1 組織はなぜ重要か 1.1 はじめに ビジネススクールで9年間教鞭を執ってきて、その間経済学がいかに現実の組織や人事 の問題を理解し経営者の意思決定を助けるツールとして有効であるかを実感してきた。し かし一方で、ミルグロム・ロバーツ(1992)を始め、組織の経済学に関する良書は世に多 く出ているものの、その多くは理論や概念の理解を目的として書かれており、学んだ知見 をどう実践していくかという視点に乏しいため、一般のビジネスマンや経済学の高い素養 のない人には取っ付きにくい。また経済学の概念を現実の問題に当てはめるには、ケース などを通じたかなりのトレーニングが必要であるが、組織経済学をベースにした実践的な ビジネス書にはお目にかかったことがない。 この連載では、経済学を学んでいる学徒にどの程度経済学が企業経営に役立つものなの か実感していただくことを狙いとしている。取引コスト経済学、人的資本理論、契約理論、 ゲーム理論などから基本的な知識を紹介、解説するが、主眼は経済学的フレームワークを いかに実践的に活用するかである。その目的に沿って、できるだけ毎回一つの事例を紹介 する。紙面の制約から、難解な理論や文献レビューは、すでに世に出ている多くの良書を 参照されたい。 1.2 事例研究:Enterprise 米国レンタカー業界シェア1位の企業をご存知であろうか? それは、私が7年間在住し た米国セントルイスに本社を持つEnterpriseという会社である。アメリカを旅行したこと のある読者の多くは、レンタカーといえば、空港の一番目立つ場所にカウンターを構える Hertz、AVISといった会社を思い浮かべるであろう。Enterpriseなんて聞いたことがないと いう学生さんが私のクラスでも大部分である。アメリカで教鞭を執っていた頃でさえ、額 生の多くはEnterpriseがシェア1位だということを知らなかった。 90億ドルの売り上げを持つナンバー1企業があまり知られていないのには理由がある。 HertzやAVISが空港マーケットをフォーカスすべき市場として捉え多くの資源を投入して きたのに対し、Enterpriseは地域密着を掲げ、10年ほど前までは空港内には一切カウンタ ーを持たなかった。HertzとAVISは最も利益率が高いビジネス旅行客をターゲットとしてき たため、空港内の最も便利な場所にカウンターオフィスと駐車場を抱え、顧客に対し全国 均一のサービスを提供してきた。他方、Enterpriseは住宅地や商業地にオフィスを構え、 車社会のアメリカで自動車事故や車の定期点検の際の市民の足を提供し、地域企業の急な 車需要にきめ細かく対応してきた。とはいえ、Enterpriseは旅行客を無視してきた訳では ない。この会社の主たるターゲットは安さを求める個人旅行客である。空港に着き空港内 のサービス電話から電話をするとシャトルが迎えに来て、そこから空港の敷地外のオフィ スに連れて行かれる。不便ではあるが、空港内スペースの高いリース代や空港使用税を払 わないで良い分、安い料金を提供することができた。 Enterpriseのもう一つの特徴は、日本企業かと見間違えるほどの内部労働市場の発達と 多能化と分権化である。Enterpriseに入社した大卒社員は、まず支店に配属されレンタカ ービジネスのイロハを学ぶ。最初の仕事は洗車で、そこからジョブローテーションにより 支店の業務のほとんどを経験する。実質的な終身雇用制と内部昇進制を採用しており外部 からの中途採用はほとんどない。支店長には大きな権限が与えられ支店の業績に連動した 成果給が支払われる。車種の選定やサービスの内容がすべて本社によって管理されている HertzやAVISとは対照的である。なぜ権限委譲と内部昇進制が必要なのか? それは地域密 着型の戦略を採用しているからである。レンタカー市場における地域ニーズは、そこの住 民や地元企業の特性によって大きく影響を受ける。取り扱い車種から、修理工場とのサー ビス契約まで、全国画一では地元のニーズに答えられないケースが多々出てくる。権限移 譲により本社や他支店との調整事項が増えてくると、今度はマネージャーにコミュニケー ション能力、コーディネーション能力が求められるようになってくる。Enterpriseの意思 決定の仕組みと企業文化を理解し、社内ネットワークを構築しないと物事をスムーズに進 めることができなくなってくる訳である。こうしたスキルは、その企業でしか使えないた め企業特殊的技能と呼ばれ、どの企業でも価値を持つ一般的技能と区別される。企業特殊 的技能の取得を促進するためには、それへの投資が大きなリターンをもたらすような仕組 みを作らなければいけない。Enterpriseにおいては、その仕組みが終身雇用制と内部昇進 制である。明日クビになるかもしれないのに、その企業でしか使えない技能を身につける ため努力を払うバカはいない。 Enterpriseの事例からいくつかの知見が得られる。まず第一に、異なる戦略は、しばし ば異なる情報、対応能力、組織構造と人事制度を要求する、ということである。Enterprise の地域密着型戦略は、地域ごとのニーズと嗜好に関する情報を必要とし、その情報に対応 したサービスを提供するため権限委譲を不可欠とした。権限委譲は、必要なコミュニケー ション能力とコーディネーション能力を持ったマネージャーを育てるための人事制度の仕 組みの構築につながる。互いに補完性を持った戦略と組織を構築できたことが、Enterprise の長期的なパーフォーマンス向上につながっている。 第二に、終身雇用制を中心とする日本的経営は非効率だという最近の一部の議論は正し くない。多くの日本企業以上に日本的なEnterpriseが米国レンタカー市場で長年にわたっ てシェア1位を維持していることは、こうした経営手法が戦略や市場環境にマッチしてい れば大きな威力を発揮することを示している。ただし、終身雇用制や内部昇進制は、成長 を続けることでこそ大きなインセンティブを生み出す。成長が止まればEnterpriseも組織 と人事制度の変更を迫られるであろう。 第三に、企業の組織や人事制度の現在の姿を規定するものとして、これまでどういう変 遷を経てきたかという経路依存性が強く左右することを無視できない。Enterpriseの地域 密着型戦略ももともと弱小自動車リース会社としてスタートした同社が後発レンタカー会 社として生き残るために出てきた知恵であろうし、人を大事にする人事政策も家族経営会 社が多い中西部の風土と創業者の経営方針、そしてそうした企業風土を愛する従業員の嗜 好が強く作用している。HertzやAVISのような会社が、Enterpriseのような仕組みを導入し ようとしても決してできるものではない。組織と人事制度の経済学を実践に応用する際に は、単なる利益最大化を解くのではなく、多くの制約条件を考慮した上で最適化を図る経 営者のジレンマを理解しなければならない。 1.3 組織設計の目的 経済学のフレームワークで組織設計を議論する時の基本的な前提条件を整理すると、次 のようにまとめられる。 組織設計の目的は、組織内意思決定者に正しい情報と適切なインセンティブを与えること で、効率的な意思決定を促すことである。 ここで「効率的な意思決定」という言葉を誤解してはいけない。「効率的」とは、経済 学でいう「パレート効率性」を意味し、企業利益の短期的最大化を必ずしも意味しない。 定義に従えば、組織設計が効率的でない場合(つまり効率的な意思決定をもたらす仕組み ができていない場合)、それを改善することによって、株主、経営者、従業員のすべての 構成員の何人にも不利益を生じさせることなく、構成員誰かの便益をより高められること を意味する。英語でいうwin-winの状況を作り出すことができる訳である。 組織と人事制度の経済学における評価尺度は、常にこの効率性であることを忘れずにい て欲しい。例えば、ワークライフバランスの確立のために、男性社員にも育児休暇を認め たり、フレックスタイムを導入したりした場合、短期的には企業コストの増大をもたらす かもしれない。ところが、それによって従業員の家庭内でより適切な資源配分が行われ、 また従業員が最も生産性が高い時間帯に勤務することを可能にするかもしれない。これは 従業員個人の生産性を高め、余暇や家庭内生産の増加という非金銭的な報酬を提供するこ とに他ならない。また育児休暇やフレックスタイムに価値をおく社員と企業の求める従業 員特性(たとえば知性、勤勉さ、創造性)の間に相関関係がある 場合、企業と従業員の間のマッチの質(従業員と雇用主の相性で、生産性や効用に影響を 与える)は向上するであろう。男性に対する育児休暇やフレックスタイムを持たないこと が非効率的である場合、導入により企業はコスト増を生産性増大や給与削減で相殺しつつ、 同時に従業員の効用を引き上げることが可能になる。 1.4 環境変化に対する適応と組織内コーディネーション 正しい情報が組織のパーフォーマンスを引き上げるメカニズムは、組織の二つの役割と 結びつけて考えるとわかりやすい(図1参照)。一つは、環境変化に対する適応(adaptation) である。経営陣や従業員の意思決定は、マクロ経済環境の理解、技術動向予測、顧客ニー ズの把握を正確に行うことで、効率的な資源配分をもたらす。企業のadaptation能力を高 める一つの方法は、権限委譲である。組織の上層部で意思決定が行われる場合、情報が伝 えられる過程で大事な部分が欠けたり、ノイズが入ったり、バイアスがかかったりする。 また情報が伝えられ決定事項が戻ってくるまでに時間的なロスが生じる。Enterpriseは支 店に権限委譲を行うことで、個別地域のニーズに迅速に適応する能力を高めた。 二つ目の役割は、組織内意思決定や活動における協働(coordination)またはコーディ ネーションである。コーディネーションとは、情報を共有することで行動の補完性や同期 化を高める調整を行うことである。販売マネージャーが製品開発マネージャーに顧客ニー ズを伝えたり、製品開発マネージャーが顧客情報に基づき特定の顧客に対し製品オプショ ンを拡充したりする活動は、コーディネーションにあたる。HertzやAVISにおいては、コン ピューターシステムによる配車管理と、サービスの内容について全国均一のパッケージを 提供することで、支店レベルでの横の連携を不要にした。この場合、コーディネーション は本社主導で行われている。他方、Enterpriseにおいては顧客への新しいサービスの試み が支店間の連携を必要とする場合、支店レベルでコーディネーションが行われる。 コーディネーションにおいて、企業文化や相互信頼は重要である。企業文化は行動規範 であり、企業文化を理解することは様々な局面において同僚がどのように行動するかを理 解することに他ならない。コーディネーションにおける行動規範や信頼の重要性を示す実 験として、筆者がワシントン大学で行っていた教室内ゲームの結果を紹介したい。材料は Stag-Huntゲームと呼ばれる有名なゲームである(図2参照)。 今猟師が二人いる。獲物はStagとHareの二種類。Stagとは英語の古語で牡鹿のことであり、 Hareとはうさぎのことである。うさぎを捕まえるのは容易で、猟師が一人で狩りに出ても うさぎならほぼ確実に仕留められる。鹿を仕留めるのは難しいが、猟師が二人で協力して 鹿を追い詰めれば、かなり高い確率で鹿を撃ち取ることができる。ところが猟師のうちの 一人でも協力をやめうさぎを追いかければ、もう一人の猟師は何も獲物を得ることができ ない。これはコーディネーションゲームの一種であり、(Stag、Stag)、(Hare、Hare) の二つのナッシュ均衡がある。どちらの均衡が選ばれる可能性が高いであろうか?(Stag、 Stag)がパレート支配的な均衡であるから、こちらが選ばれると多くの読者は思われるか もしれない。しかし、相手のことを信頼できないと感じている場合、Stagを選んで損失- 1を蒙るリスクを冒すより、Hareを選んで確実に1を得ることの方が安全と感じるであろ う。こうした均衡はリスク支配的と呼ばれる。 このゲームをより多くの参加者でプレイするゲームに拡充しよう。私のクラスでは、通 常6~8人でチームを作りプレーさせた。全部で10回ゲームをプレーするが、途中で後述 するようにルールを変更する。それぞれのラウンドで次のように利得を決める。 ① まず各自1~10の数字からいくら「貢献」したいか考え、数字を選ぶ。これをXとおく。 ② グループ内で最も低い「貢献」を選んだメンバーの数字をSとおく。 ③ 各自の利得πは、次の決定ルールで決まる。 π=S-(X-S)=2S-X 図3は、XとSの組み合わせで利得πがどのように変わるかまとめたものである。全員 10を選べば、π=10-(10-10)=10と利得は最大となる。他方、一人でも1を選べば、10 を選んだ人の利得はπ=1-(10-1)=-8と最低になる。この場合のベストレスポンスは、 同じく1を選ぶことである。このゲームを、最初の4ラウンドは、メンバー同士全くコミ ュニケーションを取らせずプレイさせる。次の3ラウンドは、メンバー同士自由にコミュ ニケーションを取らせてプレイさせる。最後の3ラウンドは、チームを統合し14~22人程 度の大人数でコミュニケーションを引き続き許してプレイさせる。図4は、2004年にある クラスで10チームに分かれて行ったゲーム結果である。ちなみに、一クラス70名程度いた が、実際の利得は数字の合計に比例した金額ではなく、最高得点者10名程度に賞品を配っ たので、実際には相対評価でありかつ上位成績者のみが利得を得ていた。絶対評価により かつ線形に利得が決まる場合と比べ結果が変わる可能性があることに注意が必要である。 最初の4回は「貢献」は少なくかつ減少傾向を示す。最初に痛手を被ったメンバーがより 慎重になったり、仲間に報復を行うせいであろう。コミュニケーションが許されるように なると、メンバーが「皆で10を選ぼうぜ」、「俺は10を入れるよ」といった会話を交わし 連携を呼びかける。これにより明らかに「貢献」は増すが、コミュニケーションの効果は グループのサイズが大きくなると低下する。 実験から得られる知見は二つある。まず、相手の非協力が自分の利得を大きく下げる場 合、コミュニケーションの存在が望ましいコーディネーションを行うためには必要である ということである。二つ目には、組織が大きくなるとコーディネーションは難しくなると いうことである。すべてのコーディネーションがこのような利得構造を持っている訳では ないので、一般化するには注意が必要であるが、いずれにせよコミュニケーションとコー ディネーションの関係を見る上で興味深い。 1.5 インセンティブ問題 これまで、環境変化に対する適応(adaptation)と組織内協働(coordination)という 二つのメカニズムを通じて、正しい情報を集め伝えることが組織のパフォーマンスを引き 上げるということを説明した。組織設計のもう一つの課題はいかに正しいインセンティブ を経営陣や従業員に与えられるかということである。これまでの適応と協働の議論は、株 主、経営者、従業員の間で利益の相反がないという仮定の下で行ってきた。つまり、正し い情報を伝える手段や仕組みがあれば、正しい意思決定とそれによる効率的な資源配分が なされるという議論である。しかしながら、実際には情報に非対称性がある場合、私的情 報を持つ者はそれを利用して私的利益を得ようとする。利益の相反関係があるため、情報 を隠したり、情報にバイアスをかけて伝えたりする動機が出てくる。構成員にインセンテ ィブを与え、正しい情報の共有と効率的な行動を促すことが組織のもう一つの課題である。 もちろん情報の非対称性が問題を引き起こすのは何も組織内だけではない。経済学を大学 で学んだ者であれば恐らく誰でも知っている中古車市場におけるレモンの問題は、市場の 問題である。しかしながら、情報の非対称性によって引き起こされる問題は、組織が生ま れ大規模化するにつれ、より深刻に広範囲になってくる。歴史的事例を使って説明しよう。 20世紀に入った頃のアメリカの自動車生産の現場は、今の自動車工場とは大きく異なっ ていた。自動車工は幅広い技能を持ち、一人で一つのコンポーネントあるいは数人で一台 の車の組み立てを行っていた。そのため工程間のコーディネーションはあまり問題にはな らなかった。自動車工の生産性は製造したコンポーネントの数や組み立てた車の台数で簡 単に計測することができたので、アウトプットや努力が観測できないことから生じるモラ ルハザードの問題はほとんど表面化しなかった。工員は、高い賃金を求めて自動車製造会 社の間を渡り歩き、優秀な職人は高い収入を得ることができた。ヘンリー・フォードが導 入した大量生産方式は状況を一変させる。1914年に始めて自動ベルトコンベヤーによる組 み立てラインを導入したが、その結果、それまで一人の工員が728時間かけていた自動車の 組み立てが、93分で終了するようになった。分業により生産性は大きく改善したが、それ は細かく分かれた工程間の相互依存性を生み出し、個々の工員のパフォーマンス評価を困 難にする。賃金支払いは歩合給あるいは能力に応じた日給から全員一律の日給へシフトし、 この変更はモラルハザードの一種であるただ乗り(free-riding)の問題を深刻化させた。 ただ乗り問題を解決するために、フォードは監督者を置き監視(モニタリング)させ、次 に当時日給2.5ドルが相場であったデトロイトで破格の日給5ドルをオファーする。フォー ドの工場には労働者が列をなし、離職や無断欠勤は劇的に低下した。日給の引き上げは失 職するコストを引き上げ、モニタリングの効果を高めることができる。分業によってもた らされた相互依存性は、同時にタスク間のコーディネーションの必要性を高めた。ベルト コンベヤーによる組み立てラインは、すべての工員が一定の速度で働くことが不可欠なの で、完全な同期化が求められる。誰かがサボって手を休めるとライン上のすべての人の生 産性に影響を与えるので、集権化と従業員の完全服従をフォードは求めるようになった。 こうして、モニタリングとコーディネーションを行う仕組みとして階層ができ、ヒエラル キーが構築された。チャップリンが映画『モダン・タイムス』で表現した世界は、機械の 様に完全服従を求められる工員達の人間性の否定に警鐘を鳴らしたものであったが、当時 としては分業によってもたらされた必然的な結果であったと言える。 【さらに読み進めたい読者のために】 青木昌彦、『日本経済の制度分析』筑摩書房、1992年。 Aoki, Masahiko.“Horizontal Vs. Vertical Information Structureof the Firm.”American Economic Review, 1986, 76(5), pp.971-83. Cooper, Russell, Douglas V. DeJong, Robert Forsythe, and Thomas W. Ross. “Communication in Coordination Games,”Quarterly Journal of Economics, 1992, 107, pp.739-773. Dessein, Wouter and Tano. Santos “Adaptive Organizations.”Journal of Political Economy, 2006, 114(5), pp.956-95. Halberstam, David. The Reckoning, 1986, William Morrow and Company, Inc. Milgrom,Poul and Roberts. Economics, Organization & Management,1992, Prentice-Hall,New Jersey.(ポール・ミルグロム、ジョン・ロバーツ、『組織の経済 学』NTT出版、1997年) 2 人的資本理論 2.1 はじめに:人的資本投資という概念 組織や人事制度を理解する上で最も重要なフレームワークが、Becker(1962)によって 理論化された人的資本投資の考え方である。この回では彼の基本的論点を中心に人的資本 理論を紹介すると同時に、研修、給与プロファイル、離職率、組織構造の間にどういう関 係が生じるか示唆を行いたい。 人々が学校へ進学したり、企業が従業員のために研修を行うことは、将来の生産性の向 上をもたらすという意味で、機械等の購入と似た側面を持つ。ただし実物資本と違って、 資源が職業選択の自由を持つ人間の中に蓄積されるために、資本からの収益を受け取るの が投資した主体例えば研修を行った企業とは限らない。能力の向上を通じて個人の将来の 生産性にプラスの影響を与えるすべての活動を人的資本投資と定義すると、多くの活動が この中に含められる。学校教育や企業研修以外にも、本を読んで知識を増やしたり、健康 のために運動したり、栄養価の高いものを食したりすることも人的資本投資である。 実物資本同様、投資収益が投資費用に達するまで投資を行うと考えると、進学に関する 人々の選択を最適な投資水準の選択の結果と捉えることができる。例えば、どうして大学 院に進学するのは、女性よりも男性の方が多いのであろうか? 女性は、結婚や育児のため に労働力から外れる期間が男性よりも長いために、大学院で学んだことを使って高収入を 得たり、より創造的な仕事をすることで満足を得る期間が短くなる。これを投資行動と捉 えると、(満足感など非金銭的な効用も含め)投資収益が投資費用を上回る人の数が女性 の方が少ないという見方ができる。また、大学関係者の間ではよく知られた経験則である が、不景気になると大学院への応募者数が増える。これは、条件の良い就業機会の減少や 所得の減少によって、学校へ行く機会費用(これも投資費用の一部)が減少するからだと 考えられる。 ただし、高等教育への進学によって将来の収入が増えるというのは、必ずしも知識や技 能の向上によるものだけではない。いわゆるSpence(1973)によってモデル化された教育 のシグナリング効果による部分もある。能力の高い人が、将来の潜在的な雇用主に対し能 力の低い人にとっては負担の大きい進学という行動を取ることによって、自分の能力の高 さを「シグナル」する訳である。雇用主は、進学を選んだ人の平均的能力は高いというこ とを知っているので、高い給料をオファーする。この効果は、人的資本の形成とは異なる が、個人の投資収益を高めるという点では、上記の人的資本投資と同じ効果を持つ。 2.2 一般的人的資本と企業特殊的人的資本 企業によって離職率や提供される研修機会に大きなバラつきがあるのはどうしてだろう うか?そのカギは、必要とされる人的資本のタイプにあると見られる。知識や技能がどの 会社でも使え、同様な仕事であれば勤務先にかかわらず一様に生産性を上げるものである 場合、それは一般的人的資本(general human capital)と呼ばれる。企業研修の中でも、 コンピューター研修や新しい一般機械の操作を教わる講習などは、一般的人的資本を身に つける研修なので、一般的研修と呼ばれる。他方、その企業でしか使えない知識や技能も ある。営業担当者はその企業の製品の特色、特性に精通していなければならないし、工場 の労働者はそこの企業でしか使われていない特注専門機械の操作に熟達している必要があ るかもしれない。こうした知識や技能は企業特殊的人的資本(firm-specific human capital)と呼ばれ、正式な研修制度の中で教えられることもあるが、実地で身につけるも のが多い。こうしたトレーニングの機会は、企業特殊的研修と呼ばれる。企業特殊的人的 資本には、取り引き先や社内人脈など特定の関係における取引にのみ効果を持つ関係特殊 的人的資本(relation-specific human capital)あるいは集団に内在した組織資本 (organizationalcapital)と呼ばれるものも含まれる。私は高校時代ラグビーをプレーし ていたが、長い間同じメンバーでプレーしていると、さまざまな展開でチーム全員がどう 対応すべきか体に叩き込まれるために、こういう局面ではあいつはここに来ているはずだ とかが自然とわかる。これは関係特殊的人的資本の一例である。企業内でも、こういう意 思決定をする際には、この人に事前に話を通しておかなくてはいけないとか、お客さんか らクレームが来た時には、このレベルまでは自分の判断で対応していいとか、さまざまな 行動規範が必要な技能として身についてくる。企業文化を理解したり、従業員同士で信頼 感を醸成することも、それが調整(コーディネーション)コストや監視(モニタリング) コストを下げることにより生産性を向上させるので、企業特殊的人的資本の蓄積と見なせ る。こうした人的資本は、ある個人が会社に留まっていても、周りの人間が変われば、彼 の生産性が変わるため、組織資本と呼ぶ方が適切かもしれない。 さらに、身につけた一つ一つの知識や技能が一般的なものであったとしても、その組み 合わせが企業特殊的だという場合も多い。例えば、あなたがコンピューター上で経済学を 学ぶソフトを開発したとする。経済学の知識もプログラミングの技術もそれ自体は一般的 技能である。ところが、経済学もプログラミングも同じ熟達度で使いこなすことを要求す る職業は他にないだろう。そうすると、どこへ転職しようとどちらかの技能はある程度は 宝の持ち腐れになってしまう。したがって、この場合、他社に転職することで、どうして も無駄になってしまう部分の技能は、事実上の企業特殊的人的資本である。 日米で賃金関数を推計すると、日本では在職年数の賃金に与える影響が米国よりも高い (例えばHashimoto and Raisian 1992 参照)。日本では企業特殊的人的資本の蓄積が米国 よりも高いからというのが一つの説明である(もう一つは、日本企業の多くが年功賃金制 度を実質的に採用しているからという説明であるが、この解説は次回以降に譲る)。それ が真実だとすると、理由はいくつか考えられる。一つは、各種サーベイで明らかにされた 事実として、日本企業の方が米国企業よりもさまざまな意思決定の実質的な権限が組織の より下の階層に与えられている、つまり権限移譲が進んでいるという傾向があげられる。 前回事例研究で紹介した米国レンタカー会社Enterpriseの例でもわかるように、権限移譲 が進み下位のマネージャーや平社員が他の職場と頻繁にコーディネーションを行う企業で は、企業特殊的人的資本の一部であるコーディネーション能力が形成される。権限移譲が 進んでいる分だけ、日本企業は企業特殊的人的資本の比率が高いと予想される。もう一つ の理由は、日本企業における職の区分は曖昧であるという点である。企業により、あるい はそのポジションに誰がつくのかによって、仕事の範囲が変わる傾向が強い。またジョブ・ ローテーションにより、広い技能を身につけさせる傾向がある。それに対し、米国では、 職の標準化が進み、同じ職能、同じレベルのポジションであれば、同一産業内で、職務内 容に日本ほど大きな違いが生まれない。最近、Osterman(2000)の研究で明らかになった ように、米国企業でもジョブ・ローテーションが浸透しつつあるようであるが、以前は優 秀な経営幹部候補生を除けば、技能の幅は日本企業よりも平均的には狭いと見られてきた。 前述の議論によれば、こうした日米の職のデザインを前提にすると、日本企業においては 職に必要な技能の組み合わせが企業特殊的になる可能性が高い一方、米国企業においては 標準化され専門化された職種が相対的に多いため、企業特殊的な技能の組み合わせは少な かったといえる。 2.3 誰がどのように研修費用を負担すべきか? さて人的資本を蓄積するための研修の費用を誰が負担すべきであろうか? 雇用主であ ろうか、従業員であろうか? この答えは、研修が一般的か企業特殊的か、あるいは労働市 場に摩擦が存在するかどうかに依存する。まず労働市場に摩擦はなく、情報の非対称性も ないケースを想定する。今単純化のため、従業員が雇用される期間を二期とし、一期目に 研修が行われると仮定する。研修が全くなければ、従業員の生産性は二期ともに300万円分 の生産物とする。研修のコストは、1人当たり80万円であるが、これにより二期目の生産 性が300万円から450万円に増加すると仮定する(表1参照)。単純化のため割引率はゼロ と仮定すると、80万円を投じて150万円生産性が向上するのであるから、この研修を実施す ることは効率的である。 この研修が一般的研修であるとしよう。研修を行った場合、従業員は他社へ行っても生 産性が450万円であるから賃金は450万円でなければならない。450万円未満であれば、従業 員はすべて他社に転職してしまうからである。すなわち、研修からの投資収益はすべて従 業員が受け取ることになる。企業が研修からのリターンを享受できないことから、企業は 一般的研修の費用80万円を負担することはない。この研修が実施されるためには、従業員 が費用を負担しなければいけない。従業員が自ら人的資本投資額の決定を行える場合、つ まり学校進学や外部の研修機会に自ら参加するケースでは、当然彼らが費用を負担する。 では、企業が研修への参加を従業員に命じる場合にはどうであろうか? 企業が研修機会の提供にある程度コミットメントできる場合には、従業員が研修期間中低 い給料を受け入れる形で費用を負担し研修は実施される。新米コックは技術を身につける ため安い給料でも三つ星レストランで働きたがるし、多くの医者が安い給料を覚悟で最先 端の治療法を学べ、多くの症例を見ることのできる大学病院での勤務を選ぶ。また高額の コミッション(歩合)を稼ぐトップセールスマンは(コミッションがなくなるため)収入 減になることがわかっていても営業部長に昇進することを選ぶかもしれない。人々が将来 の収入増につながるトレーニングの機会を受けるため、短期的に低い給与を受け入れるこ とは、多くの事例で明らかである。 実はBecker(1962)以前は、労働者は企業間を移動するため雇用主側に労働者をトレー ニングする誘因はなく、政府が企業研修に補助金を出すなどのインセンティブを与える必 要がある、と考える経済学者が多かった。Beckerの理論は、政府の介入がなくとも適切な 研修機会が提供され得ることを示した点で、その後の労働政策に大きな影響を与えた。し かしながら、従業員が流動性制約(借り入れに上限があること)のため低い給料を受け入 れられないとか、あるいは企業が研修機会の提供を従業員に保証できない場合など、従業 員が研修費用を負担することが困難な場合には、研修は実施されない。つまり、ベンチャ ー企業に「うちは数多くの研修を行って社員の技能を引き上げるから、最初は低い給料で も我慢してくれ」と言われても、誰も信用しないだろう。 次に、100%企業特殊的な研修を考える。研修により二期目の生産性が300万円から450万 円に増加してもそれが企業特殊的人的資本であれば、外部企業は300万円を超えて払わない。 ならば給料は300万円に設定され、企業が研修からの投資収益をすべて受け取ることができ るため、企業が研修費用を100%負担することが望ましいと一部読者は考えるかもしれない。 しかしながら、従業員が賃金以外の外生的な理由で辞める可能性がある場合には、この結 果は起こらない。生産性は450万円なのに給与が300万円ということは、従業員は辞めても 全く損をしないのに、企業にとっては離職は150万円の収益機会を失うことになる。この時、 従業員の交渉力は強く、企業側は賃上げを受け入れざるをえないであろう。ナッシュ交渉 解を仮定して、研修の投資収益150万円を雇用主と従業員で二分し75万円ずつ受け取るとす る(表1参照)。この場合、給与は375万円となる。この時、誰が研修費用を負担すべきだ ろうか? もし企業側が費用を全額負担するのであれば、利益が75万円であるのに対し、費 用は80万円なので研修は実施されない。つまり、流動性制約や研修機会提供へのコミット メントがないなど、従業員が研修費用を全く負担することができない場合、提供される研 修の量は過小となる。企業の研修機会の提供へのコミットメントが可能であれば、収益も 費用も企業と従業員で分担することが望ましい。交渉力が均等ならば、収益も費用も折半 することになる。 一般的研修と企業特殊的研修を比較すると、賃金プロファイルには図1、図2のような 違いが表れる。企業特殊的研修が行われる場合、研修が集中する若い頃は、従業員の賃金 は(研修費用差し引き後の)従業員の生産性を上回り、企業は損をする(つまり費用を負 担している)。この時、従業員の賃金は、研修がなければ受け取っていたであろう水準を 下回っているので、従業員もまた費用の一部を負担している。これに対し、主として研修 の収益が回収される後半には、従業員の生産性が賃金を上回るようになり、企業は儲かる ようになる。この時、雇用主も従業員も投資収益を享受しているので、雇用関係が維持さ れる。これに対し、一般的研修のみが行われる場合は、従業員のみが研修費用を負担し、 受け取る賃金が転職先で得られる賃金(外部オプション価値)と差がないので、わずかな 需要の減少、あるいは技術変化やビジネス環境の変化による外部就業機会の好転によって、 離職が起こる。 上で研修が一般的人的資本投資である時には従業員が費用を負担すると述べた。しかし 現実には、明らかに一般的技能習得のための研修であるにもかかわらず、雇用側が費用負 担しているケースも少なくない。たとえば、ビジネススクールのExecutive MBAプログラム (中堅管理職を対象にしたMBAプログラム)は、アメリカでも日本でもほとんどのビジネス スクールがオファーしているが、そこの受講生の大部分は企業派遣である。またパソコン が職場に急速に普及した90年代には、多くの企業が社員に対してパソコン研修を行った。 企業が社員に対して一般的研修の費用を負担するのは、実際の労働市場には多くの摩擦が あるため、研修によって社内における生産性が上がるほどには、外部オプション価値は増 加しないからと考えられる。では、摩擦にはどんなものがあるだろうか? 一つには、情報の非対称性がある。現在の雇用主は従業員の能力をわかっているが、外 部の潜在的な雇用主にはわからないと仮定しよう。その場合、能力の高い人も能力の低い 人も会社を辞めて他社に移れば、能力の違いが明らかになるまでは、似たような賃金を受 け取る。この結果、能力の低い人ほど社内での賃金に比べ外部オプション価値が相対的に 高くなり、辞める確率が能力の高い人より大きくなる。研修の効果が能力の高い人ほど大 きいとすれば、結果として、(平均的には能力の高い)辞めない社員の生産性の伸びほど には、外部オプション価値は研修によって伸びない。企業は、生産性の増分以下に賃金の 増加を抑えることができ、より多くの生み出された価値を搾取することができる。それは 一般的研修を施す誘因を作り出す。二つ目に効率的賃金(efficiencywage)がある。この 連載の第1回目の中で、モラルハザードの問題を解決するために、フォードが1910年代に 賃金を相場の日給2.5ドルから5ドルに引き上げたという話を紹介した。高賃金を支払うこ とで、怠けて失職するコストを増加させ働くインセンティブを高めることができるので、 経済学ではこれを効率的賃金と呼ぶ。効率的賃金を支払っている時には、研修の増加によ って生産性が高まっても、払っている賃金は市場賃金よりも高いため、生産性が増加して も賃金を増やす必要はない。したがって企業が研修の投資収益のほとんどを受け取ること ができる。そのため、それが一般的研修であっても企業が費用を負担することが可能とな る。 三つ目に、企業特殊的研修の水準が高い企業で、企業特殊的人的資本と一般的人的資本 の間に補完的関係がある場合である。つまり、企業特殊的技能と一般的技能の両方を獲得 すると生産性が飛躍的に上昇するが、片一方だけだとさほど生産性の増加にはならないケ ースである。