おばあちゃんの星

おばあちゃんの星
史
鉄 生
島 貫 ク ミ 子
原 作
訳
僕のこの世で最初の記憶、それは僕がおばあちゃんの胸でそっくり返って
泣き喚いていた事だ。理由はわからないが、とても悲しくて泣いていた。窓
の外に見える壁は漆喰が剥がれ落ちて、その形はまるで醜い老人のようだ。
おばあちゃんは僕を抱きしめ、とんとん叩きながら「おー、おー」とあやし
ている。僕は却ってむずかり出した。するとおばあちゃんが突然言った。
「聞いてごらん!」
「よーく聞いてごらん、何か聞こえるよ……ん?」
僕は泣くのをやめて耳をすましたらいい音が聞こえた。ヒューヒュー、ホ
ーホー。鳩笛?秋風?落ち葉が軒をかすめる音かな。それとも、おばあちゃ
んが軽く口笛を吹いているのかな。今でもわからない。
「おーおー、眠りなさい。お猿が来たら私がやっつけてあげるから……」
それはおばあちゃんの子守唄だ。天井にゆらゆら揺れている光は、盥の水
に日の光が反射しているからだ。光もあのようにゆらゆらと、幸せな夢の世
界に変わる。僕はおばあちゃんの胸に抱かれて安らかに眠る……
僕はおばあちゃんに育てられた。どれだけ多くの人に言われたか知れない。
「おばあちゃんに育てられたんだから、大きくなってもおばあちゃんを忘れ
るんじゃないよ」
僕はその頃から少しずつ物心がついていた。
おばあちゃんの膝に腹這いになって、小さな目で話している人を睨みつけ、
心の中で「あなたなんか嫌い!」と言った。その頃はまだ言葉を知らなかっ
たので言い換えれば
「そんな事あなたが言う必要ないでしょう!」と言いたかったのだ。
おばあちゃんはもっと強く僕を抱いて、笑いながら
「その時まで待てないよ」と言いながらも、どうやら満足な様子だった。
「どの時まで待てないの?」と僕が聞くと
「おまえがおばあちゃんに何か贈り物をしてくれる時まで待てないと言うこ
とよ」と。
僕は笑った。それはおばあちゃんの本心ではないと思った。でも、僕がお
金を稼いで、おばあちゃんに何かを買ってあげられる時なんて、考えてもま
だわからない。お父さんや伯父さんが何か買ってあげるとおばあちゃんはい
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つも言う。
「こんなにお金を使うことないよ」
おばあちゃんが一番喜ぶのは、僕が腰や背中を踏んであげることだ。夜に
なるとおばあちゃんはしょっちゅう腰と背中が痛くて、僕を背中に立たせて
行ったり来たり踏ませるんだ。おばあちゃんはベッドに腹這いになって「ウ
ーウー」と言いながらとても褒めてくれる。
「小さい足で踏んでもらうと、柔らかで本当に気持ちいいね」
でも僕はこれをやるのが一番面倒くさい。おばあちゃんの背中は腰まで本
当に長いんだ。
「もういいでしょう?」と聞くと
「あと 2 往復して」
僕は大股で 1 往復し
「いいでしょう?」
「ああ、いいよ」
僕はすばやく下に降りて靴を履いて逃げ出しながら言った。
「大きくなったらおばあちゃんの腰を踏んであげるよ」
「えっ、それじゃ私は踏まれて死んでしまうじゃないか」
少し経って僕は聞いた
「おばあちゃんはどうしてその時まで待てないの」
「年取ったら死ぬでしょうよ」
「死んだらどうなるの」
「そうなったら、おまえとはもう会えなくなるんだよ」
僕はもう聞くのをやめて、おばあちゃんの懐にしっかりとしがみついた。
それは僕がこの世で最初に受けたとても恐ろしい事だった。
ある冬の午後、目が覚めるとおばあちゃんがいなかった。僕は窓枠にすが
りついて、大声でおばあちゃんを呼んだ。外は雪が降り風も吹いていた。
「おばあちゃんは大叔母さんに会いに出かけたよ」
そんな事を言われても僕は信じない。大叔母さんの家に行く時はいつも僕
を連れて行くんだから。僕は丸々半日泣き叫んでお父さんやお母さん、隣近
所の誰も僕をなだめることはできなかった。夜になっておばあちゃんはひょ
っこり帰って来た。この事を覚えている人はおそらくいないだろうし、僕が
その時何を考えたかを知る人はいないと思う。小さい頃、おばあちゃんが僕
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を脅すよい方法は
「これ以上言うことを聞かないと、おばあちゃんは死んじゃうからね」と言
う事だった。
夏の夜、満天の星は競い合うように光っている。この世で人が一人亡くな
ると、天で星が一つ消えると言われているけれど、おばあちゃんのお話はみ
んなのとは違って、この世で人が一人亡くなると、天では星が一つ増えると
言うものだった。
「どうして?」
「人が死んだら星になるんだよ」
「どうして星に変わるの?」
「夜道を歩く人を照らしてあげるんだよ」
僕達は庭に座っていた。おしろい花が咲いていた。いろんな色の、小さな
ラッパの形をしている。一つ摘んで唇に当てて吹くと音が出ることもある。
おばあちゃんは大きな芭蕉扇を扇いで、蚊を追い払ってくれる。涼しい風、
青い空、キラキラ光る星たち……いつまでも僕の記憶に残っている。
誰もが死んだらみんな星に変わって、生きている人の為に道を照らしてあ
げられるのかどうか、あの頃僕はまだ確かめようがなかった。
おばあちゃんが亡くなってもう何年にもなる。おばあちゃんが育てた孫は
まだおばあちゃんを忘れられない。僕は今おばあちゃんが話してくれた話を
思い出し、あれがおとぎ話だと知ってからも夏の夜に時々子供のように顔を
上げて、どの星がおばあちゃんのかなと探してしまう。そして次第にその話
を信じたい気持ちなる。誰もがこの世の命が終わると、生きている人の為に
光りを灯してくれる。それは大きな星だったり、松明だったり、あるいは涙
を流しているような蝋燭の火かもしれない。
おばあちゃんは纏足(てんそく)だった。おばあちゃんが足を洗う時はいつも
人を遠ざけるけれど、僕は大丈夫、僕は「おばあちゃんの影」だから。
「こんなの見なくていいよ!お母さんの所で遊んでいなさい」
僕はおばあちゃんが足を洗う盥の所にしゃがんで離れない。その両足は本
当に醜い、まるで親指と踵だけみたいだ。
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「痛いの?」
「とっくの昔に痛くないよ」
「今痛いの?」
「ぶつけると痛いね」
僕はおばあちゃんの足を撫でたかったが、この時はできなかった。ただ指
先で盥の水を弾き飛ばしていた。
「ほら、見るといやでしょう」
僕は同情するように頷いた。
「これからはおばあちゃんが呼んだ時はすぐに帰って来てね。おばあちゃん
はおまえに追い付けないんだからね、いいかい?」
僕は何度も頷いた。おばあちゃんの両足を見ていると本当に恐ろしい。お
ばあちゃんを見ると全然痛そうな顔ではなかった。
「僕のお母さんも年を取ると、足はこんなふうになるの?」
この一言におばあちゃんは何とも言えない表情になった。お母さんは表の
部屋で思わず吹き出し、こちらにやって来て僕を連れ出した。おばあちゃん
は奥の部屋で呟いていた。
「おまえのお母さんはいい時代に巡り合わせたよ、おまえ達はみんないい時
代に巡り合わせたよ…」
その夜、僕はおばあちゃんと一緒に寝た。まだあの事を考えていた。魔法
使いのお婆さん( 《白雪姫》に出てくるあの魔法使いのお婆さんみたいに、
鼻が曲がっていて青い目の )が長くて丈夫な布でおばあちゃんの足をきつく
縛るのを想像していた。
僕は頭をおばあちゃんの首の下にもぐり込ませて言った。
「おばあちゃんのお母さんは魔法使いのお婆さんだ!」
「この子ったら何をでたらめ言ってるの」
おばあちゃんはちょっと驚いたように僕の頭を撫でた。僕が寝言を言った
のかと思ったようだった。
「それじゃ、おばあちゃんのお母さんは、どうしておばあちゃんの足をそん
な風にしてしまったの?」
「このようにするのが私の為にいいと思ったんだね」と言って嘆息をついた。
「ばっかみたい!」
いつもなら僕がそんな言い方をすると、おばあちゃんは必ず怒るのに、今
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日は怒らなかった。
「もしそうでなかったら、あなた達の史家に来られなかったでしょうに」と
言って、おばあちゃんは又ため息をついた。
「僕はくそ史(屎)じゃないよ。僕は方だよ!」
僕は怒鳴った。
「方」はおばあちゃんの姓だ。
おばあちゃんは笑った。奥の部屋でお父さんとお母さんも笑った。でもみ
んなの笑いが、いつものように楽しそうじゃないのは何故なのか、僕にはわ
からない。
「史家に来たら黒い鍋(地主、資本家等のレッテル)を背負わされたね。私
のお母さんは、史家に来たらたくさんの福を味わえると……」
おばあさんはいつも「福」を「斧」のように発音した。
史家とはいったいどういう事、おばあちゃんはどうしていつもあんなに史
家を嫌うのかな。どうせ僕はくそ史ではない……と思う。
月の光が窓の障子紙に1つ1つの格子枠や海棠の影を作っている。大通り
から呼び売りの声が聞こえる。語尾を長く伸ばして何を売っているのかはっ
きりしない。おばあちゃんは目を見開き、瞬きしないで何かを考えているの
が僕にはよく見えた。
「おばあちゃん」
「ん?眠りなさい」
おばあちゃんは僕の方にそっと手を伸ばした。
おばあちゃんはいつも何を考えているのかな。おばあちゃんは小さい時、
跳びはねられる足だったと言ったことがある。おばあちゃんと手をつなぐと
気持ちよく眠れる。おばあちゃんが 2 このお下げ髪を結ってぴょんぴょんと
ゴム跳びをする夢を見た。僕等の屋敷にいる恵芬お姉ちゃんみたいに 2 つの
お下げ髪と大きな 2 つの足……
恵芬お姉ちゃんはとてもきれいだ。小さい頃僕はきれいだなと思った。お
姉ちゃんがゴム跳びする時、僕はいつも傍らにしゃがんで見ていて、おばあ
ちゃんが呼んでも動かなかった。お姉ちゃんはあまり僕をかまってくれない、
人とかかわりたくないのだ。ただゴムを引っ張る人がいない時だけ、僕に気
付く。僕はいつもお姉ちゃん達の人数が足りなくなるのを心待ちにした。お
