C:fiVŠš‚å−w−wŁñ icohu

衆杣
詩篇
集
と畑
中
康
島
久
禁断詩篇 6 篇の欠落を補填し ,さらに大きなスケールをもたせるべくボ
ードレールは 再版『悪の華』㏍ Les FIeUr,
己
u
えた。 その中で最も 注目すべぎは 新設の「パ
リ
siens)) の章に収められたヴィクトル・ ユ ゴ
ー
Mal )
》
に32篇の新作を加
画集」 ( TableauX
く
(Victor
Hugo)
pah.
への献辞
をもつ連作三篇であ る。 ユ ゴ ーが ボードレー ルへの返書のなかで「あ なた
は新しい 戦 懐を創造している」と 評価したのは 周知のことだが , これらの
作品は晩年に 近いボードレールの 詩法の新しい 展開とその独創性をはっき
りと刻みつげるとともに ,やがて彼が 散文詩集『 , 。 りの慶彦』 ㏍Le Spl,
een
de Paris めの本格的制作へと 移ってゆく必然性を 告知してもいる。
一方,これら3 篇の醸しだす 苛烈な悲劇性を 帯びた内的緊迫感は 遠く
くレスビ ェ ンヌ詩篇 ノ のそれと響きあ っており,あ れら『悪の華』初版の
雄篇との遡及的対比を 促しているようだ。
とりわけ「小さな 老婆たち」
(Les Petites vie Ⅲes) は禁断詩篇のひとつ「地獄堕ちの 女たち
フィー ヌ
と べ
ポリート」 (Femmes
damn
さ
es.
Delphine
デル
et Hippo-
lytあ) が歌 レスビェシス たちの悲劇の 変奏とも受取れるイメージを 多産
う
しながら,終結部における 急迫したテンポと 昂揚を共有している。 無論,
これをもって 前者が後者の 代替的役割を 演じているなどとは 言えないが,
両者は『悪の 華』初版と再版の 間の同一性と 差異の本質的な 部分を象徴的
に伝えているかもしれない。 いずれ こせよボードレールの 初期と後期を 代
ヰ
表するこの 雨 詩篇間の秘やかな 関係性は "
り
画集詩篇における 彼の芸術意
識の方向性を 見定めるうえで 興味深い視点を 示唆しているだろう。 こうし
た意味から,われわれはさしあ たり「地獄堕ちの 女たち」の残像を 視界に
入れながら, 「小さな老婆たち」の紡律 のあ とを追ってゆくことにしたい
が,背景をなす 群衆の潮のようなり a
ヵ
り
とざわめきにも 目をこらし耳をす
@
上干
学
学
理
大
天
@
な
ら
な
なげ
ま
秘さ
1, 街
「小さな老婆たち」は "
り
路
画集詩篇 中,
「白鳥」
(Le Cyne), 「セ人の
老人」 (Les Sept v@e Ⅲ ards) とともに ユ ゴー・ セ,ト とでも呼ぶべき 三
部作を構成している。 初出は1859年 9 月 15 日付「現代評論」 誌 (Revue
contemporaine)で,そのときは「 セ 人の老人」と ぺ ア一で発表。 2 篇あ
わせて「パリの 亡霊」 (Fantomes parisiens) と題され, 1 . セ 人の老
「
Ⅱ・小さな老婆たち」 となっていた。 ュゴ一
セ,トでは 総願 が
消え,各々は独立したが配列順序は 変っていない。 状況設定の場と 登場人
物の類似性からみて ,この配列は 当然の措置だが ,
F悪の華』の他の 部分
にしばしば見られる ように,ここでも 合わせの妙は 効果 りだ。
自
Fourmillantecie, cie plCne
de
reves,
Oil@ le@ spectre@ en@ plCn@jour@ raccrache@ le@ passanL
(蟻のような雑踏の 都, 尊 また夢にあ ふれる都会, / 亡霊が真昼間か
ら通行人の袖を 引く 町ソ /
こ
う
…‥
づ
歌い出された「 セ人の老人」では ,パリの場末のうちさびれた 街路
を辿る詩人の「私」が ,突如,異様な
風体の老人に 出くわし次々と 同じ
姿の「亡霊」を 七つ数えるに 及んで,恐怖のあ まりついにほ 自室へ逃げ帰
って理性を狂わせてしまうのだが ,
Dans
les
O 母 tout,
Je guette,
Des
plis
m
伶
sinueux
me
des
l,h
ュ orreur,
obeissant
ゑ
mes
「小さな老婆たち」では ,
vieilles
capitales,
tourne aux
humeurs
enchantements,
fatales,
etres singuliers, dec お pits et charmants.
(古い都のう れ引 a と曲りくねった 巽の中, / 一切が,恐怖さえもが ,
老 婆
魅惑に変るあ たりにあ って,
が性癖のおもむくところ ,
/
/
と
群 衆
待ち伏せるのだ ,
奇妙な , 老いばれた
85
ど
う
しょうもないわ
だが魅力のあ る生
きものたちを。) 「「小さな老婆たち」
第 1 節 (以後 く P. V. ノ S.
l
のよう Tこ帥 苦言 己 )
コ
という冒頭の 一節によって ,われわれはただちに 羊腸として続く 古いパ
リの小路に引き 入れられ, 「私」とともに老婆たちの通過を 今度は待伏せ
して「恐怖」が「魅惑」に 変ってゆく方向線を 辿るのであ る。先行の詩か
らのこうい
う
受渡しはいかにも 面白いが,それよりもこれらの 詩篇におい
て,詩人ほパリの 街路に降りたら ,自らの憂礒な視線を敢然と 対象に向 け
ほ じめていることの
方が重要だろう。 詩人のこの ょうな姿勢こそ「パリ 画
集』の新設を 促したものであ り,それによって『悪の 華』は現実のパリを
背景に奥行きと 深さをはっきりと 増しているからだ。 室内から街路へとい
うベクトルは ,
この時期以後のボードレールの 詩的創造の進路を 決定づ け
るものと言ってもよいが ,それにつげても 初期の所謂レスビ ェ ンヌ詩篇の
ひとつ「デルフィー
ヌ と べ
ポリート」が 次のように歌い 出されて,室内を
基点として始動していたのが 思いおこされる。
A
la
pale
clarte des
Sur de profonds
Hippolyte
coulssins tout impr
revait aux
Qui levaient
lampes langui
le rideau
caresses
santes ,
さ
jgn さ sS d,odeur,
puissantes,
de sa jeune candeur.