たとえば、中間管理職をExecutive MBAプログラムに入学させる上記の例で、 蓄積した企業特殊的人的資本(特に関係特殊的人的資本)と最新の経営管理手法を組み合 わせて、マネージャーとしての管理能力を大幅に改善させるという利点があるのかもしれ ない。最新の経営管理手法は、企業特殊的人的資本があって初めて十分に活用できるとい うのであれば、研修を受けたマネージャーが他社に移るとMBAプログラム受講の効果が小さ くなる。その場合、生産性増加に比べ、彼らの給料の伸びを抑制したとしても彼らを失う ことはないであろう。 2.4 企業特性と人的資本投資の大きさ 上のようなメカニズムを理解することは、どういう研修を施したらよいか、どういう場 合に一般的研修を行うことが企業業績の向上につながるか、経営者や人事担当者が検討す る際の視点を与えてくれる。まず、大企業ほど多くの研修を行うのはどうしてか考えてい ただきたい。一つには、大企業ほど研修機会の提供にコミットメントできるので、必要な 研修が提供される可能性が高まる。つまり、これまで多くの研修を社員に施してきた企業 は実績も評判もあり、新入社員は多くの研修機会を予想して入社してくるので、従業員が 研修費用を払う給与プロファイルが確立されやすい。第二に、大企業ほど、コーディネー ション能力が重要となり、企業特殊的人的資本、特に関係特殊的人的資本の必要性が高い。 したがって、企業特殊的研修が多く施されると同時に、それと補完的な一般的技能の研修 も提供される。第三に、効率的賃金を導入している割合も高く、一般的研修が会社負担で 提供される可能性が高い。 また、人的資本の理論は、離職率の理論でもある。自社でもらう給料が転職して得られ る給料よりもはるかに高ければ誰も辞めたがらないだろう。そのため、離職率は、社内賃 金と外部オプション価値の差に反比例すると考えられる。したがって、図1、2に表され ているように、企業特殊的人的資本の水準が高ければ、離職率も低くなる。ただ因果関係 は一方向ではない。低い離職率が予想されれば、企業特殊的人的資本に対する投資も促進 される。つまり、人的資本が企業特殊的である企業ほど、例えば分権的な組織で水平的コ ーディネーションが重要視される企業ほど、効率的賃金や社内昇進制度など定着率を高め る効果がある人事制度が導入される。逆に、労働市場における摩擦が小さく流動的である ほど離職率が高くなるため、企業特殊的人的資本への投資が阻害され、企業特殊的人的資 本を必要とするような組織形態は採用されにくくなる。組織と市場の間には、こうした相 互作用があることを理解していただきたい。 2.5 事例研究新生銀行 経済セミナ―の読者の中に、新生銀行と聞いて長期信用銀行という名前がすぐに出てく る人は、どのぐらいいるだろうか? 80年代までは堅実な金融機関の一つと見られていたが、 1998年には経営破たんで国有化された。1999年には、米系投資ファンドのRipplewood社に 売却され、2000年に新生銀行として再スタートを切った。それに伴い、それまでの業務の 中核であった融資業務(金利収入に依存したビジネス)から投資銀行業務(証券化、不良 債権取引、M&Aなど手数料中心のビジネス)に比重を大きく移すと同時に、これまで経験の なかったリテール業務(個人向け預金その他の金融商品)にも参入した。同時に、企画や 人事における意思決定の分権化を進め、能力主義の下、多数の外国人やMBA保有者を含む多 様な経験者の中途採用を行った。こうした戦略の転換は成功を収め、Ripplewood社への売 却から4年後には株式公開にこぎつけている。 所有権の移転と戦略の転換は、人事面で以下の三つの変化を引き起こした。まず長期信 用銀行時代のジョブローテーションや企業内研修は姿を消した。銀行業務で必要な知識や 技能の多くは一般的人的資本であり、また専門的知識を持つ経験者を中心に中途採用を行 っていたため、社内研修の必要性は低いと判断されたと見られる。二つ目に、採用、昇進 など人事面での意思決定権は各部門部署に委譲され、分権化が進んだ。中途採用の増加、 職の専門化、企業内研修の減少により、人事機能を集中させるメリットが減ったためであ る。三つ目に、新たに採用した行員には、長期信用銀行時代からの古い行員とは異なる給 与体系が適用され、より能力に応じた報酬が支払われた。 なぜ統合された評価システムや給与体系を作らなかったのであろうか? 理由は二つあ ると考えられる。まず、年功的な要素を色濃く残した長信銀時代の給与システムを大幅に 変更することで、経験豊富な行員が辞めたり全体の士気が低下することが懸念された。二 つ目には、旧来から存在する部門と新規ビジネス部門で必要なインセンティブと人的資本 のタイプが異なることが考えられる。融資業務は、顧客との関係とモニタリングを重視し た長期的視点に立ったサービスの提供が必要であったため、短期的な業績で報酬を決める 成果主義は馴染まず、経験に応じて給与が増える職能給与制度が望ましかった。それに対 し、投資銀行業務は、スポット取引的な業務が多く評価も容易であったため、成果主義賃 金がインセンティブを高める最も自然な仕組みであった。また、前者においては、顧客の ビジネスの性格を熟知した法人担当者の役割が重要で、彼らの人的資本はかなり企業特殊 的、あるいはより正確には(顧客との)関係特殊的である。それに対し投資銀行業務やリ テール業務は、商品の専門知識や分析能力が重要で、彼らの人的資本はきわめて一般的で あった。 しかし継ぎ接ぎ的な人事システムおよび企業内研修の欠落は、一つの問題を露呈するこ とになる。給与体系が分かれ、人事面での交流が少ないことで、部門間の協力体制が構築 できなかった。たとえば、融資業務の法人担当者と投資銀行業務の商品開発者が協力すれ ば、より多くの顧客に対し素晴らしい金融商品を設計し売り込むことが可能であったのに、 両者で連携が図られなかった。また、企業文化の形成が進まず、コーディネーションの障 害となった。部門間の協力体制を構築するために、経営陣は企業理念とコアバリュー(す べての従業員が共有できる価値観)を上級マネージャーに作成させ、それと整合性のある 全社的な社員教育イニシアティブの立案に入った。また管理職の意識改革を図るため、企 業理念やコアバリューに基づいた行動が取れるか能力評価を行う360度評価を上級マネー ジャーに導入している。 新生銀行の事例から、いくつかの性格の異なるビジネスあるいは性格の全く異なる職種 を抱える企業に共通する問題が浮かび上がる。最適な報酬制度は、通常人的資本のタイプ (一般的か企業特殊的か)と評価のし易さ(任務はいくつあるか、客観的に計測できるか、 結果が表れるまでにどのくらい時間がかかるかなど)に依存する。ところがこの二つの軸 において全く異なる職種を抱えると、評価システムや給与システムの設計において、どの 程度基準をそろえるか、どの程度自由度の高いものにするか経営者はジレンマに陥る。望 ましい研修のやり方や量も異なるであろう。新生銀行のように二つのシステムを併存させ ると、評価や報酬の違いから妬みや反感などを生み出し、垣根を超えた協力、コーディネ ーションが難しくなる。多くの企業は、双方にとって望ましいシステムの部分部分を継ぎ 接ぎしたような、あるいは平均をとったようなハイブリッド型の人事システムを作り出す。 しかし、そうした人事システムも最適ではないので、非効率な結果が生じる。性格の異な るビジネスや職種を抱えることから得られるシナジーというプラスの効果が、ハイブリッ ド型人事システムによるマイナスの効果を下回るようになると、子会社化、あるいはアウ トソーシングという組織の変革を引き起こす一つの原因となるのであるが、こうした話は 企業の境界の問題として、後の回で再度取り上げたい。 【さらに読み進めたい読者のために】 Acemoglu,Daron,and Pischke,J orn-Steffen.“The Structure ofWages and Investment in General Training,”Journal ofPolitical Economy, 107(3), 1999, pp.539-572. Acemoglu,Daron, and Pischke, J orn-Steffen.“Beyond Becker:Training in Imperfect Labour Markets,”Economic Journal,109, 1999, pp.F112-F142. Becker, Gary. “Investment in Human Capital: A TheoreticalAnalysis,”Journal of Political Economy,70,1962,pp.9-49. Delong,Thomas,and Egawa,Masako.“Shinsei Bank:Developingan Integrated Firm,”Harvard Business School Case,2007. Hashimoto, Masanori and Raisian, John. “Employment Tenureand Earnings Profiles in Japan and the United States :Reply.”American Economic Review, Vol. 82, No.1.(Mar., 1992), pp. 346-354. Lazear,Edward.“Firm-Specific Human Capital:A Skill-WeightsApproach,”NBER Working Paper, No.9679,2003. Lazear, Edward P.Personnel Economics for Managers.1998.John Willey&Sons, Inc.New York.(邦訳:エドワードP.ラジアー『人事と組織の経済学』日本経済新聞社、1998年) Osterman,Paul.“Work Reorganization in an Era of Restructuring:Trends in Diffusion and Effects of Employee Welfare,”Industrial and Labor Relations Review, 53, 2000, pp.179-196. Spence,Michael.“Job Market Signaling,”Quarterly Journal ofEconomics, 87(3), 1973, pp.355-374. 3 契約を通じて企業組織を見る 3.1 はじめに:企業は契約集合の中枢 前号(5月号)では、企業の持つ技術や戦略によって、必要となる人的資本のタイプ(一 般的人的資本か企業特殊的人的資本か)が異なり、それが研修の量、給与プロファイル(給 与曲線)の形状、離職率と密接な関連を持つことを説明した。従業員の生産性が、もとも と持っている能力を含め人的資本と努力の2つによって決まるとすると、企業にとっての 人事面での問題としては、どうやって人的資本の高い(特に潜在的能力の高い)従業員を 雇うか(選抜採用の問題)、いかに人的資本を蓄積するか(人的資本投資の問題)、どの ように努力水準つまりやる気を高めるか(インセンティブの問題)の3点が重要となる。 これらの問題を考える上で重要な役割を果たすのは、雇用契約、評価制度、報酬制度、昇 進制度である。これからの数回の連載を通じて、これらの諸制度が企業の業績にどのよう な影響を与えるのか議論していきたい。 選抜やインセンティブの問題を考える上で有効な理論的フレームワークは、契約理論と そこで取り扱われるプリンシパル-エージェント問題である。まずは、雇用関係だけでなく、 企業を取り巻くすべての利害関係者の間の関係を契約理論のレンズで見ることを試みよう。 図1に見られるように、企業は「契約集合の中枢」(nexus of contracts)であると言わ れる。企業と従業員の関係を論じる時の「企業」とは一体何であろうか?それは法人格を 持ち、あたかも人であるかのように契約主体になれる組織を指すが、実際の意思決定は、 業務上の決定事項については経営陣に決定権があり、株主利益に大きな影響を及ぼす案件 については取締役会が権限を持ち、法的にはフォーマルな権限は所有者である株主にある と考えられる。上記三者の間には契約関係が存在し、株主利益を最大化するように要求さ れるが、情報の非対称性がある中で、必ずしも株主利益を最大化する行動が取られるとは 限らない。従業員は、自由意志で組織としての「企業」に参加し、その意思決定事項に雇 用契約の範囲内で従う義務を負うが、ここでもモラルハザードが生じる可能性が常にある。 それ以外に、企業は、債権者、サプライヤー、顧客、弁護士、会計事務所、などさまざま な相手と契約関係を持つ。これら利害関係者の交渉力は、産業構造や所有する資産、また 個別の取引機会を取り巻く環境により、大きく異なるが、現段階では所有権や交渉力が契 約で規定される行為に影響を与える状況は取捨して議論する(ただし、交渉により効率的 な合意に達することがわかっている場合、コースの定理により、所有権や交渉力は契約に よって規定される行為の内容には影響を与えない。詳しくは、Milgrom and Roberts 1992 を参照)。 契約理論は、個々の契約関係を強い交渉力を持ったプリンシパル(principal)と交渉力 のないエージェント(agent)の間の関係と見て、最適な契約の形と実行可能な活動の範囲 を明らかにする。プリンシパルは契約を設計し、交渉の余地のない形でそれを提案する (take-it-or-leave-it-offer)。つまりエージェントは、それをそのまま受け入れるか、 あるいは拒否して別な経済活動を行うかの二者択一を迫られる。契約関係のどちらをプリ ンシパルと見なすかは、誰の目的のために行為が選択されなければいけないかという法的 な根拠や、交渉力の強さによって決定される。例えば、企業と従業員の関係は、企業をプ リンシパル、従業員をエージェントとして、株主と経営陣の関係は、株主をプリンシパル、 経営陣をエージェントとして、分析が行われてきた。 3.2 エージェンシー・コスト プリンシパルとエージェントの間には、さまざまな利害の対立が生じうる。例えば、2007 年7月に光学ガラスメーカーHOYA に買収されたペンタックスの場合、内紛によって実権を 握った新経営陣がいったんは合意した対等合併を白紙撤回すると、大株主のヘッジファン ドなどが合併を支持し圧力をかけた。最終的には大株主の圧力が功を奏し、対等合併では なく買収による経営統合で決着するが、白紙撤回から再度統合合意まで50日以上の時間を 要した。 このケースでは、経営の実権を失いたくない経営陣が、二つの行為で株主利益を侵害し た可能性がある。まず業績好調のHOYA と単独では生き残れないと見られたペンタックスの 経営統合であるにもかかわらず、市場価値の実勢を前提にペンタックス株主に不利な交換 比率が予想される対等合併を旧経営陣が選んだことである。吸収合併の場合はHOYA の経営 陣が主導権を握り、ペンタックス経営陣は実権を失うため、自らの地位を確保するために 株主に不利益をもたらす意思決定を行った可能性がある。ただし、対等合併によりペンタ ックス社員の士気の維持と優秀な社員の離職を防げるという利点もあるので、一概に非効 率とは言えない。しかしながら、それに続く新経営陣が決めた対等合併を白紙撤回し自力 再建を目指すというのは、合併によってもたらされる株主や従業員双方の利益を無視した 行為と第三者の目には映る。この例で示唆されるように、プリンシパル(例では株主)の 利益に相反する行動をエージェント(同じく経営陣)が取る可能性をエージェンシー問題 と言い、それによる価値の喪失をエージェンシー・コストと呼ぶ。 エージェンシー・コストはすべての契約関係で発生しうる。なぜ生じるのであろうか? 主な理由は、情報の非対称性である。エージェントはその専門的知識あるいはある時間と 場所に限定的に生じる情報のゆえに選ばれ、権限や計画の実行を委譲されている。プリン シパルは、エージェントに委譲された職務の専門性、特殊性ゆえにエージェントの行為や 成果を完全にチェックすることはできない。エージェンシー・コストを最小化するには、 監視(モニタリング)を行うか、何らかの成果指標を使ったインセンティブ契約を導入す る必要がある。例えば、監督者を置いたり、チーム制を導入して相互監視させたり、サプ ライヤーや代理店のコスト情報を得るためメーカーが部品の一部社内生産や販売直営店の 経営を行うことはモニタリングの向上につながる。また、近年日本企業の間で導入が進ん だ業績連動型賞与や成果主義賃金はモラルハザードを抑制するためのインセンティブ契約 である。どちらの施策もモニタリングコストや成果指標の計測コストなど追加的なコスト がかかるが、これらのコストもエージェンシー・コストに含まれることに注意が必要であ る(Jensen and Meckling 1976)。 エージェンシー・コストを下げるための方法として、できるだけ利益の相反が生じない エージェントを採用するとか、利益の相反が生じないようにエージェントのアイデンティ ティーを形成する(効用関数つまり嗜好を変えると言ってもよい)ことも実際のビジネス では重要視されてきた(経済学では十分な注目を集めたとは言い難いが、アイデンティテ ィー形成に着目した分析としてAkerlof and Kranton 2005が挙げられる)。 例えば、研究開発スタッフを採用する際に、科学技術や社会への貢献に関心の高い学生 を積極的に採用する企業あるいは経営者は少なくない。それは、そうした人間が、研究開 発上生じるさまざまな問題に果敢にチャレンジし、常に最先端の科学技術動向に注意を払 っているため、貴重な発見をする可能性が高いからである。つまりモニタリングやインセ ンティブ契約を提示しなくとも、怠ける心配がない。 また、多くの優良企業では、社員の間で共有された行動規範(ノルム)が存在する。た とえば、トヨタ方式の本に目を通したり、トヨタの社員と話をすると、トヨタの生産現場 では、「まずはやってみる」、「改善は、事実に基づき、できるだけ生産現場で実行する」、 「相手の話をよく聞く」といったような基本的な行動様式を叩き込まれ、一人一人が目的 意識を持つようガイダンスを受けていることがわかる。こうした行動規範(ノルム)の共 有された企業では、ノルムから乖離することを恥ずかしいとか不快に思うようになる。結 果として、モニタリングやインセンティブ契約が与えられなくとも、企業にとって望まし い行動を社員が取るようになり、エージェンシー・コストが下がる。 どうすれば、企業の戦略に適合した望ましい人材を集められるかという点については、 次号以降に詳細に議論したい。 3.3 効率的な歩合報酬制度 プリンシパルである株主がエージェントである経営陣に対し、あるいはプリンシパルで ある「企業」がエージェントである従業員に対し、インセンティブ契約を提案すると想定 し、最適な契約を考えてみよう。報酬をwとし、エージェントによって生み出された企業利 益をx とする。簡素化するため、報酬は、固定給αと成果給βx からなり、 w= α+βx と表わされるとする。βはいわゆる歩合(commissionまたはpiece rate)であり、インセ ンティブの強さを表す。最適なβは何であろうか? より具体的なシチュエーションを想定していただこう。タクシー会社の運転手はどこの 国でも大抵歩合制である。ところが、アメリカと日本ではタクシー運転手の歩合の定め方 が異なる。アメリカでは多くの地域で、βは1である。つまり、タクシー運転手が稼いだ 利益は100%運転手の懐に入る。こう書くと、多くの読者は、ではタクシー会社はどうやっ て利益を出すのかと不思議に思うかもしれない。それは、αがマイナスとなるからである。 つまり、運転手は、タクシーの車両を借り出すためにある一定の金額を会社に払う。さら にガソリン代も自分で払い、残った利益を家に持ち帰る。つまりアメリカの雇われタクシ ー運転手は、実は個人事業主なのである。一方、タクシー会社は、運転手から集めた使用 料から、保険料、登録料、事務経費、車両のメンテナンス費用、広告費、資本コストなど を差し引いた金額を利益として計上する。他方、日本のタクシー会社では、x をガソリン 代を差し引く前の受け取ったタクシー料金とした場合、βは大体5割前後であり、経験に より4~6割といったレンジで差が出てくる。アメリカのように、ガソリン代を引いた後 の利益換算で言うと、βはより高くなるが、1よりははるかに小さく、αはゼロである(正 確には、社会保険料とかベネフィットを会社が支払っているから、αはプラスである)。 どちらがより望ましい報酬制度であろうか? まず、どちらが効率的努力水準を引き出すかと考えると間違いなくアメリカのタクシー 会社である。あと1時間働くと2000円の利益が期待できるが、早退もしくはサボって他の ことをする場合に得られる個人的価値、つまり機会費用は1500円だとする。この場合、「生 み出される価値-費用」がプラスなので、もう一時間働くことが効率的であり、アメリカ のタクシー運転手はこういう状況では働くことを選ぶ。ところが日本のタクシー運転手は、 あと1時間働いても2000円の半分の1000円しか懐に入らないので、早退もしくはサボりを 選ぶ(議論を簡単にするため、ここではガソリン代を無視する)。では、アメリカタクシ ー業界の報酬制度が望ましいと言えるだろうか? 必ずしもそうではない。多くの人は、ど ちらの会社で働きたいかと聞かれたら、日本のタクシー会社を選ぶであろう。なぜなら、 料金収入は、景気や天気や交通事情に左右されるため、予測がつかない。その場合、アメ リカのタクシー会社では、運転手の収入はかなり不安定となり下手すると赤字になりかね ないからである。 固定給から変動給へ移行すると、従業員は平均してより高い給料を要求する。期待収入 が同じであれば、人々はより安定した収入を得られる職を選ぶので、プレミアムを付けな ければ人が集まらない。従業員が変動給記号と固定給の違いに無関心である時()は 確率変数であることに注意)、つまり効用関数をu とおいた時、変動給の期待効用と、固 定給の効用が等しい時(つまりE[u()]=u())、 をの確実性等価(certainty equivalence)と呼び、CE()と表記することにしよう。変動給を提示した時に、企業が固 定給と比べ余計に支払わなければいけない給与の追加分をリスクプレミアムと呼ぶ。上で 定義した記号を使うと、の確実性等価との期待値の差、つまりCE()-E[]がリスク プレミアムである。 別の言い方をすれば、収入が安定しているならば、人々は多少給料が安くてもそれを受 け入れるため、固定給を払う企業はその分人件費を削減できる。これは、企業が個人に対 し、保険を提供していることに他ならない。個人事業主であれば負わなければいけないリ スクを、非雇用者になることで会社に転嫁できる。個人はその保険に対し、安い給料を受 け入れるという形で保険料を払っているのである。このような保険の機能が働くのは、個 人がリスク回避型であり、企業がリスク中立型であると考えられるからである。リスク中 立型の企業がすべてのリスクを背負って個人をリスクから守ってやることで、パレート改 善(Paretoimprovement)が生じる。したがって、モラルハザードの問題がなく、エージェ ンシー・コストが生じる危険性がなければ、従業員に固定給を払うことが効率的である。 それでは、モラルハザードの問題がある時、効率的な最適報酬制度はどのように決まっ てくるのであろうか? 雇用関係から生み出される経済的価値から企業従業員双方の外部 オプション価値(関係を絶った場合に他の機会から得られる利益で従業員の場合留保賃金 (reservation wage)と呼ばれる)を引いたものを準レント(quasi-rent)と呼ぶ。ここ では、企業の機会費用をゼロとおくと、「準レント=付加価値-従業員の努力コスト-留 保賃金」となり、企業と従業員は交渉によりこの準レントを分け合う。図2は、横軸に歩 合つまりインセンティブ契約の強度を取り、その歩合の下で期待される準レントとリスク プレミアムの変化を表したものである。インセンティブが高まるにつれ、努力水準が上る ので、生み出される付加価値も増大する。努力水準が効率的になるのは、準レントが最大 となるβ=1の時である。ところが、それと同時にリスクプレミアムも上昇するので、企 業の人件費はβの上昇に合わせ増加する。ここで、従業員には交渉力がなく、彼らの賃金 は留保賃金と努力コストとリスクプレミアムに限りなく近づけられるとすると、「準レン ト-リスクプレミアム」が企業利益となり、それを最大化するβを企業は選ぶであろう。 図2では、最適な歩合は0.4~0.5の間にある。別の言い方をすると、最適なインセンティ ブの強さは、インセンティブ効果と保険効果のトレードオフの関係が均衡するところで決 まってくるのである。 3.4 不確実性とインセンティブ強度 前節の理論は、不確実性と最適なインセンティブ契約の強さについても興味深い示唆を 与える。環境の不確実性が増した時に、最適なインセンティブ契約はどう変化するだろう か? 仮に、不確実性の増加が、努力と期待される付加価値の間の関係に影響を与えないと すると、図2の準レントの曲線は変わらない。一方、不確実性の増大が成果指標の変動を 高めるのであれば、同じβの下でのリスクプレミアムは増大するであろう。したがって、 図3のようにリスクプレミアムが上方にシフトする。図によると企業利益を最大化する最 適な歩合は低下する可能性が高い。つまり、リスクプレミアム上昇による人件費の膨張を 少しでも抑えるため、歩合を低下させようとするだろう。実際、不確実性を成果指標の分 散で測り、報酬制度が先ほどの例のようにw=α+βx と一次(線形)方程式で決まるとす ると、リスクプレミアムは「成果指標の分散×β2」にほぼ比例し、成果指標の分散を係数 に持つβの2次関数で近似できるので、上記のことが言える。 契約理論における上の議論を聞いても多くの読者はピンと来ないかもしれない。これま で多くの経済学者が、不確実性とインセンティブ強度の負の関係が確認できるか実証分析 を試みてきたが、実証面では必ずしも支持されないことがわかってきた(Prendergast 2002 を参照)。どうして、単純な契約理論から導かれた関係が、実際には成り立たないことが 多いのであろうか? それは不確実性の源泉はさまざまであり、「不確実性の増加が、努力 と期待される付加価値の間の関係に影響を与えない」という上の仮定が必ずしも成り立た ないからという見方が強い。つまり、図3において不確実性の増大はリスクプレミアムの みならず、準レントの曲線も上方にシフトさせうると考えられる。 例えば、エージェントの職務が正しいプロジェクトを選ぶということであり、不確実性 の増大は、潜在的プロジェクトの収益率格差の拡大を意味すると仮定しよう。具体的に、 例えば、新しい創薬手法を使ってどの病理分野の薬を開発するかターゲットを定める役目 を担った研究プロジェクトリーダーや、新しい店舗をどの地域に開くのが良いか選別を担 当する小売りチェーンの事業開発部長を想定していただきたい。医薬品開発の例では、創 薬手法の応用範囲が広いほど、医薬品市場が自由化されているほど、治療法の進歩が早い ほど、潜在的新薬の収益率格差が大きいと予想される。小売りチェーンの例においては、 店舗展開地域の経済格差や人口の変化が大きいほど、強力な競争相手がいるほど、新店舗 の収益率格差が予想されるであろう。このように選択したプロジェクトの収益率に関する 不確実性が高い時、これらエージェントの情報収集努力が付加価値に与える影響が高まる。 したがって、不確実性が高いほど、インセンティブを高めることの収益効果は高くなるは ずである。 もう一つ、不確実性の重要な効果を紹介しよう(Prendergast 2002で紹介された例を参 考にしている)。今、ある日本のプラント建設会社が二つのプロジェクトを抱えていると しよう。一つは、アルメニアに化学工場を建設するプロジェクトであり、もう一つは、茨 城県にやはり化学工場を建設するプロジェクトである。前者は、アルメニアの政治情勢の 不透明性や、資材調達に関するリスク、労働者の質への不安など、さまざまな不確実性を 抱えている。後者は、東京の本社に近く、国内プロジェクトをいくつもこなしてきた経験 があるから、経営陣は何の不安も感じないであろう。どちらのプロジェクトの責任者によ り強いインセンティブを与える必要が出てくるだろうか? 直感的に前者と答える人が多 いのではないだろうか? なぜか? まず、プロジェクトの責任者に与えられる権限が全く 異なってくる。アルメニア現地の事情など東京の本社では推し量ることができないから、 多くの意思決定は現地でなされなければならない。それに対し、茨城のプロジェクトでは、 本社が十分な情報に基づいて多くの意思決定を行うことができる。アルメニアでのプロジ ェクトにおいてより多くの権限が委譲されるのであれば、正しい意思決定をしてもらうた めに情報収集や現地政府や下請けとの折衝など責任者には一所懸命努力してもらう必要が ある。この場合のインセンティブ契約をより強くすることは自然である。また、インセン ティブ契約とモニタリング(監視)が代替物だとすると、茨城のプロジェクトでは進捗状 況を本社がつぶさにチェックできる一方、アルメニアのプロジェクトではモニタリングは ほぼ不可能であるから、この点でもやはりインセンティブ契約に頼る度合いは、アルメニ アのプロジェクトの方が高くなるべきである(ただし、それは不確実性というよりも距離 的な要因によるものであるが)。この化学工場建設のケースでも、不確実性が高いほど、 権限委譲が行われるため、インセンティブを強める必要性が高くなる。 したがって、多くの産業、職種で、最も単純な契約理論から導かれる負の関係と、上記 の複数のケースで見られるような正の関係が相殺し合うために、データを使った実証分析 においては、相関の符号がデータによって逆に出てきたり、相関そのものが有意には検出 されなくなる。 企業において、明示的に、あるいは暗黙の合意という形で、さまざまな契約が結ばれる。 最適な契約は、起こりうるすべての結果(コンティンジェンシー)、権限の範囲、エージ ェントのリスク回避度、成果指標のプリンシパルの目的に対する適合度などに依存する。 契約が意図された結果を生まない失敗事例の多くは、成果指標とプリンシパルの目的のズ レが設計段階で認識されなかった場合や、契約当事者にコミットメントが欠落している場 合などがある。次回は、契約を設計する際に注意しなければならないさまざまな問題を議 論したい。 【さらに読み進めたい読者のために】 Akerlof, George and Kranton, Rachel. “Identity and the Economicsof Organizations,” Journal of Economic Perspectives,Vol.19, No.1, 2005, pp.9-32. Arrow, Kenneth. “The Economics of Agency,”In Pratt and Zeckhauser (eds.), Principals and Agents: The Structureof Business. Boston MA: Harvard Business School Press.ch.2, pp.37-51. Jensen, Michael and William Meckling. “Theory of the firm:Managerial behavior,agency costs and ownership structure,”Journal of Financial Economics, 3(4), 1976,pp.305-360. Milgrom,PaulandJohnRoberts.Economics,Organization&Management,1992,Prentice-Hall, New Jersey.(ポール・ミルグロム、ジョン・ロバーツ、『組織の経済学』NTT出版、1997 年) Prendergast,Canice.“The Tenuous Trade-off Between Risk andIncentives,”Journal of Political Econo ,110(5),2002,pp.1071-1102 伊藤秀史・小佐野広(編)、『インセンティブ設計の経済学――契約理論の応用分析』勁 草書房、2003年 4 インセンティブ設計の落とし穴 4.1 はじめに:成果主義は虚妄か? 90年代に成果主義を導入した多くの日本企業において、報酬制度改革が期待された効果 を生まなかったために、成果主義という考え方そのものが多くの識者によって批判されて いる。実は成果主義が意図された結果を生まない失敗事例の多くは、そもそも適切な成果 指標が存在しえないところに成果主義を導入したり、成果指標と企業目標のズレが設計段 階で認識されなかったり、契約当事者にコミットメントが欠落していたりといった問題点 が指摘できる場合がほとんどである。また次号で詳述するが、職能主義と呼ばれる日本的 年功制度は暗黙的契約と捉えられるが、暗黙的契約の破棄による一時的モチベーションの 低下が、成果主義報酬の弊害と受け止められているふしがある。 現実には、日本的年功制度も成果主義報酬制度も万能ではなく、各企業のビジネスモデ ルや労使関係の経緯や現在雇用する従業員の特性に応じて自社にあった報酬制度を自社に 適した形で導入すれば良い。成果主義か年功制かといった二者択一的な議論は、問題を浮 き彫りにする上では意味があっても、実務家にとっては危険である。本稿は、経済学の概 念を用い、成果や業績に基づく報酬制度を設計する際に注意しなければならないさまざま な問題を議論したい。 先月号と同様に、業績連動型報酬制度を簡単化のためw=α+βx と一次式の形で表そう。 wが報酬、αが固定給、βが歩合、x が成果指標である。こうした成果主義賃金の歴史は長 い。紀元前20世紀のバビロニアでは、王が商人の間のエージェント契約を定め、プリンシ パルの投下資本の二倍をプリンシパルがまず受け取り、それを超える利潤をプリンシパル とエージェントが折半すると定めた。また同じく紀元前7世紀のバビロニアでは、織工た ちは、織った布の分量に応じて食物を支払われていたことが知られている。問屋制家内工 業の下での契約は基本的に歩合制であったし、産業革命後も多くの工場で歩合制が存続し た。現代でも、タクシー運転手、自動車セールスマン、裁縫工など成果主義賃金が一般的 な職業がある。コンピューターとさまざまな経営管理アプリケーションの普及により、従 業員の生産性の計測が以前よりも容易になったため、成果主義賃金はさまざまな分野で広 がりつつある。ただし、業務の内容が複雑になるにつれ、成果指標x をどのように選択あ るいは設計すべきかという問題が重要となってきた。 4.2 評価制度設計はなぜ難しいか? そもそも仕事における成果(output, performance)x が客観的に計測できる職種は極め て少ない。多くの職種において、複数の任務(task)を遂行することを要求されるし、さ らにそれぞれの任務について量、質、スピードなどのいくつかの評価の次元が存在する。 また任務や評価の次元に応じて、評価のしやすさが大きく異なる場合が通常である。たと えば、大学教授という職業を見てみよう。彼らの仕事は、大きく分けて、研究、教育、大 学行政という3つの任務からなる。日本の教員の場合、国際的学術誌への投稿を常に目指 す人、国内学術誌や大学紀要にしか論文を書かない人、本の執筆に力を入れている人など さまざまなので、統一された評価基準を作るのはかなり難しいであろう。