我が子に伝える誇りある近代史 2000年度 社団法人 日本青年会議所

我が子に伝える誇りある近代史
2000年度
社団法人
日本青年会議所
誇りある国家「日本」創造グループ
新しい教科書づくり委員会
1
目
前
第
1
第1話
書
章
次
き
歴史教育の重要性
現行教科書の問題点
1)
人間教育をなくした歴史教科書はもはや教科書ではない
2)
戦後喪失した日本の歴史(空白の50数年間)
3) 教科書の現状について
(1)乳房切り残虐壁画
(2)神話に残るGHQ文章
(3)教科書が何を子供たちに伝えようとしているか
(4)「侵略」と「侵攻」書き分けについて
(5)中学学習指導要領 社会「歴史的分野」 目標
第2話
1)
教科書問題の重要性
教科書問題を理解するための若干の前提
2) 日本を取り巻く危機
3) 「歴史認識を共有する」ということの危うさ
4)
20世紀とは如何なる世紀であったのか
5)
日本の行った戦争とは結局何であったのか
6)
共産主義の歴史観とは何か
7)
原稿歴史教科書の実状
8)
第3話
1)
なぜ現在の歴史教科書が、子供たちに悪い影響を与えるのか
日本国民への教育(教科書)の在り方
日本を見直そう
2) 現行のバランスを欠いた歴史教科書が、子供たちに与える影響について
第
2
第1話
1)
章
近代国家への道のり(江戸・明治・大正)
泰平の時代
徳川政権
2
2)
階級社会の中で育まれた伝統文化と誇るべき学問の水準
3)
鎖国について
第2話
弱肉強食の世界構図
1)
帝国主義と植民地政策
(1)
帝国主義の政治的な意味
(2)
ヨーロッパにおける「帝国主義」
2)
アヘン戦争
第3話 近代国家へのうねり
1)
黒船来航-幕府の混乱
2)
日米修好通商条約
3)
尊皇、攘夷の思想
4)
時代を動かした男たち
(1) 吉田 松陰
(2) 坂本 龍馬
(3) 勝
5)
第4話
新撰組―誠の旗の下に
近代国家の樹立
1)
大政奉還と王政復古
2)
廃藩置県という社会革命
3)
文明開化と岩倉使節団
4)
教育勅語
5)
条約改正
6)
日清戦争
7)
日英同盟
8)
日露戦争
第5話
第
海舟
3
第1話
第2話
激動の幕開け[大正時代]
章
昭和初期から終戦
満州事変から大東亜戦争への流れ
いわゆる「従軍慰安婦 強制連行」記述問題
1)
強制連行指示の証拠(公文書の存在)について
2)
被害者は、どういう人たちか
3)
強制連行の加害者証言の信憑性
4)
教科書会社が記述した根拠を調べれば…
第3話
1)
「南京虐殺」記述について
南京占領への経緯とその後の経緯
3
2)
南京事件を初めて知らされた経緯
3)
虐殺の定義について(戦時国際法)
4)
南京事件 諸説の経緯
5)
証言について
6)
これが証拠写真?アメリカでベストセラーの「ザ・レイプ・オブ・南京」とピー
ス大阪
7)
中国が血相を変えて言論弾圧をしかけてくる理由は
8)
「南京虐殺」の徹底検証の代表的な点を箇条書きで紹介する
9)
チベットと南京大虐殺
10) いつから教科書に記述されるようになったのか
11) 近隣諸国条項と南京事件・従軍慰安婦
第4話
原爆投下の是非
1)
原子爆弾の開発
2)
ポツダム宣言
3)
原爆投下-広島・長崎
4)
原爆投下の是非
第5話
敗戦時の国民意識
1)
玉音放送
2)
終戦の日
3)
敗戦の意識
4) 英霊の言乃葉
第6話 天皇制と GHQ
1)
天皇陛下と政治との関わり合いの歴史
2)
大東亜戦争前
3)
昭和天皇とマッカーサー
4) 現行憲法での天皇陛下
第7話 日本国憲法の制定
第
4
章
戦後以降
第1話 東京裁判(極東国際軍事裁判)
第2話 平和条約締結と日本が行った戦後補償
1)
平和条約締結
2)
平和条約と日米安保条約
3) 日本の戦後補償問題
第3話 教育について(教育基本法)
1) 終戦
4
2) 新日本の教育方針
3) 民間情報教育局第4話
第4話北方および南方の領土問題
1)
北方の領土問題
(1) 北方領土の第二次世界大戦までの領有権
(2) 北方4島の侵略
(3) 協定違反・約束違反
2)
南方の領土問題
(1) 尖閣諸島
(2) 中国の対応
3)
竹島問題
(1)竹島
(2)韓国の主張
第5話
天皇陛下と戦争責任
1) はじめに
2) 開戦責任を理解する為のいくつかの前提
(1) 現人神ということ
(2) 祭政一致
(3) 国体と政体
(4) 立憲君主制
3) 開戦責任の法律的、政治的な問題について
4) 立憲君主としての昭和天皇のお立場
5) 終戦責任(終戦に際して昭和天皇が取られたご決断)について
第6話
第
人種差別の壁を崩した日本
1)
人が人をつないだ鉄の鎖
2)
日本が提出した人種差別撤廃法案
3)
大東亜共栄、5族協和の目指したもの
4)
なぜ台湾は親日で、韓国は反日か(歪められた当時の状況)
5)
戦時中から始まった、アジア諸国の独立
6)
基本的な認識として
5
第1話
章
結論として「明るい豊かな社会を築き上げよう」
教科書の周辺について
1) 「採択」
、実質採択するのは教師である
2) 「反戦平和教育」と「愛国心」について
第2話
世紀の遺書
5
第3話
如何にして正義を取り戻すか
1) 日本の正義
2) 民族の正史に誇るべき日本軍の強さ
第4話
終わりに
1)
伝統的な日本文化
2)
誇りある国家「日本」の創造に向けて
3)
最後に
第5話
結論として「明るい豊かな社会を築き上げよう」
付記
あ
と
JCについて
が
き
(小さな誇り)
6
前
書
き
戦後55年が過ぎ、昨今は子供たちの心がすさんできており、青少年による凶
悪無比な犯罪が後を絶ちません。その原因はどこにあるのか?一つには教育の
問題があげられると考えます。
教育とは、「今を生きる」我々が、「明日を担う」子供たちに、使命感と誇り
に満ちあふれた大人になるように教え育むものであり、一人ひとりの個性と能
力を十分に発揮し生きていけるように育てるものです。
しかしながら、現在の小中学校で使われている歴史教科書は、子供たちに誇
りを持ち、公に尽くす使命感を育てるというものからはほど遠い内容となって
います。この歴史教科書が子供たちにどんな悪影響を与えるか、この子たちが
大人となった後の、我が国の行き着く先はどこなのか、今を生きる大人たちが
真剣に考えねばならない時が来ています。
子供たちには、日本古来の伝統と文化をふまえ過去の史実を、「歴史的事実」
に基づいてバランスよく教えねばなりません。外国の圧力による「政治的事実」
によってねじ曲げさせてはいけないのです。
物事には何事においても2つの見方が並立します。世界観にも「人類は宗教
や民族を越えた世界国家という究極の理想をめがけて進むべきである」という
理想主義に立脚した世界観、「人類は異なった民族がそれぞれの独自性を保持
しながら共存共栄する社会を目指して進むべきである」という現実主義に立脚
した世界観が存在します。思想が人を幸せにするならば、いろいろな考えが合
ってもいいと思います。しかしながら、この2つの世界観が決して相容れない
ように、お互いの国が共通の「歴史認識」を持つことも所詮無理なことです。
なぜなら相手には相手の立場があり、我々には我々の立場も見方も歴史も在る
からです。相手は自分とは違うということを原点におかないと相手を理解する
ことはできません。
善悪の基準は時代によって、立場によって異なります。平和時の価値判断で
過去の歴史を評価している教科書では、明るい未来を創造できる子供は育ちま
せん。聞こえのよい理想論に操られることなくしっかりと現実をとらえ、今我々
は、我が子に何を伝え、何を残していくべきかを真剣に考えねばなりません。
日本人としての本来の歴史教育を取り戻さねばならないのです。
韓国には韓国史があっていいと思います、中国には中国史があって当然です、
同じように日本には日本人の視点から見た日本史があらねばなりません。そん
な教科書が本当に必要とされていることを、メンバーにまた広く一般にも訴え
たくこの本を出しました。どうぞ皆様のご理解を心からお願い申し上げます。
7
第1章歴史教育の重要性
第1話
現行教科書の問題点
1)人間教育をなくした歴史教科書は、もはや教科書ではない。
現在小中学校で使われている歴史教科書は、悲惨きわまりない状況にあります。
このようなひどい内容で、子供の教育は出来るのであろうかと心配でなりませ
ん。教育とは、この国の未来を担う子供たちが固有の(外国には外国の)継承
された知恵に触れ、人間として健やかで豊かに育ち幸せになってほしい、との
願いを込めて教え育むものだと思います。
現行の教科書は、日本の歴史を暗黒にしか表現していません。たとえば文化
が華やかに隆盛し、世界史の奇跡と呼ばれている平和な江戸時代をも、抑圧さ
れた暗黒史観で描くのです。近代においては、外国に対し永遠に謝罪しなけれ
ばならない原因を作った惨憺たる時代だと、一方的にそればかり教えられるの
です。事実でない残虐な反日プロパガンダの挿し絵が、いったい子供にどうい
う影響を与えるのか計り知れません。このような教育は、子供たちに必要の無
げんざい
い原
罪(生まれる前からの罪)を背負わせ、自信喪失させ卑屈にしか育て
.......
ることが出来ない。これは教育の在るべき姿ではなく、ある何かの犠牲と言っ
ていいと思います。
本来人は輝かしい面と愚かな面を持つきわめて人間的な生き物です。歴史教
育とは過去の史実に基づいた誇るべき光の部分と陰惨たる影の部分を同時に学
び、今を知り未来に備える為のものだと思います。闇の部分は操作してまで大
きく取り上げ、光の部分はほとんど書かない。蒙古襲来は「侵攻」、秀吉の朝鮮
出兵は「侵略」と書き分ける。初代総理大臣である伊藤博文の肖像も考えも載
アンジュングン
せないで、暗殺者の安
重
根の顔写真や祖国での英雄扱いを巻頭カラー
グラビア1ページ割いて印象づける教科書もあります。その行き着くところは
どこか? 平成 11 年度「センター試験日本史B」の問題に出された以下の問題
を解いてみてください
。
8
問10 写真ア~エの人物(植木枝盛・高野房太郎・市川房枝・小林多喜二)らが それぞ
れの立場で展開した抑圧からの解放の運動は、1945 年の敗戦を経て、 様々 な形で実を結
んだ。日本を占領した連合国軍の最高司令官マッカーサーが発した「 五大改革の指令」もそ
の一つといえるが、「五大改革の指令」に含まれないものを、 次の①~⑥のうちから一つ選
べ。[
]
※下線は担当筆者加筆
①婦人の解放
②労働組合結成の奨励
③学校教育の民主化
④圧制的諸制度の廃止
⑤天皇制の否定
⑥経済機構の民主化
答えは
⑤
............
「天皇制」(マルキストの造語 後述)の廃止だけは残念ながら実を結ばなかっ
.
たと言う認識がないと、この大学には合格できないのです。普通の感覚から見
てどう思いますか? 答えを知っていてもこの出題のされ方だと、答えられな
いのではないでしょうか。私には異常としか思えない。まお指摘されたせいか、
2000 年度入試では出されていませんが。
日本は悪いとしか教えない現行の教科書では、インドネシアの独立記念日に
日本の軍歌がパレードで演奏されている理由や、多くの台湾人が
ジップンチェンシン
「日
本
精
神」を誇りにして親日である事や、パラオ共和国の国旗が
なぜ日の丸の旗に似ているのかが答えられないのです。偏った寸断された歴史
教科書では、祖父母の真実も健全な誇りも体験できません。
思想が人を幸せにするのなら、いろいろ在っていいと思います。「目的実現の
ためなら手段を選ばない」になってしまったら、オウムと同じです。私たちの
健全な常識の価値観に照らした、バランスの良い理想的な世界標準の教科書が
今必要なのです。事実をねじ曲げないで伝えるだけで、子供たちは誇りを持つ
ことが出来るのです。自分が誇りを知り体験することで、他の国の人の誇りを
尊重することが出来るのです。このことは、いじめの問題も同じでしょう。我々
の委員会は、より良い教科書が多く採択されるよう運動していきます。今の子
供達のために、出来うる事の最善を尽くしていきたいと考えています。
9
【ポイント】
自国の歴史をおとしめる自虐史観は、子供達を、日本人を、遠回しに自信喪失させ、必要の
ない原罪を背負わせることになった。
自虐の歴史教科書はアメリカの占領政策ではじまり→日本のマルキスト(社会主義者)に引
き継がれ→近隣諸国条項で反日プロパガンダを導入し悪化→日本の歴史の喪失。誇りの喪失
という経過をたどった。(謝罪外交)
現在の日本の来歴を教えられない結果、むしろ否定された結果、自分たちがいったい
どこから来た(過去)、誰(現在)で、誰になるのか(未来)を捉えられない自己不在
の病理に陥ってるのではないか。
左右のイデオロギーの線上に我々の価値観は無い。興味が無いしよく知らない。我々に
あるのは、日常生活の常識という価値観だけである。
我々は戦後喪失した日本の歴史と誇りを再生するのだ。
2)戦後喪失した日本の歴史(空白の50数年間)
(1)自信の喪失
「戦争」は人間の狂気だから良くないというのが常識的な認識だと思うので
すが、どう見ても現行の歴史教科書では「戦争」は日本が悪かったから良くな
いと言っているのです。これはいわゆる太平洋戦争の戦勝国によって罪の意識
だけ刷り込まれた、占領政策である「心の武装解除」の結果に他ならないので
..........
す。またその後を引き継いだある種の歴史観の産物であることを多くの人が知
らないでいるのではないでしょうか。日本だけ悪いことをしたと言いますが、
アメリカは日本への二度の原子爆弾投下で一般人を虐殺するという、法的に見
てあきらかな「戦争犯罪」を犯しています。もちろん戦勝国ですから一度も裁
かれていません。心の中ではどうか知りませんが・・・。世界中で狂気のない
戦争を行ったところは一つもなく、ある意味で自分の意志で戦争を行った国は、
.......
すべて悪いこともしたのです。どこの国も自分の国の利益だけを考えて戦争し
たはずです。現在の平和?な時代からは想像もできないのですが、当時は侵略
10
するか侵略されるかのどちらかでした。とりわけアジアにとってはせっぱ詰ま
った状況で、戦うことが人間らしい生き方をする為の唯一の選択であったので
す。ほかに選択はあったでしょうか? もし日本が戦わずにいたら、早晩どこ
かの国に占領され、今も独立運動を呼びかけているかもしれません。戦争とは、
いつ他国から侵略を受けるかわからないという、不安から抜け出すための手段
の一つではないでしょうか。それぞれに正義があったと思うのです。仮の話で
すが、もし日本がこの戦争で勝たずとも引き分けにでも持ち込めていれば、こ
のような歴史認識、このような教科書にはなっていなかったでしょう。敗戦国
となったが為に持たされた歴史なのです。一方的に日本が悪いということはあ
りえないのです。戦後50数年たってなぜ未だに「戦後」を引きずっているの
でしょうか。なぜ教科書が自国を愛せない内容を教え続け、どの部分を見ても
日本は悪く、事実は歪曲され暗く記述され、検証もされていないいい加減なも
のを大きく取り上げるのでしょうか。そのような現象からどのようなことが起
こってくるでしょうか。
歴史を否定・寸断するという行為は、何千年何万年継承してきた漂う空気の
ような無意識のアイデンティティを、実に深いところで否定・空洞化する国家
的自己否定であり、誇り・愛国心を喪失することに他ならないと考えます。筆
者にはその不安な潜在意識の中から、生きる力を持てない子供たちや大人達(教
師も含む)が創り出され、えも言われぬ不安にさいなまれ、
「いじめ」や「学級
崩壊」「無気力」「犯罪の多発」のような声のない悲鳴を上げているように思え
るのです。
右のグラフは正義感・しつけについての文部
省・国際調査(朝日新聞朝刊 2 月5日付)です。
『日本では、「友達のけんかをやめさせた」「い
じめを注意した」といった行動を繰り返している
子供は一割に満たない。社会のルールや道徳を家
庭で教え諭している親も項目によっては一割を
切り他の国に比べて極端に少なかった』と解説し
ています。子供と深く関われない大人の状況を示
しているわけですが、どうも「バブルの崩壊」だ
けが原因とは思えないのです。世界の中で深く自
信を喪失してしまっている今の日本の現状が、そこには浮き彫りにされている
のではないでしょうか。これなら学級崩壊もうなずけませんか。
この表題では、『検証戦後教育』(高橋史朗著)から多く引用してあります。
便宜上、これ以降は著者名を省きます。また引用箇所の下線は担当筆者です。
11
(2)「自虐教科書」はどこから来たのでしょう
「自虐教科書」の内容については、次の表題で指摘していますので、まず現
状から知りたい方は「教科書の現状について」を先に読んで下さい。
おとし
自国の歴史を 貶
める自虐教科書が子供たちに与え
る影響が少ないのなら、これほど話題にはなりません。高
橋史朗氏は「自分を尊重できない人間に、他人を尊重でき
るはずがない」、また「自国を尊重できない人間に、他国
を尊重できるはずがない」と述べられています(新しい歴
史教科書をつくる会 第 11 回シンポジウムビデオ)。そ
して自虐教科書といじめの問題の関連性を論証していま
す。「自虐教育」に対して「自己尊重教育」が必要だと論
じておられます(後述)。その論旨に立ち、子供を中心に据えて、教科書問題を
捉えていきたいと思います。
では教科書を通じた占領政策とはどういうものだったのでしょうか。高橋氏
は、ワシントンで発見した米軍の占領文書から、
「教科書検閲の基準」について
こう述べています。
占領軍が日本人の精神的武装解除を推し進める上で、
・・・愛国心、国家理想が破砕さ
れ、さらに占領検閲によってこの国体破壊施策が教育界に徹底的に浸透させられてい
った。昭和二十一年二月四日に「教科書検閲の基準」が定められ、以下の記述は削除
あらひとがみ
された。①天皇に関する用語(・・現 人 神・・など)、②国家的拡張に関する用語
はっこういちう
(八紘一宇・・など)、③愛国心につながる用語(国体、国家、国民・・など)、④日
本国の神話の起源や、楠木正成のような英雄および道義的人物としての皇族・・・等々。
戦後世代の若者が天皇や国家、歴史的英雄などから切り離され、日本人としての誇り
を失った背景にはこのような占領政策があった・・・
(『検
証戦後教育』)
教科書ではそういうことが行われ、全体には「ウォーギルト・インフォメー
........
ション・プログラム(戦争犯罪洗脳計画)」が行われて、日本人から国家意識と
誇りを削ぎ落としました。「アメリカと日本の対立」から、「日本の軍国主義者
と国民」との対立に置き換えたのです。その結果国民の意識はすっかり変化し
なかじょうたかのり
てしまいました。『おじいちゃん戦争のことを教えて』( 中
條
高
徳
12
著)より、そのときのことを紹介します。
故郷に帰ろうとして、価値の大転換にぶつかった。
・・汽車はデッキや窓から人が溢れ
出るほどの大混雑だ。そこに乗り込もうとして、私は罵声を浴びた。「あいつらは戦犯
だ!」「お前たちのような軍国主義者のおかげで、おれたちは苦労しなければならない
のだ」「戦争犯罪人が一人前に汽車に乗ったりするな。歩いて行け!」
・・ついこの前
までは、国を守るために命を捧げようとしている若者として、尊敬の目で見られてい
たのだ。それがこの落差。おじいちゃんは沈黙して、屈辱にただ唇をかむしかなかっ
た。
...........
.......
『さらにマルクス主義の階級史観と「東京裁判史観」とが「日本国家の否定」
....
という共通項を媒介にして合体し、先の洗脳工作に拍車をかけた。』(『検証戦
..
後教育』)という次第で、現在の自虐の歴史観ができあがったのです。
..
教科書問題を扱ったこの本の中には、慣れない人にとっては過激に聞こえる
言葉が続く場合があります。残酷な写真もこれから出てきます。しかし、それ
らは今、子供達にしっかり教えられている可能性が高いのです。読者は左右の
イデオロギーに何の興味を持ってこなかった人がほとんどだと思います。筆者
もそうです。しかし今大人が、自虐教科書から子供達を守らなければならない
時なのです。目を見開いて現実を確認してください。我々に必要なのは、強い
信念と常識です。筆者の文章の中には、まるでアメリカに復讐するとでも思わ
れかねないほど、「アメリカ」がたくさん出てきます。筆者が問題にしているの
は抜け出せない日本人自身です。また共産主義を忌み嫌う、「反共」かと間違わ
れるかもしれませんが、目的実現のための手段を選び、至極穏当なものでさえ
在れば否定しません。
では占領政策をしばらく見ていきましょう。
(3)戦争に負けるということは、全てを失うこと。したがって、日本は歴史
を失った。
戦後日本は、アメリカ製の日本の歴史を受け入れなければなりませんでした。
日本の立場や文化、歴史観から生まれた「大東亜戦争」を禁止し、連合国側の
呼称である「太平洋戦争」を強制的に受け入れさせられました。全ての情報は
アメリカの検閲下にあり、アメリカが作成した日本の歴史「太平洋戦争史」は、
罪悪感を浸透させ東京裁判を受け入れさせるために使用されました。緻密に計
画的に徹底的に行われました。全国紙の新聞各社やラジオ(『真相はこうだ』)、
13
映画(観客合計約千五百万人)など、もちろん教科書も、どこを見てもアメリ
カに都合のよい歴史を植え付けたのです。この経緯は『検証 戦後教育』に詳
しい。『国民の歴史』の著者西尾幹二氏は、なぜ日本にウォーギルト・インフォ
メーション・プログラムが必要だったのかを、次のように述べています。
・・終戦の日から二週間たってなお、新聞はこのように公然と「戦意」を表明してい
おお
た。・・・これが国全体を蔽 っていた空気であった。日本は悪いことをしました、連
合軍に謝らなければなりません、天皇は戦争責任者でした、などという感情は毛の先
ほどもなかったし、またあるはずもなかった。
・・・罪悪史観の押しつけ、これは占領
軍が進駐した九月初旬からぼつぼつ始まった。占領政策の一環として日本人に戦争犯
罪を意識させる洗脳教育が必要であることが、欧米の新聞では公然の論調となってい
うち
くが、そのそもそもの始まりは、日本側が無言の裡 に示していた「不服従」の表情が
引き起こした反応である。
(
『国民の歴史』)
消えない戦意と不服従が日本を取り巻いていた。だから戦勝国は敗戦国に戦
争犯罪の罪悪感を植え付ける必要性が生じたのだと指摘しています。そして、
ミズーリ艦上降伏文書調印式のトルーマン大統領の演説(p647)の中に、現在
の自虐史観への源を見いだせると指摘しています。
・・・戦後われわれ日本人がずっと耳に馴染んできた言葉づかい国家悪に対する個人
の自由、ファシズムに対する民主主義、軍国主義に対する平和主義といった、
・・・わ
れわれは戦後、まるで敵国の大統領の与えた言葉で、自分の歴史を裁いてきたかのご
とくである。
(
『国民の歴史』
)
戦前の世界の状況はどうであったのでしょうか。世界は帝国主義がしのぎを
削り、アジアの殆どが白人帝国主義の中で最底辺の植民地(インドネシアは3
50年間オランダによる支配)でしかありませんでした。日本人だけが、小柄
な体で経済・武力とも白人と対等で同じ事をしていました。彼らから見て心底
から許し難い存在ではなかったでしょうか。アメリカにとれば(白人全部?)
アジア人・アフリカ人は、インディアンと同じ「猿」
(アメリカ軍のプロパガン
ダ)に属していたそうですから、日本人に対し罪の意識を抱かず虐殺を行えた
のでしょう(「南京大虐殺記述について」所収「リンドバーグの日記」参照)。
ただし日本人に対してだけは「侮辱」の念とともに、「強力な陸海軍と帝国政府」
が背後に控えていたので、同時にかなりの「脅威」でもあったようです。日本
14
むく
軍が悪い事をした報 いとして原爆を投下したのではなく、白人世界の秩序を
もとに戻しただけなのです。「日本の敗退後、英仏蘭はただちにアジアに戻って
きて、植民地帝国主義を再開」しました。アメリカの主張した「正義」も、こ
ういう植民地帝国主義でしかなかったのでしょう。
アメリカ政府の命令通り二度と対等にならないように、復讐心を持たせないよ
うに、武装解除をした後、心の武装解除が7年間徹底的に行われました。西尾
氏が指摘する日本人の不服従に対して、
『戦争犯罪洗脳計画』、『東京裁判』が行
われ、『占領憲法』『教育基本法』が作られたのです。その結果「アメリカに負
けて良かった」とさえ言わせることに成功したのです。戦争が終わったという
あんど
安 堵の中、価値観はコペルニクス的転換を遂げました。しかし、歴史と誇り
が愚民化のなかに完全に消えていってしまっていることを国民の多くが自覚し
ていませんでした。「一国の人々を抹殺するための最初の段階は、その記憶を失
わせること・・その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ・・発明
させること」(『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ)であり、その成果によっ
て、アメリカの後顧の憂いである復讐心は消えました。当然それまでの日本側
の言い分は否定され、英雄、子供の教育に必要な、生きる理想となる具体的な
人間像さえも無くしてしまいました。つまり日本は独立自尊の精神を喪失した
のです。戦争に負けると言うことは実にこういうことで、武力で負けただけな
のに、精神の気高さで負けたのではなかったのに、日本人の精神と歴史が悪の
ように否定されたのでした。戦後の日本とは戦勝国による愚民政策、植民地の
一つの形態ではないでしょうか。負けたのですから当然です。でもその後50
数年間も負け続ける必要があるのでしょうか?
戦後処理が行われたのは、アメリカにおいて黒人に市民権も公民権もまだ無い、
.......
白人にのみ自由の国であった時代です。
(4)「リメンバー・パールハーバー」は本当か?
アメリカ公文書館に保存されていた資料が公開されるようになり、日本の暗
号はFBIのスパイによって真珠湾奇襲攻撃(昭和16年12月8日)の一ヶ
月程前から完全に察知され、アメリカは奇襲の情報をつかんでおり、ルーズベ
ルトが米国民に戦争を決意させるため意図的にハワイにだけ知らせていなかっ
たらしいのです。それについては若干違う意見もあり、開戦は知っていたが真
珠湾は知らなかったと見る考えもあります。「真珠湾を忘れるな」は現在も広く
アメリカでうたわれ、学校教育の中でさえもそう教えられているらしいのです
が、終戦直後のアメリカ議会ですでに裏事情が指摘されており、結果的には念
願の開戦に至ったアメリカの国家的な情報操作と言えなくもないと思います。
また日中戦争のさなかの昭和16年4月の段階で、アメリカはすでに中国軍を
15
装ったフライング・タイガーを派遣し、日本と戦争をしていたようです。高価
な米軍機を使用するわけですから国策と考えるのが自然ではないかと思います。
ほかにも真珠湾の3ヶ月前に日本本土爆撃計画を示す公文書も大統領のサイン
入りで見つかっています。冷静な事実確認が必要なところですが、ABCD包
囲網・ハルノート、明らかに日本に戦争を仕掛けさせていると思えるのです。
『国民の歴史』、『真珠湾』(G・モーゲンスタン著)、『國破れてマッカーサー』
(西 鋭夫著)、「発覚した真珠湾のウソ」(前田 徹著『正論』1999,10)を参
照されたい。
(5)GHQから、日本のマルキストへ。
GHQは、政治犯の釈放(1945,10,10)を行いました。「占領軍にとって利用
できる人物」、「友好的日本人」として「歴史学研究会」(マルクス主義的傾向を
持つ人が多かった)を近づけ、彼らの歴史観を占領政策で利用しようとしまし
たが、結局「急進的」すぎて使えませんでした。しかし彼らはその後の歴史学
界の要となってしまったし、そのときの歴史観が今の教科書に反映されている
のです。抑圧の経験を持つ彼らには、当時の歴史は暗黒に違いないのです。G
HQは、今までの歴史観と彼らの革新的歴史観の中間を期待していたようです
が、内容が「急進的すぎ」たためその内容のラジオ放送は中止になりました。
GHQの「共産主義的記述」に対する強い批判を紹介します。
(弥生時代に)私的所有(形態)はまだなかった、とのマルクス主義的理論は間違っ
ている。なぜ、そのようなマルクス主義的理論が、歴史についてのポピュラー・トー
クに出てくるのだ! マルクス主義的理論は正しくない!
(
『検証戦後教育』
)
弥生時代のこのような原始共産制記述は、現在の教科書に明らかに残存して
います。また日清・日露戦争ほかについてラジオ放送の草稿を紹介しています。
日本は明治維新以降非常な速度で資本主義化してきましたが、それは少数の上流階級
さくしゅ
を富ましただけで、一般の民衆は利益にあずからなかったのみならず、搾 取されて苦
しみました。
・・日清戦争で大いにもうけた日本の支配階級は、国民の生活を犠牲にし
て戦闘準備を整え、さらにロシアとの戦争に国民をかりたてようとしていたので
す。
・・・
日本共産党が大正十一年に誕生し、人民の先頭に立って、勇敢に正直に戦いまし
どんよく
しいた
た。
・・・戦争に反対し、専制政治に反抗し、資本家地主の貪 欲と戦い、
・・・虐 げ
られた人民を守り、人民のための社会をつくるために、わたくしたちの先輩は献身的
かんけん
な努力をしました。そのため、幾多の人々は、官 憲のために、あるいは捕らわれ、あ
るいは殺されたのです。
(
『検証戦後教育』
)
16
この草稿の中にも今の歴史教科書の問題点を見ることができます。ではなぜ
そこまでの偏向した視点が生まれるのでしょうか。藤岡信勝氏はこう述べてい
ます。
・・講座派の人々は明治維新の革命性を低める絶対主義説になぜあのように情熱的に
固執したのだろうか。それは、
・・・国際共産党組織・コミンテルンが一九三二年に「三
二年テーゼ」とよばれる日本革命の方針を出したからである。その方針は天皇制を絶
対主義として規定し、その打倒を日本共産党の任務とした。(『自由史観とは何か』藤
岡信勝)
(注)講座派・・・社会科学者のグループで、
「日本資本主義発達史講座」の編集・執筆を
行ったことからこう呼ばれる。
「天皇制」の用語についても若干の説明をしておきます。『皇室傳統』(谷沢
永一 PHP 研究所)によれば、
「天皇制」と言う造語が、我が国に初めて出現したのは、大正十二年三月
十五日、東京府北豊島郡石神井村の料亭豊島館で開催の、日本共産党拡大
執行委員会においてである。
とあります。その後昭和6年3月以降、『赤旗』は「天皇制打倒」を掲げ、昭和
7年(1932 年)7月 10 日に「主要任務」の第一として、「天皇制の転覆」が明
記されました。
日本にはそもそも天皇について、何かほかのものと代わりうる、存在すら疑
うような価値観などあったのでしょうか? そういった「32年テーゼ」が示
されるのも、終戦まで日本の多くの人々にとって、天皇の存在は全く疑いよう
のない大きな存在であり、歴史・精神・文化や生活に密着していたからではな
かったでしょうか。
大学の入試問題もこの「32年テーゼ」の線上にありそうです。今の我々に
は想像もつきませんが、彼らは革命を起こす為に歴史を使ったのです。またG
HQ文書に出てくる50数年前の内容が、今でもそのまま歴史教科書に出てき
ます(「教科書の現状について」を参照)
おとし 。日本の歴史は、戦勝国と共産主義者
によって破壊され、作り直され、貶
められ現在に至るのです。
(6)GHQの政策により、「国旗」の自由掲揚は禁止されていたが・・・
昭和二十四年一月一日マッカーサーは、「国旗の無制限掲揚許可に関する総
かか
司令部覚え書き」によって、日本国民は自由に「日の丸」を掲 げられるよう
17
になりました。しかし国民の反応は、このようなものでした。
・・マッカーサーは、これからは「平和の象徴」として「日の丸」が「日本国民の一
人
ひとりをふるい立たせる輝く導きの光としてひるがえらんことを心から念願」
したが、日本国民はいっこうに「日の丸」を掲げようとしなかった・・・・昭和二十
五年二月の朝日新聞の全国世論調査によれば、国旗を持っている人は七三%いるが、
その中で祝祭日に「日の丸」を掲げる人は三〇%にすぎず、国旗を掲げない理由とし
て、
「国旗を出すと世間から軍国主義者のように思われるから出さない」「誰も国旗を
出せといってこないし、出さなくとも誰からも文句がこないから」 (検証戦後教育』)
この頃から、今の国旗嫌いの現状が始まったのです。見事な大成果です。
げんすい
(7)衆参の「マッカーサー元
帥に対する感謝決議」鬼畜米英から救世主
様へ
戦争犯罪洗脳計画は、国会でマッカーサーに対して感謝決議がなされるほど
「世界の占領史上比類なき成功」を遂げました。作家の武者小路実篤は『新生』
(昭和21年新年号)で「マッカーサー元帥に寄す」でこう述べています。
かえ
私は国民の多くが、敗戦後反 って自由を得られ、生活の安定の希望を得られ、人間ら
し
く取り扱われるようになったので負けてよかったと思っていることを告白します。
(『検証戦後教育』)
毎日新聞(夕刊
昭和26年4月17日付)に次の記事が掲載されました。
ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥!
そ
の窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊
たまもの
かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜
国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!
であり、同時に日本
どうか、おからだをお大事に
(『検証戦後教育』)
確かに一面ではアメリカの占領政策はひどくなかったから多くの人に受け入
れられたのでしょう。しかし日本は、人としての尊厳を求めて世界と戦ったの
です。この戦争はもともと欧米人がアジアを支配したの原因です。戦勝国はそ
18
のことを巧妙に日本の内部の問題にすり替えながら、いつしか誇りや愛国心を
この国から50数年間も取り上げてしまったのです。独立自尊を、愛国心を捨
.
てさせたのです。ウォーギルト・インフォメーション・プログラム、これはも
.....
しかすると原爆よりひどかったのかもしれません。
(8)歴史の喪失、近隣諸国条項
GHQの洗脳を受け入れた歴史の喪失は日本の政治家を無力にし、証拠が無
くても謝罪する卑屈な習性を身につけさせてしまいました。その結果諸外国は
日本に対し誤った認識を持つようになってしまっています。有名な事件は、
きんりんしょこくじょうこう
近 隣 諸 国 条 項(1986)の発端となった文部省の検定、侵略→侵
攻書き換え新聞誤報事件です。事実に反しながら政治的に謝罪解決してしまい、
反日でまとめている外国のプロパガンダ(戦意高揚の宣伝)が
日本の子供達の教科書に出てくるようになってしまいました。
誤報と判明してからも改善しようとはされない、教科書が酷さ
を増した歴史的事件でした。また新しい歴史教科書をつくる会
の発足のきっかけになった、いわゆる「従軍慰安婦 強制連行」
記述も同様で、マスコミの情報操作と関連し次章に詳しく解説
しました。このような日本を包む芯の無い空気のことを、筆者
は歴史の喪失と言いたい。ある期間日本人が集団で突然変異し
たのです。その経緯を戦後民主主義と言います。当時大人で状
況をしっかり見てきた人達は騙されてはいない。老人たちは、『戦争論』(小林
よしのり著 幻冬舎)に書かれていた通りだったと言っておられます。結果的
にアイデンティティーの喪失に自らも加担してきた自虐社会の病理は、子供た
ちのいじめ・学級崩壊・生きる力の喪失となって吹き出してきたと思えてなり
ません。
現行の教科書は日本の来歴を教えようとしない。世界第2位の経済大国で(ヨ
ーロッパが一つになってもかなわない)、1位のアメリカよりも数段治安の良い
....
生活水準の中で、世界の預貯金を半分も所有する国で、とにかく現実が成功と
評価している現状の中で、どうして貧困の中から生まれたイデオロギーがこの
国で革命を起こせるでしょう。ベルリンの壁崩壊後、現実がマルクス主義を大
否定してから、なおさら彼らは教科書の中やマスコミの中で日本の歴史を貶め
ることに活路を見出しました。うす甘いサヨクに囲まれて、真ん中に少数の確
信犯が居るぞ!
では喪失してしまった日本の本来の歴史、もしくは誇りとは何でしょうか。
またその影響について担当筆者なりに論じてみたいと思います。
19
............
私にはこう聞こえてきます。
(9)耳を澄ますと
私は誰? どこから来たの? そしてどんな誰になるの?
遅くまで勉強してても いい子にしてても 心の中が空っぽなの
学校では日本が悪かった 日本はひどかったと教えてくれる
きっと私たちをよい子にしようと思っているに違いないの
私たちが責められているわけじゃないけど でもどんどん重い気分になってくる
とくに平和記念館に行ったときは吐きそうになったわ
戦争にいった いつも優しいおじいさんがあんなひどいことをしてきたなんて
ぞっとした
学校で教わったことをおじいさんに言ったの
中国や韓国でいっぱい悪いことしてきたの? いっぱい人を殺してきたの?
お小遣いをくれて 一度も怒らないおじいさんが ・・・ぽろぽろ泣いてた
学校では 私が誰なのか教えてくれない
誰になるのかも教えてくれない
たすけて
今日も同じクラスで
いじめられている子がいる
誰も止めようとしないわ 私もふくめて
いじめられるのはこわい
もし自分がいじめられたらどうしよう きっと死にたくなるわ
自殺した子がいたの いじめられて
遺書があったの 「みんなは悪くない 自分が悪い」と書いてあったの
先生も
「いじめられるほうも悪い」といっていたわ
本当は先生も
自分が誰で
大人も
いじめっ子も
誰になりたいのか知らないのよ
だから教えられないの・・・
私たちは自由で 何にでもなれるって
私たちにとって 今本当に自由が必要なのかなあ
とっかかりのないところに行ったら もっと不安になって
もっと誰だかわからなくなりそう
地球市民って誰がつくったのかなあ
なんとなく自由はこわいから まだいい
20
私たちがどこから来た誰かわかるように
そして、私がこれからどんな誰になりたいのかわかるように
ちゃんとした「歴史」を教えて
先生も親たちも、私たちのことをほんとに考えて・・・おねがい
..........
