「禅の悟りと創造性」. - J

禅 問 答 と悟 り
田)
禅 の悟 り と 創造 性
禅 の悟 り と創 造 性 (恩
一
禅 で は、 よく 師 と 弟 子 と の間 に問 答 が行 わ れ る が、 それ は
相 手 の見 識、 境 涯 を 調 べた り 相 手 を 悟 り に導 き、 さ ら に悟 り
の境涯 を深 める た め に 行 わ れ る。 ま た 二人 以 上 のも のが、 問
答 に よ って仏 法 を 明 ら か に 示 し、 か つ深 め る こと があ る。
今 日 の臨 済 系 統 の禅 で は、 公 案 と い って禅 の問 題 を 弟 子 に
与 え る が、 禅 問 答 は、 分 別 判 断 を断 絶 せ しめ て、直 接 に仏 性
す な わ ち真 の自 己 (真 の事実) を つか せ せ よう と す る の で あ
恩
田
彰
よ う に 見 え る け れ ども、 本 質 的 に は そ の中 味 は 全 く何 も な い
と いう こと であ る。 しか し そ の中 に 無 限 の働 き を持 って い る
この問 答 が定 型 化 さ れ た も のが 公 案 であ る。 公案 は、 禅 者
の で あ る。
の悟 り の機 縁 や 言 行 を 短 い文章 で表 現 した も ので、 修 行 者 が
自 ら則 って いく 行 動 規 準 と な り、 ま た 師 が 弟 子 に問 題 と し て
与 え、 そ れ を参 究 さ せ て悟 り へ導 く 方 法 と し て用 い ら れ る よ
う にな った。
か 基本 的 な 問 いが 多 く、 師 か ら 弟 子 に問 う も の に は、 ﹁食 事
何 な る か これ 祖 師 西 来 意 ﹂、﹁如 何 な る か これ 仏法 の大 意 ﹂ と
動 は、 よ り自 由 に、 生 き 生 き と し て、 創 造 的 に 行動 しう るよ
そ こ で自 他 一如 の真 の自 己 に気 づく。 そ う す る と そ の人 の行
禅 に お い て は、 自 己 と 他 者 が 一つに な った 三 昧 を体 験 し、
機
を す ま せた か ﹂、﹁喫 粥 了 や 未 だ しや ﹂、﹁還 って便 渓 の水 声 を
う にな る。 そ のよ う な 禅 者 の 行動 に 見 ら れ る 働 き を禅 機 と い
禅
聞 くや ﹂ と いう 目前 の事 実 の問 いが 多 い。 し か し結 局 は、 禅
う の であ る。 禅 者 が 直 観 的 に洞 察 し、 ま た は 無 意識 的 に行 動
二
問 答 は ﹁真 の自 己 (真 の事実) と は何 か ﹂ を 問 う て い る の で
し た こ とが、 そ の状 況 に ぴ った り と 適 合 し、 当 面 した 問 題 を
る。 弟 子 から 師 に 問 う も のに は、 ﹁如 何 な る か 是 れ 仏 ﹂、﹁如
あ る。 真 の自 己 と いう の は、 一切 の現 象 は、 そ こに 存 在す る
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解 決 し てし まう こと が あ る。 そ の働 き が禅 機 であ って、 禅 者
によ って独自 の言 行 が 示 さ れ る。 そ の意味 で、 禅 者 は、 日常
で はご く 自然 であ る け れ ど も、 新 し い状況 や問 題 解 決 の場 面
では、 そ の困 難 を 克 服 し て 適応 し、 葛 藤 を たち 切 って解 決 し
て いる。
また 体 と用 と の関 係 に つ いて、 適 切 に示 し て いる問 答 に 次
ま
よくざ ん
のも のが あ げ ら れ る。
麻谷山宝徹禅師、あ ふぎを つかふちなみに僧 きたり てとふ。風
として いたらず という ことな き道理 をしらずと。僧 いはく、いか
ふ。師 いはく、 なんぢ ただ風 性常住 をしれりとも、いまだと ころ
