スイス雑感 -自治都市の伝統とグローバル化の狭間で-

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スイス雑感 -自治都市の伝統とグローバル化の狭間で-
大口 敬*
筆者は,昨年スイス連邦工科大学ローザンヌ校
(EPFL: Ecole Polytechnique Fédérale de Lausanne)
に数ヶ月間滞在する貴重な機会を得た.以下ではそこ
で見聞して感じたことを少し綴ってみたい.
2 行政システム
a) 連邦国家
かような小国が,実は 26 州(Canton,準州含む)か
らなる連邦国家である.1281 年,3 原州が当時のハプ
スブルグ家の巨大な権力からの自由と独立を獲得する
1 国の概要
ために「誓約者同盟」を結んで以来,周辺地域が新た
スイスでは,独仏伊+ロマンシュ語の 4 言語が公用
な州として加わったり州が分れたり,長い紆余曲折を
語である.独語圏の人口が最も多く,今回滞在したロ
経て現在の国家形態に至る.19 世紀半ばまでは州が独
ーザンヌのある西部は仏語圏,南部の一部が伊語圏,
自の軍や通貨を持ち,さながら江戸幕藩体制のような
ロマンシュ語(原住民ヘルベチア族の言語)圏は極めて
「国家連合」であったという.今でも小国家スイスに
限られる.高学歴層は英語も含め 2,3 ヶ国語を苦も
26 もある各州の独立性はかなり高いようだ.
なく話すが,一般層は各地域の言語だけで暮らしてお
り,観光地ですら英語が通じるとは限らない.
実際,筆者が査証について東京のスイス大使館に問
い合わせると,日本人の場合は査証が不要だが,ヴォ
スイスの正式国名は Confoederatio Helvetica (ヘル
ー州(Canton Vaud,その州都がローザンヌ)から滞在
ベチア連合;ラテン語表記の場合)で,省略表記は CH
許可が必要との回答であった.こうなると全てが仏語
となる.EU 非加盟の永世中立国で,通貨も独自のス
となり,仏語が得意ではない筆者には,EPFL のサポ
イスフランである.しかし,2002 年に国際連合加盟,
ートなしには何もできない事態となった.
2005 年に周辺国との出入国管理手続きを簡素化する
b) 基礎自治体
シェンゲン協定を批准するなど,21 世紀に入り永世中
立の国是にも微妙な変化が見られる.
スイスの住民自治の真髄は,「基礎自治体(仏語で
commune)」にある.全国で 2,700 ほど,ヴォー州に
日欧を緯度で比較すると,東京は地中海の西の果て
370 ほどある(日本の市町村数は 2009 年 1 月現在で
ヨーロッパとアフリカが出会うジブラルタルと,稚内
2,011).ローザンヌ市の人口は 12 万人余だが,それで
はイタリアのトリノとほぼ同緯度である.ここで,石
もチューリッヒ・ジュネーブ・バーゼル・ベルンに次
垣島をジブラルタルまで北へ移動すると,稚内は北ド
いで 5 番目に大きい.またヴォー州には 10 の行政区
イツのハンブルク,東京がトリノあたりとなる.つま
(District=基礎自治体の集合体)があり,ローザンヌ行
り,日本は北ドイツからスイス,イタリア,フランス,
政区(6 自治体)の人口で約 14 万人,ローザンヌ都市圏
スペインに至るほど細長い大国なのだと実感する.ス
で見ると 30 万人規模だという.なおスイスでも,近
イスの面積は九州とほぼ同じだが,高い山地も多く可
年は基礎自治体の統廃合が進んでいるらしい.
住地面積は狭い.ここに福岡・宮崎を除く九州 5 県の
人口にほぼ等しい 740 万人余の人口が住む.
ローザンヌ旧市街は,スイス西部のレマン湖の北側
の急峻な場所に位置し,さながら立体都市の様相であ
る(図 1).湖畔から中心部まで旧市街のど真ん中を南北
*[正会員] 首都大学東京大学院都市環境科学研究科教授
に 1.5km ほど 19 世紀建造の登山電車が走っていたが,
近年新型メトロへの改修工事が行われ,私の滞在中に
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図 1 立体都市ローザンヌ
最新型自動運転の地下鉄が開通した.
この明るい南斜面を湖畔に沿って,東西に国鉄が走
図 2 ラヴォー地区世界遺産の風景
る.ローザンヌ駅の東 2km にピュイ(Pully)駅,さら
に東 2km にルトリ(Lutry)駅がある.実はピュイもル
トリも基礎自治体の名で,さらにこの短い距離の間に
ポデ(Paudex)という別の自治体がある.ピュイの面積
は 5.85km2 で人口 1.6 万人余だが,ルトリは 8.45km2
で約9 千人,
ポデは0.48km2 で約千人の人口である.