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姉ちゃんはあまり笑わない。ゴム跳びが面白くなった頃に、小母さんが野菜
を洗う事や麺をこねる事、弟や妹の服を洗う事で帰ってくるよう怒鳴ると、
お姉ちゃんは何も言わずにゴムをしまい、帰って仕事をした。おばあちゃん
はいつもお姉ちゃんを褒めた。褒められてもお姉ちゃんはうんともすんとも
言わない。
恵芬お姉ちゃんの一番下の弟は八ちゃんと言って、僕と同じ年だ。八ちゃ
ん家は子供が 8 人いて、ほとんどが 1 歳違い。家は南側、僕の家は西側。
中庭は十字にレンガの道で 4 つに仕切られ、梨の木が 1 本と海棠が 3 本植
えられている。春の庭は白い花でいっぱいになる。花が散ると地面は一面の
花びらだ。木の下にもおしろい花、すずらん、カンナ、月見草等屋敷の人達
が誰彼の別なくみんなが植えた。その頃僕は小さかったからかもしれないが、
それらの花々がとても大きく感じた。僕と八ちゃんは生い茂る花の中に潜り
込んだり這い出したりして遊んだ。夜になるとそこはかくれんぼをするのに
とてもいい場所になった。花の中にしゃがんで猫の鳴きまねをする。
おばあちゃんはいつも僕達を一束ねにして、なぞなぞを言ってくる。
「青い石版、石版は青い、青い石版の上には……」
「それは星!」
おばあちゃんはこんな風にいくつかなぞなぞを言う。八ちゃんはじっとし
ていられなくて、紙を探してきて「鉄砲の弾」を作る。そして僕達は又花の
茂みに潜り込む。
「目に当てちゃいけないよ。まったく……」
おばあちゃんは門のところに座って大声で僕達に言った。
「大丈夫だよ、僕達は猫を狙うんだ」と八ちゃんが言った。
外からやって来た黒猫が僕達の仮想敵だ。
「猫でも当てちゃいけないよ、いい猫なんだから。動物をいじめてはいけな
いよ!」
おばあちゃんはまたもや怒鳴る。僕達は何も聞こえず、前の庭から後の庭
にワーワー言いながら追いかけた。黒猫は屋根に跳び上がって逃げて行った。
八ちゃんはとても遊び上手だ。ビー玉遊びをすればいつも八ちゃんが勝っ
て、一度にポケットがいっぱいになる。八ちゃんはトンボ採りの網を編むの
も上手だった。一度にたくさん捕まえて、どの指の間にも 2 匹ずつ挟んだ。
城壁の根元に行ってこおろぎを捕まえたり、屋根の上によじ登って海棠を摘
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んで来たりした。
おばあちゃんはいつも言う。
「八や、お前はいつ真面目な所を見せてくれるんだい。落ちないように気を
付けなさいよ」
八ちゃんは自分のお母さんに気付かれないように、こっそりと僕の家に来
るのが好きだ。おばあちゃんはいつもおいしい物を僕達二人に分けてくれる。
飴を一人一個、ビスケットは一人 2,3 枚。 八ちゃん家は生活が苦しいか
ら、おいしい物を食べられない。
「いくら有ったって、うちの餓鬼共が食べるのには追いつかないよ」
小母さんはいつも不平をこぼす。僕と八ちゃんはおばあちゃんのベッドに
腹這いになって、口をすぼめてチューチュー音を立てて飴をなめた。赤や青
のセロファン紙で太陽や木を見たり、庭で洗濯物を干す恵芬お姉ちゃんを見
たりして得意顔になって笑う。
「八っ!そんな所で騒いでいるんじゃないよ!」
お姉ちゃんはいつも仏頂面で言い、まるで大人みたいだ。八ちゃんは飴を
口に入れたまま返事をしない。
「おとなしいね、珍しく下にいるじゃないか」と言いながら、おばあちゃん
は嬉しそうに「八はいい子だ」と言った。
小学校に入る時、僕は八ちゃんと同じクラスだった。覚えているんだけれ
ど、僕達が少年先鋒隊に入隊する時、八ちゃん家では八ちゃんに白いシャツ
を作って上げられなかった。おばあちゃんは、僕が 2 枚持っている内から 1
枚を八ちゃんに着せてあげた。八ちゃんは嬉しくて顔を赤らめた。八ちゃん
は大きくなるまでずっと、お兄さんやお姉さんのお古ばっかりだった。入隊
式に行く日の朝、おばあちゃんは八ちゃんを呼んできて、僕達 2 人にそれぞ
れケーキ 1 切れとゆで卵 2 個ずつくれた。八ちゃんのお母さんは刺繍のハン
カチを僕達にくれた。これは小母さんが刺繍したものだ。小母さんは昼も夜
も刺繍の仕事をして、お金を稼ぎ家計の足しにする。
おばあちゃんも後に刺繍の仕事をしたが、それは小母さんが紹介したのだ
った。初め小母さんはおばあちゃんが本当にやりたいのかわからなくて、い
つまでも延ばしていた。おばあちゃんは度々
「仕事の事言ってくれた?」と言うと
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「やりたいって、本当に?」
肩に刺繍糸の束を掛けた小母さんが言った。
「本当だよ」
「ならいいわ。紹介してあげるから待ってね」
何日経っても小母さんは紹介してくれなかったのでおばあちゃんは又催促
した。
「時間を作って私を紹介してくださいな」
「おばあちゃん本当にやるのかい?」
「本当よ」
「おばあちゃん本当なんだ。息子さんもお嫁さんも仕事をして、月に百数十
元。家族は 4 人だし。こんな疲れる仕事どうしてやりたいの?」
「私はね、お金に困っているからじゃないの…」とおばあちゃんは静に言っ
た。確かに、おばあちゃんは少しばかりのお金を稼ぐ為ではない。おばあち
ゃんにはおばあちゃんの考えがあるのだが、その時の僕はまだわからない。
小さい頃、僕は朝から晩までおばあちゃんにくっついていた。お母さんが
仕事をする所はとても遠くて、特に冬は外が暗くなってしばらくしてからや
っと帰って来た。お父さんは奥の部屋で本を読んだり、新聞を見たり。新聞
をめくる音がカサカサと聞こえる。おばあちゃんはかまどの所に腰を下ろし
てお母さんの為にワンタンを作る。僕はその傍らでいたずらをして、小さな
餅(ビン)をひねって作り、かまどの壁に貼り付ける。剥がれ落ちたら出来上
がりだ。僕は全身小麦粉だらけだ。
「もう止めなさい。見てごらん、小麦粉が台無しだ」
おばあちゃんは僕の体に付いた小麦粉をはたいて、上着の袖を捲り上げて
くれた。
「それじゃ僕に『ネズミ』を1こ作って」
「これはワンタンよ、『ネズミ』は餃子の時に作る物だよ」
でも、おばあちゃんは 1 枚を餃子の皮に伸ばして「ネズミ」を作ってくれ
た。餃子とほとんど同じで、両端に襞が多くつまんであり、あまりネズミに
似ていなかった。
「『猫』を1こ作って」
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「猫」を 1 つ作ってくれた。2 つの耳があって、いくらか似ていた。
「茹でる時は一緒にできないね。お前が邪魔したからだよ」
「いいよ、これは僕が作ったと言って!」
おばあちゃんは苦笑いして
「お前が作れれば、お母さんは鼻高々だろうよ」
僕は、おばあちゃんがいつも言う、長く伸ばす言い方を真似て言った。
「ああー、おまえ達はみんないい時代に巡り合わせたよ。おまえのお母さん
は幸せすぎだよ」
おばあちゃんが一番僕のお母さんを羨ましがるのは、大きな足がある事、
学歴がある事、そして働きに出られる事だ。
ある時、お母さんの同僚が数人家にやって来た。みんながワイワイガヤガ
ヤと、職場の事をとめどなくお喋りをしたり、笑ったりしていた。僕が聞い
てもわからない、おばあちゃんに寄りかかってもう眠かった。おばあちゃん
は聞いてわかるとは限らないけれど、話を聞くのが好きなので、邪魔になら
ない所に座って、物音を出さずに聞き耳を立てていた。お母さん達が大声で
笑い出した時、おばあちゃんの顔にもみんなが何で笑っているのかわからな
い様子の笑みが出た。
「おかあさん、私達みんなで餃子を作るわ」
お母さんがおばあちゃんに言った。おばあちゃんはびっくりして、急いで
かまどに火を点けに行った。火はもう少しで消えるところだった、聞く事に
夢中で何もかも忘れていたんだ。
お客達が帰ると、おばあちゃんは一度に気持ちが沈んで
「食器を洗って、練炭を足しておいてね。私は疲れたよ」と言った。
お母さんが横になるように言ったが、おばあちゃんは座ったままぼんやり
としていた。しばらく経って、おばあちゃんは又口癖のように言った。
「ああー、おまえ達はみんないい時代に巡り合せたよ」
お父さんとお母さんは声をひそめたが、僕だけがおばあちゃんの話の聞き
役なった。
「おまえのお母さんは幸せすぎだよ、大きな足だし、学歴もあるし、職場に
仲間が大勢いて、お喋りしたり笑ったりして本当に愉快だね。まったく、私
は学校に行った事がないんだよ。従妹が一人いてね……」
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「知ってる、知ってる」
僕は続けて言った。
「おばあちゃんには従妹がいて、学校に行ってたし、家を飛び出して、偉く
なったんだね」
「本当だって!」
おばあちゃんは子供みたいに言い返した。
「おばあちゃんの従妹は食堂で食べたの?」
僕のこの一言でお父さんとお母さんは笑いだした。おばあちゃんは少しば
つが悪そうに
「6、7 歳は嫌われ者だ」と僕を叱った。
何故か知らないけれど、おばあちゃんは人が食堂で食べるのをとても羨ま
しくて、羨ましいとか崇拝するとか話し出すと、最後にはいつも一言言う。
「従妹も食堂で食べている」と。
58 年、地区に食堂ができた。おばあちゃんは家の中にあるさまざまな台所
用品を供出した。おばあちゃんは早めに食堂に行って食事になるのを待ちた
かった。昼お父さんお母さんは帰って来ない。おばあちゃんは、僕に学校が
終わると食堂に行って会うようにさせた。食事を売る窓が開くとおばあちゃ
んは一番目に食券を出して
「トマトを1つ下さい、それから……1つ」
おばあちゃんは「1つ」の発音を特にはっきり言うのが却って不自然だ。
少し恥ずかしそうで、又とても誇らしげだ。今思い返すと、おばあちゃんは
たぶん自分が仕事に出ている人と似ていると思ったのかもしれない。だって
