浦川 真喜子

「アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。」浦川真喜子
アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。
9 月 6 日(水)19:00∼20:30 東京会場
講師
浦川 真喜子
アイヌ文化活動アドバイザー
「イカターイ」、アイヌ語で「こんにちは」という意味
仕事が終わった後、毎日朝までやっていました。雑にし
です。「イランカラプテ」という言葉もありますが、浦河
たくなかったので、お手紙をいただいた方には、短い文
地方では「イカタイ」と言います。うちの父も昔から使
章ですが私が書いたお手紙を添えて送りました。
っています。
母の死
今日のセミナーでは、私自身がこの4年間で体験した
ことや感じたことをお話しさせていただきたいと思いま
この本は平成 14 年の9月に出版されたのですが、その
す。アイヌを意識するようになってから特にそうなので
年の1月に母は亡くなりました。入院したのは、その前
すが、北海道の訛りとか、少し雑な言葉使いが出てくる
の年の 10 月です。そこから浦川家の闘いが始まったので
かも知れませんが、標準語では感情を伝えきれないもの
すが、ふだんばらばらだった家族が、一つになりました。
がありますので、あえて使わせていただきたいと思って
母がベッドで寝ている横で、父と私と妹がけんかしなが
おります。
ら、母の最期を見送りました。
衝撃的だった『アイヌの治造』H14 年9月父の自伝書出版
抜けられずにいました。長年手をかけていた母が目の前
私は父の本が出る9月まで、母を亡くした悲しみから
私がアイヌのことを意識するようになったのは、父の
からいなくなって、手が暇になっちゃって、それをもて
自伝『アイヌの治造』という本が出版されたことがきっ
あましていたのです。何をしても涙が出て、茶碗を洗っ
かけです。いきなりだったので、最初のうちは何が始ま
ても何をしていても悲しみが湧いてきていました。
半年が過ぎて、父の本が出るという時に、本に関わっ
ったのか、さっぱり分からなくて、戸惑うことが多かっ
た方々の熱い想いが伝わってきて、私はそこにのめり込
たです。「えっ?何ですか?」という感じです。
それまで私は、父が長年やっているいろいろな活動に
みました。そして、そこで一緒にやることで、母を亡く
触れることは全くありませんでした。どうしてかという
した悲しみから抜け出せたのです。だから、まだ母が元
と、母がとても病弱だったので、幼い頃から母のことで
気でいたら、多分私はアイヌになっていなかったでしょ
精いっぱいだったのです。それに対して、父はとてもパ
う。この言葉はちょっとおかしいかもしれませんが、母
ワフルで元気なものですから、放っておいても大丈夫と
が元気でいたら、私はまだ母のそばにいます。それ以外
いう感じで、私は母のことに集中していたのです。
のことにはあまり目を向けずにいたと思います。
この本が出版される直前に父の家に行ったところ、た
原田さんの存在
またまその日がこの本の原稿を書いた原田さんの命日と
いうことで、この本に関わった3名の方が集まって原田
本の原稿を書いていただいた原田さんとは、生前に一
さんの供養のためにカムイノミをしていたのです。そこ
度お会いしたことがあり「父のことを書くんだ」という
で初めて私は本の出版のことを知ったのです。「うわぁ、
話は聞いておりましたが、それ以外は何の関わりもあり
これは大変なことだ!」と思いました。そこで、出版後
ませんでした。まず、この本を作るのに熱心になってい
どうするかという話になって、私は長女として責任を感
る皆さんは、とても原田さんのことを思っていました。
じて「では私がやります」と言ってしまったのです。そ
みんなが「それっー」って、たくさんのエネルギーを使
して、自宅に 2,000 冊の本がどかっと来て、そこからい
ってこの本を作ってくれました。悲しい出来事(母のこ
