多くの学生を苦しめる数学者の遺産

多くの学生を苦しめる数学者の遺産
れが自然数の「数学原理」となる発想がなかったからであ
1. 解析学の夜明け ∼近代数学の幕開け∼
ろう。
実数というものは、数直線に小数が目盛られていて、大
19 世紀に学校教育のカリキュラムが整備されていく中で
昔からあったように思われがちであるが、せいぜい 16 世紀
は、数列や級数は、しばしば代数の一部に位置づけられ、せ
末のオランダのシモン・ステヴィン (1548{1620) あたりか
いぜいが微積分の予備段階に留まってきた。しかしそれは
らである。当時はオランダが商業経済の中心であって、イ
、数量化の思想的底流として、解析学の歴史を流れて現代
ンドネシアに進出しており、日本にもオランダ商館が作ら
にいたっている。
れるのも、そうした背景があった。そして本国ではプロテ
微積分の成立のためには、世界を理解しようとの、スコラ
スタント系貴族を中心に、カトリックのスペイン帝国に対
哲学以来の思想的伝統とともに、商業経済のもたらした、数
して独立戦争が戦われていた。
列や級数の数値解析が、基礎にならなければならなかった。
やがて経済の中心はイギリスに移り、ここでもクロムウェ
2. アルキメデス ∼枠にはまった無限∼
ルの革命がおこる。カトリックの王はヨーロッパ大陸へ亡
命する。そしてイギリスでは数値計算を中心として、級数
微積分は、ニュートンやライプニッツの以前にも、ガリ
の研究が盛んとなった。それはニュートンによる微積分の
レオやケプラー以来の歴史があり、中でもケプラーが回転
成立へ向けて、 17 世紀解析学の底流をなすものであった。 体の体積の計算をしたり、パスカルが積分の変数の変換を
n 日目の経済量 x をはかることは、 n が連続変数の時間 考えたことなどがあるが、さらにその淵源を尋ねると、ギ
t となると、関数 x(t) を解析することになった。そしてお
リシャの数学者、中でのシチリアにいたアルキメデス (前
そらくその背景には、小数点以下 n 桁までの小数が無限小
287?{212) に、微積分の発想を見出すことができる。
数として実数を近似していくことがあった。ライプニッツ
その超技術者ぶりは、プルタークに出ているが、これは
の微積分の記号法にしても、数列と級数の記号法が基礎に
ちょっと信じがたい。ローマの軍艦を鉄の角で海底に突き
なった。
刺したり、鉤で吊り上げて岩にぶつけたり、鏡で太陽光線
そこには、世界を数量化しようとする 17 世紀の時代精
を集めて遠くの歓待を燃やしたり、といった調子である。
神があり、その金字塔として、ニュートンの「自然哲学の
また一方では、入浴中に発見したことに、「ユリイカ (わ
数学原理」がある。同じ背景のもとに、社会科学に関して
かった) !」と叫びながら街頭を裸で走った話も有名であ
はウィリアム・ペティの「政治算術」がある。
る。もっとも、これと矛盾するようだが、ものを考え出す
自然数を記述するのに、微積分があまりにも成功したた
と風呂に入らなかったという説もあり、無理に風呂に入れ
めに、数学は自然科学の言語となって、連続変数の解析が
て油を塗ると、それに線を引いて幾何を考えはじめたとも
主流となった。とはいえ、 18 世紀や 19 世紀の解析学者た
いう。
ちは、いつも数列と級数に立ち戻ったものである。
どうも、この 2 つのタイプの逸話は、とても信じられな
そして現代、コンピュータの発展は、また新たな様相を
い技術の持ち主か、まったくの世俗性を持たない真理への
与えている。まずそれは、数値解析のあり方を根本的に変
貢献者とういように、ドラマチックに誇張したきらいがあ
えた。数値的に処理するかぎりは、数列や級数として処理
る。いまに残っているアルキメデスの書簡はむしろ生活者
するよりない。そしてまた、数理経済学数理生物学では、 n
の抑制のきいた文体である。しかし、ローマ軍がシラクサ
年目の生産や n 年目の個体数のように、連続変数でない場
に侵入したとき、図形をかいて考えていて、兵士に殺され
合の重要性が認識されるようになってもいる。
たことによって、歴史物語に名をとどめている。
「わしの図
形からどけ」とわめいたとの説もある。
なお、 17 世紀から 18 世紀にかけての日本の和算 は、数
列や級数の研究において、ヨーロッパ数学に匹敵するレベ
それはともかく、アルキメデスの発想には、確かに後代
ルに達していた。しかし、それが連続変数の解析として微
の微積分につながるものがあった。しかし、そのことはま
積分につなげることはなかった。そのことはおそらく、そ
た、ギリシャ数学の正統から離れることでもあり、アルキ
江戸時代の日本では、和算という独特の数学が発展した。和算家という人たちもいたらしいが、イメージ的には俳諧師とか、囲碁・将棋の勝負師
のような一種の芸人だったらしい。日本各地の神社に幾何学模様の描かれた絵馬が掛けられていたりするが、当時は難問を解いたときに、その問題と
解答を「算額」といわれる絵馬にして神社に奉納する習慣があった。難問を解いて神社で公開することは、当時の芸人としての宣伝効果も高かったよ
うである。その絵馬の中には数列や級数を駆使して解かれたものもあり、和算のレベルの高さがうかがえる。
1
メデス自身、このことを苦にしていた。そもそも、無限と
帝都プラーハの帝室天文台で軌道計算に熱中していた時期
いった発想は、ギリシャ数学のタブーだったのである。ギ
だけが、安定していたといえるだろう。当時の皇帝は、占
リシャにあっては、有限の世界に完全な調和をもって万物
星術と錬金術に打ち込んだルドルフ 2 世で、ケプラーは皇
はあらねばならなかった。ガリレオやケプラーが降伏せね
帝の占星術師だったのである。
ばならなかったのも、そうしたギリシャ的制約だったので
もっとも妻は神経を病んでやがて病死、 2 児が残されて
ある。
いる。皇帝は死んで、帝室俸給は支払われなくなる。再び
この時代は、ギリシャといってもアレクサンダー大王の
数学教師と占星術とで生活すべく、各地を放浪せねばなら
没後の時代の東地中海一帯だが、その時代のギリシャ数学
ない。再婚した妻との間には 40 歳代の間に 8 人の子をつ
の高揚は、ギリシャ数学の限界を突き破る域に達していた。 くってしまった。それになにより、ケプラーの母親が魔女
アルキメデスにしても、そうしたギリシャ数学の矛盾を先
の嫌疑で検挙されたので、母を救うための法廷闘争に身を
鋭に体現していたのである。学問がある発想の枠組で成熟
ささげなければならなかった。
し、やがてはその枠組を突破することがある。時代が成熟
しかも当時のドイツは 30 年戦争の戦火のもとにあった。
していれば、それは学問の転換の契機になるだろう。
ケプラーも一時、ワレンシュタイン将軍の占星術師をつと
ただし、ギリシャ数学の場合、アルキメデスの時代で、そ
めたことがある。魔女の一家として村八分に近い状態となっ
の矛盾は凍結されてしまった。ギリシャ数学正統は、それ
た大家族を養うためにも、戦火の中を占星術師として放浪
から数世紀にわたって、精緻に学問の花を咲かせるのでは
しなければならなかったのである。こうして 50 歳代をほ
あるが、 17 世紀のヨーロッパまで、その問題が論ぜられる
とんど旅に過ごした老占星術師は、だれも知る人のいない
ことはなかった。
旅路に、その一生を終えねばならなかった。
しかし、この占星術師の神秘的数学主義が、近代の出発
3. ケプラー ∼宇宙と数学を結びつけた占星術師∼
となった。やがてニュートンがケプラーの法則を力学に体
円錐曲線の研究は、遠くギリシャのアポロニウスにさか
系だてる。パスカルやフェルマーの幾何学は円錐曲線には
のぼるが、その意味が大きくなったのは、ケプラーが楕円