筆者には、子供達がそう言っているように思えてなりません。子供達の心は
空白なんかじゃない、と言い切れるでしょうか。(ただし子供に直接聞いてもわ
かるはずはない。) 経済はともかく、周りの大人達が精神的に力強く生きてい
るでしょうか。社会の病理は、一番弱い子供達に表面化して来ると思います。
子供達は、大人達に問題を具象化して見せ、こんなになるまでよく放っておい
たとばかりに、突きつけて迫っているように思えます。朝日新聞のしつけや正
義感についてのアンケート報告で、「他の国に比べて極端に少なかった」とか
.
「日本の子供大丈夫?」の解説や見出しを読んでは、深刻に納得し、同時にお
....
もしろく思えました。ねつ造してまでやたら外国への謝罪を書き立てる、日本
のマスコミの現状に、その原因の一つがあるのにと思われたからです。
高橋氏が述べているように、自分を尊重しない自虐教科書では、自分も愛せ
ないし人も愛せないでしょう。自分を尊重できない人間に他人を尊重すること
など出来るはずがない。出来ると考えたらそれは空想だ。自分を愛し、家族を
愛し、故郷を愛し、国を愛する事が出来て、地球市民なのではないでしょうか。
不確かな不安な個から、いきなり地球市民はあり得ない。(愛国心も持たないよ
うな人間がやって来たら、相手も信用できず困るでしょう。) 子供の「いじめ」
は、潜在意識に遠回しに否定された自己の不在、そこはかとない不安、自分を
尊ぶことが出来ない苦しみ、追いつめられてあの子よりましだと思うことでバ
ランスを取っているのではないでしょうか。いじめは不安のはけ口ではないで
しょうか。筆者は、子供の「いじめ」「学級崩壊」「自殺願望」「無気力」「犯罪
の多発」は、占領政策以降の力強く生きる力を持てない社会の病理が、いよい
よごまかしの利かないところに来てしまったからではないかと考えるのです。
...
登校拒否をする子供も先生も、戦後民主主義の犠牲者なのではないでしょうか。
経済は発達し生活は豊かで、幸福なはずなのに・・・
我々の委員会は歴史教科書だけを取り上げ良くしようと発足しました。しか
し現在の状況は、教科書や教科書を実質採択する先生だけの責任ではないので
す。日本人全体が、まずこのことに注目し本当の歴史と本当の日本人を回復す
べき時が来たのだと思います。そのことを遠く視野に入れながら、「新しい教科
書づくり委員会」は発足しました。
21
(10)喪失した歴史を取り戻そうとするとき、左に対する右のイデオロギー
しかないのか? 我々には「日常生活の常識」という健全な価値観があるでは
ないか!
我々の世代は、幸か不幸かイデオロギーを良く知らないのではないでしょう
か。そもそもイデオロギーの線上になく、純粋な価値基準としての「日常生活
の常識」しか持ち合わせていないのです。とらわれない世代しか歴史観を変え
ることは出来ないでしょう。今年金沢市で行われた日教組の第49次教育研究
全国集会の報告で、「生徒の中にはこれまでの史観に反発する認識があり、教室
で話題になり他の生徒に広がっていく」様子を懸念していました。彼らが懸念
するほどだからきっと健全な認識なのではないでしょうか。以下に若者の多く
から支持されている『ゴーマニズム宣言』の中から、『戦争論』によせた、よし
りん(小林よしのり氏)への応援メッセージを抜粋しました。勉強しないと、
子供たちに馬鹿にされるぞ!
涙が出ていた。この本を読んで祖父にあやまりたいと思ったからだ。というのは私が
小学校3年くらいの頃。今思えばサヨクが子供の洗脳のためにつくった戦争の本を図
書館にある団体が寄付した。私はその当時祖父を真剣に怖がりビルマで捕りょになっ
ていた事も「悪いことをしたから当然」と思い、あげくに「おじいちゃんも人殺しし
た?と聞いた。その時、祖父は悲しいような、でもあきらめているような顔をしたよ
うに思う。この本を読んで私は祖父に「ありがとう」と言いたい。そして祖父のため
にも自国に誇りを持とうと思う。(16歳・女子高生) /「戦争」の真実を教えられ
た。僕の父の伯父は大変優秀な人で、空軍に所属して若くして戦死したそうです。僕
はこれまで個人に対して「かわいそうに」ぐらいの感情しか抱けずにいました。しか
し今、自分の無礼さを恥ずかしく思う。今年の盆にはいっそうの感謝と尊敬をもって
お参りに行こうと思います。(17歳・高校生) /日本兵ってすごくカッコイイ奴ら
だったと思い、同時にすごく感謝した。自分も誰かを想って守って生きたい。「命は手
段に過ぎない~」のくだりに震えがきた。(20歳・学生) /我が家で同居している、
戦争に行った祖父が本書を読んで「生きてて良かった」と言いながら号泣しました。
びっくりしました。(34歳・会社員)我々戦中派の総てを代弁して下さった感じにて、
厚く御礼申し上げます。中支、ラバウル、ブーゲンビルに散った 1988 名の靖國の戦
友も感涙にむせんで居る事と思ひます。小林さん、益々の御健康と御活躍を祈念いた
します。(東京都・76歳)
(
『戦争論』読者
応援レター 新ゴーマニズム宣言第6巻)
(11)何をはばかる必要がある?
本当の歴史を、英雄を取り戻そう。
22
過
去(無意識)・現在(創出)・未来(希望)
アメリカの洗脳計画が浸透するまでの日本の歴史は、実に健康的で気高いア
イデンティティを内包してきました。抑圧されていた世界の人たちは、白人帝
国主義に立ち向かう有色人種のヒーローとして見ていました。当時の日本人は、
自分がどこから来た(過去)誰なのか(現在)知っていたし、誰になりたいの
ところ
か(未来)も知っていたように思えます。聖徳太子が随に送った「日出づる処
の天子より・・・」(607 年)は、華夷秩序(皇帝は時間をも支配し、属国の王
を含め皇帝以外すべて臣下である。現在はどうであろうか。)への決別であり、
対等関係(天皇・皇帝)の樹立に他ならなかったと思いますが、独立自尊の精
神は有史以来貫かれていて、つい最近まで気高い精神性を発揮してやまなかっ
たのです。明治維新で武士達の自己犠牲のもとで国家の危機に備えることがで
せつにん
かつにん
きたのも、武士道(「武は殺
人の道ではなく、かえって活
人の道である」
『武道の神髄』佐藤通次共著)や独立自尊の精神があったからだと思います。
その後の発展。世界最強のバルチック艦隊を破った気概。乃木希典が敵将に示
した深い武士道。そして世界から評価された軍の規律。独自の文化がはぐくん
だ部分もありますが、世界の列強と対等に対峙したかったのだと思います。そ
れはどこを見ても白人支配の世界という条件の中で、人間としての尊厳への
かつぼう
渇
望から来ていたのではなかったでしょうか。「大東亜戦争」も同じです。
インドネシアでの日本軍は、終戦後オランダが奪還しにきたときの為に、わざ
と武器を奪わせ、なおかつ一千人から二千人と言われている日本兵がインドネ
シアの独立に参加し、一千人の命を捧げました。マレーシアでは、マレイのハ
リマオ(谷豊)がイギリスからの独立のために、日本軍と共同で作戦に関わっ
ていました。国家的政策であるユダヤ人へのビザの発給(誤解が多い)。それら
かいざん
にとって変わったのは、たった 50 数年間の改
竄された自虐の歴史教育なの
です。もちろん人間ですから間違ったり勘違いした部分も外国と同様にあった
と思いますが、筆者は彼らを明暗あわせ誇りに思います。よくやったと言いた
い!
いえい
特攻隊の遺 詠を紹介します。年齢をまず見てください。
23
た ま
と
わ
み
く
に
死するともなほ死するとも我が魂よ永久にとどまり御国らせ
おうか
「桜花」特別特攻隊・緒方
九州南方上にて戦死
襄命
23歳
みぞう
彼らは敗戦を感じ取りながら、未曾有の状況の中で今自分が誰になるべきかを
決心し、その高い精神性を実感しながら、身を捨てる一瞬までも目的を体現し
続けたのです。(正直言って私に真似ができるかどうかはわかりませんが。)
我々は、今生きていながら生きていないのではないでしょうか? 真実を知ろ
うともせず謝罪し続けることは、生きていない証ではないでしょうか。喪失し
た日本の歴史を取り戻しさえすれば、必ず本当の自分を取り戻すことが出来る
と確信します。何に対してはばかる必要があるのか? 近隣諸国との友情を危
惧するのか? 恫喝と謝罪の関係に終止符を打ち、互いの意見を殴りあってで
も発露できるようになってこそ、真の友情関係であると思いますが。大事だと
言いながら、自分の方から距離をとっているのではないでしょうか。
.........
前述の少女が書きそうな詩は、もしかすると数十年前に、組合活動に熱心?
な先生に平和博物館にあるような歴史を教えられたことのある担当筆者の病理
でもあるかもしれないし、戦後民主主義教育を受けてきたすべての人の潜在意
識の病理なのかもしれません。我々の心の中や空気には、まだ過去の精神が眠
っている筈です。触れれば必ず歓喜し、思い出すはずです。我々は自分が何者
であったのか思い出さずにはいられないし、自分が何になりたいのか知らずに
はいられない。今を逃してしまったら、もう日本人はどこにもいなくなってし
まう!!
もう少し特攻隊のお話をします。アメリカ海軍水兵たちの回顧録の中に特攻
としお
隊のことが書かれていて、西鋭 夫氏はこう感想を述べています。
「回顧録」を十冊ほど読んだ。「神風特攻隊」の記述を読んだとき、涙が止まらなかっ
た。
・・。レーダーに「点々」が現れる。神風はまだ肉眼では見えない。しかし、その
点々の方向に全ての機関銃を、全ての対空砲を、撃ち始める。十機ぐらいの神風が肉
眼に見える。まっすぐ航空母艦に突っ込んでくる。水兵たちは、気が狂いそうな恐怖
に震えながら、機関銃を撃ち捲る。ほとんど三十分ぐらいで撃ち落とす。だが、時折、
一機だけがいくら機関銃弾を浴びせても落ちない。銃弾の波間を潜り、近づいてきて
は逃げ、そしてまた突っ込んでくる。日の丸の鉢巻きが見える。祖国のために死を覚
悟し、己の誇りと勇気に支えられ、横殴りの嵐のような機関銃の弾雨を見事な操縦技
術で避け、航空母艦に体当たりし撃沈しようとする恐るべき敵に、水兵たちは、深い
24
畏敬と凍りつくような恐怖とが入り交じった「感動」に似た感情を持つ。命を懸けた
死闘が続く。ついに、神風は燃料が尽き、突っ込んでくる。そのとき撃ち落とす。そ
の瞬間、どっと大歓声がわき上がる。その直後、耳が裂けるような轟音を発していた
甲板上がシーンとした静寂に覆われる。水兵たちはその素晴らしい敵日本人に、「なぜ
落ちたのだ?」「なぜ死んだのだ?」「これだけ見事に闘ったのだから、引き分けにし
て、基地に帰ってくれればよかったのに!」と言う。アメリカ水兵たちの感情は、愛
国心に燃えた一人の勇敢な戦死が、同じ心をもって闘った戦士に感じる真の「人間性」
であろう。それは、悲惨な戦争の美化ではなく、激戦の後、生き残った者たちが心の
奥深く感じる戦争への虚しさだ。あの静寂は、生きるため、殺さなければならない人
間の性への「鎮魂の黙祷」であったのだ。
(『國破
れてマッカーサー』西 鋭夫著 p24)
特攻隊を過度に美化しようとは考えていません。若くして死んでいった彼ら
の真実を正しく観てほしいのです。もしかすると多くの日本人より、「韓国海軍
の若い艇長ら」の方がよく知っていて、特攻隊に身近かもしれませんね。
テレビである論説者が「歴史は血と同じである」と言っているのを聞きまし
た。まさにその通りであると思いました。そして過去・現在・未来は、人の中
で一体です。人は現在にいるのみではない。過去とは、今現在の文化・秩序・
知恵・誇り、空気のように存在する日本という固有の無意識そのものを含んで
いる。(それが今どんどん崩壊している。) 過去を失う(ゼロ)ことは、いや
否定(マイナス)することは、未来へつながる具体的な人間像を見失うことで
あると断言します。
筆者は思う。
「力強い人間」とは、過去(無意識)
・現在(創出)
・未来(希望)
を、同時に備えている人のことを言うのではないでしょうか。
(12)世界は未だ、情報戦争まっただ中にあります。
2000 年になって世界は平和でしょうか? とんでもない、情報戦争まっただ
中なのです。平和ぼけしている日本人には、世界が先の大戦の時とさほど変わ
っていない事を知りません。国家は自国の利益を優先し、侵略・弾圧・拷問・
内政干渉・無視・情報操作などで少しでも有利に、少しでも多くのお金を出さ
せようとしているのです。ぎりぎりのところでやれ平和だと装っているに過ぎ
ないのです。弱肉強食の世界はそのままです。竹島を沖縄を、自国の領土だと
公言している近隣国家も在るようです。その先の日本も照準に入っているのか
もしれません。
今世界に誇れた独立自尊の信念を、我々の胸の中に回復する必要があるので
はないでしょうか。我々の内側に英雄を思い出すことは、決して恐ろしいこと
25
ではありません。逆に言えば愛を一度も体験したことのない人が他人に愛を与
えられないように、自国を尊重する事を体験して、初めて本当の意味で他国を
尊重できるのです。それを危ないことと思うのは、歴史を喪失してしまった結
果に他ならないのです。
世界は平和を装っているだけです。スイスで国民に配られている小冊子を紹
介します。
(強大国)は核戦争によって砂漠のように荒廃した国を手に入れるよりも、物資が十
分
供給されている国に手をつけるほうが、得策ではないだろうか。そこで、戦争
は、心理
戦の形態をとるようになり、誘惑から脅迫に至る、あらゆる種類の圧力
を 並べ 立て て、
最 終的に は、 国民 の抵抗 意志 を崩 して しまお うと する 。」
(スイス『民間防衛』
)
ここで言いたいのは、子供達が使う教科書の中で、外国のしたたかな情報を
そのまま鵜呑みにして流してはいけないと言うことです。力強い大人がそこ立
ちふさがって、最後まで情報戦争から子供達を守らなければいけないのではな
いでしょうか。
(13)個と公について。薄ぼんやりした個から太文字の個を立ち上げ、公に
向かうのだ。
日本の歴史の回復、つまり自己の回復は、強力なリーダーシップに引っ張ら
れるのではなく、一人一人が自発的に要求し個を高めて、自己責任の中で目的
を持って行動を起こすことではないでしょうか。友達がやるから俺も、ってわ
けにはいかないでしょう。何でもそうですが、直面した現実に自分がどうした
いか、自分が何になりたいのか選択する機会なのだと思います。放っておくこ
とさえ選べる。
そこから太文字で立ち上がった個が、次に進むのが公なのではないでしょう
か。個に日常生活の常識の価値観を充満させて、子供の親として、教科書問題
に太文字の個を立ち上げようではありませんか。それぞれの個が決めることで
すから、相対化して現状を維持したり、知ったかぶりして右のレッテル張りに
終わることもあるでしょう。JCはそもそも「つくる会」(新しい歴史教科書を
つくる会の略称)とは趣旨が違う。JCライフを楽しんでそっとしておいて欲
しい人もいるでしょうから、出しゃばったことはすべきではないと思います。
また今後政治家の中に、この運動でJCを利用する人も出てくるかもしれませ
しんがん
んから、真
贋を見抜く目を養わなければいけなくなるでしょう。個人的に
26
筆者は近隣諸国条項や従軍慰安婦問題を政治的に処理してきた政治家というも
のに、何ら信頼を寄せていません。政治家は、まず失った信用を取り戻す努力
をして欲しい。
「新しい歴史教科書をつくる会」を設立した一人である小林よしのり氏の『新
ゴーマニズム宣言』シリーズは各巻(全8巻)ごとに約20万人、『戦争論』6
5万人、同会長の西尾幹二氏著『国民の歴史』は1月末現在で約65万人の読
者がいます。つくる会の会員は約1万人ですが、存在を知り注目して居る人た
ちは、約20万人から65万人の潜在的会員を含んでいると言えます。世論が
政治を動かし始めている状況だと思うのです。
都市部開催のつくる会シンポジウムは、毎回 2000 人程を集めます。今年ある
地方での建国記念日の反対集会に参加した人数は 50 人(朝日新聞)でしたが、
イデオロギーに沿うものはごく少数でも記事に載せ、時代
の潮流と言える都合の悪い集会は無かったように無視する
........
のです。新聞は平気で情報操作します。新聞社だけの正義
なのです。本当のことを知りたければ、まず新聞から疑え
ばいいでしょう。
2月現在つくる会は中学の新しい歴史教科書と公民教科
書を作りました。やがて我々の目にも入ることでしょう。
いったん我々の心に火をつけたのですから、この炎は消す
ことはできないでしょう。いや、ますます大きくなっていくのではないでしょ
うか。一人一人が自発的に要求し日本人を取り戻しはじめ、JC全体が誇りや
愛国心(教科書周辺について参照)を世界標準にまで近づけようと考えるなら
ば、この国は必ず変わると信じます。
(14)シャローム、アロハ!
ハワイの「自己尊重教育」を紹介します。
現在の教科書や平和教育(「教科書の周辺について」を参照)、日本全体の空
気では、決していじめを減少できないでしょう。冒頭のアンケートを思い出し
てください。なぜなら自信が持てるほど、自分をも心の底で認めさせていない
し、「加害の面に視点をあてた」反戦平和主義では正義のために戦うことを否定
しているからです。いじめを解決できる能力を持たないのに、世界の平和を実
現できると思われますか? 「教室に平和が訪れていないのに、世界に平和が
訪れるでしょうか?」
過去日教組が打ち出し、日教組内部から否定された、すばらしい方法論があ
るのです。
27
ハワイのパブリックスクールでは一九八一年から、身近な視点に立った平和教育プロ
グラムを実践している。このプログラムは、次の八つのレッスンで構成されて
いる。
①人を大切にすることはどういうことであり、何をすることなのかを理解
する。
②自然の中の美しい調和を感じ──植物や動物など、生きとし生きるもの
すべてのも
のを尊重することを学ぶ。
③自分も他人も受け入れ、自分は他人とは違うユニークな人間だと言うこ
とをはっきり
認める。
④家族一人ひとりのユニークさと価値──家族の平和と調和
⑤人格的な力と暴力の違いを理解する。
⑥学校内の暴力の原因を見つけ、肯定的な自己イメージをつくりあげる。
⑦核兵器の影響について伝え、核装備に関する現在の政府の政策を理解す
る。
⑧私たちは同じ一つの地球家族に属しているという考え方を育て、私たち
一人ひとりがどのようにして世界の平和と調和に貢献できるかを考えて
みる。
ハワイのワイアナエ公立学校の教師たちが著した平和教育教材のテーマ
は「平和は
セルフ・エスティーム(自己尊重)から」で、”あとがき”
には、「すべての人や環境とのつながりを実感している人ならば、人を攻撃
することはない。自分たちの領土を増やしたり、他国を侵略する必要もな
い」と書かれている。
この平和教育プログラムは、戦争の根本原因は私たち自身の内部にある
と考えており、自己尊重、すなわち、自らのオンリーワンの価値観や存在
意義を自覚するところから始め、家庭、学校、地域から国家、世界のすべ
ての人々と調和して生きる道をじっくりと教えることに主眼をおいている
(『検証戦後教育』)
高橋氏は『平和教育のパラダイム転換』の中で、上記に示した内容について
実践的な方法を紹介しています。
①・・学校中に「シャローム(私の心の平和をあなたに)」と広められる、
そんな合い言葉なのです。
・・こうして平和と調和の精神を広めていくこと
28
ができるのです。「シャローム、アロハ、(あなたが大好きです)」・・・③
について「みんなユニークで大切な人」では、心と身体をリラックスさせ
るワークを通して、心と身体と魂の調和した自分を実感し、「信頼ゲーム」
(丸くなり、丸く囲んでいる子供たちが、円の中心にいて目を閉じあらゆ
る方向に倒れる子供を支えるゲーム)や相手の好きなところを出し合うワ
ークを通して、「自分も他人も受け入れる」ようになる。
沖縄での「平和教育のパラダイム転換」について、氏は紹介しています。平
良市立池間小学校の平和教育の一環である早朝5時からの体験教室では、船頭
が釣り方を指導し、そのときに次の俳句が生まれました。校内の石碑に刻まれ、
沖縄における新しい平和教育の試みを象徴しています。
サオが曲がる
かつおが空で鳥になる
生きる力がみなぎるような、楽しい平和教育。ここに本当の実践的な平和教
育がありそうな気がします。「平和教育」は平和教育で歴史教育と分けて、「歴
史教育」は平和教育と独立し、事実をありのままに伝える学術的姿勢を示し、
......
決して平和教育と称し無理して歪曲することなく、確かな資料(第一級資料)
に基づいた品格ある内容で構成すべきであると考えます。
【引用・参考文献】
朝日新聞朝刊 2 月5日付
『国民の歴史』西尾幹二著 産経新聞社
『真珠湾』G・モーゲンスタン著
錦正社
『戦争論』(小林よしのり著 幻冬舎)
『新ゴーマニズム宣言第6巻』
『國破れてマッカーサー』西 鋭夫著 p24 より
スイス『民間防衛』
『平和教育のパラダイム転換』 高橋史朗
『検証戦後教育』高橋史朗
29
3)
教科書の現状について
(1)「乳房切り残虐壁画」
右の挿し絵は、後ろ手に縛った女性の乳房を兵士が短刀
でえぐり血が流れている図である。兵士の足下には赤ん
坊が転がっている、とても陰惨な写真である。これは、
『1996 年春から使用された大阪書籍の小学校社会科教科
書と、1997 年春から使用開始された日本文教出版の中学
歴史教科書には、それぞれ、「日本軍の残虐さを批判する壁画」、「日本軍の残虐
行為を伝える中国の壁画」と言うキャプション付きで、華北地方の民家の壁を
塗りつぶして大きく描かれた・・壁画の写真が掲載されました。』(新しい歴史
ふみ
教科書をつくる会の会報『史 』平成 11 年5月号「教科書二社”乳房切り残虐
壁画”を削除」藤岡信勝副会長当時)。なんとこれが小学校の教科書に載ってい
たのである。文部省が認め、採択されていたのだ。
『教科書の本文には、「1937 年、ペキン(北京)の近くで日本軍と中国軍の
しょうとつがおこり、これがきっかけとなって、日中の全面戦争となりました。
日本軍は、中国各地に侵略し、多くの生命を奪うなど、中国の人に大きな被害
をあたえました。」(大阪書籍・小学校)などと書かれていました。教科書は、
日本軍がこの壁画のような残虐な行為を働いたと子供に信じ込ませていたので
す。・・・この壁画は、敵を悪魔のように描き出して敵意を煽る、「戦時プロパ
ガンダ」の一種なのです。・・・日の丸の腕章をつけて戦場で戦った日本兵はい
ない・・この絵を書いた学生は、日本兵を見たことがないに違いない。・・・人
を柱に縛り付けて乳房をえぐり取るという行為は、中国の元朝以来、歴代の王
朝が受け継いできた正規の刑罰のひとつなのです。』(同上)。つくる会として機
会あるごとに取り上げてこられた結果、平成 11 年1月異例なことだが、二社は
文部省に別の写真に差し替える申請をした。
このような掲載の根拠のない写真を、あたかも史実であるかのように教科書
に載せてきたことは、重大な問題ではないか。外部から何もいわなければ、今
も掲載されていただろう。
30
「律令の施行、重税に苦しむ農民の姿」
右 の 挿し絵は、『 中 学校歴史教科書 』
(東京書籍 p48)で1ページを使って「重
税に苦しむ農民」の見出しのもとに掲載さ
れている。我が国が中国の律令制度を参考
にしながら、初めて独自の律令体制を築き
あげた頃の様子を描いているのだが、適切
な記述であろうか?
『小学校社会』(教育出版)も同じよう
な内容で記述している。「下総の人々が税として運んでいるのは、わかめや布で
す。下総から都までは、歩いて約1ヶ月もかかります。秋の収穫を終えて、冬
にかけてこの荷物運びが始まりますが、都からの帰り道には、食べ物もとぼし
くなり病気になってたおれる人も多かったといいます」と記述し、右のような
想像図で悪い印象を与えようとしている。この内容の根拠となるものは唯一
しょくにほんぎ
『続 日 本 紀』である。「和銅5年(712)・・・諸国の役民が郷里に還
る日に、食料が欠乏し、多く帰路で飢えて、溝や谷に転落し、埋もれて死んで
いるといったことが少なくない。」(『続日本紀(上)』講談社学術文庫 宇治谷
猛 p127~128)。しかし、そのすぐ後には「国司らはよく気をつけて慈しみ養
い、程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば、とりあえ
ず埋葬し、その姓名を記録して、本人の戸籍のある国に報告せよ。」、つまり被
害も事実だろうが朝廷の民衆に対する思いやり・配慮・態度がここに如実に現
れているのであり、『続日本紀』が述べたい主題はそのことに違いないのだ。
国家として生まれたばかりでいろいろ試行錯誤する姿が、日本書紀にも続日
本紀にも現れている。『日本書紀(上)』(講談社学術文庫 宇治谷 猛 p231
おおみたから
~)仁徳天皇時代「民の竈の煙」では、むしろ民を百
姓として重んじ
ているのだ。とても有名な話だが、そういうことは教科書には載せない。知り
たい人は、他の担当者が次章の中で詳しく述べているので読者は期待して探し
て欲しい。
ここで示した「律令の施行、重税に苦しむ農民の姿」の場合、「史書」という
根拠をもとに記述しているので、最初の例よりまだましだと思うかもしれない。
初めて知った読者は、酷すぎるものを見た後だから、呆然としていてよく分か
らないかもしれない。だがここに教科書の自虐性を端的に象徴する手法がある
のだと言うことに、やがて気づかれるであろう。
31
史実を使って正反対に歪曲し貶める手法。しかも真実は誰も知らない、誰も
探さない、誰も騒がないと確信している。それでも罪に問はれない。
(2)「神話に残るGHQ文書
五十数年前のGHQ社会科教科書の検閲文書の中に、「『古事記』や『日本書紀』にまとめ
られた神話は、天皇と朝廷がこの国を支配するいわれを説明するための物語である」と述
べられているが、それが五十数年後の左の教科書(日本書籍・中学)にそのまま記載され
ている。
他にも「朝廷では、皇室や貴族などに伝えられていた神話や伝承・記録などを、天皇を中
心とした国の成り立ちとしてまとめなおし、『古事記』や『日本書紀』をつくった」(清水
書院・中学)と書かれている。『とりわけ日本書籍が見開き2ページを使って、「ダーウィ
ンの進化論」と「神様からはじまる人間の歴史」(その具体的な例として『旧約聖書』の「創
世記」と戦前の日本の小学校歴史教科書『初等科国史』の記紀神話を並べて引用)を比較
させ、進化論に軍配をあげ、生徒が神話を否定的に受け止めるように誘導しているのは問
題である。』
(「中学社会科・教科書の通信簿」①神話 高橋史朗教授 産経新聞社)。神話
は、古代の日本人の生活様式、文化、信仰、ものの考え方を唯一記した重要な記録である。
決して教科書の記述に見るような、天皇支配の正当性を押しつけるためだけのものとして
32
存在してはいない。ほとんどの教科書が上記のような記述に終始している。ここまで見て
きただけでも、あのセンター試験・日本史の設問に行き着くことが分かる。教科書が大き
な目標に掲げているものが何か。ああ、恐くて言えない。でも実は教科書問題は簡単なの
だ。
(3)教科書が何を子供たちに伝えようとしているか
教科書が何を
子 供 達 に力 を 入
れ て 教 えよ う と
しているのかは、
そ の ス ペー ス の
取 り 方 で分 か っ
てくる。1ページ
割 い て 教え よ う
とする事は何
か ? 一様 な 性
質を持っている。
左(教育出版・中
学)は、伊藤博文(韓国併合に最後まで反対していた)を暗殺した、韓国では
独立運動の英雄である安重根のことを大きく取り上げ韓国並みに扱っている。
それに比べ小さく取り扱われているのが初代総理大臣の伊藤博文である。これ
が日本の教科書の現状なのだ。少ない紙面を有効に使い、日本人として知って
おかねばならない人物はもっと別にいるのではないのか? 記述の仕方が逆で
はないのか? このような外国の英雄像の不自然な取り上げ方は、日本の子供た
ちに遠回しに罪悪感を与えている。
右は、「朝鮮の人々・・この人たちの銃口はだれに向けられているのでしょ
う。」(大阪書籍・中学)と記述されているが、ここにはアメリカが日本に行っ
た占領政策がそのままこの教科書に反映されている。負けた国はすべての汚名
が着せられる、それである。こういう形態の文章が多く使われていて、実にい
やらしい問いかけをして、決まってある方向に向かわせる。
この「日本の近代化とアジア」明治維新の章では、日本の近代化の夜明けは、
ご覧の通り朝鮮をはじめとするアジアの国々の迫害への第一歩だというわけだ。
いったいどこの教科書なのか。この写真が日本の近代化を象徴するものなの
か? しかも、この写真の出典は韓国国定教科書「高等学校 国史」、「抗日義
兵戦争の展開」の中で下の方に置かれた一枚である。日本では自国教科書(中
学)の近代史の扉絵に大きく格上げしたのだ。他国民が自国民に銃口を向けて
33
いる写真を、他国の教科書から引っ張ってきて扉絵にするなど、世界中でこん
なことをする国があるのか?
抗日義兵の写真は、韓国併合が、韓国人の気持ちを踏みにじって行われたこ
...
とを示す証拠として使用されていると思われるが、同じような日本の統治経験
そうしかいめい
を持った台湾の人は、皇民化政策「創 氏 改 名・神社参拝・日の丸掲揚・
日本語の常用」などについてどう思っていたのか?
今の日本の教科書につい
きんびれい
て、台湾出身の金 美 麗さんはこう語る。「朝鮮のことは知りませんが、台湾
に関して言えば、こうした記述は実情とかけ離れています。事実は身も心も本
気で日本人になりきろうと、自ら皇民化をすすめたということです。」(産経新
聞平成12年3月 20 日朝刊) 日の丸についても、シンプルでユニークであれ
ほどデザインのいい国旗はないとおっしゃっているらしい。日本人の筆者が赤
面してしまうほどだ。
こうぶんゆう
同じく台湾出身の黄
文
雄氏は、51年にわたる日本の統治時代につい
て、こう述べている。
『アヘンを吸引しなければ生きていけないほど過酷な環境だった・・後藤新
平が医療面と衛生面の改善に力を入れ、人が住める島に変えていったのだ。も
う一つの遺産は教育の普及である。・・90%以上が非識字者だったのである。と
ころが日本が日本語教育に力を入れた結果、終戦前年には日本語の識字率 71.3%
に達していた。そのおかげで戦後、日本からの資本導入や技術移転が容易にな
り、経済発展の基礎を作ることができたのである。さらに治安と法治社会が確
ひぞく
立された。
・・日本は苦労しながら匪 賊を武力鎮圧し、刑法や民法を制定して
近代的で安定した法治社会を作り上げた。これは画期的なことだった。という
のは、もともと中国社会は法の通用せぬ社会だからである。それが法治社会に
変革したことで近代社会が成立し、近代市民意識が成熟し、民族意識と国家意
識が生まれて「台湾人」が誕生したのである。こうした・・目に見える遺産以
ジップンチェンシン
上に重要なのが”精神的遺産”である。それはすなわち「日
本
精
神」、
言い換えれば「大和魂」となる。・・日本では軍国主義と結び付いて悪いイメー
ジになり、韓国だと侵略、搾取、略奪などの代名詞だ。しかし、台湾では・・
プラスイメージしかない。
・・よく台湾の年輩者は「私は日本精神をもっている
34
ぞ」と誇らしげに胸を張る。
・・・今日の台湾は 100 年間に及ぶ日本との経済的・
文化的な一体性により、
・・もう一つの九州、もう一つの四国と考えればいいの
である。こうした点が戦後50年以上にわたって日本を憎しみ続け、日本文化
を拒否し続けてきた韓国との根本的な違いであり、それが台湾と韓国の、経済
の健全さや強さの差につながっているのではないだろうか。』(『サピオ』
ジップンチェンシン
1998,12/9「大和魂=日
本
精
神は台湾の誇りであり原動力である」黄
文雄)
ジップン・チェンシンとは、勇気(武士道精神と玉砕精神)・勤勉・誠実・愛
国心などであると氏は言う。年輩の方たちの間では、今でも統治時代の名残で
ある和歌を作っており、『台湾万葉集』の名でまとめてもいる。また、台湾の檜
は日本の由緒ある神社仏閣の建物に使われていて、奈良県の橿原神宮や靖国神
そうとう
社の神門、東大寺大仏殿の垂木に使われている。今年3月の総
統選挙報道
では、きれいな日本語でインタビューに答える台湾の人が映っていた。反日な
ら決して日本語を使わないだろう。
反日感と親日感の差は、その国の国民性や歴史によるところが大きいと考え
る。教科書やマスコミの情報から、親日アジアの声はほとんど聞こえてこない。
歪曲してアジア全体が日本を恨んでいるとしか流さないからだ。
しんりゃく
しんこう
(4)「侵
略」と「侵
攻」書き分けについて
『元寇』は一様に「襲来」「攻めてきた」等と記述され、秀吉の朝鮮への出兵
は全て「侵略」。原爆投下後の日本へのソ連参戦は、「攻撃」「侵入」「宣戦」「進
撃」等になる。日清・日露は、「日本の大陸侵略」(日本書籍)、「・・・日本の
アジア侵略」(大阪書籍)。とすれば第二次世界大戦時の日本についての記述は、
想像がつくはずである。ぜひその目で確認して欲しい。日本の戦争は必ず、悪
のイメージで捉える。それなら立派な戦争をしたのはいったいどこの国か。ソ
連か? 中国か? アメリカか? イギリスか? 歴史教科書は、自虐と言わ
れる所以を、初めての読者にもわかりやすいほど提供してくれている。
教科書は終戦によって、日本もアジアも平和と自由を勝ち得たかのように記
述する。正しくない。当時の「力強い」日本人は、愛する人たちの誇りと自由
を、命を省みず守ろうとしたのだ。この真実を取り違えてはならない。
35
自虐教科書批判のきっかけとなった「従軍慰安婦問題」や、国際的話題の「南
京虐殺」は第3章で詳説したので参照されたい。
結論、アマチュアの筆者がこれほど簡単に指摘説明できるほどわかりやすい
自虐・歪曲の構成による教科書というものは、こうまでして書かないと意図す
る方向に持っていけないものなのだと考えられる。つまり、日本のある程度の
潔白さを逆に自虐教科書は証明しているのではないだろうか。
出典:
つくる会の会報『史』H11 年5月号「教科書二社”乳房切り残虐壁画”を削除」藤岡信勝
副会長当時)
写真転載する
東京書籍・中学校歴史教科書 p48 で1ページを使って「重税に苦しむ農民」挿し絵
『続日本紀(上)』講談社学術文庫
宇治谷 猛
『日本書紀(上)』(講談社学術文庫 宇治谷 猛
左の教科書(日本書籍・中学)挿し絵使用
「中学社会科・教科書の通信簿」①神話 高橋史朗教授 産経新聞社)
右は、「朝鮮の人々・・この人たちの銃口はだれに向けられているのでしょう。」(大阪書
籍・中学
挿し絵使用
左(教育出版・中学)挿し絵使用
産経新聞平成12年3月 20 日朝刊
ジップンチェンシン
『サピオ』1998,12/9「大和魂=日 本 精 神は台湾の誇りであり原動力である」黄文雄
参考資料
教科書が教えない歴史④
第2話 教科書問題の重要性
「我が子に伝える誇りある近代史」
この一冊が日本の未来を変え、子供たちを絶望から希望へと導く
本書を手にされた皆様へ:
どうかあらゆる先入観を一度棚上げにして、白紙の状態で本書をお読みください。最
36
終的なご判断は、皆様お一人お一人にお任せ致します。
教科書問題と言われても一般にはあまり知られておらず、初めて聞く方が多いかもし
れない。ただし、近年子供たちの心がすさんでおり、我々が子供の頃には考えられな
かった、凶悪と言うよりむしろ、「人命を軽視し罪悪感が欠如した犯罪」が毎日のように
起きていることは承知されているであろう。(平成12年5月現在のニュースによると、少
年による殺人、強盗などの凶悪犯罪は、ここ10年で2倍に急増したと言う。)
この稿では、教科書問題とは何か、なぜ現行の歴史教科書が子供たちに悪影響を与
えていると考えられるのか、そして我々大人たちが歴史を見直すことが如何に重要か
を考えてみたい。
教科書問題を理解するための若干の前提
1、
2、
3、
4、
5、
6、
7、
8、
9、
日本は戦争に負けたと言うこと。負けた方は、勝った方に正義を奪われるとい
うこと。これをまず理解する必要がある。忘れてはならないのは 「負けた方の
言論は弾圧されるのではなく、完全に抹殺される」のである。
現代の価値観を基準に、過去を裁くことが合理的と言えるだろうか?周囲の
環境、生活の豊さが全く異なる我々が、違った状況に置かれていた先祖の行
為を非難する事が公平と言えるのか?価値観とは時代や文化、宗教、国境な
どによって変化するものである。
教科書に書いてあるからと言って、それが「全て歴史的事実だとは限らない」
かもしれない。今までの常識を一度疑って、何が真実か自分自身で判断する
必要がある。
どこの国の国民も、自分たちに与えられた情報からしか物事の善悪を判断す
る事はできない。その情報が政府の意向でコントロールされていれば、国民
はそれに従った行動を取るというのは何も日本に限った事ではない。むしろこ
の傾向は、現在日本より周辺諸国の方が強い。
過去の出来事には「歴史的事実」と「政治的事実」があり、「政治的事実」は大
国の政治的思惑で後にいくらでも書きかえられる可能性がある。
中国とは何か、中華思想とは何か、日本人とは全く異なる彼らの常識や歴史、
文化を理解しないと教科書問題の裏側が理解できない。
教科書問題は教育問題である一方、日本のお金を如何に引き出すかと言う
外交あるいは経済問題である。
共産主義とはどういうものかについて、基本的な理解が必要である。
日本を侵略国と決め付けた「東京裁判」とは如何なる裁判であったのか、日本
37
人の常識として知っておく必要がある。
10、 戦争とは悲惨であり残酷なのもである。しかし、現在の日本の歴史教育は、日
本人が一方的な加害者であったように記述している為、子供たちに戦前戦中
の状況について誤った印象を与えている。この点で明らかにバランスを欠い
た物である。故にこの稿では、外国の加害行為や報復の事実も若干記述す
る。
実は教科書問題は、日本が戦争に負けた直後から始まった。それはGHQが、アメリ
カにだけ都合の良いように、「日本の歴史を書きかえる」ことを始めたからである。しか
し、我々が学生時代に学んだ教科書は、それほどひどかったという記憶も無い。今日
の教科書問題と呼ばれる事態は、昭和57年「侵略進出誤報事件」が起こり、当時の宮
沢官房長官が、「教科書検定基準に近隣諸国条項を加える」との談話を発表したこと
に端を発している。この談話以来、近隣諸国が公然と日本の内政に干渉し、教科書を
政治的意図でコントロールする事態が始まった。日本の子供たちを、頭が真っ白なう
ちから教科書を通じてマインドコントロールし、贖罪の意識を植え付ける。日本人の贖
罪の意識(あるいは劣等感と言っても良い)を利用して外交交渉で優位に立ち、思い
のままに日本人の税金を持ち出すことがまかり通る。誰もこれに対して異議を唱えられ
ない空気が漂っている。昨年(平成11年)、江沢民主席は 3,900 億円を鷲づかみにし、
有難うと言うどころかさんざん無礼な態度を日本国民の前に示して下さった。日本の住
専に 5,800 億円投入するのにあれだけ反対した大新聞が、どうして中国に対しては何
も言わないのだろう?