さらに湖畔に沿って東へは,
面積 0.3~3km2,
人口 300
~2000 人ほどの珠玉の小さな村がいくつも存在する.
この小さな村が連なる地域は通称ラヴォー地区という.
その陽光に満ちた明るい急峻な南向き斜面にワイン用
葡萄畑が一面に広がる風景は大変美しく,筆者もすっ
かり魅入られてしまった.実はこの地区は 2008 年に
UNESCO 世界遺産に登録された(図 2).
c) 都市自治の伝統と矜持
図 3 ピュイ村営ワイン蔵のワインラベル
スイスの人口の 1 割以上は外国人だという.スイス
の人々は,何か困って助けを求めると親切によく対応
ヴォー州の滞在許可手続きは,州庁舎ではなく筆者
してくれる.しかし,米国流の大げさなホスピタリテ
がアパートを借りたピュイ村の住民課へ行けという.
ィではなく,他者に対して一定の距離を置いて干渉し
結局,空港の入管は旅券を一瞥しただけで通され,村
ない,というスタンスのようだ.とはいえ,勇敢なこ
役場で,付添の EPFL 学生に英仏通訳の助けを借りて, とで有名なスイス国軍(今でもバチカン市国の警護を
じっくりと家族構成や滞在期間,目的などを詳細に聴
担当)は,今でも国民皆兵制で維持され,学校など公的
取されて州政府の滞在許可手続きが行われた.筆者は
機関には核シェルターが準備されている.スイス国民
8 月 1 日の建国記念日に居合わせたが,この日は村総
には外国人とはどこかに一線を引き,小国ながら独立
出のお祭りの様相で大いに盛り上がるのだ.この国は
を維持する高い矜持が感じられた.
州の連合体だが,州は基礎自治体を統合したもので,
村レベルの自治が国の基本なのだと合点した.
ピュイ村には村営ワイン蔵があり,このワインもな
3 交通環境
a) 都市公共交通システム
かなか旨い(図 3).地元スーパーでは,スイス各地の村
30 万人規模のローザンヌ都市圏だが,都市公共交通
名などを冠したワインが沢山売られているが,大量生
サービスは実に充実している.ここには,国鉄,州と
産できずにほとんどが国内で消費される.地産地消を
周辺自治体が出資する TL(Transport Lausanne)の軌
地で行く社会である.ワインに限らず,現地では多く
道・地下鉄・トロリーバスを含むバス 34 路線,その
の農産品などが誇らしげにスイス産を謳っている.結
他若干からなる公共交通網がある.経営母体や交通モ
果,確かに物価は高いのだが,いわば消費も社会を支
ードによらず都市圏全体で単一の運賃システムであり,
える公的活動の一つと考えているのだろうか.
経営母体や交通モードの違いを全く意識させない利用
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共」の「交通サービス」だと得心した.
b) 交通運用
図 4 の奥には Y 字路分岐がある.図の b)に見える内
側車線の停止線と信号灯は,分岐を左へ行く専用車線
のものだが,だいぶ上流にある.一方,分岐を右へ行
く外側車線は,分岐部直近の横断歩道前に信号と停止
線がある.内側車線の停止線から分岐部までは実線マ
ーキングで,
これを跨いだ車線変更は禁止されている.
しかしバスだけは,図の a)に見える文字と矢印(黄表
a) トロリーバス/バスのみ進路変更可の路面表示
示)により,この区間で外側から左への車線変更が許さ
れている.この区間にバスが近づくと,内側車線の一
般車は図の b)のように信号制御で停止線に止められ,
その間にバスが外側車線からごぼう抜きで前に出る.
こうしたきめ細かなバス優先信号やバス専用レーンな
どは都市圏全体で徹底されている.
こうしたバス優先の交通運用に加えて,バス停では
複数の広い乗降口より速やかに乗降できるため(支払
いが介在しない),バスの表定速度が高く定時性も高い.
バスは鉄道より運行頻度が高く,鉄道より早朝から深
b) 内側車線停止線と信号灯/路上駐車施設
図 4 トロリーバスとバス優先の交通運用
者本位の思想には大変感心した.
夜まで運行される.幹線のバス停には椅子や屋根が完
備されるなど,サービス向上に余念がない.
ローザンヌ都市圏では,図 4 の b)のように半分車
道・半分歩道に掛かるような路面表示による路上駐車
TL のバスシステムには図 4 a)のようなトロリーバ
施設が見られる.急峻で狭い土地に古代ローマにまで
スが多い.静かで排ガスが出ない上,強力な加速で走
遡る古都の中で空間制約が厳しいこともあろうが,適
行はスムーズである.また時間帯により連接と単独と
宜柔軟に必要な場所に確保しているようだ.
