科学研究費助成事業中間報告書

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科
2012~2014 年度
学
研
究
費
助
成
事
業
中
間
報
告
書
科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)
基盤研究(C) 北海道における朝鮮人の移住
アイヌ民族とつながりにおける重層的
アイデンティティー
苫小牧駒澤大学国際文化学部
准教授
石
純姫
<研究目的>
表層的には、均質で単一な文化・社会と思われがちな日本においても、長い幕藩体制期
の中で形成された地域における多様な言葉や慣習が、近代国民国家の成立と共に完全に均
質化されたわけではなく、多様な文化を呈している。更に、在日朝鮮人やアイヌ民族や少な
くない定住外国人など、異なる民族や文化を重層的に内包している。
グローバル化の進行に伴う経済的格差の加速は、世界各地において移民排斥などをはじ
めとする排外的ナショナリズムを増殖し、複雑な分断と摩擦が、日々生み出されている。日
本においては、帝国主義時代の植民地統治や委任統治などに伴う異民族支配を行い、多民族
国家日本を標榜していた。しかし戦後、植民地が解放され、日本は単一民族であるとする主
張や移民受け入れを制限する政策をとっており、日本政府は日本には人種問題は存在しな
いとする見解を一貫して表明し、多民族・多文化社会に対応する制度には消極的である。そ
れに伴い、マイノリティの人権、社会参加の機会などを保障する制度と社会的意識は十分と
はいえない状況である。
とりわけ、近年、急速にレイシズムを煽動する言説や行動が顕著になってきており、アイ
ヌ民族の存在そのものを否定する言論もネットや漫画を通じて広がり、ヘイトクライムも
深刻な状況にある。このようなごく最近の状況については、すでにいくつかの詳しい分析が
行われている。
(岡和田晃、マーク・ウィンチェスター編著[2015]『アイヌ民族否定論に抗
する』河出書房新社、樋口直人[2014]『日本型排外主義』名古屋大学出版会)
北海道においては、先住民族であるアイヌが、朝鮮人と深い繋がりを形成しており、マイ
ノリティのアイデンティティーが複雑に交錯している。本研究では、現在の北海道における
マイノリティの重層的な形成過程を歴史的に考察するとともに、現状におけるアイデンテ
ィティーの問題点を探り、多様性に満ちた日本文化の諸相を明らかにすることを目的とし
て行われている。
在日コリアンを形成する朝鮮人の日本への移住については、従来、強制的労務動員を中心
とした研究が多かったが、近年では、戦前からの日本における人口移動全体についてまとめ
た研究が出されている。
(蘭信三編著[2008]『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』不
二出版)また、北海道における研究としては、戦時期の強制労務動員についての調査を中心
とした報告書がある。(朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会・札幌学院大学北海道委
託調査報告書編集室編[1999]『北海道と朝鮮人』ぎょうせい)。これらの膨大な研究調査の
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蓄積から、朝鮮人の移動と移住の実態が明らかにされているが、その歴史的背景のなかの小
さな個別の事実が、世界の各地における近代の普遍的事実に繋がるものであることを本研
究では明らかにしたいと思う。それは、帝国主義が作り出した、被植民地の人々と先住民や
マイノリティの人々との深く複雑で多様な繋がりである。
近代期における近隣諸国から日本への人口移動と移住は、植民地支配や戦時期の労務動
員などの歴史的要因が大きく関わっているが、北海道における朝鮮人の移動は、石のこれま
での調査により、通常考えられている植民地化された 1910 年よりもかなり遡ることが明ら
かになり、前近代期からのアイヌ民族との深い繋がりも大きな要因として考えられる。(石
[2005]『胆振・日高地方のアイヌ集落における朝鮮人の定住化について―近代化のなかの
アイヌ民族と朝鮮人』2005 年度財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構研究助成報告書、
石[2007]「前近代期の朝鮮人の移動に関する一考察―北海道における在日朝鮮人の形成過
程とサハリンアイヌの関係を中心にー」『苫小牧駒澤大学紀要』第 18 号、145~166 頁)
こうした明治期の早い時期のアイヌ民族との接触により、朝鮮人の定住化へと繋がる可
能性が高い。戦時期の労務動員以前に日本に移住した朝鮮人は、戦後も日本に定住すること
になる場合が多く、特に北海道においては、定住化の形成過程とアイヌ民族との間には深い
繋がりがある。アイヌ文化を伝承する朝鮮民族の女性も決して少なくはない。
平取や静内、新冠における聞き取り調査を進めるなかで、北海道における朝鮮人とアイヌ
民族との繋がりは、前近代期から戦時中だけでなく、戦後も、より密接な関係を築いている
ことが明らかになっており、マイノリティ社会のなかでも、さらに複雑な連帯と抑圧と排除
が再生産されている。
先に述べたような、アイヌ民族否定論が拡散するなかで、マイノリティの重層的な関係性
を明らかにすることは、近代におけるアイヌ史の見直しとともに、在日コリアンの形成過程
においても、新たな視点を提示するものと考える。そしてそれは、日本社会・日本文化の多
様性という視野からも新たな展開をもたらすものと考える。
2012 年度は、平取におけるアイヌの方々の聞き取りを中心に、静内、新冠での聞き取り
を行った。2013 年度には、苫小牧駒澤大学での学術シンポジウムの開催と同時に、平取町、
鵡川町穂別、札幌、千歳におけるアイヌ民族と朝鮮人の繋がりに関するフィールドワークを
行った。2014 年度は、淡路・鳴門地域での聞き取り調査と文献資料収集と同時に韓国済州
島での調査を行い、さらに平取を中心に聞き取り調査を行った。当初、計画していた、サハ
リンでの聞き取り調査が不慮の事故や様々な日程の関係で実現できず、中止となった。
本中間報告は、3 年間における聞き取り調査の抜粋である。平取を中心に、アイヌ民族と
朝鮮人の具体的な繋がりについての貴重な証言が多く得られたものと考える。また、樺太ア
イヌの方々の複雑で微妙な状況についても、多くの示唆を与えられた。
民族として生きてきた人々の言語に絶する過酷な状況を生き延びた状況、それを支援し
た人々の貴重な経験を、現在も進行している、アイヌ民族や在日へのヘイトスピーチに対し
て、反論の実証として提示するものである。
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<聞き取り調査中間報告>
山道照男氏(グリーン園芸代表)
1933年長都生まれ
2012年6月16日
山道氏宅にて
昔は、この辺でもアイヌが毛深いっていうことだけでも、和人に追い詰められて小学校に
も行けなかった時代があった。だから、学校に行くふりして山に行って一日過ごしたことも
あった。自分の体験したことは他人にはやっぱりわからないけれど、そういうことがあった。
そうした時に、朝鮮人が「何も私ら守っていくんだから、何も遠慮しないで学校行きなさ
い」とか言った。家は朝鮮の人と知り合いが多かったもんだからね。アイヌの人は毛深いか
ら朝鮮の人と一緒になれば、一番いいんだとかって、そういう悪口とかもシャモから平然と
言われた。わしらは、「アイヌ、アイヌ」って木に登っても、石を投げられたりしてシャモ
の子どもたちにいじめられた。
だから、我々は、純粋なアイヌじゃなくて、アイヌには間違いないけど、困っていた朝鮮
の人たちとか、いろんな困っている人とかを炭焼きって、窯作って炭を作っていたもんさ。
そこで、手が足りないと、そういう朝鮮の人たちは、桂の大きな木の根っこに寝泊まりした
りしてた。その桂の木もまだ、ここにあるよ。
そうやって、朝鮮の人は苦労したと思うよ。親父が山の木を伐ったら、それを朝鮮の人た
ちは山のてっぺんまで登って下ろして、それで炭を焼いてね。今もいっぱいいるんだ。朝鮮
の人たちは。金田さんは、何もやることがなかったから鉄くずを集めれば、なんとかなるだ
ろうと思って。国さ帰りたいことしか頭になかった。苦労すればするほど。朝鮮の人たちは
本当に大変だったけど、うちは朝鮮の人たちのおかげで炭も焼けたし、みんなに温かく迎え
られた。シャモの人たちは、そうは受け取らないんだ。アイヌは毛深いから朝鮮と一緒にな
ればいいんだってしょっちゅう聞いたよ。
朝鮮の人は、ここで南蛮を植えて、それを食べながら茶飲み話をしてたよ。「俺は騙され
て日本に来て、飯もなくて、苛められて、そして山道さんのおかげでこうして何年かでも生
きてきたんだ」って、よくそういう話はしてたよ。
昔、振内には、クロムもあったけど、金山も二か所も三か所もあった。募集っていって、
後からは騙されたりして連れてこられた朝鮮の人たちがいっぱいいた。幌毛志のトンネル
を掘ったのは、ほとんど朝鮮人だよ。そうやって、死んだり死にそうになったりした人は穴
掘って埋められたりした時代だから。我々は朝鮮の人が涙流していたのを見た覚えがある。
覚えてるだけでも、朝鮮の人たちは多かった。朝鮮の人は仕事でもなんでもやるけど、わか
らん事やれやれって言われても、できないんだよ。それを叩きつけて働かせていた。
昔、タコ部屋っていうんだよ。振内にあったんだよ。幌毛志のトンネル掘らされてた。夜
になると、犬が吠える。そうすると、タコが逃げたんだということがわかった。そういうの
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も覚えている。小学校5,6年生の時だな。トンネル工事もその中で鍛冶をやって、金属を
曲げたり加工する人たちがいて、それを直す人とそれを運んでいく人と、そういう朝鮮の人
を見た。親父はそうやって逃げてきた朝鮮の人を匿って炭焼きをさせていた。親父はその炭
を馬車で千歳まで売りに行った。
桂でも板谷でも、中が大きな空洞になっていて、昔、ガッポっていって、その中に煙突立
てて朝鮮の人たちが住んでた。
戦後もそういう朝鮮の人たちは、結構、残ってて、今いうウタリの人と結婚して、二風谷
なら二風谷で農家したりして住んでいた。そうやって、アイヌと朝鮮の間に生まれた子ども
も多くて、シャモとアイヌとの間にできた子どもと、半々くらいだった。茅葺きで雨がもれ
ないようにしたり、火焚いて煙を上さあげて、そうして過ごして、朝鮮の人を匿うには、家
を黒くしておかなければならない。そうしないと、見つかるから。炭を焼いて、そこに人が
いることがわからないように、黒くした。だから、家の親父は朝鮮の人たちからしてみれば、
神様みたいなもんだ、匿ってやってたからね。だいたい、馬車で炭を売ったら、帰りは食べ
られるものをなんかかんか買ってきて、みんなに食わせてやっていた。平取や穂別のあちこ
ちにも、その頃、親父が匿っていた朝鮮の人たちは、今は、そうやって住んでいる。家の親
父の妹と結婚した朝鮮の人も五、六人はいるんじゃないかな。炭焼きは、ひとところにいな
いから。あっちに移動したり、こっちに移動したりして。木のいいところに釜を構えて住ん
でいたんだから。でも、馬もない、何もないから、家の親父は買い付けさ。冬になったら、
馬橇で米積んで。朝鮮の女の人は割と少なかった。親父のところには男の人が多かった。
朝鮮の人は真面目でも、和人には受け入れてもらえなかった人もいた。いいとこだけとっ
て、悪いとこだけを朝鮮の人にやったりして。
当時は、差別がいちばん多かったな。そうやって逃げたりしてきた朝鮮人と毛深いアイヌ
の女性は、逆に一緒になりたいというのも多かった。朝鮮の人たちにしてみれば、死にもの
狂いで働いて、家族をもってやってきたけど、何一つ持たないで、朝鮮に帰った人も多かっ
たよ。子どもをおいて行った人もいる。そうすると、この辺では、アイヌの爺さん婆さんに
育てられて。一人前になって、漁場で人を使うようになったら、朝鮮に帰っていく人やここ
に残った人もいた。そういうような状態なんだ。
今まで、そういうことを聞いてくる人もいなかったから、わしも八十になって、いきなり
思い出すことはできないくらいたくさん、朝鮮の人たちとの関わりはある。アイヌと朝鮮の
人との会話は本当に心が通ったものだったと思っている。
山道きし子氏
1935年長知内生まれ
2012 年 6 月 19 日
二風谷にて聞き取り
朝鮮の人がたが来るんだわ。3,4 人で。お腹空いたって。それでうちの母がね、人がい
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いものだから、言葉はわからないんだけど、家には入れないけど、ご飯でも何でも食べられ
るものはあげるんだわ。そうしたら、喜んでね。それはよーく覚えてる。10 歳か11歳の
ときくらいだね。
夕方になったら、豚預かってたから豚の青草を取りに、川原に行くんだよね。そしたら道
路を 5,6 人で歩いて来てた。幌毛志から歩いてて来てた。逃げてきたんじゃなくて、昼間
働いてて、仕事が終わったら夕方くらいに来るんじゃないのかね。そのときは米ばっかりな
んて食べられないから、何でもいいから食べれるものをやってた。
そして、逃げてつかまったら、生きたまま埋められるんだってね、その仕事してるところ
に。そうやって聞いたよ。線路作ってたでしょ。そこに埋められるんだって。生きたまま。
そうやって日本人も人使って酷いことしたんだね。子どもながら聞いて覚えてるよ。
朝鮮の人たちは、別に怖いとも思わなかった。けど、ある時はね。、女の子が殺された。
うちの親戚でおじさんがいた。わしらと同い年くらいの男の子と女の子がいるおじさんで、
家から少し離れたところに住んでたことがあったんだわ。いつも腰にマキリをつけて歩い
てるおじさんなんだわ。幌毛志の朝鮮の人たちがいる飯場に出前みたいに行って仕事して
た。私らが夕方、川原で豚の青草を採ってたときに、おばさんたちが馬に乗って馬でおじさ
んが来て、
「おまえらエイコ見なかったかい?」と聞くの。
「見ないわ」ってわしら答えたの。
エイコって長知内のエイコ姉ちゃんエイコ姉ちゃんって言ってたの。
「エイコ姉ちゃんなら、
わしら見なかったよ」って、わしらは帰ったの。したら次の日なったら、エイコ殺されてた
って。自転車が道路にあったんだって。それも全部覚えてる。
朝に富内さ使いに行ったんだって、エイコ姉ちゃんはね。自転車で。どっかで幌毛志のず
っとこっちで石炭を掘ったところがあったんだって。坑内って。そこにいたらしいんだね。
その人はね。そしてエイコ姉ちゃんが行くのを見ていて、夕方帰ってきたときに自転車がパ
ンクしてそしてそこで殺したんだね。
そしたら、おじさんが疑われて。おじさんが夜、家さ来て、泣きながら「俺はね、毎日調
べられて調べられて、もし俺がどうかなったら子どもら頼むぞ」って。泣きながら言ってる
のも聞いて覚えてるの。もう一晩か二日生きていればよかったのに、次の朝になったら、そ
の犯人が捕まったって。今もあるけど、昔、駅逓って旅館みたいとこで、そこのところで捕
まって。そしてそのおじさんは知らないの。おばさんが走ってあがってきたのさ。で、わし
とわしの弟と子どもだから後ついてったの。そしたら、戸を開けたら、わしらこのこっから
見えたの。鉢巻して首吊って。したから、もう一晩生きててくれたらね。そういうこともあ
った。
そしたら、その人は娘が朝自転車で行くのを見て、帰りは自転車を押して歩いてくるのを
見て、後をつけてきて。強姦沢ってあるんだ。そこで殺されて、そこで逆さまにしてた。
それでそこで葬式もした。
疑われて自殺したおじさんは、川奈野たまやんたまやんて言ってら。長知内の人で。
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幌毛志にはでっかな飯場があったんだわ。今行けば、わしはわかるけど、国道のふちだ。
後から来た義理の親、父親は朝鮮だった。父親は早く死んで母親が再婚した人が朝鮮の人だ
った。金原って言ってたけど、本当の名前は知らない。金原エイコンって言ってたんだわ。
したけど、違うね。忘れたわ。わしが14も15になってから母親が再婚したんだ。
金原は二風谷でアイヌの人と一緒になってたらしい。子どもも二人いた。飴を売りに歩い
てた。それで長知内まで売りに来るようになって、母親と一緒になった。そうしたら、母親
も一緒になって飴作りさ。飴作るのには、でんぷんさ。それから、もやし。でんぷんを買っ
てきて、でっかな鍋でまぜて煮る。ざるかなんかで漉して煮詰めるんだよね。そして飴が出
来るの。その飴をわしは全部売りに歩いた。
そして、それを長年やってて、それから雑品屋を始めた。免許取って車買って、そうやっ
てやってた。そして振内で家を建てた。家の母は豚を飼ってたものだから、それを始末して
12 月に振内に来て、母親は脳溢血で一気に行っちゃったの。58 歳で。3 月に死んでしまっ
た。新しい家に三ヶ月くらいしか住まなかった。
金原はひとりでいて、振内でも雑品屋をやっていて、今度は内地から働きにきていた若い
女と世話されて再婚して、七十なんぼで亡くなった。平成 7 年に亡くなった。青森からきた
女で、その人も何年かしたら死んだわ。子どもは出来なかった。
だけど、根性は悪かった。だって私ら奉公って出されるっしょ。農家の家に。お金はみん
な持ってくの。それで、お金残して、昔のオホコツナイで住んでたとき、そっから長知内に
来て、子どもら 3 人も奉公に出すっしょ。わしも妹も弟も。それで長知内に家建てたもの。
だから金原がなんぼ一人で頑張ったって、家なんか建てられないっしょ。子どもら働いたや
つみんな**なんだもの。
それでいて、嫁になったって布団一組くれるわけでもない。根性悪かった。自分の懐を一
生懸命。私の母親なんか、なんにもお洒落するわけでもない。ただ金残すだけ。
母親はアイヌとシャモの混ざりで、父親はアイヌ。父は36だかで死んでいるから。農家
なのに身体弱くて、振内の病院まで歩いて行くんだよね。ひとりで馬飼って農家してやって
たもんだから。
長知内はアイヌが多かった。朝鮮人はあまりいなかった。金原と、市川と荒川と金田って
人ともうひとり、4 人か 5 人か、内地からグループで来たんじゃない。あちこちから、みん
な若かったから。金原だけが転々と結婚して。みんな平取町でね。
金田さんはね、結婚しないで東京かどっか行って、金残してるって。荒川さんから聞いた
話だ。「きしちゃん、金田は金残して立派にやってるわ」
金原は働いてきた金はそっくり持っていく。私は着るものだってなんだって自分じゃ買
えなかった。自分が買ってきてやるっていったって、そんなの気に入るわけないでしょ。文
句たれた。母親は何も言えないっしょ。昔の人だから、自分で好きなもの買うなんて言えな
いでね。そいで俺が買ってくるって、金はみんなとられちゃって。服だって、12,3 の子ど
もが着るような服買ってきたってさ。
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わしは農家の仕事をずっとしてた。田圃とか畑。冬は飯場のご飯炊き。なんでもしてきた。
農家の家にいたら、豆腐屋だったの。朝起きてわしが豆腐作らされるの。だから、いろいろ
なことしてきた。貫気別では冬、飯場のご飯炊きに行くの。貫気別で丹野さんているけど、
丹野さんが豆腐屋だったの。豆腐作って雑貨やって、そしたら今度わしが欲しいのさ。今度、
冬来てくれって。そこの家にいって豆腐も作った。
いちばん最初の思い出は、今でも忘れられないのはあるよ。家の姉が死んだとき、自殺。
若い女の子はみんな飯場に行くの。わしも親戚の荷負でいたんだわ。姉が 3 月入ってから
ね、来たんだわ。二晩くらい泊まっていたの。そのあと死んだって知らせきて。飯場生活だ
から男の人いっぱいいるっしょ。内地の人に騙されてたって。お腹大きかったんだと。19
だわ。
もともとは川奈野で、岩手の人で高橋と結婚した。それもこっちに働きにきて、私はご飯
炊きしてて、知り合って一緒になったの。22 歳で結婚した。山道と結婚したのは昭和 43 年
だった。
家の母親は 58 で死んだときに、金原は 40 かな。18くらい母親が上だった。母親は金
原が二人めだから。だからやっぱりよその人に言ったと。きし子の親がいちばんよかったと。
金残すことを。年が上だから。母親はハルヨといった。最初の結婚は18で、金原と再婚し
たのは、43くらいだった。金原は25で。
市川さんもアイヌと一緒になって、荒川さんもアイヌと一緒になって、島さんはシャモの
人と一緒になって。金田さんていう人はね、私、好きだったの。お互いに好きだったんだけ
ど、うちの金原が年若いから、奉公にいったっしょ。一回会いに来たんだわ。でもそれっき
り。でも、荒川さんが、金田は東京に行って金残して立派にやってるわって。お互い好きだ
ったもの。金原が家にも入れないっしょ。
荒川さんもアイヌの人と一緒になって、子ども四人だか出来て、奥さんのほうが先に死ん
で、荒川さんは桂園にしばらく居て、そして亡くなった。男の子四人だかいるって。
市川さんて人は、荷負にいて子ども三人だか出来て、そのうちに男の人を自分の妻に紹介
していなくなったって。そのおかあちゃんはまだ生きてる。荷負で。でもあまり人とは会わ
ない。ちょっとおかしいんだわ。人とあまり会話しない。人をよせつけないんだ。紹介した
人は朝鮮人ではなかったんじゃないかい。その人はあまりいなかったんじゃないかい。
島さんて人は本村(ほんそん)の遠藤さんていう人の娘をもらったというより、反対され
て反対されて、平取で食堂やってたの。体格のいい人でね。そのうちに駆け落ちした。遠藤
さんたら、立派なシャモの家で、父親は町会議員にも出たりするくらいの娘だもの。反対す
るっしょ。朝鮮たらね。
朝鮮人がアイヌと一緒になると、朝鮮がどうのこうのって、差別されるの。やっぱりう
ちの母も言われてたみたい。それはアイヌの人から言われた。朝鮮と一緒になってどうのこ
うのって。でも、金を残したから、金を借りに来る人もいるんだわ。したから、最初は悪く
言ってたけど、長年つきあうといい人だってわかってくるし、お金も持っていれば貸してく
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れるし。なんせ、金を残すためには動く人だったから。
金田さんとは一緒に歩いたことも映画を見たこともない。ただ、来るんだけど、自分が出
れないっしょ。振内でもご飯炊きしてたから、来てくれるんだけど、自分が出れない。そし
てそのうちに春になると農家に行くと、三人くらいで会いに来たんだわ。それっきり会って
ない。きれいな人だった。金田さんは、やっぱりやさしい言葉かけてくれて。あの人たち 3,
4 人、親の家に泊まってたりしたものだから。やさしい人だった。
金本さんていう人もいたけどね。長知内でアイヌのおばさんと。その金本さんていう人が
ね、私たちがオホコツナイにいたとき、空き家があったの。そこへ来たんだわ。そうしてる
うちにそのおばさんが子どもを連れて訪ねてきて。訪ねてきてっていうより会いに来て、そ
のうち長知内に住むようになったの。二人か三人連れてきたの。そして子どもが 2,3 人で
きたよ。その金本さんのおばさんと。だけど、そのうちに向こうさ戻って。穂別のほうに戻
った。
ここに田川さんていう朝鮮のおじさんがいたんだわ。それでも、田川さん死んだときも、
金原は来ないもの。同じ朝鮮でもね。
わしは長知内で 2,3 年いてから、ここに来たの。
わしら、そうして子どもの頃、幌毛志から来るっしょ。言葉がわからないから。向こうの
言葉でしゃべっているから。母は何かを食べさせてやりたい。なんでもいいから食べられる
もの、やってた。高台さ、上がってくるんだもの。家の母は子どもいるから働かなかったら
家の中で座ってるような親じゃなかったから、まず、見えたら、ものをやってた。言葉がわ
かんないから。会話が出来ないから。腹が減ってるのは分かるんでしょ。
金原は一回、朝鮮に帰って行って来てるよ。母死んでから、向こうから弟連れてきたんだ
って。それで一緒になったその女をパチンコ屋に連れていくんだと。したら、向こうからき
た弟はパチンコも何もわからないから、焼酎くれっていうんだって。しばらく里帰りみたい
にして行ってきたって。姉も来たって。そして向こうから朝鮮人参だとか持ってきたりして
たわ。
石井ポンぺ氏(原住・アイヌ民族の権利を取り戻すウコ・チャランケの会代表)
1945年1月
穂別イナエップ生まれ
2012年 9 月 10 日札幌にて聞き取り
ちょっと遅すぎたよね。当事者というのは高齢になって、死んでいる人も多いしね。もっ
と早ければ、80 年代ならまだみんな元気で 70 代だとか。北朝鮮にも連れていきたいと思っ
たこともあるけど、もう年をとっちゃってね。個人情報であるので、私が知っている限りの
ことをお話したいと思います。
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私の故郷は穂別というところで、樺太からの引き上げのアイヌの人がいた。名寄に一旦寄
って、それから穂別の私のコタンに来たおばあちゃんやその家族もいた。また強制連行され
てきた朝鮮の人たちも割合多かった。私の叔母と結婚したのも、強制連行で連れられてきた
人。
私の姉と結婚したのも、そういう人で、義兄だった韓という人と結婚した。その人は夕張
炭鉱で兄弟二人で、義兄は兄貴で弟の方は亡くなったみたい。で、子ども二人を残したみた
い。その弟の子ども二人を連れて私の姉と結婚したの。住んでいたところは静内だった。
叔母と結婚していた林という人も朝鮮人で、その人の紹介でうちの姉も結婚した。またう
ちの叔父さんの奥さんも朝鮮人なのね。割合、アイヌの人と朝鮮の人の結婚は多いのね。う
ちの身内では、その三人が朝鮮人だけど、朝鮮であることを名乗ると、学校でも社会でも苛
めにあって、アイヌや朝鮮はいつでも苛めにあっていたからね。それであまり自分たちの子
どもに対しては、朝鮮だとかアイヌだとかということはあまり教えないようにしていたの。
でも、うちの姉の子どもたちは、義兄の子どもたちは札幌の朝鮮学校に入った。当時は月
寒にあったのね。今は福住のほうに移ったけれど。そこに子どもたちは三人入った。それで
私はよくその学校の運動会に行ったり、子どもたちがお金がないといったら、お金を持って
行ったりね、そうやってそこの学校を卒業して、今は一般の社会で働いて、ほとんど東京と
かそういう方面に仕事に行って世帯を持ったりしてるしね。
私は昭和 35 年に義理の兄の山子の「てこ」をしていた。当時は飯場というのがあった。
「てこ」というのは、チェーンソーで木を切ったり、枝払いをするとか、荷物運びとか油運
びとか、そういうことをする。私は中学校を卒業してすぐ、そのてこをやった。それが二年
の
や
続いたのね。それから東静内のペテカリさんというところで仕事をした。一番最初は農屋、
たんざんざわ
アイヌ語ではよもぎの意味ね、湛山沢でてこをし、それからペテカリさん、三石のホンキリ
という山で、最後には北見の留辺蘂、イトムカ鉱山のあるところ、そこは朝鮮の人がたくさ
ん亡くなっているでしょ。石北峠の八合目の飯場の最後の仕事をやってた。17になったか
ら札幌に来た。てこをやっていたから力もついて、仕事を自分でやろうと思ってこのまま山
にいてはいけないと町に出ることにした。中学を卒業していなかったのは、中学にいくと、
みんな日本人の子どもたちで、三池炭鉱とか本州から来る炭鉱の子どもが多いのね。当時は
穂別にも炭鉱があったの。だからみんなそういうところからくる子どもは日本人。私にして
みれば変な顔ばっかり。俺らと意見が合わない。俺たちをくさいとか。くさいの当り前だよ。
朝、キトピロというね、日本人はアイヌネギっていうキムチみたいなもんだよ。そういうも
の食ってトウキビ食ってかぼちゃ食って学校に来るんだから、くさいの当り前だ。だからく
さいだとか、犬くさいだとか、アイヌくさいだとか、そうやって苛められた。それが昭和3
2,3年だよ。
小学校ではそういう苛めはなかった。小学校はアイヌの子どもが多かったから。ルペシペ
小学校、今は和泉小学校になったけど、もとはルペシペ。日本語では和泉小学校だったけど、
俺たちはルペシペって言ってた。和泉には安田のレモン婆といって、うちの親戚だけど、薬
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草とか沼のもの川のもの山のものだとかいろんなもので、人を治した。出産のときもその婆
さんをよぶと痛みも少なくて安産だと言われていた。そういう医学博士みたいなお祖母さ
んがいた。どこのコタンにも呼ばれて、産婆さんをしたり、病気を治したりしていた。この
おばあちゃんには子どもがいなかったから、私の兄貴を子どもにもらって育てていたりし
て。明治になって戸籍法が出来た時、子どもがいないところは土地がなくなってしまうから
ということで、子どもをもらってそういう財産つくりをしたと思うんだよ。
小学校はルペシペ小学校。中学校は穂別中学。中学に入ると苛めがあった。今は苛めがあ
ると自殺とかするでしょ。ここに問題がある。なぜ、私は学校に行かなかったか。私は学校
に行くふりをしてかばんを持って家を出て、一日どこにいるかというと川とか沼。川で魚を
つるとか、沼で沼貝を採るとか、山で山のものを採取するだとか。学校行ったふりして時間
どおり帰るんだけど、親もちゃんと知っている。親は何も学校に行かないなら行かなくても
いいというかんじでね。親と一緒に山や川や沼に行って、山の木の見方とか、川との付き合
い方とか沼との付き合い方とか、そういう自然とのつながりについて学んだ。学校では絶対
に教えてもらえないことは親から学んだ。だから今でも四季のなかでどういうものが、どう
いうことになっているかがちゃんと頭に入っているから心配ない。そういう学校では教え
られない自然の学びは親から教えてもらった。
アイヌ語は話したけれど、札幌に来ると、全体のアイヌが集まっていると、「そんなこと
はない」とか「そういうのは嘘だ」とかとなる。私たちの穂別では子どもの揺りかごのこと
を「ホチッポ」というの。ところが、浦河の方では「シンタ」といって、全然違うの。そう
すると、そんなアイヌはないとか言われたりする。そのうちにアイヌ語の辞書を作るという
ので、アイヌ語が統一されちゃった。日本の全国では中央の標準語でたとえば東京の NHK
の言葉で統一されているかもしれないけど、東北弁、九州弁、沖縄の言葉があるとなってい
るのに、なぜ、アイヌの言葉だけが統一されなければならないのか。アイヌ語もメナシ・ク
ナシリと東・西のアイヌは言葉がみんな違うんだけど、統一しちゃうからダメなんだよ。コ
タンコタンの言葉があっていいと思うんだけど。それで私は、そのアイヌ語教室で学ばない
と言った。自分のコタンの言葉の方が大事だと思うから。そこには参加しなくなったの。
昭和37年、1962年、職を求めて札幌に出てきた。手に職もなく学力もない。今、ハ
ローワークになっているけど、当時、職安に行ったら、中学校卒業でもいっぱいあったの。
それで釜焚きってあったの。防水のコールタールを溶かすドラム缶を半分に割って、どろど
ろにコールタールを溶かす、その仕事があったの。仕事は選べない。その当時、仕事がある
ということで喜んでやった。それは大林組の下請けのビルの屋上とか風呂場とかの防水工
事。ススキノ時の風俗店とか、個室の風呂の防水やビルの屋上の防水とかね、そういう仕事。
網走の税務所とかね。当時はどんどんビルが建ってきたから、そういう仕事に携わった。そ
れも二年間。それもやっぱりこういう仕事をやっていても、同じことの繰り返しで教育を受
けていない。それで、39年、東京オリンピック、その時に自衛隊に入ったの。真駒内の自
衛隊に入って、そこで教育を受けた。字を覚えて数字を覚えて。で、その先生は、私の先輩
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でもあり後輩でもある、同じ隊員だった。夜間学校に通う生徒たち、その人たちが今教師に
なった。夜帰ってくる9時頃ね、自衛隊では消灯になるので、部屋の消灯延期という申請を
出して、学生がくるのを待って、電気コンロでお湯を沸かしておいた。腹を空かせた隊員た
ちが帰ってくるとまず、お湯でカップヌードルを食べるの。そうやって腹ごしらえをして1
2時頃まで勉強する。その時に、数字だとか足し算だとか掛け算を教えてもらった。そうし
て初めて中学の教育をそこで学んだ。土曜日曜は自衛隊が休みだったから、試験問題だとか
を持ってきて解答をわかるまでちゃんと教えてもらってね、そうやって、数字を覚えたのね。
そこには5年半いたのね。5年半いて、札幌市役所の試験を受けたら、試験受かって、技能
職員という車の運転手の試験に受かって、環境局、それから公園管理課とか、そして平成5
年に小金湯にあるアイヌ文化交流センターそこに人事異動があった。
そこで作品を並べて、仮オープンさせた。アイヌ協会の会員が制作した作品、支部役員幹
部は札幌支部の人たちは、それは自分の作品だから勝手に移動したらいけないと。それをや
ると国土交通省は建物に対して管理が一年遅れていた。オープニングが。いよいよ監査が入
る時期になってきて、私は10月に人事異動でそこに来て作品を並べて、そして12月の1
9日にマスコミ呼んで仮オープンさせたの。作品は、市の職員、課長や係長は触ってはいけ
ないというふうにして、学校で作品をロックしていた。何億円かで作品作ってみんなお金は
もらっているんだけど、ロックしちゃったものだからオープニングが一年遅れちゃった。建
物が。そして12月25日に本当のオープンをして今の館がそのままあるわけ。私はそのま
ま7年間勤めてそこで定年になった。
自衛隊の5年半でいろいろ勉強する機会があったんだけど、隊員はみんな本州から来る
の。北海道の地形、アイヌ語がわからない。そこで、私の出番があった。そこでは本州から
来る幹部は何もわからない。北海道のことや道路のこと。そこで私は一番偉い隊長の運転手
に私がついていって、そうすればアイヌ語で書いてある地名は私が知ってるから。今日はこ
こから函館行こうとか松前行こうとか、それで隊長は忙しいからヘリコプター。私は下を走
って行って飛行場で拾おうとかね。そういう仕事ばかりしていた。夜中に走ることもあった
り。自衛隊にいた頃は、個室をもらって電話もつけてもらって、いつもネクタイをして、そ
うやっていたの。真駒内の基地には、他にもぼちぼちアイヌはいたね。白老や二風谷のアイ
ヌの人もいたし、沖縄から来た人もいた。みればだいたいわかる。二風谷の A さんは私の
先輩で音楽隊をやっていた。いつも見ていて、あの人はいいな、いつも人に見られるような
場所にいて、と思っていた。それで市役所に移ったら、またその人も市役所にいるの。で、
私は言ったの「A さん、自衛隊にいた頃、よく見てたよ。トランペット吹いていたよね。夜
空の何とかを吹いていたでしょ」と。その人とは環境局の運転手を一緒にやっていた。アイ
ヌの人で市役所に入ったのは、その人と私だけ。今いない。今、札幌で1800人の職員い
るけど、アイヌの職員はいません。アイヌ協会も推薦していません。アイヌ協会が推薦して
入れれば本当はいいんだけど、枠のなかで。私は試験問題とかいっぱい提供しながら、今の
共同利用館で勉強させたけど、札幌の人事課の部長とも会ってアイヌの人たちは、教育はあ
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れだけど仕事だけは真面目にちゃんとやるから枠の中で採ってくれと。それでも採らない。
それが札幌市の姿勢なんですよ。議員枠っていうのはある。誰それの議員してる人っていう
のは一杯いるけど、アイヌの市の職員は見たことがない。私の知っている限りは二人だけ。
その先輩も定年になったし。
今の支部長の B さんに、やっぱり雇用対策で、市の現用部分でいいから入れなさいと言
っているのだけど、そういうことはしない。自分の身内だけは支部や道の公務員にいれたり
するけれど、市の仕事も全部自分の身内のなかでやっている。
仕事っていうのは、生存の基盤だからね。特に私たちアイヌは、どこの民間に行っても差
別されるんだから、今でも。明治の時に私たちを同じ日本人としましたよといってもね、日
本人ではないんだから。顔、骨格が違うんだから。どこの企業に行ったって、また調査して
あいつはアイヌだとか。私の例だけをいうんだけど、私の子どもが小学校行って、小学校の
高学年になった頃いくと、みんなが「あそこのうちはアイヌだ。お父さんアイヌだ」ってね。
子どもたちはわからないんだけど、親たちが教えるんだね。それは差別。だからアイヌの子
たちって、ちゃんと教育受けてるのは、ほとんどいないですよ。これだけはいっておくよ。
アイヌと結婚する人、女性の人。まともな人はまともなんですよ。そうするとちゃんとした
教育ができる。
私の結婚のことだけど、私が市役所に入ると、周りが結婚について心配する。もう結婚し
なきゃならないと、紹介してくれる。行くと、その女性の人はいいのだけど、家の人は「う
ちの家系にひびく」と。
「アイヌと結婚すると、私たちの先祖の家系にひびくといってお断
りします」と。私は、また次選べばいいと思っていた。仕事で会った子とかとボーリングし
たり、つきあったりしても、見合いも13回したけれど、結婚となると、親が反対する。仕
事はいいんだけど、アイヌであるということで反対される。開拓の日本人としての自分たち
の親戚や身内に悪いとこういう繰り返しがずっと続いた。三重から来ていた出稼ぎ農家の
女性も、見合いに行くのもいやだったけど、向うの方から断ってきたからよかったなと思っ
て。ほとんどがアイヌであるということで断られる。ある人は一升瓶持ってわざわざ断りに
来て。一升瓶だけ置いてけって。もらって飲んだよ。逆にこちらには、先住民というちゃん
とした誇りがある。私に言わせれば、あなた方勝手に人の土地取ってね、土足で上がりこん
でそこで食いつないでいるようなものだと思っているから痛くもかゆくもない。
いよいよ13人目の人のところは、私たちは北海道に開拓に来たんだと、家の娘もらって
くれという。そうかといってもらったら、学校行ってない、教育うけてないっていうことだ
ったの。今度はこちらが断ろうかと思ったけど、もう27にもなるし、そこの家庭はいろい
ろプレゼントしてくれるし、白石の店をやっている家だった。北海道に来て、北海道の鉱物
を荒らしたのは私たちだったんだという。これは理解があるなと思っていたら、教育を受け
ていない娘だったという。子どものとき盲腸になって回復が遅れて小学校の時はずっと入
院していたんだって。嫁の生まれは美唄の開拓で入って来た。で叔父たちは納豆屋をしたり
岩見沢で大きな牧場を経営したりしていた。
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私も教育を受けていなかったし、嫁もそういうことで学校に行けなかったし、子どもたち
にもちゃんとした教育を受けさせられなかった。でも、子どもたちが学校に行って、参観日
に行くとみんな「あれはアイヌだ」と言われる。小学校の時からそういうふうにされてしま
う。昔の苛めはそれだけだったけど、今の苛めは自殺問題にまでなってしまう。家の子たち
は、そんなこと言われたって、事実アイヌだから、アイヌが何悪いことしたのかって、その
ことは子どもたちに言ったからね。
朝鮮差別もあって、子どものとき、家の親戚の朝鮮の子どもたちと私は必ず苛められた。
「チチョーセン、チョーセンってパカにするな。チョーセンが何悪いことした。
」って。朝
鮮とアイヌ差別は一番多いですよ。だから、強くなればいいけど。
本州行って解放同盟の人とつきあえば、みんな部落の人たちはやくざより強いんだと。そ
ういわれるけど、本当はそうではないわけね。今の橋本市長になって、職員は刺青は全部禁
止しているわけでしょ。それもまた差別の問題になってくるし。そういうことが北海道では
平然とあったんですよ。だから安心して明治の時に日本人になれと言われたけれど、安心し
て教育を受けることが出来なかった。
日本人だと思ったことは一度もない。なぜ、日本人の名前を書かなければならないのか。
私はポンぺならポンぺでいいのに。外国に行くようになってわかったのは、パスポートに生
年月日を「昭和」で書いていたら、タイの空港から3時間出られないの。日本の通訳が来て
間違っているのはここですよ、と。あなた昭和20年と書いてあるけど、私たちの国は西暦
なんですと。タイのチェンマイまで一人で行って、初めてそれで分かった。「昭和」って使
マ
マ
っているのは日本だけなんだ。天皇陛下が悪いんだって。「昭和」って使ってるってこと自
体が間違っていると思った。
姉の子どもで朝鮮学校に通ったのは三人だったけど、一人は長野県で働いてる。みんなち
ゃんとしっかり仕事をもってやっている。姉との間に生まれた子どもは12人いる。だから
弟の子ども二人を合わせて14人。だから子ども手当なんか、それだけで食べていけたんだ
から。
でも、義兄は駆け引きがうまくなかった。麻雀やってまけてばかりいた。当時、「帰還」
ってあったでしょ。静内前からも、たくさん北朝鮮に帰っていった。昭和37年ごろね。そ
のときは、まだ義兄と山子をやっていたから。一度帰るってなったの。でも私は反対した。
向うへ行ったら、おそらくもう二度と帰ってこれないよと。そうしたら、東京の赤坂にも同
胞たちがいるから。義兄は山子で設けて土地も買って家も建てたけど、麻雀で一晩で負けた
ので、静内の土地を少しでも売って、トラック一台買った。家の上の姉も反対して、俺もだ
めだと。向うへ行ったら誰も見てくれないと言った。
で、出発したんだけど、今度は上の姉の反対で、姉も一緒に乗って、トラックの後ろ、子
どもたち数人と乗って、行ったところが福島。福島にもそういうアボジ(知り合いの意味)
たちが居て、仕事を先導してくれて。長万部にホルモンやってたアボジがいてそういう同胞
マ
マ
たちの導きで福島に行ったの。福島でまた儲かったの。青函トンネルの雑品集めとか、ホル
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モンをやって一旗上げた。そして東烈は自分の国に行ってくるといって行けるほど稼げた
の。韓国の馬山に行った。
福島での義兄と姉のホルモン屋は繁盛してた。福島の新幹線駅前で一軒しかなかった時
