近未来の神話は粘菌から出づるか? 山上渡、は長野に在住する美術作家である。 絵画、彫刻、陶芸などジャンルを問わず、精緻な線画のドローイングから新潟の田んぼに3000本酒瓶 を埋めるような大胆なインスタレーションまで手がけるタフな作家だ。学生時代からテレビ局の大道 具製作を手がけ、やがてタイ、インドから沖縄、北海道、そしてペルー、アルゼンチンなどの世界各 地を放浪し東洋シャーマニズムを自身のベースとし、ペインティングを学ぶ傍ら「粘菌」と俗に呼ば れる単細胞生物の生態へ強い関心を抱き、その増殖と変容をモチーフとした神話的宇宙観を現してき た。 すでに?マークが飛び交っているであろう読者のためにもう少し説明をしたい。 まず彼の作品の核となる「粘菌」についてである。粘菌とは、植物とも動物ともつかない単細胞生 物で、薮の中や植え込みなど身近な場所にも潜んでいる。粘菌の研究でイグ・ノーベル賞を2回も受 賞した中垣俊之氏がその魅力を語るには「(略)「粘菌には物質的な匂いがまだプンプンしている」 ということです。森の木や石や実験室の寒天の上に広がった変形体は限りなくモノのような姿なのに、 でもやっぱり生きていて、情報処理能力や問題解決力をもっています。生き物と死んだもののちょう ど境目のような存在だからこそ、その能力をニュートンの運動方程式のような物質世界の法則性で理 解していける可能性があるわけですが、そこには研究を続けるごとに驚くような発見があり、どうに ※1 も惹かれる」 そうなのだ。 山上はその全ての生物もまた細胞という物質から構成されていることから、粘菌を通して 意識 とされ ているものは何か?生命体の意思や意図となるものはどこから来ているのか?を追い続ける。 次に、彼の描いているのは人間が認識し得ない不可視の世界であり、それは人間原理主義的な宇宙 観ではなく自然主義に基づいた風景でもある。それは心象風景や心理学的形態学を描いたロベルト・ マッタのSF的世界や、ハンス・アルプがアールコンクレとよぶ自然形態から生み出される有機的なフ ォルムの彫刻に通じる。 これまでの山上の作品は、まるで一切の音が消え去った宇宙空間や、もしくはシャーレに放たれた粘 菌が変容していくかに見えるような、張り詰めた空気を纏った神秘的な現象世界を特徴としてきたと 言える。 今回の展示依頼に際して山上は「作風を変えているところだから今までとは全然違う」と言い、奇 しくも本展がその新しい展開を初めて公開することになった。どのように変わるのかを知りたくて初 秋に長野市の自宅兼スタジオを訪ねた。 今回の展示の中にある、ウネウネと増殖や移動を今にも始めそうなオブジェ。その変遷のスタートは この立体作品からとなる。 さらに、描きかけの本展のメインイメージ「Biomorphic form and dot to grow」があり、まるでス プレーで描かれたグラフィティのような画面と鮮やかなネオンカラー、というこれまでとまったく違 う絵に驚かされた。 そして絵の中には、展示タイトルにも含まれている「ドット」。何かの意思を持ったように画面の中 を動き回るドット。これを再解釈する事が課題であるという。 ドットを群衆にも見立てる事ができる、という山上はデモ活動、議員たちの多用する「民意」「国民 のみなさんの声」といった個ならざる集団の意思や動きを、分子の連続が生命体としての意志を持つ ※2 ことのメタファーとしても見ている。 これまでの絵が「静」であったとするならば「動」の時期に入ったのではないだろうか。 山上の実家の裏には、小高い丘のような場所があり、そこに小さな神社があった。 訪れた初秋の風の中でその神社だけは凛とした空気を纏っていたのだが、数日後に開催される秋祭り ではその小さな丘に大量の花火があげられて、それがとても楽しみであると言っていた。家という生 活空間のすぐ後ろにある神のおはす聖なる場がある環境で幼少時代を過ごした山上は、日常と非日常 がごく身近にあったのではないか。この神社だけでなく長野には道祖神と呼ばれる路傍の神があちこ ちにいる。見えざる なにか に興味を持つようになるのはこうした背景があるように思われる。 もう一つ変化に対するキーワードに「庭」がある。山上は作庭にも関心があるという。なかでも明 治期に、これまで研究されていなかった日本庭園をリサーチし、自然と対話し、時には挑むことを繰 り返しながら自らが作庭家となった重森三玲。宇宙というマクロの視点を庭というミクロに置き換え る作業は山上の絵画のなかにもある。また、庭というのは藤森照信によると「あの世のもの」だとい う。いはく、ニワの語源は神のいる場を意味し、配される白砂青松は時間の止まっていることのしる し。「庭もあの世も神さまのいる場所も時間が止まっているという共通性を持つ。つまり、元々は同 ※3 じところから出てきたのである」 というではないか。 そうであるとすれば生物とも無生物ともつかない粘菌を追う山上が、植物の育まれる庭が実は時空を 止める空間であるところであるという表裏一体の概念の場に興味を持つのも納得のいく流れではない か。その相互関係は「色即是空、空即是色」の意味する現代宇宙論ともつながる。「有」があるのだ とすれば、その起源はもちろん「無」であるはずである。その完全な「無」から「有」はどのように して生み出されるかの仕組みを問うが現代科学の課題である、という点は般若心経の言葉が似つかわ ※4 しいことは宇宙物理学者の池内了氏が指摘しているが、 科学の分野と相反するように思われている ※5 仏教概念の類似点は多い。 山上はそれらを内包した宇宙科学、自然物理学と芸術の世界を行き来す る。 あえて私は「動」の 時期 と記した。粘菌が増殖してネットワークを築きあげていくように、山上の 世界もまた形を変えて繋がっていくものだと思うからである。展覧会をオファーした当日に、山上は 広島の親戚に「今年こそ広島に行く」と宣言したところであったという。 誰も予期せぬ何かの意思が広島に行く流れになっていたのだ、と勝手に踏んでいて、その広島来訪が また別のネットワークを生むことを本展の楽しみとしたいと思っている。 平石もも(横川創苑/92project) ※1:中垣俊之「粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う」文春新書984,2014 ※2:付け加えるとすれば、作品の変化は東日本大震災以降から徐々に始まっていたとも言える。都市を血脈の ように張り巡らせた作品、「Tokyo Atlas」(2013)にも粘菌の増殖回路と都市の生命が重ねあわせられている。 ※3:藤森照信「天下無双の建築学入門」ちくま新書312,2001 ※4:池内了「宇宙論と神」集英社新書0724G,2014 ※5:物理学と諸行無常の概念の類似は、湯川秀樹「宇宙と人間 七つのなぞ」ちくま少年図書館1974/改訂版 河 出文庫,2014 にも記載されている。
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