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「世界の毒性研究と私の軌跡」 佐藤哲男
1.毒性とは何ですか
私どもは多くの化学物質の恩恵を受けながら生活しています。生きるために必要な食物も化学
物質の一つです。そんなことを考えると、人間が生きるためには、身体が化学物質とうまく共生
することが必要です。しかし、多くの化学物質は本来身体の中に存在しないものです。そこで、
それらが取り込まれると、身体は「異物」として認識します。
「異物」は身体に備え付けられた
生体防御の機構で自然に体外へ排出され、解毒されます。しかし、排出能力を越えるほど大量が
入ったり、同じ物を繰り返し摂取して体内に蓄積したりすると、身体は異常な状態を表します。
それを「化学物質による毒性」といいます。
化学物質による毒性の大きさは、暴露量と暴露時間により決まります。大気に含まれるオゾン
の量は、朝は少ないので、朝の長時間のジョギングによる暴露はそれ程心配ありません。しかし
太陽が照りだしている真昼は、オゾンの量が多いので、たとえ短時間でもその暴露量はかなりの
ものになります。また、薬の場合、適量では病気の治療に役立ちますが、大量では逆に毒になり、
副作用や重篤な症状となります。薬の効能と副作用はコインの裏と表です。この様に、
「毒性学」
はわれわれの生活、環境と密接に関連した学問です。
2.毒性の分類
「毒性」の原因は多岐にわたりますが、身近なところでは、
「環境毒性」
(環境ホルモン、残留農
薬、アスベスト、有機溶剤、重金属、大気汚染物質、食品添加物、カビ毒)と「医薬品毒性」
(副
作用)に大別されます。医薬品による副作用と化学物質による中毒とは、その原因を考えると明
らかに異なります。
「医薬品」は「本人が自分の意思で取り入れるもの」であり、
「環境化学物質」
は、
「無意識の内に、大気、食品その他の媒体を通して身体に入る」ものです。したがって、医
薬品の場合は、その摂取を加減することにより、中毒をまぬかれることができますが、大気中の
化学物質や、食品中の有害物質は知らない間に身体に侵入しているので防ぐのは困難です。
3.毒性研究の国際的な取り組み
「トキシコロジーToxicology」は、日本語では「毒性学」
、
「毒科学」
、
「毒物学」
、
「中毒学」などと
訳されていますが、ここでは「毒性学」を使います。昔ギリシャ人は処刑の一つの方法として毒
ニンジンを用い、ローマ人は政敵を暗殺するのにトリカブトなどの植物毒を用いました。毒性に
関する学問の原点は16世紀にヨーロッパで誕生し、現在の近代毒性学は18世紀から19世紀
にかけて、独立した学問として確立しました。したがって、
「毒性学」は医学、薬学の中では比
較的新しい学問です。
1977年に、米国や欧州の毒性研究者がカナダのトロント市に集まって、毒性に関する討論
集会を開きました。これが、世界で最初の毒性学に関する国際会議です。その頃、主要国にはす
でに国内に「毒性学会」がありました。そこで、1980年に欧米、日本など先進国の毒性学者
が提案して、
「国際毒性学会連合(International Union of Toxicology,略称 IUTOX)」を設立し、各国の
「毒性学会」は IUTOX に加盟しました。つまり、IUTOX は世界主要国の「毒性学会」と統括す
る連合体です。その後、多くの開発途上国の「毒性学会」が、
「農薬汚染」
、
「大気汚染」などの
環境問題や、
食料事情の悪化に伴う中毒などの対策、
情報が必要となり、
IUTOX に加盟しました。
現在は51学会、総数2万人の会員を擁する「毒性研究の国際連合」に成長しました。IUTOX の
使命は、各国における「環境の改善」
、
「毒性、中毒に関する情報交換」
、
「最先端技術の開発と情
報交換」
、
「若手研究者の育成」
、などが主な仕事です。
4.