代だから。義兄は年を取ってその頃はもうあまり働かないようだったけど、姉がホルモン屋
でよく働いた。福島で家を五軒建てて、今は店を一軒だけ残して子どもたちが処分したけど。
東烈は一緒に山子をしていた時、よく言っていた。「俺は炭鉱で6ポンドハンマを持って
毎日掘ってたから手がぺったらこくなった」って。あと頭の後ろをよく棍棒で叩かれたから、
「馬鹿になるかその前に逃げるかだった」ってよく教えられたよ。棍棒で叩かれると、もう
そのままになっちゃうんだって。もうそこから脱出もしなくなる。馬鹿になる前に、逃げて
生き延びるか、ということで、逃げてきたという。強制労働は辛かったんだね。
子どもを残した弟の方は、日本人と結婚したみたいで、弟が死んで日本人の母親がいなく
なった。それで、東烈がひきとって、弟の子ども連れて静内でいるときに家の姉を紹介され
て一緒になった。姉は連れ子も自分の子どもも区別なしに一緒に育てた。
朝鮮人たちは、「茅葺逃げれ。茅葺に逃げれば生き延びれる」って小川さんも言ってるけ
ど、茅葺はアイヌの家だから。
もうひとつは朝鮮戦争の時期、私は5歳くらいだったかな。家の茅葺の二階に煙たい茅葺
の中に二人いつも隠れていたよ。その人は金山、金海っていう人。背の高い人。夜になると
そおっと出ておしっこしたりするのね。夜になるとランプの明かりの下で食事をしたりし
ていた。他の人には家に人がいることを絶対に言うなと、親から言われていた。その前に家
には外にポチがいるの。犬がね。よそ者が来ると吠える。それで、すぐわかるのね。身内な
のかよそ者なのか。金山さん、金海さんは私を高い高いしたり、屋根の粘土の中の萱を引っ
張って、背が高かったから、自由に萱を引っ張ってその実を食べたりしていた。25,6歳
くらいだった。冬に来て、萱の実を食べる頃だから5月6月くらいまでは、そうして家に隠
れていた。
静内の御幸町のアパートに林という口を染めた婆さんがいたの。その人も朝鮮人と結婚
した。割合多いよ。戦時中だけでなく、戦後もそうして朝鮮人と一緒になったアイヌの女性
は多かった。
石
1960年代に北朝鮮に帰還していった人々の中に、朝鮮人と一緒になったアイヌの
女性がいたということも聞いているのですが。
それは、いたよ。向うにいったらまたそれで口に刺青していたりして苛められたりした
かもしれない。1985年に北朝鮮に行った。通訳の金さんという人が、アイヌはなぜ刺青
をするのかと聞かれた。それは結婚した女性がするものだという文化なのだと説明したら、
「それは悪い文化ですね」と言われて、これはだめだなと思ったよ。何も勉強してないなと
思ってね。
14
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石
その時、北朝鮮へ渡ったアイヌの女性に会うことはできましたか?
会えない、会えない。その時会ったのはね、田宮。よど号の。その時の団はね、平和統一
の岩井さんという人、朝鮮総連の団長は若林だったの。私たちが泊まっているホテルに呼ん
だの。当時は NHK の記者も一緒で、映像を撮りたいということになって、撮るんなら日本
で映像流すと嘘だと言われるから平壌のスケートの小屋をバックに田宮と対話しようと。
で、そのフィルムを持ち出したのは私なの。私だったら調べられないから。その映像フィル
ムは私のバックの下に入れて成田空港に来て、成田で渡したの。新聞記者とかカメラマンた
ちはテープだけは、私のところに隠したの。それで放映されたんだよ。毎日新聞の C さん
という記者だったから記事にもなってる。初めてアイヌが北朝鮮に行ったということで。そ
のとき小川さんと相談して、平壌に行くのにアイヌの文化を伝えるのにどういうものを持
って行ったらいいかと。そこでイナウがいいということになって、小川さんに作ってもらっ
た。それは妙高山に持っていった。今もあると思うよ。妙高山には世界から贈られたものが
あるから。それから平壌の小学校に行って、アイヌのムックリを演奏してきたりしたけどね。
戦後強制的に北海道に移住させられた樺太アイヌの人たちは穂別のイナエップというと
ころに住まわされた。御婆ちゃんは亡くなったけど。
安田さんの話をするよ。10歳くらいのときだった、その頃、天気予報とか今のようなも
のはなかった。じゃあ、明日の天気はどうなるのか、安田の家に行って聞いてこいっていう
のね。6キロくらいあるから1時間以上かけて聞きに行った。安田のアボジは背の高いお父
さんで、結婚した人はアイヌの人、その人は長知内から来た人。その人と結婚して三軒屋で
住んでいた。安田、木下家の二軒しかなかった。
私は安田さんの所へ行って「家の親が明日の天気を聞いて来いっていわれた」と大きな声
で言うと、東を見たり空を見たり上下みないけど、こうしてみていてね、
「明日はいいてろ!」
そのまま、家に帰って「明日はいいてろ!」って言った。天気予報のない時代、安田のアボ
ジの天気予報はよくあたった。周りのアイヌの人たちから尊敬されていた。
それを聞いて次の日亜麻を干すことにする。翌朝8時くらいには霧がかかっているけ
ど、仕事を始める。10時くらいになると霧が晴れていい天気になる。亜麻っていうのは一
日かけて干さなければならないので、だからその作業にはとても天気が大事にことで、雨と
か曇り空では一切かけらない。亜麻っていうのは、雨に当たるとすぐ黒くなっちゃう。当時
は亜麻が非常に流行っていて、一等品、二等品、三等品で四等品になったら金にならない。
だから安田の爺は天気予報士だったのね。ラジオがあったとしても当時はね、雨が降ったら
穂別鵡川の電柱はなぎ倒されるんだから、電気なんかいつもあるわけではなくて、ラジオな
んか聞けなかった。昭和34年伊勢湾台風、その前の洞爺丸台風は、昭和 29 年、月曜日だ
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ったんだよ。函館で転覆多くの犠牲者が出た。8歳くらいだったのだけど、空から「三つの
歌」が聞こえてきた。電気がコタンにないんだよ。でも、すごい風と空の上から宮田輝の司
会で「三つの歌」が聞こえてきたんだよ。台風の背中に。だから電離層ってそのまま聞こえ
てきたんだね。電気なんて半年に一回くらいしか来なかった。だから電気が入るとみんな手
を叩いて喜んだんだから。100ワットか60ワットの電球でも。
灯はランプも電気も太陽も月も大切な宝です。
田澤
守氏(樺太アイヌ(エンチウ)協会会長、社団法人北海道アイヌ協会札幌支部副支部
長)
1955年生まれ
2012年8月7日
札幌市にて聞き取り
日本的に考えると、アイヌというのは北海道限定じゃないですか。そうじゃないよって。
日本のどこに住んでいたかは、みんなが明らかにしないだけで、日本全国に住んでいたかも
しれない。可能性としては高いと思う。エンチュ(樺太アイヌ)だって、樺太だけに住んで
いたわけじゃないと思う。移動して歩く。海洋民族でもあるし、狩猟採取民族でもあるし、
その土地に生かされてなかったら、他の土地に移って生きていく、生きていかざるを得ない
移動せざるを得ないし、その土地で他者と交わるし、北海道アイヌとも日本人とも交わる。
北海道アイヌの人たちはどの辺に一番多く住んでいるかというと、日高、太平洋側ですよね。
オホーツクと日本海側に北海道アイヌの人、どれだけいるだろう。
石
清水さんから伺った話では、留萌では1970年代で4,5人だったということでした。
それも系列でいったら、北海道アイヌではなくて、樺太アイヌ系です。天塩、留萌、小樽、
余市、松前、サンナイ。オホーツク文化っていうじゃないですか。樺太の西海岸と東海岸と
あって東海岸の方はどっちかっていったらオホーツクの沿岸。西海岸は日本海なんですよ。
その交易のルートを辿るとエンチュなんですよ。山丹交易とかっていうのは、樺太アイヌを
経由してくるじゃないですか。で、たぶん西からの方が多かったと思うんですよね。冬でも
凍らない。オホーツクの方は流氷が入って。
石
田澤さんご自身が自分を樺太アイヌと意識するようになったのはいつ頃からでしょう
か。
意識し始めたのは、大きな組織が小さな組織を区別というか差別しているというような
無視する状況がずっと続いている中で、樺太アイヌの主義や主張や立場をどうすればいい
のかっていうことを悩んでいた。違いは違いとして分けた方がはっきりするのかなって思
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うようになった。北海道アイヌの仲間のなかでも、みんな知っているのだけでど、これほど
ここ2,3年、エンチュとしての違いを主張してきたのはなかったと思います。なぜかって
いうと、国連で採択された先住民宣言を達成させるためにも今は北海道アイヌの権利を回
復してから、その次の段階でエンチュはいいじゃないかって言われた時に、指導者たちや政
治家たちからも言われた時に、もうこれは違うなと思った。こっちができてからこっちって、
じゃあ、いつ出来るんですかって話じゃないですか。そうじゃなくて、お互いに高め合って
協力して権利を回復していかなければいけないと思って、そうして強く言い始めた。アイヌ
であるという自覚とエンチュであるという自覚はずっと一緒だった。物心ついたときから
ね。
生まれたのは稚咲内です。ちなみに稚咲内の意味は、飲み水のない川という意味です。そ
こに移住せざるを得なかった。ということは、人間の住むところじゃないじゃないですか。
北海道に来た自体が強制移住だったから、そこからどこに住むかということはその中で選
択をせざるを得ないんで、前段で強制移住ということになります。歴史的にいろんなことが
残っているけれど、エンチュの側からみれば、全て違うと。政治家がどういおうが、私たち
が望んだことではないので、全て違うと私は思う。
千島樺太交換条約で強制移住させられた樺太アイヌとは違って、残留した樺太アイヌだ
ったんで、戦後強制的に北海道に移住させられたわけです。で、私がよく考えるのは、日本
国籍を取ってしまった、そこから樺太アイヌがいなくなってしまった。いるんですけど、世
界の歴史の中で国家が出来た時に、人の命は地球より重いと言われながら、そんなのウソだ
ろうと。私たちがどこかに従属するんじゃないから。当り前に自然の中で行かされているの
に、それが出来なくなったときから、本来の狩猟採取民族の価値というかな、本来の生き方
と異なるような生き方をせざるを得なくなった。世界中のここ500年、コロンブスの時か
ら始まっている世界中の小さな民族といわれる人たち部族なのか民族なのかわからない、
その人たちの末路が始まっていったなと。樺太アイヌについても、確かに生きています。血
を引くものは。でも、本来の意味で、自分たちが生きたいような生き方をしている人たちは、
ほとんど絶滅したと言っても過言ではないと思います。
樺太アイヌは強制移住の歴史なんですね。対雁ばかりじゃなくて、樺太の島の中でも、日
本やロシアの政府の都合によって集められる。私のルーツでいえば、タランドマリ。そこに
何十世帯も集める、そういうことを日本政府はした。そこには対雁に連れていかれた樺太ア
イヌが帰ってきたものや、北海道から行った北海道アイヌもそこに集められた。
ただひとつ、北海道アイヌと樺太アイヌの大きな違いは、北海道アイヌは「旧土人」じゃ
ないですか。樺太アイヌは「土人」で、
「旧土人」ではない。政策的にも大きな違いがある。
だから一緒にされることには、絶対に過ちがある。日本人になっても旧土人ではなかった。
もともと日本人にならなくてもよかった。そこまでは自由に生きてた。でも、百何十年から
も、それは「奴隷」ですよ。場所請負制度とか。サハリンでもそうだった。
親からは、樺太の話ばかり。稚咲内は飲み水がない川、一年の内に狩猟採取ができる期間
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も本当に短いんですよ。樺太の場合は、漁のできる期間も長いし、自然が豊かであるという
ことは食べ物も豊富にある。ただ、日本人が入っていって、米とか、対雁がいい例だけど、
悪くいえば、餌付けされたみたいになった。
もっといえば、うちはエンチュですけど、日本の着物を樺太アイヌが着ていた。高級なも
のをいっぱい持っているんです。私は1955年日本で生まれてから写真が一枚もないで
す。小学校上がるときに初めて写真を撮ってもらった。でも、私より16歳年上の姉がいる
んですけど、8 人兄弟の末っ子なんです。樺太で生まれて育っているその姉は赤ん坊の写真
がある。写真といえば、樺太の写真ばかり。みんな着物を着て。豊かだったんですね。でも
姉は日本に来て、差別された年代だったから、今、樺太時代のことを話すことは難しいと思
います。
一番大きな問題はそこなんです。北海道に来て北海道アイヌに差別されたりした。北海道
に来て、うちの親父が豊富の支部長だったんだけど、当時の北海道ウタリ協会の理事長から、
支部長会議の打ち上げの席で、樺太アイヌなんてアイヌじゃないって、田澤なんてアイヌじ
ゃないっていう発言があったりね。アイヌの踊りを親父がちょっと見せたら、そんなのはア
イヌの踊りじゃないって。樺太の踊りと北海道アイヌの踊りと違うんです。違うことを認め
ようとしないんですよ。踊り方は優雅なんですよ、向うのほうが。どっちかっていうと大陸
の方に近い。北海道アイヌとの関わりよりもニヴフとかウィルタとか、そっちとの関わりの
方が多いと思います。
稚咲内じたいがいい例で、北海道アイヌはいないんですよ。樺太アイヌが一番多い時で、
人口の 6 割から 7 割くらい。和人と比較した場合、二風谷よりも人口密度は高い。研究者
はよく、稚咲内に来たりしてましたけど、でもなかなか入れないっていう。入り方の問題っ
ていう。
国でやっているアイヌ政策の審議会がいい例で、あの中にエンチュは入っていませんか
ら。やってやってるっていう、樺太アイヌのこともちゃんとしてるよって。でも何も伝わっ
てこない。うちらがどういうことを望んでいるかって聞いたかいって。私は樺太アイヌの協
会を立ち上げて会長になっていて、北海道アイヌ協会の札幌支部の副支部長になってる。二
十年ちょっと前は支部長もしてました。理事長たちとは一年間、大喧嘩をして。
差別の構造って、これからも変わらないと思うんですね。私が小さいときに、近くに兜沼
っていうところがあって、そこに朝鮮の、今で言うとどういう表現になるのか、雑品屋さん
がいて、そこから一年のうち何回か来るんですよ。たぶんあの人はわかってて言ったんだと
思うんだけど、「チョーセン、チョーセン、パカにするな。同じ釜の飯食ってどこ違う」っ
て。その時に、子どもたちの前で笑いながらわざと言っていた。稚咲内は樺太アイヌの方が
多いんで、日本人の前で言うよりも、まだ素直に言えるんだろうなって。私は素直に受け取
っていたんで、ああ、この人朝鮮人なんだって。
稚咲内じたいが樺太アイヌが多かったという特殊性もあって、学校の場で、小学校・中学
校の授業の場で樺太アイヌとかアイヌのことを授業のなかで教えなかった。それは教職員
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の中でそういう申し合わせがあって、教えちゃだめだって。それはつい最近、二十年くらい
前まで。私がテレビで NHK のプライム10とか北海道スペシャルとかに出て、稚咲内親子
四世代、私たちの家族を含めて出た時に、小学校の担任の先生から電話がかかってきて、涙
声で謝ってました。その後に教職員の教研集会で話を聞かせて下さいって、呼ばれて話をし
た経験があります。それから少しは取り組むようになったとは思うんですけど。その後にそ
の当時の理事長を呼んでシンポジウムをやったり、歴史を聞いたり、カノウキ、アイヌの音
楽家の中ではメジャーなトンコリ奏者、その人が音楽活動を始めたのは稚咲内から始めた。
そうやって少しずつ内なる改革を始めたのは二十年前から。
稚咲内の村の中にいるとアイヌはマジョリティだけど、町に行くとマイノリティ。町に行
くと隠したがる。豊富町内に行くと、自分たちは今さらアイヌって言われてもっていうふう
になる。小学校は稚咲内で、中学校に入ると豊富に行く。差別に関しては、私はあまり経験
がない、鈍感なのか、「熊」って呼ばれても、毛深いからなのかなって思ってた。アラブ系
って呼ばれてた。ただ、稚咲内の人たちが差別されていたのはあったでしょうね。はっきり
出てた人。アイヌの顔をしていた人もいるし。逆に同じエンチュでも、アイヌの血がすごく
出ている人と、朝鮮の人って髭とか少ないじゃないですか。朝鮮の顔に似ている人がいた。
それは混ざっていた。ロシアの血もまざってた。私も入ってるし。国と国とのことばかりじ
ゃなくて、朝鮮族も移動してるじゃないですか。大陸の中での半島にいるわけではなくて。
チンギス・ハーンが世界で一番領土を広げていた頃、日本にも来るじゃないですか、朝鮮
半島を経由して。そして神風が吹いて。いわゆる元寇。あれって、すごく都合がいいことし
か伝わっていないけど、北からも来ているんですよ。樺太経由して。そういうのは出てこな
いですよ。元寇の時、朝鮮の人がどうなったのかっていうことはわかってないし。
今、怖いと思うのは、日本では一方的な見方しかしないんだな、と。北朝鮮のことにして
も、北朝鮮が全部悪いわけじゃないし、政権として成り立っているのだからそれを干渉する
方がおかしいし、それは北朝鮮人民の問題であって、こっちの問題ではない。人民がおかし
いと思ったら変えるしかないんで。アメリカがいろんなところに政治介入して、それに追随
して日本も行っているじゃないですか。石油が出るところを中心に自分たちの都合のいい
ように、別に政治介入しなくてもいいところにイスラムだとかなんだとかに介入している。
自分たちはアーメンだとか言ってそして戦争を起こしている。人を殺して。そういう人を信
じられない。
私の仕事関係のお客さんもみんな、私が樺太アイヌでエンチュで動いていることを知っ
ていて、応援者がいっぱいいるので、尚のこと自信を持って言い続けます。子どもたちもそ
れを見てるし、子どもたちも自分でその気になったときはやるだろうし。
「アイデンティティ」ってことば、私はすごく大嫌いなんです。なんでだと思います?日
本人がいろんな場面で、
「アイヌのアイデンティティって何ですか?」って聞く。でも、日
本人としてのアイデンティティって言ったためしがないの。言わなくてもいいと思ってい
るんですよ。自分たちが何者かっていうのを、当り前に日本人であると捉えているのかもし
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れないけど、何者であるかといえないあなたたちこそ何人なんですかって。
人間としてどう生きるのかが大事であって、私はこう生きるんだよ、私はこういう立場で
こうやって生きるんだよということは決められると思うんですけど、北海道は今の時代も
植民地です。今でも本州のことを「内地」って言いますから。私も北海道では「外来種」で
すから。
被差別部落の人たちもルーツをたどれば朝鮮人が多いということも聞いていますが。結
局アイヌもそうですけど、朝鮮の人もこの日本の社会の中で生きられない時に、行くとこっ
ていうのは、だんだん狭まっていくじゃないですか。被差別部落の中ではずっと差別されて
きた歴史があるので、日本人に対する憎悪が同じ日本人なのに、日本人どうし差別するのは
おかしいんじゃないか。日本人からアイヌが差別されるのは、ありうるだろう。でも、日本
人同士で差別するっていうのは、どうなのか。昔から階級制度があるけれど、それだけでは
ないだろうな、っていう気がしています。
アイヌの中でも、白老や平取の人たちはエリート意識がある。はっきりわかるじゃないで
すか。雰囲気としても。ただ血を引いているだけではアイヌじゃないっていう人もいる。大
学の中にも。梅原剛や藤村久一がアイヌでただ血を引いたのはアイヌじゃないって言い方
したじゃないですか。じゃあ、あなたは何者ですかって。あなたに、そういう人たちの生き
方を決めてもらいたくない。どういう環境でそういうことにならざるを得なかったかと。そ
ういう人がアイヌを研究してご飯を食べているんですよ。研究者は自分のための研究なん
ですよ。それだけは認めます。自分が好きで研究しているんだからそれは権利としてあると
思います。ただし、まだ生きているアイヌの人たちに影響力があるので、発せられる言葉に
は責任を取ってほしい。それだけは大事なことだと。生き方も決めつけられることじゃない
と。二十数年間ずっと思っている。研究者がいること自体が許せない。
映画とかテレビドラマとかよくある。例えば日本人がアイヌのとこに子ども捨てていっ
て、カムイ外伝とか漫画でもあるけど、そこで育ってアイヌじゃないけどアイヌ以上にアイ
ヌになった和人とかが出てくる。ストーリーになりやすいじゃないですか。当り前じゃない
から。それがすごくもてはやされるとか。アメリカの映画でもインディアンに育てられた白
人が主人公になったりとか。それがもてはやされたり。そういう話は実際にあったことだけ
ど、そういうのを見るたび、なんでインディアンじゃだめなの?アイヌじゃだめなの?
樺太犬もわかります?白瀬矗の南極探検隊。タロ、ジロは南極観測隊。昭和 30 年の話
でしょ。探検隊は対雁に来たヤマベヤスノスケさんと金森シンイチさんという樺太アイヌ
の二人が犬を飼っていて、その時に樺太から樺太犬を大量に連れてきて、まあ 60 頭くら
いだと思いますけど、でも、実際はその何倍。その人たちが来ている防寒具。裏も表も樺
太犬なんですよ。それを一着作るだけでも何匹犠牲になっているのか。かける人数分なん
ですよ。それって誰も批判もしない。白瀬矗さんがすごく素晴らしくてそれに協力した人
も持ち上げてはいるけれど、そうじゃないだろうなって。その犠牲になった樺太アイヌの
人たちがいる。樺太犬は食糧でもあるし、猟犬でもある。それが百数十頭もいなくなるっ
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てことは、生死に関わることじゃないですか。秋田にある白瀬矗の探検隊の記念館みたい
のがあるんですけど、樺太まで行って樺太犬の碑と樺太アイヌの人と一緒に建てている。
犬と人間を同じに扱っている。私はそれを賛成できなかった。みんなは当り前、いいじゃ
ないかって言う人が多いんですよね。私は違うだろうなと思う。犬は犬。犬の功績はそれ
であって、二人の功績は二人の功績として別物だと思っている。
樺太アイヌ強制移住のフィールドワーク(2012 年)の時に、過去帳が名簿になって出さ
れた時は、一番ショックだった。あの先生たちは、差別をなくするためにひつようだと言っ
ていたけれど、別に名前を出したから差別がなくなるわけでもないし、名前を出さなくても
解消することはできると思うんで、そこに出た犠牲者をアイヌって言われるだけでも嫌が
る人が多いんですよ。それが犠牲者の中に身内がいるということがわかったときの関係者
の気持ちをどれだけ汲んでいるんだろうか。それを考えた時に朝鮮のタコ部屋労働に人た
ちも名前を出しているじゃないですか。小松さんは、この人たちの名前も出しちゃダメなの
かいって言われたんですよ。私はその時、すごく意識が低いんだな、と。やってやってるん
だけど自分のこととして考えたときに、その身内が本当に理解をして出してくださいって
いうんだったら別ですけど、ただ犠牲になったから、タコ部屋の歴史があるからという理由
だけで出していいのかなって。ちょっと違うだろうなと思った。本当に朝鮮の人の中にも日
本人として生きたいと思う人もいるし、それに抵抗して生きていくのかと、悩みながら生き
てきた人もいるだろうし。そういうことを、自分がその立場になったときに、どっちを考え
るかが考えられていないんだろうなと思った。
私がテレビに出ただけで、新聞とかも出たときも、身内の結婚式にも呼ばれなかった。そ
ういう苦い経験があるんで。実際関係のない女房の方に招待状が来て、出席したのは私だっ
たんですよ。それだけ、日本の中でアイヌ差別っていうのは残ってるんですよ。結婚、就職、
学校も。その中で、わざわざ不利益になることはしなくてもいいと思ってるんですよ、ある
意味で。北海道に来て 60 年も過ぎて、その人たちにエンチュではなく日本人として生きて
いる人たちに、実はあなたはエンチュなんだよ、樺太アイヌなんだよって言った時に、どう
いうことが起きるかっていう、すごく怖い。自分がやってる分にはいい。出来るから。ただ、
出来ない人がいて、その人たちのことを考えたい。差別構造の中で、アイヌも樺太アイヌも
まだ成熟してない。朝鮮人の人たちは、まだ自分たちの国があるだろう。うちらは樺太が本
来の居住地なのに、国籍をとれば別かもしれないけど、帰れない。
結婚の時もアイヌだと名乗らなければならない社会。私は名乗らなくてもいいんじゃな
いかと思う。一人の人間として生きているんだから。これは自分のことだけれど、結婚した
時に、女房にどうして言ってくれなかったと言われた。言う必要性を感じなかった。活動す
る前で、もちろんアイヌの勉強なんかしてないから、エンチュだし樺太アイヌだし、人間と
しては同じはずだから。女房に日本人だと名乗るかいって?小さい時からずっとそうやっ
てきてるから。お互いに名乗るんだったらいいよ。稚咲内出身で樺太からの引き上げで親は
こういう仕事してるっていうことだけで十分で、エンチュだと名乗る必要はないと思う。名
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乗ること自体が差別じゃないのって。社会がそういうふうになっている。
フィールドワークの中でも、まだ上からなんですよ。やってあげてるのに、なんでそうい
うこといわれるのかがわからない。それ自体がおかしいんだということに気づいてほしい。
私が本当に思うのは、応援なんていらない、一緒に行動してくれればいいんです。応援する
なんて、誰でもできる。がんばれよって。そういう人はずっとそうだから。でも、エンチュ
って名乗るようになって、敢えていうようにしてるのは、応援者はいらない。一緒に行動し
てくれたら、それだけで応援してくれてると思ってるし、共に戦えるということになる。私
は共に勝つって大好きなんです。私が勝つためには、石さんが勝ってもらわないと、私は勝
てないんです。アイヌが勝つには日本人に勝ってもらわないと勝てない。というポリシーを
ずっと持ってきた。日本人が勝つためにアイヌに勝てないとだめなんだよってことを意識
してもらわないと。だから今までのことを償いじゃなくて、本当にお互いの立場なんだとい
うことをあなたたち自身がやらないと。アイヌの問題じゃないんだよ。
フィールドワークで対雁小学校が出来たこと自体が差別なんだよ。あれは樺太アイヌが
望んで作ったわけじゃない。それは日本人化するための学校でしょ。それをよしとして、日
本人がしたことを、今の時代で言ったら感謝するけれど、立場を変えたら、これはすごいこ
とだよ。同化政策でしょ。
あの時は過去帳を見て本当にショックで、それからまた来札にいってまたショックで。参
加しなければよかったと。日本人にとってみればよかっただろうけど、私にとってはすごい
ショックで、百数十年経ってまだこのレベルなのかと。樺太アイヌの活動を始めて三十年経
つんですよ。27 歳の時にウタリ協会に入って、ちょうど三十年経つんですけど、それだけ
経ってまだこの様かって。ショックだったんです。日本人からされたんだったら、まだあた
りまえだろうと思うけれど、北海道アイヌからされるのかって。アイヌ自身も本当にうわべ
だけしかわかっていないんだと思った。
戦前、北海道から戻って来たアイヌたちはいわゆる日本人化したアイヌで、樺太アイヌと
の間に対立もあった。樺太アイヌは日本人でもないしロシア人でもないし、ただ日本人に奴
隷と同じように使われたりしていた。
樺太での朝鮮人との関係は、好きあった者どうしが自然に一緒になるということはあっ
た。私の父親の兄貴の嫁さんは朝鮮系の人だった。はっきり朝鮮人とはいえないけれど。そ
の叔母さんはどこの出身かわからないんですよ。もともとは、私の祖母が三人兄弟なんです
けど、その女二人男一人の奥さんになった。婆さんの弟の奥さんだったんです。家族を維持
するっていうか、おもしろいんですよ。亡くなって、私の婆さんの長男坊を弟の嫁さんに後
を継がせた。二人子どもいたんですけど、その後も何人も子ども作って。だから、北海道に
移住してきたとき、小樽に行った。顔つきも朝鮮系で、エンチュと朝鮮の血が入っている。
タランドマリで一緒になった。そういう例はいっぱいあるでしょうね。逆にそれが自然だっ
たんだと思う。生きていくために必要なことで、そうしないと家族を守れなかった。
アイヌの六世代前の連中だったら、同じ兄弟でみんな苗字が違うんです。日本名ついてる
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わけじゃないんで。四人いたら四人とも苗字が違う。父親が違うとかそういうことではなく
てね。始め、聞き取りをするまでは、なんでそこでつながっているんだろうってわかんなか
ったんですよ。それを聞き取りしていくと、あ、ここは兄弟なんだって。こっちとあっちは
つながっているんだって、いっぱいわかってきた。これは財団法人アイヌ文化研究推進機構
の報告書に 2011 年、2012 年に出しています。本人たちは納得してやってるからいいんで
す。でも、その関わる人たちはなかなか納得しないんですよ。それを何回も経験しているん
ですよ。
いろんな考え方があっていいと思うんです。朝鮮の人なら、その名前が出ることもかまわ
ない、タコ部屋の人たちの名前も出してもかまわないということは、あってもいいと思いま
す。でも、私の対雁や稚咲内での聞き取りの中の経験を通して、おまえがやる分にはいいけ
ど俺たちまで巻き込まないでくれ、とよく言われました。何度言われたことか。自覚はして
いても、アイヌと言われたら、自分の子どもたちがどういうふうになるか、怖くてだめたと
いうんです。顔かたちはそうであっても、何でここに来たかも言ってないから。で、北海道
の中で、アイヌのすごい差別があったり、稚咲内でもそういうことを経験しているから。
稚咲内でも、私が行けば、みんな普通に話をするでしょうけど、他の人が行ったらだめで
しょうね。やってるのわかってるから、また何聞きにきたって。
タランドマリの人たちが、稚咲内に来たかどうかはわからない。散らばってるんで、北海
道アイヌも対雁のアイヌもいて。北海道アイヌは帰るところがあるじゃないですか。日高と
かそういうところには、朝鮮の人が行ってる。でも、もともと樺太に残っていた人たちが戦
後、こっちに来た時に、その人たちがどこに行ったかということは、なかなかわからないで
すね。一からの村づくりだから。小樽とか余市とか、そういうところに、親戚関係が多いん
ですよ。さっきのルーツから移動したり。稚咲内の人口は 1955 年当時で 600 人から 700 人
くらいだったと思います。その時には、もう樺太アイヌはいないって言われている時期なん
ですね。今でも全世界で 1500 人か 2000 人くらいでしょうね。樺太アイヌの血を引く者で
す。もっといるとは思うんですけど。
北海道アイヌと一番違うのは、言葉では爺さん婆さんのことを北海道アイヌはエカシと
フチというんだけど、エンチュは、ヘンケとアハチ。私は樺太アイヌの言葉を話せない。母
親は話せたというんだけど、聞いたことはない。イランカラプテはエンチュではイランカラ
ハテ。よく、
「あなたの心の中に入らせてください」って萱野さんが言ってたけど、それが
正しいのかどうかわからないけど。樺太に二十年前に当時 93 歳の婆さんを連れて墓参に行
ったんです。その帰りの船の中で、食堂へ行って階段を下りてくる時に、「雪駄が逃げた」
って。日本語ではそういう時、雪駄が脱げたっていうじゃないですか。婆さんがアイヌ語で
言葉を発したのは、意味が私の足から雪駄が逃げていったって。そういう表現をしていまし
た。それがアイヌの言葉なんだって。そういう言い回しをするんだって。日本語とは違うん
よ。必ず誰かに感謝したり。そういう意味では、子どもたちも小さい時から誕生日は、親に
感謝する日だよって話してました。それが母親からのメッセージでした。もう亡くなって三
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十年になる。樺太へはずっと帰りたいと言っていた。ましてや、人間の住むところではない
ところに住まざるを得なくなったわけだから。
楢木貴美子氏(北海道アイヌ協会札幌支部事務局次長、アイヌ文化アドバイザー、樺太アイ
ヌ協会語り部)
1948年青森生まれ
2012年8月15日札幌にて聞き取り
アイヌであるということは、兄弟の中でも避けてました。平成14年に初めてアイヌの職
業桟動訓練を受けて、そこでアイヌの意味も始めてわかりました。それまでアイヌの意味な
んてことも考えたことはありませんでした。昔からアイヌという言葉は聞いておりました
けれど、その意味までわかりませんでした。三か月の桟動訓練を受けて着物を縫って、その
後に職場適応訓練で、そこへ行くとアイヌの着物を作ったり、いろいろアイヌの民芸の作品
なんかを作ったりしているところに、アイヌの本が何冊かあったんです。それは貝沢さんと
か、それぞれの職場にあったりしたものですけど。休憩時間とかにそれを読んだりしました。
アイヌって人間って意味だったんだということがわかったんです。職業桟動訓練は、札幌の
今現在は共同利用館って白石にありますが、以前は札幌市の生活館だったんです。
親たちがまず樺太から青森に行ったんです。私は青森で昭和23年に生まれました。両親
は樺太の真岡郡広地村字タランドマリにいました。トマリっていうのは、入り江っていう意
味です。タランドマリっていうのはアイヌ語で、鮭が多く登ってくるところという意味らし
いんですね。そこで親たちはみんな生まれ育って、そして戦後、青森に来たんです。私は9
人兄弟の末っ子で、7人まではタランドマリで生まれています。私たちの先祖はアニワ湾近
くではないので、1875年の強制移住させられた組には入っていなかったんです。そして
戦後青森に移ったんですが、私が生まれてまもなく父親が亡くなりました。それで、母親の
妹が稚咲内に行けば、知り合いがたくさんいるし、樺太アイヌの人たちが引き揚げてきて、
そこで村を作っていよって。そこに行けば、家もあたるし、土地もあたると。そういうこと
で、知り合いもいっぱいいるんであれば、そこに行こうかって。父親も生きて健在であれば、
そういうことも考えなかったでしょうけど。母親と8人の子どもで、そこへ移りました。二
番目の姉は樺太で2歳くらいの時亡くなりました。腸を患ったみたいなんですけどね。昔の
医療だから、助からなかった。現在の医療なら助かったんでしょうけが、結果的には稚咲内
に行ったんです。
「約束の村、稚咲内」っていって、樺太アイヌが戦後、みんなで村を作ろうと言う約束を
したんですね。それが実現したんですよ。二十年ぐらい前に NHK のドキュメンタリ―でも
放映されたんですよ。半農半漁で生活を送ったところなんですね。本当に昔は食べるものも
ない時代でしたから、私たちも兄が四人いたんですけど、みんな亡くなって、今一人が苫小
牧にいます。その兄が17歳の時に稚咲内に来たんです。まだ私は3歳くらいで小さかった
ので、兄も姉も働いてました。兄が山に行って木を切ってきて萱を取ってきて、草ぶき屋根
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のホントの掘っ立て小屋を砂浜に建てて住み始めました。本当に砂浜ですから、風が強い日
など朝起きると、布団も半分、砂のなかにすっぽり埋まってたって。兄も姉もそう言ってま
した。その当時は、開拓部落ですからね。日本人はほとんどいなかった。だって、日本人は
こんなとこ来たくないですよ。ただの砂浜。ただ、お天気のいい日は利尻が見えて、風光明
媚って、夕日もきれいで今でいえば観光名所でしょうけれど、暮らしていくには、それだけ
では、とっても暮らしていけなかったですよね。
掘っ立て小屋を作って鎌と鍬で開墾した人ばかり。米の配給もあったけど、到底たりなく
て、燕麦やかぼちゃ、入植時には種イモの割り当てもあったけど、春まで到底食べるものも
なくて、その割り当ての種イモまで食べてしまって。わずかの配給米を豊富まで行くにも、
雪解けの水はサロベツ原野なものですから、水がすごいんですよ。架かっている橋も水に浮
いてる。舟で渡って豊富まで行って、配給米をもらって来たんです。古老が、履くものもな
くて素足で悪い道をあるいて、たった三升ほどの配給米もらってきたんです。いつも食べる
ものがなくて、ひもじい思いをしていたんです。
まわりもみんな苦労している人たちばかりだったんだけど、父親もいなくて母親ひとり
で苦労しているから、たまたま近くにひとり者の男性がいて、その人を紹介されてその人と
一緒になったんです。その人がアイヌだったか日本人だったかは、今考えてもよくわからな
いんですけど。網元みたいなこともしたんですよ。春になるとヤンシュウが鰊の時期だけ来
て、鰊の時期が終わると帰ってしまうんですけど。春も浜に行くその間が水が溜まって舟で
なければ行けない。道路もなかった時代だから。
砂浜のすぐそばまで、湿地帯になってるところに、番屋を建てて。番屋の方が家より大き
いんですよ。そこに深い囲炉裏があって、薪ストーブですね、大きな流木を拾ってきてくべ
るんです。そこから山の家までは、子どもの頃だから遠く感じたんだけど、今、車ならあっ
という間に着くと思うんですけどね。要するに、道路ができるまでは、番屋にいくまで、本
当に水で水で大変でした。雪も多かったし。そういうところで暮らしてたんです。
稚咲内は農山漁村の復興対策地区の指定を受けて、半農半漁で入植が始まりましたって。
漁業専業で入植した人もいるし、総戸数163戸に達した時期がいちばん多かった。樺太引
き揚げ者が多くて。稚咲内は主に、樺太真岡のやや南方の広地村からの引き揚げ者が半数を
占めていたんですね。引き揚げの際は、持ち物は八貫目までと制限されて、その他一切の所
持品はソ連軍に引き渡して、所持金は点検を受けて一銭も持たされなかった。函館に上陸し
て、そこで援護局から一世帯千円と軍隊が使用した毛布、靴を渡されたんです。私たちはそ
こから青森に行ったんですけど、稚咲内には1945年、戦後年、3年経って始めて引き揚
げ可能になった人もいますからね。先に行った小栗幸三さんが稚咲内の漁業の振興に当た
っていたので、その人を頼りにみんな稚咲内を目指して樺太アイヌが集まって行った。
私の母は生前、書き物が大好きだった人なんです。私たちに対してもたくさんいろんなこ
とを私たち子どもに対する手紙だとか、生きてるうちに子どもの頃からや樺太で苦労して
いたことや、またこちらに来てからの苦労したことやらを書いていた。小学校も満足に出て
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いない。小学校のころから子守奉公に出されて、それこそ警察の家だとか営林署の職員の方
の家だとかに子守奉公に出されて、本当に学校に行きたかったって、そういうことも書いて
いましたね。よそ様の子どもをおんぶしながら。それこそ、「おしん」と同じことをしてい
たんだな、と思いました。小学校も満足に行っていない母が難しい漢字を私よりも知ってい
るんですよ。そうやって、いろいろ書き物も残して。
私も三人の男の子が年子でいるもんですから、しょっちゅう男の子だから怒ってしま
うと、母が「子どもは怒るな。子宝だからなんだって。自分が歩いて来た道じゃないか」っ
て。そしてまた、「年寄りをみて笑うな。自分がやがて行く道なんだから」って、いつも聞
かされて、自然と身についてしまいましたね。
「言葉づかいも気をつけなさい。言葉は生き
ている。いったん言った言葉はひっこめることはできないから、考えてものしゃべんなさい」
とも言っていましたね。
そ ま ふ
真岡からちょっと上に行った、恵須取っていうとこで杣夫(山で木材を伐採する仕事)が
たくさん飯場にいて、それを家族で切り盛りしていたみたいなの。時には150人以上の人
たちが来るんですって。その人たちのご飯支度をしていたんだって。夜も遅くまで働いて、
朝も日が昇る前から働いて、何度か血も吐いたって。でも、山の中だから病院にも行かない
で自然と治ったみたいだけど。わが子を育てながら、上の兄弟たちも近くの農家に預けて、
そうやって乳飲み子だけをおんぶしたりして、そういう仕事に携わったみたいで。
ある時、タランドマリにいた時だと思うんですけど、父親が食べるものがなくて、町に出
かけていったんですって。でも、何日も帰ってこなかったんだって。子どもたちがたくさん
いる中で、次女の2歳の腸を患って亡くなった姉がいるんですけど、その子を抱きかかえて
近くの川に入水したことがあったんですって。でも、そのときに、12歳の姉が、「かあち
ゃーん、かあちゃーん」って声がするのに、初めて我に返って、今ここで二人で死んでも残
された子どもたちはどうなるのかと、そこでもう大変なことをするところだったっていう、
母の書いたものを私も涙ながらに読みました。姉の声で母が我に返って、だから今私もいる
んですけどね。本当に大変だったんだろうなと。85歳で亡くなりましたけど、人生の半分
は樺太で大変な思いをして、そして稚咲内に来てからもまた更に大変で、どうしてこんなと
こに来たんだろうって、子どもたちに食べさせるものも着せるものもなくて、稚咲内の砂浜
に座りこんで声をあげて泣いたって、書いてありました。稚咲内に行ったことがある人はわ
かると思いますけど、本当に何もないところで、港をつくるのにも三十年もかかったんです
よ。それほど砂で、岩ひとつないんです。お天気のいい日には向かい側に利尻富士がみえま
すけどね。
ただ、鰊が獲れた頃は、私も小学生にあがる前から、朝早く浜に連れ出されて、網に鰊が
からまっているんですね。鰊が引っかかった網が山のようにあるんですよ。網から鰊を取り
だす作業を手伝わされました。大きな鰊釜で煮るんですね、魚粕を取るために。数の子だと
か身欠き鰊を取ったあとの魚粕を作るんです。大きな鰊釜で炊いて、浜にムシロを敷き、そ
の上でカスを乾燥させてからカマスに入れて本州方面に出荷していったんです。とっても
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いい肥料になったみたい。当時、岡山県倉敷方面で、干拓地に綿花栽培(綿花は塩害に強い
