文責 ・ 敦賀市立粟野中学校 奥田康子 養護教諭 やすこママのパワフル保健室78 思春期・・・輝くとき№34(2011.03) 「生きるということ」 文部科学省委託、県の性教育研究授業をということで、3年生で担任の先生とのティームティーチングによる「欲 求・愛・生きる」ということをテーマにおいての授業を行いました。「欲求」については保健体育でも扱いますが、この 分野では生理的欲求・社会的欲求について知らせ、欲求不満を感じたときの対処方法を理解させることなどがね らいとなります。そこで、今回は欲求や愛情が「生きるということ」につながることを生徒たちに投げかけてみたいと 思い、学級活動として扱うことにしました。 「好きな人がいますか?」という問いかけからはじまり、人が人を好きになったときの脳のメカニズムを解明してい きます。導入では、ドーパミンの伝達経路から、視床下部がさらに快感を求めようとする現象が「欲求」であり、すべ ての感情は脳から生まれることを押さえました。その後の展開において、前時の授業で生徒に「欲求」と「愛」に対 するイメージを好きなだけ出させたブレーンストーミングを、同じテーマで行った教師のものと比べました。生徒は、 自分たちと大人の持つイメージや感じ方の違いに気づき、それが何故なのかを考えました。教員たちの愛に対す るイメージから、愛を深め、絆を紡ぐことがとても難しいことであることを知りました。大人たちが人を思う経験の中 で、温かな心や悲しみ苦しみなどを体験してきたことか、生きることにつながるイメージを持つようになったのであ ろうことを感じてくれたようです。 欲求という人間本来の生きることに直結する脳も、人を思いやり欲求を制御し、よりよく生きようとする脳も、どち らも大切であり、そのバランスをとりながら人は生きていくということ、また、愛には様々な形があり、愛を育てるた めの仕組みも脳(前頭葉)が司るということも、彼らなりによく理解してくれました。 担任の先生の切ない体験談が子どもたちの心に浸みていきました。 近年の若者たちの、あまりに軽く刹那的ともとれる性の動向を見るとき、私はこの子たちに今回の授業をとおして 考えさせてみたかったのです。「生きる」=「自分の性を生きる」ことの重みを。そして愛を育み絆を紡ぎ、次の世代 へと命をつなぐためには、脳を駆使しながらの努力が必要であることを。 授業の最後に、バックミュージックと朝日に輝く海の写真にのせて語りました。 「人は人の中で生きていること、決してひとりでは生きられないこと、そして誰しもが温かな関係の中で生きていき たいと願っていることを。」 人も自分も大事にしながら、それぞれの愛を大切に育てていってほしいとの思いを込めて・・・・・ やすこママのパワフル保健室77 思春期・・・輝くとき№33(2011.02) 「訪れた街で」 旅をすると何かしら目にふれるものからの新たな発見があります。見知らぬ土地の山並みや、朝霧にむせぶ木々、 それらの情景からかつて経験したことのない情感が湧き起こってきます。日本の四季を感じることを、ともすれば 忘れてしまうような日々の忙しさの中であっても、ほっと一息つくやすらぎの時と心の余裕を持って生きなければと 思います。 生きいそぐことのなきように・・・ 親友を亡くして25年が過ぎました。突然死でした。冬に近づく頃でした。 学校からの帰り道、車を運転しながら西の空を見上げると、いつか見たセピア色に染まった雲。そう彼女の逝っ た日の空と同じ。気づくとその日は彼女の命日でした。きっと彼女が自分を失いかけた私に知らせてくれたのでしょ う。 この仕事を続けて、また、この年になって思うことがあります。自分という人間を見つめ、自分の心に静かに寄り添 うことも必要なのだということ。自分の生きてきた道を振り返って、「結構がむしゃらに突っ走ってここまできたなあ。」 と思い返しています。そして、「少し自分のことも大切に生きなければ」という穏やかな気持ちにさせてくれたセピア の空と、湯布院への旅で見た名峰、由布岳や紅に染まる木々の葉や石畳の坂道に感謝しています。 「一期一会」 旅の二日目に博多で夕食をと、情報誌から選んで入った焼き鳥屋さんでのことです。カウンターに座って何を注 文しようかと迷っていると、いきなり「どこからいらっしゃった?」と声が飛びます。びっくりして顔を上げると、その店 のご主人です。歳のころは70過ぎでしょうか。しかし、お歳を感じさせないバイタリティーあふれる笑顔で一瞬にし て場を和ませてくださいました。手品を見せてくださったり、ご自分の仕事に対する思い入れや、育てた弟子が、外 国でチェーン店を経営して成功を収めていることなどを語り、それがまた、人を飽きさせないトークなのです。来店 したすべての客に対して、出会えたことの喜びを分かち合おうとするその対応に感心しながら楽しい時を過ごさせ ていただきました。 「一期一会」一生に一度しか会うことのないであろう人に、精一杯のおもてなしの心で向き合うご主人の姿勢 から、私は多くの学びをしました。いきいきとご自分の仕事を楽しみながら働く姿に感動し、自分も負けてはいられ ないと思いました。 一生のうちで、ほんの少しの時間しか共に過ごせない子どもたちと、できる限り心をつなげていきたい。それがで きる仕事であることを自分のしあわせとして大事に勤めなければと思います。 やすこママのパワフル保健室76 思春期・・・輝くとき№32(2011.01) 「やんちゃボーイ やんちゃガール」 思春期の子どもたちは、血の気が多いというのか、ちょっとしたことにもすぐに腹を立て、親に反抗してひどい物言 いをしたり、壁と喧嘩して拳を痛めたりと、まあそれはそれは大変な時期にあります。「勉強しろ」と言われれば、 「今しようと思っていたのにやる気が失せた」と腹を立て、お説教などされようものなら、「うるさい黙れ」と暴言を吐 く。朝、親に叱られて登校しましたと顔に書いてある子もおり、休み時間になると私のところに不満をぶちまけに来 る子も少なくありません。 「ああ私にもこんなときがあったなあ」 と昔を懐かしんでいます。 この子たちを見ていて私は「なんてすばらしいあがきの時なのだろう」と思います。けっして人ごとだと傍観してい るわけではありません。確かに親も子も嵐の中で安らがない毎日を送っている家庭も多いことでしょう。しかし、こ こはまず大人たちが一歩譲って、この時期の子どもの成長過程や現代の生活に目を向けることが大事です。 思春期にはホルモンの影響で男女ともにイライラや落ち込み、怒りや悲しみなど情緒が不安定になりやすく、喜 怒哀楽も激しくなるようです。また、体が大きくなるにつれて、自分の発育や容姿が気になりだし、人と比べては理 想とするところとのギャップを感じる子もでてきます。安定を欠くことに拍車をかけるのがゆとりのない生活です。中 学校では1時間の授業も50分間になり、6時間の授業後には部活動があり、暗くなってから帰宅して食事とお風 呂、宿題に塾、スポーツクラブに所属している子は9時過ぎまで体を使い、どの子も何かに追い回されているような 毎日を過ごしています。皆が辿る道であり、バイタリティーあふれる若さが武器とはいうものの、よくがんばるなあと いつも感心しています。 「なごみのとき」 休み時間になると保健室にはたくさんの子どもたちが遊びにやって来ます。ソファーでくつろぎながら口々に言い たいことを言い、私とのおしゃべりに興じます。これが子どもたちのストレス発散にはとても大切な時間なのです。 「そうか~なるほど」と聞いてやり、「大変やなあ。がんばってや!」と共感し応援する。それだけなのですが、私の 前で荒(すさ)む姿を見せる子はいません。厳しく遠慮せずに、何事もズバッと指摘する私なのですが、何故か毎日 やんちゃボーイとやんちゃガールが集います。 人はやすらぎや心のなごみを求めます。家庭では自分をさらけ出すことができるから、不機嫌な姿も見せられる のでしょう。もう一度、大きな赤ちゃんをあやすようななごみの心で接してみてはいかがでしょうか。