a306 イスラエル5日・続聖誕教会・アルメニア教会・イエス聖誕の地・聖

異文化の旅 イスラエルを行く1103-23
a306 イスラエル5日・続聖誕教会・アルメニア教会・イエス聖誕
の地・聖カテリーナ教会・ヒエロニムス
web、資料には、 1852 年、聖誕教会はローマカトリック、 アルメ
ニア教会 、東方正教会の 3 者による共同管理となったとある。私の
推測では、イスラム時代にローマカトリックだけが追放され、東方
系教会などの信者には聖誕教会での祭礼が許されていて、イスラム
の司派が弱まったときなどにローマカトリックの信者が巡礼に来て
いたのではないか。そして、この頃から東方系教会とローマカトリ
ックの会派による摩擦があったのではないか。オスマン帝国の支配
が弱まりだした 1800 年代に会派の衝突が頻発したようで、 web に
はつい最近起きた会派の乱闘記事が載せられている。イエス・キリ
ストを崇めながらも、流儀の違いで摩擦が起こるらしい。写真は身
廊奥にしつらえられた東方正教
会の祭壇=聖餐台で、東方正教
会の礼拝堂は南側に位置する。
アルメニア教会の礼拝堂、祭壇
は南西側、ローマカトリック・
フランシスコ会は北西側に礼拝
堂、祭壇を構えていて、それぞ
れ入口も別である。
が盛んで、イスラム時代にローマカトリック教徒が追放された後、
アルメニア教会は東方正教会とともに聖誕教会を護り、祭礼を行っ
てきたのではないか。 1852 年に共同管理の一翼を担うことになっ
たのがこの推察を裏付けよう。
アルメニア王国 は BC190 年ごろに成立し、地中海から黒海、カ
スピ海にいたる広範な土地を支配、東西交易で繁栄していた。 1 世
紀ごろにキリスト教が広まり始め、 301 年に世界で始めてキリスト
教を王国の国教とした。が、ローマ帝国、パルティア王国、ササン
朝ペルシャなどが次々と台頭し、アルメニアはその支配下に入って
しまう。その後も周辺強大国に支配を受け、近世にはオスマン帝国
とロシアに分割割譲されるなどし、 1991 年、首都をエレバンにお
いた、面積 3 万平方㎞弱、人口 300 万人のアルメニア共和国として
独立している。この間、東方諸教会系のアルメニア教会を信奉して
きて 、現在も国民の大多数はアルメニア教会を信仰している 。資料 、
web には記載がないが、アルメニア人は早くから聖誕教会への巡礼
身廊奥の祭壇=聖餐台の北側に地下の イエス聖誕の地 である洞窟
=地下室に降りる狭い階段がある。地下も狭く大勢の巡礼者が次々
と大理石で仕上げられた聖誕の地に祈りを捧げている。次頁写真が
聖誕の地の祭壇で、下側の暗くなっている穴にイエスが布に包まれ
寝かされていた飼い葉桶が置かれていた
と信じられている。中をのぞくと、床に
は新約聖書ルカ福音書に記載の「生まれ
たイエスが寝かされていた飼い葉桶」の
場所を示す銀製の星形プレートがはめ込
まれている。写真は聖誕の地を示す銀の
星プレートで、 14 の頂点がある。新約聖
書マタイ福音書の「東方の博士が導かれ
た星 」はベツレヘムの星とも呼ばれるが 、
たぶん 14 の頂点があるように輝いて見え
たのかも知れない。クリスマスツリーの
頂点にもベツレヘムの星をイメ
ージして星が飾られるが、この
星飾りは頂点が 5 つ、または 6
つが一般である。
イエス聖誕の銀の星プレート
にはラテン語で「ここで聖母マ
リアにより、イエス・キリスト
が生まれた」との文字が彫られ
ている。プレートの上に下げら
れたラ ンプ は 15 個で 、ロ ーマ
カトリックが 4 個、東方正教会が 6 個、アルメニア教会が 5 個を所
有しているそうだ。イエス・キリストを崇め信じればランプの数な
ど些細なことになろうが、近年まで衝突が繰り替えされているそう
- 1 -
- 2 -
だから、神ならぬ人間はいつまでも些細なことにとらわれるのであ
ろう。
混雑の人に押されて階上の
身廊に戻り、隣接するローマ
カトリック・フランシスコ会
修 道 院 聖 カ テ リ ー ナ 教 会 The
Church of St. Catherine に入った
(写真 )。 カテリーナ=カタ
リ ナ ( 287-305) は 古 代 ロ ー マ
帝国皇帝マクセンティウス
( 278-312)のころにエジプト・アレキサンドリアに生まれ、早く
からキリスト教を熱心に信仰していた。当時のローマ帝国はキリス
ト教を弾圧していて、カテリーナに棄教を迫り、拒絶したため 305
