当分野における東日本大震災の記録 (臨床生理検査学分野) 平成 23 年 3 月 11 日その日は、朝から保健学科 B 棟 3 階検査生理系実験室 2 号室で実験 を行っていた。実験は順調に進み、午後 2 時過ぎには全ての測定が終了し、午後 2 時半頃 には実験器具の水洗いなども終了して、のんびりと実験室に居たその時であった。午後 2 時 46 分に地鳴りとともに激しい縦揺れ、横揺れが数分間にわたり続いた。地震だと思うま もなく、激しい揺れが実験台を 20~30cm も移動させ、物は床に飛散し、これまでにない 恐怖を覚えた。隣の検査生理系実験室 1 号室を見に行くと、修士課程の学生が椅子に座り ながら机にしがみついていたが、危険だととっさに判断して、避難!避難!と叫び、二人 で廊下に出て階段をおり、通称石田広場の近くの地上に避難した。避難!の叫び声を聞い たのか、隣接する実験室や教員室に居た教員、学生が一斉に B 棟から避難をした。 余震はその後も何度も続き、地面は揺れ、周囲の大きな木々は枝を大きく揺らしている のが観察され、何度も縦揺れ、横揺れが地面を揺らしているのを感じ、「怖い」という恐怖 感を伴うものであった。その後、保健学科棟から出た職員や学生はまとまって、石田広場 から医学部 1 号館 1 階に移動し、安否情報の確認に向かい、その時点で確認できる者は無 事でいることを報告した。 午後 5 時頃には、余震はまだまだしばらく続いていたが、保健学科総務係長とともに、A 棟と B 棟の建物の損壊をチェックしてまわったが、保健学科棟は近年 4 年制化とともに改 修工事が終わって耐震強度が増していたので、壁のひび割れ、敷居の脱落などは各所に認 められたものの、建物そのものの損壊は免れ、立ち入り禁止の建物にはならなかった。こ のことは不幸中の幸いであったと、後日しみじみと思った。 それらの巡視のあと、自分の教員室に戻ったところ、あらかじめ本棚やパソコンは固定 してあったので、倒れてはいなかったが、本棚の中身は床に落下し、足の踏み場も無いぐ らい床に散乱していた。その日は少し片づけをしてから、道路は完全に渋滞していて、車 で帰るような状況でなく歩いて帰宅した。自宅では電気がないので、蓄えてあった蝋燭で 明かりを取り、ラジオをつけっぱなしにして余震や津波情報を聞いていた。3 月とはいえ春 まだ早いせいもあって非常に寒く、家族は互いに無事を確認しながらまとまって雑魚寝を した。 当時副研究科長だったので、3 月 13 日の日曜日午前には対策本部に詰め、電話番や物品 の出入りの連絡に当たった。そこで初めて新聞を目にすることができ、その一面に大津波 が押し寄せた海岸部の航空写真をみて愕然とした。大津波による大災害が岩手、宮城、福 島県の太平洋岸に起きていることを視覚的に初めて認識し、そのショックは想像を上回る もので思わず絶句してしまった。週 2 回ほど定期的に開催された震災に対する連絡会議は 様々の情報が公開され、大変心強いものであり、たまたま自分がそのような場に居たとい うことは印象深く記憶に残るものであった。 同時に、医学部動物実験施設も電気、水道が止まってしまったため、動物の飼育が困難 になってしまい処分しないといけない状況になったので、急遽実験室に避難させ、実験を することにした。電気が約 3 日後、水道が約 1 週間後に復旧したのに合わせて、幸い測定 機器の損害はなかったので、速やかに実験を再開することが出来た。ただ顕微鏡の鏡頭部 は折れてしまい机の上に落ちてしまっていた。非常にがっかりしてしまったのを覚えてい る。 ガソリンが全く手に入らなかったので、約 1 ヶ月間大学へは歩いて通った。日中は大学 に詰めていないといけなかったので、普段は買い物にでることがかなわず、土曜日や日曜 日は食糧を求めて、町中をさまよい歩いた。しかし、棚には何もおかれてなく、なかなか 食物を買うことはできなかった。