おばあちゃんは今まで仕事に出た事がないんだから。
それは僕が小学 2 年生になった時、その頃おばあちゃんはいつも集会に出
かけたが、僕を連れて行ってはくれなかった。
「お芝居を見に行くんじゃないのだからね」といつもとは違う厳しさで言っ
た。
僕はおばあちゃんにくっついて、たくさん芝居を見に行った。おばあちゃ
んは刺繍をして稼いだお金で、他の人に芝居を見せてあげた。大叔母さんや
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八ちゃんの小母さん、屋敷のお婆さん。自然と僕も―おばあちゃんの影―1
つ席が必要になる。おばあちゃんは芝居を知らないので、毎回芝居を見る前
に屋敷のお婆さんに教えてもらっていた。そのお婆さんは芝居を知っている
けれど本当に知っている訳ではない。今で言う「後追いファン」だ。梅蘭芳、
姜妙香、袁世海、張君秋……おばあちゃんと僕はそのお婆ちゃんに教えても
らった。僕は劇場の椅子の上で眠っていた。僕は幕あい 15 分休憩の為に来て
いるのだ。休憩時間に購買部では酸梅湯(スアンメイタン)を売っている。僕は喉
が渇いたとねだると、少なくとも 2 本は飲む事ができた。
「私が若い頃は何の芝居も見なかった」とおばあちゃんは言った。
おばあちゃんはたぶんその補習の為に来ているんだ。いつも胡同でお爺さ
んお婆さん達が一緒にお喋りをしているけれど、みんなおばあちゃんより芝
居を知っている。おばあちゃんは何事にも負けず嫌いだが、こんな事があっ
た。おばあちゃんとそのお婆さんは一緒に映画の《祝福》を見た。見終わっ
たらおばあちゃんはずっと泣いていた。そのお婆さんもずっと泣いていた。
「あの頃は本当にあのようでしたね」とそのお婆さんが言うと
「そうそう、あのようでしたね」とおばあちゃんも続けて言った。二人の目
は泣いて赤くなっていた。僕は黙っておばあちゃんの後ろを歩いた。
一番惨めだったのは祥林義姉さんが雪の上で倒れた事ではなく、彼女が門
檻を寄付し喜び勇んで帰ってから……
おばあちゃんは《祝福》の話を別の人に話したがったが、やはり「福」を
「斧」の言い方をした。おばあちゃんはその映画を 2 度とは見たがらなかっ
た。
ある晩、おばあちゃんは又集会に行かなければならなくて、早々に外出着
に着換えてテーブルの隅にぼんやりと座っていた。
お母さんが僕を呼んでから、おばあちゃんに声をかけた
「今日はこの子も行かせましょう、帰り道は暗くなるからね。この子は大丈
夫よ」
僕は嬉しくて大声で言った
「僕の学校に行くんでしょう。僕がおばあちゃんを守ってあげるよ、あの道
ならよく知っているから」
「しーっ、何を騒ぐのっ!」
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お母さんは厳しい顔をして僕を叩いた。
僕は八ちゃん家に走って行った。僕達は以前から夜の学校に行きたかった。
僕の学校は元は大きな廟(道教のお寺)だった。あそこは夜にはこおろぎ
がきっとたくさんいるよと八ちゃんは言った。
学校はいくつもの庭で囲まれて、太くて高いこのてかしわの木が数本あっ
た。庭の壁の上には草がたくさん伸びているし、赤い漆喰はたくさん剥がれ
落ちていた。見上げると空はまだ暗くなっていない。蝉が木の上で「暑いよ
ー、暑いよー」と鳴いていた。おばあちゃんは一番奥の庭の方で集会がある、
僕たちに前庭で遊ぶように言い付けた。それは僕達の気持ちにぴったりだ。
面白い遊びは全部前庭にあって、日中は上級生に占領される平行棒や登り棒、
砂場など、今これら全部が空いているのだ。
そこでおばあちゃんは又聞いた。
「八や、本当にお母さんに言ったのかい?」
「本当に言ったよ」
八ちゃんは僕に向かって笑った。八ちゃんは小母さんに言う必要なんかな
いんだ、いつも夜中まで外で遊んでも小母さんはおかまいなしだ。僕はいつ
もそんな八ちゃんが羨ましかった。
僕達はまず登り棒で遊んだ。僕は八ちゃんのように登れなかった。平行棒
でもよく遊んだ。何回やっても、いつも八ちゃんに負ける。八ちゃんは体が
しっかりしていて走るのも速い。八ちゃんと遊びに行くといじめられる心配
がない、喧嘩がとても強いんだ。
八ちゃんは学校の成績は普通でお姉ちゃんのようではない。お姉ちゃんは
一生懸命勉強して少年隊の大隊長だ。僕はクラスのトップだけれど、算数の
テストでは八ちゃんがいつも僕より良い成績だった。八ちゃんは努力しない
から、宿題をきちんと出さないし国語のテストはいつも 60 点台だ。小学校
卒業の時僕は有名中学に受かったけれど、八ちゃんは三流学校に受かっただ
けだった。今思うと八ちゃんの素質は僕より良い。僕はただ単におばあちゃ
んにせかされるし、お父さんお母さんがいつも復習してくれるからだ。誰が
八ちゃんの面倒を見てくれると言うのだ。八ちゃんは夜家の仕事を手伝う以
外は外に飛び出して遊んでばかりだ。お姉ちゃんは反対に黙って仕事をし、
黙って勉強する。小母さんは勉強して電気を使う事を嫌がるから、毎日朝早
く起きて庭で勉強している。65 年お姉ちゃんは大学に受かった。その時眼鏡
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をかけた。前よりずっときれいになって、上品で威厳がある秀才のようだっ
た。あんなお姉ちゃんがいて、僕は八ちゃんが本当に羨ましかった。八ちゃ
んは全然気にかけないで、逆にお姉ちゃんの「四つ目」をからかった。お姉
ちゃんは八ちゃんを見下していたし、八ちゃんもお姉ちゃんに取り合わなか
った。
日が沈んだ。
「ジジジー」暗くなってきたら、果たしてたくさんのこおろぎがあちらこち
らで鳴き出した。僕達が音のする方に行くと、塀の根元にいた。八ちゃんは
レンガの隙間を目がけておしっこをした。するとこおろぎがぴょんと跳び出
してきたのが月の光ではっきりと見えた。八ちゃんは素早くこおろぎを捕ま
え、ちょっと見ると捨てた。
「口が閉じている、歯が出ていない」と言った。
僕達は又探した。大きな石の所に見つけた、鳴いていない。八ちゃんは僕
に向かってしぃーと指を口に当てた。2人は息を殺してそおーっと石の所に
しゃがんで待った。こおろぎは鳴き出した。
「ジジジー」、八ちゃんが笑った。
「あれっ!僕おしっこないよ」
「僕あるよ」
「しぃーっ、静かに、ここを目がけておしっこして」
いいこおろぎを 1 匹捕まえた。八ちゃんはポケットから紙を取り出して丸
めた筒に、こおろぎを入れた。
月の光がとても明るく、庭にこのてかしわの黒いまだら模様の影を落とし
ている。こんな大きな庭に僕達たった 2 人。教室はもとは廟の広間で、今は
ひっそりとして薄暗い、気味悪くて少し怖い。星が出てきた。その時僕はお
ばあちゃんを思い出した。八ちゃんはこおろぎを捕まえるのに夢中で、お尻
を突き出し、頭を草叢に潜り込ませて塀の際を這っている。
僕は八ちゃんに言った。
「僕、奥の庭にこおろぎがいるかどうか見に行くよ」
奥の庭に面している教室に明かりが点いている。僕はそっと石段を登り、
窓枠につかまって中を覗いた。並んだ机の前に座っているのは、皆お爺さん
お婆さんだ。一番後の列に座っているおばあちゃんが見えた。両手を膝の上
に置いた様子はまるで小学生のようだ。僕はおばあちゃんに向かって手招き
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したが、熱心に聞いていてこちらに気が付かない。僕は笑いたかった。おば
あちゃんはよく言っていた。もし小さい頃学校に行っていたら、いろいろ知
ることができて、とっくに革命に参加したかもしれないと。
「私はおまえ達の史家を逃げ出したかもしれない。従妹は嫁ぎ先を逃げ出し
たんだ。後で共産党に入って……」
おばあちゃんはいつも従妹の事を、学校に行ったのでたくさんの事を知り、
早々と纏足するのを止めて跳び出し、偉くなったと話した。僕はそこで又笑
いたくなった。おばあちゃんは逃げ出すとどんな格好だろう、あの踵で走る
のかな?
演壇では演説をしている。演壇の両側にも数人座っている。みんなにお湯
を注いでいるお婆さんもいる。
僕はおばあちゃんのその従妹に会ったことがある。ただ一度だけ。そこは
大きなビルの中だった。おばあちゃんは僕の手を強く握って、ビルの中の広
くて長い廊下をあちらこちらで聞きながら歩いた。そしてソファがたくさん
ある部屋に案内された。おばあちゃんは僕に立っているように言って、ソフ
ァに座らせなかったし、自分も座らないで立っていた。長い時間待ってやっ
と女の人が入って来た。おばあちゃんは僕にその人を大叔母さんと呼ばせた。
演壇ではまだ延々と話が続いていた。
僕は今まで、このように遠くからおばあちゃんを見たことがなかった。お
ばあちゃんは腰をまっすぐに伸ばし、両手を膝に置いたままだった。おばあ
ちゃんはこれで学校に通う事を味わったかなと心の中で笑った。おばあちゃ
んは毎晩識字教科書を朗読する。その中に《国歌》の科目があって、おばあ
ちゃんはいつもある文字を間違えて読む。
「又間違えたよ」と僕でさえ注意し
て上げられる。おばあちゃんはとても恥ずかしそうに声が小さくなるが、又
徐々に大きくなっていく。その文字の所に来ると、声は小さくなってちょっ
と止まる。きっと心の中で繰り返しているんだ……
とその時、僕には突然演壇の人の話し声がはっきりと聞こえてきた。
「あなた達は皆かつて地主や富農で、農民から搾取して生活していました。
労働を嫌い安楽を好む、食べるだけで何もしない搾取階級の生活……」
何!? 続けて聞こえた。
「……地、富、反、悪、右、あなた達は前の2つを占めています。これから
は、あなた達は真剣に自己改造をしなければなりません……」
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僕は急いで窓の所から離れ、石段の下で立ち止まった。頭の中が「グワー
ングワーン」と鳴って、どうすればいいのかわからない。
地主?おばあちゃんが地主だって?
