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第5章
クリシュナ神
イントロダクション
クリシュナ神はすべての生きものに宿る神聖なる魂(アートマ)であり、全知全能、大宇宙に遍
在する魂(パラマートマ)です。紀元前3000年頃、プールナ・アヴァター=完全なる神の化身
として、人間の肉体を借りてこの世に降りたちました。クリシュナ神の降臨には、神だけを想い神
にすべてを捧げる人々の魂を解放するのと同時に、真理(=神)にもとづいたダルマ(正義)の再
建という目的がありました。神の愛、神の至福、神の無限なる英知の化身であるクリシュナ神は、
その美貌、愛情、まなざし、語り、茶目っ気たっぷりの行動の数々で多くの人々を惹きつけてやみ
ませんでした。
クリシュナ神は「ゴパーラ」として広く知られています。ゴ(文字通りの意味では「牛」)、つ
まりジーヴィ(生きもの)たちを守り、率い、養い、育てることで彼らの心を浄化し、神意識へと
導いてきたからです。そして高度に成長し浄化されたジーヴィであるゴピカたちは強く強くクリシ
ュナを愛し、パラマートマとひとつになることを求めました。ラーダーとミーラはクリシュナ原理
と一体になるためにすべてを捧げつくした帰依者の典型です。
すべての内に宿る神聖にして永遠なるアートマ(魂)、それがクリシュナです。心を清らかにし、
自信と勇気を培い、全身全霊で神にむかい、クリシュナの導きに心の耳を傾けることで、人は誰で
もアルジュナ(クリシュナの友)になることができます。そしてそこから魂の解放(モクシャ)を
得ることができるのです。クリシュナは私たちひとりひとりすべての内に宿ります。このアートマ
の力を輝かせるのはあなた自身です。祈りとは神を求めることです。求めた人だけがクリシュナに
たどりつ きます。
これから続くサティア・サイババの講話の抜粋は、クリシュナ神の生涯、そして使命について、
重要な側面を意義深く説明しています。
1.神の化身の降臨
永遠なる至福の主よ
オームの体現者
教えをたれる者
バターをかきまわすように
友
そして
魅惑の人
叫ぶもの祈るものをなだめ
裂かれた心を慰める
人の傲慢さを笑い
蓮の瞳
まのびした時を破壊する者
まるで冷えた月のように
癒し
時の超越者
人の心と想いをかき混ぜる者
くびきを放つ解放者
誕生と死をつかさどる
時の流れ
時の戯れ
善良なる人々の純粋なる心をとりこにする
美の顕現
デーヴァキーとヴァスデヴの息子ヴァスデーヴァの子
ヤドゥー族の栄光
それが
ここに
あなたとともに
あなたのすぐそばに
顕れた
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
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26p)
◇
クリシュナ神はどんな人物だったのでしょう。様々な人々の中で動きまわり、生きとし生けるものと遊び戯
れましたが、誰にも執着することはありませんでした。つねに満ちたり至福の中にいました。あらゆる資質を
超え、エゴはまったくありませんでした。そして王冠を戴かぬ王者でした。他の人々が国を治めるのを見てを
愉しんだのです。欲望からは完全に自由でした。クリシュナが求めたものは何であれ人々のためになることで
した。そのようにして神性を示したのです。
(サナタナ・サラティ
100
1989年
9月号
230p)
◇
◇
◇
◇
クリシュナは牢獄で生まれました。このことは光をひきだし解放を手にするためには、私たちの心という暗
く狭い闇に、神を誕生させ宿らせなければならないということを教えています。マーヤーとは真実を覆い隠す
幻想です。マーヤーは肉体とそれに付随するものが真理だと想わせ、肉体の望みに従わせようとかりたてます。
そうして人は神性を忘れ、かわりに内なる野獣の呼び声に耳を貸し、その結果高い理想から転げ落ちてしまう
のです。しかし心という独房にクリシュナが誕生した瞬間、人は救われます。心の奥底の神に気づきなさい。
クリシュナはデーヴァキーの8番目の息子として生まれました。これは意義深いことです。霊性の段階の8
番目がサマディ―――一番目からヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤマ、プラティヤーハーラ、ダーラナ
ー、ディヤーナ、サマディ―――だからです。この8つの段階はアシュターナガ・ヨガとして知られています。
(悪行を断つこと、戒律の遵守、呼吸法、ヨガのポーズ、五感の対象物にたいする心のコントロール、集中、
瞑想、アートマへの没入)。7つの段階をうまく乗りこえ、各段階によって心が浄化されてはじめて神の姿を
見ることができます。
サマディとは、サマ(平等)とディ(知性)が結びついたものです。いわば生きとし生けるものが絶対的に
平等であると理解する知性のことです。差異や区別の意識が消失するだけでなく、暑さ寒さ、喜び悲しみ、善
悪などの概念もが意味をなさなくなります。その段階に達したとき、神はおのずと意識の中に誕生します。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
248-250p)
◇
アヴァター(神の化身)は、人に人とはなんたるかを示し、アートマの至福という生得の権利を回復させる
ために降臨します。新たな教義を築いたり、新たな信徒集団をつくったり、新たな神を広めるためではありま
せん。もしそのようなことが起こるのであれば、それは人の心の中の邪悪さの結果です。アヴァターは人も神
であることを示すため、人々の理解のおよぶ範囲にいるために存在します。人の心は絶対的で属性のない原理
を把握することができません。抽象的で、言葉、心、知性を超えているからです。
マッチが炎をともせるものであっても、こすってはじめてその恩恵にあずかることができます。ニルグナ(属
性のないもの)はサグナ(属性)によって、ニラーカーラ(形のないもの)は形によって示されなければなり
ません。至福の体験を通じて、耳を傾け、学び、理解し、従い、救われるというのは、人にだけ可能なことで
す。アヴァターは人々の内に覚醒の炎をともし、積年の無知が一瞬にしてうち砕かれるのです。
他のアヴァター同様、クリシュナも修行者や聖者、賢者のみならず、純粋で善良な人々をも魅了しました。
知りたがり屋、批評家、懐疑主義者、無神論に陥った人々までも惹きつけました。あらがいきれぬその魅力的
な人柄で、無類の容姿で、声で、奏でる笛の音で、助言で、恐れを知らぬ勇敢さで、人々の心を惹きつけたの
です。調和、旋律、美をあたりにふりまきながらつねに至福の中にいました。
なぜありとあらゆる人の心を惹きつけたのでしょう。心を耕し、神の恩寵を授かる準備を整え、愛の種を育
て、喜びという作物をおおう邪悪な想いをすべてひき抜き、英知という実りを収穫できるようにするためです。
この英知の完全なるものはまさにクリシュナそのものです。なぜなら「クリシュナ」とは純然たる真髄、至高
の原理、サット・チット・アーナンダの意味でもあるからです。
(サティア・サイ・スピークス11
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290-292p)
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クリシュナ・アヴァターはサンプールナ・アヴァターで、16のカーラ(特徴的なしるし)すべてをそなえ
ています。一方ラーマは兄弟たちと分かちあっています。ラーマはグナ(資質)と結びつき、それにそった行
動をしているように見えますが、クリシュナはグナを超越しています。クリシュナはまさに危機にひんしたと
きでさえ、祈ることをしませんでした。しかしラーマはたとえばアディティヤー(太陽神)に祈りを捧げてい
ます。アヴァターとしての意味合いが異なっているからです。クリシュナはグナに作用されないのです。
ゴピカたちがクリシュナに「クリシュナ様、私たちにそのようなことをするのがダルマだというのですか」
と訴えたとき、クリシュナはこう答えています。「私のすることがアダルマなのではありません。あなた方が
アダルマなのです。肉体意識こそが、霊性の至上のダルマに反するものなのですから」
101
(サティア・サイ・スピークス4
◇
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235p)
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神の化身はみなプールナ・アヴァター、神のあらゆる特性をそなえています。しかしシャストラ(天啓文学)
は、クリシュナ・アヴァターのみが16の側面すべてをそなえた完全なる神の化身である、といっています。
全能の神であるにもかかわらず、クリシュナは帰依者たちとたいへん近しい神でした。帰依者たちに身をゆだ
ねていたからです。献身の心に満たされれば、神は召使いのように私たちに仕えてくれます。どんな困難や試
練にたいしても、つねに神には帰依者を守り助けるために身を貸す準備ができています。多くの帰依者たちが
クリシュナをたたえる歌を歌います。またクリシュナの降臨していた時代に生まれ、神の奏でる旋律を愉しん
だり、御業を目にする幸運に恵まれなかったことを嘆いています。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
125p)
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神の化身が降臨する目的は、サトワの性質をおし進め、邪悪な資質を根絶し、愛を広め、人々の心にまさに
正義(ダルマ)の化身である神を植えつけることです。神が地上に降臨するのは正義(ダルマ)の源である神
の愛を広めるためです。人の愛と神の愛になんらへだたりはありません。愛はひとつです。クリシュナはこう
宣言しました。「私は愛を広めるために化身しました」しかしバガヴァッド・ギータの研究者たちがギータの
伝えることをまちまちに解釈してきたため、混乱が生じているのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
9月号
284p)
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形のないものが形を変えるとき、それはヴィバーヴァカーラ(特定の威力または能力のいくつかをそなえた
もの)、もしくはスワカーラ(すべての威力をそなえたもの)として姿を顕わします。いわばアヴァターは、
肉体を借りた目的をはたすのに必要なだけの部分的な神の威力を顕現することもあれば、化身した目的の枠を
超え、完全なる威光に光り輝くこともあります。ラーマは前者の好例、クリシュナが後者の好例です。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
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202p)
◇
五感の主(あるじ)になりなさい。召使いではありません。「フリシーケシャ」というクリシュナの呼び名
は、「五感の支配者」の意です。「グダーケシャ」というアルジュナの呼び名も同じ意味です。ですから二人
はよき友人になれたのです。
(サティア・サイ・スピークス5
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29p)
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クリシュナというアヴァター、は神の栄華16の面すべてをそなえた完全なる神の化身です。ラーマの場合
には16のうち3人の兄弟がそれぞれ一つずつと、同時代にいたパラシュラーマが一つをそなえており、後に
ラーマは彼と出会いうち負かすことで、自らの内に秘めていた神の力の一部をひき出すことになります。他の
化身たちには、ある一人、もしくはある一団の示す邪悪さを制圧するといった特定の目的がありました。しか
しラーマ・アヴァターやクリシュナ・アヴァターには、悪を罰し、悪が生きながらえることはないと世に教え
る一方で、ダルマを再建し徳のある生き方を促すという、より広い目的がありました。
どの化身が登場する前にも、降臨のための二つの協力者が現れます―――マーヤー・シャクティ(幻惑の力)
とヨガ・シャクティ(神とひとつになる力)です。マーヤーが悪に警告を発する姉、ヨガが励ましともに歩む
兄として登場します。
(サティア・サイ・スピークス7
102
38-39p)
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アヴァターには2種類あります。アムサアヴァターとプールナアヴァターです。人はみなアムサアヴァター
(神の部分的化身)です。「*ママイヴァムソ
ジーヴァリケ
ジーヴァブータ・サナタナハ(私の永遠不滅の
セルフの一部一部が、この世の生きものののジーヴァ(個々の魂)となった)」ギータの中でクリシュナはこ
う言います。この部分的化身がマーヤーにからめとられ、利己心と所有欲を増大させ、俗世にまみれて生きて
いるのです。一方プールナアヴァターは、マーヤーを従え、超越しており、生涯を通じて完全なる神性を世に
示します。状況に応じてまるでマーヤーに支配されているかのように行動するかも知れませんが、実のところ
マーヤーからはつねに自由です。(*Mamaivamso jeevalike jeevabhuta-sanatanah)
たとえばラーマ・アヴァターの場合、マーヤーに支配されているかのようにふるまいながら、世の幸福をお
し進めるためにダルマを維持しつづけました。クリシュナ・アヴァターはまた違っています。マーヤーさえも
支配下におき、神のリーラ(奇跡的御業)をあらわにしました。バガヴァータムの中で、ヴィヤーサがクリシ
ュナを「*リーラマヌシャ
ヴィグラハハ(神のリーラを行うため人の姿をとった神)」と表現した理由はここ
にあります。バガヴァータムはクリシュナのリーラをこと細かに描き、神の栄光を世に訴えています。(*Leel
amanusha Vigrahah)
クリシュナ・アヴァターはたくさんの奇跡的御業を行っただけでなく、世に至高の英知を授けもしました。
グナを超越していましたが、世の再建のためにグナに影響されているかのようにふるまい、その御業によって
人々を歓ばせました。…(略)…クリシュナの話したこと、行ったことはどれも善良なる人々のため、この世
の幸福のためでした。しかしこの真理を理解することのできない人々は、クリシュナの行動の中には誤りがあ
ったと結論づけます。自分たちの思いこみを反映させているのです。
(サナタナ・サラティ
◇
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1990年
9月号
225-226p)
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地上に化身したとき、クリシュナも自らの役割にそって役を演じなければなりませんでした。シスパーラが
クリシュナをののしったとき、クリシュナは言いたいように言わせ、時がきたのをみて滅ぼしました。バガヴ
ァータムでもジャラサンダと遭遇したクリシュナが、くりかえし退却した様子が語られています。全知全能に
して遍在である神が、どこに逃げることができるでしょう。どこに身を隠すというのでしょう。まったくおか
しな話です。
神のやり方に信仰を抱き、神の意思に従ったとき、神を理解することができます。
たとえばドラウパディの例があります。ドゥリョーダーナの宮廷で、彼女はドゥリョーダーナとドゥササナ
から恥辱を受けましたが、クリシュナは演じなければならない役割にのっとり介入しませんでした。二人とも
ビーマの手中で死を迎えることが運命づけられていたからです。
生涯を通じ、クリシュナはおおぜいの邪悪な人々の攻撃と非難にさらされました。しかし神には好意も嫌悪
もありません。邪悪な人々は、当然のむくいとして、自分たちの行いの結果に苦しんだのです。
人の一生に何があるかは、部分的には行いによって何を得てきたかによります。これをプララダムといいま
す。しかしこれはそもそも一時的なものです。過去の行いの結果得たものは、そう長くは続きません。それを
忘れ、自らの本質(スワバーヴァム)を忘れてしまったがために、一過性のものにとらわれ、きまぐれな行い
をしているのです。
ある役を与えられた役者は、劇の全体を知りますが、自分の役を演じるときには、劇中の求められた場面で
自分の役割のみを演じるべきであり、知った役の全部を演じるのではありません。要求された役にそって、そ
れぞれの場面で自分のふるまいを演じなければなりません。同じように神にもこの宇宙という劇の中で役を引
き受けたからには、それぞれの状況にふさわしく、かつゲームのルールにのっとったふるまいをしなければな
りません。
(サナタナ・サラティ
◇
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◇
1994年
12月号
310p)
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クリシュナはパリプールナ・ジュナーニ(至高の英知を有する者)です。なぜ人の肉体をとったのでしょう。
「*パリトラナヤ・サドゥナム(善良なる人々を守るため)」です。クリシュナは、善良なる想いに満ち、善良
103
なる行いをする敬虔で信仰心の厚い人々に至高の真理を教えるため、人の姿で降臨しました。(*Parithranaya s
adhunam)
(サナタナ・サラティ
1995年
11/12月号
324p)
2.クリシュナ神の誕生―――-闇の二週間
愛の化身たちよ!
数千年の昔、ドゥワパラ・ユガの時代に何が起こったかを話すことがクリシュナの生誕
を祝うことではありません。ひとりひとり誰もが、一瞬一瞬、たえまなく心にクリシュナ意識を抱くことです。
クリシュナとは誰ですか?
いつ生まれましたか?
クリシュナはスラヴァナの月、闇の二週間(クリシュナ・
パクシャ)のアシュタミの日に暗い部屋の中で生まれました。…(略)…
暗闇の中であればなおさらのこと、神の威光はまばゆく光り輝きます。無秩序の世に秩序を確立するためク
リシュナは誕生しました。クリシュナはアシュタミの日に生まれました。アシュタミの日は、災いや困難に結
びつけられますが、災いはいつおこるものでしょう。正義が忘れられたときに起こるものです。クリシュナの
降臨は、闇を消しさり、災いを取りのぞき、無知を一掃し、人々に至高の英知を教えることを意味します。
クリシュナの第一の役割は教師でした。クリシュナはアルジュナにギータを授けました。アルジュナにこう
言いました。「ただ私の道具になりなさい」そしてこう宣言しています。「私はあなたを一つの道具として使
い、全世界を建て直そうとしているのです」神の教えはみなダルマとプレマ(神の愛)にかかわるものです。
(サナタナ・サラティ
◇
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1990年
9月号
227-228p)
◇
神は罰するだけでなく守りもします。試練を与えることもあれば、歓びを授けもします。クリシュナはダン
タヴァクラやシスパーラを滅ぼしました。一徹してパーンダヴァを守り通しもしました。(より以前のアヴァ
ターたちの時代)神はヒラニヤークシャ、ヒラニヤカシプらを破滅させ、プラフラーダを守っています。ラー
マ・アヴァターの時代にはラーヴァナやクンバカルナを罰してヴィビシャナを王位につけました。またクリシ
ュナ・アヴァターとしてゴピカたちをからかって泣かせたかと思えば、友人であるゴパーラたちには歓びを与
えています。これらはみな神のリーラ(戯れ)の様々な側面です。「どうして神はこれこれのことをしたかと
思えば、また違ったふるまいをするのだろう」神の完全に無私なる行いに関し、この疑問は見当違いです。神
の行いには非のうちどころがありません。神にはひとかけらの私欲もありません。
(サナタナ・サラティ
1991年
4月号
90p)
3.名前が語る教え
クリシュナという名前には3つの意味があります。一つめは「*クリシャーティ
す者
イティ
クリシュナハ(耕
それがクリシュナ)」という意味です。一体何を耕すのでしょう。心の畑(フリダヤ・クシェトラ)で
す。クリシュナは悪い資質という雑草を取りのぞき、愛の水をまき、サーダナを使って土をすき、献身という
種をまいて人々の心の畑を耕します。これがクリシュナの心の畑の耕し方です。(*Krishathi iti Krishnah)
二つめの意味は「*カルシャティ
イティ
クリシュナハ(惹きつける者
それがクリシュナ)」です。クリ
シュナはその瞳で、言葉で、茶目っ気で、しぐさのひとつひとつで人々を惹きつけます。クリシュナの言葉は、
憎しみに満ちた人々の心さえも和らげ、なだめ、歓びを与えてしまうのです。(*Karshathi iti Krishnah)
クリシュナという名前の三つめの意味はつねに至福の中にいる者(「*クシャティ
イティ
クリシュナハ」)
です。クリシュナはつねに至福の状態にいました。(*Kushathi iti Krishnah)
こういった様々な資質を持っていたため、賢者ガルガがクリシュナと名づけました。クリシュナという名の
一般的な意味は「肌の浅黒い者」ですが、人々はこの意味を覚えてはいても、より深い真の意味は忘れていま
す。
クリシュナの生涯は、世界に真理を示し、不変の真理をあまねく伝え、神のリーラによって世界を愉しませ
たことに集約されます。…(略)…
それだけではありません、邪悪な支配者たちを世界から一掃し、善良な人々を守るため正義による統治を確
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立して、母なる大地との誓約をはたすことでした。
徳のある人々を守り、悪を罰し、ダルマを確立する目的で、神はいくつもの時代に渡り何度も化身してきま
した。クリシュナはそれはたくさんの邪悪な人々を破滅させたといわれます。しかしそれは正しいとはいえま
せん。邪悪な人々を滅ぼしたもの、それは彼ら自身の邪悪さだったのですから。
今日、神が悪を罰し善人を守ろうとしたら、完全に善なる人などひとりとしていないことが分かるでしょう。
すべての人が罰にあたいします。ですから悪の破壊が問われているのではないのです。今日の課題は、不正義
(アダルマ)を正義(ダルマ)へと変えることです。どうしたらできるのでしょう。愛を通してです。こう思
うかも知れません。「でもクリシュナはカムサを殺しているではないか」そうではないのです。それは教科書
用の物語にすぎません。実のところカムサを殺したのは、彼自身のいきすぎた妄想だったのですから。
(サナタナ・サラティ
1994年
10月号
259-260p)
4.ヨギーシュワラの側面
クリシュナはギータの中でヨギーシュワラと呼ばれています。どんな意味でしょう。パタンジャリによれば、
チッタ(心)のヴリティ(ざわめき)をニローダ(支配)すること、と定義されています。心が静止し欲望の
風に波立たなくなったとき、人はヨギになります。神は最高のヨギです。表面をかき乱す波に影響されぬ大海
です。クリシュナは蛇カリヤの上でダンスを踊り、毒を吐き出させたといわれています。これはクリシュナが
五感の欲望を有害な物質に変化させたことを物語っています。ヨギーシュワラ(ヨガの神)に到達するには、
このタイプのヨガが最善です。呼吸をコントロールするのでなく、五感をコントロールする方法です。
アネカトワ・バーヴァ(多様意識)を超え、エカトワ・バーヴァ(一体意識)を培うことで、葛藤、悲しみ、
苦しみ、おごりに終わりがやってきます。姿形は様々でも、すべてを同じ神の顕れ、同一のスクリーンに映っ
た多様の像、同じ潮の流れに泡立つ気泡の数々とみなしなさい。
(サティア・サイ・スピークス9
27-28p)
5.プレマ(神の愛)の化身
プレマとともに、プレマの中で、プレマのために生きなさい。そのときプレマスワルーパ(神の愛の化身)
である神は、何も求めなくとも必要なものすべてをあなたに与えるでしょう。神には分かっています。神は母
であり、子どもがお腹をすかせて泣きだすまで待ちはしません。神の愛はあまりに広く、そして深いものです。
神はあなた方が必要とするものにことごとく先まわりし、ふさわしい助けを差しだそうとかけつけます。あな
た方はみな抱えてきたコリカ(願い)の長々とつらなるリストを手に、一体いつインタビューを授かり私に手
渡すことができるのかと、不安に思いながら待ちつづけています。願いの数はどんどん増え、つきることがあ
りません。一つが叶えばまた次の願いがわきおこります。神の意思のみが重要であり、自分は神の手中の道具
であるという段階にいたるまで力をつくしなさい。ゴーピーたちは、クリシュナの栄華、クリシュナの魅力、
クリシュナの言葉、クリシュナの戯れや遊び、クリシュナの偉業や御業に聴き入ることだけを望みました。
もしもあなたがクリシュナへの愛(クリシュナ・プレマ)に満ちたなら、サルーピャ(姿が似ること)とサ
ユージャ(クリシュナへの没入)に達するでしょう。小さな勝利ではなく、成就を目指して努力しなさい。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
193p)
◇
一粒の角砂糖がコップ全体の水を甘くするように、愛のまなざしはこの世のすべての人を親しみやすい魅力
的な人に変えてしまいます。ゴクルの素朴な乳搾りの女性たちは、お互いをクリシュナとして見ていました。
神の化身への愛がそれほどまでに圧倒的なものだったからです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
105
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133p)
クリシュナの生涯の最たるメッセージは、愛の原理(プレマ・タトワ)がすべてであるということでした。
これが世界に必要なメッセージです。クリシュナは愛の化身です。この愛は愛を通じてのみ理解されます。こ
の愛はダイヤモンドのようにまばゆく輝き、強靱で、けっして傷つくことがありません。稀少のきわみです。
神の愛を手に入れたいと願うなら、あなたの(神への)愛も同じくらい強くなければなりません。愛は愛を生
みだします。嫉妬は嫉妬を生み、怒りは怒りを生みだします。愛を育もうというのなら、憎しみも嫉妬も怒り
も捨ててしまいなさい。まさに愛の化身であるクリシュナに達するには、愛、それが唯一の道です。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
9月号
232p)
◇
姿があろうとなかろうと、神はアーナンダ(至福)です。ラーマ―――歓びそのものでありまた与えた者―
――として、クリシュナ―――分け与えた歓びで魅了した者―――として、ハートに神を迎えなさい。一瞬一
瞬をアーナンダとともに生き、ディヤーナを、プージャを、ジャパを捧げなさい。そうしてジュナーナ(英知)
と解脱の扉が開くでしょう。
(サティア・サイ・スピークス
出典箇所不明)
6.サナタナ・サラティ(永遠なる御者)
神はサナタナ・サラティであり、全人類のサラティ(御者)になるためにやってきました。導き励ます者を
求める人々すべての主です。アートマがひとりひとりにとっての教師であり、クリシュナは人の姿をとった普
遍的なアートマです。
ウパニシャッドはこういいます。「枝に止まった二羽の鳥は、一羽がジーヴァアートマ(個々の魂)、一羽
がパラマートマ(至高の魂)であり、木全体がこの世である。一方はこの木の果実をついばみ、もう一方はた
だそれを観照者としてながめている」ただふしぎなことに、二羽の鳥は二羽に見えながら実はひとつなのです。
二羽は同一の存在の二つの相であり、分かつことができません。大気中の蒸気は目に見えず姿も形もありませ
んが、固く重く冷たい氷と同じものです。ニラーカーラ(無形)とサカーラ(有形)は絶対なるものの二つの
顕れなのです。
時計の長針がジーヴァアートマ、果実を食べる鳥と同じです。長針はどんどん進みますが、短針は静かに、
ゆっくりと、ある種の威厳をもって進みます。この短針がパラマートマといえます。二つの針は一時間に一度
重なりますが、ジーヴァアートマは重なったままで固定されず、成就にいたりません。この貴重なチャンスを
のがし、何度も何度もまわりつづけねばならないのです。解脱とは二つが溶けあいひとつになるときのことで
す。
真理への道におかれた障害物をうち砕いたとき解脱に達します。解脱が今ここで勝ちとることができるわけ
はここにあります。肉体が消滅するのを待つ必要はありません。カルマを重荷ととらえるべきではありません。
そう感じたなら本質にさからっている証拠です。あなたの成長を助けるカルマが重荷になるということはあり
えません。自らの深奥にひそむ本質にあらがったとき重荷に感じるのです。後になって自分が達成したことを
ふりかえり、その不毛さにため息をつくことでしょう。手遅れになる前に心を神にあずけなさい。神が神の望
む形にあなたの心をつくりかえるにまかせなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
185p)
7.ゴパーラとしてのクリシュナ神
もしもクリシュナを世俗の人々と同じゴパーラ(牛飼い)とみなすなら、神はあなたにたいしたんなる牛飼
いになるだけです。あなたが到達する段階もそこまでです。しかしこのことをヨガの視点でとらえなさい。ゴ
パーラのゴは「ジーヴァ(生きもの)」という意味であることから、ゴパーラとは「ジーヴィを守り導き、与
え、育むもの」、いわば「ジーヴィの守護者、保護者」なのです。クリシュナをグルとみなしたウッダーヴァ
は、クリシュナをサッカ(友)とみなしたアルジュナ以上に恩恵に浴したことに気づくでしょう。神を神とし
て信仰すれば、神はあなたの神になります。神をたんなる人とみなせば、神は人の役を引きうけ、あなたにと
106
ってまったく無価値な存在になってしまいます。外界を見ている目ではなく、心で神を探しなさい。高次の力
はやはり高次の状態に求めるべきものであり、低次に求めるべきではありません。見るにふさわしい目と理解
できるだけの英知を得たとき、神を見いだすことができるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス3
◇
◇
◇
146-147p)
◇
「ゴ(牛)」には、生きもの、魂、個、という意味もあります。ですからゴパーラとは、魂を世話し、災難
から守り、平安の中で草を食べさせ、夕闇が地上に降りる頃にはまた小屋に戻るよう導くものでもあるのです。
生きものそれぞれが神の温かい愛情のもとにあり、神はそれぞれにとって何が最善なのかを知り、破滅から救
いあげてくれるのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
*ラソ
ヴァイ
◇
◇
185p)
◇
サハ―――「神は甘さである」ジャガット(大宇宙)を神の作品とみなす人にとって、神の
創造したこの世は甘いものに他なりません。神を求め神に達するには、ジャガット(この世)を神の栄華、神
の威力を教えるものとして活用するべきです。このゴールにむかう旅路には4つの領域があります。それぞれ
の領域をローカと呼びます。一番最初がアヴィディヤローカ(無知と幻惑の領域)で、人はここから出発し、
ふりかかる悲しみ苦しみの連続にかりたてられます。二番目がヴィディヤローカで、ここではヴィジュナーナ
マヤコシャ(知性的段階)に分け入り、真と偽、種子と種皮とを見分けることができるようになります。三番
目がアーナンダローカで、力と平安の不滅の源泉をかいまみ、至福に浸ります。最期がゴローカ、ゴパーラの
領域で、プレマサガラ(愛の海)の一波一波であるあらゆるゴ(ジーヴァ)、神のきらめきたちが陶酔と覚醒
の中で一体となります。(*Raso vai sah)
愛がないかぎり、神を信ずる人々の一員だと主張することはできません。儀式を厳密に行ったり、大げさに
崇めたり、声を大にしてたたえるだけでゴローカの門をくぐる資格は与えられません。愛という宝の箱に比べ
れば、それらはブリキの箱とゴミくずです。愛は生と死の世界から死のない世界へ、死の世界から再び誕生す
ることのない世界へ渡る橋になります。ジーヴァ意識(人間性)からデーヴァ意識(神性)に目覚めれば、も
う生まれることも死ぬこともありません。すべてはひとつであると気づくまであらゆる命を愛したとき、解脱
にいたります。ハートを愛に浸し、行いを正義に浸し、慈しみの気持ちに浸りなさい。神にいたる最短の道で
す。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
203-204p)
◇
「ゴ」とはインドリヤ、つまり五感のことであり、ゴパーラとは五感をコントロールする者の意味です。な
ぜコントロールしなければならないのでしょう。五感がティヤガ=犠牲の道に立ちふさがることのないように
です。五感はどれも自己中心的、利己的です。内側にむかうよう、不変原理であるアートマにむかうよう、訓
練しなければなりません。「ゴパーラ」を信頼し、神に五感をゆだねることでなしとげられます。誰もがサッ
ト・カルマ、善い行いをへて愛を拡大する段階へと入り、その愛から大いなる唯一の神への犠牲心、献身、帰
依を学んでいきます。それにより、神が至高の存在であること、他のすべては神の落とす影であること、神の
みが唯一無二の真理であることへの信仰へと導かれていきます。
(サティア・サイ・スピークス5
8.クリシュナと8人の妻
101p)
16000人のゴピカ
クリシュナの生涯には重要な意味合いを含んだたくさんのできごとがありますが、学者や研究者たちに誤解、
曲解されてきました。それらの誤解は、クリシュナが8人の妻をめとり16000人のゴピカと戯れた、とい
う逸話が原因になっています。脊柱には6つのチャクラがあり、その内の2つ―――脳にあるサハスララ・チ
107
ャクラと、脊柱の真ん中に位置するフリダヤ・チャクラ―――が重要なチャクラです。フリダヤ・チャクラは
8つの花弁をもつ花のようなチャクラです。この8つの花弁はこの世の8つの領域を象徴しており、その8つ
は神によって支配されています。つまり人のハートには8つの花弁をもつ蓮の花があり、神がその花の主であ
るという意味が隠されているのです。ハートの主はマーダヴァと呼ばれます。「マ」とはラクシュミー、マー
ヤー、プラクリティのことで、「ダヴァ」は夫の意味です。神はラクシュミー、マーヤー、プラクリティの主
なのです。つまりクリシュナが、ハートにある8つの花弁の蓮の花の主なのです。
サハスララは脊柱の一番上のチャクラで、1000の花弁の花として描かれます。花弁の一枚一枚に16の
能力(カーラ)すべてをそなえた神が宿っています。それが1000集まれば16000の能力になり、16
000人のゴピカになります。「ゴ」は音、言葉、呼吸の意味です。神はこの1000の花弁を持つサハスラ
ラの主なのです。16000人のゴピカに隠された重要な意味は、まさにこのように理解しなければなりませ
ん。バガヴァータムの逸話の数々について、霊的な意味を理解しようという試みはほとんどなされていません。
特に若い人たちは、クリシュナの8人の妻と16000人のゴピカの逸話を誤解しがちです。このことが本当
に意味するのは、誰もがみな内に秘める16000の資質を目覚めさせなければならない、ということです。
それは神の指揮に完全に従ったときなしとげられます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
259p)
◇
人体にはシャドチャクラと呼ばれる魂の6つのエネルギーセンターがあります。このうち重要なものの2つ
が、フリダヤ・チャクラ(ハートのセンター)とサハスララ(1000の花弁をもつセンター)です。フリダ
ヤ・チャクラはハートの蓮(フリダヤ・カマラ)としても知られており、サハスララは1000の花弁の蓮と
も呼ばれます。この蓮の8つの花弁は、8つの世界、8つの方角、この世の8人の守り主、8つの精霊(ブー
タ)、この世の8つの要素を象徴しています。クリシュナがこの8つの花弁の主であるため、8人の王妃の夫
として描かれました。主がパティと呼ばれ、それに従うものが妻と表現されました。これは象徴的に関係を表
現したのであって、世俗的な意味での「夫-妻」ではありません。この関係に秘められた重要な意味が適切に
理解されなかったため、バガヴァータムが誤解されるにいたりました。
クリシュナは16000人のゴピカと結婚したともいわれています。このゴピカたちとは誰のことでしょう。
肉体をもった牛飼いの女性たちではありません。人の頭の中には1000の花弁の蓮の花があります。その花
弁のひとつひとつに16のカーラが宿っています。この16のカーラが化身したものが神です。神はサハスラ
ラ(1000の花弁の蓮)の主として、この蓮に宿る16000のカーラを支配します。脊柱(ムーラダラ)
の一番下からわきおこるクンダリーニ・シャクティはサハスララまで上昇し、16000の資質に溶けあいま
す。これが肉体に宿る神性の働きに秘められた意義、意味合いです。この深い意味合いに気づかずに、人は誤
解と曲解に陥っているのです。
(サナタナ・サラティ
1990年
1月号
10p)
9.クリシュナ神とアルジュナ―――クルクシェトラの戦い
ギータの最終スローカはこう歌いあげています。「*至高のヨギ、クリシュナのいるところには、必ず弓をか
まえたアルジュナがおり、真実と正義の勝利が約束される」この言葉は、クリシュナの御前でマハーバーラタ・
アルジュナが弓を引いたときにのみ勝利を保証するものではありません。あなた方の誰もがアルジュナとなり、
弓をひき勝利を手にすることができるのです。この弓は、勇気と信仰、確固たる決意とひるまぬ実行力の象徴
に他なりません。ではどうしたらアルジュナになれるでしょう。アルジュナとは白、純粋、汚れも傷もないと
いう意味です。その資質をたずさえ弓をかまえれば(ウパニシャッドではプラヴァナ「OM」が弓、神が的(ま
と)であると述べています)、クリシュナはたちまち姿を顕します。あらゆる瞬間、あらゆるところに存在し
ているのですから。わざわざ呼び出す必要も招く必要もありません。神はまさにあなたの心にこたえてくれる
でしょう。(*Yathra Yogeshwarah Krishno Yathra Partho Dhanurdarah, Tathre Sreer Bhuthir Dhruva Neethir Mathi
r Mama)
(サティア・サイ・スピークス11
108
295-296p)
◇
◇
◇
◇
よく尋ねられる質問があります。クリシュナはこの大宇宙の主であり、遍在する神である。しかし戦場で4
0ローカ(1ローカ=10万)もの人々を破滅させたのもまたクリシュナである。これは暴力ではないのか。
この質問にはこう答えましょう。背中をガンにおかされた人がいたとします。ガンの部分には何千というガン
細胞があります。それにたいして医師は「こんなにたくさんのガン細胞を殺してしまっていいのだろうか」と
ためらったり自問したりするでしょうか。患者の命を救うのが医師のつとめではないですか?
ガン細胞を思
いやるのと、患者の命を守るのとではどちらが大切なことでしょう。医師は、ガン細胞をそのままにしておい
ては危険であり、取りのぞいて患者の命を救うという結論にいたるでしょう。その課程で、ガン細胞の数では
なく、質を考慮したからこそです。それと同じで、戦いの行われた時代、カウラヴァ族の姿をしたガン細胞が
世にはびこっていたのです。カウラヴァ一族がガンのようなものだと気づいたクリシュナは、自ら外科医とな
り、アルジュナを助手にしたて、大がかりな手術を行いました。40ローカのガン細胞が滅ぼされたのです。
(サマーシャワー
◇
◇
◇
イン
ブリンダヴァン
1992年
249p)
◇
ギータとは「歌」のことです。クリシュナはブリンダヴァンで笛を奏でました。戦場でも歌いました。どち
らの歌も、限定されたものを無限で普遍なるものと融合させるための旋律でした。クリシュナにとってはルド
ラブーミ(死にゆくものの場所)もバドラブーミ(神聖なる場所)もまったく同じものです。どちらも等しく
ウパデシュ(霊性の教え)を授ける場所であり、神はそれをバクタたちがもっとも気にいる形、いわば歌によ
って授けたのです。アルジュナはどれほど集中して聴いたのでしょうか。ブリンダヴァンで笛の奏でるメッセ
ージに耳を傾けた、ゴーピー(牛飼いの少女)たちにも並ぶ熱心さで聴き入りました。敵対する軍隊のことも、
個人的な憎しみも、戦いの興奮をも忘れて、語りかけてくる教えに没頭しました。もしもあなたの闘いの場、
クルクシェトラでこのエーカグラタ(一点集中)を発揮したなら、あなたにもまちがいなくこのギータが聞こ
えてくるでしょう。バガヴァッド・ギータ、サイ・ギータ、サティア・サイ・ギータ―――あなたのために歌
われるのです。
ギータはアジュナーナ・サンモハ(無知による幻影)を取りはらうために語られ、アルジュナに関していえ
ばそれに成功しています。しかしサンジャヤとドリタラーシュトラたちも同じようにギータを聞いていたにも
かかわらず、その恩恵を得ることができませんでした。それでもなお自らのアジュナーナ(無知)にとらわれ
ていたからです。ドリタラーシュトラは戦いがまだ始まらないこと、息子の敵が破られていないこと、始終そ
ればかりに気をとられ、ギータからは何も得ていないのです。このように、ギータを読む人はたくさんいても、
その恩恵に浴することのできる人はほとんどいません。ギータから何かを得ようというのなら、アルジュナの
ヴァイラーギヤム(無執着)、アルジュナのエーカグラタ(一点集中)を身につけなさい。ニルマーラ・フリ
ダヤ(純粋な心)とニシャーラ・バーヴァ(固い決意)、それが大切です。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
178-179p)
◇
一致団結の原理がこの大宇宙を統治し確立されたとき、はじめて人を「人類」と呼ぶことができます。クリ
シュナはまさにこの普遍にして不朽の原理の化身です。クリシュナが牛飼いの少女たちに囲まれ、食事を分け
合い、笑い、冗談を言い、いたずらをしかけ、あたりに歓びをふりまく様子を思いうかべると、とても親しみ
やすさを感じます。これが最終的に私たちを超越者の高みにひきあげるものです。この友情があらわになると、
神の愛の火花がとびちります。この火花がとびちるとき、人は個という枠を踏みこえるのです。一歩一歩、正
しく確実に歩む―――それがこの旅路の進み方です。
アルジュナはクリシュナに、遍在する指揮者、すべてを超越する王者、過去・現在・未来にわたる万物の内
在者であるよりも、むしろ友人、仲間としての姿を望みました。一体となる至福よりも、身近であることの歓
びを渇望したのです。また神性が自分のみでなく、原子から大惑星、微少のちりから大いなる天体すべての内
的核心、かつ外的枠組みであるとみなすのは、個を超えていく作業です。ですからラーマクリシュナ・パラマ
ハンサやその他の人たちは、個としての役を失うよりは、むしと崇拝者としての役を演じることを願いました。
(サティア・サイ・スピークス10
109
9-10p)
◇
◇
◇
◇
人の肉体においては、アートマ(内在する真のセルフ)が夫であり、数々の傾向がその妻です。アートマを
君主とみなし、想い・言葉・行いのひとつひとつを個人の解放を助け促すものにするべきです。原始の無形の
絶対実在が、欲望と結婚して心(マインド)が生まれました。この心(マインド)は、内的な思索の力と外的
な行いの力という二人の妻をめとりました。前者はサティア(真理)、ダルマ(正義)、シャンティ(平安)、
プレマ(愛)、アヒムサ(非暴力)を生み、これがパーンダヴァ5兄弟です。心(マインド)は二番目の妻ば
かりに夢中だったため、100人もの子どもが産まれ、それぞれに悪徳や邪悪さを示す名がつけられました。
これがカウラヴァ一族です。神はパーンダヴァ側につき、彼らが勝利をおさめました。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
20p)
◇
パーンダヴァ一族が神に求めたのは恩寵のみでした。神はそれをみとめ、神ひとり、何の武器も持たずにパ
ーンダヴァ側につきました。たった一本のムチを手に、アルジュナのひく戦車の馬をあやつりました。それだ
けのことです。しかし勝利に必要なものはそれだけなのです。カウラヴァ一族は完璧なまでにうち負かされ、
パーンダヴァ一族が国と不朽の名声を勝ちとりました。
神があなたの味方につけば世界はあなたの手の中です。それがヒンドゥー教の経典がさかんに教えようとし
ていることです。「権利や義務、すべての束縛を手放しなさい。全身全霊で帰依しなさい。私はあなたを罪か
ら守り、生と死の循環という哀れなところからあなたを解放しましょう。永遠なる平安の中にたたずむことが
できるのです」神はそう保証しました。
人には何より解放と光が必要です。呼吸よりも重要だといえます。束縛され、暗闇にいるとき、人がみじめ
である理由はここにあります。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
128p)
◇
クリシュナは普通の人間として人々とまじり、人々が神の定めた規範に従うよう、神の愛で導きました。神
のしるしである貝殻、法輪、棍棒、蓮の花を手から離し、王冠をもはずしていました。少年時代には頭のまわ
りにただタオルを巻いて牧場の牛を追いました(ここでスワミは長いタオルを運ばせると、頭に巻いて当時の
クリシュナがどんなだったかを示されました。そしてクリシュナの時代にも、今と同様、ブリンダヴァンやゴ
クルのあたりにはたくさんのクジャクがおり、落ちた羽を見つけては頭のタオルにはさんだと話してください
ました。何百という敬虔で熱心な帰依者の前で、スワミご自身が少年ゴパーラの姿を演じてくださるという、
大変貴重ですばらしい歓びの一瞬でした)
パーンダヴァ族がアスワメダ・ヤジナとラジャスヤ・ヤジナを行ったとき、クリシュナは一族に仕えること
ができるよう、自分にも捧げものをするよう求めました。カウラヴァ一族を一人残らず破滅させることができ
ながら、善良なる資質をそそぎこんで、一族を救うための最善の努力をつくしてもいます。今も昔も神の教え
るメッセージに変わりはありません。「己を知りなさい、それが神を知る唯一の道です」
愛を与え愛を受けとりながら
生きとし生けるものと熱意をもってかかわりあい、人々のものの見方を正し意識を浄化することを通じ、核心
である神の意識へと導いていくこと―――それがあなた方に託された仕事です。もしも人の姿をしていなかっ
たら誰もあなたに近づきません。人の姿を超えていたなら人は離れていくでしょう。シャストラ(霊性の教え)
がいうように、「*ダイヴァム
マヌシャ
ルペナ=人の姿をした神」が人々を救うためにやってきたのです。
(*Dhaivam manusha rupena)
五元素は神の意思で創りだされたものであるため、クリシュナの意思に従います。クリシュナのいったこと
はすべて実現します。事実、真理についての唯一正しい定義が「クリシュナの言うこと」なのです。それを信
じなさい、堅く確信しなさい。ある日アルジュナと辺りをぶらついていたとき、クリシュナは木にとまった鳥
を指して言いました。「あそこにクジャクがいるのが見えるかい?」アルジュナは答えました。「ええ、見え
ますとも」「ああアルジュナ、クジャクじゃなかった、あれはワシだ」クリシュナがこう言うとアルジュナも
110
すぐさまワシだと認めました。クリシュナは同じ鳥を指してこう言い直しました。「すまない、あれはハトだ
ったね」するとアルジュナも言い直しました。「ええ、そうです。私にもハトに見えます」ふたたびクリシュ
ナは笑って言いました。「なんだハトじゃない、カラスだよ」アルジュナは口答えもせずに認めました。「間
違いありません、カラスです」するとクリシュナは盲目的にクジャクだ、ワシだ、ハトだ、カラスだと自分の
言ったことに同意したアルジュナの愚かさをとがめました。しかしアルジュナは答えました。「私にとってあ
なたの言ったことが真理です。あなたはカラスをハトに、クジャクをワシに変えることのできるお方です。ど
うしてそれは違うと言えましょう。あなたのお言葉こそ、私が頼るべき真理の言葉なのです」
あなたもこの信仰心を高めなさい。自分のエゴや他人の批判に気をそらされてはいけません。ヴィヴェーカ
(英知)とヴァイラーギヤ(無執着)を培えば、心は香りたつほど美しく花開きます。ここに蓮の花の中に立
つスワミの写真があります。サイ・クリシュナはあなた方の蓮のハートに宿ります。神はあなたの守り主、導
き手としてつねにあなたとともにいて、あなたに恩寵を注いでいます。神は母であり、父であり、教師であり、
もっとも近しい肉親です。神はあなたのすべてです。
(サティア・サイ・スピークス13
255-256p)
10.クリシュナ神の言葉―――バガヴァッド・ギータ
ギータはまさに次のことを教えています。「私だけを想いウパサナを行うものを、私もまた心に抱こう。そ
のときから最期のときまで私は荷物をともに背負おう」またギータはこうも言っています。「つねに私を心に
抱き、人生を闘いぬきなさい」
ここでクリシュナの言った「私」とは、あなた以外のどこかに存在するものではありません。ディヤーナ(瞑
想)の静寂の中、あちこちにさまよう五感、心、エゴをふりはらったときに認めることのできる、あなたの中
の神の姿のことです。神が御者としておわす穏やかで静かな心に帰ることができるはずです。清らかな態度で
心を浄化しつづける、ただそれだけでよいのです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
114-115p)
◇
シュリー・クリシュナが世に伝えた一番最初のメッセージがこれです。「生きとし生けるものに宿るアート
マ(魂)が、私のアートマとおなじものであるという真理を体験した者は、欲望に満ちていようと欲望から自
由であろうと、在家者であろうと出家者であろうと、定められた行い(カルマ)に従事していようといまいと、
彼らは私の中にも宿る」5000年前、全人類にむけてこの教えが授けられました。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
253p)
◇
クリシュナはギータの中でこう言います。サルヴァダルマ―――規則や責任、権利や義務、「私が」「私に」
といったすべての意識―――を神にゆだねたその瞬間、神はあなたをあらゆるくびきから解き放つ。つまり神
は自分を肉体とみなす心を捧げるよう望んでいるのです。
それがクリシュナがこの世に教えにきた至上の行動規範、ダルマです。自らが神、それ以外の何ものでもな
いことを知る―――それが人のつとめです。それをおこたり、脇道に迷いこんだとき、神は化身し、人々をふ
たたび正しい道に連れ戻すのです。
(サティア・サイ・スピークス9
155p)
11.好意も嫌悪も抱かぬ神
神は欲望にひきこまれることがありません。望むものもありません。完全で、自由で、つねに満ちたりてい
ます。神には好意も嫌悪もありません。肉親の束縛もありません。ある詩人は歌いました。「おおクリシュナ、
おおゴパーラよ、あなたが私に優しくしてくださるなどと、慈悲を求める私の声に心をとめてくださるなどと、
111
どうして思うことができましょう。母方の叔父をあなたがその手で殺したことを知らないとでもお思いです
か?
乳を与えようと慕わしげに近づいた乳母その人を殺したのもあなたです。みじんの憐れみも抱かずに、
最愛の帰依者プラフラーダの父を子であるプラフラーダの見ている前で八つ裂きにもしました。まるでほどこ
しでも授けるようにバリに近づき、喜んですべてをあなたの御足に捧げたバリを、頭を踏みつけにし地獄に送
りこんでもいます。そんな情け容赦のないあなたの心がどうして私の悲嘆に動かされるというのでしょう」そ
うです、神はあらゆる執着という執着を超えています。神には好意も嫌悪もありません。神とあなたの間の距
離は、あなた自身が決めているのです。モクシャとはモハ(執着)がクシャヤ(消滅)するときのことです。
ならばモクシャを与える者が、どうやって執着の呼び声に近づいてこれるというのですか。
神には望みも欲するものもありません。神は授けることも与えずにいることもありません。神は永遠の観照
者なのです。それをあなた方が理解できる言葉でいえば、神は郵便配達人のようなもので、受取人に手渡す手
紙の中身には関心がありません。ある手紙は勝利を、またある手紙は敗北を伝えるものかも知れません。あな
た方は自分のしてきたことの答えを受けとるのです。善いことには善いものが返ってきます。悪いことをすれ
ば悪いものを受けとることになるでしょう。それがこの世の法則であり、そこには逃げ場もすきもありません。
(サティア・サイ・スピークス9
90p)
12.クリシュナ神の笛
もしも神をひきよせるに十分な資質があれば、神のほうからあなたを訪れ、ともにいてくださるでしょう。
笛のようになりなさい。まっすぐで、軽く、さえぎることなく神の吐息を通す、アシ笛のようでいなさい。そ
のとき神はあなたのもとにきて、あなたを手にとります。あなたという笛を肩にもたせかけ、唇を軽くあて、
聖なる吐息をあなたに吹きこみ、すばらしい音楽を奏でるでしょう。そうして神の手の中で微少のものが無限
のものへ、アヌ(軽い原子)がガーナ(重い個体)へと変えられるのです。
ある日ラーダーが近づいてきたとき、クリシュナはむぞうさに笛をわきに置いたままぐっすり眠っているふ
りをしました。ラーダーは悲痛なおももちで笛に語りかけました。「ああ、なんて幸せなムラーリ(笛)でし
ょう!
どうしてそんなにも幸運なのか教えてちょうだい。あなたが守った誓いって何だったの?
食をしたの?
それとも何かの巡礼かしら?
マントラは何を唱えたの?