思春期は、人生 最後の母の懐帰(ふところがえ)りの時期なのかもしれません。 やすこママのパワフル保健室75 思春期・・・輝くとき№31(2010.12) 「デートDV(ドメスティックバイオレンス)」 DVは、社会問題のひとつとして新聞やテレビで頻繁に取り上げられています。家庭内、夫婦間などでの暴力のこ とを言いますが、近頃は付き合っている恋人同士の間で増加しているようです。10代の子どもたちにも広がってい るとあれば黙ってはいられません。。 被害者はほとんどが女性です。身体的暴力だけでなく、ことばの暴力など精神的ダメージを被ることもこれに入り ます。お互いの気持ちを確かめ合いながら愛情を育てはじめた時期には、相手をとても大切に扱うようですが、相 手が自分を好きであることを確信し、自分のために心を尽くしてくれると自信を持つようになると、相手を自分の所 有物のように扱い始めます。また、被害者側もその束縛や強引さを愛情だと勘違いし、たまに優しくされることでや はり自分にしか甘えられないのだと納得してしまうケースが見られます。児童虐待とよく似た心理状態なのでしょ う。。 先日知人から聞いた話なのですが、夜コンビニに若い男女が入ってきて、男性が立ち読みをしていると、男性の 腕に手をかけていた女性が、「私お金持ってないよ。」と話しかけたそうです。男性はそれを完全に無視して漫画の 本のページをめくっています。また女性が「ねえねえ、私今日お金持っていないんだって。」とまた話しかけます。そ れでも男性は無視を続け、そればかりか不機嫌になり彼女の手を払いのけたそうです。その知人は青少年の補導 員をしているだけあって「この女性はいつもお金を払わされているのだなあ」とその関係自体にに嫌なものを感じた と話してくれました。なにも殴られたり蹴られたりの暴力を受けることばかりがデートDVではありません。DVは日 常の軽い受け答えの中にもいくらだって潜んでいます。心に多少の不満とわだかまりを持ちながらも、自分さえ我 慢すればこの関係を続けられるとか、いつか分かってもらえて対等に愛し合えるいい関係を築くことができるはず だとか、そんな思いで耐えている人は多いのではないでしょうか。 「対等であること」 子どもたちは、日ごろ父親と母親が会話したり、取るに足らない掛け合いをする姿から、心温まる和みの雰囲気 と一緒に自然と男女間の「対等な関係」を学んでいくのでしょう。しかし、夫婦であっても一緒にいて心地よい関係 を継続させることはなかなか難しいようです。それでも自分の思いを言葉にして相手の心に伝える努力をしていく ことで、少しずつでも理解し合い歩み寄ることができるはずです。対等な関係を築くためには、日頃から相手に遠 慮することなく心を伝えるレッスンが必要です。 やすこママのパワフル保健室74 思春期・・・輝くとき№30(2010.11) 「草食系って??」 近頃、「草食系男子」という言葉が流行していますが、どんな男子のことをいうのでしょうか。様々に定義されてい るようですが、どうも優しくおとなしく、あまり自分を主張せず、何事にも積極的に向かわないことを言っているよう です。外見では判断できません。中には見るからに草食系であっても、男(おとこ)気(ぎ)な子もいるからです。 しかし、優しくなっていく男子に比べて「肉食系女子」などということばが出現するほど強くなった女子を見るにつ け、時代の流れを感じます。 共生教育が浸透し、男子と女子の役割りにもその境界線がなくなりました。共働きの家庭も増え、家事の分担も 当たり前になりました。子育てにおいても男性の役割りが重要視され、厚生労働省が立ち上げた「イクメン(育・男 性)」プロジェクトなるものも追い風となっているようです。街でベビーカーを押している父親が多くなりました。その 様子からも、男性が子育てそのものを楽しむ姿勢が見て取れます。 いい時代が来ましたね。「男は外・女は家」と言われ、子育ては女がするものだとされていた時代がうそのようで す。しかし、よくよく考えて見れば、いつの時代もその時々の男たちをそのように育てて来たのは、とりもなおさず歴 代の母親である女性たちなのだと私は思います。 「性差を育てよう」 時代が変わろうとも大切にしたいのは、男性・女性の性差です。「性差」という語句をあやまってとらえてはいけま せんし、長年かけてすりこまれたことを性差だと取り違えても困ります。私は、この性差というものを脳や身体や内 分泌など生理学的なところから発することと考えています。女性が産む性であり、乳を飲ませて子を育むことはど んなに時代が変わろうとも普遍であり、男性が生殖に向かうための行動を起こすことをしなくなれば種の保存はで きなくなってしまいます。 「共生」というのは両性の生き方の上で大変重要なポイントです。しかし、このベースとなるのは、あくまでもお互 いを思いやる「心」なのだと思います。性差と同様、「共生」ということに対しても、決してねじ曲げて考えないことが 大事です。 「草食系男子」という時代の流行(はやり)に踊らされ、思い通りにできるような弱々しい男子をちやほやする女子 が増えれば、男性の「性差」自体を壊してしまうことにもなりかねない気がします。特に女性は、どんなに時代が変 わっても自分の性に対するしっかりとした自覚と広い視野を持って、自分が共に生きる男(ひ)性(と)を選ばなけれ ばなりません。その女性の目こそが、これからの時代の「性差」をも育てるのだと思い、私は女子生徒を大切にま た厳しく育てています。 やすこママのパワフル保健室73 思春期・・・輝くとき№29(2010.10) 「部活動で学ぶもの」 中学、高校時代において生活の中心と言っても過言ではないほど重きをなすのが、部活動です。様々な部に所 属する子どもたち、その躍動を見ていて感じるのは青春のすばらしさでしょう。 「一生懸命」その言葉の意味がここにあります。どの種目も「勝つこと」それが目標です。しかし、たとえ一勝すらで きないチームであっても、毎日毎日苦しい練習に耐え、チーム内のレギュラー争いにしのぎを削りながら頑張る姿 がいとおしくて、保健室から私にできる限りのサポートをしています。試合の前日には、メンタルトレーニングをして ほしいと来室する生徒たちに、呼吸法を教えながら、他愛もないおしゃべりでリラックスをさせたり、緊張で押しつ ぶされそうになっている子には、アロマテラピーでやる気を起こさせたり、「きっと勝てる」「運を味方につけなさい」 と気合いを入れたりと。 部活動は精神修養です。先輩、後輩、同輩の中での人間関係に悩みながらも、折り合いをつけ、居場所を見つ けていくことを学びます。天性の力の差を目の当たりにすることで、自分の努力だけではいかないことを思い知らさ れることもあります。それでもさらにその差を縮めようと努力する子もいれば、逆に悔しさ余って自分より実力があ る子に精神的抑圧をかける子も出てきます。砂を噛むような悔しさも知り、数々の葛藤とあきらめを経験し、それを 超えての努力と根性を身につけて発達途上の子どもたちは大人になっていくのでしょう。 「支える親のセオリー」 顧問の先生方には本当に頭が下がります。中学校では、自分が経験していない種目を受け持つこともあります。 にもかかわらず休日返上、外部活の先生たちは真っ黒に日焼けし、中部活の先生たちは熱中症を心配するほど 熱心に指導しています。お腹にあかちゃんがいても部活動につきっきりで、私はいつもはらはらしながら「無理はし ないでよ!」と声をかけています。 親は、くたくたになって心身共に疲れ果てて帰ってきた子どもが口にした「ぐち」を聞くと、何かと心配になります。 しかし、これを真っ正面から受け止める必要はありません。子どもは疲れた心を親に受け止めてもらい、自分を癒 したいだけなのです。言葉少なに本音の叫びを心で聴いてやり、シャワーで汗と涙を洗い流させ、家族の笑顔とお いしいご飯で心を満たしてやってほしいのです。ゆっくりと眠ることができれば、また必ず元気になるのですから。 