ろいろなことが始まりました。
と、原田さんのこと)が重なって、今、私がここにいる
のだと思います。
その後、新聞に「100 名の皆様に本を贈ります。」とい
う記事を東京と北海道で載せていただきました。そうす
ウタリ(仲間)に出会った
るとたくさんの人から申込のファックスが届きました。
一番早い人は、記事が載った日の朝6時前に「記事を見
次に、『アイヌの治造』の出版作業の中で、たくさんの
て、急いでコンビニに駆け込みました」と書いたファッ
人との打ち合わせがあり、中野にある「レラ・チセ」に
クスを送ってきました。
初めて行きました。そこにいたのはみんな知らない人で
何も分からない私ですけれど、そうして送られてくる
した。今まで父がどんな活動をしていても参加しなかっ
ファックスの1枚1枚に書かれている言葉からたくさん
たので、そこで会った方々には初めて会ったと思ったの
熱いものが伝わってきて、胸にこみ上げるものがありま
です。少しかがんだ感じで「はじめまして」と言ったら、
した。その本の発送のための宛名書きの作業は、昼間の
目の前に座っていた人が「真喜子!」と名前を呼びまし
10
「アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。」浦川真喜子
た。この言葉は私の胸にずどんと来ました。何で私は「は
とにかくパワフルです。私たちが小さい頃から、父の存
じめまして」なんて言っちゃったのだろうと思い、すご
在感はとても大きいものでしたが、何かつかめないもの
く恥ずかしくなりました。
でした。父はいるのだけれどいないような、いないのだ
けれどもいるのです。何をやっているのかさっぱり分か
レラ・チセに行く度に、とても故郷を感じました。そ
らないのです。
うこうしているうちに、このアイヌ文化交流センターに
も来ることになって、たくさんのウタリがいることに気
だから、私は、この本に携わってくれた中島さんや写
がつきました。今まで“北海道に帰りたい病”だったの
真家の宇井さん、そして、パーティーでお会いした方々
ですけれど、ここでたくさんのウタリに会うようになっ
に、「何で?」「なして?」と質問攻めしました。「なして
てから、とてもほっとした気持ちになって、東京でいる
父さんそんなに評判いいの?」「何がそんなに?」「何で
ということがすごく楽しくなりました。東京へ出てきて
なの?」、「何で?何で?」と2歳か3歳の子供のように
20 年目にしてやっと、帰りたい病がなくなりました。
質問しました。しばらくそれが続いて、私が父を見る目
と周りにいる方々が父を見る目は全然違うということが
分かりました。
出版記念パーティー(大月ポロチセにて)
大月に父が作ったポロチセがあるのですが、そこで出
とにかく、わがままでパワフルな父なのですが、何か
版記念パーティーをすることになりました。ポロチセと
を始める度に、たくさんの方々がお手伝いをしてくれる
いうのは「大きな家」という意味です。記念パーティー
のです。すごいなぁと思います。そして皆さんには本当
のために、私と妹は前の日から出かけて行って、ポロチ
に感謝に気持ちで一杯です。父の言うことを「うん、う
セの掃除をして、夜通したくさんのイカや魚、料理の仕
ん」って聞いて準備をしてくれる方がたくさんいます、
込みをしました。何年かぶりで、そんな時間を過ごしま
それはもう数え切れないほどたくさんの方にお世話にな
した。東京へ出てきて普通に生活をしていたので、自然
っています。娘として、そのたくさんの方々にお礼を言
の中で一生懸命何かをやるというのは久しぶりだったの
いたいといつも思っているのですが、なかなか言えずに
です。
今日まで来ています。本当に本当に感謝しています。こ
ひと息ついて、夜中に外に出てみたら、お月様が出て
れをどうやってお返ししたらいいのだろうと、いつも感
いて、ふっと下を見ると、地面に月明かりで木々の影が
じています。ウタリの皆さん、シサムの皆さんイヤイラ
いっぱい映っているのです。それが何かゆらゆらしてい
イケレ!