じまるし、樽の体積についてのケプラーの研究は積分への
軌道を発見してからであろう。それ以前では、星というも
道を歩み始めている。近代数学のはじまりにたつ神秘派の
のは完全な円に従って永遠の循環をなすべきであり、ケプ
占星術師、それがケプラーだった。
ラー自身、その観測が楕円を示していながらも、一生、円
にこだわり続けている。
4. パスカル ∼精細すぎる美青年∼
ヨハネ・ケプラー (1571{1630) は、南ドイツの出身、父
は財産をなくして傭兵 (ようへい) となっていて、修道院か
ら神学書生への道を歩んだ。コペルニクス派の影響を受け
確率の数学的考察は、賭博に長じていた 16 世紀の魔術
ていたゆえか、僧職につくことはできず、生活は数学教師
師数学者カルダノ に始まるが、 1 7 世紀のパスカルになっ
と占星術師の 2 本立てである。この当時では、数学と占星
て世に知られ、ヤコブ・ベルヌーイから、近代数学の流れ
術というのは、べつに矛盾するものではない。そして、神秘
のひとつになっていく。
的数学的宇宙論とでもいったものがケプラーの関心で、ガ
ブレーズ・パスカル (1623{1662) は租税官の家に生まれ
リレオにも著書を送っているが、ケプラーほどに神秘主義
た。父もデカルト などと同じネルセンヌのサロンの一員で
者でもなく、数学にも取り付かれていなかったガリレオは
、数学上の業績もある。このころには行政知識人層が社会
、冷たい態度だったようである。
的に重要な地位を占め始め、デカルトもパスカルもそうし
ケプラーは信心深い新教徒だったのだが、新教の町では
た階層の出身で、サロンを中心に交流していたのである。パ
新教徒から追害されがちだし、旧教の町では旧教徒から迫
スカルの数学的早熟はサロンの評判で、彼の円錐曲線論を
害されがちで、一生を安楽に過ごしたことはなかった。た
みたデカルトは、それが 16 歳の少年のものであるとは信
だ、 30 歳代の数年間、ティコ・ブラーエのあとを継いで、 じなかったという。
世紀のイタリアでは、数学師たちが方程式の術を競い合っていた。方程式の術は何故か魔術師の看板芸だったようである。 次方程式の術を
編み出したタルタリアは、その秘術をカルダノに奪われたことに怒って挑戦したが、カルダノの弟子の青年フェラリが、 次方程式の術で老タルタリ
アを返り討ちにした。
近代ヨーロッパの分析学のはじまりをデカルトに見るものもいる。しかし、本人はいたってグウタラな人間だったようで、朝寝坊でゴロゴロと考
えごとをするのが常だったらしい。ところが、スェーデンの早起きの若い女王が、朝寝坊のデカルトを起こしたため、彼は風邪をひいて死んでしまっ
たという。マンガのような話である。
2
もっとも同時はフロンドの乱などもあって、パスカル家
ガリレオの死んだ 1642 年にニュートンが生まれたとい
もそれほど安泰ではなく、計算機の発明への苦労もあって
われるが、当時のイギリスは旧暦であって、ニュートンの
、パスカルはその一生を病身で過ごした。もともと神経質
生まれた旧暦の 1642 年のクリスマスというのは、ヨーロッ
であったし、姉や妹への愛情も少し病的なところがあった。 パ大陸のほうの新暦では 1643 年の正月である。当時はま
だ、ヨーロッパといっても、国ごとに暦すら違っていた。
真空についての実験も 20 歳代の前半だが、実験の数値に
は偽造の跡がある。図太いデカルトならば、数値なしです
アイザック・ニュートン (1643{1727) は、月足らずの未熟
ませたろうが、ともかく数値を付けずにおけないところが
児として生まれた。誕生前に父は死んでいて、母は彼を残
パスカルである。
して再婚したので、ほとんど父母を知らずに過ごした。父
神経をいやすために医者のすすめで社交界に出入りする
を失い、母を奪われた心の傷が、彼の性格を作ったとも言
ようになったのは 24 歳のときである。当時の社交界に賭
われている。
博はつきもので、そのときの問題から確率論がはじまる。
幼児から機械づくりや錬金術に興味をもっていて、その
フェルマと文通して議論したりして、確率の問題が微積分
好みは晩年までおよんでいる。ケンブリッジ大学では給費
の問題に発展した。ニュートンやライプニッツの以前の段
生で、寮の雑役をして寮費の免除を受けていた。この頃に
階、パスカルやフェルマの時代の微積分は賭博に起源を持っ
恋愛をしたという説もあるが、一生を「女嫌い」で過ごす
ている。
こととなる。 22 歳の頃には科学の最先端に達しているが、
このころは宗教上の争いの時代であって、パスカルの属
このころはペストが流行して大学が閉鎖されたり、ロンド
したのはポール・ロアヤル派で、これが 18 世紀にはフラ
ンに大火が起こったりで、ニュートンは故郷へ帰って、リ
ンス文化の主流になるのだが、このころはまだイエズス会
ンゴの木を眺めながら暮らすことになる。このときに微積
派に弾圧されていた頃である。 30 歳の頃に馬車の暴走か
分学と力学を構想し、引力と天体運行の法則とを導出した
ら奇跡的に助かったのを機に、パスカルはこの宗派活動に
身を捧げることになる。これ以後の著作「田舎人への手紙」
という。かつてケプラーは天体の運行を法則化し、ガリレ
オは物体落下を法則化したのだが、ここで天と地も、 1 つ
も「瞑想録」も、そして数学論文もすべて変名で書かれて
の「数学原理」として考えられるようになったのである。
いる。そして孤立の中で、宗派幹部の妥協に反発して尖鋭
26 歳でケンブリッジの教授、 30 歳で王室協会に入る。王
になっていき、弾圧を逃れて隠れていた姉の家で淋しく死
室協会といっても、カトリックの王が帰ってきたので、大学
んだ。
なお、ヤコブとヨハンのベルヌーイ兄弟はライプニッツ
を離れたプロテスタント系科学者が、王の許可をとっては
の同伴者で、微積分の事実上の完成者だが、兄弟は仲が悪
じめた在野団体で、知識人サークルのよなものである。そ
くて、いつも数学上の争いをしていた。確率論で有名なのは
の中心人物は、 7 歳年上のフックで、彼とニュートンは終
、兄のヤコブの方で、兄が死んだ後で、ヨハンが 18 世紀
生、憎しみあい論争しあう。後年にニュートンが王室協会
前半のヨーロッパ数学界に君臨するようになるのだが、そ
の会長になったとき、最初にしたのは論敵フックの痕跡を
れはまた別の話である。
完全に消去することだったという。
パスカルというと、どちらかというと宗教者ないしは文
カトリックの王とケンブリッジとの対立の中で、ニュート
学者のような資質と考えられやすいが、その数学は鋭く堅
ンは政治づいて、名誉革命後は国会議員になるのだが、さ
固だった。ライプニッツがその微積分学を完成したのも、パ
らに政治的地位を求めて親友ロックとの不和、精神錯乱の
スカルに学んでであった。いろんな資質の数学者があるも
きざしがある。やがて、造幣局長官となり、ニセ金を追放す
のだ。確かに、人間とは「考える葦 (あし) 」であった。詩
るが、アイルランド収奪のもとをくったろもいわれている。
人で数学好きの美少年といえば、女性に受けそうな気もす
王室協会の会長となっては、かつてのサークルの儀式的権
るが、パスカルはまさにそうで、幾何学の精神と繊細な精
威で固め、自らは真紅の部屋に閉じこもっていたという。
神を兼ね備えていた。彼を愛した女性はみな尼さんになっ
この間も論争は続き、ベルリン学士院長ライプニッツと
た。
か、グリニッジ天文台長フラムティッドとか、すべての知性
を敵とし、知的最高権威を一心に集めずにはすまなかった。
5. ニュートン ∼ゆがんだ大天才∼
パスカルは奥様キラーとして有名であるが、数学少年にもっとも憧れられる数学者というのもいる。ガロアである。学生運動から革命に走り、牢