性常住、無処不周なり。な にをもてかさら に 和尚 あ ふ ぎ を つか
禅 で は、 仏 性 す な わ ち真 の自 己 を とら え る こ とが 大 切 であ
ならんか これ無処不周底 の道 理。ときに師、あふぎを つかふのみ
て いく、 そ の点 独 創 的 で あ り、 個 性 的 であ る。
る が、 真 の自 己 そ の も の を体 と い い、 そ れ が現 わ れ る 特 質 を
ん
こ
活 に実 現 す る こと が で き て始 め て真 の悟 り と い え る の で あ
る。 悟 っても、 真 の自 己 の本 質 が わ か っても、 そ れ が 日常 生
谷 宝徹 禅 師 の生 き 生 き と し た 働 き を そ こ に 見 る こ と が で き
いた が、 無 処 不周 の ﹁用 ﹂ を つか ん で いな か った。 そ の点 麻
これ に よ る と この僧 は、 風 性常 住 と いう ﹁体 ﹂ を つか ん で
なり。僧 礼拝す。(正法眼蔵 の ﹁
現 成公案﹂)
相 と い い、 そ の働 き を用 と い って いる。 禅 機 と いう の は、 こ
の用 の こ とを 示 し て いる。
南泉鎌子
な
南泉 一日山上に在 つて作務す。僧有り過ぎて師 に問う、南泉 の
路、甚麿の処 にか向 つて去 る。師、鎌子を拮 じて云く、我が這 の
茅鎌 子、三十 文銭 に買 い得 たり。僧云く、茅鎌子三十文銭 に買 い
得たる ことを問 わず、南泉 の路、甚磨の処 にか向 つて去る。師 云
く、我 れ使 い得 て正に快なり。(﹁永平元和尚頗古﹂八 一則)
仏 の智 慧 を あ ら わす の に、 これ を 四 つの側 面 か ら と ら え た
る。
のが 四智 であ る。 四智 と いう の は、 大 円鏡 智、 平 等性 智、 妙
こ の僧 は南 泉 禅 院 へゆく 道 を た ず ね た の に、 南 泉 は こ の僧
が南 泉 へゆ く の は、 仏 法 を 求 め にき た のだ。 そ こ で仏 法 と は
の自 己 の用 とし て見 る と、 麻 谷 宝 徹 禅 師 の無 処 不 周 底 の見 解
観 察智、 成 所作 智 であ る。 こ のう ち 妙観 察 智 と成 所作 智 を 真
に 見 られ る ﹁あ ふ ぎ を つか ふ ﹂ 行 為 は、 四智 で いえ ば 成 所 作
何 か と いう 問 い に対 し て、 ﹁この鎌 は 三 十銭 で 買 った よ﹂ と
い。 そ こ で第 二 の 仏 法 の極 意 を 示 し て いる。 ﹁この 鎌 は よ く
行 動 力 とも いう べき特 徴 を 持 って い ると思 う。
智 に相 当 す る。 成 所 作 智 は、 創 造 性 の面 から 見 る と、 創 造 的
真 の事 実 を 示 し て答 え て いる。 しか し こ の 僧 は 気 が つ か な
いる。 前 の答 が 体 を 示 し て いる と す れば、 後 の答 は 用 を 示 し
田)
切 れ る ぞ ﹂ と、 こ れ は 禅 機 す な わ ち真 の自 己 の働 き を 示 し て
禅 の悟 り と創 造 性 (恩
-53-
禅 の悟 りと創造性 (恩
田)
得智)と いう が、 こ の後 得 智 では、 か なり 自由 に つか む こ と
明、 す な わ ち 自 己 を究 明 す る こと であ る。 悟 り と は、 仏 性、
禅 の本 質 は、 真 指 人 心、 見 性 成 仏 であ り、 要 す る に 己 事 究
す な わ ち後 得 智 の過 程 は、 直 観 的 思 考← 論 理 的思 考 す な わ ち
観 (
直観 的思考) に 相 当 す る と 見 る と、 無 分 別智 ← 有 分 別 智
と が で き る の であ る。 有 分 別 智 は 論 理的 思 考、 無 分 別 智 は直
ら え る こ とが でき、 ま た言 語 や イ メー ジ で自由 に表 現 す る こ