(弱々しくともるランプのかすかな 光を浴び / 香りの染みこんだ 深い
クッションの 上で,ノイポリートは
夢のように思い 浮べていた
力強
い愛撫が/ いま彼女の幼い 無垢な心の帳:、@を開けてくれたことを カ
と
いかにも背徳的な 雰囲気を漂わせるこの 薄暗い室内は ,この長話が テー
マとする徹底的な 内部への下降の 通路だった。 そこで演じられるレスビ
ヱ
シス たちの情念の 葛藤はボードレールの 自意識のドラマそのものでもあ っ
て,
F悪の華』初版の 世界に強度な 内面的色彩を 投影していた。 かけがえ
のないこの作品が 削除された後,あ たかもそれに 伐 るもののごとく「パ
リ
天理大学学報
86
画集」の章に ユ ゴー・ セ,ト 03
垂コ
篇が組込まれ ,
" りの街路は再版 T悪の
0 世界を特徴づける 重要な構成要素となる。 ここでは内面の 虜Ⅱ T もは
や直接の対象とはならず ,詩人の目は 専ら外部へと 向げられるのだ。 しか
しそこに映しだされる 外界は,結局彼の 憂 穆 な内面の反映でしかない。
コ セットの最初に 置かれた「白鳥」で 彼は 歌っている。
Paris
changC
mais
rien
dans
ma
ユ
melancolie
N'a@ bouge!@ palais@ neufs , echafaudages,@
blocs ,
Vieux@ faubourgs,@ tout@ pour@ moi@ devient@ allegorie,
Et@ mes@ chers@ souvenirs@ sont@ plus@ lourds@ que@ des@
(,, りは変るソ けれども私の 愁いの中では
rocs
何 ひとつ / 動いていな
新しい宮殿も ,足場も,石材も
, / 古い場末の町も ,すべて私.
いソ
にとって寓意となり , / わがなっかしい 思い出は岩よりもなお
重いの
だつ
嘱目のパリ風景がすべてアレゴリーとならざるを 得ないようなボードレ
ールの視線, ユ ゴー・セットに 共通するのはこの 視線であ り,
そこから
「七人の老人」や「小さな 老婆たち」の 幻想性が生れる。
さて,詩人ほ「七人の 老人」で最後に 逃げ帰った室内から 再び街路に出
て,今度ほ「小さな 老婆たち」を 待ち伏せ尾行するのだが ,われわれはあ
らためてそのような 詩人の歩みに 密着してその 跡を追ってゆくことにしょ
う。
Dans
Ou
les
tout,
plis
sinueux
meme
des
1'horreur,
vieilles
capitales ,
tourne aux
enchantements,
パリの小路の 暗 楡 として用いられた plis という語は本来級や 襲を意味
していて, plis sinueux は言
う
までもなく老婆の 顔の妓を連想させる。
パリは年老いた 都であ り,ただちに 老婆たちのイメージと 重なり合
う
。
老
婆 たちが複数であ るから cap 什 ales もおのずから 複数形をとる。
そうした
襲 (小路 ) の中では, 「一切が,恐怖さえも魅惑に変 る 」とし
のだが,
ぅ
老 婆
87
群 衆
と
醜の中に美を 見い出し魅惑をつくりあ げることこそボードレール 独自の
美学であ
り,
圧
悪の華コの 詩法の根幹だった。
guette,
Je
obeissants
humeurs fatales,
mes
a
Des@ 6tres@ singuliers , decrepits@ et@ charmants
詩人であ る「私」の登場。
「ど
しょうもな いわが性癖」とほ「恐怖」
う
の中にひそむ「魅惑」を 発見するために ,余人なら尻込みするような「奇
妙な存在」に 探りを入れようとする 本能であ ろう。 また「奇妙な」, 「老
いばれた」, 「魅力的な」という形容詞の列挙は「恐怖さえも
魅惑に変 る
」
という先の 2 行目の詩句に 呼応するものであ って, decrepits と char.
をつなぐ et
mants
は醜と 美の同時併存的空間性よりも
,詩人の想像力に
よる醜から美への 変貌という時間性の 表現になっているだ る 5 。 こうして
冒頭の一節は 次に出現する 老婆たちとそれらを 尾行する詩人が 辿る行程の
すべてを予告しているような 趣だ。
つづく数節は 老婆たちの辛辣をぎわめたクローズア
Ces
disloques furent)adis
monstres
Eponine@
Ou
ou@
tordus,
Sous
Lais!@ Monstres@
aimez.Ies!
des joupons
ce
troues
( これらよ ほよ ばの怪物が
のライースだのと /
だが,愛してやろう
一トや
Us
des
femmes,
brises , bossus
sont
encor
et sous
des
令
mes.
de froids tissus
かつては女だったのか ,
ひし ゃ げた,せむしの ,
ソ
,プであ る。
/
/
ェ ポニースだ
またはねじれた 怪物
あれでもまだ魂なんだ。 / 穴のあ いた ぺチコ
冷たい布を身にまとい )
rampent
Fremissant@
, flagelles par
au@
les
bises
iniques ,
fracas@ roulant@ des@ omnibus
,
(這いずって行く ,邪悪な北風に 鞭打たれ, / 乗合馬草のがらがらと
鳴る車輪の音にふるえ 上がり, /
……
) Lく P. V. ノ S. 2-3.]