支える親としてすべきことは、家庭で教えるべきことを他に任さず、この子たちを集団の中に出しても恥ずかしく ない「ひと」に育てることです。共に育ててくださっている人への感謝の心も持ちながら。 やすこママのパワフル保健室72 思春期・・・輝くとき№28(2010.9) 「ないものねだり」 ひと昔前の親たちは、戦争や災害の中でもがき苦しみ、生きるということがどんなに大変であるかを知っていまし た。その日に食べる物すらない生活を経験し、子どもにだけにはこんなひもじい思いをさせたくないと思ったことで しょう。世代が代わり、戦争のように命を脅かされることがなくなり、親たちは、自分たちができなかったことを子ど もに・・・との思いから、ふんだんに食べ物を与えはじめました。 「お腹一杯たべさせてやりたい。」 それは、言い換えれば、あのときに一度でいいからお腹一杯食べたかったという親自身の叫びだったのではない でしょうか。 食べることに不自由のない時代がくれば、次は学歴です。勉強など二の次だった時代に育った親たちは、学びた くとも学べない環境にありました。家業の手伝いや大勢の兄弟たちの世話をさせられ、それが苦痛であったとの思 いから、子どもには十分な教育を受けさせてやりたいと競って高学歴を求めはじめ、否が応でもと子どもの尻を叩 きはじめました。 それでもまだその頃には、食べ物に対する勿体ないという気持ちや、勉学に対する憧れと貪欲さがあった。それ がせめてもの救いであったように思います。 いつの時代もないものねだり。人はそれを繰り返しながら生きてきたのです。 「負の連鎖」 人間は、より良く生きるための「技」として、自分が経験できなかったことを求め、苦痛だったことを排除しようとし ます。しかし、時として自分の都合のいいように物事を解釈しようともします。ないものねだりには、今の状態より良 いものにしていこうと高みを望む意気込みが見えますが、現代のような自分中心の意識が勝つ世の中においては、 さらに人間の甘さを助長させるためだけの「技」であるように感じます。 親が子ども時代に、テストで悪い点を取るたびに叱られて嫌だった。だから自分の子どもには点数が悪くても何も 言えない。子どもが世間の常識に外れたことをして他人から非難されることがあれば、自分が子ども時代に親から 叱責を受けて嫌な思いをしたという記憶を引き出し、子どもを叱ることができない。食においても、好き嫌いをする なと無理にでも食べさせられた経験から、嫌いなものは食べなくていいと言う。欲しいときにお小遣いがもらえなか ったから、何でも買ってやりたいとお金を与えすぎる。これでは、世代が変わるにつれ、堕落の一途を辿るばかりで す。 親たちは、自分が子ども時代に経験した「嫌だったこと」の中にある事の本質をわきまえる必要があります。何を どのように伝えるべきなのか・・・それでも嫌なことを遠慮無く指摘できるのは親だけです。 やすこママのパワフル保健室71 思春期・・・輝くとき№27(2010.8) 「死に向き合う」 大切な人の死を経験したとき、人は戸惑い、言いようのない悲しみに暮れるものです。 ある朝、女子生徒が保健室を訪れました。「からだの具合が悪く朝からだるいんです。」そう言った彼女の様子が いつもと違っていたので、「どうした?何かあった?」と私が聞くと、「昨日眠れなかったんです。」と彼女。病気で療 養中だった大好きなおじいちゃんの様態が急変して、昨夜救急車で病院に運ばれたこと、もうすぐ命の終わりをむ かえるのではないかという不安で押しつぶされそうになっていることを、目にいっぱいの涙をためながらゆっくりと 話してくれました。 死に向き合うとき、人はどう受け止めればいいのかがわからなくなり、残されることへの恐れや、いっぱいの思い 出が錯綜し、頭の中が真っ白になってしまいます。私はその子の手に自分の手を重ねて、「死」について話しまし た。おじいちゃんは自分の人生をまっとうして今、命の終わりのときを迎えているのだということ。命の火がもしも消 えたとしても、心の中に生き続けること。私は、自分の祖父や祖母を送ったときのことを形見の指輪を見せながら 彼女に話して聞かせました。 「あたたかくゆったりとありがとうの気持ちを伝えて送ってあげよう」と。 「蛍」 夏が近づく頃の宵、雨の合間を見て蛍狩りに出かけます。真っ暗で細い田んぼ道を進み、車を止めてハザードラ ンプを点滅させると、伸びかけた稲の間や草むらの中から沸き立つように、ほのかな光が舞い始めます。ランプに 呼吸を合わせるかのように小さな青い光がついたり消えたりしながら集まってきます。 それはそれは綺麗で幻想的な光景ですが私には寂しく儚くも感じられるのです。まるで人の命が己の役目を終え て天に召されるように、ひとつの成就を思わずにはいられません。蛍の命はあまりに短く、この光が一瞬の灯火で あり、命をつなぐ儀式を終えれば土に帰る宿命にあることを、知りもせずに輝いているのかと思うと、悲しくなるから です。 人の命も蛍と同じで儚いものであることに変わりはありません。しかし、人は自分の生き方を自分で決めることが できる。自分を大切に生きることもできる。何のために生まれてきたのかは誰にもわからないけれど、生まれたこと にも生きたことにも必ず意味があるはずだと思いたい。その意味を探しながら、確かな足跡を刻んで生きていきた いと思っています。 誰にでも、いつか必ず命の終わりの日が来ます。そのときによく生きたと自分で自分を褒めてやれるように。 やすこママのパワフル保健室70 思春期・・・輝くとき№26(2010.7) 「運動経験をさせよう!」 何をもって体力と言うか・・・大変むずかしい基準です。病気になりにくいことも、疾病に罹ってもすぐに回復するこ とも体力なのでしょうし、激しい運動に耐えうることも体力でしょう。体力をつけることは、一朝一夕にできることでは ありません。長い年月をかけて自分の体に負荷をかけながら、成長とともに少しずつできることが増えていくので す。 日常の生活の中で意識せずに付いていく体力こそを大切にしなければなりません。子どもがよちよち歩くように なれば、外へ散歩に出して太陽の光を浴びる。紫外線が悪者のように言われる時代ですが、適度に浴びることは 骨の形成のためにも大切なことでしょう。遊びたい盛りには遊具のある公園に連れ出し、親が一緒に走って遊びま す。体を動かすことが心地よく、運動による発散が心身を爽快にすることを早くから経験させてやりたいものです。 テレビやゲームに子守をさせてしまい、運動経験の基礎となる大切な時期を逃さないようにしなければなりません。 スキャモンの発育曲線にあるように、運動機能には伸びる時期というものがあります。神経系が4、5歳時までに 著しく発達するのを見てもわかるように、難しいことは小さなうちにやらせることです。プレゴールデンエイジと呼ば れる5~8歳頃には、集団の中での遊びをとおして瞬発力がつき始めます。次に来る9~12歳のゴールデンエイ ジは、動作の習得にはすばらしい時期であり、体力も大きく伸びると言われています。この時期にはひとつのスポ ーツだけに固執するよりも、少年野球をやらせているなら、オフの季節にはスイミングをといったように様々な動き を経験させることに大きく意味があるのです。 「からだをこわさせないこと」 小学校高学年までに培われた体力と運動機能を土台にして、中学の時期には持久力が、高校では筋力がつき ます。また、この頃には、より技能を高めることが目標となり、そうなれば当然のことながら勝ちをねらうことが先行 します。しかし、この場合も発育の時期を考えずに無理な運動を強いれば、体に弊害が出ないわけがありません。 個人差はありますが、中学前期のまだ小学生の延長のような体の子に、過度な筋肉トレーニングを行えば、骨 への負担が大きくなり、腰や膝を痛めてしまうことも出てきます。また、中学後期から高校にかけては、右利きであ れば右半身を、左利きであれば左半身ばかりを使う種目の場合、使う方の筋肉ばかりが発育し、脊柱に側わん傾 向をみることもあります。