日本国内には、近隣諸国に有利にことが運ぶように協力を惜しまない勢力がある。マ
スコミや学会の中では多数派の共産主義、社会主義を信奉する人々である。この人々
は、ほぼ反日主義者と重なると言って良い。日本人でありながら日本の悪口を言い、
先祖を非難することで自分が正義の味方であると錯覚した人々である。なぜ共産主義
者が、近隣諸国(と言うより反日勢力)に手を貸すのかは、後の項で説明する。加えて
昨今、この運動に協力しているのが、保守政党の中にいるリベラルと称する実質、社
会主義者たちである。この流れが教科書問題を取り巻く現状認識の第一歩である。
日本は中国に対して、今日まで 2 兆 4 千億円という巨額の経済援助をしている。この
中には有償、無償の援助があるが、誰がこの不況時に我々中小企業に 30 年間無利
子、無担保で大金を貸してくれるだろうか?しかも、これがちゃんと返済されるかどうか
保証は無い。むしろ昨今、中国が歴史認識の問題を持ち出し、日本に脅しとも取れる
ような非難を繰り返しているのは、戦後補償と借りたお金を帳消しにする前触れとも受
け取れる。サンフランシスコ講和条約で、戦勝国の中には賠償を放棄した国もあると言
38
うが、逆に日本も中国などに残した莫大な在外資産を放棄させられている。ちなみに
当時、台湾には40万人、満州には100万人以上の日本人が住んでおり、その人達が
中国に残してきた個人、企業資産全てを没収したのだから大変な額であろう。その上、
今日まで2兆4千億円の経済援助である。韓国に対しても、昭和40(1965)年の日韓
基本条約で、当時、有償無償あわせて6億ドル(注1)という巨額の「賠償金」を支払っ
て示談にしている。当時日本の外貨準備高は18億ドルであり、そこから6億ドルを出
すと言うのは、まさに手持ち資金の1/3 にあたり、賠償の相手は韓国だけではないこと
を考えれば、当時の日本に取っても大変な出費であった。一方、韓国の外貨準備高
は当時、1億3千万ドルであり、貿易赤字が手持ち外貨を上回る2億9千万ドルと言う
「火の車」であった。故に韓国経済が、いかに日本からの6億ドルの資金を必要として
いたかは想像に難くない。事実、当時の韓国政府の要人が必死になってこの条約をま
とめようと日本に働きかけている。(注2)
これら日本からの協力金が、その後の中国経済の驚異的発展、あるいは韓国経済発
展の起爆剤となったことは疑いを入れない。
(注1)
日本が韓国に支払った「賠償金」(正確には韓国とは戦争をしていない為、戦
時賠償とは言えない)は、無償3億ドル、長期低利借款2億ドル、その他に民間ベ
ースで1億ドルの合計6億ドル。
この時、日韓で協定を結び、これによって韓国の対日請求権は全て消滅する事
が確認されている。この請求権には、「韓国の対日請求権要綱」に基づく全ての
請求が含まれており、1965年の時点で両国の戦後補償は完全に決着した。こ
れを今さら覆すと言うのであれば、韓国は国際条約を遵守しない国ということにな
ろう。
如何なるケースでも、「示談」にすると言う場合、双方が100%満足だということは
ありえないだろう。しかし、同じテーブルについて署名をし、握手をした事実は尊
重されなければならない。一度示談にした問題を、後で貰いが少なかったからと
蒸し返す事は通る話ではない。
(注2)
反日政策一辺倒の李承晩大統領のもとでは、不正が横行し、経済成長率も人
口増加率を下回ったと言う。国民所得は世界最低水準であり、朝鮮戦争の休戦
以降、50年代末にはアメリカの援助削減によって、それを頼りに成長をしてきた
産業が大打撃を受け、韓国経済は危機に瀕していた。あらたに就任した朴正熙
大統領にとっては日韓国交回復が悲願であり、金鐘泌首相を日本に派遣して政
39
府要人や各界と事前交渉に当たらせた。1961年には、朴正熙大統領自らが来
日し日本に働きかけている。ちなみに日本側代表は、大平正芳外務大臣、池田
勇人首相であった。
ところが中国は、一党独裁の共産主義国であり、情報は国家の管理下にある(注)。
実際、ODA に関わる人達によれば、中国政府は日本の協力によってこの橋ができたと
か、この病院が建てられたということは一切言わないそうである。そして日本の閣僚の
「妄言」ばかりを誇張して伝えるものだから、中国国民からは、「日本は一度も謝罪しな
いし補償もしていない」と言う非難の声が上がる。中国政府は、中国国民の怨嗟の声
を政治圧力として利用し、それを日本のマスコミが媒介して日本国民に投げつける。こ
れでは、日本人が、この不況下に「身銭を切って」差し出している税金が、なんら「日本
の為に有効に使われていない」ことになる。こんな無益なお金の使われ方をするくらい
なら、不況下に一家心中する追い詰められた中小企業経営者に幾らかづつでも分け
てあげたほうがよっぽど良いと思うが、如何だろうか?少なくともそれで救われる命があ
るのなら。
(注)
日本人には中国に対する正しい理解が不足しているのではないか?昨今、日
本では子供を産むか産まないかは「女性の権利」と言っている。しかし、中国では
「子供を産むか産まないかは国家が決める」(一人っ子政策)のである。この町で、
「今年妊娠して良いのは誰と誰」ということを個人の意思ではなく「国家が決める」
のである。このため貧しい農村では人手が欲しいので制度に反して子供が出きる
と「戸籍に載せない」のだと言う。戸籍に乗らない子供は教育や社会保障が受け
られない。皮肉な事に高額な罰金を払える金持ちは、法の網をかいくぐる事が出
きる。金で何でも解決できる点がなんとも中国的である。
韓国では、受け取ったお金は何ら国民に届いていないと言う「詭弁」を用いる者もあ
る。しかし、韓国政府が「賠償金」を受け取ったのは事実であり、それが国民の手に届
くか届かないかは、韓国の内政問題であり何ら日本の責任ではない。ちなみに日本の
援助が感謝されないシステムは、韓国においても同様である。例えば、一昨年(平成1
0年)以来の韓国の経済危機に際して、IMFから150億ドルの融資を受けたことにより
韓国経済は危機を脱する事ができた。しかし、この150億ドルの実に2/3にあたる100
億ドルは、日本国民の税金から出されたものである。これがIMFの名に隠されていっ
40
こうに評価されないようになっている。ご存知の通り日本だって決して余裕があるわけ
ではない。
戦後補償の章で述べた通り、戦後補償とは国家間で行うのが通例でる。唯一例外的
にドイツは、「国家として」かくも恐るべきホロコーストを行ったことを認められないが故
に、ナチスという政党が引き起こした「個人の犯罪として」、被害者個人に補償すること
にしたのである。その代わりドイツは、国家として一切の補償をしていない。したがって、
「ドイツはえらいが、日本の補償は不充分だ」と言う主張は間違っている。あるいは日
本国民を故意に惑わすものである。
2) 日本を取り巻く危機
あるアメリカ人は、村山総理がアジア諸国を謝罪して歩いている事を聞いて、「なん
で日本が 50 年も前のことを、いまさら謝っているのか理解できない」と言った。(同様の
言は、謝罪されたアジアの首脳からも出ている。)そもそも村山(社会党)内閣ができた
のは、平成5年、一部の自民党議員が党を割って新生党を結成し、その為自民党が
下野したからである。返り咲きを狙った自民党は、社会党と手を組むという離れ業をや
った。社会党は、与党になったとたん自衛隊、安保を容認せざるを得なくなり、革新政
党としての性格を埋没しかかった。その為、何とか社会党の独自色を出したくて、おり
しも戦後 50 年にあたり、「謝罪と補償をする」かのように受け取れる愚かな政策を打ち
出した。自民党は、社会党に政権離脱されては困るのでこの要求を飲まざるを得なか
った。
これが、戦後はすでに終わったと思っていた人達にまで、金銭的欲望の火をつけて
しまった。現在ではアジア諸国だけではなく、欧米諸国からも戦後補償を要求される
事態に至っている。特に平成11(1999)年7月、アメリカ、カリフォルニア州議会で、
「第二次大戦中の強制労働について2010年まで損害賠償の請求ができる」と定める
法案が成立した。これに基づいて、現在、日本企業をターゲットにした損害賠償訴訟
が次々と準備されている。戦後50年以上たって、どうしていまさらこのような法案がカリ
フォルニア州議会で成立したかと言うと、法案成立の背景には国際的な中国人の組織
が、「南京虐殺」に基づく日本の非道を根拠に世界各国に働きかけているからだと言う。
欧米諸国からの「戦時中の捕虜に対する強制労働」に基づく日本企業への損害賠償
請求額は、100兆円を超えるという試算もある。このままでは、日本経済はますます衰
退するであろう。少なくとも更なる不況とリストラの為、新たな犠牲者が出る日は遠くな
いかもしれない。
41
「何を馬鹿な」と思われるかもしれないが、アメリカを甘く見るのは間違いである。マク
ドナルドのコーヒーが、ドライブスルーでこぼれただけで、賠償金 1 億円の判決が下る
国である。物事は、自分を基準に考えていると大変な墓穴を掘る。しかも原告の裏に
は、以前多数のドイツ系企業から同様の訴訟を起こす事で、多額の「和解金」をせしめ
た訴訟のプロがついている。アメリカは日本の想像を絶する訴訟社会であり、訴訟で
金儲けを考える者が多数いるから厄介なのだ。
しかし、これは「訴えていただければ、なんらかの補償を検討します」のようなことを言
った、日本政府が自ら掘った墓穴である。謝れば謝るほど、無制限に要求が突きつけ
られ、もはや日本は片足を底無し沼に踏み入れたと言ってよい。逆に日本は、戦時中
外国から受けた日本兵捕虜に対する虐待や民間人の大量虐殺に対し、諸外国に何ら
謝罪も補償も求めていない。この仕組みは教科書問題の根幹であるから後で説明す
る。
政治家はあてにならない。もとはと言えば、「社会党」が独自色を出すために全国民
の利益が犠牲にされたのである。社会党は、今や国民に見放され見る影もないが、彼
らの残した禍根は長く日本国民を苦しめるだろう。彼ら政治家は、以下の理由で日本
国の政治家としての資格が無い。
1、
日本の国、および日本国民を本気で護ろうという決意が無い。
2、
歴史に関する無知。筆者はこの件で「無知は罪悪」だと知った。
3、
国際感覚、ないしは国際的な経験の欠如。言いかえれば、世界の荒波にもま
れていない「井の中の蛙」である。井の中の蛙であるが故に、井の中の常識でしか
物が考えられない。それは昨日まで、「周囲の状況が時代と共にどんなに変化して
も目をつぶり、平和憲法にすがってさえいれば、平和でいられる」と盲信する人達
が、急に責任ある立場になってしまったためであり、幾分かは同情の余地もある。
むしろ党利党略で動いた一部の保守政治家こそ、もっと「国民の利益」を守ること
に視野を向けるべきだったのではないか?
3) 「歴史認識を共有する」ということの危うさ
立場が違えば、ものの見え方が変わるのは当たり前である。例えば、西部劇では白
人はヒーローであり正義の開拓者、インデアンは残酷で非文明的であり、最後にはコ
テンコテンにやられる悪者である。しかし、これは白人から見た歴史観に過ぎず、イン
デアンの側から見れば、白人は先祖伝来の土地を奪いに来た侵略者である。ヒーロー
42
でも正義でも何でもない。立場が違えば見方が違うのは、むしろ当たり前のことである。
しかし、お互いの主義主張が異なることを認識しつつも互いに尊重しあう、あるいは礼
節をもってお付き合いすることは充分可能である。中国や韓国が、「歴史認識を共有
せよ」と言う意味は、彼らと日本がお互いに譲り合って共通の歴史認識を「新たに作る」
訳ではなく、
日本が100%譲歩して彼らの歴史認識を受け入れ、彼らに服従することに他ならない。
その目的は、言わなくてもお分かりであろう。
4) 20世紀とは如何なる世紀であったのか
20世紀は、共産主義が一時は世界を制圧するがごとき勢いで猛威を振るった世紀
であった。共産主義は、単なる政治形態の一つではなく、むしろ新宗教の一種と見る
ことができる。その起源は、フランス革命の理論的支柱となったルソーであり(注)、そ
の妄想性、破壊性は、ロベスピエールによるギロチンの恐怖政治(処刑された者2万人、
革命全体による犠牲者は200万人)を生み出した。さらにこの新宗教は、サン=シモン、
ヘーゲル、フォイエルバッハらの理論を取り入れて補強され、マルクス、エンゲルスお
よびレーニンにより、「ユダヤ教」の教義やロシア正教の「メシアニズム」を加味して完成
された。
共産主義者は、自らの宗教を唯一絶対の真の宗教とみなすがゆえに、他のいかなる
精神世界も決定的に否定する。国民を信者と非信者に分け、異端を破門にしたり極刑
に処する。伝道者として、レーニン、スターリン、毛沢東、ポルポト、チャウセスク他がい
る。
(注)デカルトについて
筆者はいわゆる社会主義的人間観の源流として、デカルトにみられる「個人主
義」をも視野に入れるべきと考える。デカルトは「方法序説」の中で「自己の肉体
を含む全ての世界は幻影と仮定する事ができるが、今ここにそれを疑っている自
分の理性が存在することは否定できない」とし、自我を思索の第一原理とした。リ
ベラルを自認する人々が、「我思うゆえに我あり」を近代的自我の発見と呼び、デ
カルトを近代哲学の父と賞賛する所以である。
しかし見方によっては、デカルトにはじまる西欧近代の「自己中心主義・理性万
能主義」的な誤った人間観が、共産主義、社会主義よりも「根深い現代日本の病
巣」となっている気がしてならない。なぜならば、人間は「我思う」と思索する以前
から、先祖の生命を受け継いで存在し、天地の恵みと親の愛情に育てられてい
43
るからである。どんな天才であっても、人間各自の判断そのものは自然環境や社
会での経験を多分に享けて訓練されるものである。自己の理性だけを絶対視し、
演繹の出発点とするデカルトの「合理論」には、人間を社会環境や過去の経験
(歴史と呼んでも良い)から遊離させ、また生命の源である先祖から隔離する構
造が、遺伝子のレベルに組みこまれていると筆者は考える。
デカルトによる浅薄な人間観は、後にマルクス主義の「人間存在を利己的・経
済的なもの」としか見ない人間観や、前衛党の独裁を至上とする左翼エリート主
義に色濃く投影されている。この人間観の延長として、戦後日本の教育では「個
人の権利」や「極端な平等主義」ばかりが強調され、「公共心」や「国家観」、「社
会の絆」、あるいは「親子や師弟の絆」までもこれに敵対するものとして追いやら
れてきた。特に学校教育においては、歴史教育と道徳教育において顕著な問題
があり、現代社会のはらむ矛盾は「教科書問題」に最高度に集約されていると考
えられる。
共産主義は、大衆主義であるがゆえに、大衆を扇動し、大衆の代表者を「騙る」特定
の指導者が、「人民の(一般)意志」と称して、恐るべき独裁を行うことを共通の特徴と
する。その結果、強制労働収容所と処刑と圧政の組合わせにより、何千万と言う無実
の人々を抹殺するという狂気を世界中で繰り返してきた。「いかなる共産主義体制も超
独裁」であり、共産主義独裁者の犯した犯罪は、いわゆる通常の戦争犯罪の比ではな
い。スターリンの粛清や毛沢東の文化大革命などは、自分の意に添わない「自国民に
対して」、「非戦闘時に」行われたのである。彼らは共産主義の運用を誤ったのではな
く、神に代わる新宗教の忠実な実践の結果、当然の帰結として恐るべき犯罪を実行し
たのである。
5)日本の行った戦争とは結局何であったのか
マルクスレーニン主義は、共産主義の拡大に貢献するいかなる侵略も「正義」であり
「聖なる戦争」であると定義している。共産主義がロシアから満州、朝鮮を通じて南下
膨張をもくろみ、中国においても毛沢東に指導された共産党が、蒋介石の国民党軍と
内戦を繰り広げつつも(中国内戦の犠牲者は100万人を超えると言う)成長しつつあっ
た状況を認識しなければ、我々の祖先が抱いた「危機感」は到底理解できない。
明治新政府が驚くほどスムーズに誕生したのは、欧米列強の侵略に対する「危機
感」が、国を一つにしたからである。明治時代に日本がとった国策は、めざましい東方
44
膨張をつづけたロシアの南下防止と黒船以来の米英等西欧列強と対等に渡り合う為、
まず急速に国家体力(経済・軍事)を強化する事に比重が置かれていた。当時の日本
には、隣国中国が欧米列強に侵食される有り様をまのあたりにし、「もし亜細亜の地図
から中国が消えたなら、日本以外の世界は全て白人の所有に帰する。その次は日本
である。」という危機感があった。それを防ぐには、中国に改革をもとめ日中が共同で
強い亜細亜を作る必要があるという考えがあった。 (小寺謙吉著、「大亜細亜主義論」)
大正6(1917)年、レーニンに指導されたロシア革命の成功は、列国に強い脅威を与
えた。新政権に反対するチェコスロバキア軍がシベリアに追い詰められた為、日本は
大正7(1918)年8月、米英と共にシベリアに出兵するが、このあたりから日本の対ロシ
ア政策は、「防共」の性格を持つようになる。
(注) 尼港(ニコライエフスク港)事件について
現行の歴史教科書には、史実の一面しか伝えず結果として子供たちに偏った
歴史観を植え付ける記述が多い。その典型の一つがシベリア出兵に関する記述
である。「中学社会 歴史」(教育出版)には、「世界をゆるがした10日間」と副題を
つけてロシア革命を賛美する一方、「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合
国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった」(下線筆者)と
45
説明し、日本の立場を一方的に悪く子供たちに教えている。このような説明だけ
を聞いていれば、日本は全くの悪者にしか思われない。そしてそもそもなぜ各国
がシベリアに派兵したのか、またなぜ日本がそこに軍を駐留させる必要があった
のか、そして日本居留民が多数虐殺された尼港事件について、全く説明が無い。
尼港事件における我が軍の奮戦は、書けばそれだけで一冊の本になるほどだが、
誌面の制約上要点のみ記述する。
(大正10年、半島新聞社がまとめた「大戦終結世界改造史」の中にこの事件に関
する陸海軍全戦死者376名の名簿と、共産パルチザンによって殺害された700
名近い日本人居留民に関する詳しい記録がある。)
まず現行教科書における根本的な事実誤認であるが、「共産主義革命によっ
てロシア全体が直ちに自由と希望に満ちた国家になった」かのような理解は全く
事実に反する。現実には、ロシア政府が流血の革命によって転覆し、地方に至
ってはまさに無政府状態が出現した。多数の囚人が送られていたシベリアでは、
これらが牢から出され、凶悪な共産パルチザンを形成するに至った。同方面では、
まだ反革命派であるロシア極東総督ロザノフ中将始めコルチャック提督などが、
革命派勢力(共産パルチザン)と戦っていた。革命派は外国勢力追放を叫び各地
で外国人の襲撃事件を起こした。
日本側からすれば、革命派に対抗する「友好穏健な政権」がシベリアに生まれ
る事は、極東の平和と日本居留民の安全みならず、日本の安全を守る利益につ
ながるものであった。地理上シベリアは、北海道樺太に直結しているからである。
残念ながら大正9年、オムスクにあった穏健派政府は共産過激派の攻撃を受
けて崩壊し、これに伴ってアメリカ、イギリスが撤兵してしまった。そのため均衡を
保っていた、日本の防衛線が極度の戦力不足となり、補充の為やむなく第13師
団を派兵せざるを得なくなったのがシベリア出兵の実状である。
大正9(1920)年1月29日、ロシア極東の尼港(ニコライエフスク)市(樺太とシ
ベリアとの接点にあたる)は、トリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザ
ンに包囲された。当時、ここには約1万5千人のロシア人一般市民、約1000人の
中国人、約500人の朝鮮人、及び約700人の日本人が住んでいた。またここを
守備していた日本軍は、石川少佐率いる2個中隊と無線電信隊の40名、それか
ら反革命派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ぶ)合計しても約500名の
みであった。共産パルチザンは、策を用いて和睦すると見せかけ市内に入るや
いなや、このロシア白衛軍の将兵を捕らえて殺害し、合わせて一般市民の中から
「有産知識階級」とユダヤ人を選んで虐殺をはじめた。共産パルチザンは、黒龍
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江の結氷を破り、有産知識階級を殲滅する為、銃剣で突き刺して次々と凍る流
れに人々を放り込んだ。これによって「有産知識階級」とユダヤ人約2,500人が
惨殺された。我が日本守備隊は、これを黙視できぬとして共産パルチザンに抗
議したが入れられず、敵は逆に守備隊の武装解除を要求してきた。敵は多勢を
もって日本守備隊を侮蔑していた。仮に武装解除に応じても、無抵抗で虐殺さ
れるのは誰の目にも明らかであった。やむなく石川少佐以下、約400名の日本
守備隊と在留邦人50名の義勇軍は、生死をかけて、数の上では10倍に勝る共
産パルチザンに対して市街戦の火ぶたを切った。この戦闘は筆舌に尽くしがた
い。追い詰められた日本側は、石田領事以下数十人が燃え上がる日本領事館と
運命を共にした。日本守備隊は、河本中尉以下121人の兵士が3月17日まで頑
強に抵抗したが、敵は再び策を労して「山田旅団長の停戦命令」を偽造した。河
本中尉は、「停戦命令に従わなかった事が他日国際上の問題となることを心配
し」これを受け入れた。ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えら
れず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミ
ラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺され
た。残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民であ
る)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。この惨殺には、中国人と朝鮮人も
加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き
金歯を奪って行ったと言う。以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日
本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の
手帳にある戦闘記録による。
以上のとおり、日本守備隊はいたずらに撤退を引き伸ばしたのではない。撤退
するにも撤退できなかったのである。冬のシベリアは海が凍る為、小樽からの救
援部隊も容易に近づけず、陸上からの救援も40日を要したと言う。
これだけ多数の日本人が共産パルチザンに殺害された事件は、当時「一大国
辱」として全国諸新聞に報道されていたにもかかわらず、現行の歴史教科書がこ
の事件に全く触れずに日本の立場のみを悪くするような記述に終始するのは、
教科書の執筆者が「共産主義革命にひとかたならぬ共感、あるいは好意を抱い
ている」からではないだろうか。
前述の通り、当時派兵したのは日本だけでなく、各国が共産主義の拡大に脅
威を感じていたのであり、どこの政府も現行教科書が記述するような「共産主義
革命」を歓迎していない。事実、当時レーニンの過激派政府は、列国のいずれ
からも承認されていない。日本は、米英と比べてロシアに対する近さが違う。シベ
リアの赤化は日本本土に対する直接的脅威であった。日本の安全を守ろうとした
47
先祖の行為を、子孫である我々がなぜ責めるのか?
歴史とはこのように、「立場が違えばまったく正反対の見方」ができるものであ
る。
日本の子供達が学ぶ日本の教科書は、全くと言って良いほど日本の立場で書か
れていない。
昭和に入ると「防共の自衛的国策」は一層顕著となる。加えて、「欧米列強(白人)の
支配からアジアを解放し、日本を中心としたアジア人の共栄社会を作る」という二つ目
の意義が、当時の日本の側から見れば確実に存在した。逆にアメリカこそ、西へ西へ
と領土的欲望を拡大してきた歴史を持ち、その勢いで太平洋の島々を次々と植民地と
化し、フィリピンにまで至った第一級の侵略国である。アメリカは、たまたま南北戦争と
いう内戦の為に、他のヨーロッパ列強よりも中国の分割争いに出遅れた。その為時を
同じくして、太平洋を挟んで頭角を顕わしつつあった黄色人種の国、日本が邪魔で仕
方がなくなったのである。アメリカは、当時も今も「自国の国益を最優先させる自己中
心的な国」に変わりなく、むしろアメリカのほうが、日本を政治的に孤立させ、経済的に
封鎖し、人種的に差別することによって戦争に追い込んだと言う証拠は、いくらでも挙
げることができる。(注)
(注)
オレンジ計画(対日戦争に関するシュミレーションは、日露戦争の直後からすで
に準備されていた)、土地所有禁止法、排日移民法、アメリカの工作による日英
同盟の破棄、ABCD 包囲網など。最後には、ハルノートのような日本がとても飲め
ない無理難題をわざと突きつけた。こんなものを突きつけられたら、バチカンのよ
うな小国でさえ銃を取って立ち上がっただろうと言われる。ちなみにハルノートに
ついて、東京裁判における当時の東郷外相の宣誓供述書にこうある。
「我々は、アメリカは明らかに平和解決の為の合意に達する望みも意思も持っ
ていないと感じた。けだしこの文章は、平和の代償として日本がアメリカの立場に
全面的に降伏する事を要求するものであることは、我々にも明らかであり、アメリ
カ側にも明らかであったに違いない。(中略)この挑戦に対抗し、我々自らを護る
唯一の残された道は、戦争であった。」
48
終戦後まもなく(1947 年)出版された「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責
任」によると、ワシントン中枢から現地司令官宛ての電報で、「先に仕掛けさせよ、それ
まで手出しはするな」と記された公文書が存在する。また、1940 年 10 月 7 日の日付の
ある、海軍情報部極東課長の報告書に、「日本を公然たる戦争行為に誘い込む」とあ
り、結果から見るとアメリカの方こそ、日本を戦争に巻きこむ機会を覗っていたことは、
明らかである。こういう事実を書けない事が、「アメリカの作った」日本の教科書の限界
であろう。この点も教科書問題の重要なポイントのひとつである。(注)
(注)
日中戦争についても、これに類する誤解がある。一般には、日本が中国を侵略
...
したとしか理解されていないのではないか。一昔前の歴史解説書には、「日本の
軍部が、盧溝橋(北京の郊外)における軍事衝突を利用して、戦線を中国全土
に拡大した」と異口同音に書いてある。この銃弾は、「日本側から発射された」と
言うのが戦後の定説であった。理由は、後に触れるが「支那事変は、全て日本軍
の陰謀で起こされた」とする判決が東京裁判で下ったからである。しかし、真相は
全く違う事が、さまざまな資料から明らかにっており、定説はすでに入れ替わった
と言って良い。
(田原総一郎氏のような反体制派?でさえ、「現在では、中国側の発砲ということ
が定着している」と述べている。)
詳細は他の章に譲るが、昭和 12 年 7 月 7 日午後 10 時、最初数発の銃弾が、
盧溝橋付近に駐屯していた日本軍の中隊に撃ち込まれた。(正式な部隊名は、
支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊 、中隊長、清水節郎大尉。)この
時日本側は、中国側に軍使を派遣することで全く応戦していない。翌 8 日午前 4
時に再び発砲があったが、この時も事件の拡大を恐れた日本側は直ちに応戦し
ていない。すると午前 5 時、中国側が本格的に攻撃を開始したというのが真相で
ある。少なくとも、日本側は、最初に攻撃を受けてから 6 時間以上も一発も応射し
ていない。しかも、両軍衝突後、わずか 4 日目に現地で協定を結び事態を収拾
している。
日本側が仕掛けたものでは無いと言うもう一つの根拠は、当時北京周辺に駐留
していた日本軍は 5 千人程度であり、しかもその配置は盧溝橋に備えたものでは
なかった。これに対して、宋哲元率いる中国第29軍は、少なくともその10倍の人
員を擁しており、日本側があらかじめ計画して発砲事件を起こしたとは、とても考
えにくいことである。
(にもかかわらず、東京裁判で、一方的に日本に責任を転嫁する結論が出され
49
たのは、どのような根拠があったのだろう?また、戦後の学者が、この判決を好ん
で流用したのはなぜだろうか?読者の皆さんにもお考え頂きたい。)
盧溝橋の軍事衝突を日中の全面戦争に拡大したのは、実は蒋介石である。7
月 7 日、当初、北支(北京を中心とする中国北部)で起こった小規模な軍事衝突
は、8 月 13 日、蒋介石が数万の国民党軍を盧溝橋と全く関係無い上海に集結さ
せ、日本人租界にいた居留民を包囲したことから中支(上海、南京を中心とする
中国中央部)に全面展開することとなった。当時上海には、日本だけでなく欧米
諸国がそれぞれ租界を持ち、その中で居留を認められており(フランス租界が最
も高級地)、自国民を護る軍隊の駐留も認められていた(最大の居留者はアメリ
カ人で居留民約 4000 人)。蒋介石には、敢えて戦場を上海に移すことにより、欧
米諸国の関心を呼ぶ意図があったと推測される。中国側の記録では、日本人居
留区を包囲した国民党軍兵士は 8 万人とされており、攻撃を受けた日本の駐留
部隊は、当初わずか 3000 人の海軍陸戦隊のみで充分な装備がなかった(注)。
そのため内地に援軍を求めざるを得なかったのである。(読者は、8万人の中国
軍に包囲され殲滅される立場に立たされた人々の恐怖を理解しなければならな
い。)
故に、当初北支事変と呼ばれた紛争も、支那事変(すなわち全面戦争)と改称せ
ざるを得なくなったのが実情である。蒋介石は、上海に戦線を拡大するにあたり、
日本と全面戦争を構える事を公言しており、(「抗戦中の全将兵に告げる書」他
による)したがって日中の全面戦争は、日本の軍部だけが好んで構えた事では
ないことを記憶されたい。
(注)
上海戦に参加した中国軍(国民党軍)は、チェコ製機関銃、ドイツ製高射砲、迫
撃砲、野砲、重砲等の兵器と砲弾を豊富に持っており、日本将兵の証言にも「中
国兵の去った後にはザルで掬えるほどの弾が落ちていた」とある。
チャーチルの度重なる参戦要請に対し、ルーズベルトは、議会の決定が無ければ動
くに動けなかった。ところが、当時アメリカの参戦に対する世論は、あまり盛り上がって
はいなかった。そこで、日本を追い詰め「日本から戦争をしかけさせる」ようにすれば、
アメリカの世論はいやがおうでも盛り上がると考えたのである。運命のその日、日本は
真珠湾を「騙まし討ち」する形となってしまい(注)、「卑怯なジャップの騙まし討ち」とい
う一言で、たちまちアメリカの世論は沸騰した。これでアメリカは、ヨーロッパ戦線に遅
50
れること2年3ヶ月にしてようやく第二次大戦に参戦した。
逆に日本は、昭和16年 12 月の開戦ぎりぎりまで外交ルートによる和平を模索してい
た。しかし、今日の資料によれば、日本側の苦悩は「最初から無駄であった」と言わざ
るを得ない。しかしそんなことは当時の人達にはわかるはずも無かったのである。
(注)
日本は最初から、「騙まし討ち」を狙ったのではない。本国から最後通牒の電文
が送られた前夜(現地時間12月6日夜)、ワシントンの日本大使館では、寺崎英
成書記官(後の「昭和天皇独白録」記録者)の送別会が行われた。その後、電信
員は全て職務に戻り、午後9時半から翌7日深夜にかけて、対米覚え書きの13
部まで解読した。14部がまだ来ていなかったので、当直員を残して各自宿舎に
帰った。7日朝7時から8時にかけて数通電報が配達された為、直ちに電信員を
呼集したが、宿舎に帰った直後の為すぐに集まらなかった。午前10時頃から「至
急」とあるものから解読したが、大臣、局長からの慰労電、前の電文の訂正が先
に解読され、肝心の午後1時までにアメリカ側に手渡すべき電文は、午前11時
になってやっと解読された。当時タイプの打てる高等官職員は、奥村書記官だけ
で、度重なる修正と時間が差し迫ったあせりの為ミスタイプが続出し、午後1時の
会見に間に合わない事になった。
驚いた事に、そこで来栖、野村両大使は、午後1時の会見に遅れる旨をアメリ
カ側に連絡した。結局午後2時5分に国務省についたが15分待たされて、2時2
0分にようやく覚書を手渡した。このため、真珠湾に第一次攻撃隊が突入した午
後1時25分から約1時間遅れてしまったと言われている。
なぜ、このような危機迫る時に、(機密保持の為と言われるが)大使館に充分な
要員がおらず、また大使館内に危機感がなかったのだろうか?
それから、この一件は昨今、大使館員の怠慢とだけ言われている面があるが、東
京裁判で述べられた証言によれば、本省からの打電の仕方も悪いと言わざるを
得ない。それにしても、時間が無いのならなぜとにかく国務省に出向いて口頭で
説明し、できた分だけでもアメリカ側に手渡さなかったのか?最後通牒は、英文
で書かねばならないと言う法律は無いはずである。むしろ、指定された期限に間
に合わない方がよほど重大な問題である。この遅れによって、日本は永久に「卑
怯な騙まし討ち」のレッテルを貼られ、アメリカに「正義の戦争」と言う大義名分を
与えてしまった。
アメリカではこの日を「A Day of Infamy」と言う。「醜行の日」、または「国辱の日」と
でも訳すのが適当だろうか?
51
このミスを犯した大使館員たちは、戦後何らのとがめも受けずに栄達を遂げて
いる。それにしても、来栖、野村両大使が到着した2時5分には、すでに真珠湾
が攻撃された事はアメリカ側に伝わっていたはずであり、さらに15分待たせたの
は、通告が一時間くらい遅れた事にしないと、騙まし討ちと呼ぶには充分でなか
ったためであろうか?