「国際毒性学会賞」の制定
IUTOX では、その事業に貢献した研究者を顕彰するために、1998年に「国際毒性学会賞」
を制定しました。第1回受賞者(1998年)は初代 IUTOX 会長の Seymour Fries 教授 (米国)で
す。彼は米国毒性学会会長として、IUTOX の設立に中心的役割を果たしました。第2回受賞者(2
001年)は Jose Castro 教授(アルゼンチン)です。彼はラテンアメリカ毒性学会(南米)の初
代会長で、開発途上国に特有の毒性問題、中でも「大気、水、食品などの毒性」に関する深刻な
問題の解決に力を注ぎました。また、
「開発途上国国際毒性会議」を提唱し、初代会長として大
きな業績を残しました。第3回受賞者(2004年)は Iain Purchase 教授(英国)です。彼はケン
ブリッジ大学獣医学部卒の病理学者で、化学工業会社であるアストラゼネカ社(現在はシンジェ
ンタ社)の中央研究所長として、またマンチェスター大学獣医学部教授として、現在でも世界の
毒性研究の第一人者です。第4人目(2007年)として私が受賞者に選ばれました。
5.私と毒性学との関わり
北大の大学院博士課程を修了して、昭和41年4月に千葉大学腐敗研究所に助手として就職し
ました。この研究所は、終戦直後の食料事情の悪いときに、それを改善する目的で設置された文
部省直轄研究所で、千葉大学が管理、運営をしていました。研究内容は「食品の腐敗原因と防止」
や「食中毒の発現機構と解毒」が主なテーマでした。私はフグ毒のテトロドトキシン、ジャガイ
モの芽の毒であるソラニン、珊瑚毒であるシガテラトキシンなどの研究に従事しました。ここで
の研究が私にとっては毒性学との初めての接点です。その後、昭和50年4月に千葉大学薬学部
に移りました。研究所での9年間は自分の研究に集中できましたが、薬学部では研究のみならず
学生の教育が大きな仕事でした。ここでは薬の毒性について研究を開始し、平成8年の定年まで
約20年間その研究が続きました。また、シカゴ大学毒性研究所に留学のときには、所長が農薬
の有機リン剤の毒性に関して、1940年代に世界で最初にその毒性発現機構を見つけた人でし
たので、農薬に関する毒性研究を行いました。そんな経緯で、私としては約30年余にわたって
動物毒、植物毒、農薬、医薬などの毒性の研究に関わってきました。
6.今回の受賞理由
大学における毒性研究と並行して、日本毒性学会(正式名称:日本トキシコロジー学会)の理事
や各種委員長などを務めて、学会の運営にも参画しました。1996年(平成8年)には、
「日
本トキシコロジー学会総会」の会長としてその責任を果たしました。また、国際会議などでが以
外の学者とも親しくなり、種々の情報を入手することが出来ました。その頃、ヨーロッパ地域
(EUROTOX)やラテンアメリカ地域(ALATOX)には、それぞれの地域別毒性学会が設立されて、
IUTOX 加盟学会として活発な地域別活動を展開していました。そこで、1992年にアジア各国
の毒性学会に呼びかけて、アジア地区での毒性学会連合体の設立を提唱しました。幸いに各国と
も賛成してくれたので、1994年に「アジア毒性学会(ASIATOX)」を設立し、私は初代事務局
長として各国のまとめ役を果たしました。現在も ASIATOX アドバイザーとして若手の育成に務
めています。なお、ASIATOX は1995年 IUTOX に加盟しました。
IUTOX では3年毎に役員選挙が行われます。1995年に行われた IUTOX 役員選挙では副会
長に推挙され、2001年まで2期6年間務めました。さらに、私の後任の副会長が就任1年目
で辞退しましたので、私が副会長代行としてさらに2年間、合計8年間 IUTOX の役員としてそ
の運営に参画しました。その間、3年毎に開催される「国際毒性学会議(ICT)」の国際運営委員の
一人として、12年間関わってきました。さらに、1999年に IUTOX の特別部会といして発
足した「毒性研究者国際資格認定制度検討会(IART)」の初代会長として2年間の任期を務めまし
た。今回の受賞理由は、恐らく約10年間にわたる IUTOX 役員としての業績を評価してくれた
ものと思います。
7.これからの毒性研究と私
地球上60億人が暮らす生活圏には、まだ多くの毒性研究の課題が残されています。これまで
IUTOX は化学物質の毒性の評価方法や管理について、科学的立場から多くの提言をしてきました。
しかし、毒性学者が化学物質の人への健康影響を主張しても、それがすべて行政を通して人々の
福祉に反映されるとは限りません。最終的には各国の政治的な判断が優先します。さらに、国毎
に考え方が異なります。
ご記憶の方もいると思いますが、かつて我が国においても「遺伝子組み換え作物(GMO)
」の
安全性について議論されました。それ以前に、欧米では毒性学者と行政担当者が真剣にこの問題
に取り組んでいました。その結果、欧州と米国では全く反対の結論になりました。すなわち、欧
州の毒性学者やヨーロッパ連合(EU)は、GMO の輸入や使用について新たに法律をつくるべき
としたのに対して、米国は従来の食物関連の法律を流用することを主張しました。日本はどちら
とも態度を明確にしていません。後日、欧米の全く相反する結論は、科学を越えたそれぞれの国
の利害関係に起因することを知り愕然としました。政治的判断が科学を抑えた事例です。
話は変わります。数年前から「証拠に基づいた治療」(Evidence-Based Medicine, EBM)という考え
方が医学、薬学の中で広まっています。つまり、治療に際して従来の経験に基づくのみではなく、
疾病の原因を究明し、その根拠に基づいて治療することです。同じ様な考え方が、昨年、毒性研
究についてヨーロッパ連合(EU)から提言されました。すなわち、化学物質の毒性評価、毒性管理
にあたって、毒性発現機序を明確にして、その毒物の人への影響を軽減する考え方です。これを
EBM にならって”Evidence-Based Toxicology (EBT)”といいます。今年になり、EBT の活動を具現化す
るために、欧米の毒性学者、行政担当者が中心となって運営委員会が組織され、私もその委員に
推薦されました。今年10月には第1回シンポジウムがイタリアで開催されます。おそらく、今
後は IUTOX と EBT が共同で国際的な毒性評価法や行政への対応に当たるものと思います。
最後に、私は今後どうなるでしょうか。若いときから新しいことへのチャレンジが好きでし
た。時々失敗もありましたが、それでも未だ好奇心は旺盛です。国内では一日一万歩を目標にし
ても中々達成しませんが、今でも海外へ行ったときなど、初めての町では地図を片手に何時間で
もウロウロ歩きます。身体がまともに動く間は、これまで同様に友人、教え子、家族に支えられ
て、国内外の旅を楽しみながら余生を過ごすことになりそうです。本稿から「毒性とは何か」を
少しでもご理解頂ければ幸いです。