どんな断
どの聖像を礼拝したの?」笛は神
の慈悲で言葉を得、ラーダーにこう答えました。「私は五感の欲望、嫉妬、貪欲さ、エゴ、すべてを捨てまし
た。ただそれだけです。神が私を通して生きとし生けるものにプレマを注ぐとき、私にはその流れをさえぎる
エゴがまったくありません」
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
175p)
◇
進んでエゴをなくす努力をしなさい。そうして神の笛として迎えられます。あるとき私は何人かの人に、神
が手にする道具のどれになりたいかを尋ねたことがありました。いろんな答えがありました。ある人は蓮の花、
ある人は貝殻、ある人は法輪などと答えましたが、誰もムラーリ(笛)とは言いませんでした。私はあなた方
にムラーリになることを勧めます。神があなたのもとにやってきて、あなたを手に取り、唇をあて、あなたに
息を吹きこむのです。積みあげてきたエゴがすっかり消えさったあなたの空っぽの心から、神が万物を愉しま
せる、うっとりするような調べを奏でるのです。あなたの意志をなくしたまっすぐな心でいなさい。神の意思
にあなたの意志を溶かしなさい。神の吐息だけを吸いこみなさい。それが神聖なる生き方です。私があなた方
に望むことです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
25p)
◇
生きとし生けるものすべてに宿る神を知るには、プレマを育み、ハートの奥の暗がりで暮らす憎しみ、羨望、
悪意というコウモリたちを追いださなければなりません。想い、言葉、ふるまい、行い、意識すべてをプレマ
の愛で光で照らしなさい。あなた自身がプレマになれば、プレマスワルーパである神自らがあなたの前に姿を
112
顕わし、笛を奏で、普遍の愛の洪水であなたの中の高次の意識を目覚めさせます。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
191p)
◇
かつて賢者ナーラダは、ブリンダヴァンの牛飼いたちをひきよせる笛の音の神秘についてクリシュナに聞い
ています。「牛飼いたちがあなたに寄っていくのですか、それともあなたのほうから寄っていくのですか」こ
う尋ねました。「私たちの間には『私』も『彼ら』もありません。描かれた絵と描かれる布地とをどうして分
かつことができますか。牛飼いたちの心には、決して切りはなせないほどに、決して取りはずすことのできな
いくらいに私が強く刻みこまれているのだから」クリシュナはこう答えています。心に神を刻みなさい。決し
てはずれることのないくらい、つねに神に心に定めなさい―――それが今日、私があなたに伝えるメッセージ
です。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
149p)
◇
ゴピカたちは真の献身の模範です。クリシュナがラサクリーダ(ゴピカたちとの戯れ)をはじめたのは5歳
のときでした。そこに快楽の意味合いはみじんもありません。ゴピカたちが味わったのは神聖なるアートマ・
タトワ、神との一体感でした。ゴピカたちはクリシュナの笛の音を、ナーダー・ブラーフマン(音の姿をした
普遍的絶対実在の顕現)として享受しました。クリシュナはゴピカたちに分かる言葉、笛の調べによってヴェ
ーダの神髄を授けたのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
7月号
185p)
◇
あらゆる行いに全身全霊をこめなさい。ゴピカたちのクリシュナへの完全なる帰依はまさにそれを示してい
ます。ゴピカたちは、クリシュナの笛が奏でる美しい調べにわれを忘れて夢中になりました。その旋律にヴェ
ーダ、経典、すべての神髄を見ていたからです。
笛にはどんな意味合いがあるのでしょう。人の肉体を象徴しています。笛には9つの穴があります。人体に
も9か所の開閉口があります。肉体を神の奏でる笛とみなしなさい。神が息を吹きこむためには、中身をすっ
かり空(から)にしてしまわなければなりません。今日、人の肉体は空(から)とはほど遠いものです。数々
の欲望がぎっしり詰まっています。欲望が取りのぞかれたとき、人の肉体は甘露のような旋律を奏でる神の楽
器になるのです。これが帰依のたどる道すじです。そうして神の奏でる旋律に深く酔いしれていくのです。
神を体験するためには、見栄もおごりも捨てなさい。瞑想のことを話す人がいます。しかしそのうち一体何
人が神に心を集中させていますか?
神は内に宿るということに気づいたなら、瞑想という形式は必要ありま
せん。瞑想とは、すべてがひとつであることに気づくためのものです。
(サナタナ・サラティ
1995年
12月号
321p)
13.偉大なる帰依者ラーダー
ラーダー・タットワムの奥深さははかりしれません。ラーダーはいつも神と神の栄華に想いをはせていまし
た。子どものクリシュナを、人間の姿とは別のところで神の化身として見ていました。あるとき、ヤショーダ
ー(クリシュナの養母)がいなくなったクリシュナを探しまわっていました。あらゆるところを訪ねてまわり、
とうとうラーダーの家にたどりつきました。ラーダーはすっと目を閉じクリシュナを想いはじめました。そし
てラーダーが「クリシュナ」と呼んだとき、そこにはクリシュナの姿があったのです。ヤショーダーは歓びの
涙を流して言いました。「私は母としてクリシュナを愛しています。しかし私にはクリシュナが『私の』息子
であるというエゴ、『私が』危険から遠ざけ、手を引き、守らなければ、というエゴがあります。あなたのプ
レマは純粋です。エゴのかけらもないのですから」
(サティア・サイ・スピークス3
113
39p)
◇
◇
◇
◇
姿形のある神、恍惚とさせる笛の音で心に呼びかける神の声、それを悲痛なまでに深く渇望するということ
を知る人だけに、ラーダー・タットワム、ラーダーの本質が理解できるのです。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
124p)
◇
ゴーピーたちのところに来たとき、ウッダーヴァは彼女たちの心の中に、一瞬たりともたえることなくクリ
シュナがいることを知りました。いつでもひれふして礼拝できるよう、いつも地面にクリシュナの足跡を探し
ていました。なかでもラーダーはとりわけ偉大な帰依者でした。ラーダーは誰の足跡でも、自分のつけた足跡
さえも、クリシュナものとみなしたのです。そうです、神でない人間がいますか?
か?
神でない名前がありますか?
神でないものがあります
ウッダーヴァは感嘆の声をあげました。「もはやナーラーヤナは必要な
い、このすばらしいバクタ(帰依者)たちの姿だけで十分ではないか」
(サティア・サイ・スピークス2
◇
たった今歌ったように、「ラーダー
◇
◇
マーダヴァ
97p)
◇
ナンダラーラ」とラーダーを歌いあげるとき、ラーダー
を女性、クリシュナを男性と思っていてはいけません。ラーダーとは何を意味するのかを知った今この瞬間か
ら、誰もがラーダーなのです。ラーダー(radha)とはたえざる流れ(dhara)として崇拝(aradha)される根源
(adhara)です。まさにこの世の根源であり、神のもう一つの呼び名です。その名をダーラ(dhara舌から流れ
でるもの)、神の名とし、それ以外の言葉をつつしみなさい。純粋な心という乳海(クシーラサガラ)に、万
物がひとつというゆるぎない信仰を意味するマンダラ山をすえおき、神の恩寵(イシュワラヌグラハム)であ
る蛇を縄にして、海の水をかきまぜなさい。瞑想(ディヤーナ)と霊性修行(サーダナ)を用いて攪拌すれば
神の甘露―――ヴェーダ、霊的知識、霊的体験の真髄―――を手にすることができるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
113p)
◇
ラーマヌジャ(ヴィシシュタアドワイタ哲学の解説者)は、ラーダーの名前からバクティの意味をひきだし、
神への愛のたゆまぬ流れであると解釈しました。ラーダーという言葉は4つの音からなりたちます。ラ・ア・
ダ・アです。ラから読めばラーダーになり、アから読めばアダーラに、ダからはじめればダーラー、二番目の
アから読めばアラーダです。アダーラとは「根源」、ダーラーとは「たえざる流れ」、アラーダとは「崇拝」
の意味です。ラーマヌジャにとって、ラーダーとは神への崇拝のたゆまぬ流れを意味したのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1996年
2月号
38p)
◇
ラーデーシャマと唱えるとき、その御名の意味について考えなさい。この言葉の深遠なる神秘を心の目の前
にすえておかねばなりません。そのときナマスマラナは速やかに功を奏します。この言葉は地、プラクリティ、
ジャダ(創造)を意味するラーダーの象徴です。クリシュナ=シャマが、創造主、活性原理であり、チット(意
識)、プルシャ(至高の実在)です。シャクティ(至高のエネルギー)がパラマートマであり、ヴャクティ(個)
がジーヴァアートマ(個々の魂)です。大海がシャクティ、波がジーヴァです。波の味も力もうなりも、大海
から生じ大海に消えゆきます。波の姿と名が消失することがモクシャ(解脱)と呼ばれます。つまり、別のも
のに見えていた波が海に溶けこむことです。別の言葉でいえば、モクシャとは個の消失のことです。
(サティア・サイ・スピークス1
114
167p)
二人のゴーピーが、ヤムナー川の岸辺を歩いていました。クリシュナのことを語りながら、二人はクリシュ
ナの御業、クリシュナの栄華にすっかり酔いしれました。ふいに二人のうち、ニーラジャの心に突然疑問がわ
きおこりました。難問中の難問です。「もしもクリシュナ様とひとつになりたいと想いつづけて私もクリシュ
ナ様だと気づいたときには、クリシュナ様とともにいる歓びも、語りあう歓びも、甘い声を聴く歓びも失うこ
とになるのかしら。ならば私はクリシュナ様にならずに、神の愛と栄華を味わっていたいわ」すると一緒にい
たサララがなだめるように言いました。「いいえ、その不安は根拠のないものよ。だってクリシュナ様もあな
たのこと、純粋なあなたのことを想ってくださるのですから。もしもひとつであると想うサーダナでクリシュ
ナ様になったときには、クリシュナ様もあなたを強く想うあまりにあなたになるでしょう。怖がる必要も心配
する必要もまったくないわ」
プラクリティとはダーラー(この世、創造物)です。つねにそれを想いなさい。強く求めなさい。ダーラー
ダーラーダーラーと切望するうちに、いつの間にかラーダーラーダーと唱えていることに気づくでしょう。そ
うです、ラーダーとは「なること」であり、クリシュナが「在ること」なのです。「在るもの」がなろうと欲
し、「なったもの」が在ろうと欲する―――それがラーダーとクリシュナの関係です。予言者や詩人たちが歌
いあげ、無知な者たちが中傷、風刺し、探求者たちが賛美し学び、誠実に霊性の知識を学ぶ学者たちが研究し
認識してきたことです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
62p)
◇
クリシュナの甘い香りはこの世、客観世界を包みこみ、その香りに深く酔いしれているのがラーダーです。
ラーダーとは誰でしょう。ラーダーとはこの世、プラクリティであり、クリシュナのマーヤー・シャクティ(幻
惑の力)、フラディーニ・シャクティ(愉悦の力)であり、またクリシュナのマハーバーヴァ(偉大なる御姿)
です。ラーダーはプラクリティとしてあらわされたクリシュナのアーナンダを盗み、心の奥底にしまいこみま
した。盗まれた宝を取りかえそうと、泥棒の家のまわりをうろつくもちぬしのように、クリシュナも奪われた
アーナンダを探しながらラーダーの近くにいるのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
174p)
◇
あなたの真の姿、万物の真の姿を知りなさい。ラーダーはクリシュナであり、クリシュナはラーダーです。
ですからあなたがラーダーになったまさにその瞬間、クリシュナ・タトワ(クリシュナ原理)、神の真理に溶
けこむのです。他の何ものにも心を動かされることなく、たえまなくクリシュナを崇拝する人は、みなラーダ
ーです。愛の目で見、愛の耳で聞き、愛の両手で働き、愛を想い、全身で愛を感じなさい。愛の神クリシュナ
は、愛の波に乗ってあなたを訪れ、あなたの心を神で満たすことでしょう。
神を額(がく)の中に閉じこめてはいけません。神を偶像の中に監禁してはいけません。あらゆる姿、あら
ゆる名前が神なのです。神は万物の真の姿です。俗世に狂うかわりに神に狂いなさい。私のことを歌った歌に
こうあります。狂気を癒し狂気を授け、涙をぬぐい涙を与える。そうです、富や名声に狂うくらいなら、神を
求めて狂いなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
62p)
◇
ヤムナー川のほとり―――静けさ、美、神秘、情熱。涼しい風がクリシュナの笛の奏でる優しく甘い神の旋
律を耳に運びます。ラーダーが大きなツボを腰で支え、川にむかって小高い丘を下りてきます。ふと、土手の
中頃で立ちどまりました。かつてクリシュナが立っていたあたりから、「ラーダー、ラーダー」と呼ぶ声が風
にのって聞こえてきたからです。ラーダーは驚いて四方を見まわしました。どこにも誰の姿も見あたりません。
辺りには家さえありません。クリシュナはいつもこうなのです。
ラーダーは気を失い、ツボを抱えたまま倒れこんでしまいました。そして突然真理に目覚めたのです。「あ
なたのいない場所などどこにもありません」ラーダーは心の中でクリシュナに語りはじめました。「あの声は
確かにあなたです。あれほど優しく甘く純粋で、あらがいがたい声は決して他にありません。けれどひとつだ
115
け願いをきいてください。あなたはすべてのものに役割をお与えになりました。私たちはできるかぎり上手に
演じました。私たちを笑わせ泣かせ、あなたが満足するまで味わいました。でも私はもうたくさんです。私を
もといた場所に帰してください。欲望、失望、怒り、期待、不安も野望も味わいました。美しい旋律を耳に、
柔らかなものを肌に、おいしいものを舌に、うっとりするような景色を目に、かぐわしい香りを鼻孔に与え、
五感を愉しませもしました。足首に幻想という足飾りをうち鳴らし、世の賞賛も世のあざけりも受けました。
歌を歌えば幻が拍子を刻み、タマス(鈍性)とラジャス(激性)が旋律となり、私に踊りを踊らせました。今
や私の手足はぬけ落ちました。すべてにうんざりしています。もうこの劇を終わりにしてください。どうかお
願いです。私の願いをきいてください」
しかしクリシュナはこたえません。少しずつ少しずつラーダーの心を占めてきたのです。神は純粋な心をく
っきり映すくもりのない鏡です。ラーダーはクリシュナの肖像、神の愉悦の化身です。クリシュナのアフラデ
ィーニ・シャクティ(歓びの源)そのものであり、分かつことも離すこともできないのです。ラーダーがヤム
ナー川のほとりに姿を見せたとき、クリシュナが「ラーダー、ラーダー」と呼んだのはそういうことだったの
です。
ラーダーは続けました。「今がまさに献身という宝石をあなたの御足に捧げるときです。ああ、でもまだ磨
かれずに鈍く光っているだけです。私は長いことこの世が甘いだけだと信じこんでおりました。苦いものでも
あったのです。もう十分味わいました。そう、私はプラクリティ・ダーラー(この世のたゆまぬ流れ)、ラー
ダーという名で呼ばれています。だから私には3つのグナ(性質)、サトワ(浄性)・ラジャス(激性)・タ
マス(鈍性)があるのです。プラクリティ(この世)は女性性であり、私もやはり女性なのです」
(サティア・サイ・スピークス14
27-29p)
14.偉大なる帰依者ミーラ
神の御名の威力とは、毒さえも甘露に変えてしまうものです。ミーラのエピソードがこのことを物語ってい
ます。ミーラは王女でした。しかしクリシュナへの献身に没頭するあまり、たとえそこが宮殿であろうと人ご
みあふれる市場であろうと、おかまいなしにわれを忘れて歌い踊っていました。ミーラの義理の兄は、おおや
けの場でそんなふるまいをする王女に腹を立て、また真の献身が何かも分かっていませんでした。ミーラには
肉体意識がまったくありませんでした。真の帰依者は「私」、「私のもの」という意識がまったくないもので
す。ミーラのふるまいを王家の威厳と名声をそこなうものと感じた義兄は、毒入りのミルクを与えてミーラを
かたづけてしまおうと決めました。身も心もクリシュナに捧げきっていたミーラは、食べものも必ずクリシュ
ナに捧げてから食べていました。ミーラが手渡されたミルクをクリシュナに捧げたとき、神は毒をすっかりひ
きうけて純粋なミルクに変えました。このようにして、ミーラは神の御名の威力、神への献身のすばらしさを
世に示したのです。
神の御名がどのような形をとるのか、何という名で表されるのか、どんな力を持つのかを知ろうという人は
ほとんどいません。神の御名の栄光を示す最たるもの、それがバガヴァータムです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
4月号
60p)
◇
ミーラは完全にクリシュナ意識に溶けこんでいた帰依者の一人です。結婚したあとで、夫にクリシュナの寺
院を建てるよう頼みました。夫ラーナはミーラのために大理石の寺院を建てました。するとミーラは一日中寺
院にこもり、外の世界のことなどすっかり忘れてバジャンを歌いつづけました。ラーナは結婚前からミーラの
クリシュナ信仰には同意していたものの、あまりのクリシュナへの没頭ぶりに悩まされ、寺院へ行くことを禁
じ寺の扉を固く閉ざしてしまいました。ミーラは思いました。「ラーナは自分の建てた寺院から私をしめだし
はしたけれど、私の心の寺院におわすクリシュナ様を求める気持ちは、一体誰にじゃますることができるでし
ょう」
(サナタナ・サラティ
15.クリシュナとゴピカたち
116
1987年
7月号
196p)
聖なる牛飼いの少年(クリシュナ)が笛を奏でたときのことをご存じでしょう。男も女も子どもも、ブリン
ダヴァンの牛さえも、まるで神の奏でる神々しい旋律に魔法にでもかけられたかのようにクリシュナのもとへ
とかけつけました。その調べは、人が喜び悲しみと呼ぶ乱れた心のうねりを鎮めました。彼らは仕事を放りだ
し、ただ神のもとへとたどりつく以外何も頭にありませんでした。牛は草をはむのをやめ、子牛はミルクを飲
むのをやめました。クリシュナとゴーピー(牛飼いの少女たち)には深い意味がこめられています。ブリンダ
ヴァンはたんなる地図上にある場所なのではありません。この世のすべてを表しています。
あらゆる人が牛飼いであり、あらゆる動物が牛です。誰のハートも神への切望であふれています。笛の音は
神の呼び声です。ラサクリーダ(戯れの踊り、少年時代のクリシュナが牛飼いの少女たちと踊ったこと)と呼
ばれる戯れは、月明かりに照らされて神クリシュナが乳搾りの少女たちと踊る姿で描かれます。そのとき少女
たちひとりひとりが少年クリシュナと手を取りあっています。これは神のもとにたどりつきたいという、人々
のせつなる願いと心の苦しみを象徴しています。ひとりひとりにまさにその人だけの神がいるという神の恩恵
を表しているのです。誰かが神といるとき、自分のもとにはいないと嘆く必要はありません。またあなたが神
といるその瞬間、他の誰のもとにも神はいないはずだとおごる必要もありません。神はあなたのハートの祭壇
に宿ります。
あなたのすべて、あなたの一生を神に差し出しなさい。神への崇拝があなたを急速に完成へと変えていき、
あなたと神とがひとつに溶けあうのです。神はあなたの思うまま、感じるままに動き、あなたも神の思うまま、
感じるままに動くのです。彫刻家の手によって岩が石像に変えられていくように、あなた自身が変えられてい
くのです。それは誠実な人々何世代分もの礼拝にあたいします。その間には、何度も金づちでうたれ、のみで
削られることでしょう。なぜなら神が彫刻家だからです。神が固い石のあなたを解き放つのです。ハートを神
に差し出し、あとは神の手で変えられるがままにゆだねなさい。時間、肉体、今生の命をつまらぬことに浪費
してはいけません。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
243-244p)
◇
ブリンダヴァンのゴーピー(牛飼いの少女たち)は、決して切りはなせないくらい強くアヴァターと結びつ
いていました。消しさることができないほど、心に神の姿を刻みこんでいました。神だけがすべて、あらゆる
ものが神でした。とりわけ熱心な帰依者ラーダーが、クリシュナと離れるときのことを想って気も狂わんばか
りになったとき、ラーダーの気をそらそうとまわりに集まったゴーピーたちにも、「ゴーヴィンダ、ダモーダ
ーラ、マーダヴァ」という言葉以外になぐさめの言葉を見つけることはできませんでした。ラーダーの心に喪
失感をもたらしたのもこの言葉だったというのにです!
ゴーピーたちはミルクやカード、バターを抱え、売
り歩くときには大きな声で売り物の名前を叫びます。しかし名前はいつしか「ゴーヴィンダ、ダモーダーラ、
マーダヴァ」という愛するクリシュナの御名といれかわっているのです。悪徳にそまった叔父クリシャの使い
で来たアクルラが、ブリンダヴァンからクリシュナを連れ去ろうとしたとき、ゴーピーたちはなんとかアクル
ラをひきとめようとかけ出しました。しかしその必死の抗議のときでさえ、ゴーピーたちには「ゴーヴィンダ、
ダモーダーラ、マーダヴァ」という言葉以外、発することができなかったのです。
神は味気ない人生というミルクを甘くする砂糖のようなものです。ミルクの分子ひとつひとつにその甘みが
いきわたるよう、十分にかきまぜなさい。ゴーピーたちがこのサーダナの案内人です。今あなた方がそうであ
るように、ゴーピーたちにもアヴァターがいました。純粋さを手に入れ信仰心を得たとき、救済が約束される
のです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
292-293)
◇
ゴピカたちにはチッタシュッディ(純粋な想い)がありました。しかし粗悪な欲望に満たされたつまらぬ心
のもちぬしたちが、無知から様々な解釈を与えてきました。賢者ナーラダも、無学な乳搾りの少女たちに高度
な献身などあるはずがないと思っていました。しかしゴピカたちに教えを授けたようとしたとき、ナーラダは
彼女たちがクリシュナ意識に深く没入しており、クリシュナを想う以外のことも、クリシュナの栄華を語る以
外の言葉も、セヴァでない行いもまったくないことを知りました。ゴピカたちは心の奥底から自分たちをおさ
117
める神に、全身全霊を捧げていたのです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
154p)
◇
クリシュナに対するゴーピーたちのプレマは、肉体意識を超え、海にむかう川のように、大いなる魂にむか
う個々の魂の愛でした。この形の愛に深く浸る人には、他のものは何も見えず何も聞こえまず、まるで世のい
うところの狂人のようにふるまいます。神の存在を感じたときの歓びは、それを奪われたときの悲嘆と同様、
極限のきわみです。聖人たちの歌った歌の中にニンダーストゥティ、残酷で不公平、無関心な神をとがめる歌
があるのはそういうわけなのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
188-189p)
◇
人はこの世にアーナンダ(至福)を求めます。ヴェーダンタ哲学では神のアーナンダをヨガと定義します。
ヨガはふつう呼吸法や肉体的な運動方法のこととだと思われています。しかしこれはヨガ本来の意味ではあり
ません。ヨガとはアーナンダ、至福の意味です。ではこの至福はどこから得られるのでしょうか。至福の顕現
である神からです。所有物の何かや、地位や権力から得られるものではありません。至福、それは至福の体現
である神からのみ得られるのです。
どうしたらこの至福が得られるでしょう。スリカンタ(少し前にスピーチをした学生)が、ゴピカやラーダ
ーの一点に心を集中させた献身について話しました。ゴピカは批評家たちに誤って解釈されています。ゴピカ
とは想いの象徴です。ラーダーが心におこる想いすべてを象徴します。ですから、想いも心も(人の中の)プ
ラジュナであるクリシュナに溶けこませなければなりません。それがヴェーダの重要な教え「プラジュナーナ
ム
ブラフマー」のことです。プラジュナーナムは、人の肉体、心、知性すべてにいきわたっています。たえ
ずいきわたる意識のことです。想いも欲望も野望も、みなこのプラジュナに溶けこませなければなりません。
このプラジュナ(たえずいきわたる意識)が神(ブラフマー)として万物の内に存在するなら、なぜアヴァ
ターが降臨する必要があるのかと思うかもしれません。アヴァターの降臨にはいくつかの理由があります。も
のごとの知覚には、プラティヤクシャム(直接的)、パロクシャム(間接的)の2種類があります。内的な力、
外的な力です。たとえば、たきぎには火を燃やす力があります。しかし炎は潜在するだけで目には見えていま
せん。潜在する炎がひき出されてはじめて料理に用いることができます。これと同じで、人はみなたきぎのよ
うなものです。アートマの原理も内に潜在しています。それをあらわにするにはある種の愛が必要です。マッ
チをマッチ箱に塗られた硫黄にぶつけて火をつけるように、神を体験するには愛を愛に溶けこませなければな
らないのです。
あなた方は、自分の内にある愛と神の示す愛は同じものだと思っているかもしれません。しかし違いがあり
ます。神の愛はまったくの無私です。完全に純粋です。永遠です。たえまないものです。人の愛は自己中心で
汚れています。そのような愛が神の愛と溶けあうことはできません。エゴやプライド、憎しみや嫉妬がなくな
ったとき、神はあなたの内に宿ります。ゆだねる(ティヤガ)ことなく、俗世の快楽に溺れ俗世の生活にあけ
暮れていては、どんな献身もたんなる作りごと、一種の自己欺瞞にすぎません。そのような献身で神にたどり
つくことはありません。
今日、世の中はそのような人であふれています。彼らは神を愛していると主張します。神を本当に愛してい
る人に、私は今まで会ったことがありません。誰もが神を自分のために愛し、神のためではありません。それ
はまったくの利己心です。人はこの世のものを自分のつごうで要求します。神さえもがそのように求められて
いるのです。神はそうたやすく得られるものではありません。心の座席はたったひとつ、ひとり分の余裕しか
ありません。もしもその椅子に世俗の欲望を座らせてしまったら、どうして神に座ってもらおうなどと望むこ
とができますか。何もないまったくの空(から)になったとき、神は座席に座るのです。
人々は愛(プレマ)の名のもとに、心の中で椅子取りゲームをする毎日です。心の座席にはときに応じて様々
な人が座ります。しかしゴピカたちはたったひとりに心を捧げていました。クリシュナだけに心を定めていた
のです。五感のすべてが神のものであり、神のことだけを話し、神のことだけを考え、神の言葉だけに聴き入
り、両手で神の仕事に従事しました。手足も五感も、すべてが神に捧げられていたのです。自分のものとみな
したものは何もありませんでした。クリシュナがすべてだったのです。
118
(そしてバガヴァンはゴピカたちの全身全霊の献身を示すのに、クリシュナの生涯からあるエピソードを話
されました。あるときクリシュナは頭痛に苦しむふりをし、帰依者の足についた泥を頭にかければ治ると言っ
たのです。賢者ナーラダは、神の偉大なる帰依者と認めていたサティヤバーマ、ルクミニー、その他の人々を
訪ねてまわりました。しかし誰も足の泥を渡そうとはしません。足についた泥を神の頭にふりかけるなど、罪
を犯すに等しいと考えたからです。最後にナーラダはゴピカたちのもとを訪ねました。ゴピカたちはそれで神
を今すぐ苦痛から救えるのならと、後のことなど考えずナーラダに差し出しました)
ゴピカは足の泥を渡すことがいいことか悪いことかなどと考えませんでした。どんなことをしてでも神を苦
痛から解放したい、それしか考えていなかったのです。ゴピカたちはこう言いました。「私の命もろともクリ
シュナ様に捧げます。クリシュナ様の歓びは私たちの歓びです」これが足の泥さえ差し出す神との一体の精神
です。そしてまさにこの瞬間、神は頭痛に苦しむふりをやめました。ナーラダがクリシュナのもとに帰ってき
たときには、もう微笑みをたたえていました。クリシュナは賢者ナーラダに言いました。「あなた方は私の帰
依者であると自慢しておりました。しかしその中のひとりとして、ゴピカたちのような完全に無私なる帰依心
をもってはいないということです」
今日、自分が神の帰依者であり、神に近しいものであると主張する人はたくさんいます。しかし真の帰依者
といえる人はほとんどいません。誰もが帰依心の中に何らかの私欲を抱いているのです。私欲やエゴが心の中
にある限り、神はそのような「帰依者」たちに関心をはらうことはありません。神の愛はつねにそそがれてい
ます。しかし雲が太陽の光をさえぎるように、神の愛と帰依者の間には私欲やエゴが立ちふさがっているので
す。
人間性から神性へと進む唯一の手段が愛の原理(プレマタトワ)です。それ以外は何の役にも立ちません。
(バガヴァンは神の恩恵を得られなかった人と、神の恩恵に授かった人との違いを示すのに、マハーバーラタ
の中からカルナとアルジュナの運命を例に出しました。悪人カウラヴァ一族とかかわりをもったカルナが悲劇
の最期を迎えたのに対し、神のゆるぎない帰依者であったアルジュナは勝利という祝福を授かりました)
イ
ンドの経典、プラーナ集の数々は、人々を神性に変える神の恩寵の威力を示しています。人は俗世の快楽に執
着するあまり、誕生と死をくりかえしてもなお、俗世に巻きこまれ抜け出せずにいます。そうして神との一体
という至福を体験できずにいます。これまで何度もの生で抱いた悪い想いや行いが、神を体験する妨げになっ
ているのです。それら不純なものを取りのぞくことができてはじめて神意識を体験することができるのです。
愛の原理とはクリシュナ原理(クリシュナ・タトワ)の真髄です。神と結びつくものです。世俗の愛と神の
愛(プレマ)は同じものではありません。通常プレマという言葉は、俗世的な執着のことを説明するのに用い
られています。人々は内に宿る魂よりも、名や形に執着してしまうのです。外側の名や姿へのこの間違った執
着を超えるには、もっとも純粋な愛を育むことがきわめて重要です。この愛を体現するのにまずはじめに求め
られるのが、利己心と私欲を捨てさることです。
学生たち、帰依者たちよ!
神を体験するのはそうたやすいことではありません。あなた方は現象界でので
きごとばかりに気をとられています。それでは不変の真理に到達することはできません。不変なるものに目覚
めようと心をくだく人だけが、そこにたどりつけるのです。一生をクリシュナに捧げたゴピカたちの完全なる
帰依がこのことを物語っています。神と完全に溶けあうこと、それのみを求めていたのです。
今日人々は世俗のことがらに埋没し、霊性の探究にはまったく関心を払っていません。そうです、世俗から
完全に離れることは不可能です。しかし神への献身の精神で行うことで、すべての行いを神聖なものにするこ
とができるのです。バガヴァータは帰依者がどのように献身的な生活を送れるのかを描いています。神の帰依
者であると言いはるだけでは十分ではありません。神からも帰依者として認められなければなりません。そう
してはじめて献身が価値あるものになるのです。アルジュナは長いことクリシュナと親しい間柄にいること、
帰依者であることを誇りにしていました。しかし神の言葉に従わなければならないこと、神に完全に帰依しな
ければならないことを悟ったのは最後の最後になってからでした。そのときアルジュナはこう宣言したのです。
「私はあなたの言葉を遂行します(*カリシェ
ヴァチャナム
タヴァ)」(*Karishe Vachanam Tava)
(サナタナ・サラティ
◇
◇
1992年
9月号
216-218p)
◇
クリシュナのおしゃべり、悪ふざけ、無邪気ないたずらの数々は、何ものにも勝ります。クリシュナはゴー
ピーたちに山盛りの苦痛と山盛りの歓びを与えました。それが彼女たちにとってのタパス(忍耐)だったので
す。苦しみはアヌグラハム(神の贈りもの)、喜びはプラサダム(神の恩寵)であり、どちらか一方だけを受
119
けとることはできません。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
244p)
◇
ゴピカ(牛飼いの少女)たちは神への愛の中に深い献身を示しました。神に仕えるため、もてるもののすべ
てを捧げ、ひとつひとつの行いを神への捧げものとして行いました。ゴーピーという言葉は、gupという単語に
由来しています。goとはヴェーダのことであり、「地」の意味であり、また「牛」の意味でもあります。ゴピ
カたちはいつもヴェーダを唱えていました。牛たちを守り、地を浄めました。この崇高な側面を知ることなく、
人々はゴピカたちをただの女性とみなし、様々な誤解を重ねてきました。ゴピカたちが神に抱いた愛の本質を
理解できずに、献身の意味をとり違えています。批評家たちは心の狭さから、ゴピカたちの献身が示す深遠な
る意義を理解することができなかったのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
1993年
9月号
226p)
◇
ゴーピー、ラーダー、ウッダーヴァ、ハヌマーンのような帰依の心を育みなさい。ラーマクリシュナ・パラ
マハンサは厳しいサーダナを行い、自らをハヌマーンの境地へと変え、肉体までもがその役割にふさわしいも
のへと変えられました。その時期には小さな尾が生えていたのです。これが心が肉体におよぼす驚異の力とい
うものです。ゴーピーたちの夫や義母は、クリシュナの醜聞を広めて彼女たちをクリシュナからひき離そうと
しました。しかし一体誰にジーヴィ(個々の魂)とジャガディーシュワラ(大宇宙の主)とをひき離すことが
できるでしょうか。偉大なる聖者ヴィヤーサは、ゴーピーたちの神への献身の激しさを十分に語れる言葉はな
いと言いました。ゴーピーたちにはエゴのかけらもなく、だからこそ神の最高の帰依者になりえたのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
143p)
◇
賢者ナーラダはあるときヴィシュヌに尋ねました。「普遍なるアートマについてきわめて純粋な英知に達し
たリシ(賢者)たちでさえ、あなたの恩恵を勝ちとることができません。しかしゴクルで乳搾りをする無学の
少女たち、あなたの美しさ、あなたの戯れ、あなたの音楽、あなたのおしゃべり、あなたの甘さ、抗いがたい
あなたの神秘に魅せられただけのあの少女たちは、神の恩恵に授かっています。どうしてこのようなことにな
ったのでしょう」
後にナーラダは、ゴーピーたちにとってクリシュナ(神)はまさに命の呼吸であり、目にする光景のすべて、
耳に聞こえる音のすべて、舌で味わうもののすべて、肌に触れるもののすべてがクリシュナであったことを自
ら知ることになります。牛や子牛の世話をし、夫や子どもに仕え、山のような日々の雑事に追われながらも、
ゴーピーたちはクリシュナの中に、クリシュナとともに、クリシュナによってのみ生きていたのです。「*サル
ヴァダ
サルヴァ
カレシュ
サルヴァトラ
ハリ
チンタナム(どんな状況であれ、いつでも、どこでも、
心はハリ(クリシュナ、神)を想いこがれる)」どうして神がゴピカたちに恩恵を授けずにいられたでしょう
か。(*Sarvada Sarva Kaleshu Sarvathra Hari Chintanum)
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
146-147p)
◇
ゴーピーたちは、ゆるぎない澄みきった純粋なプレマを一点に集中させました。残念なことに、バガヴァー
タに描かれたゴーピーとクリシュナの関係は、ヴリティ(心のざわめき)を律しコントロールすることのでき
なかった人々によるものです。この関係はそのような人たちの理解を超えています。パリクシット王にそれを
語った熱心な苦行者シュカマハリシのようなブラフマチャーリや、最近ではラーマクリシュナ・パラマハンサ
だけが、その関係をたたえ、無類のものであると評価しています。その他の人はみな自分の欠点や自分だけの
想いを反映させてみてしまいがちです。サムサーラ(俗世)の言葉しか知らないからです。目覚めているとき、
夢を見ているとき、熟睡しているとき、どれをも超えたトゥリヤの領域について語ったものは、そういった人々
120
の理解を超えています。ですから彼らはそれを自分のレベルにひきずりおろし、その神秘をつかんだと主張す
るのです。
実際、この関係を理解するには、内なる目、内なる感覚が必要です。オルガンティは、それがニルヴィカル
パ・サマディ(無形の光)のときのアドヴァイタ(不二一元)の体験に酷似しているため、ほとんどの研究者
から理解されずにきたと示しています。正しく解釈するには、心を五感の奴隷でなく、心の主(あるじ)にし
なければなりません。想い、望み、行い、感情―――すべての欲望を取りさり浄化しなければなりません。研
究するものの心にこびりついたアハンカーラ(エゴ)は、ゴーピーたちのようにすっかり消えてなくなってい
なければならないのです。ゴーピーたちの抱いていたような神へのプレマは人を弱めるどころか強くします。
事実、ゴーピーたちは愛によってか弱くなったのではなく、強く鍛えられたのです。
ではバガヴァータによれば、ゴーピーたちとはいったい誰なのでしょう。アヴァターの栄光を分かちあい、
神のリーラを目撃し分かちあうためにこの世に降りたった神々でした。目的があってやってきたのです。後に
忘れさられてしまうような、肉欲にふけったたんなる村の女性の一群ではありません。クリシュナのふるまい、
歩きぶり、言葉や語り、すべてに神を見いだし、決して人とはみなしませんでした。世俗の波風にかき乱され
ることなく、意識のすべてを神への想いと切望にむけました。ちょうど虫眼鏡が太陽の光をとらえて一点に集
中させるように、ゴーピーたちは意識のすべてをかきあつめ、ひとつに集中させて輝く光の炎を燃やしたので
す。炎がすべてのゴミを燃えつくし、輝きが真理を照らし出しました。それ以外の解釈は、無知で学者ぶった
書物の知識だけの尊大なおごりであり、教えの実践を軽くみなしているのです。
(サティア・サイ・スピークス3
◇
◇
39-40p)
◇
神の愛(プレマ)は甘い甘露のようです。ゴピカ(ゴクラムの牛飼いの少女)たちにとって、神を愛するこ
と(バクティ)が最高の献身の表現でした。神の愛の甘さに浸りきっていたのです。ゴピカたちは解脱も高度
な知識も求めていませんでした。クリシュナを求めること、他の何ものでもなくただそれだけが忘我の源だっ
たのです。賢者ナーラダはゴピカたちの献身をパラマ・バクティ(至高の帰依)と名づけて語りました。この
「至高の帰依者たち」にとって、神はともに歩む道連れ、最高の宝でした。その献身はあまりに激しく、世俗
のことを何もかも忘れ、ただ深く陶酔するだけになることがたびたびありました。クリシュナの奏でる笛の音
色が聞こえてくると家を飛び出し、クリシュナの姿を求めて森へと急ぎ、すべてを忘れてしまいました。ゴピ
カたちには至高の英知(ジュナーナ)が神との一体感の中にこそあり、その他の知識は世俗の物質的なことが
らを述べるにすぎないことを知っていたのです。クリシュナがすべてでした。神との一体感の中では、ゴピカ
たちには生きものとただの物の区別さえありませんでした。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1990年
9月号
226p)
◇
ゴピカたちは万物にクリシュナの存在を感じていました。神の遍在を知る歓びは、実際に体験しないかぎり
理解することはできません。おおぜいの人がゴピカたちをひとりよがりの幻想に惑わされた愚かな女性とみな
しました。嘆かわしい誤解です。ゴピカたちは清らかな無私の心に満ちていたのです。俗世の愛は受けとるば
かりで与えることを知りません。受けとるのではなく与えるのが神の愛です。これが世の愛と神の愛の違いで
す。ゴピカたちは純粋な無私の愛によって神を体験することができました。クリシュナの言葉、クリシュナの
音楽、クリシュナの姿、どれにも違いはありませんでした。
肉体は寺院にたとえられてきました。どうしたら寺院にすることができますか?
神への想いに満ちあふれ
たときです。神を想うことがなかったなら、肉体はたんなる住みか(バーヴァナム)にすぎず、やがてはジャ
ングル(ヴァナム)と化すことでしょう。どこかに寺院を探しに出かける必要はありません。神の御名が舌の
上で踊りだせば、あなたの肉体が寺院そのものになるのです。そして一度肉体を寺院とみなしたなら、神が宿
るにふさわしく、けがれのない純粋な寺院を保ちなさい。
まさにこれがゴピカたちの生き方です。黄金にも世俗のものにもまるで頓着しませんでした。神がすべてだ
ったのです。全身全霊でクリシュナ意識に浸り、他のことにはまったくの無関心でした。クリシュナが遍在の
神であることを知りながらなお、クリシュナという特定の御姿に帰依しました。これは別の神の帰依者にもい
えることです。ミーラは神をギリダラ・ゴパーラとして崇め、サックバは「ランガ
121
パンドゥランガ」と呼び
ならわして崇拝し、独自の御名と御姿に帰依しました。ヤショーダーはクリシュナ神のゴパーラという呼び名
以外にはまったく心を動かさず、その御名にのみ甘い親しみを感じていました。同様に、ゴピカたちもクリシ
ュナが遍在する神であると知りながら、笛を奏でるクリシュナ神の姿のみを崇めました。クリシュナ原理を完
全に理解していたのはゴピカたちだけです。クリシュナの神性を決して疑わず、強く強く信仰したからです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
9月号
230p)
◇
ゴーピーをあるひとつの独立した帰依者たちとしてとらえることができます。最高級の献身に達していまし
た。彼女たちには神意識以外に何もありません。五感の意識も肉体意識も捧げていたのです。クリシュナの御
姿に宿るクリシュナ原理のみに集中していました。つねに「この世」でなく「別の世界」を体験したいとせつ
に願っていたのです。パリクシット王が、クリシュナにたいするゴピカたちのすばらしい愛の物語を語る賢者
シュカに、愛の本質とは何かと尋ねたとき、シュカはこう答えています。「ゴーピーたちには肉体意識のかけ
らもなく、つねに神意識だけに浸っていました。この世にはびこる残酷さ、不公平、暴力などをひきおこすよ
うな、肉体を重視したり五感の奴隷になることがありませんでした」
ゴーピーたちは霊性の帰依とはどういうことかを知っていました。ゴーピーたちの献身に取り引きはいっさ
いありません。利益を求めて取り引きしようとする人々は、献身に対する報酬を受けとろうとします。納得の
いく手ごたえに応じて、聖なる誓いを売りにだすのです。それはまるで、賃金の上昇、残業手当、賞与などを
うるさく要求しつづける使用人のようです。仕事にたいしていくらひきだせるかを計算するのです。そうでは
なく、神の家族、神の親類、神の友人になりなさい。神のものになりなさい。そのとき仕事に疲れず、よりよ
くこなせ、さらなる満足感が得られます。賃金ですか?
主はあなたを至福の中にとどめます。それ以上に何
を求めるというのですか。あとは神にゆだねなさい。神は何が最善かを知っています。神がすべて、神を得る
歓びだけでありあまるに十分です。それが人の幸福の秘訣です。それに従って生きるかぎり、嘆くことはあり
ません。*ナ
メ
バクタ
プラナシャティ「私に帰依するものは決して悲嘆に苦しまない」―――クリシュナ
神の言葉です。(*Na me bhaktha pranashyathi)
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
205-206p)
◇
バガヴァータはいかにして神が帰依者の叫びにこたえ、神から離れてしまった苦しみをなだめてくれるかを
示しています。クリシュナがマトゥラへ去り、ゴーピー(牛飼いの少女)たちは別離に耐えきれず悲嘆にくれ
ました。クリシュナがいつ帰ってくるかと、マトゥラの方角ばかりを見ていました。ある日、遠くに土ぼこり
が上がるのを見つけたゴーピーたちは、不憫に思ったクリシュナがついにゴクラムに帰ってきてくれたのだと
思いました。馬車とそれに乗ったひとりの人物が見えました。しかし馬車が着いたとき、そこにクリシュナの
姿はありませんでした。至高の神に心を捧げきっていたゴーピーたちは、その見知らぬ人物を見る気にさえな
れません。その人物とはクリシュナの大の親友、ウッダーヴァに他なりませんでした。ゴピカたちの苦しみを
知っていたクリシュナが、彼女たちを慰め、元気づけるようにとウッダーヴァを送ってよこしたのです。
ウッダーヴァは馬車から降りるやいなや、長々と熱弁をふるいました。「ああ、ゴピカの皆さん!
あなた
方はシャストラを知らないのですね。英知のかけらもない。愚かで口もきけない人のように、ただクリシュナ
を想いこがれるばかりです。もしもあなた方がシャストラを学んでいたら、クリシュナがいつもあなたととも
にいると気づいたでしょうに。クリシュナは心にこそ宿るのです。内に宿るクリシュナに歓びを抱くこともな
く、生身のクリシュナを想いこがれているとは、あなた方が無知だからです。これからあなた方にヨガを教え
てさしあげましょう。クリシュナはそのために私をここによこしたのです」
ゴーピーたちは見知らぬ人と直接言葉をかわすのはよくないことだと考えました。ミツバチにむかって語る
つもりでウッダーヴァに答えることにしました。「ミツバチよ。(ウッダーヴァの)その言葉は、クリシュナ
様から離れてしまった私たちには内で燃える炎に油を注ぐようなもの。言葉なんてもう十分です」するとウッ
ダーヴァはクリシュナがゴピカたちに宛てた手紙を渡しました。「クリシュナからの手紙です。せめて読んで
くださいませんか」すぐさまひとりのゴーピーが答えました。「ミツバチよ。私たちは無学な村人にすぎませ
ん。悲しみにうちひしがれるばかりです。どうかクリシュナ様を連れてきて」別のゴーピーが泣きながら訴え
ました。「クリシュナ様がいない苦しみはまるで火に焼かれるようです。もしもその手紙に触れたなら、きっ
122
と燃えて灰になってしまうでしょう。触れることはできません」さらに別のゴーピーが言いました。「読んで
涙が流れ落ちれば、真珠のようなクリシュナ様の手紙をだめにしてしまいます。読みつづけることもできない
でしょう。」
しまいにはウッダーヴァがこう言いました。「少なくとも私の話を聞いてください。私はあなた方にヨガの
知識を教えに来たのです」ゴピカたちは悲しみをどうすることもできず、ふたたびミツバチにむけて答えまし
た。「ミツバチよ。私たちのたったひとつの心は、クリシュナ様とともにマトゥラに行ってしまったのです。
もしも4つの心があったなら、ひとつをヨガに、ひとつを別のことに、またひとつを何かにむけることもでき
たでしょう。けれどこのひとつしかない心をクリシュナ様に捧げてしまったのです。ヨガを学ぶ余地などあり
ません。」ウッダーヴァは、ゴーピーたちがいかに一心にクリシュナに帰依しているのかを悟り驚嘆しました。
ヴェーダやシャストラ(古い経典)の真髄は一点集中です。この一点集中が神のみにひとすじにむかう帰依
心につながります。ウッダーヴァは自らをふり返り、自分はいまだにゴーピーたちのような一点に集中した献
身にいたっていないことに気づき、クリシュナのもとへ帰ることにしました。
ゴーピーたちの中でも、もっとも深く献身していたのがラーダーとジーラジャです。ウッダーヴァは立ち去
る前に、二人がクリシュナにラーマのオウムと語りかけ、打ちひしがれた心を癒すのに一目でいいからクリシ
ュナ様の姿を、と哀願するのを耳にしました。われを忘れて砂丘に身を横たえていたラーダーに、クリシュナ
に伝えたいことはないかと尋ねました。意識を取りもどしても、ラーダーはクリシュナのことだけを想いこう
訴えました。
あなたが天にむかって伸びゆく木なら
私はツタのようにからまりましょう
あなたが満開の花ならば
ミツバチのようにおそばを舞いつづけることでしょう
あなたがもしもメル山ならば
私は滝になって流れ落ちます
あなたが無限に広がる空だというなら
私は星になってとどまります
あなたが深い海ならば
私は川になって流れていきましょう
どこにいるのですか
クリシュナ様
どこに行ってしまったのですか
クリシュナ様
なんて無慈悲なお方でしょうか
クリシュナ様
クリシュナ様
ラーダーの痛ましい姿を見て、ウッダーヴァの心は溶けました。クリシュナが自分をゴーピーたちのところ
によこしたのは、一体何が真のバクティ(献身)なのかを学ばせるためだったと気づいたのです。たとえシャ
ストラに精通した人でさえ、ゴーピーたちがクリシュナひとすじに献身する様から、献身の深い真理を学ばな
ければならない、それを教えるためにこのできごとをおこしたのだと悟ったのです。神への愛は生きる手段で
あり目的です。それがゴーピーたちによって明かされた真理でした。ゴーピーたちはすべてのものに愛を見い
だしました―――クリシュナの笛の音がこの世を愛で包みこみ、乾いた地を愛で潤していたのです。
神はあらゆる人の内に宿ります。しかしそれを知る道はたったひとつ、神への強い愛を育てることです。神
への愛を強く大きく育むことに力をつくしたまさにその日が、クリシュナの誕生日です。毎年ゴクラーシュタ
ミの日が誕生日なのではありません。あらゆるくびきを乗りこえる手段として神への愛を育もうとするとき、
クリシュナ神は誕生します。クリシュナの教えに従って生きること、それが真にクリシュナの生誕を祝うこと
になるのです。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
126-129p)
◇
ゴーピーやゴパーラ(牛飼いの少年や少女)たちにとって、クリシュナは心そのものでした。バガヴァータ
の中にその姿が見られます。彼らはクリシュナをパティ=神、主として崇拝しました。実のところ神が唯一の
123
プルシャ(真に強い存在)です。残りはみなアバラス(女性的でか弱い不十分な性質)です。たとえどんなに
勇猛果敢な男性でも、苦境におちいればひとり静かに涙を流します。他の人々同様、彼らにも救いようのない
瞬間があるのです。猜疑心にかられ、どうしてよいか分からなくなったときには、彼らも祈り乞い願います。
彼らもまたか弱い存在なのです。どんな状況にも動じぬ強さをもち、その力強さをすべてに分け与えることが
できるのは神だけです。ゴーピーたちのプレマについて読んだときには、あらゆる生きものが「女性的」であ
り、神のみがプルシャであることを思い出しなさい。プレマを通してのみ、姿を顕わにし英知を授けます。
しかしここで終わりにします。バンガロールからの帰依者が花のジョーラ(ブランコ)を捧げに来て、私に
座ってほしいと言いつづけているからです。嬉しいとは思いません。もしもあなた方の心のジョーラでゆらゆ
らとゆれることができたなら、私はどんなに幸せでしょう。7つの世
・
・
界すべての生きものの心の奥底からわきあがる「タット・トワム・アシ(汝が それなり)
」の音色に合わせ、オームカーラのジョーラに揺られる―――どれほどすばらしいことか!