(上記は、東京裁判における結城一等書記官の証言に基づいている。別の説に、
送別会のあと実は大使館員は全員帰ってしまい、翌朝出勤した海軍武官が玄関
に突っ込まれた電文の束を見つけ、大使館員に連絡したと言う説がある。電文は、
専門員でなければ解読できない。いずれにしても、海軍の機動部隊がハワイに
迫る緊迫した状況下に大使館員によるパーティーが開かれていたことは事実で
あり、この不手際について責任が明確にされていない事も事実である。)
真珠湾の鮮やかな奇襲作戦は、いたくアメリカのプライドを傷つけた。このため
いつまでも、「リメンバーパールハーバー」と言われている。ちなみに、大東亜戦
争(太平洋戦争)の攻撃開始は、陸軍のマレー上陸作戦の方が時間的に早く、
しかも英国に対して最後通牒も何も渡していない。しかし英国が、それを後日「マ
レーの騙まし討ち」と呼んだ事はない。この事からも、当時最後通牒や宣戦布告
が戦争開始にあたってさして重要な問題とされていなかった事が分る。
結果的に日本が負けたため、日本の立場は否定され、連合国の立場で見た歴史観、
あるいは連合国の正義だけが残って、今日まで深く長く日本人の意識を支配している。
考えようによっては、とにかくまず勝ちさえすれば、「大義名分は後からいくらでも付け
られる」ものかもしれない。例えば薩長が勝利した結果、新撰組が逆賊と呼ばれるよう
になったようなものである。正義の軍隊が勝つのではなく、勝った方が正義の軍隊とな
るのだ。
敗れた日本に対しては、贖罪の意識を植え付けるための試みが、東京裁判以降、今
日まで脈々と続いてきた。一つの例をあげれば、原爆を落としたわけでもないのに、2
週間に30万人などという虐殺が本当に可能であったかどうか、大いに議論のわかれる
「南京大虐殺」は、「史実」として日本の教科書に書かれ、逆に、日本の居留民が、筆
舌に尽くしがたい残虐な方法で多数虐殺された「通州事件」(昭和12年7月29日、北
京の東方、通州で起こった事件)については、文部省の検定意見がついて「我が国
の」教科書に載せられないという、摩訶不思議な状況は、今日の日本人の精神的敗北
を象徴している。(注)
52
(注)
通州事件は、事件後直ちに救援に向かった日本軍守備隊により、詳細な記録
が残っており、「事件直後から」新聞報道がされている(ここが南京事件との違い
である)。要約すれば、数千人と推測される中国保安隊に襲われ、北京東方、通
州城内の日本軍守備隊(140 名)は、必死の防戦空しく全滅し(給仕の少年まで
銃を取って闘った跡がある)、その後に残された住民 260 人が、筆舌に尽くしが
たい残酷な方法で虐殺されている。14 才から 40 歳くらいまでの女性は、全員強
姦された上、陰部を刺されて殺され、その他、目玉をえぐる、内臓を掻き出す、子
供の指をそろえて切り落とす、針金で数珠つなぎにする、生きたまま皮をはぐ、手
首足首を切り落としてばらばらにする、口に砂をつめて窒息させるなど、「日本人
には考えつかない猟奇的な方法」で殺害されている。斧で顔をぐしゃぐしゃにさ
れた人以外、一人一人の検死資料も残っており、記録を見ると胸が押しつぶされ
る気がする。
また誌面に限りがあるので書ききれないが、満州から引き上げてくる無防備な
日本開拓団の人々に対し、ソ連軍も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も
暴虐の限りを尽くしている。後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かった
が、賄賂や婦女暴行は日常茶飯だったと言う。筆者の親戚に何度か捕らえられ
たが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた
人がおり、詳しい手記を残している。
日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」
と言うのが良くあるが、これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺された
のである。この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本人官吏であった
人々を川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首
だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにす
る所をその目で見たと書いている(原文には犠牲者の名前も書いてある)。
(注)朝鮮八路軍
中国の八路軍(共産軍)に対して当時、朝鮮の義勇軍をそう呼んだもの。手記の
前後には、金日成に率いられた「李紅光支隊」とある。朝鮮八路軍に捕らえられ
た日本人は防空壕の中に放り込まれ飢えと寒さでと拷問でほとんど死んだ。朝鮮
八路軍のやり方はヒステリックで「36年の恨みだ!」と殴る蹴るの乱暴の限りを尽
くし、男が拘置されている間、女を凌辱した。このため自殺した主婦もいたと言う。
避難民の多くが日本を目指した中継地点に通化の街があり、筆者の親戚はここ
で八路軍(中国共産党軍)に捕らえられた(通化と言うのは、中国と朝鮮の国境付
53
近で中国側の都市)。国境に近かった為、武装した朝鮮人義勇軍が日本人狩り
をしていたと言う。
通化事件
戦争が終わっても、引揚者が無事に日本へ帰ることは容易でなかった。日本人
の一部が国民党と組んで八路軍(共産軍)を攻撃したと言う理由で、昭和21年2
月3日早朝、大規模な日本人狩りが行われた。戦前の中国が一つだと思ってい
る日本人にはなかなか理解できないが、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の争
いは根深いものがある。筆者の親戚が自らの体験を記した手記によると、3千人
とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中、両手を上げさせられて
八路軍(共産軍)に銃剣で追い立てられていた。日本人の男16歳から60歳が連
行され、先頭から氷の上で射殺され川に投げ込まれたと言う。この列は途中で方
向転換したが、親戚は旧通運会社の社宅に100人近くの人と押しこまれた。八
路軍は、身動きできず酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃
ち、足元が血の海になったが死体を外に出す事も出来なかった。一週間にわた
る拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の日本人が、
2千人近く殺された。戦争が終わって半年経っても大陸ではまだこのような日本
人に対する虐殺が平気で行われていた事を今の日本の若者は知らずにいる。筆
者の親戚は、自らこの事件で生き残った者の一人として、事件の真相が「日本人
どうしの殺戮だった」などと歪められて伝えられている事を嘆いている。
人民裁判
中国共産党の本拠地である延安から若い裁判長がやってきて人民裁判が始ま
った。日本人には馴染みがないこの様子を紹介する。
台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の
中から「俺達を酷使した」、「俺たちを殴った」という声が上がる。裁判長が「どうす
る」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫び、これで裁判は終わり。
その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの
上、川原につれて行かれ次々と銃殺されたと言う。
このとき日本人の共産党員は何をしたか
通化にはもともと1万4千人の日本人居留民、10万人以上の他の地域からの避
難民がいたが、武装解除された日本兵が次々とシベリアへ送られて行くのを虚
脱した目でながめ呆然とするだけだった。ソ連兵は日本軍が提出した武器を、そ
の場で八路軍(共産軍)に渡し武装させた。国家から見放され、後に残された日
54
本人に対して支配者八路軍(共産軍)と朝鮮人義勇軍によって掠奪、暴行、拉致、
殺戮の地獄が繰り広げられた。
このさなかに、「延安からやって来た筋金入りの日本人共産党員」がいたことが、
手記には書かれている。彼らが組織した「日本解放工作委員会」は、あるいは「清
算運動だ」あるいは「集団訓練だ」と言って、居留民の財産没収、自由拘束、不
服従者の人民裁判など弾圧を繰り広げ、しかもスパイ網を確立して全日本人を
不安と絶望のどん底に叩きこんだと言う。彼ら日本人共産党員によって、居留民
会の会長であった寺田氏をはじめ、通化在住の実業家、著名人約180人が密告
されて逮捕、罪状捏造の上処刑された。その処刑の様子は先に記したとおりであ
る。戦時中、日本を捨て共産主義の延安に走った彼らは、当時、売国奴として日
本人にののしられたが、日本が負けて彼らは逆に英雄気取りであった。「避難民
が乞食同然の生活苦に追いやられている時、彼ら工作員は立派な服を着て街を
闊歩しており、罪なき日本人を売って得意となっていたことをこの目で見て腹立
たしい思いがする。」と書かれている。
後で再会した開拓団の団長によると、この親戚が生後40日ではぐれた一人娘
は、開拓団の医者の手で殺されたとわかった。ソ連が進入した時には、開拓団に
は女、子供と病人しかおらず、馬車を仕立てて避難していたら満州人に馬車ごと
荷物を全部盗まれてしまった。道中、団長は暴徒に襲われ靴まで脱がされた。食
べるものもなく、追い詰められ、子供は乳が出ない為次々と死んでいった。それ
で開拓団の医者は、これ以上苦しめるより楽に死なそうと女の子に注射をし、死
体は箱に入れて他の山積みになった日本人の死体の所に置いて来たと言う。そ
の後、ソ連兵につかまって収容所に入れられたが、収容所の内外で開拓団の女
性は乱暴され殺された者もいたと言う。団長は、筆者の親戚に「気が済むまで自
分を殴ってくれ」と詫びたと言う。
また、別の満州引揚者から直接お聞きした話しだが、当時小学校で仲良しの
女の子がいた。ところが父親が警察官だった為、終戦後、多数の中国人がその
家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去って行った。同級生の女の子は二
度とその家に戻ってこなかった。親子3人が中国人になぶり殺しにされたのであ
る。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。
これらは、私一人が聞いた事例のほんの一部を紹介しただけであり、終戦後、
無抵抗の日本人に対してこのような掠奪と暴行、殺戮が、中国人、朝鮮人によっ
て行われたことは事実である。これは「日本人がやったからやられたのだ」と言う
レベルを超えている。
55
もちろん、中国人、朝鮮人の全てが悪人であったわけではないだろう。しかし、
日本人が戦後のどさくさ紛れに、このような形で何万人も暴行されたり虐殺された
事実は全く取り上げられず、「怪しげな日本人の加害行為」だけが教科書に大々
的に取り上げられ、「これでもか!」と言わんばかりに日本の子供たちに投げつけ
られている現状は、公平と言えるだろうか?また中国人や朝鮮人が一方的な被
害者で、日本人が加害者だとそんなに簡単に決められるのか?
「南京大虐殺」について、「あったか、なかったか」という観点からの議論をよく見うけ
る。もちろん、歴史の真相を見極めることは非常に重要である。しかし、この事件の本
質は、「あったか、なかったか」と言う観点ではなく、中国、アメリカ、ドイツ、そしてそれ
を手助けする日本の共産主義者(社会主義者)、あるいは正義漢気取りのリベラリスト、
それぞれにとって「南京大虐殺がなぜ必要なのか?」という観点で考えないと理解でき
ないように思う。
意外なことにマッカーサーは、1950年に起こった朝鮮戦争の体験を通じ、日本の戦
争は、「日本が自己の存在を守るため必要な戦争であった」ことを、アメリカ上院の軍
事外交委員会において証言している。朝鮮半島は、まさに南下する共産軍とそれを食
い止めようとする自由主義陣営とのイデオロギーの対決の場となった。北側が韓国に
攻め込んだ際、マッカーサーは国連軍を率いてこれと戦った。その北側には、共産国
ソ連が後押しして無限に武器が供給され、また北側が不利になると共産国中国も参戦
して北側を支援し、一時優勢であった国連軍を38度線まで押し戻してしまった。この
朝鮮戦争は、今だに一時休戦状態で、戦争はまだ終わっていないことを日本人は忘
れがちである。しかし、韓国人にしてみれば、「度重なる北朝鮮の軍事的侵入も戦争が
終わっていないという認識からすれば驚くに値しない」と言うのも納得がいく。
自分自身が体験してみて、マッカーサーは「怒涛のように押し寄せる共産主義の防
波堤として、日本が孤立無援で戦ってきた」その意味をようやく了解した。驚くことにマ
ッカーサーは、朝鮮戦争の際、旧満州や中国まで爆撃する必要性を主張している(結
局主張は、議会で退けられたが)。
近年アメリカでも、「もしアメリカが当時日本を追い込まず、アジアにおける防共の役
割をまかせておけば、後年、朝鮮戦争やベトナム戦争の泥沼に巻きこまれる事態は起
こらなかった」とする意見もある。
日本人はなぜ怒らないのか。それは、怒ることを忘れるように、あるいは萎縮して、二
度と立ちあがれないように、自国の罪ばかりを長い間、「教科書で」教えられて来たから
である。この罪の内容は、明らかに後世、この目的の為に創作された虚構が含まれて
56
いる。そこには報復を恐れ、自分の側には戦争犯罪はなかったかのように、日本人を
「マインドコントロール」してきた戦勝国の思惑が存在する。(筆者自身が、JCメンバー
のような若い世代と話しをしていても、その洗脳の深さを痛感する事がある。)
50年にわたる「長い洗脳教育」を受けた結果、現代の日本人には、一般的に「歴史
の真実から目をそむける傾向」が生まれた。それは、虐殺を否定すると言う意味ではな
く、むしろそのようなことは、「多分あったのだろうけれど、あえてかかわりたたくない」と
言う傾向である。その結果、国の将来を真剣に憂うる者を、「右翼」の一言で片付ける
ようになった。健全な議論の封殺である。日本を取り巻く国際情勢は、そんなに簡単な
ものでも、甘いものでもない。ところが、日本人の頭の中は長い間の愚民政策ですっか
りやられてしまった。
6)
共産主義の歴史観とは何か
平成2(1991)年のソビエトの崩壊は、共産主義の総本山の崩壊であり、これにより
日本国内では運動の方向を失った共産主義者(社会主義者)が、今度は反日という方
向、すなわち日本の文化と伝統、あるいはその象徴としての天皇陛下の存在を攻撃す
る方向へ運動転換した。すなわち、天皇陛下の股肱である旧日本軍人の行為を作為
的に貶めることによって、日本の尊厳を破壊しようと企てたのであった。そこには如何
なる軍隊の命令も上官から来るのであり、上官の上官は行きつくところ天皇陛下である。
つまり、如何なる大虐殺も天皇陛下の命令であると言う理屈である。
この目的の為に、如何なる新聞よりも書物よりも、学校で使われる「歴史教科書」を利
用することが、最も効果的であることに彼らは目をつけたのである。社会経験が少なく、
先入観のない子供のうちに、国を憎み天皇を憎む思想を植え込むことが共産主義的
思想を最も効果的に広めることができると考えたのである。特に平成8(1996)年に文
部省検定を受けた教科書からこの傾向は一層顕著となり、この代の教科書から「駄目
なのは軍人だけではなく、民間人も悪かった。日本全体が罪深い国である。」と言う論
調に進化(?)した。
まず、GHQと戦前には弾圧されていた共産主義者が手を組んだ(敵の敵は味方と
いうこと)。次に共産主義者が韓国や中国の「反日思想を日本の伝統を破壊する目的
で利用する」という手法を取った。(たとえば従軍慰安婦の問題は、九州の左翼活動家
が、平成元(1989)年に韓国へ行って「訴え出る女性をわざわざ募集」したことで始ま
ったのである。)
和をもって尊しとなす日本人の態度は、時として外交上のとんでもない誤解と不利益
57
を生む。宮沢喜一、河野洋平、村山富市、これら政治家のその場しのぎの対応と自己
満足にすぎない正義感が、日本の将来にとって取り返しのつかない禍根を残したこと
を、我々は長く記憶するだろう。
教科書問題を理解する為に、共産主義の歴史観を簡単に記す。
1、
未来を理想化し、人間を進歩した未来人間に改造せねばならぬとする。
2、
そのため逆に、現在および現在の基盤となった過去を否定する。
3、
未来の人間は、過去の人間よりも進歩していると言う前提の為に、共産主義
では、後続の世代による先行の世代への「批判」が永遠に繰り返される。
4、
親子関係を含む社会の絆を否定し、「個」としての存在を強調する。
5、
ルソーもマルクスも、文明以前の未開社会(原始社会)を理想としている。
6、
いかなる精神的、宗教的権威も否定する。
7、
世の中の動きを全て「階級闘争」という仕組みで説明しようとする。
7) 現行歴史教科書の実状
「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」で始まり、「万国のプロ
レタリアよ団結せよ」で終わるのが「共産党宣言」である。自国の歴史をこの共産党宣
言に無理にあてはめて書いたのが、現行の日本の歴史教科書である。共産主義によ
れば、歴史を全否定して人間社会を新しく創造できることになり、ここから「過去を否定
することによって理想の未来社会に進歩する」とする偏った信仰が生まれる。この筋書
きは、まさに現行の歴史教科書の骨格そのものである。すなわち原始時代を理想とし、
文明の発達に伴い所有に差が生まれ不平等が生じ、そのため抑圧からの解放を目指
して、階級闘争が続いてきた。そして革命を賛美し、未来は進歩的な「地球市民」とな
る筋道である。
(JCにも相当この地球市民という、社会主義思想が姿を変えて入り込んでいる。我々
は、地球市民思想の本質を見極めなければならない。)
その筋道に添って、日本を貶め非難するさまざまな記述が加えられているが、基本的
な流れはこれ以外にない。すなわち現在の日本の歴史教科書は、すでに破綻した「マ
ルクスレーニン主義を宣伝するパンフレット」以外の何物でもない。
中国や、北朝鮮ならばいざ知らず、なぜ「自由主義社会に暮らす」我々の子供たち
が、「マルクスレーニン主義の教科書」で学ばなければならないのだろう?このような特
58
定のイデオロギーに基づいて書かれた教科書で、教育の「中立性」は保たれるのであ
ろうか?
こういう教育が行われる一つの理由は、昭和 7 年にスターリンが、「日本の歴史を抹
殺せよ」と言うテーゼを出しているのだが、そのテーゼがそっくりそのまま、ソ連が崩壊
した今日でも日本の教職員組合の間に流布されているからだと言う。スターリンのばら
撒いた「撒きビシ」は、今も日本の子供たちを苦しめているのだ。
8) なぜ現在の歴史教科書が、子供たちに悪い影響を与えるのか
他の国もやったのだから、日本の行為が正当化されると言う訳ではない。しかし、日
本だけがアジアを侵略し、また筆舌に尽くしがたい戦争犯罪を行ったかのように受け
取れる、現在の歴史教科書は明らかにバランスを欠いており、子供たちに自国の歴史
について誤った理解を植え付ける。
戦時における戦争犯罪は、どこの国が行った如何なる戦争にも存在する。どこの国
にも、軍人を相手にする慰安婦はおり、もちろん現在の韓国にも慰安婦はいて軍人割
引もある。非戦闘員に対する無差別虐殺ならば、日本側も先の大戦中に80万人以上
の武器を持たない女性、子供、老人を含む民間人がアメリカなどの連合国に殺害され
ている。(注)
(注) 戦争犠牲者の数について
先の大戦における日本側の戦没者は軍人および軍属が約230万人。それに
対して外地で戦禍に巻き込まれ殺害された民間人が約30万人、国内で原爆や
東京大空襲など、米軍機による無差別爆撃により殺害された民間人は約50万人
である。
(太平洋戦全国戦災都市空襲犠牲者慰霊協会調べ)
日本の教科書には、「日本が(中国と)宣戦布告無き戦いに突入した」として、自国を
非難する記述が見られる。しかし、アメリカは今日まで外国と200回も戦争をしており、
宣戦布告をしたのはそのうちわずか4回だという。これをアメリカの教科書が自国の暗
部と非難し、その結果、アメリカ人が後ろめたい思いをしていると言う話しを聞いたこと
が無い。日本のことばかり悪く書いて、教科書執筆者は正義の味方のような良い気持
ちかもしれない。しかし、世界の常識の中で日本の姿を書かなければ、それで学ぶ子
59
供たちが、「日本人が世界で一番悪い民族なんだ」という劣等感しか持てないのは当
然である。そもそも、過去 に一度 の誤りも 犯さなかった 民族 など世界中のどこに
も存在しない。
ちなみに、昨今の世論調査によると、日本の子供が韓国や諸外国の子供に比べ、最
も自己肯定感が無く、自分が将来幸せになれるとも思っていないという結果が出てい
る。
歴史教育は、自分の国の成り立ちや先祖の活躍を学ぶ「人間教育」である。歪んだ歴
史教育と自己肯定感を持てない子供達は決して無関係ではない。「武士道」の著者、
新渡戸稲造によれば、「名誉」の感覚というのは「家族意識」と深く結びついているとい
う。先祖に対する誇りを失うことで、子供たちは家系とか家族に対する愛着を失いどん
どん孤独になって行く。
しかも、今日のアメリカの代表的な新聞は、全て「日本は謝罪も補償もしていない」と
言う論調一色であるという。我々からすれば、日本はこんなに謝りつづけているのに、
どう考えても「必要以上に」謝り続けているのに、しかも、苦しい台所事情にもかかわら
ず、世界のどの国よりも、アジア諸国のみならず、世界に対してODAを始め国連の分
担金や IMF などあらゆる機会に最も貢献しているにもかかわらず、全くそれが認められ
ていない。水道もいったん引かれた後は、蛇口をひねれば水が出るのが当たり前に思
われ、水が出ることの有難さは忘れられてしまう。水道を引いた人の苦労と水が出るこ
との有難さを実感してもらうには、思いきって一度水を止める事も必要ではないか?出
なくなって初めて、世界の人々は日本の貢献を知るだろう。その時初めて日本人が流
した汗が報われるというものだ。
今のままでは、日本人の心理の中に言い知れぬ不満や閉塞感が鬱積してきており、
我慢もやがて限界に来るのではないか?原因の一つは、海外のマスコミが日本のこと
を何ら正しく伝えていないからであるが、元を正せば自己の姿を正しく宣伝しない日本
側にも責任がある。少なくとも間違った報道をされて、それにきちんと抗議しない政府
は怠慢ではないだろうか。沈黙は金とか、阿吽の呼吸と言うようなことは、国際間では
全く通用しない。相手が間違ったことを言ったら、直ちに訂正を求めなければこちらが
それを認めた事になってしまう。
アメリカは、内外各地の非戦闘員の上に焼夷弾の雨を降らせて焼き殺し、原子爆弾
まで使用して瞬時に30万人を抹殺した。アメリカのやった戦争犯罪は、日本の行った
それの比ではなく、しかも、誰もその戦争犯罪で責任を問われていない。謝罪も補償も
していない。それは、日本の側から決してアメリカの行為を非難する声が「上がらない
ようになっている」からである。
60
ここが教科書問題の、一つの大きなポイントである。
原爆使用を含む民間人の大量虐殺は、それを計画し、計画を許可し、民間人の頭
上に爆弾の雨を降らせた実行者が必ずいる。ところが、原爆の碑が象徴するように、
「過ちは二度と繰り返しませんから」となって、ひたすら被害者が内省し、その怒りが、
「虐殺を行った加害者へ決して向かわない」ようになっている。「日本が悪い事をした
罰として原爆を落とされた」、そう言うアメリカの詭弁は、アメリカの利益と安全に基づい
た世論操作であり、その主張に嬉々として手を貸す日本人がいることは誠に情けない。
しかし、これがこの稿で強調している、「負けた方は勝った方に全ての正義を奪われ
る」と言うことの実例である。しかし、もしこれで終わらせてしまうのであれば、悲劇はい
つか繰り返されるであろう。なぜなら虐殺をした側に何らの反省もないからである。「ア
メリカが自国の国益のためには、ためらわず武力を行使する性質」はその後の歴史に
見る通りである。
第3話 日本国民への教育の在り方
1) 日本を見直そう
日本を見直そう
自虐史観と言う言葉はあまり好きではない。しかし、筆者は今の歴史教科書が、「著
しくバランスを欠いている」、あるいは「著しく日本に対して悪意を持って書いてある」と
考える。と言うよりも、教科書や副教材を書いている人間は「一体どっちの味方なのだ
ろう?」と首を傾げっぱなしである。ひょっとしたら中国人や韓国人の学者が日本名で
書いているんじゃないか(?)と思えるくらいである。この教科書で、本当に自分の国、
あるいは自分自身を温かい目で見られる心豊かな子供が育つのだろうか?もし教科
書会社が、我が国の歴史、文化、伝統と言うものを「憎む」気持ちを子供たちの心に育
みたいのなら、現在の歴史教科書は「誠に適正」であると言える。しかし、自分の国を
そんなに苦しめて、一体どんな未来が待っていると言うのだろうか?
現行のバランスを欠いた歴史教科書が、子供たちに与える影響について
61
1、
先祖を否定することは自分自身の生命の源を否定することに他ならない。これ
は、現代の子供たちが、「自己肯定感」を持てない理由である。(注1)
2、
国家は人民を抑圧する悪と規定し、社会の絆を破壊しようとする。
これでは、人は大勢の人に支えられて生きているということがわからない。
すなわち、子供たちの「孤独感」、「疎外感」を生む。
3、
またこれでは逆に、人間社会において自分も一隅を照らす構成者であり、構成
者であるがゆえに何らかの責務を果たそうとする、「健全な公共心」も破壊する。
結果、人間を「自己の利益の追求」のみに走らせる。自分さえ良ければ何をし
ても良いという「度を過ぎた利己主義」を助長する。(注2)
4、
残虐で目を背けたくなる記述の連続。「おまえの家は、先祖代々極悪人の家
系」だと言われているようなもの。このような極悪人であった先祖たちと自分は
無関係だと思いたい。一方、どうせ悪人の子孫なのだから悪い事をするもの
しかたがないという、犯罪意識の低下を生む恐れがある。
5、 人類の歴史を階級闘争の歴史とし、子供たちの不満と闘争心をあおる。しか
し、
根底に「感謝の気持ち」がなければいかなる人間関係も好転しないのは、健全
な社会人なら誰でも思うこと。このような、「反逆的思想教育」を受けた若者が、
実社会に適応できず就職先が見つからない、あるいは就職してもすぐに挫折
し、無職のままぶらぶら過ごし結局犯罪に走る実例が後を絶たない。(注3)
(注1)
少々古い話しだが、昭和60年8月25日産経新聞に載った一つのインタビュー
記事を引用する。語っているのは、長らく少年院で非行少年の更正指導にあた
ってきた倉科茂氏である。
「私は少年院で仕事をした38年間に、ご先祖様を大切にして仏壇に手を合わせ
るという習慣のある子を一人も見ていません。ですからご先祖の事を子供に話し
てやりなさいと言うんです。おじいちゃん、おばあちゃんは貧乏で借金したけど、
こういうところは偉かったと言う話しを、多少オーバーでもいいじゃないですか。ボ
タ餅を作ったら、まずお皿にとってテーブルにのっけて『ご先祖様、お初物です
よ、召しあがってください』と手を合わせる習慣をつけることですよ。そんな簡単な
事くらいは出きるでしょう。別に宗教じゃなくてもいいんです。それをするという事
は、自分が年を取ってから子供に尊敬されるということなんです。」
このお話に「現行教科書の欠陥」があぶり出されていると言って良いだろう。自
分の命は誰でも両親(2人)から貰ったもの。両親はそのまた親である、祖父母か
62
ら命を貰い育てられた。祖父母の代までさかのぼると誰にでも4人の先祖がいる。
曽祖父母の代には8人の先祖があり、その彼方には無限の祖先がいらっしゃる。
その無限の先祖の一人が欠けても、自分がここにいることは無い。だから人の生
命は重い。人は決して水溜りから生まれたのではない。親を思い先祖を思う心は、
自分自身の生命の源としっかりと結ばれる為に不可欠であリ、これ以外に漂流す
る現代の青少年が、自己のアイデンティティーを取り戻すすべは無い。誰もが先
祖の物語を持っている。そこに小さくても良いから「誇り」を見つける事だ。それが
歴史を学ぶ本当の意味ではないだろうか?
(注2)
筆者の個人的な感想であるが、先日あるショッピングセンターの駐車場で家族
を待つ間、「障害者用の駐車スペース」と明らかに分るところに、次々と表示を無
視して駐車する人が後を絶たないことに唖然とした。これでは本当に体の不自由
な人が利用しようとしても全く駐車スペースがない。これでは何の為にこのスペー
スが確保されているのか解らない。「自分さえ良ければ人はどうでも良い」という
自分勝手な考えは、相当日本国民の間に浸透して来ていると見て間違いない。
現代の日本には、誇りの感覚が無いから恥の感覚も無い。いじめが無くならな
いのも『弱いものいじめが恥ずかしいことだ』という羞恥心の欠如に問題の一端が
あるのではないか?人間が、『わがまま』や『だらしなさ』を自由と履き違えた放任
教育でどんどん『動物化』している。我々の子供たちはこのような大人にならない
よう、しっかり教育しようではないか。
(注3)
今年(平成12年度)の卒業シーズンには、国立市の小学校で「国旗」を掲揚し
た校長に対して、児童が「土下座を求める」事件が起きている。「児童の意向を無
視した学校運営は、許されない」と言う主張であるらしい。裏で小学生を扇動して
いる大人が必ずいるはずだ。幼いうちから政治色の強い活動をさせられたことが、
児童たちの人格形成にどのような影響を与えるのか危惧される。
現実に、歴史教科書、あるいはその背後にある思想(共産主義)が撒き散らした弊害
が、子供たちの間に蔓延してきている。一方、実は子供たちもさる事ながら、大人たち
にも自信がないことが、この社会の不安を生んでいる。誰が自信を持って天下国家を
子供たちに説き、人の道を示せるだろうか?それは、大人たちも、現在にいたるまでの
「自分を含めた国の成り立ち」をきちんと学んでこなかったことに原因がある。過去を正
しく受け止められないため、未来に対しても長期的理想や夢を描くことが困難になって
きている。長期的視野で国家としても、個人としても明確な目標を持てない為、日々の
63
小さな失敗ですぐ挫折し絶望する。さあ皆さん、奪われた祖国の歴史を取り戻す旅に
出ようではないか。自分がどこから来て何の為にここにいるのか、その本当の意味を知
る為にも。
64
第2章
第1話
近代国家への道のり(江戸・明治・大正時代)
泰平の時代
1)徳川政権
日本の歴史上、260 年もの間政権を維持した徳川政権は、幕府の開府以来、幕末ま
で平和を維持した。その要因は何なのか、どのような時代背景があったのかをまず知
る必要がある。
豊臣秀吉の死後、豊臣政権を存続させようとする石田三成と、政権を握ろうとする
徳川家康が、慶長 5 年(1600 年)関ヶ原で戦い、東軍の徳川家康が西軍石田三成を
破り勝利して天下を取る。この関ヶ原の戦いそのものが第一の徳川政権安定の基とな
っている。
徳川政権は、家康が武力で勝ち取った軍事政権であ
る。家康は秀吉とは違い、永続的に政権を維持するこ
とを考え、朝廷から征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府以
来の武家政権となる江戸幕府を開府する。しかし、幕
府を開府したものの大阪にはまだ豊臣秀頼がおり、そ
の後、大阪冬の陣・大阪夏の陣(1615 年)で豊臣家を滅
亡させ政権を盤石なものとする。
家康の永続的な政権維持の志向には、戦乱の世をな
くし、平和な生活をという願いもあったようだ。
江戸幕府は、統制支配力を強化することによって長期間政権を維持したが、その過
程で、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院諸法度、五人組制度、キリシタン禁
止令といったような様々な法をつくっていった。
幕藩体制の基盤は、初代家康・二代秀忠・三代家光とでほぼ完成するが、その中に
ある武家諸法度(金地院崇伝が起案)は、徳川秀忠の名で元和元年(1615 年)に出
された元和令以降、七代家継、十五代慶喜以外の12人の将軍の代替わりごとに出さ
れている。
また、三代家光の時には、新しい統制策として林羅山に参勤交代を付加させている。
余談となるが、参勤交代は、元来「覲」の字を使い「参覲交代」と書く。「覲」の字
には“挨拶”という意味があり、参勤交代とは、大名などが隔年で出府し、将軍に挨
拶をするというのが本来の意味なので、「参覲交代」と書くべきなのですが、
「覲」と
いう字は常用漢字にもなく、また参勤交代でも何とか意味がとれるため、現在では参
勤交代という表記が定着している。
軍事政権としての性格を有しながらも、徳川政権下の江戸時代は平和であった。そ
64
れは、基本的には大名が幕府に逆らえなかったからである。ではなぜ逆らえなかった
か。
これも一口で言えば、諸大名に対して幕府が圧倒的軍事力を有していたからである。
一万石以上を大名といったが、この石高を単に経済力を示すものとみることは誤りで、
元来石高はそのまま軍隊の動員力を表すものであった。(慶安の軍役令で一万石につ
き200人。)最大の大名である加賀前田家が通称100万石、ところが幕府は旗本
領を含めて通称800万石。これでは諸大名が逆立ちしても勝ち目はない。
幕府はずいぶん諸大名に無理無体なことをいったこともあるが、それでも大名が
「いざ一戦!」とはいかなかったのは、戦っても勝ち目がない、そんな戦いに自分も
さることながら、家臣とその家族まで犠牲にするわけにはいかなかったからです。大
阪の陣の折りに、福島、浅野などの豊臣恩顧の諸大名が大阪方に味方をしなかったの
も、この理由からといっていいだろう。
また、参勤交代も軍役の変形と見ることができる。諸大名が幕府の命令で戦争に出
ることも、江戸に上ることも基本的には同じ事であり、江戸幕府は戦国大名以来続い
ていた軍役による家臣統制を実施していたわけである。
家康、秀忠、家光、五代綱吉までの時期には、多くの大名取り潰しがおこなわれ、
この中には、一族の松平忠輝(家康六男)も含まれていた。
家光の死後、四代家綱が幼少で将軍となるが、この頃には幕府組織の草創期は過ぎ、
戦国動乱の記憶が遠ざかったこの時期以降、幕府の権威は高まりをみせていた。その
余裕として、五代綱吉の時代には、政治に朱子学(儒学)の考えが取り入れられ、政
治方針は文治政治へと移行する。
綱吉は、母桂昌院のためと、自分に男子が生まれなかったことが機縁とな
り 仏 教 を 信 仰 し 、湯 島 聖 堂 、 寺 社 造 営 に 金 を か け す ぎ 、 幕 府 財 政 に 破 綻 を 来
す 。 また 、 悪法「生類哀れみの令」も綱吉の仏教思想から生まれたのである。
以降、六代家宣、七代家継と継承されるが、家継を最後に徳川直系での血筋は終わ
ることとなる。
幕府改革の時代には、御三家紀州藩の徳川吉宗が八代将軍となる。吉宗は、幕府の
財政再建のため、享保の改革(足高の制、倹約令、公事方御定書、目安箱、相対済令、
町火消し、小石川養生所の設立)を行う。享保の改革で幕府財政は再建され、以後、
寛政、天保改革のモデルとなった。
吉宗は幕府にとって中興の主とされているが、農民に対する米制度(年貢)につい
ては、定免法という方法で年貢をとった。以前は、検見法といって、作物の出来高で
年貢が決められていたが、定免法では凶作でも一定の年貢を取りたてるため、それが
農民を苦しめることになり、百姓一揆・打ちこわしの原因となったのである。
十代将軍家治の時代になると、老中田沼意次(おきつぐ)が登場する。意次は賄賂
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政治で有名であるが、政策においては農業経済から商業経済へ移行、株仲間を認可し、
税(冥加金)を徴収したり、長崎貿易の拡大、新田開発等を行なった名老中であった。
田沼意次以降、吉宗の孫になる松平定信が老中となり、寛政の改革を断行する。思
想・社会統制(倹約令)、農村政策を行い幕府権威を高めようとしたが、これも政治
的には成功するが、民の不満を拡大したにすぎない。
その後、十一代家斉は自身で幕政を行なうが、無策であったために見るべき政策の
改善は無く、世の中と幕府体制が腐敗して行く。何もしなかったが、世の中が泰平で
あったということであろう。しかしながら、文化面ではこの頃に、江戸文化の完成期
を迎えることになる。
天保12年(1841 年)には、老中水野忠邦が、政治の改革を行うべく天保の改革
を行う。これが江戸時代の3大改革(享保・寛政・天保)の最後のものとなる。
水野忠邦は人返しを行い倹約令を出し、文化的動きも取り締まった。天保の改革は
享保・寛政の改革とは比較にならないぐらい風俗・文化の取り締まりを実施する。そ
の実行者である江戸町奉行鳥居燿三(甲斐守)は、そのために江戸の町人から“ヨウ
カイ”として恐れられ憎まれた。
この頃、諸藩においても積極的に政治改革と財政再建が行なわれ、成功した藩とし
ては近年有名になった上杉鷹山の米沢藩があげられる。
しかし次第に、幕府体制の衰えは加速していくことになる。
家斉以降、十二代将軍家慶、十三代家定、十四代家茂、十五代慶喜、最後の4人の
将軍で三十年という短期で徳川政権は幕をおろすことになる。
2)階級社会の秩序の中で育まれた伝統文化と誇るべき学問の水準
現在、日本の伝統文化といわれるものの多くの形態が確立されたのが江戸時代であ
る。
江戸時代には、鎖国の体制が整い、長崎だけがオランダ・中国船に開放され、仏教
は寺院が幕府の地方統治策の一環として制度的に利用されて普及、また、公家や武家
も幕府の統制下におかれ厳しい幕藩体制が固められた。
儒学は官学となって栄え、幕府直轄の学問所の昌平坂学問所(今の湯島聖堂)が開
設。それをきっかけに諸藩でも藩校教育が始まり、庶民の初等教育のために私立教育
機関「寺子屋」も普及し始める。江戸末期には、全国に一万を超える寺子屋があり、
読み書き、そろばんが教えられていた。
また、幕藩体制の整備は、全国的な交通網の発達を促し、農作物の商品化や流通を
盛んにする。それによって、町人階級の経済的、社会的地位が著しく向上した。
このような社会事情から、従来の貴族、僧、武家の文化とは趣を異にした町人文化
が発達したのが近世の特徴である。農業でも農書の刊行や農機具の改良がみられ、米
66
以外の作物も多く作られ各地に名産が生まれた。
<文学>
元禄の三大作家、井原西鶴(浮世草紙)松尾芭蕉(俳諧)近松門左衛門(人形浄瑠
璃)など、町人階層の開放的なエネルギーに支えられた作品が隆盛する。
幕府は、幕藩体制の抱える財政問題の原因を、華美な町人文化の普及による武家の
支出増大に見出し、消費抑制と一体的な思想統制を行なう。庶民文化に対する抑制(享
保・寛政・天保の改革)の中で、庶民からは洒落本、滑稽本、狂詩や狂歌などが生ま
れたのである。
外来の儒教や仏教の影響を受けた文化以外に、日本文化本来の本質やありのままの
人間性への探求をめざす学問も発展してきた。日本最古の歌集である「万葉集」の研
究の中から、古代日本人の言語感覚、ものの感じ方・生き方の発掘につとめた賀茂真
淵、当時原文の解読が不能になり仏教や儒教の思想に立脚した解釈が大半であった
「古事記」などを研究し日本本来の国の在り方を探求した本居宣長等の「国学」であ
る。
また、儒教倫理にしばられない素直な人間性の発露としての文芸である和歌が国民
各層に広く根づきはじめたのもこの頃であった。
<歌舞伎>
ふりゅう
日本独特の古典演劇といわれる歌舞伎は「風流」といわれる民族舞踊が盛んになり、
その後演劇として近松門左衛門ら専門家によって戯曲が書かれるようになり「元禄歌
舞伎」といわれる黄金時代をむかえた。人気俳優の衣装や髪型は流行を生み、役者は
浮世絵や商標のモデルとなりました。
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<絵画>
寺社、城郭など大建築には障壁画が盛んで狩野探幽が幕府の御用絵師となって以来、