を容易に柔軟に変更できる.架線が都市景観を多少乱
c) 自転車
すものの,これは LRT とて同じことである.今回筆
者はトロリーバスの魅力を再発見した.
街中の自転車レーンは,車道内にマーキングで確保
される場所もあれば,歩道に乗り上げる場所,またバ
全ての鉄道・軌道・バスなどは,停留所・ホームの
ス・タクシーレーンと共用レーンの場所など,適宜柔
券売機や窓口で切符を購入し,乗降時の改札や支払い
軟に設定されている(図 5).車道空間に確保することに
は一切ない.
有効範囲は時間制を併用したゾーン制で,
必ずしもこだわらず,自転車にとって連続的に走行で
その範囲なら全モード乗り換え自由である.お得な 1
きる/走行すべき空間を分かりやすく,使いやすく誘
日パスやシーズンパス(1 週間,1 ヶ月,1 年)があり,
導しようとしている.なお,図のような自転車専用信
多くの地域住民がこれを持っている.これだと,地域
号灯がある場所は限定的であった.
内のどんな用事でも全ての公共交通機関を気儘に自由
d) 歩行者
に乗り放題である.ただし検札が回ってくることがあ
るので,パスは常時携行しなければならない.
都市部のほとんどの信号交差点では,歩車・車両同
士いずれも交錯動線は時間分離される.しかし意外だ
ぶらりと散歩に出かけ,たまたまバスが来たので乗
ったのが,歩行者のための車道横断施設として,交通
ってもいい.いくらでも乗降や乗換ができる.小銭の
量が閑散な郊外部でも,立体交差施設(多くの場合地下
準備や切符の購入・提示・精算などの心理的煩わしさ
道)が建設中も含めて多い.歩車交錯による事故発生リ
と無縁で,
「乗る」
「降りる」という行為を特別に意識
スクを低減させるためだろうか.バリアフリーに配慮
せずに,基本的なヒトの移動の営為である「歩く」の
してスロープが多用されているが,急峻な地形を上手
延長上に都市公共交通サービスがある.これこそ「公
く使いながら,自然な上下移動となるように心理的抵
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自転車専用
信号灯
a) 交差点で歩道上からバス共用レーンへ
a) トレッキング用標識(独語)
b) バスと共用の自転車レーンから歩道上へ
b) 左は観光地,右はピュイの街中
図 5 自転車走行空間
図 6 歩行者用案内標識のいろいろ
抗感を低減しようとする工夫が感じられた.
て寛容で,喫煙率も高く禁煙場所も限られていた.こ
こうした歩行者・自転車用の空間の整備だけでなく,
の国の雄大な山や湖,歴史ある旧市街などの景観は素
目についたのが自転車・歩行者向けの案内標識である.
晴らしい.一方で,普通の街だけでなく,あまり有名
面白いのは徒歩で 6・7 時間もの長時間かかる場所ま
でないが実は素朴で素敵な田園風景の中に,比較的モ
で案内されることである(図 6).図 6 の a)のような,
ノトーンの色使いや簡素な構造設計ではあるものの,
山地部のトレッキングルートでは,わが国でもこうし
アパート(日本流のマンション)が続々と増殖して景観
た案内はあるが,スイスでは, b)のような,観光地や
が崩れつつあるのは残念であった.
普通の市街地でもこうした長距離の歩行者用案内があ
スイスの電車内の走行騒音の低さは特筆に価する.
る.たとえば b)の右下のピュイ市街の看板では,レマ
車内・駅構内のアナウンスは必要最低限である.とこ
ン湖の20km ほど北に位置するヌシャテル湖との丘陵
ろが,スイス人は車内でもところ構わず携帯電話を
地帯の真ん中に位置するムードン(Moudon)村まで,徒
長々と使っている.音楽プレーヤをイヤホンで聴いて
歩で 6 時間 15 分との表示もある.
いる人も多い.かなり大きな音漏れの若者や音楽をス
研究室のボスに聞くと,環境や健康のために人々に
歩いてもらおうとこうした案内標識を積極的に整備し
ピーカで鳴らしながら電車に乗る者もいる.音環境は
近年著しく劣化しているように感じられた.
ている由.結局,スイスでも大多数が自動車に依存し
完全に車両乗入れ禁止で電気自動車だけが街を走る
た生活をしているのが実状で,街路を歩く人影は決し
観光地ツェルマットの存在は,この国の環境対策へ賭
て多くないのは,
単に人口が少ないだけなのではない.
ける意気込みを象徴している.一方で,若い世代の中・
だから,30 万都市圏であっても積極的に公共交通サー
低学歴層には確実に浸透しているグローバル化の波と
ビスの高度化に熱心なのであろう.
住民自治や永世中立の伝統との狭間で,スイス社会も
大きく揺れているように感じられた.
4 さいごに
スイスでは,EU 諸国と比較してまだタバコに対し