヴァーグ メー マナシ プラティシュティター
(私が話すことが、どうか心で考えていることと一致していますように)
マノー メー バーチ プラティシュティターン
(私の心と話すことが矛盾しませんように)
アーヴィラー ヴィルマ エディ
(自ら輝く「ブラフマン ब्रह्मन्」よ!)
ヴェーダシャ マ アーニースタハ
(どうか私にその真の姿を明らかにしてください)
シュルタン メー マー プラハーシー
(私が聞き、学ぶことが離れてしまうことがありませんように)
アネーナーディーテーナー ホーラートラーン サンダダーミ
(昼も夜も、学んだことを深く考えてゆくことができますように)
ルタン ヴァディッシャーミ (私の理解が正しいものであり、真実の理解が言葉にも表われますように)
サッティヤン ヴァディッシャーミ
(私がいつも真実を話しますように)
タン マー アヴァトゥ
(「ブラフマン ब्रह्मन्」が私を守りますように)
タド ヴァクターラン アヴァトゥ
(「ブラフマン ब्रह्मन्」が私の先生も守りますように)
アヴァトゥ マーン アヴァトゥ バクターラン
(「ブラフマン ब्रह्मन्」が私と先生を守りますように)
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
418
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ⑧
ओम्
भद्रं नो अपिवातय मन:
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム
バットラン ノウ アピヴァータヤ マナハ
シャンティ シャンティ シャンティ
オーム バットラン(祝福を) ノウ(私たちを) アピヴァータヤ(運びますように)
マナハ(心が)
(どうか私たちに祝福と自由がありますように。)
シャンティ シャンティ シャンティ
419
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ⑨
ओम् भद्रं कर्णीभि: श्रुणुयाम देवा:।
भद्रं पश्येमाक्षभिर्यजत्रा:।
स्थिरैरङ्गैस्तुष्टुवाँ सस्तनूभि:।व्यशेम देवहितं यदायु:।
स्वस्ति न इन्द्रो वृद्धश्रवा:।स्वस्ति न: पूषा विश्ववेदा:।
स्वस्ति नस्ताक्ष्यो अरिष्टनेमि:। स्वस्ति नो बृहस्पतिर्दधातु।
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム
バッドラン
カルネービヒ シュヌヤーマ デーヴァーハ
バッドラン パッシェー マービルヤジャトラーハ
スティライランガイ ストゥシュトゥヴァーグン サスタヌービヒ
ヴャシェーマ デーヴァヒタン ヤダーユフ
スヴァスティ ナ インドロー ヴルダッシュラヴァーハ
スヴァスティ ナッフ プーシャー ヴィシュヴェヴェーダーハ
スヴァスティ ナッスタークシヨウ アリシタネーミヒ
スヴァスティ ノウ ヴルフスパティル ダダートゥ
オーム シャンティ シャンティ シャンティ
オーム
バッドラン(祝福を) カルネービヒ(耳によって) シュヌヤーマ (聴きま
すように)デーヴァーハ(神々よ)(神々よ、どうか私たちの耳が、意味のあ
ること、祝福された事を聞きますように)
バッドラン パッシェー(見ますように) マービルヤジャトラーハ(汚れな
420
第 10 章 祈りのためのマントラ
きものを)(私たちの目が汚れなきものを見ますように)
スティライランガイヒ(強い体で) トゥシュトゥヴァーグンサス(あなたの輝きを)
タヌービヒ(『ヴェーダ(聖典)』によって)
ヴャシェーマ(私たちが楽しみますように)
デーヴァヒタン(神々の
慈悲を) ヤダーユフ(この人生で)
(『ヴェーダ(聖典)』マントラによって、あなたを讃え、強い体で生き
るを楽しむことができますように)
スヴァスティ ナ インドロー ヴルダッシュラヴァーハ
(インドラ神が私たちに祝福を与えますように)
スヴァスティ ナッフ プーシャー ヴィシュヴェヴェーダーハ
(すべてに行き渡る太陽が私たちを祝福しますように)