生涯スポーツの視点からも、より高い技能を持った一流の選手を育成するためにも、何よ り大事なのは体をこわさせないことです。 やすこママのパワフル保健室69 思春期・・・輝くとき№25(2010.6) 「ひとのものさし 自分のものさし」 子どもたちは、生まれおちた時に与えられた環境と出会ったひとによって、「自分」という人間の根を張りはじめま す。遺伝子に組み込まれた本来の「自分」と融合させながら、たったひとりだけの自分に育っていくのだと思います。 私はいつも話します。「一人一人顔が違うように、考え方も考えていることも違ってあたりまえ」「あなたならではの 思いがあっていいのよ」と。 この頃の子どもたちは、ともすると自分がどうしたいのかよりも、人からどう思われているのかの方が気になりま す。自分はこれがいいと思うのに、ごく少数であってもその思いに反する言葉を耳にすると、心の中の「自分」という ものが揺らぎます。人に合わせようとするあまり、自分を見失い、人のことが気になって気になって自分の心が壊 れそうになる子もいます。しかしこれは、アイデンティティー形成のための大切な成長過程でもあるのです。 確かに自分のことを周りの人がどう見ているのかを察する力も必要です。それは一般的に常識とされる範囲から 著しくはみ出すことなく生きる目安にはなるでしょうから。だからといって他人のものさしで自分を計る必要はない のです。自分は自分、人は人。開き直るのではなく自己を肯定し、謙虚で幅のある自分のものさしを持つことがで きるようになるといいなと思います。 「自分に向き合おう」 子どもたちは、「自分」の心の中を覗くことを避けているように感じられます。友だちの言動で傷ついたり苦しんだり しながらも、自分を殺して無理をして人に合わせ、居場所を求めます。人から、からかわれたりこすられたりしてい ても、みんなの前では笑ってその場に馴染んでいるように取り繕っている子もいます。 「本当の自分はそんなんじゃない。けれどみんなからは浮きたくない」 しかし、一見つらく思えるこのような葛藤こそが自分という人間を形成していく上で、何よりのレッスンになるのだと 私は考えています。現代、子どもたちはこの葛藤すら面倒に感じ、自分の心に向き合うことから逃げようとします。 親たちも、目先のことに翻弄され、子どもの世界にまで神経を尖らせる姿が見られます。過剰な保護が子どもの心 の成長の妨げになっていることにすら気づかないこともあります。 思春期は、自分という人間がいかなるものなのか、なぜこの世の中に存在するのかを思い悩みながら、生きる価 値を探して歩く時期です。たくさん悩んで、答えの出ないことを考えあぐんで、それでも生きている自分に向き合わ ずにはいられない。 どうかそんなかけがえのない自分育ての「とき」をゆっくりと大切に生きることをさせてみようではありませんか。 やすこママのパワフル保健室68 思春期・・・輝くとき№24(2010.5) 「桜から若葉へ」 ひとつずつ学年が進み、ちょっと前まで1年生だった子どもたちが「先輩!」と呼ばれる新たな春がやってきまし た。この季節には、いつも自然の息吹とまた学校の1年が始まるエネルギーを感じます。 中学の3年間はあっという間に過ぎてしまいます。しかし、この3年間は、自分という人間を創るために大変重要 な時期でもあります。「心 技 体」どれに関しても、人生のうちで一番育つときであると感じています。 子どもたちは、自分の力で伸びようとします。あらゆる方向に伸ばす枝と若葉を、親や教師や周りの大人、地域 で関わる人たちが剪定し、また水をやり、「まっすぐに伸びてくれること」を祈ります。その祈りとはうらはらに、彼ら はいろんなことをやってくれます。それはやんちゃと言うにも満たないことから、人生を変えてしまう危険性をも感じ ることまで、日々様々に。 言いようのない想いや苛立ちを、人に向けられない優しい子は、自らを傷つける行為にはしることもあります。こ の時期誰もがあたりまえであるのに、自己中心性の抜けきらない自分を防御し、そんな自分を正当化するための 理由をつけて殻を被る子もいます。しかし、これらの苦しみや辛さも、乗り越えることができたならば、個々の発達 の中での大切な経験となります。 私には、そのあがきでさえも二度と帰らぬ思春期の宝物に思えます。 「苦しむことの意味」 辛いことから逃げようとする子が増えました。子どもに辛さを味あわせたくない親が増えました。一生のうちで辛さ を経験せずに大人になった人などひとりもいないでしょう。誰だって楽をしていい思いがしたい。しかし、そうはいか ないのが人生です。 私自身、今振り返ってみても、うまくいかないことや苦しく辛いことのほうが、いいことよりもず っと多かった気がします。けれど、もがき苦しんだ後に何かしらご褒美のようにいいことがある。その少しのいいこ とに素直に心を躍らせ、またいいことが起こるように「きっとうまくいく」「いつかこの雲が晴れる日がくる」と頑張る前 向きな気持ちが人生を後押しするのだと信じています。 桜の花には寒の戻り、葉桜の季節に雨の降らない年もあるように、苦しみに耐えることが幹を強くし来年の春に また誇らしげに花を咲かせて、愛でる人の心を和ませるのです。 どうか辛さから逃げないで。痛みに負けないで。若いあなたたちには、遠い将来輝く未来が待っているのだから。 そして私たち大人は、いつかこの子らの糧となるであろう痛みを奪うのではなく、乗り越えるための支えになろうで はありませんか。 やすこママのパワフル保健室67 思春期・・・輝くとき№23(2010.4) 「身体計測と保健指導」 中学校では、小学校に比べて年間の身体計測の機会も少なく、思うように保健指導の時間が取れない学校も多 いのではないでしょうか。私の学校では、4月の定期健康診断と10月と2月の年3回の身体計測のの後必ず、養 護教諭が行う保健指導の時間を設定しています。 昨年度、本校に赴任した時、4月の身体計測は2時間を使って全校一斉に行い、生徒はグループごとに健康カ ードを持って身長・体重・座高の計測と視力・聴力検査の会場を回っていました。しかし、これでは年度当初の保健 関係のオリエンテーションをする機会もありません。夏休み前の性に関する「いのちの学習」は各学年の学年集会 で指導し、10月の身体計測からは学級活動の時間を当て、担任が付き添える形に組んでいただきました。 この方法は利点が多く、一番生徒をよく把握している学級担任が計測値を記入することで体の変化に気づくこと ができるだけでなく、そこから交友関係や精神状態にも目を向けることができます。髪型や服装、着こなしに関して の指導も行えます。保健指導を後の学活に活かすこともできます。50分間の中で、1クラス30人ほどの計測を15 分で終え、後の35分を保健指導の時間とします。養護教諭が保健分野の専門家として授業をする大切な時間で す。 「栄養教諭とティームティーチング」 別の中学校に席を置いて本校を兼務している栄養教諭と一緒に、「朝食の大切さと質のよい睡眠」についての保 健指導を行いました。栄養教諭の作ったパワーポイントを提示し、私との掛け合いで授業を進めていきました。毎 日午前中3時間、すべてのクラスを対象に一週間のロングラン!! ずっと以前から、いつか一緒に指導したいねとお互いが想い描いていた夢が叶いました。指導を重ねるごとに息 がぴったり合ってきて、楽しくてうれしくて。子どもたちの体をつくるために、心を育むために、そしてよい生活習慣 がこの子たちの何十年後の健康を守ることになると思うと、2人の指導にも自然と力が入ります。一週間があっと いう間に過ぎてしまいました。 学校における健康教育のひとつの分野である「食教育」を充実させるためには、栄養教諭や学校栄養職員の力が 不可欠です。、養護教諭が学校保健に関してそうであるように、栄養教諭は食と栄養の専門家です。その2人が力 を合わせて、よりよい授業を作り上げていくことができれば、教育効果は何倍にもなるはずです。 気負わずできることから。何よりも2人がお互いに楽しみながら。私の学校にも栄養教諭が常勤してくれることを 心から希望します。