2. 特 集 東海北陸自動車道の全線開通によせて 岐阜県 県土整備部 道路建設課 高速道路担当 加 藤 忠士 1 はじめに ■ 今回、 「 東 海 北 陸自動 車 道の 全 線 開 通によせ てということでなにか 寄 稿を」との依 頼をいただき ました 。岐 阜 県の 立 場から東 海 北 陸自動 車 道の 生い立ちを振り返ってみたいと思います 。 2 計画段階 ■ まず 最 初に、整 備 計 画が 決 定されるまでの取り 組みを振り返ってみたいと思います 。 日本における高 速 道 路 建 設の法 制 化について は、昭 和 3 0 年 6月、第 2 2 回 国 会に超 党 派で提 案さ れた「 国 土 開 発 縦 貫自動 車 道 建 設 法 案 」により 始まります 。なお、当 時の 道 路 事 情は 、昭 和 3 1 年 に 名 神 高 速 道 路 建 設 の 調 査を行ったワトキンス 調査団をして「日本の道路は信じがたい程に悪い。 工 業 国にして、 これ 程 完 全にその 道 路 網を無 視 してきた国は、 日本の 他にない 。」と言わしめたほ ど劣 悪なものであったようです 。 その 後 、 日本 の 背 骨となる名 神 高 速 や 東 名 高 速など 縦 貫 5 道 の 整 備 が 進められてきましたが 、 東 海 北 陸自動 車 道の建 設 計 画については、当時 の建 設 省が 地 域 的な均 衡を図るため、昭 和 3 5 年 度から始まった自動 車 道 路 網 設 定のための 調 査 の 一 環として、昭 和 3 6 年 度に中 部 地 方 建 設 局に おいて図上選定調査が行われたことに始まります。 この調査では、 「中部横断高速自動車道」として、 愛 知 県 稲 沢 市と富 山 県 高 岡 市を結 ぶ 路 線で、5 万 分 の 1 の 地 形 図でルートの 図 上 選 定と概 算 事 業 費の算 定が行われました。 一 方 、地 元では 昭 和 3 8 年 7月に「 中 部 横 断 高 速自動車道建設促進同盟会」を中部の6県1市(岐 阜 、愛 知 、三 重 、富 山 、石 川 、福 井 、名 古 屋 市 )を 結 成し、建 設 予 定 路 線の 現 地 調 査を実 施 すると ともに、同 盟 会 独自で経 済 調 査を実 施 するなど積 極 的に建 設 促 進の働きかけを行ってきました。 そして、昭 和 3 8 年 1 2月には自民 党 総 務 会 及び 政 調 会に対し、本 路 線の 重 要 性 、経 済 効 果 等を 説 明し 、立 法 化 の 了 解を求める説 明 会を開 催し ています 。 図−1 昭和47年当時の計画図 その結 果 、昭 和 3 9 年 7月に「 東 海 北 陸自動 車 道 建 設 法 」が施 行され 、一 宮を起 点とし、関 市 、 荘 川 村 付 近を経 由し、砺 波を終 点とするルートが 予 定 路 線として法 制 化されました。全 体 計 画 の概 要としては延 長 約 1 7 0 k m 、事 業 費 約 2, 0 0 0 億 円とされていました。なお、法 制 化に伴い、同 盟 会の名 称を「東 海 北 陸自動 車 道 建 設 促 進同盟 会」 ( 以 降同盟 会 )に変 更しております 。 基 本 計 画は昭 和 4 5 年から5 3 年にかけ決 定され 、整 備 計 画についても昭 和 4 7 年から平 成 元 年にかけ決定されており、順次、建設大臣から日本道路公団に対し施工命令が出されております。 3 建設のはじまり ■ ①施工命令 昭 和 4 7 年 6月2 0日に、一 宮∼美 濃 間の約 3 3 k mが、高 速自動 車 国 道 法 第 5 条に基づき国 土 開 発 幹 線自動 車 道 建 設 審 議 会の議を経て整 備 計 画が決 定され 、同日、建 設 大 臣から日本 道 路 公 団に施 工 命 令が発せられました。 なお、 この施 工 命 令を受け、昭 和 4 8 年 6月1日には、 日本 道 路 公 団 名 古 屋 建 設局の「 岐 阜 工 事 事 務 所」が岐 阜 市 金 園 町に設 置されています 。 ② ル ートの 変 更 整備計画のルートについては、 たびたび沿線住民から強い反対運動が展開され、時にはルー ト変 更も行われています 。 