が で き る。 す な わ ち 観念、 概 念、 思 想 とし て ど の よ う に も と
す な わ ち 真 の自 己 を徹 見 す る こと であ る。 自 己 は自 己 が な い
両 方 の働 き の統 合 と 発 農 に よ る 創 造 的思 考 の過 程 に対 応 し て
禅 の悟 り と 創 造 性
時、 す な わ ち無 我 の時、 す べ て のも のが 自 己 で あ る。 そ こ で
三
自 他 不 二、 主 客 一如 の真 の自 己 (真 の事実)が つ か め る の で
いる よ う に思 う。 そ こで 後 得 智 に は、 創 造 性 の特 徴 が 見 ら れ
る、 歩 く、 動 く な ど し て、 自 由 に行 動 し て いる が、 そ の事 実
わ ら な い。 こ れ に気 が つく と、 安 心が得 ら れ る。 そ し て安 心
生 き ど お し に 生 き て いる。 す な わ ち 不 生不 滅 であ り、 全 く 変
間 的 に は無 限 の過 去 と 無 限 の未 来 を 含 む今 に お いて、 永 遠 に
真 の自 己 は、 空 間 的 に は こ こに お いて宇 宙 大 に広 が り、 時
る ので あ る。
(1)
あ る。
そ の場 合 に、 自 己 の体 験 に あ るが ま ま に 気 づ く 時、 こ の覚
に気 づ か な い。 そ の状 況 に 没 入 し て いる 時、 そ の無 心 の状 態
が悟 り の本 質 で あ る。 ふ だ ん 無 心 に 見 る、 聞 く、 立 つ、坐
に気 づく のが 悟 り であ る。 そ こ には あ る が ま ま、 す な わ ち如
が 得 ら れ る と、 自 由 に、 創 造 的 に 行 動す る こと が で き る よ う
真 の自 己 は、 有 分 別 智、 す な わ ち す べて の も のを対 象 化 し
の世 界 が あ る だ け であ る。 しか し そ れ に は 中味 は 何 も な い。
と、 そ こ に執 着 す べ き も のが な い こ と が わ か る。 そ う す る
一切 の現 象 は、 本 質 的 に は 中 味 は 何 も な い こ と に 気 づ く
に な る も の であ る。
い。 そ こ で無 分 別 智、 す な わ ち 自 己 と対 象 が 一体 化 し た 時 に
て、論 理 的 に 思 考 す る こ とに よ って と ら え る こ と は で き な
気 づく の で あ る。 そ こで 真 の自 己 は、 観 念 や 概 念 お よ び 思 想
適 応 で き る こ と で、 創 造性 の重 要 な特 性 であ る 8 し た が って
の柔軟 性 は、 今 ま で の状 況 に 固 着 せ ず、 新 し い状 況 に す ぐ に
っても 表 現 し にく い。悟 る と いう こ と は有 分 別 智 を捨 て て、
問 題 場 面 に直 面 す れ ば、 そ れ が 解決 さ れ、 窮 す れ ば そ の道 が
と、 ど の よう な 状 況 に お い ても 柔軟 に動 け る よ う に な る。 こ
無 分 別 智 を 得 る こ と であ る。 し かし い った ん 無 分 別 智 が 得 ら
開 け てべ る の であ る。
と し て と ら え る こと は で き な いし、 また 言 語 や イ メー ジ によ
れ、 そ の後 に 有 分 別 智 にも ど る と、 こ れ を 後 得 智 (有 分別後
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(1)
自 己 の探 究
禅 では、 自 己 の本 性 (仏性)を 見 と どけ る こと が 大 切 に さ
ならび
あ る と いう 一つ の世 界 に 気 づ いて い る。 す な わ ち 前 の 場 合