為)にニシンの魚粕は最適な肥料でした。ニシンの大漁の時は、稚咲内の学校に大漁旗を掲
げ休校になる程でした。
鰊が獲れなくなってからは、近くの浜で小さな魚とかを獲ってましたけど、鰊ほどは獲れ
ませんでしたから。私も舟に乗って手伝ったんです。まだ小学校の頃からね。刺し網をして
いるところを手繰っていって、結構、魚が入っているんですけどね。そうすると、豊富町か
ら自転車に乗って食料品を乗せてやってくるおじさんがいたんです。浜で物々交換をする
んです。それを浜の方で見ていました。その場で、小麦粉だとか干しうどんですか、そうい
うものと交換して。その時は子ども心にとてもうれしかったです。
そういう暮らしから、だんだん不景気になってきて、ある時、学校から帰って、山の家の
隣の家に行っても誰もいないんですよ。声をかけても誰もでてこなくて、もぬけの殻でした。
後からわかったんですけど、夜逃げしたんですね。生活出来なくなっちゃうの。
和人の人たちは、酪農をやってましたね。稚咲内小学校で複式学級だったものですからね、
ひとつの教室で一人の先生が一年生や二年生を教えてました。私は末っ子だったから下の
子はいなかったけど、弟や妹がいる生徒は、みんな自分の弟や妹を連れて学校に来るの。お
しっこって言えば、授業中に連れていったり、泣き出したりすると表に連れてってあやした
りね。今では考えられないけど、当時はそれが当たり前だったんです。先生も怒らないんで
すよ。ほとんどがアイヌの子だったけど、和人の子もいたと思います。アイヌばっかりでは
なかったから。冬なんか学校に行くっていったら、今ならオーバーとかありますけど、当時
は親が綿入れで親指だけ出た手袋を作ってくれて、「テッカイシ」と呼んでいましたけど、
手袋の意味です。そうやって学校に着いたら、ズボンなんかがガッチンガッチンにしばれて
いるんですよ。それを石炭ストーブの前に行って、湯気をぼうぼう出しながら溶かして。
先生は日本人でした。当時の学校はアイヌということを教えられたこともなく、私も意識
しなかったんです。家ではアイヌ語を話すことはなかったけれど、母の妹がお酒を飲んだり
すると、アイヌ語やロシア語でよく話しているのは聞いたことがあります。私はその叔母さ
んが独り身だったので、そこでよくお世話になったり、稚内に母の一番下の妹さんがいたり、
そこにも連れて行ってもらったり、親戚のところに何か月かお世話になったんですよ。その
時はわからなかったんですけど、要するに口減らしだったんですね。稚咲内でも、子どもの
居ない家によく行って何日も泊まったことがあります。養子に出されたりとかではなかっ
たけれど、そうやって親戚のところに預けられてたんです。学校に行く前とか、学校に行っ
てからは夏休みとか冬休みとか。当時はただ遊びに行っていると思ってたんですけどね。で
も、よそ行くと、普段家では食べられないようなものが食べられたり、当時甘いものとか飴
だとか食べたことがなかったけど、よそに行くと、そういうものが食べられたりするので。
稚内の叔母さんのところに行くと、チョコレートとか飴とかごちそうになると、鼻血がぶー
っと出たり。なんで鼻血がでるのか、普段食べてないのに、急にそういうものを食べたから
でしょうね。よくありました。今だからこそ笑い話として言えますが。
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当時は、自分がアイヌだっていう認識がないの。まわりがそういう儀式もいっさいしない
ですしね。アイヌだアイヌだって誰も言わない。でも、当時、口に入れ墨をしたお婆さんは
いました。遠い親戚にあたる人で、一人で住んでいたので、一人婆って私たちは呼んでまし
た。樺太アイヌは、本名より、通名で一生を終えることがあります。一人だったので、漁で
魚が獲れると、それをもらいに来るんです。たまたま沖へ出ても何も獲れない時もあって、
そういう時に婆が来て何ももらえないでとぼとぼ帰って行く姿を見ると、子ども心にもな
んだかとても寂しくて、今でもそれを覚えています。
母の妹の叔母さんは、小樽に来てからも、よく「あの人もエンチュなんだよ」って聞かさ
れたの。エンチュが樺太アイヌの意味であることは、小さい時から聞かされていた。内々で
はそういう話もするのだけど、外に出てはそういう話はしなかったんです。「エンチウ」は
古語えアイヌという意味らしいです。
家の姉が、小樽駅のすぐ近くの三角市場ってあるんですが、そこで卸し売りと小売りの両
方をしていたんです。加工場を持ちながら。人を何人か使ってたんですね。兄たち三人と中
学生になったばかりの姉も、満足に中学にも行かないで長女のところで働いてたんです。姉
の方は魚を売るのじゃなくてご飯の支度やお手伝いをしながら長女たちの夫婦を手伝って
た。稚咲内に残ってたのが、私と母。やがて鰊も獲れなくなり、そして鰊釜は五右衛門風呂
として使ってたんです。浜の番屋で使っていた鰊釜です。山の家のお風呂はドラム缶でした。
大きいので家の中に入れられないために露天風呂なんですよ。今日、風呂沸かすぞとなった
時は、流木を拾ってきて、天秤棒で井戸で水を何回も何回も汲んできて沸かすんです。焚き
付けは白樺の木の皮。油をたくさん含んでいるので、焚き付けには火がつきやすいんですよ。
それが子どもの仕事。水汲みをして焚き付けをして。夕方から準備して、辺りがくらくなる
とお風呂に入るんですけど、でも、お隣といっても、遠かったから、露天風呂でも平気でし
た。当時は田舎ですから、満点の星空、蛍が飛び交っている中で、鰊釜の露天風呂。当時は
いつもお腹をすかせてひもじかったけど、今にして思うととても贅沢な気分でお風呂に入
っていたんだなあと思います。残された母と私が稚咲内を出る時には、その鰊釜が汽車賃に
なりました。
そして小樽に出てきた時には、小学校6年生くらいでしたけど、それまで田舎暮らしだっ
たので、大都会でしたもの。着いたのが夜だったので、港がネオンで反射してるんですよ。
海がネオンの灯りで輝いて、車窓から見えました。あれはいったい何だろうと。ネオンなん
て知らないから。駅おりたら、その道がまたネオンで光っている。あらあ、どうして小樽っ
てこんなんだろうと、見るもの全部が驚きでした。そして一番驚いたのが、水道でした。蛇
口をひねると水が出るんだろうと。それまではつるべ落としで井戸から水を汲んでいたの
に、あれでさえもすごいなと思ってたのに。稚咲内の番屋の時には井戸を掘っても風が吹く
とすぐに埋まってしまっていたんですから。
長女の家のすぐ近くに塩谷という町があるんですけど、そこからおばちゃんたちが三、四
人加工場に来ていたので、その人たちの紹介で、まず塩谷に行ったんです。母と私と二人で。
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で、塩谷の学校に通学しました。
そのころ、母はそれまでやったことのない行商で商いをすることにしました。
魚など余市や仁木の方の農家の人たちがあまり手に入らないようなものをみつくろって
朝一番の汽車で行くんです。ガンガン部隊っていわれてね。ガンガン箱っていって重たい四
角い箱を背負って、前にもぶら下げて、両手にも手籠をぶら下げて。そうやって私たちを育
ててくれたんですよ。そういう母を手伝うために、中学も半分くらいは行きましたよ。行か
なかったわけではないですけど。学校に行くと、喧嘩等して、何日も休み先生が心配して
家に様子を見に来た時もあります。
そのうちに母は行商をやめて山菜採りをしたんです。行商で余市や仁木の方に行ってい
たので、山菜が多いことに気が付いたんですね。アイヌはいろんな食べられる山菜をよく知
っていたんですよ。母も樺太時代からそういう食べられる山菜を知っていたみたいで、それ
で朝一番の汽車に乗って、余市や仁木に行っていろんな山菜を採ってくる。そしてまた小樽
に戻って、その山菜を市場の横で広げて売るんです。私たちを育てるために恥も外聞もなく、
そうやって働いてくれたんです。ですから、去年、サハリンに行ったときには、七時間のユ
ジノサハリンスクから敷香(現タライカ)の道のりのなかで、車窓から全部山菜が見えるん
です。それだけ山菜がある、開発が進んでいないっていうことなんでしょうけど。その山菜
を見て、この山菜のおかげで母のおかげで私はこうして大きくなったんだと、とても複雑な
思いがしましたよ。汽車から見える電柱が日本の当時の木製の電柱だと思うんですけど、た
くさん立ってるんですよ。半分に折れてそのまま朽ち果てて、撤去もされずにそのまま残っ
ている。線路を外されて、枕木なんかも、いっぱい積んであるんですよ。そのまま。王子製
紙の工場なんかも、廃屋のまま。そういう廃屋がたくさん見られたんですけどもコンクリー
トの建物もガラスが一枚も入っていない不気味な大きな建物がそのままになってあるんで
すね。王子製紙、真岡(現ホルムスク)の建造物は巨大な当時の戦傷で、あちこち壊れてい
るものの、煙が出ていたので、人が中に居る様でした。
タランドマリの写真は明治や昭和の頃のものを何枚かみたことがありましたけれど、そ
の当時は、結構家がたくさんあるんです。明治の頃だと思うんですけど、写真をたくさん撮
っているんですね。明治40年くらいになると、日本の政府は樺太アイヌたちを十か所くら
いに集住させて、漁業をさせたみたいで。北海道アイヌは旧土人と呼ばれてましたけど、樺
太アイヌは樺太土人なんですよ。明治40年に十か所に集住させたときには、「樺太土人指
導員」というのを置いたそうです。
また、1875年には対雁(現在の江別)に強制移住させられた樺太アイヌはいちはやく
日本の戸籍を取得しましたが、樺太に残ったものは、かなり遅くて昭和8年まで戸籍もなけ
れば国籍もなかったんですよ。ウィルタやニヴヒは更に遅れました。たぶん、戦後ソ連時代
になって国籍を持つようになったと思います。日本人はニクブンとかニヴヒのことを言っ
てましたし、昔はオロッコとかオロチョンと言ったけれど、今はウィルタと自称しているそ
うです。でも、この方たちがみんな日本人の名前を持っているということに対してびっくり
29
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しました。
日本人がオタスにオタスの杜を作って、ウィルタやニブヒの人たちを強制移住させまし
た。オタスは北緯49度くらいですね。オタスというのは、砂浜、浜という意味なんですけ
ど、本当に砂浜の上なんですよ。川を挟んで島になっている。オタスの杜は、1927年位
に日本政府がアイヌ以外の先住民ウィルタ、ニブフを木造の家に集住させ、日本語を強制し、
神社を作り、学校も作り、毎日教育勅語を読ませ、そこに日本人観光客を呼び、見世物にし
たところです。そのため、現在でも年寄の方は日本語を話せます。私が訪問した時に日本語
で歌を唄ってくれました。去年、そこに行ったときには木造の家だったために、木片がいっ
ぱいので、砂浜だったから木があまり生えていないんですよ。牧草みたいなものは生えてい
るんですけど、なぜか、アザミの花だけがポコンポコンと、樺太アザミってとてもきれいな
んです。色鮮やかで大輪なんですよ。その花だけが、なぜかオタスの杜があったところに咲
いていました。現在でも、オタスの杜を訪れる日本人がいると、案内してくれるそうです。
戦後、そのオタスの杜をとりこわしたんですけどね、すぐそばに川があって、その川のと
ころまで木片がもろに見えているんです。ちょっと掘ると、昔の日本の底の厚いビール瓶や
破片だとか瀬戸物だとか昔使っていたものだとかが出てくるんです。
そのオタスのすぐ隣に戦後、監獄が作られたんです。それも今は廃屋になっていましたけ
れど、ガラスも一枚も入ってなくて、ただコンクリの建物が、なぜか不気味に見えましたね。
オタスの杜に学校も建てて、神社も建てて、日本の歌を歌わせたりしながら、戸籍には入れ
なかった。6名の人に会いましたけれど、5名の人は日本名がありました。北島さんとか南
島さんという名前。オタスの杜は川を挟んで島だから。それでそういう名前になったと。日
本語を話しますし、ロシア語やウィルタの言葉も話します。ソ連時代になってあまり民族の
言葉を話さなくなったけれど、自分たちの祖先の言葉を大切にしようと心がけてウィルタ
やニブヒの言葉を使っていると言ってました。一人の方は、今でも日本人がオタスの杜に来
たいと言う人がいれば、案内するって言ってました。たしか昭和の初めに国境線を固めるた
めにオタスの杜を作ったと思うんですね。先住民族をそこに住まわせて。そこに日本人は観
光に行って、早い話が見世物みたいにしたみたいなんですね。ですから日本の教育を受けさ
せたみたいなんですけどね。ちょっと信じられないなあと思って聞いてきたんですけど。
私は北大のアイヌの聖地を巡るフィールドワークを担当しているんですが、必ず古河記
念講堂を案内するんです。古河記念講堂から人骨が見つかったとき、その三つがウィルタの
頭蓋骨で、2004年に返還されました。
今は講堂内は見学することは出来ませんが、躍動するユク(アイヌ語で鹿)の彫刻があり
ます。あの講堂ができてから103年くらいになりますが、当時、栃木県の足尾銅山の鉱毒
事件を起こしたということで、古河財閥の三代目の古河寅之助さん本人が、世論を和らげる
ために、100万の寄付をして、その一部の当時は2万8千円で、古河講堂をあそこに建て
たと。でも、そこで、約今から18年前ですね、部屋の片隅にダンボール箱に入って新聞紙
で包まれていた頭蓋骨が六個入っていたのを、私たちの仲間であるアイヌ民族が発見した
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んです。また北大の医学部の動物実験室の中で、他の動物たちの骨と一緒になってあったっ
て言われている、私達のご先祖様達の人骨が、先輩方によって発見され、それで抗議をした
結果、納骨堂を作ったって私は聞いています。納骨堂っていってますけど、正式名称は違う
んですよね。アイヌ人骨標本庫?確かそのような正式名称だったと思うんですけどね。その
中には樺太アイヌの人骨もたしか91体くらい入っているはずなんです。
1875年(明治8)の樺太・千島交換条約により、841名が宗谷に強制移住させられ
翌年9年に対雁に移住させられました。対雁の樺太アイヌの集住地は現在、その地の半分は
石狩川に、また、半分は河川敷になっております。近くの榎本公園には、樺太・千島交換条
約の重要人物である榎本武明の馬に乗った立派な銅像がありますが、樺太アイヌの集住し
た場所は何もないのです。明治19年か20年にかけて天然痘やコレラが大流行して。昔か
らアイヌのコタンというのは、せいぜい5,6軒くらいしか作らないんですよ。そんな大き
なコタンは作らないのだけれど、明治政府は樺太アイヌを連れてきて対雁に集住させて、最
初は841人連れてこられたけど、そのうちに家族も増えて854名が対雁に連れていか
れたと言われてますけど。狭い一か所にそれほど多くのアイヌを住まわせたために、伝染病
が次から次へと犠牲者を出すことになってしまったわけです。亡くなった方を葬ったその
人が次の日には亡くなって、あっという間に何百人という犠牲者が出た。それが対雁の坊主
山に埋めたわけです。最初、何体か遺体を土葬にしたけれど、そのうち一か所に百体以上の
人骨埋めるような異常な状態になっていった。
その対雁の墓地の傍にある火力発電所は北炭幌内の石炭を供給して運営されていたと思
いますけども、今はもう閉山してしまったので、その火力発電所を取り壊す時にたくさんの
人骨が出てきたと聞いています。近くの江別市営墓地に、樺太移住土人の墓が2基、あと一
つは、名も無い普通の石があるのみです。
北大人類学者の児玉作左衛門が駆けつけて人骨を数体持って行ったと。お父さんは北大
の博士で、おじいちゃんは河野常吉で、明治時代のアイヌ研究者で、北大遺跡から出土した
土器に、北大式土器と名付けた人でした。三代目の元道氏は、つい先頃亡くなられました。
長年に渡るアイヌ研究者でありました。明治天皇が休憩場所としてつかわれた精華亭を取
り壊すという話が出たときに、樺太アイヌが踊りを見せた場所であると、取り壊しに反対し
て今もそこに残っているというそういう提言をした人です。重要文化財として残っており
ますけども、連れてこられた樺太アイヌがそこで踊りを見せたところです。また、その近く
に現在、札幌競馬場がありますけれど、昔はそこは野生の馬がいたところで、その野生馬を
捕まえさせたのも樺太アイヌじゃないかといわれています。
精華亭の裏の偕楽園は、日本で最初に作られた公園だと思うんですけど。昔はサケマスふ
化場もつくられました。北大を流れているサクシュコトニ川は現在は幅の小さな川になっ
ていますけど、昔はもっと大きな川で、植物園やそのさきに伊藤邸ってあるんですけど、そ
め
む
こに大きなアイヌ語で芽生(湧き水)があって、偕楽園の近くにも芽生がありました。それ
は、昔コタンだったということです。明治8年くらいですか、坂田県のお偉いさんが視察に
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来たときには、まだそこにアイヌのコタンがあったって。まるですり鉢をさかさまにしたよ
うなアイヌの家があったと視察に来た人が記しています。琴似又吉さんという方が住んで
いて、そのほかにも2,3軒アイヌの家があって。そのうちに、鮭を獲ってはならぬ、鹿を
獲ってはならぬということで、到底住めなくなって場所を移動したみたいで。今ではその芽
生はすっかり枯渇しちゃってないんですけど、その跡が残っているんです。水は流れていま
せんけれど。
今の龍神さんを祀っているあたりが、コトニマタイチさんの家があった場所です。道庁入
ってすぐの池のあたりもそうですし、昔は豊平川からの伏流水がいっぱいあったんですよ。
竪穴式住居も札幌市内にたくさんありましたが、現在では北大構内、植物園、知事公館のみ
みられます。
ずっとアイヌだということがいやで、逃げていたんです。結婚して子どもも三人いて、上
の子が高校生になってたから16歳くらいのときに、ちょうど又従兄弟が家に来て、「アイ
ヌの仕事が機動訓練をうければあるし、こういうアイヌ協会がこういうことやってるんだ」
と今まで私もそういうことはわからなかったんですけど、訓練を受けて着物を縫ったりそ
うすると訓練生として訓練受けることでお金も少しはもらえるんだということを聞いたん
です。それまで主人にも内緒にしてましたでしょ、冷や汗がどっと。私もこの人と一緒に何
年にもなって、言ったことがないのに。田澤は当然知ってると思って言ったの。もちろん、
機動訓練は受けようと思っていたけど、主人が独立して商売を始めたので、しばらくはその
ままで、平成14年になって、商売もやめてそれじゃあ仕事を探そうかな、と思ったときに、
そういえば、こういうアイヌの訓練を受けて仕事をさせてもらえるって言ってたなあと。そ
して始めて申し込んで、機動訓練生になったんですよ。それが今から10年くらい前です。
(車の中で)ここが、オオウバユリの群生地です。防風林ね。昔は「アイヌの食べ物」と
いう看板もありましたけど、取り払われて「オオウバユリの群生地につき立ち入り禁止」と
なっています。朝、散歩コースです。防風林挟んで向うが新琴似、こちらが屯田。
次男坊は、高校へは行かないと。親父の商売を継ぐからって。まわりの者がどんなに説得
してもいかなかったの。そして三男が札幌工業高校に入学したんですけども、アイヌの就学
支援金が札幌市から少し出るんですね。それをもらって学校に行っていたので、担任の先生
が、教室でみんなの前で「楢木、おまえアイヌだったんだな」って言ったんです。それから、
どんなに説得してもしょうがなくて。本人がどうしても嫌だと言うので、やめたんです。私
は本当にその先生が腹立たしかったですね。その先生には私も何も言わなかったから、本人
は気づいていないと思いますよ。我が子をその時助けてあげることができればと。そんな惨
めな思いをしなくてもよかったのに。公立校だったから、そんな援助なんていらなかったの
かもしれないし、本当に少しだけどせっかくもらえる権利があるのだからと思って、息子も
援助がないなら行けないのなら、いやだと。アイヌだということを先生が知らしめたことに
も憤りを感じて、もうそれで学校いくのがいやになって、何日か休んで、学校をやめてしま
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った。その後、彼女が出来て、その彼女が白血病になって亡くなってしまったんです。彼女
の霊園に連れて行ってくれっていうんです。まだ免許も持っていなかったから。車に乗せて
何回かお参りに行きました。それから本人も彼女のもとに行くと言って、結果的に本当に逝
ってしまったの。今年で5年経つんですけど。命は尊いものなのに。
私の親も人間は万物の霊長だって、よく言ってましたね。子どもの頃はよく聞きました。
万物の霊長っていうのはね、宇宙の生きとし生けるものの中の最も優れたものなんだよっ
て。でも、悪いことするのも人間ですものね。
長男は彼女が出来たりするとね、ハーフかいって言われたことがあるんだって。毛深いの
は隠しようがないの。今の子たちは、私たちの頃と違ってあまり差別はないのかもしれない
けれど。私たちの時はアイヌは劣ってるとか、言われましたけど。今はあまりそういうこと
は聞かなくなったみたい。
私は息子や孫に、たまにアイヌの歴史について話したりするんですよ。息子は歴史が好き
だから聞くんだけど、孫はもう、またおばあちゃん始まったっていうんですよ。もう18歳
と16歳の男の子ですけどね。やっぱり少しは先祖のこと、歴史のことを知っておいてほし
いと思うので、同じアイヌでも住んでる場所が違ったら言葉も違うんだよって。アイヌは昔、
北海道にも住んでいたけど、東北にも住んでいたんだよ。千島列島や樺太にも住んでいたん
だよ。お婆ちゃんの家族は昔、樺太にすんでいたんだよって話すんですけど、昔はなんとか
聞いてくれましたが、今はめんどくさがって聞かないんですよ。小学校の4年生になると、
「札幌」を知る教科があって、だいたい4時間くらいアイヌのことについて勉強するみたい
で。下の孫が学校でちょうどアイヌのことを教えていた時に、「お婆ちゃん着物貸して。学
校でアイヌのことやってるんだ」って。いいよって貸してあげたら、着物からマタンプシか
らムックリまで持って行ったんだって。教室でそれを全部広げて見せたりして。先生がそれ
を見て、終わってから親戚にアイヌの人がいらっしゃるんですか?って聞いたんだって。
「もしそういうのがわかってたら、お婆ちゃんが着物着てみんなに教えてあげたのに」って
言いました。
昔は、アイヌってだけで差別されたり、侮辱されたりね。だから、そういうのを聞いてか
ら、自分と同じような嫌な思いをさせたくないなって心のどこかにあるから、主人にも子ど
もたちにも内緒にしてたと思うのね。まわりで、よく聞いてるの。アイヌの悪口を言ったり
ね。私の目の前でそういうことを言うのは、わかってるのかな、と思ったり。そういうこと
も何回かあったのね。直接アイヌとは言われなかったけど、毛深いことに対して何回か指摘
されているからね。だから本当のことを言われると、何も言えなくなっちゃうのね。
二年くらい前に千歳空港で、アイヌの民芸品の販売をさせてもらってた時には、ホントに
民族衣装を着けてするもんですからね。嫌な日本人もいるのね。指さして「おお、ほらアイ
ヌがいるぞ。ほれ、見てみろ」って笑って言うの。そういう時は本当に憤りを感じるけど、
こんなにレベルの低い人に腹を立てるのも損だな、と思って。逆に外国の人は日本の先住民
族の人だなと、真摯に対応してくれてね。日本語と英語がわかる人が来た時には、私も覚え
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たての英語をちょっと話したりすると、いろいろと質問してくるんですよね。これは私たち
の手作りなんですよとか、英語で話したりすると、すごく興味を持ってくれたり。買う買わ
ないは別にして。3年ぐらい前かな。韓国の人たちが出発ロビーの前でお店を出してたの。
60代くらいの英語も話すし日本語も話すお婆ちゃんたちで。すごく頭のいい人でいろい
ろ教えてくれるんですよ。自分で作って来たお弁当を一緒に食べようって。留学生だってい
う人も来たし。お店をやってると、ましてや民族衣装を着ているので、
アイヌ民族はこうだったんだよ、北海道アイヌと違って樺太アイヌはこういうさらにい
ろいろなことがあったと、泣き言じゃなくて、いろいろな歴史があったということを是非知
ってもらいたいなと思って。販売しに行っているのに、そういう話の方が多くて。
私の民族衣装を頭の先から下まで、見下すように見て、はなっから見下げているなという
のがわかるような人もいるんですよ。
「俺は金がないから買わないんだ」って言うの。でも、
「アイヌってご存知ですか?」っていろいろ話していくと、結構時間がある人みたいで、黙
って聞いているんですよ。最初の見下すような態度と物言いだったのに、あれもくれ、これ
もくれって、お金がないっていいながら買うんですよ。ほんとにちょっとの時間の間にアイ
ヌの歴史や文化をお話させてもらっただけで、さっきと全然違ってきたんです。
アイヌに対して見下すような態度をする人に対しては、こちらは態度を和らげて、アイヌ
はこういうことがあったんですよ、ここで品物は販売はしてますけれど、買わなくても結構
ですから、ちょっとお話を聞いていきませんかって言ったら、少しずつ聞いてくれるんです。
アイヌは昔からずっとここに住んでいたんですけど、明治になって日本が大日本帝国にな
り、まず手始めにアイヌが住んでいる北海道を植民地化したと。手に入れたら日清戦争、十
年ごとに戦争をして、日露戦争なんて、当時の金額にして17億円、国家予算の約7年分を
つぎ込んで勝ったんですよ。私たちは、それで日露戦争に勝ったおかげ、おかげっていうの
は変だけど、強制移住されられた樺太アイヌは自分のところに帰ることが出来たんですよ
って。あまりにも過激なことをいうと、腹を立てる人がいるの。すごく反発する人がいるの
を何回も見てきてるから、最初は柔らかく言うんですよ。強制移住させられて半数以上は亡
くなったけれど、生き残った人たちは30年ぶりに故郷に帰ることが出来たんですよ、とか。
相手を見てると、この人は黙って聞いてくれてるな、とか腹立てて怒ってるなとか、わかる
でしょ。そうやってお客さんにアイヌの文化や歴史を知ってもらいたいと思ってます。品物
を売るよりも。それこそ、日本に強制同化させられて、名前も奪われて創氏改名ですか、苗
字もなかったのに、苗字をつけて、名前も日本風に変えられたり、強制的に日本人にさせら
れてしまう。アイヌ語を使っていると警察に連行されたとか、そういうのを聞いていますか
ら。私たちもアイヌのおじいちゃん、おばあちゃんに聞き取り調査を何回かしているもので
すからね。そういうことがあるなんて、今なら大変ですよね。もう信じられないくらい。ア
イヌが頑張って生きているのに、アイヌが住んでいた土地は官有地として当分預かる、持ち
主ない土地だとかって、勝手に、誰に断ったのって。昔は本当に日本人・シャモに何を聞か
れても、知らない知らないって答えれって。わかってても知らないと言えって、よく聞いた
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ことがあるんですよ。でも、そういうふうに、知らない知らないって言ってたから、無知蒙
昧、未開の民って言われたんじゃなかったかなと。アイヌだって馬鹿じゃない。メノコ勘定
って聞いたことあります?アイヌだって、わからないわけじゃないの。でも、欲しいんだろ、
欲しいんだったら、もってけって。そういう大きい気持ちだった。タランドマリに集住させ
られていた頃だって、日本人よりもっともっと頭のいいエンチュの子どももいたって書い
てあるくらいだからね。
石
同じことをしたら、アイヌの方が優れていることもたくさんあったでしょうね。全然
違う視点からものの見方も考え方も違うとか。辛い時代を経験してきた多くのアイヌ
の方たちがいて、今私がその話を聞くと、本当に胸が痛いけれど、そういう差別意識
を持つ人たちは、自分だけじゃなくて、子どもにもそういうものを伝える。実態は何
も知らないのに、差別意識だけが次の世代へと受け継がれるということが一番問題だ
と思います。でも、純粋にアイヌだという人たちが、ほとんどいないじゃないですか。
お父さんもお母さんもアイヌっていう人はあまりいないじゃないですか。でも、どち
らかがアイヌだと、子どもは必ずアイヌとしてのアイデンティティを持つ。そこはど
う思いますか?
私も息子三人って言ってましたでしょ。今は二人息子いますけど、ホントに毛深いんで
すよ。私も何も言わなかったし、主人にも言わないで結婚したんだから。黙ってればわか
らないかって。主人はアイヌだとわかってからも、何もかわらないけれど、私も札幌支部の
理事をさせてもらっているものだから、出歩くことが多くて、そんなんだったらアイヌと一
緒になればよかったんじゃないかとは言いますけど。
石
その毛深いというのは、よく聞くんですけれど、でも、アイヌの人は本当にきれいだ
と、うらやましく思っています。見た目だけじゃなく、心もあったかくないですか。
そうですね。稚咲内にいた時なんかは、貧しくても少しの食べ物をみんなで分け合って食
べてました。それはあったね。都会に出てきたら、また違うけどね。子どもの頃はみんなで
分け合って食べるということは。
石
朝鮮の人は稚咲内にはいなかったんですね。
稚咲内にはいなかったと思います。ただ、小樽に来てからは雑品屋をやっている朝鮮の人
がいたのを覚えています。「チョーセン、チョーセン、パカにするな。同じ釜の飯食ってど
こ違う」って聞いたことあります?あれを日本の子どもたちが言っているのを聞いたこと
があります。稚咲内では聞いたことがないのに、小樽に来たらそういうことを言ってるんで
すよね。なんでそういうことを言うんだろうなと思いました。子どもだったけど、嫌な気分
になりました。アイヌもこういう風に言われるのかな、とだから尚更言いたくなかった面も
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あるの。朝鮮の人たちのことを馬鹿にしてる言葉を聞いたりすると、絶対アイヌも馬鹿にす
るなと思いました。だから、自分は絶対にアイヌのことは言わないと決めたんです。
すぐ上の姉は、去年一緒にサハリンに行ったんですけど、旦那の方はアイヌを馬鹿にする
ようなことを新聞見たりニュースを見たりして言うことがあるんだと。だから、旦那には内
緒にしていると。だからサハリンに行くときも、親たちが生まれたところだから、調査団と
して行くって、アイヌのことで行くとは言ってないんです。私はわかっちゃっているから。
だから、ファクスなんか送るときも、アイヌのことがわかるようなことは書かないで。大事
な時はそういうの省いてファクスする。あとは電話で。
アイヌは日本人より劣っているって、そういう考えが昔からあったんだと思うんだよね。
貝澤
薫氏(民宿チセ、元平取町議)
1937年1月4日
2012年8月10日
二風谷生まれ
二風谷にて聞き取り
家の親父は今でいう林野庁の仕事をしていたので、そういう人たちも出入りをしていた。
父親も二風谷で生まれた。お祖父さんは二風谷で生まれ育ったんだけれど、お祖母さんは門
別今の日高町の山の奥の方で山門別というところから嫁いできたの。その子が家の親父で
力蔵。おふくろは北見出身の和人の方が子どもを連れてきて、萱野茂の叔母さんのところに
養女にした。その人は子どもがいなかったので。おふくろは七歳くらいのときに二風谷に来
たっていうんだよね。こっちへ来たんだけども戸籍がなかったので、親父と一緒になったと
き、戸籍がなかったのね、こっちで。子どもが出来た時に婚姻届けが出せないということで、
ずいぶん籍を探すのに大変だった。子どもできたのに、上の子が良子っていうんだけど、籍
に入ることができなくて、家の親父の妹、お祖母さんの私生児として戸籍に入れた。家の長
男の兄貴が、探して探して戸籍があるところがわかって、婚姻届を出した。力蔵といわの子
どもとしてね。昔はそういうことがずいぶんあったようでね。
越年婿っていって、シャモばかりじゃなくて、在日の方々もずいぶんいてね。北と南のや
つがいてね、あれ複雑だけども。俺たちが子どもの時もずいぶんいましたよ。子ども二人も
三人もつくっておいて、いなくなったって。母親と子どもだけになる。母親はアイヌの人が
多かった。俺より一つ先輩の女の人がその越年婿の子どもでいたし。そういう子どもたちは
母親の私生児。だからほとんどが、父親は見たこともないけどね。
親父は植林をしていた。木を切るのではなく切ったあと、植林をしていた。だから、ず
いぶん人も使っていて、在日の人たちも出入りしていた。戦前、日東鉱山とか八田鉱山にい
た振内の方の朝鮮の人たちが戦後、林野の仕事をして家に来て働いていた。振内の方にはず
いぶんいたはずですよ。今もつきあいがあるよ。それから、亡くなってしまったけれど、大
昌園のマスターも、地元の人と一緒になって。在日の人でもね、本当にこの人はいい人だな
という人はたくさんいましたよ。中のいい友達でゴルフ一緒にやったり、遊んでビール飲ん
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だり。家の子どもが小さい時、肉食べたいっていったら、すぐあそこに行ったりした。
母親のいわは、さっきも言ったように、養女として北見から来たけど、風貌からいって中
国系じゃないかと思う。戸籍では江戸という人の娘だったけれど、その人のお祖父さんが連
れてきたそうです。北見は、本州から来た人たちは、夜になったら何もない、すぐに寝る、
子どもだけはたくさんできて、育てられないって。中国、韓国系の人たちは、ずいぶん前か
ら来てたと思うよ。日本の文化も大方は中国と韓国ですからね。
女房の母親は夕張から来た。婆ちゃんは韓国系だよ。俺はそう思うんだ。父親は夕張で。
どこの馬の骨だかわからんて、それはよく聞いたもんだ。そういうふうなかたちで連れてこ
られて、大きくなって、地元の人と一緒になって、喧嘩になると、どこの馬の骨かわからん
ものがって。普段は仲がよくても、人間いざこざがあると、そういう。
家で働いていた人たちは、「半島」という言葉ということばはよく聞いた。だから差別じ
ゃなくて、「あれは半島出身なんだ」って。でも、一番気に食わなかったのはね、カメラの
「バカチョンカメラ」っていう言葉。あの言葉には、本当に頭にきた。よく、
「すみません、
カメラ撮ってください。バカチョンカメラですから、誰でも撮れます」っていうと、すぐカ
チンとくる。
「ちょっと今の言葉ね、大変な悪い言葉なんだよ」って言うの。
「どうしてです
か」って聞くから、「あれは馬鹿でも朝鮮人でも写せるっていう意味なんです」と言うと、
「わあ、もう、これからは絶対使いません。ごめんね、ごめんね」って、何人もいたよ。そ
ういう言葉使ったらだめだって。チョンっていう言葉は、ずいぶん差別的な言葉で、アイヌ
に「アイヌ」っていうのと同じで、チョンって言うのは、好きでない言葉だったね。半島の
方がやっぱりきれいだったですよ。チョンっていうのは、差別語だったと思うよ。
朝鮮の人は、働き者だったっていうよ。話聞いたら。知ってる人何人かいたけど、とにか
く稼ぐ人だったね。俺の親父から聞いたのは、朝鮮の人には警戒しろっていうことだった。
俺の付き合った人には、そんな悪い人はいなかったですよ。親父が知っている朝鮮の人たち
は、夏に流れてきて越年婿になったり、行ったり来たり行ったり来たりして。出稼ぎに来た
人たちだと思うよ。親父の仕事は山だったから、雨降っても朝鮮の人たちは山に行くんだっ
て。それで、そんなに仕事してるのかと思って、様子を見に行くと、大きな木の下で火を焚
いて団らんしてて、夕方なったら帰って来てたって。それを見たから、それを言ってたんだ
と思うよ。結局、雨降っても仕事に行くって言って、木の下で火を焚いて、夕方まで待って
帰って来たのをみて、気を付けろよって言ったと思うんだ。それ以外、考えられない。俺が
知ってる人では、そういうことをやるような人は見たことがないから。
家の母が言ってた。親父の妹が、逃げてきた半島がかわいそうで、匿ってやったって。そ
ういう話は聞いた。でも、それを話すと逆にやられるからね。自分たちも危険なのに助ける
っているのは、アイヌの民族性なんですよ。朝鮮の人ばかりじゃなかったと思うよ、そうい
うのは。
戦時中だったけどね、苫小牧王子製紙のとこから食料がないもんだから、親子で、小さい
子の手を引いてリュックサックをしょって、今でいう画用紙みたいなものを持ってくるん
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ですよ。そうやってきたら、家で泊めてやって、じゃがいもだとかトウモロコシだとか食糧
を持っていかせるんですよ。お金もとらないで、ただ泊めてやって、そういうものを持たせ
てやった。そういうのを、俺、子どもの時から見ているからね。家の親父たちばかりじゃな
くて、アイヌの人たちは、そういうことをしていたと思いますよ。
家の長男、俺は水戸黄門だっていってるけどね、その兄貴も養子で来てるの。俺たち子ど
も十何人もいるのに、それでも養子として連れてきて、一人前にして育ててちゃんと財産分
けしてやって。その兄貴も亡くなっちゃったけどね、和人だった。俺がいつも兄貴は幸せだ
なあと思ってたのは、母親がそういう境遇で育っているからね。アイヌのところで育って。
だから母親は兄貴のことを俺たちより大事にしてたよ。テツオっていうんだけど、何かあっ
たら、テツ、テツって。母親のいわそのものが、萱野のところに養女に来て育っていたから。
あっち来たりこっち来たりしてやっと大きくなって、家の父親と一緒になったんだから。お
ふくろがいつも言っていたのは、お前らはアイヌじゃないって。アイヌはね、こうなんだっ
て。アイヌがいたから自分がいるんだって。アイヌがいるからお前がいるんだよ。アイヌが
いなかったら、自分は死んでたべって。
そうではあっても、差別は酷かったですよ。石は飛んでくる、襟首つかまれてぶん殴って
くる。それでも二風谷なら学校に行っても、アイヌの子どもが多いから。シャモの子どもた
ちも何人かいたけれども。特別な差別とかそういうものはなかったけども、親は差別してた。
子ども同士ではないの。だけど親はやっぱり差別してた。玄関から入れなかったとか。それ
じゃあ、そんなに経済的に豊かなとこかっていったら、そうじゃない。経済的に豊かでもな
いところからもそうやって差別を受けた。日本人は、農家やったり山稼ぎをしたりしていた
けど、アイヌの助けがなかったら生活できなかった人たちだから。
朝鮮人に対しても、和人は差別していたと思うよ。一緒にゴルフやっていた人も、アイヌ
に育てられた和人なんだけど、在日の人に「チョン」とか。一緒にゴルフをやりながら、目
の前では言わないけど、ちょっといなくなって、スコアがその人の方がいいと、
「なに、チ
ョンなんか」とか言う。そういうところがあるもんだから、だんだんゴルフも誘われてもし
なくなった。その人ももう、亡くなったけど。
アイヌといっても、両親のどちらかが和人だったりすることも多い。というのは、和人化
政策、早く和人になれっていう、アイヌの風習・文化はダメなんだっていう政府の方針で、
アイヌ語使えなくなったり、入れ墨も廃止されたり。
頭に来たやつがいたよ。アイヌの女に触ったらすぐ結婚できるもんだっていう和人がい
た。アイヌの女の心理を逆手にとったやつがいたの。だから頭に来た。私も若い頃は女遊び
はしますよ。アイヌはごまかさなかったよ。シャモの女だけ、この野郎と思ったら、そこま
ではいかないけど、徹底して惚れらせるの。そして、切っちゃうの。そういうことは随分や
ったよ。復讐。
あと、アイヌの娘とシャモの息子で、経済的にはアイヌの方が豊かで雲泥の差があっても、
結婚の時にはシャモから反対されるの。そういうのは、もうずいぶん見てるよ。本人同士は
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すごく好きあっていてもね。かわいそうだね、ああいうの見たら。
樺太アイヌって言われている人は、川上ユウジさんで、十勝出身らしいんですよ。先祖は
ね。ロシア系統で十勝にいたんだけど、いろんな事情で来たんだっていうのは聞いてる。日
高アイヌが食糧不足で、十勝に行って鹿を獲って、全部一辺に持ってこれないものだから、
預けておいたって。で、後で取りにいける時期になったら、その十勝の人たちが食糧難だっ
たから食べちゃったと。その賠償として十勝から日高によこされたのが、萱野ユウジさんの
系統なんだと、本人から聞いた。
昔はこの辺なんかでも、俺らが小学校の頃、学者連中が来て、知能検査やいろんなテスト
をやらされた。小学校3、4年生くらいの頃かな。写真も正面からとか横からとか撮られた
り、血をとられたり。シャモの子どもなんか二人か三人しかいなかったから、アイヌだけだ
ったのかどうかわからないけど。十何人の同級生がいたけど、学校で、教員が立ち会って。
子どもだから、言われたら何のことかわからないけど、テストだってやってた。ともかく写
真撮られたり学力テストをやったのは覚えてる。今の時代だったら、ただではおかないけど、
あの時代だったら、学者連中が来たら、旦那さん旦那さんて言って、やってた時代だから。
大人になってからも、生活館で写真を撮ったり血を採ったり、一人千円でね。でも、おま
えはダメだって言われた。半分アイヌで半分シャモだからなのかと思ってね。俺はしてくれ
なかったよ。金ももらえなかったし。50年くらい前じゃないかな。
今でも差別はあって、「アイヌは馬鹿だから焼酎飲ませて土地取った」って平気で言って
るやつがいるのさ。それを聞いて、それなりのことを、アイヌ協会からするからって言った
ら、ぺしゃってなっちゃった。
韓国の女の人で、アイヌの人と結婚して、大阪かどっかにいて彼女が韓国に帰ったら、そ
のアイヌの人が迎えに行ってついて来たって。そのアイヌの旦那が亡くなって、再婚してま
だ今二風谷にいるな。50くらいの人かな。なかなかいい人だよ。女房に刺繍を習ってたか
ら。
城野口ゆり
1933年2月28日浦河杵臼コタン生まれ
2012年8月14日
静内にて聞き取り
少数民族懇談会において
私言ってることが、もし間違っていたら、城野口さんこういってるけど、ここはこうい
うもんだよってこと、みなさんそれぞれ思いを教えて下さることをお願いします。
