南アルプスと人々の関わり1 奈良田と焼畑農業 早川町の最北に位置する奈良田は、富士川の支流早川の左岸上に形成された小さな集落です。 周囲を急峻な山谷に囲まれていて、かつては「秘境」と呼ばれるほど人々の行き交いのない集落 でした(写真1) 。南アルプスの麓に暮らす奈良田の人々は、山の斜面を切り開き、山の自然の地 力を利用することで焼畑農業によって暮らしを営んでいました。そしてそれは地力の回復も見込 んだ利用方法だったのです。現在では奈良田温泉や南アルプス登山の玄関口として多くの観光客 が訪れ、山深い山村の魅力が楽しまれています(写真2) 。 写真1 昭和 28 年(1953)頃の奈良田集落 写真2 現在の奈良田集落 (早川町立歴史民俗資料館蔵) 焼畑農業と人々の暮らしの変化 奈良田集落は昭和 35 年(1960) 、西山発電所による西山ダム(奈良田湖)の建設により一部の 家々が湖底に沈むので移転されました。また奈良田は平坦地がほとんどなく、 「湯島奈良田のおな ご衆様は米のなる木は知らずにいても、米のなる木を足にはく」と歌われたように稲作ができる 平坦地が乏しく、さらに寒冷で日照不足、また水温も低く稲作には適さない地域でした。 そこで奈良田の人々は畑作を中心に自給自足の生活を営んできました。畑作にはカイト(普通 畑)とアラク(焼畑)がありましたが開墾する土地が少ないので、主に山々を切り開き焼畑農業 で生計を立てていました。奈良田の焼畑農業では主にアワ、ソバ、アズキが作られました。 焼畑地は標高 1,500m以内で行われ、集落から直線距離にして4∼5km ほどの範囲のなかで山 の南斜面を利用して行われました。焼畑地は奈良田集落を中心にして 15 箇所を設定し、16 年周 期で順にめぐれるように工夫したのです。また、集落から遠く離れた焼畑地へ毎日通うことがで きないため、忙しい時期には家族そろって焼畑地に建てた小屋へ移り住み作業を行っていました。 焼畑農業は急峻な山の斜面を切り拓き、大勢の人々で火入れを行ったり、中でも夏の草取りは 非常に過酷な作業でした(写真3) 。また、虫害や獣除けの工夫をしたり、秋の終わりには収穫し だっこく たものを脱穀する作業も現場で行われていました。寒さが増す山のなかでの小屋住まいは、大変 厳しい生活が強いられていました(写真4) 。 こうした厳しい地勢条件のなかで生き抜いてきた奈良田の人々も、昭和 30 年(1955)山梨県の 野呂川総合開発における早川水系発電所建設事業によって現金収入が見込まれ、また道路整備に より急速に焼畑農業が消滅していったと言います。 71 南アルプスと人々の関わり1 現在、奈良田地区には歴史民俗資料館があり、奈良田の歴史と焼畑農業を今に伝えるため、農 具や生活用具など多くの民俗資料が展示公開されています(写真5) 。 平成元年(1989) 、これら 698 点の民俗資料は国指定重要有形民俗文化財に指定されました。 写真3 焼畑作業風景(早川町立歴史民俗資料館蔵) 写真4−1 アラク小屋 写真5 焼畑農業に使われた農具 写真4−2 アラク小屋内部 焼畑農業を中心とした人々の暮らし 奈良田の焼畑農業は山の南斜面を利用して行われ、焼畑を行うその場所の草木を刈払って山を 開いて火入れを行い、整地をしてから作物の種を蒔いていました。肥料を施したり耕したりする ことはしないで、地力で作物を育てていきます。 奈良田の焼畑は同じ場所で3年間続けることが多かったと言われています。山焼きをする場合、 作物に応じて春と夏に山焼きを行います。 焼畑では1年目にアワを作付け、2年目にアズキやダイズ、3年目では再びアワを作付けます。 夏焼きでは秋までの作付け期間が短いため、主にソバを作付けていました。 奈良田の集落は地理的条件や気象条件など厳しい自然環境であるため、奥山へ入って山を切り なりわい 開き、焼畑農業を中心とした生業をしていました。また焼畑農業は過酷な作業が強いられ、大変 72 南アルプスと人々の関わり1 苦労したと言います。山の恵みをふんだんに取り入れた生活はまさに「秘境」と呼ばれた地域の 生活の中にありました。 その他、奈良田地区では木工業として曲げ物や下駄などの木材加工品を生産し、収入を得てい ました。 焼畑農業の手順と収穫される作物 焼畑地へ作付けをする場合の主な手順や名称について紹介します。 ○ヤブキリ 焼畑地にある木を切り倒す作業のことで、例年 10 月中旬頃行われます。 ○ヤブコヅクリ 伐採した木を現地で乾燥させ、火が入りやすいように細切れにすることを言います。 ○ヤブヤキ 火入れのことで、焼畑地の斜面頂上部を「カシラ」と呼び、林縁部を「クロ」 、さらに底辺を 「シンデ」と呼んでいました。風上のカシラからシンデに向かって徐々に火を付けていきます。 火入れをした夜は晩酌を多めにして虫供養をしたと言います。アラク(焼畑)の火入れ作業は男 性の共同作業でした。 ○ヤビロイ 火入れ後の地ごしらえを言います。火入れをして焼け残った木々をまとめて焼くことを「ツ ブラ焼き」と言いました。 ○小屋作り 焼畑農業では、集落から離れた山間部に焼畑地を作るため、家族が泊まれる小屋を焼畑地に 作りました。小屋では収穫した作物の脱穀などの作業も行いました。小屋が完成するとキビのボ タモチを作って近くの小屋に配り、お祝いをしたと言います。 ○種まき 火入れをした畑地に種を播きます。 ○除草 作物が良好に育つように、焼畑地の草取りを行います。雑草が繁茂する夏から初秋に掛けて 行われ、草取りは大変な作業だったと言われています。 ○虫害、害獣駆除 作物に虫がつかないように虫送りの行事が行われます。またイノシシなどの野生動物から作 物を守るため、ムギワラをいぶしたり、人の髪の毛をつけたカカシを立てたり、髪の毛を焼いた りと毎晩のように行われました。 だっこく ○収穫・脱穀 焼畑地では、作物を収穫して脱穀するまで行われます。非常に手間と時間がかかるため、雪 が降る頃まで帰れない人もいたと言います。 せいはく ○精白 つ 脱穀した作物を持ち帰った後、水車を利用して精白をしました。奈良田には「麦搗き節」と いう民謡があります。水不足で水車で搗けない場合、夜通し搗いたときに歌われました。 73 南アルプスと人々の関わり1 参考文献 ・早川町(1980)早川町誌 ・深沢正志(1980)秘境 奈良田 ・早川町教育委員会(1987)奈良田の生活と自然のつながり ―焼畑を中心に― −コ ラ ム 5− 奈良田の七不思議 せん きょ 奈良田には孝謙天皇(718)遷居の伝説が残されています(写真6) 。 第 46 代孝謙天皇は在位中病に伏せ、ある夜夢のなかで甲斐の国奈良田に名湯があるとの お告げを受け、数人の供を連れて奈良田に来られました。病が完治したのちも奈良田をこよ なく愛し、その後8年間過ごされたと言われています。村人たちは「奈良王様」と慕い、数々 の出来事が「奈良田の七不思議」として今も語られています。 ①御符水−奈良王様はどんなときでも増減のない用水を掘られた。飲めば万病の薬と なる。 ②塩の池−山地のため塩の入手に不便を感じた奈良王様は、塩水が沸く池を掘られた (写真7) 。 ③染池−奈良王様が、衣を紅色に染めた池がある。 ④二羽鳥−村人を苦しめた鳥たちのうち、約束を守った二羽だけを残し、残りの鳥たち を退治した。 ⑤洗濯池−冬に洗濯に苦しむ村人を不憫に思い、奈良王様が祈願すると温泉が湧いた。 よし ⑥片葉の葦−奈良王様が都に還られる際、葦までもが奈良王様を慕い、還る方向を向い て見送った。以来奈良田に生える葦は北側の片葉になった。 ⑦七段−かつての里は、奈良王様の住んだ高台から河川敷までが自然の七段地形になっ ていた。これは平城京の七条にならったものだと言われている。 写真6 奈良王神社 写真7 奈良田の七不思議:塩の池 74 南アルプスと人々の関わり2 芦安鉱山と人々の暮らし 南アルプスやその周辺には、金山や鉱山があって、時に人々の暮らしに恵みを与えていました。 あしやす こうざん とうげ 芦安の人々に恵みを与えたのは芦安鉱山でした。芦安鉱山の周辺にあるドノコヤ 峠 、早川谷は、 芦安鉱山が発見される前から人々によく利用されていました。大正時代からは、鉱山と共に人々 は発展しながら暮らしていきます。現在、芦安鉱山は閉山されていますが、この地域は今も変わ らない美しい自然を見ることができます。 芦安鉱山以前:明治時代 ど の こ や 芦安鉱山は、ドノコヤ峠の早川側の中腹に発見されます。それ以前の明治の頃、 「土ノ小屋 峠 な ら だ (ドノコヤ峠) 」は、南アルプス市の芦安地区と早川町奈良田の人々の交流が盛んに行われている 所でした。 土ノ小屋峠の西、奈良田のある早川谷は、西欧文明をとりいれるために、明治政府が呼んだイ せい じゃく きょう ギリス人達に「原始的なものと美しいものとが一体となった静 寂 境 」として注目された場所で す。明治 14 年(1881) 、"A Handbook for Travellers in Japan"の著者で日本研究家であるバジ ル・ホール・チェンバレンは、早川から芦安に行きます。同年、外交官アーネスト・メイスン・ のう とり だけ あい の だけ サトウは、農鳥岳から間ノ岳に登っています。また明治 36 年(1903)には、日本に近代登山をも たらした、宣教師ウォルター・ウェストンも芦安からドノコヤ峠(ウェストンは奈良田峠と呼ん だ)を越えて早川に旅しています。 このように、地元民だけではなく、外国人にまで注目された峠道だったのです。 芦安鉱山の開鉱と人々の暮らし:大正∼昭和時代(戦前) おうどうこう 芦安鉱山は、大正時代に入って、黄銅鉱※1 が採掘できるとして奈良田の深沢亀次によって発見 ちゅうかい されました。そして、大正3年(1914) 、芦安村の清水多四郎の 仲 介 で、東京青山の高田貞三郎 ど の こ や こうざん によって面積 338.5ha の「銅之古屋鉱山」として開鉱されます。その後「芦安鉱山」と改称し、 こう どう 一番坑から山神坑道まで六ヶ所の主要坑道から縦横に坑道が走り、その延長は 6,000mにも及び ました(写真1、2) 。高品質の鉱石が産出されたため、国の重要鉱山の指定を受けて補助金も交 ひた ち 付され、順調に稼動していました。大正 15 年頃(1926)までに産出された鉱石の 221tが、日立 せいれん しょ お さ り ざ わ こうざん 精錬所や尾去沢鉱山に売却されました。 鉱山の開鉱により、地元芦安ばかりではなく近隣の働き盛りの若者や技術者は、次々と山に迎 えられました。最盛期には 250 人を超える従業員と、その家族になりました。そのため、宿舎や 事務所の建設はもちろん、芦安小学校と青年学校の分校も設置されました。鉱山だけで一つの集 かんこんそうさい 落の機能を備えるようになり、小規模ではありますが冠婚葬祭も営まれました。 きゅう けい しゃ れつあく 急 傾斜の地形、もろい地盤、不安定な山の気象状況など劣悪な条件の中での採掘は大変な作業 うんぱん であったにちがいありません。