獄の中で新しい数学を思考し、出獄後に女性のための決闘によって命を失った。
歳の若さであった。決闘前夜に「もう時間がない」としたためた
数学的遺言が、「ガロア理論」として後の数学の流れを変えることになった。
3
一方、ユニテリアンの異端神学に没頭し、錬金術の実験を
のだが、このころオイラーは、ベルリンのフリードリッヒ
深夜に行うことも一生続いた。
大王によばれる。ときに 33 歳、それからの最盛期をベルリ
ンで過ごすことになる。しかし、籍はなおロシアにあった
そして 84 歳で死んだときは、もう論敵はだれも生きて
らしい。やがて、 7 年戦争でベルリンは、オーストリア・
いなかった。経済学者のケインズは、ニュートンのことを
ロシア連合軍の騎兵の蹄鉄に荒らされることになる。ロシ
「最後の魔術師」とよんでいる。
アはエカテリーナ女帝の時代、 59 歳のオイラーは再びペ
6. オイラー ∼多産な大数学者∼
テルブルクへ移り、死ぬまで孫に囲まれて暮らした。
数学者の中でもっとも多産といわれたオイラーの遺産は
16 世紀に小数が市民権をうるようになるとすぐに、その
、数学のどの分野にも「オイラーの定理」として顔を出し
加法と乗法を媒介するものとして、対数が生まれた。それ
ている。もっとも、オイラーの時代は生真面目な証明など
は 0 の個数として、いわは桁数が小数表示するものだから
しなくても、計算を背景に定理を洞察するだけで、数学者
である。そこには、何人かの数学者の名が上げうるが、中
は満足していた。 19 世紀になって、証明が重視されたのは
でもスコットランドのジョン・ネピア (1550{1617) の功が
、もはやオイラーのようにはやれなくなったからでもあっ
大きい。これも 16 世紀から 17 世紀にかけて、数量的世
た。そのため、オイラーの遺産を整理するためには、後世
界の成立の一幕であった。複利計算表は対数表に変えられ
の数学者が彼の定理を証明しなければなく、失明してしま
、天文計算にそれはなくてはならないものになった。
うほど生産し続けた数学的遺産は、彼の死後 200 年たって
しかし、その意味は計算に留まるものではない。指数的
も整理しきれず、その全集が完成していない。そして多く
な変化は、自然の基本法則であり、やがて微積分の形成に
の学生が彼の遺産に泣かされることになった。
力をつくしたのは、スイスのペルヌーイ兄弟 だが、それを
完成したのは、弟のヨハン・ベルヌーイの弟子だったレオ
7. ダランベール ∼波動と三角関数の融合∼
ンハルト・オイラー (1707{1783) である。指数関数とな
らぶ重要な関数である三角関数を、指数関数と結合させた
三角関数は、天体の「円運動」や、三角形を計算するも
のもオイラーである。オイラーは、現代につながるあらゆ
のとして生まれ、中性イスラムで天文学に使われながら発
る分野の礎石をつくり、豊富な数値計算による洞察は、 19
展したが、近代になってその重要性が高まったのは、それ
世紀以後のような論理的な証明つけなかったにも関わらず、 が波の現象を表すものだからである。とくに 19 世紀にな
基本的につねに正しい結果に到達した。オイラーのように
ると、それは、弾性波や電磁波の解析にはなくてはならな
計算力も洞察力もない後世の人間たちは、証明によってオ
いものとなった。それは、 18 世紀のダランベールの弦振
イラーの結果の正しさを確認している。そして、おそらく
動の解析にはじまる。ヨハン・ベルヌーイの息子のダニエ
は計算の過労によって、 28 歳で右眼の視力を失い、 64 歳
ル・ベルヌーイや、オイラーと共に、その問題は大きな話
には両眼ともに視力を失うだが、それでも数学を生産し続
題となり、またその表現問題が、近代的な関数の概念の確
け、計算をしながら孫と遊んでいたオイラーが「もう死ぬ
立への契機にもなった。
当時のフランスは、宮廷サロンの時代である。宮廷の貴
よ」といって死んだのは、 76 歳のときであった。
18 世紀のヨーロッパは、文化先進国であるフランスのパ
婦人たちの間では、
「英国の赤い星」ニュートンがアイドル
リについで、新興国のプロシアのベルリンと、ロシアのペ
であり、その「数学原理」を翻訳したのは、ヴォルテール
テルブルク、今のレニングラードとが新しい文化の中心だっ の恋人のシャトレ夫人でだった。
た。しずれも、ライプニッツの手によって、アカデミーの
ジャン・ルロン・ダランベール (1717{1783) は、そのサ
つくられたところである。当時の数学界に君臨していたヨ
ロンの貴婦人タンサン夫人の子、ジャン・ルロン教会の石
ハン・ベルヌーイは、二人の息子をペテルブルクに派遣し
段にえい児は置かれていたので、ジャン・ルロンと名づけ
ていたが、やがてオイラーもペテルブルクにいく。彼は 20
られ、実の父の砲兵将校デトーシュはダレンベルクとの名
歳、ロシアはアンナ女帝の時代である。やがて、アンナが
を与えたが、自分で勝手にダランベールと名乗った。そし
死んで宮廷は陰謀が続き、エリザベータ女帝の時代になる
て 20 歳代でサロンの寵児となり、そのころには一流の数
ライプニッツの新しい数学、微積分を発展させたのは、ベルヌーイの若き兄弟、ヤコブとヨハンだった。ところが、この兄弟は仲が悪く、互いに
自分のほうが数学ができると信じていた。争いあっていた兄が死んだあと、弟のヨハンはヨーロッパ数学界に君臨することになったが、イギリスの
ニュートン一門とも争い、ついには自分の息子のダニエルとも、流体力学の業績をめぐって争った。
オイラーの国籍はスイスかロシアかドイツか、ラグランジュの国籍はイタリアかドイツかフランスか決めようがない。いまでも国籍不明の数学者
がときどきいる。
4
学者だった。オイラーやラグランジュのように専門的数学
歳のときに砲兵学校の教官をして、自分より年長の砲兵た
者として多産ではないが、才気にあふれ、その多くは、 19
ちに数学を教えていた。 20 歳代ですでに数学の才能をヨ
世紀数学を半世紀前に先取りしたものだった。エネルギー
ーロッパ中に知られていたが、胃腸が弱くて、典型的な無
概念や極限概念はダランベールに始まるし、方程式論や関
力体質であったらしい。
当時のベルリンは、プロシアのフリードリヒ大王のもと
数論で、 19 世紀が複素数の時代を開幕するに先立って、前
で、サロン文化が栄えていたが、そこにいた大数学者のオ
奏曲のファンファーレを奏でたのも彼だった。
しかし彼は、数学者である以上に、サロンにあって、文化
イラーが、ロシア女帝エカテリーナによってペテルブルク
の指揮者でもあった。新興国の歩視亜のベルリン、ロシア
に引き抜かれた後釜に推薦された。フリードリヒ大王はおっ
のペテルブルクは、熱心にダランベールを招請したが、彼
とりしたラグランジュをオイラーより好んだようである。こ
は結局、ベルリンにはラグランジュ、ペテルブルクにはオ
の時期には、力学を体系だててハミルトンの力学系へと引
イラーを配置した。そして、百科全書の刊行につくすこと
き継いだ「解析力学」を完成してもいるのだが、べつに力
になる。その編集を引き受けたのは、まだ 30 歳のときで
まずに、 40 歳代半ばで人生を達観したようなところが、ラ
ある。
グランジュの人柄である。フリードリヒ大王が死んでから
「啓蒙主義」の時代の「百科全書」というと、雑多な知
は、パリへよばれて、マリー・アントワネットの寵愛を受
識を押し付けられるようなイメージになりかねないが、当
ける。この人生を静かに語る 50 歳代の中老の数学者の言
時のサロンの知識人としては、すべての学問をひとつ連環
葉に、王妃は耳を傾けることが多かったという。ところが
のなかにつらね、
「なんでもわかってやろう」という、彼ら
フランス革命が起こり、知人の天文学者の家に身を隠すの