岐 阜 県内では、特に岐 阜 市 芥 見 地 区で強 硬な反 対 運 動が展 開され 、 また、当時の建 設 政 務 次 官 が「ルートを変える努 力をします 」 と表 明されたこともあり、道 路 公 団としても対 応に苦 慮されていました 。そこで行き詰まっ た 事 態 の 解 決を図るため 、 「岐阜県東海北 陸自動車道建設連絡協議会」 ( 以降協議会) ( 会 長:岐 阜 県 知 事 )が 、岐 阜 大 学の教 授や 商 工 団 体 、県 議 会 議員等 1 7 名で構 成される 「 美 濃 以 南 路 線 問 題 専 門 委 員 会 」を昭 和 4 8 年 1 1月に設 置し、最 良な路 線について検 討を行いました。 委員会では、国道156号沿いを通過するA 路線と、主要地方道江南関線沿いを通過する B 路 線について比 較 検 討され 、その中で、沿 線住民の意見聴取、土地利用、環境影響など 図−2 比較ルートの図面 総合的な審議を行い、整備計画より約2. 5km 東に寄ったルートが最良であるという結 論に達し岐 阜 県 知 事に答申しております 。道 路 公 団に おいてはこの答申を尊 重され 、国 幹 会 議の議を経てルート変 更することとなりました。 なお、一 宮 市 等を通 過する愛 知 県ルートについても強い反 対 運 動があり、 ルートが変 更され ています 。 2. 特 集 東海北陸自動車道の全線開通によせて ③用地買収 用地 買収については、昭 和 5 1 年 7月1日に日本 道 路 公 団 名 古 屋 建 設 局 長と岐 阜 県 知 事の 間で用地 事 務の委 託に関 する協 定が 結ばれ 、同日付で、 「 岐 阜 県 高 速 道 路 事 務 所 」が 美 濃 市の中 濃 総 合 庁 舎に設 置されました。なお、設 立当初は9 人 体 制で始まりましたが 、その後 取 得 体 制を整え、最 盛 期には2 1 人まで増 強されています 。このような体 制で、昭 和 5 4 年 3月、関 市 倉 知 地 区を皮 切りに用地 取 得が 開 始されました。なお、用地 取 得をスムーズに進めるため には、県のみでは不 十 分であったことから通 過 市 町 村にも委 託されました。 用地 交 渉は難 航し、公 団 、市 、県 一 丸となって、朝 駆け、夜 駆け、昼 夜を分かたずの交 渉が 続けれらましたが 、ある地 権 者との交 渉は1 4 0 回にも及んだと聞いております 。当時の高 速 道 路 事 務 所 長は、 「この東 海 北 陸 道は中部 経 済 圏の動 脈となる主 要 道 路であり、将 来 我々の子 孫のためにも残してやらねばならない大きな社 会 資 本である。その社 会 資 本を自分たちが 建 設 する大きな義 務と責 任があるのだ」という自覚を持ち、か つ心 中には「 物を買うのではなく、 人の心を買わせていただくのだ」という信 念を持ち、 日夜 地 権 者 説 得の努 力を続けてきたと回 想されています 。 ④ 着 工 、起 工 式 このような「 用地マン」の 努 力のもと、岐 阜 県関市倉知地内において、倉知高架橋3 1 9 m 及び津 保川橋 1 5 4 mの工 事が本自動 車 道 最 初の 工 事として、昭 和 5 4 年 1 0月1 6日に発 注 されました 。これに 伴い 、1 2月1 1日に日本 道 路 公 団 主 催により、県 、地 元 関 係 者 、施 工 業 者 参 加により安 全 祈 願 祭が催されています 。 翌 年 、昭 和 5 5 年 1 0月2 9日には、本 道の 工 事がいよいよ本 格 化したことにより、 日本 道 路 公 団と同 盟 会 の 主 催により、各 務 原トンネル 坑口付近で起工式が挙行され、建設大臣( 代 理 )、中 部 地 方 建 設 局 長 、道 路 公 団 名 古 屋 建 設 局 長 、岐 阜 県 知 事 、沿 線 各 県 知 事 、名 古 屋 市 長らによる鍬 入れが行われました。 なお、 これに引き続き、同 盟 会と協 議 会 主 催により各 務 原 市 民 会 館で起 工 式 典が 催さ れています 。 図−3 起工式写真 4 はじめての開通 ■ その後 、岐 阜 各 務 原 I C∼美 濃 I C 間 、延 長 約 1 9 . 