あなたの心の中
のジョーラにはあなたが座っています。マーダヴァ(神)ではなくマナス(あなた自身)がです。ですから人
は平安と至福から遠く離れているのです。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
182p)
◇
これまでにいく度となく学問的に考察され研究されてきたゴーピー(ドゥワラカの乳搾りの少女)たちの愛
は、私の言葉でいえばサハジャ・プレマ―――肉体意識を超えた真の愛―――であり、賞賛にも非難にも影響
されることがありません。その愛は水に浮かんだ薄い油の膜のように、指で触れたらくっついてくるようなも
のではありません。蓮が何層もの水の下、地中深くに根を下ろしながら葉を水面に浮かべ、生存に欠かせない
環境を与える水というものに何の影響もされないでいるようなものです。人もこの蓮のように、必要な環境で
ある五感の世界から浮かび上がるため、力一杯奮闘しなければなりません。五感の世界はあなたをあれやこれ
やのつまらぬことへとかりたてます。しかしゴーピーたちのように、欲望を捨てさり活力あふれるかけねない
歓びの源に心を定めていなさい。ゴーピーたちにはそれ以外、目的も理想も望みもありませんでした。それが
帰依というもの、まぎれもない完全なる帰依心というものです。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
282-283p)
◇
どのゴピカの心にも最高級のバクティがありました。どこをむいてもクリシュナをだけを見いだし、いつも
クリシュナを想っていられるように、額には青いクムクムをつけていました。夫たちの多くが青いクムクムに
反対しましたが、あえてふきとりませんでした。災いがふりかかったり、冒涜行為がはねかえることを恐れた
のです。(ここでババは捧げられた花飾りからマリカの花びらを手のひら一杯にちぎり、上からもう一方の手
のひらにはらはらと落としました。するとその花びらは青い宝石になって流れ落ちました)
ゴーピーたちは
宝石さえもこのようなクリシュナの肌のような青いものを好みました。(驚いている聴衆にその宝石を見せて
まわりました。宝石一粒一粒に美しいクリシュナの姿がくっきりと浮かんでいました)
たとえばニーラジャというゴーピーがいました。ニーラジャは、ゴーピーの花嫁として遠く離れた村からブ
リンダヴァンに来たとき、クリシュナには気をつけるようにと言われました。その警告にもかかわらず、ゴヴ
ァルダーナギリのお祭でクリシュナの姿をひと目見て、ニーラジャは心を捧げてしまったのです。ニーラジャ
は魂もろとも魅了されてしまったがために、幾多の試練に見まわれました。しかし強い心ですべてに耐えまし
た。ゴヴァルダーナギリの丘のふもとでクリシュナの姿を見たとき、クリシュナは笛で甘い旋律を奏でていま
した。ニーラジャははじめてクリシュナを見たその木陰に行って、聖なる気配を吸いこんだものです。そうし
て年月が過ぎさりました。クリシュナを乗せたアクルラの馬車がブリンダヴァンを離れマトゥラへむかおうと
したとき、まっ先に馬の行く手をはばもうとしたのがこのニーラジャでした。彼女はクリシュナとの別離の苦
しみに何年も何年も静かに耐えました。しかし苦しみに疲れはて、ほとんどすり切れはてたとき、あの木の陰、
今もこうして訪れていた木陰で、目の前にクリシュナが姿を顕わしたのです。クリシュナはニーラジャをなで
慰めました。彼女はかつてある願いごとをしたことがありました。死のときにはクリシュナの膝で神の奏でる
笛の音を聴きたいと願ったのです。クリシュナは言いました。「笛を持ってきていないのです」しかしニーラ
ジャの願いを叶えるために、茂みから適当な長さのアシを手折ると、一瞬にして笛に変え、旋律を奏ではじめ
124
ました。ニーラジャの心は涙に溶け、魂が洗い流されていきました。旋律がやんだまさにその瞬間、ニーラジ
ャはクリシュナ・タトワの中で息をひきとりました。するとクリシュナもまた彼女の願いのためだけに手にし
たアシ笛を捨てさりました。その木陰はこの笛を生み、しばしばその笛の音色がきこえたことから、ヴァムシ
クンジと呼ばれるようになりました。
(サティア・サイ・スピークス3
◇
◇
◇
42-43p)
◇
ゴーピーたちはあまりに高度な愛に満ちあふれていたため、ちりのひとつひとつ、木の葉一枚一枚すべてに
クリシュナ原理を見いだし実感しました。クリシュナへの愛が全世界をクリシュナに変えていたのです。クリ
シュナ以外のものをひとつひとつ否定していくことが、すべてにクリシュナを見る方法でした。ひとつのもの、
たったひとつのものがあるだけ。もう一度くりかえせばそれが二つになる。多様な創造物は、神と、神と、そ
して神。何度も何度もこう唱えました。ちりから木の葉、雨のしずく、どれも神、神、神のみです。そしてあ
なたも例外ではありません。あなたもまた神なのです。この真理、自らの本質、神との一体に気づくこと、そ
れが覚醒です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
473-474p)
◇
無邪気で正直者のゴクラの牛飼いの少女ゴーピーたちは、ありとあらゆる茂みや木陰にクリシュナを探して
まわりました。クリシュナは惹きつけるだけ惹きつけておきながら、いつも姿をくらませていたのです。これ
はあなたの内に宿りつつ、その甘さに浸ろうとすればするりと身をかわす神というものの探求を、別の形で表
現したにすぎません。クリシュナはあなたの心の奥底に隠れているのです。探りだし、握りしめなさい。たと
えするりと逃げたとしても、手の届かぬところへと急いだために、こぼれたミルクを踏んで足跡を残している
はずです。そう、こう教えているのです。美のすべて、善良なる行いのすべて、感謝の涙のひと粒ひと粒、憐
れみのため息ひと息ひと息に神の足跡をたどり、愛の香りと美徳の光に満たされたあなたの心の木陰に神を見
つけだしなさい。
(サティア・サイ・スピークス9
◇
◇
◇
89p)
◇
ゴピカたちは心に宿ったクリシュナに、決して立ちさらないでくださいと祈りました。ミーラも同じことを
歌っています。「深い海に飛びこんで、私は真珠を見つけました。どうかこの手をしっかり握らせていてくだ
さい」(スワミはタミール語で歌われました)
サムサーラ(俗世)は広大な海です。欲望は波のようです。感情が海に深みを与えています。奥底ではワニ
やクジラやサメの姿をした執着、憎しみが泳いでいます。この海を渡るのはたやすいことではありません。ゴ
ピカたちは神の御名の助けがあってこそ人々は救われるといいました。
人々はゴピカたちの献身を俗世の目で見ようとします。しかしゴピカたちの心が五感の対象にむくことは決
してありませんでした。まったく五感の欲望がなかったのです。欲望という欲望のすべてを神に集中させてい
ました。全世界を神の姿として見ていたのです。
ゴピカたちは神には属性がないのか、それとも全属性をそなえているのかといった問題には関心がありませ
んでした。クリシュナの御姿で神を崇拝するのを好み、自らを神に溶けこませたいと望みました。「そうして
私たちは形をなくすのです」ゴーピーたちはいいました。
自らの姿を忘れたとき、無形のものに溶けこむことができます。神はディヤーナ(瞑想)、ジャパ(神の御
名を唱えること)で体験できるものではありません。それは幻想です。一時的な心の安らぎをもたらすにすぎ
ません。永遠の至福、霊性の英知を体験するには、あなた自身の神性を育まなければなりません。そのために
は適した環境が必要です。純粋で神聖なる気配にあふれたところが適しているといえるでしょう。太古の聖者
たちが苦行のために神聖な精気に満ちた森の奥深くに独り分け入ったのもそういうわけです。村周辺の様々な
できごとが純粋な心を保つためにならない、そう考えて森へ入っていったのです。しかしこれは心の弱さのし
るしです。ハートに宿る神聖なるアートマに集中することができたなら、森に入る必要はありません。「forest
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(森)」は遠くにあるものです。あなたの心が「for rest(安息の場)」なのです。内なる平安の鍵は、あなた
の外側ではなく内側にあります。神聖なる神の気配に満ちたとき、平安の探究はより効果的に進んでいきます。
(サナタナ・サラティ
1990年
9月号
228-229p)
16.クリシュナ神とヤショーダー(養母)
神クリシュナはヤショーダーに育てられました。しかしヤショーダーはクリシュナがどこで生まれたのか知
りませんでした。それでもクリシュナはまるで本当の息子のように深く愛されて育ちました。ヤショーダーの
愛が純粋で、利己的な想いに動かされることがなかったからです。この逸話は次のように解釈することができ
ます。へそから生まれた神性エネルギーは、たえまなく御名を唱える(ゴクラのナンダとヤショーダーの)舌
の上で守られ、育てられたのです。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
9
129p)
◇
ヴァトサリヤ・バクティは、サダカ(帰依者)に母と子の関係をすすめるものです。その好例がヤショーダ
ーのクリシュナに対する崇拝です。他の人々がクリシュナをマトゥラプーリ・ニヴァーサ(マトゥラに住む神)
とたたえたり、ゴーピーフリダヤ・ヴァシ(ゴーピーの心に宿る神)と崇拝しようと、ヤショーダーには母と
子の関係しかありませんでした。ウッダーヴァがマトゥラからやってきたとき、ヤショーダーは我が子ゴパー
ラのことを尋ねました。「マトゥラに住むというクリシュナも、ゴーピーの心にいるというクリシュナも私は
知りません。私は私の子ゴパーラのことを聞いているのです」こう訴えました。ヴァトサリヤ・バクティは、
このようにある種排他的になることがあります。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
231p)
◇
ヤショーダーはクリシュナが姿を消すと、カードまみれの足跡をたどって見つけだしました。クリシュナの
腰に縄を結んでおこうとしましたが、決してできませんでした。その縄がエゴの縄だったからです。どうして
神をエゴで縛りつけることができたでしょう。縄はいつも足りないのです。二本の指の幅の分だけ足りないの
です。これは何を意味するのでしょう。ふたつの徳が足りないことを示しています。それでどの縄も、どんな
に長い縄であってもいつも足りなかったのです。ふたつの徳とは、ダルマニシュタ=正しい心と、ブラフマニ
シュタ=熱意です。一点に集中させた心と帰依心を通じて、また万物と人のハートに美、真理、愛、善という
神の足跡をたどることで神を求めるなら、それで十分です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
19p)
◇
クリシュナがカードのツボをひっくり返し、バターのうつわを抱えて逃げ出したとき、母ヤショーダーは床
についたカードまみれの足跡から、隠れ場所を見つけたという詩があります。
この神も欲しがるバターとは、心をヴィヴェーカによって攪拌してでできる最終的なヨガの結実のことです。
それはたいへんなごちそうで、神は自分だけのものにしようと持ちさってしまうのです。しかし見る目を養い
誠実に探し求めれば、いたるところについた足跡をたどって神を見つけだすことができます。美、徳、慎み、
正義、真理、愛、平安のあるところには、必ず神の足跡がついています。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
183p)
◇
攪拌していたカードのツボをクリシュナが壊して逃げたとき、ヤショーダーはクリシュナの残した足跡をた
126
どって、隠れ場所をつきとめました。神は肉体を自分とみなす人の意識をつき崩し、しるしや跡をあたりじゅ
うにふりまいて、人々を神のもとへ導くことを象徴的に物語っています。このしるしは、あなた方ひとりひと
りをとりまく自然の中につねに存在しています。昇る太陽の美しさ、われを忘れるような虹の輝き、鳥のさえ
ずるメロディー、湖面に花開く蓮の花、雪をいただく山の静けさ―――事実神はラサ(甘美、忘我)であるた
め、神の動きそのものである自然は、われを忘れさせる甘さに満ちあふれているのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
144p)
◇
あるときヤショーダーは、バララーマからクリシュナが泥を食べていたと告げられ、クリシュナにそのこと
を問いただしました。するとクリシュナはこう答えました。「お母様、私が泥を食べるような心の汚れた無鉄
砲な子どもだとお思いですか?
私の口の中に泥があるかどうか、どうぞご自分で確かめてください」クリシ
ュナの開けた口の中をのぞきこみ、ヤショーダーは恐れおののきました。この宇宙の14の世界が、神の子ク
リシュナの口の中に見えたのです。ヤショーダーはわが目を疑いこう叫びました。「これは夢?
ィシュヌのおこしたマーヤーかしら?
それとも他の誰かなの?
誰かのつくった幻なのかしら?
これは本当?
それともヴ
私はヤショーダー?
すっかり怖くなってしまったわ」
ヤショーダーは自分を信じられず、クリシュナの神性を認めることができませんでした。神を認識するには
自らのセルフに対する確信が必須の条件です。ヤショーダーはクリシュナを息子とみなしていたため、母とし
ての執着が理解力をくもらせてしまったのです。
(サナタナ・サラティ
17.バターを盗んだクリシュナ神
1990年
9月号
230p)
バターツボを壊したクリシュナ神
バガヴァータにはクリシュナがゴーピーたちの家にしまってあったバターをこっそり食べたと描かれていま
す。この行いにはどんな意味があるのでしょうか。家にバターがなくて盗みに行ったというのでしょうか。ク
リシュナがひっくり返したのはバターではありません。心のツボにしまわれた徳というクリームのことなので
す。力強くかきまぜられてできる純粋なるアートマ、それがこのクリームなのです。クリシュナはそれを「盗
んだ」のでしょうか。クリシュナは「ハリ=盗む者、奪う者」です。誰にも姿を見られることなくすべてを見
ています。心に神が入りこめばすぐさまあなたは目覚め、内なる意識が呼びおこされます。するとあなたは心
にあった徳と勇気、経験から得た英知を捧げてしまうのです。この神はそういう泥棒なのです。神への愛を育
みなさい。好き嫌いはむしろ習慣と訓練によるものです。五感の感覚があなたを神から引きはなそうとしても
屈してはいけません。すぐにつきていくものです。確固とした決意から生まれる激しい熱望―――これがあな
たを助けるたったひとつのものなのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
23p)
◇
バガヴァータは、これまで様々な御姿を借りてきた神のリーラ(神の戯れ)、マヒマ(栄華)、ウパデシュ
(教え)を物語っています。神が姿を顕すとき、その生涯にはつねに2つの面があります―――世俗の面と神
の面、外面と内面です。あなた方はちょうど今、幼いクリシュナがバターのツボを割った話を聞きました。表
面的にはブリンダヴァンの乳搾りの少女の家で、バターの入った土のうつわを子どもが壊したというものです。
しかし内面的にはクリシュナが魂のとらわれている扉をうち破り、はかない執着心から魂を解放したという意
味になります。神は自分の一部であるもの―――信仰というバタ―――-を盗んだのです。このバターは自己
を浄化する霊性修行、心を攪拌することでできるものです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
16p)
◇
神の御名は栄華の香りがします。心の中で唱えると、あなたを幻想から解放する道具にかわります。たとえ
127
ば、ナヴァニータチョーラ(バター泥棒)とはクリシュナ神の御名のひとつです。たんにしまっておいたバタ
ーを盗んで逃げた人物のことを示すのではありません。また盗まれたのも、凝固したミルクを攪拌してできる
バターというだけではありません。世俗の体験でこり固まったミルクを、神への切望で攪拌してできる信仰と
いうバターです。神がひっくり返すのはこの「バター」だけです。ヤショーダーが「盗み」を叱ったとき、幼
いクリシュナはこう答えています。「でもお母様、みんなが盗んでほしがるのです。盗まないと悲しむのです。
そのためにかきまぜているのですから」
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
139p)
◇
クリシュナは無知で偏見に満ちた批評家たちに「ジャーラ」「チョーラ」と中傷され、求道者や賢者たちに
もやはり同じ言葉で「ジャーラ」「チョーラ」とたたえられてきました。クリシュナ神は心を盗み、盗まれた
者はそれを喜びます。光をかかげ、人々をゆり起こし、盗まれた心のもちぬしをより豊かに幸せにするからで
す。五感の快楽への欲望をうち砕き、神への想いで満たします。どうして神をジャーラ、チョーラなどと呼べ
るでしょうか。盲人が盲人の手を引けば、ふたり一緒に穴に落ちるのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
168p)
◇
クリシュナは牛飼いの少女たちの家からバターを盗んだ泥棒と非難されます。しかしこのバターは、心を攪
拌したあとに得られるバクティを表します。文字通りに起こったことがらの象徴的な意味の問題です。神は「チ
ッタチョーラ=心の盗人」です。泥棒は夜、暗闇の中で家人を起こさないように盗みます。しかしこの神なる
泥棒は、主人を目覚めさせるのです。ゆり起こして神が来た、と教えるのです。そしてその犠牲者は、この上
ない幸せと満ちたりた想いの中にとり残されることになります。
(サティア・サイ・スピークス3
41p)
18.ゴクラ、マトゥラ、ブリンダヴァン、ドゥワラカ
クリシュナの姿を借りたアヴァター(神の化身)にはたくさんの謎が隠されています。ブリンダヴァン(「ブ
リンダの森」の意)は、一生がこみ入った森であることを示します。ブリンダヴァンでクリシュナ神に守られ
ていた牛たちとは、まさに神の世話と導きを必要とする無力な人間のことです。またゴクラ(「牛の群」の意)
は、バガヴァータム(神の栄華の物語)の中でクリシュナが牛たちを世話した地域につけられました。「ゴ」
とは肉体に宿るひとりひとりの魂のことです。つまりゴクラとは、人々の暮らす場所といえるのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
88-89p)
◇
クリシュナはゴクラで生まれ、ブリンダヴァンで育ち、マトゥラを治めた後にドゥワラカを統治しました。
これは何を意味するのでしょう。マナス(マインド)は神が生まれたゴクラです(そして神は霊性の道を歩む
人々の心に今も誕生しつづけています)。ハートは、神が育ちプレマ(神への愛)が育まれるブリンダヴァン
です。チットは神が治めたマトゥラであり、ニルヴィカルパの段階は神が君主となって身をおいたドゥワラカ
なのです。それぞれの段階を通じて、クリシュナ・トリシュナ(クリシュナへの渇望)を育てなさい。自分自
身を救うことになります。ラーダーやミーラ、サックバイ(クリシュナ神の帰依者たち)の仲間に入りなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
128p)
◇
あなた方がたたえている神の化身クリシュナとは、フルートを吹いて村人たちを魅了した牛飼いの少年では
128
ありません。語りつくせぬはかりしれない神性原理、クリシュナです。人体の中心へそ(マトゥラ)から神性
エネルギー(デヴァーキー)の産物として生まれ、口もと(ゴクラ)へと送られ、後に甘美の源として舌(ヤ
ショーダー)に育てられました。クリシュナは御名を唱えられることで姿を得たアートマであり、その姿はヤ
ショーダーによって与えられました。あなた方もクリシュナを舌の上で育てなさい。神が舌の上で踊りだせば、
かつて子どものクリシュナが蛇カリンガの上で踊ったときのように、誰も傷つけることなく、あなたの舌から
すっかり毒気が抜かれることでしょう。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
124p)
◇
クリシュナはゴクラで生まれ、ブリンダヴァンで育ち、マトゥラへと進み、最終的にドゥワラカで暮らした
といわれています。このことがサダカたちに教えるのは次のことです。「クリシュナをあなたのマインド、ゴ
クラに誕生させなさい。ブリンダヴァンというハートで育て、思うままに遊ばせなさい。そしてチッタ(心の
奥底)であるマトゥラに住まわせ、最後にはドゥワラカの神として、不動の意識を統治させなさい」ニルヴィ
カルパ・アーナンダムとは、波間の中心ドゥワラカに建てられた最終的な神の国のことです。
クリシュナは3つの前提条件がそろったとき心に誕生します。マインド(マナス)をバクティマーヤにする
(バクティで満たす)こと、知性(ブッディ)をジュナーナ・デープティ(輝かしい神の威光)で満たすこと、
肉体(デーハ)をサット・ダルマチャラナ(ダルマ、正義の実践)の道具にすること、です。バクティはラジ
ャ(君主)であり、ジュナーナとヴァイラーギヤが君主に仕える二人の副官です。二人は安全を保証する用心
棒です。この二人の副官なくしてラジャの身は安全に守れません。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
125-127p)
◇
ヤショーダーはバララーマとクリシュナの生まれた場所を知りませんでした。しかし二人を自分の子として
育てました。二人はマトゥラで生まれゴクラムで成長しました。デーヴァキー(ヴァスデーヴァの妻)の子宮
で育まれ、ヤショーダーの家で暮らしたのです。
このできごとに秘められた意味を探ってみると神の物語が明らかになります。バララーマとクリシュナはマ
トゥラで生まれました。マトゥラは人体のへそを意味します。デヴァーキーは神のシャクティを表します。バ
ララーマとクリシュナという神の御名の響き(ナーダム)が、神のシャクティであるデヴァーキーの子宮から
生まれ、口であるゴクラムに移り、ヤショーダーに象徴される舌の上で遊んだのです。「ラーマ」は歓びを与
える者、「クリシュナ」は魅了する者の意味です。
神の御名はこのようにへそから発生し、舌の上で唱えられることでその神聖さが保たれます。神の御名を想
うナーマ・スマラナとは、心の奥深くで御名を唱え神聖さを保つ、ということなのです。
「ナーマ」という言葉にはどんな意味があるのでしょうか。数秘学によれば、ナ、ア、マはナ=0、ア=2、
マ=5、合計7になります。7は7つの音階(サプタスワラ=サ、リ、ガ、マ、パ、ダ、ニ)です。太陽の光
も7色からなりたちます。この世には7つの海があり、大賢人は7人(サプタリシ)です。そして多くの宗教
儀式が7日(サプタハム)にわたって行われるということも大変意義深いことです。
(サナタナ・サラティ
1992年
4月号
60-61p)
19.黄色い白檀(ハリチャンダナ)、額の点(ティラカム)、カウストゥパの宝石、
に輝く真珠、カンカラの腕輪、青い肌―――その意義
鼻
世俗の人々には世俗の言葉によって超越者を理解することができます。はかりしれない者は、すでに知られ
た素朴な目じるしをたどることによって、そのヒントを得ることができるのです。クリシュナをカストゥール・
ティラカムとたたえる歌を例にしてみましょう。この歌は、言葉の上では神の美しい姿、神の装飾品やもちも
のを描写するものです。しかしそれぞれの言葉に、見のがしてはならないより深い意味合いがあるのです。
クリシュナの額にあるカストゥーリのティラカム(お香でひいた点)は、シヴァ神の額にある第三の目のよ
うに、英知の目、内なる目、内にむけられた視点の象徴です。カストゥーリとは、ジュナーナつまり五感を超
129
えた知識、英知を意味します。歌はさらに胸のカウストゥパの宝石について語ります。これはアーナンダスワ
ルーピ(至福の化身)である神のけがれなきアーナンダ、ハートの内のアーナンダを示します。また歌はクリ
シュナの鼻先を飾る輝く真珠をたたえています。この神のナサグラ(鼻先)につけられたナヴァムークティカ
ムは、神の栄華に一心に集中することで得られる結実を示します。そのため、ヨガ行者たちの間では鼻先が救
済のかなめと考えられているのです。真珠はヒンドゥー教の神話の中では、長いこと天からの高貴な贈りもの
を待ちわびていた牡蠣(カキ)が、純粋で汚れのない一番最初の雨のしずくを飲みこんでできたといわれてい
ます。純粋で真なるものへの切望、自然な欲求が、人を美しい真珠のように変えていくことを物語っているの
です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
24-25p)
◇
さて、詩はクリシュナが体じゅうにぬっていたハリチャンダナ(黄色い白檀の香)のことを語ります。黄色
いローブをまとい、黄色い白檀の香りを漂わせていました。黄色は、神が衣服としてまとい人々を魅了したプ
ラクリティを示します。事実プラクリティ=自然は、神が好んで身をまとい姿を顕したものです。神には思う
がままに脱ぎ着することができます。それが神のアートマ・マーヤーです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
26p)
◇
描写の中にカンカナのことが「カレ・カンカナ」として出てきます。たんなる「腕飾り」ではありません。
それは文字通りの意味にすぎません。カンカナとは奉納の腕輪であり、誓いを決するとき身につけられるもの
です。ではクリシュナはいったいどんな誓いをたてたのでしょうか。それについてお話ししましょう。すべて
の人が読み、知り、信ずるべくして書かれたバガヴァッド・ギータの中にそのことがふれられています。全部
で3つあります。
(1)「善を守り悪を罰するため、道徳と秩序を確立するため、いく世にもわたって私は地上に姿
を顕わそう(Parithranaya sadhoonam, vinasayacha dushkritham, Dharma samsthapanarthaya sambhavami
yuge yuge)」
(2)「他の何ものでもない、私への想いに全身全霊で深く浸るもの、私はつねに彼らとともにい
よう。そして彼らの幸福をともにになおう(Ananyaschinthayantho mam ye janah paryupasathe,
the
sham nithya-abhiyukthanam yoga kshemam vehanyaham)」
(3)「私に帰依しなさい。それ以外の義務や責務をすべてゆだねなさい。あなたをすべての罪か
ら救います。悲しむことはありません(Sarvadharman parithyajya mamekam saranam vraja, aham
thwa sarva papebheyo mokshayishyami, masucha)」
この3つがクリシュナのたてた誓いであり、腕輪にはこの誓いを忘れないようにとの想いがこめられていま
す。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
26p)
◇
伝承によれば、人々は家庭からたくさんの子どもたちを奪いさる死というものからのがれることを願い、ク
リシュナ神の耳と鼻に黄金の飾りを通したといわれています。鼻先の飾りには小さな真珠がついています。真
珠は深い海の底にもぐって得られることから、この客観世界の神秘に分け入って得られるヴィヴェーカ(識別
心)を象徴します。また鼻先を飾っていることから、瞑想するときには目を見開くでも(気が散らされます)、
ぴったり閉じてしまうのでもなく(眠気に誘われ瞑想ではなくなってしまいます)、鼻先に集中するとよいこ
とを示しています。目を少しだけ開いて、クリシュナが真珠をつけていた鼻先あたりを見つめるとよいでしょ
う。
クリシュナの肌は明るくもなく暗くもない色合いです。明るさが3/4、暗さが1/4の割合で混じりあっ
たものです。両親のカーストがヴァイシュナーヴァだったため、眉間には香で線をひかれていました。…(略)
…
130
神だけを崇拝するすべての人々に神の恩寵を約束したとき、クリシュナは、カースト、教条、肌の色、国、
生まれの制限はなく、また知識、年齢、カーストを理由に特別な恩寵を授かることもない、と言っています。
クリシュナはプレマ(愛)の化身です。クリシュナのプレマは無限です。今日こうして人々の間を歩む神、ク
リシュナとまったく同じ完全なるプレマ・アヴァターを得られるとは、あなた方はなんと幸運なことでしょう。
当時まさに私が身につけていたカウストゥパをお見せしましょう。(ここでババは手のひらを揺らすと、一瞬
輝く光がまたたき、珍しい宝石が出現しました―――バガヴァータやプラーナ(神話集)で有名なカウストゥ
パの宝石でした。大きな長方形の青みがかった輝かしい緑のエメラルドで、燦然と光輝くダイヤモンドにふち
どられ、金の鎖がついていました。ババは学生、教師、人々の間をまわり、その聖なる宝石を間近で見ること
をありがたくもお許しくださいました)
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
252-254p)
◇
神は最大の神秘です。クリシュナ神の深い青い肌は、神の神秘の奥深さの象徴です。空も海も壮大なる深遠
さを示す青です。ある人はクリシュナのカリンガマルダーナ(コブラのカリンガを殺した話)のエピソードが
もっとも神秘的だといいました。うす暗い(dark)空が映るうす暗い(dark)ヤムナー川で、浅黒い(dark)肌
のクリシュナが、カリンガと呼ばれるおそろしく邪悪な(dark)コブラの黒い(dark)背中で踊りを踊りました。
そしてそのような光景を思い描こうとする自分の目のよこしまさ(dark)を責めました。邪悪と無知の暗黒(d
arkness)を心の中から取りのぞきなさい。白い背景の前でなら、メガシャーマ(雨雲色の神)はたやすく見つ
けだすことができます。それなのに人はますます意識を汚しては、神は求めても得られないと不平を言うので
す。光を求めながら一歩一歩暗闇にむかっているとは何とも哀れなことです。死肉をむさぼり長生きするカラ
スでなく、ミルクを飲んで瞬間に生きるハムサ(白鳥)のようでありなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
263-264p)
◇
ある帰依者は歌いました。「おお、クリシュナ様、暗い(dark)色の肌の神。あなたが降りたヤムナー川の
深みも、雨雲たれこむ暗い(dark)ところでした。私は黒い(dark)瞳をしています。私の心は邪悪な(dark)
想いに満ちた暗がり(dark)です。そんな私にあなたを見つけることがどうしてできましょう。あなたの神秘
ははるかかなた、あなたの威光はいつも私の想像力を超えています」クリシュナ神の暗い肌の色は、深い海、
深い空の色です。はかりしれないことを示しているのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
229p)
◇
クリシュナは五感の欲望から心をひきはなします。これが惹きつける力のもう一つの作用です。人の心を神
にむけ、他のあらゆるものからひきはなしていきます。神以外のものはみな劣った価値の下がるものだからで
す。神は平安、歓び、英知を求める人のもっとも激しい渇きを癒します。それがクリシュナ神がメガシャーマ
―――雨雲のような青い肌―――であるゆえんです。雨をたたえた雨雲のなんとさわやかなことでしょう。ク
リシュナ神は蓮の瞳、蓮の手、蓮の足です。蓮は涼やかさ、静けさ、渇きを癒す澄んだ湖水を思い出させます。
クリシュナ・トリシュナ(クリシュナへの渇望)が癒されたとき、至高のアーナンダに到達します。そこには
それ以上に必要なものも願うものもなければ、欠乏も喪失もありません。渇きを癒すだけの劣った飲みものへ
の欲求は、いったんクリシュナ・ナーマ(クリシュナ神の御名)とクリシュナ・バーヴァ(神への想い)の甘
さを味わえば消えさります。五感の対象物は塩辛い海水のようなもので、決して渇きを鎮めることはありませ
ん。ラーダー、ゴーダ、ミーラ、チャイタニヤ、ラーマクリシュナ、スルダス―――彼らはみな神の御名の甘
さを知っていました。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
131
◇
124p)
テルグ語でギータとはすじのことです。ウパニシャッドは神を「青みがかった厚い雲間に走る稲妻の閃光」
と表現しました。クリシュナは青い雲のような青です。ヴェーダではニーラ・トヤーダ、バガヴァータムでは
ニーラ・メーガと表わされています。どちらもクリシュナ神が空のように海のように深いものであり、まさに
海、空の色であることを示しています。
(サティア・サイ・スピークス9
89p)
20.ナラカスラ―――クリシュナ神に滅ぼされた悪魔
今日こうしてお祝いしているディパヴァリ祭の意義を探っていくと、伝統的にはシュリー・クリシュナによ
って悪魔ナラカスラが滅ぼされたことを祝う、喜びあふれる日であることが分かります。そしてナーラカ原理
の重要性は、クリシュナ原理の意味を理解してはじめて知ることができます。クリシュナは五元素(エーテル・
空・火・水・地)の体現です。また5つの呼吸(プラーナ・アパーナ・サマナ・ウダーナ・ヴィヤーナ)の顕
現でもあります。「*クレーム
クリシュナヤ
ゴヴィンダヤ
ゴピジャナヴァラバーヤ
スワハ」このマント
ラはバガヴァータムの神髄です。5つの言葉それぞれが5つのプラーナ(生気)を表しています。クレームが
地、クリシュナヤが水、ゴヴィンダヤがアグニ(火の神)、ゴピジャナヴァラバーヤがヴァーユ(空)、スワ
ハがエーテルです。神がこの五元素に内在することを知ったとき、この大宇宙には五元素のないところなどあ
りえないことに気づくでしょう。人の肉体もこの五元素でなりたちます。肉体を構成するものですから、これ
らの要素は肉体に影響をおよぼしはしても、アートマに影響を与えることは決してありません。(*Kreem-Kris
hnaya-Govindaya-Gopijanavallabhaya-Swah)
クリシュナが悪魔ナーラカに対峙したことは、これらの背景をもとに理解しなければなりません。「ナーラ・
カ」とはアートマに敵対するものの意です。「ナーラカ」とは悪魔のことではありません。地球のまわりをま
わる衛星のことで、人々がこの衛星からの驚異を感じ恐れに満ちたとき、地球に迫ってくるように思われたと
き、クリシュナがその衛星を破壊して人々から恐怖を取りさったのです。ときとして人は衛星が危機をおよぼ
すと恐れることがあります。たとえば数年前にも8惑星(アシュタグラハ)が地球に莫大な危機をもたらすと
予測されました。5千年の昔にも、地球に惑星が接近し恐れられました。それらの恐怖をしずめるためにクリ
シュナは救済にやってきて、危機を回避したのです。ナラカスラから人々を救った日のお祝い、ディパヴァリ
祭は、クリシュナの勝利を記念する日です。この日は神が人々を暗闇から光のもとへと導いた日として祝われ
ます。
寓話上、ナラカスラはプラーグジョーティシャプラを支配する悪魔として描かれました。プラーグジョーテ
ィシャプラが象徴するものとは、「アートマの忘れさられたところ」です。つまりアートマが忘れられたとこ
ろには、必ず邪悪な力がひそんでいるという意味を秘めています。今日の世の混乱と害悪は、人々がアートマ
(至高の魂)を忘れてしまったことにあります。みな肉体や個々の魂のことは意識にあっても、内に宿る神性
(パラマートマ)には気づいていません。
人は5つのさや(コシャ)に包まれています。アンナマヤ、プラーナヤマ、マノマヤ、ヴィジュナーナマヤ、
アーナンダマヤの5つのコシャです。肉体はアンナマヤ・コシャ(食物に維持されるさや)です。人は肉体の
手入れはよくしています。またマノマヤ・コシャも気づかっています。呼吸しないと生きていることができな
いからです。またプラーナマヤ・コシャ(心のさや)がなくては欲望を満たすことはできません。今日人はこ
の3つのさやを気づかう段階にまで進歩してきました。この段階までは人の視点は外側にむいています。ヴィ
ジュナーナマヤ・コシャは内なる視点を必要とします。それがアーナンダマヤ・コシャ(至福のさや)の理解
へと結びついていくのです。人は食物のさやからはじまり、至福のさやまで進んでいかねばなりません。途中
の心のさやで立ち止まっていてはいけないのです。それが地獄(ナーラカ)へと導く悪い資質でいっぱいにな
ってしまう理由です。邪悪な資質(ナラカスラで象徴されるもの)を滅ぼしなさい。ナラカスラの破壊者、ク
リシュナ神の加護を得れば、内にある悪い資質を捨てさることができるのです。
ディパヴァリの日、ひとつのロウソクからたくさんのランプに火をともします。ランプに灯りをともすロウ
ソクの炎は神を象徴し、ひとつひとつのランプがジーヴァナ・ジョーティ(個々のランプ)です。すべてのラ
ンプが唯一なる至高の炎の光をともすのです。この火のお祭りが祝われるのは、人々にこういった真理を教え
るためです。
このように、どのお祭にも秘められた意味と目的があります。それを忘れ、聖なる日はごちそうを食べ浮か
れ騒ぐだけになっています。バーラタ(インド)の祝日は、どれもが霊的な意味に満ちています。人々はそれ
132
を忘れて中身のないお祝いに夢中になっているのです。
伝承によれば、クリシュナはサティヤバーマの力を借りてナラカスラを殺したといわれています。何を示し
ていますか?
人はみなサティア(真理)を頼りにし、内に宿る邪悪な力と戦い、滅ぼさなければなりません。
ウパニシャッドは「*サティアメーヴァ
ジャヤーテ=真理のみが勝利をおさめる」と宣言しています。「真理
を話しなさい」とはヴェーダの教訓です。あるとき地の女神はヴィシュヌを訪ね、どんな重荷にも耐えるけれ
ど、嘘にまみれた人々を抱えていることだけはできない、そう嘆き訴えました。真理の道を歩むためには何も
のをも犠牲にする決意をしなさい。(*Sathyameva Jayathe)
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1990年
1月号
10-11p)
◇
今日はナーラカ・チャトゥルダシの日とされています。ナーラカとは何でしょう。苦しみに関連するものす
べてがナーラカと呼ばれます。「カ」は悪い資質を意味します。ナーラカとは悪い資質に満ちた人々の生きざ
まを意味しているのです。それは地獄に生きるようなものです。クリシュナはどのようにナーラカに対峙した
のでしょうか。クリシュナは、磁力のような波動で惹きつける神です。この波動は生命エネルギーの顕れです。
この生命エネルギーを動かす意識は、輝きの源プラジュナーナムとして知られています。肉体の中でこの輝き
と波動が活動したとき、人は完全な「人」になります。
ナラカスラの姿をした人の中の悪の資質は滅ぼされねばなりません。クリシュナはそのためにやってきまし
た。そして真理の維持者サティヤバーマの助けを求めました。つまりクリシュナは真理の力とともに悪の資質
を破壊したのです。ティアガラージャは神の光り輝く偉業をうっとりと歌いあげています。ディパヴァリの日
は、自らの悪の資質を捨てさることを祝うべき日なのです。
「真理に勝る徳はない」真理は特定の国や特定の人々にかぎられたものではありません。全人類のものです。
真理がこの大宇宙を支えています。真理は神です。真理の道を歩みなさい。真理を話しなさい。それが最高の
霊性修行です。
愛の化身たちよ!
今日あなたがたに課せられた課題は、自らの内にある悪の資質を滅ぼすことです。悪い
想い、悪い行いがいたるところにはびこっています。それにたいしてただ傍観者でいることは許されません。
信仰を神におき、人類のひとりとして邪悪な勢力と闘いなさい。人間としての価値を世に示しなさい。善き人
としての名声を勝ちえなさい。重要なことはただそれだけ、他に得られるものなど価値がないも同然です。善
き人だけが生きながらえます。一生の一瞬一瞬を、正義(ダルマ)の実践と善なる名声(キルティ)のために
捧げなさい。肉体の細胞ひとつひとつを真理で満たしなさい。
ナーラカ・チャトゥルダシは、自らの悪の資質を捨てさり、正義の道を歩むことを決意する日です。ディパ
ヴァリはクラッカーを鳴らし花火をあげるお祭として祝われます。太古の人々は悪魔ナラカスラの破壊を歓び
花火を放ちました。
ディパヴァリの日にクラッカーを鳴らすのにはまた別の意味もあります。この季節は雨期です。あらゆる病
原菌が空中に満ちています。クラッカーの煙によって病原菌が消されます。そうして伝染病がコントロールさ
れてきました。クラッカーを鳴らす歓びは、本来人の内から悪の資質が取りのぞかれる歓びでなければなりま
せん。そのためには神を瞑想し、バジャンに集い歌いなさい。
(サナタナ・サラティ
1995年
9月号
318p)
まとめ
クリシュナ神は至高の魂、至高の実在であり、この大宇宙そのものです。人々の内にクリシュナ
神が宿ると同時に、クリシュナの中に人々がいます。人の最終的なゴールは、ナラカスラの破滅に
象徴されるように、自らの邪悪で動物的な資質を滅ぼし、クリシュナ神の至高の魅力と恩寵を通じ、
人は真理の内に、至高の魂の内にいると知ることです。
人が心と知性を内にむけ、クリシュナの額のティラカムに象徴される英知の目を開き、輝く真珠
ナヴァムークティカムのあるところ、鼻先を見つめ、神との一体を純粋なる想いで切望し瞑想した
とき、人は自らの内なるアートマ、クリシュナ神との合一に達するでしょう。
ゴクラ、マトゥラ、ブリンダヴァン、ドゥワラカはつねに私たちのまわりにあります。ゴクラは
133
人がジーヴァとして暮らす外界のみならず、内なる精神領域のことでもあり、そこにはいつもクリ
シュナが神性原理として宿っています。ブリンダヴァンはアートマの知識と神への愛が育つところ
です。マトゥラは、クリシュナつまりアートマが、内なる英知、内なる支配者として統治するチッ
タ=意識のあるところです。そしてドゥワラカはアートマであるクリシュナが万物の主であり、人々
が神意識で暮らすニルヴィカルパの領域を象徴しているのです。
クリシュナがツボを割ったように、霊性修行と神の恩寵を通じて得られるアートマの光は、この
世の物質への執着だけでなく、「私は肉体である」という認識をもうち砕きます。アートマへの信
仰と、ミルクの攪拌にたとえられる浄化の霊性修行を通じて、帰依者はサット・チット・アーナン
ダ(存在・意識・至福)に目覚め覚醒します。ゴーピーの家からバターを盗んだクリシュナ神は、
人々の純粋で清らかな心を盗みます。そうしてアートマとの一体性に気づき、覚醒にいたります。
誰もがその過程においてはゴーピーです。解放とアートマの至福を求め、いつかは心を内にむけ
るようになります。ゴーピーは、すべてに宿る純粋で精妙なアートマととけあいたいという激しい
渇望と、純粋な神への愛で内にむかいました。人の目標は、神のみに集中したゆるがぬ純粋な愛で、
遍在する唯一者との一体を体験し知ることです。
最高のゴーピーであったラーダーは、他のいっさいのものに心をかき乱されることなく、クリシ
ュナ、ジーザス、サイババら、どんな神にも宿るアートマを崇める純粋な心、魂であり、あらゆる
人の内にいます。ラーダーは神への純粋な炎、魂の満開の花であり、人々の内にいます。ラーダー
がクリシュナであり、クリシュナがラーダーです。別の見方をすれば、ラーダーは万物(人類)に
顕れた神性のきらめきであり、神に「なるもの」を体現し、クリシュナが神で「在るもの」ともい
えます。なろうとするものが「在るもの=アートマ」に帰り溶けこもうと強く望むとラーダーにな
ります。「在るもの」がなりたいと願えばクリシュナになります。
五感と心と知性をそなえた人の肉体はクリシュナの笛です。それが空(から)になりエゴや悪の
資質がすっかり消えさったとき、神なるアートマはその笛で神なる資質と神なる行いを演奏し、人
を神へと変えていくでしょう。
134
第6章
バガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババ
イントロダクション
バガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババは人の姿で降臨したプールナ・アヴァター、神の
完全なる化身です。真理(サティア)、君主、母なる神、あらゆる威力の体現(サイ)、父なる神
(ババ)です。いついかなるときも至高の魂(パラマートマ)、至高の愛(プレマ)、至福(アー
ナンダ)を具現します。
バガヴァンには、6つからなる神の栄華をそなえる者という意味があります。1.アイシュワリ
ヤム(偉大さ、威力、全知、全能、遍在)、2.ダルマ(美徳、正義、公平、公正、正当性)、3.
ヤサス(名声、高名、名誉)、4.シュリー(正しさ、繁栄、壮麗さ、威厳、優雅さ、栄光)、5.
ジュナーナ(英知、知性)、6.ヴァイラーギヤ(無執着、平穏、調和)。
サティア・サイ・ババは、幻想を払い神の認識へと到達するよう人々のハートを神の愛で照らす
ため、地上に肉体をまとって降臨しました。この世のすべての人々のため、ヴェーダのサナタナ・
ダルマ(永遠なる法)を復興し、善良なる人々、帰依者たちを守護するために化身しました。
次に続く御講話の引用の中で、バガヴァン・ババはその使命、アヴァターとしての特徴、恩寵、
サーダナ(霊性修行)の本質について、また降誕祭や夢の中に現れるババの意味について語ってい
ます。
1.サティア・サイ・ババの名前の意味
サイ・ババとはいったいどんな意味でしょう。サイとはサハスラパドマ(千の蓮)、サクシャトカーラ(覚
醒)などの意味であり、アイは母親、ババは父親を意味します。つまり父であるとともに母であるもの、ヨギ
が修行のすえに到達すべき目標―――慈愛の母、賢明なる父、霊性の鍛錬のたどりつくべき目標です。まっ暗
な部屋で手探りしているなら、誰かがランプを手に入ってきたチャンスを逃してはなりません。その間にあた
りに散らばるものを急いでかき集めたり、どこに何があるのか確かめたり、必要なことをしなければなりませ
ん。それと同じで、神が人の姿であなたの扉を訪れたこのチャンスを最大限に活用し、惨劇から自らを救済す
る決意をしなさい。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
6p)
◇
私は人でも神でも実体のない魂でもありません。ブラーフマンでもヴァイシャ、シュードラ、クシャトリヤ、
どれでもありません。ブラフマチャリヤ=家長でも、隠者でも僧侶でもありません。私は真理の導き手、サテ
ィアム(真理)、シヴァム(善)、スンダラム(美)です。あなたの真の姿もサティアム、シヴァム、スンダ
ラムです。真理なくして善はありえず、善なくして美に何の意味がありましょう。心に真理があるとは、善良
であるということです。善良さからあふれでる歓び、それが芸術家たちの愛した本物の美です。この3つは実
のところひとつであり、目で見ることはできません。この真理を体験しなさい。真理を善とし、美を善として
体験しなさい。それが至上の幸福です。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
33p)
◇
私は決して真理から外れません。真理に横たわることからサティア・サイと呼ばれるのです。サイとは(シ
ェシャサイというときのように)横たわるという意味です。この名前が実に私にふさわしいものであることを
今一度申し上げておきましょう。私が差し出すものをつかみそこねる人々とは、私の指揮に従わない人々、私
のしいた道から外れる人々です。私の指揮に従い、私の軍隊の兵になりなさい。必ずや勝利に導きましょう。
誰かから神はどこで見いだすことができるのかと強い渇望で尋ねられたら、答えをはぐらかしてはいけません。
あなたのハートから舌にのぼる答えを与えなさい、示しなさい。神はこの地、プラシャンティ・ニラヤムにい
135
ることを。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
226p)
◇
今日あなた方に知らせておきたいことがひとつあります。イエス・キリストが至高の神性原理に溶けこむそ
の瞬間、心棒者たちにあることを伝えました。批評家たちが様々に解釈しつづけ、言葉に言葉を重ね、意味に
意味を重ね、膨大な混乱にまでふくれあがってきたことです。
イエスのその言葉は巧みに言葉を加えられ、難問にまでもつれてしまいました。イエスの宣言は実に明解で
す。「私をあなた方に送ったお方が再来するであろう」そういって子羊を指さしました。子羊は象徴、サイン
にすぎません。子羊とは神の声―――バ・バのことです。その宣言はババの降臨を示したのです。「そのお方
の名は真理である」そう告げました。サティアとは真理のことです。血のような赤いローブをまとうであろう」
(ここでババは着ているローブを指さしました)
「背は低く、(髪に)冠を戴くだろう」子羊は愛の象徴で
す。
イエスは自分が再び来るとは言いませんでした。「私を創られたお方が再来するであろう」そう言ったので
す。そのバ・バがこのババ、このサイ、背が低く、巻き髪の冠をかぶり、赤いローブをまとったババが来たの
です。神はこの御姿だけではありません。ハートに宿るものとして、あなた方の誰の内にも宿ります。背の低
い血の色のローブをまとったその人物が、今、ここにいるのです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
346p)
◇
あなたの街にサイを祭ったなら、プレマ(愛)を育みなさい。サイはプレマスワルーパム(愛の化身)です。
サイはサルヴァシャクティ(全能)、サルヴァサクシ(万物の観照者)、アイは母親、ババは父親を意味しま
す。サイのプレマとは父、そして母の愛の象徴です。この世でいう父親母親でなく、あらゆる人の想い、言葉、
行いの目撃者である父なる神、母なる神です。具体的な現実の父母を敬い、後にはその敬意を抽象的な父なる
神、母なる神、守り主である神へとむけなさい。
(サティア・サイ・スピークス2
146p)
2.バガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババの使命
アヴァター(神の化身)は、人々が前進できるよう、霊性の道を切り開くために降臨しました。人々の陥っ
ているアシャンティ(不安)は制圧されねばなりません。それが「パリトラナヤ
サドゥーナム=サドゥの救
済」の意味です。俗世というものが相対的で価値のないことを知らないために起こるアシャンティ(嘆き)の
束縛から、善良なるジーヴィ(個々の存在)を救います。あらゆるジーヴィがシャンティ(平安)とサントー
シャ(満足)にいたらなければなりません。それが何度も何度も地上に化身する神の使命です。神はパヴィト
ラトワム(神聖さ)とディヴィヤトワム(神の気配)に満たされた土地を選び、人の姿をとります。人々が会
い、話し、理解し、味わい、耳を傾け、体験し、恩恵を得られるようにです。
悲劇的なのは、神が目に見えず姿もないとき、人は好きな姿を描いて祈り、慰めと力を得ていても、人の姿
で目の前に顕れると、疑い、議論し、そして否定するということです!…(略)…
真珠を手に入れるには深い海に飛びこまなければなりません。海岸沿いの波間でばしゃばしゃ泳いで、海に
真珠などない、あるというのはみんな嘘だと言うことに何の意味があるでしょう。それと同じで、もし私とい
うアヴァターを知りつくしたいと思うなら、深みに飛びこみサイ・ババに浸りなさい。身を入れず、ためらい、
疑い、ひやかし、他人の話を聞いていても無益なことです。集中し完全に信じること、それが勝利に導きます。
世俗の活動すべてにいえることではないですか?