そして採掘はもちろん、不便な奥地での物資の合理的な運搬ルー かいさく かます トの開削や、運搬方法が最大の課題でした。当初は 叺 ※2 に 50kg の鉱石を詰め、人の肩や牛馬に はん しゅつ かこ く よって搬 出 していました。その後、不安定、低効率、過酷な作業、高いコストなどから脱却する 75 南アルプスと人々の関わり2 さくどう ために、機械設備を整えて、鉱山から桃の木温泉まで2年間をかけて索道※3 を完成させました。 その一方、平地は車を利用するための道路の整備がなされ、芦安にとって鉱山は就業の場だけで こうけん なく、社会資本の整備にも大きな貢献を果たしたことになりました。 写真1 坑内での採石 写真2 坑内第一切上りで作業 (写真1、2 南アルプス市立南アルプス芦安山岳館蔵) 芦安鉱山の衰退:昭和時代(戦後) 大正初期から豊富な鉱石を産出した芦安鉱山は、戦後外国からの良質で安い輸入鉱石に押され て採算が取れずに昭和 22 年(1947)事実上閉山となります。しかしその6年後、光鉱業株式会社 ほうかい が鉱業権を所有して、小規模ながら再開されます。崩壊している坑道を整備し、今度は反対側の は だかじま 奈良田まで自動式索道を整備しました。その先はトラックで身延線波高島まで運搬しましたが、 産出したのは 45.4tに過ぎませんでした。そして、昭和 31 年(1956) 、 「芦安鉱山」は完全に閉 さい くつ 山となってしまったのです。しかし、これまで採掘した区域は、この地の南部一帯であり、北部 は未開発で今後の調査研究の余地を残しています。 現在の取り組み 鉱山が閉鉱されて、この峠道が片仮名表記の「ドノコヤ峠」と名前を変えてからも、しばらく しょう かい の間、登山者のハイキングコースとして、ガイドブックに 紹 介されていました。しかし、その存 在が忘れかけられようとした頃、地元芦安にNPO法人「芦安ファンクラブ」が設立され、ドノ コヤ峠道の復活を目指しての調査と整備が始められました。芦安ファンクラブは、南アルプスの けい しょう 自然保護と適正利用を考えながら地域の活性化を目指し、歴史や文化を継 承 してゆくことを目的 につくられた団体です。 一方、芦安小学校の5年生は、平成 16 年(2004)4月から「芦安小の歩み」をテーマとして 総合的な学習をスタートさせました。そこで、芦安鉱山に分校があったことを知り、調査を重ね 学習してゆく過程で「芦安鉱山に行ってみたい」という声があがりました。それを受けて芦安フ ァンクラブでは、かつて鉱山の人々が歩いた道を、たくさんの時間と労力を費やし、安全で歩き やすい道に整備して、平成 17 年(2005)9月、6年生になった子供達を鉱山に導きました(現在 の芦安鉱山跡地の様子、写真3) 。 76 南アルプスと人々の関わり2 「土ノ小屋峠」 「銅之古屋峠」 「ドノコヤ峠」と短い間に名前を変え、山里や鉱山の人々の生活 や歴史をみつめてきたこの地域は、現在も明治の頃と何も変らず「美しい自然の静寂境」として たたず 無言で 佇 んでいます。 写真3 芦安鉱山の坑口や生活の跡 参考文献 ・ウォルター・ウェストン,岡村精一訳(1974)極東の遊歩場,山と渓谷社 ・芦安村(1994)芦安村誌,芦安村 ・芦安村文化財審議委員会(1990)歴史散歩,芦安村教育委員会 ・芦安の民話編集委員会(1980)夜叉神峠 芦安の民話,芦安村教育委員会 ・芦安小学校(2006)わたくしたちが見た芦安鉱山,芦安小学校 ・市立南アルプス芦安山岳館(2004)南アルプス芦安山岳館,市立南アルプス芦安山岳館 ※1)黄銅鉱(おうどうこう) :銅・鉄・硫黄の化合物。正方晶系。黄金色で金属光沢がある。銅の最も主要な鉱石。 ※2)叺(かます):わらむしろを二つ折りにし、縁を縫いとじた袋。穀類・塩・石炭・肥料などの貯蔵・運搬に用いる。 ※3)索道(さくどう):空中を渡したロープを利用して輸送を行う交通機関。ロープウェイ。 77 南アルプスと人々の関わり3 南アルプスが育んだ森林と木材の利用 き 山梨県の県土はほとんどが森林で、森林の木材を伐り出すことで人々は生活を行ってきました。 はぐく 人と森林の結びつきは強く、南アルプスが 育 んだ野呂川流域の森林もまた活用されてきました。 現在、活用の目的は変わってきましたが、森林の持つ様々な機能に合わせて管理、利用が行われ ています。 山梨県の森林の歴史 山梨県は、周囲を 2,000m∼3,000mの高い山々に こしょう けい こく 囲まれていて、山岳、森林、湖沼、渓谷などの優れ た自然景観に富み、県土の 27%が自然公園地域に指 定されています。一方、県西部には日本列島を南北 いといがわ に横断する糸魚川−静岡構造線※1 が通っていて、地 きゅうしゅん 形が 急 峻 で複雑な地質構造をもっていることから、 県の長い歴史の中でも幾度となく大きな災害が発 生しました。 ま た 、 山 梨 県 は 県 土 ( 447,000ha ) の 78 % (348,000ha)が森林で、全国有数の森林県になっ たけ だ しん げん か い ています。これらの森林は、武田信玄が甲斐の国と して治めていた時代から、日常生活に使う木材や燃 いりあい りん 料を生産する森林(入会林)と、土木工事や城、神 社仏閣などの公共物を作る木材を産出する森林(公 お はやし 林または御 林 ※2)に分けて管理されてきた長い歴史 がありました。南アルプスの奥深い野呂川の流域 (写真1)からも、江戸城の造営や修復のための木 写真1 野呂川と流域の森林 材が伐り出された記録が残されています。 現在では、平成 13 年(2001)に制定された森林 林業基本法の理念に沿って、 「やまなし森林林業基本計画」が策定されました。森林の持つ様々な 機能に合わせて管理する方法が検討されて、それを元に森林管理、経営が行われています。 かん きょう このように山梨県の森林の歴史は、主に「資源林」として利用された時代、 「環 境 林」として の利用が定着してきた時代、 「生態系保存林」として位置づけの時代と変化していきますが、人々 と森林の関係は常に密接で生活に根付いています(表1) 。 78 南アルプスと人々の関わり3 表1 森林管理の歴史年表 西暦 (年) 年号 ( 年) 1555 弘治元 川中島合戦 武田領 公林(今の保安林: 水土保全林) 1582 天正1 0 武田氏滅亡 川除林(水害防止林) 歴史上の記事 区分 山梨県・行政 森林・林業に関わる事項 林産物採取林(百姓入り会い制度の確立) 1600 慶長5年 関ヶ原の合戦甲州が徳川領になる 幕府直轄林 御林:木材資源林(留山) 御川除林:水害防止林(留山) 御巣鷹山:生態系保護林(留山) 入会林 村持ち山(共有林) 百姓林(一般民有林) 1700 管理役人:御林守 御林書上帳:現在の森林簿 公用・公共用以外は禁伐(留山) 伐採後は植林を義務づけた (実際は明治以後も手が着かなかった) 元禄年間 入会林制度確立(入会料をめぐってもめ事が多かった) 享保年間 用材・燃料・肥料・馬糧等が採取物 1750 寛延3 野呂川流域が芦倉村(現南アルプス市芦安) の領分として認められる 1796 寛政8 野呂川開削・疎水計画の官許 1837 天保8 野呂川ばなし(出来もしないことをできると公言すること)のはじまり 江戸城造営のため御林伐採命令 中村義助・野呂川の御林に入る 太さ2尺角(縦横約60cm)長さ8間(約14.6m)のサワラ(黒木)を伐採する命を受ける 3 1838 天保9 1868 明治元 1869 明治2 甲府県になる 1871 明治4 山梨県になる 1875 明治8 芦安村誕生 1889 明治2 2 1892 明治2 5 主 に 資 源 林 と し て 利 用 さ れ た 時 代 江戸城西丸御殿再建 総量5,000石(約1,400m 上記の材凡そ3 00本)の材を搬出 全工事で約9万m 3の木材を使用 徳川家御林はすべて官林となる(入り会い制限・伐採制限が厳しくなる) 官林が御料地(皇室の山)になる(御料局役人が桃の木温泉発見) 芦倉・野呂川流域全体の入会権(草木伐採の権利)を認める 山林調査 野呂川官林2,400 町歩(広河原より下流と思われる) 幹周り6尺(180cm)の樹木が5,700本 幹周り3尺以上(100cm)の樹木が14,800本 幹周り1尺以上(30cm)の樹木が9,500本 幹周り1尺以下(30cm)の樹木が8,000本 1896 明治2 9 1897 明治3 0 御勅使川で大水害 1901 明治3 4 日露戦争 1904 明治3 7 甲府まで中央本線開通 39年まで共有林造林命令 1907 明治4 0 8月22日韮崎で40 4mm 全県大水害 全県大水害 藩政時代の乱伐のため明治8,9,1 1,12,14,15,1 8,25,27,29,3 1,37,39,40,43 年 と連続的に15回の水害を受ける 1910 明治4 3 全県大水害 林野警察出張所が芦安に置かれる 1911 明治4 4 災害で疲弊した県経済を立て直すため、御料地森林が御下賜された 1912 大正2 恩賜林周囲測量開始∼大正7年完了 森林 法施行 野呂川御料林から富士川河口の製紙工場へ木材を流送した この頃から両又付近まで伐採が入るようになった 全県御料地が恩賜県有財産となる 野呂川の御料地2,038町歩が恩賜県有財産(県有林)となった 広河原より上流の6,453町歩は御料林のまま 1924 大正1 3 1934 昭和9 関東大震災 1939 昭和1 4 1941 昭和1 6 1942 昭和1 7 森林軌道完成 1952 昭和2 7 野呂川流域植林事業開始(県有林事業) 1955 昭和3 0 夜叉神トンネル完成 1959 昭和3 4 1962 昭和3 7 1964 昭和3 9 1966 昭和4 1 1967 昭和4 2 1971 昭和4 6 1976 昭和5 1 1978 昭和5 3 1980 昭和5 5 1982 昭和5 7 2001 平成1 3 2003 平成1 5 野呂川上流部の御料林(6,453町歩)を、県有林として買い受ける 早川森林軌道工事着手 第2次世界大戦 環境庁発足 全県大水害 主 に 定 環 着 境 し 林 て と き し た て 時 利 代 用 が 野呂川民有林直轄治山事業スタート 野呂川林道完成(現南アルプス林道の広河原まで) 南アルプス国立公園指定 林業開発から自然環境重視の観光型産業育成への転換点 南アルプス巨摩県立自然公園指定 南アルプス林道着工 南アルプス林道の北沢峠の通過を巡って自然保護運動 芦安村観光元年発足 南アルプス林道工事再開 南アルプス林道完成 村営南アルプス林道バス運行開始 台風10号による大災害(夜叉神峠455mm、広河原周辺1,000mm) 森林 林業基本法 施行 野呂川流域は全域が生態系保護地域になる 南アルプス市誕生 生態系保存林として位置づけの時代 79 南アルプスと人々の関わり3 御料林が県有林になった歴史 山梨県には 348,000ha の森林があります。