一女高?が仙台空襲によって青葉区八幡町に移転したと

一高女?一女高?が仙台空襲によって青葉区八幡町に移転したと聞いたが、
以前はどこにあったのか。また、移転した経緯についても知りたい。
一女高は、昭和 28 年に北六番丁 210(東北大学農学部)から中島丁(八幡)へ移転
した。
昭和 20 年 7 月仙台空襲で元寺小路の校舎をなくした直後は、二高女、連坊小路国
民学校、盲学校の教室を間借りしたが、その後の学校再建で、手狭になっていたこと
等の理由から元の校地ではなく移転を、となった。当時、仙台市民全体の傾向として
二高女(連坊小路)とは離して、北部へ置かれるべきという空気もあったようである。
昭和 22 年 10 月、北六番丁の新築校舎に移転したが、その頃、東北大学に農学部が
設置された。それに伴い、この土地の所有者である東北大学から立ち退きを要求され
た。結果、10 年以内に移転するという覚書を取り交わすこととなった。
その後移転先を探していたが、当時の東北大学付属中学校中島丁校舎へ移転し、一
女高の北六番丁校舎を農学部へ渡すという交換が成立し、昭和 28 年 7 月、中島丁(現
在の八幡)が安住の地となった。
まず、一高女の名称を調べると、明治 30 年「仙台市高等女学校」として開校、そ
の後「宮城県高等女学校」
、
「宮城県第一高等女学校」、
「宮城県第一女子高等学校」、そ
して平成 20 年に男女共学となり「宮城県宮城第一高等学校」へと、変遷していること
がわかった。これらの名称の検索をしていくと、
『六十年史 宮城県第一女子高等学校』
が見つかった。この資料に、仙台空襲後の学校再建の詳細な記述を発見した。なお、
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呼称が「一高女」なのか、
「一女高」なのかは、
「宮城県第一高等女学校」、
「宮城県第一
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女子高等学校」の名称変遷から推察できた。また、
『宮城県百科事典』にも移転の簡潔
な記載があり、
『六十年史 宮城県第一女子高等学校』とあわせて提供した。
参考資料
『六十年史 宮城県第一女子高等学校』
石川康夫[ほか]/著 宮城県第一女子高等学校 1961 年
『宮城県百科事典』 河北新報社/編集 河北新報社 1982 年
『宮城県史 11 教育』 宮城県/著 ぎょうせい 1987 年
『一女高の百年』 宮城県第一女子高等学校 1997 年
宮城第一高等学校ホームページ (2015 年 11 月 20 日アクセス)
http://miyaichi.myswan.ne.jp/introduction.html