天理大学学・ 報
88
dlalnqUeS Oばらばらになった )
と
「
形容された怪物がかつては 女だった。
しかも ェ ポニースとかライースといった 女の中の女だったとは。
スはガリアの 豪族サビ
ェ ポニー
ススの妻, ローマに叛いた 夫とともに獄中にあ った
が夫の獄死後, 自らもローマ 皇帝を罵って 処 刊された。 烈女の典型であ
り
貞節を代表する 女性であ る。 またライースは 古代ギリシアの 遊女で美女の
典型,淫蕩を代表する女性であ
る。現在の中へ,
[b
さ
0 頭韻, [y コの 平詰 昔 ,
コ
5 して古代が呼びこま
bris s, bossus, t0rdus
れ,詩は時空の 境域を拡げる。 それにしても
とつづく形容詞は
こ
さらには t0rdus
による
側置 , Monstres と合mes の対照はひときわ 強烈な印象を 与えている。
た
れ
agell さ s, fr さ missant,
fracas
の語における
[f]
の頭韻と
ま
bises
iniques における [日の半詣 昔の効果は寒さと 恐 ・怖におびえる
老婆たちの
心中を際立たせて 目ざましい。
Us
trottent,
tous
pareis
Se@ trainent,@comme@
Ou
dansent,
0位
se
pend
D
un
font@les@animaux@ blesses,
vouloir
sans
marionettes;
des
a
屯
mon
danser,
sans
sonnettes
pa Ⅱ vres
pitie! .
( ちょこちょこ 歩く,操り人形そっくりに。
/ 足を引きずる ,傷つい
た獣がするように 0
/
あ るいは踊る,踊る 気 忙ないのに,哀れな 呼び
鈴 / 無慈悲な「悪魔」が 紐を引く
道打ちをかけ
ろ よ
う
ソ
/
)
「
く P. V. ノ S. 4 口
に苛酷な 比楡 による描写。 ボードレール ほ 『笑いの
本質について』㏍ Del,essenceddll
rire めという論文で ,滑稽を有意義的
滑稽と絶対的滑稽に 分類しているが ,それにならって 言えば,老婆たちの
描写の残酷さはさしずめ「絶対的残酷」とでもい
。
プルースト (Marcel
言っている。
「
Proust)
う
べきものだ。
マルセル
はこのあ たりの詩句について 次のように
彼 ( ボードレール ) は自分の憐恕を 人に見せるのを 望まず,
ただこのような 光景からその 性格を引き出すだげに 止めたのです。 私は何
よりも, ボードレールの 詩句があ まりにも烈しく ,あまりにも力強く ,あ
まりにも美しかったので ,詩人はそれと 気づかずに度を 超えてしまったの
だと想像するのです。 彼は 死にかけた女たちを 鞭打たぬように 言葉をやわ
老 婆
群 衆
と
89
らげることも 考えつかず, これら不幸な 小さな老婆たちについて ,
これま
で フランス語で 書かれた最も
真実に
力強い詩句を 書いてしまいました。
」
届いた評だと 思われる。 この評は例の「デルフィー ヌとイ ポリート」の 終
結部, 女 たちの地獄堕ちの 描写や彼女たちへの 断罪の表現ヤこついても妥当
するだろう。 まことに 両 詩篇ともそれ 自身で,あ る絶対的高さに 達してい
て,通常の価値基準を 超越している。 とは言え,ボードレールが「それと
気づかず度を 超えてしまった」としても ,詩の全篇を 通じての効果を 計量
できなかったとは 思えない。 この「絶対的残酷」は 第 Ⅲ部のクライマック
スを経て終結部における「私」と 老婆たちの同一化に 至る過程的な 不均衡
として極度にデフォルメを 受けた結果でもあ り,構造的な 効果に協力して
いる筈だ。
次に詩人の視線は 老婆たちの目に 向げられる。 錐のように鋭いその 目は
「
夜 ふけに
trous
目
」
o奇
ょ
どむ水溜りの 穴のようにきらめき」 Cluisant comme
ces
l,eau dort dans Ia nuit), それは「小さな 女の子の神々しい
CIes yeux
divins de lapetitefnlle)
にも等しいのだ。 ここで老婆は
幼女に近づき「小さな 老婆たち」というタイトルの 成り立ちを暗示する。
それと同時に 詩はここで調子を 一変して,いささか 散文詞になる。
ティレ
で始まる第 6 節。
-Avez
Sont
(
, vous
presque
observe
aussi
que
peLts
ご 承知だろうか
mants
que
celui
cercuCls
d'un
de
vi iles
enfant?
老婆の棺桶は 多くの場合 / 子供のそれと はば
同じほど小さいことを ?/
……
) [くP. V. ノ S. 6.