また学術誌の中 でもランクに違いがあるし、個々の論文の持つインパクトも大きく異なる。それらを共通 の評価尺度に置き換えるのはかなり至難である。教育については近年普及が進んでいる学 生による授業評価という仕組みがあるが、「人気=授業の効果」とは限らないので、必ず しも万能ではない。大学行政に至っては、学科長、学部長などの役職や務めている委員会 の数などはわかっても、その仕事の質は評価しにくい。ただし、研究業績や授業評価など 客観的な評価基準があるだけ、まだ多くの職種に比べればましであると言えよう。成果計 測上の問題から、経済学においても、これまで成果主義賃金(pay for performance, performance-based pay)の実証研究で研究対象となってきたものは、果実採取アルバイト、 植林従事者、フロントガラス取付工、自動車セールスマン、裁縫工、経営者など、比較的 成果が計測しやすい職種に限定されてきた。任務と評価の次元が複数あることから、効率 的な行為や努力水準を導き出すことができないという問題をマルチタスキング・エージェ ンシー問題と呼ぶが、後で詳細に論じる。 評価を難しくするもう一つの要素がチーム生産/作業である。多くの職業において、仕 事は個人ではなく集団で行う。そのため、唯一の客観的成果指標が、属する集団の生産性・ 収益指標であったりする。たとえば、流れ作業で働く組み立て工の生産性はライン全体の 生産性指標でしか測れないし、消防隊員の成果は、現場到着までの時間、鎮火に要した時 間、救助した人の数など、その消防署全体の成果指標でしか客観的には測りえない。この 場合、客観的指標のみを使うのであれば、集団を構成する人員すべてが同じ評価を得るた め、自分だけ手を抜いて楽をしようというただ乗り(free-riding)の問題が生じやすい。 客観的な評価を行う上での3つ目の問題は、ある選択や行為を行ってから実際に企業業 績に影響を与えるまで、長い時間がかかる可能性である。たとえば、経営者が行う事業選 択上の意思決定が正しいかどうかは、10年経って初めてわかるかもしれない。社長の任期 が残り3年であれば、仮に企業収益と連動した報酬体系になっていたとしても、彼の意思 決定は長期的利益ではなく投資家にわかりやすい短期志向の強い意思決定となり得る。評 価に時間がかかるもう一つの例として、研究開発が挙げられる。研究者による発明もその 経済的価値がある程度確定するまで10年、20年かかることは稀ではない。たとえば、2002 年にノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏の場合、授賞理由となった「生体 高分子の同定および構造解析のための脱離イオン化法」の発明は1985年であるが、その技 術を商業化したMALDI-TOF 質量分析計第1号はほとんど売れず、改良後継機種が売れて会 社の利益に貢献し始めるのは、90年代半ばを過ぎてからである。田中氏の最初の発明から その後の関連特許やノーベル賞受賞の効果も含め、企業利益への貢献がある程度評価でき るようになるまで、20年はかかったと見てよい。それでは、研究開発者に対する評価制度 をどう設計すれば良いのであろうか? 上記のように個人の成果を測る客観的指標が多くの職種で入手可能でないとすれば、一 つの可能性は上司による人事考課といった主観的な指標を作成することである。日本で成 果主義と呼ばれる報酬制度の多くが、目標管理制度の下での評価に基づいており、なぜか 多くの人事管理の専門家がこの評価制度を客観的と呼んでいる。しかし目標の設定は極め て恣意的であるし、目標が達成されたかどうかもある程度主観に頼らなければならないし、 そもそも従業員間で成果の比較が簡単にできないものが客観的である訳がない。これらは、 すべて(少なくとも経済学では)主観的評価と呼ばれる。しかしながら主観的な評価シス テムは多くのバイアスを受ける危険性がある上、報酬とリンクさせることでさらにバイア スが拡大する傾向が強まる。 4.3 主観的評価制度の弊害 主観的評価の第一の問題が、中心化傾向と評価インフレである。評価者にも適切なイン センティブが与えられていなければ、正しい評価をするとは限らない。正しい評価をする ためには、成果を測る材料となる一つ一つの出来事の記録を残し、評価される者に対し納 得のいく形で説明がなされなければいけない。正しい評価をする努力自体、評価者にとっ てはコストなのである。また、悪い評価を部下に与えることは、部下との人間関係が悪く なったり、短期的には部下のモチベーションを下げることにもなり、上司にとり好ましく ない事態を生み出す。したがって悪い評価をつけることも上司に対し心理的コストを負荷 する。一方、卓越した成果を示した者に、突出した評価を与えることも、上司にとって好 ましくない事態を生じさせ得る。高い評価を与えることは、他部署からの引き抜きにあう 可能性を広げ、また将来の幹部候補生として経験を積ませるため広範囲のジョブローテー ションに組み入れられる可能性が高まる。つまり高い評価は優秀な部下を失う可能性を高 めるわけである。したがって正しい評価をするインセンティブが与えられなければ、上司 にとって、一番楽な評価方針は、正しい評価を行う努力を払わずできるだけ皆に同じ評価 を与えることである。これが評価の「中心化傾向」である。たとえば、A、B、C、D、 Eという5段階評価を作ったとすると、ほとんどの企業で9割程度の社員がBかCに分類 されることになろう。一方、高い評価が転出を招く心配があまりなければ、評価者はより 安心してA評価をつけることができるようになる。また評価制度発足当初は、平凡な達成 度がCだと思っていた上司が、分布の平均値がBであることを知ると、次の年からは平均 的な成果を残した者に積極的にB評価をつけるようになる。これがさらに分布を押し上げ るが、これが「評価インフレ」である。 中心化傾向や評価インフレを避ける一つの方法は、絶対評価を避け、相対評価に基づき、 あらかじめ決まった分布に従い、評価を振り分けるやり方である。たとえば、Aは10%、 Bは30%、Cは40%、Dは15%、Eは5%というぐあいに割当枠を決めるやり方である。 これも多くの場合、弊害があるだけで、実際には機能しないケースが多い。まず、相対評 価は、従業員の間の協力関係を弱める可能性がある。同僚の足を引っ張ることで自分の評 価を高められるからである。特に短期的な相対評価によって報酬が決まる場合には、その 傾向が強まる。また、強制的な分布の割り当ては、人為的な割り当てルールを作り出す可 能性が高い。米国薬品会社のMerckが1980年代にこうした相対評価制度を導入した時には、 職場内の比較的優秀な社員達に最上位評価を順繰りに与える慣習が見られるようになった。 また、成果主義を他社に先駆けて90年代に導入した富士通では、実力よりも部門間の力関 係や年功によって評価の割り当てが行われたと伝えられている。 主観的な評価制度のもう一つの問題は、評価される者が評価する者におもねる、つまり 贈り物を渡したり、イエスマンになる傾向を作り出すということである。客観的な評価尺 度が十分でない以上、人間の性向として、自分と同じ考えを持つ者に対する評価は、異な る考えを持つ者に対するそれに比べ、必然的に甘くなる。その場合、評価者である上司の 意見に対し真っ向から反対することは難しくなる。そのために、十分な情報が組織内を伝 わらなくなり、意思決定の精度が低下するという弊害をもたらす。 主観的な評価制度の持つ上記のさまざまな問題を克服するため、近年360度評価という制 度が脚光を浴びている。上司だけでなく、自己、同僚、部下(場合によっては、取引先や 顧客も含める)にも評価してもらうことで、多面的な評価を行い、さまざまなバイアスを 減らそうという試みである。ただし、この新制度も問題がないわけではない。まず、より 多くの評価者が評価を行うことで、評価コスト(評価の記入に要する時間や記入された情 報を処理するコスト)や評価者をトレーニングするコストは格段に高まる。第二に、お互 いに評価し合うということは、お互いに良い点数をつけ合う談合が生じる危険性がある。 もちろん360度評価は通常匿名であるが、小さな職場では相手が誰だかわかってしまうであ ろう。第三に、「出る杭は打たれる」傾向が強まり、周りに迎合する風潮が生じる危険性 がないとは言えない。 結局、どんなに優れた評価シートを作っても、評価する側に正しく評価を行うインセン ティブがなければ、主観的な評価をもとにした評価制度は上手くいかない。どうすれば、 正しく評価するインセンティブを与えることができるだろうか?経営の現場では切実な問 題であるが、経済学や経営学分野で有効な処方箋が出ているとは言い難い。現時点で実務 家にアドバイスを求められたならば、私は次の3つを提案する。まず、報酬を主観的評価 に直接リンクさせることはできるだけ避けた方が良い。主観的評価制度を、部下の人材開 発のため、つまり教育的フィードバックを与えるツールとして使う場合には、上司と部下 の間で率直なコミュニケーションが交わされる、と多くの実務家が感じている。第二に、 どうしても主観的評価に基づく報酬制度を導入する必要がある時は、客観的な収益指標を 持つ業務ユニットの長(例えば部門長や部長)にのみ評価する権限と責任を与える。この 時、ユニット長の業績はそのユニットの収益そのものであり、人件費の増大やモチベーシ ョンの低下はユニットの収益を悪化させるので、ユニット長は自分の直接の部下を正しく 評価するインセンティブを持つ。3つ目の対応策は、正しく評価することの大切さを認識 したプロフェッショナリズムの確立である。経営者のような経営マインドを持つ従業員が 多ければ主観的評価制度でも上手く機能する可能性がある。ただし、正しい評価を内発的 動機に頼ることは、同質的な専門家集団の場合のみ機能し得るかもしれない。アメリカの 大学における昇進、テニュア(終身在職権)の付与、研究資金の獲得等はすべてピアレビ ュー(他大学研究者による評価)によって決まるが、正しい評価をするモチベーションは、 正しく評価することが学問の発展につながるという高い倫理観から生じている。 4.4 マルチタスキング・エージェンシー問題 任務(あるいは評価の次元)が複数あることから生じるモラルハザードの問題を、マル チタスキング・エージェンシー問題(multi-taskingagency problem)と呼ぶ。状況として、 複数の任務がエージェントの時間や注意力を排他的に要求する場合を想定していただきた い。つまり任務Aにより多くの時間や注意を割くと、任務Bへ配分する時間や注意の限界 コストが上昇し後者への配分を減らさざるを得なくなると仮定しよう。またパーフォーマ ンスの評価コストは、二つの任務の間で大きく異なると仮定する。 上記複数の任務を複数の評価の次元と読み替えてもよい。たとえば、生産性(量)と質 という二つの評価次元を考えてみよう。通常、生産性の測定、たとえば製品を何個生産し たか数えることは、その製品の質を測るよりはるかに容易であろう。仮に質の計測コスト が高いもしくは大幅な計測誤差をもたらすならば、成果主義賃金は、必然的に量に依存す るウエイトが高くなる。そうなると、従業員は生産量を増やすことのみに関心を払い、質 を高める努力を怠るであろう。たとえば、食料品店の店長の給料を店の短期利益のみに連 動させると、コストを下げるため食材の使いまわしや賞味期限の張替など不正を誘発する かも知れない。それは商品の質ひいては店の評判という業績次元への貢献の評価が難しい からである。 その他の例をご紹介しよう。営業職の職務には、売るという任務(販売)と顧客のニー ズに関する情報を集めるという任務(マーケティング)の二つがあるとしよう。顧客のニ ーズに関する情報は商品開発部門に伝えられ、将来発売される商品の価値を高める。この 時、営業職の社員に販売額に応じた歩合制を導入すると、間違いなく営業マンは販売努力 を高めるがマーケティングに費やされる時間は逆に少なくなるであろう。マーケティング 努力は販売結果には短期的には直接結び付かないことから、ただ乗りの問題(他の営業マ ンが集めてくれるだろうという他人任せの行動)が生じる可能性が高い。マーケティング 努力の計測は容易ではないから、結果的にこの会社の商品開発部門には、十分な情報が集 まらなくなる。 次に、企業の中核的ビジネスを担当する管理職を想定していただこう。彼には、新規事 業の開拓を行っている部署と協力したり、若手社員の教育を行うという3つの任務がある とする。しかしながら後者2つの任務における努力を計測することは難しい。てっとり早 い成果主義報酬制度は、彼の給与と彼の統括する部署の利益をリンクさせたものであろう。 すると、彼は、新規事業開拓へ協力したり(場合によっては、新規事業は彼のビジネスの 顧客を奪うかもしれない)、若手社員を教育する(彼らを教育しても、部署の利益に貢献 するまで時間がかかるし、教育の効果が表れる頃には他の部署に異動するかもしれない) ことを怠り、自己のビジネスユニットの利益を増やす活動にのみ専念するようになろう。 こうしたマルチタスキング・エージェンシー問題を避ける方法はいくつかある。まず第 一に、すべての任務における成果を統合できる客観的指標が作れない限り、時間や努力の 配分が非効率にならないよう、報酬が成果指標に依存する度合、つまり与えられるインセ ンティブの強さを低く設定した方が良い。場合によっては、いくつかの客観的評価指標が 存在したとしても業績連動ではない固定給を払うことが望ましい場合も多くなる。たとえ ば、大学教授の給料を研究業績と授業評価だけに連動するとどうなるか? 恐らく誰も大学 行政の仕事をやりたがらなくなるであろう。学部長などの役職や委員会参加に対する手当 てを払えば問題はなくなるだろうか? その場合、研究業績も授業評価も低い教授だけが行 政職に就くようになり、大学経営の質が下がることは間違いない。 第二の対応策は、評価のやさしい任務同士をまとめて一つの職種を作り、評価の難しい 任務を集めて異なる職種を作るよう、職のデザインを工夫することである。前者に対して は成果主義で対応し、後者に対しては従来の職能主義的な賃金で対応することが可能とな る。5月号で紹介した新生銀行を始め、多くの日本の金融機関で、すでに、商品設計、ア ナリスト、金融アドバイザーなど評価の比較的容易な職種については業績に基づく年俸制 を導入し、融資、審査、管理業務など評価の難しい職種については、職能主義的な賃金で 対応する二本立ての報酬制度が浸透しつつあるようである。 4.5 事例研究:RKO Warner Video 以下に紹介する事例は、ハーバード・ビジネススクール・ケースに記載された事実の一 部要約である。RKO Warner Video社は、1979年に設立され、主としてニューヨーク市で店 舗展開したレンタルビデオチェーン店である。その後、90年代に全国展開するBlockbuster 社に買収された。RKO社は、80年代後半その店舗展開密度の高さからニューヨーク市で圧倒 的に優位なポジションを確立していたが、次の二つの問題を抱えていた。一つは、店のマ ネージャーの離職率が高いこと、もう一つは、店舗運営がマニュアル通りになされていな いというコンプライアンス上の問題であった。たとえば、営業時間どおりに開店するとか、 返却されたビデオを素早く棚に戻すとか、品切れになった商品を倉庫へ注文するとか、店 舗を綺麗に掃除するといった基本的な営業点検項目が守られていなかった。これらの問題 を解決し、優秀なマネージャーの定着を図るため、店舗マネージャー(店長、店長補佐、 フロア責任者)に対するインセンティブプランを1988年の第3四半期から導入した。その 骨子は、(1)各店舗ごと、レンタル収入、ビデオ販売収入の両方に目標が設定され、両方の 目標の95%が達成された時点で店の規模や営業形態に応じたボーナスを支給、(2)目標を上 回った分あるいは95%超だが下回った分については、収入に比例する形でボーナス額を加 減する、(3)店の収入が増えれば増えるほどボーナスが増え、上限は設定しない、というも のであった。店舗マネージャーの反応は概ね良好で、導入後最初の四半期において、17店 舗中12の店舗において、ボーナスが支給された。 続く第4四半期には、ボーナスが支給されたすべての店舗で目標額が引き上げられた。 多くの店舗で、第3四半期に目標を超えたパーセンテージ分だけ第4四半期の目標が引き 上げられた。第3四半期の目標が低すぎた、レンタル価格が11月に引き上げられる、クリ スマスという季節要因で収入増が期待される、という3つの理由が提示されたが、これも 四半期半ばで当初予想よりも需要が弱いとの理由でレンタル収入目標は若干引き下げられ た。最終的には、21店舗中11店舗でボーナスが支給されたが、店舗マネージャーたちの満 足度は大きく低下した。 この事例が示すように、一般に、目標数値を定めることは難しい。目標が低すぎると、 人件費が嵩む割には生産性押し上げ効果が出ないし、目標が高過ぎてもやる気を削いでし まう。モチベーションを上げ社員の満足度を上げつつ、できるだけ利益があがるような水 準が企業にとっては都合が良いのであるが、従業員の能力や事業環境についての十分な情 報を経営陣が持っていない場合、過去の数字に基づいて目標を決めるしかない。それが時 には低すぎたり高すぎたりするわけであるが、過去のパーフォーマンスを基準に目標を設 定していると、どういう事態が生じるだろうか? 従業員がそれに気づくと、もはや成果主 義のインセンティブ効果はなくなる。従業員は、経営陣の定める目標値を操作しようとす るであろう。こうした活動はゲーミング(gaming)と呼ばれる。従業 員が簡単に目標を達成できる場合、目標を大きく超えて翌期に目標の引き上げを招かない よう、いったん目標を達成したら後は目標を大きく超えないよう怠けるにかぎる。上記RKO 社の場合、いったん目標を達成した店舗マネージャー達は、人気のあるビデオを追加注文 しない、返却されたビデオテープを長期間棚に戻さないなどのサボタージュを行うように なるだろう。他方、目標が高すぎると判断した従業員は、業績が伸びないように工夫し、 実績が目標を大幅に下回ることで、次の期に目標額そのものが引き下げられるよう成績を 操作しようとするであろう。このような結果は、事後的に効率的な行動、つまり新たな情 報を加味して効率的な目標を設定しようという企業の行動が、事前的にはそれを予想した 従業員のゲーミング活動によって非効率な結果を生み出すという現象である。 この問題を解決するためには、まず必要がなければ、実績が目標を超えると非連続的に 報酬がジャンプするボーナス型のインセンティブ契約は使わないということである。客観 的指標があれば歩合制の方がゲーミングのリスクは低下する。目標の設定が有利となるの は、従業員間のコーディネーションが必要な場合(つまり目標に向けて補完的行動を取る ことで相乗効果が期待できる場合)や、最適な目標数値設定のための十分な情報を経営陣 がすでに持っている場合である。二つ目に重要なことは、技術や事業環境に変化がない限 り、恣意的に目標を変更しないということである。実際、成果主義の成功事例として世界 的に有名な溶接機械メーカー、Lincoln Electric社は、100年近く前から工場従業員に対し 歩合制を導入しているが、彼らは、技術や生産プロセスに変更が加えられる時以外は決し て歩合を変えない。こうした経営陣のコミットメントが約一世紀にわたる高い生産性の維 持を可能にした。 上の事例は、日本でも普及している目標管理制度にも一つの示唆を与える。目標管理制 度の下での評価制度の問題は、やはりゲーミング活動である。目標管理制度のもとでは、 通常目標は上司と部下の間の話し合いによって決まる。この時双方が持つすべての情報を テーブルの上に出して議論すれば、その情報の下、最適な目標が設定される可能性が高い。 しかしながら、部下の側では、すべての情報を出して目標を設定するよりも、将来成果を 押し上げると予想される要因は隠し、できるだけ低い目標設定を行った方が得である。実 際、目標管理制度を導入した企業やノルマを与えられて働く営業職の間で「隠し玉」とい う隠語がある。来期売上が見込める顧客の存在を上司に報告せず隠しておく。そして低い 目標の下でスタートして、あたかも苦労して獲得した案件であるかのように翌期に注文を 取ってきて目標をクリアするわけである。また目標をクリアすると残りの案件を次の「隠 し玉」として来期に回す。 また多くの企業間取引の営業の現場では、注文は四半期末に集中する。一つの理由は、 実績が目標やノルマを大幅に超過することを避けるためである。つまり、期中に予想外の 注文が入っていることがあるため、タイミングを調整できる案件は、実績と目標を見比べ ながら、できるだけ期末に成約させた方が「安全」なのである。しかしながら、期末に注 文が集中することは、企業の生産計画に不透明要因を加えることになるので、適切なリソ ースの配分やIR (Investor Relations)の観点からは望ましくない。目標やノルマを定め る以外に、より良いモチベーション向上の方法を考案すべきであろう。 4.6 内発的動機と外発的動機 成果主義報酬制度を設計する上で注意しなければいけないもう一つの要因は、従業員の 持つ内発的動機の強さやその誘導する方向を見極めた上で設計する必要があるということ である。社会心理学者であるAmabile(1996)は、金銭的報酬といった外発的動機が、内発 的動機を補完することもあれば、クラウドアウト(代替)する(crowdoutつまり後者の効 果を弱める)こともあるという議論を展開している。どういった場合、外発的動機が、内 発的動機をクラウドアウトするのであろうか? 今、リスクは高いが成功すれば多くの応用技術を生み出す探索的プロジェクトと、これ までの技術の延長線上にあって成功の確率は高いが予想される利益も限定的な改良型プロ ジェクトの二種類があり、研究開発者はそのどちらかを選ばなければいけないとする。次 に彼らは、プロジェクトを選択した後にどのくらい成功に向けて努力したら良いか意思決 定する。研究開発者にはいろんなタイプがおり、科学への貢献、チャレンジングな課題へ の挑戦から大きな満足感を得る人(つまり内発的動機の強い人)から、そういったことに は興味を持たない人(内発的動機の弱い人)までさまざまであるとする。内発的動機を持 つ人は、難易度が高く多くの応用が見出せる探索的プロジェクトから多くの満足を引き出 し、改良型プロジェクトにはあまり魅力を感じない。経営陣が金銭的報酬など外発的動機 付けを何ら行わなければ、内発的動機を持つ人はすべて探索的プロジェクトを選ぶであろ う。ただし、その場合、内発的動機の弱い人は努力しない。今、経営陣は技術のことには 疎いので、研究者がどちらのプロジェクトを選んだかはわからないと仮定する。ただし、 特許や商業化といった事実からプロジェクトが成功したかどうかは確認できるとしよう。 努力しない研究者が多いので、金銭的報酬をオファーしたらどうなるであろうか? まず、 内発的動機が弱くそれまでプロジェクト成功に向け努力してこなかった研究開発者は、金 銭的報酬によりこれまでより働くようになるであろう。しかしながら、内発的動機を持ち これまで探索的プロジェクトを選び努力してきた人はどうであろうか? 外発的動機付け なしに、これまで果敢に困難なプロジェクトに挑戦してきた彼らは、より簡単で価値の低 いプロジェクトの成功で報酬をもらう同僚を見て、彼らもまたより成功の確率の高い改良 型プロジェクトを選ぶようになる。結果的にこの企業では大きなブレイクスルーがなくな り、取得特許は増えても発明の質は低下していくかもしれない。 金銭的報酬が内発的動機の効果をクラウドアウトするという現象は、創造性が必要であ るが、仕事の質が容易には判別できない、数多くの職種で起こり得る。企業内イノベーシ ョンが重要視される中、報酬制度改革の指揮を執る経営者や人事担当管理者は、上記のよ うな危険性にも注意を払うべきであろう。 【さらに読み進めたい読者のために】 Amabile, Teresa. Creativity in Context :Update to the Social Psychology of Creativity. 1996, Westview Press, Boulder, Colorado. Baker, George, and Shimer,Samuel.“RKO Warner Video,Inc.:Incentive Compensation Plan,” Harvard Business School Case 9-190-067, 1993. Baker, George.“Incentive Contracts and Performance Measurement,”Journal of Political Economy Vol.100, No.3(Jun.,1992), pp.598-614. Holmstrӧm, Bengt and Paul Milgrom.“The Firm as an Incentive System,”American Economic Review Vol.84, No.4(Sep.,1994), pp.972-991. Holmstrӧm, Bengt and Paul Milgrom.“Multitask Principal-Agent Contracts, Asset Ownership and Job Analyses : Incentive Design,”Journal of Law, Economics and Organization Vol.7, Special Issue,1991, pp.24-52. Hopkins, Bill L., and Mawhinney, Thomas C. (eds.) Pay for Performance : History, Controversy, and Evidence. 1992,Haworth Press, New York. Prendergast, Canice. “A Theory of Yes Men,”American Economic Review, Vol. 83, No.4 (Sep., 1993), pp.757-770. Prendergast, Canice. “The Provision of Incentives in Firms,”Journal of Economic Literature,Vol.37,No.1(Mar.,1999),pp.7-63. 5 年功賃金制度と関係的契約 5.1 なぜ賃上げは生産性の上昇をもたらすのか? 4月号で、1910年代半ばのフォードの賃金政策について触れた。当時日給2.5ドルが相場 であったデトロイトで、フォードは1914年1月破格の日給5ドルをオファーする。フォー ドの工場には1万人以上の応募者が列をなし、離職や解雇は9割減少し、無断欠勤率は賃 上げ前の約10%から2、3%へと低下した。人件費が2倍になったにもかかわらず、生産 性の大幅な上昇に助けられ、フォードの利益は減少しなかったのである。このように、賃 金を引き上げると一般的に生産性は上昇する傾向を示す。そのため、労働市場の需要と供 給を均衡させる市場均衡賃金(market-clearingwage)を支払うことが必ずしも企業利益を 最大化するとは限らない。市場均衡賃金を上回る賃金を企業が支払う時、これを効率賃金 (efficiencywage)と呼ぶ。 なぜ高賃金が生産性の上昇をもたらすのであろうか? 次の4つの説明がある。(1)高賃 金は優秀な従業員の採用を可能にする(Weiss 1980)。フォードは、門前に列をなす労働 者の中から最も技能レベルが高く経験があり勤勉そうな労働者を選りすぐって採用したで あろう。(2)高賃金を得ているものは、離職による収入の減少が大きいため、解雇されない ように一所懸命働く(Shapiroand Stiglitz 1984)。つまり解雇されることへの懸念がイ ンセンティブを与えることになる。(3)高賃金は、離職率を下げることで、従業員の長期 的なコミットメントを引き出す。また企業も低離職率の下、安心して研修などの人的資本 投資を行うことができるようになる。(4)従業員のモチベーションを決める要因として、公 平感が重要である。自分たちが公平な待遇を得ていると感じる従業員は努力してそれに報 いようとするが、不公平な待遇を受けていると感じている人々は怠けたり仕事の質を落と して「仕返し」しようとするようになる(Akerlof 1984)。従業員に低賃金を支払いなが ら企業が市場平均以上の収益を上げている時などは、不公平感が強まることになる。最後 の解釈はもともと社会学者によってなされていた説明である。 これらの説明以外にも、貧しい国などでは、所得が増えることで十分な栄養が取れるよ うになり、体力が増し、生産性が向上するというメカニズムもあるが、日本のような先進 国ではこのような可能性は無視できよう。 5.2 効率賃金モデル それでは、企業はどのように賃金水準を求めればよいのだろうか? 仮に、賃金と生産性 (単位時間当たり生産量)の関係が図1の曲線で表されるとする。賃金は固定で、時給、 日給、あるいは月給の形で支払われている。曲線上の点と線と原点を結ぶ直線を引いてみ よう。 この直線の傾きは、生産性/賃金=1/賃金コストであるから、傾きが上昇するほど賃金 コストは下がり企業利益は増大する。したがって点Aが利益を最大化する最適賃金である と言える。ただし、前述のどのメカニズムが働いていようとも、この曲線の形は産業、職 種、企業風土や失業率などに応じて異なり、市場均衡賃金を支払うことが望ましい場合も 多々あるということである。 以降の議論は、前出の2番目の説明つまり失職への懸念がインセンティブを高めるとい う解釈に立って行うことにしよう。6月号で述べたように、モラルハザードの問題がある 時、エージェンシーコストを下げるには、監視(モニタリング)を行うか、何らかの成果 指標を使ったインセンティブ契約を導入する必要性が出てくる。つまり、従業員などエー ジェントの時間や努力などのインプットを監視するか、その成果を計測するかどちらかが 必要となってくる。6、7月号では、主にインセンティブ契約の設計についての基本的な 考え方と注意点を議論した。今月号では、モニタリングが上手く機能する条件を考えてみ よう。モニタリングとは、従業員が怠けたり、雇用主の側にとって好ましくない行動を取 らないよう監視することである。怠けやサボタージュ(資産や製品の破壊活動)は常に発 見されるとは限らない。しかし、ある確率でそれは見つかり、解雇などの罰を受けること になる。何らかの罰がなければモニタリングは機能しないから、市場均衡賃金以上の賃金 を払うということは、モニタリングがより機能し易い状況を作り出すことに他ならない。 今、従業員Aは、一所懸命働くか、怠けるか二つの選択肢から行動を選ぶとする。一所 懸命働けば職を失うことなく高賃金を享受することができる。怠けるとある一定の確率で 上司に見つかり職を失うとする。職を失うと市場均衡賃金を支払う低賃金企業で勤めるか 失業を余儀なくされ、生涯所得は減少する。この時、離職のコストとモニタリングの精度 が十分に高ければ、懸命に働く。つまり 怠慢よる利得(努力コストの減少)<怠慢が見つかる確率×離職コスト であれば、努力することを選ぶであろう。コンサルティング会社などで不満も言わず長時 間働く人が多いのは、仕事のおもしろさに加え給与水準が高いからであろう。航空機パイ ロットの給料が高いことも効率賃金の概念で説明できるかもしれない。パイロットがどれ だけ健康維持に努め、集中力を養い、慎重に操縦しているか測ることは難しい。しかしな がら、パイロットがその不注意から事故を起こしてしまった時に乗客および会社に与える 損失は計り知れない。したがって、パイロットに対する安全運航のための社内規則は厳し く、重大な違反があった場合には、パイロットの職務から外されることもあり得る。この 時、パイロットの給与と地上職の給与に差があればある程、パイロットはその地位を維持 するため、努力を続けることになろう。もちろん、パイロットとしてのプロフェッショナ リズムも重要であることは間違いないが。 5.3 年功賃金制度はインセンティブメカニズム さて、この効率賃金モデルの考えを拡張して、入社から定年までどういった給与水準を 設定することが望ましいか考えてみよう。効率賃金モデルが当てはまるような職種であっ ても、単純にすべての年代の社員の給与を高く設定することは得策ではない。単純に全体 の給与を引き上げた場合、離職によって失う生涯所得の現在価値は若い人ほど大きく、年 を取るほど小さくなる。若年齢層にとっての生涯所得は必要以上に高く、高年齢層は離職 コストが小さくなるため働かなくなる可能性が高まる。また若い人ほど、昇進やキャリア 向上など給与以外のモチベーションが働くから、それほど離職コストを高める必要はない かもしれない。離職コストあるいはそれによるインセンティブの大きさが若年齢層と高年 齢層でよりバランスしたものになり、かつ人件費がそれほど収益を圧迫しないようにする には、若年齢層の給与はより低く高年齢層のそれはより高くならなければならない。たと えば、図2の給与プロファイル(W(t)曲線)と生産性プロファイル(V(t)曲線)を見比べてい ただきたい。この図では、若い社員の給与は生産性以下であり(場合によっては市場相場 賃金より低くなるかもしれない)、経験の長い社員の給与は生産性を大きく上回る。 この給与プロファイルの下で、失職すると市場賃金を支払う企業で働くことになると仮 定しよう。つまり、図中のs 時点で失職すると、s から定年までの間のW (t)とWM(t)の差の 分だけ、つまり図の灰色の部分だけ、生涯所得が減少する。この期間の生涯所得の減少を すべてs 時点での現在価値に割り引いて足し合わせたものを離職コストと定義しよう。こ うして計算した離職コストを図2の下部に示した。離職によって失う生涯所得は、新入社 員と定年直前の従業員が最も低く、W(t)曲線とWM(t)曲線が交わってさほど時間が経ってい ない中堅社員にとって、会社を辞めることで失う生涯所得が最大となる。こうした給与プ ロファイルを採用すれば、それほど人件費に収益を圧迫されることなく、入社してまもな い若手と引退間近の古参を除くすべての従業員のインセンティブを高めることが可能とな る。生産性のプロファイルが市場相場賃金より高いのは、こうしたインセンティブ効果の 結果、市場相場賃金を支払う企業よりも年功賃金企業の生産性が高くなるからである。 別な言い方をすると、若年齢層は彼らの生産性以下の給与を受け取ることで会社に資金 を貸し付けている。年を取ると貸した資金を返してもらえるが、怠けた場合には貸付金を 取り戻せなくなってしまうかもしれない。したがって単に努力するインセンティブを高め るだけでなく、引退するまで同じ会社に残るインセンティブも高くなる。年功賃金制度だ けでなく、退職金制度も同じ働きを持つことに留意していただきたい。 勉強熱心な読者は、5月号で解説した人的資本理論と上に記述した年功賃金モデルが整 合的ではないことに気付いていらっしゃるかもしれない(図2と図3を比較していただき たい)。人的資本理論によると、仮に企業特殊的研修が行われた場合、人的資本への投資 が大きい若年齢層においては賃金は生産性を上回るが市場賃金よりは低く、トレーニング が終了した高年齢層においては賃金が生産性を下回るようになるが市場賃金はさらに低い という状況が生じる。この場合、企業も従業員も雇用関係を断つことにより損をするから 双方に雇用関係を継続するインセンティブを生み出す。つまり、企業と従業員が人的資本 投資のコストを共同で負担し、そのリターンを共に享受することで、雇用関係を解消する ことがお互いに不利益となるような状況を生み出す。 他方、年功賃金制度においては、企業と従業員の利害は必ずしも一致しない。