そのうちの 1.4%(5,000ha)が国有林、45.5% (158,000ha)が県有林、残りの 53.1%(184,000ha)が個人、会社などが所有する一般民有林に なっています。北岳を中心とする南アルプス北部の野呂川流域は、広河原上流一帯 6,453ha が昭 和9年(1934)に山梨県が国から買収したいわゆる買受御料林と、明治 44 年(1911)に御下賜さ おん し りん れた恩賜林※3 で、およそ 9,000ha の面積があります。 とく ちょう 山梨県の森林は、県が直接管理する県有林が非常に多いという特 徴 を持っていて、全国的にも 際立った森林の所有形態になっています。 ごりょう りん これは、もともと江戸幕府の天領から引き継がれた御料林(皇室の所有林)の面積が大きく、 こん きゅう えん じょ 明治時代に多発した水害で県財政の困 窮 を援助するために、時の皇室が県内の御料林のほとんど か し を山梨県に下賜した(与えた)ことが起源となっています(写真2) 。 山梨県はこの御下賜によって木材生産による経済の立て直しを図り、これらを「県有財産・恩 賜林」として将来にわたって管理、経営することになったのです。 お ん し りん お さ た しょ 写真2 恩賜林御沙汰書 「山梨県管内において発生した度重なる水害により地方の住民が受けた経済的困窮を哀れに思い、特別の取り計らい によって帝室林野管理局甲府支庁所(皇室の森林管理局甲府支所)御料地二十九万八千二百三十町歩を山梨県の県有財 産として下賜する。ついては、その管理・経営と国土保全の策を立案し、恩旨(天皇陛下の方針)を県民に広く伝えそ かんてつ れを貫徹するよう伝達するものである。」明治 44 年(1911)3月 11 日 野呂川流域の環境と森林 や し ゃ じん じゅんこう 南アルプス林道の夜叉神トンネルを抜けしばらくすると、昭和天皇巡 幸 の際お立ち寄りになっ しら ね さん ざん た場所があります。その場所からは、北岳、間ノ岳の白根三山の雄姿が見えます。そして、眼下 だ こう には深い谷が切れ込み、大きく蛇行する川が見えます。この川が野呂川です。 と く さ がわ 野呂川は、甲斐国志によれば木賊川といって後に能呂川と呼ばれるようになったと言われてい さん りょう みつ みね だけ せん じょう ます。野呂川は流域の中心にそびえる北岳と間ノ岳(3,189m)を結ぶ山 稜 、そして三峰岳、仙 丈 が たけ きたざわ とうげ せん すい とうげ ほうおう さんざん ヶ岳、北沢 峠 、仙 水 峠 、鳳凰三山 、夜叉神峠など、南アルプス北部の名峰と峠をつなぐ山稜か らの水を集め、農鳥岳から流れてくる荒川と合流して早川と名を改めるまで、延長 24km、高度差 およそ 2,000mに及ぶ急流です。 80 南アルプスと人々の関わり3 流域面積はおよそ 9,000ha、現在は流域全体が南アルプス市で、すべてが県有林になっていま おお す。高山帯を除いて森林に覆われ、一部は資源林として過去利用され、現在再生した森林となっ ていますが、人工林の占める割合は少なく、豊かな森林環境が広がっています(図1) 。 図1 野呂川流域の林相図 ※1)糸魚川(いといがわ)−静岡構造線:本州を地質学的に東北日本と西南日本とに二分する大断層線。糸魚川付近から 松本盆地・諏訪盆地・甲府盆地・富士川流域を経て静岡に至り S字状を描く。フォッサマグナの西縁。 ※2)御林(おはやし):幕府や諸藩が管理・支配した山林。 ※3)恩賜林(おんしりん):皇室の所有であったものを山梨県に下賜した(与えられた)林。 81 南アルプスと人々の関わり3 −コ ラ ム 6− 江戸城修理に使われた野呂川の森林 天保8年(1837) 、甲府勤番山手支配戸田光照は幕府から江戸城修理材を御林から切り出 し、調達する命令を受けました。幕府からの命令は「寸法は二尺角(66cm 角) 、長さ八間(14.6 m)を下らぬこと」 、 「総量 5,000 石(材にして約 300 本) 」となっていました。甲斐領内を 視察し、当時から良質の木材を有することで知られていた芦倉村(旧芦安村 現南アルプス 市) 領内の野呂川の御林から切り出して、 早川から富士川へと流し送り出すことにしました。 二尺角とは、およそ一辺が 60cm の角材で、原木となる丸太は人の目の高さで直径1m以 上の太さがなければなりません。このころの芦安村にはそれだけの巨樹があったのでしょう。 きょ じゅ 環境省が昭和 63 年(1988)に実施した「巨樹・巨木林」の調査※1では、ちょうどこの太さ より大きい樹木(胸の高さの幹回りが3m以上)を巨樹として認定し、野呂川流域では、カ ツラ、コメツガ、カラマツなど 17 本の巨樹があることが確認されています。もし、江戸城 修理材として使われなかったら、もっとたくさんの巨樹が野呂川流域には残されていたこと でしょう。 この材が江戸城のどこの修理に使われたのかということは明らかにされていませんが、 く ない ちょう 生産年次から考えて天保9年(1838)に火事で消失した西丸御殿(現在の皇居宮殿と宮内 庁 がある所)の修復に使用された可能性が高いと考えられます。江戸城西丸御殿の再建には、 各藩から供出された木材の中でも、建物の構造の骨格を支えるような大きな木材であったこ うかが はり とが 伺 えます。警視庁の向かいにある桜田門の柱や梁には「寸法は二尺(66cm 角) 、長さ 八間(14.6m) 」の大きさに見合う木材がたくさん使われています。 ※1) 「巨樹巨木」の調査:当時の環境庁が初めて全国の巨樹・巨木林を対象とした調査。この調査によって報告され た巨樹・巨木のデータは約 56,000 本。 82 南アルプスと人々の関わり3 −コ ラ ム 7− 早川森林軌道の話 き どう ふ せつ 昭和 14 年(1939) 、野呂川地域の開発を目的とした森林軌道(鉄道)の敷設が着手され かんのんきょう ました。早川町奈良田から早川左岸沿いに急峻な山腹を横切り、観音経 から深沢尾根まで は さい たい こく ふく の約 54km に及ぶ工事は断層や破砕帯※1を含むもろい地質と寒冷高地という悪条件を克服し ばっ さい て昭和 17 年(1942)に完成し(図2) 、沿線の立木約1万㎥が伐採されました。しかし、相 こうむ ひ がい つい はい どう ほう き 次ぐ災害を 被 り軌道は随所で被害を受け、復旧に困難を極めたため遂に廃道として放棄す るに至りました。 現在のような機械力がほとんどない時代に、幅2m足らずとはいえ、年間 10km 以上もの 道路を急峻な岩壁にうがつ作業は、今の私たちには想像を絶するものです。現在でも観音経 おの だて しょ わし の す やま トンネル近くにある御野立所の対岸(写真3)や、鷲ノ住山、深沢あたりにかけての岩場中 腹にトンネルや道型の一部、レールの残がいを見ることができます。 図2 早川森林軌道のルート図 写真3 野呂川流域の林相図 ※1)破砕帯(はさいたい):岩盤の中で岩石が押しつぶされ、細かく割れてできた帯状の部分。細粒化された た 岩石くずになっていることが多く、地下水を溜め込んだ軟弱な地層。 83 南アルプスと人々の関わり3 −コ ラ ム 8− 野呂川の樵夫たち の じり ほう えい 甲府で中学の英語の教師をしていた野尻抱影※1 は、明治 42 年(1909)旧芦安村から夜叉 神峠を越えて野呂川流域に入り北岳に登りました。その時、女性が、20 貫目(約 75.1kg) つえ たて とうげ の食料を担いで、杖立 峠 近くの交換小屋に1日がかりで登り、翌日には同じ重さの炭や木 しょう ふ 材を担いで芦安へ戻っていきました。野尻抱影は、この時の体験を「野呂川の 樵 夫たち」 ずい ひつ という随筆に残しています。 随筆には、悪天候の中、北岳 と間ノ岳を結ぶ稜線で道に迷い、 りょう 野呂川左又を下って現在の 両 また 俣小屋にたどりつき、樵夫たち に助けられる場面があります。 樵夫とは、きこりのことで、森 おの 林の樹木を斧などで伐採し、そ れで生計を立てている人のこと を言います。その小屋での様子 き そ が、木曽式伐木運材図絵(図3) 図3 きこり小屋の様子(木曽式伐木運材図絵から) に出てくるような様子でそのま ま記述されています。 ほこら その当時、両俣周辺で行われていた木材生産現場の名残りとも言える古い山の神の 祠(写 真4)が、今でも両俣小屋の近くに残されています。その扉には、明治 43 年(1910)建立 の名が刻まれています。 写真4 両俣小屋の近くに残る山の神の祠 ※1)野尻抱影(のじりほうえい):1885∼1977、昭和時代の天文研究家。星座や天文に関する啓蒙書や随筆を多数執筆。 84 南アルプスと人々の関わり4 南アルプス北部の信仰・宗教 か い こまがたけ ほうおう さんざん し ら ね さんざん 山梨県には、南アルプスで信仰登山が行われた主要な山、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山、白根三山 、 せん じょうがだけ 仙丈ヶ岳があります。南アルプスの神秘的な姿、そして修行にもなる厳しい急峻な山岳の登山が せき ひ 人々に強い信仰心を根付かせ、現在でも書物や登山道、山頂に残る祠や石碑、地蔵などによって その心を伝えています。 甲斐駒ヶ岳 おぎ ゅう そらい きょうちゅう き こ う 荻生徂徠※1は『 峡 中 紀行』 (宝永3年 1706)の中で甲斐駒ヶ岳について「ここは仙福の地」 はる さんろく と延べ「地元の男が登山しようとしたら不思議な老人が現れ男を遥か山麓めがけて投げ飛ばした」 と書いています。そして、天明6年(1786) 『甲斐名勝志』や文化9年(1812)成立の『伊那志略』 へんさん ぜっぺき になると「頂上には石仏がある」と述べ、文化 11 年(1814)編纂の『甲斐国志』にも、絶壁数千 がんくつ 丈で登ることは不可能だが「遠く望めば山頂の岩窟の中に駒形権現を安置」と書いています。時 代とともに登山が現実に近いものとなったわけです。 こう はん ぎょうじゃ く ろ と お ね 文化 13 年(1816)に弘幡 行 者 ※2小尾権三郎が黒戸尾根から開山、文政7年(1824)には増沢 い な こも 兵左衛門ら数人が伊那側から開山したという説もあります。黒戸尾根五合目には籠り堂が出現し たのは文化文政のころと言われます。今の五合目小屋の前身です。 こま がた けこう 横手と白須(現北杜市 写真1本宮、写真2前宮)の駒ヶ岳神社を拠点に次々と駒ヶ岳講が結 か えい 成され、黒戸尾根には相次いで石碑が建てられました。時代が少し下がって嘉永3年(1850)に ほうのう は横手の山田嘉三郎という人は登山道に 33 体の観音石像を奉納したと言われます。長野県側の しろくずれこう きき ん ひゃくしょう い っ き ひんぱん 白崩講 も同じような動きがありました。その時代は天災や飢饉、 百 姓 一揆などが頻繁に起き、 政治や社会情勢も大きく揺れていました。信仰登山にはこのような社会情勢の背景があったこと も否めません。 