の自身の知的どん欲さの表現としてあった。ときは産業革
だが、そこの娘に慕われて結婚する。 30 歳も若い妻と連
命前夜、技術専門家の分業体制以前で、職人の世界と知識
れ立って舞踏会へと足を運ぶ 56 歳の老数学者の姿をパリ
人の世界とが混ざり合っていた、
「古きよき時代」のサロン
の市民は目にしたのだろう。このころは、新生フランスの
である。現代の専門家体制で、文化が透視にくくなってい
文化の中心で、メートル法の制定に、新しい教育制度の発
る中で、しばしば百科全書の精神の復権が説かれるが、そ
足と、すっかり若返ってもいる。
やがてナポレオンの時代、皇帝もまた、この洗練された
れがどのようにして可能かは、いまも課題としてある。
物静かな老科学者と、世界や科学についての哲学を論ずる
ダランベール自身は、サロンの中にあっても、なかなか
戦闘的であったようで、もともと無神論だったこともあっ ことを何よりも好んだ。フリードリヒ大王、マリー・アン
て、イエズス会やカルバン派との争い、ルソーと喧嘩した
トワネット、ナポレオン皇帝と、王侯のだれもに愛された
りもしている。
ラグランジュであったが、彼自身の好んだのは、栄誉より
もむしろ静寂であったという。激しい時代に出会ったのに、
8. ラグランジュ ∼多くの人々に愛された数学者∼
彼はいつも物静かに数学と哲学を語っていた。その激しい
時代の主役たちが彼を愛したのは、そうした物静かさでも
1 次方程式は古代のバビロニアからあったが、連立 1 次
あったろう。
方程式が系統的に研究されたのは、中世の中国である。し
9. モンジュ ∼時代に流された幾何学者∼
かし、そこにある原理としての線形性が注目され出したの
は、ラグランジュの線形微分方程式の研究あたりからにな
3 次元の空間を平面への投影で理解するために、平面図
る。それは 19 世紀になって、ベクトルや行列が考えられる
と立体図面に分解することは、いまでは「図学」として設計
ようになるための基盤でもあった。ジョゼフ・ルイ・ラグ
に利用されることが多いが、それを画法幾何 として開発し
ランジュ (1736{1813) は、ヨーロッパを代表するオイラー
たのは、フランス工兵学校で測量に従事していた平民出身
と並ぶ大数学者だった。
の少年だった。上官はこれを軍事機密とした代わりに、少
年はやがてこの学校の教官となる。この少年が、ガスパー
ラグランジュは、サヴォイ公国のトリノ出身、当時のイ
ル・モンジュ (1746{1818) である。
タリアは国家としてまとまっておらず、北部のサヴォイが
後年のイタリア統一の核になる。もっともラグランジュは、
モンジュは刃物研ぎの行商の子で、宗教団体の学校に入
るのだが、測量地図に感心した工兵学校によって、工兵学校
デカルトと同じ家系というから、フランス系ではある。 18
次元の立体を見るために、真上からの平面図と真正面からの立面図とを組み合わせて立体の幾何を考ることが一般的である。いまでは中学の
「図学」等で当たり前のように教わっているが、この作図法を発見したのがモンジュであり、フランスはこの作図法を軍事機密とした。彼はフランス
革命で技術指導者として活躍したが、ナポレオン没落後は浮浪者になってしまった。
5
に入ることになったのである。フランス革命の前夜で、平
数学のいろいろな概念が生まれた。ディレクの関数概念の
民出身では将校の仲間にはなれないところだが、軍関係の
定式化も、リーマンの積分の基礎づけも、カントルの集合
技術者として過ごしていた。
概念も、そこからはじまった。
ところが 43 歳のときに革命が起こり、新政府の防衛で
ジャン・バチスト・ショゼフ・フーリエ (1768{1830) は
は海軍大臣の要職につく。鉄砲関係は 47 歳の幾何学者モ
、修道院に入る直前、フランス革命が起こり、この 21 歳の
ンジュ、火薬関係は 49 歳の化学者ベルトレが担当である。 青年を若い闘志にしてしまった。僧院に入る前にと、書い
新政府の教育改革にも力を尽くし、このころの微分式の研
たばかりの数学の処女論文をパリに届けに行っていたとき
究は、微分幾何学の創成期を飾ってもいる。
のこと、運命というものは不思議なものだ。
やがて 50 歳になると、ベルトレと二人で、将軍ナポレ
30 歳のとき、ナポレオンのエジプト遠征軍に加わり、エ
オンと行を共にするようになる。エジプト遠征のときには
ジプト学士院に残されたが、以来彼は、偉大な文明は炎暑
、モンジュたちの小船が襲撃されたとの報に、ナポレオン
から生まれるという奇妙な信念を持つにいたった。それで
が単騎救援に駆けつけたところ、モンジュは大砲を発射し
、夏でも締め切った部屋で、体に真綿を巻きつけて、汗を
続けていた。フランスへの帰国に際しては、万一イギリス
流しながら数学を考えたという。そのテーマが「熱の理論」
船に遭遇したときに船を自爆させるのがモンジュの役目で
だったから面白い。
グルノーブルの知事になって、政治的手腕もなかなかだっ
、幸いと最初にフランス船に出会ったとき、モンジュはラ
たらしいが、そのころに熱伝導論を仕上げたものだが、炉
ンプ片手に、船底の火薬庫にいた。
ナポレオンが皇帝になってからは、伯爵で理工科学校校
論敵に不十分だったので、それの完成に賞金がかけられ、の
長、それでも常に口ずさんだのは革命家マルセイエーズで
ちにフーリエが学士院のボスになったときに、自分で賞金
、この学校の進歩と自由の伝統は、モンジュによって開か
を獲得している。
しかし、フーリエの一生をいろどっているのは、政治的
れた。
しかしやがてナポレオンは没落して、モンジュも公職か
激動期での行動である。ナポレオンがエルバ島に流された
ら追放される。浮浪者の群れの中に、よろよろした足取り
とき、フーリエはルイ 18 世に忠誠を誓って知事を続けてい
で、マルセイエーズを口ずさむ元数学者の老人があったと
た。そして、ナポレオンがフランスに帰ってきたのに、自ら
いう。それでも彼が 72 歳で淋しく死んだときには、政府が
馬を駆ってブルボン家に通報、グルノーブルに帰ってみる
反対したにも関わらず、墓地へ花輪を捧げる理工科学校の
と、もうナポレオンがいて、エジプト以来の仲で、またナ
学生たちを留めることはできなかった。
ポレオンに忠誠を誓う身となってしまった。そして、ナポ
19 世紀の数学は、数理物理学と幾何学が中心となり、そ
レオンの百日天下が終わって、さすがに知事のほうはあき
れがまた理工科学校を中心としたフランスの伝統の一部と
らめるが、セーヌの統計局長に納まっているのだから、よ
もなるのだが、それはこの学校の創始者モンジュの位置か
ほど行政手腕を見込まれたのだろう。
もっとも、例の炎熱地獄で暮らしたせいか心臓を病み、
らもきていよう。 19 世紀の数学では、純粋数学の隆盛と
いった表面が見られがちではあるが、理工科学校に発する
1830 年の政情騒然たる中で、それほど老人ともいえぬ 62
底流が脈うってもいた。
歳で、フーリエは息をひきとった。
熱と波とはずいぶん違いそうなものだが、フーリエの一
こうした激しい時代には、その時代の流れを激しく生き
生が熱と波の中にあったとはいえなくもない。以来、三角
る幾何学者もまた、あったのである。
関数というのは、円弧や三角形と離れて、数学の基本的素
材と考えられるようになった。
10. フーリエ ∼世渡り上手な政治家∼
11. ガウス ∼大数学者の日記∼
三角関数は、三角形や円弧の問題から生まれたが、 18 世
数学的な適正については、いろいろと考えられる。理論
紀ごろには、弦の振動の解析に関係して、波を調べるために
使用するようになった。熱の伝導の問題にそれを応用して、 の堅固さ、強靭な計算力、本質への洞察、体系化への意思
などが上げられるが、評価を受けている数学者がそれらを