経験の長 い従業員に対しては生産性以上の給与を支払っているから、従業員は引退まで同一会社で 働くことを希望するが、企業の方は人件費を削減するため高年齢層を解雇するインセンテ ィブが常に働く。つまり、先述の「年功賃金は従業員から企業への貸付金の返済」という 解釈に立つと、企業としてはお金を借りてそれを返す前に従業員を解雇することが短期 的には利益をもたらす訳である。 このことから、すべての企業が年功賃金制度を導入できる訳ではないことがわかる。歴 史があり、長期にわたり倒産のリスクが小さく、評判が確立された企業のみが、年功賃金 制度を提供できる。逆に言うと、いつ倒産するかわからない中小企業や従業員を大切にす る企業理念や風土が欠落した企業においては、「年を取ったら高い給料を出すから若いう ちは安い給料で我慢してくれ」と言っても、誰も信用しないであろう。 5.4 年功賃金制度は関係的契約 上の議論から明らかなように、年功賃金制度が機能するためには、雇用者側に職を保証 することへのコミットメントが不可欠となる。つまり、企業と従業員の間には次のような 暗黙の了解事項がある。 企業は、右上がりの給与プロファイル(曲線)を生涯にわたって保証し、職務怠慢、 放棄、企業の信用を失墜させる背信行為がない限り、従業員を解雇しないことを約束す る。他方、従業員は会社への忠誠心を持ち、企業の成長、収益力向上のため努力を続け ることを約束するが、その義務を怠った時には、解雇、左遷、実質的降格となる処分を 受け入れる。 こうした明文化されてはいないが、当事者の間の暗黙の合意(implicit agreement)や 共有された期待(shared expectation)、あるいは明確にルール化されていない行動規範 (norms)を、関係的契約(relational contract)と呼ぶ。明示的契約(explicit contract) と対比させる形で、暗黙的契約(implicit contract)と呼ばれることもある。関係的契約 は、経営陣と従業員の間だけでなく、企業内および企業間のさまざまな長期的関係を律す る枠組みとして形成される。部門を超えた従業員の間の協力関係、メーカーとサプライヤ ーの間の取引関係、企業間の技術提携、など関係的契約が重要な役割を果たす状況は、ビ ジネスの世界には数多くある。関係的契約は、法的強制力のある公的な契約の作成(formal contracting)が、状況の不確実性や情報の非対称性などの理由から困難である時、公的な 契約の代わりを果たす。あるいは、公的な契約が不完備(incomplete)である時、それを 補完する役割を果たす。経済学では、関係的契約は繰り返しゲームを使って通常説明され るが、ここではゲーム論的な用語を使わずに、年功賃金制度を例に説明を試みよう。 関係的契約は法的強制力がないから、これを履行させるには評判のメカニズム (reputation mechanism)が必要となる。今、年功賃金制度を導入した企業が業績悪化を 理由に高齢年層の従業員を中心に解雇したとする。この企業は二つの経路を通じて長期的 に不利益を被る。まず、関係的契約を破棄したことで、従業員の側も関係的契約に書かれ た義務を負う必要がなくなる。彼らは忠誠心を失い、懸命に働くことを拒否するであろう。 人員整理を行った大企業では必ずモチベーションの低下が問題となるのは、こうした暗黙 の了解事項が破られたことへの反発があると見なせる。モチベーションの低下は、次の関 係的契約が形成されるまで、何年にもわたって続くことになる(あるいは二度と回復しな いかもしれない)。二つ目には、関係的契約を破った企業は、優秀な若い人を採用するこ とが以前より困難になる。年を取ってからの高賃金と職の保障が期待できないから、若い 頃に生産性以下の賃金を受け入れることを皆が拒否するようになるからである。その場合 は、違反した企業は賃金の引き上げを迫られるであろう。 こうした長期的損失の現在価値が、契約の破棄による短期的利益増大(たとえば、年功 賃金であれば、企業による古参の従業員の解雇)を上回れば、企業は法的強制力がなくて も、関係的契約を維持しようと努めるだろう。いったん契約を破棄してしまえば、将来従 業員の協力を得ることが難しくなるからである。これが評判のメカニズムである。逆に、 関係的契約を破ることで不利益を被ることがわかっていても、利益最大化を図る企業が契 約の破棄を選択する局面は時に現れる。つまり契約の破棄による短期的利益増大が長期的 損失の現在価値を上回れば、契約の破棄を行うことが株主にとって望ましい選択となる。 例えば、市場や産業が縮小し従業員の高齢化が進む場合、年功賃金制度の維持による長期 的利益よりも、年功賃金制度を止めて人件費を削減することの短期的利益が大きくなり得 る。また、倒産のリスクが高まり、長期的利益や損失を現在価値に割り引く際の割引率が 高くなった場合、契約の破棄による長期的不利益は低くなる。つまり今倒産を回避するこ とが至上命題になった企業にとって、10年後の利益がどうなるかはあまり重要ではなくな る。 関係的契約は暗黙の合意あるいは共有された期待であるから、企業理念や企業文化と密 接に関係する。企業理念を維持する努力をしつつ、環境変化に合わせ関係的契約を変容さ せていった企業の例として、次にヒューレット・パッカード(Hewlett-Packard)の事例を 紹介しよう。以下の事例は、ハーバードビジネススクール・ケース“Human Resources at Hewlett-Packard(A)(B)”(Beer and Rogers 1995)などを基に事実関係をまとめた。 5.5 事例研究:ヒューレット・パッカード ヒューレット・パッカード社は、ビル・ヒューレットとデイブ・パッカードが1939年に カリフォルニア州パロアルトの自宅車庫を改造して作業場を作ったことで始まった。音響 機器の検査用計器の製造で始まった同社は、現在は世界中で10兆円を超える売上げを持つ 世界最大規模のIT 企業である。創業者であるヒューレットとパッカードは、従業員が目的 や目標を共有することが大事だと考え、独特の企業文化を作り上げた。人材活用上の彼ら の理念はHP Wayと呼ばれている。HPWayとは定義は難しいが、個人の自由と自律性を尊び、 目的の共有とチームワークを強調する参加型経営であり、また結果だけでなく、そこに辿 り着くまでのプロセスを強調する経営方針と言えよう。それは、部門への徹底した権限委 譲、無借金経営、雇用を保障するNo-layoff政策、目標管理(management by objectives)、 コミュニケーションの重視、部門や機能の壁を超えた人事異動といった組織・人事制度に よって具現化されていた。 そのHP が80年代の半ばの電子機器産業の不振と防衛支出の大幅削減により、困難に直面 する。過去の不況期は勤務日数削減によって一時的に人件費を抑制することで乗り越えら れたが、80年代半ばの不況は構造不況であり、対処療法では焼け石に水であった。さらな る業績悪化を防ぐため、HP は、早期引退パッケージと自発的退職に対する退職一時給付金 支払い(downsizing)および配置転換(redeployment, rebalancing)という二つの合理化 政策を実施した。配置転換は次のような手順で行われた。まず配置転換を勧告されたもの は、3か月の有給休職を与えられ、その間に社内転職先を探さなければいけない。もし自 分で移動先を探せなかった場合は、会社側が移動先を提示する。新しい職場は、異なる事 業所かもしれないし、給料も下がる可能性があった。提示された移動先を拒否した場合は、 退職一時給付金をもらって辞めなければいけない。 こうした政策は、HP Wayの維持のため解雇(layoff)を回避しようという経営陣のギリ ギリの選択であった。しかし一方で、創業以来安定した成長の恩恵を享受してきた多くの 従業員にとって、雇用保障は職の保障であり、強制的な配置転換はHP Wayの放棄であると 映った。HP は毎年従業員満足度を調査していたが、その後数年間、満足度は着実に低下傾 向を辿ることになる。 多くの従業員が「HP Wayは死んだ」と感じるようになった背景には、合理化政策だけで なく、ビジネスモデルの変化に伴う多くの制度的な変更もあった。主力製品が、法人向け 計測機器、検査機器などから、個人向けPC、プリンターへシフトする中、複雑化する製品 群に対応して部門間のコーディネーションがより重要になってきた。そのため、小さな部 門への徹底した権限委譲を改め、部門間のコーディネーションを行うグループへ権限の一 部を集中させた。また、HP の独自技術が競争力の源泉になっていたTechnology Push 型の 計測検査機器ビジネスから、顧客ニーズの吸収と迅速な商品化が成功のカギを握るDemand Pull型のPC プリンタービジネスへと主力事業が変化する中で、HP は絶え間ない組織変更 を余儀なくされる。必要な技術と人材を迅速に揃えるため、規模の経済を追求するため、 そしてコアビジネスに資源を集中させるため、これまでタブー視されてきた買収、統合、 アウトソーシングという組織変更を繰り返すようになる。ビジネスの複雑化と人員削減に より時間的な余裕がなくなり、かっては管理職が社内を歩き回って部下に話しかけコミュ ニケーションを取ること(managementby wandering around)が奨励されていたが、それを する管理職はほとんど稀になり、ドーナツとコーヒーのおやつの時間も姿を消した。 1992年にCEOに就任したLew Platt は、HPWayの形骸化がHP の競争力を弱めると危機感を 強め、HP Wayの再浸透を図るため、従業員とのコミュニケーションを始める。しかしなが ら、「我々は雇用削減をしないと一度も言ったことはない」と述べ、解雇でさえも「業績 悪化が続いた時の最後の手段」として否定はしないというスタンスを取った。同じコアバ リュー(企業が最も重視する価値理念)を謳っていても、企業文化や従業員の期待は以前 と同じではなく、事実上古い関係的契約は破棄されたと見るべきであろう。 HP の事例に見られるように、関係的契約の維持が困難となった局面で、企業がどう行動 すべきかというのは難しい問題である。戦略やビジネスモデルの変更を伴う構造的な変化 が生じている時などは、必要とする人材も変化している可能性が高く、関係的契約を書き 換える良い時期であるという見方もできる。また大型企業合併の際にしばしば問題視され るのは文化の違いであるが、より正確には両方の相異なる関係的契約が矛盾を引き起こす ために、契約を破る行動が多発することが生産性を押し下げている可能性がある。 長年にわたって企業文化や理念を守ってきた経営陣にとって、従業員の期待を裏切るこ とは、企業の存続のためであっても、極めて高い心理的コストを負荷する。したがって、 関係的契約の破棄と見られる人員整理などは、しばしば新しい所有者や新しい経営者の下 で行われる。日産においては、資本参加したルノー社から送り込まれたカルロス・ゴーン 社長の下で初めて、5工場閉鎖を含むリバイバルプランが可能となった。また、Kubo and Saito(2008)によると、日本では、企業合併の後に人員整理が行われる頻度が高いことが 示されている。 5.6 最後に 読者の中には、年功賃金制度がインセンティブを高めるための関係的契約であるという 議論がなかなか受け入れられない人もいるかもしれない。しかし、年功賃金制度が何らか の経済的合理性を持っていなければ、これほど広範囲にかつ競争の激しい市場で存続して きたことは説明し難い。 年功賃金制度が広く採用されていることの一つの証拠として定年制が挙げられる。定年 制は米国では違法であるが、現在のところ、多くの国々で制度として採用されている。ど うして定年制が必要なのであろうか?年功賃金制度のもとでは、企業は高年齢層の従業員 に対しては、生産性以上の賃金を支払っている。引退する時期が遅れれば遅れるほど企業 の利益は減少する。したがって企業が黒字を保てるように予め決まったタイミングで会社 を辞めてもらう必要が出てくる。つまり、従業員から資金を借り入れ、雇用期間の間にそ れを返す訳であるから、借金を返し終わった時期に合わせて、引退もしくは賃金の削減を 行う必要性が出てくる。それが定年制であるという見方が有力な説明である。 また、先に年功賃金制度と純粋な人的資本モデルが整合的ではないと述べたが、年功賃 金制度と人的資本投資はむしろ補完的である。年功賃金制度の下、低い離職率が予想され るため、企業も従業員も安心して企業特殊的人的資本へ投資できる。また若手を除く大部 分の従業員にとって、その企業における生涯所得が転職して期待できる生涯所得を大きく 上回るため、一般的研修を施して従業員の外部オプション価値が多少上昇しても、給料を 引き上げる必要がない。このことは、企業が一般的研修のリターンの大部分を回収できる ことを意味し、一般的研修を提供する誘因が強く働く(本連載5月号参照)。こうした人 的資本投資の増大は、従業員の生産性の向上を通じ、企業の給与引き上げ余力を高め、年 功賃金制度の効用を引き出し維持する上でプラスに働く。伝統的日本企業の終身雇用制度 は、こうした年功賃金制度と人的資本投資の二つのメカニズムが補完的に結びついている と考えると理解しやすい。 最後に、関係的契約の例として年功賃金制度など雇用制度のみにふれたが、関係的契約 は、先に述べたように企業内の関係にとどまらず、メーカーとサプライヤーなど企業間の さまざまな長期的関係において形成される。例えば、メーカーとサプライヤーの間に長期 的な関係がある場合、次のような関係的契約が想定されうる。 サプライヤーは、品質の向上とコスト削減のため、効率的な投資水準(この場合、全 体利益が最大となるような投資水準)を選ぶことを約束する。メーカーは、サプライヤ ーに対し、投資に見合った利益マージンを保証することを約束する。仮にメーカーが不 当に低い価格を要求した場合、サプライヤーはメーカーのための投資を止める。あるい は仮にサプライヤーが望ましい投資を怠ったことが明らかになれば、メーカーは取引関 係を終了する。 こうした関係的契約が結ばれたなら、メーカーとサプライヤーが互いに利己的な行動を 取ることによって非効率な結果が生じることを未然に防ぐ役割を果たすであろう。企業内 および企業間で自社がどのような関係的契約を結んでいるかを深く理解することは、企業 経営を行うすべてのマネージャーにとって重要なことである。どの会社においても内部昇 進によって経営陣あるいは管理職を選ぶ傾向があるのは、関係的契約の重要性の表れでも ある。次回は、昇進制度の役割を明らかにする理論をご紹介しよう。 【さらに読み進めたい読者のために】 Akerlof, George,“Gift Exchange and Efficiency Wage Theory,”American Economic Review,Vol.74,No.2,May1984:pp.79-83. Beer, Michael and Rogers, Gregory C. “Human Resources atHewlett-Packard (A),(B),” Harvard Business School case 9-495-051, 1995. Kubo, Katsuyuki and Saito, Takuji, “The Effect of Mergers onEmployment and Wages : Evidence from Japan,”workingpaper, 2008. Lazear, Edward P. “Why Is There Mandatory Retirement?”Journal of Political Economy,Vol.87(December 1979):pp.1261-1284. Mailath,George J.and Samuelson,Larry,Repeated games andReputations, Oxford University Press, 2006. Shapiro, C. and Stiglitz, J. “Equilibrium Unemployment as aWorker Discipline Device,” American Economic Review,Vol.74, 1984:pp.433-444. Weiss, A. “Job Queues and Layoffs in Labor Markets withFlexible Wages,”Journal of Political Economy, Vol.15,1980:pp.526-538. 6 昇進制度とインセンティブ設計 6.1 昇進の二面性 働く意欲を高めるインセンティブの源泉として、経済学者はこれまで、次の3つの仕組 みを主な研究対象としてきた。 ⑴ 業績と報酬を連動させた報酬制度 本連載6月号では、インセンティブ効果と保険効果のトレードオフ関係、つまり業績と 報酬の間の連動が高まるとインセンティブが増すものの、従業員の負う所得変動リスクが 高まって効用が下がるという問題が生じることを論じた。結果的に業績連動型報酬制度を 取り入れた企業はリスクプレミアムを払わなければならない。7月号では、業績指標のノ イズやバイアスや恣意性が高まることから生じる、非効率性について体系的にまとめた。 ⑵ 失職の脅威(threat of dismissal) 8月号では、高賃金によって失職コストが高まることにより、職を維持するため職務に 励むインセンティブが増すことを解説した。年功賃金制度には、失職コスト上昇を通じた インセンティブ効果があることに留意しなければいけない。 ⑶ 昇進制度 今回議論するのは、この3番目の仕組みである昇進制度である。昇進制度を設計する上 で重要なことは、昇進には二面性があるということである。昇進には通常、実績を残した 人へのご褒美という側面と、能力のある人により難しい職務と多くの権限を与えて組織に 貢献してもらうための職務配置としての側面があることを理解していただきたい。昇進に よって、仕事の内容はより高度になり、より多くの権限を与えられる。一方、それに付随 して、収入が増え、肩書きが変わることにより社内外で地位が向上し、また職種によって は転職の機会が増える。つまり、金銭的あるいは非金銭的利益が与えられる。 もちろん、大学教授、コンサルタント、警察官など専門職においては、職階が上がって も、多少権限や責任に違いが生じる程度で、行う業務や必要とされる技能に大きな変化が 生じない職種もある。この場合は、昇進を純粋なインセンティブメカニズムとして捉える ことが可能となる。ただし、一般的にはそういう職種は限られる。 昇進における二面性は、ある職で好業績をあげた人が必ずしもより高い職階に必要な技 能を持っているとは限らないため、運用上ジレンマを引き起こす可能性がある。したがっ て、より多くの視点での分析が必要となるが、とりあえずは、給与の上昇のみに焦点を当 てた理論をご紹介しよう。 6.2 トーナメント理論 まず図1に表された二つの会社A社、B社の経営層のポジションの分布と給与を比較し ていただきたい。どちらの会社において、役員はより一所懸命働くことが予想されるであ ろうか? 以下に述べるように、ピラミッド型のA社に比べ、B社のヒエラルキーはより歪 な形をしており、また昇進に伴う給与の増分もかなり偏りが見られる。すなわち、A社に おいては、副社長から社長に昇進出来るのは2人に1人であるが、B社では4人に1人し かいない。かつそれに伴う報酬の増加は、A社では2000万円から3500万円への75%増であ るのに対し、B社では3,000万円から3,500万円へと割合としては大きくなく、B社では社 長になることの金銭的メリットは小さいと言えよう。この場合、B社の副社長は、副社長 としての待遇に満足し、4人の候補者から選ばれるために必死に努力を行う誘因は小さい。 一方、執行役員のレベルで比較すると、A社では、6人のうち2人、つまり3分の1の確 率で昇進が期待でき、給与増も5割以上なので、社長への昇進の可能性も含め、執行役員 にとって副社長になるために努力するインセンティブは高い。それに対し、B社では、副 社長になる確率は極めて高いのに報酬の差は大きく、失敗をして5人のうち昇進出来ない 1人に選ばれることを恐れるようになる。この場合も、B社では、会社のために難しい課 題に取り組んで副社長になることより、手堅い道を進んで失敗せず、他の執行役員のあら 探しをして足を引っ張ることに注力する危険性がある。 この例の重要な含意は二つある。まず第一に、組織の階層構造とランクに対応した給与 プロファイルは、従業員の競争の性質と努力水準に影響を与えるということである。第二 に、ちょっと極端な言い方になるが、社長の給料は、社長本人のモチベーションを高めて いる訳ではない。むしろ社長になりたいと考える副社長やそれ以下のマネージャーさらに は社員のモチベーションを高めているということである。 こうした、昇進構造とインセンティブの関係を分析するフレームワークとして、Sherwin Rosen とEdward Lazearが展開したトーナメント理論がある(Lazear and Sherwin 1981)。 この理論は、企業の昇進システムの持つインセンティブ効果を、スポーツにおけるトーナ メントへのアナロジーを使って理解することを試みたものである。類似点はいくつかある。 まず、多くの企業で潜在的な競争相手はある程度固定されている。例えば、部長は、その 部や関連部署内で働く次長あるいは課長の中から選ばれることが多い。もちろん、ローテ ーションが採り入れられており他部署からの横滑りが多い企業も多々あるかもしれないが、 その場合でも適任者は数人に絞られるケースが多い。次に、昇進競争の賞金は事前に決ま っている。つまり、昇進に伴う報酬の増分や地位向上に伴う非金銭的便益は予め予想がつ く。 今単純化のため、スポーツのトーナメントのように競争者は二人であるとしよう。それ ぞれの業績をx1、x2と置く。x1>x2であれば、候補者1が昇進し、逆が成り立てば、候補者 2が昇進する。業績には通常不確実性が伴う上、計測誤差も生じるので、努力や能力によ って業績が完全には決まらない。つまり、努力や能力のみならず、候補者i の運によって も勝敗が左右されるならば、x1>x2はある確率の下で生じる。これをPr(x1>x2)とおく。さ らに、昇進できた場合の期待生涯所得をWR、昇進できなかった場合のそれをW1と置くと、競 争時の候補者1の期待生涯所得は、 Pr(x1> x2)WH+(1-Pr(x1> x2))WL = Pr(x1> x2)(WH- WL)+ WL (1) と表現できる。この場合、候補者1が努力すればするほど、候補者1が勝つ確率つまりPr(x1 >x2)が増加するから、WH> WLであれば、(1)式で表された期待生涯所得は努力の増加関 数である。そして努力の限界所得が努力の限界コストに等しくなる所で、努力水準が決定 されると考えられる。 トーナメント理論に基づきいくつかの知見を導き出そう。まず、勝者の得る賞金が高け れば高いほど、努力水準も高くなる。あるいは昇進に伴う報酬増が高ければ高いほど、昇 進を目指して努力するインセンティブが強まる。つまり(1)式においてWH- WLが高くな れば、努力によってPr(x1>x2)が増加した場合の期待生涯所得の増分も高くなるので、それ だけインセンティブが増す。第二に、競争者が同質的、つまり彼らの能力が同等であれば、 運の重要性が高まれば高まるほど、競争者の努力水準は低くなる。このことは、風の強い 日にゴルフやテニスの試合に出場したと想像してみるとわかりやすい。どんなに注意深く サーブやショットを打っても、風の吹き方によって上手くいかなかったりするから、集中 して打つことの効果が弱まる。つまり(1)式において、業績の不確実性が高まれば高ま るほど、候補者1の努力増に伴うPr(x1>x2)の伸びが弱まる。その結果、努力増に伴う期待 生涯所得の増分が低下するから、昇進のインセンティブが弱まる。このことは、より不確 実なビジネス環境において、昇進競争のインセンティブ効果を維持するためには、勝者の 利得を高めることが必要であることを意味する。すなわち、不確実な業種であればある程、 ランク間の給与格差は大きくなる可能性を示唆している。ただし、この結論は、あくまで 対戦者がすべて同等な実力を兼ね備えていることが前提となる。能力に差がある場合、不 確実性の増大は、能力の劣るものが好運によって勝つ確率を高めるので、競争者双方の努 力するインセンティブを強める場合もある。 関連する三番目の知見は、競争者間の実力格差が広がれば広がるほど、能力の高い者は 安心し、低いものは諦める可能性が高まるため、トーナメントのインセンティブ効果は弱 まる。ゴルフの世界では、勝負の面白さを高めるためにハンディキャップをつけるという 慣習があるが、昇進競争ではそうはいかない。この場合、できるだけ能力の等しい者の間 で、競争させることが望ましい。最後に、昇進競争のインセンティブ効果は、1対1の競 争の時に最も激しく、競争者が増えるにつれ弱まる(もちろん3人に2人が昇進するなど 競争者が少な過ぎても弱まる)。このことは、昇進のインセンティブ効果を高めるには、 内部昇進制度が有効であることを意味する。つまり、潜在的な競争者が外部に多数いる場 合よりも、内部昇進制度により競争相手が限定された場合の方が、やる気は高まるのであ る。 競争者のパーフォーマンスが、賞金の大きさや分布に影響を受けるということは、スポ ーツの経済学ではいくつかの研究によって示されている。たとえば、米国PGA ツアーにお いて、賞金総額によって参加プレーヤーのスコアが影響を受けること(Ehrenberg and Bognanno 1990)、NASCARレースにおいて、賞金格差に応じてタイムや事故率が影響を受け ること(Becker andHuselid 1992)などが知られている。 6.3 インセンティブメカニズムとしての昇進制度設計 昇進制度をインセンティブメカニズムとして見た時、いくつかの欠点も見出せる。第一 に効率的な制度設計が極めて難しい。たとえば、効率的な努力水準を導き出すために、部 長や課長の給料をどう設定すれば良いか考えてみよう。それは、何人の候補者がいるか、 どのくらい能力にバラツキがあるか、昇進者を決める意思決定にどの程度不確実性やノイ ズやバイアスが生じうるかということに大きく依存している。また長期にわたるパーフォ ーマンス評価に依存して決まるとすると、観察期間の間に、昇進基準をすでに満たした人 と昇進機会を明らかに逃してしまった人のモチベーションが下がるために、継続的連続的 に適度なインセンティブを与え続けることが難しい。歩合給やボーナスなどの設計などに 比べ、インセンティブ契約としての制度設計は難しい。第二に、トーナメントへのアナロ ジーからわかるように、昇進の決定は通常絶対評価ではなく相対評価によって決まってく る。そのため、競争が激しくなると、同僚間で足の引っ張り合いが起こったり、協力関係 構築が阻害されたり、派閥争いが生じたりする(Lazear 1989)。したがって、社内コーデ ィネーションやチームワークが重要となる業種においては、こうした昇進競争の負の副作 用を和らげる仕組み、例えば社内公募制や評価におけるチームワークの重視など、が必要 となる。 最後に、冒頭に述べたように、ある職で好業績をあげた人が必ずしもより高い職階に必 要な技能を持っているとは限らない場合、人材と職務のミスマッチがしばしば生じる。例 えば、トップセールスマンが、営業部長に昇進した時に、部下の教育や評価、予算の作成、 他部門との調整など幅広い職務をこなせず、パーフォーマンスが低下する場合が多々ある。 こうした問題は、ピーターの原理(Peter Principle)と呼ばれている。名前の由来は、1969 年の同名のベストセラーから来ており、この中で、著者で社会学者のLaurencePeterは、 「ヒ エラルキーにおいて、すべての従業員は、彼らが無能になるレベル(level of incompetence) に達するまで昇進し続ける傾向がある」と述べた。こうした職務配置の失敗が多々見られ るということは、昇進制度が、インセンティブの付与と効率的な職務配置という2つの目 的の間でトレードオフを引き起こしている可能性を示唆している。つまり、業績をあげた ものを昇進させないと従業員の労働意欲を下げる弊害が生じる。しかし、業績をあげたも のが高い職階に必要な技能を持っていなければ、昇進は非効率な職務配置を行うことにな り好ましくない。 上記のような問題から、昇進の二つの役割、つまり職務配置を最適化するという役割イ ンセンティブメカニズムとしての役割をできるだけ分離させるべきではないかという議論 がある。実は、これまで日本の大企業の多くが給与制度の中核として採用してきた職能資 格制度は、運用の仕方によっては、昇進の二面性を分離させる働きを持つ。職能資格制度 とは、与えられた職務(役職)とその人の持つ技能レベル(職能資格)を区別し、報酬の 基本部分(基本給)を職能資格に連動して決定する仕組みを指す。1969年の日経連による 『能力主義管理――その理論と実践』の発刊により、急速に日本企業の間に広まった。職 能資格制度は、職務によって報酬の基本部分が規定される職務等級制度とは異なり、報酬 を変えずに職務内容や役職を変更することが可能であるため、職務定義が曖昧でローテー ションが多い日本の人事システムに適した報酬制度であった。 職能資格制度のもとでは、高い業績によって能力を顕在化させた従業員に対しては、昇 格とそれによる昇給によって報いつつ、実際の職務配置は適材適所を図って行うことが可 能となる。しかしながら、多くの企業において、職務等級と職能資格はほぼ連動していた し、職能の評価は年功的要素が強かったので、より自由度の高いインセンティブメカニズ ムとしてこれまで機能していたかどうかは疑わしい。 むしろ、職能資格制度の変更を伴う人事制度改革を最近行っている企業の中に、昇進の 二面性を分離させる試みが見られる。そのような一例として、次にベネッセ・コーポレー ションの事例をご紹介しよう注)。 6.4 事例研究:ベネッセコーポレーション 岡山の中堅出版社として出発した福武書店は、「進研ゼミ」に代表される通信教育事業 で成功して全国に知られるようになる。1980年代の終わりごろから始めたコーポレート・ アイデンティティ(CI)活動で、ラテン語で「bene(良い)」と「esse(生きる)」を組 み合わせた造語Benesseを企業理念として掲げ、1995年にはそれを社名として採用した。そ れと共に、女性や親をターゲットとした子育てや生活の支援事業、老人ホーム経営などの 福祉事業、ベルリッツの買収に始まる語学事業と、急速に業容を拡大した。その背景とし て、少子化、競争の激化を受け、教育事業の成長の限界が見えたことで、「顧客の生きが い、やりがいなど内面的な価値追求を支援する」という理念追求を目指すことにより、成 長の持続を図ったと言える。 そのベネッセが、1994年に担当役員の下に所属長-セクションリーダー-一般社員と続く 3層組織へのフラット化を実行した。それ以前は、部長-課長-課長補佐-主事-一般社員と 5層になっていた。フラット化の理由は二つあった。まず一つは、環境の変化や顧客ニー ズに迅速に対応するためである。意思決定の迅速化は、特に、物やサービスの売り切りで はなく、「双方向コミュニケーションを基本とする継続的ビジネス」を行うことを目指し た新しい戦略のために不可欠であった。次に、会社の急成長とともに若手を登用したもの の、基本的には年功的な給与制度を維持していたため、課長がいなくて、課長補佐が課長 の仕事をするといった現象が増え、誰がどんな権限、責任を持っているのかわからなくな り、社内調整が複雑化したという背景があった。3層にして、部門を小さくするとともに 責任を明確化するというのが、フラット化の二つ目の狙いである。 しかし、こうしたフラット化は、以前のように、役職と給与水準が連動していては、ス ムーズにいかない。何故なら、その場合、若手を年長者の上に配置すると年次間で給与の 逆転が生じ不満が生じるし、所属長ではないけれど所属長並みの経験を要する仕事をして いる人たちをセクションリーダーへ配置することは、報酬を減らすことになってやはり抵 抗が出る。 そこでより弾力的な運用を可能にするため、役職と給与算定の基準になる職能資格が切 り離され、マネージャー層に年俸制が導入された。さらに2003年には、「事業計画達成に 向けての、短期的な貢献期待」と定義された役割や職責の重さに応じた報酬部分である役 割職責給と、年度末の最終評価に基づく報酬部分である実績給の二つに年俸制度の中身が 変更された。 こうした制度のもとでは、所属長やセクションリーダーの役職が与えられても、チャレ ンジングな事業計画を描き、結果を出さない限り、報酬増を期待できない。逆に、所属長 についていなくても、ある等級以上の社員は、新規事業開拓などで大きな実績を残せば、 所属長以上の報酬をもらうことが制度的には可能になった。したがって、職務配置とイン センティブが切り離されていると解釈することができる。役職と給与が完全に連動した職 務等級制度ではなく、能力と給与を結びつけようとした職能資格制度でもなく、より実質 的な貢献度に報酬を結び付けようと努力する企業が近年増えてきているのは、その制度の 持つ柔軟性にあると言えるのではないだろうか? ただし、忘れてはいけないのは、こうした事業計画に基づく役割や職責の大きさの評価 は、非常に手間やコストがかかるということである。評価自身ある程度主観的にならざる を得ないので、7月号で議論したような中心化傾向、評価インフレ、ゲーミングなどさま ざまな問題を引き起こす可能性もある。また、年功的な色合いが薄く、年度ごとに報酬が 変動するような制度のもとでは、リスクプレミアムを上乗せして報酬を支払う必要が出て くるため、人件費は結果として増える可能性がある。さらに、所属長やセクションリーダ ーのポジションが限られていれば、一般社員の肩書のまま勤務を続ける人の割合が増え、 転職という外部機会を維持したい人々にとっての会社の魅力は下がる。なぜなら、昇進と いうのは、労働市場あるいは潜在的な雇用主に対し自分の実力を伝えるシグナルとしての 役割を果たすからである。 6.5 シグナリングとしての昇進 5月号において、学校教育が労働市場に対し個人の能力を示すシグナルとしての役割を 果たすという点について述べた。上に述べたように昇進や職歴もシグナリング効果を持つ (Waldman1984)。それを説明するために、今2つの職LとHがあるとする。Hの方がより 上位の職階であり、高い能力を要求する。単純化のため、人的資本は一般的であると仮定 する。つまり、従業員の技能はどの企業でも使える類のものであり、彼または彼女の生産 性は同じ職種であれば、転職によって変化しないとする。現在の雇用主Aは社員全員の生 産性を観測できるとしよう。ただし、外部の企業は彼らの生産性を知らない。つまり現雇 用主と潜在的雇用主の間で情報の非対称性が存在すると仮定する。ただし外部の企業は、 職LおよびHに在籍する社員の生産性の分布は知っており、それぞれの職にある社員に対 し生産性の期待値を給与としてオファーする用意があるとする。したがって、現雇用主は、 少なくとも外部企業にとっての期待生産性を常に支払い、社員が引き抜かれることを避け る。図2は、職LおよびHにおける給与額とある社員Bがそれぞれの職でどの程度の生産 性を達成できるかというAの私的情報を表している。 この時、社員Bをどちらの職務に配置することが効率的であろうか? 彼は、職Hにおい て職Lにおけるよりも生産性が高いから、職Hに配置されることが効率的である。しかし 実際にそうなるであろうか? 今、社員Bを職Lから職Hに昇進させたとする。