コ
さらに第 8 節でほ老婆の 不内合な手足の 形態にとまど
う
棺桶職人につい
ての想像上の 懸念が 詣誰的に語られ, このあたり音楽で言えば 一種のスケ
ルツォを構成する 部分であ るが,そのプロ ザィ スムはまぎれもなく 散文詩
への移行のきざしを 苧 んでいる。 さて,その間を 縫 第 7 節。
う
Et
lorsque
j'entrevois
un
fantome debile
天理大学学報
90
Traversant
sembIe
Il me
S,en
de Panjs le fourmlllant
va
(だから
toujours que
tout
doucement
cet
vers
合
un
tabIeau,
tre fragile,
be cCeau;
nouveau
て
そういうひよわなお 化げのひとつが ノ 蟻のように雑踏する
パリの画面を 横切って行くのを 見かけるとき , / 私はいつも,そのこ
われやすい生きものが
そっと / あ らたな揺 監の方へ荷 っているよう
な気さえする 力 Cく P.V. ノ S. 7]
死を媒介とした
老婆の少女への 転生を想像する
詩人は,生死の 無限の @
しょう
じ
りかえしに永遠の 相を観じているのかもしれない。 ところで今は「蟻のよ
うに雑踏する パ りの画面」 (le fourm
たい。 fourm
Ⅲ ant tablea
Ⅱ
de Panis) を注視し
Ⅲ ant という形容詞は「 セ 人の老人」では 冒頭, fourm Ⅲ a-
nte citさに使用されていたものだが
して, この詩を「 "
り
,ここでは tablean
(画面 ) を形容
画集」の一枚として 制作しているのだという 詩人の
意識が読みとれる。 と同時に, この詩でパリの 群衆の存在が 多少明示
自
りに
表現されるのはこれがはじめであ る。「「パリ画集」には,ほとんどいたる
ところに群衆の 秘やかな現在が 指摘できる。」とヴァルター・ベン ヤ
; ンは
一
一つているが, この詩も冒頭から 名指しされないままに 群衆は常に現前 し
ロ
ていた。 老婆たちのおばつかない 歩みはそうした 群衆の波間を 漂い,彼女
らを追う「私」もその 中を泳いでゆく。 群衆はこの時期以後のボードレー
ルの中心的テーマレこ なるものであ って, 散文詩集『,くりの夏霞ユ や評言 命
F 現代生活の画家
コ
㏍Le
Peintre
df la ㎡ e moderne
めでは,
この テ
一 % ははっきりと 前面に押し出され ,群衆哲学とでも 言えるものがしきり
に開陳される。 それに対して「パリ 画集」では群出 は あ くまで背景として ,
あ るい ほべシャ,ンの 言葉を借りれば「動くヴェール」としてあ
り,それ
自身を強く主張しない。 そしてそれに 応ずるかのように 時の中では群衆
(la foule) という語が現われてこない。 しかし このことは却って 主題
として描かれる 本来の対象を 際立たせ,群衆との 鮮やかなコントラストの
中でポ エ ジ ーが発現する ( ソネット「通りすがりの 女に」 A
nte は, その好例 ) 。 その点, またしても「デルフィー
ヌ と べ
une
passa.
ポリート」
を対比的に想起せざるを 得ないが, レスビ ェシス たちの荒事として 閉じ ろ
老 婆
群 衆
と
91
れた二人だけの 世界は濃密な 内面の詩としてたしかに 自立しており ,
「室
内」の静寂が「街路」のざわめぎに 対応する。
後, も
スケルツォの
-Ces
yeux
Des
creusets
Ces
yeux
Pour
(
sont
守
myst
celuj
う
u,un
芭
que
一度転調して , この長話 は第 1 部をしめくくる。
des
puits
metal
faits
d , un
million
refroid@ oailleta
de
larmes
,
‥
irieux ont d,invincibles charmes
l,austさ ire Infortu@)e allaita!
それらの目は
百万の涙のしずくでできた 井戸, / 冷えた金属
がそこここにこびりついて 光る出隅 だ ……
/
それらの不思議な 目には
/ 厳格な「不運」の
とっては ソ ) [ P. V.> S. 9.
打ち勝ちがたい 魅力があ る
く
女神の乳で育った 者に
コ
老婆たちの目は「百万の 涙のしずくでできた 井戸」であ り,人生におけ
る不幸の堆積がそこに 凝縮している。
ここではじめて 詩人は己れの「不
運」を二重写しにしながら 老婆たちへの 憐恕の清を痛切にするのだ。
2. 公
「
園
,,り
画集」の画面は 概してモノクロームであ る。 それはボードレール
が偏愛した
メ
リョン (Charles Meryon)
の銅版画を紡 佛 とさせる不思議
に 幻想的なパリ 風景だが,実際のモデルはオスマンのパリ 大改造直前に 撮
影 された例えばシャルル・マルヴィル
(Charles Marv Ⅲ e) の写真にみら
れるような中世以来の 古い小路だったと 想像される。 「小さな老婆たち」
の画面も,群衆の 存在にもかかわらず ,ほとんどは そうした隆彦な 雰囲気
を 漂わせる老残の パ りである
。 しかし全篇の 中ほどに位置する 第 Ⅲ部に至
って,落日の 鮮やかな色彩の 中に軍楽隊の 金管の音が響きわたるのだ。 第
Ⅲ部を構成する 3 節のうち, まずその 男 節 (全篇を通じては 第 13節 ) 。
Ⅰ
Ah!@
Une,
que@
ent
Ⅱ
Ⅱ
en@
ai@ siuvi@ de@
e autres,
ces@
a l,heu
Ⅱ
e
petites@ viClleS
o も le Soleil tombant
天理大学学報
92
Ensanelante
Pensive,
(あ あ ソ
le ciel de blessures
s,assey,ait
vermellles,
l,さ cart sur un bane,
巨
これら小さな 老婆たちのあ とを幾度つけてみたことか
ソ
/
とりわけ,その 中の一人は,沈む 太陽が空を / 真赤な傷で血まみれに
する時刻に, / 物思わしげ @ ,ひとり離れてべンチに 坐り カ
[く P. V. 、> S. 13.