一般の関数を三角関数に分解したのはフーリエである。そ
のため、三角関数の級数のことをフーリエ級数という。もっ すべて備えているとは限らない。ところが、それらすべて
とも論理的にはフーリエの理論に不十分なところがあって、 の点で卓越した数学者というと、まずガウスが上げられる
が、ガウスは完璧主義で、論文が十分に成熟するまで発表
19 世紀の数学者たちは、その基礎づけに努力し、そこから
6
12. コーシー ∼論文のページ数を制限させた男∼
せず、若い数学者たちの仕事をすでに知っていたかのよう
に無視しがちだった。しかし彼の死後、彼自身の日記の中
で、確かにガウスがその高みに達していたことが確認され
19 世紀になって解析学は、極限の概念の確立の上にたっ
たが、同時に、仮にガウスがいなかったとしても、人類は同
て、厳密な論理に従うようになっていた。その意味で純粋
じような数学を発想しえたことを証明するものでもあった。 数学の幕を切ったガウスとコーシーは、純粋数学者のよう
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス (1777{1855) は
に思われやすい。ところが、当時は二人も数理物理学者と
、まったく学問とは縁の無い職人の家に生まれたが、才能
考えられていた。大学での職がともに天文台教授であった
をブランシュワイク公に認められ、その庇護のもとに、 10
ことも面白い。そして、ともに保守主義者だった。
歳代ですでに数論を中心に多くの業績をあげ、 20 歳代の
オーギュスタン・ルイ・コーシー (1789{1857) は、フラ
前半には方程式論の基礎定理や小惑星の軌道計算で、ヨー
ンス革命の中で生まれた。父はカトリックの王党派で、パ
ロッパ中に知られていた。このブランシュワイク公という
リ警察の主任警部をしていたので、革命から隠れて暮らさ
のは、フランス革命に反対する連合軍の司令官で、のちに
ねばならず、その不自由が彼に一生に渡る病身を約束した。
アウステルチッツでナポレオンに敗北して死ぬ。そしでパ
ナポレオンのクーデタ後、父は元老院書記の職を得、病弱
トロンに死なれたガウスは、 30 歳からゲッチンゲン大学
な数学少年のコーシーは、ナポレオンのサロンの科学者た
天文台教授として職業に的に自立することになった。前半
ちに可愛がられた。ラグランジュは、未来の大数学者にな
性が 18 世紀風に貴族の庇護のもとにあり、後半生は 19 世
るためには、若い間は文学にも親しむようにと忠告したと
紀風に大学教授として職業的に自立するというのは、ガウ
いう。
スの時代の位置を示してもいる。実際にその数学は、 18 世
コーシーは工兵士官になってシェルブール要塞の建設に
紀風に計算を基礎に洞察することと、 19 世紀風に理論体
従事したのだが、ナポレオンの英本土攻略の夢は破れ、パ
系を構築していくこととの、双方をかね備えていた。
リに帰ってからは、数学者としての生活に入ることになっ
た。 23 歳のときである。やがてソルボンヌ大学教授、新し
そればかりか、 30 歳代では天文台で観測を重ね、 40 歳
く解析学の基礎を確立したのは、 30 歳代の時代である。
代では測量隊に参加して測地学を建設し、 50 歳代では電
信機の製作にまでおよぶ電磁気学がある。数理物理学者で
1830 年には神権的なシャルル 10 世は追放されて「人民
あるばかりか、観測家であり、実験家でもあった。それ自
の王」ルイ・フィリップの時代になった。これは王党派の
体が数学でもあり、観測誤差の理論は確率過程論の定礎と 「厳密主義者」コーシーに受け入れがたいもので、王子の侍
なったし、測量は非ユークリッド幾何を展望しながら、微積
講となったのである。このころ、光の散乱の研究があるが
幾何学の原型を作った。電磁気学はポテンシャル論のはじ
、プラハの空は暗かった。神権的な王は、手を差し伸べる
まりでもあり、 19 世紀理論物理学の最初を飾ってもいる。 だけで病を癒すと信じられていたが、健康を害したコーシ
ーを救うことはできなかった。
この時期、若い数学者の業績に冷たかったとも言われる
のだが、考えようによっては、自分の日記に秘められた数
挫折してパリへ戻ったコーシーはもう 50 歳、ルイ・フィ
が宇賀時代に引き出されるのを見守っていたともとれなく
リップとの関係は悪かったが、学士院はコーシーの数学論
もない。毎日 1 時間ほどかけて新聞を読むのに前かがみに
文の山に埋まることになった。それで 4 ページ以下の論文
なっていたというこの老人の心の中は、他人にはその日記
しか受け付けない、という習慣がいまに続いている。ここ
同様に覗きえないものだった。ただその晩年、若いリーマ
でも、ルイ・ナポレオンのクーデタのあと、妥協が成立し
ンがガウスの思想をはっきり新しく展開させたのを聞いた
て正式に天文台教授として安定することになった。王党派
ときは、ひどく興奮したと伝えられている。 18 世紀から
のくせに、 2 人のナポレオンのクーデタの後に生活が正常
19 世紀へと転換していく時代を、ひそかに見守って、この
化しているところが皮肉である。神権的な王がパリに戻る
保守的な老人は息を引きとった。それは、数学研究層が専
ことはなかったが、コーシーのカトリック信仰のほうは終
門家制度となっていく時代にあたっていた。つまり、時代
生にわたって変わらなかった。
身体の弱さと精神の固さとが、コーシーにあっては同居
が 18 世紀から 19 世紀に転回していくその船首に、つねに
していた。ラグランジュの忠告が有効であったかはわから
大ガウスが立っていたのである。
é 反転した Ä の場所を指すことになる。
中学校で数直線を学ぶ。数直線上の 点 に Ä をかけると、その値は を基点として
に
を 回かけて
Ä になるのであれば、 を 回だけかけた
は é だけ回転することになる。従って、高校の複素平面では縦軸が虚数を表
すことになる。この平面は「ガウス平面」ともよばれている。
7
ないが、コーシーが大数学者になったことには間違いない。 ていた。 60 歳で死んだとき、この一人暮らしの老人の部
時代には沿わなかったかもしれないが、それでも代数学者
屋は、食べかけの羊の骨と、計算しかけの紙切れにに埋め
にはなれる。それどころか、 19 世紀の数学における厳密
尽くされ、足の踏み場もなかったという。そこには、かつ
主義のように、ひとつの時代風潮をつくることさえできる。 ての神童の栄光ではなく、孤独な老人が数学の夢にかけた
執念の結末があった。
時代の中で生きることと、時代をつくって生きることとの
彼の四元数論はやがて海を越えた新興アメリカで、プラ
関係は、微妙なところがある。歴史における進歩と反動と
グマチズムのサークルの間で流行したものである。そのサ
は、なんであろうか。
ークルは、今日のアメリカ哲学の源流となったし、その土
13. ハミルトン ∼神童の中の神童∼
壌の上に、今日のアメリカ数学が築かれていった。
14. ワイエルシュトラス ∼遅咲きの高校教師∼
ベクトルは、力学の中で使われてきたが、それが決定的
有効性を持つようになったのは、電磁気学の成立へ向けて、
19 世紀にあって、解析の神様といえばワイエルシュトラ
電磁場のベクトルを解析することにあった。そして、それは
スが上げられる。そのワイエルシュトラスが数学者として
現代へ向かってもっと一般的な多次元の量を解析する手段
知られたのは、 39 歳のときである。それまでの田舎の高
へと発展した。そうした流れにあって、電磁気学を先取り
校で、数学に国語に地理、そして体操まで教えていたので
しながら現代への道を開いたのは、アイルランドの数学者
ある。
、ウィリアム・ロウアン・ハミルトン (1805{1865) だった。