杵臼コタンは九州の天草からエッタという言葉は使いたくないんですけども、そうい
うところの人たちが入り込んできて鍬入れしたたコタンです。日高でも静内側、幌別側って
いったら、有名な大川もあるし、金もでて、朝鮮の人がたもずいぶん苦労して殺されたり生
かされたりして入ったところです。三井物産っていって、すごく材料もたくさん出たとこで
あって、汽車で材料をはこんで、その線路やその土手を作るのに、昔モッコでタコっていう
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人がたが褌ひとつで働いてました。今のようにブルドーザーがなかった時代だから、ずいぶ
んそこに朝鮮の人たちもそこさ生き埋めにされて、夜になればオーイオーイって鳴き声も
よく聞いたっていうハボ(おばあさん)の話もよく聞いてました。私が七つか八つの時、そ
うやってできた線路を走る汽車を見て、手を振った覚えもあります。
昔、アイヌばっかり住んでいた高台の平らな何百町というところ、今で言ったら御料牧場
みたいなところから、天皇の牧場にするからって言われて、みんな去れっていうことで、み
んな大川のへりに追われたものですよ。私の親はそうやって言ってました。そういうとこで、
私は生まれて。天草から来たシサム、和人のことシサムといいますが、その人がたは、鍬入
れして、アイヌの人がたも一生懸命鍬入れして、何かと秋味でもなんでもばくって、土地を
開いて開いていった。そして、わしの育ての母が一丁五反の土地ば、シャモの人にただで取
られた。そういうアイヌの人は、馬鹿っていうのか、人よしっていうのか、何もわからない
からそうしたのか、ハンコをただ貸してやって、判をついて、土地を取られた者が、私の部
落でたくさんあります。私もそういうことが胸に積み重なっているんですけども。
私は満6歳の時、母に手を引かれて学校に行きました。「今日はゆり、学校行ったらな、
先生がやさしく勉強教えてくれるし、友達もいっぱいいるからな。一生懸命勉強したり、元
気よく走ったり、運動会でも人に負けないで走れよ」って言われ、「うん」って喜んで学校
に行った時のことが、うっすらと胸に浮かんでいます。
学校行ったら、150人くらいの生徒がいるんだけど、先生は三人しかいないです。もち
ろん複式でありましたから。、
「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」って、それがものすごい
うれしくて。私も割ともの覚えがよかったんですね。先生に褒められて、その一日がすごく
うれしかった。
それから1,2年の時は忘れてしまったんですけども、ただ、3年生になった時、12月
マ
マ
8日に大東亜戦争が始まったんですがから。もう、春頃から軍国主義の教育になっていた。
先生方も軍隊式に変わってるんですよ。すぐ往復ビンタ張ったり、ゲンコツする。その3年
生の春、3年生と4年生が一緒に運動会の練習をしている時に、踊りをやるんですよ。私は
踊りが大好きなんですよ。世が世なら、踊り子になってたかもしれない。それが、手をつな
ごうとしたら、つなぎたくないって言われた。わし、こういう気性だから、
「おねえちゃん、
手つないで」って言ったら、「アイヌと手つなぎたくない」って。それでも「つないで」っ
て言ったら、
「アイヌなんかくさいからやだ」って、両方の子どもが言うの。それでわしは
アイヌだってことを思い知った。アイヌだってことは知っていたよ。口染めたハボやらエカ
シがいっぱいいたからね、隣近所。わしの母は口染めてなかったけど。わしの父の父は今の
郡役所の事務員だったんだね。でも、酒好きな血統だったんだね。酒飲んで、焚火のところ
で寝て手火傷して、手片っ方もいで、事務取れないので、財産のあるアイヌの家さ入り婿み
たいに入って、子ども男の子四人と女の子一人もうけて。その息子の重四郎っていうのが父。
その重四郎の娘なんだ、わし。
ところで、血統言ったらくどいけども、山崎重四郎が父、父の親が幸太郎、その親が佐喜
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治、その親は武田信玄の一番の家来で青森にいたっていう山崎重左エ門正行。わしはその玄
孫だから、その血が入っているのか、喧嘩手早いんだわ。なんぼか似てるとこあると思うよ。
それが、兄弟たちは、そういう喧嘩好きでない。家の姉たちは勉強好きで勉強ばっかりして
た。わしは喧嘩好きだった。とにかくアイヌって言われたら。もう、アイヌは犬、ポチ、ポ
チ来いって口笛吹いて犬を呼ぶようにね。作文好きだから、作文で優をとると、おまえなん
だアイヌのくせに優を取ってって、生意気だって、鉛筆折られたり、ノート破られたり、消
しゴム投げられたりするから、すぐ戦うわけさ、教室の中で。先生もあっちの方で勉強おし
えていて、気が付いて、
「こら、やめれ」っていうけど、誰がどうしたのかっていうことは
聞かないですよ。アイヌの子には、あまり触れなかった。
それで、その運動会の時、アイヌだって思って情けなくなって、わあーって泣いた。そし
たら、先生が来て、踊らないから、
「こら山崎、なして踊らない!ちゃんとやれ!」ってま
た、拳固はろうとするから、わしは今度、寝たわ。そしたら先生がまた来て、今度わしを蹴
飛ばすから、「先生、わし、死にたい。死にたくなった」って先生の足にしがみついたら、
先生が蹴飛ばすように、転がすようにしてよけて、「ちゃんとやらねえか」ってまずは往復
ビンタ。それでもわしは絶対踊らなかったよ、その時は。なんぼ叩かれても。死んでもいい
と思った。その時の思いはね、絶対死ぬまで、もうシャモには勉強も習わなくていいし、シ
ャモになんか頭下げてたまるものかって。たった8歳かそこらだけど、半端な気持ちじゃな
かった。今でも忘れません。
家に帰ってから、母に言ったの。「今日な、踊りの時、手つなごうとしたら、アイヌだか
ら手つながない、アイヌは大嫌いだ、アイヌは臭いって、手つないでくれなかったわ」って
言った。そしたら、母は「ぶん殴ってやれって、そんなもの。なんなんだ、そのシャモの子
どもたち。乞食みたいなやつらが、アイヌのとこ来て。」ってアイヌ語で一所懸命になって
言ってね、で、ぶん殴ってやれって、負けるなって。それから、わしは絶対負けないって思
ったよ。その母の一声で、今でもシャモになんか頭下げたくない。そういうと同じアイヌの
人が、そんなこと言ってたら、誰も応援する人がいなくなるよって、いつも電話で言われま
すけど、わし、本当のこと言うんだもの。情けないの。
そして、学校行くと、アイヌの子どもたち貧乏して困ってるの。服ほどいてパンツにした
りすると、その模様が白黒で、そうすると「あいつアイヌだ」って叩いたりひどいんだわ。
そうすると、もうすぐそういうのにとびついて、血だらけ。それでも痛くもかゆくもない。
そしたら先生が来て、やめれって怒るけど、先生もどうしたんだ、何て言われてこうなった
んだって、絶対なかったよ。そして、学校の門入ったら、天皇の御真影にきちっと座って最
敬礼しなければならなかった。でも、それもしたくないんだよ。こったらもんさって、けっ
て唾吐いて、足上げて子どもだから、屁ぴってしたり。見たくもないし。天皇陛下って偉い
人なんだよって、母親にも父親にも言われていたけれども、あったらもんなんだ、シャモだ
もん。シャモになんかわしは頭下げてたまるかと。婆もいつも言ってただろ、アイヌばっか
りいたところにシャモが来て、なしてアイヌが苛められなければならないんだって、母親に
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も3年生でも言ってた。このゆりというものは、ホントめんこくない。子どもらしくない。
ああ言えばこう言う、大人なったら大変だって、親同士で言ってた。そういうの聞いてた。
政治犯とか、そういうのじゃないの。そんなの3年生でわからない。ただ、情けない思いし
て一日いてもいやだったから、蕗の葉っぱの下に一日いて、学校が終わる頃に帰ってきたこ
ともあった。そしたら、誰かが母親に言って、母親に叩かれて、なして途中で行かないのか
って。だって、アイヌアイヌって言われていやだもの。喧嘩するの、もういやだもの。学校
行きたくないものって言えば、「そんなの戦え、ぶん殴ってやれ」って親が意地を見せるか
ら、わしもまた元気つけて学校行って、そういう暮らしが六年。中学は行っても行かなくて
もよかったんですよ。みんな行くっていうけど、私は行きたくないって。もちろん、アイヌ
の女の子三人と男の子一人が同級生にいた。その子たちも行くって言わなかった。卒業式の
時も、校長先生がみんな六年間よく頑張ったって。好きな唱歌歌いなさいって言うので、み
んな歌うんですよ。それも、戦争当時だから、みんな軍歌。アメリカ人ばぶっ殺してしまえ
っていう歌ばっかり。わしは、アメリカ人もロシア人も朝鮮人もみんな同じだ。神様はみん
なかわいがるって思ってた。わしの母親は神様信仰して人を救ってた人だから、神様拝む人
なの。神様はどの子もかわいいものだって。日本人ばかり神様の国じゃないんだって。アメ
リカも朝鮮も中国もみんな神様の子だから、どの子もかわいいもんなんだよって。それを殺
し合いしても、解決するのは神様だよって、よく母親が言って聞いていたものだからね、わ
しは先生のいうことや軍国主義の歌を歌うことはしたくなかった。黙って知らんぷりして
いた。そしたら、
「山崎、歌え」っていうので、
「・・・とぎりとぎりと針さしたい」って姉
たちが歌っていた流行歌を歌った。それも“針さしたい”って、わしの反発を込めていたわ
けだけど。そしたら、校長先生怒るかと思ったら、笑ってくれた。奥さんも笑ってくれた。
みんな、「ゆりちゃん変な流行歌歌ったって、やっぱりアイヌだね」って。その時もアイヌ
だって言われたよ。卒業式の謝恩会でね、それで情けなくて、ああ、今日でこれで終わって
これからは母親と田んぼ手伝って畑やら作るの楽しいけれども、ここで残っているアイヌ
の生徒が70人も半分近くいるって、この子どもたちかわいそうになって思った。みんな、
アイヌアイヌって言われて。わしみたいに戦う子はいないだろうけど。
そうやって、シャモに対する抵抗が募ってきています。そのうちに、うちの母は今から
二十八年前に亡くなったんです。病院に入っていた時、六月くらいの時だった。目が見えな
くなっていたから、手を握ってね「ゆり、おまえ、おらの言うこと、しっかり聞けよ。あの
杵臼の墓に、札幌から医者三人も来て、杵臼の若いもんに頼んで、おれたちの先祖の墓みん
な掘って、穴だらけになってるのを、おまえも覚えているべ?」って。「あるよ」とわしは
言った。穴埋めしたのを覚えてる。
「おらはいつ死んでもいい。八十四歳まで生かしてもら
ったから、いつ死んでも悔いはないけれども、ただ一つ情けないことがある」って言うの。
神様を信仰して人を助けてた人だったから、「おらはいつ死んでもいいけど、死んでいって
エカシたちに会った暁には、エカシやフチやらハボやらに、おまえ八十四歳まで何やってた
んだ。オテキナくらうのがおら情けない」って。オテキナっていうのは、「ヤキが入る」っ
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てこと。
「死んでっても、おら浮かばれないよ」って。
「だから、おまえ頼むから、札幌の北
大を訴えてやれ」って。そして、「その骨もタマサイも刀も埋めてるはずだから、それをみ
んな取り返せ。そして罰金取ってやれ」って。
「五十五年も毎日、情けなくて思い出して泣
いていた、その罰金だ、取ってやれ。それが敵だ」って、そう言うんですよ。「罰金とった
ら、どこさどうやればいいのか」って、わし、聞いた。そしたら、「世話になった人さみん
なお礼して、残ったらな、おらの孫やらにやれって。先祖の墓掘られた北大の医者たちの罰
金の金だぞって渡すんだぞって、それ婆が言ったって言えよ」って、それが遺言なんですよ。
「これがおらの最後の言葉だよ」って。「昔っから、困ったから助けて下さいって、シャモ
に言ったアイヌはひとりもいないんだぞ。覚えておけよ」って、わしさそう言った。わしは、
「それ、どっから聞いた」って聞くと、「昔からエカシやフチがそう聞いて伝わってるわ。
おまえも理屈っぽいもんだな。おらが言ってることは、ちゃんとエカシやハボが言ってるこ
とと同じなんだぞ」、わしを怒鳴りつけた。それで、わしは「よし、それ、これから訴える
からな。絶対、敵とるから、婆、安心して死ねよ」って言った。
「うん、おら安心して死ぬ」
って、なかなか手を離さなかったよ。10分も20分も手を離さないで泣いてるんだわ。
そして、昔はアイヌの子どもたち、内地のシャモたち舟で来て。そして集団でさらって内
地で小遣いやったり、着物やったりするから、畑の草取りとかしてくれよっていうもんだか
ら、十二、三の子どもらを舟に乗せて行って、昼は昼で朝から晩まで使って、夜は夜で頭の
禿げた爺様でもなんでも、そのアイヌの娘たちいたずらして、そして腹大きくなれば、抱っ
こもしないで、見せたこともしないで、山だか川さにぶん投げたらしくて、情けない思いし
たんだぞって。その時のヤイサマ、ただ婆が言っただけで、小川サスケの妹、フサっていう
お祖母さんに習ったの。家の婆はそういったけど、その歌は絶対教えなかった。ヤイサマを
歌うときは、口染めたハボたちがみんな手を繋いで、節つけて泣くんだよ、物語しながら。
哀れな声で。子どもの頃は、それを聞くとわしはわあーって泣いたから、すぐに外さ出され
て聞くことは出来なかった。
ヤイサマ歌うよ。本当にあったことを歌うの。浦河の公民館でも歌った。何百人の前で。
解説して。アイヌの娘を舟で集団で連れて行って、着物買ってやる、あれ買ってやるって、
みんな銭が欲しいもんだから、騙されて連れていかれた。アイヌのメノコはよく働くっしょ。
小学校卒業したら、そうやって。
あれは、明治の終わり頃から大正の頃くらいのことじゃないかな。和人が来て内地の農家
にでも連れていくんだべさ。東北あたりじゃないかなと思うけどね。平取に退職した先生で
アイヌのこと一生懸命やってた人が、わしがシャクシャインのところで歌ったとき、ちゃん
とわかっててびっくりした。ゴウナイ先生。
ヤイサマで歌ってたことは、実際あったこと。小川サスケの婆さんが教えなかった。知っ
ているおじさん、おばさんに聞いたの。孕ませた子どもが生まれると、投げるんだって。養
子に出すとかじゃなくて、山でも川でも投げるんだって、赤んぼが。ぶん投げてもなんでも
なかったんだべさ。抱いたこともない、見たこともない、だから投げたってはっきりはわか
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らないけど、投げられてるのさ。なんも養ってない。そりゃ、子どものいないところがあっ
たら、隠して養ったかもしれないよ。アイヌで連れていかれたメノコたちは、もう帰ってこ
ないんだ。そこで死ぬんだ。四十にもならないうちに死んでるんだ。病気でもして。連れて
ったシャモたちが、またこっちに来たら、言うべさ。そういうことを。和人が来て、働きに
来るべさ。そういう話がいっぱい広がるっしょ。それでわかって。その言葉を聞いて、今度
ヤイサマを作る。なんぼでも。アイヌ語で。節はできるんだから。そして、向うでもそうや
って歌ってたって。メノコたちが。だから「ハコガーサペー、ハコガーサペー、おらのコタ
ン、おらのコタン、おらの村、ハボガサペー、ハチャガサペー、父ちゃんも母ちゃんもそこ
さ行きたいな。海越えて山越えて鳥のように羽があったら、おら飛んでいきたいでって。助
ける神がいたら、烏って人が死ぬとき知らせるんだ。鳴き声でわかるんだ。お客さんがくる
ときは、カアカアカアって、人死ぬときはカアーカアーカアーって。鳴き方ですぐわかるよ。
あのひとたちは「パスクルカムイ」っていうの。「カムイよ、伝えてください」って。私が
今情けなくてこう言ってるんだよって、烏に言ってる言葉を歌にしていってるのさ。哀れな
もんでしょ。したって汽車もないべさ。
朝鮮の人もかわいそうに、ホントに苛められてたよ。こっち来て。アイヌと朝鮮人は哀れ
なものだったよ。これから杵臼さ行くときに教えるけど、赤い褌して逃げてきてね、泊まっ
て朝まだ暗いうちにズボンでもなんでもきちっとして、逃がしてやったよ。上は何にも着て
ない。かわいそうに。そいで不思議にアイヌの家に来るんだ。
小川サスケったら、アイヌ協会を発足させた人だけど、私の叔父さん。親がいとこ同士さ。
父の父がシャモ。山崎重四郎っていうの、私の父親。その父親が幸太郎っていうの。南部か
ら来て、今でいう市庁に勤めてたの。役所の事務員をしていた。山崎っていうのはシャモだ
からね、酒が好きな血統だったの。昔シャモでもたき火していたんでない、手火傷して、こ
っから(手首)からもげちゃったの。そいで事務できないので、アイヌの財産のある娘と結
婚した。土地が十丁ある。重四郎の父親が幸太郎。幸太郎の父親は佐喜治、佐喜治の上が山
崎重左エ門正行っていってね、武田信玄の一の家来で青森にいたって。でも、重四郎の妻は
アイヌだもの。まつって。だからわしはアイヌだもの。シャモって思ったことない。ひとっ
つもない。今もない。シャモとは一生敵だよ、わしは。父は半シャモ。五分五分。私の夫は
アイヌにもらわれたシャモなの。それの間に生まれたのが家の息子なの。息子はアイヌ顔し
てないよ。
わしは、アイヌって言われて、戦って戦ってきたの。やられっぱなしじゃないの。でも、
姉たちには、ちゃんと勉強しろって言われた。勉強しなければ、右も左もわからない、情け
ない人間になるよって。夜になったら、ランプの下に集まって勉強した。シャモとは並んで
勉強したくないの。学校では「眠る子」ってあだ名つけられてた。寝てたも。疲れて。戦わ
なければならないんだもの。だからね、今でも、この気性は治らない。何もおっかないもの
ない。情けないよ。学校から帰ってきたら、布団かぶって泣いたよ。くやしいの。朝起きた
ら体操して身体鍛えて、学校行って、あれがまたなんか言ったらやっつけてやる。
「アイヌ」
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だとか「犬」だとか、口笛でピューピュー吹いて呼ぶようにしたりするんだもの。
そして、私作文書くのが好きだったの。猫って言われたら、猫のこと上手に書くんだ。山
って題名を先生が言ったら、それも優とか秀とか。優とかとったら、もう、ノート破られて
わやだよ。そういうとこにいたの。ひどいんだ。先生も悪いの。アイヌば馬鹿にして。
だから今、金融やってる姉の父は学校の先生だったの。財産家のシャモだけど、そしたら、
途中で転勤になるっていうことで、親が財産十丁から土地やるから百姓せって言われたと。
いないから。そして、農家の好きな嫁さんもらって、農家になった。そしてできた娘も先生
になって、今、苫小牧にいる。姉の娘。
アイヌが先に住んでいたところさ来てね、こうなっちゃったっしょ。文字も何もないとこ
ろに、向うは文字わかってるべしさ。畑でもなんでも、木島テキって、きかないきれえな背
の高い口染めた婆、覚えてるよ、わし、まだ7歳の時、生きてたから。気性が強い、口の達
者な、その婆でも騙されて、切り開いた一丁五反からの畑をシャモに貸してやったら、取ら
れたんだよ。わしの母親が行ってそれを返してくれって言っても返さない。もう死んでしま
ったけど、母親の弟が返してくれって言っても返さない。取られたんだよ、いっぱい。そう
やって。
で、山崎の重四郎の父親は財産いっぱいあって金持ちだったんだな。子どもできたら、み
んな結核で、東京の病院までやったって言うんだよ。そして、土地なくしたんだな。それで
二丁くらいの土地でわしらは育ったんだ。だから貧乏で苦労した。世が世なら、姉たちみん
な学校の先生やってるの。勉強好きで。わしも好きだったんだ。でも、みんなに苛められて
戦わなければならなかったの。シャモに負けてたまるかって。
小学校3年生くらいの時から、「おまえはシャモだべ。シャモの国に行け。ここはアイヌ
の土地だ。食うに食われなくてアイヌの土地さ来て、おまえはホイト乞食したべ」ってやっ
た。そういう知恵があったんだよ。そういうとぶん殴られて叩かれたけど、噛みつくの。髪
の毛引っ張って絶対放さなかった。
親のいうこと聞かなければならない時代だったの。わしは嫌だった。行きたくなかったん
だ。わし、好きな人がいたんだ。それもアイヌに育てられたシャモだけどね。読み書き達者
だもの。わしは学歴がないから、少し読み書きできる人に嫁ぎたかったの。自動車の免許取
るために、字を覚えて。わしを欲しいって言ってた人は学歴があったよ。大工さんだったけ
ど。読み書き達者な人で。お互い好きだったんだけども、婆がだめだって。母方の従妹、小
川サスケの妹の父方の方の従妹さもらわれたの。姉茶、アイヌだらけのところさ。今はシャ
モの人が入って牧場やってる。朝鮮の人もいたんじゃないの。今はいないんじゃないの。一
旦帰されたからね。戻って来た人のことは聞いたことない。行ったきりだよ。
知ってる人で男の子二人と女の子一人いた人が、上の二人連れて、赤んぼば置いて、ウタ
リのおばさん。なして行ったんだがなあ。戦争始まる前かな。そして、この母親、白い杖つ
いてね。目が見えないから。その残された子は母親に会いに行ったんだよ。かわいそうに。
そしたら、向うも苦しい生活してたんだろうね。同じ苦労するんだったら、母親と一緒に苦
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労したかったと言ったと。あの男の子、どうなっているだろうかね。南の方でないかな。
杵臼には、ナンジンっていう朝鮮の人がいた。ナンって女っていう字に人。その人はそこ
で死んだわ。そこにはアイヌのおばさんがいる。頭のいい男の子がいた。アイヌの人って勉
強できたんだよ。頭いいの。文字がなくて覚えるんだから。学校行ったら、絶対字覚えて計
算でもなんでも。わしの母親なんて暗算がとっても早かった。すごい有名だったよ。だけど、
アイヌだから馬鹿にして、誰もあれを頭いいっていうシャモは一人もいなかった。朝鮮人と
アイヌは哀れなもんだった。わし、ほんとに朝鮮の人嫁さんに欲しいよ。
子どもの頃はね、口を染めたハボ、アイヌが使ってくるんだ。「オペリヤカー」って。オ
ペリヤって、小さい子どものこと言うんだ。男の子は「ヘカチ」。わし、うちの息子に「こ
のヘカチ」って言ったら、一年くらい物言わなかったさ。中ぐらいの子どものことをヘカチ
っていう。いい言葉だよ。ポンチョっていうのもね、子どものことをいうんだ。地域によっ
て言葉も違うの。平取とは違う。ここは、ウララベシっていうのね、昔は。今は浦河になっ
たけど。姉茶も言葉は同じ。静内、様似はだいたい一緒。襟裳は、アイヌばっかりいたとこ
ろ。今、アイヌ協会あるけども、シャモに変わっちゃったの。
妹の旦那の妹が朝鮮人と結婚してる。ものすごい大金持ちで。深川さ来てパチンコで儲け
て、昔はパチンコっていったら、朝鮮の人ばかりで儲かってたんだ。浦河でも食堂やってる
人が何軒かあるんじゃないかな。そして、そこを売って名古屋に行ったの。名古屋行って、
土地いっぱい買って、自動車学校だか作って貸してやって、それもわし行ってみたけど、す
ごい家に住んでたわ。マンション買って貸したり、自動車学校の入り口は三分間写真、二階
は食堂して、それも儲かって儲かって。妹の旦那は朝鮮人じゃなくて、青森の農家の息子だ。
その妹が朝鮮人と結婚したの。それで、妹が浦河で子供らがアイヌ、アイヌって馬鹿にされ
るのがいやで、知らないとこ行くって。旦那の妹たよって、男の子二人とわしの妹と名古屋
に行ったの。シャモのふりして。わし今度、肝焼けてね、妹、姉たち死んで、たった二人し
かいない女なのに。それで社会に腹が立って、それで、アイヌとしてあちこち出て行くよう
になったんだ。それが原因で。
妹はシャモのふりして、アイヌ協会にも何も入らないで、そこで死んだ。その息子の長男
が、板前になってインドネシアに行って、そこの郵便局に勤めている人と結婚した。家に来
て三日いたけど、何にも話さなかった。その子どもが4歳か5歳なんだけど、裸足になって
走り回ってた。でも、飛行機で何か言ってると、パパ、どういう意味って聞くんだって。そ
れで上空何メートルだとか、そういうのを教えてるっていってた。だから利口なんだよね。
弟の方は名古屋大学行って、大学二年の時からつきあっている、大学教授の娘の長女の家
の方からくれくれって言われて、とうとう結婚したの。わし、その結婚式にも呼ばれて行っ
たよ。すごかったよ。そして、その時には、自民党の代議員から電話入ってたわ。わしとは
思想合わなかった。そしてその先生がね、大学辞めて、ヨットの商売を始めたの。少し儲か
ったけど、段々段々、売れなくなったんだね。一億くらいの借金あったんじゃないかな。そ
れで、妹の息子が、大学卒業して義理の父親の商売を継いで、フィリピンまで行っていろい
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ろ商売したの。口が達つんだ妹の子は。妹もこれ達つよ。子どもは男の子二人出来たけど、
父親の借金が嫌になって出てきたの。家さ戻ってきて、マリアナ諸島だかさ行って商売して。
人に使われていたんだけど、婿さ行ったところからすっかり籍さ抜いて。自分でやっちゃっ
た。
(電話)孫。金欲しいってくるって。高校一年で。親は自衛隊の幹部だよ。娘の婿も自衛
隊。わしの娘は一人娘なんだ。最初、娘は結婚しないって、絵描いたら上手な子だよ。東京
に行くって。でも、東京に行かせられないって、美容学校入れたの。札幌かどっかの大学に
でも行けって言ったけど、画家になりたいって。漫画家のカバン持ちでもいいからなりたい
って。かわいそうだったけど、やらせなかった。だって画家って売れなかったら食われない
もの。将来性がないもの。あれは才能あった子だよ。だからパーマかけたら上手だわ。
清水祐二氏(社団法人北海道アイヌ協会江別支部支部長、少数民族懇談会会長、アイヌ民
族文化振興・研究推進機構啓発アドバイザー、DCI(子どもの権利のための国連 NGO)
起草委員、アイヌ民族共有財産裁判を支援する全国連絡会事務局次長)
1941年新冠
生まれ
2012年8月7日
江別にて聞き取り
新冠の御料牧場の中で生まれた。新冠の七割が天皇の牧場だった。国道から5キロくら
い入ったところが字東泊津と字西泊津の二つがあった。東泊津は御料地内のコタンで、西泊
津っていうのは、昔のアイヌのコタンがあったとこなんです。東泊津は御料地内にあったの
で、うちの父は御料地の管理人やっていた人の家に奉公していた。奉公していて、御料地の
一角を父親に管理せ、といわれて住んだ土地なんですよね。東泊津と西泊津の境目には、ス
モモの並木がずっとありましたよ。
戦後、御料牧場は解放されて、開拓地になったので、ここには大陸から引き揚げた人たち
やらが多く入ってきた。樺太はいなくて、満州からの引き揚げ者たちだった。東泊津には、
アイヌっていうのは、家の親父とおふくろの甥っ子、二人しかいなかったですよ。
親父が出征したのが、1944年くらいで、北海道ではまず、島松ですよね、陸軍の基
地。そこに集合させられて、親父は九州の薩摩川内っていってるけど、その駐屯地に勤務し
たのね。終戦になって、1945年9月か10月の末に復員した。私はその頃、親父が帰っ
て来たなんて思ってないんだよ。親父の従兄弟の人が、農家をしていた家のおふくろの手伝
いをしていたと思うんです。初美っていう、従兄弟叔父さんだったんだけど、この人にかわ
いがわられていた記憶があるわけ。それなのに、1945年の9月か10月くらいになった
ら、なんか知らないおじさんが来たと。おじさんが帰って来たとしか思ってなかった。
戦時中、戦後にかけての記憶にあることなんだけど。一般的に言われてる言葉で、タコ部
屋から逃げてきただろうっていう、大人になってから想像するんだけど、靴も履いてない、
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半分着物もない状態で、本当に細い山道みたいなところを歩いて来た人たちがいて、おふく
ろが、芋かかぼちゃかわかりませんけど、そういうのを食べさせてやって、なんか指さして
こうやってこう行ってとかいうようなことをしてたのを、記憶してるんです。一回や二回じ
ゃないんです。4,5歳の頃だったですね。で、おふくろが言うのは、誰にも言っちゃだめ
だよって、それを記憶しています。なんで、ボロを着た人たちが来たことを、友達にも誰に
も言っちゃだめだと言われたのかわからないけど。
親父が出征した時の記憶なんて、全然ないんだよね。帰って来た親父は、まるまる太って、
おふくろもびっくりしたらしいんだけど。後から聞くと、心臓弁膜症を患っていたから、軍
隊に行くくらいだから、検査を受けていくんだろうけど、年が年だったから、緊急招集って
いう形で行ったでしょ。軍隊で、朝8時くらいの朝礼の時、九州だから暑かったんでしょ、
倒れちゃったんですと。十一時くらいまで意識不明の状態で寝ていたらしいんだな。実際に
親父は軍隊に行ったっていうけど、戦いに行ってない、鉄砲も持たされたことがない。親父
を気に入った将校が、お付き武官みたいなかたちで、特に食事係をさせられたんだそうです
よ。悲惨な戦争の状況なのに、偉い連中は高級なもの食ってるんだよな。で、ビフテキだと
か、親父も見たこともないような料理を作って、それを持っていくんだよ。持っていったら、
「そこへ置いておけ。おまえ、清水、これ食ってもいい。
」って、そのビフテキだとかなん
だとか、結構おいしいもの、しょっちゅう食べたんだそうです。そうやって、二年近くいた
から、だから太ってきたらしい。
1945年9月、10月にそうやって変なおじさんが帰って来たと思っていたけど、段々、
親父だとわかって、一応、兵隊で銃も持たなかったけど、軍隊の生活を身につけていたから、
スパルタ親父だった。すごかったよ、本当に。厳しくて、今なら「児童虐待」ってくらいに
なるだろうけど、昔はそんな考えはなかったし、その厳しい教育が、今の私の根性を作った
と思うようになりました。
終戦の翌年、1946年、いわゆる GHQ の命令で、地主から土地が小作にも開放されて、
農地委員会ってあったんですよ。1947年に農業委員会に変わったんですけど。親父は1
946年から農地委員、1947年から農業委員をやっていたわけ。学歴は、尋常高等小学
校を中退したくらいだけど、勉強はしたんだろうね、字が上手だったよ。尋常小学校では旧
友に負けたためしないって言ってた。おふくろも言ってたな、昔は三月の就業式に一年分の
ノートと鉛筆をもらったって言ってたな。親父は第二尋常小学校、俗にいう土人学校、姉去
にあったそうです。そうやって親父たちは勉強は一生懸命したんだけど、貧乏だったから上
の学校にも行けなかった。
私は、子どものころ、「何、このヘカチ」って、ヘカチっていうのは、アイヌ語で男の子
どものことを言うんだけど、同じように、「このチョーセン」っていうのをよく聞いた。な
ぜチョーセンって、子どものころだから、わからなくて。朝鮮って国の名前だよな、って高
学年になるにつれてわかるようになったんですけど。
小学校4、5年くらいの頃、アイヌの子だけ12,3人残されて、どっかのおっさんがき
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てコンパスで頭とか測られた。何されるんだろうて頭にきてたけど、そのうち、裸になれっ
ていうんだよ。シャツを脱がされて、背中の毛の密集度を測られたりした。なんとかの予防
接種だって言われたけど、その時、血を採られたんだね。今回、北大の人骨問題に関わって、、
あの時のことが、アイヌ調査だったんだと思い当たったね。
それからは、なにくそって、勉強してやるぞって思ってたから、あの時の勉強の馬力はす
ごかった。アイヌの貧乏の際たる生活かもしれないけど、学校行く前に鶏何十羽いたかわか
らないけど、鶏が卵産むのを待ってて、卵が産まれたら、それをポケットに入れて町の雑貨
屋に持ってって、鉛筆とか消しゴムを買ったりしたんだよ。同じことをずっと繰り返して自
転車の部品を少しずつ集めて、小学校六年生の後半から自転車組み立てしたのさ。そして、
中学校から自転車に乗れるようにしたのさ。ただの自転車じゃなくて、針金でハンドルのと
ころに本立ても作った。自転車に乗りながら本を読むとか、英語の単語を覚えるとかやった。
中学の三年間で、中学に必要な英単語の三倍覚えた。英文を翻訳するのは苦手だったけど、
その時覚えた単語は短大に行ってから役に立った。その頃は、勉強の虫っていったらなんだ
けど、人に負けるかって思ってやってた。
高校の時の日本史の先生で藤本英夫っていうんだけど、郷土史研究会の顧問で、昭和30
年初め頃にどこからかマイクロバスとか持ってきて、あちこち掘る仕事を高校生に手伝わ
せてやっていた。静内中心として日高管内はずいぶん行ってましたよ。平取にも。アイヌの
骨も掘っただろうし、もちろん遺跡調査ですけどね。基本は、ここに縄文土器があるよって
いうのでしょうけど、時に人骨も出てきた。それを全部、今の北大に行ってるわけよ。
高校の時にもアイヌ差別はないわけないでしょ。あるから、それをはねのけるために、勉
強した。中間テスト、期末テストの結果を発表するでしょ、いつもベスト5に入ってました
よ。1番とはいわないけど、たいてい2番か3番だった。ただし、ある教科だけは0点です
から。その先生に反発して嫌いだったから、テストは名前だけ書いて白紙で出した。現国の
教師で差別的で大嫌いだった。その教科以外は、負けてなるかって。高校の時の成績は、自
分でいうのもなんなんですけど、抜群なんです。苛めの言葉は何回か浴びせられたことはあ
るけど、彼らが今度わからないことがあると、
「おい、ジロウに聞けばいい」っていうよう
になった。なぜ「ジロウ」っていうかと、清水次郎長のジロウだったらまだいいよ。戦後の
南極観測隊で、白瀬矗が樺太犬を何十頭か連れて行って、連れて帰ってこれなくて、翌年行
ったら、タロとジロが元気でいたというのがあったでしょ。それで、樺太犬と、清水でつな
がって、それで私の名前はジロウなの。今でも、ジロウで通るよ。古巣に行ったら。今なら、
ジロウって呼ばれても、どうってことねえやって思うけど、本当にそういうことだったんだ
よ。それでも、わからないことは「ジロウに聞け」って言われて、お前たちには勝ったぞと
いう気持ちだった。
東京の大学に行きたくてしょうがなかった。東京に行けば、アイヌと言われて嫌な思いし
なくてすむかっていうのがあって。でも、行きたい大学にはなかなか行けない。二浪して卒
業して三年目の冬、1月10日になって、相変わらず少ししかいない牛馬の面倒見て、9時
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くらいになって思ったのは、もうすぐ二十歳にもなって、どうしたらいいんだろうと悩んで
いても、どうしたらいいのかわからないんだから、ごろんとひっくり返って寝たふりした。
その時に私を見て言ったおふくろの言葉が今の私を作っているんですよ。「祐二、お前、何
考えてる?もう二十歳にもなるのに、そんなふてくされて寝ていてどうするんだ?何考え
てるんだ?」って言ったのさ。寝たふりですから、何言ってるんだ、忙しい時に手いっぱい
畑仕事させておいて。どうすんだって、どうしようもねえべ、って思って。そんな反抗心を
抱いておふくろの説教を聞いていた。そう言ったら、狸寝入りしていたのがわかるから、ぐ
っすり寝たように30分ほどじっとしていて、それから高校の制服に着替えて、学校に行っ
たんですよ。戦前は農業専門学校って言われた静内高等学校でしたから。そこで職員室に入
って、担任の先生もいないと思って、事務の方に行って受付で、何々先生おいでなってませ
んか?と聞いた。間もなく、現れたのさ、その先生が。「先生おめでとうございます。先生
にお願いがあってきました」って言ったの。そしたら、「うん、そうか、そうか」って言う
の。何もしゃべってないんだよ。「わかった。うん、清水君、わかったから帰っていいよ」
何にも話してないのに、はて、何がわかってくれたんだろうか、って、帰りながら自問自答
をしていた。ただ、追い返された。アイヌだからって、あの先生、いい加減にごまかされた
のかってひねくれた考えも出てきた。そう思いながら帰って、2月15日、ちょうど親父の
誕生日だったんだけど、田舎で有線放送っていうのがあって、それを通じて農協から、近く
のうちに清水祐二がっていう連絡が入ったらしいんだな。隣の二つ三つうえの兄貴が来た
んだな。家にも有線が入ってたから、有線でも言ってきた。「お前、酪農学園大学の短大に
合格したっていう通知だ」
何の話やら、分からないんだわ。で、先生が「わかった、わかった」って言ってたのは、
卒業の時に、君の入れる大学があるんだよ、っていうのが、ここの大学で、しかも推薦で入
学できるというシステムがあったと。当時としては、どこにもなかったですよ。それで、2
月15日に合格通知が来て、初めて本当に大学に入れることになった、実は短大だったんだ
な。
江別の酪農学園大学の短大卒業して、同時に大学の土壌肥料研究室の副手をしていまし
た。その時に、留萌管内羽幌町の教育長が訪ねて来まして学校の先生にならないかって言
われたんです。その前に大学に土壌肥料研究室で卒論を書いてた岩清水っていう学生がい
たんですよ、年が同じで。私が助手で来て、彼らが卒論を書いていて、岩清水君は羽幌町
の羽幌中学校に勤務したんですよね。たまたま、その年は教員が少なかったらしくて、昭
和で言うと39年かな。岩清水君と話していた時に、学校の教員ってどういう仕事かな、
ってもともと興味はあったんですよ。子ども好きだったし。そんなことを話していたんだ
けど、その岩清水君の紹介か何かわからないけれど、羽幌町から教員になりませんかって
来たんですね。で、教員にもちろん憧れてもいたんですけど、一週間くらい考えさせて下
さいと。なんで考える必要があったのか。学校の先生になっても、アイヌとしての差別で
嫌な思いをするっていうことを慎重に考えたい。そういう思いがあったものだから、考え
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させて下さいと言ったけど、一週間も経たないうちに、速達で「教員のお話を受けます」
って出したんだけど。もし、学校の先生って言われて日高とか胆振とかだったら、ハイ、
行くとはならなかったですね。留萌管内ですから、その時見つけられる資料で見たら、ア
イヌの人口は、4~5人だったんですよ。いなくはなかったけど、4、5人だから、そこ
にいけば、アイヌだなんとかだと馬鹿にされることはないだろう。学校の先生になってか
っこよく生活できるぞ、という思いで速達で返事をしたんですよ。で、現地に行って、教
育法だとか調べてみたら、教育委員会でも調べたら、お前は教員の資格がないって言われ
た。つまり、短大だから、教員認定課程は、短大にはなかったんですよね。教職専門がな
かったので、通信教育を始めることにしたんです。昭和39年に私と同じようなかたちで
37人の人が入ったんですよ。で、それぞれの学校に配属されて、一年後に単位一単位で
も取っていなきゃって。赴任したのは、6月ですから、これいかんぞって、通信教育の準
備をして、12月くらいから単位集めたのかな、それで一応7単位くらい集めてたんだ
ね。同じ状況でみんな単位取ってたから、翌年の3月の年度末になってみたら、単位1単
位だけでも取ってる人は7名だけだったんですよ。その他の人たちはみんなクビ、という
ことになった。これには、こんなバカなことがあるんだと。人権も何もないな、と思っ
た。そうなると瞬間湯沸かし器みたいなんだな。37人のうち、7人しか残らない。北海
道は今14市庁っていわれてて、振興局単位で教育局っていうのはあるわけでしょ。そこ
の局長が、我々を集めて、「単位取ってるものは再雇用します。そうでない者はクビで
す」て言ったのさ。そこに私は入ってて、ほっと胸をなでおろすよりも、その時すでに中
学生の女の子もいる所帯持ちの方が単位取れてなくてクビだってなった時に、局長の机を
叩いて抗議した。やり合ったんだけど、だから、どうするってどうしようもないんだよ
ね。そんなことも思い出すけれど。
その後、一年くらいで通信教育で社会科二級が一番取りやすかった。で、単位を一番先に揃
えたんですよ。ですから翌年1965年の4月に北海道教育委員会に申請しました。社会科
二級免許を取得したわけです。でも、私の気持ちの中では、酪農大学でて、社会科っていう
のは本意ではないんですよ。化学の分析とかしていたのだから、理科とかそっちの方が感覚
として合うんだけど、社会科っていうのは、免許をもってるけど、社会科を教えたのは39
年の教員生活でたった一年ですよ。
理科の免許取らなきゃならないので、僻地教員単位認定講習に六年くらい通って、理科の
免許取ったんですよ。私が最初に行ったのは、羽幌町の中央小学校なんです。そこで一年足
らずで焼尻って島に行ったんですよ。
焼尻には、小学校、中学校って一校ずつあって、私は中学校の勤務だったんですよ。学校
の前に雑貨屋さんがあったのね。その頃はまだ私も独身だった。いまだに、私は朝ご飯は食
べたくない癖があって。その雑貨屋さんで菓子パンだとか、百円くらいの羊羹を買ってたん
ですよ。気軽に朝晩、学校行く前、終わって8時9時だっても寄って何かかんか買ってた店
なんだけど。ある時に、三年目かな、つまり卒業生にその店の娘さんがいました。娘さんが
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白老の栄高校に行ったんですね。男女共学になった最初の年に。
島の子どもたちは、当然、海を渡らなければ羽幌にも行けなかったわけなんですけれど、
遠くまで行ったっていうのは、その子が初めてだったかもしれないですね。その店はお金持
ちだったから、娘を遠くまで進学させたんでしょう。夏休みに帰って来て、私はその店で物
を買えなかったのさ。不思議でしようがなくて。売ってくれないの。どうしてなのか、三日
三晩考えた。夏休み中だから、学校に行かなくてもいいんだけど、私はそうじゃなくて、夏
休みも冬休みも学校行ってたんだけど。三日行っても、出てこない。三日目くらいに、いる
ことはわかっているけど出てこないから、待った。根気よく待ってたら、やっと出てきた。
「やあ、私、ここで何かこの店に迷惑かけることしてるんでしょうか。私、必要なもの買い
たいって思ってるんですけど買わせていただけないでしょうかね。どうして、ここ、二、三