八ちゃんがこちらにやって来た。
「ほら!どうだい6匹だよ!」
僕はちょっと返事して、急いで前庭の方へ行った。
「そっちはいた?どうだった?」
「こっちにはいないよ、僕たち前庭に行こうよ」
「前庭にはもういないよ」
「それじゃ、登り棒で遊ぼう」
僕は急いで八ちゃんを引っ張って前庭の方へ向かった。八ちゃんに見られ
たくなかった……
おばあちゃんは白いカードを1枚持って帰ってきた。お父さんとお母さん
が嬉しそうにおばあちゃんを囲んだ。おばあちゃんはずっと涙を拭いていた。
「これでよかった。おばあちゃんはもう苦しむ必要なくなったよ」とお父さ
んが言った。
「おばあちゃん、これでみんなと同じになったのよ。選挙権も貰えたし」と
お母さんも言った。
僕はベッドに腹這いになって聞いていた。それがどんな事なのか、聞く勇
気はなかった。
「あなた達の史家に入ってから、ああ……」
おばあちゃんは又あの話、話す声が少し震えている。
「解放前に私は1日として心休まる日はなかったよ。私のお母さんよりいい
ことはなかった……」
「おばあちゃんそんな風に考えちゃ駄目よ。おばあちゃんが過ごした日々は
楽しくなくても、両手を広げれば服が着られ、口を開ければ食事ができたん
だから!労働者や農民はどうだった?どんな日々を暮らしていたのよ」
おばあちゃんの顔がぱっと赤くなって、あわてて頷いた。
「知ってます、知ってます。私がそんな風に言って。労働者は家畜に劣る生
活をしていた事はよく知っているよ」
少し経ってから、おばあちゃんはお父さんに言った。
16
「お前は史家にいた作男の劉四を覚えているかい。肺結核で死んで、残され
た嫁さんには3人の子供がいて……あの時、私自身もお前達3人いたんだよ。
私はお前の兄さんに話したんだよ。もし本当に分家していたら、自分のを一
畝の上劉四の嫁さんにあげたよ……」
「おばあちゃんいつもの話やめて。それはおばあちゃんがあるから、その1
畝を気にしないってことでしょう」とお母さんが言った。
おばあちゃんはちょっとぽかんとしたが
「そう言われると、もし全部上げるとなると私は絶対いやだね。これはやは
り搾取思想かね?」
お父さんはその白いカードを指で弾きながら
「もういいよ。今からおばあちゃんは安心して暮らせるよ」
おばあちゃんはカードを新しいタオルで包みながら言った。
「解放後は誰も私を告訴しないね、私だってこの新しい社会が好きだよ。私
はもう二度とあの史家の……おや、この子は風邪を引かないかね?この子を
連れて行かなくては……」
おばあちゃんは僕がおとなしくベッドに腹這いになっているのに気が付く
と、急いで話を打ち切って僕を寝かしつけてくれた。
僕の頭をなでながら
「熱はない。きっと遊び疲れたんだね」
おばあちゃんは水を持ってきて、僕の足を洗ってくれた後又頭をなでて
「明日おばあちゃんがインゲン豆の餃子を作ってあげるからね。食べたいだ
ろう?」
おばあちゃんも嬉しくなってきたようだ。
僕は夜中まで寝つけなかった。
おばあちゃんが何度も寝返りを打っているのが聞こえる。多分眠れないの
だろう。僕は考え事をしているのを覚られないようじっと動かないでいた。
窓の外では海棠の葉がサヤサヤと揺れている、星もいくつか出ている。
おばあちゃんはどうして地主なのだろう?おばあちゃんが僕に《深夜の一
番鶏》のお話を話してくれた時の事を思い出した。
「欲張りな周地主は搾取して日々を暮らす」とおばあちゃんは話してくれた。
「搾取って何の事?」と僕は聞いた。
17
「それはね、食べるだけで働かないことよ」
「それじゃ僕は?」
「お前は違うよ、お前はまだ小さい」
「それじゃ、おばあちゃんは?」……本当だ、おばあちゃんはそこで話を止
めた。
「おばあちゃんは刺繍をしているじゃないか。おばあちゃんは年老いたから
僕達が面倒見ているんだよ」
お父さんがその後を引き継いで言ってくれた。ああ、僕の頭の中は混乱し
て一晩中落ち着いて眠れなかった。海棠の葉は静かになった。星はいくつか
見える。
何年もの間、僕はいつも心の中に盗んだ物を隠しているような落ち着かな
い気持ちだった。苦しかった事を演説するのを聞くと、僕は緊張し、恥ずか
しくなる。小説を読んでいて地主が農民をいじめる所になると、ドキンとし
てうろたえ、気持がふさぐ。僕はもうあの歌―汗は地主の熱い田畑に流れ落
ち、母さんは山菜と米糠しか食べられない―を歌う事はできない。少年先鋒
隊に入っている時、みんなで歌う時の僕の声は小さくなった。歌いたくない
のではないが、僕はいつもおばあちゃんを思い出し、おばあちゃんを思い出
すたびに声は自然と小さくなるのだ。おばあちゃんがもし地主でなかったら
どんなによかったか。
僕は解放後生まれたが、まだ古い北京の名残りがあった。大人達は僕を賢
いと言った。あの頃朝から晩まで、路地から路地を売り歩く人や修理する人
がたくさんいた。
朝早く、ざるを提げて焼きパンを売る人や、少し小さいざるを肩に掛けた
煮豆売り、天秤棒を担いで豆腐脳を売る人等がいる。煮豆売りは布も売って
いて、お金を1分余計に出すと煮豆をその布に包んで茶巾絞りのようにして
くれる。ある時おばあちゃんは煮豆を1椀買ったが、あの布は「清潔ではな
い」と言って、布でそのようにしてもらうことはなかった。僕は茶巾絞りに
したのが欲しくって泣き喚いた。おばあちゃんは清潔な布を持ってきてやっ
てくれたが僕はそれでも泣き、喚いた。それは煮豆の茶巾絞りに少しも似て
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いなかったから。すると
「これ以上言うことを聞かないと、お前は大きくなったら煮豆を売り歩く
ようになるよ!あの煮豆売りのお爺さんは小さい頃言う事を聞かなかったか
ら、大きくなっても甲斐性無しなので煮豆売りになっているんだよ」とおば
あちゃんは言った。
その頃、僕の家は東直門北小街辺りにあった。北小街を更に北に行くと街
を出て、荒涼として城壁は崩れ、お堀端は草茫々だった。地壇の辺りはほと
んどが崩れたお墓だった。その先に行くと農村だ。いつも馬車や荷車を引く
人が街の外からやって来て、北小街を通って行く馬の蹄の音がしていた。僕
の印象では、北小街はいつも至る所ぬかるみで、馬糞にまみれていた。馬は
鼻から湯気を出し、御者は破れた服を着て「オー、オー」と声をかけていた。
僕はとても恐ろしかった。おばあちゃんは僕の手を引いて道の端に立ち止
まり、僕に言った
「お前が言う事を聞かないと、あの荷馬車の人のように、大きくなって他所
の家の荷馬車を引かなければならなくなるんだよ」
昼に傘を修理する人が通りで掛け声をかけている。僕は昼寝をしないで、
あの人が豚の血で高麗紙を一枚一枚傘に張るのを見たいと騒いだ。又ある時
は刃物研ぎの人が外でラッパを「プォー、プォー」と吹くと、僕はそのラッパ
を見たくなった。すると、おばあちゃんは又あの話になった。それは
「言う事を聞かないと刀研ぎになる」か、あるいは
「あの傘の修理屋は言う事を聞かなかったから、あんな事しかやることがな
いんだ」
おばあちゃんが地主であると知ってから、それらの事を思い出し、心の中
で呟いた。
『おばあちゃんはやはり労働する人達を見下げているのではないだ
ろうか?』しかし又他にもいくつか僕に理解できない事がある。それは僕が
まだとても小さい頃の事だ。
古着を買い取る女の人が、瓶の蓋に似た小さな太鼓を叩きながら戸口に立
っていた。柳で編んだ籠を背負い、その中には僕より小さい女の子が立って
いた。おばあちゃんは要らなくなった服を数枚その人に渡した。その人は服
をよく調べながら
「いくら欲しいですか?」
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「この服はまだ傷んでいないよ」
「いい物だって?この袖、肩をよく見てよ!せいぜい……」と女の人は笑っ
て値段を言った。
「それじゃ売らないよ」
おばあちゃんはその服を取り戻そうとしたが、女の人は服を掴んで離さな
い。
「それじゃ値段を言ってよ」
おばあちゃんは値段を言った。
「あら、あんたはこれを売って金持ちになるつもりなの? いいよ私が損をす
ることにするよ」
その人は服を籠の中に放り込んでから、お金をゆっくりと探り出した。お
ばあちゃんは籠の中の子の頬をなでていた。おばあちゃんは本当に女の子が
好きなんだ。
「何歳?」
「2歳」
「子供何人いるの?」
「3人、女の子3人」
「お父さんは?」
「亡くなったよ」
その人はお金をおばあちゃんの手に渡した。おばあちゃんは急に黙ってそ
の母子を見ていた。2人が着ている服は籠の中に入っているものよりぼろだ
った。その人が籠を背負って歩き出そうとした時、おばあちゃんは呼び止め
た。そして部屋から僕の小さくなった服を2枚持ってきて、その人にあげた。
「これはまだいい物だけど、うちの子には小さくなったからね」
「いくらほしいの?」
「違うよ、もし嫌でなければあなたの子供に着せてあげて」
「あ、そう。なるほどね……」
その人は服を子供の身体に当てて見ながら、笑顔で
「おばあさん見て!丁度ぴったりだ……」
僕は嬉しくなってバタバタと部屋に戻り、自分の服を数枚抱えて出てきた。
あの母子はもうすでにいなかった。おばあちゃんは感動したのか、目が潤ん
でいた。この事はお父さんとお母さんに度々僕を褒めて言っていた。
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「この子は大人になったら心優しい人になるよ」
もしかしたらこれはお母さんが言うように、僕の家には物があるからか
な?でも、おばあちゃんの性格は絶対に地主のようではないと思う。欲張り
な周地主ならあのようにしたかな?