は、 知 的 理 解、 す な わ ち 有 分別 智 を示 し、-後 の場 合 は、 体 験
上 の気 づ き (覚)、す な わ ち 無 分別 智 を 示 し て い る。 悟 り と
は 後 者 の方 であ る。 前 述 のご とく、 有 分 別 智 は論 理 的 思 考、
れ て い る。
無 分 別 智 は直 観 的 思 考 に相 当 し て いる。 そ こ で自 己 が 自 己 を
なんびと
玄 則 監 院馬 法 眼 の会 下 に あ つ て並 に 入 室 せ ず。 忽 ち 一日 眼 問
それがし
う、 汝 此 にあ つて初 よ り 来 つて問 話 す る こ と を見 ず、 曾 て甚 人 に
知 る と いう こ とが、 いか に 大変 で あ るか と いう こと で あ る。
ここ
参 じ て 何 の見 処 かあ る プ 師 云 く、 某 甲 曾 て青 峰 和 尚 に 参 見 し 来
マズ ロ ー (orefgpe,
はa
、.自h己
.実
) 現 (orptogkro)
次 の問 答 が あ る。
この ﹁平常 心 是 道﹂ の事 実 を より は っき り 示 した も の に、
是れ道。
南泉、ち なみに趙州問う、如何なるか是 れ道。泉 云く、平常 心
平 常 是 道 (﹁無門関﹂第十九)
く の禅 問 答 の 中 に見 出 す こ とが でき る。
(
2) 真 の事 実 の発 見
禅 の本 質 が真 の事 実 (真 の自己) の発 見 に あ る こ と は、 多
思 う。 そ の点 禅 の悟 り は、 自 己発 見 であ る。
す る こ と であ る。 こ の自 己 実 現 の前 に自 己発 見 が あ る よう に
る こと であ り、 また 自 己 の持 つ潜 在 的 な 能 力、 可 能 性 を実 現
と いう こ とば を 使 う が、 これ は自 己 の完 全 な 人 間 性 を 開 発 す
(2)
る。 眼 云 く、 甚 の言 句 か 有 り し。 師 云く、 某 甲 問 う、 如 何 な る か
びようじ よう
是 れ学 人の自 己。峰云く、丙 丁 童 子来求 火と。眼云く、好語汝
作麿 生か会す。師 云く、丙丁は火に属す。火 を将て火を求 む、自
いかで
己を将 て自 己を求 むるが 如 し。眼云く、与慶 に 会 せば 又争か得
ん。師当時肯 はず遂 に起発し去る。眼侍者 に問 う、則監院甚 の処
かれ
にかあ る。者 云く、已に起 つて去る。眼 云く、此 の僧 もし江を過
ぎ去 らば伊を救 うことを得ず。師 中途 に至 つて再 び返 つて臓悔を
ただ
求め て問 うて云く、玄則は只与慶和尚の尊意 如何。眼云く、汝但
問 へ。師使ち問う、如何なるか是れ学 人の自己。眼云く、丙丁童
子来求火。師言下に大悟す。
(﹁拮評三百則不能語﹂ 二 一二則)
こ こ で玄 則 の発 した 問 いに 対 し て、 青 峰 を 法 眼 も ﹁丙 丁童
子 来 求 火 ﹂ と、 そ の答 は全 く 同 じ であ った。 し かし これ を聞
さ
趙州、 ちなみに僧問 う、それがし乍入叢林、乞 う師、指 示した
趙 州 洗 鉢 (﹁無門関﹂第七)
まえ。州 云わく、喫粥 了や未だしや。僧 云わく、喫粥了。州 云わ
いた 玄 則 の境 涯 に は、 全 く の 相 違 が 見 ら れ る。 玄 則 の境 涯
で、 前 に は、 自 己 が仏 であ る と いう こと が わ か って い ても、
田)
自 己 と 仏 が 二 つ にな って いた のに 対 し て、 後 に は自 己 が 仏 で
禅 の 悟 り と 創 造 性 (恩
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く、鉢孟を洗 い去れと。そ の僧省あり。
基礎 で あ り、 芸 術 の創 造 活 動 な ど の原 点 であ る と考 え る こと
発 見 で あ る。 そ こで真 の事 実 の発 見 は、 科 学 の発 見 や 発 明 の
