東大の落ちこぼれから世界的惑星科学者へ 廣井 孝弘 1969 年夏、8歳の私は両親とともに白黒テレビに見入っ ていた。アポロ 11 号の宇宙飛行士達が月面に降り立つ姿を。 私の母は自宅で美容院を開き、父は無職で家事・育児を していた。母はその結婚も職も両親の意志で決められ、嫁い でからは夫と姑の仕打ちにあい、耐え切れず 2 度も家出した が、その度に仲人さんに説得されていやいや戻った。子供達 が生まれてからは、この子らのために離婚はできないし、夫 婦喧嘩も見せられないと思ったそうだ。確かに私は小さい頃 に両親の喧嘩を見た記憶はない。 実際は、その研究は困難だった。何度もやめようと思っ たが、武田先生は、「君が就職する頃までにはこの分野は大 発展して、君は皆から引っ張りだこになるよ」といって、こ の分野の研究から逃げてはいけないと説得された。にもかか わらず、博士号を取得した後も大学の職にはどこも受からず、 もう駄目だという瀬戸際で、山田科学振興財団から 1 年間の 海外派遣金がもらえた。それで、米国ブラウン大学のピータ ース助教授の元へ行った。 そんな苦労もあり、母は熱心な信仰を持つに至った。そ の影響もあり、私は唯物論は間違いで、神様がこの世と人間 を創造されたと思うようになった。そして、学校でいろいろ な勉強をし、またアニメの中の博士たちの姿にあこがれて、 科学者になりたいと思い始めた。更に、映画「日本沈没」に 出てくる地球物理学者、田所博士が、皆に嘲笑されても真実 と信ずるものを貫いて日本民族を救う姿に感動した。 その 1 年間は、何とか業績を上げて日本に帰ろうと、本 場のアメリカで一所懸命研究して論文を書いた。それでも日 本の職には受からず、米国科学アカデミーの研究員に応募し たら、奇跡的に受かって、ヒューストンにある、NASA ジョ ンソン宇宙センターの研究員として 3 年間働くこととなった。 あの、22 年前にテレビで見たアポロ 11 号宇宙飛行士達を導 いていたジョンソン宇宙センターだ! 私は勉強が好きだった。勉強しなさいと親に言われた記 憶がない。むしろ「目が悪くなるから早く寝なさい」と言わ れた。だが、学校の先生の中には私の期待から遠い人もいた。 中学 2 年生の時の理科の授業で、宇宙の姿をスライドで学ん だ後、私は先生に、「この美しい宇宙は神様が創ったのでは ないのですか?」と尋ねた。ところが先生は無言でスライド を片付け始めた。私は今でもその先生のことが情けなくてた まらない。私の尊敬するある人は、学校で先生に人生と宇宙 の問題を尋ねた時に、「それなら聖書を読んでみなさい」と 言われたそうだ。何という違いだろうか? その後も、やはり日本では就職できず、ブラウン大学に 戻り、今年で何と 13 年以上アメリカで研究を続けているこ とになる。その間、私は数多くの研究論文を出版し、隕石と 小惑星の分光分野では日本人として第一人者になった。日本 の惑星科学は今や大発展を遂げ、小惑星から試料を持ち帰る 「はやぶさ」、月の起源と進化を探る「セレーネ」などの探 査衛星計画が進行中で、私はそれらの共同研究者として日本 とアメリカを往来している。 最近は、すでに定年された武田先生に会う度に、「先生 の予言は正しかったですが、10 年くらいずれてました よ!」と冗談交じりに私は語る。私は、自由に勉強をさせて 私は、先生方に不信を持ちつつも、成績は良く、高校で はトップになってしまい、東大の理科一類に合格した。しか くれた両親と、展望を持っていた先生方と、私を拒絶した日 し、東大は甘くなかった。実用性が良くわからない数学など 本の大学界にも感謝している。日本で簡単に職に就けていた ら、私のアメリカでの 13 年間の研究の成果はなかっただろ の試験の成績が悪く、第 1・第 2 志望の物理学科や地球物理 学科へは行けず、仕方なく第 3 志望の基礎科学科へ進んだが、 うから。 その代わり大学院からは負けないぞと思い、量子力学と相対 私は日本の若者を信じる。正しい情報と教育によって世 性理論に関する本を図書館に居座って片っ端から読んでいっ た。そして、卒業研究で、唯一の地学系研究室をもつ高野幸 界一になれる人材が多くいると。私は若者達に、「私が成し 雄助教授の下、太陽系生成論を学び、大学院では鉱物学専攻 て来た業績の基盤の上に、君達は日本と世界の為に更に高い に移り、当時助手の宮本正道先生と武田弘助教授の下で、隕 理想を目指してほしい」と言えるようになりたい。 石学と小惑星の反射分光学から太陽系の固体物質の起源と進 化を研究した。
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