子どものために一緒にがんばれる日が来ること、それが私の新たな夢です。 やすこママのパワフル保健室66 思春期・・・輝くとき№22(2010.3) 「春待ち人」 中学3年生は、今まさに自分の決めた道に新たな一歩を踏み出そうとしています。 自分の夢を叶えるために敢えて険しい道を選ぶ子、まず高校へ進学することを目標にして、高校の3年間で自分 の本当にやりたいことを見つけたいと考えている子、様々な想いを持って飛び立とうとしています。 子どもたちは、親の望みや自分の希望と、成績とをすりあわせ、進路を決定していきます。皆が希望どおりにい けばよいのでしょうが、中には思うようにならないこともあるわけです。3年生の学年主任、進路指導主事、各クラ スの担任と無担任として日日学年を支えてくださっている先生方は、心を砕いてサポートしています。 進路決定の時期になると、私の保健室にも3年生が入れ替わり立ち替わり進路の相談に訪れます。十分な進路 指導がされているのに何故保健室なのか・・・。心の癒やしを求めに来るのでしょう。自分が決めかけている道に間 違いがないか、また、自分では決められなくて誰かのひとことが欲しいとか、つきつけられた現実に押しつぶされそ うになっているなど、たくさんの不安と心の揺れをぶつけに私のところにやって来るのです。 そんなとき、私は今ある自分、ひとりの人間として、教師として、母親として精一杯耳を傾けます。現時点で目先 のことしか見ていない子どもたちの目を、遠い将来に向けさせることが私の進路指導です。夢を大切にしながら、 その夢を現実のものとしていくためのプロセスについて話します。生きていくことの厳しさや、世間一般の情勢など、 甘い考えでいたってそうは問屋が卸さないことなども含めて。 保健室へ相談に来た子のことについて、私は、3年生の先生方とよく相談し、三者懇談での保護者の意向も収集 します。その上で高校に勤めている友だちから情報をもらうこともします。その子の一生に関わることですから、納 得のいく選択ができるようにと願い、ここに私が居ることで何かできることはないかと考え相対しています。 美容師になるためにはどの道に進んだほうがいいのだろうと訪れる子もいます。そんなとき私は、自分の行って いる美容院に聞きに行きます。美容師になるためのスタートラインにつくためには、高校を卒業して専門学校に進 学するほうがよいのか、早くから専門の学校を選ぶほうがいいのか。そして一生懸命本人と一緒に考えます。私の 脳裏にいつか「カリスマ美容師」となったその子の姿を想い浮かべながら。 これから先、夢は何度も変わっていくかもしれない。たとえ打ち砕かれることがあっても、また夢を見ることのできる みんなでいて欲しいと心から願いながら、この子等の心に寄り添いたいと思っています。 2月号 思春期…輝くとき No.21 (2010.2) 「寒い季節に」 2月は一年のうちでいちばん寒さの厳しい季節です。地球温暖化の影響でしょうか、確かに昔と比べるとここ北 陸の地でも雪が減りました。 私が新採用として赴任したしたのは、スキー場のある雪深い小さな町でした。ひと晩で1メートルもの雪が積もり、 電車が不通になることもありました。豪雪の年には朝、家から駅まで1時間以上かけて歩き、その日1本だけ動い た電車に乗り、降りた駅からまた歩いて、学校にたどり着いたが最後、夕方になっても北陸線は不通のまま暖房も ない無人駅で3時間震えながら待ったこともありました。とうとう帰ることができずに学校の宿直室に泊まったことも ありました。「行きはよいよい帰りは怖い」とはまさにこのことです。 雪の無い季節には、降りた無人駅からスクーターで学校まで。けれど雪が降ると当然歩きになります。長靴を履 いててくてく歩いていると、車で役場に通勤している方や保護者の方たちが、入れ替わり立ち替わり「康子先生乗 っていきなさらんか?」と車を止めてくださるのです。小さな村の中では、赴任した私のことをみんなが知ってくださ っていて、信頼関係の中安心してご厚意に甘えたものです。凍てつく吹雪の中、人情にふれて心がぽかぽかと暖 まったことを憶えています。 「心の温度」 私は凍るような季節が苦手です。いつもはみんなに元気をふりまいている私ですが、いつもになく寂しくなるので す。そんなとき、周りの人たちが元気をくれます。冬が苦手なことを知っていて気遣ってくれる人のやさしさや、休み 時間に遊びに来てくれる生徒たちとのおしゃべりが、私にエネルギーをくれます。 人は悲しく寂しいと心が冷たくなります。どんなに体を温めてもなぜか寒さがこたえます。逆にどんなに厳しい寒 さの中でも、楽しくてうれしいと心がぽかぽかしてくるでしょう。心の温度を上げるのはストーブではなく、人と人の 心のふれあいや元気をくれるプラスの言葉なのでしょう。 寒さ厳しいこの季節には、人の情というものが心に染 みます。心の内を明かすことにも思いを分かち合うことにも構えてしまうような、希薄とも言える人間関係の中で育 つ子ども達。心の温度を上げるすべをも知らずに体のふれあいだけの温かさを求め、心の隙間を埋めようとするこ とへの警鐘を鳴らす意味も込めて、心育てとコミュニケーションスキルの充実を図らなければならないと感じていま す。 人は、人の情やあたたかな思いやりの心にふれることによって、寒く冷たい雪の日にも「心の温度」を上げること ができるのだと思います。 1月号 思春期…輝くとき No.20 (2010.1) 「親の働く姿」 中学3年生は、今大切な時期をむかえています。学力診断テストも終わり、進路選択の岐路に立たされています。 自分にどんな将来が待っているのか、何を求めて進学するのか、真っ暗な道を手探りで歩くような気持ちと向き合 っている子もいるでしょう。かと思えば、稚魚が群れをなして同じ方向に泳ぐように、先のことなど分かりはしないけ れど、みんなが行くのならそこから外れることなく進もうと考える子もいます。今の時点では、それが浅はかだとい うわけではなく、むしろ当たり前なのではないかと思っています。 中学から高校へは、ほとんどの子が進学する時代です。よほどのポリシーを持ち、働くことへの魅力を感じて就 職するのか、勉強が嫌で嫌で仕方がないという理由で、働くことを選ぶのか、いずれにしても中学卒業後すぐ就職 する子はごく少なくなりました。そんな中、以前、娘の友だちで中学を卒業後にコンビニでアルバイトを始めた子が いました。しばらくして娘が言うのです。 「清掃センターで勤め始めたってメールが来たよ。」 その子の母親は、市の職員として清掃センターに勤めていました。思うところ彼女は臨時職員としての採用だっ たのでしょう。しかし、清掃センターの仕事は地味できつい仕事です。再生できる食品のトレーなどを仕分けする作 業も、それはそれは大変な仕事です。かわいくて綺麗な彼女は別の仕事を選ぶだろうと誰もが思っていたはずで す。続くだろうか?みんなそう考えていました。 半年ほど経って、彼女が仕事の帰り道に娘に会いたくなったといって電話をかけて来ました。娘が近くまで迎えに 出て、久しぶりに顔を見ていろんな話しをして、帰ってきた娘が言うことには、「○○ちゃん偉いと思う。大変な仕事 だけと、いきいき働いてて私尊敬するなあ。」 私たち親も、娘といっしょに心からステキなことだと思いました。私たちが彼女を褒める姿を見て、なぜか娘が誇 らしげな様子でした。 仕事を得ることが難しくなった時代に、自分が望む仕事に就くことのできる人は、ほんのひとにぎりです。望んだ 仕事でなくとも、与えられた仕事や、巡り会った仕事を一生懸命こなしていくうちに、その道のプロになる人もいま す。 私自身も、知らず知らずのうちに、親の働く姿を見て育ったことで「働く」ということの学びをしていた事に気づきま す。彼女の頑張る姿から、親の仕事に対する姿勢を見せていただいたようなそんな気がしました。それはどんなキ ャリア教育よりもすばらしい教えであるように思います。 12月号 思春期…輝くとき No.19 (2009.12) 「苦しさ辛さからの大きな学び」 思春期の子どもたちは、様々な悩みと闘っています。