日無視されてるような気がしてなりません」って言いましたら、そこのお母さんが「清水先
生は、白老に親戚いるんですか?」って言う。それでピンときた。私は白老に親戚いるでも
ないし。ああ、アイヌであることを言ってるんだな、とそのとき思った。あれは島で本当に
衝撃的でした。「いや、おりませんよ。それが、私が買い物することと何か関係があるんで
すか?」って言ったら、何かぶつぶつってごまかしたけど。「わかりました。じゃあ、ここ
で買い物しないことがベターなんですね。」って。それからは、学校の目の前なんだけど、
そこでは買わないことにしました。そういうこともありましたよ。たぶん、島の子どもたち
は、修学旅行で道東行ったのさ。この時もちょっとありました。美幌峠とかで、アイヌの衣
装を着て、エカシと一緒に記念撮影するんですね。この修学旅行に行った子どもたちが問い
かけてきたことはね、「清水先生の兄さん、美幌峠にいるの?」って。あっ、来たなってい
う感じがした。常にそういう意味では、構えてるからね。いつ、そういう偏見・差別のこと
が出てくるかと。私な妙にそういうところ、敏感になってましてね。私の母ちゃん(妻)と
も、今わしを馬鹿にしたかということもありましたよ。島ではそんな感じでした。
そこで三年終わって、理科の免許を取りたいって気持ちがあったものだから、自分の母校
である酪農大学の近くか、帯広畜産大学の近くに転勤の希望を出したんですよ。そしたら留
萌市内の中学だった。
留萌中学に行ってからは、教員の中でそんなような者はいましたけど、そこの三年間は楽
しかったですよ。子どもたちと心つなげ合うことが出来たし。私が富内転勤っていう時にも、
子どもたちがお別れ会っていうのを開いてくれて、夕方になっても帰って行かない。泣いて
ね、すがりついてきてくれたりね。青年としては中学生の子たちにすがりついて泣かれたり
したら、ほろっとくるでしょ。子どもたち本当にいい子たちだったんだけれど、五時も過ぎ
てもこの子たちは、私がいるから帰らないんだなと思って、「じゃあ、私、職員室行くから
ね」って言って、行く途中、職員トイレでうれし涙が込みあがってきて、泣いたな。そこで
顔洗って、何事もなかったように自分の机に戻って、整理とかしてたら、廊下が騒がしくな
った。あの頃の先生って、管理職でもなんでもまだ、先生がた6,7人いたからな。留萌中
学校は大きな学校で、当時27学級ですから。その子たちが、職員室の前に来て、泣いたり
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なんだかかんだかってやってるんだね。そしたら、教頭さんが、「清水先生、清水先生たち
の子だよ。先生慕ってきてるでしょ。留萌中学校始まって以来のことだ」言ってましたけど
もね。子どもたちには、わかったって廊下に出て、「遅いから帰りましょうね」って、生徒
玄関まで送って行って、
「また、会おうね」って帰ってもらったんだけど。春休みに入った
ら、男の子たちは午前中来て荷物を整理して段ボールに詰めてくれて、女の子たちは食器だ
の何だの紙に包んでくれて。職員住宅が二階だったのね、下が居間みたいで、上が寝室で。
それを子どもたちが来て、下ろしてくれたりして。そんな風にして、留萌の子どもたちは本
当にいい子ばかりだった。今思い出しても、誇りです。
留萌の三年間で単位揃えて穂別に転勤したんですよ。穂別の富内っていうところに。普通
は留萌管内から別の管内に移動することは「ロケット移動」っていうんです。留萌管内から
胆振管内へ、あの時は同じ管内に二発ロケットが発射されたんです。本当に異例でした。1
972年かな。まだ富内線が走ってました。一両だけの。
「あれは汽車じゃない、マッチ箱
だろ」って冗談で言って、生徒には怒られましたけどね。
そこは、アイヌの人たちも多かったし、語らなかったけど、在日の人も多かった。一世
の人もいたよ。富内は二年しかいなかったんですよ。でも、いまだに十年もいたように、
大事にしてもらった、っていう感じですね。ホントにあそこに行くと、ほっとするんだよ
な。留萌から転勤希望出したときもね、新冠か静内って希望も出したんですよね。留萌中
学校の校長、その校長くらい尊敬できる校長はいないなって思うけど。結婚の仲人もして
くれた人です。結婚して2、3年して富内に転勤になった。その後藤校長に富内は、新冠
や静内のすぐ隣だろって言われましたね。社会科二級の免許持ってるのに、どこだかわか
らなかった。北海道の地図広げて調べたよ。確かに隣だなと思った。
富内ではウタリの人たちも多かったけど、シサムの人たちとも心を通わせることが出来
たし。進学する子もいたけど、大半が就職するんですよ。1972年くらいは。そこで私
はいろいろ考えちゃった。今は生涯学習とかいうけれど、一般論としては、学校を卒業し
ちゃったら、もういわゆる学校の勉強なんかしなくなるだろうと。この子たちも、もう勉
強をしなくなるだろうと思った。そこで、マイクロバスを持っていた人に父兄から集めた
バス代出すからといってお願いして、苫小牧の就職活動に連れて行った。都会でもないだ
ろうけど、そういう雰囲気も知ってもらいたいと思ったし。
そこまでしたのは、子どもたちが清水を信頼してくれたし、ホントにめんこかったから
ね。子どもたち通じて父母も信頼してくれたしね。二年しかいなかったけど、十年もいた
ような気がしていますよ。
そしたら私の故郷の新冠で、五校あったんですけど、それを全部統合して一校にすると
いう計画があったんですよ。そこで理科の先生がいないから、お前来い、ということにな
った。たまたま、その時の教育長が私の子どもの頃、「清水何やってんだ」とか言われた
人だったんでね、「清水先生、新冠に来てくれよ」って言ってくれた。富内で二年しかい
ないつもりはなかったんだけど、そうやって言ってくれたんで、行かないわけにはいかな
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いなとなって、富内の人たちには悪いなって思いながら転勤しました。
新冠中学校で、教員として激しい差別に合ったんですよ、実はね。私が新冠で教員にな
るっていった時、一番反対したのは、誰だと思います?私の父なんですよ。1970年代
ですから、親父に「お前、まだ早い」って。そして、親父に言われたとおり、新冠では酷
かった。父兄からも担任外して下さいって言われたりね。
それまで、アイヌの教員というのは初めてっていうわけではない。私の親戚でもあるけ
ど、私より二十年も前に教員になったの。昔の師範大学卒業して教員になって、日高町か
どこかに勤務していて、研修で釧路に行って、その時に岸壁で高波にさらわれて亡くなっ
た人がいた。渕瀬先生って、アイヌの先生でその頃、かなり有名になっていたんでしょう
けど。
新冠中学校に行って、たまたま店に買いにいったりすると何て言われたか。「小遣いさ
んですね」っていうんだ。名前、清水って言ってるのに、
「布施さんですか」とか、「コン
ゴウさんですか」とかね。理科の教師で白衣とか着てるから、また学校の先生も飲んべえ
がいるから、終業式終わった後かな。「顎別れ」って、顎突き合せて居っしょに飲むの。
逆に始まるときは「顎合わせ」って言ったりするんだけど。
その「顎別れ」の当番だったんですよ。静内の店にオードブル頼んでたんだよね。それ
を取りにいったら、そう言われたのさ。新冠中学校の教員の清水ですって言ってるのに、
「コウモトさんですね」って念押しされたり。それが悔しくって。
地域からも、そういうのがあったし、教員からはめちゃくちゃだよ。私は教員として幸
せな思いもたくさんしました。悲しい思いもしましたが、悲しい思いをしたのは、職員室
です。とにかく、許せないことがたくさんありました。70年代、80年代は、新冠中学
はそうでしたよ。五年いたのかな。
統合されたので、新校舎なんですよ。そこに落書きで、
「エカシ先生」「あ、犬先生」
「チョン先生」。チョン先生っていうのは、朝鮮人の先生ではなかったけれど、子どもた
ちにとって嫌な先生という意味だったから、そこには明らかに朝鮮人に対する差別がある
わけですが、それを注意すると、清水は、ア、イヌ先生と逆にまた言われたり。
そして、教員からの差別も酷かった。ある教員の妻が病気で輸血が必要になった時に、
「清水、お前の血は要らないからな」と言われたり。ちょうどそのころ、節婦というとこ
ろで交通事故があって、子どもに輸血したアイヌの青年がいたんだけど、その婆さんが、
「大変だ、家の孫にアイヌの血が入ってしまった」とか言っていた。感謝するんじゃなく
ね。教員生活39年の中での差別も、本当に多かったけれど、世代を越えて差別が再生産
されていくその連鎖を断ち切らなければならないと思っています。
金野
實氏
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1934年穂別生まれ
2012年8月23日
二風谷にて聞き取り
「ちゃんと育てないと、嫁に行ったり、嫁をもらったりするときに、支那が朝鮮かエッ
タしかいないぞ、って言われて育てられたアイヌもいた。
」(俺の父親の弟の嫁がそういわ
れて育った
その嫁さんは和人の父親
門別出身/貝澤薫)そこの地域はそういう差別が
あったところなんだね。
今、80歳以上の人は、中学校には行ってないと思う。そんなんだんだ。家の家内も小
学校だけだ。炊事だけできれば、女はよし、とされてた頃で。差別っていうのは、教育が
進むと、余計にひどいと思う。よくなったという人もいるけど、余計に悪くなったという
人もいる。
学校でも、先生が「分かる人」っていって、手を挙げると、和人の子が机を後ろからド
ーンとぶつける。アイヌが手を挙げるなって。酷かったもんだよ。俺はやり返した。で
も、親がまず差別するし、先生が差別する。そうやって、学校で差別を学ぶんだよ。
(貝澤薫でも、違う先生もいたよ。俺は、昔先生って、神様みたいだと思ってた。なん
でも知っていて、何も見ないですぐに答えられる。「勉強すれば、先生みたいになれる
よ」って言ってくれた先生もいた。家の親父は二風谷の学校を創設した人だから、新しく
赴任してきた先生で、まず一番最初に親父のところに挨拶に来る。そうしないとだめだっ
たから。それが、一番最初に学校入った時の先生。
昔は「ラタ」。ラタシケプのラタ。それはアイヌの側からいう。半島とのラタだ。言葉
の裏表だ。言えないということろに、相当の苦しさがある。
昔、アイヌの女に惚れて一緒になろうとしたことが二、三度あるけど、向うの女性か
ら、アイヌはアイヌとじゃない方がいいて、別れた。それほどアイヌにとって、身体的な
つまり毛深いというようなことに対する劣等感みたいのがあった。アイヌの血を薄くした
いって。それほど、差別いうのが奥深いものがあった。毛のこと「ヌマ」っていうんだけ
ど。
20年前の話しで、結婚する前の日にみんなで集まって、新婦にガムテープを貼って、
バリバリってはがす。そうしなかったら、かわいそうだって。その人の親が気にしてる。
今言えば、笑い話かもしれないけど、本当にかわいそうな話だよ。相手はシャモで、嫁が
アイヌだってわかってても、結婚するとき、毛があることがわからないようにしたってこ
と。腕から脛から。それほど奥深いものがあった。
誰かが病気で入院したら、まず、カーテンしてみんなが集まって、ガムテープで毛をは
がしたって。俺、聞いたとき、最初笑ったよ。でも、あとから涙が出てきた。
(貝澤薫、妻)小学校六年の時に、私とアイヌの子だけが残されて、身長体重測られ
て、血を採られたりしたのも、そういうことなのか、と後になってわかった。あと100
0円で血を採られたり。ハボはそうやって1000円もらって来たっていってたけど、母
55
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は行ってもやってもらえなかったって。べそかいてた。差別されたって。
二風谷では、アイヌの人たちばかりだったけど、後から和人が来て、和人が差別された
って。やっぱりよそもんかって。差別は世の中、なくならにね。
金田一京介の姉の子ども、甥っ子、ここに来て泣いてたよ。母がアイヌに対してひどい
ことしたって。いつでも母が言ってこぼしてたって。二風谷に金田一京介の碑があるよっ
て言ったら、涙ボロボロこぼして、アイヌには、本当に悪いことしたって、泣いてたよ。
アイヌ協会も、すっかり飼いならされてしまって、何も言えなくなっている。先住民族
の決議をしても、先住権については何も触れていないし。だからって、和人全部出ていて
って、そういう話ではない。ただ、土地の使用料についてどうするかということにもなる
んだよね。共有財産っていうのがあったけど、旧土人保護法で抹消されてしまった。一番
大事なところを抹消して、認めたって言っても、骨抜きだと思うわけ。文化だけ。その文
化は観光で、金儲けだけ、みたいな。
山岸良子氏(当時
北海道労働局ハローワーク札幌東専門援助第二部門アイヌ相談員職業
相談担当)
1948 年
静内御幸町生まれ
2013 年 3 月 22 日
札幌にて聞き取り
一度だけ、兄と父親の故郷に行こうと思って韓国に行ったことがあります。でも、それ
も二十年近く前のことだけど。韓国の大学の先生にあって、この苗字なら、きっとここだ
と言われたんだけど、結局みつけることはできなかったんです。
父親は、一応、長男で韓国の国の在り方に不満があって、日本で一旗揚げようと思っ
て、19 歳で密航して下関に着いたら、警察が迎えに来ていて、そのまま樺太に乗せられて
連れて行かれたって。その時の朝鮮人は、全部乗せられたって。炭鉱などで、日本中働か
されて、あちこち行ってて、三回目の奥さんが私の母で、その子どもが私。静内で。私の
母の母というおばあちゃんはアイヌで韓国の人と結婚してて、そのつながりで。
静内の御幸町でおばあちゃんはアパートをしてて、そこに住んでた人がほとんd朝鮮人
で共産主義者だということで、おばあちゃんは、よく警察に睨まれてたっていう。
そのアパートは 4 世帯。二階建てで。朝鮮の人とアイヌの人が一緒になったのは、静内
が多かったんじゃないんでしょうか。平取よりも。
私は朝鮮学校に行きましたから。父親と母親は、紋別で紋別という名前で子どもがも
う、4,5 人いたところで結婚した。父親にとっては、私が最初の子ども。55 歳の時の子
どもだった。75で亡くなりましたから。
学校行っていろんなことがあったけど、家に帰ればいいことがいっぱいありました。父
さんは頭にくると朝鮮語で、母さんはアイヌ語で話す。私は二階建てのアパートで4世帯
くらい。静内は朝鮮人が多かった。結婚するしないにかかわらず。私は朝鮮学校にいきま
したから。父親と母親は、門別で、門別さんという名前の人と結婚して、亡くなって、そ
れで子ども4,5人連れて、私の父さんと母さんが結婚した。私には本当の父さんだけ
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ど、兄たちは、連れ子だった。父親からすると、初めての自分の子どもだったらしいで
す。だから、父といろんな話をしたんだけど、一度も後悔したことがないって。それし
か、言わなかったね。私が19年の時に亡くなったから。父が5
5歳の時の子どもです。75で亡くなりましたから。
学校行っていろいろありましたけど、家ではしあわせでしたね、私は。両親は仲はよか
った。でも、一応父さんは頭にくると朝鮮語になり。母さんはアイヌ語になる。私自身は
どちらもさっぱりわからない。
朝鮮学校に行ったのはなぜかというと、日本の大学を出た先生だったの。在日朝鮮人の
人で。うちのおばあちゃんのアパートに住んでいた人だったの。アパートに習いにいって
もいいんだけど、教室があるから、教室に来いって言われて、それで教室に行ったんだけ
ど、朝鮮語は、全然覚えられず、単語のトマトとかそんなもので、幼稚園の子と一緒にな
らんでいるんだけど、実際、私は日本の学校の数学とかそういうのが遅れるのが嫌だか
ら、一生懸命そっちをやってた。で、先生に見せてたという。先生は、その日本の勉強の
方を教えてくれてたの。そこに来ないと教えないっていうから。とりあえず、小さい子と
一緒になりながら、教わってたの。小学校5,6年生くらいかな。
朝鮮学校の規模っていうのは、家のばあちゃんの下の家にあったんで、もう、子どもた
ちだけで、20人くらいはいたと思います。机で分けてるだけで、その上の子たちはその
上の勉強があって、先生やってましたけどね。 小さい子は、写真や絵を描いた紙を見
て、そうやって朝鮮語を習ってました。
私は半年だけ、そこにいるんですよ。半年経ったら、また門別の親のところに行って。
どっちにも力入ってなかったですね。朝鮮語も話せません。ただ、私の名前が「ぱくやん
じゃ」っていうのだけは覚えました。旧姓が梨本っていうんです。先生にそれくらいはお
まえ覚えろって言われて。それだけは、今でも覚えてます。
門別に半年、静内で半年、静内では夜に朝鮮学校に行って、紋別と静内の両方の卒業証
書を持ってます。
朝鮮学校は、御幸町の住宅を借りてやってた。先生も昼は何をしていたのかわからなけ
れど、そうした学校があるくらい、朝鮮の子どもが多かったっていうことでしょうね。う
ちのおばあちゃんのところに住んでいた人でも、12,3 人はいましたもの。小学生だった
り中学生だったり。昼は日本の学校に行っていたと思いますよ。
私の親戚もいるから、その当時、平取とか穂別とかにも行きましたけど、朝鮮学校の話
はきいたことがありませんでした。
当時、アイヌの人に朝鮮人、朝鮮人って苛められて、その習った部分は、自分の中で封
印状態なの。父さんが嫌いとか、そういうことはないんだけど、子どもながらやっぱりい
やじゃないですか、そんなのばっかりだとね。だから、封印してたの。自分の中で。
でも、鮮明に覚えてたよ。先生がいて、黒板があって。ちっちゃい子にハングル文字を
教えていた。私はその下で日本の宿題をしてた。「おまえ、ちゃんとやれよ。」「はい」っ
て言って。
ふだんは、アイヌ料理でした。キムチは父さんが食べてた。父さんは 365 日どうしてそ
ればっかり食べるのかわからなかったけど、大根を千切りにして、三杯酢を掛けたものを
食べてた。よほどおいしいのかと思ったけど、そうでもなかった。父は自分で作って食べ
てた。
すごいことに、たぶんアイヌ料理の方が多いんだけど、作るのは父親だったから。母さ
んに聞いたんじゃないかな。うちの母親が働き手だったから。農家だったから、土地はあ
るのさ。前の旦那さんが本家の旦那さんだったから。門別家っていって、萱野さんの従妹
になるの。母親の元旦那さんが。みんな女の人で、唯一男だったのが、私の父親だった
の。
うちの父親は転々をして苦労をした人だったから、あんまり目立たない場所で何かを耕
せて暮らせるような、結婚するときの条件が、そういうものだったの。その朝鮮の人を紹
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介してくれるときにね。うちの母親はたくさんいる子どもをちゃんと大事にしてくれる人
ならだれでもいいっていう。そういうことで、見合いして、もうほぼ決まりなんだよね。
おあばちゃんのアパートにいた朝鮮の人に取り持ってもらって。
それで、うちのばあちゃんは明治生まれのとっても頑固な人なんだけど、計画的にうち
の母親しか生んでいないんですよ。梨本ハナっていう。13,4歳で結婚した相手が、マ
ザコンだったらしくて、寝てるとこにも来て一緒に寝るような人だったんだって。でも、
自分はとっても我慢が出来なくて、娘をだっこして家を出て、でも、実家には帰れなかっ
たので、町で一番大きな農家のところのドアを叩いたところが、たまたま、子どもがいら
っしゃらない家庭で、ご夫婦が二人で出面の人を頼んでいた農家だった。で、馬小屋でい
いですから住まわせてくださいって、本当に一週間くらいは馬小屋で過ごしたらしいんだ
けど。
そこの奥さんが可哀想だから、この部屋で寝ていいよっていって、そこでその夫婦がど
ちらも亡くなるまで、うちのばあちゃんが面倒を見た。それで、そこの旦那さんが何度も
見合いをさせようとしたけど、「子どもはひとりでいい」ってばあちゃんが断ったって。
その時すごいな、と思ったのは、アイヌでもこれからは文字を持たないとダメだっていう
ことで、母さんをちゃんと学校に行かせた。嫁に行くくらいだったら、ぜひ自分の娘を学
校に行かせてほしいって。それで、女学校にも行ったんですよ。私の母親ですけどね。さ
んざんちゃんとした教育を受けて、私に手紙くれるときなんか、中国の人のように漢字ば
っかりの手紙をくれる。私、読めないんだけどね。
でも、私の母は、11 人ぐらい子どもを産んでいる。最初の結婚の時に 5 人以上産んでい
て、最初は女の子で、あとは全部男の子だったんだけど、昔の風邪を患って肺炎になって
亡くなったりとか、赤痢になって、みんな移ったりして亡くした。母マツの最初の旦那さ
んも急性肺炎で亡くなった。
それで、静内に戻ってそんなふうにしているときに、門別の土地を守ってほしいと、兄
弟の妹たちから言われて、結婚して戻るしかないと言われた。他のアイヌの種族に土地を
奪われるのは困るから、そういうことに関係のない朝鮮の人と見合いする気になったとい
うの。アイヌの人だって、いろんな流れがあって、要するに息子がいるのは、母さんだけ
だから、門別を継ぐのは母さんの息子しかいないの。あとは、みんな女の子だから。門別
姓をもっているのは、母さんしかいないわけさ。その血統状態でいえば。
その血統状態でいえば。だから、それを崩さないような人、ということで。
だから、親戚のなかでは、うちの父さんは嫌われなかったっていうか。だけど、世間で
はだめだよね。再婚した相手がだれかわからない。だから、母さんは苦労したと思う。
でも、母さんも言ってた。父さんでよかったよって。他の人だったら、続かないかもし
れないって。自分の子どもを連れて再婚するって、それだけでも気を遣うでしょ。
だから、母があんたを産んだ時が、生涯のなかで一番たくさん寝たよ。っていった。普
通出産後 21 日は仕事しない、とかなんとかあるっしょ。あんたの時は絶対起きちゃだけ
って、あんたの父さんが言ったから。
父さんはひどい喘息で、25 歳から喘息になってずっとそうだった。父さんの発作が起き
ないように、母さんが薬をもらいに行くんだけど、今でも覚えている。エフエドリンって
いう。今でも覚えているけど、その薬をもらってバスで帰ってくる母さんを迎えに行けっ
て父はいうの。私がもちゃもちゃしてると、自分で迎えにいくんだけど。
でも、アイヌの何か行事があっても、父さんのところには、絶対招待がこないからっ
て。だけど、その準備は父さんがしてた。
父さんは酷い喘息だったから、朝起きても一回咳き込んだら 30 分くらいずっと咳をし
ていた。だから私が子どもの頃から働いてた。朝の 3 時に起こされて、出面取りに行った
り、母と一緒にね。上の兄弟は、奉公に出されてて。たぶん、父さんとうまくいかないか
らなのか、本当に食えないからなのか、今もわからないけど。今も、門別家を守ってる兄
が言うには、やはり、母さんは義父とうまくやっていくためなに奉公に出されたんじゃな
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いかと言ってた。奉公でもらったお金を家に入れろということもなかったぞって。俺は入
れたけど、他の兄弟は家にお金を入れってなかったって。働くことが勉強みたいなものだ
ったって、勉強しないものもいたけどって兄は言ってた。
小学校 2 年生の頃には、兄たちはみんないなくて、三人暮らし。母は45歳の時に私を
産んだの。三歳くらいの時に、父に肩車してくれない?って頼んだけど、してもらったん
だけど、やめようと思いました。この次はやめようと。ふらっとして、この次は落とされ
ると思って、仕方ないか、と。すごいちっちゃい頃から諦めることを覚えてた。
ただひとつ、自分の子どもに信念的に言えるかっていったら、言えないな、と思うこと
があるの。そんなに可愛くてしょうがない娘が帰って来て泣くわけですよ。学校でチョー
セン、チョーセンって苛められるのがつらいと言ったとき、父さんは、なんでそれが泣く
ことあるの?と。父さんの国は朝鮮なんだよ。泣くことないっしょ。そうだね、って言え
ばいいでしょ。そうすれば、ちょっと楽だよ。ちがうもん、馬鹿にしていっているのと、
頭悪くないんだもの、チョーセンチョーセンって毎日言われていれば、わかるでしょ。そ
れを言われるのは、アイヌの人たちから。門別の小学校の当時は 6 割の人がアイヌだっ
た。いつも、上靴で殴られて血を出さないで帰った日はなかったから、母さんと父さんは
考えた結果、静内のばあちゃんのところに半年くらい送ろうと思ったんだ。アイヌの子ど
もたちも苛められてた。でも、もっと弱いものを見つけようとしたんでしょう。
私、非常に不思議なことには、シャモの人には馬鹿にされてない。みなさん、協会で差
別云々っていって、良ちゃんもそうでしょ、って言われて、面倒くさいから、そうだよっ
ていうけど、実際は違うんです。
門別では、アイヌと朝鮮の間の子どもは私だけでした。当時は、私の知る限りでは、私
しかいませんでした。静内に行くと、わーいって、感じ。だけど、学校は友達がいないか
らつまらない。帰って来ては面白いわけ。
門別の学校で面白いのは、アイヌの人たちが苛められているから、私はすごい大事にさ
れたの。不思議でしょ。それで、学校の中ではすごく楽しかった。苛められたけど、苛め
たから。男の子だよ。スカートめくったりするでしょ。それを思いっきり肩を叩いたり、
そういうの。そういうのがしょっちゅうだったから。二人並べられて廊下に立たされたり
とか。いやあな苛め方はなかったの。
ただ、学校を出たら、わやだったから。アイヌの人に毎日のように叩かれて。学校では
アイヌの子も溌剌とできないから、学校出たら、そういうことしてたのかな、と今では思
うけど。
門別で、朝鮮人の父親だったのは、私だけでした。父親が韓国ってみんな知っているか
ら、訪ねてくるのは、静内や千歳の朝鮮人でしたし。喘息だったから、家事は全部、父が
していた。母は農家で働いていたし。私が洗濯とかできるようになっても、父はずっと手
伝ってくれてました。父が畑で働いていたのは、私が本当に小さい時だけだったから、喘
息が酷くなったんでしょうね。それでも75まで生きたからよかったと思います。
私が 19 歳の時の 2 月に母さんが死んで、5 月におばあちゃん死んで、6 月に父さんが死
んだから、その年に 3 人が亡くなった。父親が死んだ時は、涙も枯れてしまって。なんだ
これって思って。母さんが死んだ時に、ばあちゃんが、私ももうすぐ逝くかもしれないけ
ど、驚いちゃだめだよって言われた。順番なんだからって、一生懸命教えてくれたけど、
全然耳に入らなかったと思う。
中学になっても、門別と静内の間を行ったり来たりしてた。ばあちゃんひとりでかわい
そうだなと思って、そんな気持ちだったから。今考えると、小学校 5 年生くらいから、ち
ゃんとご飯支度してた。それが普通だと思ってた。朝 4 時くらいにばあちゃんに起こされ
て起きたら、流しの中に魚がいっぱいあって。静内って海が近いから従妹たちが獲った魚
をいっぱい持ってきてくれた。市場に出せないような魚あるっしょ、そういうのをばあち
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ゃんのところに持ってきてくれるの。アパートにいっぱい人がいるから、あげてもいいっ
ていう意味なんでしょうね。なみなみ置いていくのね。それを処理しなかったら、顔も洗
えない。だから、それを頭とってバケツに入れて、おばあちゃんが椅子に座って糸でも通
せるようにして塩を振ったやつを置いておくと、ばあちゃんが、「あんた、顔洗っていか
ないと遅刻するよ」って言われて。それをばあちゃんは針金みたいのに通して、干して、
それを毎日のようにしていたの。そしてそれを干したら、よその人にあげるの、ばあちゃ
ん。そこに住んでる人で、ちゃんと働けないような人もいるんだ。そういう人に持ってい
って、食べなさいって。アイヌの人って、とってもすてきなところはね、人見知りする前
にその人のことを心配するところ。受け入れるのはいっぱいうけいれる。でも、なんだろ
う。ただ、僻みが多い。自分よりどっかが優れているとか、そういうのはいやなのね。で
も、自分が手を貸さなければならない人には手を貸す。
静内にいた朝鮮の人たちは、王子製紙とか日本製紙とか今でもあるんですけど、そのパ
ルプの原料の木の切り出しをしていました。その製紙工場で働いたり、ベニヤ工場で働い
たりしてました。ただ、朝鮮の人ですごいなと思ったのは、なにせ、商売にしますよね。
とりあえず、寡黙な人が多い。親切なんだけど、それが親切なんだかなんだかわからな
い。自分をさらしてうまくいけばいいけど、そうじゃなければ、傷つくのは自分だから。
私のおばあちゃんの連れ合いだった人も朝鮮人だけど、一杯飲み屋だったの。どぶろく
を作る機械を入れて、すごかった。どぶろくで飲む人と澄んだところを飲む人といろいろ
いたけど、じいちゃんはキムチを漬けたり、ホルモンだったり、そういうのを午前中に作
って、昼から店を始めた。私が小さい頃のことだよ。アパートのすぐそばの敷地の中でそ
ういう店をしてた。密造酒だから、警察が取締にくる。危ないからどけてなさいよ、とい
って、全部持っていかれても、2,3 日するとまたちゃんと作ってる。
韓国のドラマをよく見ていたんだけど、この間、泣けるから見るのをやめたの。部屋が
あって、そんなに奥もなく縁側があって、中庭があって、ってあるっしょ。豚の足を売っ
てるようなドラマがあったんだ。それが、じいちゃんがやってた店、そのままだった!そ
のじいちゃんが来たので、うちの母の再婚相手と結ばれたんです。元気なじいちゃんで体
格もいいんだけど、すごく働く人だった。生きてる間は働かなくちゃだめだって。朝鮮の
人なんだけど、チャンバラ映画が好きで、そこに毎日行ってたの。静内には当時たくさん
映画館があって、子どもの頃でも、どんだけ行くんだろうと思ってた。私はじいちゃんの
お伴をしてたから、よく覚えてる。
それでも、じいちゃんは、朝鮮に帰りたかったんだろうね。私が小学校 2,3 年の頃だ
ったんだろうか。朝鮮に帰るって言って、店を全部畳んで、おばあちゃんの墓も建てて、
それで、何百万からの貯金通帳を残して、リュックに半分くらいお金を入れて、港から出
て行ったって、おばあちゃんが言ってた。そうやって、朝鮮に帰っていった。ちょうどあ
の頃の帰還事業のときだった。ばあちゃんは桟橋まで送ったけど、一緒には行かなかっ
た。おじいちゃんが来てはいけないって言ったって。長すぎるから、ばあちゃんが海の上
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で亡くなっても、娘にも会えないからって。ばあちゃんも可哀想だよね。ばあちゃんは、
いつも言ってた。死んでもいいって。もうじいちゃんが行ってしまって、ひとり残され
て。子どもは私の母だけだったっけど、ばあちゃんの兄の子どもが二人いて、長男は独立
いていたけど、次男をひきとって、母の弟として育てていた。そのおじさんに私も面倒見
ていただきましたけどね。
門別ではアイヌの人たちから朝鮮と苛められたけど、静内では、朝鮮ということでもア
イヌということでも苛められたことはなかった。それは、静内には、いろんな人がいたん
です。朝鮮の人も、中国の人もいたと思います。おばあちゃんのアパートには、行き場の
ない人を受け入れていたの。家賃もいただけていない人もいたと思います。でも、ばあち
ゃんは生きてはいけたの。従兄たちが漁師をしていて、魚をくれたし、朝鮮の人にしても
中国の人にしても、家賃は払えないけど、どこからか野菜をもってきてくれたりして。
おばあちゃんは、口を染めたいろんな模様の入ったアイヌの女性でした。母親は入れ墨
をしてなかった。どうしてしないの、と母親が聞くと、北海道でもどこでも好きなところ
で生きていけるように入れ墨はしない、必要ない、って言ったんだって。
じいちゃんは北朝鮮に帰ってから、元気だよって一回手紙をばあちゃんに送ってきた。
十階建くらいの市営住宅のような家の前で写真をとっていたって。その写真は、もう家が
火事になって、なくなっています。
私は、朝鮮人の父親だったから、そのことを通して、どうしようもないことはあるんだ
と思うようになった。苛められても、父親が朝鮮であることがなぜ悪いんだという人だっ
たから、どれほど言いたいことがあっても、時期を待とうということを思うようになりま
した。どんなに大変な時には仕事をしなければ食べられないということを教えてくれたの
は母親なので、寝ないで働くような人だったんで、言葉で諭されたりとかしたことはない
けど、自然に身に着けるようになりました。だから、自分は朝鮮人でありアイヌである、
という両方なんです。
中学を卒業して、札幌で就職しました。金の卵の時代だったから。豊平川の市場の金物
屋でしばらくして登り別の温泉で働いていた時に知り合った職人と結婚したんです。仙台
の人で、代々武田信玄の血筋の人だったらしい。早くに親を亡くしていたから姑が母みた
いでうれしかったんですが、結婚してから手紙が来て、「内にアイヌの血はいらないか
ら、なるべく早く離婚しなさい」という夫の手紙を見てしまってびっくりしたんです。そ
んなに我慢しなくても別れるんだったら別れてもいいって、私が言ったんだけど、夫は、
親と結婚したわけじゃない、自分が選んだんだからって言ってくれた。そして、男の子二
人を産んだら、その姑さんが手のひらを反すように丁重に扱ってくれましたよ。そこの長
男には男の子がいなくて、後継ぎは私の子どもしかいなかった。夫の家はとてもお金持ち
だったんだけど賭け事ばかりで 23 年間頑張ったけど、ダメだった。で、離婚したんで
す。夫の会社が倒産した借金を返済するのに 15 年かかって。それを払い終わってからも
サラ金の支払いもあって。夫の親は、息子が悪いなんて思ってない。嫁が買い物でもして
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るって思ってたんですよ。そのご立派な息子さんのお母さんに最後にもう無理です、って
電話で言いました。前の夫の借金は、私は籍を抜いていたけど、二人の息子に分散してか
けられて、息子たちはその借金を払っていましたよ。
小さい頃は苛められてばかりいたけど、「あなたはアイヌですか?」って聞かれて「は
いそうです」って言えるようになったのは、40 過ぎてからです。それまでは、聞こえない
ふりをしていえた。なんで、あなたにそれを言われなければならないんだ、って。それを
いわなければならない理由がある?あれば聞くから。って。言ってしまったこともあるけ
どね。
人間て、自分より落ちる人を探すんじゃないかって。犯罪を犯してもいないのに、追い
詰められてそれを認めなければならなくなった人って、こんな気分じゃないのかな、と思
います。父さんが朝鮮人であることを一度でもいやだ思ったことはなかったけど、やっぱ
りくやしかったですよ。働かなければならないということは、子どもの頃からずっと身に
染みてますけど、心の豊かさについて、最近思います。あの人は自分と違うということを
認める。こういうインタヴュ―はよく受けます。でも、実際、私はシャモの人から指ささ
れたことはないんですよ。指さされたのは、アイヌの人たちから。アイヌの人たちからの
インタヴューでは半分になりますよ。言うことがないから。
子どもの頃は、アイヌの子で苛められてた子がいますよ。毛が多いってだけでね。子ど
も心にも可哀想って思ってた。でも、それから教室では、それがおかしいって言えるよう
になりました。先生は何も言わない。触れたくないって感じでしたね。私は色黒いけど、
毛はないの。子どもたちは、長男は色白でいっさい毛がない。でも次男は毛深くて色黒な
んです。娘は目に見えるところには毛はないけど、背中に渦巻きがある。だから、エステ
で目に見えるところは脱毛させました。
こうしてハローワークで働いていて、目の前に座った人のなんとか役に立とうと思って
がんばってきました。自分では一生懸命してきたつもりです。
H.M 氏
(会社代表取締役)
1960年鵡川生まれ
2012年10月27日
鵡川にて聞き取り
父親は、その母親のお腹にいる時に日本にいて、関東の方で産まれてすぐ朝鮮に戻ったの。
大正8年生まれ。それから小学生あがるくらいの頃に舟に乗って日本に来たって。次男坊だ
ったから、家督もらえるもんでもないし、荒れ放題荒れていて。安東から少し奥に入ってい
くのよ。それからお母さんと一緒に日本と朝鮮を行ったり来たりしてる。父親の父の方は、
放してくれなくて、祖母の方が日本に来たりしてたみたい。だから、父親は大阪の方で小学
校にも行っていた。中学校も出てるね。お祖母ちゃんは、すごく手先の器用な人で、小学校
に入る前の日に布地をどこからか買ってきて、一晩で制服を縫いあげた人らしい。靴下とか
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も母親が作ったものを履いていたって。だから、父親は着る物の道楽は半端じゃなかったし、
靴もオーダーのものしか履かなかった。
父親は転々としていたけど、日本の教育を受けていて、言葉も朝鮮訛りもなくて、ロシア
にも行ったらしい。戦争終わってすぐの頃。父親は三菱鉱山に勤めていて、朝鮮から人を連
れてきて、帯広の鉱山で棒頭をしていた。だから、私が反抗期の頃は、父親は強制連行の親
玉みたいなものじゃないか、って子ども心に何てことしてたのかって、喧嘩したけれど、父
親が一言、「俺の班はちゃんと板が敷いてあった」だかって。他のところは土間かなんかだ
ったんでしょ。そういう問題かって思ったけど。でも、強制労働って言っても、朝鮮では食
うものないんだって。だから、一旗揚げようと思って来た人も多かったって。家の父さんが
言ってたけど、みんながみんな、強制連行じゃない。米を作ったって、植民地の朝鮮ではみ
んな日本に持って行かれるんだから、朝鮮で食べられなくなった人たちが、日本に来たんだ
って。
最初は、父親の叔父さんが三金鉱業の会長で帯広にいたので、先代の会長さんが大きくや
っていて、うちの父親を朝鮮から呼んだ。そして、家のお祖父さんが、福島の白河市で事業
を始めた。父親はそこに黙っていればいいものを、渡り歩いたのよ。十九で朝鮮で朝鮮の人
と結婚してるからね。好きも嫌いもなくて、決められた結婚をしたわけ。一緒に福島に来て
いたんだと思う。そのうちに、遊び癖がでて、家を出て行ってしまう。嫁が米がないという
ので、買ってくるって言って、それっきり。嫁の方は、子どもが中学生になるまで待ってい
たけど、帰ってこなかったから、洋裁学校に通っているときに好きな人が出来て、出て行っ
たって。
父親の方は、岩手からどこから、炭鉱を渡り歩いていたらしい。私が小さかった頃、炭鉱
の事故をテレビで見ていた時、
「かわいそうに」って言ったら、父親は、
「何、今ならがっつ
り金がでるべや。俺たちの頃は、どれだけ死んでも、何も出なかった」って言ったよ。今で
も一生忘れないって言ってたのは、爆発で、逃げる時、足首をぐっとつかまれたけど、自分
が逃げるのが精一杯だったって。火傷のケロイドの跡とかはあったの、今思えば。地獄をい
っぱい見たんでしょうね。ちょっとやそっとのことでは、びくともしなかったものね。
朝鮮語は出来なかったけど、日本語が出来たから、文字の読み書きもできて、出世したの。
三菱から出て、自分で事業を始めた。全部炭鉱で、全国を渡り歩いていたような人だった。
募集して連れてくるみたいな。労務管理をしていた。私にしたら、「この非国民」って言っ
たの。同じ朝鮮人を連れてくるなんてってね。中学生くらいの時はそうやって親に反発して
いた。
戦後も、まだまだ渡り歩いていて、鵡川に来たのは、昭和32年くらい。本当は長くいる
予定ではなかったけど、私が生まれたから、それからずっと鵡川にいるの。子どもが出来な
い女って探したんだって。昔、そういう紹介する人がいて、家の父さんは朝鮮人だから、普
通の家の人はそうそうもらえないじゃない。一生ここにいようと思っていたわけでもない
し、本当の嫁も子どももいるわけだから、戻ろうと思ってたんじゃない。だから、子どもを
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産まない女、って探したらしい。
そしたら、たまたま、家の母親が、三人と一緒になったんだけど、出来ないから石女だと
思ったらしい。それで、家の母が39歳かそのくらいじゃない、ヒロポン中毒だしさ。母の
方こそ、すごいよ。台湾にからゆきさんだからね。海軍の人相手の慰安所に行ってた。母は、
和人の両親だったけど、アイヌの家に養女に出された。
昔、鵡川ってところは、日高線と富内線の分岐点よ。穂別方面から鵡川の川を使って、木
を運んでた。その頃は馬を使ってて、馬喰関係が多かった。馬喰がいるってことは、置き屋
があるってことさ。それをやってたのが、家の母さんの実家さ。N っていうんだけど、双葉
っていう料亭で、置き屋。今もあるのは、M って、今は料理屋だけど昔は置き屋もしてた。
その二つがあった。母さんは、その三女。次女と三女は博打のかたに、その当時、生田の町
議もやった S さんのお妾さんがアイヌよ。綺麗な人だったな、F さん。そこに子どもがいな
かったので、母はもらわれて養女になった。母の姉はその F さんのお母さんの養女になっ
てる。二人ともそこの家の養女になった。綺麗好きな人で、厳しく育てられたって言ってた。
S さんは名家の武士で、この辺りの地主で、母はその敷地内の一角に住んでいた。だから本
宅の子どもを兄さん、兄さんって慕ってたって。兄弟みたいに育ったって。
でも、N の祖父さんという人は懲りない人で、養女に出してからも、娘たちに借金を背負
わせて、母は逃げるみたいにして苫小牧に来たんだと思う。そこにまで追っかけてくるんだ
って。自分の娘を借金のかたに前借する。それで、台湾に逃げたんだって。日本にいたらい
つまでも借金消えないし。
私は自分の母親って、あまり好きじゃなかったね。パパっ子だったかもしれない。ヒロポ
ンだけ覚えて台湾から帰って来た。それで、その頃はこの辺の病院でヒロポン売ってたんだ
って。そういう母を、うちの父さんが支えたんだね。中毒を克服させて。仕方なかったんじ
ゃない。
父がよく言ったのは、騙されたようなもんだって。子どもが出来ない女って頼んだのに、
母さん来て。まあ、綺麗好きだったんだって。でも、お前が生まれて。お前さえいなければ、