大名は狩野派画家を召抱えることが、全国的な傾向となった。
<浮世絵>
江戸ではまったく新しい市民文化として、既成の画派に属さない新興の町絵師が登
場しました。町の風俗、役者画や美人画などを題材にした浮世絵は、版式も墨一色摺
りから丹絵、紅絵、漆絵、紅摺絵、多色彩色の錦絵と進み、工程も絵師、彫り師、摺
り師、問屋と協同作業となり、技術の向上もめざましいものだった。
<工芸>
磁器製作は、朝鮮からの帰化人が有田で白磁器の焼成を始めて伊万里焼として確立
して以来、京焼、九谷焼、鍋島焼、瀬戸焼など各地に及び、染織では、武士の裃に多
く用いられた江戸の小紋染や京都の友禅染などを生み出した。また、米沢、桐生、伊
勢崎、秩父などの地方では献上するために特色ある織物がつくられる。日本各地で木
綿の栽培が行われ、庶民の衣服が麻から木綿へと移りかわったのも当時だった。漆工、
金工、木工、竹工なども同様に各地で発展し、江戸末期にはガラス工芸が始まる。
日本美術の中では中心ではなかった浮世絵や絵画、彫刻、ファッションは、江戸末
期に欧米に紹介されて人気を呼ぶ。特に印象派へ大きな影響を与え、「ジャポニスム」
と称されるほど多くの作品に日本趣味を強調させたモチーフが登場した。
また江戸時代は、参勤交代の厳しい制度の中で、地方文化の確立と、政治の中心と
しての江戸の文化の確立が成され、その形態が今に至っているものが少なくない。
「地方の時代」といわれて久しい昨今だが、江戸と上方(大阪)と地方の関係はまさ
にこのころと共通する側面をもっているように思われる。
ただし、町人のありあまるエネルギーによって支えられた多くの作品とともに、行
き場のないエネルギー(憤りやかなしみ)を作品として残したものも数多くある。
また地方には、産業や流通ルートの確立によって、大商人、豪農となった家もある。
貧富の大きな格差を生みだしたが、当時の消費生活水準を偲ばせる資料として調度品
など贅を尽くした品々が残されている。
現在、テレビの「時代劇」といえば、すなわち江戸時代が舞台であるように、精神
文化として「義理、人情」に「いき」や「だて」といった、日本人の美徳を育んだの
もこの時代だ。
新しいものと古いものとが交錯し、流行や情報に敏感だった江戸時代の文化。言わ
ば、文化面での「温故知新」を実践したのが当時の人々だったのではないだろうか。
68
3)鎖国について
幕府は、当初キリスト教を禁止しつつも、貿易を積極的に行っていた。
しかし、カトリック教徒は異教徒を排斥し、宣教師が本国の植民地政策に協力する
ことが多かったうえに、キリスト教徒の中にはどんなに迫害を受けても改宗しない者
が多く、かつ、信者の団結心も強かったことから、キリスト教は、幕府及び諸藩にと
って脅威であった。
また、貿易が盛んになると商工業が発達し、貿易に関係する西南大名及び豪商が巨
大化して、幕府の支配力が弱体化するため貿易を統制する必要があった。
そこで、幕府は、慶長17年(1612年)に天領にキリスト教禁止令を発令し、
慶長18年(1613年)には禁教令が全国に及び、元和2年(1616年)には、
ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限し、寛永1年(1624年)には、イスパ
ニア船の来航を禁じ、寛永10年(1633年)には、奉書船以外の渡航を禁じ、寛
永12年(1635年)には、海外渡航禁止、帰国禁止令を発令した。
そして、寛永14年(1637年)
、島原の乱が起こり、その中にキリスト教徒が
多かったことから、寛永16年(1639年)にポルトガル人の来航を禁止して、鎖
国を完成させた。
また、オランダが対日貿易を独占するため、ポルトガル・スペインと戦い、イギリ
ス・フランスが対日貿易を始めようとすると幕府に通報して未然に阻止するなど、徹
底的に排他的な活動を行い、鎖国体制の実現を助長した。
鎖国を行っても当時の日本の輸出入品は、国内産業と広く結びついていなかったば
かりか、オランダを通じて必要な物を輸入できたので、強いてオランダ以外のヨーロ
ッパ諸国と交易する必要性がなく、他方、ヨーロッパ諸国も、極東の日本を力ずくで
開国させる必要性がなかったため、日本は鎖国体制を維持することができたのであっ
た。
鎖国体制の確立により、幕藩体制が強化され、日本は長期にわたり平和な時代が続
くことになり、また、国内産業が発達し、国民文化が成熟するなど、日本独自の産業・
文化が発展した。
鎖国体制を確立した当時の日本国内の事情及び世界の情勢からすると、鎖国体制自
体決して悪いものではなく、日本のアイデンティテイを維持することに貢献したもの
と思われる。
すなわち、対外的には宗教による植民地政策から日本を守り、対内的には幕藩体制
の基盤を固めたことにより長期に渡る平和な時代を確立し、日本独自の産業・文化の
発展に寄与したのである。
確かに、世界の情勢から脱落したとのマイナス面もあるが、どんな体制ないし制度
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も時代の流れから制度疲労を起こすのは当然であり、ましてや二百数十年間も続けば、
どうしても時代の流れにそぐわなくなってくることは、蓋し当然とも言える。
むしろ二百数十年間も平和な時代を続けて来られたことや、鎖国体制時の産業・文
化の発展が原動力になり、開国後の日本の中心的な産業となり、文化も海外で高く評
価されたことの方が強調されるべきではないであろうか。
このように鎖国体制は、大きな視点からすると日本のその後の発展に貢献しており、
それが様々な試行錯誤を経て今日につながっていることから、当時の政治政策として
は高く評価されるべきものではなかろうか。
参考文献: 「詳説日本史」
「簡約日本史」
第2話
井上光貞、笠原一男、児玉幸多 他著
芳賀幸四郎 著
弱肉強食の世界構図
1)帝国主義と植民地政策
(1)帝国主義の政治的な意味
「帝国主義」という言葉は、1860年代の終わりに、イギリスの保守党のディズ
レリーが、イギリスの社会的危機からの抜け道の一つとして、植民地を「帝国」とし
て合理的に組織するという発想から生まれたものである。
この「帝国主義」は、単に経済的に生産力の発展の結果起こったというばかりでな
く、それは資本主義体制を批判する勢力がある中での、激しい対立が進行しつつある
状況のもと、「革命勢力を抑圧しようとする動きそのもの」としても捉えられなけれ
ばならない。つまり帝国主義の発展の背景には、資本主義の発展に伴う経済発展から
の圧力だけでなく、自国の国民から沸き起こる革命勢力を抑圧するための政治的な手
段としての要素も存在したということができる。
そしてこの帝国主義思想は当時の列強の国々における共通の認識(常識)となり、
彼らは競って軍備を拡張し、海外の植民地の確保に乗り出すこととなる。
(2)ヨーロッパにおける「帝国主義」の成立
十九世紀後半のヨーロッパには新しい危機が発展しつつあった。それぞれの強国の
国内における社会主義運動の発展、また中国・インドをはじめアジア・アフリカ等に
おける自然発生的な民族的抵抗、またバルカンから中近東にかけて、もっとも顕著に
あらわれる国際対立などは、ヨーロッパの危機を促進する重要な要因であった。
1880年代はヨーロッパのあらゆる強国を通じて、新しい体制、特に反動的・軍
70
事的傾向の強まった時期であった。例えば、ユダヤ人への迫害の強化をはじめ国粋主
義的傾向は顕著であり、その点は度重なる革命を経たフランスにおいてさえ、ブーラ
ンジェ事件、また1880年代のドレーフュース事件などに見られるように、新しい
軍部の台頭が顕著である。
「先進的」であったイギリスにおいてさえも、帝国主義の
方向への国家体制の変貌が進みつつあった。新興ドイツについては、改めて言及する
までもない。
1891年における露仏同盟の成立が、この時期のヨーロッパの歴史的条件を集中
的に表現していた。露仏同盟の成立はドイツ帝国にとって、東西から挟撃される軍事
同盟の成立を意味するものであった。また、1882年以来存在していたドイツ・オ
ーストリア・イタリアの三国同盟も、この時点から自動的に新しい段階の軍事体制を
意味せざるを得ないものとなる。そしてヨーロッパ大陸は相対立する二つの陣営に分
割されたこととなった。
しかし、この露仏同盟成立の事情は、決して単なる国際関係の問題ではなく、それ
は諸強国の国内体制の変化とも緊密に結びついていた。
例えばドイツの場合、1871年におけるドイツ帝国の統一自体が、強力な国家権
力と軍事力とを背景とするものであり、そしてそのことは、封建貴族ユンカーと資本
家階級との妥協、労働者階級への圧迫など、複雑な階級関係の上に立つものであった。
このような諸関係は、ドイツの飛躍的な資本主義発展のための必要条件であったが、
国際的な資本主義世界の変貌と正にドイツにおける資本主義の発展の結果、この国の
社会的矛盾はより激しくなった。
1890年におけるビスマルクの退陣は、社会主義政党への対策を契機とするもの
であったが、このような新しい矛盾を調整することは、すでにビスマルクには不可能
であり、彼の政策は積極的な支持者を失うこととなる。
次にあらわれたのが、このドイツに集中的にみられた内外の手詰まり状況の転換策
であった。ドイツの場合には、ヴィルヘルム二世によって代表される新しい「世界政
策」および軍備拡張、特に海軍の拡張であり、また社会主義運動に対しても、一方で
は弾圧の強化、他方ではいわゆる修正主義的な方向の育成によって、新しい政策が打
ち出され始めた。軍備の拡張は軍部と大資本家双方の不満を調整することができた。
しかしこれらの新しい政策は、一面では当然国内の支配体制の強化を意味するだけで
なく、なによりも海外の植民地および従属的地域の確保とその地域の支配の強化を前
提にするものであり、いわばそのような地域に問題をしわ寄せすることによって行わ
れる転換であった。
いうまでもなく、ここでドイツに関して述べたような新しい段階の危機的様相は、
それぞれ違った形においてではあるが、いずれの強国の場合にもあらわれている。そ
して、急激な資本主義経済の発展に伴い湧き出してきた国内の諸問題を、強国は一様
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にして植民地政策により解決を図ろうとしていくのである。
このようにして新しい「帝国主義」は、世界を覆いはじめていた。それは確かに全世
界の資本主義的発展の結果であるが、これまで述べたような社会の歪みを調和せしめ
ることはできない。むしろそのような社会の歪みを生み出すことなしには、そもそも
帝国主義は存在しえないものであった。
ヨーロッパ諸強国の内外の危機がこのようにして、まず第一に「世界政策」によっ
て転換されるのであり、露仏同盟ののち、舞台は東アジアにうつることとなる。
参考文献:
「岩波講座
世界歴史」
2)アヘン戦争(1840~1842)
弱肉強食を象徴する戦争であった。
植民地政策が世界の常識であったこの時
代中国の茶に注目したイギリスは、代金の
支払いに悩み、インドで作られたアヘン(麻
薬)を中国に売って銀を買い、その銀で茶
を購入した。清はこれに怒り、イギリス商
人からアヘンを没収したが、イギリスの武
力の前には屈伏するしかなく、屈辱的な南
京条約という不平等条約を結ばされること
となった。
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この時奪われた「香港」が中国に返還されたのは数年前(1997 年)のことである。
この戦争は当時の日本にとっては単なる他国の侵略ではすまないものでした。
それは当時の日本の政策(鎖国政策)にとっては、大きな脅威であり、後の明治維
新にまでつながるきっかけとなった戦争といっても過言ではない位の大きなショッ
クを我が国に与えた。
その前に「鎖国」という言葉には、国を閉ざしたようなイメージが強くありますが、
誤解をまねいている部分が多くあります。我が国は古来より、人的にも、物的にも先
進文化を中国より受け入れ、日本人らしい柔軟さをもってみごとに我が国固有の文化
と融合させていましたし、近世には南蛮貿易等を通じて世界中からあらゆる情報、物
資、文明、文化等を吸収してきたのである。そのような流れの中で情報等の受け入れ
先をオランダと中国という窓口にしぼりこんだ政策を、今日「鎖国」と呼んでいるの
である。
では、なぜこのような政策をとったかと言えば一番の理由はキリスト教であろう。
我が国では、仏教は見事に融和していきましたが排他的な一神教はなじまず、フラン
シスコ・ザビエルにより伝えられ、広がりはじめた頃は受け入れる状況もあったが、
異教を認めない一神教とは、やはり(国としては)ぶつかりあう運命にあったのであ
る。
また、当時の日本は、世界レベルの軍事力を備えており、外国に対して自国の方針
を貫くだけの力を持っていたことも当然の理由である。
余談となるが、フランシスコ・ザビエルが、日本人についてヨーロッパに送った情
報の中に「私が遭遇した国民の中では一番傑出している。.....日本人は総体的に良
い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じが良い。彼等の名誉心は特別に強烈で、
彼等にとっては,名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると、
平民たるとを問わず貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。」(ペトロ.アルー
ペ「聖フランシスコ.デ.ザビエル書翰抄」下)という文章がある。これはある階層
だけでなく、武士も平民も幅広く見聞しての感想ですので客観性に富み、当時の日本
人に対しては他のアジア諸国と比較しても特別な見方もあったと推測される。
そしてこの文章から「困窮に泣く農民」とか「階級制度のもと(農民は生かさず、
殺さず)苦しむ農民」的な現代「歴史教科書」の表現法とは違い、誇り高く生き生き
と生活している明るいイメージが想像できる。また、初期において日本人というもの
のヨーロッパへの情報がおおむね他のアジア諸国と違う民族として報告されたこと
は、この国がアジアで、唯一植民地化されなかった事実とも何らかの因果関係があっ
たのではないかと推察できます。
アヘン戦争は、鎖国政策の転換をうながすこととなるほどの衝撃となったわけだが、
73
当時の幕府はオランダ商館長(カピタン)に対し、海外の情報を提出するよう義務付
けておりこれを「阿蘭陀風説書」と呼び、世界の情報源としていた。アヘン戦争勃発
後はこれ以外に「別段風説書」として従来の風説書とは別に詳細な海外情報を集める
ようになり、この戦争に対する危機感がよく表れている。
冒頭でも述べた通り我が国は、古来より中国から人的にも物的にも先進文化を摂取
してきた歴史があり、他の東南アジア諸国が植民地化されていくこととは異なり、こ
の隣国が同様に列強の植民地とされることはすなわち、アジアと欧米列強との軍事力
の差を明確にするものであった。我が国が250年以上にも及ぶ平和な時代を過ごす
中、世界は幾度もの戦争を繰り返し、軍事力において格段の差がついていることを認
識させられたのである。
このパワーバランスが崩れはじめた結果、国内に対外的危機感が生まれ、多くの議
論が国内をかけめぐるのだが、ついにはアメリカのペリーによる恫喝に屈伏せざるを
得なくなり、日本は開国という決断を選択するに至るのである。
このような歴史の流れの中で国内に多くの議論が湧き起こり「尊王、攘夷思想」
が生まれ、時代は風雲急を告げるかのように明治維新へとかけていくのである。
第3話
近代国家へのうねり
1)黒船来航-幕府の混乱
嘉永6年(1853)、浦賀沖にアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・
ペリーが率いる4隻のアメリカ軍艦が投錨した。旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、
サラトガ号、プリマス号である。
最初、庶民はのんきに構え、見物のため浦賀に繰り出し、中には船を仕立てて近く
から見ようとする者もいたという。しかし、黒船が江戸を砲撃するかもしれないとい
う話が広がり、武士や町民に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、そ
うのんきに構えてもいられなくなった。
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」という狂歌に詠まれ
た騒ぎにつながっていく。
「上喜撰」というのは高級茶のブランド名のことであり、
その上喜撰をたった四杯飲んだだけで、つまり蒸気船が四隻来航しただけで夜も寝ら
れなくとは情けない、と皮肉っている。
しかし、幕府は近代的な外国船を知らなかったのではない。それまでに、異国船打
払令(無二念打払令)を出して、来航した外国船を数回にわたって追い返している。
この度の黒船の来航は、幕府にとって思いもよらなかった事ではない。実のところ、
前年にオランダ商館長から、ペリー艦隊の来航を知らされていた。ところが幕府のと
った対応策は、三浦半島に彦根藩からの防備の兵を増やした程度だった。つまり、今
74
までの外国船のように帰ってもらおうとしか考えていなかったようだ。
しかし、ペリーは今までの外国人とは違っていた。強硬な態度で、頭から幕府の役
人を呑んでかかっていた。
この時のペリーの要求は、アメリカ大統領フィルモアの国書を渡すことであった。
浦賀奉行所の与力・中島三郎助が訪れるが、門前払い。同じく香山栄左衛門も訪れる
が、国書を受け取る事はできなかった。上の者と話してみるので4日の猶予をくれる
ように頼んだ。3日なら待とうという答えである。さらに国書を受け取らないのであ
れば、江戸湾を北上し、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。
この時の将軍は、12代徳川家慶だったのだが、病の床にあった。家慶はペリーが
去った後の 6 月 22 日には他界しているのだから、何かの決定を行えるような状態で
はなかった。結局、国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったのが 6
月 6 日であった。
こうしてペリーは、目的を果たして帰っていった。来年、さらに大規模な艦隊を率
いて国書に対する返事を聞きに来ると言い残して。
幕府は大混乱となる。13代将軍・家定は病弱で、国政を担えるような人物ではな
かった。動揺した幕閣は、300 年の間、一度としてやらなかった事をやってしまう。
大名、旗本、さらには庶民に至るまで、幕政参加の権利を持たない人々へ、広く意見
を求めるということをしたのである。一見、民主的な施策のようだが、幕府が弱体化
していることを広く世間に公表したようなものであった。
翌年、黒船が再来する。幕府は、返答を引き伸
ばそうとしたが、ペリーの軍事力に屈する形で、
安政元年(1854)3月3日、日米和親条約締結
にいたった。
この日米和親条約は、12 ヶ条からなり、主な
内容として、
・ 薪、水、食料の供与。
・ 難破船、漂流民の保護。
・ 下田・箱館を開港し、領事の駐在を認める。
・ アメリカに対して一方的な最恵国待遇を与える。
というものだった。
アメリカと条約を結んだ事により、イギリス・ロシア・オランダなどの列強諸国も
同様の要求を突きつける事となった。
参考文献: 「国民の歴史」 西尾幹二
著
「教科書が教えない日本史の名場面」 加来耕三 著
「90 分でわかる幕末・維新の読み方」 加来耕三 著
75
2)日米修好通商条約
安政5年(1858)、幕府は孝明天皇の勅許が得られないため、アメリカの初代
総領事ハリスとの通商条約調印を延期し続け、幕府側の事情を知るハリスも延期に応
じていた。しかしこの年の6月 13 日、下田に入港したミシシッピ号が、「アロー号事
件で清と交戦中だったイギリスとフランスの連合軍が、清を打ち破って天津条約を結
び、そのまま日本へ向かうかもしれない」という情報をもたらしたため、状況は一変
した。
ハリスはこの情報を幕府側に伝え、これまでの苦労を無にしないためにも一刻も早
く調印を行いたいと申し入れると同時に、他国との問題が起こった場合には、アメリ
カが仲介すると約束した。
この期に及んでも、大老・井伊直弼は勅許を待つ姿勢を貫いており、直接ハリスと
の交渉に当たっていた海防係の岩瀬忠震と井上清直に「なるべく延期を申し入れ、そ
れが受け入れられない場合には調印しても良い」という指示を与えていた。
しかし、英仏の動きに危機感を持っていた二人は延期交渉をすることなく、6 月 19
日、神奈川の小柴沖に停泊するポーハタン号に到着するとすぐ、日米修好通商条約に
調印した。
一般に、この条約に調印したのは大老・井伊直弼の独断と言われているが、井伊の
気持ちとしては、朝廷や世論の反発をかわすために、もう少し時間をかせぎたかった、
というのが真相ではないだろうか。
不安定な国際情勢の中で、急遽結ばれたこの条約によって、神奈川・長崎・新潟・
兵庫の開港が決定され、自由貿易が認められた。しかしこれは、日本側には関税自主
権がなく(貿易章程)、治外法権を認めるという不平等条約だったのである。
この後約一ヵ月間に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の不平等条
約を結んだ。この条約が改正されるのは、明治も終わりになってからで、幕府は結果
的に、後世まで重くのしかかる問題を抱え込んでしまった。
参考文献: 「国民の歴史」 西尾幹二 著
「教科書が教えない日本史の名場面」 加来耕三 著
「90 分でわかる幕末・維新の読み方」 加来耕三 著
3)尊王、攘夷の思想
「尊王」とは天皇の古代的権威を復活させ、崇拝する思想で、幕府が勅許なしで日
米修好通商条約を結んだことなどは「尊王派」の志士たちをいたく刺激し、幕府非難
の論拠となったのである。
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「攘夷」とは自国と夷狄(外国)を区別する名分論であり、排外的な思想です。幕
府がペリーの脅しに届したとして開国の一歩を踏み出したとみる攘夷派からは強い
不満が噴出し、幕政批判につながっていきました。
このため「尊王論」と「攘夷論」は、ここに幕府に対する批判的な思想として結合
し、
「尊王攘夷論」という反幕スローガンとなったのです。
ここで誤解してはならないのが、「開国論者」は決して、「尊王攘夷論者」ではない
ということではなく、ここで外国と戦っても他のアジア諸国のように植民地化される
のは目に見えており、「とりあえず開国して軍備をととのえるべき」という意味では、
方法論の異なる「攘夷論者」であり、また同様に「尊王」の意識を持たずにいたとい
うことでもありません。
欧米による侵略の危機を前に、幕藩体制下での「お国とは藩」との帰属意識を改め、
「お国とは天皇の国・日本」という共通認識に基く、近代的な国民意識としての「尊
王思想」が形成されていたと見るべきでしょう。
明治維新とは、世界史の荒波の中に日本がまきこまれ、さまざまの国を憂う人々の
考え方がモザイクのようにからみ合い、新生日本の誕生へ向けての痛みの中で、多く
の貴い命が散ってゆく過程であったのである。
4)時代を動かした男たち
(1)吉田松陰
吉田松陰は、長州藩の思想家であり、教育者で
あった。彼は萩城下の下級武士の家に生まれた。
松陰は幼い頃から伯父の玉木文之進の英才教育を
受け、11歳の時に、藩主・毛利慶親の前で「武
教全書(兵学書)」を講義したと言われる。
松陰は、2度目のペリー来航時に、弟子の金子
重輔とともに、黒船に乗り込み密航しようとした
が、アメリカ側に断られて失敗、自首した。囚人
として長州に送り返された松陰は、5年にわたる
幽閉生活を送る事になる。
このとき、叔父玉木文之進が開設した「松下村
塾」の指導者として、国を憂う気概あふれる青年
たちを相手に教育を行った。ここから、維新の原
動力となったたくさんの人材が育った。高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、
品川弥二郎、山県有朋などである。
77
松陰は、全国各地の見聞をもとに、各藩の時局に対する見通しのなさを痛烈に批判
し、守旧的で硬直した幕府の政治を大いにののしった。
一律に自分の政治信条や時務判断を押し付けるのではなく、塾生各自の自発的な研
鑚を引き出す松陰の指導と、全国の同志と連絡を取り、実現の可能性があると判断さ
れたあらゆる合法・非合法の政治改革を進めんと努力した不屈の維新運動家としての
情熱は、それを聞く塾生の心に火をつけ、意識のある弟子達を自ずと維新の戦いに赴
かしめた。
しかし、松陰の思想はしだいにその過激さを増し、ついに危険思想の持ち主として、
再び獄につながれた。結局、安政6年(1859)には安政の大獄に連座する形で江戸へ
送られた。松陰本人は軽い裁きで済むと思っていたようだが、同年 10 月 27 日、死罪
を言い渡され、江戸伝馬町の獄で処刑された。
身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも
とどめおかまし大和魂
これは松陰が獄中で死を予感して作った辞世ともいえる歌である。わずか 30 歳と
いう短い生涯だったが、その激烈なまでの生き様と誠実な人格は松下村塾の弟子たち
はもとより、全国の志士たちにも多大な影響を与え、尊皇・倒幕の原動力となった。
(2)坂本龍馬
坂本龍馬は、天保 6 年(1853)11 月 15 日土佐(高知県)
の郷士の家に生れた。武士の扱いをされないような下士だ
が、暮し向きは悪くなく、19 歳から 5 年間、江戸に出て北
辰一刀流・千葉定吉道場で剣の腕を磨く。その一方で、故
郷・土佐にたびたび帰省し、藩の絵師・河田小龍から海外
の事情をいろいろ聞いて、大きな影響を受けた。河田はジ
ョン万次郎から西洋事情を聞き書きし、又薩摩の反射炉や
長崎の開港を実際に見てきた知識人だった。龍馬は、河田
の話から今まで藩を「お国」と思っていたが、国とは「日
本」のことだと知る。
龍馬は、土佐で武智半平太が主催する土佐勤王党に加盟
し志士として活躍していたが、やがて土佐を脱藩する。そ
の後、勝海舟と出会い、幕府の神戸海軍操練所の塾頭となり、横井小楠、西郷隆盛、
桂小五郎、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)らとともに維新へと突き進む。
龍馬が維新に果たした役割で、もっとも大きなものは3つある。それまで犬猿の仲
だった薩摩・長州を討幕という目的のもとに仲直りさせた薩長同盟、大政奉還、日本
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最初の商社亀山社中の設立である。国際交流のなかでの経済の重要性を龍馬は知って
いた。のちの五箇条の御誓文のもとになった船中八策も龍馬が考えている。
慶応3年(1867)11 月 15 日に事件は起こった。場所は、京都河原町の近江屋新助
方。そこへ同郷の中岡慎太郎が訪れ、歓談となった。午後 8 時頃、十津川の郷士と名
乗る刺客があらわれ、二人を襲った。「おれは、脳をやられた。もういかん。」と臨終
の言葉を囁いたという。くしくもその日は龍馬の誕生日であった。
暗殺した犯人は、新撰組、伊東甲子太郎率いる御陵衛士、西郷隆盛、後藤象二郎な
ど諸説ある。明治になってから、元京都見廻組の今井信郎の自供により京都見廻組犯
人説が一般的になってはいるものの、その自供にも謎が多く、誰が何の理由で暗殺し
たのかはいまだに分かっていない。
(3)勝海舟
勝海舟は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開
いていた無役の御家人であった。ペリー艦隊が
浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを
進言し、蛮書調所の翻訳担当者に任命される。
やがて、長崎海軍伝習所で 3 年間軍艦の技術的
な事を学び、この時薩摩藩士とも付き合いがで
きた。これが後に、西郷隆盛との関係などに役
立った。江戸に戻った勝は、江戸に開かれた軍
艦操練所の教授方頭取に任命され、日本人の技
術で初めて太平洋横断を咸臨丸で行ない、2 ヶ
月ほどサンフランシスコに滞在している。
後に、15代将軍、徳川慶喜の意を受けて、
主戦派に変わり恭順派の勝が幕閣をリードす
るようになった。江戸城開城の1ヶ月前の事である。
江戸城総攻撃の目前の3月13日、14日に勝と西郷隆盛の会談が行われた。この
時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ軍事取扱いに任じられていた。相対す
る西郷は、東征軍の実質的な指揮者、大総督府参謀であった。
実はこの会談、山岡鉄舟が予備折衝を済ませていたという。勝も西郷も、総攻撃で
江戸が火の海になるのを決して望んではいない。薩摩としては、味方してくれている
イギリスが、横浜貿易に被害が出るのを嫌がって、江戸城総攻撃に反対していた事も
ある。勝は、その事を知っていたのだった。それに、ただでさえ農民一揆や打ちこわ
しが多発しているところに、江戸が戦場になれば混乱がどこまで広がるか分からない。
また、勝は英仏など外国勢力の前で内戦を避けるという目的があったのであろう。必
要とあらば、江戸中に火をつける手はずは整っている。互いに、相手の思惑と脅しを
知りながら知らぬふりをしている。
79
勝は「江戸の一般市民を殺してはならない。
将軍も私心は持っていないから公明寛大なご
処置を。」と言えば、「一存では決めかねるが、
ひとまず総攻撃は延期しよう。」と西郷が答え
る。こうして、江戸城無血開城が決まった。慶
応4年(1868)のことである。
5)新撰組-誠の旗の下に
新撰組は、文久三年(1863)に結成されている。もともとは清河八郎が提唱した浪
士組だったのだが、京都に到着するや、方針を佐幕から尊攘へ一変させたため、江戸
へ戻る組と、京都残留組に分裂する。この時の残留組が京都守護職である松平容保の
配下となり、新撰組と名乗るようになった。
もともと、浪士あがりや田舎の剣客といった、寄せ集めの連中の集まりだったため
に、これを束ね、組織化するために厳しい規律が必要だった。そこで土方が考えたの
が局中法度と呼ばれる規律である。
一、 士道に背くまじき事
一、 局を脱するを許さず
一、 勝手に金策いたすべからず
一、 勝手に訴訟取扱うべからず
一、 私の闘争を許さず
右条々に相背き候者切腹申し付くべく候也
内容の厳しさもさることながら、土方が徹底しているところは、実際に多くの隊士
をこの法のもとに断罪し、切腹させ、あるいは処刑していったところにある。
当初は、芹沢鴨、新見錦、近藤勇の三人が局長を努めていたが、芹沢の素行の悪さ
等が原因で、内紛がおこり、芹沢は近藤により暗殺(粛清)され、新撰組は、新体制
となった。
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局長 近藤勇
総長 山南敬助
副長 土方歳三
一番隊組長 沖田総司
三番隊組長 斉藤一
五番隊組長 武田観柳斎
七番隊組長 谷三十郎
九番隊組長 鈴木三樹三郎
二番隊組長
四番隊組長
六番隊組長
八番隊組長
十番隊組長
永倉新八
松原忠志
井上源三郎
藤堂平助
原田左之助
元治元年(1864)、この前年に京を追われた長州藩は巻き返しを図り、京への
出兵を画策する。この動きに呼応して京に潜伏していた尊攘派の志士たちは、6月半
ばの風の強い日を選んで御所を始め京都市中に放火し、天皇を奪って長州藩へ連れ去
るという陰謀を計画する。
6月5日早朝、この計画の打ち合わせのために京に潜伏する長州藩の面々が集まる
との情報を、古高俊太郎を拷問(足の裏に五寸釘を刺し通された上、逆さに吊られ、
火のついた百目ロウソクを立てられた、となっている)して得た新撰組は、出動。だ
が、この時点では、会合場所が池田屋、四国屋のどちらなのか分かっていなかった。
午後8時に会津藩兵と落ち合うことになっていたのだが、約束の時間になっても会
津藩兵は現れない。午後10時ごろまで待っていたのだが、近藤が 6 人を率いて池田
屋へ、土方が20 数人の隊士を率いて四国屋に向かった。
この時池田屋に集まっていたのは、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、長州出身で吉田松
陰門下生の吉田稔麿、土佐の望月亀弥太、北添佶麿といった約30名。
「御用改めである。」
近藤は、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤の養子周平、原田のたった7人で斬り込んでい
った。
不意をつかれた志士たちも果敢に応戦はしたが、やが
て到着した土方の隊も戦闘に加わり、会津兵も池田屋を
取り囲んだ。激しい戦闘は2時間にわたり、宮部、吉田
らが死亡し、他にも多数の死傷者を出している。尊攘派
は、壊滅的な打撃を受けてしまった。この、池田屋事件
により、維新が1年は遅れたと言われている。
慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府
勢力が京都から江戸へ移ると、近藤以下新撰組の生き残
りも大坂から江戸へ逃れた。江戸で官軍との戦闘に備え
るためである。
東山道を攻め上がってくる板垣退助の軍を迎え撃つべく甲陽鎮撫隊を結成し、現在
の山梨県勝沼の辺りで戦うも惨敗。近藤はなおも兵を集め、
「大久保大和」と変名を
81
使い、千住五兵衛新田(現・東京都足立区)、下総流山(現・千葉県流山市)などを
転戦するも、ついに、隊を解散し、官軍へ投降する。同年4月25日、板橋にて斬首
される。享年35歳。
副長の土方は、残った隊士を連れ、北へ向かった。仙台で榎本武揚ら旧幕府艦隊と
合流し、北海道へ逃げ、箱館を攻略。その軍事的才能を見抜いた榎本により、樹立し
た「蝦夷共和国」の陸軍奉行並に選ばれる。
明治2年(1869)の春、新政府軍は本格的な北海道攻略に着手する。大軍を繰
り出した新政府軍に対して、土方は最期まで持ちこたえるが、本拠地の箱館を占拠さ
れたため、やむなく5月1日、五稜郭に篭城。
5月11日、箱館市街奪回のため、およそ50人の精鋭を連れて出陣するが、大軍
の前にはなすすべもなく、一本木関門で腹部に銃弾を受け戦死。享年35歳。この時
点で新撰組は消滅したと言っていいだろう。
なお、この日の6日後の5月17日、五稜郭が陥落し、榎本軍が投降した。
参考図書: 「新選組始末記」 子母澤寛 著
「新選組遺聞」 子母澤寛 著
「親選組物語」 子母澤寛 著
「新選組」 黒鉄ヒロシ 著
第4話
近 代 国 家の 樹 立
1)大政奉還と王政復古
政治は国の進路をとる営みである。多様な思考を持つ人間が存在する中で、当然方
向性を巡る意思の相違が生まれる。そして妥協を経ながらも自身の意思を貫いた者が
影響力を増し、政治の世界でのリーダーシップを得る以上、権力を自らのものにしよ
うとする政治闘争が生じるのも自然の成り行きだといえよう。
私達は、大政奉還と王政復古にこの権力闘争という側面が多分に含まれていたこと
を、歴史教育の中でほとんど教えられてこなかった。しかしまさにこの二つの事象は、
幕府と薩摩・長州に代表される倒幕派による権力闘争という一面を色濃くもっていた。
安政元年(1858 年)の開国以降続いた幕府権威の失墜は第二次長州征伐の失敗によ
って決定的となった。このまま事態が進めば幕藩体制の瓦解は決定的なものとなる。
倒幕派は朝廷内工作を仕掛け、瓦解の決定打として慶応三年十月に倒幕の密勅が発せ
られた。
追い詰められた徳川慶喜がここで起死回生の一手として行ったのが同年冬の大政
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奉還である。すなわち自ら朝廷に政権返上を申し出ることによって倒幕派の大義名分
を奪ってしまい、幕藩体制を一旦廃止し、朝廷の下に諸侯を加えた新たな議会体制を
つくることで、徳川家を中心とした政権秩序を再建しようというのが正しく慶喜の意
図したところであった。
この試みが成功すれば倒幕派の戦略は完全に頓挫することになる。そうはさせまじ
と倒幕派が画策したのが、武力による徳川家打倒、すなわち同年十二月の王政復古の
クーデターだ。これは西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視の三者を中心に計画されたも
ので、薩摩藩を中心とする藩兵が御所の要所を固めて反対派公卿らの参内を阻止し、
朝廷内に外部から隔離された政治空間をつくることで天皇を中心とする新たな政治
秩序をつくろうとしたものだった。神武天皇の昔に戻り、天皇を奉じてその裁断によ
る政治を行い、朝廷内の役職の改廃を実施して倒幕派の公家・志士たちが官職に就く。
そのために御所封鎖直後に発せられたのが王政復古の大号令で、そこでは「総裁、議
定、参与」という新たな役職設置をうたっている。これは政治意志の決定を担うもの
が明確に代わるという宣言であった。
しかし慶喜は執拗に巻き返す。王政復古の大号令後の御所での会議で、倒幕派が主
張した慶喜の内大臣の官位剥奪と領地没収は土佐藩前藩主山内容堂や佐幕派公卿ら
に猛烈な抵抗を受け、慶喜は大政奉還に至った行為を正当化する文書を朝廷に提出す
る。さらに慶喜は諸藩に兵を率いて大坂に参集するよう呼びかけ、同時にイギリス、フラン
ス等六カ国の公使を大坂で引見し、引き続き日本の外交権を掌握していることを誇示
したのである。手詰まりに陥った倒幕派は幕府を挑発して戦闘を仕掛けさせ、朝敵の
汚名を着せて武力打倒する方針を固める。
ところでここで当時の政治状況に目を向けたい。いつの時代もそうだが、政治闘争
においてはどちらが政治的正当性を有するかが勝敗を大きく左右する。そしてそこで
決定的に重要なのは政治的「旗印」である。例えば平成六年の政治改革関連法成立を
巡る自由民主党内部での権力闘争では、「改革派」「守旧派」というレッテル貼りが、
国民の支持を得ることを目的として、立場を異にするものの間で行われた。
この時代、倒幕派、幕府側双方が政治闘争を勝ちぬく上での「旗印」
、すなわち大
義名分の役割を果たす言葉として用いたのは、「公儀」「宸断」「神武創業」
「朝敵」等
だった。「旗印」を掲げた倒幕派と幕府側それぞれの動きが状況を目まぐるしく変え、
それに伴って「公論」、すなわち当時の政治的空間内部での世論も変化する。当時、
多くの藩は未だ日和見的態度をとっていた。巧みな政治的駆け引きによって「公論」
を引き寄せることが、こうした藩を引き込んで勝利をもたらすのであった。
当時実質的に薩摩藩を代表する存在だった大久保利通は、王政復古の大号令を実現
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するためには武力による倒幕しかないとの決意を記すと同時に、万が一手法を誤った
場合には「公論」を相手に与えてしまい、それが倒幕派就中薩摩・長州等雄藩に致命
的打撃を与えることを認識している。そして大久保や西郷は決死の覚悟でこの路線を
とることを決意するのである。大久保は後々、この時の覚悟のことを「丁卯の冬」と
いう季節を表す言葉で繰り返し言及している。
こうして慶応四年、鳥羽・伏見において戊辰戦争の戦端が開かれ、倒幕軍は優位に
戦況を進めて江戸開城を迎えたのである。
参考文献: 「日本の近代2(明治国家の建設)」
坂本多加雄
2)廃藩置県という社会革命
廃藩置県の本質は、民と税という国民国家の基礎となる二大要件の帰属を、藩から
「国」に移すことに他ならなかった。
戊辰戦争は明治元年(1868 年)に官軍の勝利に終わった。しかし「新政府」の実態
は薩摩・長州を中心とする有力諸藩と宮廷勢力(公卿)の連合体であり、統一国家の
指導部というには程遠い状況だった。木戸孝允、大久保利通、岩倉具視ら新政府指導
者にとっては、官軍を構成する武士階級の討幕・攘夷運動へのエネルギーや階級とし
ての既得権益喪失への不安(それらは外国人襲撃という形で噴出しつつあった)を新
コメント : 統一国家の指導部
コメント : 「具視」が正しい