おばあちゃんはやはり地主のようではない。北小街に住んでいた頃、新年
や節句の時はいつもおじいちゃんの古い写真をテーブルの上に飾って、写真
の前にお菓子を並べた。僕はおじいちゃんに会った事がない。お母さんも会
った事がないと言っていた。写真の中のその人は緞子の服を来て、西瓜のよ
うな帽子をかぶって、お話に出てくる欲張り地主にそっくりだった。僕はそ
のお菓子を食べたかったが、おばあちゃんはそれはおじいちゃんに上げた物
だからと言ってもらえなかった。
「この人怖い顔だね」
「こら、なんて事言うの!」
おばあちゃんは僕を写真の前から引き離した。僕はそれでも遠くから写真
を見て言った。
「あの人はどうしてあんな顔をしているの?」
「あの人はお前のおじいちゃんだよ」
「あの人は僕のお父さんのお父さんなの?」
「そうだよ」
「あの人はおばあちゃんの何なの?」
「お母さんに聞いてごらん、お前のお父さんはお母さんの何なのか」
おばあちゃんはからかうように笑った。
僕は走って行って聞いてから、戻って「夫だって」とおばあちゃんに教え
た。
おばあちゃんは何も言わず別の事を考えているようだった。
その時のおばあちゃんは「失った天国」を考えていたのではないだろうか。
4年生になって、僕は「階級的仇敵は自分達がすでに失ってしまった天国を
いつも考えている」という事を理解できるようになっていたので、そのよう
に思った。僕が小学校に入ってから、おばあちゃんはもうおじいちゃんの写
真を飾る事はなかった。
ああ、おばあちゃんは地主なのだ、この意識は僕を苦しめた。寝る時、僕
はもうおばあちゃんの首の下に頭をもぐり込ませる事はしなくなった。おば
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あちゃんは、僕が大きくなったから恥ずかしくてやらないと思っている。僕
だけがその理由を知っているし、僕の気持ちははっきりしている―僕は今で
もおばあちゃんが好きだ―この事が更に僕を苦しめた。星は星として相変わ
らず木々の間に輝いている。おばあちゃんは死ぬのだろうか?そこまで考え
ると、僕はやはり怖い……
あるお爺さんがしょっちゅう我が家に来る。おばあちゃんは僕におじいち
ゃんと呼ばせた。農村の人の身なりをしていて、河北省から来たと言ってい
た。僕はその人をおじいちゃんと呼ばない、心で「口卑しい爺さん」と呼ぶ
だけだ。その人は来るとすぐにベッドに上がってあぐらをかき、お茶を飲み、
タバコを吹かし、所かまわず痰を吐いた。おばあちゃんはその人の為に肉を
買ったりお酒を買いに行った。
ある時、お父さんがお母さんに言うのが僕に聞こえた。
「地主と言うなら、彼こそが正真正銘の地主だろう」
そうか、だから僕はその人をこんなにも嫌いなんだ、と思った。
「口卑しい爺さん」は、自分一人で酒を飲み、肉を食べた。まるで僕の家
に来て当然のように飲み、食べた。
おばあちゃんはその人の向かいに座って話しの相手をした。僕が見るとこ
ろではその「口卑しい爺さん」の話は全て反動的な事だった。
「義姉さん、あんたはどう思うのかね、今時こんなにうまい酒を飲めるなん
て。お金があってもこんな風に使って飲んじゃいけないよ」
「これはあなたが働いて得たお金だもの、はばかる事ないわよ」
「それもそうだ。あんたは俺をどう思うかね。村では俺に良くしてくれるよ。
こんな年だから、家畜の世話をさせてもらっているよ。働くと身体は丈夫に
なるね」
「しっかりやってね」
「そうだね。そう言えば、あんたも党の為にしっかりやらないとな」
その人は赤い顔をしてズズーと音を立てて飲んだ。
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「党の為にやるって?」
おばあちゃんは不服そうに一瞥して
「あなたは今自分の為にするのよ。昔はみんながあなたにやってあげたの
よ!」
「それはそうだ」
爺さんは何度も頷いたが、ただ食べるだけで何も言わなかった。
「あなたは帽子を脱いだの?」
しばらくして、おばあちゃんが尋ねた。
「脱いだよ、すぐに脱いだよ」
帽子って何?何の帽子を脱ぐの?僕はその時まだわからなかった。
「義姉さんや、あんたはどう思うかね?俺は本当に心底承服しているんだ。
そうじゃないかね?同じように親から生まれて大きくなった身体なんだ、何
の権利があって食べるだけ食べて働かないなんて……」
それ以上弁明する言葉が見つからないようだ。
しばらくして又言った。
「俺はあの史五のように、威張ってばかりで道理をわきまえないのとはちが
うよ」
「史五がどうしたって?」
「まだ帽子をかぶっているじゃないか。諺にあるよ、
『人の心を掴む者は、天
下を握る』ってね。共産党は人の心を掴んだんだ。史五は対立したが結果は
どうだった?」
僕は聞いている内にわからなくなってきた、こいつはいったい地主なの
か?もしかしたら偽装しているのかな?いや、偽装ではないようだ。でも僕
はその人が当たりかまわず痰を吐くので嫌いだ!その上、家に来るとすぐに
酒を飲み肉を食べて、映画に出てくる地主そっくりだ。おばあちゃんはいつ
もあいつに酒を出す。ああ、おばあちゃんも地主なのかな……
何年もの間、僕はその事でいつも気持ちが落ち着かなかった。僕は嘘であ
ってほしいと願った、あの夜僕は聞き違えたと思いたかった。おばあちゃん
がやった事や話したことは本当に地主のようだったし、又少しも地主のよう
ではなかったようにも思う。僕は何度もお母さんに聞きたかったが、お母さ
んに本当だと言われるのが怖かった。
僕は相談する人が欲しくて、八ちゃんに話しをした。八ちゃんは僕の話を
23
聞くと、一瞬ポカンとしたが、その後で大笑いした。
「でたらめ言うなよ、おばあちゃんが地主だったら俺死んじゃうよ!」
八ちゃんも僕のおばあちゃんをおばあちゃんと呼ぶ。
「本当だよ、僕がこの耳で聞いたんだから」
「きっとお前が聞き違えたんだよ」
「そうかもしれない」
僕の心は随分と楽になった。
「地主は解放前あったけど、今はどこにあるんだよ?」
僕は一瞬ドキンとした。
「僕が言っているのは解放前の事だよ」
「どんな事あったっておばあちゃんは違うよ!」
八ちゃんは自分の胸を叩いた。
「もしそうだったら、俺死んじゃうよ!」
八ちゃんがこんなにはっきり言ったので、僕は周りの空気がずっと明るく
なったように感じた。あれは夏の真昼、庭はひっそりとして静だった。海棠
はもう色づき出し、梨はまだ青く木陰はとても涼しかった。八ちゃんはグル
テンを練っていた。僕達はいつもグルテンを使って木に止まっているトンボ
を捕まえた。グルテンを竹竿の先に付けて、そぉーっと持ち上げトンボに近
づける。
「ブルルッ」とトンボが必死に羽ばたいても、もうすでにしっかりと
粘りついて逃げられない。……おばあちゃんは地主であるはずがない。おば
あちゃんはいつも僕に《社会主義賛歌》の歌を教えて欲しいという。
おばあちゃんは地主であるはずがない。お母さんが職場からテーブルを借
りてくると、熱い鍋などを自分家の方のテーブルに置いて言うんだ
「公共のテーブルを熱さで駄目にしてはいけないよ」
おばあちゃんがどうして地主であるものか……
1966 年、僕はもうすぐ 16 才になり、とっくに入団の年齢が過ぎたが、ず
っと入団できずにいる。お父さんとお母さんがやっとおばあちゃんの事を話
してくれた。
「お前はおばあさんの階級が何だか知っているか?」
24
僕は一瞬緊張し、声が出なかった。
「お前は多分もう知っているだろう」
僕は言葉に詰まって話ができなかった。
おばあちゃんの実家は地主ではなく、小さな商売をしていた。綿を売りな
がら、綿の加工をする1間半間口の小さな店構えだった。おばあちゃんは小
さい時からきれいだったから両親はおばあちゃんを手掛かりにして金持ちに
なりたいと思い、富豪の家に嫁がせようと考えた。
その頃小さな町では、もし富豪の家の奥様になりたければきれいであるこ
と、足は特別に小さく包み、針仕事は勿論、舅・姑や夫の顔色を見て理解でき
なければならなかった。ただ勉強や知識は必要なく「女は才能が無いのが徳」
とされていたからおばあちゃんは弟や妹のように学校に行くことはできず、
纏足であること、慎み深いこと、従順であること、怒りは面に出さず我慢す
ることを運命づけられた。どうしてなのか?それはおばあちゃんはきれいだ
ったからだ。おばあちゃんの両親はおばあちゃんを名門に嫁がせることで、
名門の親戚になりたかったのだ。
両親の望みはやっと実現した。おばあちゃんは 17 才の時。それも「史家」
に嫁いだ。史家は県内一番の富豪で全県のほぼ半分の土地が史家のものだっ
た。しかし史家がほしかったのは美しくて賢い嫁だけであって、おばあちゃ
んの両親は相変わらず間口1間半の綿屋をやっていた。おばあちゃんの両親
は娘の運が開けたと思い、長年の夢がいくらか叶えられたと思うことにした。
おばあちゃんは本当に「運が良かった」のか?上には夫の父、母、下には
たくさんの小姑たち、舅姑の上には大舅姑までいた。おばあちゃんは息子の
嫁であり、又孫の嫁でもあるのだ。こちらにかしずき、あちらにかしずき。
この人にぬかずき、あの人にお辞儀をする。こちらの叱り言を聞き終わった
らあちらに行って詫びる。史家で足りなかったのはお手伝いさんであり、叱
られ役であり、鬱憤晴らしの道具だった。これらの為におばあちゃんは娶ら
れてきたようだ。ただ姑だけがいくらか道理が通じると言えた。姑も耐えて
きて、それはまだ終わっていない。
「お前は『家』を読んだ事あるかい」とお父さんが言った。
僕はうなずいた。
「あれと同じなんだよ。大家族とは皆あんなものだよ。おばあちゃんの立場
は小間使いと似たようなものなんだ」
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おばあちゃんが病気になった。でもあの大きな家庭ではわざわざ孫嫁の口
に合う食事を作ると言うのは、謀反を起こすのと同じ事だった。おばあちゃ
んの両親はおばあちゃんにお菓子を持っていった。でも夫のおじいさんに渡
さなければならなかった。夫のおじいさんはお菓子が好きだったのかって?