コ
画面に鮮やかな 赤の色彩が持ちこまれるとともに 無彩色の幻想的風景は
にわかに生気を 帯びてパリの 夕暮れの現実に 変貌する。 まず,沈む太陽と
ひとり離れてべンチに 坐る老婆の姿。 落日は勿論,老婆の 人生の黄昏に 結
びつくアナロジ 一であ る。落日は「真赤な 傷で空を血まみれ こする」のだ
ヰ
が,この暗 楡は先行の第Ⅱ部最終 節 (引用は省略 ) で呼び出された 不幸な
過去を背負う 老婆たちの一人
(Par
: わが子に刺しつらぬかれるマドンナ「
e) に呼応するだろう。 個人史のレベル
で解釈すると ,このマドンナは 詩人の母カロリーヌを 連想させる。 1859年,
son
enfant Mad0ne transperc
さ
ボードレールがこの 詩を書いた 時 ,彼の母はすでに 66 歳,夫のオーピ ,
に先立たれて
ク
2 年になる寡婦であ った。彼女はオソフルールの 別荘に隠棲
して,何不自由ない 生活を送っていたものの ,息子シャルルは 中年になっ
てもなお心配の 種であ り,人知れぬ 苦悩のうちに 人生の黄昏の 光を浴びて
いたであ ろう。 ボードレールは ,たった一人でべンチに 坐るこの老婆の 姿
にそうした母のイメージを 重ね合わせていなかっただろうか。 詩人の実存
とのかかわりが 切実であ ればあ るほど,彼の 作品のリアリティは 深さを増
す。
ところで,血の 色による落日の 表現はボードレールの 詩によく用いられ
るが (例えば「夕べの 語調」 Harmonie
du soir), 「デルフィーヌとイ ポ
リート」においても ,同性愛のさなかに 経験する内面の 旅で イ ポリートは
「血まみれの地平線」 (unhorizonsanglant) に直面する。 このイメージ
が彼女の不安と 怖れに強いアクセントを 与えていた。 それはまた イ ポリー
トの実存的意識の 深まりに応じて ,やがて奈落の 淵へとつながってゆくも
のだった。 この想像上の 内部風景は落日の 血の色に照
の現実性と対照をなす。
し
出される』
り
風景
老 婆
Pour
entendre
Dont
les soldats parfois inondent nos jardins,
Versent
un
de
群 衆
と
ces
concerts,
quelque h 芭 lrniame
au
riches de cuivre,
c ㏄ur des citadins.
(例のコソサートに 聴き入っていた ,金管の音も
プフ,
朗々 と, / 軍楽隊が
ときおりわれらの 公園を楽音の 波でみたし
/ 人心地のよみがえる 金
色のタ べの中で / 市民の心にいくらかの 勇壮な気分をそそぐ 音楽だ 力
[ P. V.> S. 14.]
く
老婆が聴き入っているのは 公園で演奏される 軍楽隊の音楽であ
イメージが jnondent
とか versent
とか riches
de cuivre
る。波の
とかいった
話 によって暗示され ,音楽の波が 公園を浸している。 金管楽器の色 と響 ぎ
は「血まみれの」空を「金色の タベ 」の色調に変え ,公園はいよいよ 祝祭
的な雰囲気を 強める。 その中で市民たちは め いめい蘇生の 思いをいだきな
がら特権 的時間へと入ってゆくのだ。 そうした市民の 群れと落日の 光を浴
びる老婆のコントラストはますます 鮮明になってくる。
(7) 群衆はここでも 名
(7)
指しされていないが (散文詩「寡婦」 Lev Veuves は「小さな老婆たち」
のこの部分とテーマも 語彙もほとんど 同じだが,例えば・…‥,elles,assit
ゑ
エ
イcart
ces
dans
c0ncerts
pahsien,
un
d0nt
Jardin, pour
la musique
entendre, loin de la f0ule, un
des
rさ giments
de
grat 苗e le peuple
というくだりに 見られるように la foule の語は明示されてい
6 力,そのために 却ってコンサートの 聴衆の群れとして ,その存在が 具体
化さ九,老婆の 孤独をくっきりと 浮彫りにする。 こうして金管楽器の 高ら
かな響きと落日の 壮麗な色彩の 中から立ちのばる 生命感ほこの 詩篇のクラ
イマックスをつくり 出し ,
「パリ画集」中の白眉とも言える ポェジ - を@張
らせるのだ。 プルーストはこの 節について「公開音楽会についての 至高の
詩句はよく知られております」と 言ったのち, 「これを凌ぐことは不可能
に見えます」と
絶讃している。 ここに描き出された 公園の情景は 詩人にと
ってまぎれもない 現代のパリであ るが,それはまた 画面に現前する 老婆と
群衆にとって 命を蘇がえらせる 至高の瞬間であ り,かげがえのない 現在だ
った 。
『現代生活の画家』の中でボードレールは「現在の 表現されたのを
見てわれわれが 味わう ょ ろこびは,現在が 身にまと
う
ことの出来る 美から
天理大学学報
94
(9)
くるだけではなく ,現在が現在であ るという本質的な 特性からもくる 口と
言うのだが,彼にとって 公園こそ束の 間の現在が与えるよろこびの 定着を
可能にする場だった。 後年,ボードレールはブリュッセルからオンフルー
ル の母へ書き送った 手紙の中に「パリは 陽の当たる公園でしか 美しくはあ
(10)
りません」と 記している。 その母は , 次の節でクローズアップされる 老婆
の姿の中に生きているだろう。
CeIls.1軌 , droite encor,
行さ
Humait
chant vif et guerrier;
avidement
ce
Son
団 l parfois
s,ouvrait
Son
front de marbre
la
re et sentant
rさ lgle
l,樹 l d,un
comme
avait l,ajr fait
pour
vieil aig
Ⅰ
ee;
Ie launier!