写真1 甲斐駒ヶ岳山頂 駒ヶ岳神社本社 85 南アルプスと人々の関わり4 写真2−1 竹宇駒ヶ岳神社参道 写真2−2 竹宇駒ヶ岳神社本殿 写真2−3 石塔群 やしろ W・ウェストンの『日本アルプス再訪』 (1918 年刊)によると、明治の終わりころ、頂上の 社 に がん か ほうのう 登拝者たちが願掛けに奉納したものはさまざまあったと述べています。 「女性の黒髪、錆びた鉄の こう もん てぬぐい 小刀、鳥居のミニチュア、講の紋を染めた手拭」などであったそうです。 たてやま おんたけ 講の規模は富士山、立山、御岳などと比べ小さいものですが、甲信静関東とくに神奈川県には しろしょうぞく 現在も継続している集団があります。駒ヶ岳神社の春の例大祭では、白装束 の講者たちが はんにゃしんぎょう くぐ かんれい ふず い 般若心経を唱えて参拝したあと山頂を目指します。明治の神仏分離令を潜り抜けた根強い伝統的 慣例と言えます。しかし、参加者は次第に減少し、数年前までは神社に付随して何軒かの宿泊施 すいたい 設がありましたが、衰退の加速を早めています。 八合目に有名な大鳥居がありましたが、倒壊してそのままになっています。奉納したのは横手 おろ で卵の卸し業をしていた中山麗次郎(横浜へ婿入りして市原姓)と言う人です。昭和 10 年(1935) ごろの寄進ですが、現在中山家はなく、再建を考えていた知り合いの古屋義成さんも他界してし まいました。鳥居の柱の下方に「市原麗次郎」と彫ってあるのを見ることができます。白須本宮 うじ こ は数年前に焼失しましたが氏子 たちによって再建されました。こんどは頂上の祠をどうする か・・・と地元の人たちは心配しています。 鳳凰三山 『甲斐国志』の鳳凰山の項に次のような記載があります。 ごと これ 「御座石山と称す、数丈の立岩あり遠く望めば人物の状の如し、州人多くは誤り認めて是を地 蔵ヵ岳なりと云うは非也」 じぞ うが だけ かん のん がたけ ほうおうさん 地蔵ヶ岳(写真3) 、観音ヶ岳、鳳凰山の山名については、白根三山とともにいまだに論争が絶 えませんが、この山名論争はすでに江戸時代からあったようです。 86 南アルプスと人々の関わり4 ほうおう ごんげん まつ やしろ ほこら 地蔵ヶ岳には鳳凰権現が祀られていました。柳沢から雄山の 社 、三本木の石 祠 を経て精進滝 で身を清めて絶頂に達したと『甲斐国志』は言っています。今のドンドコ沢のことでしょう。地 やく しが だけ 蔵、観音、薬師ヶ岳にはそれぞれ小さな石の祠があるとも伝えています。 こう けん てんぴょう ほう じ 池田光一郎さんの『地蔵が岳』によると、女帝孝謙天皇・後の奈良法王は天 平 宝字5年(761) や し ゃ じん とうげ 夜叉神 峠 を経て薬師ヶ岳で修験を積んだあと御座石へ下り、薬草や霊泉を発見し、その後奈良田 (現早川町)へ下りたという伝説があります。御座石山、御所山、御坊小屋、鳳凰山などの地名 はここから出たと言われます。 鳳凰権現像は黄金で三寸ほどと言われます。冠と衣装をつけ日の神とも言われましたが、実は 奈良法王御尊象とも言われます。盗賊が持ち去ろうとしたら「瞬時に重く」なったと言われます。 ウェストンが持ち帰ったなどという噂も出て話題は尽きません。 有名な子授け地蔵の伝説は、登拝した夫婦が地蔵一体を持ち帰り、願いが叶うと二体にしてお 礼の登拝をするというものです(写真4) 。子授け以外の願掛けもあって、まず一体だけを奉納し て下山する、言わば〝略式登拝〟も行われているようです。山上に祀られる地蔵仏の数は年によ り増減があるようですが、ひょっとしてご利益が気まぐれになったのではないかと言う人もいま す。 かつて、登拝者は平川峠や鳥居峠の茶屋で一休みして地蔵ヶ岳へ向かったので、峠はにぎやか かんさん だったそうですが、今は人影もなく閑散としています。 さい 賽の河原では、朝になると一面の白砂に小児の足跡が無数に現れ、消しても翌朝はまた現れる じょうぶつ という伝説があります。現世にいる父や母を慕う幼児たちの亡霊が、成 仏 できずに賽の河原をさ まよっている、あわれな物語りです。 かいじゅう ばばあ この他、ヒマラヤの雪男まがいの 怪 獣 の伝え話や、南御室小屋に住みついた糸取り 婆 の話も あります。宗教や信仰にまつわる伝説はこんなところからも生まれたようです。 写真3 地蔵ヶ岳オベリスク(撮影:清水准一) 87 写真4 子授け地蔵(撮影:清水准一) 南アルプスと人々の関わり4 白根三山 北岳、間ノ岳、農鳥岳の三山を言います。 『甲斐国志』は「白根の夕照は八景の一なり」とその 風景をたたえ、また「其の北の方最も高き者を指して今専ら白峰と称す」としています。白根は 三山の総称、白峰または甲斐ヶ根(嶺)は北岳そのものを指したようです。 また『甲斐国志』によると、江戸末期までは北岳山頂に祠があったと記しています。 い ばか い 「相伝ふ山上に日の神を祀る、其の像黄金を以てこれを鋳る、長さ七寸許り、容るに銅室を以 てす、高さ二尺二寸広さ方八寸」というものです。祠の四隅には鈴が掛けてあり「風吹けば声あ だいにちにょらい あま てらす おおみかみ り」と誌的な表現をしています。日の神は大日如来、あるいは天 照 大 神 、太陽信仰の原点とも 言えるものですが、その祠も江戸末期あるいは明治の始め突然姿を消したのです。地元ではこの 行方を調べているようですが、はっきりしたことはわかりません。 こじ まう すい 小島鳥水※3が明治 33 年(1900)山頂で見たのは「木の祠と施主の名を彫刻した木剣と石造の 鶏」でした。それから2年後、ウェストンも北岳頂上で祠と木剣を見たようですが、 「風吹けば鳴 る」祠もないし黄金の像もなかったということです。 おおかんばさわ ひさご 大樺沢 の 瓢 池では、 「米を投げ入れるとその人の善悪が判別できる。 」 「山に入る前、村の人は 沓沢の鎮守の社に必ずお参りする。 」ウェストンは、これはツェルマットのガイドと同じで世界共 通の崇拝の心だと指摘しています。 芦倉村(その後の芦安村、現南アルプス市)の長百姓忠三郎は、明治2年(1869) 、郡役所に「甲 かいびゃく 斐ヶ根山開 闢 ※4願書」を提出、2年後夜叉神峠の手前に前宮、大樺沢左岸に中宮、北岳頂上に本 ちんじょう 宮を建てたいと〝陳 情 〟しています。杖立峠の小祠も同じころと思われます。神仏習合時代から 神仏分離政策に移った矢先とは言え、各地の峠や山頂のおびただしい数の石碑、首なし地蔵など おしなべて山岳信仰の根強さと転換期の出来事と言えます。 仙丈ヶ岳 東西南北どこから見ても美しい山、南アルプスの女王と言われます。 『甲斐国志』には次の記述があります。 「白根の西北に在りて能呂川・北沢を隔つ、亦伊奈郡に界へる高山なり」 ごく簡単な表現です。甲斐の国の地誌として強く捉えていなかったのかもしれません。 山頂から東西南北に張り出した尾根にはいくつかの石仏があって、ある一時代は多くの登拝者 が行き交ったものと思われます。今の登山者たちは、もっぱら下山ルートとして利用しているよ うですが、それも林道の開通とともに数えるほどしか見かけません。 ※1)荻生徂徠(おぎゅうそらい):1666∼1728、江戸中期の儒学者(中国の思想家孔子に始まる政治・倫理思想を修めた者) 。 柳沢吉保(綱吉側近)に仕え5代将軍綱吉の学問相手を勤めた。吉保隠居後は、8代将軍徳川吉宗に重用され、「政談」 を提出するなど現実の政治にもかかわった。 えんの お づ の えんの ぎょうじ ゃ ※2)行者(ぎょうじゃ):日本では山岳修行を行う者を指し、修験道の開祖である 役 小角は「 役 行 者 」と呼ばれている。 ※3)小島鳥水(こじまうすい):1873∼1948、日本の登山家で日本山岳会の創立者の一人、随筆家、文芸批評家。 ※4)開闢(かいびゃく):信仰の地として山を開くこと。 88 南アルプスと人々の関わり4 −コ ラ ム 9− 開山祭1:広河原「蔓払いの儀式」 毎年6月の最終土曜日に広河原で開山祭が行われます。 広河原には南アルプス林道開通に努力した天野久前山梨県知事(1892∼1968) 、旧芦安村 長名取運一(1850∼1923) 、外国人としては初めて北岳に登頂したイギリス人宣教師のウォ ルター・ウェストン(1861∼1940)の功績が刻まれた碑の前で祭典が行われます。 この開山祭では、明治時代の「山の案内人」をイメージした衣装で登場する案内人が、 づる おの つる と フジ蔓の門を斧で切る「蔓はらい」の儀式が執り行われ、登山者はこの門をくぐって北岳に そう なん つい とう 向かいます(写真3) 。また3名の碑の前にその功績を讃え、併せて遭難者への追悼の意を 込めて献花を行います(写真4) 。 この蔓払いは、かつて未開であった登山道の蔓を払いながら切り拓くことを表現し、ま は た切った蔓の飛び跳ねる動きによって悪霊払い、また山を清めることを意味しています。 この頃はキタダケソウが咲く時期でもあり、NPO法人芦安ファンクラブでは、毎年キ タダケソウ観察会を開いています。 開山祈願のことば 本日を 南アルプス開山祭と定め、 おんいけ おお がみ だいりゅう ごんげん あわ 御 池 の主 神 大 竜 権 現 の神、併せて てん ぐ 周囲の山々の大天狗、子天狗の神々に 本年の善良なる入山者の全てが無事故のこと 写真3−1 蔓払い わが里、芦安の活性化と我らが甲斐の国の 繁栄のことを、我々山案内人衆が信者に おんせいがん たてまつ 成り代わり御 請 願 申し上げ 奉 る。 い ぎ ょう 多くの先人の偉 業 を永く思い語り 豊かな自然を後世に残し継ぐ事を宣言し 我等は開山の蔓を払うなり。 写真3−2 蔓払い 写真3−3 蔓払い 写真4 献花 89 南アルプスと人々の関わり4 −コ ラ ム 10− 開山祭2:甲斐駒ヶ岳竹宇神社の開山祭 ほく と し ちく う 北杜市では毎年7月1日に登山者の安全登山、無事故を祈念し、竹宇駒ヶ岳神社で開山 祭を行っています(写真1) 。 甲斐駒ヶ岳は古くから甲斐駒講と呼ばれる信仰登山の対象でした。文化年間(1800 年初 頭) 、信州の弘幡行者によって開山されたと伝えられています。 北杜市白州町には、甲斐駒ヶ岳の登山口である竹宇駒ヶ岳神社と横手駒ヶ岳神社があり は わた くさり ば ます。八丁登り、刃渡り、 鎖 場※1 などの険しい登山道が続く黒戸尾根登山道は、日本の三 大急登と呼ばれ、登山口から山頂まで標高差約 2,200mもあります。登山道沿いには今もな お、信仰登山に関わる遺物が登山道の随所に見られます。 毎年開山祭では関係者が出席し、神事を執り行っています。 写真5−1 安全祈願祭の様子 写真5−2 安全祈願祭の様子 写真6−1 竹宇駒ヶ岳神社本殿 写真6−2 竹宇駒ヶ岳神社参道 ※1)鎖場(くさりば):登山路や岩場で、登山者がつかまって登れるように、鎖を固定して張ったり垂らしたり してある所。 90 南アルプスと人々の関わり5 南アルプス登山の成り立ち 山はけものを求めて狩りをしたり、植物 を採取する、生活に必要なものを揃える身 近な場所でした。