の、 主 客 不 二、 自 他 一如 の体 験 に気 づく こ とが、 真 の事実 の
田)
﹁お粥 を食 べたら 食 器 を 洗 って おけ ﹂ と 真 の事 実 を端 的 に
禅 の悟り と創造性 (恩
示 し て い る。 そ こ で仏 道 は、 日 常 生 活 の中 に見出 さ れ る。 そ
が で き る。
八)
堂 云く、吾 れ爾 に隠すなし。山谷忽ち悟り去る。(﹁葛藤集﹂第 十
満 つ。堂問う て云く、公、木犀 の花 の香を聞くや。云く、聞く。
知 るや。云く、知らず。時に晦 堂、山谷 と山行 の次 で、天香山 に
つい
か。吾れ爾 に隠すなしと。甚だ宗門 の事 と恰好なり。公、之 れを
中 に、 一両旬あ り。仲尼 曰く、吾れを以 て二三子に隠せりとす る
山 谷、 一日、晦堂和尚に参 ず。堂 云く、公 の諸らんずる所 の書
と え ば 次 のよ う な問 答 が あ る。
き り わ か り、 わ か らな い人 には 全 く わ か らな い の であ る。 た
て いる。 ﹁密 は却 って 汝 が 辺 に あ り﹂ で、 わ か る 人 に は は っ
と いう も のは な い。明 歴 々露 堂 々であ って、 は っき り 示 さ れ
(3) 公 開 の秘 密
真 の 事実 は、 全 く 何 も のに も 開 かれ て い て、 そ こに は秘 密
こに 真 の事実 に気 づ く こ とが 悟 り であ る。
次 に いく つか の真 の事 実 を 示 す 問 答 を あ げ て み る。
香 林坐 久 (﹁碧岩録﹂ 第十七)
僧 香林に問 う。如何 な る か 是 れ祖師西 来意。林 云く、坐久成
労。
洞 山 三斤 (﹁無門関﹂ 第十八)
けつ
洞 山和尚、ちなみに僧 問う。如何なるか是れ仏。山 云わく、麻
三斤。
し
雲 門 尿 楓 (﹁無門 関﹂ 第一二)
雲門、ちなみに僧問う。如何 な る か是 れ 仏。門 云 わく、乾尿
楓。
以 上 の禅問 答 を見 る と、 禅 の悟 り は、 真 の事 実 の発 見 にあ
る。 これ は思 慮分 別 を 入 れな い無 分別 智 で あ る。 そ こに 少 し
でも 観 念、 概 念 が入 り こ ん だり、 論 理 的 思 考 が働 いた ら、 真
に観 察 し、 それ に つ いて 思 考 す る と し ても、 また 芸 術 の創 作
科 学 的思 考 で は、 自 己 に 対 し て他 者 と し て の対 象 を 客 観 的
て いた が、 そ れ が手 ち が い で汚 染 され、 それ が 死 滅 し て いる
法則 を 発 見 し た。 また フ レ ミ ング は、 ブ ド ウ状 球 菌 を 培養 し
ュー ト ンは、 リ ンゴ が 目 の前 に 落 ち る の を見 て、 万 有 引力 の
こ の よ う な こと は、 科 学 上 の事 実 の発 見 に見 出 さ れ る。 ニ
活動 で、 対 象 を 主 観 的 に と ら え、 新 し いイ メ ージ を 生 み 出 す
こと を 見 つけ た。 これ はあ る 種 の細 菌 が侵 入 し て、 ブ ドウ状
の事 実 か ら離 れ て しま う。
と し ても、 こ の主 観 と 客 観 お よ び 自 己 と 他 者 が 分 か れ る 以前
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球 菌 を 死滅 さ せた こと に 気 づき、 これ を追 究 し てペ ニシリ ン
な んじ
いま
て出 ず。泉 云わく、子もし在 しなば、すな わち猫児を救 い得たら
の発 見 であ る。 そ こ に相 違 点 が あ るが、 禅 で いう 真 の事 実 の
し て の現 象 の事 実 の発 見 であ り、 禅 では 自他 一如 の真 の事 実
く る源 をた ち 切 った の であ る。 これ は禅 門 で いう 殺 人 刀 に相