て、とてもきれいに見えました。小さい頃の自分は、そ
何かが変わった
んな世界で生きていたのです。久しぶりに見てすごく感
動しました。20 年間一生懸命だったけど、自分は何をし
それまでの自分は、アイヌが嫌でした。東京に出てき
ていたのだろうなぁと思いながら、一晩過ごしました。
たのは 19 歳になったばかりの時です。東京では「アイヌ」
と言う人はまずいませんが、北海道にいた時、私が歩い
ている後ろで、「アイヌ」という言葉が聞こえると、何か
沢山のお客様
次の日の出版記念パーティーには、電車の乗り換えが
びくっとしてしまいました。自分に向けて言っているの
大変な場所にも関わらず、朝の9時から続々とお客様に
かどうか分からなくて、びくっとするのです。私自身、
来ていただきました。中には、8時前に現れて「チラシ
差別をそれほど感じてこなかったのですけれども、だん
見たから手伝わせてください」と言って、自然と私たち
だん大きくなって、何か毛深いなぁとか、顔立ちが濃い
の中に入って一緒に手伝いをしてくれる男の子もいまし
なぁと感じていたことや、その頃から父は髭を伸ばして
た。
いて、子供のころから、何となくアイヌというものが自
パーティーには 100 人以上の方に来ていただきました。
分の中で嫌なものになっていたのです。
私はその光景を見て、これって何だろう?父さんって何
19 歳で東京に出てきた時は、「外人さんかい?」と聞
なのだろう?と思いました。いやぁ、すごいなぁって、
かれることが多くて、戸惑うことが多かったのですけれ
正直思いました。そこではたくさんの方にお会いしまし
ど、何か得した気分で、それはそれで楽だったのです。
た。
「外人さんかい?」と聞かれた時には、「北海道だよ」と
答えていましたけれど、最近は「アイヌです」と答える
皆さんは目を輝かせて「いやぁ、あんたのお父さんっ
ようになりました。
ていいね」って言うのです。私たち家族にとっての父は、
いつも元気で飛んで歩いてばっかりで、「ねえ」って言っ
本の出版やパーティーの方も落ち着き、その後、仕事
ても、側にいたことがないのです。だから、今でもそう
に行って、家へ帰ってきて、家のことをしてという、い
なのですが、何をやっているのかさっぱり分かりません。
つもと変わらない普段の生活をしていたのですけれど、
「お父さんは何やっているの?」と聞かれても、「さあ」
その中で、わけのわからないことが起きました。とにか
と答えるしかないのです。なにせ、今日と明日というだ
く体中の隅から隅まで、細かく細かく、1カ所ではなく、
けでも、違うことをやっていることがあるのですから。
体中の細胞がうじゃうじゃ動いてとまらないのです。寝
11
「アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。」浦川真喜子
ている時も起きている時も 24 時間、それが何カ月か続き
こうと思ったのですが、近くにいる友達が「私の家に行
ました。その時、自分の中で、眠っている自分と、今の
かない?人も募集しているから」と誘ってくれました。
自分とが闘っていたのでしょうか。自分でも何が何だか
そうして阿寒の「ポロンノ」というお店に行きました。
わけが分からなかったのですが、ある時、ふうっと、「そ
行って初めて知ったのですが、そこにいたのは私と同じ
うか、私、アイヌなんだ。うん、分かった」と心の中で
浦河町出身の人でした。
つぶやいてみたのです。そうしたら体中の騒ぎぴたっと
阿寒へ行くのは不安でしたけれど、迷いはありません
止まったのです。その体じゅうの騒ぎは、たくさんのウ
でした。皆さんは阿寒のアイヌコタンに行ったことはあ
タリに出会ったことがうれしくて起こったのだと思いま
りますか。湖の方から歩いていくと、ばぁーと店が並ん
す。たくさんのお姉さんやお兄さんに会う時はいつも楽
でいて、奥に大きなチセがあって、手前にアイヌコタン
しいうれしい、何か分からないけど、すごく楽しかった
と書いた看板と大きなコタンコロ カムイ、シマフクロウ
のです。そうした中で、自分で意識してアイヌを拒否し
が出迎えてくれます。私は、そこに立った時に、
“すごぉ
ていることに体が反応したのではないかなと思います。
ーい”と思いました。阿寒には幼い頃に家族旅行で行っ
た思い出があり、はっきりとは覚えてはいないのですけ
一番近くにいる人が
れど、真っ暗な中、大きな広場で、大きな輪になって踊