年に斬首された。コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認の
ミラノ勅令まであとわずか 8 年であった。伝説によれば、遺体は天
使がシナイ山に運んだそうだ。その後聖女として崇められ、 6 世紀
にはビザンティン帝国=東ローマ帝国 2 代皇帝ユスティニアヌス 1
世( 483-565)によってシナイ山に聖カタリナ修道院が建立されて
いる。フランシスコ修道院もカテリーナにあやかって、聖カテリー
ナ教会としたのかも知れない。
聖カテリーナ教会の前には ヒエロニムス =ジェローム Eusebius
Sophronius Hieronymus( 340 ? -420)の像が立っている。ヒエロニム
スは現クロアティアのダルマティアに生まれ、ローマで学んだ後、
ギリシャ語を学び、シリアでヘブライ語を修得、コンスタンティノ
ープルなどに滞在してローマに
戻り、ギリシャ語の聖書をラテ
ン 語 に 翻 訳 、 390 年 ご ろ か ら イ
エス聖誕近くの洞窟=地下室で
ヘブライ語の聖書をラテン語に
翻訳し 、405 年ごろに完訳させ 、
死後、同じ洞窟=地下室に埋葬
さ れ た ( 写 真 )。 ヒ エ ロ ニ ム ス
が翻訳した聖書が 20 世紀に至る
までカトリックのスタンダードになったそうだから、彼なくしては
キリスト教がこれほど世界に広まらなかったかも知れない。だから
ローマカトリックでは四大教父=正統信仰の確立に寄与した著述家
の一人として崇めている。
web によると、 5 世紀ごろ、聖ヒエロニムス=聖ジェロームの墓
地の庭に修道院が建ち 、12 世紀には十字軍が修道院を建て替え 、15
世紀ごろにこの修道院を組み込んだ聖カテリーナ教会になったそう
だ 。 1881 年 、 オ ー ス ト リ ア 皇 帝 フ ラ ン ツ ・ ヨ ー ゼ フ 1 世 Franz
Joseph I.( 1830-1926)の寄金により増改築され 、いまに至っている 。
カテリーナもヒエロニムスもイエスの導きで聖女、教父に列せられ
たのだから共存しても何ら違和感はないのであろう。聖カテリーナ
教会の内部(前々頁写真)はゴシック様式を基調とした白みの石積
み、リブヴォールトの高い天井の明るい空間で、巡礼者が思い思い
に祈りを捧げている。回廊に出ると、中庭からの陽光が降り注ぎ大
らかな気分になる。
- 3 -
- 4 -
外に出た 。聖誕教会を遠望するあたりで 、ガイドの S さんが 、2002
年 4 月 2 日、武装したパレスティナ過激派がイスラエル国防軍に追
われ聖誕教会に逃げ込んで、修道僧、一般市民など 200 人を人質に
した事件が起きた、イスラエル国防軍が聖誕教会を包囲、銃撃戦が
続いていた 17 日、銃撃で破片が散乱している教会前広場に日本人
の若い男女が現れた、あわや銃撃に巻き込まれる?、間一髪、防弾
チョッキを着けたジャーナリストが命がけで 2 人に銃撃のさなかだ
と話し、イスラエル国防軍の装甲車に助け出された、と話した。あ
とで、 BBC の「日本人バックパッカーの男女 2 人、ベツレヘムの
包囲の中で困惑する」のニュースを見つけた。 2 人は、 6 ヶ月ほど
路上で暮らしながら?歩き回っていて、テレビも新聞も見ていない
ので知らなかったそうだ。イスラエル国防軍の包囲は 5 月 10 日ま
で続いて、人質、過激派の双方が解放され、決着したが、命も危な
かったし、人質になったかも知れない。海外での向こう見ずな行動
で生命の危険にさらされた事件も少なくない。海外に出るには海外
情勢にぜひ注意を払って欲しいが、同時に、その国の基礎的な情報
と国の歴史がどう動いたかはおおよそ学んでいった方が、その国に
もっと親しめ、旅が楽しめると思う。
バスに戻った。ほどなくパレスティナ出国、イスラエル入国であ
るが、パスポートを持って検査場に入ったガイドと運転手がなかな
か出てこない。この間、バスの外には銃を構えた兵士が険しい顔を
して動かないでいる。何かトラブルか?。待つこと 30 分以上、よ
うやくガイドが出てきた。前のトラックが検査で長引いたらしく、
私たちのツアーバスには問題がなかったそうだ。ホッ。
夕食の時間は日没後で、安息日=シャバットは終わっており、レ
ストランで、前菜、チキン +マトン +ポテト、デザートにワインを
楽しんだ。部屋に戻ってから長い一日を思いだすと、見学・巡礼地
が錯綜してくる。ワインを飲みながらメモやデジカメの画像を見て
いるうち目が閉じ始めた 。( 1103 現地、 1301 記)
- 5 -