1 k mの工 事が 進められ 、着 工から約 6 年 5ヶ 月の期 間を経て、昭 和 6 1 年 3月5日、本自動 車 道として初めての開 通を迎えました。 開 通 式は、 日本 道 路 公 団 総 裁 、建 設 省 事 務 次 官 、地 元 国 会 議員、岐 阜 県 知 事 等 関 係 者 参 加 のもと開 催され 、 テープカット、 くす玉 開 披 、色とりどりの風 船が舞い上がり美 濃の山々に大きな拍 手が響き渡りました。 このあと、岐 阜 県 警 パトカーを先 頭に、美 濃インターチェンジまでの1 9 . 1 k mを約 5 0 0 台の自動 車による開 通 パレードが 行われ 、午 後からは関 市 文 化 会 館で祝 賀 式が 開 催され 、午 後 3 時から 一 般に供 用されました。 なお、開 通 前の2月1 6日には、 「もうこれっきり、走ろう高 速 道 路! !」をキャッチフレーズに、全 国 から約 7 5 0 0 人 参 加のもと日本 初の高 速 道 路マラソンが開 催されました。なお、4 2. 1 9 5 k mを目指 したフルマラソンのコースもあり約 1, 7 0 0 人が参 加したとのことです 。 図−4 開通式の写真(昭和61年3月5日) 2. 特 集 東海北陸自動車道の全線開通によせて 5 インターチェンジの追加 ■ ここで説明するまでもありませんが、 高速道路はインターチェンジがあってこそ地域振興の起爆剤となる 社会資本であり、 その有無は地域の将来を大きく左右します。 東海北陸自動車道の岐阜県内の区間においては、 美並IC、 ぎふ大和IC、 高鷲ICの3カ所が地域の努力 によって追加されており、 ひるがの高原スマートICと、 飛騨河合PAスマートICが現在社会実験中であり、 採 算性や安全性等の検証が行われています。 美並ICの追加については詳しい資料がありませんが、 昭和53年頃、 同盟会や協議会から建設省など関 係機関へ強力に要望が行われており、 当時の福田総理へも陳情されていたようです。 この結果、 昭和53年 11月21日に決定された整備計画には、 美濃IC∼白鳥IC間の整備計画の決定に加え、 美並ICの設置が盛 り込まれました。 ぎふ大和ICと、 高鷲ICについては追加ICとして、 「開発インターチェンジ制度」を活用し整備されています。 これは、 沿線開発事業者の負担により整備する制度で、 借入金の返済にはリスクが伴いますが、 ぎふ大和 ICについては「道の駅 古今伝授の里やまと」を、 高鷲ICについては「高鷲スノーパーク」を核とした事業 の収益から返済されています。 ひるがの高原スマートICについては昨年の12月から社会実験が実施されており、 ピーク時は2, 600台/ 日以上、 平均でも700台/日程度の利用があります。 飛騨河合PAスマートICについては、 7月5日の全線開通と共に社会実験が開始されています。富山方面 のみ乗り降り可能なハーフIC形式となっているなど、 条件的に厳しい面がありますが、 地域の期待は非常に 大きいものがあります。 図−5 ひるがの高原スマートIC 6 様々な新技術、新工法の採用 ■ 東 海 北 陸自動 車 道は「 飛山 濃 水 」と呼ばれる岐 阜 県の美しくも険しい自然の中を通 過してお り、設 計 速 度 8 0 k m / hの高 速自動 車 国 道の整 備には困 難が伴いました。これらを克 服するため 様々な新 技 術 、新 工 法が採 用されています 。 ① 高さ日本 一 の 高 橋 脚「 鷲 見 橋 」 図−6 鷲 見 橋はV 字 渓 谷を横 断し橋 脚の高さが1 1 8 mと日本 一の高さを有 する長 大 橋で、橋 長 は4 3 6 mのP C 4 径 間 連 続ラーメン箱 桁 橋です 。高 橋 脚の建 設にあたっては、工 期 短 縮と建 設 費 削 減を目的 に 、材 料 に 高 強 度コンクリート(σ c k = 5 0 N / m m 2 )と、高 強 度 鉄 筋 (σy = 6 8 5 N / m m 2 )を使 用した新 工 法 、高 強 度 R C 工 法を適 用。高 強 度 材 料の使 用によ り躯 体のスリム化 、深 礎の 縮 小 化が 可 能となりました。