やっと自分で自分のことを認めることができた時(私
った記憶もあります。だから、阿寒に行くことには抵抗
は結婚しておりました)、相手の方が、私がアイヌを意識
ありませんでした。
し始めたことに戸惑いを感じたのです。今思えば、私が
「ポロンノ」に着いて、「こんにちは」と挨拶した時、
私であることに「どうして?」と思いますけれど、その
「ああ、やっと来てくれた」と言われ、ああ、ここに来
頃、アイヌである自分自身に誇りを感じられようにはな
てよかったなぁと思いました。ただ、自分自身がとても
りましたが、そのことに気がつき始めたばかりで、それ
迷っていた時期なので、自分で意識してすごくテンショ
をきちんと伝えることができなかったのだと思います。
ンを上げていたのですけど、時にはひゅうっと下がって
それまで十何年間も静かな生活を送ってきたのに、急に
しまうこともありました。それでも皆さん、温かく見守
本の出版やら何やらかんやらと私自身がとても忙しくな
ってくれました。そのお店には、近くの方々がたくさん
り、家に落ちついていられなくなったことが原因になっ
来て、おもしろいこと朝からいっぱいしゃべって、何も
たのだと思いますが、相手の方はそれが認められなかっ
かも忘れられてすごく楽しかったです。
たのです。でも、そう思うことは悪いことではないと思
しばらく阿寒にいると、「自分はアイヌだけど何もで
います。皆さんもご家庭を持っている方なら分かってい
きないじゃん」と思いました。ムックリもできないし、
ただけると思いますが、やはり家庭というのは、落ちつ
何を聞かれても分からないし、そんな情けない中でも必
いて日々を過ごすことが一番だと思います。それでも必
死にお店の仕事を手伝いました。ああ、私ってアイヌに
死に私の気持ちを伝えました。それでも、どうしようも
なりたいけど、だめだ、なれない、何もわからない、何
なくなって、もう、わけが分からなくなりました。
もできない、阿寒の人たちってすごい、みんなすごい、
東京にいるウタリもみんなすごい、踊りも踊っているし、
迷い
みんなすごいなぁって、うらやましいと思いました。父
私は、保育園で保育士の臨時職員として十何年間働い
があれだけのことをしているのに、何も見てこなかった、
て、日々、保育の仕事に情熱を傾けていたのですが、わ
何も聞いてこなかった、そして、何もできないという私
けが分からなくなった時、子供たちに気持ちを真っすぐ
をすごく感じました。
向けられなくなっちゃったのです。その時、私は「気に
アイヌ、アイヌって自分でこだわっているのですが、
なるお子さん」の介助員をしていました。障害を持つお
いっぺんには皆さんに追いつくのは無理だということを
子さんはとても敏感なので、その子も私の心の中を見抜
感じました。そこで、8月の末近くになって、東京に置
いていました。私が「ちょっと、夏に、北海道に行って
いてきた相手の方に「帰りたい」って言ったのです。私
きていい?」と聞いたら、普段、私がいなければ落ちつ
は帰って、いつものように落ちついて暮らしたいと言っ
かない子で、そういう時は、泣いたり騒いだりして自分
たのです。そうしたら、相手の方が「帰ってくるなら、
に気を引こうとするのですが、その時は「いいよ」って
アイヌのことを全部捨てて帰ってこい」と言ったのです。
背伸びをして言ってくれました。「あなたがそう言って
その言葉を聞いた時は、何とも言えなくて、虚しくて、
くれるなら行ってくるね。」と言って北海道へ帰りました。
その日の夜、アイヌコタンのお店が閉まって真っ暗にな
った中、ベンチに一人で座って泣きました。何でアイヌ
を捨てなきゃ私は生きていけないのだろうかと思いまし
阿寒の迫力はすごい!!
た。しばらくの間、ずっとそこにいたのですが、もう帰
とにかく北海道に帰りたかった。自然の中に入って、
って寝なきゃと思って、泊めてもらっていたフチのお宅
少し考えたかったのです。最初は、大好きな富良野へ行
に帰って、1階で寝ているフチに気がつかれないように
12
「アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。」浦川真喜子
実家へ
2階の部屋にそぉっと上ろうとしたら、いつもは声かけ
て来ないフチが「真喜ちゃん!」と声をかけて来たので
新しい生活を初めて1カ月半が過ぎたころ、まず最初
す。「もう寝るから」と言うと、フチは「何言っているの!