その瞬間、 外部企業は、Bが生産性400万円ではなく、550万円を期待できる人材であることに気がつ く。これが昇進のシグナリング効果である。したがって雇用主は、Bの給与を400万円から 550万円に引き上げなければ、彼を他社に引き抜かれてしまう。その場合、社員Bは職Lに とどめておけば、100万円の利益をAにもたらしたのに、昇進させると50万円の利益しかも たらさない。したがって、実際にはAはBを昇進させることがより効率的な人材配置とな ることを知っているにも拘わらず昇進を遅らせる。 この例は、昇進がシグナリング効果を持っている時、昇進を遅らせ社員が引き抜きの対 象となることを避ける誘因が雇用主に働くことを意味する。こうした昇進の歪みは、社員 が顧客など外部の人間と接触する機会が多い場合には、情報の非対称性が弱まり緩和され ると考えられる。また社員のもつ人的資本の企業特殊性が高い場合にも、昇進の歪みは小 さいと考えられる。なぜなら、この場合、社員の生産性は転職によって大きく下がるから、 現在の雇用主はすでに外部企業が支払える給与を大きく上回る報酬を支払っており、シグ ナリングによる短期的な外部オプション価値上昇の影響を受けにくい。昇進を遅らせて優 秀な人材を囲い込まなくとも比較的容易に離職を避けられるわけである。 昇進制度の日米比較で最も顕著に表れるのが、昇進の時期の違いである。米国では、フ ァースト・トラック(fast track)つまり出世コースの存在がより顕著で、優秀な人は数 年でマネージャーに昇進し、順調に出世の階段を上っていく。これに対し、日本の大企業 においては、最初の10年あるいは15年程度は、同期の間で少なくとも表面上は差をつけな いという企業は少なくない。一つの解釈は、日本では高度成長期に優秀な社員を囲い込む ために昇進を遅らせると同時に、優秀な社員にはローテーションによって出世前から幅広 い技能を習得させるという人材開発方法が定着したためというものである(Owan 2004)。 二つ目の解釈は、差をつけないことで、皆に昇進の可能性があるという期待を抱かせ、 モチベーションを維持するという説明である(Prendergast 1992)。こうした昇進制度の 違いがなぜ生じたのかという議論については、次号で詳しく展開したい。 6.6 企業トップに対する報酬制度とインセンティブ全体の最適化 話をトーナメント理論に戻し、よりバランスのとれた報酬設計とは何か考えてみよう。 階級や役職と報酬の関係を見ると、通常累進的に報酬は増加していく(図3)。つまり、 係長と課長の給与の差よりも部長と本部長の給与の差の方が大きく、さらに社長と副社長 の報酬の差の方はさらに大きい。こうして見ると、昇進競争の勝者に対する賞金はヒエラ ルキーの上に上がるほど大きく、インセンティブ効果も累進的に強まっていくと見るべき であろうか? ここで一つ見逃してはならないのは、ある時点で昇進することのベネフィッ トというのは、その昇進に伴う報酬増だけではないということである。内部労働市場の数々 の研究から明らかになった事実として、ファースト・トラック(fast track)つまり出世 コースの存在が挙げられる。最初の機会で昇進できたものは、次のレベルでの昇進の可能 性も高く、またそのタイミングも早い。すなわち、ある時点での昇進は、次の昇進競争に おいて候補者になる可能性を大きく高める。極端な言い方をすると、スポーツにおけるト ーナメントのように、勝つたびに次の対戦相手と試合する権利を得る。このオプション価 値を加えると、図3に表されるように、ヒエラルキーの下層における昇進のインセンティ ブ効果が見かけよりも高いと考えられる(Rosen 1986)。 米国企業の経営トップの報酬が高いことが一時大きく批判されたが、内部昇進制度と透 明な選抜プロセスを確保した上で、経営トップの報酬を引き上げることは、社員全体のや る気を高めることになるという視点も忘れてはいけない。とりわけ、分権的な組織からよ り企業トップのリーダーシップが必要とされる集権的組織に組織を変革する場合には、マ ネージャー層のモチベーションを高めるために、報酬委員会の設置などコーポレートガバ ナンスの仕組みを整えた上で、報酬の引き上げが求められると予想される。ただし社長の 給料を引き上げることは、社長以下の役員、従業員のやる気を高めても、社長自身のモチ ベーションを高める効果は薄いので、経営トップには、ストックオプションなどの業績連 動型の報酬もまた必要である。米国企業トップの高額報酬が90年代後半から2000年代初頭 にかけて批判されたのは、社長の影響力が強く働く決定方法の下で、実質的には業績と完 全には連動しない形で報酬支給が定められたことが問題であった。米国の例を他山の石と して、日本における経営陣報酬制度のよりオープンな学術的議論が必要であろう。 最後に、昇進が最適な職務配置としての役割を持つ場合、昇進制度を自由に設計可能な インセンティブメカニズムと捉えることは適切ではない。効率的な人事配置が主たる目的 であり、インセンティブ効果は副次的なものと見るべきであろう。そうは言っても、その 場合でも昇進によるインセンティブ効果が小さい訳ではなく、むしろほとんどの職種にお いて最も重要なインセンティブの源泉になっていることは否定できない。重要なのは、昇 進制度がどのようなインセンティブ効果を持っているか正しく評価して、適切な運用によ ってその弊害を除去し、足りない部分を成果給やボーナスなどで補うことが重要であろう。 たとえば、協力やコーディネーションが大事な職場では、職場の壁を超えた昇進や横滑り 人事移動を増やし、狭い職場内で競争心が強まることを防ぐことが望ましいかもしれない。 また外部からの中途採用が活発な職場では昇進がインセンティブメカニズムとしては十分 ではない可能性が高く、成果主義の要素が強い報酬制度が必要となる可能性が高い。次号 以降で、事業特性と人事制度の補完性についてはさらに議論を深めていきたい。 注)一橋ビジネスレビュー・ビジネスケース「ベネッセコーポレーション」 (青島矢一2001)、 慶応義塾大学ビジネススクール・ケース「株式会社ベネッセコーポレーション」(横田 絵理2003)と同社マネージャー向けインタビューに基づき要点をまとめた。 【さらに読み進めたい読者のために】 青島矢一「ベネッセコーポレーション」『一橋ビジネスレビュー』8月号、2001年 清滝ふみ「人事の経済学:昇進のインセンティブ効果とピーターの法則」『インセンティ ブ設計の経済学』第5章、2003年、勁草書房 横田絵理「株式会社ベネッセコーポレーション」『慶応義塾大学ビジネス・スクールケー ス』2003年 Becker, Brian and Huselid, Mark, “The Incentive Effects ofTournament Compensation Systems,” Administrative ScienceQuarterly, Vol.37, 1992:pp.336-350. Ehrenberg, Ronald and Bognanno, Michael, “Do TournamentsHave Incentive Effects?” Journal of Political Economy,Vol.98, No.6(December 1990):pp.1307-1324. Laurence J. Peter and Hull, Raymond. The Peter Principle :why things always go wrong, New York:William Morrow&Company, Inc., 1969. Lazear, Edward P., and Rosen, Sherwin. “Rank-Order Tournamentsas Optimum Labor Contracts,”Journal of PoliticalEconomy, Vol.89(October 1981):pp.841-864. Lazear,Edward.“Pay Equality and Industrial Politics,”Journalof Political Economy, Vol.97(1989):pp.561-580. Owan, Hideo. “Promotion, Turnover, Earnings and Firm-Sponsored Training,”Journal of Labor Economics,Vol.22,No.4(October 2004):pp.955-978. Prendergast,Canice.“Career Development and Specific HumanCapital Collection,” Journal of the Japanese and InternationalEconomies, Vol.6, 1992:pp.207-227. Rosen, Sherwin.“Prizes and Incentives in Elimination Tournament,”American Economic Review, Vol.76 (September1986):pp.701-715. Waldman, Michael. “Job Assignments, Signaling, and Efficiency,”Rand Journal of Economics, Vol.15 (Summer1984):pp. 255-267. 7 補完性の概念と組織変革 7.1 遅い昇進とボトムアップ組織 先月号で述べたように、昇進制度における日米の大きな違いは昇進のスピードである。 日本の大企業の多くは、入社後10年から15年の間は役職・職能等級の上で同期入社社員間 でほとんど差をつけない。近年、実力主義が叫ばれる中にあっても、「遅い昇進」制度に 大幅な変更を加えたという話はあまり聞かない。この点は、優秀な人であれば早くて新卒 採用後4、5年で同期に先駆けて昇進させていく米国企業の多くとは対照的である。先月 号では、差をつけないことで皆に昇進の可能性があるという期待を抱かせ、モチベーショ ンを維持するというPrendergast (1992)のモデルを簡単に紹介した。この説明は示唆に富 んでいるので、少し詳細に説明しよう。 今、従業員の適性や昇進の見込みについて、雇用主が私的情報を持っているとする。つ まり若い社員は経験が浅いため、会社が自分に何を期待しているのか、どんな特質や技能 を持った人が出世できるのかについて、十分な理解をしていないが、上司あるいは経営陣 はより明確な判断基準を持っているとする。その場合、優秀な社員を選抜して昇進させる ことは、上司の持つ私的情報を開示することになり、出世街道を走り始めたと自覚したも のはますますやる気を高めるが、最初の昇進を逃したものはやる気を失う。他方、待遇に 差をつけないことは、誰にでも頑張れば昇進する可能性があるという希望を抱かせ、全員 のやる気をある程度維持できる。Prendergast はこうした二つの性格の異なる均衡が生じ うることを簡単なモデルで示した。 早い昇進政策は、マネージャーが多くの権限を持ち、一般社員は上からの指示に従う集 権的な組織で最適となる。一方、遅い昇進政策は、分権的ですべての社員がある一定の権 限とコーディネーションの役割を持つ時に、全員のモチベーションを維持することが重要 となるので、望ましい選択となる。すなわち、早い昇進とトップダウン組織は補完的であ り、遅い昇進とボトムアップ組織は補完的であると解釈できる。 多くの日本の製造業企業では、比較的権限委譲が進み、チーム制、ジョブローテーショ ン、職場懇談会、などの横のコーディネーションや情報共有を高める工夫が取り入れられ ていることを勘案すると、遅い昇進制度は、多くの日本企業の組織設計に適合していると 解釈することができる。他方、優秀な管理者を早く特定する「早い昇進」制度を持った企 業において、こうした水平的な情報共有とコーディネーションを求める組織設計を採用し たらどうなるであろうか? せっかく能力の高い管理者をマネージャーにつけても分権的 な組織では彼の能力は十分に発揮されない一方、モチベーションのすでに下がってしまっ た一般社員に権限を委譲しても大きな成果は得られないであろう。この時、「遅い昇進」 制度とボトムアップ組織、あるいは「早い昇進」制度とトップダウン組織は、両方を共に 導入することで、お互いがお互いの効果を高め合うという働きを持つ。 7.2 補完性の概念 組織や人事制度を詳細に見ていくと、こうした補完性を持つものが数多くあることに気 づくであろう。補完性の概念を正しく理解していただくために、数値例をあげて説明しよ う。あるアパレルチェーンが、最新の在庫管理システムの導入に伴い、組織の変革を練っ ているとしよう。その骨子は、⑴マーチャンダイジング(MD)任務、つまり注文する商品 を選択し、それらをどう店舗に陳列するか決定する任務、を各店舗に権限委譲して任せ、 ⑵売り場ごとにチームを編成して顧客ニーズの吸い上げとノウハウの共有を図る、という ものである。その効果を探るために、立地条件と売り場構成が同じ店舗を選んで、MD 権限 委譲とチームの両方の導入、あるいはどちらか一つの導入を行い、導入1年後の在庫回転 率(=売上高/平均在庫高)にどのような違いが出ているか調べてみた(表1参照)。当 初の在庫回転率はどの店舗も16回転であったとする。在庫回転率が高ければ高いほど、在 庫の滞留時間が短いから、在庫コストは下がり収益性は向上する。 チームが導入されていない店舗でMD 権限委譲だけの効果を見ると、平均在庫回転率は逆 に2回転ほど低下する。ところが、チームだけを導入した店舗と、両方導入した店舗を比 較すると、MD 権限委譲の効果は3回転の改善と測定された。つまり、チームを導入するこ とで、MD 権限委譲の効果が高まると解釈できる。逆に、MD権限委譲の行われていない店舗 で、チーム導入の効果を見ると2回転の増加となるのに対し、MD権限委譲のなされた店舗 では、チーム導入の効果は7回転の向上と測定された。ここでも、MD権限委譲が、チーム 導入の効果を高めている。 このように、ある一つの活動の水準を引き上げることがもう一つの活動の限界生産性を 引き上げる時、二つの活動は補完物(complements)あるいは補完的(complementary)で あるという。同様に、ある制度の導入が、別の制度の効果を高める時、二つの制度は補完 的であるという(Milgromand Roberts 1990参照)。補完性の詳細な検証を行った研究とし ては、米国鉄鋼業界を調査したIchniowski, Shaw and Prennushi (1997)などが有名であ るが、ここでは簡単な例のみをいくつかあげよう。 一般に、広告活動(例えば、サンプルを配る活動)と、製品の質を高める投資は補完的 である。製品の質が高ければ、広告活動の効果は高まる。なぜなら、広告に釣られて製品 を購入した顧客は、実際に使用してみて質が高いことを知ると繰り返しその商品を買うこ とになるからである。逆に、広告活動によって認知度が高くある一定のサンプルが配られ る製品においては、質を高める努力はそれだけ口コミやお試し効果により、売上を押し上 げることになる。 次に、製品ラインの拡大(多品種化)と、CAD-CAM (computer-aided design and computer-aided machinery)の導入などIT 化による製造システムのフレキシビリティの向 上は補完的である。製造システムのフレキシビリティが高ければ、設定変更コストをさほ どかけずに同一ラインで多品種の製品を作ることができるため、製品ラインを増やしても 在庫をさほど積み上げる必要はない。つまり、製造システムのフレキシビリティへの投資 は、製品ライン拡大のコストを下げることによりその効果を高める。逆に、製品ラインが 多ければ、IT 化によって製造システムのフレキシビリティを高めることは在庫コストの削 減を通じ収益を改善することになるであろう。 最後に、権限移譲と業績連動型報酬制度は補完的である。権限を移譲された従業員は、 正しい意思決定を行うために多くの情報を集め、また決定事項を同僚や取引先とコーディ ネートしながら適切に実施することが求められるようになる。権限を持った人のモチベー ションを高めることがより重要になるため、自分や所属職場の業績に連動した報酬制度が より効果を持つ可能性が高い。逆に、自分の努力が収入に直接結び付く報酬制度の下では、 権限委譲はより望ましい行動を促すことを通じて生産性の向上につながる。 補完性の逆の概念が代替性である。ある一つの活動の水準を引き上げることがもう一つ の活動の限界生産性を引き下げる時、二つの活動は代替物(substitutes)あるいは代替的 (substitutable)であるという。製造システムのフレキシビリティを高める投資と在庫投 資、あるいは監視(モニタリング)の強化と業績連動型報酬制度が代替的であることは、 上の例から明らかであろう。 7.3 事例研究:Whole Foods Whole Foods Market は、全米最大のスーパーマーケット方式自然食品店チェーンである。 1980年にテキサス州オースティンで最初の店舗を出店した同社は、1984年以降出店と買収 を重ね、現在では従業員54,000人、米国、カナダ、イギリスに270店舗を展開している。同 社は、いわゆる理念追求型企業であり、環境に優しい農法を推進し、厳しい品質基準を満 たした有機栽培食品と化学添加物を使わない加工食品や健康食品しか扱わない。また地域 社会への奉仕を理念の一つに掲げ、純利益の最低5%を非営利団体に寄付することを公約 していることで知られている。従業員の健康保険料を全額会社負担にするなど福利厚生の 面でも手厚く、フォーチュン社の100 Best Companies To Work Forに11年連続で選ばれて いる。 Whole Foods Market の組織人事戦略の特徴は、徹底した自主管理チームの活用と従業員 や各店舗への権限委譲である。野菜、肉、ベーカリーなどの各売り場ごとにチームが編成 され、彼らは、売上げや利益やピアレビュー(他チームや他店舗の従業員による評価)な どの業績指標によって評価される。その結果、陳列の仕方や棚のラベルに書き込まれる情 報にはさまざまな工夫が凝らされ、販売している商品に対して店員が持つ知識は一般のス ーパーマーケットとは比較にならない。もっとも極端な例は、従業員の採用である。採用 候補者を選ぶのは店長の権限であるが、最終的な採用決定は各チームに任される。候補者 はチームに配属され、1カ月の試用期間を経た後、チームでの協議と票決にかけられ、多 数決により採用が支持された者のみが本採用となる。チームのメンバーの給与や昇進は、 そのチームの業績によって決まってくるので、採用するメンバーも真剣であり、1カ月の 間に信頼関係が醸成できない候補者は採用されない。 チームリーダーは各店舗ごとにチームを組み、店長は各地域ごとにチームを組み、チー ム内でさまざまな情報が共有される。また会社もさまざまな情報を従業員に提供する。全 店舗の各チームごとの売上げや利益は週単位で全従業員に対し公表されているので、全従 業員が証券取引関係法上のインサイダーとして扱われる。従業員に対しさまざまな経営情 報を提供するスタイルは、一般にOpen Book Management と呼ばれるが、Whole Foods Market のそれは他に例を見ない。例えば、従業員なら誰でも、全従業員の給与額を見ることがで きる。こうしたさまざまな情報は、チームの意思決定を助け、またチームが自己評価を行 う際の尺度を提供する。もちろん、給与の公表が店など評価者と従業員の摩擦を引き起こ す可能性があるというコスト面にも注意が払われなければいけないが。 Whole Foods Market はチームの自主活動をサポートするため、他店の成功した手法を学 ぶ機会も提供する。上記の各地域ごとの店長チームもそうした役割を持つが、ピアレビュ ーも大きな役割を担う。他店舗の評価をお互いに行うことで、良い手法は社内で急速に広 がってゆく。また新しい店舗を開店する時は、そこで働く店長やチームリーダーは、他店 舗からの転勤者で占められ、Whole Foods Market で培われたノウハウがスムーズに移転す るよう配慮がなされる。 過当競争で賃下げ圧力の強いスーパーマーケット業界では組合の存在が当然視されてい るが、Whole Foods Market には組合はない。経営陣は組合の設立に一貫して反対してきた し、組合を作ろうという動きは一般従業員の支持を集められなかった。従業員満足度が高 いというのが背景にあるが、経営陣が組合の設立に反対するのは、Whole Foods Market の 人事政策に合わないというのが最大の理由であろう。組合ができるとOpen Book Management を維持するのは困難となる。なぜなら賃金交渉の相手に経営情報のすべてを見せるのは、 ポーカーをプレイするときにカードの内側を相手に見せるようなものである。また組合組 織を通じて、経営情報が社外に漏れる可能性もある。もう一つは組合ができると給与が画 一化され、チームの業績に応じ給与格差をつけることがより困難となってくるであろう。 こうしてみると、自主管理チーム、権限委譲、情報共有、Open Book Management、ピア レビュー、組合の排除、といった組織人事政策の構成要素の一つ一つがお互いの役割を高 める働きを持っている、つまり補完物であることがわかる。 7.4 補完線の含意 優良企業を見習って、その優れた経営手法を取り入れていくことはベンチマーキング (benchmarking)と呼ばれるが、その際、さまざまな制度、慣習、手法の間の補完性を理 解しないと大きな失敗をもたらす。なぜならば、他社で実践されている二つの制度あるい は手法の間に補完性がある場合、一つだけ自社に取り入れると効果が全く出ないばかりか、 利益を逆に押し下げる可能性がある。たとえば、表1の数値例では、MD 権限移譲とチーム の二つを導入して初めて大きな効果が期待でき、MD 権限移譲だけの導入では、在庫回転率 は逆に低下している。こうした現象は、図1のように表現できる。図1では、先の1例に 倣って、横軸に商品ラインの数、縦軸に製造システムへのIT 投資を置いている。図は、商 品ラインの数と製造システムへのIT 投資額に応じて利益がどう変わるかを表しており、利 益レベルは等高線で示されている。O点とF 点で局所的なピークをつけているが、F 点の方 が高い利益を実現している。これによると、今O点にある企業が、商品ラインの数と製造シ ステムへのIT 投資額を適切な水準に両方引き上げると、より高い利益レベルFが得られる。 ところが、商品ラインだけ増やしたり、製造システムへのIT 投資だけ行うと、等高線を谷 の方向へ下って行き利益は減少する。 これらの例からわかることは、他社からベストプラクティス(最善手法best practice) を学ぶ時には、それが機能している背景を理解したうえで、補完的な手法を含めシステム 全体をコピーする必要がある。継ぎ接ぎの組織人事制度改革では上手くいかないのである。 二つ目の含意は、図1でも表されているように、補完性が見られる時、一般に複数の局 所解が存在する。あるいは、企業の意思決定の権限が複数の意思決定者に分散している時、 複数均衡が存在するということである。図2 は、Milgrom and Roberts (1992)で使われ た概念図を再現したものである。今、生産マネージャーは、生産ラインにおけるバッチ (batch)の大きさを決定するとする。バッチとは、同じ設定(モデル、サイズ、色、付属 機能)で一度に作る商品の量を指す。バッチサイズが大きくなればなるほど、同じ商品の 在庫が積みあがることになるが、ラインの設定を変更するために浪費される時間を短くす ることができる。他方、マーケティング・マネージャーは、市場投入する商品の数を決定 するとする。商品の数が増えれば、それだけ個々の顧客のニーズに近いものを提供するこ とができる一方、バッチサイズが変わらなければ、品数が増える分在庫も増やす必要が出 てくる。 今、生産マネージャーもマーケティングマネージャーも企業利益への貢献によって評価 されるが、意思決定は個別に行い、コーディネーションはないとする。実線が生産マネー ジャーの最適反応(best response)であり、点線がマーケティングマネージャーの最適反 応(best response)である。最適反応とは、ゲーム理論で使われる概念であり、他のプレ ーヤーの行動を与件とした時に各プレーヤーにとって最適な行動を指す。たとえば、図に 示された実線は、マーケティングマネージャーの選択を与件とした時の生産マネージャー にとっての最適な選択を示しており、商品ラインの数からバッチサイズへの写像である。 同様に、点線は、生産マネージャーの選択を与件とした時のマーケティングマネージャー にとっての最適な選択を示しており、バッチサイズから商品ラインの数への写像である。 したがって、交点では、双方ともに行動を変更するインセンティブはなく、均衡を形成す る。この図では、二つの安定した均衡点A、Bがある(真ん中の交点は不安定な均衡であ るので考慮しない)。複数均衡が生じるのは、商品ラインの拡大とバッチサイズの削減の 間に補完性があるからである。 7.5 組織変革はなぜ難しいか? 環境変化や技術変化に応じて、生産プロセス、職の設計、権限配分、人事政策などに大 きな変化を加えることを組織変革と呼ぼう。多くの企業で、組織変革には多くの困難が伴 うので、組織変革のサポートを専門とするコンサルティング会社があるほどである。その 理由の一つとして複数均衡の存在があげられる。 図2の例で、ある企業が、これまでA点つまり少ない商品と大きなバッチサイズの選択 を行ってきたが、製造システムがよりフレキシブルになり、生産ラインの設定変更が容易 にできるようになってきたために、B点がより有利になったとする。技術変化により最適 反応曲線が移動して、交点がB一つになりA点が消滅する可能性もあるが、今は複数均衡 がある状態は変わらないとする。この時、AからBへの移動は容易ではない。まず、A点 にある企業の人々には、B点の存在およびそこでより高い利益が期待できるということは 予測しがたい。生産システムを大きく変更した時に、どのような問題どのようなコストが 生じるか正しく予測できるほど、人間は合理的ではないだろう。また、B点が良いのでは ないかと何となく予想がたつ時でも、生産マネージャーとマーケティングマネージャーが 歩調を合わせて変更しない限りB点には到達できない。相手の選択を与件とした時、A点 における双方の選択は最適となっているため、コーディネーションなく自分から一方的に 変更を加えることは、自分の業績を落とすことになるからである。したがって、組織を変 革する時には、いったん権限をトップに集中させ、トップのリーダーシップのもとである べき姿に向かってシステム全体を大きく変化させることが必要になる。一つ一つ時間差を おいて変更を加えたり、漸進的に修正を加えたりすることは、却って業績の悪化を招き、 旧システムへの揺り戻しを招く可能性を高める。 組織変革が難しいもう一つの理由は、従業員特性と技術と組織形態の間に補完性がある 可能性があるためである。Bresnahan, Brynjolfsson, and Hitt(2002)等は、1990年代半 ばに行ったサーベイ結果を基に、IT 投資と、チーム活動や分権的意思決定を主体とする職 場組織の活用と、従業員の質の高さの間に補完性があることを示した。つまりチーム組織 の導入は、IT 投資による情報の共有や分析ツールの提供があって初めて効果を持つし、そ のためには、従業員も必要なコミュニケーション能力や分析力を持つことが必要となる。 従業員が必要な能力を持っていない職場で、革新的な組織への変革を試みてもなかなか上 手くいかない。特に、雇用保障が与えられている企業では、組織変革・人事制度改革に伴 い、採用方針を変えたとしても、人材が簡単に入れ替わるわけではないので、現在採用さ れている従業員の技能や特性あるいは企業文化を前提に技術や組織形態の最適化を図るこ とが要求される。終身雇用制度の下でのこうした制約は、多くの日本企業にとって、コス トとして認識される必要があろう。 最後に、組織変革を進める上で、参加者がその成功に対し楽観的であることがしばしば 大きな差を生む。従業員の行動が相互依存関係にある時、皆が協力して新しい生産プロセ スや職務の変更に対応できるかどうかが、組織変革の成功の鍵を握るからである。また人々 は、成功すると思えば努力して成功に寄与したいと考えるが、失敗すると思えば無駄な努 力を払うのは止めようと考えるだろう。この時、各従業員の努力水準は、お互いに補完的 である、つまり他の従業員の努力水準が高いと期待される時ほど、自分の努力水準の効果 が高くなり、モチベーションが上がる。 全社的に組織変革を行うことに伴うリスクが高い時、工場や職場を限定して部分的かつ 実験的に変更を試みることがしばしば行われる。その際、従業員からボランティアを募る ことが望ましい場合が多々ある。なぜなら、ボランティアを買って出ること自体、新しい 組織で必要とされる技能を持ち、組織変革に楽観的であることのシグナルと捉えられるか らである。Ford が1979年にQC 活動や提案制度を柱とするEmployee Involvement Program を導入した際には、60の工場のうち呼びかけに応じた4つの工場において、それぞれ200人 のボランティアを募って実験的に開始し効果をあげた。また、カリフォルニアのアパレル 会社Koret 社が実験的にチーム生産方式を導入した際には、ボランティアを募ってチーム を組ませた(Hamilton, Nickerson and Owan 2003参照)。 先に組織変革において必要な技能や意識を持った人材を集めることが重要であると述べ た。より一般的に、新しい事業を始める上で、必要な人材を集めるために、どのような人 事政策を設計したらよいかということも、企業経営上重要な課題である。重要なポイント は、単に必要な人材を特定して適切な採用基準を作るだけではなく、必要とする人材が集 まってくる仕組み作りを行わなければいけない。来月は、人事制度全体の設計が採用面で どのような役割を果たすか議論をしてみたい。 【さらに読み進めたい読者のために】 Bresnahan, Timothy F., Erik Brynjolfsson and Lorin M. Hitt,“Information Technology, Workplace Organization, and the Demand for Skilled Labor:Firm-Level Evidence,” Quarterly Journal of Economics, 117(1), 2002:pp.339. Hamilton, Barton, Jack Nickerson and Hideo Owan, “Team Incentives and Worker Heterogeneity:An Empirical Analysisof the Impact of Teams on Productivity and Participation,”Journal of Political Economy, 111(3), June 2003:pp.465-497. Ichniowski,Casey,Kathryn Shaw and Giovanna Prennushi,“The Effects of Human Resource Management Practices on Productivity:A Study of Steel Finishing Lines,”American Economic Review, 87(3), 1997:pp.291-313. Milgrom, Paul and John Roberts, “The Economics of Modern Manufacturing: Technology, Strategy and Organization,”American Economic Review, 1990, 80(3):pp.511-28. Milgrom,Paul and John Roberts.Economics,Organization and Management, 1992, Prentice-Hall, New Jersey(邦訳『組織の経済学』NTT出版). Prendergast,Canice,“Career Development and Specific Human Capital Collection,” Journal of the Japanese and International Economies, 6, 1992:pp.207-227. Roberts,John,The Modern Firm, 2003, The Oxford University Press, Boston. (邦訳『現代企業の組織デザイン――戦略経営の経済学』NTT出版) 8 採用政策と逆選択 8.1 資本と必要技能の関係 より優秀な社員を採用したいというのは、どの企業の願いでもある。しかし、「優秀な 社員を採用する」というのは採用方針にはなり得ない。優秀な社員を採用し定着させるに は費用がかかる。結局は、個人の生産性を最大限に引き出せる会社が、最も高い賃金と最 良の勤務環境を提供できるのであり、事業内容にあった能力と特性を持った人材をターゲ ットにするしかない。どのような人材を集めたらよいかという問題は、職種のみならず、 技術や事業モデルにも依存する。 今あなたの会社がより高性能の機械や高機能の情報システムを導入したとする。これに より、採用基準を変更すべきであろうか? つまり、これまでよりも学歴や技能レベルの高 い人材を採用ターゲットにすべきだろうか、あるいは資本コストが上昇した分人件費を抑 える努力をすべきであろうか? 表1を見ていただきたい。衣料品の生産工場を想定しよう。 古い織機を使いシャツを6枚生産できる器用な早井さんと4枚しか生産できない野呂間さ んの二人の採用候補者がいるとする。どちらを採用すべきであろうか? 経験能力ともに高 い早井さんは、他にも条件の良い雇用機会はあるため、より高い賃金を払う必要がある。 他方、野呂間さんは、働き口に恵まれず、時給800円で採用できる。表1にある留保賃金と は、その人が他の就業機会において得られる賃金(あるいは働かない場合に得られる効用 の金銭的価値)の中で最高の賃金レベルを指し、これ以上の賃金を払わないと採用に応じ ない水準である。1枚当たりの生産コストを見ていただきたい。早井さんの場合、1時間 当たりの総コストが2000円+1000円=3000円であるから、1枚当たり3000円÷6=500円の 生産コストがかかる。野呂間さんの方は同様に計算して450円であるから、こちらの方がコ ストは低い。この場合は、優秀な人材(早井さん)を採用するというのは間違いである。 次にこの会社がより高速で稼働する最新鋭の織機を導入したとしよう。これにより、工 員の生産性は2.5倍に上昇するが、資本コストも同時に3倍に跳ね上がる。この機械の導入 を前提とすると、今度は生産性の高い早井さんの方が割安である。つまり、せっかく購入 した高価な機械を能力の低い人間に任せるのは、もったいない。能力の高い人に使っても らって十分に生産性を上げ資本コストを回収した方が良い。 資本の蓄積と共に必要とされる人的資本が上昇するというのはしばしば観測される現象 である。先月号で紹介したように、Bresnahan, Brynjolfsson, and Hitt (2002)らの研究 によると、情報技術の活用と、チーム活動を柱とする新しい生産組織と、人的資本の間に は補完性がある。