そうであるならなおさらのこと、霊性の道ではどれほど効
果のあることでしょう。しかし、もしあなたにすでに愛する御名、御姿があるなら、それを変えることはあり
ません。そのプレマスワルーパム(愛の化身)に代わるものを選ぶことはありません。
(サティア・サイ・スピークス1
136
131p)
◇
◇
◇
◇
人の姿で顕れたこの私を、妨げたり、かき乱したり、影を落とすことのできるものなど何もありません。そ
れを確信しなさい。中傷、疑惑、無知の力は、私の髪の毛一本にさえ触れることはできません。私のサンカル
パ(決意)は広まり、私の仕事は達成されます。私の使命は実現されます。私は人々のハートを神の光で照ら
し、覚醒により生じる完全なる静けさ=シャンティ(平安)から人々を遠ざけている幻想を払うためここに来
ました。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
93p)
◇
世界のすべての国がバーラット(インド)に敬意を表するのを目撃できるとは、あなた方はなんと幸運なこ
とか。私のこの肉体が存在するうちに、世界中でサティア・サイの御名を崇拝する声が響きわたるのを聞くで
しょう。そう遠い日のことではありません。私があなた方とともに、あなたの目の前にいる間のことです。世
界中の善良なる人々のために定められたヴェーダのダルマの復興は、サイ・サンカルパ(サイの意思)です。
私のシャクティ(威力)とサマルティヤ(能力)を示して人々を惹きつけることだけが私の目的なのではあり
ません。ブラーマ・タトワム(幻想から起こる現象)ではありません。このタトワム(現象)は真理を支え虚
偽を根絶します。そしてその勝利はあらゆる人に幸福の絶頂を授けます。それがサイ・サンカルパです。…(略)
…
ですから私とかかわりあう機会を最大限に活用し、私が与えた指揮には迅速に、力のかぎりをつくしなさい。
私の指揮に従うこと、それで十分です。どんなに厳しい苦行よりもあなたに恩恵を授けるでしょう。私が大切
にするサティア(真理)、ダルマ(正義)、シャンティ(平安)、プレマ(愛)を実践しなさい。つねにこれ
らの理想を目前にすえ、想い、言葉、行いのうえで守り通す決意をしなさい。それが至高の神性実在への融合、
至高善を授けます。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
101p)
◇
あらゆる不満をつくりだす原因は、ヴィシャヤ・ヴァサナ―――五感の求めるものへの執着―――を追い求
めることにあります。ヴァサナ、この種の欲望に終わりはありません。いったん五感の奴隷になれば、それは
死の時まであなたを離しません。癒えることのない渇きです。しかし私はあなたをここに呼び、世俗の願いさ
え叶えます。あなたが神の方をむくようにです。たくさんの、何百万もの人々の間に進み、相談に乗り、導き、
慰め、支え、サティア・ダルマ・シャンティ・プレマにそった道すじを指示する、このようなことをしたアヴ
ァターはこれまでいませんでした。花やフルーツ、その他の贈りものをなぜ私が禁止するのか、不思議に思う
ことでしょう。ギータでは神にまみえるときや、年長者や聖者を訪問するときには、少なくともそれらのもの
をたずさえ、から手で行ってはいけないとされている、そう言うかもしれません。
ここプラシャンティ・ニラヤムでは、パトラム、プシュパム、パーラム、トヤム(葉、花、果物、水)、帰
依者にはこの4つ全部が禁止されています。もちろん、私も捧げものを受けとります。ただし別の4つのもの、
サティア(真理)、ダルマ(正義)、シャンティ(平安)、プレマ(愛)です。これらのもの、もしくはこの
うちひとつでも私に捧げに来たのなら、私はこれ以上になく歓んで受けとりましょう。なにか要求があるのな
ら、その代価を払う準備をしなさい。代価とはものの価値に等しい値段のことであり、高価なベナレス・サリ
ーを1パイサに値切ることはできません。神の何かが欲しいなら神聖な何かを捧げなさい。プレマ、シャンテ
ィ、ダルマ、サティアが神聖なものです。いずれしおれる花、腐る果物、枯れる葉、蒸発する水で何かを得よ
うとしてはいけません。すでに私を知りつくしたかのように書き、話す人々がいます。それらはみなこれから
知られるべきことです。これだけは言えます。たとえ千回生まれ変わったとしても、彼らには私というものを
知りつくすことなど決してできません。私を知るには私のようになりなさい、私の高みにまで昇りなさい。ア
リに海の深さが分かりますか?
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
137
◇
223-225p)
自らを解放しひきあげるには、アヴァターをどう活用したらよいでしょう―――アヴァターの歩み、ふるま
い、行いを見つめ、アヴァターの人生そのものがつくりあげてきた導きの原則に従うことです。神の愛、神の
慈しみ、神の英知に注目し、自らの生活にとりいれる努力をしなさい。人々は本来の姿から外れ、偽り、不正、
歪曲に陥っています。純真で自然なあり方を忘れ、人の心は様々な想い、心配、恐れのがらくた部屋になって
います。それらをほんのわずかにへらすことで、自分にとっても人にとってもはるかに喜ばしい生き方ができ
るのです。自らが神のきらめきのしまわれた宝箱であることを思い出せば、もっと愛情深く、さらに活躍する
ことができます。
神は倫理、愛、真理の復興、そして個だけでなく社会をも支える様々な資質を含むダルマ(正義)の復興の
ために化身します。また帰依者に仕える、邪悪なものを滅ぼす、神の法を再建するといった目的も与えられま
すが、これらのものはみな二次的なものにすぎません。なぜなら正義を貫くものはその正義によって守られる
からです。不正を行う人々は、貫こうとしたその邪悪さにより惨事に陥ります。中心となる私の仕事は、他の
すべてを含むのです。
人々がどんな批評をよせようと、私はこの仕事をやり抜きます。批評がおこるのは当然のなりゆきです。私
はそれらに何の関心もありません。あなた方もそうであるべきです。山が高ければ高いほど谷は深いものです。
賞賛も非難も私にはまったく影響しません。私が進める仕事のゆるがぬ土台はアーナンダ(至福)です。…(略)
…
ハートを神に捧げなさい。神はあなたとともにあり、あなたのハートの中心に宿ることでしょう。リンガの
出現、物質化を大げさにとらえてはいけません。これは私の威力をほんのかすかに示すにすぎず、世界を創造
し大宇宙を支える私の内には、崇拝する以上のものが―――普遍的な愛、ダルマ(美徳)の教え、ヴェーダの
復興、善良なる人々の育成、そしてサダカ(霊性の徒)の祝福―――つまっています。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
34-35p)
◇
これ以上遅れをとってはいけません。このまたとないチャンスを今のうちにしっかりつかみ取りなさい。サ
ーダナ(霊性修行)について私に問い、それを自らの解放に採択し、今日この日から実践しなさい。後になれ
ば私に近づくのも尋ねるのも難しくなります。人々が果てしない行列となって私のもとを訪れ、はるか離れた
ところから私のダルシャン(謁見)にあずかるしかなくなります。この動きは、全世界に日陰を与え安息を授
けるヴィシュワ・ヴリクシャ(世界の大樹)にまで育つことでしょう。まさにそのために、私は姿をまとって
地上に降りたちました。とどまることもためらうことも知りません。私の名はサティア(真理)。私の教えが
真理、私の歩みが真理、私が真理です。
それぞれのユガ(時代)に、神は何らかの特別な使命のためにアヴァターとして化身してきました。私とい
うこの化身は、全世界に広まり全世界をゆるがしている危機にかかわるという点で、これまとは違っています。
「神って何だ?
どこにいるんだ?」愚かにもそう尋ねるほどに、人々の知性は狂わんばかりのうぬぼれに陥
っています。不道徳が道徳をよそおい、人々を泥沼に誘いこんでいます。真理はワナだと糾弾され、正義はあ
ざけりを受け、聖者たちは社会の敵だと迫害されています。だからこそ、私という神の化身は真理を支え、虚
偽を制圧するためにやってきたのです。あなた方と同じようにふるまい、動き、歌い、笑い、旅をします。し
かし私が突如としてふるうこらしめと警告の一撃には十分注意していなさい。悪い行いをする人々にはその誤
りを焼きつくし、善良なる人々にはその正しさゆえに慰めを与えます。正義とはあらゆる人のためのものです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
157p)
◇
人々は私のもとを訪れ、人類が破滅の危機にいる、偽善や憎しみの勢力が世界中をおびやかしている、不安
と恐れが世界の街という街を闊歩している、そう訴えます。それを私に伝える必要はありません。私はまさに
そのためにやってきました。世界が混乱に陥り、人々のハートに嵐が荒れ狂うのを鎮めるため、アヴァターが
降臨します。プラシャンティ(至上の平安、混乱の鎮圧)はすぐに確立されます。神のまっすぐな道から離脱
した邪悪さは正されます。あらゆる社会でダルマが復興し、ふたたび息をふきかえします。
(サティア・サイ・スピークス11
138
207p)
◇
◇
◇
◇
私のヴェーダへの愛に匹敵するものは、人類へのプレマだけです。覚えておきなさい、私の使命、ヴェーダ・
ポシャナとヴィドワト・ポシャナ(ヴェーダとヴェーダの学び手を育成すること)、ダルマ・ラクシャナとバ
ルタ・ラクシャナ(美徳と帰依者の守護)は、今まさにはじまりました。この4つの道すじにそって私の恩恵、
私の威力を広げることで、私は私を万物の中心に確立します。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
271-272p)
◇
人々は何世紀にもわたって苦闘しつづけ、いったい何を得たでしょうか。おなかをすかせては食べ、眠って
は目を覚まし、笑い泣いてきました。しかしそれが人格のため、世界のためにどんな結実を結んだでしょう。
皆無です。人間性というものが目標を失い、意味もなく砂漠にしみこむだけになると、警告を発し道を示すた
め、アヴァターが降臨します。このたったひとつの目的が、様々な方法で達成されます。それがアヴァターの
使命です。
私は私が誰かを証明してからあなた方を正す、そう決意しました。奇跡―――人間の能力、人間の理解力を
超えた行いの数々―――を用いて、私というものの本質をたびたび知らせようとするのはそういうわけです。
私は私の能力を見せびらかすのにためらいはありません。物質があなた方を私のもとにひきよせ、ハートを私
に強く結びつけるからです。
誰もが救済されねばなりません。チャンスが来たと思ったら、この世というワナからのがれなさい。たとえ
あなたが私を見捨てても、私はあなたを見捨てません。私を否定する人々を見捨てる、それは私にはありえな
いことだからです。私はすべての人のために来ました。道から外れた人々は必ず私の元に戻ります。疑いの余
地はありません。必ず私のもとに呼び戻します。今生その肉体で、神のヴィジョンを得たあなた方を私は祝福
します。
私の行いの数々は、私の仕事、私が来た目的を築くための土台にすぎません。あなた方が目にしているあら
ゆる「奇跡」の数々をそう理解しておきなさい。ダムの土台には様々な資材が必要であり、それらがなければ
長く持ちこたえることも、水をせき止めておくこともできません。
神が化身してきたなら、自らの向上のため神を様々に活用しなさい。クリシュナはシッディ=威力を示すた
めでなく、ゴパーラとゴーピー(羊飼いの少年少女)、彼らの大切な牛の群を守護するために、ゴヴァルダー
ナ・ギリを持ちあげました。人々にはなしとげられない何かをする必要があったのです。自分のことを吹聴し
ようなどとはまったく思っていませんでした。低俗な心のもちぬしたちがおおやけの場にひっぱりだし、あら
ぬ妄想をふくらませたのです。これはアヴァターとは何の関係もないことです。アヴァターに宣伝は必要あり
ません。人間以上の存在をおとしめようとする人々が、無知、邪悪なのであり、彼らには霊性について判断を
下す確かな根拠がありません。ダルマの再建、それが私の目的です。あなた方が「奇跡」と呼ぶ様々な現象は、
最終的な目的にむかうまでのたんなる手段にすぎません。
ラーマクリシュナ・パラマハンサは、シッディ(特殊な能力)がサダカ(霊性の徒)の道において障害にな
ると指摘している、そういう人々がいます。その通りです。シッディを得たことで道から外れてしまうことが
あります。それに気をとられることなく、まっすぐに進まなければなりません。見せびらかしたい誘惑に屈す
れば、エゴが増幅します。これは実に適切なアドバイスであり、サダカは必ず気にとめておかねばなりません。
しかし、ラーマクリシュナが助け、導き、警告しようとしたサダカ(霊性の徒)とこの私とを、同一視しよ
うとしている点が間違いです。守り、保護し、歓びを与える目的でゼロから創造する、瞬時にして創造する、
持続する何かを創造する。この能力はアヴァターにとっては実に自然なことなのです。創造、維持、消失――
―この3つは全能者になしとげることのできるものです。他の誰にもできません。皮肉屋は何の知識もなくあ
ら探しをします。彼らにシャストラの数々を読んで私を理解するか、直接実体験をつむしかありません。
あなたの内の怠惰さは、神の本質を見いだすのに必要な霊性修行を妨げます。グルはいいます「カルマ(行
い)を通じて知性をとぎすませなさい」怠惰な弟子は一か所にただ黙って座るだけのディヤーナ(瞑想)を好
みます。しかし数回それを試してみては、何か別の道があるはずだと訴えるのです。怠惰はそれがどんなもの
であれ、人の資質からしめださねばなりません。それが私の使命です。それがマーナヴァをマーダヴァに――
―人を神に―――変えるはじめの一歩です。
139
神のみが永遠不滅、人は一瞬のきらめき、現れては消える小さな波にすぎません。あなたの意識に訴えかけ
る御名を唱えることで、壮大な想い、気高い理想、果てしない輝きで自らを満たしなさい。それがこの時代の
中心的な修行です。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
267-268p)
◇
かつて富めるものも貧しいものもダルマに従っていた頃、インドは平安と繁栄のふるさとでした。しかし今
やこの国は暗闇と混乱に陥っています。だからこそまた別のアヴァターが降臨し、ダルマを教えに来たのです。
ラーマ、クリシュナ、その他のアヴァターはダルマにもとづく生き方の敵となる一人、もしくは多数の人々を
殺さねばなりませんでした。そうして美徳のしきたりが再建されました。しかし今や完全に善良なる人など存
在しません。ならば神が守護する価値のある人などいるでしょうか。誰もが邪悪さに汚れています。アヴァタ
ーがそれを根絶しようとしたら、生き残る人などいるでしょうか。
ですから私は様々な方法で人々のブッディ(知性)を正さなければなりません。忠告し、助け、命じ、友人
のように頼りになり、あらゆる人を励ます。どれも人々が邪悪な資質を捨て去り、正しい道を見いだし、その
道を歩み、ゴールに到達するようにです。私は人々に行動規範を定めるヴェーダやシャストラ、霊性の経典を
示さねばなりません。
セルフを認識するもっともやさしい道すじは、エゴを屈服させること、シャラナガティです。アルジュナは
それをなしとげたがために、戦い自体がヤジナ、霊性修行に変えられたのです。ダクシャもヤジナを行いまし
た。しかし彼は屈服していませんでした。エゴに満ち、神を軽んじたのです。彼のヤジナは憎しみにまみれた
戦いに変わってしまいました。ちっぽけなエゴで神に戦いを挑んではいけません。神の意思にゆだねなさい。
永続する至福を手にすることでしょう。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
224-225p)
◇
今日、人々の生き方はただ無駄についやされ、汚れに汚れ、ねじまがり、崩壊し、病、苦痛、落胆に満ちて
います。それを気高いものにし、人類の伝統にあたいするものにするため、私はこうして顕れました。あなた
方に正しいセヴァ(奉仕)を教えることに情熱を注いでいます。なぜなら、愛はセヴァで表現され、セヴァに
より高められ、セヴァという子宮から誕生するからです。そして神が愛です。アヴァター(神の化身)は子ど
もには子どもの姿で、少年には少年、男性には男性、女性には女性の姿をとります。アヴァターのメッセージ
が各々のハートに届き、それに熱意で返せるようにするためです。アヴァターに行いをさせるもの、それは神
の慈しみです。
鳥、動物、草木は本来の姿から外れていません。今なおそれを保っています。人間だけが未熟な考えで向上
しようと試み、かえって自らをそこねてきました。そこでアヴァターが人々とまじわるために顕れ、友として、
支持者、肉親、ガイド、師、癒し手、参与者として活動しているのです。アヴァターはダルマ(正義、美徳)
の再建のために降臨しました。ですから人々がダルマに従えば、神は喜び満ちたります。あなたの人としての
一生がおとしめられ、汚されることのないようふるまいなさい。胸に手をおき宣言しなさい「私は人、私は人
間、私は輝くばかりの人間性、人間らしさに満ちている」神はあなたに近づきも遠ざかりもしません。あなた
が神に近づいたり離れたりしているのです。神には好意も嫌悪もありません。真のあなたがあなたに望む最高
の生き方に従うことで、あなたが神に近づくのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
136-137p)
◇
ダルマ=正義が衰退し、不正が興隆するとき、私は私を創りだします。大宇宙の霊性構造を守護するのが私
の根本的な意思=サンカルパの一部だからです。私は私の無形の相を脇におき、顕れる目的にそくした名と姿
をとります。邪悪なものが善良なるものをうち負かそうとするたびに、私は降臨し衰退から救済してきました。
神はすべての人にひとつの道に従い、ひとつの戒律を受け入れるよう求めはしません。神の邸宅に入る扉はた
くさんあります。それでも、一番大きな入り口はモハ・クシャヤ(執着の克服)です。
140
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
65p)
◇
スワミは御講話をはじめるときの歌を終えると、バガヴァッド・ギータの2行を歌いあげ、人々の心を踊ら
せました。それはこう宣言するものです。「*ダルマが衰退したとき、私はそれを再建し、衰退を招いた勢力を
鎮圧するために姿をとる」「**私は善良なる人々を守り、邪悪な人々を罰し、ダルマを再建するために、これ
までいく度にもわたり誕生してきた」自らがあらゆるアヴァターの源であることをこのように示されると、ス
ワミは御講話をはじめられました。(*Yada Yada hi dharmsaya granir bhavati, Bharat Adyuththanam adharmasya
tadh atmanam srujamyaham)(**Parithranaya sadhunam, vinasayacha dhushkrutam, Dharma samsthapanarthaya sam
bhavami yuge yuge)
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
223p)
◇
私を最大限に活用しなさい。それがあなたに望むことです。私にはあなたと離れていると感じる一瞬さえあ
りません。私のもとを訪れ、私を知り、私から恩恵をひきだすことのできるよう、あらゆる人々をひきよせま
す。深みに飛びこみ知りなさい。見て確かめなさい。食べてその味を知りなさい。私はそうする人々を心から
待ち望んでいるのです。
(サティア・サイ・スピークス6
108p)
3.アートマ(普遍の至高の魂)、プレマ(神の愛の化身)、アーナンダ(至福の体現)
ゆるぎない愛に満ちたアートマとして、あなたのハートにサイババがいることを信じなさい。寄付を集めよ
うとして、マンディール(会場)の所有者だとか、もっとマンディールが必要だとか言うような、低次元で私
欲に満ちた人たちの野心に協力してはいけません。私に必要なのはたったひとつの寺院、あなたのハートとい
う寺院です。誰に言われようと、自分たちにはその権限が与えられていると言われようと―――たとえ私に言
われているような気分がしたとしても、1パイサも渡してはいけません。サイが宿ることのできるよう、心を
純粋に保ちなさい。それで十分です。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
171-172p)
◇
私はあなた方のハートに愛のランプをともしに来ました。そして日ごと輝きを増すのを見にきました。ヒン
ドゥー教のダルマというような、何か特別なダルマ(正義)のことを話しにきたのではありません。特定の宗
派、教条、主義を広めるために来たのでも、あらゆる教義にもとづく信者を集めにきたのでもありません。私
の集団やその他の集団に、門徒や帰依者をひきよせる意図もありません。普遍にして唯一なる者を信じること、
アートマ原理、愛の道、プレマのダルマ、愛の責務、愛にかかわる努めについて話しにきました。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
118p)
◇
ゴールはあなたが近づくスピードよりも速くあなたにむかって近づいています。救われたいと願うあなたの
熱望よりも強く、神はあなたを救いたいと願っています。私はプレマです。神はもがきながら道を進む人々す
べてにとってのカルナ(愛情深く慈悲深いもの)です。神は*バクタ・アビースタ・プラーダ(帰依者の望みを
授ける者)と呼ばれます。あなた方は私が髪を指に巻きつけ、顔にひきよせると笑います―――それが何だか
お話ししましょう。帰依者たちが私のハートをとらえたときのアーナンダ、私の感じるアーナンダがある限界
を超えたときのサインなのです。(*bhakta-abheesta-pradha)
(サティア・サイ・スピークス6
141
114p)
◇
◇
◇
◇
神を父親、母親とみなしなさい。しかしそれはより関係をすすめ、絶対者と溶けあうまでのほんの最初のス
テップにすぎません。そこで立ち止まってはいけません。その先にみえる神の邸宅に入りなさい。アートマ・
サムバンダ(神の魂との結びつき)こそ、永遠不変のサムバンダ(結託)です。最初はサグナ(属性のある有
形のもの)を崇拝するのに花や炎、お香を使います。じきにあなたのバクティ(帰依心)は、新たな献身の形、
新たな捧げもの、より純粋で価値があり、より神にふさわしいものへと移行していくでしょう。誰も永久に以
前のままではいられません。私の御前にたんなる花よりもっと長もちするもの、お香よりも自分自身の何かを
そなえたいと思うでしょう。自らを浄化し、あなたの人生そのものを香り高い炎にしなさい。それが真の献身
です。真のバクティです。両手にがらくたをいっぱい抱えて私のところに来るのはやめなさい。すでにいっぱ
いになっていたら、どうやってあなたを恩寵で満たすことができるでしょう。空(から)の両手でここに来て、
神の財宝、私のプレマを持っていきなさい。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
122-123p)
◇
神を頼り、与えられたものすべてを受け入れなさい。何をいつ与えればよいかは神が一番よく知っています。
神はプレマ(愛)に満ちています。私を示す唯一のもの、それがプレマです。プレマは私が運ぶ特別な贈りも
のです。プレマを使って私の恩寵を流します。私の行いの数々の土台です。神は万物に宿るといわれます。そ
うです、プレマとして宿ります。プレマを欠いた世界は悲劇のるつぼです。プレマは魚にとって水のようなも
の、宝石をつめこんだ金のうつわに魚を入れても、水の中に戻ろうともがき苦しむだけです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
62p)
◇
髪はパラマ・プレマ(至高の神の愛)の化身、その神のプレマ(神聖なる愛)を育みなさい。疑い、ためら
いに余地を与え、神の愛を試すのはやめなさい。「私の問題は解決しない、一体なぜだろう。どうしてスワミ
は私に話しかけてくれないのだろう。ここにいてはいけないのだろうか。どうして私を呼んでくれないのだろ
う」あなたはそう泣きごとを言います。私があなたのことを気にかけていないとか、あなたを知らないと思う
のはやめなさい。あなたに話しかけなかったとしても、それがプレマのないせいだと思ってはいけません。事
実、ここからあちらに移るのに、ベランダづたいに歩くのは、あなた方にダルシャンの機会を与えるためです。
何をするのもあなたのため、私のためではありません。私のものと呼べるもの、それはあなた方だけなのです。
心をぐらつかせてはいけません。信仰心が弱まるのを見すごしてはいけません。これまでの苦しみにさらに
嘆きを加えるだけです。しっかり握りしめていること―――あなたが誓いをたてるべきことです。あなたのイ
シュタ・デヴァタ(選んだ神)が誰であれ―――ヴィシュヌ、ラーマ、シヴァ、ヴェンカーテシュワラ―――
しっかりと握りしめていなさい。神との結びつき、神との交流を失ってはいけません。炭がふたたび燃えだす
には、火のついたもえさしに触れさせなければなりません。私との親密さをハートに育みなさい、むくいが授
けられるでしょう。至上のプレマのかけらを手にすることができるのです。今が絶大なるチャンスです。この
チャンスはもう二度とあなたのもとにやってこないことを知っておきなさい。このチャンスをつかみ取り、嘆
きの海を渡ることがなかったら、今度はいつこんなチャンスにめぐり会えるというのですか。あなた方は実に
数少ない幸運な人々です。特に誰に招待されたわけでもなく、何千万、何百万という人々の中からここにやっ
てきています。私はそれが運命の力を示すものだというのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
182-183p)
◇
愛の化身になる努力をしなさい。あなたの能力、技術のすべてを万物の神に差し出す準備を整えなさい。あ
なたがジャパ(神の御名の念唱)、タパ(苦行)、ヤッギャ(儀式や供儀)を行うとき、それに報いるのは神
の愛です。神の愛を神から授かる以上のすばらしい功績があるでしょうか。
142
しかしこの愛の本質、重要性を十分理解しておかねばなりません。あなたは今、あなたの認識できるレベル
で愛の原理を体験し、得ています。そこに誤りがあります。あまりにも表面的な解釈をしているにすぎないの
です。愛の原理にエゴや汚れはみじんもありません。愚かな執着というものからは完全に自由です。サイが何
をしようと、何を思おうと、何を言おうと、何を見ようと、すべてはあなたのためであり、サイのためではあ
りません。私にあるたったひとつの欲望は、あなたの歓び、あなたのアーナンダです。あなたのアーナンダが
私のアーナンダ、私にはあなたと別のアーナンダなどみじんもありません。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
311-312p)
◇
私にはどの御姿を崇拝するバクタにも違いはありません。誰もが私に近づけます。熱と光を切望する人なら
誰でもです。私の輝きから発する熱が五感の快楽への飢えを破壊し、積年の暗闇に光をふりまきます。生きと
し生けるものへのプレマ(愛)を育てなさい。それが私に近づくための道すじです。どれほど愛に広がりがあ
るかで私との距離が決まります。
もう一点、あなた方は私にあなた方の家々を訪問するよう求めます。祈ります。そして私が来ないと嘆きま
す。自分が誰よりも貧しいせいだ、ちっとも霊的に進歩しないせいだ、と自分をさげすみはじめるのです。ま
ったくまとはずれなことです。たとえあなたが信じようと信じまいと、私のハートにはそのような区別も差別
もありません。しかし私のハートの想いをはっきり示しておくべきでしょう。私には人々の家を訪ねたいとい
う気持ちもなければ、訪ねたくないとも思いません。あなたの住まいが煉瓦づくりの家であろうと、モルタル
づくりの家であろうと、私はまったくかまいません。私はあなたのハートを訪れ、そこに住みたいのです。私
は今、ここプラシャンティ・ニラヤムに住んでいますが、あなたのハートがプラシャンティ・ニラヤム(深い
平安の住みか)になれば、そこが私の邸宅です。
私にあなたの街を訪問してほしいと思うとき、私はどんな設備が整っているだろうと考えます―――私のた
めではありません、私には立つ場所があれば十分です―――何千、何万、何十万という人々が私のダルシャン
(謁見)を求めて集まるからです。おおぜいの人の中には女性、子ども、老人、盲目の人、体の弱い人もいま
す。どうして彼らに不自由な思いをさせることができましょう。助言を求め、慰めを得、勇気を授かり、癒さ
れようとして来るというのに。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
156-157p)
◇
私はあなたのハートのざわめきも、熱い想いも知っています。しかしあなたは私のハートを知りません。私
はあなたの耐える苦しみ、あなたの感じる歓びに感応します。あなた方のハートにいるからです。ハートとい
う寺院にいるからです。もっと私のことを知りなさい。モールス信号の受信者は、それについて知らなければ
打たれた電報を解読することはできません。あなたが与えるプレマ(愛)は、私があなたに与えるアーナンダ
(至福)と同じ信号のものなのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
117-118p)
◇
私はこの演壇に一人、あなた方は何千人もいます。膨大な数にのぼるあなた方は、自分の家庭や街から何を
持ってきたのでしょう。私にたいするあなた方の愛、あなた方にたいする私の愛です。誰かに強要されたり影
響されて来たのでも、物質的な利益を得るためにここにいるのでもありません。私が私の愛からあなた方に言
ったことをよく考え、心を磨きあげなさい。これまでしてきた間違いや誤った思いこみを改め、神の計画にそ
って新しい生き方をする決意を固めなさい。完全なる神の化身として立ちあがることのできるように。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
228p)
◇
多様性が偽りであること、真理はひとつであると理解しようと励むこと。愛という言葉はそれを示す言葉で
143
す。愛とは一体感、憎しみとは分離間です。愛とは自分を相手におきかえ、二人がひとつになり、想い、話し、
ふるまうことです。人々の間に愛が育てば育つほど、より多くのことがひとつであるとみなされます。私を愛
することはすべてを愛することです。私が万物に宿ると感じ、知り、体験していくからです。瞑想することに
より、私があらゆるハートに住まう者、渇き、原動力、導き、ゴールであると知るでしょう。そのヴィジョン、
その意識を手に入れたいと切望し、その切望をあなたの貴重な財産にしなさい。そうしてあなた方が私にたび
たび求めるもの―――覚醒―――が得られるでしょう。私に溶けこむには、あなたの愛を私の愛と同じように、
純粋で壮大、エゴのかけらもないものにしなければなりません。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
473-474p)
◇
愛に勝るものはありません。あなた方はこの愛にひきよせられて来ました。愛を与え愛を受けとること、そ
れが私の「ビジネス」です。徴税局の役人にも、この「ビジネス」の「収入」がどれほどのものになるかを知
ることはできません。私のアーナンダ(神聖なる至福)にかぎりはありません。私はつねに至福に浸っていま
す。私の至福が物質的なものでなく、愛と結びついているのはそのためです。この道を歩めば、あなたもいう
にいわれぬアーナンダをひきだすことができるのです。あらゆる平安というものを知るでしょう。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
49p)
◇
私はアーナンダスワルーパ(至福の化身)、私の本質がアーナンダ、アーナンダが私のしるしです。バガヴ
ァータ、ラーマーヤナ、バガヴァッド・ギータ、マハーバーラタに定められた修練法の数々アジュナは、何世
紀にもわたって読まれ学ばれてきましたが、心にとめられていません。今やニラーカーラ(無形、無属性の原
理)が人の姿でやってきました。あなた自身の解放のため、与えられた指示を守る努力しなさい。差し出され
た恩寵という甘露を投げすててしまってはいけません。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
184p)
◇
あなたをこの地に結びつけているプレマについて説明しましょう。あなた方の私にたいするプレマと、私の
ヴァトサリヤ(母親の子にたいする愛)、この2つが結びつけているものです。私には、ここプラシャンティ・
ニラヤムにあなたをとどめておこうという欲望はありません。あなたには、あなたの仕事に頼る人や共同体へ
の責務と義務があることを知っているからです。彼らもまた私のものです。私が時間、空間、因果の制約を受
けず遍在であるという経験を、あなたに与えたいからでもあります。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
195p)
◇
私はつねにアーナンダ・スワルーパ(神聖なる至福の化身)、不満に陥ることはありません。人々が私にむ
ける賞賛にも中傷にも、決して心を乱されません。嘲笑されても崇拝されても、私のアーナンダには変わりが
ありません。
プレマこそ私を示すしるしです。物質化や健康や幸福が示すものではありません。それらはたんに神の意思
を行使したにすぎません。あなた方は、あなた方のいう「奇跡」が私を示すサインであると考えるかもしれま
せんが、あなた方みなを歓迎し、祝福し、道を求める人々、苦悶にあえぐ人々、悲嘆にくれる人々がいれば、
どんな遠い国にいようとどこにいようとすぐさまかけつける、そのプレマが私であることのしるしです。私が
サイババであると宣言するものです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
144
◇
169-170p)
スワミの意義、重要性を理解し説明することなど誰にも不可能です。あなたの到達した段階から、私という
化身に近づきうる手段はありません。私はあらゆる人の理解を超えた神の化身、神の顕現です。私のことを説
明しようとしても、それは文字を知らない人が学術的な書物を読もうとするようなもの、せまい水路に海をま
るごとそそぎこもうとするようなものです。あなた方にできることといえば、私が与えるアーナンダ、私が授
ける至福を受けとる準備を整えておくことくらいです。
あなたの内にもサイ原理はありますが、流れる電圧の量が違います。かたや0ワットの電球、かたや莫大な
光を与える膨大なワット数の電流、といったところです。両方に流れるのはまぎれもない同じ電気であっても、
「微少のもの」にとって「至高のもの」は理解しがたいことでしょう。
クリシュナは低次の力を崇拝することに異議を唱えました。デーヴァを崇めるものはデーヴァに、人を崇め
るものは人に、低次のものを崇めるものは低次のものに到達する、しかし「私」を崇めるものは「私」に到達
する、そう言いました。こうも言っています。「*マンマナ
バーバ、マドヴァクト、マディヤジ、マム
ナマ
スクル=心を私で満たしなさい、私に献身しなさい、救いを求めて私に帰依しなさい、すべてを私に差し出し
なさい」低次の欲求を抱いたり、低次のものしかもたらさぬ低次の神格を求めるのはやめなさい。至上の叡知、
至上の幸福、アートマを熱望しなさい。至福におよばぬものを求めてはいけません。至高の授け主に祈りを捧
げなさい。(*Manmana Bhava, Madbhakto, madyaji, Mam mnamaskuru)
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
170-171p)
◇
プッタパルティのサイババが与えるものを、数えあげたり計算するのはやめなさい。私はあなたの気をひく
ために与えるのではありません。あなたをアーナンダで満たすために与えるのです。アーナンダをふりそそぐ、
それが私の仕事です。私をほめたたえてほしいとは思いません。あなたが私に頼ることで私は満たされるので
す。神秘的でこのうえなくしばらしい超越的威力の主が、あなたの手の届くところにやってきました。私の仕
事が実を結ばぬことなど決してありません。
涙をもたらし涙をぬぐう、ある人がこう歌いました。そうです、私はあなたのその目に歓びという涙をもた
らし、嘆きの涙をぬぐいます。狂喜にいたらせ狂喜を癒す、そういわれることもあります。そうです、私は神
に狂わせ必要なサーダナに狂わせます。はかない快楽を躍起になって追い求め、喜び悲しみに卒倒する人々の
狂喜を癒すのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
188p)
◇
まず自分を理解することなくして、私のことも私の神秘も知ることなどできない、そう申しあげておきまし
ょう。自らの実在というものも理解できぬ弱々しさで、はるかに壮大なる私という神の化身の実在をどうして
おしはかることなどできましょう。私というものを理解するには、今あなたの内にある疑念や理屈というもの
を徹底的に論破しつくし、プレマを養いなさい。プレマの化身はプレマを通じて理解することがしかできない
からです。科学の分野が証明できない「奇跡」や「神秘」というものは、私にとって実に自然な現象にすぎず、
あなた方がそれらを神秘と呼ぶときにはほほえましいと感じるほどです。かつて主はこう宣言しました。神は
ダルマ(正義)を再建するために降臨し、あらゆる人々が近くで集い、その交流、会話に胸踊らすことのでき
るよう、人の姿をとるだろう。その神が、言葉の通り降りたちました。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
154p)
◇
あなた方はスワミの本質に気づいているのでしょうか。誰かがスワミのもとに来て、耐えがたい胃の痛みに
苦しんでいると言っても、スワミは「アーナンダ、アーナンダ(幸せ、幸せ)」そう言います。夫を失った女
性が来て泣いて嘆いても「チャラ
サントーシャ(とても幸せ)」そう言います。スワミはつねに至福にいま
す。幸福であること、それが神の本質だからです。
何かを嘆くことにどんな意味があるというのでしょう。あらゆるものは過ぎゆく雲です。永続するものなど
ありません。それなのになぜ失ったといっては嘆くのですか?
145
悩まされてはいけません。それがアヴァター
の教えです。起こりうることが起こった、それを悲しむことはないのです。喜びというもののいくつかは後に
必ず苦痛を伴います。喜びとは苦痛と苦痛の間の休息にすぎません。この教えにもとづき生きなさい。
神の至福と一時的な快楽との間には大きな違いがあります。一般的に幸せといわれているものは、状況に付
随するものであり、永続するものではありません。おなかがすいて食堂に行き、食べものを食べれば幸せにな
ります。しかし長くは続きません。永続する幸せとは、神への献身を通じてのみ与えられるものです。アヴァ
ターたちは人類に神の至福を授けるために降臨します。
日常で出会うとるにたらない困難の数々は、プレマによって乗りこえることができます。いったん愛を養え
ば、どんな困難をものりこえられるのです。神の至福を求めて力をつくしなさい。しかし神があなたと違うも
のだと思っていてはいけません。神はあなたの内におわします。神のいるところに勝利ありです。それが*ギー
タの最終連の意味するところです。そこにこめられた深遠なる意味とは次のことです「ヨガの主の宿るハート、
アルジュナのような勇気と力をおさめたハートには、あらゆる成功と繁栄が約束される」(*Yathra Yogeswara
Krishno yathra Partho Danurdhara Tatra Sri Vijayo Bhurthi-Dhruva-nitir-mathr mama)
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1990年
9月号
231p)
◇
今朝この街について以来、あなた方の献身と熱意を見てきました。街中を通るときにも情熱的なバクティ(献
身)を目にしました。今も私がここに座り、こうしてダルシャン(謁見)を授ける、それだけのことがあなた
方に喜びを与えているのが分かります。私にはあなたの沈黙の祈りが聞こえ、あなたは私のプレマ(愛)を感
じています。それで十分です。それがアーナンダムを与えるのです。誕生し、成長し、生き、消失する、すべ
てはアーナンダム(至福)の内にあります。それを知る人はほとんどいませんが、それが真理です。ですから
私はあなた方をアーナンダ・スワルーパ(至福の化身)と呼ぶことで、そのことを思い出させようとするので
す。あなたのスワルーパ(そのままの姿)がアーナンダム(至福)です。たとえそれがこれまでどんなに見過
ごされてきていても。
(サティア・サイ・スピークス2
4.サティア・サイ・ババ
9p)
アヴァターの特徴
私の肉体の名はサティア(真理)です。肉体に宿る原理もまた真理です。真理にこめられた真理、それがサ
ティアーシャ・サティア(真理の中の真理)と呼ばれてきました。人類を虚偽から真理へと導くため、こうし
てこの肉体をとりました。
私はあなた方が食べるように食べ、動くように動き、あなた方の言葉で話し、あなた方が認め理解できるよ
うにふるまいます―――すべては私のためでなく、あなた方のためです!
私はあなた方から信頼、愛、帰依
心を勝ちとることであなた方を神にむけます。そのためにあなた方のひとりとして、見て、聞いて、話しかけ、
触れ、崇拝し、献身することのできるひとりとして、あなた方の中に身をおいています。私の計画とは、あな
た方を真理の探究者(サティア・アンヴェクシャ)に変えることです。
私はいつでも、どこにでも存在します。私の意思はどんな障害をも超え、あまねくいきわたります。私は過
去・現在・未来を知り、あなたの心の奥の想い、細心の注意で守られた秘密の数々を知っています。私はサル
ヴァンタリヤミ(遍在)、サルヴァシャクティ(全能)、サルヴァジュナーナ(全知)です。それでも私はそ
の力を気まぐれに用いたり、見せびらかすためだけに使いはしません。私がしたこと、しなかったことのひと
つひとつが模範であり啓示だからです。私の人生そのものが、私のメッセージを説明するものです。
たとえば、私が決して女性を一人きりではインタビューに呼ばないことに気づいていることでしょう。女性
は10人から15人のグループでしか呼びません。そこに気をとめ、異性への接し方にはきわめて注意深くあ
らねばならないということを、学びとってほしいのです。私はグナを超越していますが、この肉体は明らかに
男性のものです。男性にも女性にも、社会的にどうふるまわねばならないのかを示すと同時に、ほんのわずか
な疑惑、噂をもよせつけたくありません。
また私は一日24時間びっしり活動しています。毎日何千通もの手紙が届き、また何百通もの手紙があなた
方から直接手渡されます。それでも、手紙を開封することでさえ人の助けを借りません。あなた方が個人的な
問題をこと細かに書き、それを読むのは私ひとりだけだ信じ、そこに全面的な信頼をよせているのを知ってい
146
るからです。ひとりひとりが一通の手紙を書くだけで、一日につき莫大な手紙の束ができます。すべてに目を
通さねばなりません。どうしたらそんなことができるのかと尋ねたくなるかもしれません。そう、私は一瞬た
りとも無駄にはしていないからです。
私は私の個人的な利益のためでなく、あなた方のためにここに来たからこそ、それらすべてをなしとげてい
ます。誰にも助けを求めることはありません。私は助けを差し出します。決して受けとることはありません。
これこそが、人としての力でなく、神性というものであることを心に刻みつけなさい。
あなた方の中には疑問に思う人もいるでしょう。「スワミはお祭りだとか行事だとかをどうとりしきってい
るのだろう、この雑多な仕事を誰にふりわけているのだろう」私はあの人、この人に仕事を割り当てることも
なければ、アイデアを出したり提案を持ちかけることもありません。すべてはみな愛という力を通じて働く神
の意思でなされています。たとえば、ここには何千人もの人が集まりながら、完全なる静寂が守られています。
何がそうさせているのでしょうか。たったひとつ、愛だけです。ここでは神が主であり、創造が喜びの踊りを
踊っています。それ以外の第三者はありません。プルシャ(神)とプラクリティ(創造物)があるだけです。
目の端で一瞥するだけで、ものごとを首尾よく進めるのに十分です。愛が動かし、愛がなしとげているのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
184-186p)
◇
サイはいつでも歓喜に満ちています。心配、嘆き、不安は、たとえ何百マイルのかなたでさえ近よることが
できません。信じようと信じまいと、サイは不安のかけらも感じません。サイは万物の形成と変遷、時間と空
間、そこで起こるできごとすべてを分かっているからです。それを分からぬ人々、状況から様々な影響を受け
る人々が悲しみに動かされるものであり、時間と空間のらせんにとらえられた人々が嘆きの犠牲になるのです。
サイは時間、空間が条件づけるできごとに従事していても、つねに時空を超えた原理に立脚しています。サイ
が時間、空間、状況に左右されることはありません。
サイの意思、サイ・サンカルパが唯一無二であることを知りなさい。私のサンカルパがヴァジラ・サンカル
パ―――あらがうことのできぬ意思―――であると知りなさい。根拠もなく重要なことでもないと思っている
かもしれませんが、いったん私が意思すれば、他の何がどう変わろうと決して変わることはありえません。
(サティア・サイ・スピークス15
143p)
申し上げましょう。サティア・サイの主要な特徴とは、平静さ、忍耐(サハナ)です。批判や中傷にふける
人々がおおぜいいます。出版物には様々なことが書かれます。たくさんの冊子が印刷されます。世の中ではあ
りとあらゆることが起こっています。それらにたいし私はつねに微笑みで返します。批判や悪意ある中傷は、
善なるもの、偉大なるものには必ずついてまわるものです。果実を結んだ木だけが貪欲な人々から石を投じら
れます。実のない木には誰も石を投げません。
中にはサティア・サイ・オーガニゼーションや、サティア・サイ教育機関がどんどん大きくなり、目を見張
るような成長をとげていくのを見て、ただただ嫉妬に狂う人々がおり、彼らは嘘をでっちあげ、不安をあおろ
うとします。
愛の体現者の皆さん!
全世界が結託して私に対抗しようとも、決して私に影響を与えることはできません。
私の使命はまぎれもなく私のものです。私は善を遂行します。私のハートはつねに至福に満ちています。私に
エゴはありません。私は何も所有しません。それが私の真理です。その真理、私の真理というものに誓いをた
てるなら、ためらうことなく自らを捧げなさい。疑念や欠陥のある人々は懐疑や恐れを抱きます。疑念も欠陥
もなければそんな反応はしないものです。それを知る私はつねにアーナンダ、アーナンダ、アーナンダ(至福)
の内にいるのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
179-180p)
◇
私には宣伝行為も神を証明するその他の活動もいりません。何を公言しようというのですか?
っているというのですか?
私の何を知
私はあなた方にそう尋ねましょう。今日は私についてあることを言い、明日には
また違うことを言うのです。あなた方の信仰はいまだ確立されていません!
ものごとがうまくいくと私をた
たえ、うまくいかなければ非難します。あちらへ逃げこちらへ逃げしているのです。
147
そして自分のバクティ(帰依心)が熟すより先に、他の人を集めようと夢中になり、寄付金や署名を集め、
マンディール(会場)やサンガム(集会)の計画をたてています。それらはすべてたんなる見せ物にすぎず、
霊性のために何かになるというよりは、むしろ霊性をそこねています。広報活動をはじめれば、顧客集めを競
い合い、他人をおとしめ、自画自賛する人のレベルにまで落ちこみます。
お金が数えられ、ためこまれ、それを誰かの功績だと示すために見せびらかす、そんなところに私は存在し
ないでしょう。私が行くのは誠実さ、信仰心、帰依心が評価されるところだけです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
210p)
◇
私はあなた方を変えるためにここに来ました。それがなしとげられるまで、私はあなたを離しません。たと
えあなたがそれより先に逃げだしたとしても、私から逃げられるなどとは思わぬことです。私はあなたがここ
から立ち去ろうと気にしません。ここに、私のまわりに、おおぜいの人々を集めておかねばならないなどと心
配してはいないからです。誰かがあなたをここに招待したのですか?
そんな通知はひとつも印刷されていま
せん。それでもあなたは何千の人にまじってここに来ました。あなたが私に執着しているのです。私の執着で
はありません。私は私がここに来た理由、神の使命にのみ固執します。
しかしひとつ覚えておきなさい。あなたがここに来ようと来まいと、あなた方はみな私のものです。このシ
ヴァ・マータ、サイ・マータ(万物の母)には、子どもたちにたいし母親千人分の愛があります。だからこそ、
私はこんなにもあなた方を愛おしみ(ララナ)守る(パラナ)のです。覚えておきなさい、私が怒っているよ
うに見えたとき、それはいつでも愛のもうひとつの形であることを。私には怒りのかけらもありません。あな
たが私の指示にそって進まなかった、その落胆を表に出しているだけです。私が一連のふるまいであなたに指
示を出したときには、その忠告についてよく考えなさい。そうするかどうかは完全にあなたの自由です。あな
たがそうすることが私の幸せですが、奴隷のように服従させようとは思いません。もしもゴールにたどりつく
助けになると思ったなら、従いなさい。そうでないと思うなら、どこかよそをあたりなさい。しかしこれだけ
は言っておきます。あなたがどこへ行こうと、あなたが出会うのは私です。私はあらゆるところにいるのです
から。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
24-25p)
◇
すでにあなたに身近な方法に従い、あなたの選んだ神を崇拝しつづけなさい。私により近く、より近づいて
いると知るでしょう。あらゆる御名が私であり、あらゆる御姿が私だからです。私を見て私のことを聞いたか
らといって、何も変える必要はありません。それが私の言いたいことです。アヴァターとその意義について、
シャストラの述べることでもあるからです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
122p)
◇
神が人の姿をとり、あなたの前に、後ろに、横にいて、あなたとともに働き、あなたが愛を育むにまかせる
とき、あなたはまだ神を理解していません。肉体をまとって化身した神を理解するのはたやすいことではあり
ません。神はこう言います。「私は血肉にあらず、心という欲望の束にあらず、創造という幻想の塊にあらず、
私はパラマートマ(至高の魂)、はじまりにして終わりである」
私はあなたの内の切望であり、切望の結実、あなた自身の結実として求められる知性です。「スワミの一言
はあらゆる富を授けたもう。スワミの一瞥はあらゆる願いを叶えたもう。それはパライジャータ(願いを叶え
る花咲く木)の神のきらめき。サイの両手は母の与えるハイ(甘い慰め)を与えたもう。それはひとりの母、
いいえ、千人分の母のプレマ(愛)!
サティア・サイはそれほどまでのプレマ・ダーイー(愛の授け主)」
神が人と戯れともに歌い、人と交わりともに食べるとき、たんなる人にすぎずそれ以上のものではないとの
誤りに陥ってはいけません。いつも真理は忘れ去られてしまうものです。
愛の体現者の皆さん!
一般的な人の誕生とアヴァター(神の化身)の降臨との違いははっきりさせておか
ねばなりません。ふつう、誕生はカルマ(行いと想いの蓄積)によってもたらされます。人の肉体で生まれる
148
ことは、立派なカルマ(過去の行い)によってつまれた功徳にたいする報酬です。神の降臨をもたらすものは
何でしょう。それもまた先立つカルマによるものだ、そういうかもしれません。さてどうでしょう。あなた方
の場合、これまでしてきた善い行い、悪い行いが人生を授け、あなたはそれを手にしています。なぜならそれ
がこの世という舞台において、大宇宙のダルマの中であなたに割り当てられた配役だからです。そしてその配
役が演じられるべき劇の一部をなします。
しかし神はカルマに縛られることも、影響されることもありません。神は何らかのカルマの結果としてでな
く、善いカルマに報い、悪いカルマを罰するための役を引き受けます。ヒラニヤカシプの邪悪な行い、プラフ
ラーダの善良なる行いの結果として、神はナラシンハとして化身しました。アヴァターのまとう肉体は、個人
の過去生の行いによって形どられるカルマ・デーハではない、それが真理です。アヴァターとしての神は、意
図したとおりの姿をとり、またそれを変えることができます。思い通りに、思ったままに、その肉体を保つこ
とも捨てることもできるのです。そこに他の力、他の人間が影響を与えることは決してできません。すべては
神の望むまま、神の決意のままに起こります。アヴァターをその肉体であると思うのは正しくありません。グ
ルには義務として、人々にこのパラマートマとアートマについての偉大な真理、神の栄華と慈しみについての
偉大な真理を教え授ける努めがあります。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
88-89p)
◇
神がアヴァターとして肉体をかりて動きまわるのを見るかぎり、たんなる人間に思えます。しかしそこには
決定的な違いがあります。アヴァターは何ものにも影響されません。ウペクシャ(結果と無関係)なのです。
肉体をもったふつうの人間にはアペクシャ(結果への切望)があります。ママトワ(所有の原理)が人間、ブ
ラフマタトワ(ブラーフマン原理)が神です。それを読み、聞いたところで、その違いを知ることはできない
でしょう。体験することによってのみ理解されうるものです。アヴァターには何の欲望もありません。エゴも
ありません。ただただブラフマタトワの内にいます。…(略)…
アヴァターは他の誰とも同じように、肉体、五感、心などをそなえています。しかしその想い、気持ち、感
情には絶大なる違いがあることを考えてごらんなさい。アヴァターはすべてであり、すべてにいきわたるプー
ルナ(完全なる者)です。人は偏り、狭量で否定的です。しかしその核心には神が存在し、至福を体現するこ
とができるのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
255p)
◇
私は賞賛されたからといって、勝ち誇ることもなければ、ののしられてひるむこともありません。私の意図、
意義を理解する人がほとんどいなくても気にしません。私のものでないものを私のせいにされたからといって、
どうして気にする必要があるでしょう。「*サイーキ
サルヴァヌ、イエス、イエス、イエス=サイにすればす
べてがそう、そうその通り」あなたが「そうです、あなたが神です」と言えば私はあなたにとって神になり、
「いや違う」と言えばそうではなくなります。
私はアーナンダ(至福)、シャンタム(平安)、ダイリヤム(勇気)です。私をアートマタトワム(アート
マの真理)としてたずさえなさい。もうあやまちを犯すことはありません。(*Sayeeki Sarvanu yes, yes, yes)
(サティア・サイ・スピークス5
◇
神は言いました。「*マダ
バクタ
◇
ヤトラ
◇
ガヤンテ
128-129p)
◇
タトラ
ティシュタミ
ナーラダ=帰依者が私の賛
歌を歌うとき、私はそこに身をおこう、ナーラダよ」あなた方は前の世代の人々よりも幸運であると言ってお
かねばなりません。これまでの転生で積みあげられた功徳が、あなたにこの幸運を授けたのです。私を得た今、
純然たる幸運によって手に入れた私との関係をより深めていくのがあなたの努めです。(*madha bhakta yathra
gayante thatra thishthami Narada)
4年か5年がたてば、ヨギやマハリシ、ムニ(苦行者や聖人)たちが押しかけてきて、私に質問して答えを
得たり、私の近くに来て話しかける機会に恵まれることもなくなるでしょう。蓮のまわりを飛び跳ねるカエル
149
でいてはいけません。ミツバチのようでありなさい。まだ緑色のバナナやマンゴーは、暖かさが果実を熟させ
味をよくするまで、わらや乾いた草の中、閉めきりの部屋におかれます。神を瞑想することも、あなたを適切
な温度に保ち、甘くおいしくするのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
182-183p)
◇
山の頂上に積もる雪は、昼の間は太陽の光でやわらかくなり、太陽の消えた夜には固く凍ります。あなたの
ハートもそうです。固いハートは私をかたくなに、やわらかいハートは私を和らげます。知っておきなさい。
あなた方はみなひとりの母親の愛しか知りません。しかしあなた方ひとりひとりにたいする愛情、私の愛は、
母親千人分です。あなたへの私の愛を否定して、愛情が注がれていない、愛されていないと自分を否定しては
いけません。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
142p)
◇
私は喜びにも悲しみにも、どんな行為の結果にも動かされることはありません。バターミルクに浮かぶバタ
ーの塊は、その中にありながら別のものです。私の本質も、私のふるまい、行いから影響を受けることはあり
ません。あなた方と交わり、話し、決定し、指示し、助言し、叱ります。しかし私は執着というものから離れ
ています。神と限りある縛られた人間とは、そのように歴然とした違いがあるのです。まがりくねった道でな
く、私があなたのためにしいた神の道を歩けるよう、自らの心を律しなさい。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
69p)
◇
私はこれまで、セヴァ・サミティ(奉仕団体)を私の名前を広めるために利用しようと思ったことも、私の
名前への敬意を集めようと思ったこともありません。そうではないのです!