に、手がしびれ始めました。それから胸が痛くなって、
あんた。なしたの、こんな遅くに帰ってきて!こっちに
症状が毎日毎日重くなって、1週間で立つのも大変にな
きなさい」と言うのです。「いいの、もう寝るから」って
りました。働かなきゃ生きていけないのに、胸を押さえ
言っても許してくれません。そして「いいからこっちに
ながら仕事もできない。病院に行ったら、どこも悪くな
きて、あんた飲みなさい」と言って、お酒の飲めない私
いと言われるのです。「でも、立てないのだからすごい病
にビールをついで、夜中じゅう慰めてくれました。
気なんじゃないですか?」って言っても、
「悪いところは
ない」とあっさり返事が返ってくるのです。すごくつら
くて悲しいのですが、仕事に行くこともできません。な
決心
次の日、お店に出ていても、とてもつらい気持ちでい
かなか父に言えずに、自分で何とかしようと思っていた
ました。お客様が途切れた時に、私の様子に気がついて
のですが、とうとう、家賃も払えない、もうどうしよう
いたポロンノの娘さんに「真喜ちゃん、どうしたの?」
がないと思い、真っ暗闇の中、ベッドの中から「父さん」
と聞かれ、「だってさ、帰りたいって言ったら、アイヌの
って電話をしたら、次の日、トラックと父さんがやって
こと全部捨てろって言われたんだよ」って、「何で捨てな
きて、私と荷物を全部自分の家へ運びました。父さんら
きゃいけないの?今まで出会ったたくさんの方々、どう
しい行動なのです。そんな父の姿にほっとするものがあ
して忘れられるの?今までやってきた経験をどうやって
りました。わがままな娘だけど、「父さん」のひとことで
捨てられるの?」って言ってお店で大泣きしました。そ
無理やりにでもそんなふうにする父さんはやっぱり親だ
の時私は決心しました。アイヌは捨てられないって。捨
なと思いました。
てろと言われても、捨てられない。私にとって大切な宝
無心で工事現場へ
物になったのです。
実家に帰った私は、まだ立つこともできないでベッド
で寝ていました。父が夜中に一升瓶を抱えて部屋に入っ
別れ
東京へ帰って、相手の方にそのことを話しました。相
てきて、ベッドの横にどんと一升瓶を置いて、パンツ一
手の方も、別にアイヌがどうこうということではない、
丁であぐらをかいて座って、飲みながら「お前はな、も
とてもいいことだと思うと言ってくれました。でも、自
う仕事行くな!それでも行くって言うならな、お前の両
分は一緒にはできない。だから、一人でやっていきなさ
足へし折ってやる、そうしたら、もうどこにも行くこと
いと言われました。私は、これ以上相手の方に負担をか
できまい」とすごい形相で言ったのです。もうこれ以上
けたくないと思いました。そこで初めてひとり立ちとい
抵抗できない(うちの父さんはやるといったら本当にや
うことを感じました。今から3年前、なぜか、39 歳にし
る)と思ったので「うん、わかった」と答えました。
そこから私は観念して、動けるようになるまで寝てい
て初めて成人式を迎えたような気分でした。
ようと思っていました。そうしたら4日目ぐらいに、父
は妹夫婦と一緒に解体工事の仕事をやっているのですが、
独り立ち
その時は、何も持たずに身一つで家を出ました。とり
私に「お前、水ぐらいまけるべ」と言ってきたので、「う
あえず父のところへ戻り、都合のいいように帰っては出
ん、まあ、水ぐらい撒けるかな」と思って現場に一緒に
て、帰っては出てしていたのですが、私も負けず嫌いで、
行きました。そうしたら、水だけでは済まなくなったの
父に頼ることが嫌だと思っていました。
「私は決心したの
です。最初のうちは、立ったり座ったりしながら、一日
だから、ちゃんとやりたい」という気持ちで、安いアパ
の半分はトラックの中に寝て、落ちつけば水を撒くとい
ートを探して、新しい仕事を探して、裸一貫、父さんも
うようなことをしていたのですが、それから何日もしな
やったのだから私もやってやるという気持ちでした。仕
いうちに、父は木をいっぱい積んだトラックを道の真ん
事も住むところも全部変えて、その時はお金も持たなか
中にどんと出して「ほら、行け!」って言うのです。「は
ったので、本当に身一つだけで何もかもなくなりました。
っ?どこへ?」って言ったら、「いいから行け」。「行って
長年勤めた仕事やご近所で築き上げたものや、積み上げ