る。 す な わ ち わ れ わ れ の いろ いろ な 分 別 の観 念、 妄想 の出 て
こ こ で 一刀 に斬 ら れ た のは、 猫 で は な く て修 行者 た ち であ
ん。
発 見 は、 科学 に おけ る客 観 的 な事 実 の発 見 の原 点 であ る と い
当 す る。 自 我 の根 を た ち切 って し まう の であ る。 そ し て趙 州
を 発 見 す る に いた った の であ る。 この場 合科 学 では、 対 象 と
え よう。
(
4) 死 と再 生
よめが
禅 の ことば に ﹁大 死 一番 絶 後 に 蘇 生 え る﹂ と いわ れ る よ う
る。 こ の趙 州 の行 為 は、 死 ん で 生 ま れ か わ つた、 自 由 人 の創
行 動 が 見 ら れ る。禅 機 す な わ ち禅 の妙 用 を見 出 す こ とが でき
が 履 を頭 の 上 に のせ て出 て い った の は、 そ こ に無 心 の自由 な
に、 ﹁悟 る﹂ す な わ ち 仏 性 (真 の自 己)に 気 づ く こ と は、 ﹁死
造 的 な 行 動 で ある。 これ は活 人剣 で あ る と いう ことが でき よ
あ
ぎよ
に大潟の主人を選ばんとす。すな わち請 じて首 座と同 じく衆 に対
潟山和 尚、始め百丈 の会中 に在 つて典 座に充 てらる。百丈まさ
耀 倒 浄瓶 (﹁無門関﹂第 四〇)
て きと うじ んび ん
の否 定 に よ って生 ま れ てく る。
(
5) 概 念 の否 定
禅 で は観 念 や概 念 の否 定 が 行 わ れ、 創 造 活 動 も 既 成 の概 念
う。
ん で生 ま れ か わ る﹂ と いう こと だ。 これ は 生命 現 象 の メ カ ニ
ズ ムに、 そ の モデ ルを見 出 す ごが でき る。 有 機 体 の細 胞 は、
常 に 新 陳 代謝 を く り返 し て いる。 古 いも のがな く な り、 そ れ
に代 って新 し いも の が 生 ま れ 出 てく る の であ る。 これ は 生命
の創 造 (生成) の働 き を 示 し て い る。 そ の意味 で ﹁死 ん で 生
まれ か わ る﹂ と いう こと は、 破 壊 から創 造 へ、分 析 と総 合、
あ る いは 情 報論 か ら 見 る と、 情 報 の切 断 と結合 を 示 し、 そ こ
に創 造 の原 理 を 見 出 す こと が で き る の であ る。
地上 に置 いて、問 いを設 けて云わく、喚ん で浄瓶となすことを得
して下語せしめ、出格 の者往 くべしと。百丈遂に浄瓶 を拮 じて、
ざれ、汝喚んでなんとかなす。首 座すなわち云わく、喚 んで木揆
南 泉 斬 猫 (﹁無門関﹂第十 四)
南泉和尚、ちなみに東西 の両堂、猫児を争う。泉 すなわち提起
ぼくと つ
し て云わく、大衆、道 い得ぱすな わち救 わん。道 い得ずんばすな
さ んす
し て 去 る。 百丈 笑 つて 云わ く、 第 一座、 山 子 に輸 却 せり と。 因 つ
となす べからず。百丈却 つて山に問う、山、すなわち浄瓶 を耀倒
くつ
わち斬却せん。衆、 対うるな し。泉、遂 にこれを斬る。晩 に趙州
田)
外より帰る。泉、州に挙似す。州 すなわち履を脱して頭上に安じ
禅 の悟 り と創 造 性 (恩
-57-
田)
るも の は、.す べ て のも のを 空 じ た 後 に あ ら わ れ る、 あ る が ま
禅 の悟りと創造性 (恩
て之 に命 じて開 山となす。
ま の ﹁如 ﹂ の世 界 であ る。 そ こ に竹 箆 は 竹箆 と し て大 活 現 成
以 前 テ レ ビ で外 国 人 が 鉛 筆 を 口 にく わ え て、 これ を 手 で た
す る の であ る。
浄 瓶 (水差 し)を指 し て ﹁これ を 浄瓶 と呼 ん で は いけ な い。
さあ 何 と呼 ぶ か﹂ と問 い かけ ら れ る と、 困 って し まう。 浄 瓶