カール・ワイエルシュトラス (1815{1897) は、ボン大学
彼を神童とよぶのでなければ、世に神童なんて存在しな
に学んでいたが、 4 年間に単位を少しもとらないで、ビー
い。なにしろ 10 歳のときには、 15 カ国語を話し、しかも
ルと決闘に熱中していたという。それからミュンスター大
その半数以上は東洋語だったという。ダブリンの大学で 22
学で教職単位をとって、 26 歳で高校教師になった。
歳で学生であることをやめるのだが、それはこの大学の教
教師をしながら数学を研究、やがてはベルリン大学長、と
授になってしまったからである。
いうと出世物語のようだが、田舎の高校教師の生活に充足
そのときの業績は、光学に新しい原理を与えるもので、さ
していたらしく、 41 歳でベルリン大学助教授になっても、
らにその原理を力学系で考えようというのが、現代にいた
むしろ田舎の生活を懐かしんでいたらしい。 19 世紀の半
るハミルトンの力学系の理論になる。統計力学も量子力学
ばというと、研究者が大学に職を持つ専門研究者体制が確
もその上に築かれている。こうして 30 過ぎのハミルトン
立した時期だが、彼はそれになじめず、論文を書きかけて
は、美しい妻をめとり、アイルランドのアカデミー院長と
紛失することが多かったし、未発表の結果をどんどん他人
なって、栄光の頂点を占めていた。
に利用させていた。そうした人柄がかえって彼を学長にま
しかし、彼は数学にひとつの夢をもっていた。複素数 x+yi
でしたのかもしれない。
は、 2 次元のベクトルを (x; y) によって表すので、 2 次元
彼は一生を独身で過ごしたのだが、その生涯に花を添え
のベクトルの幾何になっている。彼は何とかして「 3 次元
たのは、幅広の帽子にうるんだ瞳のロシア娘、ソーニャ・コ
の数」を見つけようと考えたのである。
バレフスカヤである。このころのベルリン大学は女性の聴
しかし、それはうまくいかず、愛妻は病んで、彼女を介
講を許可しなかったので、 54 歳の老先生は週に一度、少女
抱しながら、彼はアルコール中毒になっていった。
を訪問し、 19 歳の少女は週に一回老先生を訪問した。
10 年間の不毛な思索のあとで、やっと啓示が現れた。 3 次
ソーニャはロシア貴族の娘、世界で最初の女性の大学教
元ではなくて、時間を入れた「 4 次元の数」 t+ ix + jy + kz
授として、 41 歳の人生の盛りで死んだ。その一生は、 15
を考えればよかったのである。これはハミルトンの四元数
歳のときのドストエフスキーへの初恋から始まって、多く
とよばれる。さらにその完成に 10 年、かつての神童も、も
の恋にいろどられている。ベルリンに学んだときも、じつ
う 48 歳になっていた。
は偽装結婚した「夫」とともに、ロシアを脱出したのだっ
四元数は一時は熱狂的に迎えられ、やがて冷たくあしら
た。それからも、ワイエルシュトラスのところから消えて
われた。いまでは、その位置づけは確定しているが、それ
、姉とともにパリ・コミューンに参加したり、ロシアへ帰
以上に、その理論を通して、ベクトルや行列の理論の先駆
国しては詩と小説と劇作で売り出したり、やがてストック
となったことが、高く評価されている。しかし、彼は妻を
ホルム大学教授として社交界の花となったりした。最後の
失い、中風となって、孤独な老人として暮らすようになっ 恋人とイタリア旅行で別れた帰途、北に向かうソーニャの
8
胸を冬の寒風が襲った。あっけなく死んだ彼女の遺稿は一
スに興じ、
「詩の法則」というベスト・セラーをものにした
篇の小説「ニヒリストの女」と題されていた。
りしていたが、 61 歳のときに、アメリカに新設のジョン
ワイエルシュトラスは、長生きしたが、やがて病気がち
ズ・ホプキンス大学教授になり、一時は、ケイリーをよん
となった。決闘でならした体のしなやかさは消え、酒量も
で旧友を暖める。アメリカ数学界は、直接的にはこの 2 人
落ちた。 20 世紀にあとわずかの世紀末、悪性の感冒にお
によって開かれたのでもある。そして、シルヴェスターが
そわれた。 81 歳だった。
、本国イギリスで正式にオクスフォード大学教授になった
彼は 19 世紀後半のドイツ数学界の指導者であり、特に若
のは、 69 歳になったときである。彼の生涯はケイリー以
い数学者たちへのよき理解者であったことでも知られてい
上に奇妙で、弁護士として数学をつくり、隠居して詩をつ
るが、なにより、その人柄がよい。大学生としては大学生
くったあとで、大学教授になる、といった具合になる。
活を楽しみ、高校教師としては教師生活を楽しみ、大学教
これはイギリス文化の持っていたいい意味でのアマチュ
授としては研究生活を楽しんだ。その生活をありのままに
アリズムが有効に作用してもいたろう。弁護士というのが、
楽しむ以外、地位とか名誉とかへの欲望がまったく感じら
知的職業の代表格で、そうした身分と無関係に、数学がな
れない。結果として、最高の地位に達しはしたが、それは
されていた。当時すでにドイツなどでは研究者の職業化が
環境がそうさせただけだった。研究者が専門的制度となっ 進んでいたのだが、イギリスの一種の文化的伝統が、こう
た時期に、こうした人がいたというのは面白い。それに 40
したアマチュアリズムを支えてもいたのだ。そして産業革
歳からでも数学者になれるというのがまたいい。
命の先進国としての文化の層の厚みもあったろう。実際に
19 世紀前半のイギリスでは、アカデミックな形ばかりでな
15. ケイリーとシルヴェスター ∼マトリックスの世界∼
く、初等数学の教育にかかわっても、代数学の整備が市民
レベルでなされていて、そうしたことも基盤になったはず
行列 (マトリックス) の理論を展開したのは、 19 世紀イ
である。
ギリスの 2 人の弁護士、アーサー・ケイリー (1821{1895)
とジェイムス・シルヴェスター (1814{1897) である。
16. リーマン ∼パンドラの箱を開けた数学者∼
ケイリーはリッチモンドの商人の息子、ケンブリッジで
数学を学び、若い数学者として出発した。ところが、 25 歳
2 年生で学ぶ積分は、「リーマン積分」と呼ばれている。
のとき法学校に入り、法律家としての道を歩み始める。こ
のときに一緒だったのが、 7 歳年上のシルヴェスターであ
リーマンがその基礎づけを試みたからである。ベルンハル
る。彼はユダヤ人の息子で、ケンブリッジに数学を学ぶの
ト・リーマン (1826{1866) は、ナポレオン戦争で疲弊した
だが、アメリカ移民だった兄を頼って渡米、兄は保険会社
ドイツの寒村に貧乏牧師の子として生まれた。貧乏のため
にいたので保険会計士になり、帰国して法学校に入ったの
か、幼児期から虚弱体質であったという。牧師になろうと
である。
してゲッチンゲン大学に入ったのだが、やがて関心は物理
こうして 2 人は弁護士事務所を開業した。ケイリー 29
学と数学に向かう。ドイツの大学生は、あちらこちらの大
歳、シルヴェスター 36 歳のときである。そして本格的に
学を移るのが普通で、彼もベルリン大学に通っている。や
数学の研究を始めることになる。やがてシルヴェスターは、 がてゲッチンゲンに戻ってからは、物理のウェーバーの助
陸軍士官学校の数学教官に転身するが、ケイリーはなおも
手となった。現代の数学者はアイデアの源泉をリーマンに
弁護士を続けながら、数学者としてもっとも多産な時期を
求めることが多く、それでリーマンは現代純粋数学の父の
迎え、イギリス最大の数学者として知られるようになる。
ように思われがちだが、彼はもともと数理物理学者なので
ある。
そして、 42 歳の大数学者の弁護士ケイリーは、ケンブ