やがて信仰の対象となり、 信仰登山が行われます。現在のような楽し むための登山(写真1)は、外国人の登山 思想によって明治時代から行われるように えい きょう なりました。現在の登山に影 響 を与えたの は外国人ですが、それを支え広めることに りょう し なったのは案内人となった地元の 猟 師 や 山仕事の人々でした。そして、山梨県の学 校関係者や山岳会もまた山梨県の近代登山 写真1 大樺沢を登る現在の登山者 に大きな役割を果たしています。 生活と信仰の山 じょう もん 春は山菜、夏はイワナやヤマメ、秋はキノコや木の実、冬はけもの猟、石器時代や 縄 文時代か ぶた い ら山は人間の生活の舞台でした。谷や尾根ごとに細い道があり、人は山を縦横に歩いていました。 奈良、平安時代には、山は神や仏のいる場所として大切に守られるようになりました。 こきんしゅう かま くら 南アルプスも生活の舞台であり、神聖視された場所でした。しかも平安時代の「古今集」や鎌倉 時代の「平家物語」などに「甲斐ヶ根」 「甲斐の白峰」として南アルプスが登場することから、都 にまで知られていたことが分かります。そして生活のためとは違う別の登り方をしたのが信仰登 山でした。平安時代には鳳凰山に修験者が登ったと言われ、甲斐駒ヶ岳は江戸時代の末、諏訪の えんめい ぎょうじゃ だいにちにょらい 延命 行 者 が信仰の山として開山しました。北岳にはそれ以前から大日如来が安置されていました。 もの み ゆ さん にら さき 驚くのは江戸時代末期の文政年間、物見遊山の人たちが鳳凰山に大勢登っていたことです。 韮崎 の神官が残した「大鳥ヶ岳に遊ぶ記」にその様子が書かれています。また同時代に完成した地誌 「甲斐国志」は、南アルプスの山々と水系を詳しく紹介し、多くの人が登っていたことを裏付け ています。明治4年(1871)には、芦安村長の名取直衛が北岳に登山道を開きました。 外国の登山思想 日本は江戸時代に 200 年以上に渡って鎖国を行っていましたが、末期には外国の船が日本近海 に現れるようになって、江戸幕府に対して相次いで開国を迫ってきました。明治時代に入ると日 本は開国し、多くの外国人が日本に住むようになりました。その外国人の中に当時のヨーロッパ・ アルプス登山の経験者もいて、日本の山に登り始めました。外国人が行った登山は、今まで日本 にあった生活や信仰を目的にしたものではなく、氷河のある山に登るために鍛えられた登山技術 を伴うものでした。 南アルプスの高峰に初めて足跡を記した外国人は、イギリスの外交官アーネスト・サトウです。 明治 14 年(1881) 、サトウは農鳥岳、間ノ岳に登頂しましたが、間ノ岳から北岳を見て自分の立 91 南アルプスと人々の関わり5 っている間ノ岳の方が高いと判断し、北岳初登頂を逃してしまいました。明治 25 年(1892)には 宣教師のウォルター・ウェストンが赤石岳に、明治 35 年(1902)には北岳にそれぞれ初登頂して とう はん います。ウェストンは明治 37 年(1904)に鳳凰山の地蔵仏(オベリスク)に初登攀していて、こ れが日本で初めてのロッククライミングでした。また文明開化のかけ声で西洋の近代科学も普及 し始め、南アルプスなどで全国初の植物調査、また地質調査によるフォッサマグナ※1 の発見、測 量登山などが行われました。 近代登山の普及 外国人の登山は日本人に大きな影響を与えました。小島烏水、高頭式、武田久吉、城数馬らが 明治 38 年(1905) 、日本山岳会を設立し、日本の近代登山がスタートしました。西洋流の登山思 じっ せん 想を日本で実践したもので、それ以前に多くの高峰は日本人によって登られていましたが、西洋 流登山の流入後、改めてその考えに基づいた初登頂を競いました。初登頂を争った後は、岩や沢 の初登攀を競う時代が訪れます。北岳の大岩壁・バットレス※2 は昭和2年(1927) 、京都大学山岳 おう れん だに 部が登り、甲斐駒ヶ岳の黄蓮谷は昭和5年(1930) 、関東山岳会によって登られました。 かつ やく 一方、近代登山初期には、地元の猟師や山仕事の人たちが案内人として活躍しました。湯島、 奈良田、芦安、柳沢、台ケ原、駒城などの人たちで、ウェストンの北岳登山を案内した清水長吉、 つじ もと みつ まる のこぎり だけ 辻本満丸※3 を 鋸 岳初登頂に導いた水石春吉、この他、青木要造、牛田佐市、名取治太郎、名取 久平、青木久治郎、深沢松次郎、深沢義長ら多くの案内人が近代登山を支えたのです。また山梨 の学校関係者を中心にして、明治中頃から近代登山を実践する人たちが続きました。石塚末吉、 野尻抱影、平賀文男、大沢伊三郎、野々垣邦富らが南アルプスに足跡を残しています。大正 13 年 (1924)には、若尾金造を会長に全県組織の甲斐山岳会を結成し、山梨への近代登山普及に大き な役割を果たしています。 写真2 近代登山の様子(南アルプス市立南アルプス芦安山岳館蔵) ※1)フォッサマグナ:日本列島のほぼ中央部を南北に、日本海から太平洋側までのびる大きな溝。 ※2)バットレス:山体を支えるように頂上に向かってせり上がっている垂直に近い岩壁。胸壁。 ※3)辻本満丸(つじもとみつまる):1877∼1940、明治∼昭和時代前期の応用科学者。動植物の油脂に関する研究を行い日本 の油脂工業の発展に貢献。日本における油脂科学の父である。日本山岳会の設立者の一人であり鳳凰山で採取した植物 59 種の中には学界未知のものもあり、キキョウ科の1種はホウオウシャジンと命名された。 92 南アルプスと人々の関わり5 表1(1) 南アルプス登山年表 年 年号 平安時代 鎌倉時代 江戸時代 1795 寛政7 1814 文化11 1816 文化13 1824 文政7 明治時代 1871 明治4 1875 明治8 1878 明治11 1881 明治14 1882 明治15 1884 明治17 1986 明治19 1887 1889 1892 1895 1900 1902 明治20 明治22 明治25 明治28 明治33 明治35 1903 明治36 1904 明治37 1905 明治38 1906 明治39 1907 明治40 1908 明治41 1909 明治42 1910 明治43 1911 明治44 1912 明治45 出来事 ◆鳳凰山に修験者が修験者が登山。「古今集」などに「甲斐ヶ根」が詠み込まれる。 ◆「平家物語」に「甲斐の白峰」が登場。 ◆北岳山頂に大日如来が奉納される。 ◆甲州の地誌「甲斐国志」編さんが終了。北岳、甲斐駒ヶ岳、鳳凰山などの山頂の詳しい記述。 ◆諏訪の弘幡行者が甲斐駒ヶ岳を開山。 ◆韮崎の神官生山生方が鳳凰登山記「大島ヶ獄に遊ぶ記」。 ◆芦安の名取直衛が市川郡役所の許可を得て、北岳に甲斐ヶ根神社を設け登山道を開く。許可を得たのは明治2年。し かし、登山者は少なくまもなく廃道。 ◆マサモリ・ベンキチが北岳に登山道を開いたといわれる。 ◆国による初めての森林調査がスタート。山梨が最初の調査地となり、「甲斐には4つの帯があり」とする報告をまとめる。 垂直分布の考えを初めて導入した。 ◆7月14日∼8月21日、アーネストサトウが大掛かりな登山旅行。金峰山、三ツ頭、権現岳、白河内、農鳥岳、間ノ岳に登 る。 ◆高橋敬十郎ら長野、戸台から甲斐駒ヶ岳へ登頂。 ◆横山又次郎、山下伝吉、中島謙造らがナウマンの指導を受け、地質調査のため長野・戸台から入って野呂川を下り奈 良田へ。さらに転付峠を越えて大井川に下り、西俣を遡行、長野の大河原に抜ける。 ◆横山又次郎、中島謙造らが御座石から鳳凰山に登り、野呂川に下ってさらに大井川から赤石岳へ。千頭へ抜ける。 ◆甲斐駒ヶ岳5合目に修験行者の植松嘉衛が小屋を開設。大正の初めに古屋亀太郎が譲り受け、その子義成(1999年 没)が守った。 ◆秋、伊奈街道が完成。中富町切石と長野・飯田を結ぶもので、全長80kmに及んだ。特に早川の新倉から転付峠ー大 井川ー二軒小屋ー三伏峠ー長野・大河原間は数年間の難工事の末に開通した。山間部の道幅は60cmほどだったとい う。山梨側だけで1万人が工事にかかわった道も明治30年代には荒廃した。今は一部が登山道として残っている。 ◆地蔵ヶ岳に「明治20年7月29日」の日付が入った石碑。 ◆9月、北岳に石碑が建てられた。奉納者は「上宮地横内安太郎」。 ◆8月1日∼25日、ウエストンが南アルプスへ。赤石岳に外国人初登頂。 ◆8月、木暮理太郎が甲斐駒、金峰山へ登頂。 ◆8月、若尾逸平、加藤知事らが野呂川の水源探検。野呂川疎水工事のため水源を探査。 ◆8月18∼27日、ウエストンが芦安ー杖立峠ー広河原ー大樺沢ー小太郎尾根のルートで北岳へ登頂。 ◆7月24日、武田久吉らが、夏沢峠から赤岳。続けて台ヶ原から甲斐駒。八ヶ岳でヒナリンドウ、タカネシダを発見した。 ◆8月、ウエストンが、芦安、奈良田、さらに台ヶ原から黒戸尾根を経て甲斐駒。鋸岳も目指したが途中引き返す。 ◆7月12∼26日、ウエストンが芦安から鳳凰山―広河原―北岳―仙丈ヶ岳―戸台の長期山行。15日には有名な地蔵仏 初登はん。仙丈ヶ岳も外国人初登頂。 ◆8月、山梨師範の能勢教諭らが北岳登山の同行者を募集。 ◆7月、小島烏水、山崎小三ら小渋川から明石岳。 ◆8月13日から伊達九郎、高松誠ら芦安―夜叉神―鮎差―広河原―大樺沢―北岳―五葉尾根―芦安。 ◆10月14日、小島烏水、高頭式、武田久吉、城数馬、河田黙らが日本山岳会設立。 ◆8月、辻本満丸が鳳凰山。さらに小荒間から権現岳。続けて甲斐駒へ。この時、鳳凰山でホウオウシャジンを発見。 ◆8月15∼19日、山梨師範教諭の石塚末吉ら芦安―杖立峠―五葉尾根―広河原―大樺池を経て北岳を目指したが悪 天で断念した。同行者の望月無腸が山梨日日新聞に「白根探検記」と題して8月30∼9月4日まで連載。 ◆8月∼9月、荻野音松が長期山行。22日に川浦を出て京ノ沢から奥千丈、金峰山に登り、甲府に下って早川へ。下湯 島から新沢峠を越えて大井川に下り、小西俣を経て三伏峠に登り大河原へ抜ける。この時、「悪沢岳」の存在が世に出 る。 ◆7月23日から武田久吉、河田黙ら高遠―戸台―赤河原―北沢峠―甲斐駒ヶ岳―台ヶ原。 ◆8月7日から、石塚末吉らが大門沢から白根三山を初縦走、広河原から鳳凰山に登り返し芦安に下る。 ◆7月19日から、小島烏水、高頭式ら西山―白剥山―大井川―東俣―農鳥岳―間ノ岳―北岳―鳳凰山―青木鉱泉の 大縦走。 ◆7月21日から20日間、小島烏水、高頭式ら西山―蜻蛉尾根―新沢峠―大井川―西俣―悪沢岳―赤石岳―小渋を歩 き2年連続の南ア大縦走。 ◆7月25日から、野尻正英(抱影=甲府中教諭)が芦安―夜叉神峠―杖立峠―五葉尾根―広河原を経て北岳に登る。 ◆8月25日、北岳山頂に「山梨子県巡査・大谷与而吉、小笠原警察分署山梨子県警部・小林夏吉、林野局技手・小野 信」と書き込んだシラベの皮があった。日付は同日。1か月後に登った鵜殿正雄の記録に出てくる。 ◆9月、鵜殿正雄が戸台―赤河原を経て仙丈ヶ岳に登り、大仙丈沢を下って野呂川へ。