つまり、新しい情報技術は、情報の共有とコミュニケーションと権限委 譲を伴って初めて最大限に活用される。さらに、そうした生産組織は、高い分析能力とコ ミュニケーション能力を必要とするため、社員の技能も高める必要がある。 しかしながら、資本の蓄積とともに技能への需要が高まるということは、常に生じるわ けではない。表1の例では、高い織機の導入が早井さんの生産性を9枚/時間押し上げ、野 呂間さんの生産性を6枚/時間押し上げた。つまり、生産性の上昇幅は、早井さんの方が高 い。これは、新しい技術と技能の間に補完性が存在することを意味する。図1に示されて いるのは、技能レベルに応じて従業員の生み出す収益がどう変わるかを示した収益関数と、 技能レベルを変数とする賃金コストの関数を描いたものである。その差が当該従業員の生 み出す利益であり、その利益を最大化するレベルが最適技能である。図示されたC技術へ のシフトは、技能の限界収益を高めることを通じて、最適技能を押し上げる(図中の矢印 参照)。しかし、点線で表されたS技術へのシフトで示されるように、技術進歩の中には、 技能の価値を押し下げるものもある。産業革命後進展した機械化は、鍛冶屋、木工職人、 パン焼き職人、ガラス職人、靴職人を含む多くの職人の技を機械が代替することによって、 経験と技の価値を低下させた。フォードによってもたらされた大量生産方式も、自動車工 に必要な技能を分業によって大幅に減らした。Autor, Levy and Murname (2003) らの研究 によると、コンピューターなどの情報技術の発達は、ルーチン化が可能な事務労働を代替 し、抽象思考に基づく問題解決や複雑なコミュニケーションを求められる非定型的な任務 を行う労働者への需要を増大させた。 こうしてみると、技術革新が進む分野では、新しい技術が必要な技能レベルを上昇させ るのか低下させるのか、あるいはより具体的にどのような人材を必要とするのか、十分に 考慮した上で、採用基準を決める必要があることがわかる。次に、事業モデルに採用政策 をマッチさせた好例として、ワークスアプリケーションズの事例を紹介する。 8.2 事例研究:ワークスアプリケーションズ ワークスアプリケーションズ(以下ワークス)は、大企業向けERP(Enterprise Resource Planning)パッケージを専門とするソフトウェア会社である。ERP パッケージとは、統合 業務パッケージとも呼ばれ、企業の経営資源を効率的に活用するため、会計、人事、生産、 顧客管理など主要業務を包括し統合的に管理するためのソフトウェアを指す。ワークスは、 1996年に創業し、それまでドイツのSAP 社とアメリカのOracle社の海外二大企業によって 80%以上のシェアを占められていた日本市場で急速にシェアを伸ばし、現在は人事給与パ ッケージでは57%、会計パッケージでは22%の市場シェアを握る。創業からわずか5年で 株式公開し、2004年には、アナリスト・投資家が選ぶ「期待する新興企業調査」にて第1 位に選ばれた。 ワークスの企業理念は明確である。これまで、大企業がオーダーメイドで社内システム を開発してきたため、標準パッケージの国内ベンダーが育たず、ERP パッケージの必要性 が高まった後も、海外のソフトウェアパッケージを持ち込んで、それを自社のニーズに合 うようにカスタマイズしてきた。ワークスは、日本企業の実情に合ったカスタマイゼーシ ョンの要らない標準ERP パッケージを開発することにより、日本の情報投資効率を欧米並 みに劇的に改善することを目標として設立された。 創業期のワークスは、成功すれば莫大な利益が予想されたものの、失敗するリスクも高 かった。経営陣の試算では、日本で欧米並みのERP パッケージの導入が進めば、日本企業 の情報投資は5兆円節約されるというものであった。そこにワークスが貢献することで、 大きく成長できると見込んでいた。一方、多くの日本企業は、「当社には当社独自の業務 プロセスがあり、標準ソフトウェアを導入しても必ず何らかの機能をカスタマイズしなけ ればならない」と信じており、ワークスの理念に懐疑的な顧客企業も多かった。また、SAP 社、Oracle社共に日本での実績を積んでおり、スイッチングコストの高い分野で、シェア を伸ばすことは困難であった。 そうした中、ワークスの創業者たちは、ボランティアからなる人事給与パッケージ開発 のための研究会を発足させた。そこで、カスタマイズの必要性をなくすために必要機能数 の洗い出しを行い、試作版の開発を通じて、必要な開発資金額と必要なエンジニアの質と 量の予想を立てることができた。彼らの事業モデルの柱となったのは、年数回の「無償バ ージョンアップ」である。法制改正、税制改正、社内制度改正、OS のバージョンアップな ど、すべての変更要因に対して、ワークスは無償で新たな機能を追加するという保証であ り、顧客企業にとっては保守料を払うだけで、情報投資に関する将来の不確実をゼロにで きるという画期的な契約であった。こうした事業モデルで、創業者たちは、失敗のリスを 抑え、ワークスを無事離陸させた。 創業後のワークスがぶち当たった次の壁は人材の確保であった。ワークスの求めるエン ジニアは、顧客に言われたとおりに機能を開発する人間ではなく、顧客に最もメリットの ある機能を自ら考え提案できる人材である。顧客に言われた通りでは、普遍性のないおび ただしい機能が増え、パッケージソフトは破たんしてしまう。最もメリットのある機能で あれば、同じニーズを持つ他社にも価値を提供でき、顧客にとってもプロセスの効率化、 標準化を促すことにもなる。 しかしながら、受託型の仕事を覚えた業界経験者は、プログラミング能力は優れていて も、新しい発想で新しい機能を作る力は弱い。ワークスの事業モデルに適した研究開発型 のエンジニアは数が少なく、ワークスは必要な人材を確保することができなかった。また、 営業職においても、ワークスは、代理店販売をせず直接販売を貫き、一人の営業マンが、 製品説明、価格交渉、導入方法の提案、法務との交渉などすべてを担当する。一人で担当 することで、顧客のニーズや状況を理解しやすくなり、顧客の問題解決をサポートしなが ら、顧客の置かれた状況について仮説を立てやすくなる。チームでの営業に慣れた経験者 の先入観はワークスにとっては、むしろ邪魔であった。 その結果、未経験者から論理的思考力や発想転換力の高い人を採用して訓練する、とい う方針へ転換する。ワークスの経営陣は、「自ら前例のない仕事に取り組み、自らの思考、 発想でブレークスルーする人材」をクリティカル・ワーカーと呼び、こうした人材の採用 を目指している。そして、クリティカル・ワーカーが来たくなるような訓練の場を提供す るために、巨額の投資をしはじめた。1999年に「プロフェッショナル養成特待生制度」と いうプログラムを創設し、文系理系を問わず潜在能力の高いエンジニア未経験者を採用し、 給料を払いながら6カ月という短期間で、専門学校3年プラス実務1年分の経験に匹敵す るトレーニングを提供した。「プロフェッショナル養成特待生制度」の年間応募者が3000 人を超えるようになると、大学生向け「問題解決能力発掘インターンシップ」、営業社員 を採用するための「営業MBAプログラム」、転職希望者を対象とする「社会人向けインター ンシップ制度」などを創設し、人材の発掘に乗り出した。インターンシップ・プログラム で優秀な成績を収めたものには、最長5年間いつでも入社できるという「入社パス」を発 行する。 こうした研修プログラムは、すべて5月号で解説した一般的研修(general training) にあたり、受講者はワークスに長く留まる保証はなく、投下した研修費用を回収できない 可能性が高い。ところがワークスでは、いくつかの諸制度が離職率を下げる働きを持って いる。まず、経営陣とのコミュニケーションの重視である。前述の研修プログ ラムの際には、必ずCEOが講師として参加し、ワークスのビジョンや価値観を採用候補者に 訴える。入社後も、毎月1回、全社員が集まり経営陣が直接会社の戦略、方向性を説明す るCLOWSという場が設けられている。コミュニケーションを通じ、ワークスの理念と価値観 に共鳴したものが入社し留まることで、相性の高い採用が実現する。第二に、多面評価と 評価連動型報酬である。上司だけでなく普段共に仕事を行う同僚も評価を行うことで、多 面的な貢献やチームスキルなども加味されたバイアスの少ない評価が行われる。そして報 酬はこうした多面評価に連動する形で決定されるため、優秀な人が、年功的評価報酬制度 の下で、十分な報酬を受けられず辞めるリスクを減じている。第三に、クリティカル・ワ ーカーが自律的に業務に取り組める自由度の高い職場を実現するために、中間管理職の少 ないフラットな組織と、コアタイムのないフルフレックスタイム制度が採り入れられてい る。 ワークスの採用過程のもう一つの特徴は、採用されるためのハードルの高さである。数 週間あるいは数カ月にわたる競争の激しいインターンシップや研修プログラムに参加しな いと入社パスはもらえない。もちろん優秀な参加者にとってのメリットは高い。短時間で 価値の高いスキルを身につけられると同時に金銭的なメリットもある。たとえば、「社会 人向けインターンシップ制度」で優秀な成績を収めると、ワークスに転職するしないに拘 わらず30万円の報奨金が入社パスとともにもらえる。しかしながら、自らの能力に自信が ないものや、転職先にこだわりのないものは、最初からそれだけの時間的なコミットメン トはできない。すでに入口で、自らの能力を試すことに前向きな、モチベーションの高い 人間だけをスクリーニングする仕組みができている。 以上のような採用政策の効果が、ワークスのこれまでの驚異的な成長を可能にしてきた ことは間違いない。 8.3 リスキーな人材 あなたが採用担当者であった時に、すでに他社で実績をあげ能力や経験の評価が易しい 候補者と、あなたの業界では未経験だがポテンシャルも感じられる候補者とどちらを好ん で採用するであろうか? 後者をリスキーな人材と呼ぼう。例えば、表2のように、島耕作 さん、山岡士朗さんの二人の候補者がいる。島さんについては、職歴やこれまでのポジシ ョンでどういった実績をあげてきたか、ある程度履歴書や、前雇用主に対するレファレン スでわかっているとしよう。山岡さんは、島さんよりも若く、出版業種出身で、あなたの 会社の業務についての知識は全くないが、面接での評判は良く、ポテンシャルはありそう である。今、島さんの生産性は1000万円とわかっているが、山岡さんの生産性については 不確実性が高い。50%の確率で、論理的思考とリーダーシップを活かし成功を収めるが(そ の場合の生産性は2500万円)、50%の確率で、自信過剰の単なる怠け者で、会社に損害を 与える可能性がある(その場合の生産性は-500万円)。両者ともに平均値をとると1000万 円の生産性である。彼らの給料は、学歴や経験から計算して最初はともに年間700万円が妥 当と判断されたとする。したがって彼らの採用により得られる初年度の予想利益は300万円 である。 どちらを採用すべきであろうか? その答えは、リスキーな人材の価値をどう測るかによ る。初年度の平均的生産性が同じだとしても、次年度以降も同じである必然性はない。も しリスキーな人材が実際に優秀で顕在化した能力が高ければ、彼により責任のある任務を 任せて能力をさらに引き出すことができる。彼がもし期待外れに終われば、配置転換や子 会社への出向、場合によっては解雇により、会社にとってのダメージを減らす措置を取る ことができる。Lazear(1998)は、従業員をオプションと捉えることにより、企業はリス キーな人材から利益を得ることができると主張した。つまり、株のオプションのように、 価値が上がればその上昇分を会社は受け取ることができるし、価値が下がればその影響を ある程度食い止めることができる。そして、株のボラティリティが高いほど、そのオプシ ョン価値が高いように、従業員の生産性に関する不確実性が高いほど、会社にとってのオ プション価値は高い。 もちろん、高い能力が顕在化すれば、同時に給与も引き上げなければ、辞めてしまうリ スクも高まる。しかしながら、情報の非対称性があり、他社はこの従業員の生産性を正確 に測ることができないとすると、期待生産性の上昇分ほどには給与を引き上げる必要はな い。また企業特殊的人的資本への投資が活発な企業では、もともと給与は外部企業にとっ ての期待生産性より高く設定されているため、多少能力の高い従業員であることが市場に わかっても、引き抜きに会うリスクは小さい。いずれの場合も、会社側は顕在化した能力 によって得られる高い生産性の一部を利益として享受することができる。したがって、情 報の非対称性が高いほど、企業特殊的人的資本が高いほど、リスキーな人材のオプション 価値は高いと言える。 転職の現場において若い人間が好まれるのは、若い人間ほど不確実性が高く(よりポジ ティブな表現を使えば、ポテンシャルが高いため)、オプション価値が高いというのが一 つの理由である。また、これまでの議論から明らかなように、解雇がしやすいほど、期待 はずれな従業員を入れ替えることが可能となるため、リスキーな人材のオプション価値は 高まる。このことは、解雇が困難な日本においては、リスキーな人材のオプション価値は 低く、米国と比べ、より堅実な社員を好む風潮が生まれやすいことを示唆する。 リスキーな人材のオプション価値は、企業の事業特性や事業モデルあるいは職の特性に よっても変わってくる。今、二つの異なるタイプの事業あるいは職を想定しよう。図2に 見られるように、その二つの事業あるいは職では、異なる利益の分布が予想される。横軸 はその事業あるいはその職にある社員が生み出す利益であり、縦軸はその利益の確率密度 あるいは頻度を表す。左をスター事業(スター職)、右をガーディアン事業(ガーディア ン職)と呼ぶ。前者では、大幅な損失を負う下方リスクは限定的であり、莫大な利益をも たらす上方ポテンシャルは高い。たとえば、ソフトウェア事業はそれほど大きな投資は要 らないので、失敗した時の損失リスクは比較的小さいのに対し、仮にソフトウェアが成功 した時は限界費用が極めて小さい分大きな利益が出る。また研究開発という職業は、大き な装置が必要な場合を除いては投下コストは限定的であるのに対し、ヒット商品を当てた 時の会社にもたらす利益は大きい。これらは、スター事業あるいはスター職の例である。 それに対し、ガーディアン事業(ガーディアン職)は一定水準以上の利益を生み出すポテ ンシャルは限定的であるのに対し、大幅な損失を会社に与えるリスクは高い。たとえば、 電力事業というのは、価格が規制されていること、需要の予測がしやすいこと、燃料の多 くは長期契約により調達していることなどから、利益マージンは安定しており、莫大な利 益を稼ぐことはあまりない。しかしながら、一たび原子力発電所の事故や送電線の事故が 生じると大幅な損失を被る危険性がある。また品質管理の仕事は、どんなに上手くやって もそこで利益を稼ぐことはできないが、品質管理を誤って不良品や有害物質を含む製品を 市場に出してしまった時には、会社に巨額の損失をもたらす可能性がある。これらは、ガ ーディアン事業あるいはガーディアン職の例である。こうした職の特徴づけは、もともと Jacobs(1981)によるものであるが、Baron and Kreps(1999)によって広く紹介されるよ うになった。 さて、どちらの事業あるいは職で、リスキー社員のオプション価値はより高いだろうか? スター事業(スター職)において必要な従業員属性は堅実さではない。新しい課題に果敢 に取り組み、常により良い方法を求めて実験を行う進取の精神を持った従業員が、企業に 大幅な利益をもたらすポテンシャルを持っている。逆に、ガーディアン事業(ガーディア ン職)においては、下方リスクが限定的とはなりえないから(事故が起きてから解雇して も遅い)、オプション価値はないと思った方がよい。むしろ、保守的なアプローチで確か な方法だけを堅実に実行する従業員が必要となる。 さて、こうした視点から、事例研究で取り上げたワークスを見ると、この会社の事業モ デルは明らかにスター事業を示唆している。ソフトウェア産業であることに加え、オーダ ーメイドの市場をERP パッケージで代替して日本の情報投資効率を引き上げるという目標 が達成された時のこの企業の利益は計り知れない。また、ワークスのエンジニアや営業職 の持つ技能の多くは一般的人的資本であると考えられるが、ソフトウェア開発の仕方や営 業の仕方が他社と異なるため、転職してもワークスで身に付けたいくつかの技能を同じよ うに使える企業は他にはないかもしれない。その場合、企業特殊的な職のデザインがやは り企業特殊的人的資本を生み出し、リスキーな社員のオプション価値は高い。ワークスの 求めるクリティカル・ワーカーは、本稿でいうリスキーな人材である。 8.4 逆選択の問題 必要な人材のターゲットを定め、採用基準を作った後に問題となるのが、どうやって採 用候補者を選別(screening)するかという問題である。応募者の才能や技能レベルは、簡 単には測れない場合が多い。 今、表1で議論した企業が新型の織機を採用し、シャツを生産しはじめたとしよう。早 井さんを採用すると、資本コストを差し引いた付加価値が2700円、野呂間さんを採用する と、同じく資本コスト差し引き後の付加価値が800円とする(シャツ1枚400円の契約で原 材料費20円とすると上記の数字が出てくる)。ここで、早井さん、野呂間さんというのは、 あくまで労働市場で予想される人物のタイプを類型化したもので、実際には誰が早井さん、 野呂間さんに相当する生産性を持つのかわからないとしよう。しかしながら、採用応募者 の一人一人がそれぞれのタイプである確率は二分の一であり、留保賃金は、やはりそれぞ れ2000円、800円であるとする。 こうした情報の非対称性がある場合、いくらの時給をオファーすればよいだろうか? 資 本コスト差し引き後の付加価値が(2700円+800円)÷2=1750円となるから、管理経費な どを差し引いて、例えば1400円という時給をオファーしたとする。これで問題は生じない だろうか? 実はこの時、2000円の留保賃金を持つ早井さんタイプの労働者は入社せず、生 産性の低い野呂間さんタイプの労働者しか実際には入社しない。その結果、会社の利益は、 野呂間さんタイプの労働者の(資本コストを除いた)付加価値800円-時給1400円=-600 円、つまり600円の損失を出すことになる。 このように、企業にとって望ましい人材が入社せず、望ましくない人材が入社する現象 は、雇用者と被雇用者の間で情報の非対称性がある時に生じ、逆選択(adverse selection) の問題と呼ばれている。逆選択の問題が生じやすいのは、中古車市場のように品質の評価 が難しい市場であるが、労働市場も例外ではない。 逆選択の問題を避けるために、企業も優秀な従業員もさまざまな対応策を取る。優秀な 人間は、自分が優秀であることを示すために、シグナリング活動を行う。つまり、能力の 高い人、あるいはモチベーションの高い人間しかやらないことをあえて遂行し、市場に対 し、自分のタイプを立証する行動をとる。大学院やビジネススクールに通って学位をとっ たり、資格を取得したり、あるいは、シグナリング効果の高い職歴を得るために花形の職 種に就くことを選ぶかもしれない。 企業も情報の非対称性を克服するために、スクリーニングに費用をかける。学校名、職 歴、資格など履歴書にある情報でふるいにかけることもあれば、前の雇用企業からレファ レンスをとったりする場合もある。能力テストを行ったり、時間をかけた面接を行う企業 も多い。企業が、逆選択の問題を解決するもう一つの方法が、試用期間(probation)を設 けることである。従業員は経験財、つまり使ってみて初めてその品質がわかる財である。 したがって、企業が高品質の商品を売り出す時にサンプルを提供をするように、人材につ いてもお試し期間があっても良い。ただし、試用期間の間に候補者の技能が計測できる場 合に限られる。つまり、研究開発職のように結果が出るまでに時間がかかる職業では、試 用期間を設けることは通常意味がない。また先述のガーディアン職でも、試用期間は望ま しくない。試用期間中の失敗が原因で会社に多大な損害を与える危険性があるからである。 大企業で社長を社外から雇う際に、試用期間を設定する場合はないことを考えれば理解で きよう。 8.5 自己選択によるソーティング 逆選択を避けるもう一つのアプローチは、求める人材が自分から来たくなるような条件 を整えるということである。こうした自己選択(selfselection)によって、欲しい人材だ けが集まるようにすれば、スクリーニングの労力は節約することができる。チャレンジン グな研修プログラムを提供することによって、ワークスは、能力を活かすチャンスを探し ていた前向きな若者を多数引き付けることができた。契約理論では、プリンシパルにとっ て望ましい特性を持ったエージェントを惹きつけるような契約を提示することにより、契 約相手の選別を行うことをソーティング(sorting)と呼ぶ。 ソーティングを行う上で最も有効な人事制度が報酬制度である。図3を見ていただきた い。これは、美容業界で実際に見られる美容師の報酬制度のいくつかの形態を示している。 まず時給制、月給制など固定給制度をとっている店舗がある。次に売上げに応じて給料が 変わる歩合制を採用している店舗がある。完全歩合制つまり収入のすべてが歩合によって 決まる場合、通常売上げの4~5割の歩合が多い。また、固定給+歩合(あるいは指名料) という形態も多く見られる。3番目のタイプは、面貸しと呼ばれる契約形態で、美容師は 場所代や材料代を店のオーナーに払う代わりに、料金収入のすべてを自らの所得として受 け取ることができる。つまり、この場合、美容師は自営業者となる。 さて、このような報酬制度の違いがあった時に、それぞれの形態の美容室には、どのよ うな技能レベルの美容師が集まってくるだろうか? 固定給を払っている店には、比較的経 験の浅い美容師が集まってくる。つまり、顧客に指名される技術も評判もない美容師にと って成果に基づく報酬制度はリスクが大きい。実際、このタイプの報酬制度は、多店舗経 営で、経験の短い美容師にトレーニングの場を提供しているところに多い。ただし、固定 給だからと言ってインセンティブがない訳ではなく、技を磨くにつれ、アシスタント、ス タイリスト、トップスタイリストとランクが上がり、それに伴って給料も上がり、各種手 当もつくから、経験の長い美容師も少ない訳ではない。しかし、美容学校を出たての美容 師が応募するのはこの種の店である。次に、歩合制の店には、勤務時間の自由度が高いお 店が多く、比較的経験を積んではいるものの、まだ独立するには至っていない中レベルの 美容師が集まっている。最後に、面貸しを行っている店には、評判をすでに確立し、自分 で顧客を集めることのできる、独立も考える腕の良い美容師が集まってくる。彼らは、一 番高い売上げを期待できるから、自営業者として働くことで、最も収入を挙げられる。つ まり、どの美容室も、報酬制度を正しく選ぶことで、ある程度自分たちに合った技能レベ ルの美容師を集めることができる。 パーフォーマンスの計測が比較的容易な業界において、固定給から歩合給など業績連動 型報酬に移行すると、生産性が上昇するケースがしばしば見られる。その原因は、6月号 で議論したように、業績連動型報酬にはやる気を高めるインセンティブ効果があるだけで なく、上の例から示唆されるように、より能力の高い人が集まってくることによるソーテ ィング効果がある。Lazear (2000)は、時給制から歩合給に移行した自動車フロントガラ ス取付会社で働く取付工のデータを分析し、報酬制度改革による生産性押し上げ効果は、 44%と推計した。そのうち約半分は、制度改革により、より優秀な工員が入社してきたこ とによるソーティング効果であった。 ただし、業績連動型報酬制度への移行が常に優秀な従業員のソーティングを引き起こす 訳ではない。8月号において説明した効率賃金と従業員のキャリア形成のための充実した 研修制度によってすでに優秀な人材を集めていた企業が、業績悪化に伴い、人件費削減を 狙った成果主義賃金を導入して、逆に従業員満足度を低下させるといった事態に陥ること は珍しくない。要は、従業員にとって、人事システム全体を通じてのトータルなリターン の向上がなければ、自己選択は働かない。 次に、福利厚生制度を含む勤務条件全体の設計がもたらすソーティング効果について解 説したい。簡単化のため、二つの福利厚生制度を例に挙げる。有給休暇と持ち株会制度を 想定しよう。従業員にとって、有給休暇日数と持ち株会への企業拠出金のいずれの引き上 げも喜ばしいことであることは間違いない。しかしながら、どちらを重視するかは、人に よって異なる。二つのタイプの社員像を考えよう。タイプ1の人間は、転職によってキャ リアアップを目指しており、自己研鑚の場を求めて有給を利用して外部セミナーやNPO活動 など、本職以外のトレーニングの場に積極的に参加しているとする。したがって、彼にと っては、持ち株会への企業の拠出金よりも有給休暇の方が有難い。タイプ2の人間は、企 業理念に共鳴した社員で、会社の中でのキャリアアップのため、業界知識の取得に勤め、 会社内での人脈作りにも積極的である。仕事人間であるこのタイプの従業員は、有給休暇 よりも、会社の発展が自己の経済的繁栄にもつながる持ち株会への会社の拠出積み増しを 評価するであろう。企業が福利厚生制度を設計するときは、どのような社員像を求めてい るか明確にした上で、ターゲットとした人物像が評価するような組み合わせを選ぶ必要が ある。仮に企業がリーダーシップ、コミュニケーションスキルなどいわゆる人間力を求め ているのであれば、タイプ1がターゲットとなるかもしれない。あるいは、業界知識の蓄 積と社内交渉力やコーディネーション能力などを重視するのであれば、タイプ2がターゲ ットになるかもしれない。求めている人材が評価しない福利厚生制度を構築しても意味が ない。 最後に、ソーティング機能としての企業文化にも目を向ける必要がある。リーダーシッ プのある経営者のいる会社では、独特の企業文化が形成される。良い意味でも悪い意味で も、企業文化に共鳴できる人間が入社を決意し、会社に定着する。事業モデル、企業文化、 人事システム、採用基準の間に整合性を持つことが、成功する採用政策ではないだろうか? 【さらに読み進めたい読者のために】 Autor, David H., Lawrence F. Katz and Melissa S. Kearney,“Trends in U.S. Wage Inequality: Revising the Revisionists,”Review of Economics and Statistics, May 2008, 90(2),pp.300-323. Autor,David H.,Frank Levy and Richard J.Murname,“The Skill Content of Recent Technological Change: An Empirical Exploration,”Quarterly Journal of Economics, November 2003,118(4), pp.1279-1333. Baron, James N. and David M. Kreps, Strategic Human Resources: Frameworks for General Managers, 1999, John Willey&Sons, Inc. New York. Bresnahan, Timothy F., Erik Brynjolfsson and Lorin M. Hitt“Information Technology, Workplace Organization, and theDemand for Skilled Labor:Firm-Level Evidence,” Quarterly Journal of Economics, 2002, 117(1), pp.339-376. Jacobs, David. “Toward a Theory of Mobility and Behavior in Organizations: An Inquiry into the Consequences of Some Relationships between Individual Performance and Organizational Success,”American Journal of Sociology, November 1981, 87,pp.684-707. Kawaguchi, Daiji, and Yuko Mori,“Stable Wage Distribution in Japan, 1982-2002: A Counter Example for SBTC?”RIETI Discussion Paper Series 08-E -020, July 2008. Lazear,Edward P.,Personnel Economics for Managers, 1998. John Willey&Sons,Inc.New York.(邦訳:エドワードP.ラジアー『人事と組織の経済学』日本経済新聞社、1998 年)第二章参照. Lazear,Edward P.,“Performance Pay and Productivity,”American Economic Review,2000, 90(5), pp. 1346-1361. 9 企業組織、職場組織の設計 9.1 事例研究:ジョンソン&ジョンソン 多くの企業が「企業理念」を明確にし、それに基づく経営判断を行っている。たとえば、 花王は、その経営理念を「花王ウェイ」としてまとめ、社員が行動する上での指針や意思 決定を行う上でよって立つべき価値観を提供している。「企業理念」の確立は、企業の社 会的責任を明確にすることで対外的イメージを改善するのみならず、社内での意思決定の 調整コストを下げ、補完的な行動を協調して取ることを容易にする。つまり、社内コーデ ィネーションのコストを下げる働きを持つ。 明確な企業理念を持つ企業として古くから注目されてきた米国企業の一つに、ジョンソ ン&ジョンソン(以下J&J)がある。J&Jは、バンドエイド(絆創膏)から電気メス まで、幅広い健康関連、医療関連製品を開発・販売する世界的メーカーである。1886年に 創業した同社は、数多くの独創的な製品の開発によって医療技術の発展に寄与してきた。 同社の二代目経営者であるRobertWood Johnson は、経営哲学の明確化と企業文化の確立に 最も貢献した指導者と見られているが、彼が推進したのが、徹底した分権化組織へのこだ わりと、“Our Credo”(「我が信条」)に込められた社会的責任の明確化(同社ホームペ ージ参照)と、長期的な視点での会社経営の強調であった。以下の事例研究は、ハーバー ドビジネススクールケース“Johnson & Johnson: Hospital Services”(Aguilar and Bhambri 1992)を基に独自の視点でまとめた。 J&Jは、独立性の高いカンパニー制度をとっている。つまりカンパニーと呼ばれる事 業部は、それぞれのロゴと名前とミッションを持ち、経営委員会に対し、月、四半期、年 度ごとに財務諸表を提出している。2008年現在、世界57カ国に250社以上のカンパニーを抱 えている。分権化されたJ&Jの組織は、医者、看護士、患者への責任を果たそうという 同社のCredoへのこだわりの表れと言ってよい。たとえば、Ethicon というカンパニーは外 科医のニーズに応えることを使命とし、DePuyというカンパニーは整形外科医のニーズに応 えることを目指している。つまり、専門化した経営資源を蓄積し、自律した組織で迅速に 対応することで、医者への第一義的責任を果たせるとJ&Jは考えている。またカンパニ ー制度のもとで、経営責任を明確化し自由度を高めることで、起業家精神を高めイノベー ションを継続することが期待されている。 分権化がそれほど望ましいのであれば、なぜその究極の形であるスピンオフ(spin-off) つまり株の売却による完全独立化を図らないのであろうか? それは共有できる経営資源 が価値を生むからである。その一つは、J&Jのブランドである。J&Jは独創性と医学 への貢献の代名詞でもある。二つ目には、人材と技術をプールすることで、必要に応じて、 他のカンパニーから技術や人材の提供を受けることができる。 この点に、J&JがCredoや共有された価値観を重視する理由がある。つまり、人材がカ ンパニーの壁を越えて移動しても、同じ価値観や行動指針に従って意思決定やコーディネ ーションを行えるようにするためである。共有された指針がなければ、顧客特性や事業モ デルが異なる部門と協働したりそこへ異動した時に、協働すべき相手との調整に多くの時 間と労力が費やされることになる。現場主義を貫く分権化組織において企業理念が重視さ れる傾向があるのはこのためであろう。前述の花王や8月号で取り上げた(コンパックと の合併前の)ヒューレット・パッカードなどがそれにあたる。 さて、分権化を社是とするJ&Jが、1980年前後に大きな変化に直面する。第一に、上 昇を続ける医療費を抑えるため、病院の系列化が進行する。標準化、IT 投資、グループ調 達において規模の経済を享受しようという病院側の試みである。第二に、病院側のコスト 削減努力の中で、調達の権限が医者からコスト削減意欲の高い事務方のマネージャーへと シフトしたのである。上記二つの変化は、J&Jの価格交渉力を大きく弱めることになっ た。たとえば、整形外科の分野の製品しか扱わないDePuyのMR (Medical Representativeつ まり営業担当者)は、すべての調達権限を持った病院マネージャーに対し、十分な交渉カ ードを持っていないため、押し切られるケースが増えてきた。三つ目の変化は、American HospitalSupply Corporation(後のBaxter TravenolLaboratories, Inc.)という競合相手 の急成長である。同社は、メーカーではなく卸売業者であるが、受注、配送、在庫をコン ピューターで管理するシステムを開発し、顧客の在庫管理や発注業務を効率化した。さら に数量割引を使うことで、J&Jのシェアを奪っていった。 こうした状況に対処するため、J&Jは1981年、病院向けの一括販売を受け持つHospital ServiceCompany (HSC)を新たに創設した。つまり、病院向けの販売機能のみ集権化しよう と試みたのである。しかし、この決定は、それまでのカンパニー制度の運営を著しく困難 にした。まず、事業カンパニーは、販売窓口をHSC に引き渡すことで、顧客のすべてのニ ーズに対応するというこれまでの責任を果たせなくなる。販売を開発、製造、マーケティ ングから切り離したことで、個々の事業カンパニーの業績評価も難しくなった。事業カン パニーがどんなに良い製品を作っても、HSCが良いサービスを提供できなければ、売上は伸 びないかもしれないからである。事業カンパニーがすべての機能を揃え独立性を維持でき なければ、その起業家精神にも影響を与える。さらに、移転 価格をどうするかとか、受注、配送システムをどの程度各社共通に標準化するかを巡って 意見が対立し、独立が脅かされたと見る事業カンパニーが協力に消極的となった。最終的 に、J&J はHSC を廃止した。 9.2 垂直的コントロールと水平的コーディネーション 上に紹介したジョンソン&ジョンソンの事例は、集権化と分権化のバランスを取ること の難しさをわれわれに教えてくれる。4月号で述べたように、組織を情報処理システムと みた時に、組織には二つの役割がある(Dessein and Santos 2006 参照)。