( この老婆は,背筋もまだまっすぐで ,誇らかに行儀を 守り, / その
活発なたたかりの 歌をむさばる
ぎ
ように吸 い こんでいた。 /
その目はと
どき 老いた鷲の目のように 見開かれ, / その大理石の 額は勝利の
月桂冠を受けるのにふさわしく
見えた。)
[ P. V,> S. 15.
く
コ
特権 的な時間の中で , この老婆は命の 蘇がえりを象徴するかのように
筋もまっすぐに ,誇りを全身からただ
れた「ょばょばの怪物たち」と 何とか
わせている。 これは第 1 部で描か
う
ちがいだろうか。 しかも彼女は 今,
軍楽隊の音楽を 受身で聴いているのではない ,むさぼる
こんでいる
し
背
ょ
ようにそれを扱い
(humait)のだ。 この一瞬,落日の 光が老いた彼女の
額を照ら
出し,その額は 大理石の輝きを 発する。 まさにそれは 月桂冠を受けるに
ふさわしい 額 だ。 しかし, この至高の瞬間を 老婆の蘇生とともに 時に定着
させる詩人こそ 月桂冠を受けるに 価する存在ではないか。 ここで詩人と 老
婆の同一化が 確実に準備される。
3
水
、
土庄
「小さな老婆たち」第 Ⅳ部はいよいよ 終結部であ
ク
る。注釈家のシェリッ
ス は全篇をシンフォニ 一に見たてて , 第 N 部会 6 節はフィナーレとして
(11)
第 Ⅰ部のモチーフを 繰り返しながら ,それを拡大するものだと 言っている。
老 婆
群 衆
と
95
前半 3 節における街路を 歩む老婆たちの 再 登場とそこにうごめく 群衆。尾
行する詩人の「私」は 次第にその感情のト 一 ンを高めてゆ き ,ついに後半
3 節に至って, 「私」の内部で老婆たちとの 決定的な同一化が 実現する。
たしかにフィナーレにふさわしい 荘重な詩句が 続き , 詩はここに悲劇的な
余韻を残して 終結する。 その時,おのずがら「地獄堕ちの 女たち
フィー ヌとイ ポリート」のコーダの 響きが甦がえり ,
デル
このフィナーレと 共
鳴して詩人の 同一化はレスビ ェシス たちに対しても 及んでいるよ
う
に聞え
てくる。 しかし今は老婆たちの 歩みを再び追ってゆこう。
Telles vous
A traVerS
M
さ
「
Dont
cheminez, stoiques
le chaos deS vlVantes
C㏄U 「 salgnant,
eS aU
cou
aUt efols leS noms
pa
「
「
「
plantes,
sans
et
Clt る s,
tlsanes
toUs
さ
ou
Salntes.
talent clt さ s.
(そうやって 君 らは行くのだ ,我慢づ よく愚痴もこ まさず,ノ生きて
ナ
うごめく都会の 混沌を横切って 行く , / 心臓から血を 流す 母 たちよ,
娼婦たちまたは 聖女たちょ ,
回
にのばった 0)
/
かつての日にはその 名がすべての 人の
[ P. V ウ S. 16]
く
老婆は再び複数となったが
stoiques
et sans
plaintes
という表現には
明らかに 第 Ⅲ部の公園の 老婆が残像している。 そしてまたもや 名指しされ
ない群衆のう a
ヵ
り
とざわめきだ。 le chaosdes
vjvantes
cites 。 死を真 近
に見る老婆と 生命体として 流れてゆく大都会パリの 群衆はここでもくっき
りとした対照を 描きながら共存する。 依然として一定の 距離をおいたまま
見つめる詩人は , また彼 ならの過去の 栄華と苦悩を 思いやるのだ。 次の節
は 引用を略したいが
,そこでは群衆の 中にいる「不作法な 酔いどれ」や
「いやしい下品な子供」が,老婆たちを 侮辱してゆくのだが , これは「邪
悪な北風」や「乗合馬車のがらがら 鳴る車輪の音」に 痛めつげられる 第
部の老婆たちに 呼応している。 さて第 3 節目。
Honteuses@ d'exister,@
ombres@ rataLn@es,
Peureuses
, le@ dos@ bas , vous@ cotoyez@ les@ murs;
Ⅰ
天理大学学報
96
Et mil ne vous
salue,
D 芭 bris d,humanite
さ
pour
tranges
dest ㎞芭 <es!
l,6ternite mUrs!
(生きていることを 恥じ, 絨 くちゃな影 となって, / おずおずと,背
を丸めて, 君 らは建物の壁に 沿って行く。 / 君 らに挨拶する 者もない
のだ,奇妙な 宿命を負った 女たちよ
人類の残骸 よソ)
した
ソ
/ 永遠の彼方へ 行くべき時も 熟
L P. V.> S. 18.]
く
次第に昂揚してくる 詩人の老婆への 呼びかけ,
「
ヂ ルフィー ヌとイ ポリ
ート」における 地獄堕ちのなたちへの 最後の呼びかけが 思い出される。
Ombres@
folles,@ courez@
au@ but@ de@ vos@ desirs;
Jama@@
vous@ ne@ pourrez@
assouv@@ votre@ rage,
(狂った影よ ,おまえたちの 欲望の果てまで 走れ。/ おまえたちは 決
してその狂おしい 思いを満たすすべもなく ,
/ ……
)
この「狂った 影 (ombres f0lles) は「 緩 くちゃな影
」
」
(ombres rata.
tin es) となった老婆の 前身なのか,それとも 同一の姿なのか。 とにかく
さ
老婆たちはまるで 建物の壁に消え 入らんばかりに 衰え , 死が象徴する 永遠
の境域へ踏みこも
う
としている。 まさに彼女たちはその 機が熟した「人類
の残骸」なのだ。 ここに至って ,老婆たちの 隣 れさは頂点に 達する。 前出
の プルーストの 評はここにもあ てはまるが, この時期のボードレール 自身
(12)
がどれほど心身の 衰えを感じ , 死の不安におびえていたかを 知るなら, こ
の「絶対的残酷」の 表現は彼自身の 実存の苦痛を 代償として生れているの
がわかるだろう。 ボードレール ほ しばしば自分を 一個の D 芭 b is d,huma
「
㎡t俺 pour
ところで
l,色er ㎡tさ mUrs
色ernite (永遠 )
と感じていたにちがいない。
は「セ人の老人」では
,
Songe@ bi n@ que@ malgre@ tant@ de@ decrepitude
Ces@ sept@ monstres@
hideux@ avai nt@ 1'a@@ eternel!