国家建設の方向へ転換させながら、同時に各藩がもつ領民の帰属と徴税権を新政府に
移行させるという重要課題を、いかに暴発を防ぎながら円滑に行うかが喫緊の課題だ
ったのである。
しかるにこの問題は、二百七十年余にわたって続いてきた制度を根本から変えると
いう一種の社会革命であった。当然藩主の抵抗も予想され、漸進的に変革を進める必
コメント : 「一種の社会革命」で
要があったことから、まず藩主から朝廷に版籍(領地と領民)を奉還させ、その上で
藩主を知藩事に任命し、さらに彼らの家禄を石高の十分の一に定め、各藩の藩政と家
はどうか?国体の断絶を前提とす
政を財政面から完全に分離させ、藩士を「士族」とすることで藩主―家臣の主従関係
を完全に絶ったのである。
への回帰(復古)に立脚して政体
る諸外国の所謂「革命」と、国体
や社会制度の変革を行う日本の
「維新」「維新革命」の違いは明治
こうして漸次封建制度を変えていく中、新国家建設のため鉄道、郵便、電信等数多
維新を論ずる上で重要な視点と考
くの事業が実施に移されると同時に、逼迫する財政事情に耐えかねた大蔵省から、財
政基盤の整備が火急の課題だという声が沸き起こるのは自然であった。徴税制度の確
えますので「革命」の用語として
立を急ぐためにも完全なる「郡県」の実施、すなわち廃藩置県を求める動きが高まり、
新政府指導者間の様々な疑心暗鬼を克服しながらも、最後は強大な軍事力を有する薩
検討して使った方がよいと思いま
摩藩の指導者、西郷隆盛の支持が決め手となり、明治四年七月、在京諸侯が朝廷に参
集する中、廃藩の詔勅が下された。知藩事の諸侯達は領地を去り、華族となって東京
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の使用は可ですが、ニュアンスを
す。
に住むこととなる。
維新後、新政府への集権化をすみやかに図るため、廃藩置県は不可避であった。し
かし数百年つづいた制度を、抵抗するエネルギーを逓減させながら変えることは至難
の業だったに違いない。明治天皇も廃藩置県がうまくいくかどうか宸断を悩ませ、西
郷を召してご相談されたところ、西郷が『おそれながら、この吉之助がございますれ
ば』と奉答したので安心されたとの逸話が伝わる。
このように新政府の指導者達がそれをなさねばならぬという確信を持ち、また実行
に移す政治的力量を有していたことに、私は瞠目したいのである。また身分を廃止さ
れた武士達が、エネルギーの昇華先を求めながらもこの大変革を受け入れたこと、更
にその前提として、天皇を国家の中心、「公」的なものの源泉とする意識(幕藩体制
も朝廷から征夷大将軍が政治的統治の権限を授けられたことを形式的には前提とし
ていた)の根強さが、廃藩置県を実現ならしめたことに、改めて目を向けたいのであ
る。
参考文献: 「日本の近代2(明治国家の建設)」
坂本多加雄
3)文明開化と岩倉使節団
廃藩置県が断行された後、新政府は、散髪・廃刀の許可、華士族・平民間の婚姻許
可、職業の自由選択、華士族の農工商従事の許可など、一連の文明開化政策を展開し
つつ、明治4年(1871年)11月には、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤
博文など、新政府の中心的指導者が大使節団を結成、2年間に及ぶ欧米への「文明開
化」実見の旅に出発する。
また、福沢諭吉、西周など、主として旧幕臣出身の知識人が、明治6年(1873
年)8月に「明六社」という学術啓蒙団体を結成した。彼らが共通して課題としてい
たのは、旧来の因習や価値観を否定し、人々を新たな文明開化の人間観や社会観に向
けて啓蒙することであった。
福沢諭吉は、
「人々がそれぞれ自由な活動を追求する結果、社会が『人事繁多』あ
るいは『多事争論』といった忙しく活発で変化に富んだ多元的な有様を呈しつつも、
秩序が維持されていることが文明の特筆すべき成果である」と主張したのである。
このように廃藩置県以降、新しい社会観に立って、四民平等のもと、旧来の道徳的
抑制を打ち払い、人々の自在な活動とエネルギーの喚起を図る啓蒙活動によって、次
第に開化志向が政府や民間に顕著になっていくのには、こうした知識人たちの活躍も
大きく寄与していた。
ところで岩倉使節団は、直接には、翌明治5年に到来する条約改正交渉の期限を前
85
に、国内の体制が整わない状況下での交渉を延期すべく、また、将来の条約改正に備
えて、西洋文明諸国の法制度や機構についての新政府指導部の知見と理解を深めるこ
とを目的としていた。
余談になるが、祖国の命運を背にしながら、彼らがいかに毅然とことに処したかは
『「堂々たる日本人」泉三郎著』に詳し
く記述されているので参考にされたい。
彼らは、廃藩置県に至るまでの政府内
部の対立に鑑みて、留守中、政府機構の
現状を維持し、帰国後に自分たちの指導
を通して新しい国家建設を遂行すべく、
西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らの留守
政府との間で、廃藩置県に直接かかわる
業務以外、大きな改革は凍結するという
約定を結んで出かけた。
それにしても、新政府の基盤を固めるべく重大な改革を断行する最中、新政府の中
心的指導者を含めて総勢100名を超える大使節団の2年近くにもわたる外遊が実
施できた背景、言いかえれば、にわかづくりの明治政府の安定の根拠が何によるもの
であったのかは大変興味深いところである。
それは偏に、
「日本が統一国家の建設に成功するためには、天皇を中心とした合議
体制が必要不可欠であって、明治政府はそのためにつくられたものである」との国民
的合意が歴然とそこに成立していたからに他ならないのである。
参考文献: 「日本の近代2(明治国家の建設)」
坂本多加雄 著
「歴史の中の帝国日本」 和田耕作 著
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4)教育勅語
明治23年に下賜され、昭和23年の国会決議により失効した。
維新のさなか、明治天皇は「五箇条の御誓文」を発布され、年号を慶応から明治と
改め、新生日本の進むべき目標を示された。
明治天皇は教育に非常に熱心で、また国家の基盤となるものとの考え方から、明治
23年10月30日に「教育勅語」を下賜された。
これによってわが国の道徳の基盤、教育の理念が明確にされたが、戦後、日本人の
精神的武装解除を目的とする戦勝国アメリカは、国会で教育勅語を廃止するよう強硬
に申し入れ、昭和23年に失効決議となった。
ここで、明治天皇が日本人の教育のあるべき姿として熱心に考えつくられたものが
(アメリカにとっては、敵であった日本の教育方針を誤りとするのは当然のこととし
て)
、なぜ日本人までが戦後、誤った考え方であると思うようになったのか、その背
景はなんだったのか。
一つには、物心つかぬ小学生の頃から丸暗記させられ正しいと教えられていた理念
が戦争に負けたとたん、突然誤りであると教わるようになったことに対する不信感が
あったと思われる。しかしながら、これは日本人自身が誤った教えと自覚したわけで
なく、「教育勅語」の役割に気づいたアメリカが、占領政策の一環として日本人を洗
87
脳していったことは明白である。
また、「一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉シ」という部分は、戦時に際してはお国のた
めに一斉に立ちあがり愛国心のかたまりとなって国を守る気概を発揮する合言葉と
なり、日本人の心を一つにまとめていたが、事実として多くの日本人が戦争で死んで
いった。
日清、日露戦争でも多くの犠牲者はあったのだが、戦いに勝利したことで、その人々
はお国の為に命をかけて戦った英雄として「名誉ある死」を得ることができた。しか
し昭和20年に敗戦国となったことで「名誉ある死」を得られなくなった人達は、残
された家族や国民に深い悲しみと後悔の念を残すこととなり、この気分が教育勅語の
言葉を否定的にとらえ「無駄死に」や「犬死に」という考え方にまで広がっていった
のではないか。
しかしながら、祖国のため家族のために命をかけて亡くなった人達の同じ命が、勝
てば「名誉ある死」で負ければ「無駄死に」なのか。
戦後、アメリカの占領政策(特に日本人を精神的に骨抜きにするという)は、もの
の見事に花開き、今や愛国心=軍国主義というのが常識となるまでに成功した。
愛国心を持つものが非常識というのはこの国だけの常識であることを私達は知ら
ねばならない。そしてそれは私達自らが選択したものではないことも。
国を愛し、祖先を敬うことは万国共通のものであり、日本人が日本の歴史を誇りに
思うことも同様である。
戦後教育の中で触れられる事のなくなった「教育勅語」をあらためて読んでみると
「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信し」等、現代の私達にとってもな
んら違和感のないあたりまえの道徳観であり、人間教育の基本である。これが近代日
本民族の精神的バックボーンとなって日本人の誇り高き精神を形成してきたことは
明白である。
戦争を善悪だけでとらえ、負けた戦争=悪かった戦争としか考えられなくなってし
まった人達には抵抗があるのもやむを得ないのかもしれない。しかし、現在の戦後教
育がもたらしたものの結果は50年を過ぎ、確実に社会の表面にあらわれてきている。
神話を否定するアメリカの洗脳教育がもたらしたものは、私達日本人の中に綿々と連
なる民族のアイデンティティーを分断し、有史以来の民族の歴史を誇りに思うことす
ら罪と思うよう刷り込まれているのである。
私達には、「教育勅語」というものを単純に否定せず、その中身についてもう一度
考え、見直してみることが大切なのではないか。
5)条約改正
開国以降の日本は、従来の外交関係とならんで、欧米諸国との新たな条約関係に入
88
ることになったが、ここでの条約(第3話の2項で記述)とは、治外法権、関税自主
権の欠如、片務的最恵国待遇といった条項をともなう不平等条約であり、憲法(大日
本帝国憲法)の制定と併せて、
「条約改正」は明治政府の重要課題であった。
明治4年(1871年)の岩倉使節団は、政府の全権委任状を持参しておらず(あ
わてて大久保利通と伊藤博文が一時帰国して携えるも)交渉に失敗。使節団帰国後、
外務卿に就任した寺島宗則が、あらためて条約改正の試みを開始。米国との交渉を比
較的順調に進め、明治11年7月には「日米新通商条約」を成立させるも、英国の非
難と圧力によって、新条約実施のめどもなくなる。
治外法権撤廃の声が世論として高まる中、明治12年(1879年)寺島に代わり
井上馨が外務卿に就任、改正交渉を開始。明治15年1月から7月までの間に、通算
21回にわたる条約改正予備会議を開催、途中、甲申事変などに忙殺され、条約改正
案が各国の了承を得て第1回合同会議が開催されたのが明治19年5月1日。翌明治
20年4月22日の第26回会議で、新しい通商条約、修好条約の成案がほぼ合意に
至った。
しかしながら、鹿鳴館の仮装舞踏会への非難、政府のお雇い外国人ボアソナードの
意見書に伴なう反対論、外交政策の挽回もかかげた「三大事件建白運動」など、反対
運動は民族主義的な反発のエネルギーによっていっそう活性化し、明治20年7月、
井上はやむなく各国に条約改正交渉の無期延期を通告、9月には外相を辞任し挫折す
ることとなる。
政府が「保安条例」を発令し三大建白運動を終焉させた後、明治21年(1888
年)2月には大隈重信が外相に就任。大隈は井上のあとを引き継ぎ、明治22年には
主要大国との交渉をほぼ終了するも、爆弾テロにあって片足を失い、黒田清隆首相の
辞職と共に辞任し、大隈の条約改正交渉もここで頓挫する。
その後、英国がロシアの東アジア進出を警戒して日本に好意的になり、青木周蔵外
相が改正交渉を再開。しかし、青木も明治24年(1891年)の大津事件で外相を
辞任。だが、明治27年(1894年)陸奥宗光外相は、領事裁判権の撤廃と関税率
の引き上げ、相互対等の最恵国待遇を内容とする「日英通商航海条約」の調印に成功。
残された関税自主権の回復も、明治44年(1911年)小村寿太郎外相のもと「日
米通商航海条約」によって達成されることとなる。
このように日本の条約改正事業は、内外の条件や環境がミスマッチして容易に達成
されず、今日から見て、井上や大隈の方針やその内容をいかようにも批判することが
できるであろう。しかし、日本がいたずらに外国人への排斥的行動に出ることなく、
あくまで外交上合法的な、そして執拗な努力によって、劣悪な国際法上の地位を一歩
一歩向上させたことの意味を決して見落としてはならない。
参考文献: 「日本の近代2(明治国家の建設)」
89
坂本多加雄 著
「みるみるわかる日本史」
富増章成 著
6)日清戦争
明治8年(1875年)日本軍艦が朝鮮側の江華島砲台から砲撃され、日本が報復
に砲台を破壊した「江華島事件」の後、明治9年「日朝修好条規」を締結。この条規
に基き、日本は、朝鮮を自立した国家として認めて開国を促した。
開国以降の朝鮮内部では、大院君への対抗心から、日本の明治維新をみならって自
国を改革したいとする親日派(独立党)勢力と結んだ閔氏一族が台頭していた。明治
15年(1882年)これに反対する大院君側の指導で、閔氏政権を倒し日本人を拝
斥する大反乱「壬午事変」がおきる。壬午事変は、清国の鎮圧により早期解決をみる
も、清国の機敏な対応は、朝鮮における清国の潜在的な存在をクローズアップするに
は十分であった。
明治17年(1884年)には親日指導者で朝鮮内政改革をめざす金玉均、朴泳孝
らがクーデター「甲申事変」をおこす。この時、日本軍は王宮を占領したが、清国軍
の出動によって鎮圧。甲申事変は、日本政府の意図するものではなかったが、その後、
「天津条約」によって、両国は朝鮮から撤兵する。しかしながら、以降、日本と清国
の間の溝は深まるばかりであった。
明治27年(1894年)東学党の乱、「甲午農民戦争」が勃発。すでに親清派に
態度を変えていた閔氏一派が、清軍の派兵を要請し、清国がこれを機会に朝鮮を一挙
に支配下にいれようとしたため、日本もあわてて出兵する。
当時、「日英通商航海条約」が締結され、英国が日本に好意的だったこともあり、
第二次伊藤内閣は清国との戦争「日清戦争」に踏み切り、日本は、あの巨大な清国に
勝利する。翌明治28年4月には、日清間で「下関条約」が締結され、日本は遼東半
島・台湾の割譲、また、賠償金を得て大陸進出への一歩を踏み出すことになった。
だが、極東進出を狙っていたロシアは、ドイツ、フランスを誘って、日本に遼東半
島返還の要求をせまった(
「三国干渉」)のである。この三国干渉は、日本に「臥薪嘗
胆」の思いを抱かせ、後の日露戦争への気概となっていく。
ところで、当時の日本にとって、先に述べた条約改正が、国際法上の地位向上の課
題であったとすれば、対朝鮮問題は、国家の安全保障にかかわる問題であったという
ことを特筆しておきたい。
政府の朝鮮政策を規定したのは、まぎれもなく北方ロシアの朝鮮への進出が日本の
直接的な脅威になるという国際戦略上の懸念であったし、また、日本を含めた極東地
域が、世界的規模で展開されていた英国とロシアとの先鋭的な角逐の場となりうる状
況に加え、そこに他の欧米諸列強がどのようにかかわるのかも見過ごすことのできな
い要素であった。
90
明治初年からの征韓論と後の明治43年(1910年)の韓国併合を一直線に結び
つけ、当時の日本に首尾一貫した朝鮮植民地化の意図があったと読み取ってしまうの
はあまりに短絡した推定であるし、むしろ、迫りくる国際戦略上の懸念を苦慮しつつ、
国家の安全保障を一歩一歩築きあげる政府首脳たちの姿を見て取りたい。
参考文献: 「日本の近代2(明治国家の建設)」
坂本多加雄 著
7)日英同盟(日英同盟と日米安保条約)
1902 年に結ばれた日英同盟は、戦後(第二次世界大戦後)の日米同盟と同様に、日
本の国益を守る上で大きな役割を担い、日本の国家の進路を決した同盟である。もし
日米同盟がなければ、戦後、日本が共産主義勢力の侵攻を防げたかは疑問である。同
様に、仮に日英同盟がなければ、明治当時の日本がロシアの南下政策という脅威に直
接さらされ、また列強の植民地支配が迫り来る中で、それらの力に屈することなくす
んだのかどうか疑問である。
私はこの項で「我が子に伝え」、日本青年会議所の会員諸兄にひとつのことを訴え
たい。今記したとおり、両同盟はまさに国家の存続に多大な貢献を果たした。しかし
まず、各々の締結に至る背景には同盟の「自主的な選択」という点で大きな相違があ
った。さらにに同盟存続のためにどれだけの深慮を費やしたのかという点において、
事務方はともかく政治化自身のそれには極めて大きな違いがあったと、私には思えて
ならない。日米同盟は現在も続く日本にとっての最大の支柱である。この支柱は今後
も揺るがず、引き続き国家存続の支えになり得るのか否か。日英同盟はその意味で、
日米同盟にとってその姿を照らし出す鏡になる。ここではその紐解きを試みたい。
まず、政府首脳がいかにそれらを「選び取ったか」という点での両同盟の決定的な
差異である。実は日米安保条約が締結された際の「情景」は、不思議なことに全く不
明なのである。大方の日本人が想像するように、1951 年 9 月、サンフランシスコで講
和条約調印と同じく、日本政府代表団と米国政府代表が一同に会する中で締結された
のではない。条約の草案は講和条約草案とともに米国からわずか 2 週間前の8月4日
に外務省に送付され、その内容は公開を一切禁じられていた。したがって、国民には
その中身は全く伝わっていない。講和条約調印の翌日、どうやら吉田茂一人のみがサ
ンフランシスコ金門橋脇のプレシディオ陸軍基地に、両脇をMPに押さえられるよう
に連れていかれ、一般兵士の集会所らしき場所で調印したらしい。現に吉田の署名は
名前のみで、日本国総理の肩書きは付されていない。つまり戦後日本の進路を決定し
た同盟のスタートは、日本国の意志が充分に働き、反映された上でのものとは言い難
かった。
一方、日英同盟の締結はこれと全く異なる契機をもつ。明治政府首脳に決断させる
91
最大の誘因となったものは「三国干渉」だった。ロシア、ドイツ、フランスが遼東半
島の清への返還を日本に迫った三国干渉。それが政府首脳に与えた印象は脅迫観念に
近いものであったろう。陸奥宗光外相は干渉受諾に際し、「三国に対抗することは独
力では不可能である」と述べている。国家の独立を担うことを使命とする政治家にと
り、これほどの屈辱はない。列強の合従連衡の中、戦争に敗れた国家が主権を失うこ
とは、清の先例に明らかであった。当時の国際情勢の下では、国益の保全を図る上で
同盟国の存在が必要不可欠だということを、明治政府首脳は心底から悟るのである。
ここから、どの国とパートナーシップをもつべきかという慎重な模索が開始される。
選択肢は「日露協商」と「日英同盟」だった。
伊藤博文、井上馨、小村寿太郎ら政府首脳が戦略的にクールなリアリストだったこ
とは強調されてよい。伊藤、井上は二つの選択肢の利点を見極めるという立場から当
初日英同盟に慎重だった。そしてこの国家の岐路ともいうべき重大決定を前に、伊藤
はロシア訪問を敢行する。伊藤の目的は唯ひとつ、「満漢交換」つまり朝鮮半島は日
本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という線引きをロシアが呑むか否かを探ることだ
ったのである。
おりしも、一方で明治政府は日英同盟の条約秘密交渉を続行しており、この伊藤訪
露は英国を極めて神経質にさせた。しかし伊藤は自らがロシアから直接感触を得るま
で、最終決断を保留するよう政府に釘をさしている。他方、外相の小村は二国を対象
にした交渉が開始されるや否や、まず英国がその歴史上、同盟が規定する約束を不履
行にした経験があるか否かを外務省に徹底的に調べさせている。調査の結果、外務省
は英国の履行度合を高く評価した。結果として、ロシアは「満漢交換」を拒否した。
伊藤は日英同盟の選択に同意する。ロシアをインドへの関心から引き離し、極東に釘
付けにさせたい英国の思惑。そしてロシアの脅威に対する一定の抑止力を得たい日本
の思惑。両国の利益が均衡し、日英同盟は結ばれる。
日露戦争を遂行する上で、日英同盟は大きく寄与したといえるだろう。だがそれは
暗黙のうちにロシアを共通の脅威と想定していただけに、日露戦争後は同盟の目的そ
のものが希薄になっていき、1921 年破棄されるに至った。
同盟は国益を保守する上でのオプションのひとつである。だがその選択は国益を大
きく左右する力をもつ。先に記したとおり、日米同盟の締結に際してはどのオプショ
ンを採るかという判断の余地は日本になかった。にもかかわらず日米同盟が今日まで
継続しているのは、ひとえにそれが国益に合致してきたからである。冷戦が終結し、
日米同盟が想定したソ連という脅威は消滅した。だが東アジアには、中台問題、朝鮮
半島情勢という日本の安全保障に大きな影響を与えかねない危機の萌芽が存在する。
日米同盟が今後も続くのか否かはこうした戦略情勢の変化によって決まるであろう。
92
英国の歴史家イアン・ニッシュが言うように「同盟がひとつの状態にとどまってい
ることはありえない」。日英同盟の締結に際して先人が示した冷徹な現実主義は、現
代日本の外交に大きな範を示していると言えよう。
8)日露戦争―世界史の流れを変えた大事件
私が住む新潟県上越市の高田公園一角
に山県有朋、東郷平八郎両元帥による日露
戦争地元戦没者の慰霊碑がある。今は訪れ
る人もほとんどおらず、ただひっそりと碑
はたたずんでいる。
私にはこの風景が戦後日本に大きく欠
落したものを象徴しているように思えて
ならない。
大東亜戦争敗戦後のGHQによ
る日本占領は「日本の戦争遂行能力を徹底
的に除去する」という方針の下に行われ、これは兵器・産業等の物理的能力の破壊と
同時に、日本人の心理・精神から戦争を行う意志をも完全に除去することを意図した。
こうした目的を達成するため、GHQは昭和20年12月8日から日本の新聞各紙に
自らの編集になる「太平洋戦争史」の連載を強制させるなど、徹底したプロパガンダ
で、大東亜戦争でいかに日本が非道徳的行為を重ねたかを国民に浸透させていく。そ
の結果、敗戦は米国に対する「道徳的敗北」として広く国民の意識下に浸透し、以後
戦争に関わる事柄すべてをタブー視する今日の風潮が生まれるのである。
日露戦争があったという事実すら大方の国民にとっては意識の彼方へと追いやら
れ、ましてやその意義などほとんど理解されていない今日の状況は、こうした GHQ に
よる占領政策の産物だと言っても過言ではないだろう。だが私はここで声を大にして
強調したい。日露戦争の意義を理解せず、教育しないことは、その歴史的重大性に照
らして許されないと。そしてなぜ日本がこの戦争を戦わざるを得なかったかを知らず
に、当時の日本が置かれていた国際的、戦略的状況や、また今日のそれを充分に理解
することは到底不可能であると。
日露戦争は日本の国運を賭けた戦争だった。日本はこの戦争に勝つことによっての
み、国として存続することが可能になると考えられていた。もし負けていれば日本は
ロシアをはじめとする列強の植民地支配を受け、国は消滅していたかもしれない。ど
う少なく見ても主権の大半は制限されていただろう。当時の米国大統領セオドア・ル
ーズベルトは日露両艦隊の海戦に言及した書簡のなかで、「日本艦隊が勝利を得る可
能性は 20 パーセントと考えるのが妥当であり、日本艦隊が敗北を喫した折には日本
93
は滅亡の悲運に遭遇するだろう」と記している。
ではなぜ日本はこの戦争を戦わなければならなかったのか。簡潔にその理由を言え
ば、日本が死活的利益を有する朝鮮半島がロシアの勢力下に入ることを阻止しなけれ
ばならなかったからだ。朝鮮半島は「日本の柔らかい下腹部に突き付けられた短刀」
である。ここが日本の潜在敵国の勢力圏になると日本の防衛が根本から脅かされるの
である。この戦略的状況は当時も今も変わらない。例えば連合軍最高司令官だったマ
ッカーサーは朝鮮戦争の勃発で国連軍の総指揮官として半島に飛ぶ。そして戦況を逆
転するために北朝鮮の後背地であり、補給路である中国への爆撃をトルーマン大統領
に求めて却下され、その後解任された。彼は解任直後、米国上院軍事外交共同委員会
でこう証言している。「日本人が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が自衛の必
要に迫られてのことだった」。朝鮮戦争を戦うことによって、マッカーサーは日本が
明治以降の戦争を戦わざるをえなかった戦略的理由、つまり朝鮮半島と満州を勢力圏
とすることが国防上の死活的利益だったことを悟ったのである。
日露戦争はこうした日本の死活的利益が、ロシアの極東政策と衝突して起きた。当
時ロシアは不凍港を有しておらず、地中海への出口を求めてまず南下政策をとった。
だが 1832 年のエジプト事件、
53 年のクリミア戦争、77 年の露土戦争でこれに失敗し、
その結果極東に目を向けてウラジオストックを得るのである。さらに日清戦争後には
ドイツ・フランスとともに「三国干渉」を行い、日本に遼東半島の清への返還を要求
してこれを呑ませ、返す刀で対日賠償金2億両を貸し付けていた清と秘密条約を締結
してその抵当に満州を横断する東清鉄道の敷設権を獲得、加えて遼東半島を 25 年間
租借し、大連とハルピンを結ぶ東清鉄道南満州支線の敷設権を獲得する。その後ロシ
アは北清事変中に鉄道保護の名目で満州を制圧、さらには朝鮮半島へと食指を伸ばし、
韓国の完全中立化を要求するのである。
このようなロシアの攻勢に対し、日本はある外交策を検討し、ロシアとぎりぎりの
交渉をしている。いわゆる「満韓交換」である。伊藤博文が中心になり、朝鮮半島は
日本の勢力圏、満州はロシアの勢力圏という形で妥協を狙ったのだ。しかしロシアは
これを拒否、日本は日英同盟を締結する道を選択する。この同盟を背景に日本はロシ
アに対し満州からの撤兵交渉を続ける。そしてそれが実らず、ロシアが清との間で満
州とモンゴルをロシアの保護領にする交渉を開始したという情報を得たとき、両国の
国交は断絶され戦争が開始されるのである。
こうして始まった日露戦争は欧州情勢にも多大な影響を与えた。ロシアの極東方面
への兵力投入に最大の危機を感じたのはフランスである。ロシアの同盟国であったフ
ランスは孤立を最も恐れた。そこでフランスは植民地問題で相互に摩擦を起こしてい
た英国に接近し、英仏協商を締結。これはロシアに対する背信行為だったが、英国も
94
「二国以上と開戦した場合は参戦する」という日英同盟の規定に従って日露戦争に参
戦すればフランスとの植民地戦争になるため、その回避を優先させたのであった。ま
たドイツはロシアの極東権益に便乗するため、ロシアを強力に支持していたが、英仏
協商を見て一段とロシアとの結びつきを深めていった。このように戦争の勝敗が各国
の外交政策を大きく左右するだけに、海外の新聞も戦争の進捗状況を逐次克明に伝え
た。そしてそのほとんどすべてが、日本の敗北を予測していた。
日本の政府首脳、陸海軍の指導者達にも日本の勝利を信ずる者は極めて少なかった。
その理由を端的に示す数字がある。日露両国はその年間歳入比で日本が二億五千万円、
ロシアが二十億円、また常備兵力比で日本が二十万人、ロシアが三百万人と国力の差
は圧倒的といえた。ロシアの強大な軍事力、そしてそれを支える工業力、経済力に日
本が大きな畏怖を抱いていた所以である。それゆえ、短期決戦に唯一の望みをかけ、
日本有利の状況で停戦に持ち込み、後は外交交渉で決着を図るというのが政府首脳、
軍指導層の一致した認識だった。満州軍総司令官の任を受けた大山巌元帥が戦場に赴
く際、山本権兵衛海相に「戦はなんとかやってみますが、刀を鞘に収める時期を忘れ
ないでいただきたい」と告げたのが、そのことを如実に物語っている。一方、ロシア
極東軍総司令官のクロパトキンは「わが陸軍はいつでも四十万の軍隊を満州に結集で
きる。来るべき戦争は単なる軍事的散歩に過ぎぬ」と豪語した。
明治37年(1904年)2月、戦端は開かれる。開戦直後、日本政府は二人の要
人を内密のうちに米国に派遣している。一人は戦費調達の任を負った日本銀行副総裁
高橋是清であり、もう一人は米国大統領ルーズベルトに停戦後の講和斡旋を依頼する
任を負った貴族院議員金子堅太郎である。
高橋の渡米は軍費調達のための外債募集を目的としていた。政府は戦争期間を一年
とし、陸海軍は八億円、それを支える政府は四億円の戦費を要すると計算した。イン
フレ等による国内経済の混乱を避けるため、二億五千万円の外債募集を決定し、それ
を高橋に託したのである。当時外資の誘致に努めていた米国において高橋はこれを達
することができず、英国に飛ぶ。だが、そこでも日本不利の予測が圧倒的な状況下で
日本国債を買う者はおらず、また白色人種と黄色人種との戦いにおいて、日本の戦費
を調達することは白色人種(英国人)として好ましくないという雰囲気の中、外債募
集は困難を極めた。しかし高橋は屈することなく、必死の努力を続ける。結局、日本
の勝報が相次いで伝えられるにつれ日本国債の人気は上昇し、最終的に高橋は七億円
余りの外債募集に成功するのである。
他方、金子の米国派遣は開戦を決定した御前会議の場で提案され、金子への説得を
伊藤博文が一任された。金子は若い頃、八年間米国に滞在したために知己が多く、と
りわけ大統領のルーズベルトとは旧知の間柄だったため、この大任が与えられた。伊
95
藤は御前会議のあった日の夜、早速自宅に金子を呼んで説得しているが、その模様は
圧巻である。金子は米国への講和斡旋依頼が極めて困難であるとの見通しに立ち、伊
藤の説得に対し渡米を頑として受諾しない。しかし伊藤は諦めず、翌朝再度金子を呼
んで渾身の説得を試みる。
「戦争を決意したが勝つ見込みはまったくない。しかし私
はもしロシア軍が九州に上陸してきたら、兵にまじって銃をとり戦う。兵は死に絶え
艦はすべて沈むかもしれぬが、私は生命のある限り最後まで戦う。この戦は勝利を期
待することは無理だが、国家のため全員が生命を賭して最後まで戦う決意があれば国
を救う道が開けるかもしれないのだ。是非渡米し、私と共に生命を国家に捧げてもら
いたい」。伊藤の涙ながらの訴えに金子は沈黙し、「渡米します」と答えたのである。
米国に渡った金子は、日本政府の意図を察して妨害を企図するロシア、ドイツと虚々
実々の駆け引きを行い、幾多の試練を乗り越えてルーズベルトの講和斡旋を確実なも
のとした。さらには国際法の権威である米国の大学教授の助力を得て日本政府講和条
件の基礎をもつくり、期待されたその使命を全うしたのであった。
さて、開戦当初ロシアの総兵力は日本を大きく上回り、陸上兵力では日本が本土に
三個師団を残すのみであったのに対し、ロシアはシベリア鉄道経由で欧州からの大増
強が可能であった。しかし事前の予測に反して日本陸軍は連勝を重ね、攻防の要であ
る旅順要塞への困難を極めた攻撃では、総司令官乃木希典の指揮の下、多大な犠牲者
を出しながらも難攻不落といわれた要塞を陥落させた。ロシア軍の要衝を奪ったこと
で、日本軍は旅順港深くに停泊するロシア艦隊に二百三高地から集中攻撃を行うこと
が可能となり、これらをすべて撃沈した。この戦果はロシアバルチック艦隊との海戦
に臨もうとする連合艦隊の作戦立案と戦力整備に多いに資するものだった。東郷平八
郎元提督率いる連合艦隊は大胆な「T 字戦法」を採用し、日本海海戦でバルチック艦
隊を壊滅させる。これらは日本政府ですら予想もしない結果だった。
こうして開戦後一年六ヶ月を経て両国の戦闘は日本有利の状況で停止し、講和が模
索され始める。このとき、兵力動員百八万、戦死者四万六千、負傷者十六万、投入し
た軍費十九億五千万という莫大な消耗に喘ぐ日本には、もはや戦争を継続する国力は
残されていなかった。一方のロシアは、国内に革命への胎動を孕みながらも未だ膨大
な陸上兵力を残していたため、不利な講和条件ならば拒絶し戦争を継続する意志すら
示していた。このような状況下で、講和全権大使の大命を受けたのが外相の小村寿太
郎であった。
小村の全権大使としての辛苦は筆舌に尽くしがたい。彼は正に板ばさみであった。
一方には戦争継続の威嚇すら示すロシア、もう一方には勝利に沸き、ロシアからの多
額の賠償金と領土割譲を求める国内世論。今日の我々には想像できないほどの、戦争
に「勝って」沸騰するナショナリズムが当時はあった。小村の任務の難しさは、ロシ
アとの講和交渉を実らせると同時に、国民の不満の暴発をせめて抑えることができる
96
講和条件をいかに詰めるか、という点にあったのである。日露戦争終結の可否は偏に
小村の双肩にかかっていた。小村はロシア全権ウィッテと対峙し、文字通り身命を賭
してこの交渉にあたった。そして最終的に、韓国を日本の勢力圏と認めること、南満
州鉄道の権益や関東州の租借権を日本がロシアから譲り受けること、さらに南樺太を
日本領とすることを内容とする講和条件でロシアとの合意に至り、明治38年9月、
米国のポーツマスにおいてルーズベルト大統領の仲介で講和条約が締結された。
ポーツマス条約は、停戦時の日露両軍の勢力比を考慮すれば日本にとって最善と判
断できる内容であり、それ以上を望むことは極めて困難であった。だが、軍の勢力比
がいかに日本に不利かを知らされていない国民世論は、ロシアから賠償金を得ること
ができない講和に激昂する。新聞各紙の論調も「この屈辱」
「敢て閣臣元老の責任を
問ふ」「遣る瀬なき悲憤・国民黙し得ず」と日本の外交姿勢を責め、国民が一斉に立
ちあがり暴動を起こすのも時間の問題、と述べる記事さえあった。現在使用されてい
る大半の教科書では、このときの「日比谷焼き討ち事件」の記述が一行程度で済まさ
れている。しかしそれだけで往時の様子が充分に伝わるのかいささか疑問なので、そ
の模様を若干克明に記してみたい。まず、講和反対の運動は全国各地で開催された。
とりわけ、元衆議院議長河野広中を座長とする講和問題同志連合会は政府攻撃と条約
破棄の運動方針を決定、小村全権に「自決・陳謝」を求める電報を打つ等激しい抗議
行動を起こす。全国各地で大会が次々と開かれる中、9月5日には講和条約を不服と
する群集三万が日比谷公園正門前に殺到。警察の制止を振り切って公園内に乱入し、
河野らが中心となって大会を開催、講和条約破棄と満州派遣軍の総進撃を決議。その
後群集は講和条約支持を掲げた国民新聞社を襲い、これを破壊。さらに内務大臣官邸
を襲撃し、投石、乱入、放火等暴虐の限りを尽くす。暴動は東京市内の警察署、派出
所の焼き討ちへとエスカレートし、警察署7、派出所231ヶ所が焼き払われ、破壊
された。この数は市内の派出所の七割に相当した。この事件で東京では約二千名が逮
捕され、308名が起訴された。また神戸では湊川神社境内の伊藤博文の銅像が引き
倒され(伊藤は枢密院議長という立場で「軟弱外交」を指導したと見なされていた)
、
首、手足を叩き壊され、四、五百名の群集によって数町先まで引きずられた。こうし
た一連の事件の責任を負い、警視総監は辞職、また内務大臣芳川顕正も辞任するに至
り、それによって漸く全国の騒擾は収まった。これは内乱に近い状態だったといえる
であろう。
ここまで記して、日露戦争が歴史上の大事件だったことが読者諸氏にはお分かりい
ただけると思う。ロシアという世界最大の陸軍力、英国に次ぐ海軍力を誇る国に日本
が勝ったこの戦争は、世界史の流れを変えるほどの影響を与えた。今日、我々日本人
が人種差別を意識する機会は少ないが、今以上に人種差別に満ちていた当時、史上初
めて有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実は、世界中の国々にとって
俄かには信じ難いことだったのである。白人には先天的能力において劣る、ゆえに抵
97
抗など到底無理、というのがこの時代の有色人種に共有された通念だったのだ。それ
を根本から打ち砕いたところに、日本の勝利の驚異的意義があった。「日本がロシア
に勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望をいだくにいたったのです」
(孫文)「もし日本が、最も強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとす
るならばどうしてそれをインドがなしえないといえるだろう?」
(ネルー)。植民地支
配を受けてきた多くの有色人種国家が、日本の勝利によって白人支配からの脱却への
兆しを感じ、大きな希望を抱いたことを、これらの言葉が如実に物語っている。
ところで、私は日露戦争が期せずして招いたもうひとつの歴史の不可抗力を描かね
ばならない。すなわち講和の労をとり、日本に有利な条約締結に助力を惜しまなかっ
た米国が、戦争終了とほぼ同時に日本を仮想敵国として位置付け、対日戦争の作戦計
画を起案し始めたことである。日露戦争の僅か六年前にあたる1898年、米国は対
スペイン戦に勝利してフィリピンを獲得する。ロシアを破った日本の眼前には、この
米国の新領土が位置していた。ルーズベルト大統領はロシアのバルチック艦隊を壊滅
させた日本の海軍力に瞠目し、東郷元帥率いる連合艦隊が米国太平洋艦隊を襲うとい
う悪夢を抱きはじめる。1904年、日露戦争開戦の年、米国陸海軍統合会議は仮想
敵国別に戦争シミュレーションプランを作成する。ドイツを仮想敵国としたものはブ
ラックプラン、英国はレッドプラン、日本はオレンジプラン、南米はパールプラン、
カナダはクリムゾンプラン、メキシコはグリーンプランと色分けされたものだった。
このうち、対ドイツのブラックプランと対日本のオレンジプランが改定を加えて実際
に残り、第二次世界大戦ではそのまま実行されることとなる。
ここで少々対米関係への思慮を記したい。ロシアに勝利し、米国にとって大きな脅
威と映り始めた日本。当時も今も日米が置かれた地理的状況は変わらない。だが両国
を巡る戦略的状況は大きく違う。今日の戦略的状況は日米の国益上に一致点を生み出
し、両国は同盟国となっている。では日米は現在に留まらず、永遠に同盟国であろう
か。答えは否であろう。同盟という関係を両国に選択させている戦略的状況は不変で
はないからだ。この問いは我々に極めて重大な検証を課すのではなかろうか。おそら
く我々が生きている時間軸の中で、朝鮮半島は統一されるであろう。また共産党政権
下の中国は資本主義経済の進展と相俟って国家としての統一性を失っていくだろう。
同時に台湾と中国との関係には何らかの変化が見られるだろう。すなわち、日清戦争
から日露戦争を経て大東亜戦争に至るまで、国防上の死活的利益が存在するゆえに日
本が関わらざるを得なかった地域に、いま大きな戦略的変化が訪れようとしている。
一方で、米国はその国益上、今後も末永くアジア地域への米軍駐留を継続するだろう
か。米国世論がそれを支持し続けるだろうか。戦後五十年間、日本は米軍のプレゼン
スにより、自身が大東亜戦争前に国防上関わらざるを得なかった地域への関心を「棚
上げ」にし続けることを許された。それを可能にした前提条件が今後とも保たれる保
証は薄れつつある。実際に状況が変化したとき、日本は再び国益を保持するため、「柔
98
らかい下腹部に突きつけられた短刀」から「その後背地」へ、冷静な戦略的知性の目
を向けなければならなくなろう。そしてその時にこそ、日米双方の国益の体系と核心
を充分に分析し、互いの国益が衝突することを何としても回避すると同時に、米国と
の新たな戦略的関係を築く必要に迫られるであろう。その叡智を生み出す作業は我々
の世代に課せられたテーマに他ならない。
当時の国際社会において、国家間交渉の最後の局面で国益を貫くためには武力に訴
え、また国家を防衛することが常識であったという事実を、我々は日露戦争から学び
たい。その努力なくして国家の存続は不可能であった。同時に今日に生きる我々は、
交渉によって互いの国益を調整し、戦争を避ける極力の努力をすることの重要性とと
もに、国家相互の国益追求がもたらす摩擦のエネルギーを低減させることの肝要さ、
国力のバランスを維持することの重要性を改めて確認したい。
この項の最後に、私は誤解を恐れずに敢えて言いたい。現在の日本を取り巻く情勢
を見る限り、私は近い将来祖国に一旦緩急の事ある恐れなしとしない。我々はこの国
に生まれ、この国の歴史の中で自我を形成した者として、祖国が侵略を受けた際、子