何するの?」って言ったら、「行けば分かるから行け」と
てきた十何年間が、全て自分の手から離れたのです。と
言うのです。「ほら、信号が変わる、全く女はとろ臭くて
てもつらかったです。でも、不思議と、何にもないって
嫌だ」、もうその勢いで、私はわけが分からず、どこへ向
楽だなと思いました。すごく気持ちが楽なのです。なぜ
っているかも分からないまま、木を積んだトラックを走
かというと、そこからは下がない、上を向いて一歩一歩、
らせていました。
そんなようなことをして、半年も経つと、丸太を担ぐ
歩いていけばいいんだと思ったら、わくわくしてきたの
ぐらい元気になりました。朝6時前から現場に出るので
です。
す。朝は「ほれ、行くぞ」、「はい」って言って、帰りは
13
「アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。」浦川真喜子
8時、9時です。妹のだんなさんが社長でやっていて、
触れ合うことが多くなりまして、去年、その方と再婚し
「お姉、大丈夫か」と言って、皆で私を見守ってくれま
ました。彼は、私がとても迷っているアイヌのことだっ
した。家族に支えられて、私はとても元気になりました。
たり、父のことを見てこなかったことだったり、自分を
一年間、現場で無心に働きました。そこでは生きてるな
責めている部分をよく聞いてくれて、吸収してくれるの
ぁという実感がありました。とにかく現場に行ったら待
で、私はどんどん楽になっていったのです。彼は彼で、
ったなしで、トラックに木を積んで、積んだら運ぶ、運
産まれながらに障害を持っていることをとても悩んでい
んだら帰ってくる。また積んで、みんなと同じように、
て、でも、私にとっては、ただ車いすに乗っているとい
同じ勢いで日々過ごしました。毎日がすごく楽しかった
うだけで、それ以外は何も変わらないじゃないって。お
です。叔父が北海道からきて、一緒に現場にトラック何
互い自分で気にしていることでも、そのことをお互い気
台もで向う時、父の後から走ったこともない首都高をお
にならない。そんな人と初めて出会ったのです。一緒に
っかなびっくり走っていたのが、現場が忙しくなると追
いてとても楽な人、その方がお嫁さんに欲しいと言って
い越し車線を 100 キロ以上出して走っている自分がとて
くれたので、私は迷いなく、その方のところへお嫁に行
も楽しかったです。
きました。
今日、入り口のところに写真を飾らせていただいたの
ですけれども、去年の9月 10 日に施設の方々が手づくり
光を見つけた
の結婚パーティーを開いてくれました。パーティーの前
そんな中でも、やっぱり私は、保育とかヘルパーの仕
事が大好きだったので、現場で働くより福祉の仕事をし
には、関東に住んでいるウタリの方々とシサムの方々が、
たいと思っていました。まだ父に反抗してしまうことに
アイヌプリ、アイヌ式で結婚式を挙げてくれました。こ
なるのですが、機会を見つけては抜け出して、福祉施設
れは物すごい感動でした。今までもカムイノミというと、
を探して、そこへ足を運んでいました。八王子市は障害
その都度、しっかりと参加してやってきたのですけれど
者福祉がとても充実しているため施設が多いので、探し
も、自分のために行われるカムイノミというのは、本当
てみると、あちこちにあるのです。障害者の方々が作っ
にすごかったです。式が始まるまではいつもと同じ気持
た商品を置いているお店に立ち寄っては、自分が癒され
ちでいたのですけれども、式が始まった瞬間、ずどんと
て帰ってくるという時間を過ごしていたのですけれど、
胸に来るものがありまして、思わず涙、涙。なかなかで
そこの職員の方に「最近よく来ていますね」と声を掛け
きることではないです。アイヌプリで結婚式を挙げられ
られて、「ええ」って答えて、こういうわけで実家へ帰っ
たと、本当に本当に、たくさんたくさん、「イヤイヤイケ
てきたんですけど、いずれは福祉の仕事をしたいんです
レ」「ありがとう」「イヤイヤイケレ」、まさかこんな立派
よねって言ったら、「じゃ、すぐ来る?」って言われたの
な式を挙げていただけるとは思っていなかった。本当に
です。週に1日でもいいからというので、これは良かっ
良かったねって、今でも2人で話しています。ちょうど、
た、やっと私の道が開けたと思いました。