それは家の決まりなんだ。
おばあちゃんがこの話を言い出したことがあった。おばあちゃんはそのお
菓子を全然見たことがなかった、姑は一言「実家から貰ったものだ、あの子
に上げようか……」と言うと舅から却って叱りを受ける羽目になったそうだ。
「おまえは『家』に出てくる瑞珏がどんな死に方をしたか覚えているか?」
僕は又うなずいた。
「おばあちゃんが一番目の子を生んだ時がそうだった。大じいちゃん、大ば
あちゃんが医者を呼ぶことも病院に行くことも許さなかったんだ、お金を使
うことを嫌ってね……」
僕には伯父さんの上に伯母さんがいるはずだったんだ。僕はおばあちゃん
がよく話していた事を思い出した。
「とても可愛い子だったよ、もし史家の子でなかったら死ぬこともなかった
のに」
おばあちゃんが女の子を好きなのは娘がいなかったからなのだ。他所の娘
を一目見ると、もう涙ぐむのは自分の死んだ子を思い出すからなのだ。だか
らおばあちゃんは僕のお母さんに対しても、自分の娘みたいにしているんだ。
「それは別に理由があるのではなく、決まりなんだよ。大じいちゃんのよう
に数十里出かけても,大便を我慢して自分の土地まで帰ってからする。それ
は決まりだからだ。その頃の社会はおかしいのや残念な決まりが多すぎた」
とお父さんは言った。
おばあちゃんは伯父さん、お父さん、叔父さんの3人の息子を生んだ。叔
父さんが1歳になる前におじいちゃん(おばあちゃんの夫)は死んだ。おじ
いちゃんが死ぬと、おばあちゃんは大家族の中で立場は更に無くなり、何の
権利もお金も無かった。自分の服を作りたければ、3人の息子の名目で家長
に申し出なければならず、何度も計算を繰り返してその生地代の中からひね
り出してやっと自分の下着を作ることができた。おそらくおばあちゃんは3
人の息子を産んだことだけで、史家の家でご飯を食べることができたのだ。
おばあちゃんは史家を追い出された方がよかったと僕は思う。それだった
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らおばあちゃんは今地主と言われなくて済んだんだ。
実際、おばあちゃんが働いたことで子供達に1日3度の食事に引き換えら
れた。どんな時も舅、姑、義弟や義妹、それに息子達が食べ終わってからや
っと自分が食べることができた。小間使いの娘もこのようなもので、小間使
いはいつまでも残りご飯を食べるのだ。
おばあちゃんは本当にあの家を出たかった。おばあちゃんの従妹はこのよ
うな日々に耐えられずに家出して共産党に入った。従妹は学校に通ったこと
があり、幸い共産党員と知り合ったが、おばあちゃんは何を知っていたと言
うのか。おばあちゃんは逃げたくてもどこへ逃げればいいのか知らなかった。
更に言えば、逃げる勇気が無かった。再婚も望まず、操を守るつもりだった、
そのような教育を受けたのだ。おばあちゃんは 20 歳そこそこから今日まで
後家を通した。息子達が成長するのだけを待ち続ける為に。
長男が少し大きくなった時、おばあちゃんは勇気を出して分家したいと申
し出たが、即刻舅に罵倒を浴びせられた。義妹や義弟も
「義姉さん、再婚するならいいけど分家するのは駄目よ」と横槍を入れてき
た。おばあちゃんにとってその話は最大の侮辱だった。ただ一人でこっそり
泣くしかすべはなかった。言ってみれば、史家を出れば3人の息子はどうや
って学校に行くのか。お金が無くて行かせられない。もし従妹の影響を受け
ていたらおばあちゃんは3人の息子を皆学校に行かせる事にこだわり、更に
は大学まで行かせなければならなかったかもしれない。けちで融通が利かな
い地主は学校の為にお金を出すなどとてもできない。おばあちゃんはなりふ
りかまわずに、母と子をいじめる彼らに怒り、罵り、喚き散らした。おばあ
ちゃんはなんと勇敢になってしまったことか!そうだろうとも、おばあちゃ
んに何か怖いものが残っているというのか。おばあちゃんの願いの全ては3
人の息子達なのだ。息子達が将来自分のようになって欲しくないし、更には
史家の人みたいになってほしくなかった。おばあちゃんはただ学校に行くの
がいい、とだけ知っていた。「従妹はいいな。
」と言うその理由は、学校に行
った事があると言うことだけによるもので、その時はそれ以外のことを知ら
なかった。
僕の心はその都度痛くなった。
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おばあちゃんが夜中に目を見開いて考え事をしていた事を思い出した時、
おばあちゃんが溜め息をついた時の事を思い出した時、おばあちゃんの足を
思い出した時。又お父さんがおばあちゃんに買ってくれた識字教科書を捧げ
持って、明かりの下で一字一字丁寧に読む時、いつもまちがえて読んでいた
言葉を思い出して……
「おばあちゃんはどうして地主の中に入るの?」
「おばあちゃんは搾取したご飯を食べたんだ」
「おばあちゃんが史家で働いたことでは駄目なの?」
その時僕は本当に小さかった。
「それは歴史が作ったものなのだ」とお父さんが言った。
ああ、歴史!
「それじゃ今はどうなの?」
「地主ではなくなったよ。おばあちゃんは労働改造成績がよくてとっくに地主の
身分を外されたよ。その上、おばあちゃんは新しい社会がどうして嫌いなものか。
おばあちゃんの一生が本当に自由になり、正真正銘気持ちいい日々を過ごしたの
は解放の後なんだ。今、おばあちゃんは全てみんなと同じになったんだ」
僕は大いにほっとしたが、心では汚い言葉であの史家を罵った。
おばあちゃんは、両親がおばあちゃんの事を僕に教えたことを知って、僕と目
が合うといくらか恥ずかしそうに、えんどう豆入りの餃子を作ってあげると言っ
て、僕の反応を窺った。
僕は嬉しいやら辛いやらで何を言っていいかわからず、ただ「作って」と
だけやっとのことで言った。
おばあちゃんはうろうろとしながら、こっそりと僕の表情を窺っていた。
僕がちらっと見るとおばあちゃんは目を逸らした。僕は冗談を言って気ま
ずい雰囲気を壊したかったが、思い浮かばなかった。
夜になって寝る時、僕は頭をおばあちゃんの首の下に潜り込ませた。
「こんなに大きくなってもまだ…… 恥ずかしくないのかい」とおばあちゃ
んは言った。
おばあちゃんがほっとしたのがわかった。おばあちゃんの観察力はたいし
たことないな、僕が何年もおばあちゃんの首の下に頭を潜り込ませるのをや
っていないことに気付かないなんて……
28
おばあちゃんは73歳で亡くなった。思い起こすと心からゆったりと過ご
せたのはあの頃のたった数年だった。つまり地主と言う身分を外してから「文
化大革命」が始まるまでの7,8年だ。その数年間、おばあちゃんは一日中
忙しく、そしてとても楽しそうだった。家族全員の食事を作ったり、刺繍を
したり、屋敷全部の清掃をしなければならなかった。おばあちゃんは屋敷の
清掃責任者だった。おばあちゃんの名前を書いた赤い紙が壁に貼られた時、
おばあちゃんは恥ずかしそうに、でも隠し切れない嬉しさを僕は今でも覚え
ている。でもこの事は八ちゃんのお母さんの感情を害した。それは八ちゃん
の家はいつも清掃が行き届かったからだ。
おばあちゃんは長い柄の箒を買って、腰を曲げずに掃除ができるようにし
た。それでも腰や背中はいつも痛くなった。
早朝、人々が次々と出勤していく時、おばあちゃんは屋敷の前の通りに行
って、近所の人達みんなに挨拶をした。おばあちゃんはみんなに見られたか
った。見栄っ張りと言われてもいい、見せびらかしていると言われてもいい、
おばあちゃんはきれいに掃除をした。その後で、八ちゃんと僕を叱った。
「おばあちゃんが掃除したばかりなんだから、いたずらしないでねっ!」
それは間違いなく回りの人にも聞こえるように、その声には心晴れやかな
自慢したい気持ちが滲み出ていた。
おばあちゃんは刺繍も続けていた。ある時、その仕事を催促されて夜中ま
でしなければならなかった。急いでやっている様子は、まるで小学生が宿題
をやり終えられない時のようだった。家族は誰も手伝うことができず、一緒
に気を揉むしかなかった。
「おばあちゃん、この仕事辞めたほうがいいんじゃないの」とお母さんが言
うと
「どうせおまえ達はみんな仕事があるからねっ!」
おばあちゃんは怒った。おばあちゃんはこれまでお母さんを叱ったことが
なかったので、みんなは怖くなって黙ってしまった。
おばあちゃんは刺繍工場に入れるのを楽しみにしているけれど、年を取り
29
過ぎているから無理だと知っている。そしていつも八ちゃんのお父さんが小
母さんを刺繍工場に入れさせないのが不満だ。
「奥さんはまだ若いんだから、行かせた方がいいよ。さもないと一生後悔す
るよ」と八ちゃんのお父さんに言うと、お父さんは笑いながら
「俺が行かせないってかい?」
「行けなかったんだよ。この手のかかる餓鬼共を誰が面倒を見るんだい!」
すかさず奥さんが言い返した。するとおばあちゃんが
「こんなに多く産んで!」と叱った、お父さんはタバコを吹かしながら
「俺が産んだって?」と笑っている。
「私だけのせいじゃないよ!」と奥さんが怒鳴った。
仕事が忙しくない時は、八ちゃんの小母さんや他の小母さんたちと一緒に
刺繍をした。それはおばあちゃんが一番楽しい時だ。みんなはお互いに「劉
さん」、「魏さん」
、「林さん」と呼び合った。おばあちゃんは「方さん」だ。
おばあちゃんはこの呼び方がとても好きで、家の中でも「劉さん」、
「魏さ
ん」と呟いていた。そこには新しい時代の誇らしさと満足感が現われていた。
「私達老姉妹は仕事をしたり、笑ったりして疲れることないね。年を取って
いる間に、こんないい時代に間に合うとは思わなかったよ」
「あなた達は本当にいい時代に生まれたね。私は後どれだけ生きられるか…」
時々残念そうな様子だった。
星、星。星。星……
どの星がおばあちゃんのかな。
おばあちゃんはこの新しい社会が心から好きだったことを僕は知っている。
あの星達はみんな死んでいった人達が変わったものだ、生きている人の為
に夜道を照らしているんだ……
「文化大革命」が始まるとすぐに、おばあちゃんは又「帽子」をかぶせられ
た。それは地主と言うのではなく、
「帽子を脱いだ地主」と言われた。実際は
30
地主と同じで、黒五類の中の一番目だ。違う所は「帽子を脱いだ地主」は更
に狡猾で、すぐに帽子を脱いで偽装し、その目的は格段に悪く、社会主義へ
の脅威はとても見逃すことはできないことだ。そしてこれは「劉鄧路線」が
犯した罪の一つになった。
おばあちゃんはまず、刺繍の仕事をやらせてもらえなくなった。社会主義
の仕事をどうして地主に与えられようか。その後、屋敷の清掃責任者にもな
れなくなった。権力(清掃責任者の)は当然重要だ。
おばあちゃんは以外にも泣かなかったが、呆然となった。両親も呆然とし
た。皆が呆然となった。多くの呆然になった人が分別ない事をやる、そのや
る時の様子は別の人をも呆然とさせてしまう。
まず、恵芬お姉ちゃんは学校から帰ると半日かけて庭の花を全部掘り返し
てしまった。続いて北側の宋さんの娘達は、自宅の紫檀の戸棚を庭に運んで
きて斧で壊した。お父さんも本を何冊かこっそりと燃やした。おばあちゃん
は一日中部屋に隠れて、カーテンをちょっとめくって外を見た。食事を余り
作らず毎回乾麺を茹でた。
噂ではごみ置き場で何本もの金の延べ棒が見つかったそうだ。地区の革命
派達はここの屋敷の人が捨てたのではないかと疑った。その原因の一つはご