供たちにこの国を継承するために、国家の運命を守り国家を存続させようという決意
を有しているだろうか。今それを自らに問わねばならないのではなかろうか。僅か百
年前、日本の防衛に全身全霊を賭けた祖先、軍人、政治家の存在が、我々の生をもた
らしてくれた事実を直視し、身を賭して国を守った先人の努力に深い感謝と敬意を捧
げながら。
参考文献:
第5話
「ポーツマスの旗」 吉村昭 著
「国民の歴史」 西尾幹二 著
激動の幕開け
<大正時代>
日露戦争は日本を大国へと変えた。これは、日本は他のあらゆる大国との軍事バラ
ンスを保たなければならなくなったと言うことである。
明治38(1905)年には、アメリカのフィリピン支配と日本の朝鮮半島支配を
相互に承認、また日英同盟の更新時には、日本の朝鮮半島支配を認めさせる代わりに
イギリスとのインド防衛の義務を負うなど、諸大国と今までのような隷従関係ではな
く、協調、対等な関係を持つようになった。
明治40(1907)年には、フランスのインドシナ支配と日本の朝鮮半島支配を
相互に確認。また、ロシアとは日露協商が成立、ロシアは、外モンゴルと北満州を、
そして日本は南満州と朝鮮半島の支配権益を得ることで合意した。
このように、日本は諸大国に朝鮮半島支配を認められ、大陸進出の足がかりを得た。
99
しかし、それは同時に、ハワイ、フィリピンと侵略を続け、太平洋の覇権を目指した
アメリカにとって、日本は目障りな存在になった時でもあった。アメリカが日本を仮
想敵国の一員に加えたのが、まさにこのときである。(対日本はオレンジプランと言
われた。)しかし、大正元(1911)年の辛亥革命以後、欧米の進出により、日本
の大陸政策も行き詰まりを見せてきた。
ところが、日本に大陸進出の好機が訪れる。大正3(1914)年に勃発した第一
次大戦により、ヨーロッパ諸国は中国からの一時的後退を余儀なくされ、日本は日英
同盟を名目に連合国の一員として参戦、山東半島と南洋群島のドイツ権益を手中に収
め、さらに、大正4(1915)年「対華二十一カ条要求」などで中国に対する支配
を強めようとした。
しかし、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国に代わって世界の指導者的立場になったア
メリカは、大正10(1921)年に日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、
オランダ、ポルトガル、ベルギー、アメリカの9カ国が参加したワシントン会議で九
カ国条約を採択、日本は山東半島など、第一次大戦で得た権益の殆どを失うことにな
る。この会議ではまた海軍軍縮条約が結ばれるとともに、日英同盟も廃棄され、日本
は列強とは独立した路線を進むことを余儀なくされることとなった。
国内に目を転じると、日清・日露戦争の頃から、大規模な軍備拡張政策が展開され
た。戦時非常特別税は日露戦後には恒久税とされ、さらに石油消費税など新たに間接
税が増加、国民の負担は増大した。また、日露戦争
は勝利に終わったものの、賠償金を得ることができ
なかったため、外国債の返済などが財政を圧迫、重
税がやがて物価の高騰を招いた。
こうした国民の負担の増加は民衆の不満を増大さ
せ、明治38(1905)年9月の日比谷焼打事件
を頂点とする全国主要都市における日露講和反対運
動を最初として都市民衆の暴動がしばしば発生した。
また各地の商業会議所、実業組合に結集した中・小
資本家も営業税など悪税反対運動を展開し、政府の
軍備偏重の政策を批判した。またこの時期、都市部
の知識人や中間層に自由主義の風潮が生まれ、普通
選挙などを要求する運動が起こった。
このような民衆運動は、従来の官僚、軍部と政党の妥協による政治を否定、やがて
広範な憲政擁護運動となり、ついには第三次桂内閣を打倒、山本権兵衛内閣を誕生さ
せた。また、同内閣がシーメンス事件で倒れたのちは、元老をして民衆的人気のあっ
た大隈重信を後継首相に推させるにいたった。
100
第一次大戦によって独占資本は巨大な利潤を得、多くの「成金」を輩出させたが、
その一方で米価の急騰は国民生活を圧迫し、米騒動を引き起こした。米騒動はたちま
ち全国に波及し、ついに寺内軍部内閣を倒して、原敬政友会内閣を成立させるにいた
った。
米騒動を境に国内政治は大きく転換し、労働者の組織は拡大し、労働運動が活発化
し、大逆事件以来閉塞させられてきた社会主義運動や部落解放運動、学生運動、婦人
運動など社会運動もおこり、大正11(1922)年には日本共産党も結成された。
既成政党は、このように民衆の階級意識が益々強まる中、社会変革の危険を感じ、
大正13(1924)年の第二次護憲運動で清浦内閣を倒して成立した加藤高明の護
憲三派内閣は、翌年、男子普通選挙法を治安維持法と抱合せにして成立させた。護憲
三派内閣は、以後五・一五事件にいたるまでの政党政治の幕を開くものであった。
日清・日露両戦間に産業資本が確立した日本資本主義は、日露戦後には早くも独占
段階へ移行し始めた。日露戦争後の鉄道国有化と南満州鉄道株式会社の設立をきっか
けに企業熱が高まり、多くの企業の新設、拡張がおこなわれたが、明治40(190
7)年1月の恐慌で、投機的会社や中小銀行の倒産が相次いだ。その後、恐慌は鉄・
紡績などの産業部門にも波及した。その結果、資本の集中が進み、精糖、肥料、製紙
業などではカルテル化が進んだほか、三井、三菱などの財閥ではコンツェルン形態に
よる独占の形成が進行した。
その一方で、日露戦争を多額の外債によって遂行した日本は、戦後の軍備拡張、植
民地経営も外債に依存せざるを得ず、輸出の不振もあいまって輸入超過・正貨の減少
を招き、破産寸前に追いやられた。
こうした経済状況で迎えた大正3(1914)年の第一次大戦勃発はまさに「天佑」
であった。開戦一年後には連合国からの軍需物資の注文が殺到し、欧米資本主義の商
品市場であったアジア、アフリカ各地域からの商品注文も増加、輸出は空前の伸びを
示した。
その結果大戦前には11億円の債務国であった日本は、大戦後の大正9(1920)
年には一転して28億円の債権国となった。輸出の好調に加えて輸入製品の杜絶は企
業の新設、拡充をまねき、中でも重化学工業が目覚しい発展を遂げた。重化学工業の
発展は設備投資を増大させ、そのために拡大した資金需要に応えるためにも銀行は合
併、合同を推進した。その結果金融業における三井、三菱、住友、第一、安田の五大
銀行の支配的地位が確立し、金融独占が他産業に先がけて大戦中に成立することにな
った。
好況は数戦後もしばらく続いたが、輸出の異常な増大を基礎とした好況だったこと
もあり、反動恐慌が起こった。大正9年3月の株式市場の暴落に始まった恐慌は、銀
行169行の取付けで金融が混乱、やがて綿、木材、鉄鋼などほとんどの産業分野に
及び、倒産、解散した企業は、同年318社、翌年には748社をかぞえた。この恐
101
慌を通じて大企業への吸収合併が行われ、各分野で独占資本が確立した。政府、日銀
は財界の要請に応じて3億6000万円にのぼる救済融資を行って恐慌を切り抜け
たが、日本資本主義の脆弱な体質をそのままとしたため、以後の相次ぐ恐慌を招くこ
ととなる。大正13(1924)年の関東大震災による震災恐慌に対しても、政府は
震災手形割引損失補償令を出して銀行救済を行ったが、この震災手形が結果的に昭和
2(1927)年の金融恐慌の直接的原因をなしたのである。
思想・文化面では、日露戦争の勝利は維新以来国民を縛り続けてきた国家的危機感
から人々を解放し、西欧文明の外形的模倣に終始してきた明治文化のあり方に疑問を
いだかせた。ここから個人の自覚または内面的充実をはかろうとする個人主義的傾向
が生れ、この傾向は中等、高等教育の普及にともなって形成された都市中間層を中心
に急速に広まった。
明治43(1910)年創刊の雑誌『白樺』の同人、武者小路実篤、志賀直哉らは
自己の個性に忠実であることが人類の意志にかなうことであるとして、その個人主義
を人道主義、理想主義に結びつけて主張した。翌年女性解放を唱えて創刊した平塚ら
いてうらの『青踏』も、自我の拡充を基調とするものであった。こうした中で、政治
の基軸に議会政治、政党内閣制を据えようとする法理論、政治理論が現れた。憲法学
における美濃部達吉の天皇機関説であり、政治学における吉野作造の民本主義論であ
る。美濃部の天皇機関説は、同僚で天皇主権主義の立場の上杉慎吉との大正元年から
翌年の論争を通じて多くの支持を得、また吉野の民本主義も明治憲法の大権を政治原
理の基礎とすることに反対し、近代憲法の根本精神「人民権利の保障、三権分立主義、
民選議院制度」に基づく政治を主張した。ここから吉野は代議政治の改良とそのため
の言論の自由、普通選挙、他方において専制機構としての貴族院、枢密院の改革、統
帥権独立の廃止などの議論を展開した。
しかしロシア革命と米騒動以後思想、文化の状況も大きく変化した。プロレタリア
文化が生れ、既成のブルジョア文化に対峙する大きな力となった。大正10(192
1)年小牧近江らが創刊した『種蒔く人』はその出発点であり、それは大正13(1
924)年に『文芸戦線』に引き継がれ、マルクス主義の影響も強めながら昭和初期
には芸術の各分野に広がっていった。こうした中で民本主義も影響力を失い、大山郁
夫のように社会主義に移行するものも生れてきた。大正12(1923)年白樺派の
有島武郎は、未来の文化の銚い手は「第四階級」であることを肯定しつつ自ら命を断
った。その4年後の昭和2(1927)年、芥川龍之介も「ぼんやりとした不安」を
表明して自殺した。それは大正期の小市民文化の終焉を象徴していた。
大正期とくに第一次大戦後の文化におけるもう一つの特徴は資本主義の発展にと
もなうマスコミの著しい発達にあった。新聞、雑誌、映画、レコード、それに大正1
4(1925)年に放送を開始したラジオなどの媒体を通じて、大量の画一的文化が
大衆に提供された。
102
このなかで今まで民本主義的論説を
かかげて「大正デモクラシー」運動に大
きな役割を果してきた新聞も、大量読者
の獲得を目指す営利主義に転じた。マス
コミによって流行歌、ベストセラー、映
画スターなどが作り出され、大衆はこれ
を享楽し、消費していった。そして、マ
スコミによる通俗的な享楽主義は一面
では、情報の大量伝達で人々の意識を混
乱させていった。
103
第3章
第1話
昭和初期から終戦
満州事変から大東亜戦争への流れ
日本が明治維新によって体制を立て直し欧米列強が形成する世界の枠組みの
中に乗り出していった当時、世界における支配地域を膨張させ続けることが一
流国の地位を維持する手段であり、独立を保つ唯一の手段であると広く信じら
れ、実際にその様な思想に基づき各国は行動していた。つまり、日本には自国
の領土をひたすら保全するのみという選択は許されず、勢力圏を拡大するか、
列強にその支配を許すかという方針の二者択一を迫られていた。当時、まだ列
強との不平等な条約にしばられて、植民地として支配される可能性すら高かっ
た日本の指導者が、世界の情勢を冷静に鑑み、国力の充実を図り自国の独立の
ために勢力圏の拡大を目指す政策を選択し、それを是とする世論の形成を図っ
たのは、当時の支配される側にあったどの国にも見られない気概であったと言
える。
そして列強の当時の最大の関
心事の一つが日本にとっても極
めて近い中国(清国)をめぐる
権益であった。特に世界の各地
で勢力を争っていた2強国であ
るイギリスとロシアもまさに朝
鮮半島を含む東アジアの地をめ
ぐって対立していた。これが日
本にとって幸いし、その一方で
あるイギリスが日清戦争で勝利
した日本に東アジアでのロシア
に対する先兵(自国の代理)としての役回りを期待したため、日英同盟を結ぶ
ことができイギリスの支援を受けることができた。これにより、アジアで唯一
日本は列強(支配地域を拡大しようという気概があり実際行動を起こせるかい
なかという意味で)に仲間入りする足がかりを持った。
そして、日本は日露戦争によりロシアから朝鮮と満洲の権益を獲得した。こ
の権益こそ、当時の日本人にとっては特別の意味、思い入れを持つものであっ
た。日本はロシアとの戦闘においては勝利した。国民の多くは日本が戦争で勝
利したことを疑わなかった。しかし、日本は各地での戦闘においては勝利した
ものの、すでに国力を使い果たしそれ以上の戦争の続行は困難な状態になって
104
いたため講和を急いだ。そのため勝利の報道しか耳にしていない国民と実情の
間に大きなギャップがあり、国民からは講和の条件に不満の声が上がった。つ
まり、多大な代償の上に泣く泣く手にした貴重な数少ない権益という意識が深
く根付いたのである。
大正3年(1914年)ヨーロッパで第一次世界大戦が起こると日本はこの
期を利用して中国への勢力を伸ばしていった。また、戦争が長引くにつれ、兵
器その他の軍需品の注文が連合国から殺到し、ヨーロッパの商品がアジアに供
給されなくなり、日本は独占的な地位を得たため、未曾有の好景気になった。
しかしこれにより都市部への急激な人口流入と貧富の差の拡大がもたらされ社
会体制に不満を持つ者も急増していった。
大正8年(1919年)大戦の処理を行なうパリ講和会議において日本は、
ドイツが中国に持っていた権益を確保し、国際連盟においては常任理事国とな
り当時の一等国に数えられるようになった。しかし、パリ講和会議で日本が提
案した念願の人種差別撤廃法案は、賛成多数にもかかわらず、アメリカの反対
で実現しなかった。これにより、日本は差別されてきた有色人種の利益の代表
としての立場が国際的に明確になった。
一方国内では大戦時の過剰な投資により経済は危機に瀕するようになってい
た。昭和2年(1927年)に始まった金融恐慌でそれが一気に表面化し、そ
の後の世界恐慌の余波に巻き込まれるにあたり経済的な逼迫感はピークとなっ
た。当時、列強はそれぞれ他国からの輸入品には多額の関税を課すなどの施策
により自前の経済圏を形成していくことで経済の建て直しを図っていた。資源
に乏しく国内消費力が落ち込み、貿易によって経済を立て直さなくてはならな
い日本にとってまさに満洲が生命線であると広く認識されていった。
そういったなかで、中国では、清朝崩壊後(辛亥革命)混迷を続けていたが
中華民国を軸にまとまりつつあり、本来漢民族の土地ではない満洲に割拠する
軍閥がこれに呼応し徐々に日本の権益を脅かすようになっていった。これに危
機感を持った関東軍は、昭和6年9月に軍事行動を起こし(満洲事変)、満洲国
を建国し権益をより強固なものにした。これにより一時的に日本国内の経済も
復興の兆しが見えたことにより、国内においては関東軍の行動を英雄視し追認
する空気が支配した。これは満洲の権益を十分維持できない政府や経済危機に
対して有効な対策を立て得ない腐敗した政党、財閥などに対する国民の不満が
表面化したものとも言え、その後の軍部を中心とした反議会主義的な強力な体
制が望まれ実現されていく要因にもなった。
それ以降中国においては、日本に対抗しようという動きが強まり、一方日本
国内でも軍部が政治を支配するようになり、中国との戦争も辞さずという意見
が強まっていった。まさにマッチ一本投げ入れれば爆発しそうな緊張感が続く
105
中、昭和12年7月、廬溝橋において軍事衝突が起こった。日本は短期間で決
着させる目論見であったが、中国の抵抗も激しく、結果として全面戦争へと発
展していった。
この中国との戦争が拡大していくことと平行して、太平洋をはさむ反対側の
アメリカとの対立も顕在化し、多方面で色濃く影響を及ぼしていった。
そもそもアメリカとの対立の歴史は日露戦争後まで遡る。それまで他の欧米
列強と比べて新興国であったため太平洋への勢力の拡大を急いでいたアメリカ
は、やはり太平洋に進出しようという南下政策をとるロシアを警戒し、それに
対する多少なりと障害になればよいという意味で、日本を好意的に見ていた。
しかし、日本が予想以上に有利な戦いをしたことにより、中国の権益獲得を目
指すライバルとして意識するようになった。日本人の移民に対する差別が行わ
れるなど排日の動きもアメリカ国内で急激に強まっていった。また、国内で抱
えていた人種問題の観点からも、差別されていた有色人種が、日本が欧米列強
と対抗して勢力を伸ばしていくことを好意的に受け取った点もアメリカの白人
社会では好ましく思われなかった。
それ以降、第一次世界大戦時一時的に和解する動きはあったものの、後は一
貫して日本の対外進出を牽制する行動をとった。
第一次世界大戦ではヨーロッパの列強は国力を消耗し、それに対して自らの
国土は無傷で大いなる武器などの輸出国として潤ったアメリカは、世界の中で
の発言力が増した。この力を背景に自国の利益を優先させるよう国際世論をコ
ントロールし、日本が孤立するように導いていった。その最たるものが大正1
0年(1921年)のワシントン会議であった。この会議においてアメリカは
自国が中国に進出することを容易にするために、かねてから主張していた中国
の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等、関税率の拡大などを認めさせた。
そしてそれ以降の日本の大陸進出を事あるごとに条約違反と批判するようにな
った。また同時にアメリカにとってやっかいな存在だった日英同盟を破棄させ
た。
アメリカとしては、早い時期から直接日本と戦うことも想定し仮想敵国とし
ての研究を重ねつつ、日本との戦争も辞さずという姿勢で、その利己主義の権
化たる国際正義を持ち出し挑発しつづけた。ヨーロッパで起こった紛争には一
切干渉しようとせず、ソ連がモンゴルを衛星国化してもまったく沈黙を保ち孤
立主義政策を標榜しているにもかかわらず、日本の大陸政策については事ある
ごとに干渉するということがそれを物語っていた。
日本では、アメリカと直接戦った場合に勝つことが難しいと判断する意見が
強かったため戦争を避けようとの外交交渉も再三持ちかけたが、対米強硬論も
強く、国論は一致していなかった。結果として日本が出す主張もアメリカから
106
出される主張も強硬なものであり互いに相手が譲らない限り軍事行動も辞さず
という姿勢を崩さなかった。日本が使用する外交暗号を解読していたアメリカ
政府は、交渉の場に出る前に日本政府の方針などを知ることができ対応策を練
ることができた。譲歩してまで交渉をまとめる意思がないアメリカは、巧みに
交渉を長引かせ、一方で有力石油資本を握るイギリスや当時ゴムや鉱物資源を
産出するインドネシアを植民地として支配していたオランダと共同戦線(AB
CD包囲網)を組み近代産業国家を運営する
上で必要不可欠な資源を日本が調達できなく
なるような戦術で追い込みしびれが切れるの
を待った。
追い込まれた日本は外交交渉を断念し、昭
和16年12月8日、真珠湾のアメリカの基
地を攻撃し大東亜戦争が始まった。アメリカ
政府は日本が攻撃を開始することを予知して
いたが、日本の大使館の不手際で攻撃開始時
に交渉打切り通告がされていなかったことから、一般には日本の奇襲攻撃と宣
伝し、反日本ということで世論をまとめることに成功した。
この開戦の日程は攻撃の有利さという戦術を最優先させたものであったが
(日曜日で艦艇が多数停泊し警戒が手薄であるということと、飛行機の発着艦
に都合がいい天候状況)、石油の備蓄量が一年分を切り、このまま手をこまねい
ていては戦闘不能状態になるという海軍の焦りの結果であり、戦略的には大き
な問題があった。
その第一は、先に書いた日本との戦争に関してアメリカの国論を一致させた
ということ。次に時を同じくしてドイツ軍がソ連との戦いで後退しはじめたこ
とであった。日本の目論見としてはドイツが早期にソ連とイギリスを屈服させ、
アメリカを孤立させて優位な立場で講和するというものであったが、早々にそ
れが崩れたことになる。むしろ、ヨーロッパ戦線に直接参戦することに消極的
だったアメリカ議会が(第一次大戦同様漁夫の利を得ようと考えていた)、日本
の同盟国であるドイツを攻撃することを了解したことにより、さらにドイツを
追い込む結果となった。まさに日本のアメリカへの攻撃開始はイギリス、中国、
ソ連などが待ちに待っていた朗報となってしまった。
開戦時において工業生産力で約80対1という格差のあるアメリカを相手に
戦うにあたって、直接アメリカ本土を攻撃占領するすべを持たない日本が勝利
するためには、初戦から勝利を続け早期にアメリカの国論が分かれ、停戦交渉
に持ち込むことを狙うしかなかったが、日本が予測したよりも早くアメリカが
反攻を開始し、消耗戦という戦略に引きずり込まれ、各方面で後退、敗退を続
107
け、ついに昭和20年8月14日ポツダム宣言を受諾し、翌15日玉音放送で
それが国民に伝達され戦争は終結した。
第2話
いわゆる「従軍慰安婦
強制連行説」記述について
「・・朝鮮などの若い女性たちを慰安婦として
戦場に連行しています。」(大阪書籍 P260~
261 右写真 p265)
「従軍慰安婦として強制的に戦場に送り出され
た若い女性も多数いた。」(東京書籍 p263)のよ
うに中学校全教科書会社に「従軍慰安婦強制連
行説」が記述されているが、問題はないのだろ
うか?
「従軍慰安婦強制連行説」について、次の2点の論点を中心に据えなければ
ならないと考える。すなわち①学術的論証と②教育的品位を視点に検証する。
分かりきったことであるのだがそれに基づいて判断することが唯一の方法であ
り、外圧・雰囲気だけで論じてはならない。ましてや政治的解決・謝罪もいけ
ない。子供達に必要のない禍根を残すことになるからだ。我々は、事実であれ
ば認めるべきだし、事実でないことは毅然と「違う」といえる態度・信念を持
たなければならない。
なぜあれほど大騒ぎしていた新聞が、最近このことを取り上げないのだろう
か?
注:当時「従軍慰安婦」という言葉は無く、「慰安婦」であった。慰安婦は合法
で、問題なのは、強制連行してきた慰安婦かどうかである。教科書会社のうち、
二社が「従軍慰安婦」を「慰安婦」に、「強制的に」を「意志に反して」に、「戦
場」を「戦地」に変更した。依然取り上げていることには変わりない。
<学術的考察>
1) 強制連行指示の証拠(公文書の存在)について
慰安婦の設置・処遇についての指示は存在するが、強制連行を指示した内容
は存在しない。平成4年(1992)1月11日宮沢総理の訪韓5日前、朝日新聞
108
は準備していたスクープをトップに載せた。「防衛庁図書館に旧日本軍の通達
日誌 部隊に設置指示」、新聞はこれを軍の関与を証明する資料(吉見義明教授
が発見)だとしているが、内容は軍による強制連行の指示ではなく「よい関与」
(『新ゴーマニズム宣言』第3巻 P163~に詳しく、本文も参考にした。)を示し
ているに過ぎない。当時の新聞は、図書館で簡単に見つけることが出来る。そ
の日の朝日新聞朝刊を紹介する。朝日はほとんど連日この問題を取り上げてい
る。(下線は筆者)
・・日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたこ
とを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されてい
ることが十日、明らかになった。・・日本政府はこれまで・・国としての関
与を認めてこなかった。国の関与を示す資料が防衛庁にあったことで、こ
れまでの日本政府の見解は大きく揺らぐことになる。政府として・・・深
刻な課題を背負わされたことになる。
「軍関与は明白 謝罪と補償を 吉見義昭・中央大教授の話」
軍の慰安所が設けられたのは、上海戦から南京戦にかけて強姦事件が相次
つうちょう
いだためといわれ、三八年の通 牒(注:通達)類は、これと時期的に符合
する。当時、軍の部隊や支隊単位で慰安婦がどれだけいたかもわかる資料
で、軍が関与していたことは明々白々。元慰安婦が証言をしている現段階
で「関与」を否定するのは、恥ずべきだろう。日韓協定で、補償の請求権
はなくなったというが、国家対国家の補償と個人対国家の補償は違う。慰
安婦に対しては、謝罪はもとより補償をすべきだと思う。
「多くは朝鮮人女性 従軍慰安婦」
・・・太平洋戦争にはいると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連
行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる。
軍の関与を示す公文書の内容とはどういうものなのか。資料の要点を少し示
す。
資料の要点:①陸軍省兵務局兵務課副官による北支・中支の軍に出した通
達(昭和 13 年3月4日)「支那事変における慰安所設置の為」で始まる通
達の要点は、内地で誘拐まがいに募集する業者がいるから注意せよという
関与。 ②軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通達(昭和 13 年6月2
109
7日北支方面軍)には、軍はレイプを国家に対する反逆行為とし、処罰し
ない指揮官は不忠の臣であるとする。つまり厳重な取り締まりを命令して
いる。そしてなるべく早く慰安所を設備せよと指示している。
小林氏が指摘するように、軍の強制連行を示すような関与ではない。むしろ
ちまなこ
よい関与といえる。アメリカ公文書館や、韓国や日本でも、血眼になって探し
て未だに強制連行を指示した証拠は見つかっていない。8年たって見つからな
いものは、そもそも無かったのではないだろうか。
「すべて軍によって破り捨て
られた」のだとしたら、いったい誰が何を根拠にこの問題を取り上げたのであ
ろうかと疑問が生じる。
2) 被害者は、どういう人たちか。
当初被害証言は、こういうものだった。
「強制連行された私が生きているのに、なぜ強制連行が無いというのか」
(ソウル在住の黄錦周さん)「最大の問題は、・・・・強制連行されたとい
う 元 慰 安 婦 の 方 々 の 証 言 を 誠 実 に 検 討 す べ き だ 」( 吉 見 義 明 )
(平成4年7月7日付け朝日新聞)
「釜山鎮駅前で日本の警察に連行された」「家に軍人二十人がやってきて
銃剣を突きつけた。強制的に軍用トラックに乗せられ、倉庫に押し込めら
れた」
(平成4年年七月三十一日、韓国政府による中間報告)
この証言らしき内容について後に触れるが、裏付けのとれていないものと考
えられる。
1973 年に出版された『従軍慰安婦』(千田夏光著)で初めてこの用語が使わ
れるようになり、1983 年には『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(吉田清治著)
が出版された。
キムハクスン
平成3年(1991)年8月に元慰安婦、金学順(故人)さんが名乗りを上げ、
「従軍慰安婦裁判」の第1号原告となった。金学順さんの申告の訴状を見てみ
よう。(下線は筆者)
一九二三年中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が
110
死亡したので平壌(ピョンヤン)へ戻った。母は家政婦などをしていたが、
貧困のため学順は小学校を四年で中退、金泰元の養女となり、十四歳から
三年間キーセン(妓生)学校に通った。
一九三九年、「金儲けが出来る」と説得され、養父に連れられ中国へ渡っ
た。北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所へ入れられ、日
本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年
の秋、知り合った朝鮮人商人(趙某)に頼んで脱出し、各地を転々とした
のち、上海で夫婦になった。
フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、二人の子を得て終戦の
翌年、韓国へ帰った。朝鮮戦争中に夫は事故死、子供も病死し、韓国中を
転々としながら酒、たばこも飲むような生活を送った。身よりのない現在
は政府から生活保護を受けている。
人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は
悪かったと認め、謝罪すべきである。
(『諸君』1996,12「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」秦郁彦著)
実に不幸な人生である。同情する。しかし内容について、いったいどこに問
題の強制連行があったのか、何に対して日本政府が謝罪するのかという疑問を
持ってしまうのではないか。そしてもう一つ大事なことがある。
平成3年8月の段階で朝日新聞は、元慰安婦として初めて名乗り出た金学順
さんを紹介しているのだが、韓国での証言に含まれていた「キーセン」(公娼)
出身とは書かずに、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」たと日本に伝えた。
これは悪質な、意図的な情報操作と言える。
『新ゴーマニズム宣言』第4巻(p140)
に詳しい。
偽証の出来ない訴状内容を読んで分かることは、意志に反して行われたとし
たら、親が貧しさのために子供を売ったという悲しい経済・時代背景ゆえに起
きたことである。日本でもあった話である。
「論座」(朝日新聞社 1999,9 「歴史論争を総括する」秦 郁彦氏・千田夏光
氏の対談)の中で従軍慰安婦問題、金学順さんについて論議されているので、
次に紹介する。
キム・ハクスン
(千田)訴訟を起こした金 学 順さんの講演記録を読むと、軍による強制連
行だったかどうかは不明確なんです。ご両親が離婚して、母親がおじさん
に預けて、そのおじさんが彼女を業者に売った。軍が引っ張ったんじゃな
く、業者が連れて行った。すると、軍による強制連行かどうか判然としな
111
いんです。 (秦)そうですね。金さんの場合は軍の関与がはなはだ曖昧
なので、私は担当の高木健一弁護士に「もう少し説得力のある人はいない
のか」と尋ねた。そうしたら「今探しに行って戻ったところです」という
ので、私なりにチェックしてみたら、合格点をあげられる原告は一人もい
なかった。
この問題は日本人が火をつけに回ったのだ。物理的な強制連行で連れてこら
れた被害者は無く、未だにだれ一人としてまともな被害者がいないということ
である。
3)
強制連行の加害者証言の信憑性
軍の命令で慰安婦狩りを行った体験談を語る唯一の加害証人は、『私の戦争
犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房)の著者吉田清治氏である。韓国の済州島へ
行き現地の軍人達と次のように強制連行したと述べている。
翌日から徴用隊は慰安婦の狩り出しを始めた。
・・・私は直ちに部落内の狩
り出しを命じた。路地に沿って石塀を張りめぐらせた民家は戸が閉まって
いて、木剣を持った兵隊が戸を開けて踏み込んで女を捜し始めた。・・・隊
員や兵隊達は二人一組になって、泣き叫ぶ女を両側から囲んで、腕をつか
んでつぎつぎに路地へ引きずり出してきた。若い女ばかり八人捕らえてい
た。・・・
吉田証言は朝日新聞やテレビ朝日にたびたび登場した
が、内容に疑問を持った方々(中村粲氏、板倉由明氏、
上杉千年氏ら)の検証によって、軍の命令系統から本人
の経歴まで全てが嘘であることが判明した。秦郁彦氏は、
唯一場所と時間が特定されている済州島へ現地調査に出
かけたが老人たちに聞いても完全否定され、すでに調査
を行っていた『済州島新聞』の女性記者にも「何が目的
でこんな作り話を書くのか?」と聞かれる始末であった。
この問題には、第三者としての証言者がいないというこ
とである。つまり多くのテレビ・新聞・マスコミはこの
作り話を検証もせず持ち上げ報道し、無責任に世論をあ
おり立て、間違いなく日本を慰安婦強制連行で謝罪に追い込んだのだ。加害証
112
言が嘘とわかり、軍の関与した証拠が日本や韓国で何年たっても見つからず、
未だまともな被害者も、第三者の証言もないような現状況を取り繕うかのよう
に、吉見氏は「狭義の強制性」(強制連行)ではなく「広義の強制性」(選択の
自由がないなど)が問題なんだと、完全に崩壊した問題を、無理矢理こじつけ
てすり替えるようになった。この国はどこかの国と違って、何と言論の自由が
保証された国であろうか。
「広義の強制性」とは広い意味で、物理的強制は無かったが、自分の意志に反
してなかば強制的に仕事をさせられていたという、現在多くの人が抱える実情
と違わない内容のことなのである。問題は、物理的強制があったか無かったか
それのみ!
前述の朝日新聞社の「論座」で秦氏は吉田証言についてこう述べている。
吉田清治という人の「証言」が慰安婦問題に与えた悪影響は、計り知れな
いほど大きいわけです。朝日新聞などは何度も彼の話を取り上げましたが、
私は済州島や下関にも出かけて調べてみて、全くの作り話だと判断しまし
た。じつは、吉田老人とは時々話していて、先日も「強制連行の話は小説
でしたと声明しませんか」とすすめたんですが、「私にもプライドがあるし、
そのままにしておきましょう」との返事でした。
また秦氏は強制連行についてこう述べている。
論争の焦点になるべきは、実質的に強制かどうかではなくて、物理的な強
制連行の有無でしょう。そうしないと、ある世代の全員が「強制連行」に
なりかねない。
4) 教科書会社が記述した根拠を調べれば・・・
従軍慰安婦強制連行を記述する根拠について、河野洋平内閣官房長官の談話
や吉見義明教授の論文を根拠とすると、ある教科書会社が文書で説明した。吉
見論が崩壊していることは、前文で説明したとおり。以下河野洋平談話の内容
を抜粋する。
今時調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、
数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は当時の軍当局の要
請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送に
ついては、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安所の募集
113
については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場
合も、甘言、強圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数
多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らか
になった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましい
ものであった。・・・
(「歴史教科書との15年戦争」)
当時副官房長官であった、石原信雄氏は 97 年3月9日の産経新聞朝刊でこう
述べている。
河野氏は調査の結果、強制連行の事実があったと述べているが
「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。
慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」
一部には、政府がまだ資料を隠しているのではという疑問もある
「私は当時、各省庁に資料提供を求め、(警察関係、米国立公文書館など)
どこにでもいって(証拠を)探してこいと指示していた。薬害エイズ問題
で厚生省が資料を隠していたから慰安婦問題でも、というのはとんでもな
い話。あるものすべてを出し、確認した。政府の名誉のために言っておき
たい」
ではなぜ強制性を認めたのか
「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見
つからない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、
韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要
請していた。そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めて
きたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意
志に反して連れていかれた例があるのは否定できない』と担当官から報告
を受けた。十六人中、何人がそうかは言えないが、 官憲の立ち会いの下、
連れ去られたという例もあった。談話の文言は、河野官房長官、谷野作太
郎外政審議室長、田中耕太郎外政審議官(いずれも当時)らと相談して決
めた」
聞き取り調査の内容は公表されていないが、証言の信憑性は
「当時、外政審議室には毎日のように、元慰安婦や支援者らが押しかけ、
泣きさけぶようなありさまだった。冷静に真実を確認できるか心配だった
が、在韓日本大使館と韓国側と話し合い、韓国側が冷静な対応の責任を持
つというので、担当官を派遣した。時間をかけて面接しており当事者の供
述には強制性に当たるものがあると認識している。調査内容は公表しない
ことを前提にヒアリングしており公表はできない」
韓国側の要請は強かったのか
114
「元慰安婦の名誉回復に相当、こだわっているのが外務省や在韓大使館を
通じて分かっていた。ただ、彼女たちの話の内容はあらかじめ、多少は聞
いていた。行って確認したと言うこと。元慰安婦へのヒアリングを行うか
どうか、意見調整に時間がかかったが、やはり(担当官を)韓国へ行かせ
ると決断した。行くと決めた時点で、(強制性を認めるという)結論は、あ
る程度想定されていた」
それが河野談話の裏付けとなったのか
「日本側には証拠はないが、韓国の当事者はあると証言する。河野談話に
は『(慰安婦の募集、移送、管理などが)総じて本人たちの意志に反して行
われた』とあるのは、両方の話を総体としてみれば、という意味。全体の
状況から判断して、強制に当たるものはあると謝罪した。強制性を認めれ
ば、問題は収まるという判断があった。これは在韓大使館などの意見を聞
き、宮沢喜一首相の了解も得てのことだ」
談話の中身を事前に韓国に通告したのか
「談話そのものではないが、趣旨は発表直前に通告した。草案段階でも、
外政審議室は強制性を認めるなどの焦点については、在日韓国大使館と連
絡を取り合って作っていたと思う。」
韓国側が国家補償は要求しない代わり、日本は強制性を認めるとの取引があ
ったとの見方もある
「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はな
かった。今の時点で議論すれば、日本政府の立場は戦後補償は済んでいる
となる」
元慰安婦の証言だけでは不十分なのでは
「証言だけで(強制性を認めるという)結論に持っていったことへの議論
があるこは知っているし批判は覚悟している。決断したのだから、弁解は
しない」
しかし当の河野洋平氏本人は、平成 11 年 10 月5日の外相就任会見において
「物理的証拠や、本人の他の人にはわかり得ない話などを踏まえて発表した。
確信を持っている」(10 月6日付 産経新聞朝刊)と述べている。本人にしか分
からない話を、いったい誰が正しいと判断するのか。裏付けのとれない証言は、
えんざい
冤罪を生むのではなかったか?
政治家が国を守らないで誰が国を守る?
..
戦争に負けてから旧日本軍には、人権すらないのだろうか。世界は、この政府
発表をもとに「従軍慰安婦強制連行説」を事実と認識している。
115
(98 年4月27日山口地裁において国に支払い命令の判決を言い渡した。判決
理由が、河野発言をもとに「国会が立法措置を講じなかったのは違法」は、全
く根拠にならない。)
<教育的品位>
売春行為が、教育の品位を考慮してなおかつ、子供達に教えなければならな
い「悪いこと」であるとした場合、外国の事件はなぜ取り上げないのだろうか。
GHQが占領軍のための慰安所の設置を、早い時期に日本政府に命令したこと。
1965 年韓国が北ベトナムに 31 万人を派兵したとき、5000~7000 人の混血児を
現地に残してきたこと。第二次対戦末期のソ連軍は、ベルリンで大規模なレイ
プ(半公然)を繰り広げ、全女性の五〇%が強姦に遭い、堕胎を禁じた刑法を
守るべきかどうかで議論された。また満州から朝鮮半島経由で博多へ引き上げ
てきた日本女性の妊娠者は、博多の特別検診所で堕胎した。そういうことをな
.....