人を向上させ純粋に浄める霊性
の努力や修練がいたるところで展開していくことこそ、私の歓びです。私の実在の普遍性はそれを通じてのみ
示されるのです。ですから私がこの御名、この御姿だけだと限界をもうけてはいけません。あなたが目指すべ
きところとは、崇拝される御姿すべてにまったく同じ神を見いだし、あらゆる御名を神とすること。そしてそ
れだけではありません。生きとし生けるもの、あらゆる物質のかけらにまで、内からつき動かすものとして、
神が存在すると気づくことです。ある人は尊敬にあたいし、ある人はあたいしないという誤った考えに陥って
はいけません。サイは誰の中にもいます。ですからあらゆる人が敬意と奉仕にあたいします。この真理を広め
なさい。それこそ私がセヴァ・サミティに割り当てた役割です。
あなたは私と私の行いを観察することができます。私が正義、倫理秩序、普遍的愛を守りぬく姿に注目して
いなさい。あなた方の多くが、自分の属するサミティに採用するべく私からの「メッセージ」を求めます。そ
うです、私の生き方が私のメッセージです。私があなた方に喚起しようとしている生き方、乱されることない
平静さ、勇敢さ、自信、困窮のさなかにいる人々への奉仕という生き方を実証しようと思うなら、私が示すメ
ッセージを守りぬきなさい。
神はこの世に遍在します。ですから師を愛するようにこの世を愛しなさい。…(略)…どんな障害にあおう
とも、どんな皮肉やあざけりを受けようと、奉仕しなさい。人が善良なる行いに従事するとき、そのような反
応は避けられないものです。例をあげましょう。幾世もの時代にわたり、私にはつねに賞賛と非難がともない
ました。対抗する力も障害も、たんに善良なるものを際立たせ、決意をより固めるものにすぎません。…(略)
…
私にあるサトワ(すべてに平等な愛)、私のシャンティ(ゆるがぬ平安)、私のプレマ(愛)、私のサハナ
(忍耐、辛抱強さ)、私のアーナンダ(永続する至福)を自ら養おうとせず、ただ私の御名と御姿を崇めて何
の役に立つというのですか?
あなた方はセミナーでサイの無類の力や、誰かが本に書いた「奇跡的な」できごとについてこと細かに語り
ます。しかし私はそれらに重要性をおかぬよう望みます。それらの意味を大げさにとらえてはいけません。申
しあげておきますが、もっとも大切で重要なこと、それは私のプレマ(愛)です。私は地を天に、天を地に変
150
えることができますが、それが神の威力を示すしるしではありません。プレマ、サハナ、影響力ある普遍的で
永遠の実在性、それが唯一無二のしるしです。…(略)…
化身が目的をたずさえ、肉体をとり、自ら与えた名で人々の前にこうして姿を見せる中、帰依者たちの世界
会議が開かれるのはまさに今回が初めてのことです。
私はその事実を伝えておかねばなりません。100人のうち99人までが私の実在性を知らないからです。
あなた方は様々な願いごとや、霊性というものへの好感、関わっている事業の発展を望む気持ち、賛美や愛情
からここにひきよせられてきました。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
96-98p)
◇
今日はあることを強調しておきましょう。あなた方は帰依者にたいし、サイの家族という呼び名を使う一方
で、自らをもサイの家族の一員と呼びます。これは狭く限定的な言い方です。私には制限も限定もありません。
私はすべてのためにすべてに宿ります。サイの家族という区別などありません。たとえラーマ、クリシュナ、
サイ、その他の御名、御姿が与えられようと、すべてはみな私、神に属するのです。神がたったひとつの御名
にこたえ、たったひとつの御姿であがめられるとするのは、神に対する冒涜です。
(サイババ講話集1
◇
◇
◇
15p)
◇
誰にでも対立者、敵対者が現れるというのがこの世の常です。世界中を探しても、ひとりの敵も見あたらな
いのはサイだけです。一部の人たちは自分たちの想像から、私が敵対する人々を嫌っていると思いこんでいま
す。しかし私にしてみれば、私が愛さない人などひとりとしていないのです。申しあげておきますが、今日こ
の世界で私より多くの富、多くの財産、多くの宝を所有するものは存在しません。たとえ世界銀行でも、富を
誇る皇帝や国王でも。
富、財産、宝とは何でしょう。それは私の普遍的な無私の愛です。この唯一無二の強力な愛が、この肉体の
輝き、若さを保っています。世のならいに従えば、60才という年齢は肉体的に弱くなり、頭は鈍くなってき
ます。しかし私ははつらつととびまわり、これまで以上に活動的です。16才の若者のように、快活に忙しく
見て、聞いて、戯れ、歌います。私にある神聖な資質が、肉体その他の弱さをよせつけないのです。
一部の人々は、私の実在、私の意思に何ら影響を及ぼすことのないできごとを、誤ってとらえています。不
確かな理解のもと、いく人の人が私の前から立ち去ったことにより、私の仕事が制限され、影響を受けるとい
うのです!
立ち去っていった人々は、私のことが好きではなかったからでなく、私から自分のほしいものを
得られなかったという理由で去りました。もしくは外の世界で得られるような地位や敬意を得られなかったか
らです。もし問いつめられたら、何か別のいいわけをつくりあげることでしょう。彼らには、私とともに私の
指揮で人生をつくりあげていくことこそ、はるかに高い地位と敬意を授かるものだということが理解できなか
ったのです。しかし彼らが自分たちの行いを正当化するのに私に罪を着せても、自ら選んだ道に満足するなら
私は嬉しく思います。それさえも私の奉仕のひとつであり、彼らが「利益」をひきだすことのできる恩恵なの
です。
海はその存在を川に頼り、川は雨を降らせて水を与える海に頼るものでしょうか。私の立場、私の仕事は、
私の意思、私の善、私の愛にもとづくものです。何人かが残り、何人かが去ったところで、栄えることも衰え
ることもありません。その人たちが恩恵に授かるか失うか、それだけです。
事実、私の中の汚点を指摘する権利、理由は誰にもありません。私の完全なる無私、仕え助ける情熱に燃え、
慈しみに満ちたハート、平安と繁栄を築きあげるという決意、世界にアーナンダをふりそそぐという決心――
―それらは日ごと明らかに示されていくことでしょう。私はつねにはかりしれぬアーナンダの内にいます。一
瞬たりとも不安にゆれることはありません。この世の中にそういえる人がいますか?
それをそうでないと人
にいわせているのは無知に他なりません。私の愛を体験し、その使命が展開するのを目撃したとき、そのよう
な世評もやみ、サイが何たる実在かを彼らもはっきり知ることでしょう。知性は自らを人間性から神性へと変
えていくことで実を結びます。ブラーフマンを知る者は、ブラーフマンそのものになるのです。
(サイババ講話集1
151
3-5p)
◇
◇
◇
◇
私がサイババを崇拝する特別な場所があるとは言わないことを知っているはずです。むしろ私の名をかかげ
る寺院を建てる動きはことさらおさえています。かわりに彼らにはすでに国中におかれている寺院を修復し、
生き返らせるよう頼んでいます。この「マンディール建設計画」は利潤の大きい霊性ビジネスになってしまい
ました。人々は犠牲を払いそうな人物のリストを手に、私の名のもとにお金をしぼりとっています。このビジ
ネスで相当の中傷、悪意、嫉妬、貪欲がうずまき、最後にはいつも互いをののしりあう分裂状態に終わるので
す。サイナータ活動、メハー活動、ハラナータ活動、なぜそのようなことに動きまわるのですか。自分の師の
名前を前におしだそうとする行為は、いともたやすく他人の師や神の名を汚す行為に身を落とし、互いに師、
弟子を中傷しあうことになるのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
91-92p)
◇
私には人々をひきつけ、私の別の御名、御姿から人々をひきはなそうという望みはありません。あなた方は
あなた方が奇跡と呼んでいるものを通じて、私が人々を私にひきよせ、私だけに愛情をむけさせようとしてい
る、そう思うのかもしれません。奇跡と呼ばれているものは、デモンストレーションでも宣伝行為でもありま
せん。たんに神の威力に自然にともなうしるしにすぎません。私はあたなのもの、あなたは私のもの、永遠に、
ずっとです。ひきつけ、印象を残し、あなたの愛と私の慈しみを示すのに、何が必要だというのでしょう。私
はあなたの中に、あなたは私の中にいます。距離も違いもありません。…(略)…
しかしサイはそれぞれの宗教がそれぞれのすばらしさへの信仰を育み、その修練に懸命に従うことで、それ
ぞれに正当な価値があることを認識してほしいのです。あらゆる宗教を育て、すべての宗教が共有する偉大さ
を強調する、それがサイの宗教です。勇敢に、歓びをもって、この宗教に加わりなさい。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
246p)
◇
神には好意も嫌悪もありません。使命のため、そのためだけにここにいます。善良なる人々を守り、邪悪な
人々に警告を発するのが神の真の姿です。神の使命は人々が自分を知ることのできるよう、倫理的で自己コン
トロールにもとづく道に進ませ、人々の視野をつくりかえることにあります。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
148p)
◇
グルとは警告し、目覚めさせる者です。真理をあらわにし、そこにむかって進むよう励ます者です。しかし
あなたに熱望し、問いかけ、知性を追い求めるハートがなければ、多くを得ることはできません。飢える者は
満たされる、飢えもなく食べ物を与えられても苦痛に思ってうち捨ててしまうでしょう。グルは草木の世話を
する庭師です。しかしその前に、あなたが発芽し苗木にならねばなりません。庭師にできるのはその苗木のい
くすえに従って成長を助けることだけです。より早く、最大限に育つよう助けることができたとしても、苗木
そもそもの性質にあらがうことはできません。グルとはその人の中に埋もれた宝をさし示すことで、貧困さを
取りのぞいていく者です。その財産を取りもどす方法を助言し、それを最大限に活用するよう警告を与えてい
く者です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
95-96p)
◇
スワミのことをあれこれ質問する人の多くが、神というものを理解していません。ものごとを世俗の目で見
ているのです。神の目で見なさい。あなたの視点を変えなさい。遍在する神の視点で世界を見る訓練をつむこ
とで、あなたが変わっていきます。創造物すべてに神の威力を体験することでしょう。神に隠しごとはできま
せん。あなた方の多くは、自分たちのしていることをスワミは見ていないと思っています。スワミには無数の
152
目があることを知りません。あなたの目さえ、神の目なのです。しかしあなたは自分の真の姿を知りません。
自らにたいする信仰心を抱いたとき、神への信仰心を抱くことができるでしょう。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
3月号
63p)
◇
ある人々は無知からこう言います。私はときどき神であり、あとは人間になる。私がダイヴァトワム(神性)
とマナヴァトワム(人間性)の間を行ったり来たりするというのです。そんなことを信じてはいけません。私
はつねに唯一のトワム(実在)です。神は決して本質的に変化しません。外側の姿は変わっても、その本質は
つねに同じです。ときどき人間になるとか、その価値が減少することはありません。神とは限りない愛(プレ
マ)と、汚れのない甘さがその特徴だといえます。
人にはなしとげねばならない責務が2つあります。ひとつがこの世のためダルママルガ(正義の道)にそう
こと、もうひとつが究極的な解脱を目指し、ブラーフママルガ(至上の実在の道)にそうことです。ダルママ
ルガは左手(レフト)であり、去る(レフト)ものです。なぜでしょう。果実は熟しきれば勝手に落ちる(レ
フト)ものです。だからこそ「左=去るもの」なのです。それが去っても悲しむことはありません。しかし右
手(ライト)=ブラーフマンを放してはいけません。あなたがなしとげなければならない権利(ライト)だか
らです。
そしてまた、今生で神とまみえることのできたこのチャンスのときをどう活用したらよいかを知りなさい。
ランプは光をふりそそぎますが、良くも悪くも様々に利用することができます。ガンガー(ガンジス川)は聖
なる川でも、その水は善くも悪くも使われるものです。このチャンスをあなたがどう活用するかは、あなたに
与えられた宿命、めぐり合わせ、そしてあなたが勝ちえた神の恩寵によります。ラーマはサティアム、クリシ
ュナはプレマ、仏陀はダルマを表します。そしてそれが今やサティア、シャンティ、ダルマ、プレマの4つに
なりました。サティアムとはダルマであり、プレマがシャンティをもたらします。私はあなたに命じます。決
して他人を憎んだり、他人の不幸を願ったり、他人の悪口を言ってはいけません。そのときはじめてシャンテ
ィスワルーパム(平安の化身)に到達することでしょう。
たとえあなたが私を否定しても、あなた方は私の宝です。たとえあなたが違うと言っても、私はあなた方の
宝です。私はあなた方を愛し、あなた方を私にくくりつけます。私は私の宝を安全に保管するため、あらうる
障害をひきうけます!
いわば、神をどの神の名で呼ぼうとも、あなたは神に保管されるのです。私にあるど
の威力もみなあなたのためです。あなたからいつ何を求められてもいいように、あらゆるものを蓄える倉庫に
すぎません。たとえあなたが望まなくても、私はあなたにプレマを与えます。それがあなたの受けとるべきあ
なたの権利だからです。
ある人々は私があれやこれやを与えなかったと不平を言います。しかしそれは、彼らの視点で今かほんの少
し未来のことにかぎられているからです。私は倉庫に何があるかを知る一方で、嘆きをさらに大きくしないよ
う、彼らを守らなければなりません。彼らが私を責めたてようと、ののしろうと、私は彼らを放しません。覚
えておきなさい、私は誰からも影響されません。私の進路を変えること、私の指揮に影響を与えることは、た
とえほんのわずかであろうと決して誰にもできません。私は万物の支配者です。
しかしこれだけは言っておきましょう。私はときどき荒い言葉を投げつけたり、「罰」を与えたりします。
私が彼らを愛しているからであり、彼らを正し、よりより道具に変えたいと強く望んでいるからです。彼らが
私のものでないなら、彼らを見捨て、間違いを犯しても気にかけたりかまうことはないでしょう。私には私の
ものだと思う人に処罰を与える権利があります。それでもなお、彼らは私の言葉に重きをおき、私が彼らに不
満を抱けば悲くなると知っています。それもこれも愚かで無責任な人々の言葉にたやすく気をそらしてしまう、
あなた方の気まぐれな心のせいです。
ときどき私はあなた方から距離をおくふりをします。あなたをより早くつくりかえるためです。ある道路が
修復工事の最中なら、私はよその道をとり、その道はしばらく使いません。修復工事をより迅速に進ませて、
はやくその道をふたたび使いたいと思うからです。
この世を正し、病む人々を私の「病院」に集め、彼らに健全さ、強さ、英知を取りもどさせ、それぞれの人
生という持ち場に送り返す、私はそのために来ました。あなた方のバクティを強化し、信仰を固めさせ、倫理
観を建て直さねばなりません。祈りの言葉を唱えるごとにこの世が平安に近づくと信じる人々に出会ってきま
した。しかし、平安はひとりひとりのハートから暴力性と貪欲さを排除するという厳しいやり方でのみ、勝ち
とられるものなのです。
153
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
189-192p)
◇
実のところ、あなた方には今生、そして何千年ものたゆまぬ苦行を行い熱心に探求した後でさえ、また全人
類がそれに従事したとしても、絶対実在の本質を理解することはできません。しかし間もなく、この聖なる肉
体、聖なる御名が支える神性原理から、至福がふりそそぐのを知るでしょう。このチャンスにあずかる幸運は、
隠者、僧侶、聖人、賢者、もしくは神の威光のあらゆる側面を示す神々が手にしたよりも偉大なものです。
私があなた方とともに働き、あなた方と同じように食べ、あなた方と語ることから、この私の肉体をたんな
る普通の人間と思いこまされています。その誤りには注意しなさい。あなた方とともに歌い、語り、活動に身
をおく私のふるまいが、あなた方を惑わせています。しかし私の神性がいつ何時あなたにあらわにされるかは
分かりません。そのときにそなえて準備をしていなさい。神性はこの人間らしきものに包みかくされています。
あなたの目からそれを隠しているマーヤー(幻想)をうち破る努力をしなさい。
「この肉体はあらゆる神性実在、神性原理、人々が神とするすべての御名と御姿が人の姿をかりたもの――
―*サルヴァダイヴァトワ
サルヴァルーパラヌ
ダリン・チナ
マナヴァカラメ
エー
アカラム」疑念に気
をそらされてはいけません。あなたのハートの祭壇に私の神性への堅い信仰をそなえたなら、私の実在のヴィ
ジョンを勝ちとることができるでしょう。しかし時計の振り子のように、あるときは帰依にあるときは不信に
とゆれるなら、真理を理解することも至福を手にすることも決してなしとげられないでしょう。今生で今こう
してサルヴァダイヴァトワ・スワルーパ(あらゆる神々の化身)にまみえ、その至福を体験するチャンスを得
たあなたはたいへん幸運なのです。(*sarvadaivatwa sarvarupalanu dharin-china manavakarame ee akaram)
もうひとつ別の事実を指摘しておきましょう。これまで神が地上に降臨してきたときには、神の恩寵を示す
数々のしるしにもかかわらず、それが神の化身であると知る至福は、いつもその化身の肉体が地上を去っては
じめて授けられたものでした。また化身たちが人々に求めた忠誠と帰依心は、化身たちの超人的能力や御業、
刑罰を与える者としての威厳のある風格から、人々の間に恐れと畏怖をひきおこしました。しかし、このサテ
ィア・サイという化身について考えてごらんなさい。物質至上主義がはびこる時代、不信と不敬が横行する中、
全世界から何百の崇拝を集めるものとはいったい何でしょう。根本となる理由は、すべてを超えた神性原理が
この肉体をまとっているという事実です。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
99-100p)
◇
ババはここで歌を歌われました。「ある人はクリシュナを好み、ある人はシヴァ神を、またある人は姿をも
たないアラーを好む」それから言われました。「お気づきのように、私の歌声はここにきて止まってしまいま
した。次に続く歌詞がサイの御名を好む人々について歌うものだからです。私は決してこれまで崇拝してきた
御名を捨て、私を崇拝するようには求めません。私はダルマの再建のために来たのであり、あなた方から敬意
を集めようとは思いません。その敬意はそれが誰であろうと、あなたの神、あなたのグルに捧げなさい。私は
観照者であり、ヴィジョンを正すために来たのですから」
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
89p)
◇
ここに来ている多大なる人々の顔から発する歓びが、私の生きる糧(かて)です。あなた方が幸せで満ちた
りていることが私を生き返らせます。あなた方の歓喜によって私の渇きが癒されます。あなたのアーナンダが
私のアーハーラ(食べもの)です。あなたと語りたいとも思いません。私の唯一の望みは私の歓びをあなたに
伝え、あなたと歓びを共有することだからです。互いに満たされること、それがもっとも重要です。話をした
り聞いたりするのは二次的なものにすぎません。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
154
◇
96p)
アートマの体現者たちよ!
バーラタ(インド)はこれまで幾世にもわたり霊的向上の中心地でありつづけ
てきたと同時に、人類のために神の化身たちがダルマを再建してきたところです。化身してきた神としての私
の威力、私の栄華を知らしめるため、ある特定の地域で驚くような奇跡的現象が起こることがあります。それ
らの現象が人々の注目をひきよせるのをいいことに、多くの人々がそれを個人的な宣伝活動や権力を強めるの
に濫用しています。彼らは祭壇の写真に出現したヴィブーティ(神性灰)を金銭と交換するのです!
自分た
ちがより高位にいる「特別な帰依者」であり、罪のない羊のような人々の願いごとを叶え、祝福を与えるふり
をしながらあちこち動いてまわるのです。あるいは自分たちの家のババの写真からもヴィブーティが出現した
り、アムリタ(甘露)が流れ出た、何らかの物質が落ちてきたなどと、まるで絵に描いたようなにせの証言を
してはしゃしゃり出ます。サミティ(奉仕団体)もその他のグループも、そのようなまがい物やペテンにかか
ってはいけません。そのようなことに関わる人々、またそれを助長するような動きは、すぐさま取りのぞかれ
ねばなりません。
また私が語りかけ、自分たちを通じて答えを与えているのだと主張する人々もいます。彼らは正気でないか
ヒステリー、もしくは何らかの悪霊か、お金を稼ごうとする貪欲さにとりつかれているに違いありません。彼
らを通じて語りかけているのが私でないということだけは申しあげておきましょう。私に仲介者は必要ありま
せん。代理人や補足人、代表者もいりません。中には私に代わり、ある分野の任務を割り当てられたと公言す
るペテン師がいます。彼らはあまりにも私の帰依者が増えたため、私ひとりでは手がまわらないというのです!
少し考えただけでも、これらはばかげた嘘に他なりません。よく考えてみなさい。
純粋な気持ちちでサイ、サイ、サイと苦しみ切望し、無私の心で純粋に徳のある生き方をしている人々でさ
え、私を真に理解することが並々ならぬものであることを知ります。ならばそんなに低俗な思惑でいるいやし
い人々が、サーダナ、誠実、謙虚といったことも分からぬ人々が、私からの祝福を得ているなどといえるでし
ょうか。似たような服を着てそれらしくふるまい、話しぶりをまねてみても、それが偽善であることをわざわ
ざ強調するようなものです。私がそのような人々を抱えこんでいるとか、彼らを通じて語りかけるとか、恩寵
をそそいでいるなどと考えるのは恥ずべきことです!
なぜそのようなことを信じる人々がいるのか私はふし
ぎでなりません。
純粋で誠実な人々の信仰や献身を攻撃し、弱めようとする邪悪な勢力は、動きを起こして人々の気をひくた
め、邪悪なやり方で働きかけます。彼らは探求者たちを霊性の道からひきはなし、貪欲さと悪意に満ちた世俗
の道へと誘いこもうとします。サイ・シャクティ(サイの威力)とそれら低次のシャクティの間には、大きな
へだたりがあるのです。今回よい機会ですので申しあげておくことにします。
サイ・シャクティにはかぎりがなく、そこには妨害も抵抗も障害もありえません。あなたが信じようと信じ
まいと、サイ・シャクティは地を天に、天を地に変えることができます。それを行うのに何をも必要としませ
ん。神の御業とは、低次なシャクティの行ういやしい見せびらかしの奇術とはかけ離れているのです。それは
瞬時にして分かることです。彼らは客をよせ集め、人々が知らないでいることにつけこみます。低次のシャク
ティは服装やふるまいでそれらしく見せるかもしれません。偽者を防ぐことはできません。しかし自らにこう
問いかけてごらんなさい。「緑の羽ならどれもがオウムなのか?
か?
トラの皮をかぶったロバはトラになるのか?
花弁についた虫ならどれもが蝶になるの
育ちすぎたイノシシを象だと崇めるべきなのか?」着て
いるもの、語り口、奇術まがいにだまされないよう気をつけなさい。またそこに怒りを覚える必要も、動揺す
る必要もありません。
真理はつねに真理です。どんな策をめぐらそうと、虚偽は決して真理になりえません。この肉体こそ真理の
体現です。真でないもの、偽りは存在しません。
しかし黄疸にかかった人は何を見ても黄色に見え、食欲も消化力ももたない人はどんなにおいしいものを食
べても苦しいと感じます。そのような人々が、あることがらを自分勝手に、あるがままとは違ったものとして
主張するのです。しかし私は少しもかき乱されたりしませんし、変わることもありません。
年長者といわれる人々の中には、心を混乱させるような問題を持ち出す人もいます。彼らにすればクリシュ
ナは自然の法則を無視するような数々の奇術を示した、だからクリシュナは狩人の矢を受けて死なねばならな
かったのだ、そう言います。またイエスも奇跡の数々を行ったからこそ、十字架にかけられて苦しまなければ
ならなかったと言います。彼らは私が自然の法則をものともしないことから、私も同じように苦しむだろうと
言うのです。混乱をひきおこし、偽りの警告を発しようとするのです。しかしこれらは弱さ、無力さ、ねたみ
からくるうわさ話にすぎません。真実であるはずがありません。自分たちには私を理解できず、許容できない
神の栄華をおとしめ弱めようとしているだけです。
こういった動きに誰がかかわろうと、どんな策略を用いようと、たとえ「14の世界」がひとつに団結しよ
155
うとも、何もなしとげることはできません。ほんの少しの影響でさえ、私に与えることはできません。たとえ
さらに10の世界が手を貸し、24の世界が団結しても、彼らの偽りが真理として受け入れられることも、真
理として確立されることもないでしょう。
真理とはくもることも偽りに変わることもありません。ありとあらゆる圧力や、おおやけの場にさらされる
かもしれません。しかし勇気を失ってはいけません。献身、信仰、不動の心が弱まるがままにしてしまっては
いけません。自ら選びとったサーダナを成功させる決意を固めなさい。そのとき、このサティアが、まちがい
なくあなた自身のサティア(真の姿)として自らをあらわにするでしょう。
私は外側に示されるものや行いの数々には頼りません。内なる愛の原理を通じてあなた方に語りかけます。
外側に気をひかれれば宣伝行為をまぬがれることはできません。たとえばどこかでこれこれこういう会議や祝
賀が催されるとなれば、あの人この人を出席させようと、個人的な依頼が来ることでしょう。招待が受諾され
催しが成功するよう、たくさんの人々に謝礼が差し出されることでしょう。しかしここプラシャンティ・ニラ
ヤムでは、これまで一度も、どんな機会であろうと、招待状が印刷されたり配られたことはありません。何万
人もの人々にこの地を訪れさせているもの、それは私のハートから人々のハートに出した愛の招待状です。愛
の有効性とその価値は、あなた方によって証明されるのです。愛はもっとも強力な私の威力です。
家に灯りをひいたなら、あたりの家々をまわり、見に来てほめたたえるよう人々を招かねばなりません。し
かし太陽には輝きをまとって昇るとき、わざわざ関心をよせ集める必要がありません。それこそ太陽の輝きゆ
えです。誰もそれに気づくよう促される必要はありません。
もちろん、ときによっては私の御姿、私の言動に疑いが生じるのも自然なことです。しかし私の真の実在を
知りたいなら、行いを通じて私の教えを守り、私に従わねばなりません。そうすることで必ずや神の実在があ
なたに明かされます。その肉眼でこの御姿を目にしただけで、あれこれ想像しては心もとない思いつきで結論
づけ、知性や精神的労力を無駄に使っています。献身や信仰さえ間違ったところに流してしまっています。そ
うしたことをやめるよう、私はあなた方に忠告します。そう命令する権力を行使します。
昨日、スワミ・カルヤーナンダはこう言いました。より以前の時代に生きた人々は、神の化身のダルシャン
(直接まみえること)にあずかることができ、今の時代の人々よりはるかにしあわせだと長い間思っていた、
しかし今や自分たちほど幸運な世代はいないとはっきり実感している、そう言いました。この言葉は真理です。
まぎれもない真理です。
以前の時代、人々は今回のようなまたとない機会には恵まれませんでした。組織が設立されることもなく、
その御前でこのような会議を開くこともなく、これほど近しい関係で言葉をかわし、ともに歌を歌い、アーナ
ンダを授かるような機会はありませんでした。疑いようもなく、あなた方はまれに見る幸運な人々なのです。
あなたのその両手から、この機会をすべり落としてしまってはいけません。しっかり握りしめ、最大限に活
用しなさい。堅い信仰と熱心な献身的行いで示された道を踏みしめ、真理をつかむゴールへとたどりつきなさ
い。
覚醒し至福に到達するよう、私があなたを祝福します。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
234-238p)
◇
私はあなた方のために、肉体という制約とともにこうしてやってきました。神の活動には3種類あります。
創造、維持、消失です。それらが神に特徴的な属性です。神の目的はどれも世界を守護し繁栄させるためのサ
トワ(高潔)なものです。勝利を喜ぶのもそれを喚起するのも私です。私は決して人からの好意や嫌悪に甘ん
じることはありません。耳を貸すことはありません。私は万人、万物を見つめる者です。すべてが私の支配下
にあるというのに、誰が私に何をするべきだなどといえるでしょうか。何年かしたらあなた方も気づくでしょ
う、私があらゆるシャクティ(威力)の体現者であると指で数えあげる日が来たことに。賢明なる人々、道を
求める人々、苦難にあえぐ人々が世界中から集まってくることでしょう。その手にしっかりにぎりしめ「たと
え神から目に見える何かをもらえようともらえまいと、私は決して放さない」と決意しなさい。苦難がやって
きて、あなたを神からひきはなそうとしても、それについて神を非難し、落胆してはいけません。その損失は
あなたのもの、後悔にもだえ苦しむことでしょう。
あなたには飢えなどありません。もしもあなたが本当に飢えているなら、私はあなた方を苦しむままにはさ
せてはおきません。心(マインド)を攪拌し、バターをとりだし、せつなるハートに溶かしなさい。バターが
溶けこまないなら、その理由は、あなたの切望する気持ちが十分熱していないからです。
156
あなたが私をほめそやし、私の栄華をどう描こうと、私はそれを評価するのではありません。事実を述べな
さい。それが歓びをもたらします。事実以上、事実以下のことを述べるのは冒涜好意です。当然の権利として、
あなたの苦しみを取りのぞくことを神に要求しなさい。あなたのハートを差し出し、私のハートを求めなさい。
言葉のみを差し出せば、あなたに返るのも言葉だけです。私はあなたが求めたものをそっくりそのまま与える
のです。それを覚えておきなさい!
苦難が訪れたとき、なぜあなた方は神から遠ざかるのですか?
神はあなたのため、あなたの献身を強める
ために苦難を与えているのです。苦難が訪れたときにはシャンティを求めなさい。神秘の答えを探し求めなさ
い。10人の人のもとへ行けば、それぞれの人が真理のある側面について教えてくれるでしょう。苦難なくし
て甘みは生じません。苦難のとき、「もう私には神などいない」と感じ道からそれてしまったなら、神の方か
らも「もうこの人物は私のものではない」と宣言されてしまうのです。それを知っておきなさい。
心の奥底からナマスカーラム(御足の崇拝)をしたいと望めば、どこにいようとあなたの目の前に私の御足
があるのです。「*サルヴァダ
パニ
パダ―――その御手、その御足はあらゆるところに差し出される」そう
宣言されています。「神よ、私の祈りが聞こえないのですか」そう痛切に想ったとき、私の耳はそこにありま
す!
「あなたにはこれが見えないのですか?」そう泣き叫んだとき、私の目はすぐそこにあるのです。ラー
マ、クリシュナ、シルディ・サイ、サティア・サイ・ババ、この御名だろうか、あの御名だろうか―――なぜ
そんな不安や疑念を抱くのですか。着ている服が違うだけで、どれも同じ存在です。人々の言葉に惑わされ、
泥沼にはまりこんでしまってはいけません。(*Sarvada pani padha)
神は決して言ったことからそれることはありません。あなた方が私の言葉を違ったように受けとるのです。
起こることはすべて私の意思から起こります。なしとげられることはどれも私のサンカルパによるものです。
サンカルパには3つのタイプがあります。ヨチャナ・サンカルパ―――長きにわたり考慮されたすえに決意さ
れること、マナナ・サンカルパ―――欲望が生じて決意されること、スワサンカルパ―――意思と決意が的を
射抜く銃声のようにまったく同時に起こること。
他の人や自分たちを、弱く、罪深く、邪悪で低俗だと中傷誹謗してはいけません。そのときあなたは、彼ら
にもあなたにも宿る神を中傷誹謗しているのです。すべてが神の真の姿、アートマです。すべてが純粋、神性
なのです。神が人に授けた知性や識別能力を誤って用いる人々もいることでしょう。そこに「誤用」という罪
はあっても、だからといって「罪深い」ことにはなりません。「*パポーハム
パパサムバーヴァ(私は生まれ
ついての罪人だ)」と自らを責めることこそパパ(罪)に他なりません。ひとつひとつ記念碑を建てながら、
知性を用いて前進しなさい。まるで呼吸のように自然になるまでナマスマラナ(神の御名の念唱)をたえず実
践しなさい。いつまでも変わらぬサーダナにとどまりつづけて何の得がありますか?
好きな御姿、愛する御
名を選び、ジャパ、ディヤーナを実践しなさい。邪悪な想いが生じることなどありません。邪悪なもののほう
から逃げだしていくことでしょう。それらが去っていったときに残るもの、それがアートマスワルーパです。
(*papoham papasambhava)
私の言葉にわずかな変更も加えずに、ただ従うことで一生を送りなさい。まず信仰を抱きなさい、実感は後
から授けられます。以前のアヴァターたちの場合もそれがことの起こりの順序でした。違いますか?
あなた
が信仰を抱き崇拝すれば、その体験が授けられます。それと気づかぬうちに信仰が恩寵に結びつくのです。私
が与える薬を摂取し、私が定める食事法を守り、私が禁じるものを避けなさい。
私はいつも落ち着きはらって行動します。決してあわてません。あなた方の願いごとひとつひとつにたいし
ても、「あるがままにしておきなさい」、私はそう言います。あなた方は神にたどりつくためこの世に生まれ
てきました。その目的に気づかず、頭の上に重い幻想をつみあげてはその重みに苦しみ、下ろそうともがいて
います。外界の快楽やつかの間の喜びを追い求めて何の役に立つのでしょう。このヴィディヤ(無知)にとら
われているかぎり、覚醒がもたらす至福を味わうことは決してありません。その至福を理解するなどなおさら
無理な話です。しかし辛抱強く穏やかでいるなら、まちがいなく私はあなたに歓喜を授けましょう。絶望に屈
してはいけません。固い蓮のつぼみでさえ、時がくれば花開きます。何度もの転生でつみかさねた功徳により、
あなた方は今回の幸運を授かりました。どれほどのことをやり抜いてきたかは、あなたが知らなくとも私が知
っています!
そしてたとえあなたが分かっていようといまいと、私は必ずやあなたが求めるものを授けまし
ょう。
あなた方は過去の行いを通じてその「肉体」を得ました。過去に培われたヴァサナ(傾向)に従い「人格的
特徴」を得ました。肉体はプララブダ・カルマ(今生で使いはたされるべきもの)の結実であり、グナはサン
チータ・カルマ(次の生で使われるべく蓄えられていたもの)の産物です。自分が肉体であると自らを惑わせ
たり、肉体への執着にとりつかれてしまってはいけません。しかし肉体を害悪から守り手入れするのはあなた
157
方の仕事です。なぜなら神の至福、神の威力を味わう高揚感は肉体で吸収されるものではありませんか?
で
すから肉体をさげすみ軽視してはいけません。その道具は神への旅のために授けられました。肉体は神の乗り
ものです。手入れをおこたったり、荒れるにまかせてはいけません。
(サティア・サイ・スピークス2
115-117p)
5.サティア・サイ・ババの神聖なるサンカルパ(意思)と恩寵
私の恩寵はつねにあなたとともにあります。与えられたり取りあげられたりするようなものではありません。
つねに与えつづけられ、その重要さに気づいている意識の部分で受けとっています。たえずそそがれつづけて
いる神の恩寵を受けとることのできるよう、自らの意識から恩寵を手に入れなさい。
神は誰をも否定しません。神を否定するのはあなたの方です。贈りものが授けられるとき、それを得るのに
あなた方がしなければならないことはほんのわずかにすぎません―――受けとれるようその手を差し出すこと
です。それこそが意識に授けられた恩寵です。意識にその価値を教え勝ちとりなさい。私の恩寵は、あなたが
どこにいようと、あなたの無意識がそれを受けとり恩恵に浴する準備ができているかをはかる前から、私の無
限の愛を通じてそそがれています。恩恵そのものが、あなたに信仰心、力強さ、英知、歓びを授けます。あな
たが知ろうと知るまいと、私はつねにあなたのハートにおわします。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
92-93p)
◇
私のふるまい、言葉、行いがどんなにさりげなく見えようと、あなた方の一生を成就にむかわせ、あなたの
アートマ(真の実在)であるアーナンダ(至福)を授けるための働きをしています。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
70p)
◇
ラーマ、クリシュナの名のもとに活動する団体には目に見える主がいません。しかしこの団体には、こうし
て強力、助言、指示を与える主がいます。ここでは勝手気まま、思いのままにふるまうことはできません。い
つでもどこでも思慮深くありなさい。エゴを捨て、奉仕しなさい。両手を差し出し、救いを求めてうろつき、
自らをおとしめてはいけません。何か助けが必要なら、私に求めなさい。
差しのべる手は、神から恩寵を得るためにそこにあるものです。卑屈にならず、当然の権利として恩寵を求
めなさい。子どもが父親に求めるように求めなさい。神をもっとも近く(near)、もっとも親しい(dear)もの
と思いなさい。あなた方は反射が結んだ像であり、私がビムバ、映しだされた実体です。実体と像の間に違い
があると疑う余地がありますか?
あなた方はみな私であり、私があなた方なのです。私は私がアートマだと
知っています。あなた方は自分が肉体だと信じこんでいるのです!
あなた方は砂糖でできた人形であり、私
がその砂糖なのです。どの御名であろうと崇めなさい。その崇拝は私に届きます。私はあらゆる御名にこたえ
ます。またどの個人を中傷してもそれは私に障ります。あらゆる人が私の意思の顕れだからです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
147-148p)
◇
純真、誠実でありなさい。寺院や家の祭壇に祭った肖像、偶像に、献身をみせびらかすため重い飾りを背負
わせたり、高価な器や水差し、供物を並べるのは、実にお金の無駄づかいに他なりません。それが欺瞞という
ものです。虚偽や宣伝行為を負わせることで、神の品位をおとしめています。私が恩寵をふりそそぐのに求め
るものは、たったひとつ、純粋な心です。あなたと私が離れていると思いこんではいけません。グル-シシャ
ヤ(師-弟子)の堅苦しさを差しはさんではいけません。神-帰依者というもったいぶった区別さえ入りこま
せてはいけません。私はグルでも神でもありません。私があなた、あなたが私、それが真理です。そこに違い
は存在しません。それを存在するかのように思わせているのは幻想です。あなたが波で私が大海、それを知り、
解き放たれ、神になりなさい。
158
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
102p)
◇
あなた方が求めてやまない世俗的なことがらのリストには終わりがありますか?
ひとつ手に入れれば次の
ものがまたあなたを苦しめはじめます。そしてそれが手に入らないと、神を握る手もゆるんでしまうのです。
何かをなくしたり盗まれたりすると、私への信仰までなくしてしまうのです。私はあなた方の宝石や「貴重品」
を守りに来たのではありません。あなたにある美徳、神聖さを守るため、そしてゴールに導くために来ました。
あなたの善良さが危険にさらされているなら、私のところへ来なさい。どのようにそれを育て、結実を収穫
すればよいいのか私が教えましょう。カーシーやバドリナートの巡礼中に死が誰かを連れ去ると、あなた方は
それはうらやむべき最期だといって慰めを得ます。しかしプッタパルティでは、軽い頭痛におそわれただけで
私のことを責めはじめるのです。あなた方の言い分では、いったんこの地に足を踏みいれたなら、死ぬことが
あってはならないのです。もしも誰かが死ぬと、あなた方の信仰はゆらぎ、みるみる弱くなってしまいます。
たとえまぶたでさえ、神の恩寵なくして開きません。神の恩寵を得る努力をし、あとの疑問はみな神が神の想
いに応じて与えるままにゆだねなさい。
太陽が昇れば、湖上の蓮のつぼみはいっせいに咲きほこります。十分育ったものだけが花を開き、残りのつ
ぼみは時が来るまで成長を続けます。神の恩寵を得るのは万人の権利ですが、サーダナがあってこそ勝ちとら
れるものです。私には嫌悪も怒りもありません。私に流れる血はプレマ、私はダーヤ(慈悲)の源です。私と
いうものの本質を正しく理解しなさい。深い湖に映る月は波にふるえゆれて見えます。しかし顔を上げれば、
夜空の月は変わることなくいつでもそこにあります。私も変わることはありません。私の恩寵はずっとそこに
あります。外界を見る目にとって、私の行いは魔術であり奇跡です。しかし内を見つめる目で見れば、すべて
はリーラ(戯れ)になるのです。創造する神の御手は与える御手―――それを思いとどまらせるものなどあり
ません。つねにあなた方のため、そのためだけにあるのです。これこそ私の真理です。それを知り、幸せでい
なさい。
私は私が降臨してきた理由である仕事をはじめています。鉄やはがね、石、レンガを集めました。土台の溝
を掘り終えました―――建物がそびえたつのもまもなくです。妨害するものはありません。何千人もの人々が
この道を踏みしめやってきて、何百人もの人々が丘の岩ひとつひとつに腰かけるのを見ることでしょう。ニラ
ヤムにいるバクタたちは3か月に一度のナマスカーラム(御足を崇めること)にさえあずかれずに悲しみます。
遠くから来た数日間で去る人々の方が、むしろ幸運だと思うことでしょう。
彼らにはこう申しあげておきましょう。あなた方は誤った価値観に惑わされているのです。なぜこの御足に
触れられないことをそんなに不安がるのでしょう。私の御足はあなたがどこにいようと、いつでもあなたの手
の届くところにあるというのに。「*サルヴァダ
パニ
パダ―――その御手、その御足はあらゆるところに差
し出される」「私の声が聞こえないのですか?」と苦しみに泣き叫ぶとき、私の耳はそこで聞いています。「私
の窮状がお分かりにならないのですか?」とハートの奥底から訴えかけるとき、私の耳はそこにあり、恩寵を
そそいでいるのです。マーヤーからのがれ、プレマになりなさい。そのときあなたは私からプレマだけを得る
ことでしょう。(*Sarvada pani padha)
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
90-92p)
◇
恩寵を授ける主がこうしてここにいるというのに、あなた方は私からあれやこれやを与えられたという人た
ち、私から何かをもらい祝福されたという人たちを追いまわします。カマデヌ(願いを叶える牛)がここにい
るのに、なぜ他の牛を探して手に入れようとするのですか?
に、どうして他の木の果実を気にかけるのですか?
カルパタル(願いを叶える木)がここにあるの
金と銀のメル山を前にして、なぜ金や銀を手にした人々
に、彼らもまたものごいだというのに、へつらおうとするのでしょう。支え励ます神があなた方のもとを訪れ
たというのになぜ未熟で粗雑なものの前でひれふそうとするのでしょう。恩寵やウパデシュ=霊性の導き、伝
授を、品物や寄付金や費用をもちだて、取り引きしようという人々のいるところからは離れていなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
159
◇
186p)
あなた方は、前世のカルマは解消されねばならず、どんな恩寵があろうとそこから救われることはない、そ
う言うかもしれません。明らかに、ある人々はあなた方にそう信じるようにと教えてきました。しかし私があ
なた方に保証します。そのようなカルマに苦しむ必要はありません。あなたがひどい痛みに苦しめば、医師は
モルヒネを注射し、痛みがあっても体がそれを感じさせないようにするでしょう。恩寵とはそのモルヒネのよ
うなものなのです。痛みを抱えていようとも、それを感じることはありません。恩寵はあなたが切り抜けねば
ならないカルマの有害性を取りのぞくのです。
ある一定の日を過ぎてしまうと効果のなくなる使用期限つきの薬がありますね。カルマの影響も、明細とな
り償わなければならないにもかかわらず無効になるのです!
数ヶ月前のグル・プールニマのとき、あるバク
タから卒中のマヒと心臓発作を私が取りのぞいたときのように、神は行いの結実から人々を救いあげるので
す!
ララタリキタム(額に記された運命)は払うことができない、前世で重ねられたものを今生で解消しな
ければならない、というのはまちがいです。恩寵はそれらすべてを取り消します。じゃまするものなどありま
せん。それが「全能者」の恩寵であることを覚えておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
225p)
◇
前進は神の恩寵があってはじめて可能となる、あなた方は言うかもしれません。しかしいくら私のハートが
バターのようにやわらかでも、あなた方の祈りに十分な熱があってはじめて溶けるものです。何らかの鍛錬や
サーダナを自らしないかぎり、私の恩寵はあなたのもとに降りることができません。いまだ達成されずにいる
目標への渇望、苦悶が私のハートを溶かします。それが恩寵をかちとるアヴェダナ(苦悶)というものです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
296p)
◇
利己心や傲慢さにしか結びつかないような知識や学識に、私が惹きつけられることはありません。私は献身
のみに惹きつけられます。どんな困難であろうと、私のもとに置きに来なさい。私がそれを引きうけ、あなた
にはアーナンダを授けましょう。ここの人々は様々な地方から来た人々を、独特の愚かさや弱点をばかにして
笑いますが、私は帰依者を好きになると彼らの欠点まで好きになってしまいます。私はいく多の困難を乗りこ
え、遠いところからあなた方をここに来させた愛、慣れ親しんだ便利さがないにもかかわらず、あなた方を幸
せと感じさせている愛、木陰や開け放しの小屋で過ごすのを耐えさせている愛にひきよせられるのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
32p)
◇
ある人々は私にまつわる真理をかいま見、ある人々はそこにすら到達していません。それでも私のプレマは
あらゆる人々に等しくそそがれています。それをあらわにすることも、拒むこともありません。深みに飛びこ
み、神の至福を見いだし、見きわめ、ひきだすのはあなたの側です。一匹のアリに海の深さが測れますか?
上にいる人間に、空を飛ぶ飛行機のパイロットの姿が分かりますか?
地
ある種の訓練を行いその高みにまで昇
らないかぎり、神を体験することは不可能です。いったんそこに踏みだしたなら、あらゆる価値判断も議論も、
勝敗の意識さえ消失していきます。
私があなた方のコリカ(望み、願い、欲望)に耳を傾け、個人的に呼んだり、何時間も一緒にいて満足させ
たり、俗世的な要求について話をするのに、多くの人が当惑しているのを私は知っています。これまでどのア
ヴァターもそんなことはしなかった、それでは俗世的なものを授けるためのようなものだ、人々はあらゆる俗
世の欲望をもちより、誰でも慈しみと愛で歓待されている、彼らはそう言います。しかし私は知っています。
それら欲望や願いに表されているのは、根本的な不満による渇きなのです。
望みを叶えたいと思うなら、神の手の内の道具にすぎない他人の前でへつらうよりも、神に近づくのが賢明
です。神は神特有の静かなやり方であなたの心をつくりかえ、サーダナと霊性の旅の成就へとむかわせます。
神はわが子が道に迷い、深い森で苦しむままにはさせません。神に近づき、助けと導きを求めたときには、自
らを救う第一歩を歩みはじめています。そうして神の意思を自分のものとして受け入れ、それによりシャンテ
160
ィ(平安)に至るのです。…(略)…
私のもとへ来る人々が、みな世俗の成功や富を求め、俗世的な願いや恩恵を求めてここに来ていると思って
はいけません。100人のうち90人までは霊性の導きを求めています。彼らは世俗的なことなど望んでいま
せん。ジャパ(神の御名のマントラの念唱)、ディヤーナ(瞑想)、ナマスマラナ(神の御名の念唱)などの
サーダナ(霊性修行)についての指示を得ようと懸命です。彼らは神性原理へのプレマ(愛)に満ちており、
神は彼らのプレマに満ちています。それはプレマの質問にプレマで答えるようなものです。ヴィヴェーカーナ
ンダがヴィヴェーカに満ちていたように、プレマはサティアに満ちています。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
238-240p)
◇
神はダルマを促進、実践、指揮し、人々に欲望をのがれた正しい行いの道を示すために化身します。様々な
手段を通じてそれに従事するのが私の仕事のひとつです。何も知らないあなた方をつくりかえていくよりも、
あなた方からの協力と理解を得ていく方が望ましいことです。ですから私はあなた方が奇跡と呼ぶものを用い、
私の栄華をときどきある程度まであらわに示すのです。名声や評判のために行うのではありません。私の本質
そのものが奇跡的なのです!
私の一瞬一瞬がマハートミヤ、奇跡なのです!