み置き場は僕達の屋敷に近いこと、二つ目は八ちゃん家の階級がいい以外そ
の他全部悪い階級なのだ。
恵芬お姉ちゃんは「紅衛兵」になり、軍服を着て、軍人ベルトを締めてい
た。お下げ髪を切っておかっぱになった。実を言うと、僕は前よりきれいに
なったと思った。
僕は学校で紅衛兵に入りたいと思ったが、僕の出身は紅五類ではないので
駄目だ。僕は数人の紅五類の同級生に付いて教師の家に捜査に行ったが花瓶
をいくつか壊しただけで、他に捜査するものは無かった。その後で同級生が
教師の頭を角刈りにしようと言い出した。髪を切ったかどうか僕はわからな
い。
それは高校生が数人来て、紅五類出身でない人は皆捜査隊から外され
た。僕は外された数人の同級生とびくびくしながら町を歩いて、食品店に入
り干し梅を買って食べ、それから各自家に帰った。
屋敷の中はごちゃごちゃして、恵芬お姉ちゃんは何人もの大学生紅衛兵を
連れて来て、一軒一軒捜査していた。まるで屋敷全部を大掃除したみたいに、
各家庭の物が全部庭に並べられていた。僕の家の中もすっかり空っぽで、両
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親とおばあちゃんは腰掛けに座って小声で何か話しているが、怖くて警戒し
ている様子だった。
「全く考えられない」とお母さんは言った。おばあちゃんも
「いつも見ているのはとてもまじめな人なのに」
「もう、そんな風に言わないで。まじめな人がそんな物を隠すことができる
の」
「誰、何を隠したの?」と僕は聞いた。
何故って、恵芬お姉ちゃんが連れてきた人が、あの京劇のわかるお婆さん
の家を捜査して衣装箱2つの絹織物、金銀の首飾り、それに蒋介石の本を捜
し出したんだ。
「どこにあるの?」
「もう持って行ったよ、人も物もひっくるめて一緒に持って行ったよ」
僕は窓の外を見た。又紅衛兵が数人来て、恵芬お姉ちゃんは丁度背の高い
格好いい男性と大声で話をしていた。彼女はかつては大声で話をしなかった。
そして一言「……ばかやろう」と言ったが、表情からするとそんな事も無い
ような平気な顔だった。もしかしたら僕の聞き違いだったかな。僕の学校の
女生徒もそんな言い方をした。男子生徒ならまだいいけれど……
お母さんは僕を学校に戻らせた。僕は中学生になった時から学生寮に入っ
ていた。お母さんは
「しばらくの間家に帰って来ないでね、何か用事があったら私の方から行く
から」と言って、僕にお金 30 元と 30Kg の食糧配給切符をくれた。どうや
ら2ヶ月分の食費は間に合いそうだ。
夜、僕はおんぼろ自転車に乗って学校に戻った。僕のポケットには、初め
てこんなに多くのお金と配給切符がねじ込まれている。夜道はひっそりとし
て寂しい。季節はすでに秋になっていた。自転車は乾いた落ち葉を踏んでザ
ーザーと音を立てる。街路灯の明かりはほの暗く、影は車輪の下から伸びて
きて、長くなって消えていった。僕は一時おばあちゃんの事を忘れたように、
学校に戻ってからどうすべきなのかだけを考えていた。この道はとても長い、
全部落ち葉だ……
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ある日お母さんが学校に僕を尋ねてきて、もし家に帰りたくなったら、お
母さんの職場の方に一部屋用意したからそこに来るようにと言った。おばあ
ちゃんにはもうすでに故郷に帰ってもらったそうだ。
「いつ?」
「おととい」
「どうしたの?」
「どうもしないわ、問題が起こるのを恐れて。お父さんと相談して、まずお
ばあちゃんに故郷に帰ってもらう方がいいって」
僕はほっとした。この数日人が殴り殺される事件が何件かあったそうだ。
白状すると、僕がほっとした理由は別にある。おばあちゃんがいなければ、
僕がおばあちゃんに育てられた事が他人にわからなくなるかもしれない。
僕はクラスの紅衛兵がこの事を知り、地主出身であると見なされるのをとて
も恐れた。
「しばらくの間、私がおばあちゃんに会いに行く。その時何かおばあちゃん
に持って行くから」と言うお母さんの声は怯えていた。
何の為か忘れたが、僕は一度家へ帰った(何かを取りに行ったのかもしれ
ない)。屋敷の中はもう見る影もなかった。花は無くなり、地面は滅茶苦茶に
掘り返されて手入れする人もいない。どの木にも語録の看板が釘で打ち付け
られていたり、何軒もの家が越して来ていた。八ちゃん家は越して行った。
胡同の東の方の大きな屋敷だそうだ。そこは元は資本家が住んでいたが追い
出され、たくさんの立派な部屋が空っぽになったんだ。
僕は家の中に入ってみてやっと、おばあちゃんは行ってしまった事を思い
知らされた。家の物はきちんと整理されていたが埃だらけだった。おばちゃ
んはいなくなったんだ。おばあちゃんがいた時は埃など無かった。糸を入れ
る竹篭はベッドの上にあり、中には束になったいろんな色の糸があった。お
ばあちゃんが刺繍するのに使ったものだ。僕はずっと黙ったまま座っていた。
外は暗くなり、曇り空で星は無い。おばあちゃんは今どこで何をしているの
か?家には他に誰もいない。僕は泣いた。
僕が小さい時誰かがおばあちゃんに言っていたのを思い出した。
「おばあちゃんが育てたのだから、大きくなってもおばあちゃんを忘れっこ
ないよ」
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おばあちゃんは笑いながら言っていた事も。
「その時まで待てないでしょうに」……海棠の葉はすっかり落ちてしまった。
星も見えない。世界はすっかり様子を変えてしまったようだ。
誰でも少年時代には厳粛な結末があり、大概それは突然深刻な現実となっ
て直面する。それは寝ても忘れ去ることはできず、その後少年時代は終わっ
てしまったことに気付く……
それからは天地をひっくり返したような数年だった。僕はしょっちゅうお
ばあちゃんを思い出した。しかし古今未曾有の事が多く、聞いても理解でき
ず、考えても考え付かない。絶えず人を打倒し、人が打倒されると多くの事
が明らかになる。人を殴るのも革命の為。人を罵るのも革命の為。食べるだ
けで何もやらないのも革命の為。権勢にあやかって横暴な振る舞いをしたり、
威光を笠に着て人をいじめたり、さらには殺人放火も革命の為。革命と言い
さえすれば何をしても全て道理が通る。それもすぐに価値が無くなった。
その後は農山村に下放だ。鋤を振り回す人は革命の為に鋤を振り回し、愛
人を囲う人は革命の為に愛人を囲う。飢えと寒さに苦しむ人は革命の為に飢
えと寒さに苦しみ、贅沢三昧する人は革命の為に贅沢三昧する。革命とはい
ったい何の為なのか?
僕が延安で生産隊に入った時、お母さんから手紙が来て、おばあちゃんが
帰ってきたと書いてあった。
おばあちゃんは年老いたので農村でする仕事は無く、人民公社は、おばあ
ちゃんの改造成績がよく態度もまじめだと証明書を出した。おばあちゃんは
又北京で戸籍を手に入れた。
72 年僕も北京に転勤になった。その年おばあちゃんは 70 才、頭髪は真っ
白だった。両親は雲南の労働改造学校に行ったので、僕はおばあちゃんと残
された。あるいはおばあちゃんが僕と一緒になったと言える。
僕はすでに 20 歳を過ぎ、歴史が何であるかを理解していた。多くの事柄
は人がどのように悪くしたかではなく、人はまだそれらのことが何故悪いの
かをはっきりわかっていないのだ。例えばおばあちゃんだが、おばあちゃん
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は地主が何故悪いのかわかっていない。おばあちゃんは運命付けられたのが
地主だったのだ。ただ、革命とは全人類をその悪運から解放してくれる為で
はなかったのか?
それは 1972 年の事だった。
僕が北京に戻ったのは真夜中だった。駅にしばらくいて、家に着いた時空
はまだ明るくなっていなかった。屋敷の門を軽く押したら開いた。家のドア
を押した、鍵がかかっていた。僕はちょっと驚いた。屋敷の人達はまだ起き
ていない、とても静かだ。どこかの家からいびき声が聞こえた。おばあちゃ
んはこんな朝早くにどこに行ったのだろう?相変わらず木が 4 本あった、梨
の木が 1 本,海棠の木が 3 本。どの木の葉も虫に食べられてまだら模様にな
っている。炊事場がいくつも建てられ、ごちゃごちゃとして煤だらけだった。
北側の家のドアが音を立てて開き、宋さんのお爺さんが出てきた。
「おや、帰って来たのかい?おばあちゃんはこの数日お前のことばかり話し
ていたよ」
「おばあちゃんはこんなに朝早くどこに行ったの?」
「お前見なかったのかい?外で掃除をしているよ」
僕は屋敷を飛び出した。遠く朝霧の中に人影がある。使っているのは長い
柄の箒。あれはおばあちゃんだ。後になってわかったことだが、おばあちゃ
んがこんなに朝早く街の掃除をしているのは、人が多くなる時間を避ける為
だ。人に見られるのが嫌なのだ。おばあちゃんは今地主の身分ということで
街を掃除し、改造していた。それは以前のような清掃責任者ではない。
おばあちゃんは僕に会うとすぐに泣き出した。
僕はおばあちゃんを支えて家に入り、励ましたり慰めたりした。僕は
「これは民衆運動なんだから、おばあちゃんは理解すべきだよ」とはとても
言えない。おばあちゃんにどうして理解できようか?そしてどの位偉い人な
ら理解できるというのだ。
ただ「民衆は良くわかっているよ」と僕が言った時やっと泣き止んだ。何
度もうなずいて、近所の人達や地域の革命家がよくしてくれること、地区主
任が余り深く考えないで、街の掃除もゆっくりやりなさい、とこっそり励ま
してくれた事などを教えてくれた。おばあちゃんはいつも割り当て以上に、
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時には倍も街の掃除をするのだ。
「八ちゃんを覚えているかい」とおばあちゃんが言った。
「当たり前だよ」
八ちゃんはここ数年街で有名になって「八親分」と呼ばれて、チンピラや
こそ泥など皆彼に服従していると僕は以前に聞いた。八ちゃんは生産隊に入
らずに済んだ。
「そうだね。ああ、でも私に会ったら、又おばあちゃんと呼んでくれたよ」
この事はおばあちゃんをとても感動させたようだ。そして又言った。
「人がいない時に、私は八ちゃんにしっかりやらなければならないよ、そう
でないと一生後悔するよと言ったの。頭を下げて聞いていたよ。他の人が言
っても聞かないけれどね」
「彼は工場に入ったのかな?」
「入らなかったよ。以前はあの子も工場に入りたかったんだけど、生産隊に
入らなければ仕事をあげないと人に言われたのよ。今度は人が仕事をあげる
と言うと彼の方がよくないからと言って行かないの、今は良い仕事を待って
いるのよ。でもお金に困っていないよ、タバコを吸うし、酒も飲む。私に言
うんだよ、おばあちゃんそんなにまじめにして、どんな意味があるのって」
「恵芬お姉さんは」
「ああ、恵芬ね、地方にやらされたよ。27、8 になってもまだ婚約者もいな
いよ。恵芬のあの婚約者は戦いの時に死んだんだ。恵芬はどうしてもまだそ
の人を思い、あの人でなければ結婚しないと言って……、でもあの人が死ん
で何年にもなるよ。これはみんな八ちゃんが私に話してくれたんだけれどね。
私が街を掃除している時に、恵芬にばったり会ったけど顔を上げなかった。