老 婆
/
( ……
と
97
群 衆
思ってもみてもらいたい。 これほどに老いばれながら
醜悪な七人の 怪物は 永遠の相をそなえていた
ソ
/
その
)
というふうに 表現されていて ,老人たちは 詩人の視線に 永遠つまり死の
アレゴリーとして 写っていることを 示していた。 それならば,いま d bris
さ
と
名指しされた 老婆たちも,それ 自身すでに 臼 ernite を寓意するものの
ように見られているとしても 不思議ではない。 つまり「小さな 老婆たち」
と「七人の老人」はともに「永遠」を 指示する存在であ った。 そ すると
う
彼らが横切っての
く
「生きて ごめく都会の 混沌」をつくる 群衆は言
ぅ
う
ま
でもなく「現在」であ り, この動いている「現在」を 背景として パ りの画
面は 「永遠」を現出する。美が生みだす 印象はひとつのものであ りながら,
美の組成は,永遠,不変の
要素と相対的,偶成的な 要素の二つから 成るべ
きものだ, というのが『現代生活の 画家』でボードレールが 表明する美の
(ls)
理念だった。 彼は 後者の要素を 現代性と名付け ,その表現に努力を傾注す
る画家コンスタンタン・ ギ 一ス CCOnStantantGUyS)
を賞揚するのだが ,
現代性の表現は「現在が 現在であ るという本質的な 特性」がわれわれに 与
えるよろこびの 原因でもあ って, 「小さな老婆たち」においては ,前の第
Ⅲ部公園の情景にその 最高の具現を 見たのだった。 パリの現在,群出の 現
在,そこに孤独な 老婆という「永遠」が 置かれる。
第 m 部で,詩人と 老婆の同一化を 暗示したものが 老婆の額にふさわしい
と見えた月桂冠であ ったのに対して ,
「人類の残骸」という 暗楡は ,その
決定的な 落睨め イメージによって 詩人と老婆を 結びつげる。 詩は, しかし
この場所から 立ちあ がり,最終3 節で奇蹟的な 昂揚の瞬間を 迎えることに
なるのだ。
Mais
moi, moi
L, ㏄jl inquiet,
Tout
comme
Je goUte
ゑ
qui de loin tendrement
血X芭
sur
vos
pas
si J,る tais votre
votre
vous
surveille,
incertains,
p さ :re,
O me rVellle!
て
insu des plaisirsclandestins:
(だがここに,私だけは 遠くからやさしく 君 らを見守り, / 不安な目
を, 君 らの不確かな 足どりにじっと 注いで, / まるで君 らの父親みた
天理大学学報
98
いな格好だが ,おお 不思議イ / 私は君らの知らぬまに 秘密の快楽を
味わっているのだ。)
vois
Je
s'epanouir vos
Sombres@
ou@ lumineux,@
Mon
c ㏄ur
Mon
合
multiplie
resplendit
me
(君 らの
う
いう
いは輝かしい ,
passions
noviceS
je@ vis@ vos@ jours@ perduS
jouit de tous vos
de toutes vos
vices!
vertus!
いしい情熱が 花ひらくのが 見えてくる。 / 暗い
君 らの失った日々を 私は生きる。
/
ある
私の心はいくつ 仁
もふえて者らの 悪行のすべてを 楽しむ ソ / 私の魂は君らの 美徳のすべ
てによって光り 輝く /)
Ruines!
ma
Je
fais chaque
vous
Oも
serez-vous
Sur
qui pese
(廃嫡
よ
/
famille! O cerveaux
soir
dema ㎞,
la
ul]
coneen 辻 es!
solennel adieu!
Eves octog lnaires,
屯
gr Ⅲ e e 丘 royable
わが一族 よ /
おお
にぅやぅ やしく別れを 告げる //
de Ⅸ eu?
同種の脳髄 よ // 私は夜ごと 君ら
明日君 らはどこにいるだろう ,八十
歳の イ ヴたちょ , / 神の恐るべき 爪の重みにあ
えぐ者たちょ
?)
[ P. V.> S. 19-21.]