リッジ大学教授となって結婚する。数学者としての最盛期
学位論文は関数論のリーマン面で、多様体論や位相幾何
は弁護士時代の最後の数年にある。若い数学者が華やかな
の起源とされている。さらに講師資格試験に向けて、ベル
初業績のあとで、就職して結婚するのならば珍しくもない
リンでディリクレに学んだフーリエ級数の基礎をまとめよ
だろうが、ケイリーはすでに、功なり名とげた身であった。 うとした。これは死後に公表され、そこに「リーマン積分」
シルヴェスターの方は、 55 歳で定年のあと、詩やチェ がある。しかし、老ガウスが指定した題目は「幾何学の基
世紀のイギリスには、産業革命の先進国のゆえか、アマチュアの科学者が多い。その代表格がこの 人で、当時のイギリス数学界の頂点にあっ
て、線形代数を建設した。
ルイス・キャロル
といえばだれでも「不思議の国のアリス」を連想しがちだが、この本のファンだった女王が、キャロルが書いた
別の本を買い求めたら、数学書だったので大変驚いたとの話が残っている。実はキャロルもこの時代の数学者である。
9
礎」であって、それが一つの時代を画した。慎重なガウス
けでは点数がとれないので、入学試験もあやうかった。放
は、半世紀間にわたって多くのアイデアを隠し暖めていた
心したようになって、他のことに手がつかなくなったよう
のだが、そのパンドラの箱がこの 27 歳の若者の手で開か
である。そうした調子は終世変わらなかったので、アイデ
れるのに驚嘆したという。興奮のあまりに、帰路にドブに
アのままに書いた論文が粗雑だという非難は絶えなかった。
落ちて死期を早めたとの説まである 。もっともリーマン
32 歳には理論物理の教授となり、天体力学の研究を通じ
の方も、物質的に恵まれず、その上に虚弱体質で、しばし
て、 20 世紀に発展することになった位相幾何学や力学系
ば神経を病んだ。神経がおかしくなると、山中をひと月も
の理論を用意した。なお、アメリカ数学界は、第二次大戦
ほっつきあるいて、それでやっと回復したという。
後にドイツの影響のもとに大発展するのだが、それ以前の
30 歳代で助教授からやがて教授になり、生活もようやく
アメリカ数学界が本国フランス以上にポアンカレの影響を
安定した。数理物理学での指導的地位が約束されていた。し
受けたのは興味深い。ポアンカレの数学スタイルは、どち
かし、病魔が彼をとらえ、 36 歳での結婚と同時に結核が発
らかというと 19 世紀風の色彩が強かったにも関わらず、そ
病した。ゲッチンゲンとイタリアを往復しながらの療養の
れが 20 世紀になって発展する分野の源流になっているの
日々が、彼の 30 歳代後半だった。そして 40 歳直前に 3 歳
も不思議である。
ともあれ、 19 世紀末に世界最大の数学者と思われ、第
にもならない娘のことを気にしながら、リーマンは死んだ。
微分と積分というのは、もともとは独立に生まれて、ど
1 回ボヤイ賞はポアンカレに与えられ、ドイツのヒルベル
ちらというと積分が先行していた。しかし、ニュートンや
トは「ポアンカレほど多面的でなく専門分野が限定されて
ライプニッツの時代、積分を逆微分として計算することか
いる」との理由で、第 2 回ボヤイ賞となった。その多面性
ら、微分が先行するようになった。そしてダランベールか
ゆえに、ポアンカレを「最後の万能選手」とよんだ人もい
らコーシーにかけて、極限の概念が成立することによって
るが、 20 世紀になるとヒルベルトがそれ以上の多面性で、
、微分を習ってから積分を習うという 19 世紀の微積分教 「最後」などは存在しないことを証明した。といっても、そ
育課程がつくられた。さらに理論的要請から、コーシーか
の数学のスタイルの違いから、
「ポアンカレが 19 世紀の幕
らリーマン、そしてダランベールへという 19 世紀の数学
を閉じ、ヒルベルトが 20 世紀の幕を開いた」と評した人も
の流れの中で、積分論が確立していった。だから今でも積
ある。それにしても、この 2 人の大数学者がともに、ボン
分先行の教育課程を主張する人もある。一方、微分につい
ヤリといった特徴を持っていたことは奇妙な暗合といえる。
ての理論化は、これもリーマンに始まる多様対論として 20
20 世紀になってからのポアンカレは病気がちだった。1900
世紀に開花した。微分と積分の 2 つが絡まりあいながら、 年の有名なヒルベルトの講演「数学の将来」のあと、 1908
数学の歴史をいろどっているところが面白いが、この歴史
年にポアンカレの「数理物理学の将来」が予定されていた
の中で最も美しい花を咲かせたのが、薄幸の天才リーマン
が果たせなかった。そのころはむしろ、文章家として有名
であった。
である。幼時の文学好きが開花したのだった。
18. ヒルベルト ∼数学者への 23 の宿題∼
17. ポアンカレ ∼ 19 世紀最後の万能選手∼
数学というものでは、それがかなり昔につくられたもの
決定論的法則と確率論的法則とは対立しそうに思えるが
であっても、新しい時代には新しく構造化され、その姿が
、現代の力学系の理論では、微分方程式論と確率過程論が
よく見えるようになる。高校の数学の大部分は 17 世紀か
交差している。その源流はポアンカレにさかのぼれよう。
ら 18 世紀につくられたものだが、それらに照明をあてて
いるのは 20 世紀の数学である。
アンリ・ポアンカレ (1854{1912) は、ナンシーの医科大
学教授の長男だが、ときどきボンヤリする変わった子供だっ
20 世紀の数学の形を生み出したのは、ダビッド・ヒルベ
た。幼時はむしろ文学好きで、数学に熱中しはじめたのは
ルト (1862{1943) とされている。彼はプロシアの美しい城
15 歳頃からという。計算はよく間違ったし、答案は粗っぽ
と橋の都ケニヒスベルクで生まれた。プロシアがドイツ帝
かったので、試験の成績はよくなかったらしい。不器用な
国へ歩み始めていた頃だった。
ので、三角形を書いても歪んでしまったという。数学に関
幼年は、どちらかといえば、ぼんやりした子だったらし
するアイデアのひらめきは認められていたが、アイデアだ
い。大学時代の親友ミンコフスキーは 2 歳年下のユダヤ少
曲面は、空間に存在する物のようなイメージがある。しかしガウスは、曲面も空間の中で つの世界を作っていると考え、曲面論を作った。さら
にリーマンは、空間に曲面を含めるのではなく、曲面自体を独立した一般的な世界として提示し、多様体とよんだ。若いリーマンのこの講演を聞いた
帰りに老ガウスは感激のあまりドブに落ちたといわれている。
10
年で、 3 歳年長の若い助教授フルビッツは卓抜なアイデア
ノバート・ウィーナー (1894{1964) は、ハーバード大学
の奇才として知られ、三人組でリンゴの木の下で数学を語
教授の息子で、神童として世界中に知られていた。 9 歳で
り合ったものだが、ヒルベルトの役割は鈍才といったとこ
高校に入り、 14 歳で大学を卒業した。しかし、極度の近眼
ろである。
に極度の不器用、そして 9 歳の子供が高校生活を楽しめた
20 歳代前半は、ダンス上手の評判のわりには数学では目
とは思えない。それに、ドイツ出身の知的エリートと思っ
立たないのだが、そのころに、当時の技巧を駆使した不変
ていたのが、自分がユダヤ人であるのを知ったのは、大学
式論に対して、計算なしに構造を理解しようとする新しい
卒業後の 15 歳のときだった。エリートの父、元神童、そし
方法を見出した。
「これは数学ではない、神学だ」と言われ
てユダヤ人というコンプレックスが彼の一生を支配した。
たという。鈍才の勝利だった。
「 10 で神童、 15 で才子、 20 過ぎればただの人」とい
30 歳代でゲッチンゲン大学教授になってからは、代数的