八ちゃんが言うには、あの娘は私にだけでなく誰をも相手にしないそうだ」
僕は 66 年の「四旧」を捜査する政治運動の時を思い出した。屋敷で恵芬
お姉さんは男子大学生と話をしていた。その人は体格がよく恵芬の婚約者か
もしれなかった。
ふぅ!世の中の事を全部納得しようとすると弁証法に符合しないようだ。
「おばあちゃん、一緒にインゲン豆の餃子を作ろうよ」
「いいね」
おばあちゃんは嬉しそうに言った
「お金を上げるから具にする肉を買いに行ってね」
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お母さんは僕に寄こした手紙で言っていた。
北京に帰ったらおばあちゃんの面倒を好く見てね。工夫しておばあ
ちゃんの好物を作ってあげて。おばあちゃんは一人でいつもお粥を炊
いたり、饅頭だったり、白菜炒めだから。人に出歩くのを見られると、
改造していないと思われるのを嫌って肉を買いに出たがらないの
「おばあちゃんはそんなことを気にしているの、肉屋が肉を売るのは人に肉
を食べさせる為だ。革命は全ての人によい生活をさせる為なんだよ!」
「でもね、まだたくさんの人が饅頭や白菜炒めさえありつけないんだよ。故
郷の人達は貧農でお腹いっぱい食べられないんだよ」
おばあちゃんは真剣な表情だ。それにおばあちゃんの認識は僕より高いと
認めざるを得ない。
「おばあちゃんそんな風に言わないでよ。貧農は今まだ満足に食べられない
なんて言っていいのかい」と僕は冗談を言った。
おばあちゃんはとてもびっくりして声も出ない。そうだろう。その頃、そ
れは冗談ではなかった。
最後の数年、おばあちゃんは以前のように忙しかった。空がまだ明けない
内にもう街の掃除に行った。朝食を食べるとすぐに地区主催の「改造塾」に
参加し、午後は又防空壕堀りに行った。
「おばあちゃんはこんな高齢で何を掘るの?面倒を増やすだけでしょう」
おばあちゃんは不愉快そうに
「土を少しでも外に出せるんだよ」
「僕が代わりに行こうか。僕が一日掘ればおばあちゃんが十日掘るのに十分
だ。僕が一日行ってやれば、おばあちゃんは十日休めるよ」
「それは駄目よ。管理人は私が行くことで信用してくれるのだから。あなた
は絶対にそんなことを外に言わないでね。やっと管理人にやらせてもらって
いるのだから」
おばあちゃんは相変わらず何事にも負けず嫌いだ。
おばあちゃんが一番辛いのは当番をさせてもらえないことだ。その当時、
春夏秋冬は勿論、雨が降ろうが風が吹こうがお構いなし、北京の全ての胡同
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には当番があった。ほとんどが仕事の無いお爺さん、お婆さんで、皆階級の
よい人が胡同の入り口に立つか、腰掛けを持っていって壁の隅に腰掛け、悪
人を監視し治安を守っていた。一人 2 時間ずつ、一組一組交替する。おばあ
ちゃんは人が当番になるのを見てとても羨ましがった。おばあちゃんは階級
が悪いのだ。
ある日、近所の革命家がおばあちゃんを尋ねて来て、夜 10 時から 12 時ま
での一組がいないと言ってきた。李お爺さんは病気になり、何お婆さんは都
合がつかない。人を見つけられなくておばあちゃんに当番が回った。おばあ
ちゃんは急に忙しくなってきた。綿入れ上着を探したり、綿入りの靴を探し
たり。秋風が強く吹いていた。
「本当に悪い人がいたらおばあちゃんに何ができるの?犯人はおばあちゃん
が杖を一振りするのを待ってくれるかな?」
「管理人は私を信用しているからね」
「おばあちゃんが杖で犯人の足に当たりをつけたとしても、犯人もおばあち
ゃんを地面に倒すよ」
「私が叫ぶ事ができないとでも」
「僕が替わりに行くよ」
「それは駄目よ」
おばあちゃんは綿入れを着込み、杖を持ち、腰掛けを提げ、懐中電灯を差
し込んで完全武装して出かけた。
僕は出て行って様子を見てみた。おばあちゃんはちょうど当番が終わるお
爺さんとお喋りをしていた。まだ 10 時になっていない。2 人の話は盛り上が
っていた。風は強く通りには人一人いない。そのお爺さんは孫が結婚しても
住む所がないと愚痴をこぼしていた……
10 時過ぎたばかりにおばあちゃんは帰って来た。
「どうしたの?」
「次の人がいたんだよ」
とてもがっかりした様子だ。
「人がいたのならよかった。寝ようよ」
おばあちゃんは何も言わない。綿入れを脱ぐ時、懐中電灯を床に落として
しまった。ガラスは粉々に砕けた。
「おばあちゃん疲れたでしょう。僕が按摩してあげようか」
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僕はベッドに腹這いになったおばあちゃんの腰や背中を揉んだ。おばあち
ゃんは夜になると腰や背中が痛くなる。小さい頃おばあちゃんの背中や腰を
踏んであげたことを思い出した。おばあちゃんの背中はとても長いと感じた
っけ。今のおばあちゃんの背中と腰は山と谷のようで、背中は盛り上がり腰
は下がってへこんでいる。
おばあちゃんが涙を拭いているのが見えた。
「もういいよ、何もたいした事じゃないよ」と僕は言った。
「どうせおまえ達には小さい事よ。私のお母さんが見誤ったのよ、私を史家
に嫁がせて……」
海棠の葉が又落ちた、枝が風で揺れている。星が本当に多い、遥かかなた
の宇宙で僕達が住んでいるこの地球をじぃーっと見ている……
あれは 1975 年、おばあちゃんは 73 歳だった。あの夜おばあちゃんは二度
と目を覚まさなかった。僕が見つけた時、お婆ちゃんの身体はもう冷たくな
っていた。脳溢血だったに違いない。
おばあちゃんに靴を履かせる時、僕は泣いた。あの小さな 2 本の足、まる
で親指と踵だけだ。この 2 本の足はどれだけの道を歩いたのだろう。この足
はかつては跳ねたり跳んだりできたんだ。今終点に辿りついた。もしかした
らまだ歩いていて、天国に入ったら、宇宙の中で 1 個の星に変わろうとして
いる……
いずれにせよ今は今、昔ではない。今、どんな場合でも僕は認める。僕を
育ててくれたのはおばあちゃんであり、僕はおばあちゃんが好きで、おばあ
ちゃんを忘れられないことを。そしておばあちゃんはこの新しい社会が心か
ら好きだったことを。よい社会は全ての人に好かれるだろう。おばあちゃん
は改造し終えた国民党戦犯より、更にこの新しい社会が好きになる理由があ
る。おばあちゃんの一生を知る人は皆この点を認める。
当然最後のここ数年、おばあちゃんの心はとても不安だったはずだ。
僕は自分のこのような事を許すことができない。
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と言うのは、あの頃毎晩おばあちゃんは灯りの下で新聞の社説を読んだ。
あの「改造塾」でおばあちゃんは最も真面目な一人だった。一字一句声を出
して読んだ、当時の識字教科書を読むように。僕はテーブルの向かい側で本
を見ていた。すると明らかにあまり理解できない部分があって、時々僕を見
て教えて欲しい機会を窺っていた。僕はわざと忙しいふりをしてその機会を
与えなかった。心では、おばあちゃんがどんなに勉強しても、誠実であって
も党の方はおばあちゃんに対してどうなのだろうかと思った。その頃は丁度
「右傾化打倒」の時で、でたらめで全然なっていない社説ばかりだった。お
ばあちゃんは僕にお茶を入れながら、ついに機会を捉えた。
「この部分を説明してくれないかな」
「え~、おばあちゃんわからないの?」
「教えてくれないと、私はいつまでもわからないよ」
「わかってどうなるの?え、どうなるの?」
おばあちゃんは僕が言いたいことをはっきりわかった。おばあちゃんは黙
って座り、一言も言わない。翌日の夜、おばあちゃんはいつものように一字
一句自分で新聞を読んだが、もう僕にたずねることはなかった。僕がちらと
目をやると、おばあちゃんの声は小さくなり、とてもきまり悪そうだった…
…
海棠の木はまだ生きている、枝葉の間から星が見える。あれが絶対おばあ
ちゃんの星だと思う。ある種の蟻は火に出くわすと、みんなが一丸になって
転がって行くのだそうだ。全体の一部は焼け死ぬが、生き残るのもいるから
そのまま前に進んで行く。人類が歩む道はそれはそれはとても厳しい。この
前恵芬お姉さんに出会った時、自分は「文革」の時、間違えた事をやったの
で、自責の念に駆られとても苦しんだと言っていた。僕は又おばあちゃんの
星を思い出した。歴史は、多くの不幸と過ちで道を作っていくようなものだ
が、人類はそれでこそあの蟻よりは賢く変わることができるだろう。人類の
洋々たる前進は、その道を憎しみではなく愛で進む……と。
40
【注釈】
P 4 纏 足 (てんそく): 幼女の足に布を固く巻きつけて足が大きくならな
いようにした風習、その足。
P9
餅 (ビン)
: こねた小麦粉を円盤状に伸ばし、焼いたり蒸した
りした食べ物
P12 酸梅湯 (スアンメイタン):燻製した梅を砂糖水に入れて作った清涼飲料
P18 豆腐脳 :
煮立てた豆乳に石膏を入れて半固体に固めた食品
P19 地 壇
皇帝が地を祭る祭壇、場所
:
P30 黒五類 :
反革命に属する階級
地主、富農、反革命分子、悪質分子、ブルジョア分子
P31 紅五類 : 労働者、貧農、下層中農、革命烈士、革命幹部、革命軍人
P33 胡 同 (フートン): 路地
P36 四 旧 :
横丁
(文革中に打倒すべきと言われた) 4 つの古い物
思想、文化、風俗、習慣
弁証法
: 弁論によってある事柄を論証する時の論法。
矛盾対立する概念を克服、統一することにより、
更に高次の総合的肯定に到達する思考法。
あらゆる概念が三段の過程(正ー反ー合)を有する。
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P37 饅 頭 (マントウ): 小麦粉で作った一種の蒸パン
P40 右傾化打倒 : 1975~76 年、鄧小平が提案した政策に反対し、
鄧小平を批判し失脚させた
あとがき
かつてグループ学習で共に学んだことのある同好の女性から、
「この短編小
説の原文を一緒に読み解きしましょう」と声をかけられた時、
「やりましょう」
と即答しました。以前ラジオ中国語講座でこの作者史鉄生の「地壇」を読ん
で、とても感動した記憶が甦ったのです。
「おばあちゃんの星」
、このタイトルにも心惹かれました。喜び勇んでペー
ジを開き見てみると、自分の能力ではとても理解できない事がすぐにわかり
ました。辞書を引き、用語を詳しく見ても文面に隠れている意味がわからな
くなる時が度々ありました。
幸い私は現在侯紅葉先生に師事を仰いでいるので、この小説を教材にした
いとお願いしました。中国のその時代特有の言葉や時代背景などを詳しく教
えていただきました。
理解できた原文を同好の女性と読み進める内に物語の内容を日本文で表し
たくなりました。初めての挑戦なので、書き始めると今度は日本語表現の難
しさを味わうことになりましたが、こちらは元教師の友人に指導していただ
きまとめることができました。
よき師、よき友人に恵まれてこのように仕上がったことに喜び、そして感
謝します。
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島貫クミ子
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