一つは、環境 変化に対する適応(adaptation)である。企業は、技術進歩、顧客ニーズの変化、原材料 価格の変動、競合相手の出現などさまざまな外的環境の変化に対応しなければならない。 一般的に、適応のスピードは、分権化組織の方が高い。経営陣や管理職は、技術動向、顧 客のニーズ、あるいは生産販売環境の変化を直接知る立場に通常ない。局所的、断片的情 報をヒエラルキーを通じて収集し、統合することで、戦略的な意思決定と効率的な資源配 分を行うことができるが、そのための情報や指示の伝達には時間がかかる。下部組織にお いて全体最適な意思決定ができるのであれば、権限委譲により情報源に近い人間に迅速に 行動してもらった方が良い。J&Jは、医者、看護婦、患者とその家族、乳児の父母らの 声に耳を傾け、技術動向に敏感になることで、多くの独創的な商品を開発してきた。つま り、J&Jにとって、分権化は、適応の能力を最大にする手段であった。 二つ目の組織の役割は、組織内意思決定や活動における協働(coordination)またはコ ーディネーションである。コーディネーションとは、情報やリソースを共有することで行 動の補完性や同期化を高める調整を行うことである。たとえば、商品ラインを拡大する際 には、販売マーケティングの責任者と生産責任者には、生産計画、生産ラインの設計変更、 納期などについて、十分なすり合わせをすることが求められる。コーディネーションの失 敗は、在庫の増加や発送の遅れを引き起こし、企業業績に悪影響を及ぼす。J&Jでは、 販売窓口を一本化することで、大口顧客により良い価格とサービスを提供できるはずであ った。つまり、それぞれの事業カンパニーが病院の診療科ごとに担当するのではなく、一 人の販売担当者がすべてのニーズに対応し、パッケージ化されたサービスと料金体系を提 示した方が、病院経営の効率化につながる。J&Jは販売機能を集権化することで、コー ディネーション能力を著しく高めることが可能となる訳である。 したがって、集権化と分権化のバランスを取ることの難しさは、適応とコーディネーシ ョンのバランスを取ることの難しさである。権限を誰に与えるかは、離散的な選択つまり 上司に与えるか、部下に与えるか二者択一の選択であるから、適応とコーディネーション がちょうど効率的な水準となるように調節することは難しい。ただし、Aoki (1986,1988) は、コーディネーションを高める仕組みとして、経営陣や管理職が部下から集めた情報を 基に意思決定しそれを下に伝える垂直的コントロールの仕組みと、一般社員が水平的な関 係を通じて情報を共有し取るべき行動を他部門の担当者と調整する水平的コーディネーシ ョンの仕組みの二通りあることを示した。伝統的な米国企業では垂直的コントロール手法 が基本となり、多くの日本の製造業企業では、水平的コーディネーションが「現場力」と して重視される傾向がある。また、Dessein and Santos (2006)らは、チーム制度の導入 やチーム間のコミュニケーションの技術に投資することにより、適応とコーディネーショ ンの間のトレードオフを弱めることができることを理論的に示した。 J&Jのケースにおいて、独立した販売専門カンパニーを作るのが垂直的コントロール であり、同じ病院を顧客に持つMR がチームを組み、情報を共有した上で、最善のサービス を提供できるようチーム内で調整するのが水平的コーディネーションである。後者のアプ ローチは、適応能力を維持しつつコーディネーションを行うことを可能にする。しかし、 チームに参加する従業員のトレーニングやそれを支援するIT 投資や組織改革など追加的 なコストがかかることに留意していただきたい。 9.3 フラットな組織と階層的組織 垂直的コントロールを選んだ企業においては、情報を伝達し、統合し、意思決定を行う 中間管理職が必要となるため、その組織は階層化する。他方、水平的コーディネーション を選んだ企業では、意思決定が組織下部でなされる傾向が強まり、組織がフラット化する。 11月号で取り上げた、ワークスアプリケーションズでは、経営陣が社員に対し、「自発的 に問題を見つけ、他人を巻き込み、チームを作って解決にあたる」ことを要求したため、 フラットな組織にこだわった。 フラットな組織と階層的組織のどちらを取るべきかという問題は、事業特性によっても 影響を受ける。11月号で導入した、スター型事業とガーディアン型事業という概念を使っ て説明を試みよう。本節での分析は、Lazear (1998)によるものである(第16章参照)。 スター型とは、成功した時の潜在的利益が大きい一方、下方リスクが限定的な事業のこ とである。こうした事業では、探索的、実験的学習が求められる。探索や実験が成功した 時には莫大な利益がもたらされる可能性がある一方、失敗しても損は限定的である。別の 言い方をすれば、試行して失敗した場合のコストは小さく、革新的成功につながるアイデ ィアを試行しないでいることのコストの方が大きい。つまり、スター型事業では、統計学 で言うところの「第1種の過ち」(成功するアイディア『仮説』を、間違って実行しない つまり『棄却する』というエラー)の方が「第2種の過ち」(失敗するアイディア『仮説』 を間違って採用するつまり『受容する』というエラー)よりも不利益が大きいのだ(表1 参照)。こうした事業では、フラットな組織が望ましい。なぜなら、図1にあるように、 フラットな組織では、担当者が良いと思った案件は実行され、「第1種の過ち」は最小化 される。これまで数々の独創的な商品やサービスを開発してきた3M やGoogleでは、社員に 対し、就業時間の15%や20%を自分の好きなプロジェクトのために使うことを奨励してい る。こうしたルールも「第1種の過ち」を避ける試みであり、スター型事業の表れである。 他方、ガーディアン型事業とは、潜在的利益の上限はさほど高くない一方、失敗や事故 に伴う損失といった下方リスクが大きい事業である。こうした事業では、間違った判断が 大きなコストを生じさせるリスクを孕んでいるため、新しい試みに対しては幾重ものチェ ックが必要である。ここでは、フラットな組織よりも階層的な組織の方が適切である。な ぜなら、図1にあるように、階層的な組織では複数の人々のチェックが働き、「第2種の 過ち」を排除することができるからである。 9.4 インフルエンス活動 組織を設計する上で考慮すべき要因の一つが、Milgrom and Roberts (1988)らによって 分析されたインフルエンス活動である。 経営トップの意思決定の多くが、社内における金銭的、非金銭的便益の分配に影響を与 える。たとえば、経営トップが、A技術を採用しB技術の開発を中止すると決定すると、 これまでA技術の開発に携わっていたものは、より高い昇進機会と技能獲得の機会を享受 するが、B技術に関わってきたものはそれまでに獲得してきた知識と技能の価値を失い、 昇進の機会も減る。したがって、中間管理職や現場の人間は経営トップの意思決定に影響 を及ぼすべくさまざまな活動を行う。経営トップは、意思決定を行う上で必要な情報の多 くを現場の人間に頼っているので、インフルエンス活動を排除することはできない。イン フルエンス活動は、三つのタイプのコストを組織に強いる。先ず一つは、従業員の時間や 努力といった経営資源が、生産的活動ではなく非生産的なロビー活動に費やされるという 直接的なコストである。営業担当課長が顧客に電話するのではなく、経営トップへのロビ ー活動のために資料作りや役員訪問を繰り返す状況を想定してみれば理解できるだろう。 二つ目は、自分や自分の所属するグループの利益のために、経営トップに伝えられる情報 にバイアスがかかったり、伝えられるべき情報が伝えられなかったりすることで、正しい 経営判断ができないことによる。三番目は、インフルエンス活動を抑えるために、コミュ ニケーションが制限されたり、硬直的なリソースの配分が行われるなど、非効率な組織形 態が採用されることによるコストである。これは、過去、財務省(大蔵省)に対する予算 折衝や政治家の圧力が激化しないよう、中央政府でかなり硬直的な予算配分が行われてき たことを見れば理解できよう。 二番目のタイプのコストの例を挙げよう。今あなたの会社が、ある特殊な半導体デバイ スを携帯電話メーカー向けに製造販売しており、その処理能力向上のための技術開発を行 っていると想定しよう。あなたは営業マンであり、顧客がこの処理能力向上を評価するこ とを知っている。一方で研究開発部門の人間が、汎用の半導体デバイスにおいて回路変更 が簡単で利用者の幅広いニーズに応えられる設計技術を開発したとする。この技術を使っ た新製品は、携帯電話メーカーには必要ないが、将来PC、家電、自動車において幅広く利 用されるデバイスとなることが期待されている。ただし、不確実性が高く、開発に失敗す る可能性も小さくない。人材や投資資金など会社の経営資源は限られており、後者の汎用 デバイスの開発の開始は、携帯向け専用デバイスの次期モデルへの投資を減少させかねな い。あるいは、会社がコアビジネスを新しい顧客層へとシフトさせた場合、携帯電話メー カー向け販売を行っている営業社員は次第に影響力を失うだろう。携帯電話メーカーの 人々との関係強化に努めてきたあなたは、彼らのニーズや内部事情には精通しているが、 汎用デバイスの顧客となるPC メーカー、家電メーカー、自動車メーカーのことは何も知ら ない。この時、あなたはどういう行動に出るだろうか? 携帯向け専用デバイスの販売やマ ーケティングに携わってきたものは、自らの知識や技能の社内での価値の低下を避けるた め、新事業への投資をしないよう経営陣に働きかける可能性が高い。彼らは、いかに新し いデバイスの市場が小さく投資リスクも高いかという主張を行うであろう。そして、それ を裏付ける判断材料を必死になって集める。こうした下からの情報に従って投資判断をす るならば、経営陣は間違いを犯すことになる。 こうしたインフルエンス活動を最小に抑えるため、経営者はどういう組織作りを行えば 良いだろうか? まず第一に、インフルエンス活動は、経営陣と従業員の間に情報の非対称 性があるために生じている。経営陣が日頃から技術や市場動向についてさまざまなルート を通じ情報を集めている企業では、インフルエンス活動自体がそれを行う人のメリットに ならないので生じにくい。逆に経営陣が技術動向に疎く、一般社員との間のコミュニケー ションも悪い場合、公式の報告のみに頼って経営判断を行うことになり、インフルエンス 活動は活発化する。したがって、社員との複数のコミュニケーション・チャンネルを維持 することが必要である。ネットワーク関連製品の分野で多角化を続けるシスコでは、経営 陣が月一回の社内技術フォーラムに毎回出席し、常に有望な技術を見誤らないよう努力を 続けている。 第二に、インフルエンスコストは多角化のコストであることを理解する必要がある。一 つの市場に経営陣がコミットしている場合には、インフルエンス活動は必要ではなくなる。 また、多角化している企業でも、経営トップではなく個々の事業部が独立していて経営資 源配分の権限を持っているところでは、経営トップへの働き掛けは必要でなくなる。 第三に、硬直的な資源配分ルールや格差の少ない給与体系を導入することで、インフル エンス活動をある程度抑制することができる。もし期待収益率に応じて、毎年大きく投資 資金や人材配置を変えるならば、どこの事業部門も自らの投資プロジェクトを過大評価し、 都合の悪い事実を隠して報告するようになり、正しい情報が経営トップの耳に入りにくく なる。また高成長部門と低成長部門で報酬に差がなければ、資源を獲得するため、あるい は高成長部門に異動するため、インフルエンス活動に従事する人が少なくなる。こうした 対策は、事後的には効率的ではないかもしれないが、全体としてみれば、インフルエンス コストがなくなる分、企業業績にはプラスに働くかもしれない。 最後に、ジョブ・ローテーションや、ストックオプションや持ち株会など会社全体の業 績と連動した報酬制度も、インフルエンス活動の抑制に役立つ。自己の報酬が会社の業績 と連動していれば、自己の便益や所属組織の受け取る資源だけでなく、全体の利益も考え るようになる。またジョブ・ローテーションにより所属部署が数年おきに変われば、一つ の部署に忠誠心を持つことがなくなってインフルエンス活動を引き起こす要因が減る。 以上の議論を踏まえ、前述のジョンソン&ジョンソンを見ると、インフルエンスコスト を抑える組織構造になっていることがわかる。独立性の高いカンパニーは、自ら設備投資 金額を決め、カンパニーの経営陣はその業績に対し全面的な責任を負う。本社が資源配分 を決定する訳ではないので、本社の経営陣に対しインフルエンス活動を行う必要はない。 また、医者や患者に対する奉仕を企業理念として第一に掲げ、長期的成功を強調する文 化を醸成することで、所属部署に対する忠誠心や自己の利益を優先することがないよう指 針を与えていることもインフルエンス活動の抑制につながっている。 9.5 チームの役割 次に、職場組織として採用が広まっているチーム制度について議論したい。Kato and Owan (2007)によると、一般機械、電気機械、輸送機械、精密機械、情報通信機器、金融業、小 売り業、合計7業種に対する標本調査での回答企業約360社のうち、約6割の企業が職場内 自主管理チームあるいは機能横断的プロジェクトチームといったフォーマルなチーム組織 を導入している。チーム組織の役割はさまざまである。 第一に、チーム組織の導入は、先のDesseinand Santos (2006)の研究にも見られるよう に、コーディネーションコストを低下させる。Beckerand Murphy (1992)は、分業の程度 は、分業のメリットと調整(コーディネーション)コストのトレードオフで決まると主張 したが、チーム組織はコーディネーションコストを押し下げることで、分業のメリットを さらに享受することができる。つまり、チーム内での分業はヒエラルキーを介さないため、 頻度の高い調整を可能にする。 第二に、多様な技能、知識、視点を組み合わせることで、問題解決能力を高めることが でき、かつチーム内での相互学習が促進される。意思決定速度を高めるための権限委譲が しばしばチーム制度の導入と併せて導入されるのは、経験の高い上司から部下への権限委 譲が、意思決定の精度を低下させることがないようにするためである。アパレル工場にお けるチーム生産への移行を研究したHamilton,Nickerson and Owan (2003)では、作業分配 の効率化と、経験や技術の高い裁縫工から他の工員へのノウハウの伝授によって、チーム 生産性が向上したことが示唆されている。また、Hansen, Owan and Pan (2006)では、大 学のグループ学習において、性別や年齢の多様性が高いほど、グループを通じた学習効果 が高いことが示されている。10月号の事例研究で取りあげたWhole Foods Market でも、ス ーパーマーケット型健康食品店において各売り場ごとにチームを組んで競争させたことで、 チーム内でさまざまなノウハウや有機食品に関する知識が共有されるようになった。 最後に、チーム内で相互監視(peer monitoring)が機能すれば、チーム生産で通常問題 となるただ乗り(freeriding)の問題は表面化しない。Mohnen,Pokorny and Sliwka (2008) らは、チームワークにおいて、(1)各メンバーが他人と異なる努力水準を選ぶことから負の 効用を得る、つまり不公平な努力水準を不快に思う傾向があり、かつ(2)チームワーク作業 の途中で、お互いの努力水準を互いに観測できるならば、自分の努力水準を高めることで その後の相手の努力水準を高めることができるというメカニズムを示した。また同時に、 実験により理論と整合的な結果も得ている。こうしたピアプレッシャーは、村八分といっ た社会的ネットワーク内での懲罰も可能であればより効果的に働くため、同質的なチーム においてより高い生産性が予想される。実際、農場での果物採取労働者のチーム生産性を 分析したBandiera,Barankay and Rasul (2005)らは、同じ国からの移民同士で構成された チームでは、民族的多様性を持つチームより、より強い協力関係が認められることを報告 している。ただし、相互監視の効果は、チームの規模に大きく依存し、メンバーの人数が 増えるにつれただ乗り問題が深刻になる。 9.6 最後に 企業組織の形態と業績の間の関係について、経済学に基づく分析はまだまだ少ない。特 に、理論を裏付ける実証研究は、データ収集に伴う困難からさほど進展していない。組織 構造や人事システムに関するデータは、客観的に捉えることが難しかったり、生産プロセ ス同様、企業側が企業秘密として開示を望まない傾向がある。また、企業特性や扱う財・ サービスそのものが通常多様であるため、企業間の比較で企業の選択やその効果を説明す ることは難しく、組織変革や制度変更を伴うパネルデータを見つけることが求められてき た。従業員個人レベルの生産性、報酬、評価など内部データに至っては、個人情報流出の 危険性を孕むため、これまで人事部や生産管理部から門外不出であり、数少ない実証研究 だけが散見される。今後、産学連携による研究が待たれる分野であろう。 【さらに読み進めたい読者のために】 Aguilar J. Francis and Arvind Bhambri, “Johnson & Johnson:Hospital Services,”Harvard Business School Case,No.9-392-050, 1992. Aoki, Masahiko, “Horizontal Vs. Vertical Information Structure of the Firm,”American Economic Review, 76(5), 1986,pp.971-83. Aoki,Masahiko,Information, Incentives, and Bargaining in the Japanese Economy, Cambridge; New York and Melbourne: Cambridge University Press, 1988. Bandiera, Oriana, Iwan Barankay, and Imran Rasul, “Social Preferences and the Responses to Incentives:Evidence from Personnel Data,”Quarterly Journal of Economics, 120(3), August 2005, pp.917-962. Becker, Gary S. and Kevin M.Murphy,“The Division of Labor, Coordination Costs, and Knowledge,”Quarterly Journal of Economics, 107(4), November 1992, pp.1137-1160. Dessein, Wouter and Tano Santos, “Adaptive Organizations,”Journal of Political Economy, 114(5), 2006, pp.956-95. Hamilton,Barton H.,Jack A.Nickerson,and Hideo Owan,“Team Incentives and Worker Heterogeneity:An Empirical Analysis of the Impact of Teams on Productivity and Participation,”Journal of Political Economy, 111(3), 465-497,June2003. Hansen,Zeynep,Hideo Owan and Jie Pan,“The Impact of Group Diversity on Performance and Knowledge Spillover-An Evidence from College Classroom,” NBER Working Paper #12251-2006. Kato, Takao and Owan, Hideo, “Market Characteristics, Intra- Firm Coordination, and the Choice of Human Resource Management Systems:Evidence from New Japanese Data,” IZA Discussion Paper #3105, October 2007. Lazear,Edward P.,Personnel Economics for Managers, 1998.John Willey&Sons,Inc.New York.(邦訳:エドワードP.ラジアー『人事と組織の経済学』日本経済新聞社、1998年) Milgrom, Paul and John Roberts, “An Economic Approach toInfluence Activities in Organizations,”American Journal of Sociology, 94(1988):S154-79. Mohnen, Alwine, Kathrin Pokorny, and Dirk Sliwka, “Transparency, Inequity Aversion, and the Dynamics of Peer Pressure in Teams: Theory and Evidence,”Journal of Labor Economics, 26(4), October 2008, pp.693-720. 10 取引コスト経済学と「企業の境界」 10.1 取引コストとは何か? Adam Smith の国富論で「見えざる手(InvisibleHand)」と呼ばれ、Friedrich Hayekに 「市場は驚異(marvel)」と言わしめた市場メカニズムの効率性は、Kenneth Arrow と GeraldDebrueによって数理モデルを使い厳密に証明された。大学院で経済学を学んだ者な ら誰しも、「厚生経済学の第一基本定理」と呼ばれるこの定理の証明のシンプルさに感嘆 の声を上げたに違いない。この定理によると、ある正則条件のもとで (1)すべての生産者が、提示された価格の下で自己利益を最大化し、(2)すべての消費 者が、与えられた価格、自己の嗜好、所得のもとで自己の効用を最大化し、(3)価 格が上記の下で決定される総需要と総供給を一致させるように定まっている時、財の 分配は効率的となる。 この定理は、完全競争市場がもし存在するならば、それを通じた資源配分が常に効率的 であることを示している。 市場で、売り手から買い手に対価を払って財やサービスが移転することを取引と呼ぶが、 組織の中でも多くの財やサービスが移転している。たとえば、私は、授業で配る配布資料 のコピーを、所属研究科が雇う学生アルバイトに頼むことができる。この時、この学生さ んは私にコピーというサービスを提供し、大学は配布資料の生産に必要な紙とコピー機を 提供している。また、私はカリキュラム委員会に属し、次年度の科目の配置や非常勤講師 の求人活動を行うことがあるが、この時、私は大学がより良い教育サービスを提供できる よう時間と情報を提供していることになる。 そうであれば、なぜある取引は市場で交換され、別のある取引は組織内の命令や協働を 通じて移転するのであろうか? もし「厚生経済学の第一基本定理」が正しいのであれば、 なぜすべての取引は市場を通じて交換されないのであろうか? もちろん、移転する財やサ ービスが場所や時間に依存した特殊なもので、出し手と受け手の数が少なければ、競争的 市場を作り出すのは不可能となるため、市場での取引はできない。しかしながら、組織内 で行われる多くの財やサービスの移転は、市場を通じた取引が可能である。たとえば、前 出の配布資料のコピーであるが、アメリカでの私の前任校では、オフィスサービス会社で あるKinko’sにアウトソースされていた。 実は、「厚生経済学の第一基本定理」で無視されている要素の一つとして、取引の執行 のために費やされる直接的経費や経営資源が挙げられる。市場での取引にはコストが発生 するのである。まず、株式市場や魚市場のように取引所が存在する場合には、そこで会員 となり、取引に比例して決まる手数料を取引所や運営主体に支払わなければいけない。買 い手や売り手が集まる取引所がなければ、取引相手を探すために時間やお金をかけなけれ ばいけない。これがサーチコストである。取引相手が見つかると、取引条件を交渉し、必 要であれば取引条件を記入した契約書を作成しなければいけない。契約の不履行が大きな 損害をもたらす場合には、弁護士も巻き込んで契約不履行の場合の権利や義務、話合いが 成立しなかった場合に届け出る裁判所も含め細かい規定を契約書に盛り込む。そのために 支払う弁護士費用等が契約コストである。契約書に取引条件のすべてを書き込むことがで きれば良いが、中には事前に契約書に書き入れられない内容もあろう。たとえば、結婚式 二次会の幹事代行サービスが最近ネット上でいくつも見受けられるが、彼らが提供する司 会者やエンターテイメントの質を事前の契約で取り決めるのは不可能であろう。その場合、 相手の準備状況を監視し、不測の事態が生じた時の対処方法まで考える必要が出てくるか もしれない。 こうした市場取引に伴うコストに比べ、組織の中で命令や協働を通じて取引を統治する ことに比較的費用がかからないのであれば、取引は組織内で統治される。連載第1回(2008 年4月号)で、企業組織が形成されることで、分業(専門化)がさらに進み、生産性が向 上したと述べたが、その裏には、繰り返し作業による技能レベルの向上とルーチン化(業 務プロセスの標準化)による組織内取引コストの減少がある。どのような取引が企業組織 の中で行われ、どのような取引が市場を通じて行われるかという問題は、「企業の境界」 問題と呼ばれ、取引コスト経済学生みの親とされるRonald Coaseが1937年に執筆したThe Natureof the Firm の主要なテーマであった。 10.2 資産特殊性とホールドアップ問題 表1に見られるように、一見似たような財やサービスの移転と見られるものが、市場取 引を通じたり、企業内で行われたりする。前者は垂直分業、後者は垂直統合という呼ばれ 方をすることがある。その二つのケースの中間的なケースとして、長期取引関係を通じた 取引の統治形態がある。たとえば、大手の輸送業者は、常に自社所有のトラックと自社社 員の運転手を使うとは限らない。個人トラックや中小の輸送業者と長期契約を結んで委託 することもあれば、時には1回限りのスポット契約を結ぶこともある。同様に、自動車メ ーカーは、自社内で生産する部品もあれば、系列会社から長期契約で調達するものもあれ ば、インターネット上のB2B 市場を通じて中小企業や中国企業からスポット契約で購入す ることもある。表にあるように、小売りや雇用といった極めて一般的な財サービスの取引 においても、それぞれ3つの統治形態が存在する。 このような統治形態の違いはどこから生ずるのであろうか? 取引コスト経済学では、統 治形態は取引属性を反映すると考える。取引属性の中で、最も重要視されているものは、 資産特殊性(asset specificity)である。資産特殊性とは、取引される財やサービスの質 向上のためにどの程度、技術、設備、人的資本への関係特殊的投資が必要とされるかの程 度を示す。たとえば、トヨタがトヨタ向け部品の製造のためにしか使えない高価なプレス 金型の購入を取引相手に迫ったとしよう。この会社は、来年度以降もトヨタが引き続きそ の部品の購入を続けるとの保証がない限り、金型の購入には同意しないであろう。 かりに長期取引の約束をして、価格についても合意に達したとする。ところが自動車の 需要は不確実であるから、販売数量について明確な取り決めが契約には入らないかもしれ ない。この場合、契約は不完備となる。不完備な契約のもとでは再交渉の余地が出てくる。 たとえば、トヨタは需要の低下を理由に価格引き下げを迫るかもしれない。価格引き下げ を拒否した場合、契約で購入数量が規定されていなければ、購入量の削減を通知してくる かもしれない。この場合、最終的には価格の引き下げを飲まざるを得ないケースが出てく る。 上記の会社が、トヨタに対して譲歩する羽目になる原因は二つある。一つは、不完備契 約のもと、再交渉の余地が大きい契約であったということである。二つ目は、購入した金 型が、関係特殊的で別の目的に使えないため、契約を拒否して他社の仕事を受注したり、 その金型を中古市場で売却することで投資を回収することができないからである。つまり、 投資した資産が取引相手との関係に特殊的であれば、当該会社の交渉力は著しく低下する。 資産特殊性が高い時、取引相手が機会主義的な行動に出ることを警戒する企業は、本来望 ましい投資を行わないことになる。 この問題はホールドアップ問題と呼ばれ、効率的な関係特殊的投資が行われない原因と して長く経済学の研究の対象となってきた。上記の場合、トヨタは、自社内で生産するか、 系列会社に依頼するか、当該会社が利益を確保できる(完備)長期契約を結ぶか、金型を 自社で購入して当該会社に貸与するか選択を迫られる。 10.3 取引次元 資産特殊性以外にも、「企業の境界」に影響を与えるいくつかの取引属性がある。以下 はその一覧である。 ・資産特殊性 ・取引頻度/継続期間 ・複雑性/不確実性 ・評価可能性 ・連結性/相互依存性 表2は、それぞれの取引次元における高低が、統治形態の選択にどういう影響を与える かまとめたものである。 取引の頻度と継続期間は、ルーチン化による取引コスト削減効果を左右する。複雑な取 引は事前の取引条件の取り決めを困難にし、取引で使われる技術や取り巻く環境の不確実 性が高いと、取引期間中に取引条件の見直しが必要となる可能性が高まる。複雑性と不確 実性のいずれも取引の契約可能性(取引条件をどの程度契約で取り決められるかの度合い) を引き下げ、機会主義的な行動を誘発する可能性を高める。つまり、複雑性や不確実性が 高い場合、市場取引では、変更のたびに交渉を繰り返す無駄が出てくるし、かりにそうし た無駄を省くため取引条件を事前に定めなければ、それをいいことに満足のいく取引を行 うための適切な努力を取引双方が怠るかもしれない。この場合、市場取引ではなく、自社 内で生産したり、信頼関係を構築した長期取引関係にある会社との取引を選択するであろ う。 評価可能性、例えば部品性能を簡単にテストできるかどうかは、契約により取引相手に 質向上のための努力へのインセンティブを与えることができるかを左右する。評価が簡単 であれば、市場取引であっても、達成すべき標準を契約に明示的に書き込むことにより、 機会主義的な行動を抑制することができる。最後に、連結性あるいは相互依存性は、他の 多くの財やサービスの生産との間で、設計や設計変更上コーディネーションがどの程度必 要かを決定する。つまり、他の多くの財の生産との間で連結性が高ければ、それを他社に 発注した場合、設計時あるいは設計変更時に、企業の境界を越えた調整作業の必要性が高 まる。社内であれば監視する必要がなく、阿の呼吸で行えるそうした作業が、他社が相手 となると、説明や利害調整のための会議や連絡に多くの時間が費やされることになろう。 この場合、自社生産した方が取引費用は安くなる。 上記の関係は、図1のように簡単に表現できる。上記のさまざまな次元での取引属性の 変化は、3つの統治形態のもとでの取引コストを変化させる。たとえば、資産特殊性が上 昇すると、市場取引でのコストは急速に上昇するので、市場で外注することは得策ではな くなる。資産特殊性が中位であれば、長期取引関係での統治が最も望ましく、高くなると 垂直統合して社内生産で供給した方が取引コストは最小となる。 10.4 取引コストアプローチの有効性 取引コスト経済学は、数多くの実証研究により、「企業の境界」問題を考える上で有力 なフレームワークを提供することがわかってきた。特に、過去20年の間に、戦略論や法と 経済学など経済学の業際的な分野で取引コストアプローチが広く使われるようになった (Williamson 2005 参照)。本連載では、数多くの実証研究の中からNagaoka,Takeishi and Noro (2008)を紹介したい。長岡、武石、野呂氏等は、調査会社IRC が3年おきに行って いる「自動車部品200品目生産流通調査」の1984年から2002年までのデータを使用して、部 品の属性が部品調達方法の選択とどのような関係を持っているか分析を行った。彼らは、 1984年から2002年までのデータに共通して含まれている54品目の部品の特性について、自 動車メーカー4社の協力を得て、質問票による評価を行った。この中で、研究者が注目し た属性は、資産特殊性、相互依存性、性能計測可能性である。 これら3つの特性は、複数の質問に対する1(全くそう思わない)から5(全くそう思 う)の5段階尺度(Likert scale)の回答の平均に基づいて定められている。たとえば、 資産特殊性の指標は、(1)当該部品と他の部品の間のインターフェイスは明確に業界ルー ルとして標準化されている、(2)当該部品の主要部の設計基準は、業界内で標準化されて いる、という資産特殊性の低さを表す2つの部品特性軸での評価への回答の平均(1から 5までの数字)を6から引いて求めている。 図2は、3つの特性ごとに、その高低と取引の統治形態、つまり市場取引(系列外取引)、 長期取引関係(系列内取引)、垂直統合(社内生産)の間の選択との関係を表したもので ある。これによると、資産特性性や相互依存性が高いほど系列内取引と垂直統合の割合が 増え、取引コスト経済学の主張と整合的であることがわかる。それに対し、性能計測可能 性については、明確なパターンは見られない。 長岡、武石、野呂氏等は、さらにMultinomialLogistic Modelを使った計量分析により次 の3つの結果を導いている。 1.資産特殊性の上昇は、市場調達ではなく系列内調達を促し、その効果は、性能計測 が容易になるほど小さくなる。 この結果は、(1)取引の資産特殊性が系列形成の理由として重要であること、(2)性 能計測が容易であれば、必要とされる性能基準を契約に盛り込むことが可能となるため、 資産特殊性による過小投資の問題を低減することができること、を示唆している。この結 果は、取引コスト経済学の従来の主張に合致している。 2.相互依存性は、系列内調達ではなく社内調達を促すが、資産特殊性の上昇は、系列 内調達か社内調達かという意思決定には有意な影響を及ぼさない。 この結果は、(1)系列関係が資産特殊性によるホールドアップの脅威を有効に制御する 施策となっており垂直統合は必ずしも必要ではないこと、(2)設計あるいは設計変更時の 調整の必要性が垂直統合の主要な要因となること、を示唆している。Klein, Crawford, and Alchian (1978)は、1926年にGeneral MotorsがFisher Bodyを買収したのは、後者が前者 の組立工場の隣に車体工場を建設すること(つまり資産特殊性の高い投資)を拒否したか らであると説明し、資産特殊性が垂直統合を促進した原因であると主張した。この研究に 対してはその後批判もいくつか出ているが、一般に資産特殊性が垂直統合を促す主要因で あるとの見方は依然根強い。しかしながら、少なくとも日本の自動車産業では、長期取引 関係だけでこの問題を解決できている可能性があることは興味深い。 3.性能計測が比較的容易であることは、市場調達ではなく系列内調達を促す。 