スヴァスティ ナッス タークシヨウ アリシタネーミヒ
(あなたの鷹のように鋭く、事実を見渡せる目によって、私たちが祝福
を受けることができますよう)
スヴァスティ ノウ ヴルフスパティル ダダートゥ
(創造神ブランマジの知恵の祝福が与えられますように)
オーム シャンティ シャンティ シャンティ 421
第 10 章 祈りのためのマントラ
シャンティ・マントラ⑩
ओम् यो ब्रह्माणं विदधाति पूर्वं यो वै वेदाँ श्च प्रहिणोति तस्मै।
तँ ह देवमात्मबुद्धिप्रकाशं मुमुक्षुर्वै शरणमहं प्रपद्ये॥१०॥
ओम् शान्ति॒: शान्ति॒: शान्ति॒: ॥
オーム
ヨー ブラフマーナーン ヴィダダーティ プールヴァン
ヨー ヴェーダーン シュチャ プラヒノウティ タスマイ
タグン ハ デーヴァマートマ ブッディップラカーシャン
ムムクシュルヴァイ シャラナマハン プラパッディエ
シャンティ シャンティ シャンティ
オーム ヨー (彼が)ブラフマーナーン (創造神ブラフマが)ヴィダダーティ(創造
した) プールヴァン(すべての始まりにおいて)
ヨー(彼が) ヴェーダーン(『ヴェーダ(聖典)』を)シュチャ プラヒノウティ
(そして、教えた) タスマイ(彼のために)
タグン ハ (あれはたしかに)デーヴァン(神々を)アートマ ブッディッ
プラカーシャン(「アートマン आत्मन्(人、生き物の真実)」の知識を明らかに
する者)
ムムクシュルヴァイ(自由を求める者) シャラナン(救いますように)アハ
ン プラパッディエ(私が探求する)
私は自由を探求する者である。
初めにこの世界を創造し、『ヴェーダ(聖典)』を教えたブラフマー神に真実の
教えと救いを求める私が、どうか祝福されますように。
シャンティ シャンティ シャンティ
422
第 10 章 祈りのためのマントラ
10.「スーリヤ・ナマスカール(太陽礼拝)
」
【太陽に対する 12 のマントラ】
「スーリヤ・ナマスカール सूर्यनमस्कर्(太陽礼拝)」の前の祈り
हिरण्येन यात्रेण सत्यस्यापिहितं मुखम्।
तत्त्वं पूषन् अपावृणु सत्यधर्माय दृषटये॥
ヒランマイェーナ パートレーナ サッティヤッシャ ピヒタン ムカン
タットヴァン プーシャン アパーヴルヌ サッテャ ダルマーヤ
ドルシュタエー
光の法を司る太陽よ、まるで壺の蓋のように、丸い金色の光で真実への扉
を覆う者。どうか、その入り口を開け放ち、私を真実に導いてください。
「プラシナウパニシャッド प्रशिनउन्पनिषट्」
「スーリヤ・ナマスカール सूर्यनमस्कर्(太陽礼拝)」について
最もポピュラーな Yoga 的エクササイズとして認識されている「スーリヤ・ナ
マスカール सूर्यनमस्कर्(太陽礼拝)」は、文字通り太陽「スーリヤ सूर्य(太
陽)」に礼拝する「ナマスカール नमस्कर्(礼拝、自分を開け放ち委ねるこ
と)」という 2 つの言葉からなる。もともとは、運動というよりも『ヴェーダ
(聖典)』の規定に従って『ダルマ धर्म(秩序、守るべきこと)』を生きる人々
によって為されてきた宗教的な儀式の一部である「サンディヤーバンダナン
सन्ध्यावन्दनम्(聖典による日々の儀式)」といわれている日々の生活の中で行
う儀式の 1 つ。地球からみて太陽が 3 つのポジションをとるとき、つまり朝日
が昇る時、真昼に頂点に達した時、夕方日が沈む時に行われる祈りなのである。
『ヴェーダ(聖典)』によると、太陽にはスーリヤを含めた 12 の名前がついて
いる。輝き、熱さ、養うもの、生命の源、活力、病を取り除き、生物を目覚め
させる、など太陽のそれぞれの機能に名前がつけられているのだ。
423
第 10 章 祈りのためのマントラ
まるで、12 人のプロフェッショナルで構成されたグループで 1 つの太陽とい
う現象を治めているように。この 12 人に対して、1 つ 1 つ祈りのマントラと、
讃えることを表現した祈りのポーズがある。
それが組み合わさって「スーリヤ・ナマスカール सूर्यनमस्कर्(太陽礼拝)」となっ
ている。
太陽礼拝を行う時は、朝、東を向いてこの 12 人のプロ集団に気持ちをむけて、
心して行おう!