あなた方の理解、技術、能力、
知性を超えています。私にはあなた方みなを救わなければなりません。たとえあなたがノーと言おうと去って
いこうと、私はなしとげます。私から迷いはぐれた子羊たちは、遅かれ早かれ私のもとに戻ってこなければな
りません。この私が、長い間遠く離れたままにはしておかないからです。私が私のもとにひきよせます。それ
が私の真の姿、愛、慈悲です。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
132p)
◇
あなた方の中には、人の姿をかりることが神の歓びの源であると思う人々がいます。もしもそう思うなら、
それは事実ではありません。私はつねにあなた方ひとりひとりの現状のみならず、未来や過去も知っています。
ですから私が同情につき動かされることはそれほどありません。石のハートをしているのでも、ダーヤ(慈し
み)がないのでもありません。自分で扉を固く閉ざしているというのに、私からの恩寵の光があなたに届くで
しょうか。あなた方は訴えます。「スワミ、私には他に何も見えません。私はあなたにお会いしたい一心なの
です。私のこの苦境はあなたのハートを溶かしはしないのでしょうか」当然その哀れみを誘う状況は、あなた
のハートを溶かしはするでしょう。しかしそれが私のハートを溶かすことになるでしょうか。私はあなた方の
過去や背景を知るがゆえ、それにたいする反応に違いがあるのです。それを知ったなら、あなた方も違った反
応を示すでしょう。そこには様々な前世で故意になされた悪業が結実しているのです。ですから私はよく少々
の慰めで加減はするものの、苦しみつづけるままにしておかねばなりません。私が喜び悲しみを与えるのでは
ありません。あなた方が自分を縛る喜び悲しみを自ら与えているのです。
重荷のすべてを神に差し出し、頭にのしかかっている重みを取りのぞきなさい。すべてを神の意思、神の法
にゆだねなさい。心に甘く健全な食べ物―――サットサンガ(気高い人との交流)、サットプラヴァルタナ(神
について語ること)、サルヴェシュワラ・チンタ(至上の神を想うこと)―――を与えなさい。歓びにあふれ
ることでしょう。私はまさに至福(アーナンダ)。私からアーナンダを得、するべき仕事に戻り、いつもアー
ナンダに定住し、シャンティにあふれていなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
239-240p)
◇
私に帰依することで、私からは力を得ていきなさい。このギブ・アンド・テイクを熱意とともにすみやかに
行えば行っただけ、成功し幸せになることができます。不安、問題、苦しみ、欲望すべてを私に差し出し、私
からは歓びと平安、強い心を得ていきなさい。この神の化身にとって、霊性の探求者、善良なる人々こそ、私
の肉親であり、私の友であり、私の恩寵の享受者です。
(サティア・サイ・スピークス7
161
197p)
◇
◇
◇
◇
門の外や敷地内のどこか、バジャン・マンタップ(バジャン会場)や荷物の預かり所での仕事を割り当てら
れた人々が、私の邸宅内にいる人のことを嫉妬しているのを知っています。使いの用事で街に行き、バジャン
に出られない人もいます。こう申しあげておきましょう。私の部屋の扉の前にいる人に特別の恩寵を与えるこ
ともなければ、門のところにいる人を無視しているのでもありません。私には距離に近い遠いはありません。
私にとっての近さ遠さは物理的な距離で測られるものではありません。私のすぐそばにいながら遠く離れてい
ることもあれば、遠く遠く離れていてもすぐ近くにいて親密なこともあります。どんなに遠くにいようと、あ
なたがサティア(真理)、ダルマ(正義)、シャンティ(平安)、プレマ(愛)にしっかり根ざしているなら、
あなたは私のすぐそばに、私はあなたのすぐそばにいます。それが私へと続く道におかれた道標です。
熟したマンゴーがなっているのを目にすれば、舌が味を思い出し、心が求め、腰をかがめ、背中を丸め、手
が石を探り、指が握り、腕がそれを投げつけます。果実が落ちたら手で拾いあげ、歯でかみしめ、のどが胃へ
と送りこみます。そうしてそれらの働きのむくいとして、それが栄養にかわり、目、肩、手、歯、目の力にな
ります。それと同じで、あなた方みなで私に喜びを与えようとすれば、恩寵というむくいがすべての人に授け
られます。
あなた方はみな私の手足、私が滋養を与えています。あなた方がサイの肉体を形づくっているのです。美徳
や信仰、修練、謙虚さのような、サイがおいしく好ましいと思うものを与えるなら、あなたがどこにいてどん
な働きをしていようと、サイは滋養を与えます。サイの体の一部であることを幸せだと思いなさい。あなたが
私の足であり、固い地面を歩かねばならないからといって不平を言ってはいけません。上の方にある頭だから
といって、おごり高ぶってはいけません。どちらであろうとまったく同じ血液、プレマという血液が流れてい
るのです。それぞれの働きはどれもみな等しく重要です。覚えておきなさい。肉体の各器官には独自の機能が
あるものです。がっかりすることなどありません。あなたの役割はあなたにしかできない特別なものです。頭
で歩くことはできません。足で考えることもできないでしょう。どんな位置にいようと徳高くあり、恩寵を勝
ちとりなさい。それこそもっとも大切な報酬です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
71-72p)
◇
人々は永続する至福を求めていません。はかない物質的快楽ばかりを求めています。そして求めるものを手
に入れることができずにいます。その理由は何でしょう。神に慈悲はないのでしょうか。病気の子どもが様々
なお菓子をねだり、母親がそれを拒んだら、その母親は子どもを憎んでいるのでしょうか。母親は石のハート
をしているのでしょうか。愛情がなくなったのでしょうか。拒んだこと自体が慈愛のしるしです。誰もが誕生
と死のくりかえしに苦しむ病人です。求めるものすべてを与えれば、苦しみを長びかせるだけです。だからさ
しひかえたり拒んだりするのです。そしてまた、あなた方も欠かすべからずものを求めていません!
とぎれ
ることのない平安を願いはしないのです。願えば叶えられるというのにです。
もちろんあなたの方から呼びかけることができます。しかし神に呼びかけているのですか?
に呼びかけているのですか?
神でない誰か
私は心からの呼びかけにこたえます。あなた方の呼びかけは、貪欲さ、他への
憎しみ、復讐心、嫉妬、非難の気持ちで汚れています。あなたが扉をたたいているのは知っています。しかし
それは何の扉ですか?
自らのハートの扉をたたきなさい。そこにおわす神が姿を顕すでしょう。プラフラー
ダには、神が誰の心にもどこにでもいるという信仰がありました。だからこそ宮殿の柱が砕かれたとき、そこ
から神が姿を顕したのです。あなたの内にも神がいると信じ、目を内にむけなさい。
あなた方は神は無慈悲だ、喜ばすのは難しい、そう不平をこぼしますが、神に差し出すべきものを差し出そ
うとせず、神が喜んで与えるものを求めないからです。優しいハート、清らかな想い、愛情豊かな語り口――
―それらが神聖なるアートマを意識に顕現させるのです。それがサティアの顕れであり、サティアである神に
姿を与えるものだからです。SathyaのSathはスーリヤ=太陽のことです。thyaは栄華、威光を意味します。つま
りサティア―――太陽の輝き―――とは、人々の食物である穀物に滋養を与え実らせるものです。食物が人に
活気、生命力を与えます。サティアを崇め慕いなさい。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
162
◇
285-286p)
精神的な病を患う人のように、いつもつまらぬことをあれこれ思い悩んでいるのはやめなさい。勇気を抱き
なさい。それが何よりの強壮剤です。何もしないうちからあきらめてしまってはいけません。長生きするのが
大切なのではありません。生きつづけているうちに、自分を連れさってほしい、苦しみから解放してほしいと、
神に祈らずにはいられないときが来ることでしょう。自分のことを無視して他の幸運な人々に死という祝福を
授けるのかと、神を責めはじめさえするでしょう。人生の真の目的に到達するのに成功するか、失敗するか、
そのことをこそ心配しなさい。そのとき、それに必要なだけの時間が与えられます。強く激しく求めに求めな
さい。成功はあなたのものとなるでしょう。覚えていなさい。あなた方誰もが必ずや勝利します。だからこそ
あなたは私の呼びかけを聞き、私のもとに来なさいという声にこたえたのです。
恩寵をそそぐ以外、私にできることなどあるでしょうか。ダルシャン(拝謁)、スパルシャン(交流)、サ
ムバーシャン(会話)で、あなたはその恩寵のただ中にいます。あなたが溶け、私が溶け、二つがひとつに溶
けあうのです。私がどこか遠いところにいるのでなく、あなたのすぐそばにいるものと思いなさい。私からの
恩寵を要求し、請求し、訴えなさい。ほめそやし、たたえ、へつらうことはありません。あなたのハートを差
し出し、私のハートを得ていきなさい。あなた方のうち、私の見知らぬ人などひとりもいません。私に誓いな
さい。私もあなたに誓いましょう。しかしその前に、その誓いが本物で誠実であるかを見つめなさい。ハート
が純粋であるか見つめなさい。それで十分です。
(サティア・サイ・スピークス2
70-71p)
6.バガヴァン・ババが帰依者にすすめる霊性修行(サーダナ)
あなた方はここに来るとき、伝統的な捧げもの、パトラム(草の葉)、プシュパム(花)、パラム(果物)、
トヤム(水)さえたずさえず、から手で来なければならないことをご存じでしょう。
何も持たず、与えるためではなくこい願うための両手で、富への執着を手放してきたことを示す両手でここ
に来なさい。私がその手を恩寵で満たしましょう。
恩寵を授ける前に、私がある種のものを受けとることを申しあげておきます。私はサティア(真理)、ダル
マ(正義)、シャンティ(平安)、プレマ(愛)を求め、受けとります。
私はあなた方をひきよせ、修復し、つくりかえます。壊れて水もれする傷んだ金物を直す鍛冶屋のようなも
のです。壊れたハート、もろい心、ゆがんだ知性、弱々しい決意、薄れゆく信仰心を治します。
(サティア・サイ・スピークス14
◇
◇
◇
26p)
◇
サーダナを通じて、個への執着、五感の快楽への執着を捨てなさい。サーダナによってハートを大宇宙にま
で広げる熱意を迎え入れなさい。安っぽい欲望やその場かぎりの飢えや渇きで心をくもらせてはいけません。
それらはあと一口を求めるものにすぎません。大宇宙に溶けこんだとき、あなたの魂がまぎれもない宇宙の主
として即位し、勝利への行進をはばんできた内なる敵にうち勝ったことを祝えるよう、強く求めなさい。あな
たの御者として私を得なさい。私が成功に導きます。誠実さ、実直さ、そしてサーダナにより、つきせぬ恩寵
を勝ちとりなさい。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
158p)
◇
私は謙虚さ、忍耐、慈しみ、奉仕、友愛、神や女神のたえまない臆念を賞賛し、それにむくいます。私の姿
をハートに映したいと思うなら、心というカメラのレンズを私にむけねばならない、違いますか?
知性、感
情、気持ち、行い、すべてを私にむければ、必ず私の姿はあなたのハートに焼きつきます。心のレンズが世俗
や物質的なものにむいていて、どうして私が心に写るでしょうか。
私の講話を心で受けとり、それに従うことがなかったら、何の意味があるでしょう。私は、あなた方を各自
の責任に目覚めさせようとこれまで長い間重ねつづけてきた尽力が、あなた方の中で実を結んでいないように
思います。あなた方はまるで海岸沿いの岩のように、たたきつける波をもものともせず、ただ顔をむけている
163
だけです。岩は動かず、波は打ちつづけます。この困った状態は終わりにしなければなりません。目を覚まし、
このまたとない機会をものにしなさい。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
サイの宗教、もしこの呼び名が、人々を神に結びつける宗教と文字通りの意味で受け止められるのであれば、
この宗教はイスラム教、キリスト教、ユダヤ教などあらゆる信仰、あらゆる宗派の真髄です。様々な信仰の設
立、布教の背後にある目的はどれも同じです。創設者、宣教者たちは、みな愛と英知に満ちた人々であり、彼
らの目標、目的はどれも同じです。分断し、妨害し、破壊しようとしたものはありません。善いことを行い、
善いことを想い、善良であろうとしました。情欲や感情の訓練、衝動や本能の教化に努め、理性の働きを個人
と社会にとって有益な筋道にむかわせようとしました。彼らは心が欲望、執着、野心を生みだす土壌であるこ
とから、浄め、正しい方向にむけねばならないと知っていました。
サイはある特定の宗派の信条を盲信するよりも、こういった鍛錬を行うことの方がはるかに重要だと考えま
す。教えについてすでに実践できていない人に、その教えを他の人々に説く権利などありません。まずあなた
の家族ひとりひとりの間に、愛による統治を確立しなさい。家庭を調和ある暮らし、思いやりと理解、相互の
信頼の中心地にしなさい。
人の神聖なる責務は、生きとし生けるものに内在するアートマ(神聖なる魂)をつねに認識することです。
それにより、かかわるすべての人が家族だという意識にいたるでしょう。これが全人類を兄弟とみなし、神を
全人類の父とみなす基盤になります。利己心という悪徳、貪欲という邪悪さ、羨望という毒を捨てなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
146-147p)
◇
私に帰依したと宣言する人がたくさんいます。彼らはアパルナという言葉を使います。タヌ(肉体)、マナ
(心)、ダーナ(富)のすべてを捧げたと主張するのです。しかし彼らはなお「私がした」「私はそう思う」
「私はそう考える」「私はそれが好き」「私はそれが好きではない」などと言いつづけています。尊敬や賞賛
を得るための「私」が頭をもたげるのです!
それで私は帰依したなどと言うのは大きな嘘です。まったくの
偽善です。アパルナという言葉にはもはや何の価値も目的もなく、いまだ信ずるにたるものに浴さぬ人々をあ
ざむくため、あたりにふりまく言葉にすぎません。自分でコントロールさえできないものを、どうして捧げた
などということができるでしょうか。
あなた方は心(マインド)、激情、偏見の奴隷です。それでもなお心、考え、意志を神に差し出したなどと
主張します!
心はからまり、激情に首を絞められ、そこから抜けだそうともがいているというのに、それを
私に差し出したなどとどうして言えるでしょう。勇敢さだとか、犠牲の精神だとか、献身だとかをそんなふう
に自慢する必要などありません。私はそんな宣言、そんな献身を必要ともしなければ求めもしません。神がい
つでもどこにでも存在すること、あなた自身が神と何ら違わないことを信じるだけで十分です。あなたも神で
あるなら、何を誰に捧げるというのですか?
このことをよく考え、十分理解しなさい。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
80-81p)
◇
言葉、行いを清らかにし、不純な想いからは離れていなさい。私はあなた方ひとりひとりのうちにいて、あ
なたの想いがたてるほんの小さなさざ波にさえ気づいています。服が汚れたら洗濯に出さねばなりません。心
が汚れたら清らかにする作業のためにふたたび誕生してこなければなりません。ドゥービー(洗濯人)は固い
石に服を打ちつけ、焼けるようなアイロンをかけてしわを伸ばします。それと同じで、あなたも神に近づくに
ふさわしい人物となれるよう、試練の数々を経験してこなければなりません。私をあらゆる人に宿るものとみ
なし、できるかぎり人々を助け、人々に必要な奉仕を行いなさい。優しい言葉、助けの手、安心させる微笑み、
慰めを与える仲間、心をなだめる会話、どれも出しおしみしてはいけません。
(サティア・サイ・スピークス9
164
105p)
◇
◇
◇
◇
愛とは、多くの人の偽善に気づき、唯一なる神の実在に気づくことをさす言葉です。愛とは一体、憎しみと
は分断です。愛とは神のセルフを別の人にそそぎこむものであり、そうして二つがひとつになり、考え、話す
ようになります。この愛が人々の間で起これば起こるほど、より多くがひとつになります。神を愛するとき、
あなたはすべてを愛するでしょう。私が万物に宿ることに気づきはじめ、知り、そして体験するからです。デ
ィヤーナ(瞑想)という手段を通じ、私が万物のハートに住まうものであり、私が切望、目的、導き、到達地
点であると悟ることができます。このヴィジョン、この意識を強く求めなさい。そして何ものにもかえがたい
あなたのものにしなさい。そうしてあなた方がいつも私に求めるもの、サクシャトカーラ(絶対実在の直接的
なヴィジョン)が得られるでしょう。愛は私と溶けあうことのできるくらい、純粋で、エゴに汚れていないも
のでなければなりません。
もちろんこれは厳しいサーダナです。今や心(マインド)はあなた方にぴったりくっついています。数多く
の期待を自ら否定し、否認し、取りのぞき、自らの深みに飛びこみ、肉体を含む世俗的なものへの執着という
激流を乗りこえ、源にむかって泳ぎなさい。ゴーピー(牛飼いの少女)たちは、見るものすべて、ちりの一粒
一粒、下草の一枚一枚にクリシュナ原理を見いだし体験しました。他のものすべてを否定することが万物にク
リシュナを見いだす方法でした。もう一度はじめに戻れば私たちは二つになる、多様な創造物はクリシュナ、
クリシュナ、クリシュナだけ、何度もそうくりかえしました。ちり、下草、水滴、しみ―――ひとつひとつが
神、神、神のみ。そしてあなた方も例外ではありません。あなた方も神なのです。この真理、一体意識、同一
意識を真に理解すること、それがサクシャトカーラです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
96-97p)
◇
私の到来、ボーダとウパデーシャム(霊性の教えと導き)にもかかわらず、あなた方がなおサーダナをはじ
めていないことを知り、私がどんなふうに感じているか分かりますか?
あなた方はただ私をほめそやし、賞
賛をふりまきます。恩寵という宝の家だ、アーナンダの海だと言って。御名を定め、その甘さの中に定住しな
さい。御名を吸いこみ舌の上で唱えなさい。御名の真髄を味わい、御名の栄華を瞑想し、自分の一部にし、霊
性の歓びを高めなさい。それが私を喜ばせます。…(略)…
私のもとに来て、学び、前進し、私の中に自らを見いだしたいと強く求めなさい。必ずやあなたを迎え入れ、
道を示しましょう。真の祝福に授かるのです。ウパニシャッドという牛からしぼられたミルクである数々の聖
典、経典、ギータらは、どれもこの渇きをあなたに植えつけるためのものです。
この渇きは木の幹をつたうツタ、鉄にひきよせられる磁石、花を求めるミツバチ、滝にむかう清流、海に注
ぐ川のようでなければなりません。離れている苦しみはハートを悩ませます。生きとし生けるものがひとつに
なることを求めてやまないからです。ナーマ(御名)とルーパ(御姿)をあれこれ迷ったり、変えてみたり、
次々に試していてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。たえまない神への臆念が、つきせぬアムリタ
の味わいをあなたに授けることでしょう。
この道に従わないというのであれば、あなたは二重の責め苦を負います。もう私にかかわりあってしまった
のですから。御名のみが存在するうちは、それにまつわる幻想、願望、姿にたいする想像など、どんなもので
もつくりあげることができるため、実際の御姿にはたいてい疑念がつきまといます。あなたの目の前にこの御
姿が姿を顕したというのに、そのような疑念に導かれてしまってはいけません。この好機を活用し、人生を価
値あるものにしなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
225-228p)
◇
どんな困難、どんな誘惑があろうと、正しい道からそれてはいけません。握るその手をゆるめたり、後ろを
ふりかえってはいけません。信仰をゆるがせてはいけません。富やわが子、名声や財産に執着するとき、あな
たは神でなく、富や子ども、その他のものに帰依しているのです。神に帰依しているというのなら、それはど
のように示されるべきでしょう。申しあげましょう。神の資質、神の美徳、神の愛、神の力強さを自分のもの
にすることです。サイになりなさい。サイでありなさい。
165
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
301p)
◇
花飾りを手にし、聖地でくだらないおしゃべりにふける、それがバクティではありません。私は私の御前に
花飾りやフルーツを捧げてほしいとは思いませんし、それを評価するのでもありません。私のもとには純粋な
心という花飾り、サーダナで熟した精神という果物をたずさえてきなさい。それが私のもっとも好むものであ
り、心を高める何の努力もなしに、大金を払って外界で手に入れるものではありません。そうした努力にむか
う姿勢を得るには、偉大な人々、善良な人々とまじわり、善良な想いに歓びを抱きなさい。使えるものなら何
でも使い、アーナンダ(至福)の蓄えを増やし、ヴィヴェーカ(識別力)の質を高め、必要が生じたときには
いつでもそこからひきだせるよう、この2つをできるかぎり蓄えなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
75p)
◇
あなたと神の距離はあなたが遠いと思う分だけ遠く、あなたが近いと思う分だけ近くなります。こう申しあ
げておきましょう。あなたにたいする私の距離感は、あなたが私に感じる距離感とまったく同じです、違いま
すか?
しかしあなたはだんだんと私に近づいてきているにもかかわらず、私があなたから遠くにいると不平
を言います。どうしてそんなことがありえましょう。私はあなたが私に近いと思う分だけ近くにいます。
この近さは献身によって得られます。「私が」とか「私のもの」という意識を捨てさらずに、献身が根づく
ことはありません。囚人があちらからこちらへ移動するときには、二人の看守がつきそいますね?
人もこの
世という監獄であちらからこちらへと動くのに、アハムカーラム(エゴ)とママカーラム(執着)につきそわ
れています。この2つなしに動きまわることができたとき、自由になり、監獄から解放されたのだと確信でき
ます。
監獄とそこでの生活について話しましたが、さらに申しあげておきましょう。あなた方の誰もが投獄という
判決のもとにあり、この世という監獄で暮らしています。監獄では労働したからといって報酬を期待しても無
駄なことです。報酬が公平に分配されていないと主張することもできなければ、割り当てられた仕事を放棄す
る資格もありません。もしそうするなら刑期が延長されるか、別の監獄に移されるかです。一方、静かに判決
を受け入れ、文句も不平も言わずに仕事に取り組めば、幸福な一生の保証書とともに送り出され、看守につき
まとわれることもありません。自分の判決を知り、そこからの解放を強く望むなら、それがジーヴァ(個々人)
のとらねばならない姿勢です。
覚えておきなさい、解放はあなた方の生まれながらの権利です。それに専念し、勝ちとるための実践に従事
しなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
57-58p)
◇
講話、ダルシャン(目にすること)、スパルシャン(触れること)らの機会を活用して、どれほどの成長を
なしとげましたか?
私から高潔な生き方の秘訣を知りえた証(あかし)として、一日に何らかの修行を取り
入れなさい。より強い兄弟愛を得たこと、より優しく、コントロールをきかせて話し、そしてそれをへらして
いること、勝利ばかりでなく敗北をも穏やかに甘受し、忍従することができるようになったことを身をもって
示しなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
176p)
◇
先ほど、博士は様々な目的で私のもとにやってくる人々がいることを話しました。その通りです。しかし彼
らの中には自分の望むものが得られないと、成長を促すもの、受けとるにあたいしないものを求めているとい
うのに、自分たちではなく私を責めます。なぜ太陽があなたの部屋を照らさないと不平を言うのでしょう。扉
を開けなさい、扉の前でまさにその瞬間を待ちわびていた太陽が、光で部屋を満たすでしょう。神の恩寵にあ
166
たいするよう、知性をいかしなさい。それが人のはたすべき目標です。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
10-11p)
◇
私が求めるのはバクティ(献身)、シュラッダ(信仰)、サーダナ(霊性修行)―――心を浄化すること―
――それだけです。ものごいだけが金銭を求めます。私は決してはかないもの、衰えるもの、飾りたてたもの、
俗悪なものとはかかわりあいません。
あなた方から散りゆく花、腐ってしまう果物、国境を越えれば何の価値もないお金は受けとりません。あな
たのマナサロヴァラ、内なる意識という湖の清らかですきとおった水に咲く、蓮の花を捧げなさい。年長の人
に会うときには果物や花をたずさえていくというような、世俗の礼儀を超えたところに私はいます。私がいる
のは霊性の世界であり、ここでは価値観も異なります。幸せで、神に信仰をよせ、罪を恐れるならばそれで十
分です。私にとっては十分なカインカリヤムです。それが私を喜ばせます。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
101-102p)
◇
毎年ダサラ祭、降誕祭、シヴァラトリの前になると、私は霊性のサーダナとして、あなた方にセヴァ(奉仕)
の誓いをたてるようすすめています。しかし私はあなた方の行いに満足してはいないことを述べておかねばな
りません。それでもいつの日か、あなたが理想に追いつくことを期待しながら、指導し、役割を与えつづけて
います。これが私の本質、慈悲というものの一例です。たとえあなた方の試みた理想的なセヴァの実践がほん
のわずかであっても、この慈悲から、私は評価をするのです。
なぜ費用も旅の苦労もいとわず、こんな遠いところまで来ているのですか?
るため、違いますか?
私の御前で私の恩寵を手にす
それなのに、この場所にたどりついたというのに、なぜ他のものとの接触、他の人か
らの好意を求めるのでしょう。どうして私の存在、私の恩寵を否定するようなはめに陥るのでしょう。他のこ
とはすべて忘れ、私が与える指示からそれずにいなさい。私はただ、あなた方をセヴァと愛という霊性の道に
招き入れたいのです。山のようなサンダルを見張ったり、のどの渇いた人に水を運んだり、門のところに立っ
ているよう言われたことを恥じ入ってはいけません。恩寵も歓びも、あなた方が能力と時間を他の人々を助け
るためにそそぎこんだ、その有益性のうちにあるのです。あなた方は私に仕えたいと強く求めています。申し
あげますが、私に仕える人々に仕えることは、私に直接仕えるのと同じくらい私に歓びを与えます。仕える人
が誰であろうと、私に仕えることになるのです。私はすべての内にいるのですから。
病める人、悲しむ人にあなたが与えた慰めも歓びも、私のもとに届きます。私は彼らのハートの中にいる者
であり、また彼らの求めた唯一なる者だからです。神にはあなたの助けはいりません。神が足の痛みや胃の痛
みに苦しみますか?
敬虔な人々に仕えるよう努めなさい。ダーサヌダーサ、神の召使いの召使いになりなさ
い。人への奉仕が神に奉仕する唯一の方法です。
あなた方の誰もが、ぜひともパーダセヴァ(御足のマッサージ)をしたいと望んでいるのを知っています。
しかしもし求めるすべての人々にその機会を与えたら、私の足はどうなることでしょう。私のまわりでどんな
暴動が起こってしまうことでしょう。当然の結果として、結局は誰も満足することができないでしょう。しか
し、私の御足はどこにでもあるのです。*サルヴァルタハ
パニ
パーダム―――「あらゆるところに神の御手、
御足がある」ギータのいうところです。ヴェーダのプルシャ・スクタではこういいます。**サハスラ
シール
シャ、プルシャ、サハスラクシャ、シャスラパド―――「至高の支配主には千の頭、千の目、千の足がある」
ここに集う千の顔、千の目、千の足は、私の顔であり、目であり、足です。大切に世話をし、敬意をもって接
し、彼らの必要を満たしなさい。(*Sarvatah pani padham)(**Sahasra Seersha, Purusha, Sahasraksha, Sahasrap
ad)
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
29-31p)
◇
信仰から離れずにいなさい。何かが起きたり誰かが噂したからといって、すぐさま忠誠心を変えてしまって
はいけません。一度の失望でサイババの写真を壁から全部引きはがし、他の写真に貼りかえるのではいけませ
167
ん。すべてを神に差し出し、神の意思が働くようゆだねなさい―――それがあなた方のとるべき姿勢です。苦
楽を体験することなしに、どうして強くなれますか?
光も影も、日射しも雨も歓んで迎えなさい。もったい
ぶった道具で写真や肖像を崇拝する人たちだけが帰依者だと思っていてはいけません。倫理の道をまっすぐ歩
む人、話したままに行動し、見たままに話す人、人の悲しみには心を溶かし、人の喜びに喜ぶ人―――それが
帰依者、よりより帰依者といえましょう。
ババはこの世の鋭い知性、明晰な頭脳をも超えています。そう、あのサプタ・リシ(七賢人)でさえ、崇高
なる神性実在を理解することはできなかったのです。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
7p)
◇
「ああ、これが私の運命なんだ、私自身の過去が私を罰しているんだ、あれに耐え、これに苦しまなければ
ならないんだ、のがれることはできないんだ」こうして人は落胆します。それほどまでに不可避なものである
なら、祈り、ジャパ、瞑想、崇拝の儀式は何のためにあるというのでしょう。神の恩寵を勝ちとりなさい――
―つみかさねられた重荷は一瞬にして焼きつくされるのです!
のですか?
なぜ「額に運命を書きつけた」と神を責める
それを書いたのもあなた、それをはらい落とすのもあなたです。悪行によって書かれ、善行によ
って消されるのです!
心に神を住まわせなさい。太陽の光のもとでは過去生の霧も消えさります。この光で
照らさなかったら、霧は暗闇にまで濃くなるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
118p)
◇
あなた方はたった2つの質問の答えを知りさえすればよいのです。ババとは誰か。私とは誰か。その答えは、
私とはババの反射が結んだ像である、ババとは結んだ反射の源である。知ろうと知るまいと、結んだ像がひず
んでいようと正しくあろうと、それが両者の結びつき、それがきずなです。
朝夕ディヤーナ(瞑想)をし、ジャパ(マントラの念唱)をし、サルヴァナム、キールタナム、スマラナム、
パーダセヴァナム、ヴァンダナム、ダシャム、アルチャナム、サキヤム、アートマニヴェダナム(それぞれ、
神に耳を傾け、歌い、臆念し、御足に触れ、敬意を払い、仕え、崇拝し、友となり、捧げものをする)をして
います―――どれもあなたが神の結んだ像にすぎないことを認識し、きれいでくもりのない像となり、神に溶
けこむまでに清らかになるためです。
セヴァとは崇拝すること、ヴィシュヌ・ヴィラト・スワルーパ―――多種多様な御姿をもち、全宇宙にあま
ねく遍在する神を崇拝することです。ヴェーダは神を「千の顔、千の目、千の足」と描写します。お祭りのた
めにここに来ている千の顔、千の目、千の足は、みな神のもの、主のものです。ひとりひとりをただの個人と
みなしてはいけません。人の内には真の実在である神がいるのです。それに気づきなさい。
私は何年にもわたり、セヴァについてあなた方にアドバイスし、指導してきました。しかし私はあなた方が
どれだけそれを実践に移してきたかに満足してはいません。あなた方が目指すべきは、私を喜ばせ、満足させ、
私の指示に従うことです。私は私の使命である、ある課題とともにやってきています。私にもはたさねばなら
ない誓約があるのです。それはバガヴァッド・ギータの中でもふれられています。ダルマの統治を確立し、私
への想いにのみ浸る人々のヨガ・クシェマ(幸福の責任)を負わねばなりません。ですから私を喜ばせる最善
の方法とは、すべてに神を見いだし、まさに私にしたいと思うことを人々にたいしてすることです。
神には2つの誓い、2000の誓いがあるかもしれません。それも神の意思です。しかしバクタには自らを
救うためのたったひとつの誓いがあるだけです―――全託=シャラナガティの誓いです。万物の神性に完全な
る信仰を抱いたなら、帰依心は自然とあなたの内に確立されていくでしょう。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
180-181p)
◇
インタビューのとき、ある人が私にこう尋ねました。「スワミ、質問してよろしいですか?」私は疑念をは
らすのに私を活用するのは悪いことではないのだから、いつでも質問を歓迎しようと答えました。すると彼は
尋ねました。「スワミ、あなたが誰かを教えてくださいますか?」私は答えました。「しかしそのためにはま
168
ずあなたが誰であるかを知らねばならない。あなたが私、私、私と言うとき、何のことを言っているのかをま
ず知りなさい」彼の「私」はこの「私」です。彼の内の「私」はこの「私」と同じものです。その違いは、電
球の力に差があるように、光輝を具現する程度によります。神々はあなたにもっとも近しい者、母であり、父
であり、教師、友、守護者です。神を求めなさい、神は瞬時にこたえます。夜明けのときから夕暮れのときま
で、一瞬一瞬を神とともに過ごしなさい。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
169p)
◇
どうしたら私にアーナンダを与えることができるでしょう。私の言ったことに心を砕き、日々の実践に移す
ことです。高みにいたることを決意しながら低きにとらわれるのは、あなた自身への裏切りです。あなたの人
となり、ふるまいを向上させなさい。感情が浄められ、衝動が純粋になったとき、私の御姿を真の実在に見い
だすでしょう。手短かに申しあげましょう。私を認識すべき知性からゆがみを取りのぞきなさい、まっすぐで
鋭敏なものにしなさい。
今や私はあなた方の手の届くところに、まさに探し求めつづけてきた宝物としてやってきました。私たちの
結びつきはアートマによるものであり、世俗的なものでもつくりこまれたものでもありません。他ではいつも
何かをまきあげられます。なぜならその結びつきが金銭にもとづいているからです。また別の場所ではカース
トや学位、何らかの付随する条件にもとづきます。ここでは、ナーラーヤナがナラにたいして、海が川にたい
して、普遍なる者が個にたいして抱く愛情がもとになっています。ここでは誰もが限界をもうける束縛からの
がれ、無限にならねばなりません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
196p)
◇
来なさい。私は壊れたハート、傷ついたアンタカラナ(マインド、知性、エゴ)の修復者です。私は鍛冶屋
のようなもの、溶接し、修繕し、正しい状態に戻します。10年前、ある帰依者が歌って私に祈りました。「私
のハートは渇ききり、ともしびは消えてしまった。行く道は暗く頭は混乱するばかり。神よ、私をもう一度、
人生という困難な道のりが歩めるようつくりかえてください」神はバクタ(帰依者)のプージャルーム(祈り
の部屋)の扉の前で、今にも願いを叶えようと待ちかまえていることでしょう。まさに神を自らのしもべとす
る人こそ、真のプラブー(神)といえましょう。
決して信仰をぐらつかせてはなりません。他人のしもべになってはいけません。いいえ、たとえそれが神で
あったとしてもです。試しなさい。試し、調べ、体験し、そうして神を見いだしたなら、当然の権利を主張し
なさい。しかしその権利を得る前に、試験を受けて合格しなければなりません。私は罰するためでもなく、あ
なたをトラブルにおとしいれるのが愉しいからでもなく、合格する喜びを与えたいがために試験の機会を与え
るのです。
あきらめたり、絶望したり、落胆するのもいけません。あなたが霊性の道で前進するのも私のサンカルパ(意
思)によります。私はあなたのすべてをよせあつめ、コンクリートの土台をしき、壁を立て、屋根を渡し、建
物を完成させます。私のサンカルパが功を奏さないことは決してありえません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
77-78p)
◇
あなた方は私の神性実在のさらなる体験を求めて騒ぎたて、それによって信仰が強くなることを望んでいま
す。海の水を味わうには、舌の上にひとしずくの水滴をのせれば十分であり、海をまるごと飲みこむことはあ
りません。一度味わったものを疑い否定するのは、あなたの気まぐれ、エゴ、傲慢さです。一度の体験では十
分ではないというのですか?
それなら私はこう尋ねましょう。有限のものが無限なるものの深淵をどう理解
することができましょう。アリに山を調べることができますか?
どのように、またどうして私がこの手で物
質をつくりだすのかは、あなた方の理解を超えています。考えてごらんなさい。あなた方は、責任は明らかに
あなたにあるというのに、たった一家族の問題に耐えうる忍耐力さえ持ちあわせてはおりません。ならば何千、
何百という家族の問題に、親に見ることさえまれなプレマ(愛)で耳を傾け、対処し、解決する私の忍耐を想
169
像してみなさい。そう、あなた方に私をおしはかることはできません。あなたと私をつなぐ、俗世を超えたき
ずなの強さを理解することは決してできないでしょう。
このきずなの実感は、それと気づかぬうちにあなたのもとに訪れるでしょう。あなた方のなすべきことはそ
の瞬間を待ちうけること。信じ、祝福に授かりなさい。今あなた方はシヴァ、ナーラーヤナ、ラーマ、クリシ
ュナを崇拝していますね。それはどのようにしてはじまりましたか?
それ以前にどんな体験をしたのでしょ
う。ラーマのダーヤ(慈悲)、シャンタム(平安)、プレマ(愛)でしたか?
それともクリシュナのカルナ
(慈悲)、プレマ(愛)だったでしょうか。
(サティア・サイ・スピークス2
101-102p)
7.バガヴァン・ババの誕生日の意義
今年あなた方は私の誕生日をアヴァター(神の化身)の「黄金の祝祭(50年祭)」と名づけ、世界中のあ
らゆる場所から膨大な数の人々が集まりました。このサット・サング(聖なる交流)により、あなた方は必ず
や恩恵に浴するでしょう。私はカレンダーの特定の日づけを私の誕生日と呼ぶことはありません。なぜならあ
なたのハートに神性が開花した日を、あなたの内に「私が誕生した日」とみなすからです。ですからあなた方
各自が、その日を私の誕生した日として祝えるようでなければなりません。私のすすめを実践し、私の指揮に
従い、私のメッセージを奉仕活動におきかえ、サーダナに従事する決意をした日―――それがあなたにとって
の私の誕生日です。私が生まれた日としてたたえている11月23日を、もしも決まりきった儀式のように祝
うのであれば、他のどの日でも同じことです。人を敬愛すれば、その敬愛は私に届きます。人を軽んじるのは
私を軽んじることです。神を崇めながら神の複製である人を抑圧するなら、そこに何の意味があるでしょう。
神への愛は人への愛として示しなさい。その愛を奉仕で表しなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
117p)
◇
愛とアーナンダ(神の至福)をハートに抱きなさい。アーナンダは純粋なものを見、純粋なものを聞き、純
粋な言葉を語り、純粋な行いをすることでもたらされます。
このアーナンダの内に自らを確立する日、それがあなたにとっての私の誕生日です。もう一点申しあげてお
きましょう。スワミの誕生日は、旅の費用やたいへんさにもかかわらず、遠いところから何千人もの人がこの
地にやって来るという理由から、プッタパルティでお祝いしています。しかしスワミの誕生日だから来なくて
はならない、そう思いこんではいけません。
私には私の誕生日を祝ってほしいという望みはありません。そのようなつまらぬ想いが私に入りこむことは
決してありません。私の唯一の望みは、私のアーナンダをあなたとともに分かちあい、あなたがアーナンダに
満ち満ちた人生を送れるよう、勇気づけることにあります。私の誕生日はあなたがアーナンダを得た日のこと
です。私の使命は*ローカ
サマスター
スキノー
バヴァントゥ―――「全人類に幸福と繁栄あれ」です。人々
の一体性に気づきなさい。愛を促進し、地上のすべてが喜びに満ちたりるよう奉仕しなさい。ハートをその情
熱で満たしなさい。そのときまさに、あなたのハートはサイ・マンディール(サイの寺院)になるのです。そ
の瞬間からあなたのいる場所が私のいる場所です。(*Loka samastha sukhino bhavanthu)
今朝からたくさんの人々が私に「ハッピー・バースデイ」と言葉をかけました。誰も私のために「ハッピー
=幸せ」を願う必要はありません。私はいつでもどこでも幸せです。アーナンダ・スワルーパ(神の至福の化
身)に、なぜハッピー・バースデイと言う必要があるでしょう。アーナンダをかき集めるのに、毎年一年間待
つことはありません。あなたもつねに幸せでありなさい。
(サティア・サイ・スピークス14
101-102p)
8.夢の中のババの姿の意味
ここでひとつ申しあげておかねばなりません。どんな夢が本物でしょう。神の夢が本物です。夢の中で私を
見、ナマスカーラム(ひれふすこと)を許され、祝福され、恩寵をそそがれる―――それは真実です。私の意
170
思とあなたのサーダナ(霊性修行)によるものです。もしも神やグルが夢の中に顕れたなら、それはサンカル
パ(神の意思)の結果であり、それ以外のどんな理由によるものでもありません。決してあなたの願望から起
こることではありません。
(サティア・サイ・スピークス5
197p)
まとめ
サティアは生きとし生けるものの魂、アートマです。よってクリシュナ、パラマートマ(至高の魂)の化身
と同義になります。命あるものはみな、自らの内に魂としてサイババの至福と愛を秘めています。それに気づ
いたとき、人は大宇宙の神性実在とひとつであることを理解します。
171
第7章
ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラ
ブラフマー、ヴィシュヌ、 マヘーシュワラ
イントロダクション
ブラフマーが世界を創り、ヴィシュヌが維持し、シヴァが破壊します。この創造(スリシュティ)、維持(ス
ティティ)、破壊(プララーヤ)のプロセスは、この順番で永久に続いていきます。…(略)…
この3つの性質はあらゆる創造物に生じるものです。より厳密にはグナと呼ばれてきました。サトワ・グナ、
ラジョ・グナ、タモ・グナです。この3つのグナのもっとも純粋な姿は、現象界をその配列と組み合わせによ
り生じさせている根本的な存在です。3つのうちサトワ・グナは、光、軽さ、善、純粋さ、知性、英知に関与
しています。求心性の力といえるでしょう。タモ・グナはサトワ・グナとは対照的で、暗闇、重さ、悪、汚れ、
無知、幻惑に関与します。いわば遠心性の力です。この対立する2つの力の微妙なバランスを保つ働きをする
のがラジョ・グナです。たえまない内的緊張と内的活動の状態にあるからです。この休むことない活動性がこ
のグナの主な特徴であり、心理学の世界では情熱や野望として姿を現します。
三大神は大宇宙に創造、維持、破壊をもたらすこの3つのグナに関連しています。ヴィシュヌはサトワ、存
在、維持の力を表し、シヴァは滅ぼす力、タマスを表します。ブラフマーはこの2つの間に位置しラジャスを
表しています。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
『ヒンドゥーの神と女神』
19-20p)
ブラフマー神
伝承によれば、ブラフマーは大宇宙の創造主といわれています。ヴェーダンタ哲学ではヒラニヤガルバと呼
ばれる「大いなる霊体」が創造主ブラフマーだと考えられています。個々人の霊体は心と知性、つまり思考か
らなりたちます。大いなる霊体は生きとし生けるものすべての霊体の集合体です。個々の霊体は、自らのより
粗いレベルの肉体と、その肉体がかかわりあう物質世界の創造に責任を負っています。いいかえれば、物質レ
ベルでの肉体、現象界を映し出しているのは心や知性という装置だということです。
目に見えて多様な物質世界は、目に見えない真理から生じました。創造主ブラフマーが、乳海の大蛇アナン
タの上に横たわったヴィシュヌ(永遠の真理の意)のへそから生まれたとされるのは、このことを示していま
す。
ブラフマーは蓮の花に座した4つの頭の神です。4本の腕には、水差し(カマンダル)、経典(ヴェーダ)、
儀式の道具(スルヴァ)、数珠(マラ)が握られています。鹿の皮を身にまとい、白鳥(ハムサ)が乗りもの
です。
蓮の花に座っているのは、ブラフマーが永久に無限の真理に根ざしていることを示すためです。4本の腕は
人に内在する資質の4つの側面、つまり心(マナス)、知性(ブッディ)、エゴ(アハンカラ)、意識(チッ
タ)を表します。この4つの資質は思考が働くときの4つの道すじであり、純粋なる神意識の顕れでもありま
す。
ブラフマーの身につけている鹿の皮は、至高の境地にいたろうとする者はまず最初に禁欲を守らなければな
らないことを示します。禁欲を行いつつ、神の手に握られたブッディ(知性)の象徴、経典(ヴェーダ)の真
理を綿密に学び、熟考しなければなりません。自らを律し、鍛え、シャストラ(経典)の知識を得、肉体を無
私の目的に活用し、万物の繁栄のための行い(カルマ・ヨガ)を捧げなければなりません。もう一方の手に握
られた儀式の道具(アハンカラ=エゴ)がこのことを示しています。この3つの霊性修養がなされたとき、探
求者の心を占領していた外界を追い求める五感の欲求が撤退していきます。内にむかうことで静まりかえった
心のみが、専念(ダーラーナ)とジャパ(3番目の手の数珠(マラ)で神の御名を唱えること)にふさわしい
といえるでしょう。瞑想は、探求者を有限の個から無限の超絶の境地、神意識へと運ぶ最終的なプロセスです。
それは4番目の手に握られた意識(チッタ)意味するを水差し(カマンダル)―――サンニャーシの象徴――
―に示されています。
(A.パルタサラティ著
◇
R.S.ナザン編纂
◇
◇
『ヒンドゥー教の象徴性』
107-108p)
◇
また別の解釈の仕方はこうです。「数珠は時間を象徴し、水差しは万物の創造をもたらした原始の水を表す。
172
そのためブラフマーは因果律だけでなく時間をもつかさどる。儀式用の道具(ひしゃく、クサの葉など)は様々
な生きものが互いに生存するための犠牲の原理を示す。書物は聖界、俗界の知識を表す。神こそがあらゆる知
識―――芸術、科学、英知―――を授ける者であることによる。印(ムドラ)を結ぶ手は、アバーヤ(保護)
とヴァラダ(祈りの成就)を示す」
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
24p)
◇
神ブラフマーは白鳥(ハムサ)に乗っています。覚醒にいたった者が白鳥に独特の能力をたずさえ、世界を
動きまわることを意味します。ハムサ(白鳥)はヒンドゥー教の神話に描かれるように、水の混じったミルク
からミルクだけをより分けて飲むことができます。同様に完成された者も、この多様な現象世界に内在する唯
一至高の真理を認識するのです。
万物の創造はヴィクシェーパ(思考の乱れ)から生じました。このヴィクシェーパ・シャクティがブラフマ
ー神であり、心のすべての動きであり、知性そのものです。本質的に心と知性からなりたつ人間は、すでにこ
のヴィクシェーパ・シャクティが呼び覚まされているため、ブラフマーを認識していることになります。そこ
からブラフマーへの礼拝や祈りは行われないようになりました。
この創造の考え方が、真理を求める人々にとって相矛盾したものであるため、インドではブラフマー神への
礼拝は一般的ではありません。無限の真理をヴェールで覆い隠しているのがこの創造という思考の力であり、
探求者たちはみな現存する思考というものを破壊し、真理がその姿をあらわにするまでその状態を維持しよう
とするからです。そこでブラフマーよりも、シヴァ神とヴィシュヌ神が崇拝されるのです。
(A.パルタサラティ著
R.S.ナザン編纂
『ヒンドゥー教の象徴性』
111-112p)
ヴィシュヌ神(ナーラーヤナ)
ヴェーダンタ哲学では、人間について問いかけるとき、存在の深奥に内在し、知覚、感情、思考の源である
純粋意識を見いだすよう導きます。
私たちひとりひとりの存在をきらめかせているこの偉大なセルフこそが、唯一にして永遠の実在です。その
実在が心や知性を通じて表現されるとき、活発な創造が生じます―――俗世界における善や悪の入手、所有、
獲得、達成といったことです。…(略)…
ヴィヤーサはこの偉大なる存在を、ヴァイクンタでヨガの眠りに浸るシュリー・ナラーヤナの姿で描きだし
ました。乳海(クシーラディ)で大蛇(アナンタ)の鎌首に守られながら、その背でヨガ・ニドラで休む様子
が描かれています。ナーラーヤナの御足には、配偶者として永遠にかしずく配偶者、ラクシュミーが仕えてい
ます。
私たちの人格の奥深く(ヴァイクンタ)には、千もの頭をもつ大蛇アナンタ(心)に横たわる無限の真理(ヴ
ィシュヌ神)があります。ヒンドゥー教は、一瞬にして同時に千もの考えを抱くことができ、千にものぼる衝
動、嗜好、欲望、情熱を通じて毒を吐き散らしさえする心というものを、この蛇によって表現しています。一
生のうちには、この首をもたげた「コブラ」が、鎌首を体の遠くに投げ出して攻撃をしかけることがあります。
心が外側の世界にむけられたとき、外の世界にむかって毒をまき散らすのです。しかしここでは首を体にひき
よせ、とぐろを巻き、神ヴィシュヌ(=遍在する者)の横たわる柔らかなベッドになっています。いくつもの
頭をもつ人の心も、内側にむけて落ちつけたなら、大いなる静寂(サマディー)に身を浸す瞑想者になること
でしょう。その瞬間、呼吸を忘れる献身に思考を止められ、生気のみなぎる心に無限なるヴィシュヌ神が横た
るのを知るでしょう。神はヨガの眠りについています。純粋意識からすれば、そのときそこに知覚や感情、思
考からなりたつ一般的な意味での世界はありません。眠っている間は世界の多様性を認識していないのと同じ
ことです。しかしこの状態は、ふだんの眠り(ニドラ)とは違います。すべてにあまねくいきわたる実在を実
際的に体験するのです。そこからヨガ・ニドラと呼ばれます。
このような神のヴィジョンは心が内側にむけられたとき、もっとも純粋な波動の中でしっかりと内にむいた
ときにのみ体験されうるものです。つまりヴィシュヌ神が「乳海」で体を休めるとは、ミルクの海のような人
の柔らかさの内に体を横たえるということを描いたのです。
かたわらではラクシュミー(富、力、繁栄)がナーラーヤナに仕え、御足に身を寄せています。覚醒した者
とは、瞑想により大宇宙の魂を自らの内に体験した者であり、物質界の富を追い求めることはありません。あ
173
らゆる栄光の方から、貞淑な妻として仕えたいと御足に身を寄せてくるのです。
神ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)は、三大神のうち維持の力を表す神格です。邪悪な性質の息の根を止め、
世界により重大な進歩への準備をさせるため、最適な時代を選んで様々な姿で化身し、人々のもとに姿を現し
ます(第4章ラーマ、第5章クリシュナ、第6章ヴィシュヌ神の化身サティア・サイ・ババ
参照)。そのと
きこの神は自らの眠りから目を覚まし、帰依者に祝福を与えるために地上に降りたち、ナーラーヤナの姿をと
るのです。
伝統的に、ナーラーヤナは青い肌に黄色い布をまとい、頭には冠を戴いて蓮の花にたたずんでいます。4つ
の腕をもち、それぞれの手には法螺貝(シャンカ)、円盤(チャクラ)、棍棒(ガダ)、蓮の花(パドマ)を
握っています。…(略)…青は無限を示す色であり、人の目には何であれはかりしれないものは青く映ります。
…(略)…黄色は土の色を示します。土に埋められたものはみな黄色味を帯び、土(泥、ケイ素)を火にくべ
られれば黄色く燃えあがります。つまりシュリー・ナーラーヤナははかり知れぬ遍在する実在を表し(青)、
事象に覆いつくされた無限なる者(黄)を意味しています。形を通して表現された無限です。
このようにセルフ(アートマ)が形として顕れるとき、個(ジーヴァ)が生じます。この世での個の行いや
達成は、肉体の2つの腕でなく、霊的な4つの腕でなされています。肉体的な器官を集めた人の内側で働くこ
の「4つの腕」が、「霊体」と呼ばれるものです。ヴェーダンタ哲学では「内的器官」として知られ、心、知
性、すべてにまつわる意識、そしてエゴの4つからなりたちます。このことがヴィシュヌ神の4本の腕に象徴
的に表現されているのです。
神ナーラーヤナはあらゆる姿、あらゆる名の主として、頭に冠を戴くことで主権を示しています。全宇宙す
べてを所有する唯一者なのです。
このすばらしい無限の神は、まさに内なるセルフとして私たちの人格の核に宿っています。
神ナーラーヤナの手から道具がなくなることはありません―――宇宙を維持する神としてどのように御業を
行うのかを示すシンボルが、それぞれの手につねに握られています。神ナーラーヤナは、人が俗世の関心事に
背をむけより気高い価値ある生を生きるよう、法螺貝を吹き鳴らして呼びかけます。最終的には決して乱れる
ことのない平安と成就、神の無限の至福にいたり授かるのです。この「最終的なゴール」が私たちの経典の中
で蓮の花として描かれます。
慈悲深い神ナーラーヤナが、完全なる至福というもっとも崇高な体験を帰依者に授けたいと切望するとき、
五感の衝動や動物的な性質をもとに動きまわる人の耳には、それをやめてそこから離れるよう呼びかける内な
る良心の鋭い音色が響きわたります。たいていの人はこの音色が聞こえないか、もし聞こえていてもまったく
従う気がないかのいずれかです。聞こえてもなお五感を満たすためにかけまわるのです。この神が完全なる愛
情から、気落ちし不満にあふれ安息を知らない人々を打ちのめすのに棍棒をふるまうのは、まさにこのときで
す。
そんな罰を下されてもなお、帰依者が霊性の道からはずれ最終的なゴールにむかって前進しようとしないと
き、神ナーラーヤナは円盤に宿る圧倒的な破壊の力を用い、今いる不健全な状況下から帰依者をひきあげます。