なお、足 場には、 ラチェット型 油 圧 昇 降 装 置を備えた自昇 式 足 場を採 用しています 。 図−6 鷲見橋 2. 特 集 東海北陸自動車道の全線開通によせて ② 波 形 鋼 板を用いたP C 橋「 本 谷 橋 」 図−7 本 谷 橋は1 9 8 mの 橋 梁で、 日本で初めて片 持ち張り出し工 法による波 形 鋼 板をウェブに 用いたP C 3 径 間 連 続ラーメン箱 桁 橋です 。 主 桁自重を軽 減でき、施 工の合 理 化や工 期の短 縮が可 能となりました。 図−7 本谷橋 7 最後の難関飛騨トンネル ■ そして、幾 多の困 難を乗り越え事 業が 進められてきましたが 、最 後に突き当たったのが 、皆 様 もよくご存じの「 飛 騨トンネル」です 。飛 騨トンネルが 含まれる荘 川 I C∼白川 郷 I C 間のルートは、 昭 和 4 8 年に策 定された基 本 計 画の段 階では国 道 1 5 6 号 沿いを通 過 する計 画でした。 ( 図−1 参照) その後 、昭 和 6 2 年 、第 四次 総 合 開 発 計 画の策 定に伴い、多 極 分 散 型 国 土を実 現するため全 国 1 4, 0 0 0 k mの 高 規 格 幹 線 道 路 網の 計 画が 策 定され 、 この中で長 野 県 松 本 市から福 井 県 福 井 市を結ぶ延 長 約 1 6 0 k mの「中部 縦 貫自動 車 道」が盛り込まれました。 このとき、中部 縦 貫自動 車 道をどこで東 海 北 陸自動 車 道に接 続するかが課 題となりました。当 初は、高山 市から西 へ 向かう中 部 縦 貫自動 車 道を御 母 衣ダムの南で接 続 する案もあったようで すが 、高山から富山に向かう場 合 、Uターンするような形になるため、最 終 的に、各 方 面からの意 見が考 慮され 現 在のルートに変 更されたようです 。しかしながら、 このルート上には「 籾 糠山 」が あり、飛 騨トンネルという難 関を抱えることになりました。 その後 、開 通 するまでの困 難な状 況については皆 様ご存じのとおりですので、 ここでは割 愛さ せていただきます 。 8 今後の目標 ■ 7月5日の全 線 開 通は、東 海 北 陸自動 車 道 建 設にたずさわった関 係 者の方々のこれまでの努 力が結 実する大 変 喜ばしいことですが、東 海 北 陸自動 車 道の整 備はこれで終わったわけではあ りません。 いまだ、郡 上 八 幡 I Cから小 矢 部 砺 波 J C Tまでは暫 定 2 車 線の対 面 通 行のままであり、走 行 性 や安 全 性の観 点からも早 期に4 車 線 化される必 要があります 。 白鳥 I Cまでは、来 年 度中に完 成すると公 表されていますが、白鳥 I C 以 北の事 業 化については 整 備 計 画の中で、 「さしあたり二 車 線の完 成をもって供 用を開 始し、交 通 量の増 加に応じ残りの 二 車 線を完 成 するものとする。」とされていますので、全 線 開 通 後の大 幅な交 通 量 増 加に期 待 しているところです 。 9 最後に ■ 高 速 道 路は、あくまで道 具であり、いかに使いこなすかがこれからの課 題となります 。 活 用策が無ければ、せっかくの交 流 人口も素 通りするだけであり、 むしろ悪 影 響も懸 念されるとこ ろです 。 ( 岐 阜 県の立 場から見ると、新 聞 紙 面などから愛 知 県は富 山 県を、富 山 県は愛 知 県の 市 場を目指しているように感じられます 。)今 後は、中 部 圏 全 体の発 展のためにいかに活 用され るか 期 待していきたいと思います 。 最 後に、 ワトキンス調 査 団 報 告 書の冒頭に捧げされていた言 葉を紹 介します 。 「国 家の繁 栄と 偉 大さを決 定するものに三つの要 素がある − それは、肥 沃な土 地・繁 忙な工 場・人と物との場 所から場 所への容易な輸 送である。」フランシス・ベイコン( 1 5 6 1∼1 6 2 6 ) 図−8 開通式の写真(平成20年7月5日)
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