おれはここにいなかったって。お前のせいだって。息子ともこんなになったのは、お前のせ
いだって。
私はそれですごく傷ついたの。それで調べたの。高校ぐらいのときに。そしたら、祖母ち
ゃんがすごく怒った。福島の三金鉱業の三号さんになるのかな。一号さんは、韓国からきた
人ですぐ隣に住んでいた。二号さんは、亡くなっていたから。三号さんが祖父ちゃんと住ん
でた。道路渡ってすぐに本妻さんと長男夫婦が住んでいた。祖父ちゃんと三号さんが子ども
と一緒に住んでた。私は子どもの時から祖父ちゃんのところ行くじゃない。そうすると、三
号さんが育てたようなもんよ。かわいがって。三号さんは、私の父さんと同じ年だから。私
は祖父ちゃんのところに行くじゃない。三号さんであっても、祖父ちゃんと一緒に暮らして
いるから、格からいうと上なのよ。
私は、そういうのがいろいろあって、ノイローゼになって。子どもを産んでから拒食症で
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入院することになった。そうしたら、祖母ちゃんがびっくりして、すっ飛んできた。そして、
私の父親に私の目の前で説教した。子どものせいにするなって、ガッツリ怒られた。その祖
母さんは、祖父ちゃんが字が読まない人だったから、新聞を全部読んで聞かせてたって。
当時は、そういう妾とかも普通だったし、まわりも違和感がなかった。
で、人買いみたいな職業って、昔からあって、アイヌだと嫁が来ないから、青森からかな
りアイヌのところに来ていたみたい。それは70年代くらいかな。結婚式の時に、親族が集
まって、初めて相手がアイヌだとわかったって。
ここでは、それなりに有名な家の娘がアイヌの若者と結婚するってなって、父親はノイロ
ーゼになって自殺しかけたこともあった。その娘さんは、一緒になって、今もいる。
家でも無理。育つ環境も違うし、価値観違うから。私も生理が来たときに、父親に呼ばれ
てきちっと座らされて言われた。「もし、お前がアイヌの人を好きになって結婚するってい
ったら、アボジは首つるから」って。えっ?ってなった。
「ここに住んでいたら、たくさん、
アイヌの人に会うだろう。いい人もいればそうでない人もいるだろう。それは日本人も韓国
人も一緒だ。でも、いい人であっても、家は韓国人の家だから、血が汚されるのは困る」
私は「家が穢されるの?」って聞いた。「これは、アイヌの血は三代、三代出るから、いく
ら薄くなるって思うかもしれない。でも不思議と三代には出てくる。だから、絶対に家の一
族に入れては大変なことになる」って。
高校の時に、友達のアイヌの人に「何、この腐れアイヌが」って言ったら、「何、この腐
れ朝鮮アイヌが」って言われて、おかしくてお互いに吹き出した。高校生くらいになったら、
本当にアイヌの人に向かってそういうことはなんぼなんでも言わないっしょ。それぐらい
言える信頼関係はあったんだけど、おかしくて二人して吹き出した。
「いやいや、朝鮮アイ
ヌってでたね」って言ってたら、家の父さんが、「いやお前、朝鮮アイヌは多いんだ」って
始まった。この辺あたりでも6,7人はいる。本人は知らない人もいる。だけど、綺麗だよ。
私、同級生だったけど。母親が朝鮮で、父親がアイヌだった。
だから、北朝鮮いったアイヌの人もたくさんいるよね。60年代に北朝鮮に行った朝鮮人
は半端じゃないくらいいた。それをやったのが、家の父さんだもの。口に入れ墨をしたアイ
ヌの人もいた。その当時はたくさんいた。当時は貧乏だし、差別もあって、北朝鮮に行った。
朝鮮人だって、次男坊、三男坊だったら、家督も継げないし、アイヌの女性と一緒になって、
自分の国に帰ったって食べていけない。家の父さんに言わせれば、アイヌの女性はやさしい
し、親切にしてくれて、家族愛もあるから、最初はアイヌの女性とわからないで、一緒にな
って。朝鮮人は一人、ぽんときて、寂しいところにそうやってしてくれたら、だいたい一緒
になったんですって。
稼いではアイヌの女性に貢いで捨てられてっていうのを繰り返した朝鮮の男の人もいた
よ。子ども二人いて。そして、日蓮宗の浄光寺の無縁仏にいるんだよ。私の父親よりは若か
ったけど、そのくらいの年。子どもたちと同級生だった。
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金野實氏
1934年穂別生まれ
2013 年 9 月 17 日
二風谷にて聞き取り
父親は炭焼きだったから、穂別でいろいろなところにいた。穂別のニワンに小学校があっ
て、学校のすぐ向かいの沢に住んでいた。9つくらいの時だったかな。その当時は、3軒か
4軒の炭焼きがいた。ニワンから穂別にかけては、ずいぶん朝鮮の人たちがいた。一旦、穂
別に入ってからは、あまり動かないでそこに住んでいる人たちも多かった。
私は結婚してから、自分の先祖の系譜を調べ始めたんです。それまでは食べていくのに精
いっぱいで。小学校3年生くらいの時に父親を亡くしてしまって、私たちがもらったのは位
牌だけだった。どこの寺なのかわからなくて、穂別のあちこちの寺で探したんだけど、穂別
の高台にある真光寺の過去帳でみたら、無縁であったということだった。その頃は今のよう
に立派な仏壇じゃなくて、みかん箱に位牌を置いて祀った。そして、それから真光寺に墓も
作った。
父が亡くなって、母親の弟で金野敬六という叔父がいた岩知志に小学校三年生くらいの
ときに、母親と一緒に移った。敬六さんは妻を亡くして子どもと住んでいた。その父親の金
野弥左衛門は、たぶん内地から来たんだと思うけど。岩知志には牛乳工場があって、その近
くに米を配給する場所があって、弥左衛門さんはそこで配給をしていたんです。岩知志の顔
役だったということですね。そこでは、兄弟も全部入れると15人くらいで住んでいた。
岩知志の小学校は、400人くらい生徒がいた。この辺りは鉱山で働く人たちの宿舎がぎ
っしりあった。長屋のようなね。鉱山の中に木工所があって、劇場もあってサーカスみたい
のもやってきた。私は17,8歳の頃からクロムの日東鉱山で働くようになった。坑内で働
く坑内夫だった。露天掘りは新日東で、日東は地下を掘る鉱山だった。洗鉱所というのもあ
って、そこでクロムを分ける。そのあと水で洗ったりして。洗鉱所には、女性もいて、クロ
ム鉱山は半分が女性だった。だから家族で働いていた人もいて、朝鮮の人たちもいた。
長屋は8畳間二つくらいで、そこに家族が7,8人くらいで住んでいた。銭湯もあって、
配給所も、映画館も発電所もあった。だから当時としては早くから電気が通っていた。今み
たいな電気ではないけどね。坑内では、木の枠を作って、梯子で登ったり下りたりしていた
から、命の綱は、カンテラ頼りだった。カーバイトを燃やして。私は17,8から働いてい
て、坑内では6年何か月くらい働いた。
そして、結婚した年に富山の同じ系列のクロム鉱山で勝山の方に行く予定だったけれど、
母親がまだ生きていたので、離れて暮らさない方がいいと親戚にも言われたので、希望退職
した。それから仁世宇の母親の親戚の人が入っていた長屋が一軒空いていたので、そこに入
った。そしてそこで石灰岩の削岩をする仕事をすることになった。その頃はもう削岩機があ
って、石に穴をあけて、最後はハンマーを入れて割る。そのあと、営林署に勤めることにな
った。
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仁世宇の沢には、ずいぶん朝鮮の人たちがいて、仁世宇の奥には小学校もあった。そこに
墓がないというのは、不思議だな。小学校があったところは、農家をしているのが大半だっ
た。
マルホン鉱山というのもあった、それは、糠平だ。あそこは私も営林署に入って調べにい
ったけど、学校の跡地もあったよ。私たちが入った頃には岩石に桟橋を架けてた。そして車
で入った。昭和の終わりか平成の初め頃には坑道の中の状態も調べてる。自家発電もしてい
て、かなり大規模だったはずだよ。沢の入り口には学校もあった。家の後も数軒あって、そ
の当時はまだ人が住んでた。そこのおじさんたちと一緒に私も働いた。学校があったってこ
とは、家族もいて、相当たくさんの人がいたってことだよ。今はもう、そのマルホン鉱山の
跡地も営林署でもよくわからない。もう平成7年に仕事辞めてるからね。そのあと水害が入
っているので、よくわからなくなったんだね。
阿部義雄氏(北海道アイヌ協会平取支部理事)
1941年平取町紫雲古津生まれ
2014年 8 月 13 日
二風谷にて聞き取り
淡路からの移住者が大量に来て、多くのアイヌの人々は土地を失うことになった。以前は
6 反の田と5反の畑があったのが、三分の二以上を失った。紫雲古津では、アイヌは「鍋沢」
姓が多かった。父親は和人で阿部の姓を名乗っていた。母親はアイヌだった。母親の再婚相
手は戦前にカムチャツカから渡ってきたアイヌで「鮫」姓だったが、阿部姓を名乗っていた。
鮫さんは、紫雲古津で渡船をしていた。それを見ていたので、自分自身も船漕ぎが得意で、
平取町が行っている「チプサンケ(舟下り)」を最初の年から今まで48年に渡って行って
いる。
通った小学校は、紫雲古津小学校で、かつては山の方にあったのだが、5年生の時に今の
場所に移った。小学校時代、貧しかったので、縄で編んだ長靴を履いて通ったり、弁当も持
っていけなかったこともあった。学校の先生は、アイヌの子どもをヘカチ(アイヌ語で洟垂
れ小僧)と呼んだり、同じことをしても和人の子どもは罰をうけることはなかったが、アイ
ヌの子どもは竹の棒で指を叩かれたり、バケツを持たされて廊下にたたされたりした。
和人の子どもにアイヌと馬鹿にされることが多く、その侮辱と屈辱に対する対抗は、子ど
もには単純な暴力しかなかった。それを教師がアイヌの子どもが暴力的であるとか反抗的
であるといってアイヌの子を罰した。
小学生の時、沙流川の突堤工事があり、去場と紫雲古津の辺りに飯場があった。労務者の
中には朝鮮人も多く、当時、藁ぶきの屋根だった。家に朝鮮人の人たちがやってきた。野犬
を捕えて犬鍋をしたという。わしもそれを食べておいしかったという記憶がある。朝鮮の人
たちは、戦前から富内線の工事に従事していた人もいて、幌毛志の隧道工事で朝鮮の労務者
が人柱になったのを見たと話していた。朝鮮の人たちは犬の毛皮を座布団のようにしてい
67
68
たという。
48年前に二風谷に移り、当時は大成道路で働いていたが、二風谷のドライブインで出会
った現在の奥さんと結婚をした。萱野茂さんの近所であったこともあり付き合いを深めて
いくなかで、40歳を過ぎてから、アイヌの文化と伝統に対し誇りを持つようになった。
「ア
イヌであることも、悪くない」そして、チプサンケなどの行事に協力をし、現在では、二風
谷のエカシとしてアイヌ文化の伝承を行っている。
墓地整備条例により、紫雲古津の墓地も古来からのアイヌの墓標がなくなり、遺体が掘り
起こされて大きな木の根元で焼却され、無縁の遺骨はそのまま平取町が処分した。多くの埋
葬品があり、刀や首飾りなどを見た記憶が鮮明だが、それがどうなったのかは、わからない。
山道康子・アシリ
レラ氏(北海道自然保護連合環境 NGO「沙流川を守る会」、山道職業訓
練校、山道アイヌ語学校代表)
1946年平取町生まれ
2014年 2 月 21 日
二風谷にて聞き取り
父親は、山道松男その父は、山道サントク・モトク・アイヌ。松男はその長男でした。松
男の嫁になったのは、丹野サキ。この二人の間に9人の子どもが生まれたんだけど、女の子
ばかり3人が亡くなったの。最初の女の子は流産で、二つ上の姉は三歳の時に、炭と交換し
たおまんじゅうをみんなで食べようと言って、戸棚においてあったのを一人で全部食べて、
当たって亡くなったの。もう一人も亡くなって。そうやって、女の子が三人亡くなった後に、
雷が落ちた時に生まれたのが私でした。雷が落ちて、燃えさかる中に生まれてきた子、しか
も女の子だっていうので、この子は将来どういう子になるだろうか、と母は呆れたりがっか
りしたりしたんだそうです。雷は火を呼んだり燃えたりするんで、火の元が危ないんで、一
旦、家の外に捨てましょうっていうことで、外に出されて、それから改めて人間の子として
迎え入れるっている儀式をしたんだそうです。だから一回、外に出されて窓から家の中に入
れたのが私なんです。アイヌの人は火を一番畏れたからね。私が生まれたのは、平取町大字
川向というところです。
父・松男と母・サキとの間には9人の子どもが生まれました。産めよ増やせよの時代で、
たくさんの子どもを授かったけれど、四男を妊娠した時に、産むのが大変で、舗道車から飛
び降りて腹を打ったんだけど、生まれてくる子というのは、どんなことをしても生まれてく
るもので、その子は本当に親孝行な子どもだったそうです。朝5時には自転車で学校に行く
前に、罠に仕掛ったイタチを捕まえてきて、平取の早川商店に売ってお金にして家族を助け
たって言ってました。その当時、着物の上にキツネやイタチの毛皮を羽織るのが流行ってい
て、お金になったそうです。
母親は母方が樺太アイヌで父方は朝鮮人でした。この朝鮮人の父親は、鳴門から馬喰と
68
69
して北海道鵡川に渡り、そこで口に入れ墨をしたアイヌの女性と結婚したそうです。このよ
うな朝鮮人の馬喰は当時、珍しいものではなく、静内にも多かったそうです。
そうやって明治44年生まれの祖母と朝鮮人で馬喰をしていた朴との間に丹野サキが生
まれたわけです。
サキの姉はコトといって夫は朝鮮の人でした。朴さんだけど、山口と名乗っていました。
子どもは二人いて、いつも学校帰ってから山でよく遊んでいました。この一家が1960年
代に朝鮮民主主義共和国への帰還をしました。一度、帰ったら、もう二度と会うことはでき
なくなるよ、と言ったんだけど、やはり日本で肩身の狭い思いをしているよりもいい、とい
うことで、叔母も一緒に付いていくって言ったそうです。鵡川と富内の間を兄弟だから行っ
たり来たりしていて、仕事も大山シナさんの紹介で土木関係の仕事をしていました。でも、
その人が言ってたことには、朝鮮人が道端で殺されているのや死体が転がっているのを見
たりして怖くなったのかんじゃないかということを父親が言っていたのを聞いたことはあ
ります。逃げて捕まった朝鮮人は暴行を受けていたっていうから、そうやって死んでしまっ
た人たちも多かったって。それにしても、埋めてやればいいのにとも言っていました。たぶ
ん、怖かったんだと思う。だから、その叔母さんや朝鮮人の伯父さんはそういうこともあっ
て、帰ったんじゃないかと思います。子どもの頃はその叔母さんの子どもたち、従妹ですね、
その子たちと二風谷の山でよく遊んでました。私が小学生2年から4年までは遊んだ記憶
があるので、5年生くらいの頃に帰ったんじゃないかと思います。いなくなって、寂しかっ
たんだけど、また、あの山に遊びに行こう、というくらいの気持ちしかなかったんです。あ
の頃はよくわからなかったから。また、会えるんじゃないかと思っていたし。母に「会いた
いな」って言うと、「もう一生えないんだよ」と言われて、一生会えないっていうのはどう
いう意味なのかも深く考えられなかったんですね。苛めとかもあったけど、友達も多くて、
山が好きだったから、私は救われたかな、と思います。あれから本当にどうなったのか、全
く連絡もなくて、わかりませんね。
父親は明治39年鵡川生まれのアイヌで山道松男(モトクアイヌ)である。勉強も良く出
来て字を読んだり書いたりというのが早く出来た人でした。教師になりたかったのだけど、
アイヌだからという理由で教師になれず、炭焼きをして、鵡川で丹野サキと結婚し、平取に
移住しました。昔は、字の読めないアイヌの農家の人たちがよく詐欺まがいの業者に騙され
ていたんだけど、そういう人たちの間に立って、結構裁判をしたりして助けてました。
穂別にアイヌ学校が出来たんですね。父親は、朝鮮の人たちが、ちゃんと自分たちの言葉
を使って勉強していることを見て、アイヌも自分たちの言葉を覚えなければならないこと
や歴史的なこともちゃんと知る必要があると主張したんです。そうすると、アイヌからみた
歴史を教えられることが和人の人たちにとっては都合が悪かったんでしょうね。「毛深い」
という「衛生上」の理由から、教師になることを断られたんです。それで、父親は川向に引
っ越しして炭焼きを始めたんです。旅館では炭を焼いて暖を取ったり、七輪で焼いて料理を
したりというのがあって、炭を焼くことで、生計を立てられると考えたんでしょうね。旅館
69
70
に炭何俵かと米一俵を交換していたようです。そういう話を兄たちとしていたのを覚えて
います。私も、学校に行く前に炭焼の手伝いをさせられて、目の周りがまっ黒になって、タ
ヌキみたいになって、いくら洗っても目の縁だけがとれなくて。学校に行ったら、「やーや
ー康子さんの目がタヌキ」って言われたのを覚えているんですけど、アイヌの子どもが多か
ったから、タヌキって言われるくらいならいいやって、許せるわ、って能天気だったから思
ってた。でも、学校から帰ってきて、
「タヌキって言われた」っていうと、
「炭はどうしても
とれないからな。瞬きをすると目じりのところは特にとれないからな」って言われた。
父親は、必ず、空の俵を積んでるんですね。真ん中に。それは何故なのかわからなかった
けれど、母親もわかってたんだろうけど、何も言わないの。「こぼれた時の予備かね」とか
って。そういうこともあるのかなって思っていたけど、ある時は、その真ん中の炭俵がぱん
ぱんで、旅館を回って売ってきた時にはぺちゃんこになっていたこともあった。
中学生になって初めて、それが、実は強制労働の現場から脱出してきた朝鮮人たちを匿い、
炭俵で囲って苫小牧まで馬車で運び、逃がしたのだということを聞いたの。朝鮮の人はふん
どし一丁で逃げてきたから、穴だらけでもなんでも、とりあえず自分の服を着せて、逃がし
たみたい。日高の方で大木を切って、沙流川を流送で運んでいたのね。その流送人夫に紛れ
て逃がしたみたいですけどね。その当時の流送をしていた人たちは、やっぱりアイヌの人た
ちが多かったんですよ。結局、そういう危険な仕事には、朝鮮の人やアイヌの人たち、度胸
も座ってたし、うまかったんだと思うの。流れてくる丸太を転がしながら、港まで持ってい
くんだから。そうやって逃がしたって言ってました。だから、父親は相当、頭が回ったんだ
と思いますね。
逃げてきたのは、幌毛志の鉄道や隧道工事の現場から。一旦、切断されている隧道のとこ
ろを越えて、空の炭俵を一つ積んで、一人ずつ、穂別のシナ叔母さんのところに運んで行っ
て、向うにも旅館があったんで、そこでまた一人連れてきてって。シナ叔母さんもよく言っ
ていましたけど、トウモロコシの畑のなかで、火を焚いてトウモロコシを食べてたって。で
も、それを言ったら、殺されるだろうと思ったから、黙って見て見ぬふりをして通っていっ
たら、帰る時には、頭下げてたって。それで塩つけたおむすびや焦げのついたおむすびを持
たせてあげたって。その安住の大山シナさんという人は、神か仏かっていうくらい、いい人
だった。あの頃は道路っぷちでもどこでも死体が投げられてたって言ってた。だから、花を
供えたり、タバコを粉にして供養したりしてた。だから、私は小さい頃、富内のおばさんの
ところに行きたいっていって、おふくろによく怒られてた。
父親はそうやって、姉のところのに行ったら、戻ったら大変だからって、苫小牧まで金輪
の馬車で炭俵の中に朝鮮人を匿って逃がそうとしたけれど、逃がそうとしても逃がしきれ
なかった朝鮮人を自分の妹と結婚させることもあった。そうして一緒になったアイヌの女
性も少なくなかったし、また、それだけではなく、親戚、友人、知り合いなどにも紹介し、
命を助けることになとる説得し、一緒にさせたんです。父は弁の達つ人だったし、酒、賭け
事もしない人だったから信用もされてた。あの人が紹介する人ならって。だから、世話役み
70
71
たいなもので、一緒になった後も喧嘩したら呼ばれたりしてたった。
安住に住んでいた叔母大山シナ(サキの姉)は、逃げてきた朝鮮人を匿い逃がしたり、変
なにおいがすると思ってみると、犠牲者の遺体があったりしたのを見てきた。道路の脇にも
死体が転がっていたりというのを見て、タバコを供えたり、太鼓を叩いて供養したという。
安住の墓地は昔、そこになかった。今の共同墓地になっているところは、開拓してきた和
人たちのお墓で、そこでは強制労働の朝鮮人たちも焼かれて埋められていたところだった。
昔ながらのアイヌの墓は、富内へ行く橋を渡って右側にあった。旭岡も、同じで、昔アイヌ
の墓だったところは、今は学校になってる。開拓の人たちがアイヌの墓地とは別のところに
共同墓地を作って今の墓地になっているの。昔、墓地だったところには、家を建ててはいけ
ないからね。学校や幼稚園は大丈夫だけど。春日でもそうなんです。アイヌの墓地と一緒に
なりたくないと、開拓の人たちは、反対側に墓地を作ったの。何年か前に、春日の方に行っ
たとき、アイヌの人の墓はどこにあるのか、地元の人に聞いたら、「ああ、土人の墓か」っ
て言われた。
また、親戚で朝鮮人と一緒になった叔母とその娘二人は、春日に住んでいたが、1960
年代の朝鮮民主主義共和国への帰還事業のなかで、共和国へ移住した。つまり、この時期、
朝鮮人と結婚していたアイヌ女性やその子どもたちが共和国へと移住していることになる。
なかには、口に入れ墨をいれたアイヌ女性もいたのである。
夫の和男は、戦前、白老に来ていた朝鮮人の夫婦の間に生まれた子で、その夫婦が殺され、
白老のアイヌに育てられていた。穂別から白老に行ったときに、そういう子がいると聞いた、
貝沢八之助さんという人が、馬橇で和男さんをもらいに行った。そこで大切に育てられて、
和男はは八之助さんを生涯、尊敬していた。妻のカヨさんという人は養母になるのだけど、
八之助さんが亡くなって、二谷善之助さんと再婚しましたが、和男はずっと貝沢姓を名乗っ
ていた。二谷さんの娘は、国会議員になった萱野茂さんの妻で、萱野さんとは遠縁になるわ
けです。血の繋がりは全くないけれどね。貝沢八之助さんは、雪崩で亡くなった。骨も探し
ても出てこなくて、それで無縁に入ってしまった。
私の子どもは、アイヌと朝鮮の間に出来た子だから、親の方が心配していたんですよ。夫
の方は、この子たちは、アイヌとか朝鮮とかいじめられるんじゃないかって。ところが、全
然、そういう心配はいらなかったんですよ。私の方が能天気だったせいか、のびのびと育っ
てくれて。
私は、子どもたちにもアイヌ語を教えたり、アイヌ文化を伝えたりしてきました。多いと
きで50人くらいが、山道アイヌ職業学校で寝起きしてたんです。そのころ、他のアイヌの
人たちからは、今さらアイヌ語なんてやってどうするんだって言われてました。でも今では、
息子たちの中から白老で文化伝承者として活躍している子もいます。そのころ、子どもたち
は、どういう意味なのかわからなかったと思います。ただ、喜んでやっていたし、歌や踊り
をすることで、みんなを元気にしていたことや、珍しいお菓子をもらえたっていう、そうい
うことでやっていたと思いますよ。
71
72
<2013 年度 学術シンポジウム報告>
第9回学術シンポジウム・フィールドワーク
2013 年8月17日(土)18日(日)19日(月)
“アイヌモシリにおける植民主義”
シンポジウム会場
●苫小牧駒澤大学 C103 教場
北海道苫小牧市錦岡 521-293
シンポジウム主催 ●「アイヌモシリ記憶表象」研究プロジェクト
フィールドワーク主催 ●東アジア教育文化学会
協賛 ●苫小牧駒澤大学環太平洋・アイヌ文化研究所 北海道フォーラム
学術シンポジウム報告
8月17日(金) 受付 12:30~
シンポジウム
13:00~17:00
* 植木哲也(苫小牧駒澤大学)「北大殖民学の記憶 」
* 蔡鴻哲 (北海道フォ-ラム共同代表)「朝鮮人労務動員と強制労働・遺骨発掘」
* 石純姫(苫小牧駒澤大学)
「北海道における朝鮮人の移住 アイヌ民族とのつながりー表象と記憶の継承をめぐって」
フィールドワーク
第一日 8 月18日(日)
白老「民族共生の象徴空間」構想を検証する
平取 アイヌ民族と朝鮮人の共生の場所を辿る
第二日 8月19日(月)
札幌 朝鮮学校訪問
72
73
東千歳駐屯地・慰安所跡地
本シンポジウム・フィールドワークは科学研究費基盤研究(C)「北海道における朝鮮人の移住 アイヌ民族とつながりにおける重
層的アイデンティティー」2012~2014年度(研究代表 石純姫)の助成金によるものです
NEWS
LETTER
No.10
東アジア教育文化学会
2013 年 3
月 28 日発行
●編集
東アジア教育文化学会運営委員会
●発行
東アジア教育文化学会
〒184-8501 東京都小金井市貫井北町 4-
1-1 東京学芸大学教育実践研究支援センター大森研究室気付(JAPAN)●Fax 042-329-7350
●E-mail omori@u-
gakugei.ac.jp
●振込先
三菱東京UFJ銀行
国分寺支店
普通 1675541 東アジア教育文化学会 渡辺雅之
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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● 第 9 回学術シンポジウム・フィールドワークに向けて
東アジア教育文化学会運営委員会
第 8 回学術シンポジウムの総会(2012 年 8 月 19 日)では、2013 年 8 月下旬に、北海道
の苫小牧駒澤大学の近くにある研修施設等を会場にして、第 9 回学術シンポジウム・フィ
ールドワークを開催することを決定しました。そのフィールドワークについては、北海道に
おける歴史記憶の闘争(朝鮮人の強制連行・労務慰安所・アイヌ民族の歴史)の場を巡るこ
73
74
となど、総会参加者から多くの要望も出されました。あと 5 ヶ月間の準備期間をつかって
意味のある集会をつくっていきたいと思います。
さる 2 月 7 日、開催地の運営委員である石純姫さんより、
「第9回学術シンポジウム・フ
ィールドワーク要綱案」の提案がありましたので以下に掲載いたします。ご意見ご質問を運
営委員会連絡担当(大森直樹 [email protected])までいただけるようお願いします。
あわせて、石純姫さんには、連載「北海道で朝鮮人とアイヌ民族は記憶されているか」の執
筆をお願いしたところ、ご寄稿を得ましたのでここに第 1 回をお届けします。
● 開催要綱案
趣
旨
この間、北海道では強制連行をはじめとする朝鮮人の被害事実の解明が進められてきた
こと、歴史問題の記憶の表象について会員による研究報告が重ねられてきたことをふまえ、
本集会を開催します。とくに第 2 日と第 3 日のフィールドワークでは、アイヌ民族の遺骨
返還問題と朝鮮人の強制連行に関連する各地を巡り、どのような記憶と記録によって、アイ
ヌ民族と朝鮮人の歴史が継承され、表象されているのか、あるいは、忘却されているのかに
迫ります。あわせて、各会員が設定した課題(会則 2 条参照)による研究報告の場も用意し
ます。
日
程
第1日
2013 年 8 月 17 日(土)シンポジウム・総会
第2日
18 日(日)フィールドワーク(平取町二風谷
第3日
19 日(月)フィールドワーク・解散
山道アイヌ職業学校にて宿泊)
フィールドワーク候補地
①白老
ポロト湖畔/アイヌ民族博物館/「白老アイヌ民族共生象徴空間」予定地
②平取町本町共同墓地慰霊碑
③旧富内線栄駅跡/朝鮮人犠牲者埋葬場所
④安住共同墓地/朝鮮人労務者
⑤幌毛志随道跡地/朝鮮人宿舎跡地
⑥振内共同墓地/無縁碑/犠牲者埋葬場所
⑦千歳「慰安所」跡地
⑧千歳第七師団資料館/朝鮮人犠牲者埋葬場所
■北海道で朝鮮人とアイヌ民族は記憶されているか
【連載】
第1回
平取町「振内共同墓地」
74
75
石
純
姫
ふれない
平取町振内は、戦時期に時局産業であったクロム鉱山により活況を帯びる。特に八田鉱山
から産出されるクロムは日本国内の総産出量の60%を占めていたこともある。そのため、
振内には多くの鉱山労働者が移住し、少なくない朝鮮人もいた。振内の隣の岩知志地区まで
も含めると、日東鉱山や新日東鉱山など、クロム鉱山の密集地域でもあった。
それらの朝鮮の人々は家族で定住していた例もあるが、1939年以降には、クロムを運
搬するための鉄道として富内線の敷設と随道工事のために朝鮮人労務者が大量に動員され
ている。
特に、幌毛志の二つの随道工事では大変多くの犠牲者が出ていたことが、地元の方々の証
言からわかるようになった。しかし、これらの証言もようやく得ることが出来たもので、朝
鮮人の労務者がいたことさえ、これまで平取町史にはひとことも記されてこなかったので
ある。
さて、この振内地区でも墓地整備条例により、土葬になった遺体は掘り起こされ、いった
ん焼かれてから埋めなおされていった。それは1970年代後半のことである。親族がいる
場合は、新しく立派な墓が作られていったが、身寄りのない方たちの遺骨は無縁墓地へと埋
葬されることになった。振内の共同墓地には「南妙法蓮華経」とだけ刻まれた無縁の碑があ
った。町役場の職員からの説明はそれだけであった。しかし、特定の宗教的供養が町の公的
な無縁碑であるはずがなく、これは日蓮宗の有志によって建立され、長く無縁碑としてそこ
に存在していたのである。
ところが、筆者が振内の郷土史の執筆を依頼されて調査をすすめるなか、この共同墓地に
埋葬されている朝鮮半島出身者たちの埋火葬認許書を得ることができた。日本名になって
いる方もいたが、本籍は朝鮮で、死因や死亡した場所・時間などが記録されている。当時の
村長・堂前氏の書名のある公的文書である。私はこのことについて郷土史に執筆したが、郷
土史編集委員会はこの記述を載せることを拒否した。執筆者である私に対して稚拙な恫喝
やいやがらせなどが編集委員によって繰り返され、郷土史は朝鮮人の埋葬事実を載せない
まま2010年3月に出版された。
そして、奇妙なことに2010年3月に、これまでの日蓮宗の無縁碑の横に、平取町が無
縁の碑を建立したのである。郷土史に具体的な歴史的事実を記録することはできないが、町
がようやく無縁碑を建立したという事実である。これは、他の地区での無縁碑建立から約半
世紀近くも遅れてのことである。
しかしながら、この無縁碑の下に眠る遺骨は、当然「無縁」ではない。名前があり、本籍
があり、家族もいる、朝鮮の人々なのである。2011年11月、苫小牧駒澤大学の学生と
教員とともに埋火葬認許書に書かれた名前を石に書き、無縁碑の前においてきたことは別
稿にも書いたところである。
ところが、さらに驚くべき事実が2012年8月に明らかになった。墓地整備条例により、
土地をブルドーザーで整地していたときに、わけのわからない大量の遺骨が出てきたとい
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76
う。あまりにも大量であったため、手をつけることができず、ブルドーザーでそのまま集め
て小さな山になっているというのである。実際、共同墓地の中央あたり、無縁碑から数十メ
ートル離れたところに、小さな盛り上がった場所があり、草や小さな潅木に覆われていた。
大量の遺骨が出てきて現在のような状況になっているということは、当時、墓地を整地し
ていた土建業者の知り合いの石材屋の方からの証言を得たことからわかった。整地してい
た方はすでに20年前に亡くなり、そのことを聞いた石材屋の方も、知っているのは自分だ
けだろうという。町役場では、こうした事実について、いっさいの資料は存在しないと主張
しており、また資料を保管しておく義務もないと述べている。
この共同墓地のすぐ下にはかつて川口組の飯場があり、埋火葬認許書に記述されている
死亡場所がポロケシオマプという川口組飯場になっているものも数人あった。しかし、土建
業者の証言のように、手がつけられないほど大量の遺骨であるとするならば、埋火葬認許書
など発行されてもいない多くの犠牲者の遺体である可能性は非常に大きいと思われる。川
口組は室蘭において、1944年から1945年の1年間で中国人労務者930人のうち
310人の犠牲者をイタンキ浜に埋めていたという事実が明らかになっている。振内の共
同墓地から出てきた大量の遺骨が、鉄道敷設・随道工事に従事した朝鮮人労務者である可能
性は非常に大きいと考えられる。この件についても、今後、さらに調査を進めていく予定で
ある。
(ソクスニ
苫小牧駒澤大学)
東アジア教育文化学会活動記録
■第 7 回学術シンポジウム
日時●2011 年 8 月 28 日(日)~29 日(月)
会場●大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス(東京都港区)4階中研修室
【第 1 日】
13:30~17:20 研究報告
司会
黒尾和久
王智新「近代日本知識人の中国認識について―「九一八」
(満洲)事変 80 周年を記念し
て」
石純姫「記憶の狭間
朝鮮人とアイヌ民族のつながり」
大森直樹「東日本大震災と教育現場の課題」
善元幸夫「「3・11」後の教育の課題-震災と歴史問題」
【第 2 日】
9:00~11:40 研究報告
司会
広瀬義徳
橋本栄一「石刻における人権問題」
李美愛「在日朝鮮人運動史における博物館運動―在日韓人歴史資料館を中心にー」
君塚仁彦「公立博物館制度の「改革」と歴史的意味」
76
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総
11:40~12:30
会
■第 8 回学術シンポジウム記録
課題研究テーマ「政権交代と歴史研究の課題」
日時●2012 年 8 月 19 日(日)
会場● 大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス(東京都港区)4階中研修室
課題研究報告
石
純姫「レイシズムの現在・記憶の闘争-アイヌ民族副読本書き換え問題・朝鮮人遺
骨・表象-」13:00~14:00
君塚仁彦「在日朝鮮人ハンセン病回復者の「記憶」とその歴史的意味」14:05~14:
55
研究報告
川元祥一「福島の田植踊・予祝儀礼-3・11 後の教育文化の課題」15:10~16:00
平山朋子「墨田の教育労働運動-評価制度と 3 つの連帯」10:30~11:20
大森直樹「政権交代と教育現場-教育の条件整備を中心に」9:30~10:20
16:00~17:00
総会
■第Ⅷ期事業報告 2012 年 8 月 19 日総会承認
1.第 8 回総会開催
日
時
2012 年 8 月 19 日(日)16 時~17 時
会
場
大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス(東京都港区)4階中研修室
2.第 8 回学術シンポジウム開催
3.本会の目的に合致すると運営委員会が認めた事業の実施
1)東アジア教育文化研究シリーズ 2 の編集
4.運営委員会開催
1)第 21 回(第Ⅷ期第 1 回)
日
時
2012 年 4 月 21 日(日)11:00-13:00
会
場
東武デパート 2 階喫茶室(東京都豊島区)
出
席
石純姫・大森直樹・又吉盛清(委任状)
審議事項
1.今後の学術シンポジウム・フィールドワークについて
■第Ⅸ期事業計画 2012 年 8 月 19 日総会承認
1.第 9 回総会開催
77
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2.第 9 回国際学術フィールドワーク・シンポジウム開催
3.本会の目的に合致すると運営委員会が認めた事業の実施
4.運営委員会開催
■第 22 回運営委員会(第Ⅸ期)
日時
2012 年 11 月 22 日木曜午後 1 時 30 分~3 時
場所
恵比寿アトレ内「つばめグリル」
参加
以下の方々から事前連絡を頂いたことをふまえ石純姫と大森直樹が参集。
又吉盛清
趙軍
君塚仁彦
黒尾和久
内容
1.来夏の国際学術シンポジウムフィールドワークの日程案について
2013年 8 月 17 日(土)~19 日(月)
第 1 日シンポジウム及び総会
第 2 日フィールドワーク
第 3 日フィールドワーク及び解散
とすることを運営委員に提案する。
2.日程案の詳細について
今後、開催地運営委員の石純姫より素案の提出を得て、運営委員によるメールでのやり
とりを重ねて、開催要項案を策定する。
以上
LETTER
NEWS
No.11
東アジア教育文化学会
2013 年 6
月 11 日発行
78
79
●編集
東アジア教育文化学会運営委員会
●発行
東アジア教育文化学会
〒184-8501 東京都小金井市貫井北町 4-
1-1 東京学芸大学教育実践研究支援センター大森研究室気付(JAPAN)●Fax 042-329-7350
●E-mail omori@u-
gakugei.ac.jp
●振込先
三菱東京UFJ銀行
国分寺支店
普通 1675541 東アジア教育文化学会 渡辺雅之
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
―――――――
● 第9回学術シンポジウム・フィールドワーク開催要綱(13
年6月 11 日版)
1.会期
2013 年 8 月 17 日(土)18 日(日)19 日(月)
2.メインテーマ
アイヌモシリにおける植民主義
3.シンポジウム会場
苫小牧駒澤大学
4.主催
東アジア教育文化学会
協賛
北海道苫小牧市錦岡 521-293
苫小牧駒澤大学環太平洋アイヌ文化研究所
北海道フォーラム
5.開催趣旨
近代における日本のアジア侵略と植民地支配に先立ち、アイヌモシリ(アイヌ語で人間
の静かな大地)では、前近代期からもアイヌ民族に対する侵略と迫害が行われてきました。
アイヌ民族が日本の歴史のなかでどのように記録され表象されてきたか。この問いは、日本
の歴史における琉球・沖縄の位置について、また、東アジアに拡大した日本による植民地支
配について、認識を深めるうえでも欠くことができないと私たちは考えています。
近年、前近代期における和人の搾取や迫害を軸にした歴史観に代わり、対等な交易の相手
としてアイヌと和人が「共生」して来たとする言説が多くの場で見聞されるようになってい
ます。これらの歴史観がどのような意図のもとに展開され、東アジアの社会と文化にいかな
る影響を及ぼしていくのか。状況は予断を許しません。
そうした中でも、近代の北海道の「開拓」の物語のなかで隠蔽され歪められてきた多くの
史実について、それらに改めて光を当てて掘り起こす作業が、民衆史研究や市民運動によっ
て続けられてきました。その地道な調査研究の成果が、これまでの行政の歴史観や施策を変
更させる契機となったものもあります。朝鮮人強制連行・強制労働の調査、遺骨発掘と返還
は、北海道の一部の自治体の郷土史の書き換えを促し、今日まで 30 年以上、持続した市民
運動として広がっています。
しかし、それと同時に、朝鮮学校や在日朝鮮人に対する暴力やレイシズムを煽る言動は一
層強くなっています。いま日本社会では、そうしたレイシズムを許容し支持する風潮さえも
が形成されつつあり、さらには、一部の過激なレイシスト集団や保守派からの批判を避ける
ために、少しでも「危険性」のあるテーマにはあえて触れないという傾向が強まっています。
このような現状において、今こそ、私たちの眼前に存在する重要な歴史的課題について認識
を深め、発言していくことが必要だと考えます。
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また、圧倒的な差別と抑圧のもとにあったアイヌ民族と、植民地支配のなかで底辺の労働
力としてあるいは強制的な労務動員によって北海道に移住してきた朝鮮人について、両者
の間の前近代期・近代期・戦後を通じた複雑で重層的な繋がりも明らかになりつつあります。
この問題は、これまで民衆史のなかでも語られることはなかったのですが、植民地支配がも
たらす抑圧と排除の構造と、そのなかでつくりだされてきた多様な連帯と抵抗は、圧倒的な
グローバル化が進む現在において非常に重要な視点ではないかと考えています。
2013 年度の東アジア教育文化学会は、北海道における歴史記憶(朝鮮人強制連行・強制
労働、アイヌの歴史)をテーマとして以下の日程でのシンポジウムとフィールドワークを開
催いたします。多くの方々のご参加を期待しています。
6.日程
第 1 日 [定員 100 名] 8 月 17 日(土)
千歳空港 30 番バス乗り場集合
飛行機参加者の集合
11時00分
シンポジウム受付
12:30~
シンポジウム開催
13:00~17:00
総会
17:20~19:00(会員による研究経過交換(各人資料持参紹
介 3 分)を含む)
第 2 日 [定員 20 名] 8 月 18 日(日) フィールドワーク①
9:00~18:00
第 3 日 [定員 20 名] 8 月 19 日(月) フィールドワーク②
9:00~15:00
7.内容
■第 1 日
シンポジウム
北大殖民学の記憶(植木哲也・苫小牧駒澤大学)
朝鮮人の強制連行・強制労働・虐殺・遺骨発掘(蔡鴻哲・北海道フォーラム共同代表)
近代期における朝鮮人とアイヌ民族(石純姫・苫小牧駒澤大学)
■第 2 日
フィールドワーク①
白老「民族共生の象徴空間」構想を検証する
平取・むかわ
アイヌ民族と朝鮮人の共生の場所を辿る
平取本町無縁碑
幌毛志随道
振内遺骨埋葬場所
安住共同墓地
旧栄駅遺体埋葬
場所
■第 3 日
フィールドワーク②
札幌
朝鮮学校訪問
千歳
朝鮮人埋葬場所
慰安所跡地
8.参加費
シンポジウム参加資料費
フィールドワーク参加費
1,000 円
10,000 円(空港から 3 日間のバス代、17 日の宿泊費・夕食
費)
学会年会費(正会員)
3,000 円
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宿泊・食事
8 月 17 日(土)苫小牧市アルテンキャンプ場コテージに宿泊。
18 日(日)は平取町の山道職業訓練校にて宿泊。無料です。
18 日以降の食事代は各自の負担となります。現地までの往復交通費は個人負担となりま
す。
9.参加資格
本紙掲載の「開催趣旨」に同意する方ならどなたでも参加できます。
10.申し込み
フィールドワークは事前申し込みが必要。シンポジウムは当日会場に
て受付。
東アジア教育文化学会
〒184-8501
東京都小金井市貫井北町4-1-1
ター大森研究室
ファクス
042-329-7350
フィールドワーク参加申込票
東京学芸大学教育実践研究所支援セン
Email
[email protected]
以下の内容を上記ファクス番号またはメールアドレス