それは受験への不安であったり、親子の関係や友だちとの かかわりについてだったり、はたまた人を恋うるゆえの思いであったり。私の保健室にも毎日毎日、苦しさや辛さで 心がいっぱいになった子どもたちが訪れます。相談とは言うものの、それを口に出すには相当の勇気がいっただ ろうと察する内容もしばしば。まだ10年と少ししか生きてきていないこの子たちが抱えている重い荷物を、私も一 緒に少し背負えたらと思いながら耳を傾けます。 まだまだ幼さが残るのは当然のことながら、彼らは、それでも自分を持っています。自分なりの理論を持ち、気持 ちを伝えようとする姿を頼もしくも感じます。 この年齢であっても経験の中で得てきたことはたくさんあります。親からの教えであったり、ここまでに出会った人 たちから学んだことなど、それが楽しかったことであれ、悔しかったことであれ、それらすべてのことが自分を育て る栄養であったことだけは確かでしょう。 友だちとのトラブルに関しても、自分本位な言い分で他を責めてみたり、信用して友だちに話したことが仇となっ たり、不本意で一筋縄ではいかない思いを繰り返し噛みしめながら、子どもたちは人間関係づくりの技を習得して いくのです。 「人の中で生きる」 人と人が解り合うのは、大変むずかしいことです。生きてきた過程も違えば、個性も違います。考え方だって感じ 方だってよく似た人を見つけることのほうが難しい。 当然のことながら、摩擦も生じます。時には激しくぶつかり合うようなことも起こります。学校という集団において は、他を巻き込んで渦のような状態になることだってあります。しかしながら事には限度というものがあり、どんなに 腹が立ってもやってはいけないことがあるのです。 人の体を傷つけるような殴る蹴るなどの暴力。心に後々まで大きな傷を残すようなこと。人の命を脅かすようなこ と。 これらは人として決してやってはいけないことです。こんなことは日常の小さな摩擦と、それを解決していく経験を 繰り返すことで、早くに習得すべきことです。 人と人は、みんなどこかで折り合いをつけながら関係をつくっていくのです。合わないと感じる人であっても、同じ 集団の中で共に生活していくうちに気心も知れ、お互いに寛容な心も生まれ、よさも見え隠れし出すものです。一 生涯かけても、親友と呼べる人間に巡り会うことの難しさを見てもわかるように、ぴったりくる人間はそうそういるも んじゃない。子どもたちは今日も小さな摩擦を通して「人の中で生きる」という大事な学びをしているのです。 11月号 思春期…輝くとき No.18 (2009.11) 「マザーリーズ」 かわいい小さな命をその手に抱いたとき、女性は生まれて初めて自分の命よりも大切なものの存在を知るので しょう。母性も子どもとのかかわりを通して育ちます。おっぱいを飲ませること、肌に触れること、しあわせそうに眠 る寝顔を見て、甘いにおいを感じ、女性は「母」になっていくのです。そして幼子がまだ言葉にはならない声を発し たとき、母親が受け答えをするかのように抑揚をつけて、その声を真似たり、相槌を打ったりします。まるで言葉な どなくても会話が成り立ち、心が通じ合うように。この「マザーリーズ」は、テレビの音や流れる音楽とは違って子ど もの脳に多くの刺激を与えます。情緒の安定にもよいと聞きます。知らぬ間にコミュニケーションスキルの中のア サーション(自己主張)のトレーニングにもなっているのでしょう。 中学生の子どもたちを目の前にして、お母さんたちは「あんなにかわいかったのは一体いつの頃だったのだろう」 と懐かしんでいるのでは?「あの頃は生意気な口も聞かなかったし」なんて思っている方もいらっしゃるでしょう。け れど殻が大きくなってもまだまだ子どもは子ども。中学生だってあのかわいかった頃のように母親の温かなマザー リーズのような何かを求めているのです。それは「おかえり」の声と笑顔であったり、おいしい夕飯であったり、団欒 の笑い声であったり。今日学校であったことを話したときに「がんばったね」と褒めてくれる一言であったりと。 「聞き分けることのできるステキな耳を持つこと」 中学生になると、男の子は口数が減ります。親が何か聞いても、ろくに受け答えもせず、学校で何をしているの かも見えないことが多くなるようです。女の子はと言うと喋る喋る。あること無いこと自分の主観を大いに交えなが ら。もちろん性別関係なく、性格に寄るところもありますが。 親は子どもの口数が少なければ少ないなりに、逆に多ければ多いように話の内容から要点を聞き分けなければ なりません。聞き落としたり誤解したり、誇大広告を鵜呑みにすることのないように。親の聞き取りがまずいと、本 当に大事なことを聞き逃してしまいます。子どもが親に対して本当に解ってほしいことは何なのか、解決の手助け をしてほしいと言っているのか、ただ単に自分のちょっと嫌だったことや悲しかったこと、恥ずかしかったことや腹立 たしかったことなどを聴いてほしいだけなのか。「そうか そんなことがあったのか」「よくがんばっているね」とすべ てを受容する言葉かけから親の温かな心を感じたいのか。いずれにしてもこの子等が幼かったときの、あのマザ ーリーズのような呼応が大きくなった今も必要なのかもしれません。 10月号 思春期…輝くとき No.17 (2009.10) 「恐ろしい薬物への誘い」 薬物については、乱用や所持などの事件がひっきりなしに報道され、新聞にも「薬物」の文字が載っていない日 がないくらい今や大きな社会問題となっています。街角で売買がなされたり、インターネットを介して誰にでも手軽 に手に入ることから、学生や主婦など昔なら考えられもしなかった層にまで広がりをみせています。急性の中毒死 や依存症の怖さを知りもせずに手を出してしまう若者たちもいます。ダイエットにいいとか集中力が増すなどといっ た誘い文句に簡単に乗ってしまうこともあります。受験を前にしての苦しい時期や、何かで落ち込んでいるような時、 そこにつけ込むようにして心の隙間に入り込んでくる、それが薬物への誘いなのです。 「早期の乱用防止教育の必要性」 薬物乱用防止のためにできることは、小さなうちから薬とはどのようなものかを知らせ、正しい使い方を学習させ ることです。誤った使い方をすれば、命にかかわることや、薬は病気による症状を緩和させるために医師の処方を 守って薬剤師の指導のもとに使用するものであることなどをしっかり教えておくことが大切です。 小学校の高学年にもなれば、薬物を乱用するとはどういうことか、プラモデルを作るときに使用するセメダインや ペンキの薄め液など身近にある物を例に挙げて、使用するときには窓を開けるなどの注意からシンナーの害につ いて指導しておくとよいでしょう。覚醒剤や新たに出てきたMDMAなどについても、テレビでこれだけ報道されてい れば聞き覚えもあるはずです。乱用すれば脳が機能を失うことや、恐ろしいまでの薬物依存、幻覚や幻聴、急性 の中毒死も招くことがあることなど十分理解できるはずです。 「薬剤師とのティームティーチング」 中学生の指導には専門性を要すると考え、夏休み前に薬剤師と養護教諭で授業を行いました。乱用される薬物 の種類や害について薬剤師より詳しく説明していただき、また、シンナーを常用することで脳が溶けていくことを、 脳の組織と似た構造である発泡スチロールにシンナーをかけて溶かしてみる実験などを取り入れて指導しました。 乱用すると身体にどのようなことが起こってくるか、依存の恐ろしさや薬物の乱用を止めて何年もしてからでもフラ ッシュバックといって乱用していた頃と同じような禁断症状をみることがあることなどを聞き、生徒たちは人ごととは 思えない危機感を持ってくれたようです。 最後に養護教諭が、シンナーの乱用で息子を亡くした母親の手記を朗読しました。 無知であることから自分の 人生を壊してしまうようなことのないように、乱用に歯止めをかけるための教育が必要です。 