た いて リ ズ ムを と って いた のを 見 た こと が あ る。 ﹁こ れ は 鉛
を 示 し て ﹁これ を何 と いう か ﹂ と 聞 か れ る なら や さ し い。 し
か し前 のよ う に たず ね られ る と、 そ の答 に窮 し て し ま う。 首
想 は出 て こな い。
禅 の論 理 と し て、 鈴 木 大 拙 は ﹁即 非 の論 理 ﹂ を 提 唱 し、 秋
筆 だ。 書 く も のだ。﹂ と いう 概 念 が あ って は、 こ の よ う な 発
月 竜 現 は これ を展 開 し、 整 理 し て いる。 これ は漢 訳 ﹃金 剛 般
と ら わ れ て い る。 そ の点 潟 山 は浄 瓶 を け と ば し て、 一切 の概
念、 分 別 の観 念 や 妄 想 を打 ち はら って し ま った。 す な わ ち 空
若 経 ﹄ に ﹁如来 は世 界 は、 即 ち 世 界 に非 ず と説 き、 これ を 世
座 の よ う に ﹁木 履 とも い えま す ま い﹂ と いう の で は、 概 念 に
と い う 何 も な い世界 を は っき り と把 握 し て いる。 こ の公 案 は
は、 般 若 思 想 の論 理 と し て自 覚 的 に 取 り出 し たも のであ る。
ず、 この故 に 一切 法 と 名 つく。﹂な どが あ る と ころ か ら、鈴 木
界 と名 つ く。﹂ま た は ﹁言 う所 の 一切 法 と は、即 ち 一切 法 に非
(3)(4)(5)
禅 の 殺 人 刀 の働 き を 示 し て いる。
し つべ い
首 山和尚、竹箆 を拮 じて衆 に示 して云わく、汝 等諸人、も し喚
首 山 竹箆 (﹁無門関﹂ 第四三)
んで竹箆 とな さば則 ち触 る。喚 んで竹箆となさざれば則ち背く。
であ り、 ﹁竹 箆 と竹 箆 と呼 ば な い﹂ と は、 空 す な わ ち 本 質 の
﹁竹 箆 と呼 ぶ﹂ の は、 色 す な わ ち現 象 界、 差 別 の 世界 の こと
一メー トルぐら いで、竹を 弓形 に ま げ たり、弓 を切 って作 る)を
竹 箆 (師家 が学人を指導するため の道具 で、長 さ六〇 センチより
あ り、 第 二 の非 A は本 質 の 世 界 で あ って、 前 者 が 色 で あ れ
論 理 があ る と いう の であ る。 こ の場 合、 第 一のA は現 象 界 で
ま ま自 己同 一-A即 非 A是 名 A- と いう 自 覚、 そ こに即 非 の
ち 絶対 に相 反 す る も の (絶対矛盾)が ﹁即 ﹂ に よ って、 そ の
わ れ る。﹂ と いう こ と で、 A (肯定) と 非 A (否定)、す な わ
この金 剛 般 若 経 の命 題 は、 ﹁A は非 A であ る。 故 に A と い
世 界、 平 等 の世 界 の こと であ る。 す な わ ち 竹 箆 を 竹箆 と呼 べ
汝 等諸 人、しばらく道 え、喚 んでなんとなさ ん。
ば、 差 別 の世 界 に と ら わ れ て、空、 平 等 の 世界 を 見 落 し てし
であ り、 ﹁故 に Aと いわ れ る ﹂ は空 即 是 色 で あ る。 こ う し て
ば、 後 者 は空 で あ る。 そ こで ﹁A は非 A であ る ﹂ は色 即 是 空
見 る と、﹁竹 箆 は竹箆 に非 ず、 こ の故 に 竹 箆 と 名 つ く ﹂ と い
ま う し、 ま た 竹 箆 を 竹箆 と呼 ば な け れば、 平 等 の世 界 に と ら
わ れ て、 色、 差 別 の世 界 を 無 視 し て いる。 ここ で 示 さ れ て い
-58-
ふく
香厳和尚云わく、人 の樹 に上るが如 し。口に樹枝を卿 み、手 に
香 厳 上樹 (﹁無門関﹂第五)
枝を墓じず。脚、 樹を踏まず。樹下 に人有 つて、西来意 を問 わん
う こと に な ろ う。 水 は 一般 に は、 ﹁水 は 液 体 で あ る ﹂ ま た は