までお届けください。(8月10日まで)
お名前
参加受付確認送付先
所属等
申し込み
月
日
〒
ファクス番号
電話番号
メールアドレス
北海道で朝鮮人とアイヌ民族は記憶されている
か
【連載】第 2 回
白老「民族共生象徴空間」
石
純
姫
2008 年 6 月、前年の国連総会における「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の採択
を受け、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院で採択された。この
ような決議が全会一致で採択されたことは、中曽根元首相の「単一民族」発言などを振り返
れば、ある意味では画期的でもあった。
ところが、この先住民決議の後、2009 年に提出された「アイヌ政策のあり方に関する有
識者懇談会」報告には、最も重要なアイヌ民族の先住権や、政府のアイヌ民族に対する謝罪
や具体的な補償が提示されないまま、観光を中心に据えたアイヌ民族の文化と歴史の発信
拠点として白老の「民族共生の象徴となる空間」構想が提言された。
この「民族共生の象徴となる空間」とは、「先住民族としてのアイヌの尊厳を尊重し、ア
イヌ文化が直面している課題に対応しつつ、我が国が将来へ向け、多様で豊かな文化や異な
る民族との共生を尊重する社会を形成するためのシンボルとなる」ことを謳い、展示、体験、
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交流、文化施設周辺の公園機能、アイヌの精神文化を尊重する機能を備えるとしている。そ
の内容は、歴史・文化等の総合的・一体的な展示、実践的な調査研究、伝承者等の人材育成
などを掲げているが、この「象徴空間」の際立った特徴は、「アイヌ精神文化を尊重する機
能」として、「大学等にあるアイヌ人骨のうち、遺族等への返還の目処が立たないものは、
国が主導して象徴空間に集約し、尊厳ある慰霊に配慮」とする部分である。
江戸時代末期からアイヌ人骨の盗掘は行われていた。学問の名においてアイヌ民族の尊
厳を徹底的に蹂躙する人骨盗掘が大規模に行われて来たが、北大に遺骨返還を求める訴訟
が 2012 年 9 月 15 日から始まり、人骨返還訴訟と同時に隠匿罪をも問う姿勢である。
現在、北大の動物実験室から発見されたアイヌ民族の遺骨は動物実験室の隣に立てられ
た納骨堂に 1000 体を越えて納められている。返還を求めるアイヌ民族の声はいまもまだ踏
みにじられている。白老の「象徴空間」の「尊厳ある慰霊」とはどのようなものなのか。北
大をはじめとする東大、
大阪大などに保管されているアイヌ民族の人骨は 1500 体を超える。
2012 年 5 月 12 日(土)、新ひだか町静内シャクシャイン記念館において、「松浦武四郎
の碑」の建立式が行われた。江戸時代、幕府の任により蝦夷地の「調査」を行った武四郎を
顕彰しての碑であり、静内、様似からのアイヌ協会のメンバーが動員された。
松浦武四郎は、アイヌの人々の協力を得て現地調査を遂行した。アイヌ民族の悲惨な状況
を記録し、その救済を幕府に提言したことでも知られている。彼の業績を顕彰する研究者は、
武四郎の優れた人格やアイヌの人々に愛されたことを、ことさら強調する。このような碑の
建立は、日本人にとっての一種の免罪符ともいえるのではないだろうか。
建立式典には町長代理やアイヌ協会支部長の挨拶と除幕式があり、その後、「勉強会」と
交流会が続いた。
「勉強会」では、北海道大学アイヌ・先住民研究センター教授の 20 分ほど
の講義が行われた。「気分を害される方もいるかもしれませんが・・」と前置きして始まっ
たスライドを使用した講義は、以下のとおりである。
伊勢の神職の子、秦檍麿(はたあわきまろ・村上島之丞)は 1789 年(寛政 10 年)に蝦夷地に入
り、その見聞を『蝦夷島奇観』にまとめている。シベチャリに流れ着いた身分の高い女性を、犬が食
べ物などを持ってきて世話をしているうちに結ばれ、そこから生まれた子孫がアイヌとなったという
伝承である。アイヌの祖先は人間の女性と犬との間に生まれたという「奇譚」からアイヌ蔑
視、差別が反映された言説であるとも説明した。このような伝承は東欧などの狼伝説などと
も類似しており、これが江戸時代、蝦夷地に伝わっていたというよりは、同じような話とし
て静内にもあったということが驚きであると同時に貴重なのだと述べた。そして、現在白老
に建設が決定した国立アイヌ博物館における象徴空間において、アイヌ観光として白老に
一歩遅れを取っている静内においては、このような伝承こそを観光の戦略として用いては
どうか、という驚くべき提言で結んだ。
この教授は今回だけでなく、この『蝦夷島奇観』の伝承を 2011 年 11 月 9 日の「みんぱ
くゼミナール」においても紹介している。つまり、近代以降アイヌ蔑視の格好の象徴として
機能してきた伝承は、すでに忘れ去られているわけだが、それを再び呼び覚まし、静内だけ
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でなく、白老に建設予定である象徴空間の中心的な表象として位置づけようとしているの
である。
この講演の質疑応答で、アシリレラ氏(日本名山道康子氏:山道アイヌ職業学校主催・沙
流川の自然を守る会代表)は反論を述べた。「私たちアイヌは文字を持たない民族です。で
も『日本書紀』や『続日本書紀』には逆説としてのアイヌの歴史が残されているのです」
アイヌ民族の先住民族決議が採択された一方で、先住民としてのアイヌではなく、江戸時
代に犬と人との間の末裔としてのアイヌ伝承を「観光」の呼び水にしてはどうかという提言
は、まさに「アイヌ民族の尊厳」とはかけ離れたものであることは言を待たない。アシリレ
ラ氏のこの反論は、まさに歴史の記述と継承における歪曲と捏造の本質とともに、白老の
「象徴空間」の欺瞞を正確に的確に批判したものだった。
アイヌ民族を蔑み嘲るためにどれほどの伝承がまことしやかに捏造されてきたのか。そ
のことに対する批判どころか、その伝承をヨーロッパの伝承との類型から賛辞し、それを観
光の要にとまでいう、その感覚とは、アイヌ民族への決定的な愚弄と嘲笑でしかないのでは
ないか。日本で行われているアイヌ研究とその研究者たちの厳然たる差別意識は巧妙に隠
されながら、通用する符牒としてさらに増幅し続けている。これらの「勉強会」を強いられ
たアイヌ協会の人々の屈辱はいかなるものであったのだろうか。
白老象徴空間は、慰霊と研究の総合センターとして全国から総てのアイヌ人骨を集め、
「合祀」するというものである。これまで日本人による差別と抑圧を受け続け、先住民とし
ての先住権さえ回復されず、遺族への遺骨の返還もなされないまま「ナショナルメモリー」
としてアイヌ民族が回収されていくことは、絶対に許されるものではないだろう。
研究短信
戦後の日本では、靖国神社を利用した軍国主義教育が禁止されてきた。その基本文書が
1949 年 10 月 25 日、文部事務次官通達「社会科その他、初等および中等教育における宗教
の取扱について」だった。
「学校が主催して、靖国神社、護国神社(以前に護国神社あるいは招魂社であったもの
を含む)および主として戦没者を祭った神社を訪問してはならない。」
(以下「次官通達
の一節」)
2008 年に顕在化したのが、この「次官通達の一節」を失効させる動きだった。同年 3 月
27 日、文部科学大臣渡海紀三朗は、第 169 国会の参議院文教科学委員会において、議員衛
藤晟一(自民党)の質問に応じて、
「次官通達の一節」について、
「靖国神社等の取扱いにつ
いては既に失効している」と答弁。5 月 23 日には、内閣総理大臣福田康夫が、衆議院議員
平沼赳夫(当時無所属)の質問に応じて、「次官通達の一節」について、サンフランシスコ
講和条約発効により「覚書」が効力を失ったことをもって「失効したものと考える」と記し
た政府答弁書を、衆議院議長河野洋平に送付している。この政府答弁書は、「学校における
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授業の一環として、歴史や文化を学ぶことを目的として」
「靖国神社等についても」
「訪問し
てよい」とする文部科学省の見解を明記するものでもあった。08 年はどんな年だったろう
か。イラク戦争への自衛隊派遣を無視することができない。04 年 1 月、空自・海自・陸自
本隊に派遣命令。08 年は、12 月 23 日に空自の最後の輸送隊員約 140 人が帰国した年だっ
た(翌年は「イラク復興」のため派遣)。(大森直樹)
開催校から
苫小牧駒澤大学
石
純姫
第 9 回東アジア教育文化学会・「アイヌモシリ記憶表象」研究プロジェクト主催共催のシ
ンポジウム・フィールドワークの開催が近づいてまいりました。
様々な閉塞感は、いつの時代にもありましたが、多くの大学を取り巻く環境は、現在、
非常に厳しい状況です。財政的基盤の脆弱化、自治権の実質的喪失、学問や思想信条の自
由が本当の意味で保証されていけるのか、まさに今が分水嶺なのかもしれません。
橋本大阪市長の「従軍慰安婦」に関する発言や安倍首相の「侵略の定義」をめぐる発言
など、アジア侵略と性暴力を正当化する流れは、日本の公的見解になりつつあり、1996 年
からの「新自由主義史観」が登場して以降、ネットでしか情報を得ない若い世代において
は更には過激な排外主義が主流となりつつあるといっても過言ではない状況です。圧倒的
なグローバル化が進行するなか、世界各地で過激なヘイトクライムが繰り返されていま
す。
この流れに抗うことは可能なのでしょうか。私たちが、どのような出来事を記憶として
継承していくのか、その表象がどのようなものであるのかを、厳しく問わなければならな
いでしょう。そこには、他者を恣意的に作り出し、執拗に周到に重層的な抑圧を再生産し
たうえ、それを注意深く排除してきた記憶の継承と表象の重大な問題があります。
このシンポジウムとフィールドワークを通して、北海道における記憶の継承と表象、そ
してそれをめぐる大きなうねりと実践について検証していきたいと思っています。多くの
問題を議論し、新たな問題提起とその解決に向けて、実り多い時間でありますことを祈念
しています。
夏とはいえ、蝉時雨や噎せ返るような草いきれとは無縁の北海道・苫小牧です。日中は
爽やかに晴れ渡る平取も、夜は特に冷え込みますので、軽い防寒衣類もご用意ください。
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第 9 回「東アジア教育文化学会」学術シンポジウ
ム・フィールドワーク
2013 年 8 月 17 日(土)18 日(日)19 日(月)
於
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苫小牧駒澤大学
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東アジア教育文化学会・「アイヌモシリ記憶表象」研究プロジェクト
苫小牧駒澤大学環太平洋アイヌ文化研究所 ・北海道フォーラム
86
共催
協賛
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フィールドワーク 案内
第一日目
8 月 18 日(日)
午前 8 時 30 分
午前 9 時
アルテン出発
①白老アイヌ民族博物館/「白老アイヌ民族共生象徴空間」予定地
白老アイヌ民族博物館学芸員
午前 10 時~11 時 30 分
中村斎氏による案内・説明
白老~平取移動
午前 11 時 30 分頃
②平取町本町共同墓地慰霊碑
午前 12 時 30 分頃
③旧富内線栄駅跡/朝鮮人犠牲者埋葬場所
午後 1 時 30 分頃まで
午後2時頃
昼食(きよもと)
④安住共同墓地及び周辺
午後 2 時 30 分頃
⑤幌毛志随道跡地/タコ労働者朝鮮人宿舎跡地
午後 3 時 30 分頃
⑥振内共同墓地/無縁碑/犠牲者埋葬場所
午後 4 時 30 分頃
二風谷
アイヌ博物館/二風谷ダム周辺散策など
午後 6 時以降
山道職業訓練校
午後 7 時~
金
時江氏
自由時間
アイヌポロチセ等で宿泊
一人芝居
フィールドワーク討議
第二日目
8 月 19 日(月)
午前 7 時
二風谷出発
午前 9 時~10 時 30 分
①札幌朝鮮学校訪問
午前 11 時半
②千歳「慰安所」跡地
③東千歳駐屯地
申京和校長案内・説明
朝鮮人犠牲者埋葬場所
昼食等
午後 3 時
解散
新千歳千歳空港
*部分参加も可能です。
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歴史資料館見学
(「第七師団資料館」)
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白老「民族共生象徴空間」
2008 年 6 月、前年の国連総会における「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の採択
を受け、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院で採択された。この
ような決議が全会一致で採択されたことは、中曽根元首相の「単一民族」発言などを振り返
れば、ある意味では画期的でもあった。
ところが、この先住民決議の後、2009 年に提出された「アイヌ政策のあり方に関する有
識者懇談会」報告には、最も重要なアイヌ民族の先住権や、政府のアイヌ民族に対する謝罪
や具体的な補償が提示されないまま、観光を中心に据えたアイヌ民族の文化と歴史の発信
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拠点として白老の「民族共生の象徴となる空間」構想が提言された。
この「民族共生の象徴となる空間」とは、「先住民族としてのアイヌの尊厳を尊重し、ア
イヌ文化が直面している課題に対応しつつ、我が国が将来へ向け、多様で豊かな文化や異な
る民族との共生を尊重する社会を形成するためのシンボルとなる」ことを謳い、展示、体験、
交流、文化施設周辺の公園機能、アイヌの精神文化を尊重する機能を備えるとしている。そ
の内容は、歴史・文化等の総合的・一体的な展示、実践的な調査研究、伝承者等の人材育成
などを掲げているが、この「象徴空間」の際立った特徴は、「アイヌ精神文化を尊重する機
能」として、「大学等にあるアイヌ人骨のうち、遺族等への返還の目処が立たないものは、
国が主導して象徴空間に集約し、尊厳ある慰霊に配慮」とする部分である。
江戸時代末期からアイヌ人骨の盗掘は行われていた。それが学問の名においてアイヌ民
族の尊厳を徹底的に蹂躙する人骨盗掘が大規模に行われて来たが、北大に遺骨返還を求め
る訴訟が 2012 年 9 月 15 日から始まった。現在、北大の動物実験室から発見されたアイヌ
民族の遺骨は動物実験室の隣に立てられた納骨堂に 1000 体を越えて納められている。返還
を求めるアイヌ民族の声はいまもまだ踏みにじられている。白老の「象徴空間」の「尊厳あ
る慰霊」とはどのようなものなのか。北大をはじめとする東大、大阪大などに保管されてい
るアイヌ民族の人骨は 1500 体を超える。
2012 年 5 月 12 日(土)、新ひだか町静内シャクシャイン記念館において、「松浦武四郎
の碑」の建立式が行われた。江戸時代、幕府の任により蝦夷地の「調査」を行った武四郎を
顕彰しての碑であり、静内、様似からのアイヌ協会のメンバーが動員された。
松浦武四郎は、アイヌの人々の協力を得て現地調査を遂行した。アイヌ民族の悲惨な状況
を記録し、その救済を幕府に提言したことでも知られている。彼の業績を顕彰する研究者は、
武四郎の優れた人格やアイヌの人々に愛されたことを、ことさら強調する。このような碑の
建立は、日本人にとっての一種の免罪符である。
建立式典には町長代理やアイヌ協会支部長の挨拶と除幕式があり、その後、「勉強会」と
交流会が続いた。
「勉強会」では、北海道大学アイヌ・先住民研究センター教授の 20 分ほど
の講義が行われた。「気分を害される方もいるかもしれませんが・・」と前置きして始まっ
たスライドを使用した講義は、以下のとおりである。
伊勢の神職の子、秦檍麿(はたあわきまろ・村上島之丞)は 1789 年(寛政 10 年)に蝦夷地に入
り、その見聞を『蝦夷島奇観』にまとめている。シベチャリに流れ着いた身分の高い女性を、犬が食
べ物などを持ってきて世話をしているうちに結ばれ、そこから生まれた子孫がアイヌとなったという
伝承である。アイヌの祖先は人間の女性と犬との間に生まれたという「奇譚」からアイヌ蔑
視、差別が反映された言説であるとも説明した。このような伝承は東欧などの狼伝説などと
も類似しており、これが江戸時代、蝦夷地に伝わっていたというよりは、同じような話とし
て静内にもあったということが驚きであると同時に貴重なのだと述べた。そして、現在白老
に建設が決定した国立アイヌ博物館における象徴空間において、アイヌ観光として白老に
一歩遅れを取っている静内においては、このような伝承こそを観光の戦略として用いては
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どうか、という驚くべき提言で結んだ。
この教授は今回だけでなく、この『蝦夷島奇観』の伝承を 2011 年 11 月 9 日の「みんぱ
くゼミナール」においても紹介している。つまり、近代以降アイヌ蔑視の格好の象徴として
機能してきた伝承は、すでに忘れ去られているわけだが、それを再び呼び覚まし、白老の象
徴空間の中心的な表象として位置づけようとしているのである。
この講演の質疑応答で、アシリレラ氏(日本名山道康子氏:山道アイヌ職業学校主催・沙
流川の自然を守る会代表)は反論を述べた。「私たちアイヌは文字を持たない民族です。で
も『日本書紀』や『続日本書紀』には逆説としてのアイヌの歴史が残されているのです」
アイヌ民族の先住民族決議が採択された一方で、先住民としてのアイヌではなく、江戸時
代に犬と人との間の末裔としてのアイヌ伝承を「観光」の呼び水にしてはどうかという提言
は、まさに「アイヌ民族の尊厳」とはかけ離れたものであることは言を待たない。アシリレ
ラ氏のこの反論は、まさに歴史の記述と継承における歪曲と捏造の本質とともに、白老の
「象徴空間」の欺瞞を正確に的確に批判したものだった。
アイヌ民族を蔑み嘲るためにどれほど多くの伝承がまことしやかに捏造され伝えられて
きたのか。そのことに対する批判どころか、その伝承をヨーロッパの伝承との類型から賛辞
し、それを観光の要にしろとまでいう、その感覚とはいったいどのようなものなのか。これ
は、アイヌ民族への決定的な愚弄と嘲笑でしかない。日本で行われているアイヌ研究とその
研究者たちの厳然たる差別意識は巧妙に隠されながら、通用する符牒としてさらに増幅し
続けている。
「勉強会」は、武四郎記念館の学芸員の報告が続き、松浦武四郎についての「実証的研究」
に終始した。幕府による蝦夷地探索の和人を賛美し顕彰することを、アイヌと和人の「美し
い交流」の理想型としているのである。これらの「勉強会」を強いられたアイヌ協会の人々
の屈辱はいかなるものであったのだろうか。
この白老象徴空間は、慰霊と研究の総合センターとして全国から総てのアイヌ人骨を集
め、「合祀」するというものである。これまで日本人による差別と抑圧を受け続け、先住民
としての先住権さえ回復される前に、「ナショナルメモリー」としてアイヌ民族が回収され
ていくことは、絶対に許されることではない。
平取本町共同墓地
慰霊碑
平取本町共同墓地の慰霊碑
「死」をめぐる人々の風習は、古代から連綿と変わらなかったといえるだろうか。日本に
おいても近代化される以前は、火葬場などはなく、そのまま土葬にされる遺体も多かった。
また、墓地に簡単な炉があったり、鉄板が置かれているところもあり、そこで遺族が故人の
遺体を火葬して埋めたという。
アイヌの人々は、家族や身近な人が亡くなると、それを土葬し、槐(えんじゅ)でできた
墓標を立てた後は、決してそこに近づかなかった。和人のように墓参りの風習はなかったの
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である。槐は百年腐らない木なのだが、その木が朽ちて無くなっていくと、故人の魂も天に
昇っていくと考えられていた。
北海道の各地では、1970年代から墓地の整備が始まり、町有墓地の設置および管理並
びに使用料の徴収について規定されていく。平取町では 1977 年 8 月 9 日に「平取町墓地条
例」が交付された。
平取町の本町では、この墓地条例が施行される 8 年前の 1969 年に共同墓地の西側の林道
をはさんだ小さな空き地に有志による木造の「先祖代々有縁無縁の碑」が建てられ、1982
年に石碑になった。
この碑をはさんで右側には「オキクルミ神」と「馬頭観音」、また何も刻まれていない小
さな石が埋められており、左側には「静御前之霊位」と「世界人類が平和でありますように」
のポールが建てられている。
1977 年の墓地整備条例が公布された当時、アイヌ民族で平取町議員だった宇南山斎氏は、
アイヌの人々の遺骨を一ヶ所にまとめて埋葬し、「祖先代々萬霊無縁の碑」を建立するため
に有志を募った。
墓地整備事業は、アイヌ民族が先住者として存在した痕跡を消すための格好の機会であ
ったともいえる。アイヌの墓標を抜き取り、遺骨を掘り出し、後から入植してきた和人たち
の墓地があたかも最初からそこに存在していたかのように、墓石による墓地改造が至ると
ころで行われたのである。
この様々な碑が立ち並ぶ場所は、
「義経神社」につながる「義経公園」の一角にあり、
「オ
キクルミ神」の碑が 1983 年に建てられている。オキクルミ神とは、日高地方のカムイユー
カラではアイヌの創世神で、アイヌに狩猟漁猟や大船の作り方、神事などを教え、知恵を授
けたとされる。
ところで、源義経は奥州平泉で死亡したのではなく、北海道に渡り平取に来たとする
「伝説」があり、オキクルミが源義経だという。義経伝説を「ロマン」だと語る人々がい
るが、この伝説こそ、和人によるアイヌ支配のためにつくられたものであり、その虚構の
もとに、事実が忘却され、歪曲された記憶が捏造されていった。
そして、「世界人類が平和でありますように」と書かれたポールは百光真行会という静岡
県に本部がある新興宗教団体によって 1999 年に立てられた。ピースポールと呼ばれるこの
ポールには、日本語、アイヌ語、ギリシア語の他にハングルでの表記が目をひく。平取町で
は、アイヌの碑があるそばにこのハングルが記されたポールが立っていることが多い。
これらの碑のなかで最も特異なものは、何も刻まれていない石の碑である。これは「祖先
代々萬霊無縁の碑」と共に、アイヌの人々の遺骨でもない無縁者の慰霊碑として宇南山氏ら
有志が置いたのだが、朝鮮の人々の遺骨が埋められているともいう。この石の沈黙は語られ
ない歴史の重さを逆説的に象徴しているとも言えるだろう。
この小さな慰霊の空間は、平取町における多様な人々の錯綜した歴史認識が象徴的に示
された場所であり、記憶の捏造と意図的な忘却が鬩ぎ合う場所でもある。何が記憶され、何
が記録から消されていくのかを厳しく問わなければならない。
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「死」や「魂」という物語ほど、グローバル化がいかに進行しようと、ナショナルな枠の
なかで語られ表象されてきた。国家や国民というものが身体化されず、常に居心地の悪さを
保ち続けてきた在日朝鮮人やアイヌ民族、そしてさらに朝鮮人とアイヌ民族の両方のルー
ツをもつ人々が、常に揺らぎと葛藤の狭間で彷徨い続ける営みは、生きているときだけでは
なく、死後もなお、その魂を慰める言葉さえ奪われたままなのである。
平取町ではアイヌ民族については町史における膨大な記述とわずかながら公的なモニュ
メントが作られてもいるが、平取町、穂別町のいずれも朝鮮人の犠牲や存在については公的
な記録には全く記述も表象もされていない。
「死」は、いつも強固なナショナリズムの枠のなかでしか語られない。「国民の死」だけ
が胸に刻まれるべきものなのだというよりも、そs「朝鮮人の死」は、注意深く記憶と記録
から排除されるべきものとなっている。そして、死後の魂の物語についても、深い忘却の中
におかれている。死後の物語を信じて疑わない人々の間でさえも。
平取町本町義経公園敷地内
共同墓地脇各種慰霊碑
92
93
祖先代々萬霊無縁之碑
白光真行会により 1999 年建立
93
1982 年有志により建立
94
むかわ町穂別栄地区(仁和地区)
1918 年、北海道鉱業鉄道株式会社が沼ノ端-金山間を鉄道区間として敷設することを
決定した。第一次世界大戦中の好景気を背景に、北海道鉄道金山線が国営鉄道として敷設さ
れることが計画されたが、他の路線敷設に予算が充てられ、国営鉄道とはならなかった。
この金山線は、1922 年 7 月 24 日に沼ノ端-生甕(旭岡)間、同年 11 月 11 日に生甕-辺
富内間、1923 年 6 月 12 日に生甕-似湾間が開通した。この金山線敷設工事は、タコ労働に
よる過酷なものであったことが数多くの証言や遺体発掘などにより穂別の町史にも記述さ
れている。
1979 年仁和墓地整備の工事施行中に、鉄道工事の土工夫(タコ人夫)死体二十数体が着
物を着用、地下足袋をはいたまま発見され、無縁仏として埋葬されたことが『新穂別町史』
にも記録されている。また、この当時の状況についての証言では、タコはフンドシ一本で働
かされているが、ケガで医者のもとに連れてこられたタコは逆さにして連れ戻されたこと、
「アー・アー」と泣き叫んでいたこと、近くに駐在所があって巡査もいたが、どうすること
も出来なかったこと、川を渡って逃げたタコは火あぶりにかけ、死ぬまでたたかれたことな
ども記されている。更に重要な証言は、栄駅の丸山の信号の側に鉄橋があって、この下にま
だ息をしている人を埋め、昔、雨の降る日には火の玉がよく出たということ、実際に何度も
見ている人の証言が記載されていることである。
穂別町史にみられる労務者が朝鮮人であることの可能性も否定はできない。証言中の「丸
山」というのは固有の地名ではなく、丸い小高い山という意味の通称であり、また、鉄橋や
信号はすでに撤去されている。川岸には浄水場が建てられ柵に囲われ、瀕死の労務者が多く
埋められたという場所は現在、建設会社の私有地になっており、川に隔てられて通行するこ
とができなくなっている。
金山線旧栄駅鉄橋跡
労務犠牲者が多数埋められたとされる場所
94
95
金山線旧栄駅跡
「幌毛志随道」(むかわ町安住
平取町幌毛志)
振内には日本国内の総生産量の 6 割を供給するほどのクロムを産出した八田鉱山があり、
その先の岩知志・仁世宇には日東鉱山、新日東鉱山などがあった。戦時期にクロム運搬のた
めの鉄道敷設は急務であり。富内から振内に至る線の敷設が急がれた。
1922 年には辺富内(現・富内)まで金山線が開通していたが、道南、道東を結ぶ鉄道とし
て、十勝から日高を経て辺富内にいたる 114 キロの鉄道として辺富内線の敷設が決定され
た。辺富内-振内間の随道工事は 1941 年 1 月に着工したが、工事は難航し、1945 年 1 月に
中断した。終戦後の 1946 年 1 月から工事を再開したが、1948 年 9 月にGHQの指令により
中止となった。戦後、富内線が開通するのは 1958 年 11 月で、8 年間の中止時期を含み着工
から完成まで 18 年が費やされたのである。
工事の請負は、1942 年から 1943 年まで鉄道工業株式会社と川口組の施工を経た後、1944
年からは軍の早期開通の要請と極めて危険性の高い区間であったことから直轄施工となっ
た。1940 年 4 月から 1942 年 3 月、1941 年 1 月から 1943 年 1 月までは地崎組が鉄道省札幌
工事事務所からの発注で辺富内線工事を請け負ったことになっているが、
『辺富内線
日振
ずい道工事誌』では、鉄道工業株式会社と川口組の請負としている。工事現場付近のポロケ
シオマプで死亡した朝鮮人の埋火葬認許書が「川口組内」となっていたことから、元請が地
崎組でその下請けが川口組であったということがわかる。
随道工事は困難を極め、また非常に危険を伴うものだったことが工事誌にも記述されて
いる。しかし、犠牲者については 1943 年 3 月 12 日、5970m8~5978m0 の工事において、
アーチの下方からブロックの目地が切れて落下し、作業中の一名が下敷きとなって死亡し
たのが「日振随道初の犠牲者」であるとしている。犠牲者について触れられているのは、こ
95
96
の一ヶ所のみで、当時の多くの証言とは大きな齟齬がある。工事当時もこの工事誌が発行さ
れた 1959 年当時も国家や工事施工主にとって「犠牲者」として認知されたのは誰で、認知
されなかったのはどのような人々だったのか。
筆者が 2006 年~2008 年にかけて振内の郷土史執筆にあたり、調査をする中で、町道
131 号線とポロケシオマプ川に沿った幌毛志一帯がかつて朝鮮人宿舎やタコ部屋が立てら
れた場所であり、その労働現場での虐待や犠牲者の遺体が埋め込められたとするような証
言も数多く聞いた。また、そこから抜け出した朝鮮人やタコ労働者を匿い脱出を助けた人々
の証言を得た。
その後も調査を進めるなかで、アイヌの方からの証言を得ることができた。幼い頃住んで
いたところが辺富内線の敷設現場に近く、労務者たちの様子を克明に記憶していたこと、現
場から脱出してきた朝鮮人を匿って逃がしていたこと、また多くの労務者が繋がれて工事
現場まで連行されていく様子に加え、遺体を焼却する煙が毎日のように安住の墓地から上
がってたこと、戦争末期には焼却も出来ず労務者たちの遺体が道端にもそのまま放置され
ていた様子など、当時の労働現場がいかに過酷であったかについての貴重な証言となって
いる。
むかわ町(当時・穂別町)では、1982 年、安住にある富内霊園の整備に際し、旧墓地には
当初予定した以上の無縁仏があることが判明したため、同年度の 1,814 万円の補助事業で
は対応しきれなくなり、翌年度にも 126 万円を投入して無縁碑を建立している。
富内線は 1986 年に廃線となり、幌毛志の二つの随道の入り口はコンクリートで埋められ
ていた。ところが 2012 年春頃、このトンネルのコンクリートで塞がれた入り口にドアが作
られ、鍵がかけられるようになった。その目的については現在不明であり、今後明らかにし
ていく予定である。
旧富内線幌毛志隧道入り口
96
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旧富内線パンケオソケナイ橋梁跡
労務犠牲者を焼く煙が毎日立ち上っていたのが見えた場所
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98
朝鮮人労務者が脱出してきた場所
むかわ町安住共同墓地
98
99
平取町「振内共同墓地」
ふれない
平取町振内は、戦時期に時局産業であったクロム鉱山により活況を帯びる。特に八田鉱山
から産出されるクロムは日本国内の総産出量の60%を占めていたこともある。そのため、
振内には多くの鉱山労働者が移住し、少なくない朝鮮人もいた。振内の隣の岩知志地区まで
も含めると、日東鉱山や新日東鉱山など、クロム鉱山の密集地域でもあった。
それらの朝鮮の人々は家族で定住していた例もあるが、1939年以降には、クロムを運
搬するための鉄道として富内線の敷設と随道工事のために朝鮮人労務者が大量に動員され
ている。
特に、幌毛志の二つの随道工事では大変多くの犠牲者が出ていたことが、地元の方々の証
言からわかるようになった。しかし、これらの証言もようやく得ることが出来たもので、朝
鮮人の労務者がいたことさえ、これまで平取町史にはひとことも記されてこなかったので
ある。
さて、この振内地区でも墓地整備条例により、土葬になった遺体は掘り起こされ、いった
ん焼かれてから埋めなおされていった。それは1970年代後半のことである。親族がいる
場合は、新しく立派な墓が作られていったが、身寄りのない方たちの遺骨は無縁墓地へと埋
葬されることになった。振内の共同墓地には「南妙法蓮華経」とだけ刻まれた無縁の碑があ
った。町役場の職員からの説明はそれだけであった。しかし、特定の宗教的供養が町の公的
な無縁碑であるはずがなく、これは日蓮宗の有志によって建立され、長く無縁碑としてそこ
に存在していたのである。
ところが、筆者が振内の郷土史の執筆を依頼されて調査をすすめるなか、この共同墓地に
埋葬されている朝鮮半島出身者たちの埋火葬認許書を得ることができた。日本名になって
いる方もいたが、本籍は朝鮮で、死因や死亡した場所・時間などが記録されている。当時の
村長・堂前氏の書名のある公的文書である。私はこのことについて郷土史に執筆したが、郷
土史編集委員会はこの記述を載せることを拒否した。執筆者である私に対して稚拙な恫喝
やいやがらせなどが編集委員によって繰り返され、郷土史は朝鮮人の埋葬事実を載せない
まま2010年3月に出版された。
そして、奇妙なことに2010年3月に、これまでの日蓮宗の無縁碑の横に、平取町が無
縁の碑を建立したのである。郷土史に具体的な歴史的事実を記録することはできないが、町
がようやく無縁碑を建立したという事実である。これは、他の地区での無縁碑建立から約半
世紀近くも遅れてのことである。
しかしながら、この無縁碑の下に眠る遺骨は、当然「無縁」ではない。名前があり、本籍
があり、家族もいる、朝鮮の人々なのである。2011年11月、苫小牧駒澤大学の学生と
教員とともに埋火葬認許書に書かれた名前を石に書き、無縁碑の前においてきたことは別
稿にも書いたところである。
ところが、さらに驚くべき事実が2012年8月に明らかになった。墓地整備条例により、
土地をブルドーザーで整地していたときに、わけのわからない大量の遺骨が出てきたとい
99
100
う。あまりにも大量であったため、手をつけることができず、ブルドーザーでそのまま集め
て小さな山になっているというのである。実際、共同墓地の中央あたり、無縁碑から数十メ
ートル離れたところに、小さな盛り上がった場所があり、草や小さな潅木に覆われていた。
大量の遺骨が出てきて現在のような状況になっているということは、当時、墓地を整地し
ていた土建業者の知り合いの石材屋の方からの証言を得たことからわかった。整地してい
た方はすでに20年前に亡くなり、そのことを聞いた石材屋の方も、知っているのは自分だ
けだろうという。町役場では、こうした事実について、いっさいの資料は存在しないと主張
しており、また資料を保管しておく義務もないと述べている。
この共同墓地のすぐ下にはかつて川口組の飯場があり、埋火葬認許書に記述されている
死亡場所がポロケシオマプという川口組飯場になっているものも数人あった。しかし、土建
業者の証言のように、手がつけられないほど大量の遺骨であるとするならば、埋火葬認許書
など発行されてもいない多くの犠牲者の遺体である可能性は非常に大きいと思われる。川
口組は室蘭において、1944年から1945年の1年間で中国人労務者930人のうち
310人の犠牲者をイタンキ浜に埋めていたという事実が明らかになっている。振内の共
同墓地から出てきた大量の遺骨が、鉄道敷設・随道工事に従事した朝鮮人労務者である可能
性は非常に大きいと考えられる。この件についても、今後、さらに調査を進めていく予定で
ある。
振内共同墓地
無縁碑
100
101
振内共同墓地内
千歳
大量の遺骨が埋葬されているとされる場所
自衛隊東千歳駐屯地ゲート前
並びに「慰安所」跡地
千歳空港は、戦時中、大港海軍航空隊の基地として、三本の滑走路建設が予定されてい
た。第一飛行場は 1937 年 4 月から 1941 年 8 月までに建設され、第二飛行場と第三飛行場建
設に朝鮮人が動員された。第二飛行場は「連山滑走路」と呼ばれ、大型爆撃機「連山」のための滑
走路として作られた。その滑走路は、当時としては最大最長の 2.5 キロの滑走路だった。1943 年 5
月から、第三飛行場は同年 9 月から工事が着工された。
飛行場建設のために連行されてきた安慶南氏は、医務隊に従事し、病傷者を病院に運び、また
死体を処分する役割をあてがわれた。病院で死亡した朝鮮人は少なくとも 7,80 人はいたというが、
病院近くの空き地に穴を掘り、その死体にガソリンをかけて焼いて埋めたという。今でも掘れば遺骨
が出てくるだろうと語っていた。現在は第七師団のゲート脇のフェンスで隔てられた自衛隊敷地内
の草地である。
安氏は 1995年 7 月、戦後初めて息子を伴い、千歳を訪れた。安氏のこの証言は、戦後 40年を
経て、初めて明らかにしたものだった。その証言をまとめたものが『証言 植民地体験ポンソンファ
―日本統治下の朝鮮・サハリンの生活』(札幌郷土史を掘る会、1997 年)に収められている。
証言から、千歳では飛行場建設だけではなく、防空壕掘りにも朝鮮人が動員されたことが明らか
になっている。滑走路建設が終わり敗戦直前の頃、登別温泉付近の山麓へ農耕支援にも行って
いる。
また、陸海軍による建設現場であったことから「慰安所」があったことも、航空写真と当時の証言
から明らかになり、場所が特定された。「慰安所」には朝鮮人女性が数人連行されていた。現在は
101
102
防衛庁管理地となっている。アウトレットモールにほど近い交差点のすぐ近くである。さらに、海軍
将校のための「慰安所」もあったという証言があり、それは現在千歳市街地の飲食店街の中にある。
千歳のこれらの場所については、2008 年に谷上嶐氏のご協力を得て行ったフィールドワークの
成果である。第七師団のゲート脇の朝鮮人犠牲者が埋葬されたままになっている場所では、1995
年以来、有志による慰霊の営みが行われている。
この東千歳駐屯地内は見学が可能で、敷地内には第七師団資料館があり、入り口付近には「慰
霊碑」も建立されている。2012 年、苫小牧駒澤大学のフィールド・スタディの授業において、第七師
団を訪れた際、広報担当の自衛官に「慰霊碑」は、どのような犠牲者を供養するものなのかを問うと、
戦後の自衛隊員の殉職者の慰霊だという。戦時中の朝鮮人犠牲者の件について質問をすると、後
日、その歴史的事実について確認したという連絡を受けた。ある意味、誠意ある対応である。しかし、
自衛隊における「慰霊」がナショナルな枠を超えて、全ての犠牲者に対する慰霊を行うことには、ま
た多くの困難があることは想像に難くない。
上:自衛隊東千歳駐屯地 第七師団ゲート前 下:朝鮮人犠牲者を埋めたとする場所
千歳旧「慰安所」跡地
102
103
旧「慰安所」跡地
現在は札幌防衛施設局の管理地になっている。
厚岸国泰寺「アイヌ民族弔魂碑」
江戸時代に入ってから間もなく蝦夷地は松前藩による商い場が開設され、「交易」という
名によるアイヌ民族に対する苛酷な搾取が始まる。1802年に東蝦夷地が幕府の直轄と
なり、箱館奉行が設置されると、奉行内に墓地とその墓守のための僧侶の配置を要請した。
103
104
和人の蝦夷地移住に伴い、必要とされたものは墓地と墓守であった。
幕府はロシアの南下政策に対する辺境の要地、キリスト教禁止対策の一環、アイヌ民族の
改宗などを目的として蝦夷三官寺を建立した。それが、様似の等澍院、有珠の善光寺と厚岸
の国泰寺である。厚岸は江戸時代アッケシと呼ばれた蝦夷地東部を代表する交易と行政の
中心地だった。1799年には江戸―アッケシ間航路も開設されている。国泰寺はアッケシ
のヌサウシコタンに造営された。アッケシのアイヌたちは、1789年のクナシリ・メナシ
の蜂起のときには松前藩と戦い、多くの犠牲を払った。そして1899年の「旧土人保護法」
施行以降は、強制的に内陸部へと移住させられていく。
現在、国泰寺跡地となっている門の入り口に、「アイヌ弔魂碑」が建立されている。この
碑は釧路アイヌ民衆史講座における勉強会や交流会を通じて、町民がアイヌ民族と和人の
歴史を、正しく後世に伝えることを目的とする碑の建立を決定した。和人の侵略と搾取の実
態を曖昧にすることなく、歪曲することなく、実にストレートな言葉で表現している碑は、
非常に珍しいと言える。そして、1977年8月28日、
「厚岸アイヌ民族弔魂碑」が建立
された。費用は厚岸町から50万円の助成を受け、90万円は町内外からの寄付を募った。
ところで、この碑が建立される場所を巡っても、アイヌ民族と和人の間には、大きな認識
のギャップもあった。「東夷鎮撫北海観察護国道場最勝禅窟景運山国泰寺」の文字が刻まれ
た国泰寺の山門は、アイヌ民族にとっては非常に屈辱的な記憶の場所でもあったのである。
国泰寺境内に建立する予定だった碑は、アイヌ民族の方々の強烈な抵抗により、境内の外に
立てられることになった。2002年1月29日に国泰寺より郷土館用地として町に寄附
され、現在は郷土館用地(行政財産)として教育委員会の所管となっている。
<碑文全文>
由来、厚岸は美しい自然と資源に恵まれあなた方の楽土であった。
然るにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により、財宝を奪われ加えて苛酷な
労働のために一命を失うもの少なくなかったと聞く。けだし感無量である。
我らはいま先人に代わって過去一切の非道を深くおわびすると共にその霊を慰めんがた
め、このたび心ある人々が相計り、東蝦夷地発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる。
1977年8月15日
アイヌ民族弔魂碑建立委員会
104
105
105
近代期における
アイヌ⺠族と朝鮮⼈
ー重層的つながりと記憶の継承・表象ー
石
純姫(苫小牧駒澤大学))
http://gpscycling.net/fland/map/projection.html
前近代期における朝鮮との間の漂流・漂着
(1599年〜1872年)
件数(件)
人数(人)
朝鮮人の
日本漂着
971
9770
日本人の
朝鮮漂着
91
1235
池内敏『近世⽇本と朝鮮漂流⺠』臨川書店、1998年より作成
http://www.jmc.or.jp/map/other/hokkaido.html
朝鮮⼈のアイヌモシリへの漂着
 1696年 8⼈の朝鮮⼈(官吏)の漂着
 『福⼭秘府』
 『漂流朝鮮⼈李先達呈辞』