9月号 思春期…輝くとき No.16 (2009.9) 「気比さん祭り」 敦賀の子どもたちは、夏休みの終わりが近づくと心が躍ります。え~?学校が始まるのにどうして・・と思うでしょ う。9月2日の宵宮を皮切りに長いお祭りが始まるのです。今では「つるがまつり」として市をあげてのイベントにな っていますが、日本の三大鳥居で有名な気比神宮の大祭であることから、子どもたちは皆「気比さん祭り(けいさ んまつり)」と呼び楽しみます。 お祭りになると、昼夜問わず街に繰り出す子どもたち、当然の如く楽しみのひとつは露店のベビーカステラやお 好み焼きやたい焼き。まるまる焼きに箸巻き、男の子に人気の唐揚げ。どこの店の何がおいしい?今年の新種の 露店は?と私も子どもたちから情報を収集しています。 「感覚と知識で予防」 昨年この時期にちょっと気になることがありました。朝、学校に来てすぐ、「先生、おなかが痛い」「からだがだるい」 「熱があるような気がする」と保健室にやって来る数人の生徒。聴くとみんな下痢をしているとのこと。38度以上の 発熱のある子もいました。私にはすぐに「もしかするとキャンピロバクターかも?」と嫌な予感がしました。受診させ た結果、やはり予感は的中でした。キャンピロバクターには私自身に苦い思い出があります。 5年ほど前、息子が高校で寮生活をしていたときのことです。高い熱が出たということで迎えに行き、休日急患セ ンターで受診した時には、検査せずにインフルエンザだろうと言われました。しかし薬は全く効かず、夜中になって も40度を超える熱が続き、病院の救急でも受診しました。インフルエンザの検査結果はマイナス。レントゲンで腸 に少し影はあるがと解熱剤を出されました。息子は夜通し吐いて苦しみ、月曜の朝家庭医の診察を受けて初めて 腸に菌が入ったことが分かったのです。胃腸が丈夫で下痢をしなかったことが災いして、菌を体外に排出するのが 遅れたのでしょう。体重は6㎏減り、やっと出た便を調べてキャンピロバクターが検出されたのです。後になってか ら、同じ症状で下痢をしていた子が使ったトイレでの感染だと知り、食中毒の原因菌の恐ろしさを再認識しました。 キャンピロバクターの他にもサルモネラやO157、冬に流行するノロウィルスなどにも気をつけなければなりませ ん。まだまだ暑さのきびしい9月、手洗いうがいの励行はもちろんのこと、口にするものが安全かどうか五感をフル に働かせねばなりません。これも賞味期限だけに頼って、まだ食べられる食材まで捨ててしまう現代であるが故の 落とし穴なのでしょうか。 中まで熱が通っているか、食感や味やにおいに異常はないか、食中毒の予防には自 分の舌や感覚を鍛えることも大切です。 8月号 思春期…輝くとき No.15 (2009.8) 「著しい成長」 思春期の子どもたちの身体は、めざましく変化していきます。ついこの間まで子ども子どもしていたはずなの に・・・ふと気づいたら我が子の成長に「ドキッ」とさせられたという親も少なくありません。 そういえば、いつの間にかお風呂も1人で入るようになり、女親であっても娘の胸が膨らんできたことすらも見て いないことがあるのかもしれません。男の子となるとなおさら。シークレットな領域になってしまう家庭も多いことで しょう。もちろん個個の家庭の習慣や考えの違いで、母親と娘がいつまでも一緒にお風呂に入る家もあれば、着替 えすら見せないという家もあるわけで、どちらがいいとも言えることではないでしょう。しかしながら、思春期の子ど もを持つ親としては、いくつか気をつけなければならないことがあります。 先日の内科検診でのこと、女子の下着を見ていて気づいたのは、発育にあったサイズを選ぶことができていない 子が多いということです。段階に応じて、シャツタイプのもので胸部のみ二重のあて布のあるもの、スポーツタイプ のもの、ジャージ生地で形だけのもの、カップのしっかりしたタイプとありますが、多くの女子が自分の体に合って いないものを身につけていました。声かけはしましたが、検診時にはとても指摘しきれず大変気になっていました。 中学生の場合、下着選びは女親の仕事と言っても過言ではありません。男親が育てている家庭では祖母など身 近な女性が気づかってやりたいものです。素敵なレディーになるための指南役とでも言いましょうか。 中学生は、男女を問わず運動をすることが第一のポイントになります。素材の吸水性や伸縮性にも気を配りたい ものです。特に女子は、バストのアンダーとトップの差を基準に、しっかりと保護できるものを、また、胸の形を整え 包み込む形のものを選ぶとよいでしょう。サイズが上がれば試着して購入することも必要です。 次のポイントは華美に走らないこと。この年代にふさわしい色やデザインを選ばなければなりません。ちょっとば かり背伸びしたい気持ちはわかりますが、子どもの自由に任せておくことはできません。口論になっても反抗され ても口を出すべきです。生徒指導上の問題が潜むこともありますから、アンテナは高く、様々な変化には敏感でい てほしいものです。 「女の子をしっかり者に!!」 女子が崩れると学校がダメになると言われるほど「女の子育て」は重要です。将来母親となりうる彼女等を立派 なレディーに育て上げることが、大げさと思われても、日本の将来にとってはとても大切なことであると感じていま す。そう考えると下着選びひとつも疎かにはできません。 7 月号 思春期…輝くとき No.14 (2009.7) 「新型インフルエンザ」 関東への修学旅行直前になって、新型インフルエンザが流行の兆しを見せ、特に関西方面では戦々恐々、医療 機関や行政もその対応に追われているようです。特に、学校で流行となると人ごととは思えません。いつ何時、感 染者が出てもおかしくはない状況であり、医療機関を受診していない発熱の症状のある人の中には、すでに新型 感染者がいる可能性もあるわけです。これだけ国外、国内を問わず行き来することが日常となっている便利な世 の中で、新たな感染症が全世界に散らばるのには、さほどの時を要しないであろうことは、誰もが予測できている はずです。 こうなると誰が感染源であるとか、初期対応がどうであったかとか、当然のことながら問題となりますが、遅かれ 早かれそんなことはどうでもよくなります。要は進化していくウィルスや菌と人類とのイタチごっこの生き残りを懸け た勝負であり、人間の知恵が勝つか、ウィルスの進化が勝つかだけの問題です。今後は今までよりも加速して、ま た、あらゆる感染症において次々と吹き出してくるはずです。 とは言っても、感染を最小限に阻止し、人から人への感染を通してウィルスが強力化することを遅らせるために、 「学校」という集団の場で、でき得る限りの対応をしていかなければと気を引き締めています。 「免疫力を高めよう!」 昨年の秋に、全校生徒にクラス単位で「感染症を予防するためには何が有効か」という授業を行いました。雑菌 を寒天に植えつけた物を2つ用意し、片方はそのまま、もう片方には除菌剤を吹きかけて培養しました。当然のご とく除菌剤の効果は抜群です。ここで普通は手洗いの効果と、除菌できる石けんを使うことの有効性について触れ る「清潔」を推進する指導となるのでしょうが、私の保健指導は違います。 今や世の中には「除菌」「除菌」を合い言葉のように、身の回りのすべての物から菌を排除することなどできはし ないまでも、除菌・抗菌と銘打つものが溢れかえっています。小さな頃からどろんこ遊びをすることもなく、1日に何 十回も除菌石けんで手洗いをさせられ、過ぎた清潔志向が人間のからだに及ぼす悪影響のほうがむしろ問題で はないでしょうか。私は、免疫力を高めることを重視します。早寝・早起き・しっかり朝食は言うまでもありませんが、 一番大切なのは、メンタルをタフにして、少々のことでは揺らがない精神力を鍛えることです。ストレスを溜めない で、笑ってポジティブに生きることです。 「病は気から」昔の人はよく言ったものです。今こそ、人間に本来備わった力を最大限に活用することで、ウィル スに打ち勝たねばなりません。 