うが、ウィーナーはまさにその見本だった。第一次大戦中
数体の理論、そしてやがて、毎年のように新しい主題に挑
は、電気技師、辞典の編集者、試射場の射程表の作成、新聞
戦した。そのため、自分のつくった理論を忘れてしまった
記者などの職を転々とする。これらの雑多な職業の総和を
とも言われている。 1900 年のパリ国際会議で「数学の将
とると後年のサイバネチックスになるところが妙だが、彼
来」と題した講演で、後に「ヒルベルト問題」と呼ばれる
はすっかり落ち込んで、映画館とブリッジ・クラブに通っ
23 の未解決問題を提出したため、この問題が 20 世紀の数
ていたらしい。 25 歳でマサチューセッツ工科大学の講師に
学者への宿題となった。
なるが、この大学がウィーナーの名とともに理学と工学の
こうしてゲッチンゲンは、 20 世紀初頭の数学の中心と
総合の象徴になるのは後年のことで、ウィーナーの言によ
なった。かつての親友ミンコフスキーを同僚に迎えて、物
れば「三流技術者養成大学」である。
理に熱中したのもこの時代である。ハイキングやダンスも
ヨーロッパとアメリカを往復しながら、数学者としての
欠かせなかった。
業績を重ねてくのだが、終始にわたって異端であり、アメ
やがて、この友も死に、第一次大戦と戦後の暗さが不吉
リカやドイツの数学界の主流とはうまくいかず、しばしば
な影を投げかける頃、敗戦国ドイツは国際会議への参加を
神経を病んでもいる。それはヒトラーの時代であり、ユダ
許されなかった。それでも、新しい時代の数学の中心とし
て、老年のヒルベルトは多くの数学者たちに囲まれていた。
ヤ人への敵意の時代でもあった。
転落は急速に来た。彼が 70 歳になって間もなく、ヒトラ
第二次大戦になると、再び弾道の問題に関わることにな
ーが政権についたのである。彼を取り巻いていた数学者た
り、計算機と自動制御の問題にいたる。電子工学や神経生
ちの多くは亡命し、誰もいなくなってしまった。増えるの
理学も関係してくる。情報の制御と予測、サイバネチック
は軍服ばかりである。 80 歳のときの伝記からは、多くの
スとして集大成される新しい分野の開拓である。なお、協
友人や学生の名前を削除せねばならなかった。
力した生理学者のローゼンブルースというのも面白い人物
かつてのダンスの友達だった妻に、
「ケニヒスベルクこそ
で、ナイトクラブでピアノを弾き、チェスとブリッジは名
ドイツでもっとも美しい町だ」と主張し、
「私が一生を過ご
人級というメキシコ・インディアンである。
した町だからだ」と断言したという。ゲッチンゲンは 50 年
戦後に、サイバネチックスは新しい学問として評判にな
間の夢だったのだ。しかし、ヒルベルトが死んで間もなく、
この古い都ケニヒスベルクは戦争で破壊された。かつて哲
学者カントの歩んだ散歩道も消えてしまったが、哲学者や
数学者の思い出を残して、美しい町は消え去っても、その
哲学や数学は人間の文化の中に生き続けている。
るのだが、壮大な分野だけに、数学者の中には、 30 歳代の
数学の仕事の方を、数学者ウィーナーの真価とする人もな
くはない。しかし、未来への展望としての規模からいって
、ウィーナーはやはりサイバネチックスとともに語られる
べきだろう。
19. ウィーナー ∼昔、神童、今、ただの人∼
幼いときの神童も、多くは成人して挫折する。ところが、
複雑な現象のからまりあった中で、集団としての法則性
その挫折したのが復活するのがウィーナーである。神童も
が現れてくることがある。気象現象などが上げられる。こ
落ちこぼれることがあるし、落ちこぼれも学問の創始者に
うしたものを「半精密科学」とよんだのはウィーナーであ
なることがある。その両方を実際にやってのけたのがウィ
る。彼はそうした中で舵をとるための数学「サイバネチッ ーナーであった。人間というのは、わからんものだ。そし
クス (舵とり学) 」つまり「制御理論」の創始者となった。 て、そのコンプレックスに満ちた人格は、素直とはとても
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だたし、ノイマンの個人は、円満な笑顔を持った極めて
いえないのだが、そうした人格がまた彼の学問につながっ
社交的な人物であり、ゲームの理論の引例にしても、ブリッ
ているところも面白い。
ジやポーカーは当然として、推理小説が登場したりもする。
20. ノイマン ∼悪魔の数学者といわれた大天才∼
ブダペストの大学時代に鍛えたビリヤードの腕を自慢する
20 世紀の数学者のなかで、天才伝説の多い数学者はなん
こともあった。そして、彼が悪魔ではない証拠に、ガンに
といっともノイマンである。彼の真の姿は悪魔であるが、人
おかされて死んだ。ワシントンの陸軍病院においてだった。
間の真似をしすぎて自分でも人間のつもりになっていると
ノイマン以前は、数学が良くも悪くも社会に直接的な影
の噂さえあった。
響を持たなかったし、今でもそうした影響と遠いところで
ヨハン・フォン・ノイマン (1903{1957) は、ハンガリー
数学を研究している数学者が大部分である。しかし、社会
のユダヤ系銀行家の長男で、中学生のころから数学にすぐ
を動かす重要な部分が、数学として考えられる時代になっ
れ、数学基礎論や量子力学の基礎や数理経済学の基礎など、 てきたのは、ノイマン個人というよりも、時代というもの
後年に有名になる仕事のはじまりは 20 歳代前半からであ
かもしれない。
る。 23 歳でベルリン大学講師、 26 歳で渡米、 29 歳でプ
リンストン高等研究所の最年少教授になっている。この年
は、ヒトラーが政権をとってユダヤ人を追放した年であっ
た。名もヨハンからジョンに変った。
そのころのノイマンは、当時の花形の関数解析の第一人
者であり、さまざまのノイマン伝説はこのころから始まっ
ているようだ。極端な記憶力でギボシの「ローマ帝国衰亡
史」を全部暗唱できたとか、極端な計算力で電話帳を眺め
て瞬時に番号の総和を答えたなどがある。さしずめ人間コ
ンピューターといったところのようである。後にノイマン
が計算機のプログラム内臓方式を考察したとき、
「世界で 2
番目に計算の速いやつが生まれた」と豪語したという伝説
もある。
そのノイマンが数学の論文をあまり書かなくなったのは、
第二次大戦がはじまってからである。日本でも、ノイマン
ほどの純粋数学者が軍事研究を始めたと伝えられたそうだ
が、もともとノイマンには数理科学者としての資質もあっ
た。そして、数学が軍事を含めて世界を改変するものにつ
ながっていくのは、この戦争が契機だった。ノイマンはそ
うした時代を象徴してもいた。
マンハッタン計画の中で、計算機を実現したのもこの頃
である。ゲームの理論 は、数理経済学の出発であり、確
率とゲームが融合した。これは戦争ゲームを解析する基礎
ともなった。この頃には軍に関わっていて、朝鮮戦争以降
は原子力委員会で水爆の開発、冷戦の時代には ICBM 委員
長をしている。最後の頃には、情報伝達と神経について研
究して、自己増殖機構について論じている。つまり、地球
の破壊と生命の創成といった、紙の業に関わったとも言え
る。ノイマンが悪魔と言われたのは、極度の怜悧 (れいり)
さもさることながら、こうした業績を寓意してもいよう。
ゲームでは、相手がどんな手を使うかわからない。そのいろいろな可能性と確率に応じて、最も損をしない戦術を考えるのが「ゲームの理論」で
ある。ノイマンはポーカーのハッタリの分析から、この理論を考えたともいわれる。しかし、ベトナム戦争のときに、アメリカの国防省はこのゲーム
の理論で戦術をたてたが、データ不足により失敗した。
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