 李志恒『漂⾈録』



釜⼭(4⽉13⽇)→寧海(28⽇)
→礼⽂島(5⽉12⽇)?/利尻島
アイヌ⺠族と朝鮮⼈との最初の接触

北海道⼤学北⽅資料室蔵『漂流朝鮮⼈李先達呈辞』
1
ロシア沿海州の朝鮮⼈
北京条約1860年→ロシアがウラジオストク領有



ロシア沿海州(ウスリー地区)への朝鮮⼈の移住
1862年 ウラジオストクに少数世帯→
ポシエット地区チジンヘ川流域に居住

1864年
60世帯

1868年
165世帯

1869年
766世帯

1884年
5500⼈
ロシアポシェット地区https://maps.google.co.jp/

前近代期のサハリン
マウカ(真岡・現ホルムスク)
昆布漁で繁栄 ⾼収⼊として有名
 昆布漁の仕事―かつて⽇本⼈が掌握
 男⼥40⼈の常住する⽇本の建物が30軒以上
 ⽇本から300⼈以上が季節労働者として
 「当時この辺りの主要な労働⼒をなしていたアイ
ヌ⼈といっしょに働いていた」
 多種多様な⺠族の雑居・共⽣の場


樺太千島交換条約
アイヌ⺠族の強制移住
1855年 「⽇露和親条約」
 択捉島以南を⽇本領
 ウルップ島以北をロシア領
[北⽅領⼟返還要求岐⾩県⺠会議」
1875年5⽉7⽇
http://www.google.co.jp/search?q=%
「樺太千島交換条約
E5%8D%83%E5%B3%B6%E6%A8%BA%E5%A
4%AA%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E
(於ペテルブルク)
7%B4%84&sa=N&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=u
占守島〜ウルップ島の千島列島を⽇本領 niv&ei=wIYJUpq3B4uWkwWU14DQDw&ved=0CDUQs
AQ&biw=1225&bih=546#facrc=_&imgdii=_&imgrc=4j
 →千島列島全部が⽇本領
sxrFxzoSgvzM%3A%3BujarsoS2h9wT7M%3Bhttp%253A%252
 樺太→ロシア領
F%252Fhoppou-gifu.jp%252Fhistory%252Fim

ages%252F04b.jpg%3Bhttp%253A%252F
%252Fhoppou-gifu.jp%252Fhistory%25
2F%3B300%3B237






1875年9⽉2⽇ 宗⾕⽀庁に通達
樺太在住のアイヌ⺠族108⼾841⼈
→北海道宗⾕に強制移住
第⼀移住船9⽉8⽇クシュンコタン出港
「アイヌはサガレン島に執着すること甚だしく、
飽くまでも同島を以って⼰の故郷となし、1875年以降に
は移住全く其跡を絶ち⾜り」
「露国がサガレン島に監獄を築き新法律を布くべし、と⾔
える⾵説に驚かされ、⽇本⼈に誘われて移住を企てたるも
のなるも・・・」(ビウスッキー)
2




アイヌの⼈⼝がサハリンで

「溶解にも似たこの急速な消滅」の原因

→アイヌが近隣の諸島へ移住したことに起因すると仮定

「農奴同様の隷属的状態で⽇本⼈につかえて」おり、



「⽇本⼈に対して嫌悪をいだいているにもかかわらず、飢
えに迫られて、北海道(マツマイ)へ移住しはじめた」
(『声(ゴーロス)』1876年第16号
「アイヌの陳情がなおざりにされ、それゆえに彼らがサハ
リンからマツマイへ⾏くことを熱望しており、実際に移住
していった。」(『ウラジオストック』第28号)
1890年代のサハリン

「⽶なしには過ごせぬ連中だったことによって、彼らの奴
隷化はいっそう容易なものとなった」
セミョーノフ(ロシア⼈商⼈)が息⼦をマウカに常住させ、
昆布漁を掌握

アントン・チェーホフ著、原卓也訳[1980]『サハリン
島』中央公論社、271〜272⾴
マンザ(沿海州の中国移⺠)、朝鮮⼈、ロシア⼈などが労
働に従事

実際の仕事を管理しているのは、⻑崎に⾃宅をもつスコッ
トランド⼈
前近代期の⺠族の接触と移住
アイヌ集落と朝鮮人
沙流川流域(平取・穂別)への移住
1870年(明治3年) 朝鮮人2世の誕生の例

「父ノ氏名知ルコト能ハサルニ付其記載省略」
 出生の経緯「出生ノ場所届出人ノ資格氏名並届書受附ノ年月日ヲ知
ルコト能ハサルニ付キ其記載省略」
 朝鮮人2世の妻→父親がロシア人で、母親が樺太アイヌ
 平取のアイヌの家に養女
 「父母ノ氏名及父母トノ続柄知ツコト能ハサルニ付其記載省略」


ロシア沿海州へと移住した朝鮮⺠族

→サハリンにおけるアイヌ⺠族との交流

サハリン・・・多様な⼈々の接触・交流

サハリンから北海道へのアイヌ⺠族の移住の

可能性


1870年 平取で朝鮮人2世の出生例
近代期における朝鮮⼈⼈⼝
年度(年)


樺太アイヌ♀ 朝鮮人♂
ロシア人♂
|_____|
樺太アイヌ♀
|______|

|

A ♂________ B♀(アイヌの養女)
|

|

C♀

|_____|
D♂

|

E♀
全国(⼈)
北海道(⼈)
1911
2,527
0
1913
3,171
41
1917
1,4502
1,706
1930
298,091
7,711
1939
961,591
38,700
1943
1,882,456
172,393
1944
1,936,843
259,330
『社会運動の状況』(第五巻在留朝鮮⼈)『特⾼⽉報』『北海道庁統計
書』『北海道と朝鮮⼈労働者』『⺠団ホームページ』より作成
3




1917年 北海道炭礦汽船株式会社(北炭)
朝鮮で労務者の募集を開始
1938年4⽉1⽇公布
「国家総動員法」朝鮮・台湾・樺太にも施⾏
1938年9⽉13⽇ 閣議決定
「昭和⼗四年度国家総動員実施計画ニ関スル件」



1939年7⽉4⽇
「昭和⼗四年度労務動員実施計画綱領」閣議決定
第⼀次労務動員計画実施
北海道在⽇朝鮮⼈の⼈権を守る会編『⼈権と⺠族パンフ第5集』
O1
4
⽇東鉱⼭労務者
宿舎等跡地
⽇東鉱⼭事務所・発電所
労務者宿舎跡地
新⽇東鉱⼭跡地 遠景
クロムの露天掘り光景
⽇東鉱⼭
新⽇東鉱⼭迎賓館宿舎
新⽇東鉱⼭従業員
5
富内線




クロム運搬のために
建設された幌去橋



旧富内線幌⽑志隧道
⼊⼝
沿線から産出されるクロム鉱や⽯炭、森林資源の開発のた
め、北海道鉱業鉄道が⾦⼭線(沼ノ端〜辺富内)として
1922年から翌年にかけて開業
1924年に北海道鉄道(2代)と改称
1943年に同社の札幌線(現在の千歳)とともに戦時買収さ
れ、富内線となる
1941年1⽉から辺富内線第3⼯区として地崎産業の請負で着
⼯し、豊域・鵡川間の⼯事を1943年11⽉をもって中断
この地域の蛇紋岩質の地質が幌⽑志の隧道⼯事が難航
この敷設⼯事に朝鮮⼈労働者を動員
パンケオソケナイ橋梁
1939年~1941年建設
旧富内線幌⽑志隧道
6
旧富内線幌⽑志隧道
旧富内線幌
⽑志隧道
幌⽑志地区
隧道⼯事朝鮮⼈労務者宿舎跡地
幌⽑志地区
隧道⼯事朝鮮⼈労務者
宿舎跡地
旧富内線
⾼架橋跡
7
朝鮮⼈の定住化の過程
 養⼦縁組
 強制連⾏・強制労働からの逃亡
→
アイヌの⼈々の保護・⽀援
 越年婿
李秀夫⽒
 「アイヌの家では逃げてきた朝鮮⼈たちを迎え⼊
れ、消えかかっていた⽕をもう⼀度おこし、⾷べ
物を与えたのです。そして、「今ここで眠ると、
朝に警察につかまる時は私も同時につかまる。夜
明け前にここを出て、あの村のここから3軒⽬の
家に⾏きなさい。そこの家はアイヌの家だから、
きっと迎えてくれる。」そう⾔ったそうです。」
 ⼩川隆吉⽒より聞き取り(⽯純姫「アイヌ集落への朝鮮⼈の定住化
の形成過程について」『前近代アイヌ⺠族における交通路の研究(胆振・⽇⾼Ⅰ)』)
鄭晢仁⽒
平村シコンノウク⽒
 「⼭を幾つもこえてアイヌの家族に助けら
ると、振内のほうから逃げてきた朝鮮⼈が物置の前
にうずくまって、たしか「アイゴーアイゴー」と泣
いていたという。何件かのアイヌの家に泊まりなが
ら家まできたらしいけど、⽗親はその⼈をその煙突
のなかに⼊れて、⼀晩か⼆晩かくまってた。その⼈
が朝鮮に帰りたいっていうんで、苫⼩牧まで連れて
いくことにしたらしい。⾁を運ぶのに使っていた⾺
⾞があったから、それを物置の⼊り⼝のところまで
もってきて、その朝鮮⼈を乗せて、苫⼩牧まで⾏っ
たって。⽗親が駅で切符を買って、その⼈に改札の
ところで渡して、そうやってその⼈は汽⾞に乗って
いったって。
 北川しま⼦⽒より聞き取り(⽯純姫「北海道近代における朝鮮⼈の定住
れ、⽇⾼の⽇東クローム鉱⼭で働いていた
同胞の宿舎に案内された。妻もいるその同
胞の紹介で⽇東鉱⼭で働くことになったが、
⼀⼈の⽼鉱夫から島牧のマンガン鉱⼭に⾏
くように勧められ、出来るだけ遠くへ逃げ
るためにいくことにした」
 (1993年5⽉10⽇『北海道新聞』
「東川・朝鮮⼈蜂起の仲間いずこ」 )
 あるとき、物置から物⾳がするから⽗親が⾏ってみ
化とアイヌ⺠族」(『東アジア教育⽂化学会年報』第3号、2006年所収、1-13⾴)
平取町の埋⽕葬認許証
 1943年〜1946年
 朝鮮⼈11名
 クロム鉱⼭内での死亡者
 富内線敷設/隧道⼯事での死亡者
8
平取村埋⽕葬認許書
平取町振内共同墓地
⼆つの無縁碑
左:⽇蓮宗無縁碑
右:平取町建⽴2010年
9
⼤量の遺⾻をブルドーザー
埋めたとされる場所
⽇⾼町福満旧アイヌ墓地跡地
福満:旧アイヌ墓地に
かろうじて残された
アイヌ墓碑
⼤量の遺⾻をブルドーザー
埋めたとされる場所
⽇⾼町福満地区のピースポール
平取本町義経公園内
共同墓地脇
無縁碑
10
平取本町
ピースポール
1982年有志による
無縁碑
“
”
平取本町
何も刻まれていない
⽯碑
平取町
義経神社
“
”
三笠市旧幌内炭鉱跡地
幌内神社
11
記憶の継承と記述をめぐって
幌内神社絵⾺
(伊佐治知⼦⽒
の
案内により撮
影)
歴史と記憶

国家と国⺠の集団的アイデンティティに関する「伝統の発
明」(ホブスボーム)

近代装置としての歴史学=「記憶」の破壊者
→「共同の記憶」に先⾏する「共同の忘却」
=「記憶の⽳」(ノラ)

国⺠の記憶

無数の忘却と無知のうえに成⽴

→「敗者の累々たる屍体」を踏みしだいていく

「戦利品」としての「⽂化遺産」(ベンヤミン)

→「記憶の⽳」の上に「均質で空虚な」想像の連続的空間

アイヌ懐柔・⽀配のための伝説・表象の氾濫

近代アイヌの抵抗の形態と多様なアイヌ像

「共⽣」という⾔葉の陥穽ー不均衡な権⼒関係や
権利状況についての認識

近代史そのものが孕む⾮⼈間的な収奪と抑圧と⼈
間の分断の歴史

「労務慰安所」の問題
「伝統⽂化」の継承をめぐる
多様性と可能性
 ⺠族・国家などの固定化されたアイデン
ティティーをはるかに超え、
 新たに創られ継承され、
 さらに創造されていくものとしての「⽂
化」
「凱旋⾏列」によって運ばれる



 複雑で重層的な抑圧のなかの葛藤
を形成
*板垣⻯太・鄭智泳・岩崎稔「序⽂<東アジアの記憶の場>を探求し
て」『東アジアの記憶の場』参照
「死」「魂」をめぐる表象
 墓地整備条例=墓地の「近代化」
 →⺠族⽂化の核⼼的部分への侵⾷
 「死」「魂」の物語→ナショナルな枠での
表象(平取町・穂別町)
 グローバル化の中の排外主義・レイシズムの加速
 歴史的事実の検証・確認
主な参考⽂献・資料









 →⺠族・国家を越えた記憶の共有
 →現在から未来への和解の可能性

1.北海道庁[1937]『北海道鉱⼭略記』
2.札幌鉱⼭監督局『北海道鉱業⼀覧』1937年、1938年
3.前⽥⼀[1943]『特殊労務者の労務管理』⼭海堂
4.平取町史編さん委員会[2000]『平取町百年史』
5.穂別町史編纂委員会[1992]『新穂別町史』
6.総務庁統計局[1988]『⽇本⻑期統計総覧』第2巻
7.朝鮮⼈強制連⾏実態調査報告書編集委員会・札幌学院⼤学北海道委託調査報告書
編集室1993]『北海道と朝鮮⼈労働者-朝鮮⼈強制連⾏実態調査報告書』
8.⽯純姫[2004]「アイヌ集落への朝鮮⼈の定住化の形成過程について」『前近代
アイヌ⺠族における交通路の研究(胆振・⽇⾼Ⅰ)』(2004年度財団法⼈アイヌ⽂化
振興・研究推進機構研究助成(中規模研究)報告書)
9.⽯純姫[2005]「胆振・⽇⾼地⽅におけるアイヌ集落の朝鮮⼈の定住化の過程」
2005年度財団法⼈アイヌ⽂化振興・研究推進機構の研究助成を得た研究調査財ア機構
第214―4号(実施期間2005年7⽉1⽇〜2006年2⽉28⽇)研究成果報告書
10.⽯純姫[2006]「北海道近代における朝鮮⼈の定住化とアイヌ⺠族」(『東アジ
ア教育⽂化学会年報』第3号、2006年所収、1-13⾴)
12

11.⽯純姫「前近代期の朝鮮⼈の移動に関する⼀考察 ― 北海道における在⽇朝鮮⼈の形成
過程とサハリンアイヌの関係を中⼼に」『苫⼩牧駒澤⼤学紀要』第18号所収(145〜166⾴)
2007年10⽉

12.⽯純姫[2012]「アイヌ⺠族と朝鮮⼈をめぐる記憶と表象―⽇⾼地⽅を中⼼に」『⼤阪経済


法科⼤学アジア太平洋研究センター年報』第9号、41〜48⾴
13.趙景達[2008]『植⺠地期朝鮮の知識⼈と⺠衆―植⺠地近代性論批判』有志舎
14.宮嶋博史・李成市・尹海東・林志弦『植⺠地近代の視座―朝鮮と⽇本』岩波書店
15.尹海東(藤井たけし訳)[2006]「植⺠地認識の「グレーゾーン」―⽇帝下の「公共性」
と規律権⼒」『現代思想』第30巻第6号
16.歴史学研究会編集[2010]『歴史学研究』No.872増刊号
17.⽵内康⼈編著[2007]『戦時朝鮮⼈強制労働調査資料集―連⾏先⼀覧・全国地図・死亡者
名簿―』神⼾学⽣・⻘年センター出版部
18.A.T.クージン[1998]『沿海州・サハリン・近い昔の話(翻弄された朝鮮⼈の歴
史)』凱⾵社
19.池内敏[1998]『近世⽇本と朝鮮漂流⺠』臨川書刊

20.⼭川⼒[1986]『時に佇み、時を史す』⻘⼸社

21.芦別市と朝鮮⼈強制連⾏を話し合う会[2009]『記録集

まで』

22.佐藤弘弥「北海道の義経伝説」http://www.st.rim.or.jp/~success/hokkaidoY_ye.html
23.板垣⻯太他編著[2011]『東アジアの記憶の場』河出書房新社
24.A・チェーホフ著・原卓也訳[1980]『サハリン島 シベリアの旅』中央公論社








芦別市が朝鮮⼈強制連⾏を認める
13