第6号 矢口洋生「過越と復活」

 過越と 復 活
二〇一五年四月十五日
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生
今日は、復活祭のお話をしたいと思います。復活祭は二週間前に す矢
で
し
ていま す。
復活祭というのは、キ
に終了 口
洋
リスト教の中でいちばん大切な行事です。復活祭がナンバーワンで、その次はクリスマスです。だから復活祭のお
話をしようと思いましたが、復活祭は、例年、大学が春休みの間に行なわれるので、大学が始まると復活祭は終わっ
すぎこし
ています。これではずっと復活祭の話ができません。そこで終わったけれども、あえてお話をしようと思いました。
結論から最初にお話します。復活祭は、過越という別のお祭と併せて考えると、より分かりやすいということで
す。そこで、過越と復活祭を平行させて考えてみたいと思います。聖書の箇所を二つ資料に出してあります。最初
は旧約聖書の「出エジプト記」からの引用です。次が新約聖書の「マルコによる福音書」からの引用です。
「出 エ
ジプト記」を見ると、過越のお祭という古代のお祭がどういうものか少し分かってきます。「マルコによる福音書」
は復活に関して述べているところです。
過越のお祭りがどうして起こったのかを説明しましょう。今から三千年以上も昔の話ですが、エジプトの国で奴
隷になっていたイスラエルの人々が脱出を試みます。聖書はその数を成人男性で約六十万人としています。その他
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に奥さんや子ども、取り巻きの人を入れるともっと大人数になったと思います。それだけの人(奴隷)がいなくな
ると、エジプトの国は大変なことになります。奴隷による労働力が一気にいなくなると国が傾いてしまいます。エ
ジプトでピラミッドを作っていた人の中にはたくさんの奴隷もいましたから、その人たちがいなくなるとピラミッ
ドも完成しなくなります。当然、出国は認められません。その時、モーセという一人のリーダーが出て、エジプト
の王と激しいやり取りをするのです。「出してくれ」「いや、出さない」「出してくれ」
「いや、出さない」と。そし
て、
「出さない」と言われるたびに、預言者モーセは神がもたらすであろう災いを告げるのです。
「仕方がないから
出してやろうか」、「いや、やっぱり出さない」というやりとりと災いが何度も繰り返されます。これから紹介する
のは、最終的な十番目の災いです。この激しい災いを目にして、ついに奴隷の身分にあった人々はエジプトを脱出
することが許されます。この場面は旧約聖書の中のクライマックスの一つになっています。奴隷状態の人々が遂に
家族ごとに小羊を一匹用意しなさい。…会衆が皆でそれを屠り、さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠
「出エジプト記」一二章一二節~
囚われの身から脱出するのです。そして、それを祝うお祭りが過越のお祭りなのです。
りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りな
さい。…主がエジプト人を撃つためにめぐるとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、その入り口
を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、
あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。
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「マルコによる福音書」八章三一節
イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排訴されて殺され、三日の後
に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
この二つを並べて考えます。その前に復活祭という言葉の注釈をします。私たちはイースターという言葉を聞い
過越のお祭りというのは、旧約聖書では最大のドラマで、この場面はクライマックスの部分です。そのクライマッ
いていることをもう少し考える必要があると思います。
を思い出してしまいます。それはそれでいいのですが、それと同時に、過越という古代のお祭りと復活祭が結びつ
忘れられてしまいます。私たちはイースターというと、卵に色を塗ったり、イースターバニーが出てくるイメージ
いう言葉になってしまうと、ペサハとイースターでは別の言葉なので、過越が復活祭と関連しているということが
ことでした。過越と復活祭を分けるべきではないことが、その言葉の分析から分かります。ところがイースターと
葉を表現していたのです。過越をキリスト教化したもの、それこそが復活祭だったのです。それは、とても重要な
いますが、実はペサハ(過越)という言葉から来ています。ですから、過越という言葉を使って、復活祭という言
す。パスカ(復活祭)という言葉は、スペイン語ではパスクワと言い、フランス語ではパックと言うようになって
ともとイースターは北ヨーロッパではなく、南ヨーロッパの方でラテン語のパスカという言葉で表現されていま
テルンと言います。語源的には、おそらく北ヨーロッパのゲルマン神話の影響を受けていると言われています。も
たことがあるし、馴染み深いかもしれません。復活祭のことは、英語でイースターと言います。ドイツ語ではオス
クスの中で、いろいろな面白いことが起きます。先ほど、気持ち悪いと言いましたが、入り口の柱と鴨居に血を塗
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るという、血の象徴が出てきます。なぜ、こんなところに血を塗るのでしょうか。旧約聖書を含めて古代中近東社
会では、血は命を象徴します。そのことから、何かに血を塗るということは身を捧げる、命を捧げる、ということ
を表す行為になります。入り口に血を塗ることは、神に向かって自分の身を捧げる、自分を献身しますという意思
表示でもあるのです。それを見て、
「滅ぼす者」は過ぎ越して行くわけです。
「滅ぼす者」とは死の遣いなのですが、
命を捧げる用意がある人の家は、過ぎ越して行くのです。そして、死の遣いが通り過ぎた後、人々はモーセに率い
られて、父と蜜の流れるパラダイスへ向けて出発して行くのです。
そのような旧約聖書の背景を念頭に置きながら新約聖書の復活のドラマを考えていきましょう。新約聖書の中で
は、イエス・キリストの十字架と復活というのは、救済のドラマの頂点です。クライマックスです。新約聖書の中
でも、身を捧げる行為が見られます。まさにイエス・キリストは、自らの血を流して身を捧げています。キリスト
の十字架は、血が滴る十字架なのです。イエス・キリストは血の十字架によって、自分の身を、命を捧げたのです。
その結果、似て非なる結論が出ます。旧約聖書の場合、死の遣いは過ぎ越して行きますが、新約聖書では過ぎ越す
という考え方の代わりに「復活」という言い方をします。これは死を乗り越えることです。死が過ぎ越すのではな
いざな
く、死を乗り越えるのです。そして、イエス・キリストの十字架と復活の後、父と蜜が流れるパラダイスよりも一
層すばらしい新しい世界が始まるのです。この新しい世界へと、人々は誘われているのです。人々は新しい世界で、
今までと別の生き方をするようになるのです。
では、まとめてみましょう。過越という旧約聖書の祭りと復活祭は繋がりがあります。そして、過越を意識する
と、復活の意味がよりよく理解できるようになるのです。聖書を読むときには、新約聖書と旧約聖書を行ったりき
たりしながら読むと、より理解の度合いが上がってくることでしょう。イエス・キリストは、①神による救いのド
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ラマのクライマックスの場面で、②自分の血を捧げることによって、命を差し出しました。その結果、③イエス・
キリストは死を乗り越え、④私たちに新しい世界を示してくださいました。これは私たちに示された大きな希望、
(グローバル・スタディーズ学科教授)
恵です。ペサハとパスカという聞いたことのない言葉は、救いの物語が旧約聖書の太古から、連綿として引き継が
れていることを私たちに教えてくれるものなのです。
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