6 月号 思春期…輝くとき No.13 (2009.6) 「幼さの残る華やかさ」 1年生の声が響き、学校全体が華やかに活気づいています。中学校でもこんなに校内の雰囲気が変わるものな んだなあと新鮮な感動を味わっています。昨年は自分自身が赴任したばかりで、そんな余裕もなかったのでしょう。 身体計測後のオリエンテーションと保健指導のときに、生き生きとした目をして「うんうん」とうなずいてくれる姿を見 て小学校にいた頃を思い出しました。 中学生になると段々と感情を表に出すことに気恥ずかしさを憶えて、授業中の反応も乏しくなり、反抗期に突入し て斜に構えた態度を見せる子も出てくるものですが、できればこのまま明るく元気で健やかに育ってほしいと願い ます。 アイコンタクトができて、人との絆を結ぼうとする気持ちが感じられる子どもたちを見て、この子等の背景を察する ことができます。きっと家庭で大事に思われているのだろうな。今まで出会った大人たちとのかかわりから心を繋ぐ ことを学んできたのだろうな。ここまで育ってきた子どもたちに今から3年間の中学校生活で、さらにあらゆる関門 をくぐらせながら人として自立するための力をつけていかなければならないのでしょう。 「さあ!またこの子たちとしっかり向き合っていかなければ」と幼さの残る1年生を前にして心を新たにしていま す。 「自立の支えとなる絆」 この春、下の娘が大学に進学し、とうとう私のもとから巣立っていきました。初めてのひとり暮らしで本人も少しの 寂しさを味わっているようです。何気ない会話、みんな揃っての食事、当たり前として過ごしてきた長い年月の中で、 日常とされてきたことのすべてが変わり、食事を作ってもひとり、食べるのもひとり、寝ても起きてもひとり・・・夜中、 ちょっと寂しくなることもあるようです。 しかしながら、そんな娘よりも心の中に穴が空いたのは私たち親の方。学校に居る時間がとても長くなりました。 今までなら、朝は弁当を作り、夕方になるとお腹をすかせて待っているだろうから早く帰って食事の支度をしなくち ゃとお尻に火がついたのですが・・・。周りの人たちからは、「ほら!だから言ったでしょ。3人目を産んでおけばよ かったのよ。」と言われる始末。今暫くのことでしょうけれど、親側の子離れにも少しの時が必要かもしれません。 「愛して育てた証だよ。」と言ってくれた人がいます。寂しさも味わえばいいと。子どもが自立に向かって一歩一歩 踏みだしていく後ろ姿にエールを贈りながら、18年の絆を確認しつつ、私自身も長年子育てに注いだエネルギー を自分のために使う楽しみ方も開拓していこうと思っています。 5 月号 思春期…輝くとき No.12 (2009.5) 「ゆっくりおとなになろう」 反抗期といわれる時期をどう越えるか・・・・・思春期にある子どもたちと、それを支える周りのおとなたちのこころ の持ちようでずいぶんと変わってくるのではないでしょうか。 ちょっとしたことに当たり散らしてみたり、おとなから見ればくだらないと思えることにひどくこだわったり、誰彼か まわずに横着な言葉を吐いてみたりと親が手を焼くこともしばしば。叱られることがわかっているのにわざと止めら れていることをしてみるのもこの時期の子どもたちです。 子どもたちを見ていて、「子どもらしい子ども」が少なくなったなあ、親や周りのおとなたちに都合のよい子が多く なったなあと感じています。おとなたちは子どもをよりよく育てようとするあまり、「ああしなさい、こうしなさい」と早く から生きるすべを教えすぎて、子どもが自分の身体で感じたり考えたり工夫したりする時間を与えず、経験させる 前に押しつけてしまっています。育児書という子育てマニュアルが書店の棚に溢れるほど並べられているのを見て もわかるように、「こう育てればこんな子になる」と人間まで合理的に育てようとする時代になってしまったのでしょう か。 子ども時代を子どもらしい感覚で生き、様々に起こる事象を体感しながら育っていく子どもを、ゆったりと見守る 余裕も必要です。子どもが、悲しいことや悔しいこと辛いことやうまくいかないことを自ら経験していくことが、人とし て育つための必要不可欠な栄養であるということを、おとなたちが今一度しっかりと考え直さなくてはいけないので はないでしょうか。 子育ての失敗から反抗がひどくなっているわけではありません。子育てに失敗はない。むしろ失敗など許されな い。自分の子育てを失敗だったなどと言う親がいたとすれば、それは反抗期にある我が子に正面から向き合おうと することからの逃げであるように思います。 ただ、どんな立派な親が育てようとも、ずっと同じ人間に育てられてきたことで、そのかかわりの中に生じた「歪み」 というものは少なからずあります。それこそを是正しようとする大切な「足掻き」の時期、それが反抗期であると私 は捉えています。ゆっくりと足掻かせてやればよいではないですか。その時期の苦悩や言いようのないいらつきが、 後に備わる人格の形成に役立つと思えば、それはすばらしく価値のある「足掻き」なのではないでしょうか。 反抗期真っ直中の子ども達は、自分が不合理極まりないこともちゃんと分かっています。親にとって少々苦しい 時期であっても、それは我が子とのかけがえのない絆づくりのひとときなのですから。 4月号 思春期…輝くとき No.10 (2009.4) 「こころをこめた食卓」 みんな元気で楽しくいられますようにと願いながら台所に立ち、美味しくできるようにと考えながら味付けをします。 学校の帰りにスーパーへ駆け込み、玄関に入るとすぐに荷物を置き、いざ!!キッチンへ!そこからが30分一 本勝負の世界。脇目も振らずにただ浮かぶのは食べてくれる人の顔。 「おいしいものを心を込めて作れば、みんなおうちに帰ってくるよ。」それが娘に向かっての私の口ぐせです。おい しいお店にはまた行きたいと思うように、確かにおいしいと感じることは大切ではあるのだけれど、家庭の味には それだけではない何かがあります。どんなスピード料理にも、冷蔵庫のあり合わせの材料で作った一品にも、その 家にしかない「味」があるのです。 「家庭の味」は、作り手側と食する側のそれぞれの家に代々受け継がれてきた 「味」です。その伝えられてきた「味」に、受け継ぐ人自身が時代の流れの中で開拓してきた味覚を融合させて、そ の家の独特の「味」を作り出してきたのでしょう。 人のいのちのつながりのごとく、「味」もまた長い年月を経て、食べてくれる人を想うこころと愛情のエッセンスをい っぱいふり注いで今があるのだと思うのです。 私の「味」が、この先も子どもたちの味覚を通してずっと後の時代にもつながっていくかもしれないと思うと、もっと 愛情をいっぱい注いで、あたたかで深い「味」を伝えなければという気持ちになります。 「おふくろの味」 喜寿を越えた私の父は未だ現役。毎朝母の手作り弁当を持って出勤します。母は、「毎朝大変なのよ。それに手 作りのほうが高くついちゃうのよ。」と言いながらも「お父さん外食より弁当がいいって言うから・・・」とうれしそうに 話します。そんな父が母にリクエストするとっておきのメニューがあります。それは我が家の伝統の味「のり弁」どん なものかと言うと、炊きたてご飯をお弁当箱に薄く入れます。その上に焼き海苔に醤油をつけてご飯に貼り付ける ように敷き詰めます。その上に薄焼きたまごとハムの千切りを厚めに振りかけ、その上にまたご飯を。そしてまた 海苔とたまごとハムをのせ、紅生姜を置きます。とっても簡単ですが、昨日の残り物のおひたしでも添えれば立派 なお弁当です。 実はこの「のり弁」亡くなった祖母から伝わった味なのです。あの時代に歯科医として働いていた祖母にとっては、 忙しい毎日の数少ないレパートリーの中、手抜き料理のひとつとして考案したものだったのかもしれません。それ でもその「のり弁」の中に父への愛情を込めたのでしょう。 父にとってはどんなご馳走にも勝てはしない、なつかしいおふくろの味なのです。
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