これは個人、共同体、国家にもいえることです。五感の求める物質的な快楽という妄想にとりつかれていると
き、人の心は五感を満たすだけの破滅的な生き方に小躍りしています。もしこの物質的で五感の快楽ばかりに
満ちた生き方が、精神的な緊張や消耗をひき起こしているにもかかわらず続けられたときには、より気高いも
のへの切望をも使いはたし、社会は基本的な機能さえ失い、しまいには持っていたものすべてを失い、哀れで
みじめな奈落に陥るのです。これまで歴史と良識の中に記されてきたことです。
また法螺貝を握る手を「知性(ブッディ」、円盤を握る手を「エゴ」、棍棒を握る手を「心(マナス)」、
蓮の花を握る手を「意識(チッタ)」とみなすこともできます。識別力をもった知性は私たちに呼びかけ、よ
り実り多い生き方を差し出します。もしこの沈黙によるささやきを無視し外側にむかう暮らしにおぼれていれ
ば、「心」はその人の人格という扉をいつまででもノックしつづけます。それでもなお自らの愚かさに気づく
ことなく人生の浪費をやめずにいれば、まさにその愚かさに足かせをはめられ、肥大したエゴが知性にそむい
て暴れだし、徹底的な破滅へと追いこまれてしまうのです。
しかしその一方、呼びかけに耳を傾け、エゴを降服させ、心を神への献身に浸したときには、必ずや聖なる
神の御足にたどりつき、私たちのほんのちっぽけな献身にたいして神の差し出す永遠の報酬、蓮の花を手にす
ることができるのです。心、知性、エゴといった「内的器官」を超えたところに、純粋なる無限のセルフとし
てそれらを照らし出している神の威光、神意識、神そのものを見いだすことができるでしょう。
神の御姿に象徴されたものを瞑想すると、たんに目に見える神の姿を見つめるだけでなく、自らの内に宿る
真理、大いなる実在の領域へと没入するようになります。神はつねにこの聖なるブラーフマンにおわします。
174
そのため神々は蓮の中にたたずむ姿で描かれるのです。
(スワミ・チンマヤーナンダ著
R.S.ナザン編纂
『ヒンドゥー教の象徴性』113-120p)
マヘーシュワラ(シヴァ神)
生まれたものは必ず死ぬ。生じたものは必ず滅び、破壊されねばならない。これは侵すことのできない法則
です。この崩壊をもたらす原理、破壊の力の背後にいるのがシヴァ神です。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
57p)
◇
シヴァ神のもつれた髪は、行ったタパス(禁欲、苦行)が長く激しいものであったことを示し、その髪のま
わりのコブラは、至高の存在と完全に同化した者が五感や肉体の器官にまつわるあらゆる影響を超越しており、
猛毒にさえ何ら影響されないため、有毒であっても何の害も与えぬものになってしまうことを意味します。と
きにシヴァ神を慕うコブラの図が見られることもありますが、それは大宇宙の意識にもてあそばれるエゴを表
し、何の悪事も働けないこと、その毒がすでに取りのぞかれていることを示しています
(V.A.K.アイーヤー著
◇
◇
R.S.ナザン編纂
◇
『ヒンドゥー教の象徴性』
67p)
◇
顔の中央に位置する第3の目は、ジュナーナ(英知)への集中を示し、タマスとその顕れ(暗闇、英知など)、
その資質を破壊する絶対的な力を示しています。…(略)…青い首はマーヤー、アヴィディヤ(無知)がいた
るところに蔓延していることを象徴します。首より上、首から先は、永遠にして不滅なる者へと導くジュナー
ナ(英知、より高次の知性)の座すところです。…(略)…灰のぬりたくられた体は、自慢に思いとりつかれ
ている肉体というものが、しまいにはたんなる灰になってしまうことを思い起こさせます。…(略)…また灰
は精神につみかさねられたヴァサナ(傾向)を焼きつくすことを示しています。
三叉檄(さんさげき)は人々を引きずり下ろそうとする6つの資質、いわばカーマ(欲望)、クローダ(怒
り)、ローバ(貪欲)、モハ(幻想)、マダ(おごり)、マトサリヤ(ねたみ)をうち砕き消滅させる、サマ、
ダマ、ヴァイラーギヤを象徴しています(「サマ」=内的にも外的にも五感をコントロールすること、「ダマ」
=様々な二元性、嘆きや悲しみに暮れ、喜びや勝利に酔いしれていてもゆるがずにいること、「ヴァイラーギ
ヤ」=移り変わるものへの無執着)。この三叉檄を容赦なくこれらの弱点にふるうことで、堕落を促すそれら
の資質の奴隷として俗世的に生きることの無意味さに気づきます。そしてこの気づきが、誕生し存在する至上
の目的―――解脱―――へとつき動かすのです。
シヴァ神はタパス(苦行)と禁欲、そしてその結実である英知により、死を克服しました。トラの皮のころ
もはヴァイラーギヤ(無執着)を示し、肉体と、肉体が欲するものに完全に無関心であることを示します。手
に結ばれたチンムドラの印は、人差し指が親指の中頃に触れることで「0=ゼロ」の文字を作り出すのに示さ
れるように、人々のエゴ(人差し指)も折り曲げて降服させ、個という意識を終結させなければならないこと
を教えています。
(Dr.S.R.D. シャストリー著
◇
◇
R.S.ナザン編纂
◇
『ヒンドゥー教の象徴性』
67-68p)
◇
次に続く引用は、三大神(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ(=マヘーシュワラ))について述
べられた、バガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババの言葉です。
1.三大神
ブラフマー・ヴィシュヌ・マヘーシュワラ(シヴァ)
創造は3つのプロセス、スリシュティ(創造)、スティティ(維持)、ラヤム(消滅)にもとづきます。宇
宙はこの3つのプロセス(カルマ)によって進められています。この世界では行い主(カルタ)のない行い(カ
175
ルマ)はありえません。行い手と行いはつねにともにあります。
誰が行う者でしょう。行いとは何でしょう。行いの結果とは何でしょう。この3つを正しく理解してはじめ
て創造の秘密を知ることができます。
神のリーラ(霊的行い)を批判するのはたやすいことですが、内に秘められた意味を理解するのは難しいこ
とです。人生は神の流儀を理解するためにこそ捧げられねばなりません。
そのためにまず最初に知っておかなければならないのは、スリシュティ(宇宙の創造)です。このプロセス
にかかわるものを理解しなければなりません。たとえば、巨大な橋を建設するにはたくさんの技術者、その他
の人々が必要です。最高責任者に加え、その下で働く技術者、人材が力を合わせることにより、橋を建設する
ことができます。同様に宇宙の創造、維持、消滅にも3つの主要な作用が必要であり、創造の最高責任者はブ
ラフマー神です。ブラフマーが創造にまつわるすべての責任をにないます。創造の次にくるのが維持です。創
造されたものは育まれ、保護されなければなりません。この役割の責任者がヴィシュヌと呼ばれます。成長を
とげた後には必ず消滅という段階がやってきます。この消滅のルールを定め、それを実行する責任者がいます。
それがイシュワラ(シヴァ)と呼ばれます。このように創造、維持、破壊には、働きの上でそれぞれの責任を
になう3人の最高責任者がいます。そしてこの3つの働きを統括する、いわば内閣における首相のような存在
がなければなりません。ブラフマー、ヴィシュヌ、イシュワラが異なる3つの作用をになう神格であり、さら
にはこの三神を統括する最高権威者がいます。バラティヤ(インド)人はこの最高権威者をバガヴァンと呼び
ならわしてきました。異なる信仰を持つ人々はこの権威者をまた別の名前で呼びます。今日では「神」という
言葉がもっとも広く用いられています。バガヴァンとは、創造、維持、破壊という3つの機能を統括する唯一
者の意味です。
GOD(神)という言葉はG、O、Dの3つの文字でできています。Gはgeneration(生成、創造=ブラフマー神)
をさし、Oはorganization(組織=ヴィシュヌ神)、Dはdestruction(破壊=シヴァ神)をさします。「GOD=神」
について話すとき、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァをそれぞれ神格とみなしているといえるでしょう。「神」
はこの三神にたいし権力を行使する実在です。原子の姿で全宇宙に遍在します。「原子のように微少にして、
広大なる創造の広大さそのもの、原子の姿で万物にあまねく浸透するもの、それがアートマ(テルグ語の詩よ
り)」
こうして神はアートマと呼ばれます。アートマはあらゆるものに宿り、あらゆるところにおわします。そし
てこの遍在するアートマは永遠の観照者です。単純な例でその役割を説明することができます。ここに灯りが
あります。灯りの下では本を読む人もいれば、眠る人、おしゃべりする人、動きまわる人もいるでしょう。し
かし灯りはそれらの様々な活動に一切関与することはありません。灯りはたんなる観照者です。それと同じで、
太陽は光り輝きます。その太陽の光を利用し、様々な人が様々な活動を営みます。しかし太陽は、それぞれの
人になされた善い行いにも悪い行いにもまったく影響されることがありません。行いの責任は各自にあります。
太陽の光は起きていることがらすべてを観照者として照らします。太陽の光なくしてこれらの活動はありえま
せん。つまり太陽は行いを可能にする力ではあっても、その行いの結果を授ける者ではありません。ブラフマ
ー、ヴィシュヌ、イシュワラにも、数々の行いを可能にし、結実を促し、そのむくいをどのように享受したら
よいのかを決定する責任があります。それぞれに関して恩恵をたまわることのできるよう、三神それぞれを慕
い敬わなければなりません。シヴァラトリの夜になされていることはまさにこれにあたいします。
ではどのように慕い敬うことができるでしょう。その方法は9つの献身の形で示されます。スラヴァナム(神
の賛歌を歌うこと)、ヴィシュヌスマラナム(御名の念唱)、ヴァンダナム(従うこと)、アルチャナム(肖
像を崇めること)、パダセヴァナム(御足を崇めること)、ダシャム(仕えること)、スネハム(慕うこと)、
アートマニヴェダナム(完全に帰依すること)。
今日、これらの神格の恩恵を手にする必要があります。力強い友がいれば日々の困難をのりこえていけるよ
うに、神々との友情があればどんな苦難にも立ちむかうことができるのです。正しく崇めることにより、神は
私たちの行いのゆくすえに手を貸してくださいます。神の御名はそのために不可欠なものであり、瞑想や苦行
もまた必要です。どんな崇拝の形であれ、神々を喜ばせるためにあります。
この三神は、それぞれの役目に応じて世が守るべき規律を定めます。道を通る人々がどうふるまえばよいか
を示す交通法規、道路標識のようなものです。
たとえばブラフマー神です。ブラフマーは創造主として、行いに関する法則と、生まれてから死ぬまでの一
生でその行いの結果がどのように人々に影響するのかに関する法則を定めます。それに加え、それらの法則を
変更する力もあります。この作用にもとづき、ブラフマー原理はいたるところで効力を発揮します。「ブラフ
マー」という言葉自体に「遍在する者」という意味があります。ブラフマー原理の遍在、それが大宇宙そのも
176
のです。
「ヴィシュヌ」もまた「遍在する者」の意味です。ヴィシュヌ原理もいたるところに遍在しています。ブラ
フマー原理のあるところには、必ずヴィシュヌの維持の原理も存在します。
保護があれば処罰があります。つまりヴィシュヌ神のおわすところには、イシュワラもまた存在するという
ことです。
この大宇宙はこれら3つの神格がおさめています。秘密を明かしましょう。創造に関してはブラフマー神を
慕いこの神との結びつきを確立しなさい。維持にまつわる場合には(ヴィシュヌ神を慕い)ヴィシュヌ神との
つながりを確立しなさい。破壊に関するならイシュワラ(シヴァ神)との結びつきを確かにしなさい。しかし
もしあなたの心が完全に純粋であるならば、「神」と直に結びつくことができるでしょう。下位の神格に近づ
く必要はありません。方法がひとつあります。完全に帰依することです。帰依を通じて「神」と心と心で直接
つながることができるでしょう。…(略)…
創造、維持、破壊をになう3つの神格、ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神が三大神です。しかしそこ
にはこの三神を超えた4番目の存在―――大いなる主(シュリオナーヤカム)がおわします。それが「神」で
す。「神」は三大神をも支配します。どのようにでしょう。カルマの結実の重さを軽減することによってです。
それがどんなものであろうと、うち消すことができます。それこそが「神」の「神」ゆえの特権だからです。
あらゆるものを生みだし、あらゆるものを保護します。そしてそこに消失を生じさせ、それを遂行します。
これらのことから、「神」には創造・維持・破壊すべてにたいする支配権があるとみなさなければなりませ
ん。「神」を認識するには、あなたというものを完全にゆだねなさい。あますところのない帰依がなされたと
き、「神」とじかにつながることができます。帰依もなく、下位の神格を敬い慕ったところで、それは時間の
無駄というものです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
4月号
85-98p)
◇
プラナヴァ(OM)の4つの段階は、それぞれヴィシュヌ、ブラフマー、ルドラ、パラマートマといった神々
に関連します。ヴィシュヌとは遍在者の意味です。目に見えるこの世界は美に満ちあふれています。美は神で
す。この世界が神=至高なる者の肉体であることから、ヴィシュヌ神は経典の中でこう記されてもいます。「美
の装飾を愉しむ者(*アランカーラ
プリヨー
ヴィシュヌ)」物質世界は調和、法則、均衡に満ちているがゆ
え、魅力的で人をとりこにします。外界、この世というものは、この魅力によって人々を様々な行い、様々な
活動へとひきこむのです。五元素、五感、五つの精気、その他の現象らは、人格を形成する様々な教えを授け
ます。ですから客観世界はあなたの師であるといえましょう。(*Alankara Priyo Vishnu)
ヴィシュヌ神は、育み、養い、つくりあげ、治める神です。さらにいえばこの大宇宙の守り主ジャガドラー
クシャカです。経典によれば、本来目覚めている時間(ジャグラトの段階)は、ヴィシュヌ神の領域でありヴ
ィシュヌ原理が支配することから、その時間を神聖なものにするよう説かれています。よこしまな行い、堕落
した想い、誤りや失敗を避けるようすすめられています。
眠っている間、人は神聖な至福を体験しています。目覚めているときには、純粋な無私の活動に落ちついて
従事している間にしか体験できないものです。夢の中では様々なものや人物が出てきたり、摩天楼や城など風
変わりな世界を見たりします。これらはどこから出てくるのでしょう。一体誰の中にあるものなのでしょう。
プラジュナーナム・ブラーフマン=至高の意識がこの夢の様々な現象を創りだしている源です。ブラフマーは
創造する神です。つまり夢見の状態とは、意識の中でもブラフマー神の領域なのです。
そして深い眠りの段階です。ここでは目覚めている間に得られた体験も、夢の中での体験も、影響を与える
ことはありません。アートマの探求者にも同じことがいえます。溶けこんでしまうのです。探し求めていたも
のとひとつになってしまうのです。もう戻ることもできず、その体験を語る言葉はありません。
「OM(AUM)のAはヴィシュワ、Uはタイジャス、Mはプラジュナ」経典の中にあるまた別の解釈です。ヴ
ィシュワは目覚めている段階、タイジャスは夢見の段階、プラジュナは深い眠りの段階をさします。だからこ
そ、探求者にとってプラナヴァ・サーダナ(OMを瞑想する霊性修行)がたいへん重要なのです。ヴェーダでは
神聖な経典を学ぶとき、神の御名を唱えるとき、日常の仕事を行う間、また神に捧げものをするとき、プラナ
ヴァ(OM)をくりかえし唱えるようすすめています。
(サティア・サイ・スピークス15
177
18-19p)
◇
◇
◇
◇
カルマ・カンダはカルマの法則が肉体をもつすべての存在に影響を与えること、そしてそれが人間にかぎら
ないことを明らかにしています。三大神ブラフマー、ヴィシュヌ、ルドラでさえもカルマの結果を避けること
はできません。彼らは行いによってこの真理を世に示しています。たとえば、ブラフマー神は陶芸家のように
たえず大宇宙を創造しつづけています。その作業はやむことがありません。なぜそうしなければならないので
しょう。独立したひとつの肉体だからです。肉体をカルマを行うためのものとみなし、カルマを通じて自らの
ダルマ(正義)をはたすことで、世に模範を示しているのです。
ヴィシュヌ神はダルマが衰退し、破滅の危機にさらされたときに必ず肉体をかりて降臨します。よこしまな
ものの攻撃に立ちむかい、邪悪な人々を罰し、善良で純粋な人々を守り、帰依者からの崇拝を受けることで、
ダルマの保護と人々の改心という自らに課せられた努めをはたします。疑問に思うことでしょう。なぜヴィシ
ュヌ神はダルマの守り主としてそれほどの苦しい試練を味わわなければならないのか。試練ではありません。
姿形をとることにともなう責務を示すにすぎません。イシュワラ(シヴァ神)は体をヴィブーティ(聖灰)で
おおい、埋葬地に住み、様々な苦行に身をさらします。このように、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワ
ラでさえ、一生をどう有意義にしたらよいのかを、その行いによって人々に模範を示しつづけているのです。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
43-44p)
◇
目覚めている間、五感は自由に活動します。粗いレベルの肉体はこのときもっとも活発です。夢見の段階に
なると、五感はかすかな形で姿を残します。心は夢のもたらす幻想に夢中です。夢見の段階では肉体は精妙な
レベルで活動するのです。自らを活性化するため、魅力的で驚くような風景やできごとを夢の中でつくりだし
ます。深い眠りの段階では、精妙なレベルの肉体と連動していた五感は、エゴ=原因体のなかにすっかり身を
ひそめます。これがヴェーダンタ哲学の言葉でいうスーニャ(空)の状態です。積極的に何かを得ようとする
心の動きがまったくないため空(から)の状態だといえます。しかしアートマ(神聖なるセルフ)に気づくこ
とも、気づくことから得られる至福を授かることもありません。これはストゥーラ(粗いレベル)、スシュマ
(精妙なレベル)、カラナ(原因体のレベル)を超えた4つめの段階におよんではじめて起こることです。こ
の4つめの段階はマハー・カラナ(超越体)と呼ばれます。目覚めの段階は、様々な活動が行われる創造主ブ
ラフマー神の粗い領域です。それらがたんなるスティティ(存在)に姿を変え、ヴィシュヌの領域、夢見の状
態に溶けこみます。さらには活動も存在も溶解し、ラーヤー(ルドラ)の中で消失し、深い眠りの中に没入し
ていきます。
覚えておかねばならないのは、誰もが毎日スリシュティ(ブラフマー=創造主)、スティティ(ヴィシュヌ
=維持)、ラーヤー(ルドラ=消失)を体験しているということです。しかし人はそれを認識することも、そ
の恩恵に浴することもできずにいます。誕生が創造であり、死が消失であると誤解しています。無知に他なり
ません。この3つの変化の段階を超え、確固としたマハー・カラナ、アートマに自らを確立しなさい。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
65-66p)
◇
創造、維持、溶解は神の意思の3つの形です。カルマ・ヨガ(行い)によって、創造するものとされるもの
の意味を知ることができるでしょう。バクティ・ヨガ(献身)によって、維持するものとされるものを理解す
ることができるでしょう。ジュナーナ・ヨガ(英知)によって、あなたを出現させた原理へと溶けこむことが
できるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
22p)
◇
神は賞罰とはかかわりがありません。神はたんなる反射、反響、反動にすぎません。何ものにも影響されぬ
永遠の観照者です。運命はあなた自身が決めています。善い行いをし善良でいれば、善いものが返ってきます。
邪悪で悪い行いをすれば、悪い結果を刈り取ることになるのです。神に感謝するのでなく、自らに感謝しなさ
178
い。神に不平を訴えるのでなく、自らに訴えなさい。神には創造、維持、破壊をおこす意思さえありません。
すべては同じ法則、マーヤーの支配するこの大宇宙に内在する法則に従うのみです。
たとえていえば、電気はこの厳しい暑さの中、ファンをまわし涼しさを得るのに利用されます。灯りをつけ
るために用いることもできれば、人の声を大きくし遠くの人に聞こえるようにすることもできます。一枚の印
刷物から大量のコピーをつくることもできます。これらはみな電気の創造性です。しかしその便利さに過剰に
甘んじ、あまりにももてはやしすぎれば、あなたに電気を運ぶまさにその電線をつかんで死ぬことになるので
す。電気は創造し、維持し、破壊します。いずれをとるかはどう活用するかにかかっています。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
ある意味、人がまさに三大神―――ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラ―――そのものです。ヴィシ
ュヌ神はサトワの資質の象徴、ブラフマー神はラジャスの象徴、マヘーシュワラはタマスの象徴です。自らの
内にこのサトワ、ラジャス、タマス3つの資質をそなえるかぎり、人は三大神の化身です。
(サマー・シャワー・イン・ブリンダヴァン
◇
◇
◇
1993年
44p)
◇
五元素からなる人間の肉体に、神は3つのグナの姿で宿ります。バラティヤ人はブラフマー、ヴィシュヌ、
マヘーシュワラを崇拝します。三大神には形がありません。誰もその姿を見たものはなく、どんな方法を用い
ても体験することは不可能です。三大神はサトワ・ラジャス・タマスの3つのグナとして人の肉体に宿るから
です。この3つの資質が神の姿です。ブラフマー神は創造の責務を負います。創造のプロセスは精妙で、五感
のいずれをもそれを感知することはできません。すべてを超越するこのプロセスは母の教えです。すべては母
親から生じます。そこからウパニシャッドは「母を神として敬いなさい」と明言しているのです。母親は創造
神ブラフマーとして崇めなければなりません。母を敬い、母に仕え、母を信頼しなさい。それは神を崇拝する
ことの象徴です。
次にくるのが父親です。父親は子どもを守り、養育し、神のもとへ導きます。この保護者の役目はヴィシュ
ヌ神の資質であり、父親はヴィシュヌ神を象徴します。それが「父を神として敬いなさい」という教えになり
ます。父親、母親はそれぞれブラフマー神、ヴィシュヌ神の肖像です。
そしてイシュワラです。イシュワラはボーラサンカーラと呼ばれます。願うものすべてを与える神です。ど
んな願いにも決してノーとはいいません。そのような真理の体現があらわにされないはずがありません。この
恩恵(シヴァ神)を体験する手段がタマスです。タマスの資質はふつう鈍さや怠惰さと結びつけられます。し
かしこれは(シヴァ神の資質としての)タマスの適切な意味ではありません。シヴァ神の役割とは、人々を自
らの神性に目覚めさせる正しい道へと導くことです。
3つのグナの姿をかりた神はあらゆる人に宿ります。経典の格言「*イシュワラ
万物に宿る)」「**イサヴァシャム
イダム
サルヴァブータナム(神は
ジャガット(主はこの宇宙におわすもの)」に裏づけされてい
ます。3つのグナの重要性が理解できたとき、三大神の本質を理解することができるでしょう。(*Eswara-sar
vabhoothanam)(**Isavasyam idam jagat)
(サナタナ・サラティ
1995年
11・12月号
282p)
2.ヴィシュヌ神―――ナーラーヤナ
ギータには、バクティ、ジュナーナ、カルマがヨガとして述べられており、そこにはパタンジャリが述べよ
うとしたヨガ(*チッタ
ヴリティ
ニローダ=心のもたらすざわめきを鎮めること)の意がこめられています。
ヴィシュヌ神は平穏なるものの至上の模範です。客観世界は毒牙をもつ蛇で象徴されますが、ヴィシュヌ神は
千もの頭をもつ蛇の上で横たわり、**シャンタカラム
ブージャガ
シャヤナム(まさに平安という静けさそ
のもの)だからです。世俗の中にいながら、属することも束縛されることもない―――それが秘訣です。(*ch
itta vritti niroda)(**Shanthakaram bhujaga shayanam)
(サティア・サイ・スピークス6
179
95p)
◇
◇
◇
◇
ブラフマー神の蓮の花は、泥の中で成長し、太陽の光を求めて水上に顔を出し、花弁を開く植物なのではあ
りません。たくさんの花弁をもったハートに咲く蓮の花であり、一枚一枚の花弁のむきはその人個人をひきつ
ける独自の傾向を示しています。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
260p)
◇
この大宇宙で姿をとるとき、神はヴィシュヌ=宇宙の遍在者と呼ばれます。神が原因であり、宇宙が結果で
す。神の示す様々な象徴を理解するには努力が必要です。ヴィシュヌ神は片手に法螺貝をもち、もう一方の手
に法輪を、3つめの手には棍棒を握り、4つめの手には蓮の花をもつ姿で描かれます。これらに秘められた意
義とは何でしょう。法螺貝は音の象徴です。つまり神は音の顕れといえます。法輪(チャクラ)は時間の輪で
す。神は音、そして時の支配者なのです。棍棒は力や強さを示します。神の手には万物のもつあらゆる力が握
られる、という意味です。蓮の花はハートを象徴し、生きとし生けるもののハートが神の手中にあることを示
します。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1993年
9月号
226p)
◇
ヴァイクンタとは何でしょう。ヴァイクンタ、カイラサ、スワルガなど、神の住みかが様々に語られます。
…(略)…これらはみなばかげた幻想です。神の住みかは一体どこでしょう。神はナーラダに言いました。「帰
依者が私の栄華をたたえて歌うとき、そこがどこであろうと私は宿る」神の住みかは帰依者のハートです。そ
こが神の本拠地であり、他の場所はいずれも「出張所」にすぎません。ハートにおわす神聖なる居住者にむけ
たメッセージは、必ずや神のもとに届きます。
神の住みかといわれるヴァイクンタとは、永遠不変の場所のことです。人には様々な変化があるとしても、
心は不変です。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1996年
2月号
39-40p)
◇
ヴィシュヌとはサルヴァ・ビヤピ(遍在する神)の意味です。つまりヴィシュヌの住みか、ヴァイクンタ(楽
園)も遍在です。正しいパスワードを唇に、ノックするだけで入場権が得られます。心を浄化し、純粋にし、
神が姿を顕す場所と認めるだけで、あなたの心がヴァイクンタになります。ヴァイクンタとは「嘆きの影のさ
さぬ場所」の意味です。神が心に姿を顕せば、すべてが満たされ解き放たれます。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
4p)
◇
ヴィシュヌ神(化身としてはクリシュナ神)はガルーダと呼ばれる鳥に乗るといわれています。事実人の心
は鳥のようです。熱望を抱くと、心は神へと想いをはせます。神のもとへとまっしぐらに飛んでいくのです。
もしも息子がアメリカにいたなら心はそこにむかうことでしょう。時代を問わず場所を問わず、人は神にむか
います。人の本質が神性だからです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
169p)
◇
ヴィシュヌ神は大宇宙の神の原理を超えると同時に、その原理が不変であることを象徴する神格です。
「ルタム=周期性、正義」はまさにヴィシュヌの呼吸です。その呼吸が星々をめぐらせ、社会を安定させ、
180
進歩を促します。三大神のうち、ヴィシュヌ神は維持、育成、安定、強化にまつわる神です。よって、世界を
守り救うため、何度でも地上に化身します。この世という船が解脱という港まで着実に航海できるよう、全世
界がプラシャンティ・ニラヤム(深い平安の住みか)へと姿を変えていけるよう、ルタム(正義、正しさ、倫
理)を建て直さなければならないからです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
8-9p)
◇
不変の原理であるブラーフマンと、来ては去る人々、不変でもなく移ろいゆく人々とが混同されると、世界
はまるで劇場で上映される映画のように思えることでしょう。だから私は「*サルヴァム
ム
ヴィシュヌ、マーヤ
ジャガット」というのです。真理でない移り変わる映像と、真理かつある種不変のスクリーンとがともに
作用し、あたかも不変であるかのような印象を与えます。このプロセスをジャガットのヴィシュヌ・マーヤー
と呼ぶのです。ここでいう「ヴィシュヌ」とは、シャンカやチャクラを手にした神格のことをさしているので
はありません。「ヴィシュヌ=遍在者」を意味します。(*Sarvam Vishnu mayam Jagat)
(サマー・シャワー・イン・ブリンダヴァン
◇
◇
◇
1972年
75p)
◇
ヴィシュヌ神はこの大宇宙を自らの肉体とし、あまねくいきわたります。大宇宙のあらゆるものがヴィシュ
ヌ神の手足です。この世には嫌悪すべきものなど何もありません。憎むべき人もいません。あなたの内に宿る
神と大宇宙のすべての内に宿る神は、まったく同じ神なのですから。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
11月号
270p)
◇
ヴァイシャナヴィテによれば、ヴィシュヌ神は4つの手にヴィシュヌならではの4つのしるしをもつとされ
ています。シャンカ(法螺貝)、チャクラ(法輪)、ガダ(棍棒)、パドマ(蓮の花)です。棍棒は音の象徴
です。全宇宙が神の手にあることを意味します。チャクラ(法輪)は時間の輪を象徴します。神がその手で時
を治めるという意味が秘められています。蓮の花はハートの象徴です。生きとし生けるもののハートが神の手
の中にあるのです。棍棒は力強さを象徴します。神はあらゆる力、あらゆる強さのもちぬしです。これがヴィ
シュヌ神の持ちものにこめられた深遠なる教えです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
4月号
頁不明)
◇
ナーラーヤナは水の神です(ナーラムは水の意)。しかし水の神というとき、水とは一体なんでしょう。神
はハートに宿ります。それを知ったとき、神はどんなに固い石のハートをも溶かし、歓び、感謝、満ちたりた
想いに、涙という水を目からあふれさせるのです。思いやりの気持ちに満たされ、悲しみに暮れる人とともに
悲しみ、喜びあふれる人とともに喜ぶとき、神がそこにいることを知る、そういわれてきました。ナーラーヤ
ナは歓びの涙をもたらす神です。愚か者、臆病者のようにむせび泣くためでなく、内なる歓びを表現すること、
それが涙腺本来の働きです。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
135p)
◇
神はどこにいるのかと聞かれると、人はふつう空かどこか遠いところを指さして、神はあそこにいると言い
ます。まるでひとつの人格をもつ神が、決まった場所に住んでいるかのようです。しかしナラ(人)がナーラ
ーヤナ(神)、ひとりひとりが神です。マーダヴァがマーナヴァ、あらゆる種族が神です。シャストラに示さ
れているように、神の数は33クロアにものぼり、今日ではさらにそれを上まわると計算されます。ナーラー
ヤナ・スワルーパ(神の化身)があたかもたったひとりのナラ(人格)としてふるまうかのように思われてき
181
たのは幻想にすぎません。その幻想をとり払えば、そこには苦しむ人それぞれの要求にそくした様々な手段が
あるのです。しかしどの方法、どの苦闘も、すべてはナーラーヤナを体験するため、限界があり拘束された相
対的な実在にすぎないナラを脱ぎすてるためにあります。それこそが多種多様なプロセスの生み出すたったひ
とつの収穫物です。自分自身を理解するまで、幻想とそこから生じる深い嘆きはつきることがありません。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
153-154p)
◇
グルとは、ますます暗闇にむかう誤った道にあなたが迷いこんでしまったとき、それを分かっている人です。
グルは正しい道を知っており、足もとを照らす灯りなしに暗闇を脱しようと努力を重ねるすべての人を深く愛
しているからです。今日という日は感謝とともにグルの第一人者に想いをはせる日です。その名をナーラーヤ
ナといいます。なぜならナーラーヤナとは実在であり、たとえこの世でグルを得られなかったとしても、祈り
によりあなたの内なるナーラーヤナが道を示してくれるからです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
189p)
◇
ナラ(人)とナーラーヤナ(神)は、2本が一緒になって電流を通す陽極、陰極の電線です。もしもあなた
が2つの資質、サティア(真理)とプレマ(愛)を身につけているなら、ナーラーヤナに協力するナラとして、
神の力を運ぶ神の乗りものになるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
68p)
◇
五元素は神ナーラーヤナの手の中にあります。殻や外皮のない種はありません。この殻が宇宙であり、神が
種子です。両者は相互に関係しあい、いつも一緒です。たゆまぬ探求心ジュナーナを通じ、これを理解するよ
う努めなさい。愚者は殻に根拠を求めます。賢者は根本アートマにつき進みます。無知な者は大宇宙をそれだ
けのものと思いこみ、自らを動物より低い位置におとしめているのです。動物は他の動物に危害を与えるだけ
ですが、愚者は自分に傷を負わせます。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
138p)
◇
ナラムは水、ナヤナムは目の意味であり、涙だけがあなたに神を授けることを示唆しています。それがナー
ラーヤナ・マントラに秘められた目的と意味です。他のマントラ(宗教上の公式)にも、これと同様独自の意
味がこめられています。G、O、Dがジー、オー、ディーという音でなく、God(神)という言葉になるのとま
ったく同じで、A、U、Mもひとつひとつは存在と意識の3つの面、ブール、ブワ、スワハの意味でありながら、
OMという聖音になります。ナーラーヤナはナヤナにおわすナラムの主です。悔いの涙で授けられ、歓びの涙を
授ける神です。神を手に入れなさい。そのとき、目で見る世界のように神が見えます。事実神はこの世です。
あなたにはそう見えていないだけです。
(サティア・サイ・スピークス
◇
信仰心に満ちあふれ
◇
◇
確実に歩きつづけなさい
ナラからナーラーヤナに
マーナヴァからマーダヴァへと
変わることができるでしょう
ナーラーヤナがまぎれもないあなたの姿
マーダヴァがまぎれもないあなたの本質
182
◇
出典不明)
大海にうねる波のひとつ
知りなさい
それがあなた
自らを解放するために
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
165p)
◇
ジーヴァ(個我)はジーヴァ、デーヴァ(神)はデーヴァ、両者は同じになることも溶けあうこともありえ
ない、という人がいます。もしもそれが本当なら、ジャパやディヤーナ、サットカルマ(善い行い)、その他
のサーダナ(霊性修行)など、経典や賢者のすすめるものが何に役立つというのでしょう。ナラ(人)がナー
ラーヤナ(神)になれること、トワム(汝)がタット(神)になれることは疑いようがありません。それがウ
パニシャッドの教えであり、聖人たちが体験したことです。
(サティア・サイ・スピークス4
103p)
まとめ
毎日この大宇宙とひとりひとりの人が、粗いレベルと精妙なレベルの五感、心、肉体を用い、行
いや想いを通じて創造のプロセスを体験しています。このラジャス・グナ(激しさ、活発さの資質)
をともなう遍在的で超越的なプロセスを、ブラフマーと呼びます。
また誰もが、そしてまたこの大宇宙も、維持、保護、形成のプロセスを毎日経験しています。創
造されたものは何であれ、人の肉体も万物も、少なくともある期間維持され守られる必要がありま
す。ダルマ(正義)の化身ヴィシュヌ神と五元素(地・火・水・空・エーテル)が、このサトワ・
グナ(均衡、落ち着きの資質)を象徴し、おもに眠りの段階、無限の平安なる実在になる精妙な精
神の段階で体験されます。
マヘーシュワラ(マハー・イシュワラ=偉大なる神)は、シヴァ、イシュワラ、ルドラとして知
られ、深い深い眠りの段階、個(エゴ、マインド)を意識することも夢を見ることもなく、アート
マと溶けあい原因体と溶けあった瞑想の状態で日々体験されています。マヘーシュワラは創造され
たあらゆるものの消失、破壊に関し、全宇宙にたいして責任を負う神聖なるプロセスであり、無知
を破壊し、個を内なるアートマへの覚醒に導くという意味で、タマス・グナ(潜在性、静けさ、不
活性の資質)を象徴します。
人の一生のゴールは、意識のうえでこれら3つの段階を超え、超越体(マハー・カラナ)、つま
り自らが至福に満ちた神聖なるセルフであると気づくことです。これに気づくことにより、ブラフ
マー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラがカルマによって動かされ、マーヤーの支配するこの大宇宙に
ともなうプロセスであることを理解し、その観照者となることでしょう。
183
第8章
ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティ
イントロダクション
母性的エネルギー、根源的エネルギー(アディ・シャクティ)、デヴィ、オームといった神の側
面は、ヒンドゥー教の中ではドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティと呼ばれてきました。一年
のうちこの3つの神格を崇拝する数日間をナヴァラトリといい、そこには人の心の内にある悪の資
質を破壊し、内的世界、外的世界がともに歓びと平安で満たされるようにとの意味合いがあります。
霊性の鍛錬(サーダナ)を続けることで、人は(この3つの女神に象徴される)内なる源泉に働き
かけ、自らを神の真理というさらに純粋な領域にひきあげることができます。遍在するこの3つの
神格は人の肉体にも宿ります。
万物の創造の発生とそれを維持する力は、物質、生命、精神のどの領域にまつわるものであろうとただひと
つしかありません。シャクティ(エネルギー)です。ヴェーダンタ哲学でいう絶対者ブラーフマンと、タント
ラでいうデヴィ、つまりシャクティはまったく同じのものです。そのエネルギーが静的状態にあり、拡張も収
縮もなく、創造をまつ宇宙がまだ「種子」でさえないとき、それをブラーフマンと呼びます。創造を展開しは
じめ、維持され、ふたたび源へと帰る間がシャクティです。…(略)…ブラーフマンをこの世になぞらえれば、
シャクティはその意味です。ブラーフマンを火にたとえるなら、シャクティは燃焼する力です。この2つを切
りはなすことはできません。ひとつでふたつ、ふたつでひとつです。
ヒンドゥー教の神話文学の中では、この力は女性性の神デヴィとして、男性性の神格の伴侶の形で描きださ
れます。三大神それぞれに伴侶としてのシャクティ、つまりデヴィの存在があります。ブラフマー神の妻サラ
スワティ、ヴィシュヌ神の妻ラクシュミー、シヴァ神の妻パールヴァティです。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
『ヒンドゥー教の神と女神』
77-78p)
ドゥルガー
ドゥルガーとは文字通りの意味では近よりがたいもの、理解しがたいものの意味です。神の威力を一手にひ
きうけ神格化した存在であるため、近よりがたく理解しがたいのも自然なことといえましょう。しかし大宇宙
の母なる神であり、崇拝するものには慈悲の神となります。
ドゥルガーのいくつかの側面のうちでも、ヨガネトラ(瞑想の眠り)とは眠りの力を示し、ヴィシュヌ神が
創造から次の創造までの間、その力を頼りに休息します。宇宙の創造、維持、消滅をになう女神としてたたえ
られます。神秘的な力をそなえ、まさに知性、英知、記憶の体現です。満ちたり美しい女神であると同時に恐
ろしい女神でもあります。
ドゥルガーはこの世の現象的側面です。根本原理であるヴィシュヌ神の神秘の力であり、また幻惑する力(マ
ーヤー)でもあります。この女神を満足させたときのみ、人は魂を解放することができます。人々のハートに
ある知性を乗りものにし、時間をのみこみます。まさにあらゆる幸運、善なるものの体現です。つねに子ども
たちを守護しています。首に人の骸骨でできた首飾りをかけた恐ろしい女神カーリーが、ドゥルガーのまた別
の側面です。…(略)…ドゥルガーには3つの主な化身があります。マハーカーリー、マハーラクシュミー、
マハーサラスワティ―――3つのグナ(タマス・ラジャス・サトワ)からなるマハーイシュワリ、唯一なる至
高の力の3種の顕現です。
マハーカーリーはドゥルガーのタマスの資質の側面が神格化したものであり、マーヤーの化身です。このマ
ハーカーリーが自らすすんで後退しないかぎり、私たちの内なる神が目をさまし、私たちをおとしめようとす
る邪悪な力を滅ぼすことはできません。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
104-110p)
◇
不完全で限界のある哀れな人間には、千もの内なる敵がいます。否定的な想い、恐れ、焦燥感に満ちていま
す。利己心、嫉妬、いやしさ、偏見、憎しみ―――これらはほんの数例にすぎません。サダカ(霊性の探求者)
はこれらの無法者たちをたたき出さねばなりません。母神カーリー(ドゥルガー)・クリパ(慈悲)を得て、
184
これらの破壊者たちを滅ぼさねばなりません。どんないいわけも通用しません。…(略)…強い決意、断固と
した意志、内なる崇高な闘い、血のしたたる残忍なカーリーの剣のような血まみれの努力が必要とされ、滅ぼ
した虚偽の数々でできた骸骨の首飾りを自ら喜んで首にかけようという気がまえなしに、内なる平安、内なる
秩序はありえません。
否定的な想い、弱さ、いやしさを滅ぼすには、内なる恐ろしき女神を呼びさまさねばなりません。それこそ
私たちの真の姿、神の存在である至高のパラメシュワラ・スワルーパから私たちをひきはなしてきたものです。
内なる弱さ、ただそれを追いはらうだけですべてをなしとげたとはいえません。内が空っぽになれば、また
裏口から侵入してくるからです。…(略)…正しい行いを続けようという積極的な努力にも力をそそがなけれ
ばなりません。
(スワミ・チンマヤーナンダ著
R.S.ナザン編纂
『ヒンドゥー教の象徴性』
153p)
ドゥルガーには4、8、10、もしくは20本の腕があります。左の腕に握られた法螺貝シャン
カはプラナヴァ「オーム」を象徴し、ドゥルガーも私たちひとりひとりも、神のエネルギー、神の
知性の化身であることを示しています。ドゥルガーはその法螺貝を鳴らし、人々により気高く価値
ある一生を送るよう呼びかけます。はまりこんでいる俗世に背をむけ、究極的には神のもとにたど
りつき、何ものにも破られぬ平安と成就を手にしなければなりません。
左手の三叉檄(トリシュラ)は3つのグナ(資質)、タマス・ラジャス・サトワの象徴です。努
力と恩寵によってこれらの資質を滅ぼし、純粋なる神性があらわにされるまでは、この3つの資質
が(人を含む)すべての事象をコントロールします。またこの三叉檄は神の存在、神の威力が3つ
の「時」―――過去・現在・未来―――におよぶことの象徴でもあります。別の手の骸骨は、神の
威力が万物を最終的に消失させる「時」を超えると同時に、偽り、邪悪さをもしのぎ滅ぼすことが
できることを示しています。
鐘は神聖なるプラヴァナ「オーム」の象徴です。セルフの存在に気づき認識するよう、つねに響
きわたりあらゆる角度から人々の知性に呼びかけます。
ドゥルガーは右手に持った棍棒を打ち、人を落胆させ、不満に陥らせ、落ち着かない気分にさせます。人は
神の呼び声に耳を貸さず、また聞こえていても従おうとせず、五感を満足させようとかけまわります。帰依者
に完全なる至福という至上の体験を授けるため、愛情深さから棍棒をふるいます。
(スワミ・チンマヤーナンダ著
◇
『ヒンドゥー教の象徴性』
R.S.ナザン編纂
◇
◇
116-117p)
◇
ドゥルガーを破壊のマヒサスラ=雄牛、強者が制するという森の掟(おきて)とみなすことができます。雄
牛は自分の目的のためにははむかうものを許さぬ残忍さ、凶暴さの象徴です。…(略)…また人の内の無知と
かたくななエゴを表します。それらを屈服させ克服するには、全精力を用いて不屈の精神で闘わねばなりませ
ん。しかし神は自ら助くるものを助けます。つねに恩寵と神の助力が差しのべられることでしょう。これがナ
ヴァラトリの祭りのヴィジャダシャミ、5つの知覚器官と5つの行動器官の勝利として知られます。
ドゥルガーの乗りものライオンは、もっともすぐれた動物であり、とりわけ勇敢さを象徴します。けものの
ような資質やエゴを屈服させるのに、霊性の探求者には勇猛果敢さが要求されます。神性をあらわにするには、
動物的な衝動やエゴその他を完全にコントロールしなければなりません。ドゥルガーがライオンに乗るのは、
低次の資質を完璧にコントロールしていることの象徴です。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
110-112p)
◇
低次の資質をコントロールできたとき、女神ラクシュミーは必ずやあらゆる祝福を授けます。いったん神の
資質でないものがうち負かされ排除されると、「欲しい」という想いが変化していき抜けおちます。これこそ
最高の祝福です。
(R.S.ナザン編纂
185
『ヒンドゥー教の象徴性』
276p)
ラクシュミー
維持神ヴィシュヌのエネルギーであり伴侶であるラクシュミーは、多様性の源、幸運の女神として描かれ、
どちらの側面も維持のプロセスに不可欠です。…(略)…ラクシュミーは富、幸運、力、美の女神です。
ラクシュミーはふつう蓮の花に座り、蓮の花を両手に持ち、蓮の花で飾られ、たいへん美しく魅力的な姿で
描かれます。
4本の腕は4つのプルシャルタ(人生の最終目標)―――ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、
モクシャ(解脱)―――を授ける力のあることを示します。
それぞれ開き加減の違う蓮の花は、世界や万物が様々な発達段階であることを示しています。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
82-85p)
◇
富とはお金のことだけを示すのではありません。気高く価値ある人生、心や知性の力、倫理や道徳なども含
まれ、それらが霊性の富を形作ります。ナヴァラトリではドゥルガー崇拝の3日間の後、サラスワティ崇拝の
3日間を次にひかえ、そのあいだの3日間ラクシュミーを崇拝します。…(略)…ラクシュミーは人々に富を
注ぎこみます。…(略)…富とはただ自然にやってくるものではありません。人本来の能力として富を得る力
がそなわっており、個々の努力を通じてひきださねばなりません(プルシャルタ)。
バガヴァータ・プラーナに、不死の甘露を手に入れるため、神々と悪魔たちが乳海を攪拌した話があります。
攪拌によって出現した貴重品々のひとつが女神ラクシュミーです。ラクシュミーは、純粋でサトワの資質の心
が、内省と高次のセルフを瞑想することで攪拌されたとき、人の内で起こる倫理的、文化的価値観の創造と発
展を象徴します。
ラクシュミーの手に握られた蓮の花は、セルフを認識することが人の到達すべき至上のゴールであることの
象徴です。
(A. パルタサラティ
『ヒンドゥー教の象徴性』
R.S.ナザン編纂
195-196p)
サラスワティ
サラスワティとは創造神ブラフマーのシャクティ=エネルギーであり伴侶です。つまり万物を生み出す万物
の母といえます。
サラスワティはあらゆる知性、芸術、科学、技術が神格化されたものです。知性が無知の暗闇とは対照であ
ることから、すけるような白さで描かれ、あらゆる芸術、科学、技術の化身としてきわめて美しく慈悲深い姿
をしています。…(略)…たいていブラフマーの乗りもの白鳥と一緒にいます。…(略)…白鳥には、ミルク
と水の混じったものから水を残しミルクだけをより分けて飲む独自の能力があり、これはヴィヴェーカ(英知、
識別)の能力、つまり知性、善を吸収し、悪を拒否する力の象徴とされます。
創造神ブラフマーの伴侶として、ブラフマー神の威力と知性を表し、それなしに創造を行うことは不可能で
す。…(略)…
4本の腕は何ものにも妨げられることがなく、いたるところに力を発揮すること、普遍性を示します。学問
の女神でもあるため、この世のあらゆる分野にわたる科学をおさめた書物(パシュタカ)を左手にたずさえて
います。より高い意識や感情、情熱が調和した心なしにたんなる知力で学んだところで、それは木くずのよう
に無味乾燥なものです。芸術を養うことの必要性を訴え、抱えたヴィーナ(弦楽器)を奏でます。右手にはア
クスマラ(数珠)を握ります。霊性の科学―――タパス(苦行)、瞑想、ジャパ(神の御名の念唱)などを含
むヨガすべての象徴です。
(スワミ・ハルシャーナンダ著
◇
◇
◇
『ヒンドゥー教の神と女神』
78-81p)
◇
サラスワティとは「自らのセルフ(スワ)の本質(サラ)を授ける者」という意味です。蓮の花に座ることで、
死とは自らの体験にもとづく真理に立脚するものであることを象徴しています。握られた経典は、それを学ぶ
186
ことにより真理に到達しうることを示します。4本の腕は人の内なる資質の4つの側面、マナス(心)、ブッ
ディ(知性)、チッタ(意識)、アハムカーラ(エゴ)を象徴します。
(R.S.ナザン編纂
『ヒンドゥー教の象徴性』
191p)
サラスワティは学ぶ者を啓蒙し、無限の知性を授ける真の導き手であるだけでなく、サマディー
という悟りの段階を表してもいます。この神性を示す段階は、ちっぽけなエゴから完全に解放され、
至高のセルフを見いだした状態といえましょう。
ダセラ祭(ナヴァラトリ)は、インド国内はもとよりヒンドゥー教の国々で10日間にわたって
祝われます。最初の3日間、カーリー・ドゥルガーが呼びさまされ、人々の内なる否定的資質の反
映、悪魔が殺されます。次の3日間で女神ラクシュミーが崇拝され、人の内なる神性の資質や、愛、
優しさ、忍耐、献身、努力、非暴力といった富が養われます。サラスワティが次の3日間崇拝され、
人の霊的発達の最終段階として、経典を学び内省と瞑想を続けることで神性があらわにされるよう
にと祈ります。人生におけるこれら3つの段階を乗りこえると、つまり祭りの最終日のヴィジャヤ・
ダサミの日、エゴの象徴である悪魔が焼かれます。
ヒンドゥー教の母なる神々(デヴィ、シャクティ)の示す真理に関する象徴性や神話は膨大なも
のであり、イントロダクションでこの3つの女神、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティの側
面が手短に論じられましたが、これらは母なる神の顕す偉大な威力のうちのほんの一部を示すにす
ぎません。
次に続くバガヴァン・シュリー・サティア・サイ・ババの言葉から、創造における母なる神につ
いてより多くのことが明らかにされます。
1.ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティ(概要)
日常や自然の中で、母性原理にある神の本質を示すものにたくさん出会います。牛は私たちに滋養を与える
ため血液をミルクに変えます。このことから牛はマトゥル・ムールティ(母なる神の具現)と考えられます。
地は地面を提供し、つねに私たちを保護しています。地もまたマトゥル・ムールティです。そしてアンギラ、
食物を消化する様々な液体が私たちの肉体でつくられます。このラサ・スワルーパは私たちの四肢に宿り、肉
体を動かし、生命を維持していることから、これもやはりマトゥル・ムールティと考えられます。マハリシた
ちは数々の経典を記し、私たちが生きるうえで何が望ましく何が望ましくないのか、スレヨ・マルガとプレヨ・
マルガを示してきました。リシたちもマトゥル・ムールティです。スジュナーナム、ヴィジュナーナム、プラ
ジュナーナム(3種の知識)を授ける訓戒者、師もまたマトゥル・ムールティです。牛、地、リシ、訓戒者、
これら5つはまさに母なる神の化身です。
母性原理とはサルヴァ・シャクティ・スワルーピニであり、神の母性の側面を世に示すためナヴァラトリが
祝われます。9日間にわたりドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティを崇拝します。この3つの母なる側面
は何が土台になっているのでしょうか。
ドゥルガーはシャクティス・ワルーピニです―――肉体、精神、魂の力を授けます。ラクシュミーはあらゆ
るアイシュワリヤ(富)を授けます。ジュナーナ・アイシュワリヤ(霊性の知識)、プラーナ・アイシュワリ
ヤ(生命エネルギー)、ヴィディヤ・アイシュワリヤ(世俗的知識)です、サラスワティは知性の力、識別の
力、言葉の力を授けます。
母性原理はまさにドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティの具現です。あらゆるエネルギー、あらゆる能
力を授けます。すべての富を与え、私たちの成長、繁栄を助けます。また教育を通じ、私たちが名声、評判を
手にするよう望んでいます。これら3つの神性原理は、私たちの母親のもとに訪れ溶けこんでいるのです。
(サンキルターナム
◇
◇
◇
2-3p)
◇
まず第一に、自然とは何かを理解しなければなりません。自然それ自体がジャガディーシャ(万象の神)で
す。万物を支配するのは唯一なる実在サット・チット・アーナンダ・スワルーパ(存在・意識・至福の具現、
アートマ)です。大宇宙の万物には、アスティ(存在)、バーティ(輝き)、プリヤム(歓び、愛らしさ)の
187
原理が共通します。名前と姿の違いが多様性を生じさせているだけです。一過性のものにすぎない名や姿を不
必要に信じこんでいるがゆえ、ものごとの永遠性、神性への信仰をなくしています。これは大きな間違いです。
この誤った道を放棄し正しい道を選んだ日、神が誰なのかを理解するはじめの一歩を踏みだすことができます。
プレマスワルーパ(愛の体現者)たちよ!