さらに北岳山頂に立ち広河原― 五葉尾根―杖立峠を経由して鳳凰山に登る。 ◆秋、甲府中の大島隣三、内藤安城が鳳凰山地蔵仏に立つ。ウエストンに次ぐ第2登、日本人初登を達成した。 ◆小島烏水が出版の「日本南アルプス」第1巻で、北岳の大岩壁に「バットレス」の呼称。 ◆7月18日から、星忠芳と案内人の水石春吉が鋸岳第2高点に初めて立つ。辻本満丸とともに台ヶ原から入山。日向山 ―鞍掛山―八丁尾根―烏帽子岳のルートで山頂を目指した。辻本は体調を崩して断念し、星と水石が登頂した。 ◆8月、野尻正英と甲府中学の生徒2人が間ノ岳、北岳。 ◆12月1日、中村清太郎が笊ヶ岳。11月30日に硯島から入山し山頂に立った。南アルプスの積雪期初の記録。 ◆小島烏水が甲斐駒―仙丈ヶ岳―荒川岳。 ◆7月、小島烏水、岡野金次郎、水石春吉が鋸岳第1高点に初登頂。台ヶ原から甲斐駒を経て第1高点へ。この後、仙 丈ヶ岳―洞ノ岳―荒川岳―市之瀬。 93 南アルプスと人々の関わり5 表1(2) 南アルプス登山年表 年 年号 大正時代 1913 大正2 1914 大正3 1916 大正5 1917 大正6 1918 大正7 1919 大正8 1922 大正11 1923 大正12 1924 大正13 1925 大正14 1926 大正15 出来事 ◆鵜殿正雄が鋸岳へ。 ◆小島栄が鳳凰山、白峰へ。 ◆夏、日川中の糸賀喜久太郎、佐々木、田中教諭、甲府商業の小沢教諭ら北岳。 ◆11月23日、山梨山岳会発会式を甲府商業会議所で開く。佐々木吉、糸賀喜久太郎ら5人を幹事に選出した。会則な ど協議。 ◆7月5日、山梨山岳会が甲府で山岳講演会を開き、小島烏水らが講演した。小島の演題は「日本アルプスの研究と甲 州山岳」。 ◆冠松次郎が広河原から白峰へ。 ◆7月16日、海軍軍属落合道徳が南アルプス横断を目指して、単独で釜無川沿いに入山したが行方を絶つ。大正7年8 月、仙丈ヶ岳薮沢源頭で白骨で見つかった。 ◆4月、舟田三郎が単独で夜叉神―荒川から北岳。ガイドレスのはしり。 ◆7月末、県土木課の神崎政孝、正行兄弟が御座石鉱山跡を視察後、鳳凰山に登山。下山中にドンドコ沢の白糸―精 進ヶ滝間で兄政孝が転落死。 ◆10月、カナダ人H・ドーントが地蔵仏へ外国人第2登。 ◆甲斐駒ヶ岳7合目に山小屋が開設される。 ◆7、8月、武田久吉、木暮理太郎が大樺沢―北岳―間ノ岳―農鳥岳―広河内岳―大井川―蝙蝠岳―荒川岳―仙 丈ヶ岳―甲斐駒ヶ岳―柳沢の大縦走。 ◆夏、青木村が登山者増加に対応して鳳凰山の登山道を修繕。 ◆日本の女性登山の草分け青木美代が野呂川から小太郎尾根。 ◆平賀文男が鳳凰山ドンドコ沢の滝に「五色の滝」と命名。 ◆青木美代、仙丈ヶ岳から北岳。 ◆7月14日、甲斐駒に東大4、早大4、明大1、高等商業1、諏訪の青年24人が大挙登山。 ◆7月20日、山梨師範山岳部30人が甲斐駒目指して入山。 ◆7月20∼26日、朝香宮が南アルプス登山。19日入峡。総勢50人が足馴峠から西山に入り、大門沢旧道―農鳥岳―間 ノ岳―北岳―仙丈ヶ岳―甲斐駒ヶ岳を縦走した。 ◆7月、県土木課員らが砂防調査のため大武川二の沢―離山のルートで鳳凰山へ。 ◆11月23∼25日、城南山岳会員で海軍省勤務の大塚弘一、田中信夫が風雪のため鳳凰山で遭難、大塚が凍死。南ア ルプス積雪期初の犠牲者。 ◆5月、甲府の大沢伊三郎ら赤石岳へ。記録映画を製作する。 ◆6月11日、県内の山岳会を統合して甲斐山岳会を結成。初の全県組織。会長若尾金造、副会長石塚末吉。 ◆6月27日、白鳳会設立。韮崎小で結成総会を開き幹事長に小屋忠子、常任幹事に大柴陳策ら。登山の宣伝印刷物配 布、駅前に登山案内所設置、登山用天幕購入などの活動方針を決める。「白鳳」は白根山と鳳凰山。 ◆7月12、13日、白鳳会が創立第1回山行。17人が鳳凰山登山。北御室に野宿。 ◆7月、渡辺俊則、吉川秀雄が赤石岳―荒川岳―塩見岳―大井川東俣―白根三山―長野・市之瀬。この登山記録に 「北岳で山梨師範の一行と会った」の記述。2人はガイドレス。 ◆7月21日、大月桂月が農鳥岳登山。この時「酒のみて高根の上に吐く息は散りて下界の霧となるらん」の歌を詠んだ。 東農鳥に歌碑がある。 ◆8月1、2日、清光寺住職高橋竹迷、韮崎中校長堀内文吉ら鳳凰山。ドンドコ沢から登り、三山を縦走、中道を下る。 ◆10月、京都三高の今西錦司、西堀栄三郎、四手井綱彦ら甲斐駒ヶ岳。この時、北沢に山小屋があることを知り、冬の白 根の計画を立てた。 ◆11月中旬、鳳凰山の北御室小屋が完成。この年までに県山林課が建てた山小屋は北沢、両俣、間ノ岳、広河内沢、広 河原、早川尾根、八ヶ岳、破風、北御室の9つ。 ◆3月、三高の西堀栄三郎、桑原武夫ら仙丈ヶ岳(19日)、間ノ岳、北岳(22日)の積雪期初登頂。 ◆3月28日、平賀文男が大樺沢から北岳登頂。三高に対抗して初登頂を競ったが6日遅れた。水石春吉が同行。帰りを 甲斐駒に取り、積雪期甲斐駒初登。 ◆7月2∼5日、白鳳会が韮崎から北岳への最短ルートとして高嶺の西から広河原に至るコースを開設。鞍部を白鳳峠と 命名する。スポンサーの「サロメチール」の名入りのブリキ製案内板400枚を峠周辺や南ア北部に設置。 ◆1月、野村実ら戸台―赤河原―仙丈ヶ岳―仙水峠―甲斐駒ヶ岳。 ◆4月、一高パーティーが塩見岳―仙丈ヶ岳―白根三山。 ◆6月3日、甲府49連隊の町田等少尉が3回目の鳳凰山登山。町田は県内山岳を満州に想定した雪中訓練を試みてい たといわれる。 ◆6月6日、甲府中学生20人、13日は同中学生50人、山梨高等工業生6人、甲府高女生10余人が甘利山へ。 ◆7月、東海銀行員牛奥富昌、間ノ岳で遭難、死亡。10日に入山、遭難は16日か。 ◆7月12日、北大教授アーノルド・グルリー(スイス人)が韮崎から南アルプス縦走に出発。白鳳会に通訳の依頼があり、土 橋重左衛門が同行。 ◆7月下旬、甲斐山岳会が募集したアルプス登山斑に全国から多数の申し込み。鋸岳―甲斐駒、甲斐駒、鳳凰、八ヶ岳 などのコースで、22日に鋸岳―甲斐駒斑が野々垣リーダーで出発。 ◆7月30日、山梨県技手、佐藤光造、渡辺正敏が白根山登山小屋修理に登山。 ◆8月、横内斉が地蔵ヶ岳でミヤマハナワラビを発見。 ◆8月、黒田正夫・初子が白根三山。 ◆8月、加藤文太郎が戸台―仙丈ヶ岳―甲斐駒ヶ岳―台ヶ原―八ヶ岳―浅間山。 ◆12月、国分貫一が白根三山。黒田初子が鳳凰山―仙丈ヶ岳―北岳―塩見岳。 ◆黒田初子が鳳凰山―仙丈ヶ岳―北岳―塩見岳。 94 南アルプスと人々の関わり5 表1(3) 南アルプス登山年表 年 年号 昭和時代 1927 昭和2 1929 昭和4 1930 昭和5 1931 昭和6 1932 昭和7 出来事 ◆5月21日、山梨高等工業生350人が甘利山へ。 ◆7月18日、京大の高橋健治ら4人が第五尾根から北岳。バットレス初登はん。翌19日には酒戸弥二郎ら3人が東北尾 根を登った。 ◆7月、加藤文太郎が赤石岳―聖岳―荒川岳―塩見岳―白根三山の単独行(8日間)。 ◆9月、史蹟名勝天然記念物調査会が白鳳渓谷を調査、鷲の巣山の岩峰、荒川の煙滝などを確認。登山道や山小屋整 備を提唱。 ◆6月16日、山梨日日新聞社主催の甘利山登山団に900人が参加。臨時列車を仕立てた。 ◆6月、県が南アルプス、八ヶ岳、富士山などに高山植物看守人を配置。 ◆8月25日、山梨師範学校の功刀文男、功刀昇が地蔵仏登はん。 ◆9月19日、北岳で東京第一銀行の中沢達夫が下山中、風雨のため小太郎尾根で道を失い凍死。9月には甲斐駒で下 山中の慈恵医大山岳部パーティー岡一男が戸台本谷に転落死。台ヶ原から入山した東京の渡辺芳太郎が行方不明に。 ◆12月30∼1月4日、三井松男、町田等ら観音岳。 ◆この年の県内の山小屋宿泊者数は次の通り。五葉尾根32人、広河原272人、北御室314人(うち女3)、早川尾根141 人、北沢396人、両俣174人、白根御池285人、北岳72人、間ノ岳216人、大門沢259人、赤岳356人、国師92人(うち女 2)、破風93人(うち女3)、合計2,702人 ◆1月、北岳で慶応大パーティーが雪崩に巻き込まれ、野村実が搬送中に死亡。救援本部が韮崎に置かれ白鳳会が バックアップした。三井松男は観音岳下山後、救援活動に駆けつけた。昭和9年7月には白鳳会が野村の追悼碑を建立 した。 ◆1月19日、甲斐山岳会がガイドの講習会開催などを決める。また論議のある鳳凰山の呼称について近く見解を示す方 針を確認。講習会は3日間にわたり案内人の心得、森林愛護、気象、地形図、衛生と外傷手当て、高山植物などを若尾 金造、町田等、石塚末吉、大沢照貞、平賀文男、野々垣邦富らが講義した。 ◆4月27∼30日、横浜山岳会の石田兵一、中本銀弘が台ヶ原―甲斐駒―伊那。 ◆5月4日∼11日、平賀文男が荒川―間ノ岳―農鳥岳―大井川源流を縦走。 ◆5月22∼26日、甲斐山岳会の武井四郎が尾勝谷―仙丈ヶ岳―北岳―間ノ岳―農鳥岳―西山。 ◆5月24∼27日、早川安治、鈴木喜太郎が鳳凰山。南嶺会に残る最も古い山行記録。 ◆6月11日、甲府に南嶺会発足。甲府商業OBを中心に組織したもので、名前は大月桂月の「南高嶺」(南アルプス)に由 来している。三井松男、今井友之助、百瀬舜太郎、鈴木喜太郎、大沢伊三郎らアカデミックな近代登山を目指した。 ◆6月15日、第1回甘利山駅伝競走が行われ山梨師範が優勝。 ◆6月、駒城の山岳開発協会が北沢小屋にラジオを設置、天気予報を速報。 ◆6月中旬、県が山小屋修理に4班を派遣。南アルプス北部、八ヶ岳、奥秩父。 ◆7月1日、甲府測候所が南アルプスの天気予報を開始。 ◆7月4日、白鳳会が韮崎駅前に南アルプス登山相談所を開設。 ◆7月7∼9日、南嶺会の今沢茂、佐野一男が芦安―鮎差―荒川本谷―農鳥小屋―三国沢出合―大井川東俣―広河 内岳―大門沢。 ◆9月13∼21日、大沢伊三郎(南嶺会)ら池山吊尾根から白根三山に登り転付峠へ。 ◆9月、関東山岳会の岩瀬勝男ら黄蓮谷右俣を初登。甲斐駒ヶ岳のバリエーションの始まりを告げる。 ◆11月、長野・戸台の竹沢長衛が北沢右岸に山小屋開設。 ◆日本山岳会が冬の山小屋調査。山梨関係は甲斐駒第二屏風小屋(駒城村、中山玉樹、無料、燃料豊富)大樺池ノ小 屋(芦安、甲斐山岳会支部、無料、燃料あり。問い合わせ先として甲斐山岳会と白鳳会)北沢小屋(美和村、竹沢長衛、無 料)両俣小屋(同)富士山五合目石室桂屋(吉田、池谷佐重郎、宿泊2円)を紹介。北アルプスの常念は1泊60銭、槍平は 同50銭。 ◆6月5∼9日、南嶺会の百瀬舜太郎、今沢茂、鈴木喜太郎が大武川―仙丈ヶ岳―戸台。 ◆6月、丸茂平造、森健二が柳沢―甲斐駒―仙丈―馬鹿尾根―両俣―野呂川左俣―北岳―広河原―広河原峠―高 嶺―地蔵ヶ岳―韮崎。 ◆7月17日、千葉高等園芸研究科生の清水基夫が北岳山頂の南で新種の高山植物を採取。後にキタダヶソウと名付け られる。 ◆7月22日、駒城村のガイド牛田佐市(水石春吉の実兄)が長野・小渋川で徒渉中に流され死亡。明大山岳部を案内、下 山中だった。52歳。野村実の遭難報告書の中に佐市小屋が出てくる。 ◆7月28日∼8月1日、鈴木喜太郎と甲府商業生徒5人が白根三山。 ◆8月20日、甲斐駒ヶ岳で京大生石倉初雄(石和町出身)の遺体発見。単独で入山、7月11日に行方不明になっていた。 ◆9月5∼7日、小林高行、延行兄弟が甲斐駒ヶ岳―鋸岳。 ◆県山林会が「南アルプスと奥秩父」、菅原村登山案内強力組合が「日本南アルプス登山案内」(25ページ、地図付き)を 発行。 ◆2月14∼18日、南嶺会の早川安治、長田賢、鈴木喜太郎が鳳凰山。 ◆3月、黒田正夫・初子、仙丈ヶ岳スキー登山。 ◆4月27日∼5月1日、横浜山岳会の石田兵一、中本銀弘が黒戸尾根から甲斐駒―戸台。 ◆5月5∼13日、早大の小林高行(甲府出身、南嶺会)ら5人が五葉尾根から北岳。 ◆5月20日、白鳳会総会で遭難対策として伝書鳩班設置を決める。 ◆7月16日から、新倉(早川)の中根経三、新倉―二軒小屋―千枚岳―荒川岳―赤石岳―椹島。 ◆7月20∼26日、南嶺会の百瀬舜太郎、今沢茂が転付峠―悪沢岳―赤石岳―聖岳―聖沢。 ◆7月22∼26日、南嶺会の早川安治と甲府商業生5人が鳳凰山―白根三山―仙丈ヶ岳―甲斐駒ヶ岳。 ◆7月22∼26日、甲府商業教諭の鈴木要・みつ夫妻、松本博吉が新倉から悪沢岳―赤石岳縦走。 ◆7月31日、白鳳会の加賀爪鳳南が地蔵仏登はん。 ◆11月3∼7日、南嶺会の早川、長田、土屋が五葉尾根―北岳―両俣―北沢―大武川。 ◆甲府駅から芦安・大曽利まで自動車が入れるようになる。 95 南アルプスと人々の関わり5 表1(4) 南アルプス登山年表 年 年号 1933 昭和8 1934 昭和9 1935 昭和10 1936 昭和11 1937 昭和12 出来事 ◆5月5∼8日、南嶺会の百瀬舜太郎、早川安治、今沢茂が南御室―地蔵ヶ岳―石空川右俣―荒鞍山―大武川。 ◆6月14日、英国大使館員のマクレーとネスタ夫人が地蔵仏。ネスタ夫人の登はんは女性初。 ◆7月11日、釜無保勝会設立。鋸岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳への近道として釜無登山道が開かれたのを機会に整備、案 内人養成のため富士見、落合、大武川の有志で結成した。 ◆7月22∼26日、南嶺会の早川安治と甲府商業生5人が鳳凰山―北岳―間ノ岳―両俣―北沢―大武川。 ◆7月31日∼8月4日、大沢伊三郎が野呂川―小仙丈沢―大仙丈沢―大武川。 ◆8月7日∼11日、今沢茂、佐野一男が荒川本谷―大井川―東俣―奈良田―増穂。 ◆8月27日、南アルプス連合山岳会設立。登山者の急増、施設不備に対応するため、地元の山岳関係24団体が集まっ た。登山道改修、紹介、宣伝の統一、案内人養成の講座開設、土産品開発などを目的に掲げる。 ◆この年の中部山岳登山者数は富士山10万1,814人、御岳3万3,944人、上高地6,259人、白馬岳5,830人、木曽駒ヶ岳 4,882人、八ヶ岳2,987人、甲斐駒ヶ岳2,532人、槍ヶ岳1,362人(中部旅行協会調べ)。 ◆山小屋料金は北沢長衛小屋が1泊3食で1円80銭。富士山は5合目で1泊3食で1円50銭、案内人は頂上まで1泊2 日で4円。 ◆アスナロ沢論争起こる。この年創刊の『ヶルン』1号で、山本明がアスナロ沢遡行記を載せた。これに対し平賀文男が2 号で、山本が遡行したのは農鳥沢であると反論した。今も混乱が続いている。 ◆4月5∼8日、南嶺会の早川安治、長田賢、鈴木喜太郎が北沢を遡行して北岳。 ◆5月7∼9日、今沢茂、小田和友蔵が農鳥沢から農鳥岳。 ◆5月15日、日本空輸が東京―富山間の空路営業を開始。「秩父、八ヶ岳、南アルプスの展望」を宣伝した。1人16円。 ◆7月7日、鈴木喜太郎、山田よし子(26)、三井松子(20)、中谷糸子(22)が地蔵仏。山田ら3人は日本女性の地蔵仏初登 頂。 ◆11月上旬、鈴木喜太郎がガイドレスで北岳。翌年、「ガイドレス登山記吹雪に立つ北岳へ」を『山小屋』109号に発表。 ◆清哲村から地蔵ヶ岳の登山道12kmを地元の労働奉仕で整備。1m幅の登山道に。また北御室小屋に小屋番を常駐さ せることになり、水石春吉の弟小沢時太郎が入った。白鳳会が韮崎駅前に登山の案内所を開くため案内嬢の採用試験を 行った。 ◆4月22∼27日、早川、清水、鈴木(南嶺会)がアスナロ沢から農鳥岳。 ◆6月10∼13日、南嶺会が農鳥岳東壁に挑戦。荒川本谷入り鈴木、早川、長田が試登したが途中で断念。別パーティー の三井、百瀬、清水は本谷から頂上へ。 ◆7月6∼12日、鈴木、山田よし子、三井松子(南嶺会)、県山林課員が白根三山縦走。 ◆7月13日、甲斐駒七丈小屋で東京方面からきた登山者3人が利用代金を踏み倒す。上旬には青木鉱泉でも同様の被 害があり、白鳳会が韮崎署に取り締まりを要請。 ◆7月21∼28日、南嶺会の鈴木、早川、甲府商業生渡辺謙太郎、早川倉三が白根から聖岳を縦走、聖沢に出る。 ◆7月25∼31日、身延中山岳部が二軒小屋―塩見岳―荒川岳―悪沢岳―二軒小屋。常磐、茂手木両教諭がリー ダー。3年の神戸肇は13歳9か月で南ア踏破の最年少記録。 ◆8月8日、鳳凰山で東京の鉄道職員飯田操六(27)が行方不明に。 ◆8月25日、東京一高の杉浦四郎(20)、水上武治(22)が北岳を目指して入山したが消息が途絶えた。28日に甲斐駒経 由で下山予定だった。 ◆9月23日、長野・遠山川から入山、南アを縦走し西山に31日下山予定の青木義行(22)、小島政五郎(23)が行方不明 に。 ◆6月8∼11日、百瀬、鈴木、早川、長田(南嶺会)が黄蓮谷遡行。 ◆7月、南嶺会の鈴木喜太郎と甲府商業生5人が白根三山から赤石岳を縦走。 ◆7月21日から、甲府中山岳部の井上清部長と生徒17人が辻山―薬師岳―地蔵ヶ岳―韮崎。 ◆7月22日から、日川中山岳部の水口清雄部長と生徒9人が南アルプス登山。 ◆7月25日から、甲府中山岳部の井上部長と生徒3人が白根三山―赤石岳を縦走。 ◆7月26日、石塚末吉が北岳でクモイカグマ発見。 ◆8月1日から、甲府の小菅恒造、伝八が荒川本谷―農鳥岳―大井川―塩見岳―三伏峠―赤石岳―聖岳―椹島―二 軒小屋―新倉―甲府の大縦走。2人の経歴は不明。 ◆11月4日、甲府出身の登山家細井吉造が中央アルプス南駒ヶ岳で遭難死。遺稿集『木曽谷伊那谷』が有名。甲斐 駒ヶ岳、甲府北部の山々を特に愛し「甲斐駒之助」のペンネームも使った。長野・飯島町の与田切川左岸に遭難碑があ る。 ◆11月19日から、山下正崇(南嶺会)が甘利山―千頭星山―辻山―南御室―芦安。 ◆12月、小田和友蔵、今沢茂が冬期の農鳥沢初遡行。 ◆12月27日、東京商科大の小谷部全助、森川真三郎が冬期バットレスの第1、第4尾根初登はん。 ◆6月12、13日、甲府中山岳部の井上部長が甘利山―千頭星山―辻山往復。 ◆6月30日∼7月上旬、県山林課が山小屋修理のため4班を派遣。鳳凰山―高嶺―アサヨ峰―仙水峠―甲斐駒ヶ岳― 駒城村(課員高橋正夫、渡辺晴二)白根三山―仙丈ヶ岳―甲斐駒ヶ岳―駒城村(課員小俣)五葉尾根―北岳―両俣―仙 水峠―甲斐駒ヶ岳―駒城村(西内幸太郎、小山)。 ◆7月21∼23日、甲府中山岳部の井上部長、生徒の相沢幹雄、保坂、岩沢、内藤、大竹、田中、伊藤、笹川の9人がペ デの岩小屋―北沢遡行―北岳―鳳凰山。 ◆7月22日から、甲府商山岳部が白根三山縦走。 ◆7月25日から、甲府工業山岳部の広瀬欣郎、苗村敬、大島全弘が白根三山縦走。7月25日から、南嶺会の早川安治、 甲府商山岳部が白根三山―赤石岳縦走。 ◆7月26日から、甲府湯田女学校の小林健蔵と生徒40人が鳳凰山。 ◆8月8日から、大泉村水産講習所の藤井銀造が荒川小屋―北岳―間ノ岳―農鳥岳―西山。 96 南アルプスと人々の関わり5 表1(5) 南アルプス登山年表 年 年号 1938 昭和13 1939 昭和14 1940 昭和15 1941 昭和16 1942 昭和17 1943 昭和18 1946 昭和21 1947 昭和22 1948 昭和23 1949 昭和24 1950 昭和25 1951 昭和26 1952 昭和27 1953 昭和28 1954 昭和29 1955 昭和30 1956 1957 昭和31 昭和32 1959 昭和34 1960 昭和35 出来事 ◆7月10日から、山梨高等工業山岳部の大沢政市、竹村東虎、肩上和夫、坂上慶麿が白根三山。 ◆7月17日から、山梨高等工業の島津俊治、清水良平、下田好穂、溝口登、森久雄が白根三山。 ◆7月21日から、日川中が白根三山、八ヶ岳、富士山、大武川など5パーティーを派遣。 ◆7月29日から、韮崎中2年の小池公広、功刀長朝、伊東省吾、大村梅夫が鳳凰山―高嶺。 ◆7月31日∼8月3日、アサヨ峰で東京市立商業の4人が遭難、死亡。1日にアサヨで道に迷い、3日に竹沢長衛が現場 に。 ◆7月16日、北岳で合宿中の神戸高商山岳部員4人が雷の直撃を受けて朝田武彦、中村考一が死亡した。南アで初め ての被雷遭難。 ◆8月6日、岐阜農高山岳部が北岳で遭難死した仲間の慰霊登山。「昭和十二年八月九日バットレスに眠る大橋君の立 墓のために来る」の記録あり。 ◆8月11日から、日川中の水口清雄教諭、生徒の大沢袈裟芳、萩原義路、小林道夫、川久保正郎が荒川小屋―(白根 三山)―広河原小屋―(鳳凰山)―青木鉱泉。 ◆6月、荒川本谷を遡行した横浜の村松康夫が行方不明に。10年後の昭和25年、農鳥岳東壁中央稜を登はん中の山 梨大生高室陽二郎らが遺体を発見した。 ◆5月、南嶺会の遠藤武夫、石川、水口弥が池山吊尾根から北岳。 ◆7月、県登山連盟主催の錬成登山が甲斐駒ヶ岳、鳳凰山、金峰山で行われる。 ◆10月、南嶺会の井上、遠藤、石川、水口、内藤が地蔵仏登はん。 ◆7月29日、登歩渓流会の松涛明が北岳バットレス中央稜初登はん。 ◆11月1∼3日、南嶺会の水口弥ら鳳凰山。 ◆南嶺会の百瀬、今沢、井上が甲斐駒ヶ岳へ。白州往復は自転車を使っての日帰り登山。 ◆7月、松本の歯科医師父娘が甲斐駒の坊主尾根で迷い、父親は疲労死、娘は尾白本谷を下降し助かる。 ◆秋、東京の中学生添田春吉らが甲斐駒山頂で吹雪に遭いほこらに避難したが、添田が死亡。 ◆9月、千葉の菅井二郎が甲斐駒で凍死。昭和6年の石倉初雄と奇しくも同じ六方石付近だった。 ◆4月20日、南嶺会が再建懇親会を夜叉神峠で開催。三井、遠藤、水口ら16人が参加。6∼10月にかけて鳳凰山(自転 車往復)、白根三山、転付峠―赤石岳―小渋など8回の山行を集中させた。 ◆菅原山岳会発足。地元の古屋五郎らを中心に登山環境整備に力を注いだ。 ◆7月、山梨工専山岳部が甲斐駒ヶ岳から聖岳まで縦走。 ◆12月11日、県山岳連盟・日本山岳会山梨支部設立総会を甲府商工会議所で開く。会長大沢伊三郎、副会長三井松 男、古屋五郎、理事長今井友之助。槙有恒、西堀栄三郎らを招いた。 ◆7月23∼8月5日、日川高山岳部が南アルプス全山縦走に成功。飯島利彦部長(25)、リーダー藤巻隆基(3年)、三枝恒 夫、窪田知雄、平松直樹(2年)、山本富平(1年)の6人。戸台から入り鋸岳―甲斐駒―仙丈―両俣―北岳―間ノ岳―塩見 岳―荒川岳―赤石岳―聖岳―易老岳。2日、飯島部長が聖岳南斜面で滑落、負傷した。飯島の指示で藤巻、山本が前 進し、光岳は断念したが、易老岳に達し、遠山に下山して救援を求めた。 ◆10月10日、甘利山の椹池畔に白鳳会が建築していた「白鳳荘」が完成。 ◆山梨大山岳会が発足(6月)。厳冬期に南ア全山縦走、中ア全山縦走、北鎌尾根―穂高縦走、北岳バットレス、甲斐駒 の岩と谷、塩見岳のバットレス、聖学の谷と岩など、戦後の県山岳界をリードした。 ◆9月下旬、山梨大山岳部の高室陽二郎らが農鳥岳胸壁を登はん。途中で古い遺体を発見し、翌年8月に収容。 ◆1月、山梨大山岳部が極地法で荒川本谷―農鳥胸壁―白根三山。 ◆8月、角笛山岳会の小野芳雄が赤薙沢で死亡。 ◆6月、北岳池山尾根で東京の斎藤正之がタル沢の雪渓に転落、死亡。 ◆7月、北岳で吉原高定時制山岳部の鶴見厚弘(17)、大村宗作(23)、神尾幸男(22)が遭難、死亡(鶴城山岳会に出動記 録の詳報)。合宿中の甲府一高山岳部が救援作業。同じころ仙丈ヶ岳でも千葉の佐野良松、石川利男、兵庫の吉崎広一 が疲労凍死。 ◆8月、北岳バットレスで神戸大山岳部の中川健司がザイルが切れて転落死。 ◆8月、広河原の徒渉で学生が流され死亡。菅原山岳会がつり橋を設ける。 ◆北岳の北沢上部に県が北岳小屋を開設。昭和40年に稜線に移って北岳稜線小屋を開設した。昭和53年7月1日に稜 線小屋の跡に県営北岳山荘がオープン。 ◆11月4日、夜叉神トンネル貫通。 ◆5月、甲府岳人会の中村哲次郎が間ノ岳で吹雪に遭い死亡。 ◆12月24日、厳冬期南アルプス全山縦走を目指す山梨大隊が白州を出発。元旦に間ノ岳を通過、光岳山頂を踏んで18 日、寸又峡に下山した。 ◆冬、雪稜クラブが極地法で大唐松尾根から農鳥岳に登る。 ◆10月26∼30日、第12回国体の山岳部門が南アルプスで開かれる。 ◆6月3日、北岳バットレスで成城大山岳部の二見泰司が4尾根登はん中、ハーヶンが抜けて転落死。 ◆6月12∼14日、鳳凰山で関東高校登山大会。 ◆6月14日、芦安の案内人名取久平が大崖頭山で転落、搬送中に死亡。72歳だった。 ◆7月25∼27日、からまつ山岳会が農鳥岳集中。アスナロ沢、中央稜、尾無尾根、細沢、無名沢、大唐松尾根、南沢、ア レ沢、荒川本谷左俣など登る。からまつは後に北岳でも大規模な集中登山を実施。 ◆7月28日から、甲府商高山岳部の22人(教師5人、生徒17人)が戸台―仙丈ヶ岳―易老岳を縦走、平岡へ下る。 ◆7月29日∼8月9日、鶴城山岳会が北岳合宿でバットレス集中登はん。Cガリー、中央稜右の無名ルンゼ初登。 ◆8月14日、台風7号が富士川沿いに北上、甲府で最大瞬間風速43.2mを記録。死者66人、不明24人。 ◆9月26、27日、台風15号(伊勢湾台風)。奈良田で24時間雨量335mmを記録。死者15人。この2つの台風で山岳地帯 は大きく変ぼうした。 ◆4月下旬、野呂川の深沢下降点コースが完成。 97 南アルプスと人々の関わり5 表1(6) 南アルプス登山年表 年 年号 1962 昭和37 1963 昭和38 1964 昭和39 1966 昭和41 1968 昭和43 1970 昭和45 1972 1973 1974 昭和47 昭和48 昭和49 1975 昭和50 1976 1978 昭和51 昭和53 1979 昭和54 1981 昭和56 1982 昭和57 1984 1985 昭和59 昭和60 1986 昭和61 1987 昭和62 1988 昭和63 出来事 ◆1月3日、甲斐駒ヶ岳の赤石沢奥壁をアタックしていた東京白稜会の森義正、坪井森次、須藤一雄の3人が遭難死。こ の正月は1∼4日の間に全国で23件の遭難が発生、23人が死亡し1人が行方不明、32人が重軽傷を負った。 ◆10月、芦安から広河原を結ぶ野呂川林道が完成。広河原まで車で入れるようになり、北岳が日帰りの山に。一方、五葉 尾根、荒川本谷などのルートは廃道となっていく。 ◆10月11日、北岳で嶺朋クラブの前田謙一、井上昇が遭難、死亡。 ◆11月4日、間ノ岳から農鳥岳に向かう下りで成城大ワンダーフォーゲル部OBとその知人ら4人が疲労凍死。 ◆1月、からまつ山岳会が厳冬期の北岳バットレスに集中。1尾根から4尾根、中央稜など登はん。 ◆6月1日、南アルプス国立公園、八ヶ岳中信国定公園指定。 ◆7月20日、深田久弥の『日本百名山』(新潮社)発刊される。山梨からは八ヶ岳、雲取山、甲武信ヶ岳、金峰山、瑞牆山、 大菩薩嶺、富士山、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、鳳凰山、北岳、間ノ岳。 ◆12月30日、甲斐駒ヶ岳でブロック雪崩が発生、3人が800m流されて死亡。気象状況は日本海低気圧。 ◆巨摩高が櫛形山の自然観察、研究調査に着手。後に長年の成果を「櫛形山の自然」、「続櫛形山の自然」などにまとめ て発表して反響を呼んだ。 ◆4月、南アルプス巨摩県立自然公園指定。 ◆7月21∼23日、甲斐駒ヶ岳で甲府一高生が死亡。 ◆7月15∼27日、鶴城山岳会が南アルプス全山縦走。 ◆6月6日∼8日、鳳凰山で関東高校登山大会。 ◆6月19∼28日、ソウル大OB山岳部が来県。富士山や北岳に交流登山を行う。 ◆この年から白鳳会が鳳凰山周辺の沢に集中。大深沢、赤沢、立石沢、嘉助沢、シレイ沢、赤抜沢、石空川、アサヨ沢、 荒沢などを登り会報で詳細を報告。 ◆県がライチョウの生息調査に着手。昭和47年まで行い、期間中の出現個体数として白根三山29羽、鳳凰山3羽、甲斐 駒ヶ岳4羽、仙丈ヶ岳7羽を報告した。調査結果は「山梨のライチョウ」としてまとめたが、絶滅の危機にあることを明らかに した。 ◆甘利山で大規模な山火事が発生、レンゲツツジやスズランが大被害を受けた。地元の植栽でツツジは復活したがスズ ランは減ったまま。 ◆10月、嶺朋クラブが北岳に嶺朋ルートを開く。 ◆1月、甲府昭和山岳会が南アルプス全山縦走。 ◆7月27、28日、県山岳連盟が山岳清掃を北岳、権現岳、編笠山で実施。 ◆8月4∼8日、インターハイ山岳部門が南アルプスで開かれる。 ◆9月14、15日、白鳳会が大武川一の沢。これを皮切りに昭和54年まで鳳凰山東面の沢に集中。大武川二の沢・水の口 沢・本谷、大棚沢、黄蓮谷、黄谷右俣、熊小屋尾根、シレイ沢などを登る。 ◆7月1日、山梨県キャンプ地利用適正化指導要綱を施行。キャンプ地が県内山岳全域で指定された。 ◆1月、南嶺会が甲斐駒ヶ岳の赤石沢奥壁を登はん。 ◆7月、北岳に昭和大の小林太刀夫らが中心となって診療所開設。 ◆11月、南アルプス林道が全線開通。芦安―長野・長谷村の34kmを結ぶ。北沢峠周辺の国立公園特別地域内工事を めぐって反対運動が広がり一時工事が凍結されていた。 ◆12月16日、甲斐駒ヶ岳黄蓮谷でアッセントクラブの中根起一(23)、池田照夫(24)が滑落、死亡。 ◆12月20日、甲斐駒ヶ岳の黄蓮谷で表層雪崩が発生し、埼玉「あゆむ山の会」の勝見誠(22)、田中政司(32)、武田薫和 (26)の3人が死亡。気象条件は二つ玉低気圧。 ◆3月22日、甲斐駒ヶ岳で表層雪崩に2人が巻き込まれ1人が死亡、1人がけが。南岸低気圧。 ◆8月1∼3日、台風10号と停滞前線による大雨。北沢峠で768mmの豪雨を記録した。南アルプス林道は164か所で寸 断され、野呂川と大小の沢は土石の崩落で姿が一変した。両俣小屋は濁流にのみ込まれ41人が小屋裏に避難、仙丈ヶ 岳を経て全員無事脱出した。 ◆この年、高山植物保護を目的とした山梨県山岳レインジャーの業務を山梨県が山梨県山岳連盟に委託。 ◆11月18日、甲斐駒ヶ岳の五合目小屋が開設100年の式典。 ◆10月9日、山梨県高山植物保護条例制定。 ◆4月1日、山梨県高山植物保護条例施行。 ◆10月、かいじ国体開く。山岳競技で天皇杯、皇后杯を獲得。山岳競技は12∼17日まで鳳凰山系を舞台に行われ、監 督・選手368人が参加した。県山岳連盟は約200人が連日運営にかかわった。 ◆8月27日、深沢今朝光(元稜線小屋)が北岳でヒメヤナギランを発見。 ◆12月29日∼1月3日、県山岳連盟が創立40周年を記念して厳冬期県境一周縦走を達成。全体を15区間に分けて加 盟山岳会が一斉に入山した。縦走参加者は約110人。支援隊や留守本部を合わせると200人以上が参加する大事業と なった。 98 南アルプスと人々の関わり5 表1(7) 南アルプス登山年表 年 年号 出来事 平成時代 1991 平成3 ◆7月5∼7日、全日本登山大会が南ア北部で開かれる。 ◆1月、種の保存法による希少種にキタダヶソウが指定される。採取、譲渡が全面禁止となった。 1994 平成6 ◆8月7日、北岳でクリーン作戦実施。110人が参加。 1995 平成7 ◆8月5、6日、12∼15日、広河原に安全登山指導所を開設。登山者指導を行う。 ◆8月4日、県山岳連盟が南ア北部でクリーン作戦。 ◆8月20∼24日、インターハイ山岳部門を南ア北部で開催。韮崎高がアベック優勝、都留高男子が2位に入った。県山 1996 平成8 岳連盟の多数が運営に携わった。 ◆夏、南アルプス倶楽部が北岳の大樺沢で汚染状況調査を行い大腸菌を検出。 ◆2月、山梨県が山梨百名山を選定。 ◆4月29日、芦安にクライミングボードが完成、第1回芦安カップ大会を行う。 ◆8月8日、山梨県が8月8日を「やまなし山の日」と決める。 ◆8月26日、環境庁がアツモリソウ、ホテイアツモリソウを希少種に指定。 1997 平成9 ◆8月27日、日本山岳会山梨支部が平成7年から続けてきた「南アルプスの将来像」フォーラムの結果をまとめ、県知事 らに「山梨県の山岳環境の将来について」として提言。 ◆9月24日、県山岳連盟が山岳や登山の研究、安全登山の普及、山岳文化の保存や研究を目的とした「山岳総合セン ター」(仮称)の設置を県、県教委、県議会などに陳情する。 1998 平成10 ◆6月18、19日、甲府で第1回の全国山岳トイレシンポジウム開く。 ◆4月29日、北岳の白根御池小屋が雪崩で全壊しているのを管理人が発見。草すべりで発生し、池で古いデブリに遮ら れて直角に曲がった。 1999 平成11 ◆北岳大樺沢二俣と富士山8合目に夏山シーズン中、仮設トイレを国、県が設置。 ◆11月、仙丈ヶ岳の薮沢カールに新しい山小屋が完成。ソーラー、風力発電装置を導入し、合併浄化槽を動かす新方 式。 ◆3月21日、南アルプス芦安山岳館オープン。 2003 平成15 ◆4月1日、町村合併で南アルプス市が誕生。芦安村分の南アルプスは新しい市に編入される。 2005 平成17 芦安小学校体育館で第6回ライチョウ会議が開かれ、高円宮妃殿下がご臨席される。 ◆南アルプスを世界自然遺産に登録する運動が始まる。 南アルプス世界自然遺産登録推進協議会が関係10市町村により設立。 2006 平成18 構成市町村:山梨県−韮崎市 南アルプス市 北杜市 早川町 長野県−伊那市 飯田市 富士見町 大鹿村 静岡県−静岡市 川根本町 ◆南アルプスに専任の自然保護官事務所が設置される。 2008 平成20 ◆南アルプス学術フォーラムが南アルプス高度農業情報センターで開催される。 99
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