く
・
強い照明がここではじめて 詩人の「私」にあてられる。 Mais
m0i, moi
という言いまわしによって ,詩人は群出から 画然と区別され , 彼 だけがあ
れらの「 級 くちゃの影 たち」を「やさしく 見守る」のだ。 すると不思議に
も
(6 merve Ⅲe!),彼はそれらの 者たちの父親に 変身している。 一見奇妙
に思われるこの 変身は, しかし老婆たちの 目を「小さな 女の子の神々しい
目
」と同一視したくだりによってすでに 準備されていたものだ。 ところが
詩人は父親の 目で老婆たちを 注視しながらも 一方で「秘密の 快楽」を味わ
っている。 それを第 2
節は高らかに 歌うのだが,詩人はここで 尋常の憐怒
の域をこえて 感情の熱度を 上げてゆく。 彼はかつて聖女であ り,浮かれ女
で・あ
り,苦悩を背負った 母・であ ったりした老婆たちの 複数の・人生を
一瞬の
老 婆
と
群 衆
うちに追体験することによって ,彼女たちとの
99
同一化を完了するのだ。 そ
れにつげても 散文詩「群出」 (Les Foule めの次の一節は ,
このような詩
人の特権 を力強く肯定して ,今更ながらボードレールにとって
群衆がもつ
意味の重さを 知らされる。
詩人は,思 ままに自分自身であ
う
り,また他者であ
り
ぅ
るという,
この比類のない 特権 を享受する。 肉体を求めてさきよう 魂のように,
詩人は好きな 時に,個々の 人物の中へ入りこむ。 詩人だげにはすべて
が空席であ り,いくつかの 席が詩人に閉ざされて 見える時は,それは
彼の目から見て 訪れる価値のないものだからであ
また,ボードレールが
匠
(14)
る。
哲学的芸術』㏍ L,Artphilosophique 》の冒頭
で述べている 次のような現代芸術に 関する命題は 群衆を媒介とする
時にこ
そ実現可能な 純粋芸術の理想を 語ったものではないだろうか。
現代的な考え 方による純粋芸術とは 何か。 それは,客体と 主体とを,
芸術家にとっての 外的世界と芸術家自身とを 同時にふくさひとつの
赤駒魔術を創造することであ
暗
(15)
る。
これを「小さな 老婆たち」にあ てはめて言ってみれば ,歌われる対象と
しての老婆たちと 歌う主体であ る詩人との同一化の 過程は,そのまま 主体
と客体の同時的包含の 過程であ って,それを 可能にする場が ,群衆の蟻集
するパリの街路であ り,公園だった。
ところが,こうした「暗示的魔術」
を韻文で実現するには ,詩人の並はずれた 力技を必要とする。 その意味で
も心身の極度に 衰えた晩年に 近いボードレールにとって ,散文詩への 移行
は必然だった。
それにしても 主体と客体の 問題に関して ,例の「デルフィー
ヌとイポリ
ート」の二人 劇 はこれと対照的だ。 演じられるのはたしかに 詩人の自意識
終始純粋観客にとどまっており
の劇であ ったが,実際上,詩人は
で舞台に登場することはなかった。
,最後ま
ジョルジュ・ブーレはボードレールの
群衆との関係について ,ボードレールが 群衆に浴あ みするのは自意識の
苦
天理大学学報
100
(16)
痛から解放されるためだった ,
という意味のことを 言っている。 これを ボ
C17)
一
ドレールの「自我の 蒸発と集中。 そこにすべてがあ る」という信俳に 照
らし合わせてみると ,初期の重要作品にみられる 自意識への集中には「自
我の蒸発」というファクターは 希薄であ るのに対して ,後期は自我の 蒸発
と
集中が交互にくりかえされる 循環の中で作品が 成立しており ,群衆忙 そ
の中核で重要な 役割を果していると 言えそうだ。
さて,「小さな老婆たち」の 最終 節 。 Ruines! mafam
cong
さ
n さ res!
Ⅲ e!6cerveauX
痛切な呼びかけだ。 廃嘘であ る老婆, それは同時に 詩人自
身であ り,徹底的な 大改造を前にした 古い都パリでもあ
った。 それらを 一
括してボードレールは「わが 一族」と呼ぶのだが , famllle
という語の中
には彼の母への 万感の情がこめられ ,詩の終末に 熱い情念の息吹を 送りつ
げる。 こうして永遠の 世界に足を踏み 入れようとする「八十歳のイブた
ち」に明日の 運命を問いながら ,詩人ほ已れを含めた亡び ゃ く者たちに荘
重な別れのことばを 投げかけるのだ。
註
(1)
この詩については
,
下
天理大学学報 第 160 輯で論じたことがある (拙
コ
稿 : 「地獄堕ちの
女たち」とボードレール
)
(2)
Baudelaire
Ⅲmard
の詩の引用にはBaude@aire:
l975) (以下,B.
㏄・
C. I.
と田をき
己
㏄ uvres
Comp
珪 tes I, (Ga.
) 所収の《LesFleurS
duMa
》
を用いる。邦訳は一部の字句を除いて,ほとんど安藤元雄氏の
翻訳を借用さ
せていただいた。なお,原則として
詩の引用には註をつげない。
(3)
Baudelalre:
CEuvres Compl tes II, (Gallimard
l975) (以h
さ
C. I1. と略記 p. 525.
(4)
Marcel Proust: Contre
B. ㏄.
コ
de Baudelaire,
propos
(5)
p.
Sainte.Beuve
(GaIlimard, 1971) 所収の
625.
ヴァルター・ベソヤ ; ン
: ボードレール(晶文社,ベンヤ
, ン
著作集6
川村二郎,野村修訳,
1975), P. 181.
(6)
同上,P.
C7)
B. CE. C. I,
(8)
(g)
Proust の上掲書, P. 623.
B. CE. C. II, p. 684.
(10)@
ゑ
(11)
Baudelaire:@
Madame
182.
p.
292.
Correspondance@
Aupick,
A
Vendredi
II, (Gallimard;@
3, fevrier 1865.
Robert , Benoix,heri :,ommentare‥es・
1973) , p . 447.@
Lettre
老 婆
Cailler
, Geneve
, 1945) ,
(12)@
Lettre@ a@ Madame@
(13)
B.
@
p,
と
101
群 衆
336.
Aupick
, 15@ janvier@ 1860 , 26@ mars@
1860@ -@@
. C. II, p. 685
(14)
B. @
㏄.C. I,
p.
291
(15)@
B,
p,
598
(16)@
Georges@Poulet:@
(17)
B. ロ . C. I, p. 676
CE ,
C,
II@
La@ conscience@critique
, (Jose@ Corti , 1971) ,
p 29
・