自然それ自体が神であることを堅く信じなさい。神がどこか目
に見えないところに存在すると思うのは間違いです。人ひとりひとりが様々な姿で顕れた神であることを確信
しなさい。9日間のナヴァラトリは自然の様々な側面を理解するために祝われます。
(サンキルターナム
◇
プレマスワルーパたちよ!
◇
◇
13p)
◇
神は私たちの内にいます。すべての力、すべての能力が私たちの内にあります。
この真理を認識し、自らを正しく導きなさい。天国や何かはどこか別のところにあるのではありません。
(サンキルターナム
◇
◇
◇
7p)
◇
ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティは私たちの内にいます。目には見えないだけです。それらがなけ
れば、肉体が存在することも、見たり、話したり、歩いたり、活動を営むこともできません。私たちを誕生さ
せ、様々なヴィディヤ(知識)を与える母親のように、この3つの神の原理の宿る私たちの肉体は母親です。
これらの原理は目に見えず、切りはなせず、潜在するものです。これら内在する力のすべてを顕現したとき、
私たちは自らを「人間」と呼ぶことができます。この能力を示すまでは、真に人であるということはできませ
ん。
(サンキルターナム
◇
◇
◇
14p)
◇
ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティの意義は正しく理解されねばなりません。この3神は人に潜在す
る3つの力の象徴です。イッチャ・シャクティ=意志の力、クリヤ・シャクティ=行いの力、ジュナーナ・シ
ャクティ=認識の力です。サラスワティが話す力(ヴァク)、ドゥルガーが活力(活動の力)、ラクシュミー
が意志の力として人に内在します。肉体はクリヤ・シャクティを示し、心はイッチャ・シャクティの貯蔵庫で
あり、アートマがジュナーナ・シャクティです。クリヤ・シャクティは物質である肉体から生じます。不動性
の物質である肉体に動きを与え活性化するのはイッチャ・シャクティです。イッチャ・シャクティに活動力を
与えるのはジュナーナ・シャクティであり(エネルギーを)放射します。この3つの潜在能力はマントラ「オ
ーム・ブール・ブワ・スワハ」に表されています。ブールはブー・ロカ(地)、ブワはエネルギー(人の良心
の意味もあります)、スワハは放射の力の意味です。この3つはどれも人に内在します。つまりドゥルガー、
ラクシュミー、サラスワティが人のハートに宿っているのです。
人は怒りや憎しみのようなラジャスの資質を表に出してしまいがちです。これはドゥルガーの威嚇的な面の
顕れです。歌や詩で神をたたえることや、そこからかもしだされる歓びあふれる波動はラクシュミーの力を示
します。心にわきあがる慈しみ、愛、寛容さ、思いやりなどのすんだ波動はラクシュミーからきています。
絵や偶像で形として顕されたドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティを崇拝すると、人に潜在するかすか
な力に物理的に働きかけることになります。不幸なことに苦境のさなかにいる今日の人々は、自らに内在する
力に気づくこともなければ、女神への敬意を養うこともありません。
病の処方箋は内にあるというのに、人は外側のどこかに求めようとします。…(略)…
同様に人は内なる神性を認めようとせず、外側の物質の数々に求めがちです。自らの内に宿る神性への確固
とした信仰を養いなさい。必要なのは、内なる神を体験するため視点を内にむける、それだけです。
人は表面的な霊性修行(サーダナ)にばかり身をおいています。内面にむかうものでなければなりません。
どんなに学識があろうと、ハートで理解していかなければ何の役にも立ちません。学者は経典の数々を解説し
ても、内面的な裏づけに欠けています。ヴェーダに精通した人は書かれていることを説明できるかもしれませ
んが、ヴェーダプルシャ、ヴェーダがたたえる至高の実在を認識できてはいません。
寺院に行く人は偶像の前で目を閉じます。求めるものは神の内的ヴィジョンであって、偶像の外側の姿を見
188
ることではないからです。ギータで高らかに宣言されているように、神は遍在です。名や姿は様々に違っても、
神はひとつです。
人は現象界で暮らし活動を営みますが、あらゆる活動を神を喜ばせる捧げものとして営むべきです。
この10日間のナヴァラトリのお祭りで何をしたらよいのでしょう。イッチャ・シャクティ(意志の力)を
神を求める熱意にしなさい。クリヤ・シャクティ(行いの力)を神聖な行いをする力に変えなさい。ジュナー
ナ・シャクティ(識別の力)を神そのものに変えなさい。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
11月号
283-285p)
◇
人にはイッチャ・シャクティ(意志の力)が授けられています。その真の目的は、美しいこと、崇高なこと、
向上することを意志するためです。もう2つ人に授けられたシャクティとは、ジュナーナ・シャクティ(知る
力)とクリヤ・シャクティ(行いの力)です。この3つの相関性を示す例をあげましょう。「とてもコーヒー
を飲みたくなり、それを実現しようと思った。しかしイッチャ(意志)だけではコーヒーは作れない。そこで
ジュナーナ(英知)を活用し、コンロ、水、砂糖、ミルク、コーヒーの粉を用意した。それでもイッチャはま
だ実現されない。そこでクリヤ(行い)を活用し、飲みたいと思ったコーヒーを、知っている作り方にそって
作った」
さて、イッチャ・シャクティが神にたどりつこうとしているとします。ただ思うだけでは不十分です。目的
にたどりつくことはできません。そこでジュナーナ・シャクティが、勝利に続く道はあるのだからあきらめて
はいけないとあなたに助言し、目の前に様々なサーダナを示します。クリヤ・シャクティがそれらを取りあげ、
あなたが目的のものを手にするまでそれを行い実践しつづけるようふるいたたせます。不運なことに、10人
のうち99人までがイッチャ・シャクティ止まりです。意志するだけにとどまります。待ちかまえる至福を、
求め、得ようとしません。信仰心はぐらつき、力強く歩き出すことがありません。イッチャが一級の試験に合
格しようとしているのに、ジュナーナは無視され、クリヤは何もなされぬままです。テストでクリヤの熱意の
成績がたとえ1000番だったとしても、一級は実に簡単に授けられるのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
184p)
◇
欲望(サンカルパ)の上に建てられた建物は長くはもちません。欲望の住まいを神の意思(イッチャ・バー
ヴァナム)の住みかに変えなさい。意志の力(イッチャ・シャクティ=ラクシュミー)が行いの力(クリヤ・
シャクティ=ドゥルガー)に変えられると、ジュナーナ・シャクティ(英知の力=サラスワティ)が生じます。
魂の解放カイヴァリヤムは、この神の英知を通じて授けられます。
ナヴァラトリのお祭りは、ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマーの伴侶を崇拝するために祝われるのではありま
せん。3つの女神は神の威力の象徴です。この力はすべてヴィシュヌ神がもたらします。全宇宙は無数の姿を
かりたヴィシュヌ神の顕れなのです。様々な姿形の背後にあるこの一体性を認識しなければなりません。命あ
るものすべてが、その命の吐息として同じ空気を吸っています。五元素も万物に共通です。五元素は自然をつ
くる材料です。しかしパラタットワ(至高の原理、神)に五元素はありません。五元素はいずれも滅びるもの
であり、神は永遠不滅です。死すべきものから不死の永遠性にむかう最善の方法とは、神の愛(プレマ)を養
うことです。
ハートは空のようなものであり、想いという雲が太陽であるブッディ(知性)と月である心を隠しています。
ヴァイラーギヤ(無執着)が、ハートにわきおこる想いや欲望を取りのぞく道具です。ナヴァラトリのデヴィ・
プージャ(女神崇拝)は、世俗的な執着を捨てて心を神にむけるために行われます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
12月号
305p)
◇
ナヴァラトリの間、毎日神々のうちのひとつの神格が崇拝されますが、外側だけでなくハートと魂で崇拝し
なさい。肉体でどう礼拝するかはその場かぎりのものです。肉体の価値はうちに宿る魂の価値で決まります。
肉体を神聖なる寺院とみなしなさい。
189
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
11月号
290p)
◇
ナヴァラトリはデヴィ・マハートミヤム、デヴィ・バガヴァータムに描かれるように、パラシャクティ(女
神のエネルギー、大宇宙と小宇宙に内在する)が邪悪な勢力=アスラに勝利した栄光をたたえて祝われます。
パラ・シャクティはあらゆる人の内にクンダリーニ・シャクティ(眠っている魂のエネルギー)として宿り、
それを目覚めさせることにより、心の内の悪の資質を滅ぼすことができます。ですからナヴァラトリとは表面
世界、内面世界がともに平安と歓びで満たされるよう、外側にも内側にも宿る神を慕うすべての人々のための
お祝いです。体系だったサーダナを行うことにより、神が人に授けた内なる源泉を躍動させ、より純粋でより
幸福な実在の領域へと自らをひきあげることができるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
159p)
◇
バラティヤの人々はデヴィ(母なる神)を崇拝するひとつの形として、太古の昔からナヴァラトリのお祭り
を祝ってきました。9日間にわたりドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティを崇拝します。この3つの女神
とは誰でしょう。この3つの御姿は人々を惹きつけつづけてきました。その意義は3つの力(シャクティ)で
表されます。カルマ、ウパサナ、ジュナーナです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
11月号
282p)
◇
ヴェーダは心がさまようとき、必ず3つの世界を感知しているといいます。3つの世界とは何でしょう。ギ
ータにもガヤトリー・マントラにも示された親しみある世界、ブール、ブワハ、スワハ=ブーロカ、ブワーロ
カ、スワルガです。これら3つはアディブーティカ、アディダイヴィカ、アディアートマとして人にも内在し
ます。私たちの祖先はこれらをドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティという女神として崇拝してきたので
す。
形あるものはすべてドゥルガー―――エネルギー(シャクティ)と関連づけられる女神―――に由来します。
人には理解の範囲を超えた無限の力があり、それが神性です。しかしそれを認識する努力をまったくしていま
せん。この力がなかったら、どうして人類が月までたどりつけたでしょう。何が地球の自転を可能にしていま
すか?
何かの機械でもマントラでもありません。地球それ自体の内に力が宿っているからです。人やその他
の物質にも宿るこの力は宇宙エネルギーと呼ばれてきました。宇宙エネルギーとは何ですか?
太陽のエネル
ギーと輝きの源はこの宇宙エネルギーです。人の心の力、はるかかなたの星をみとめる目の力、それらもまっ
たく同じ宇宙エネルギーからきています。
この見る力により、人はあらゆる創造物を目にすることができます。この力に勝るものはありません。つま
り人にはすべての力が授けられているということです。しかし無限の力は人それぞれの発達のレベルに応じて
認識され駆使されます。電流は温める、灯りをともす、ファンをまわすなど、様々な目的で活用されます。そ
れと同じで人の内にある神性の宇宙エネルギーも、人により様々な目的で活用されます。このエネルギーは誰
の中にもあります。神性エネルギー、つまり無限の宇宙エネルギーをあらわにする能力があることから、人は
神(ヴャクティ)の化身といわれるのです。人であるとは、隠された目に見えないものをあらわにすることに
あります。
人に内在するこのエネルギーは、根源的エネルギー(アディ・シャクティ)であり、OMと呼ばれます。この
エネルギーは物質界(プラクリティ)の物質にあまねくいきわたります。これがブールとして知られるもので
す。この物質を活性化するまた別のエネルギー、波動があります。プラーナ・シャクティと呼ばれる生命エネ
ルギーです。この生命エネルギーが肉体のあらゆる器官を活動させています。これがブワハです。ラクシュミ
ーはこのブワハの象徴です。見たり聞いたり様々な活動を可能にするこのエネルギーを神格化したものです。
善いものを見、善いことを聞き、優しい言葉で語り、善い想いを抱き、善い行いをする力の象徴です。善良な
るもの、幸福、この世の幸運なできごとは、すべてラクシュミー原理に由来します。
3つめのエネルギーはサラスワティの姿で表されます。サラスワティは言葉の女神(ヴァク・ディヴァータ)
190
です。ラクシュミーは生命エネルギーの具現(プラーナ・スワルーピニ)、ドゥルガーは物理的力の具現(シ
ャクティ・スワルーピニ)です。これら3つを統合したものがアートマ原理として表現されます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
11月号
287-288p)
◇
ラクシュミー、サラスワティ、パールヴァティという三大神の伴侶についてのあれこれは、まったく愚かな
議論です。それはあなた方がサムサーラ(俗世)のメガネをかけていることを示すにすぎず、俗世的な幻想を
「天界の家族」に投影したもの、人々の渇きを癒すために人の姿をかたどってあみあげた物語にすぎません。
女神の名は神に内在するシャクティ(神性エネルギー)を便宜的に表しているだけのものです。たとえばラク
シュミーとは、ヴィシュヌ神の恩寵ダーヤ(慈悲)を神格化したものであり、だからこそヴィシュヌの胸の内
(フリダヤ)にいるといわれるのです。シヴァ神の半身であるパールヴァティが、シヴァ神にとりこまれ分か
つことができないのも、それと同じ意味でのことです。創造、維持、消滅の力は、神の中では共存かつ連続し
ています。なぜこの3つが共存できるのか疑問に思うことでしょう。電流のことを考えてごらんなさい。電流
はまったく同時にまったく同じ力で、産出、維持、消失しつづけます。3つのシャクティ(神性エネルギー)
も、絶対実在の3つの側面と切りはなせぬものとして描かれているのです。人の責務とはシヴァ-シャクティ
の合一をはたすことにあります。人とはそこから生じるきらめき、永遠不滅の炎のゆらめきに他ならないから
です。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
223p)
◇
ナヴァラトリのお祭りの間、人の悪の資質を一掃する目的でクムクム(神聖な赤い粉)を用いて神を礼拝し
ます。赤い粉は血液の象徴です。この礼拝の意味とは、神に自らの血液を捧げ、かわりに平安という神の贈り
ものを受けとるということにあります。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
11月号
290p)
◇
9日間にわたって根源的エネルギーの勝利を祝うナヴァラトリには、メッセージがこめられています。その
エネルギーがサトワ(平安)の側面として顕れると、偉大なる師、啓示により導く者、マハー・サラスワティ
となり、ラジャス(活発さ、力強さ)として顕れれば偉大なる授け主、守り主、マハー・ラクシュミーとなり、
タマス(鈍性、不活性)として顕れたとき、ただしそれが活動力をもたず潜在的であるときには、偉大なる暗
黒の破壊者、幻惑者、マハー・カーリーになります。シャクティとは全能にして遍在、無限大にして極少であ
り、外的物質世界であろうと内的意識の世界であろうと、どこにでも接点をもちうるものです。プラフラーダ
は疑り深い父に言いました。「何を疑い、論じ、手間どっているのですか、求めればどこにでも見出すことが
できるというのに」未知の世界、既知の世界、あらゆるものの近くに遠くに、前に後ろに、外に内に存在して
います。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
160p)
◇
ナヴァラトリとは9日間の夜の意味です。夜は暗闇に関連します。暗闇とは何ですか?
無知の暗闇のこと
です。ナヴァラトリのお祝いは人をとらえつづけている9種類の暗闇を取りはらうことに目的があります。デ
ヴィに関連づけられるとき、そのデヴィとはドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティがひとつになったのも
ののことです。この3つがひとつになりシャクティを表します。このシャクティが、自然界のあらゆる現象(プ
ラクリティ)の起因となるエネルギーです。自然とはエネルギーであり、そのエネルギーを支配するもの、そ
れが神です。
自然(プラクリティ)は3つの資質、サトワ・ラジャス・タマスからなりたちます。サラスワティがサトワ・
グナ、ラクシュミーがラジョ・グナ、パールヴァティ(ドゥルガー)がタモ・グナの象徴です。プラクリティ
191
(自然)がこの3つの資質(サトワ・ラジャス・タマス)からなりたつことでコントロールされていることか
ら、人々はドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティを崇拝してきました。この3つは女神なのではなく、3
つの資質を明確に示すための象徴に他なりません。
神の恩寵を得るためには、まず第一にプラクリティを崇拝しなさい。一方で人として自ら努力する必要があ
り、もう一方で神の恩寵を得る必要があります。プラクリティ(自然)とパラマートマ(全セルフ)とは電極
の陰極、陽極のようなものです。神(陽極)の威力がどんなに強力であっても、プラクリティ(陰極)がなけ
れば創造はありえません。創造の土台はプラクリティです。たとえていえば、どんなに優秀な種を持っていた
としても、それを地面に植えなければ結実は得られません。創造というプロセスにおける自然の役割もこれと
同じことです。
人が神を忘れ、自然から得られるものばかりを追求すれば、最終的には自らを破滅に追いやったラーヴァナ
のようになってしまいます。神の恩寵を得るには、ハート、言葉、行いを浄化しなさい。この3つの浄化はヴ
ェーダンタ哲学ではトリプラスンダリといわれます。あらゆる繁栄の具現であるラクシュミーはハートで象徴
されます。口がサラスワティ、純粋な行い(クリヤ・シュッディ)がドゥルガーの象徴です。ナヴァラトリの
お祭りを祝うのは、想い、言葉、行いを浄化することにより、人が抱える暗闇を追いはらうためです。
人の肉体は自然から生じます。自然には2つの姿があります。アパラ・プラクリティとパラ・プラクリティ
です。アパラ・プラクリティには8つの富(アシュタ・アイシュワリヤ)があります。カーマ、クローダ、モ
ハ、ローバ、マダ、マトサリヤ、そして3つの心理機能、マナス、チッタ、アハムカーラの8つです。パラ・
プラクリティ(より高次の資質)は人の意識に相当します。生命エネルギー(プラーナ)と意識(チッタニヤ
ム)がなければ人は死体にすぎません。人間性とは低次の資質(アパラ・プラクリティ)の5つの要素をコン
トロールし、生命エネルギーと意識(チッタニヤム)で表された高次の資質に溶けこむことにあります。
ナヴァラトリは三部構成になっています。最初の3日間でドゥルガー、次の3日間でラクシュミー、最後の
3日間でサラスワティを崇拝します。ヒンドゥー教のお祭りにはどれも神聖な目的があります。しかし残念な
ことに、今日お祭りはそこに秘められた意義が理解されぬまま、表面的な儀式として祝われるのみです。どの
御姿を崇拝するのであれ、心と肉体に落ち着きがなければなりません。そのとき集中力が発揮されます。今日
の人々は、心と肉体に落ち着きを保つことができていません。
…(略)…デヴィ・ナヴァラトリの基本的な意味とは自然(プラクリティ)の崇拝です。デヴィとはブーデ
ヴィ(母なる大地)をさします。生命を維持するのに必要なものはすべてこの地上で得ることができます。月
へいった人々は、必要とする酸素、水、食物を地上から持って行かねばなりませんでした。どれも月では入手
できないものです。
学生たちよ!
科学技術の進歩は二酸化炭素の煙で大気を汚染し、地上の生命をおびやかしています。すで
にこの煙は、太陽の有害な光線にたいし保護膜の働きをしているオゾン層に、オゾンホールをつくってしまい
ました。もしもオゾン層が破壊されれば、太陽光線は破壊的な作用をもたらします。この危機を避けるには、
車や工業廃棄物のひきおこす大気汚染をへらすことです。何の規制もなくただ工業を発展させるのはやめなけ
ればなりません。公共の福祉、全体の繁栄のためでなければなりません。
ナヴァラトリのお祭りは、自然を崇め、自然のもたらす資源を人類の最善の利益のためにどう活用するのが
適切かを考える機会です。水、空気、エネルギー、ミネラルなどの資源は正しく用いられるべきものであって
誤用、乱用すべきではありません。無駄なく効率よく活用することが不可欠です。大気の汚染は様々な有害な
結果をもたらします。ナガラ・サンキルタンやバジャンを歌うことには、神聖な波動、神聖な想いで大気を満
たすという意味がこめられています。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
11月号
267-269p)
◇
この世は3つのグナ(サトワ・ラジャス・タマス)の顕現です。神はデヴィとして崇拝され、デヴィとは女
性性を表す言葉です。「女性」を意味する言葉はストリーです。この言葉には3つの子音サ、タ、ラがありま
す。サは人のサトワの側面の象徴です。サトワの資質は人の表す第一の資質です。愛の気持ちは母親から生じ
ます。母の愛の本質は言葉でいいつくすことができません。母親は自らの血液を愛に変え、ミルクとして子ど
もに栄養を与えます。サの象徴する第一の資質とはサトワの資質といえます。
2つめの子音はタです。これはたんにタトワやタマスの象徴とはいえません。アニ・クマールは食べ寝るば
かりの状態がタマスの特徴であると言いましたがそうではありません。ストリーという言葉にあるタの子音は、
192
内気さ、謙虚さ、自尊心という女性に特徴的な資質の象徴です。内気なのは女性に顕著な特徴であり、また名
声や評判を重要視します。ここでいうタマスの資質とは、こういった女性に特徴的な神聖な資質をさします。
タマスの一般的な見解はふさわしいものではありません。
子音ラによって象徴される3つめの資質はラジャスです。女性の犠牲の精神や気高さは、ラジャスの資質の
反映です。必要とあらば自らの名誉を守るため命さえ犠牲にすることができます。試練や困難にあおうともの
ともせず、名誉、尊厳を守るためには何をも犠牲にするのです。タマスの資質がサトワの資質をおびやかそう
とすると、女性は自らすすんで闘い、うち負かそうとします。
このように、デヴィとは悪の力を制しサトワを守るため、ラジャスの姿をとる神性エネルギーを象徴する言
葉です。不正、不道徳、偽善が怪物のようにふくらみ死の踊りにふけったとき、自己中心や私利私欲が増大し
たとき、人が優しさや慈しみの心を失ったとき、アートマ原理がシャクティの姿をとってラジャスの資質を帯
び、悪の要素を破壊します。これがダサラ祭にこめられた意味です。
女神が悪の要素を滅ぼすためすさまじくいきりたつと、恐ろしい姿になります。この恐るべき女神を鎮める
ために、少女たちが赤いクムクム(神聖な赤い粉)で礼拝を捧げます。女神は御足に捧げられた血のように赤
いクムクムを見て、邪悪なものが確かに滅ぼされたものと思い、優しい姿に戻ります。赤いクムクムでデヴィ
を崇拝するのには、女神を鎮めるという意味があります。ダサラ祭の10日間で、邪悪な資質の悪魔(ラクシ
ャサ)たちが滅ぼされます。ラクシャサに悪魔のような生きものという意味があるのではありません。人の内
にある悪い資質が悪魔なのです。傲慢さが悪魔、悪い資質が悪魔です。ラーヴァナはラクシャサの王として描
かれ、10の頭をもつといわれますが、生まれたときから10の頭だったのではありません。ラーヴァナとは
誰で、10の頭とは何のことでしょう。カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、モハ(幻想)、ローバ(貪欲)、
マダ(傲慢)、マトサリヤ(嫉妬)、マナス(心)、ブッディ(知性)、チッタ(意志)、アハムカーラ(エ
ゴ)―――これら10の資質が10の頭です。ラーヴァナはこれら10の資質をそなえた人物でした。人は誰
もがその資質によって、ラーヴァナになるかラーマになるかを自ら決めることができます。ラーマは悪の資質
の破壊者でした。悪の資質を滅ぼすときラジャスの資質をあらわにしました。しかしラジャスの資質はサトワ
の資質と結びついていました。ラーヴァナの10の頭を切り落としたときでさえ、ラーマは愛を見せました。
そうすることでのみ、ラーヴァナに救いを与えることができたのです。
神が罰を与えるとき、それは手荒にみえることでしょう。しかし表面的にはラジャスにみえても実のところ
サトワなのです。あられまじりの嵐は雨とあられを含みます。しかし雨もあられもそもそも水です。同様に神
のふるまいがたとえラジャスであったとしても、そこにはサトワの資質があります。神がどうふるまうかは、
時、場所、状況によります。バターは指で崩せても、鉄の塊を砕くにはカナヅチが必要です。神はサトワの人
にはサトワでこたえ、ラジャスの人にはラジャスの武器をふるいます。
人々は神が恐ろしい姿と性質のものであると考え神を崇拝します。これは正しくありません。神にはたった
ひとつの性質しかありません。愛の体現ということです。こういわれてきました。「愛は神である。宇宙は愛
に満ちている」世俗の目で世界を見てはいけません。愛の目で見なさい。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
11月号
351p)
◇
ラクシュミーには自然を保護する側面があります。ドゥルガー(カーリー)が悪の資質を滅ぼすとき、ラク
シュミーは心を浄化します。そうしてサラスワティで象徴される言葉の清らかさが生じます。このようにドゥ
ルガー、ラクシュミー、サラスワティには心、言葉、行いから不純なものを取りのぞく役割があります。
自然(プラクリティ)は神の顕現です。人は自然を知覚し体験しても、自然の中に神を認めることができま
せん。表面的な形として顕れた神を見ていながら、その神性を認識することができないとは、愚かさのしるし
です。人は自然界を宇宙として見ています。これはヴィシュヌ神のとった宇宙の姿(ヴィラータ・スワルーパ)
です。神に特定の姿や住みかがありますか?
いいえ、あらゆるところにおわします。神があなたであり、あ
なたが神です。それを認識できたとき、神を理解することができるでしょう。自分の目を見るにはこの世のも
のを何でも映す鏡が必要であるように、自らの内なる神を見たいなら、ブッディを活用しなければなりません。
神をどこかに探そうとするのは愚かなことです。神は母親より近いものです。ハートに純粋さがあれば、知性
を通じ内なる神を体験できます。この体験を得る手段が愛です。愛が神だからです。
(サナタナ・サラティ
193
1992年
12月号
頁不明)
◇
◇
◇
◇
この宇宙には3つの姿があります。粗雑体、精妙体、原因体です。物質的な世界は粗雑体を示します。精妙
体が心であり、さらに精妙なものがアートマです。
人の肉体は5つのさやからなりたち、その5つは3つのグループに分けられます。アンナマヤコシャ(食物
のさや)が粗雑体で、プラーナマヤ(生気のさや)、マノマヤ(精神のさや)、ヴィジュナーナマヤ(知性の
さや)の3つが精妙体のさやです。アナンダマヤコシャ(至福のさや)は原因体のさやです。この最後のさや
でさえ究極的な至福ではありません。アナンダマヤコシャを超えたところにより高次の実在があるからです。
それはマハー・カラナ、超原因体と呼ばれます。これがアートマ原理です。
人はみなこの3種の姿をもつことからトリプラスンダリと呼ばれます。誰にでもトリプラ(3つの街)があ
ります。3つのプラとは肉体、マインド、ハートです。本質的に女性性であるプラクリティの要素の多くが肉
体にあることから、肉体をスンダリ(美しき乙女)と呼びます。
ナヴァラトリのお祭りの間、トリプラスンダリが崇拝されます。残念ながら太古の昔より、人々はお祭りに
こめられた意義を理解することなく、表面的に礼拝して祝ってきました。この宇宙全体が寺院です。神は宇宙
に遍在します。自然(プラクリティ)はナヴァラトリにかかわる霊性の真理を教えています。霊性修行を通じ
てサイの愛を知りなさい。神はサーダナを通じてのみ認識されます。サーダナとは、特定の場所で特定の御姿
の神を崇拝することではありません。どこにいようと何をするにも神を思うということです。どうしたらそれ
ができるのかと思うことでしょう。答えは、行いのひとつひとつを神に捧げることです。
ナヴァラトリの間、アンガラパナ・プージャと呼ばれる礼拝の様式があります。この儀式では、肉体のすべ
てを帰依(サラガナティ)の心で神に捧げます。帰依とはあますところなくすべてを神に捧げ、自分と神の間
にへだたりがあるという意識を捨てることです。このへだたりが感じられる間は真の帰依はありえません。万
物に宿る神が同じひとつの神である(*エーカム
ヴァシ
サルヴァブータ・アンタ・アートマ)と確信しなけ
ればなりません。(*Ekam Vasi Sarvabhuta-antaatma)
アンガラパナ・プージャを行う中で、そこにはある種の自己欺瞞があります。帰依者が「*ネトラム
サマル
ピヤーミ(私の目を神に捧げます)」と唱えながら花を捧げるとき、その帰依者は自分をあざむいています。
「花を捧げます」と唱えたほうが事実にそくしているでしょう。「ネトラム
サマルピヤーミ」のマントラは、
神を見るためだけに私の目を用います、と言おうとしています。このマントラの真の意味とは、何を見ても何
を行ってもそこに神を見いだすということです。ですからアンガラパナ・プージャは、肉体のすべてを神の奉
仕のために捧げると宣言してこそ意味があります。何の仕事をするのであれ、神に捧げるものとして行わなけ
ればならないということです。今日帰依者の間には利己心が蔓延し、神を求めて神を愛するのではなく、利己
的な欲望を満たすために神を愛します。利己心がはびこりつづけているかぎり、神を理解することはできませ
ん。(*Netram Samarpayami)
ナヴァラトリのお祭りは、自分の資質が人か、動物か、悪魔かを判断する機会であり、動物的な資質を人間
性に、人間性を神性に変える努力をしなければなりません。英知は外側から得られるものではありません。内
なるサーダナにより得られるものです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
11月号
270-271p)
◇
負債とは、他の人から何かを受けとることで生じます。人の肉体にも負債が課せられていることが容易に分
かるでしょう。神性エネルギーが肉体を養い保っているからです。この神性エネルギーは全身にいきわたるも
ので、ラサ(神の真髄)と呼ばれます。この貴重な肉体を与えてくれただけでなく維持している神に、私たち
は負債を負っています。この負債を神に返済することでのみ、肉体という贈りものを享受することができます。
どのようにしたらよいのでしょうか。正しい行いをし、社会の中で働きながらあらゆる行いを神に捧げること
で、同じ神に満たされた他の肉体に奉仕し返済することができます。この負債の返済が早ければ早いほど、神
を認識する日は近づきます。
また、人にはリシたちへの負債があります。無私の探求、体験により、聖者たちは人々がよりよく生き、神
との合一に到達するための道を見いだしてきました。よりよい価値ある暮らしを営み、覚醒への努力が成功す
るよう、その助けとなる正しい行いを様々に定めてきました。シャストラは神を敬い慕うための儀式や礼拝の
194
様式にもふれています。聖者たちはどのようにしたら人間性から神性にいたることができるのかを教えていま
す。それらのきまりは他の名称で他のものにも記されています。しかし何と呼ばれようと、人類存続のために
は欠かせないものです。
このきまりの数々から外れると、人々は様々な困難にさらされます。遅かれ早かれ、これらのきまりを破っ
たことへの代償を支払わなければなりません。正しく神聖な生き方についての貴重な手引きをいにしえの聖者
たちが授けてきたのですから、これらの決まりに敬意をはらい、定められたことを守ることで負債を返さねば
なりません。
今日、シャストラに敬意をはらうかわりに、人々はその名誉を汚し、決まりを破り、無謀な罪を犯して生き
ています。聖者たちのしいた道に従うことで、模範的な生き方を送り、人の可能性の頂点にまで到達すること
ができるのです。
(サティア・サイ・スピークス16
133p)
2.ドゥルガー―――クリヤ・シャクティ(行いの力)、プラクリティ(自然の力)
ドゥルガーは驚異的な自然の力(プラクリティ・シャクティ)の象徴です。この自然のエネルギーに拮抗す
るのがパラシャクティ(魂の力)です。魂の力が優勢になると自然の力が統制下におかれ、魂の力が弱まると
自然の力が優勢になります。これは火と煙によって説明できます。煙が多くなると火力が抑えられ、炎が燃え
さかるときには煙が姿を消しています。魂の力を高めて自然の力を制限するには、ヴァイラーギヤ(無執着)
を養わなければなりません。自然の力が統制下におかれる度合いに応じて、魂の力が大きくなります。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
12月号
304p)
◇
ドゥルガーは母なる自然(プラクリティ・マータ)の象徴です。自然の影響から生じる悪の資質をうち負か
すには、その自然の力を呼びおこさねばなりません。これがドゥルガー崇拝の意義です。自然とは罰を与える
だけでなく保護するものでもあるのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1992年
12月号
310p)
◇
私たちの肉体の内にあるエネルギーがドゥルガーの姿であることを確信しなさい。エネルギーを浪費しては
いけません。私たちは悪いものを見、悪いことを話すことでエネルギーを無駄にしています。非難されて当然
です。優しく落ちついた言葉、行いに変えていかねばなりません。今日のようなお祭りは、エネルギーをつま
らぬことに浪費しないことの大切さを理解し、決意するために祝われてきました。それがお祝いのもっとも重
要な意味です。こう祈りなさい「母なる神よ、あなたは私の内なるエネルギーです。どうか正しいことのため
だけに用いることのできるよう、エネルギーを私に流してください」
(サンキルターナム
◇
◇
◇
15p)
◇
イッチャ、クリヤ、ジュナーナという至上のエネルギーは、神性原理、ドゥルガー、ラクシュミー、サラス
ワティに体現されています。クリヤ・シャクティはあらゆる富と繁栄の源でありながら、いたるところにその
姿を顕します。私たちの吸う息、吐く息が富であり、まなざしが富、言葉が富―――みな富の様々な姿です。
そのように認識されたなら、神の遍在を理解することができるでしょう。
(サンキルターナム
3.ラクシュミー―――イッチャ・シャクティ
195
13p)
イッチャ・シャクティ(意志の力)は想いから生じます。このイッチャ・シャクティは知性、識別能力、そ
の他潜在する力の源です。イッチャ・シャクティ(意志の力)を育むには、デヴィ崇拝をすることです。それ
にはティヤガ(諦観、無執着)を養う必要があります。たとえばたくさんの種類の飲み物を飲みたいという欲
望が起こったとき、まずはじめにそのうちのいくつかを断念することで欲望をコントロールしていくことがで
きます。そうするうちに意志の力(イッチャ・シャクティ)が強められ、後にはその他の欲望も容易に捨てさ
ることができるようになります。ヴェーダンタ哲学の言葉では、ヴァイラーギヤ(あらゆる執着を断ち切るこ
と)といいます。ヴァイラーギヤは家庭を捨て森に隠遁することではありません。信仰心を育み、俗世意識を
へらすことです。そうしたバランスで成長していったとき、自然の力(プラクリティ・シャクティ)をコント
ロールできるようになります。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
あなた方が食べる食物はまさにラクシュミーの御姿です。ほんの少しであろうと無駄にしてはいけません。
必要な分だけを食べなさい。水さえも無駄にしてはいけません。五元素はみなラクシュミーの御姿なのです。
(サンキルターナム
16p)
4.サラスワティ―――ジュナーナ・シャクティ(純粋なる知性、言葉の力)
サラスワティは女神であり、創造主ブラフマーの伴侶です。あなた方はみな崇拝する女神の帰依者であり、
女神は英知と救済を授けます。女神の授けるこの至上の恩恵に忠実でありなさい。即物的な五感の飢えにエサ
を与えて満足してはいけません。安っぽい名声を求めて理想をおとしめたり、美意識を低俗にしてはいけませ
ん。ローキカ・スリンガラム(俗世の快楽)のかわりにアローキカ・アートマアーナンダム(神性セルフの至
福)を与えなさい。愛を拡大し、動機を純粋にし、慈しみの気持ちを高め、差異性に寛容になり、人それぞれ
の努力に敬意を払うよう努めなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
37p)
◇
英知の力はサラスワティです。サブダブラフマイー(音の化身)、チャラチャラマイー(動・不動の化身)、
ジョーティールマイー(光の化身)、ヴァクマイー(言葉の化身)、ニッティヤーナンダマイー(永遠なる至
福の化身)、パラトパラマイー(至福の化身)、シュリーマイー(富の化身)―――これら8つの愛がみなサ
ラスワティから生じ、あらゆる種類のヴィディヤを説きます。サラスワティは白鳥に乗りますが、これはまさ
に「ソーハム」のマントラに象徴される呼吸のことです。サラスワティはヴァク・スワルーピニ、話す能力そ
れ自体がサラスワティです。ヴェーダ・スワルーピニともいえましょう。サラスワティはまさにあなたの内に
宿ります。
(サンキルターナム
◇
◇
◇
13-14p)
◇
アートマ=良心はあなたの力の源です。呼吸のたびに発せられるソーハムがこのことを示しています。ソー
ハムはハムサ・ガヤトリーとしても知られます。ハムサ(白鳥)は水とミルクの混じったものからミルクだけ
をより分けて飲むことができると信じられます。ハムサ・ガヤトリーは肉体意識を魂(アートマ)から切りは
なすものとして唱えられます。ガヤトリーには2つの別名があり、サヴィトリー、サラスワティとも呼ばれま
す。サヴィトリーは生命の主であり、サラスワティは言葉、ヴァクを治める神格です。ガヤトリー・マントラ
のブール・ブワ・スワハは肉体(ブール)、生命(ブワハ)、プラジュナ(意識=スワハ)をさします。人の
外にあるどこか別の世界のことではありません。この3つは人の内にあります。だからこそ人は非凡な存在な
のです。大宇宙の神性意識の具現(チャイタニヤ・スワルーパ)なのです。
(サナタナ・サラティ
196
1993年
6月号
154p)
◇
◇
◇
◇
神格は様々に誤解されています。たとえば、サラスワティは白鳥に乗った女神として描かれます。サワスワ
ティは言葉の女神です。言葉は呼吸の吐く息、吸う息にもとづきます。呼吸にともないソーハムという音が発
せられ、それが規則的にくりかえされることで、その音がハムサ、白鳥を意味する音になります。呼吸は言葉
の女神の乗る乗りものなのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
9月号
259p)
◇
サラスワティは文芸の象徴であるだけでなく、完全なる至福、アーナンダを授ける恵みでもあります。人の
内にある不純物を根こそぎにし、人を神聖で敬虔にします。サラスワティはアートマ・タトワを確立し、また
人と神とをつなぐ流れです。その流れは決して外に流れ出るものではなく、内に流れるものであることを心に
とめておきなさい。
(サマー・シャワー・イン・ブリンダヴァン
◇
◇
◇
1972年
181p)
◇
サラスワティは三大神の第一の神、あらゆる想像力の源であり支え主であるブラフマーのシャクティです。
ガヤトリー―――探求者の知性を光で照らすよう光の源に祈りを捧げるヴェーダのマントラ―――これもシャ
クティの一面です。
ガヤトリー・マントラ(知性を照らすヴェーダの祈り)は、人の心の内からわきおこる神の呼び声、愛と光
の体現者になるようにとの不変にして永遠不滅の神の呼び声です。それはどの国、どの時代であれ、まさに教
育の根幹です。しかし今や人々はサラスワティ、ガヤトリーを忘れ、教育機関の祭壇には富の女神ラクシュミ
ーをすえています。寛大な環境、寛大な履修科目、寛大な試験、怠惰な生徒への寛大な処遇が強調され、とき
には悪意にたいしてさえ寛大さが要求されるのです。
(サティア・サイ・スピークス13
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79p)
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ガヤトリーは5つの面からなりたちます。*1つめが「オーム」、2つめが「ブールブワッスワハ」、3つめが
「タットサヴィトゥール
ワレニヤム」、4つめが「バルゴー
ディーヴァッシャ
ディーマヒー」ガヤトリ
ーのこの5つの面は5つのプラーナ(生命エネルギー)を示します。ガヤトリーは人の内にある5つのプラー
ナの守り主なのです。「**ガヤトリー
トラヤテ
イティ
ガヤトリー=唱える人々を守るためガヤトリーと
呼ばれる」ガヤトリーが生命エネルギーの守り主としてふるまうとき、その姿はサヴィトリーとして知られま
す。サヴィトリーは、プラーナの神話の中では夫サティヤヴァンの命をとりもどした献身的な妻として知られ
ます。サヴィトリーは5つのプラーナを治める神格であり、真理に根ざした生き方をする人々を守ります。こ
れがここに秘められた意義です。(*Om Bhurbhuvassuvaha Tatsavithur Varenyam Bhargo Dhevasya Dheemahi)(*
*Gayatri thrayathe ithi Gayatri)
(サティア・サイ・スピークス16
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36-37p)
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ヴィディヤ(知性)は人々が神にむかい、自然もまた神であることを見いだすようさとすもの、自らに内在
する意識を目覚めさせ、あらゆるものの背後にあるアートマ(セルフ)に気づかせるものでなければなりませ
ん。ヴィディヤとは人に知性を養うよう訴えかけるものです。この知性に価値があるのはどんなときでしょう。
人格がないのであれば知性など火に投じてしまうのが一番です。今日、教養ある人々は教養のない人よりもさ
らに邪悪、貪欲、狡猾です。知性が他人につけこみ排斥するようけしかけるのです。この種の知識は世界を汚
し毒しています。世界中いたるところで平安と繁栄をだいなしにしています。言葉、言葉、そしてまた言葉!
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言葉は過剰になるばかりです!
何も実践されません。誰も動こうとしないのです。
今日学生たちのいる環境は混乱にゆれています。混乱どころかまったく狂気の沙汰です。白い制服を着てい
ても心は依然として暗闇です。
ハートは邪悪な想いに満ち
耳は醜聞を追い求め
目は見ざるべきを見て喜ぶ
マインドは不正をたくらみ
理性は偽善の計画をたてる
ヴィディヤが人の心の内を知ったなら
一瞬たりともそこにとどまろうとはしないだろう
カエルは蓮の近くで跳びはねても、その香りをかぐことも蜜を味わうこともありません。しかしハチは遠く
からやってきてその両方を享受します。神に到達できるかどうかは、私たちがこれまでどのように心の型をつ
くってきたかによります。しかし人間は、正しい行いを誠実に実践しつづけることで、心の条件づけを修正す
ることができるのです。善良であると周囲も善良さに満ちてきます。バラの花を手に持てば、周囲の人々にも
その香りを届けることができるのです。
(サティア・サイ・スピークス15
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198-199p)
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ハムサ(神話上の白鳥)は、水とミルクの混ざったものからミルクだけをより分けて飲む能力があります。
パラマハムサ(覚醒者、真理を得た者)も、幻想と真理をより分け、至福を体験し、真理のみと通じあうこと
ができるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
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180p)
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ジュナーニ(覚醒者)とは、あらゆる人に宿るアートマを自らのアートマとみなします。一体性のみを実感
しているため、人々の間に差異を認めることがありません。肌の色、カースト、教条などの物理的な違いは肉
体に付随するものにすぎません。肉体という外側のものにつけられたしるしにすぎません。アートマとはニシ
ュカーラ、いわば境目のないものです。ニルマーラ=汚れのないもの、欲望、怒り、貪欲、執着、傲慢、羨望
に影響されないものであり、ニシュクリヤ=活動性のないものです。それらの制約を受けるもの、もしくは受
けているような印象を与えているのはプラクリティ(自然)にすぎず、プルシャは活動性のない制約されない
永遠の観照者です。
何をもって「これが真理である」といえるのでしょうか。過去・現在・未来にわたり存在しつづけるもの、
はじまりも終わりもないもの、動きも変化もないもの、不変の姿をもつもの、体現されうる資質を束ねたもの
―――これらのみを真理と呼ぶことができます。肉体、意識、心、生命、エネルギー、これらについて考えて
みましょう。これらには動きと変化があり、はじまりと終わりがあり、ジャダ=不活性のものです。タマス・
ラジャス・サトワの3つのグナをもち、根本的な実在性というものがなく、現実世界という幻想をもたらしま
す。そこには相対的な価値しかなく、絶対的な価値はありません。借りものの光で光っているだけです。
絶対真理は時間と空間を超越し、ア・パリチチナ、つまり目に見えないものです。はじまりがなく、つねに、
永久に存在します。土台にして根本であり、自明の原理です。それを知り体験すること、それがジュナーナム
です。こういうものだと定義することも、何らかの特徴で説明することもできません。知性も心も超えたもの
を、たんなる言葉でどう説明することができましょう。
真理はアドリシャとも呼ばれます。変化にさらされ能力が大幅に制限された「見るための装置=目」では見
えないもののことです。ブラーフマンはどんな元素、物質を用いようと特定することができません。ブラーフ
マンによって見ることを可能にされている目に、そのブラーフマン自体を知覚することなどできるでしょうか。
心は時間、空間、因果に制約されます。それらを超え、影響されぬパラマートマを、どうしてそれらで定義す
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ることができるでしょう。
この根本的真理というものを、つねに心の視野にすえておきなさい。欲望を増加させてはいけません。時間
を無駄にしてはいけません。たとえ一分たりとも。何か快楽を与えるものをひとつ求めれば、それよりさらに
快楽を与えるものを望む気持ちが起こります。欲望それ自体の根を断ち、自らの師になりなさい。欲望を捨て
さることで、すみやかにジュナーナのきわみに到達できます。
ジュナーニ、解き放たれた者とは喜び悲しみに影響されません。心(マインド)をとりはらった者にとって、
そこにどんなものが反応をひきおこせるというのでしょう。「感じ」させているのは心(マインド)です。も
しも意識をなくす薬を飲んだら、何の苦しみも、喜びさえも感じません。肉体が心から切りはなされているか
らです。それと同じで、英知の夜明けを迎えれば、心(マインド)を切りはなし、あらゆるものの接触から遠
ざけておくことができます。
心の乱れは特定の訓練により鎮めることができます。その結果、心の牽引力から自由になり、アートマンの
至福を味わうことができるようになります。心は人を外界へとひきつけ、外界の物質的な喜びのみを供給しま
す。しかし賢明なる者は、それらの歓びが過ぎさるものであることを知っています。アートマだけで幸せを求
める欲望すべてを満たすに十分であり、完全にして永遠不変なのです。外界に何かを求める必要はなくなりま
す。
ジュナーニはその高潔な決意、努力、追求を通じ、ある種特別な能力を身につけます。望む者すべてを手に
入れることができるのです。ジュナーニの偉大さとは、実に言葉を超え想像力さえおよばぬものです。神の栄
華、壮麗さそのものといえます。つねにそうでありつづけていたブラーフマンになるからです。そこから「*
ブラーフマンを知る者は自らブラーフマンになり、ブラーフマンの資質を身につける」、そう明言されるので
す。この世が虚構であり、ブラーフマンのみが真理であることを明らかにしなさい。そのときあらゆる衝動が
滅ぼされ、無知が消滅します。ジュナーナという宝石は心(マインド)に盗まれました。心(マインド)をと
らえればとりもどすことができます。その宝石はあなたにブラーフマンの地位と威厳を与え、あなたはただち
にその気配をただよわせることでしょう。(*Brahmavid Brahmaiva Bhavathi, Brahmavid Apnothi Param)
このアートマ・ジュナーナを勝ちえた偉大な魂たちは崇拝にあたいします。聖なる人々です。どんなに難し
く、どんなにタパスを求められようと、万人の権利であるブラーフマンに到達しました。ブラーフマン、それ
が彼らの求めた王国であり、彼らの希求した栄華です。ヴェーダ、ウパニシャッド、シャストラが説明する偉
大なる神秘です。この神秘をひもとくこと、そこに人生の価値があります。それが解脱にいたる鍵です。
(ジュナーナ・ヴァヒーニ
24-25p)
まとめ
ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティとは、人の粗雑体、精妙体、原因体に内在し、全宇宙
にあまねくいきわたる神の威力であり、根源エネルギー(アディ・シャクティ)に由来します。人
のあらゆる側面がこの神性エネルギーでなりたつことから、人も神であるといえます。この真理を
理解するために知性を用い、行いを営むことが重要です。アートマの英知を授けるエネルギー、サ
ラスワティは、人をジュナーニ=解き放たれた者にします。
1996年10月21日のヴィディヤ・ダサミの御講話で、サイ・ババはこう言っています。「ド
ゥルガーは、あなたのハートに力、エネルギーとして宿り、サラスワティはあなたの言葉に宿るエ
ネルギー、ラクシュミーはあなたの両手を崇高な行いに用いたときにあらわにされるエネルギーで
す」
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