【太陽への 12 のマントラ】
すべてのマントラの前に「ओम् オーム(全体世界を現す 1 音)」がつき、1 つ
1 つの「マントラ मन्त्र」には、12 種類の祈りのポーズが組み合わせてある。ポー
ズは、体で表現する祈り。
「スーリヤ・ナマスカール सूर्यनमस्कर्(太陽礼拝)」とは、本来祈りの行いの一
種であり、単なる “ エクササイズ(運動)” ではない!むしろ太陽とつながる『カ
ルマ कर्म(行い)』なのである。それぞれの名前の後ろには、「ナマハ नम:(私
は心を開き、委ねます)」
という言葉がついている。
424
第 10 章 祈りのためのマントラ
太陽への 12 のマントラ
1. 「オーム ओम्(全体世界を象徴する言葉、真実を指し示す一音)
」
2.
ॐ ह्रां मित्राय नम: オーム・ミットラヤ・ナマハ
すべての友である者へ
3.
ॐ हरीं रवये नम: オーム・ラヴァエ・ナマハ
すべてに讃えられる者へ
4.
ॐ ह्रूं सूर्याय नम: オーム・スーリヤーヤ・ナマハ
目覚めさせる者へ
5.
ॐ ह्रै भानवे नम: オーム・バナヴェー・ナマハ
輝きを与える者へ
6.
ॐ ह्रौ खागाय नम: オーム・カガイェー・ナマハ
覚醒させる者へ
7.
ॐ ह्र: पूष्णे नम: オーム・プシュネー・ナマハ
すべてを養う者へ
8.
ॐ ह्रां हिरण्यगर्भाय オーム・ヒランヤガルヴァーエ・ナマハ
エネルギーと活力の源たる者へ
9.
ॐ हरीं मारिचय् नम: オーム・マーリチャーエ・ナマハ
病を破壊する者へ
10.
ॐ ह्रूं आदित्याय नम: オーム・アーディティヤーエ・ナマハ惹きつける
魅力あふれる者へ
11.
ॐ ह्रै सवित्रे नम: オーム・サッヴィトレ・ナマハ
すべての父へ
12.
ॐ ह्रौ अर्कय नम: オーム・アルカイェー・ナマハ
崇高なる者へ
13.
ॐ ह्र: भास्कराय नम: オーム・バスカラヤ・ナマハ
燦然と輝きを放つ者へ 私は自分を開け放ち、祈ります。
425
おわりに
Yoga 的リアリティ瞑想は “ 自分自身 ” と向き合い、理解し、揺らがない自分
を確立するためにある。そのために、心を扱う。心を扱うために、「アンタッカ
ラナ・シュッディ अन्त:करण शुद्धि(心の浄化)」をする。
「アンタッカラナ・
ニシチャヤ अन्त:करणा निश्चय(心を定めること)」をする。
それが『ヴェーダ(聖典)』の最終章「ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終
章)」、別名『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』の教え
にしたがった、伝統と教えの方法論に基づいた瞑想法である。
瞑想と Yoga のトータルな目的は、“ もっと楽に、もっと自由に生きるために
ある ”。
自分自身であることに納得し、誰が何といおうと完全に自分で自分を受け止
めている大きく強く、広い心でどーんと人生くつろぐこと。真実に基づいた本
当の自分を知り、何が起こっても、だれといても、心に緊張なく葛藤なく「こ
れでいい!すべてこれでよしっ」と一点の陰りもなくいえること。大きな世界
に負けないくらい、広い心をもって自分と世界にリラックスすること。自分で
あることに、誇りをもって堂々と生きること。
それが、私たちが本当に欲しい ” 自由 “ の意味だ。
私たちは瞑想をして自由になるのではない。すでに、自由であることを知る
のだ。『ヴェーダ(聖典)』のビジョンでは、今この瞬間でも私たちは完璧。
もし、そうじゃない、完璧じゃない、と自信を失くしているならこの瞑想法
がきっと、真実の自分を確立していく術となり、助けとなる。
自分自身であるために、自分自身であることを納得するために。今も自由と
幸せの意味であり続ける自分にくつろぐために、私たちは瞑想をし、Yoga をす
る。
この本が、私たちが迷いなく生きる目的を達成するために何かの役に立って
いるのだとしたら、これ以上嬉しいことはない。
Yoga の目的は、自分自身のトータルな生きる目的でもある。自分は何が欲し
426
いのか? 何を求めているのか? ここをしっかりと見すえていく。自分が欲しい
ものがはっきりとし、そのために必要な手段を見極められることが Yoga では一
番初めにして、一番大きなファクターだという。
『バガヴァッドギーター』では、この 1 つに定まった心を「ビャバサーヤトミ
カ ブッディ व्यवसायत्मिका बुद्धि(迷いのない知性)
」という。この知性をもっ
て、もうどうでもよいことや本物っぽい偽物を掴んで、ウロウロしない。本当
に求めていることだけを手にしよう。シンプルに、だけど真っ直ぐに生きよう。
大きなビジョンをみせてくれている『ヴェーダ(聖典)』と、「ヴェーダーン
タ(ヴェーダ聖典の最終章)」と、その教えで今も導き続けてくれているたくさ
んの師と力に感謝します。この本を使う人の迷いが打ち消されますように。私