そうした中で、学内で時々配給を受けることができ、お にぎりやミートボールのおいしかったことは今でも忘れられない。また、大阪市に住む友 人がジュースを送ってくれたりと、様々な支援を受けたことは本当に感謝に耐えなかった。 約 1 ヶ月が過ぎ、利府町の病院に向かった時に、だんだん沿岸部に向かうにつれて、道 路は波打ち車が上下に揺れ、道路沿いに東北新幹線の高架橋を見上げると、何本もの架線 が横に倒れて新幹線の復旧はまだ始まっていなかった。この大震災の甚大な被害の一端が このような風景からも伺われた。 もう 1 年 4 ヶ月が過ぎようとしている。あの慌しかった被災直後に比べると、余震も少 なくなり、震度も小さくなってきているので、段々収束してきているような印象を受ける が、一方で福島原発などはこれから何年もかかるだろうと予測されており、大災害の傷跡 はまだまだ癒えていない。ささやかではあるが、この体験を後々の世にまで語り継がない といけないだろうと決意を新たにしている今日この頃である。 (進藤千代彦、平成 24 年 7 月 9 日記) いつも不思議に思うのですが、私は地震の現場に居合わせた事がありません。全く不甲 斐ない話ですが、これまでの大きな地震のとき、私は常に不在でした。 今回の大震災のときにも、私は八戸近郊の病院に居りました。丁度、検査に一区切りが ついて少し休もうかと思った矢先に、大きな揺れを感じました。初めは柱に捕まっていま したが、あまりにも長く続くため、近くのソファに腰をおろし、揺れが治まるのを待ちま した。病院そのものにはほとんど被害が無かったものの、停電のために診療は救急対応の みとなり、医局でゆっくりとテレビを見ることになりました。初めはのんびりしていたの ですが、黒い津波がものすごい勢いで田畑を嘗め尽くし、東部道路に衝突して止まる映像 を見て、慄然としたのを今でも覚えています。海から東部道路までの距離を考えているう ちに、今度は仙台市内の火災の様子が次々と映し出され、 「仙台市内は火の海だ!」と神戸 の火災の映像がダブって見えました。全ての交通機関が破壊されたため、私は帰る術を失 い、自家発電のため明かりの消せない当直室で眩しい夜を過ごす事になりました。翌日に なり、いつまで待っても仙台には帰れないことが次第にはっきりしてきましたので、タク シーで帰ることになりました。幸い4号線は走れるとのことで、信号の消えた4号線を南 下しました。宮城県内は壊滅的かと思いきや、4号線から見える景色は比較的穏やかでし た。火の海になっていると思っていた仙台市内も見かけ上は何事も無かったように平穏で 本当に安心しました。 家族の無事を確認した後に、今度は大学へと向かいました。私が使っている実験のセッ トアップには手作りの部分が多く、壊れると治すのが大変です。暗くて薬品臭のする廊下 を研究室に向かい、惨状を覚悟しつつ、ドアを開けるとびっくりしました。部屋の中の物 は少し動いていたものの、ほとんどが無傷でした。 「やらないよりはましか」と思いながら、 私は養生テープで、顕微鏡やコンピューターなどを全て実験台に固定していたのです。そ のためか、落ちたり壊れたりした機器は皆無でした。また、一緒に実験をしていた2人の 大学院生にも大きな被害が無かった事を知り、ホッと胸を撫で下ろしました。 私の自宅周辺では、電気は止まったものの水道は止まらず、また、もともとガスは使っ ていませんでしたので、食料とガソリンの不足はあったものの、数日後には申し訳ない位 に普段の生活に戻りました。今後は、たまたま最小限の被害で済んだ者として、私と家族 を守ってくれた何か目に見えないモノへの恩に報いるためにも、微力ながら精一杯力を尽 くしていかなければならないと思っています。 (三浦昌人、平成 24 年 7 月 10 日記)
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