﹁常 温 の水 は、 液 体 で あ る﹂ と いう。 しか し水 は、 い つでも
喪身失命せん。正急麿 の時、作麿生か対えん。
に、対えずんばすなわち他 の所問にそむく。も し対 えなば、 また
よ
液 体 の状 態 に と ど ま ら な い。 温度 が 下 れ ば、 結 氷 し て固 体 と
な る。 これ を 氷 と名 づ け て いる。 また 温 度 が 上昇 す る と、 気
体 にな る。 これ を 水 蒸気 と名 づ け て い る。 す な わ ち、 水 が結
この公 案 は、 こ の よ う に絶 対 絶 命 の 窮 地 に お ち こ ん だ 場
(6)
氷 し て氷 とな る 場 合、 液体 とし て の水 ← 液 体 と し て の水 では
合、 ど う 打 開 す る か を 求 め て い る。 秋 月 の い う よ う に、 ﹁窮
公 式化 す れ ばA ←non
A-B
換言
な い← 固 体 と し て の水
す れ ば 通 ず る ﹂ と い う よ う に、 問 題 状 況 が ﹁転 ﹂ ず る の で あ
これ に よ って即 非 の論 理 は、
す れ ばA=non
る。 ﹁窮 す れ ば 通 ず ﹂ と い う こ と は、 あ る 状 況 や 問 題 で 行 き
A故 にA=B
認 識 の論 理 に と ど ま ら ず、 変 換 の論 理 また は創 造 の論 理 に転
づ ま っ て 絶 対 絶 命 の 立 場 に 立 つ と、 か え って 活 路 が 開 け て、
6
恩田
昭 和 五 一年 三 八- 三 九 頁。
昭和三九
彰 ﹁仏 教 と創 造 性- とく に禅 を 中 心 と し て-﹂ 東 洋 大
第 十 二集
二 五九- 二 六 二頁。
マズ ロー、 上 田吉 一訳 ﹃完 全 な る人 間﹄ 誠 信 書 房
彰 ﹃創 造 心 理 学﹄ 恒 星社 厚 生閣
昭和四六年
昭和四九年
六三
三 九- 四 一頁。
(
東 洋 大 学 教 授 ・文 博)
昭 和 五〇 年
二〇 六
四 一五- 四 二八 頁。
鈴 木 大 拙 ﹁日本 的 霊 性﹂ (
﹃日本 の名 著 ﹄ 第 四 三 巻 清 沢 満 之 ・
昭 和 四七 年
秋 月竜 班 ﹃鈴 木禅 学 と 西 田哲 学 ﹄ 春 秋 社
恩田
秋 月竜 現 ﹃禅 問 答﹄ 潮 文 社
- 言一一六頁。
5
- 九 八頁。
4
鈴 木大 拙) 中央 公 論 社
3
年
2
学大学院紀要
1
状 況 が 打 開 し、 問 題 が 解 決 さ れ る と い う こ と で あ る。
換 す る の であ る。
鉛 筆 は ﹁筆 記 具 で あ る﹂ ﹁書 く も の﹂ と い え ば、 知 能 検 査
な ら 合 格 であ る が、 創 造性 検 査 の ﹁新 用 途 開 拓 ﹂ の テ ス トで
は不 合 格 であ る。 鉛 筆 は、 線 引 き、 占 い に使 う、 耳 か き、 穴
を あ け る、 二本 使 っ て箸、 楽 器 な ど、 種 々の 使 い 方 (用)に
よ って名 づけ る こと が で き る。 そ こ で まず 固 定 概 念 を こわ し
て みる こ ど だ。 そ う し て始 め て新 し い概 念 が 生 ま れ、 新 し い
働 きや 新 し いも の が 生 ま れ てく る の であ る。
(
6) 窮 地 の打 開
に つ ち
さ つ ち
問 題 解 決 や 創 造 活 動 に行 きづ ま って、 二進 も 三 進 も 進 ま な
い状 況 に い た った時、 あ る時 た ち ど ころ に ひ ら め き が 生 じ て
くな い。
田)
問 題 が 解 決 さ れ、 新 し い アイデ アや も のが 生 ま れ る こと が 少
禅 の悟 り と 創 造 性 (恩
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