たちがまっすぐ Yoga 道を歩いていくことができますように。
この本を作るにあたっては、『ヴェーダーンタ(ヴェーダ聖典の最終章)』の
教えを説いてくれた師スワミ・ダヤナンダ先生を始めに、沢山の方々のご協力
を頂きました。教えの伝統の中で、正しくエッセンスを伝えられていることを
願い、心からの感謝を記します。
ありがとうございました。
著者 向井田 みお
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参考文献
『ウパニシャッド(奥義書、ヴェーダ聖典の最終的な教え)』聖典
『タイティリーヤ・ウパニシャッド तैत्तिरीयोपनिषत्』
『カタ・ウパニシャッド कठोपनिषद्』
『ムンダカ・ウパニシャッド मुण्ड्कोपनिषद्』
『チャーンドギャ・ウパニシャッド छान्दोग्यौअनिषत्』
『ケーナ・ウパニシャッド केनोपनिष्द्』
『アタルヴァヴェーダ अथर्ववेद』
『リグヴェーダ ऋग्वेद』
『ヤージュルヴェーダ यजुर्वेद』
『यजुर्वेद त्रिकाल सन्द्यावन्दनम् x
パンタジャリ『ヨーガスートラ योगसूत्र』
Sri Ramakrishna Mat『マントラプシュパン मन्त्रपुषोअम्』
『シュリーマッド・バガヴァッドギーター श्रिमद्भगवद्गीता』GitaPress
【Swami DayanandaSarasvati 著書】
Morning Meditation Prayers , 2003
Whatis Meditation? , 1994
Japa , 2000
BhagavadGita homeStudy Course , 1995
MundakaUpanishad , 2008
KenaUpanisad , 2002
Prayer Guide , 2001
Introduction to Vedanta , 1994
VisnuSahasranama , 1992
428
Sri Rudram , 1993
Freedom from happiness , 2005
Living versus getting on , 2001
Insights , 2005
Action and Reaction , 2003
Fundamental Problem , 2001
Purpose of Pryer , 1999
Freedom , 2007
Yoga of Objectivity , 2002
以上すべて Arsha Vidya Reserce and Publication Trust, Chennai India
【その他】
Swamini Pramananda Saraswati and Sri Dhira Chaitanya, P u r n a V i d y a ,
Purna Vidya Trust, Tiruvannamalai India, 2000
Swami Paramarthananda, KaivalyaUpanisad , Yogamalika, Chenai India, 2003
Swami Paramarthananda, MudakaUnanishad
Swami Paramarthananda, Srimad Bhagavadgita , Yogamalika, Chennai India, 2004
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向井田 みお(むかいだ みお)
インド Vivekananda Kendra ヨーガ指導者コース後、インド各地でヨーガを学ぶ。
南インド・ケララ Sivananda Ashram にて TTC 修了の後、インド国内の Sivananda
Ashram(シヴァナンダ・ヨーガ道場)、Sivananda Center にて約 2 年間インド人、西洋
人にヨガを指導。
ヒマラヤ・ウッタラカシにて Sivananda Yoga Advanced TTC 修了後、インド Sivananda
Ashram にて TTC の通訳・講義解説と指導。
ヴェーダーンタ学派の世界的な指導者 Swami Dayananda 師に師事し、ヴェーダーンタ
を学び始める。毎年渡印し、Swami Dayananda Ashram にてヴェーダーンタ各テキスト、
『バガヴァッドギーター』『ウパニシャッド』他、サンスクリット語の講義を受け、ヨー
ガとヴェーダーンタを師に学び続ける。
アンダーザライト ヨガスクールにて一般クラス他、ティーチャー・トレーニングコース
にて「ヨガ哲学」を担当。
著書に『やさしく学ぶ YOGA 哲学 バガヴァッドギーター』(YOGA BOOKS)。
向井田みおのインドで学んだ瞑想 2012(PDF 版)
2012 年 2 月 20 日 第 0 版発行
著者
向井田 みお
イラストレーション 山田 久美子
編集・デザイン
発行所
熊谷 惠雲
アンダーザライト ヨガスクール YOGA BOOKS
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