今度の日曜日で1周年記念です。いまだにその感動は胸
の中にいっぱい詰まっています。私たちは本当にぜいた
面接の日、八王子市役所の隣にある木馬工房というと
くな結婚式を挙げて頂いたと思っています。
ころに行きました。そしてそこのドアを開けたのです。
そうしたら、中にいる方々の笑顔がとてもまぶしくて、
穏やかな時間
ドアを開けた瞬間、わあっ、きれい、素敵って思ったの
です。そこは心身障害者通所授産施設なのですが、体の
今まで、父の本が出てから、いろいろなイベントがい
不自由な方もいれば、精神的にとか、いろいろな障害を
きなり入ってきて、右も左も分からないのに、なぜか事
持っている方がたくさん通ってきて作業をしているとこ
務局になってしまい、今までは、それをこなすことが精
ろなのです。すごく皆さんの笑顔がまぶしくて、そこに
いっぱいだったのです。けれど、自分の中では、それを
引き込まれました。そこへ週に1回でも行けるというこ
一つ一つ丁寧にやっていきたいと思っているのです。わ
とになり、とてもうれしかったです。そして、自分自身
あっーと事が進むというのは、私にはとても負担が大き
がとても恥ずかしくもなりました。現場で働いるとは言
く、もっとじっくりやりたいと父に言っても、父はパワ
っても、やっぱり父の世話になっている自分自身が情け
フルなので、いろいろなことを持ってきては「真喜子や
なくなりました。施設で作業をしている方々を見たら、
れ」、「真喜子やれ」と言うので、そういったことに一度
自分よりも大変な思いをしている方々が、こんなに、し
区切りをつけようと思ったのが、つい最近です。「もう私、
かも笑顔で過ごしているところってすごいと思いました。
何もしたくない」と宣言したくても、それがなかなかで
私は、そこへ行くたびに、みんなからエネルギーをいた
きないと縛りつけていたのは自分だということに気がつ
だきました。
いたのです。人のせいではないのです。自分で「もう私
やめるの」って宣言して、そして楽になってから「さぁ
てとっ」って、また始めたいのです。これからは、スピ
出会い
ードの中でいた自分をゆったりした自分に変えていく。
御縁がありまして、そこの職員、車いすに乗った方と
14
「アイヌ民族を意識してからの私。そしてこれからの私・・・。」浦川真喜子
できないことは、できない。でも、やれることは全力で
やる!そういうふうにしていこうと思います。
これから・・
私自身が変わることができたのは、たくさんたくさん、
いろんなことを感じたからです。失敗したことも、上手
にできたことも、うれしいときも、つらいときも、いろ
んな経験をして、いろんな体験、いろんなことを感じた
からです。それはたくさんたくさん自分を見守ってくれ
る人がいたからできたのです。ウタリ、仲間という言葉
がありますが、アイヌである、アイヌではないというこ
とは、私には関係ありません。今まで私と触れ合ってく
れた方、皆さん。多分、その時その時に、私が喜んだり
悲しんだり嫌だったりしていたと思いますけれど、その
都度、私にいろんなことを投げかけてくれました。だか
ら、自分が自分でいられるようになったというのは、た
くさんの方のおかげです。本当に本当に「イヤイヤイケ
レ」「ありがとう」、いつも心の中で思っています。
そこで気がついたのは、本当に大切なものは目に見え
ないんだということです。すぐそばにあってもそのこと
に気がつかないで、毎日毎日を忙しく過ごしている、そ
んな自分をやめて、ちゃんと、一番そばにある、一番大
切なものがあるということをきちっと感じられる自分に
なりたいと思います。
時々、北海道の結城さんとお会いするのですけれど、
真喜ちゃんたちのこと北海道でよく聞くよって言ってく
れるのです。自分がすごいなと思っている人からそうい
うふうに言われると、すごい勲章だなぁと思います。自
分の見えていないところでも意識してくれているって、
すごくうれしいと思います。だからやっぱり、無理なこ
とはしないと言いつつ、そばで、遠くで、仲間が頑張っ
ているのを見ると、私もやりたい、絶対そうなっちゃう
のです。よきライバル心、でも、やっぱり一つ一つ丁寧
にいろんなことを積み重ねていきたいと思っています。
今日のお話は、このぐらいにしておきたいと思います。
ありがとうございました。(拍手)
15