この結果は、取引コスト経済学で従来議論されてきた結果とは逆である。この結果の解 釈として、性能の計測が可能であることは、系列サプライヤーが質の改善のために情報の 収集を行うインセンティブを生み出し、その情報を調達側と共有することで、さらに関係 特殊的投資が促進される、といった系列取引への好ましい影響が考えられる。 これまで示してきたように、取引コストアプローチは、企業間関係を分析する上で、極 めて有力なアプローチであると言えるが、生産コストも企業の境界に大きな影響を与える ことを忘れてはいけない。図3に示すように、系列内調達の比率は、ほぼ個々の自動車メ ーカーの生産規模に比例する。これは、系列内で競争力を確保するために最低限必要な生 産規模が確保できない場合、トヨタ、日産、ホンダなど大手自動車メーカーの系列企業か らより安価で購入する方が得であるためである。 10.5 事例研究:Altera Corporation シリコンバレーに本社を置くアルテラコーポレーション(以下アルテラ)は、1984年に 世界初のPLD(プログラマブル・ロジック・デバイス)を供給して以来、汎用品でありなが らユーザーが手許で必要な論理回路を定義、変更できる同製品の市場でリーダー的地位を 維持してきた。社名のAlteraは、alterable(変更可能な)に由来する。 通常の論理回路(ロジック・デバイス)は出荷時に特定用途向けに回路が固定されてお り、物理的に変更は不可能である。それに対し、PLD は、出荷時には特定の処理を行う回 路が定義されておらず、ユーザが開発ソフトウェアで必要な回路の構成情報をデバイスに アップロードして初めて機能を発揮する。こうしたデバイスは、開発期間を短縮するため、 放送通信機器、自動車、計測機械、医療機器、ストレージ、など幅広い製品で利用される ようになった。 2000年までアルテラをCEOとして率いたRodney Smith 氏は、会社のメンバーがよく知っ ていること――再プログラムが可能なロジック・デバイスの設計とマーケティング――に 重点的に経営資源を投入することが成功につながると考え、他の半導体製造メーカーに対 し製造を委託するという当時としては珍しい意思決定を下した。アルテラは、ファブレス (fabless)という形態をとった先駆的半導体企業の一つである。ファブレスというのは、 fabrication(製作)しない、つまり工場を持たないという造語である。これに対し、設計 は一切行わず、他社から受注した半導体の製造のみを請け負う会社はファウンドリー (foundry)と呼ばれる。半導体産業において、こうした垂直分業つまり設計と製造の分離 は、広範囲に見られるようになってきた。 製造を外注するというアルテラの意思決定は、二つの利点を同社にもたらした。まず、 生産効率向上によるコストの低減である。集積回路の微細化により、生産設備の建設には 巨額の資金がかかるようになったため、高い稼働率を維持できなければ、投資資金を回収 できない。しかしながら商品ラインの狭い半導体企業にとって、稼働率を維持することは 容易ではない。他方、ファウンドリーは、世界中のファブレス企業や時には垂直統合企業 からも注文を受けるため、適正な価格設定のもと、上手くスケジューリングすれば、安定 した高い稼働率を達成できる。その結果、自社で製造を手掛けるより外注した方が効率的 となった。 二つ目に、前述のように、自社が強みとするPLD の開発設計とマーケティングに経営資 源を集中したことで、汎用品であるがゆえに規模の経済を享受しやすいPLD 市場で、競合 企業のザイリンクス(Xilinx)と並び複占市場に近い市場シェアを獲得することができた。 以上の二つの利点は、外注によって規模の経済を享受することが可能になったというこ とであり、前節の大手自動車メーカーの系列会社に部品を発注する中堅メーカーと同じ動 機に基づいている。さらに取引コスト経済学の観点から見ても、垂直分業を促す技術的変 化があった。 たとえば、消費電力が少ないなどの利点を持つCOMS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)という製造プロセス技術がロジック・デバイス製造の標準となったため、 同じ生産設備でさまざまな用途のロジック・デバイスの生産が可能となった。これがファ ウンドリーの生産効率を高め、さらに設計と製造の間のコーディネーションのプロセスを 標準化することを可能にした。別の言い方をすると、規模の経済によるメリットを高め、 さらにファブレスとファウンドリーの間の資産特殊性や連結性を低下させた。 ファブレスとファウンドリーの間の取引は市場取引と長期的関係が混在する。アルテラは、 世界最大のファウンドリーであるTSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing Company) と、10年以上にわたり、新しい材料や設計技術の開発を共同で行い、ウェハ調達のほぼ100% をTSMCに依存している。 この2社の長期取引関係の利点は三つある。まず、市場取引ではファウンドリーからの 十分なウェハの供給が保証されないという問題が生じる。長期取引関係を築くことで、新 製品投入に際し優先的に量産体制を整えてもらえるというメリットがアルテラに生じた。 第二に、市場取引では、ファウンドリー側が機会主義的な行動に出る可能性が残る。たと えば、調達価格を引き上げたり、ファウンドリー自身が競合製品を出したりする危険性が ある。長期取引関係を築くことで、TSMCがそういう行動をとるリスクがなくなる。なぜな ら、アルテラを裏切ることで、将来の受注の機会と最先端の設計技術を学ぶ機会を同時に 失うことになるからである。第三に、最先端の設計と製造プロセスを結びつける現場では、 わずかな違いが歩留まりや品質に大きな影響を与えるので、技術情報を頻繁に交換するこ とが必須となる。1社と取引することで、そうした調整のための取引コストは最小となる。 10.6 取引コストアプローチの特徴と限界 アルテラの例からわかるように、技術の方向性を正しく見定めることができれば、自社 生産するか外注するかという難しい問題に対し、正しい意思決定を行うことができる。そ のために取引コスト経済学は有効なフレームワークを提供してくれる。他方、取引コスト 経済学には多くの問題点もある。 まず、総コスト=生産コスト+取引コストではない。コストのうち、技術によって決ま るのではなく、取引統治のあり方によって影響を受けるコストを取引コストと呼ぶ。生産 コストと取引コストの間に明確な境界はない。したがって、企業は取引コストを最小化す るという仮定はあまり根拠がない。第二に、取引コストアプローチは静的な分析であって、 製品やプロセスの設計まで内生化したダイナミックな分析ではない。実際には、取引属性 は製品やプロセスの設計の仕方により変化する。たとえば、インターネット上のB2B 市場 での取引コストが下がると、企業はより多くの部品をインターネット上で調達できるよう 製品の標準化を図るかもしれない。よりダイナミックな分析が必要である。第三に、取引 コストを下げる解決策はいくつかある。どれを選択すべきかについて、取引コストアプロ ーチは良い解答を持たない。 組織の経済学では、そのアプローチの仕方によって、企業の捉え方が異なる。伝統的経 済学では、企業とは生産技術そのものと同一視された。つまり、企業活動のインプットと アウトプットの関係は生産技術で決まり、経済学の範疇の外にあると考えたため、永く企 業をブラックボックスと捉える伝統が続いた。契約理論では、企業は「契約集合の中枢」 (nexus of contracts)と捉えられる。また、企業を、情報処理の仕組みと捉えるアプロ ーチもある。それに対し、取引コスト経済学では、企業は取引の統治形態と捉える。分析 の目的に応じて、使い分けることが必要である。 【さらに読み進めたい読者のために】 Klein, Benjamin, Robert G. Crawford and Armen A. Alchian,“Vertical Integration, Appropriable Rents, and the Competitive Contracting Process,”Journal of Law, and Economics21(1978), pp.297-326. Nagaoka, Sadao,Akira Takeishi and Yoshihisa Noro,“Determinants of Firm Boundaries : Empirical Analysis of the Japanese Auto Industry from1984to 2002,”Journal of the Japanese and International Economies 22(2008), pp.187-206. Williamson,Oliver E.,The Economic Institutions of Capitalism, The Free Press, New York, 1985. Williamson, Oliver E., “Transaction Cost Economics and Business Administration,” Scandinavian Journal of Management,21(2005), pp.19-40. 11 所有権アプローチ 11.1 「企業の境界問題」に対するもう1つのアプローチ 本連載前回で述べたように、企業間の合併、連携、あるいは事業や機能のスピンオフ(分 社化)やアウトソーシング(ある業務の外部委託)などの問題は、「企業の境界」問題と 呼ばれる。「企業の境界」問題とは、どの取引、どの事業、どの機能を1つの企業内部で 行い、残りを他社や市場に任せるかという線引きを考えることである。この問題を考える 有効なフレームワークは2つある。1つは、前回解説した取引コスト経済学、もう1つが 今回取り上げる所有権アプローチである。この2つは、排他的な理論ではなく、密接に関 連しており、企業の意思決定を評価するには両方のフレームワークを使うことが必要であ る。 取引コスト経済学では、契約を作成するにはコストがかかる上、そのコストを抑えるた め、あるいは不確実性に対応するため契約は不完全にならざるを得ないと仮定する。こう した不完備契約は、事後的に機会主義的な行動を誘発する可能性があり、それが市場取引 のコストをさらに押し上げる。市場での取引コストが企業組織内での取引コストを上回る ようになると、社内調達、合併という形で企業組織内に取引が移行する。逆に、市場での 取引コストを押し下げるような技術的変化が生じると、スピンオフやアウトソーシングと いう形で、組織外に取引が移行する。 事後的に生じる機会主義的行動は、取引相手との関係においてしか価値を持たない関係 特殊的資産へ投資する場合に、とくに生じやすい。前回解説したように、機会主義的な行 動を警戒して、本来望ましい関係特殊的資産への投資が過少となる問題はホールドアップ 問題と呼ばれ、これまで多くの経済研究の対象となってきた。 Grossman and Hart (1986)、Hart and Moore (1990)は、上記のホールドアップ問題 を引き起こす状況の分析をさらに推し進め、事業資産の所有権の分配が取引者の交渉力 (bargaining power)にどういう影響を与え、その結果、関係特殊的投資がどう決定され るかを議論する。彼らの展開したフレームワークは、所有権理論と呼ばれ、事業の所有構 造つまり企業間の合併や分社化に関し有用な知見を提供することができる。 11.2 所有権とは何か? 所有権理論では、所有権を残余利益請求権(claim to residual returns)と残余コント ロール権(residual rights of control)で定義する。残余利益とは、所有する資産が生 み出すあらゆる収入からあらゆる支払い義務を差し引いたものであり、所有権を持つこと は残余利益を受け取る権利を有することを意味する。残余コントロール権とは、資産の利 用方法について、契約によって規定されない部分については、法律の範囲内で所有者がい かなる意思決定を行ってもよいことを保証することである。つまり契約が不完備であり何 をすべきか既定されていない状況が生じた時には、資産の所有者がそれを決定する。たと えば、自社の情報処理業務をサービス会社にアウトソースしたとしよう。それに伴い、使 っていたサーバーも情報処理サービス会社に所有権が移転したとする。この時、とくに契 約に規定がなければ、情報処理サービス会社はそのサーバーやストレージを別会社向けの 情報処理のために併用する権利を持つ。 実は残余コントロール権は、取引当事者の交渉力の源泉である。表1をご覧いただきた い。今、すでに取引関係を築いた買い手と売り手がいるとしよう。両者間の取引によって 生み出される総価値が網掛け部分で表されている。交渉により価格を決定することは、生 み出される総価値を買い手と売り手でどう分配するか決定することに等しい。残余コント ロール権は、交渉が決裂した際に、所有者が契約や法律の範囲内で交渉相手の不利にな る選択を含め、いかなる活用方法を選んでもよいことを保証する。たとえば、取引相手を 別に探したり、資産を売却したり、社内で別の用途に転用したりと、所有する資産が最も 高い価値を創出するよう有効活用を図るであろう。交渉決裂時に、上記のような外部機会 を使って得られる利潤を外部オプション価値(outside option value)と呼ぶ。 買い手・売り手がそれぞれ得る利潤は決して外部オプション価値を下回ることはない。 なぜなら、その場合は取引を解消して、外部機会を選択した方が得だからである。生み出 された総価値から両者の外部オプション価値を差し引いた差額は一般に準レント (quasi-rent)と呼ばれる。準レントが買い手と売り手の間でどう分配されるかという のは、交渉における我慢強さや、リスク回避度や、交渉技術によって決まってくるだろう。 これら交渉者の特性が同じであれば、準レントは両者で折半されると考えるのが自然であ ろう。これは、ナッシュによって導出された交渉解にあたり、 買い手(売り手)の利潤 =1/2(総価値-買い手の外部オプション価値-売り手の外部オプション価値)+買 い手(売り手)の外部オプション価値 =1/2(総価値+買い手(売り手)の外部オプション価値-売り手(買い手)の外部オ プション価値) と表現できる。ある事業資産を買い手が所有するのか、あるいは売り手が所有するのか、 という違いは、残余コントロール権のあるなしを通じ両者の外部オプション価値に影響を 与える。その結果、上記の式より、所有権の分配が最終的な利潤の分配に影響を与えるの である。 11.3 望ましい所有構造とは? 情報処理業務を情報サービス会社にアウトソースした企業の例を使って、上の概念を説 明しよう。発注側をA社、受注した情報サービス会社をB社としよう。B社が100%子会社 である場合と、資本関係のないまったく外部の会社である場合を比較しよう。B社が100% 子会社である場合、A社は実質的にはB社のすべての資産を所有していることと同じであ る。この場合、両社の間でどのように価値の分配が行われるであろうか? 契約更新の交渉 が決裂した場合、A社は単にB社が都合の良い契約をのむまで圧力をかければよい。交渉 するB社の経営陣は、拒否すれば解雇される危険性があるので、彼らの外部オプション価 値は高くない。他方、A社はB社の経営陣が要求を拒否した場合、経営陣を解雇し、B社 を併合してサービスを継続させればよいので、外部オプション価値はきわめて高い。した がって、A社は生み出された価値の大部分を搾取することが可能である。他方、B社が独 立した会社であり、A社の情報処理を行うサーバーやストレージを所有している場合、保 守契約交渉が決裂したならば、A社は最悪サーバーやストレージを失うことになろう。デ ータをコピーしたとしても、新しい情報機器を再導入してさまざまなテストを行わなけれ ばいけない分、業務にさまざまな支障が出ることになる。この時、A社の外部オプション 価値は低くなる。同様にB社にとっても、交渉決裂時にはサーバーやストレージのリソー スを、他社向けのサービスに充てることができるので、100%子会社である場合に比べ、外 部オプション価値ははるかに高い。 外部オプション価値の違いは、単なる受け取る利潤の分配に影響を与えるだけではない。 それだけであれば、誰が事業資産を所有するかは、さほど重要な問題ではない。実際Coase (1960)は、取引コストがなく、契約によって合意事項を履行することができるのであれ ば、所有権の分配は経済効率性に影響を与えないと主張した。 しかしながら実際には、所有構造の違いは次の2つの場合に経済効率面での差を生み出 し得る。第一に、事前に契約で規定できない関係特殊的投資が重要性をもつ場合である。 上記の例で、事業資産を操作する従業員に蓄積される人的資本への投資に目を向けていた だきたい。B社がA社の100%子会社である場合、A社の経営陣は、B社のシステムエンジ ニアがA社の業務知識を身につけるよう研修機会を提供し、B社に対しそのための資金援 助を行うことになろう。子会社の社員が親会社の研修に参加するということは日本企業で はたびたび観測される。その理由は、A社がB社の資産を保有しているがために、B社の 残余利益に対する請求権を持ち、投下した人的資本投資のリターンのほぼすべてを獲得す ることができるためである。逆に、B社がA社とはまったく資本関係のない情報サービス 会社であった場合、A社はB社の従業員に対しA社の業務知識を身につけさせるための研 修を施したとしても、その人的資本投資は準レントを増大させ、その半分はB社に搾取さ れる。これは本連載1月号で議論したホールドアップ問題である。その結果、B社従業員 の研修にA社がリソースを投下するインセンティブは、100%子会社のケースに比べはるか に弱い。こうした関係特殊的人的資本投資が重要であれば、外部企業への情報処理のアウ トソーシングは経済的に非効率となる。 第二に、事業資産や関係特殊的資産の活用の機会に違いが存在する場合である。不確実 性が高く契約が不完備にならざるを得ない場合、さまざまな資産活用のオプションを持つ 取引主体が残余コントロール権を持つことで、より効率的な資源配分が可能となる。上の 例で、B社がA社とはまったく資本関係のない情報サービス会社であった場合、B社はい くつもの会社の情報処理を一手に引き受けることで規模の経済を働かせることができる。 B社の経営陣は、A社の業務知識ではなく、より一般的な技術知識を身につけさせると同 時に、社員の専門化を推進する可能性が高い。社内にプールされた高度な専門知識を増や すことにより、技術変化に柔軟に対応でき、多くの顧客企業に質の高いサービスを提供す ることができる。さらにB社は、A社との契約更新に失敗し、A社向けサービスに従事し ていたエンジニアを他社向けサービスに振り分けた時でも、彼らの生産性を失わず業務の フレキシビリティを高めることができる。つまり、規模の経済を高める一般的人的資本投 資を行うことで、契約交渉の際の外部オプション価値を高めることができる。 以上の議論をまとめると、100%子会社の際には、より高い関係特殊的人的資本投資が行 われ、外部企業の場合には、規模の経済を高める一般的人的資本投資が促進される。どち らの所有構造が選択されるかは、どちらの人的資本投資のパターンがより高いリターンを 生むかによって決まる。つまり関係特殊的人的資本投資の収益率が高ければ、100%子会社 つまり自社所有が選択され、関係特殊的人的資本投資の収益率が一般的人的資本投資のそ れに比べて相対的に低ければ、外部企業へのアウトソーシングにより規模の経済を享受す ることが必要となろう。 11.4 所有権アプローチのフレームワーク 今、取引関係にある企業A、企業Bがそれぞれ資産a、資産bを使用してある財を生産 していると仮定しよう。企業Aと企業Bは、それぞれ資産aと資産bの利用価値を高める ような関係特殊的投資を行う。その投資額をそれぞれxA、xBとおく。ここで着目する関係特 殊的投資とは、関連する資産とあわせて活用されないと価値が大きく減少しうるような投 資であり、経営陣や従業員の中に蓄積されるノウハウといった人的資本投資を指す場合が 多いと考えていただきたい。こうした投資は、単に時間や努力の投入である場合も多く、 必ずしも金額では表せないものも多いため、xA、xBを事前に契約で定めることは不可能であ ると仮定する。 所有構造としては、 ①企業Aが資産aを、企業Bが資産bを所有する(分業) ②企業Aが資産a、資産bの両方を所有する(企業Aによる統合) ③企業Bが資産a、資産bの両方を所有する(企業Bによる統合) の3つのパターンが存在する。 ここで2つ注意事項がある。まず、所有と利用(あるいはアクセス)は異なるというこ とである。企業Aが資産a、資産bの両方を所有する場合でも、取引関係がある限り、企 業Bは資産bを利用して生産活動を行うことが可能である。先の情報処理のアウトソーシ ングの例でいうと、情報サービス会社が100%子会社であれば、情報サービス会社の経営陣 は親会社の所有する資産を活用して情報サービスを提供していることになる。第二に、交 渉決裂により取引関係が解消された場合、企業Aが資産a、資産bの両方を所有していた としても、定義により、企業Bが行った関係特殊的投資からのリターンのかなりの部分を 受け取ることはできない。たとえば情報サービス会社が100%子会社の場合、交渉決裂は経 営陣や従業員の解雇や配置転換などを含むことになろう。この場合、彼らに蓄積された関 係特殊的人的資本は価値を失う。 実例をあげて解説しよう。「わらべや日洋」(以下わらべやと呼ぶ)は、東京証券取引 所第一部上場の弁当メーカーで、約30年間セブンイレブンの成長を支えてきた。創業以来 43期連続の増収を続け、セブンイレブンに惣菜・弁当を納入する食品メーカーの中では群 を抜き、その売上の90%はセブン&アイ・ホールディングス(セブンイレブンの持ち株会 社)傘下企業向けである。わらべやがセブン&アイから信頼されている最大の理由は、こ の会社が食の安全と衛生面を何にも増して優先しているからである。また独自の機械を開 発し、セブンイレブンの商品ラインの拡大や生産性の向上に大きく貢献してきたからでも ある。わらべやが開発した新機械や管理手法は、セブンイレブンの下請け組織であるデリ カフーズ協同組合内で他のメーカーに情報公開されている。わらべやとセブンイレブンは これほど長く密接な協力関係を築いてきているのに、セブン&アイがわらべやを買収する という話はない。なぜであろうか? 所有権のフレームワークを使って説明すると、セブン&アイまたはセブンイレブンが企 業A、わらべやが企業Bであるとする。セブンイレブンは店舗網と効率的な配送システム (資産a)を構築し、わらべやは惣菜・弁当の製造工場(資産b)を全国にもつ。またセ ブンイレブンは、消費者の嗜好の変化をとらえるマーケティング調査および商品ラインの 開発をおこなう中で、そのためのノウハウを蓄積し(xA)、わらべやの経営陣は、食の安全 と衛生面での向上をもたらすさまざまな管理技法を蓄積し、従業員の食材や衛生面での知 識を高める研修を行っている(xB)。関係特殊的人的資本投資xAとxBは、それぞれ資産aと 資産bの利用を前提とすると同時に、資産aと資産bの価値を高める。 11.5 資産の独立性と補完性 今かりにセブンイレブンが、わらべやの持つ惣菜・弁当の製造工場の譲渡を受ける、も しくはわらべやを買収したとしよう。これにより、セブンイレブンの投資xAの価値は変化す るであろうか? 惣菜・弁当の製造工場を自前で所有せずとも、セブンイレブンは惣菜・弁 当売り場におけるいかなる商品をも開発し製造会社を見つけることは可能であろう。した がって、惣菜・弁当の製造工場を自前で所有することで、セブンイレブンの商品開発力が 増すということは考えにくい。同様に、 (事業規模を考慮するとありえないことであるが)、 わらべやがセブンイレブンの店舗や流通インフラ資産を所有したとしても、それによって 食の安全と衛生面での向上のために投資するインセンティブが増えるとは思えない。この 時、わらべやの持つ惣菜・弁当の製造工場とセブンイレブンの店舗や流通インフラ資産は 独立(independent)であるという。より、厳密な定義を示そう。 企業Aにとって資産bを併せ持つことが自らの関係特殊的投資の価値に直接的な影響を与 えず、かつ企業Bにとって資産aを併せ持つことが自らの関係特殊的投資の価値に直接的な 影響を与えないとき、資産aと資産bは独立であるという。 資産aと資産bが独立である時、企業A(企業B)が関係特殊的投資を行うインセンテ ィブについて、上記①②(①③)の所有構造の間で違いは生じない。他方、③の所有構造、 つまり企業Bによる統合が行われるとき、企業Aが関係特殊的投資を行うインセンティブ は低下する。同様に、②の所有構造、つまり企業Aによる統合が行われるとき、企業Bが 関係特殊的投資を行うインセンティブは低下する。したがって①の分業が最も効率的であ る。先の実例を使って説明しよう。セブンイレブンが、わらべやの持つ惣菜・弁当の製造 工場を所有した場合、わらべや経営陣が食の安全と衛生面での向上を目指し管理技法の開 発や従業員の研修を行っても、その投資から生まれる総価値の大部分は、外部オプション 価値の増したセブンイレブンによって搾取されるため、わらべやのインセンティブは小さ くなる。つまり、ホールドアップ問題が生じる。そのため、セブンイレブンがわらべやを 所有することは望ましくない。以下の結果をまとめる。 命題1:2つの資産が独立である時、この2つの資産は別々に所有されることが望まし い。 命題1の対偶は、「2つの資産が同一者によって所有されることが望ましい時、2つの 資産は独立ではない」である。したがって、2つの資産企業Aによって所有されているこ とが観測されるならば、企業Aにとって資産bを併せ利用することが、関係特殊的投資の 価値を引き上げている可能性が高い。 そうした補完性のある資産の例を挙げよう。セブン&アイ・ホールディングスは、2007 年に子供用品大手の赤ちゃん本舗を買収した。これにより、セブン&アイ傘下の総合スー パー、イトーヨーカドーの売り場へ赤ちゃん本舗が出店するほか、共同で独自商品の開発 などを手掛けることになった。セブン&アイ(企業A)は、イトーヨーカドーの店舗網と 幅広い仕入チャネル(資産a)という資産を持ち、その利益率を上げるため、独自商品の 開発投資を行う(xA)。赤ちゃん本舗(企業B)は、ブランド価値と顧客データ(資産b) を持ち、育児期の母親という消費者セグメントのニーズを理解する努力とさらなるブラン ド価値向上への投資を行う(xB)。セブン&アイは、赤ちゃん本舗のブランド価値と顧客 データにアクセスすることで、より消費者にアピールする独自商品を開発することが可能 となる。つまりxAの価値は高まる。逆に、赤ちゃん本舗は、イトーヨーカドーの都市部の 店舗網を通じた販売で顧客層を広げ、その仕入チャネルと豊富な経験を使った独自商品開 発に参加することで、消費者ニーズの理解が活かされ、広告投資の効果も高まる。つまり xBの価値が高まる。 合併が効果を持つためには、保有する資産が補完的であることが必要であり、合併がど の程度関係特殊的投資のリターンを高めるか、合併を検討する企業は十分な検討を行うこ とが必要である。資産の補完性が強まるとつぎのような関係が生まれる。 資産aと資産bの両方を利用しないと、関係特殊的投資の価値が生まれない時、資産aと 資産bは狭義補完的(strictly complementary)という。 狭義補完的資産の例として、たとえばセブン&アイの傘下企業の店舗網と同社の配送シ ステムを想像していただきたい。Hart and Moore(1990)は次の結果を導いた。 命題2:資産aと資産bが狭義補完的である時、この2つの資産は同一者に所有される ことが望ましい。 11.6 不可欠な人材 ジャパン・フード&リカー・アライアンス(JFLA)という不思議な持ち株会社がある。 醸造食品会社の盛田を母体とし、弱体化した醬油メーカーと酒造メーカーを買収して拡大 してきた。傘下には、「鬼ころし」で地酒ブームの火付け役となった老田酒造店や中四国 地方で人気のある醬油メーカーのマルキン忠勇などがある。また、高級食材・ワイン輸入 のアルカン、飲料製造のハイピース、水産食材卸売のイメックス、そしてグループ全体の 製品を扱う販売専門会社も併せ持つ。 買収された醬油メーカーや酒造メーカーは、JFLA から最新の品質管理技術や原価管理手 法を導入し、瓶やラベルなどの調達コストを下げ、その全国流通網を通じ全国に販売する ことが可能である。しかしそれだけであれば、所有権の移転ではなく提携の方がむしろ望 ましいであろう。実は、JFLA にとって買収が必要なのは、残余コントロール権を獲得する ことが意味を持っているからだと考えられる。JFLA が買収する企業の多くが、技術もブラ ンドもあるのに経営効率が悪化した企業である。残余コントロール権を行使し、遊休設 備を処分したり、グループ内で設備を融通し合うことで、資産効率を引き上げている。 しかしながら、こうした所有構造が長期にわたり機能するかどうか、非常に興味深い。 まず、JFLA の保有する資産の多くが前述の定義にしたがえば、独立である。たとえば、輸 入食材や水産食材の卸売会社と醬油メーカーと酒造メーカーの持つ資産の間には、何ら補 完性はない。また、地方の醬油造りや酒造りは、造り手に蓄積されたノウハウと地元の酒 屋、料理店との関係が重要であり、全国メーカーと異なりかなり差別化された市場である からである。看板、創業家、杜氏という人間や名前に資本価値があり、買収によって人が 去ったり無形資産が価値を失うリスクがきわめて高い。所有権アプローチでは、その人た ちがいなくては実物資産へのアクセスが他のメンバーの関係特殊的投資の価値に影響を与 えないとき、その人材を不可欠(indispensable)と呼ぶ。ここで、前述のフレームワーク において、JFLA を企業Aとし、傘下の酒造メーカーを企業Bとし、JFLAの持つ流通網や経 営システムを資産a、酒造メーカーの製造設備を資産bとしよう。 今、企業Bに所属するあるグループがいなくては、企業Aの関係特殊的投資の価値が、資 産bの保有によってまったく向上しないとき、企業Bの上記グループは資産bにとって不 可欠であるという。 つまり、酒造メーカーの人的資本がその資産にとって不可欠であるならば、JFLA がすべ ての実物資産を保有したとしても、酒造メーカーの創業家や造り手の協力を得られなけれ ば、JFLA の投資や努力は無駄になる。この時、JFLA が関係特殊的投資を行うインセンテ ィブは、酒造メーカーを所有することによって改善しない。他方、JFLA が酒造メーカーを 所有することで、酒造メーカー側が関係特殊的投資を行うインセンティブは下がる。した がって、Hart and Moore(1990)による以下の命題が正しくなる。 命題3:ある資産にとって不可欠な人的資本を持つグループが、その資産を保有するこ とが望ましい。 したがって、JFLA が酒造メーカーを所有するという所有構造は、本来効率的であるとは 言い難い。同社は買収によって不可欠な人的資本を失ったり、傘下のメーカーが関係特殊 的投資を行うインセンティブが減ることがないよう、運用面でさまざまな工夫を凝らして いるように見える。まずJFLA の最も重要な買収基準は、(1)後継者がいて、ブランドを守 る強い意志があることと、(2)個性を持った製品を持ち地域の文化として根付いていること である。また、創業家出身の役員、従業員の成績次第では、株の一部を創業家に戻したり、 社長をやってもらう可能性も残している。JFLA が酒造メーカーの立て直しを図り、成功す れば不可欠な人的資本を持つ創業家や後継者に徐徐に株を売り戻すという役割を担ってい るとすれば、所有権アプローチとは矛盾しない。 11.7 所有権アプローチが内包する問題点 所有権アプローチのフレームワークには、3つの問題がある。まず、資産の所有者を個 人やオーナー経営者であると見た場合にはよく理解できるが、所有と経営が分離した大企 業の経営者が交渉や意思決定を行うと考えた場合には、解釈は困難となる。つまり、残余 利益を最大化するため、関係特殊的投資を行い、準レントの配分を巡って交渉するという 仮定は、残余利益請求権を持たない雇われ経営者が投資や価格の交渉を行っている現実に 照らすと正しくない。したがって、そこから類推した望ましい所有構造というものも、必 ずしも正しくない可能性がある。 第二に、この理論は基本的に静的(static)なモデルである。企業間の関係は動(dynamic) で、関係的契約を構築していく中で、ホールドアップの問題を解決していると見られるケ ースが現実には多い。長期的関係における関係的契約を無視した議論では、現実を捉えき れない面も多い。 最後に、関係特殊的投資が契約で規定できないものと仮定しているが、そのことはすな わち所有権アプローチの実証研究がきわめて困難であるということと同値である。契約で 規定できないほど計測が困難なのであれば、研究者のデータとしても信頼性のある形で入 手できないことになる。 所有権アプローチを現実に近付けるための理論の拡張が必要ではないかと考える。 11.8 連載の最後に 経済学は、従来、公共政策、金融政策、財政政策の形成に役立つ学問として、その応用 が試みられてきた。しかし、効率的な企業経営を目指す上で有用な知見に富んだ経済理論 が出てくる中で、企業経営者の意思決定を助けるために経済学のフレームワークを活用す る動きが盛んになってきた。欧米のビジネススクールでは、ファイナンス、マネジメント、 マーケティングの各分野で、経済学博士号を持つ教員が年々増え続けている。その中でも、 組織と人事制度の経済学が果たす役割とその影響力は高まっている。アメリカのトップビ ジネススクールでは、組織経済学(OrganizationalEconomics)や人事経済学(Personnel Economics)に基づく科目が必ずカリキュラムに入っている。 企業経営に経済学が役立つということ、経済学の応用範囲は広いということを学生諸君 に理解していただくためにこの連載記事を執筆した。学んだ経済学をビジネスの世界で活 かしたいという読者を念頭に、実例を用いて組織の経済学を解説するということを優先し てきたため、時に厳密な議論を避けざるをえなかったり、重要な文献の多くを紹介できな かった。しかしこの連載を読んで、組織と人事制度の経済学に興味を持ちその研究や活用 を志す学生諸君が現れるならば、これに勝る喜びはない。 【さらに読み進めたい読者のために】 Coase, Ronald “The Problem of Social Cost,”Journal of Law and Economics, 3(1960), pp. 1-44. Grossman,Sanford and Hart,Oliver“The Costs and Benefits of Ownership:A Theory of Vertical and Lateral Integration,”Journal of Political Economy, 94(1986), pp. 691-719. Hart, Oliver and Moore, John “Property Rights and the Nature of the Firm,”Journal of Political Economy,98(1990), pp.1119-1158
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