ぜ書かないのか疑問が生じてくる。自虐の要素のない事柄は、教科書に載せお
...
る必要がないのか。性処理に関する内容は、高校生ならまだともかく、中学生
という年齢の子供達に教えるべきことだろうか? 「慰安婦」を説明できるの
か? それが本当に人間教育になるの? 秦氏は品位についてこう述べている。
もう一つの論点である、慰安婦を教科書に載せるべきかどうかという問題
ですが、私はこれを品位の問題として考えたい。載せるべきだという人た
ちのグループに尋ねたことがあります。では、小学校の教科書にも載せま
すかと。そうしたら、誰も答えない。事実なんだから載せろ、とはさすが
に言わなかった。教育的配慮とか品位とか考える必要がある。中学でも同
じです。(前掲)
慰安婦問題によってマスコミと歴史教科書に共通する性質があることに気づ
く。自虐的内容なら事実確認しないでも安易に掲載し、もはや既成の事実と錯
覚させてしまう。しかし慰安婦問題は、自虐教科書追求のきっかけを作った。
歴史教科書に強い関心を持たせてしまい、衆目にさらされ、取り返しのつかな
い事件となってしまったのである。今回の副読本がこうして生まれたのも、「従
軍慰安婦強制連行説」の創作のおかげともいえよう。新聞のほとんどは(産経
新聞以外)、いまだに慰安婦強制連行説に立っている。今までなら誰も騒ぎ出さ
なかった。しか今回は別だ。
藤岡氏は、朝日新聞に痛烈な批判を与えている。
昭和一八年に韓国の済州島で慰安婦の奴隷狩りをしたという著者の「証言」
116
を、朝日は何の検証もせず論説委員が手放しでほめそやした。それが全く
の作り話であったことが暴露されてからも朝日は、この大誤報についてた
だの一行も訂正記事も読者への謝罪も行っていない。朝日はいつまで、こ
うした醜悪・卑劣な「朝日の正義」を貫くつもりなのか。
(1998 年8月8日 産経新聞朝刊 藤岡信勝)
朝日はこの「論座」の中で訂正したつもりなのだろうか? 筆者にはわから
ない。言えることは、新聞には訂正のような記事は絶対に書けないが、気には
しているのである。
以上学術的・教育的品位を視点において検証した結果、従軍慰安婦強制連行
説には、すべてにおいて根拠はなく、教科書に載せる必要性は全くない。政治
的な解決で子供たちに不必要な「原罪」を押しつけてはならない。一般的に教
科書に書かれていることは、間違いがないことが書かれていると思われがちで
ある。今後そのような考えは改めたほうがよさそうである。
『諸君』1996,12「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」秦郁彦著
第3話
「南京虐殺」記述について
小学校の教科書では、「日本軍は中国各地
を侵略し、多くの生命を奪うなど、中国の
人々に大きな被害と苦しみをあたえました」
(大阪書籍)という様な内容で「南京大虐殺」
を全5社が記述している。
中学校の教科書でも全7社が記述してい
る。「・・首都南京を占領した。その際、婦
女子を含む約20万人とも言われる中国人
を殺害した(南京大虐殺)。」(東京書籍)、
「日本軍は、シャンハイや首都ナンキンを占
領し、多数の中国民衆の生命をうばい、生活を破壊した。ナンキン占領のさい、
日本軍は、捕虜や武器を捨てた兵士、子供、女性などをふくむ住民を大量に殺
害し、略奪や暴行を行った(ナンキン虐殺事件)。」(教育出版、写真)と記述。
欄外の註には「この事件の犠牲者は20万人といわれているが中国では戦死者
と会わせて30万人以上としている。また、1941 年からは、日本軍は、華北の
117
抗日運動の根拠地などに対し、『焼きつくし、殺しつくし、うばいつくす』とい
う三光作戦を行った。こうした日本軍の行為は、世界から強い非難をあびたが
一般の日本国民は、敗戦後になって初めてこれらの事実を知った。」と記述され
ている。
【中学校歴史教科書】
犠牲者:一般市民を殺害した・捕虜と一般市民を殺害したと、中学歴史全7社
が虐殺記述。
犠牲者数:「10数万人、中国では三十万人と言っている。」大阪書籍・清水書
院・教育出 版・日本文教出版の4社。「20万人」東京書籍・日本書籍の2社。
帝国書院が数字なし。
さんこう
三光作戦:大書・日書・清水・教出・文教の5社。
1)南京占領への経緯とその後の経緯
ろこうきょう
昭和 12 年(1937)7 月 7 日の廬溝橋事件で、日中戦争は始まった。7 月 29
つうしゅう
しゃんはいじへん
日通 州事件(注①)。8 月 9 日上海大山大尉事件。8 月 13 日第二次上海事変開
しょうかいせき
始。国民党蒋 介 石軍は、上海事変にも敗れ首都南京に逃げた。日本軍は、南京
に大軍を向かわせ断固とした態度をとるなら、中国は短期間に屈服するであろ
うと期待していた。11 月末に日本軍南京に迫る。12 月7日蒋介石 南京脱出。
とうせいち
9日南京城解放を勧告。10 日午後総攻撃開始。12 日南京防衛軍司令官唐生智逃
亡(注②)。13 日南京陥落。陥落以後の2ヶ月間に、市民や難民、非戦闘員を巻
...
き込んだ大量の虐殺・強姦などが行われたとされる。8年経た後の、東京裁判
で初めて国民は知ることになった。昭和 26 年(1951)「サンフランシスコ講和
条約」で、南京虐殺(虐殺数の問題は別など曖昧)を含む東京裁判判決を受託
し、サインしている。その時点で日本政府が、公式に南京虐殺の存在を認めた
ことになった。それは法的な根拠となるのである。東史郎氏は裁判で敗訴した
が、裁判所自身は南京虐殺の存在を認めている。
いんじょうこう
注①:通州は北京のすぐ東にある街で、南京政府を離脱した親日的な殷 汝 耕が組織した
きとう
冀東防共自治政府の支配下にあり、約4百人の日本人が商業などを営み生活していた。
118
日本の味方と考えられていた保安隊が、日本人の民家や商店、旅館になだれ込み、略
奪、いかにも残忍な方法で女性子供を含む日本人を260人を虐殺した事件。
『戦争
論』に詳しい。
注②:南京死守を蒋介石に宣言しながら、中華門・光華門の陥落する数時間前に南京防衛軍
しゃーかん
司令官唐生智は、部下を見捨てて下
関 から対岸へ逃亡した。南京は一つの門以外
は全部閉められ、たった一つの出口(下関埠頭に最も近い。この門も閉まっていたと
とくせんたい
言う説もある)では脱出しようとする味方の兵隊を督 戦 隊が射撃した。指揮官のい
なくなった軍隊は統制がとれなくなり、市の中心の安全地帯へ向かう者も多くあった。
投降せず彼らは武器を隠し持ちながら軍服を脱ぎ市民になりすましていた。従って捕
虜の資格を持たなかった。
2) 南京事件を初めて知らされた経緯
『検証 戦後教育』(高橋史朗著)では、GHQによって初めて知らされた南
京大虐殺の経過を次のように紹介している。日本軍の残虐行為を強調した「太
平洋戦争史」(昭和 20 年 12 月 8 日から 10 日間すべての全国紙に連載された)
を補うために、日本軍残虐事件暴露シリーズが全国紙に掲載された。
日本軍は恐るべき悪逆行為をやってしまった。近代史最大の虐殺事件とし
て証人たちの述ぶる所によれば、このとき実に二万人からの男女、子供た
さつりく
ちが殺戮されたことが確証されている。四週間にわたって南京は血の街と
化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。・・・婦人たちも街頭であろうと
屋内であろうと暴行を受けた。暴力にあくまで抵抗した婦人たちは銃剣で
刺殺された。
・・・母親は暴行され、子供はその側で泣き叫んでいた。
・・・
家族の者は一室に閉じこめられて焼殺されていた。南京地区官憲は後にな
って、暴行を受けた婦人の数を少なくとも二千名と推定した。
この情報を初めて聞いた日本人に与えた影響は、甚だ深刻なものであったと
著者は言う。
フランス文学者渡邊一夫氏の論文を紹介している。
敗戦後詳細に知らされた南京虐殺暴行事件をはじめとして数々の暴行行為
が、あの『皇軍』のしわざであったかと思うと、『はたして』という感情
と・・・しかし暗い予感が実現されてしまったことの証拠が示されるのが
事実である以上、ただただ気が滅入るのである。・・・南京事件は、繰り返
して申すが、中国人に加えた犯罪ではない。それは、日本国民が自分自身
119
に加えた犯行侮辱である。
(下線は筆者)
占領政策としての、戦争犯罪洗脳計画である「太平洋戦争史」の徹底的すり
込みが行われるまでは、日本人は現在まで続く罪悪感を持っていなかった。
3) 虐殺の定義について(戦時国際法)
虐殺とは、「残酷な手段で殺すこと。むごい殺し方。」(「日本国語大辞典」小
学館)とある。戦闘行為中の殺人は合法であるが、戦争犯罪の規定は、こうで
ある。
①交戦国軍隊に所属する者(交戦者)による戦争法違反行為(たとえば、
毒そのほかの禁止された兵器を使用すること、病気または負傷によって戦
闘能力を失った交戦者を攻撃または殺傷すること、非交戦者〔文民〕を殺
傷しその財産を掠奪または破壊すること、防守されていない都市を攻撃す
かんちょう
ること、
・・・捕虜を虐待すること)、
・・・間 諜や捕虜の逃亡行為などは、
相手国の軍の安全または作戦行動に重大な危険をもたらすという理由から、
現行中に捕らえられ場合、相手国による処罰が戦争法上認められている。
(TBSブリタニカ百科事典)
べんいへい
便衣兵については、「軍服を着ていない便衣兵が軍隊と認められないのはも
ちろんだが、敗残兵となった者たちが軍服を脱ぎ捨てて市民の中に紛れ込み
かくらんこうさく
攪乱工作をし始める例が、支那大陸では頻繁にあった。」(『国家と戦争』小林
よしのり共著)とあり、現行中の便衣兵への攻撃は合法で虐殺にあたらないと
している。
他の国の戦争犯罪、アメリカ(連合国側)の戦争犯罪・虐殺については、い
ちども裁かれ処刑された者はいない。アメリカが行った原子爆弾投下以外の日
本人への虐殺について、ある有名なアメリカ人の日記を紹介する。ただしこの
...............
引用は、アメリカの戦争犯罪を掘り起こして補償を云々するためのものではな
.
いし、南京で大虐殺がありそれを相殺させるために紹介するのでもない。戦争
に向かった状況は、それぞれにそれぞれの正義があったからだ。戦争行為に正
邪はない。そこには壮絶な狂気しかないことを言いたい。
120
<「リンドバーグ日記」>
六月二十一日 水曜日
日本兵士殺害に関する将軍の話
・・帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。軍曹は敵の地域
内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊
は一人の日本兵を捕虜にした。
・・・
「しかし、俺はあいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。
無抵抗だ」「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」
偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に日本兵の頭部に腕が巻
のどもと
き付き、喉 元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
六月二十六日 月曜日
・・談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。
「捕虜にしたけれ
ばいくらでも捕虜にすることが出来る」と将校の一人が答えた。
「ところが、わが方の連中
は捕虜を取りたがらないのだ」
「***では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き
立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし
戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することには
ならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と別の将校が調子を合わせる。
六月二十八日 水曜日
・・・
「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺して
からそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
七月二十四日 月曜日
・・・爆弾で出来た穴の近くを通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわ
り、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞
が今日ほど恥ずかしかったことはない。
八月六日 日曜日
・・・
「オーストラリアの連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねば
ならなくなったときの話を知っているかね?
あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ。
捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただ
けの話さ」
九月九日 土曜日
将校の話によれば、
・・日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこ
びりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り
上げねばなりませんでした。
九月十四日 木曜日
121
税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニアとして持
ち帰るものが数多く発見されたので、相手構わずにこのような質問をせねばならないのだと
いう。
(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号)
「国民の歴史」では虐殺に関し、高木桂蔵氏の「虐殺番付横綱・毛沢東の二
千六百万人」(『新潮45』平成9年2月号)を紹介している。
戦場の興奮に基づかない、理念に基づく殺人行為、大量虐殺となると、お
そらく毛沢東、スターリンの右に出るものはないだろう。最近は中国共産
党が自らの誤った歴史を控えめに自認する方向に向かっているらしい。
『建国以来歴次政治運動史実報告』と題する、中国共産党の内部文献が外
部に漏れた。・・・党幹部向けのマル秘文書である。これが毛沢東の建国以
来、文革までの殺戮数は二千六百万人であったというタブーを認めてい
る。・・高木氏によれば、二千六百万人はきわめて控えめな数字で、アメリ
カ上院安全委員会が一九七一年八月に出した調査報告書では、「・・・合計
五千万人を殺害している」と報告しているそうである。これに文化大革命
の犠牲者を加えれば、途方もない大虐殺になる。
4)南京事件 諸説の紹介
教科書記述で問題なのは、全ての教科書が大虐殺内容で、学術的常識とかけ
離れている点である。「否定派」「小虐殺派」「中間派」「大虐殺派」諸説論争し
ている中、大虐殺派のみを取り上げ、教科書の中で10万人から20万人を常
識にしてしまっていることにある。あげくに中国側の 30 万人説を書き加えてい
る。南京虐殺を取り上げるなら、諸説を紹介すべきだし、紹介しないなら南京
虐殺自体記述すべきではない。概要さえ定かでないものをなぜ一方的に子供達
の教科書に載せるのか。従軍慰安婦強制連行説同様、学術的態度がここにも欠
........
落している。このような偏向した認識を、教科書を書く資格を持つといわれて
いる人が持っている。だから教科書がおかしいと言われている。
【虐殺数】
(下線筆者)
大虐殺派:
『南京事件』(岩波新書 笠原十九司)「・・十数万人以上、それも二
〇万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。」
中虐殺派:『南京事件』(中公新書 秦 郁彦)「つまり三・〇万+一・二万(八千)
=三・八~四・二万という数字なら、中国側も理解するのではないか、と思う
122
のである。」
小虐殺派:板倉 由明 数千~一万台。
虐殺否定派:『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社 東中野修道)『「南京虐殺」
は、四等資料と五等資料によって成り立っている。南京で「何人虐殺」と認定
せる記録は一つもないのである。ない限り、「南京虐殺」はグローバルな共同幻
想に止まるのである。』
<参 考>
『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』祥伝社 藤岡信勝・東中野修道)は、中
国系アメリカ人アイリス・チャンの著作(アメリカで五〇万部)を紹介してい
る。それによれば、「被害者数に関しては記述ごとに四三万人とか、二六万人と
か、二二万七千人、三七万七千人と異なる数字をあげ、一定していない。」
『南京の真実』(講談社 ジョン・ラーベ)「中国側の申し立てによりますと、
十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではな
いでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人とみています。」
5) 証言について
東京裁判で日本人の「虐殺はなかった」という証言は、「信用するに足らず」
とあっさり却下された。中国人側の証言は公募しても集まらず、係官が出向い
て集めた信憑性の低い、確認がとれていない証言は簡単に採用された。それが
東京裁判である。南京に行った軍人の証言を、『新 ゴーマニズム宣言』の中か
ら引用する。
南京占領時に居た、犬飼總一郎氏に聞くと「そんなことはあり得ない」と
一笑に付された。南京を占領した兵隊たちは、それぞれ大規模な兵舎に入
れられ、通常時と同様定時に点呼を受け、厳しく管理されていた。兵隊た
ちは、南京攻略戦までボロボロになった装備を手入れし、次の作戦行動に
向けた準備をするのに連日忙しく、さらに各城門の警備、師団司令部の警
備、食料の配送といった任務が交代であってものすごく忙しく、休日はあ
ったが銃剣を持ち出すことなど絶対に不可能だった。食料は上海から南京
に進攻中、無錫に大補給基地があってそこで補充したから充分あった。最
前線の兵隊以外は略奪する必要はなかった。(そもそも何で難民だらけの
安全区にわざわざ入って略奪せにゃならんのか?・・安全区にいたのは避
難もできない貧乏な難民だけだったのである。)・・・安全区は日本兵も入
れぬように厳しく警備されていたし、外国人のジャーナリストも多数いる
のだから、日本軍は彼らの目をいつも気にしてなければならない
123
(
「ゴーマニズム宣言 第5巻」p154)
また「証拠」について、過去繰り返しマスコミ等で使われていた加害者証言、
ねつぞう
証拠写真などには意図的にか捏造・間違いが繰り返し行われ、ある新聞社が時
には逃げおおせられなくなり謝罪した経緯を持っているのも事実だ。マスコミ
報道については、「仕組まれた”南京大虐殺”」(大井満著)に詳しい。裏のとれ
た決定的な虐殺証拠が出ていないのが現状である。
6) これが証拠写真?アメリカでベストセラーの「ザ・レイプ・オブ・南京」
とピースおおさか
南京虐殺の諸説が未だに解決されない理由の一つに、不正確な証拠写真があ
げられる。年代の違いや場所の違いがあり、決定的証拠となる写真が一つもな
い。アメリカで50万冊売れた「ザ・レイプ・
オブ・南京」(アイリス・チャン著)は、多
くの偽写真を証拠に使って指摘を受けてい
る。出所はなんと中国政府筋と推測される。
この本は本文にも間違いを多く含み、アメリ
カの著名な歴史学者も「歴史書とは言えな
い」と言う代物だが、アメリカの有名紙が賞
賛し、日本軍による南京での蛮行が、事実で
あるかのように浸透してしまっている。
右の生首写真は、「ザ・レイプ・オブ・南京」の中で証拠写真とされ、また(財)
大阪国際平和センター(ピースおおさか)の南京大虐殺のコーナーに展示され
ている。このショッキングで恐ろしい写真は、もともとアメリカの写真誌『ラ
イフ』(1938 年1月 10 日号)に掲載されたものだが、南京大虐殺には少しも触
れていない。(生首にタバコをくわえさせたアメリカン・ブラックジョークだろ
うと推察される。死体を見せて、「戦争」そ
のものではなく日本軍の残虐性を強調する
ことは平和教育にはよくある。) そのよう
な写真を、あたかも南京大虐殺の証拠のよう
に平和博物館で展示している。この施設には
組合活動に熱心な先生によって小学生が連
れてこられ、子供たちは恐怖でそれを受け止
める。筆者にはそのことの方がよほどショ
124
ックで怖い。日本人への強烈な罪悪感を植え付けることが、一番の平和教育と
している。下の写真は、過去に南京大虐殺の写真として使われていたが、実は
重慶の空爆時「空襲が終わって群衆が地下壕を出ようとしていた時突如・・・
警報が鳴り、警防団がいきなり地下壕を閉めたため、人々がパニックに陥り窒
息死・圧死した」(『戦争論』p156)写真である。しかし展示では日本軍の爆撃
による死者と説明されている。ピース大阪は、平成七年の地点で小中学生の入
館者が約19万人、うち11万6千人が課外授業で来館している。一生忘れる
ことのできないであろう6年生の子供達の感想文を紹介しよう。子供の字で書
かれた原文を見たらもっと驚くことになる。あなたの子供は大丈夫か? 平和
博物館なるものに連れて行かれていないか。
『「かくしきれない罪」戦争はどんな物だったかということをおもに展示し
てあるピース大阪 映像や写真 本などで戦争というものを知る所で 日
本人が中国人にした大きな罪 見ているだけで苦しくなるし日本人は許せ
ないという心にもなってくるかもしれません・・』 『「日本は、重い罪を
背負っている」・・今から、約五十年前、日本は、中国の人々を、殺して、
楽しんでいた。平和センターには、日本がしたことを写真にとってありま
した。』
展示の仕方は異常で、戦争犯罪でも何でもない民族浄化の殺人行為であるア
ウシュビッツの展示を、日本の戦争と同列に展示し、日本軍の非道を強調して
いる。是非、ひどさ加減を確認してほしい。
7) 中国が血相を変えて言論弾圧をしかけてくる理由は
産経新聞朝刊(平成 12 年 1 月 30 日付)によると、大阪国際平和センターで
市民団体が二十三日に開いた「二十世紀最大の嘘『南京虐殺』の徹底検証」と
題する集会と、日本の最高裁が名誉毀損裁判で、被告の東史郎氏が自著の『わ
が南京プラトーン』で記した上官の残虐行為には根拠がないとする二十一日に
下した判決に対して、「自国の主張(注:中国側)への疑問提起は日本政府が「言
論の自由」「集会の自由」「司法の独立」をも無視して全面的に抑えることを求
めている」と報じた。同新聞はこれほどの大規模な攻撃の背景を、「日本はいく
らたたいても、たたきすぎるという非難はどこからも出ない悪役的対象のため、
汚職、失業などの他の諸問題から一般の関心をそらすには日本攻撃は便利と見
られる」と、対内的な目的にも使われていると分析している。
中国にはそもそも言論の自由というものはなく、言論を統制するのは当たり
125
前のことであるが、ここは日本である。法律によって言論の自由は保証されて
いる国だ。そのことはよくわかっているはずだが、いったい何がそうさせたの
だろうか?
いまもって、事の真偽を確証できない。にもかかわらず、中では荒唐無稽
な虚言が続いている。・・・海外に住む反日中国人、とくにその大本営であ
る在米反日中国人の各団体は、裏で中国政府関係者をはじめとする各方面
からの巨額の運動資金を動かして、しきりに米有力紙に反日全面広告を出
し、反日キャンペーンを張った。しかし、南京大虐殺について偽造や偽証
があまりにも多すぎるため、中国人の間でもその真偽を疑う人は多い。
・・・
私はかつて、南京のある大学教授に・・どう思うかと聞いたことがある。
氏はすぐに、(こけおどしだよ)と即答した。これまで、多くの証言や南京
大虐殺の映画などが世間に発表されたが、東中野修道教授と鈴木明氏の二
人の著作に勝るものはない。
(
『「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国』黄文雄)
東中野氏の論文がよほど警戒されているのだろうか。これはまさに「情報戦
争」の様相を呈する。筆者はその論文について何ら評価を下す資格を持たない
が、情報戦争の原因と考えられる論旨を紹介したい。
8)
てっていけんしょう
ひがしなかのしゅうどう
『「南京虐殺」の徹 底 検 証』(東 中 野 修 道著)の代表的な点を箇条書き
で紹介する
第1級資料として、
1,『伝統ある英字年鑑「チャイナ・イヤーブック」一九三八年版は、・・
「十二
月十三日、日本軍南京占領」と記す。それだけであった。』
2,『毛沢東の有名な「持久戦について」(筆者注:講演 南京陥落後半年後)
せんめつ
は、
・・①南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。②そのため、支那軍は助か
った。③逃げ延びた支那軍は再び勢力を再結集して、日本軍に反撃することが
出来た。・・。⑤だから日本軍の戦略はまずかった。』
3,『蒋介石は、一九三八年七月七日、漢口で、「友好国への声明」と「日本国
民への声明」を発表する。・・読んでみると、・・南京虐殺ではなく、広東残虐
事件(?)なるものであった。』
126
9) チベットと南京大虐殺
「赤い中国に祖国チベットは破壊された」。チベット仏教カギュー派の最高位
活仏カルマパ17世(14 歳)は、側近と家族を残し遠くヒマラヤ越えをして命
がけでインドへ亡命した。この彼の命がけの言葉は、「チベット自由と人権の集
い(チベット強制収容所の惨劇が今明らかに!)」(東京:平成 11 年 12 月 11 日、
大阪:平成 11 年 12 月 12 日)日本で開催された集会の中の、拷問・虐殺の証言
内容を裏付けるものではないだろうか。
アメリカに続いて、「欧州議会が人権弾圧非難決議採択」(産経新聞朝刊平成
12年 2 月 2 日付)を行った。チベットでの人権弾圧もしくは拷問・虐殺(「チ
ベット女性戦士が語る中国獄中生活の 28 年間」『正論』2000 年3月号)につい
て共通の認識を持ち始めたようだ。
しかし小林氏の指摘どおり、日本のマスコミを見ていると全くその認識を持
てない。と言うより、チベットの平和な写真を掲げ何事もない印象を伝える新
聞(中日新聞朝刊平成 12 年2月1日付)があったり、NHK衛星放送で中国の
肝いりらしい穏やかで美しいチベットの様子を放送しているのを見ていると、
どうしても世界の認識とずれが生じてしまう。なぜだろうか。
「かつて日本のマ
スコミはモスクワ派が多かったが、その後、北京派が多くなり、現在も北京派
は強い。そのせいか、コンセンサスとは北京に聞くことだと思いこんでいるよ
りとうき
うだ」
(
『台湾の主張』李登輝著)。だから真実が伝わらないのだろうか?
カモフラ
ージュのための南京大虐殺なのか? 日本に好意的な外国の人たちに無視を決
め込む。それはあきらかに中国の人権侵害を容認するということになる。日本
のマスコミと北京政府。いったいどうつながっているのか。
日本を訪問したダライ・ラマ14世や、これから訪問するであろう李登輝前
総統に対して、日本の外務省の対応に注目したい。
10) いつから教科書に記述されるようになったのか
上杉千年氏によれば、「南京事件」の初見は終戦後に使用された『時事問題』
という教科書に認められるたが、まもなく姿を消していった。昭和三十年代に
入ると、戦前の日本の姿を暗黒に捉える偏向した歴史記述が社会科歴史の教科
書に現れるようになり、その結果、昭和三十三年、四十三年と教科書の偏向の
大本をただす意味での学習指導要領改訂が行われ、少しずつ改善の方向に向か
っていった。しかし「南京事件」の名称は、昭和四十年頃から再び教科書に登
場するようになってきたらしい。そして昭和五十二年の学習指導要領で、これ
までの改訂努力を一挙に崩すような改悪改訂が行われ、これを機に教科書も再
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び偏向の度を強めることになった。その後教科書「侵略」「進出」をめぐる大誤
報事件(昭和五十七年六月二十六日)が起きて、宮沢喜一官房長官が「政府の
責任において、近隣諸国の批判を受けた教科書の記述を是正する。今後の教科
書検定では、検定基準を改め、近隣諸国との友好、親善が充分実現するように
配慮する」(「歴史教科書との15年戦争」)という談話を発表し、検定基準に
いわゆる近隣諸国条項ができてから、文部省の姿勢が一層偏向してしまいまし
た。文部省は「南京事件については、原則として、同事件が混乱の中で発生し
た旨の記述を求める検定意見を付さない」(昭和五十七年十二月六日)という新
方針を策定して以来、南京事件については書き放題という状況になった。それ
以前の記述は「ナンキン虐殺事件」(東京書籍-中学 昭和五十六年度版)であ
ったが、「ナンキン大虐殺」(昭和五十九年度より)の記述になり「中国では、
この殺害による犠牲者を、戦死者を含め、三十万以上とみている」と書くまで
に至った。
11) 近隣諸国条項と南京事件・従軍慰安婦
近隣諸国条項について藤岡信勝氏はこう指摘している。
「南京事件」や「慰安婦問題」などを書くように指定した記述は、学習指
導要領のどこにもない・・・しかし、・・日教組支配の現場の社会科教師の
意向に迎合して、「慰安婦強制連行説」を教科書に書き込むなどのことをし
てきた。・・・教科書行政に対する中国・韓国による内政干渉事件を契機
に、
・・検定基準のなかに全く異質で政治的な性格を持つ次の一項目が付け
加えられた。
「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際
協調の見地から必要な配慮がなされていること」(強調・下線は筆者)
これが世に言う「近隣諸国条項」である。・・・かりに近隣諸国条項が存
続するもとでも、それは「まともな教科書」が誕生することの妨げにはな
らないということである。
・・近隣諸国条項があるために「南京事件」や「慰
安婦問題」を書かなければならないと思いこんでいる人がいる。それは誤
解である。・・学習指導要領に根拠を持たない限り、新たに何事かを「書か
せる」ことはできないのである。たとえば近隣諸国を誹謗中傷するかのよ
うな記述は近隣諸国条項でチェックできるが、近隣諸国条項を根拠に「南
京大虐殺三十万人」説を教科書に書かせるなどと言うことは出来ない。こ
の四月から、平成十四年度に使用開始となる中学校用教科書の検定作業が
始まる。教科書改革のためには文部省における検定制度の適正な運用が第
一の前提条件である。
128
(産経新聞朝刊2月
3日付)
南京事件は、学術的に冷静に検証され、議論されなければならない問題であ
る。教科書の記述は、学術的でなければならない。日本政府がサンフランシス
コ講和条約で東京裁判の判決を承諾しサイン(東京裁判の判決に政府として異
議をたてない)したのは、敗戦国としての外交、政治的なものであった。東京
裁判をまともな「裁判」と仮定した場合にのみ、法的制約を受けると思うが。
戦争にいつまで負けていればいい?
編集者へ:渡邊 毅(三重県公立中学校教諭)先生からも、いつから教科書に
記述されるようになったのかに資料を引用しました。また第1章の中の「天皇
制」に関する資料、ピース大阪入館状況の資料も賜りました。この本の最後に
他のアドバイザーがたと一緒に、お名前をご紹介ください。よろしくおねがい
します。
【引用文献】
『検証 戦後教育』(高橋史郎著)
『国家と戦争』小林よしのり共著
(「リンドバーグの衝撃証言」『正論』五月号 より引用)
『南京事件』(岩波新書 笠原十九司)
『南京事件』(中公新書 秦 郁彦)
『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社 東中野修道)
「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』祥伝社 藤岡信勝・東中野修道)
『南京の真実』(講談社 ジョン・ラーベ)「
「ゴーマニズム宣言 第5巻」p154
「仕組まれた”南京大虐殺”」(大井満著)
産経新聞朝刊(1月 30 日付)
『「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国』黄文雄
「チベット女性戦士が語る中国獄中生活の 28 年間」『正論』2000 年3月号
り と う き
『台湾の主張』李登輝著
産経新聞朝刊2月3日付
「歴史教科書との15年戦争」
『戦争論』小林よしのり
129
第4話
原爆投下の是非
1) 原子爆弾の開発
1945年4月5日、日本で小磯国昭内閣が倒れた
後、元海軍大将であった鈴木貫太郎が内閣を発足した
のが同年4月7日である。それと時を同じくするよう
に、アメリカでもルーズベルト大統領が死去し、トル
ーマン大統領が誕生した。彼こそが誰あろう、日本に
、いや人類にはじめて原爆投下の命を下した最初の人
間である。
トルーマンは、ソビエトに対して非常に強硬な外交姿
勢をとっていた。それは、彼が就任直後に知らされたであろう原子爆弾の存在
にあると思われる。
アメリカの原爆製造計画は、暗号名‟ マンハッタン計画”という名のもとに
進められていた。マンハッタン計画というのは、1939年8月物理学者アイ
ンシュタインの名前で、数人の科学者がアメリカ大統領ルーズベルトに、最新
の核物理学の知識を応用すれば、これまで見たこともない強力な破壊力を持つ、
爆弾の製造が理論上可能になったことを告げる書簡を送ったことに端を発する。
やがて、1942年8月に、本格的な原爆製造計画がスタートし、1945年
7月16日ニューメキシコ州のアラモゴルド砂漠で、最初の原爆実験が成功し
ている。
そのころ日本においても、理化学研究所の仁科芳雄博士や、京都大学の荒勝
文策博士のところで、原爆製造の実験が試みられていた。しかし、終戦までに
感性を見ることはなかった。もちろん、その他の国においても、当時のソ連や
ドイツにおいても原爆製造の競争をしていたわけであるが、世界で最初に原爆
を保有したのは、当時の日本の敵国であるアメリカであった。
[原爆投下トルーマン声明]昭和28年8月6日
ホワイトハウス新聞発表
合衆国大統領の声明
16時間前、米国航空機一機が日本陸軍の重要基地である広島に爆弾一
発を投下した。その爆弾は、TNT 火薬2万トン以上の威力を持つものであ
った。それは、戦争史上これまでに使用された爆弾のなかで最も大型であ
る、英国の「グランド・スラム」の爆発力の2000倍を超えるものであ
った。
日本は、パールハーバーにおいて空から戦争を開始した。彼らは、何倍
もの報復をこうむった。にもかかわらず、決着はまだついていない。この
130
爆弾によって今やわれわれは新たに革命的破壊力を加え、わが軍隊の戦力
をさらにいっそう増強した。これらの爆弾は、現在の形式のものがいま生
産されており、もっとはるかに強力なものも開発されつつある。
それは原子爆弾である。宇宙に存在する基本的な力を利用したものであ
る。太陽のエネルギー源になっている力が、極東に戦争をもたらした者た
ちに対して放たれたのである。(中略)
今やわれわれは、日本のどの都市であれ、地上にある限り、全ての生産
企業を、これまでにもまして迅速かつ徹底的に壊滅させる態勢を整えてい
る。われわれは、日本の港湾施設、工場、通信交通手段を破壊する。誤解
のないように言えば、われわれは、日本の戦争遂行能力を完全に破壊する。
7月26日付最後通告がポツダムで出されたのは、全面的破滅から日本
国民を救うためであった。彼らの指導者は、たちどころにその通告を拒否
した。もし彼らが今われわれの条件を受け容れなければ、空から破滅の弾
雨が降り注ぐものと覚悟すべきであり、それは、この地上でかつて経験し
たことのないものとなろう。この空からの攻撃に続いて海軍及び地上軍が、
日本の指導者がまだ見たこともないほどの大兵力と、彼らにはすでに十分
知られている戦闘技術とをもって進攻するであろう。
2) ポツダム宣言
アメリカにおいて、最初の原爆実験が成功する
少し前に、ヨーロッパでは1945年5月にドイ
ツが連合国側に無条件降伏をし、ヨーロッパにお
ける戦争は終結した。そこで連合国側は、ベルリ
ン郊外のポツダムにおいて、トルーマン、チャー
チル、スターリンの米英ソ、三首脳が会談し、日
本に降伏を呼びかける「ポツダム宣言」が造られ
ていた。内容は、日本政府が大日本帝国軍隊の無
条件降伏を宣言するか、もしくは「迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」とする滅
亡か、2者択一を迫る厳しい通告であった。
しかし、このポツダム宣言が、米英ソの三国の名前で発表されず、米英中の
三国の名前によって発表されてしまったことが、事実上日本への原爆投下への
遠因となってしまった。もし、ソ連の名前があれば、当時の日本政府はソ連が
日本に参戦してくるものと思い、すみやかに戦争終結への道を探っていたかも
しれない。ポツダム宣言の中にソ連の名前が無かったために、政府及び軍部は、
131
まだまだ本土決戦なら充分戦えると思い(実際本土には、580万人の軍隊が
あった)少しでも有利に戦争を終結するために、「ポツダム宣言」を無視してし
まった。そして、「本土決戦一億玉砕」の道を選択してしまったのである。
3) 原爆投下―広島・長崎
1945年8月6日広島に、9日長崎に原爆が
投下された。広島と長崎の原爆は種類の違うも
のであり、広島にはウラニウム爆弾を、長崎に
はプルトニウム爆弾を落としている。このこと
からも、アメリカは日本を原爆の一実験場所と
していることがうかがい知れる。それでは、何
故アメリカは日本に原爆を落としたのであろう
か、後のトルーマン大統領は、「本土決戦で失わ
れる100万人以上の米軍の犠牲を回避し、戦
争を早期に終わらせるためであった」と述べて
いる。また、ブラケットというイギリスの学者
は、「原爆投下は、第2次世界大戦の最後の軍事
行動というよりも、ソ連との冷たい外交戦に対
する最初の大作戦の一つであった」と述べてい
るように、まさに当時のアメリカ政府は、人道
的な道義や道徳、人命の尊重といったものより
も、自国の国益のみを優先されるために人類史
上類を見ない無差別殺人を行なったのである。
このこと自体が、「国民の歴史」西尾幹二著にもあるように、日本人をモルモ
ットにしたアメリカに実験は、ナチスの犯罪と同じ「人道に対する罪」の範疇
に入るのであって、普通の「戦争犯罪」と言えないのである。
そして原爆は、数多くの一般市民を殺傷せしめ(広島―14~15万人、長
崎―7~8万人)地域社会を崩壊させた。これは日本そのものを崩壊させたと
いえる。
4) 原爆投下の是非
ソ連の対日参戦により、日本は「ポツダム宣言」を受諾し終戦を
むかえる。
東京裁判(極東軍事裁判)において、アメリカの原爆投下という人
132
類史上類をみない無差別殺人に関して、何ら国際法上の裁きもみず
に今日に至っている。
ジュネーブ協定は、何処に行ったのか?何のための国際法であり、国際社会な
のか。ともかく全て戦勝国は許されてしまうのであろう
か。アメリカが日本の本土に行なった東京大空襲にみる、無差別な爆弾の投下
は許されたままで良いのであろうか。また、その後ベトナム戦争で行なった、
「枯葉剤」を使用した化学兵器の使用も許されて良いのであろうか。いや、そ
のようなことは無いはずである。どのように捉えても国際法違反であり、断罪
されてもしかるべき行為である。
しかし、今日まで世界的に、何の手立てもとられてこなかったことが、現在
の核開発を許してしまった。そして、米、英、ソ、中、仏、印、パといった国
のみが、間違ったことをしているという意識なしに、核実験を繰り返し、今で
は地球そのものを消し去るほどの核爆弾を、人類が地球上に持ってしまってい
るという状況を生み出している。日本は、世界中で唯一の被爆国として、もっ
と発言を強固に、世界に伝えていかなくてはならないはずである。原爆の投下
が是か非であるかといえば、非であろう。また、日本は、原爆投下を受けた敗
戦国でありながら、イデオロギーによってドイツや朝鮮のような分断国家にな
ることなく、自由主義体制のもと単一国家として今日に至っている。これは事
実として、認識しておく必要があるであろう。
133
第5話 敗戦時の国民意識
1) 玉音放送
昭和19年(1944年)6月、日本本土は北九州において、アメリカの新
兵器B29型爆撃機による初めての空襲を受けた。翌20年アメリカはそれま
での高々度精密爆撃では成果が上がらなかったため焼夷弾爆撃に作戦を変更し、
3月10日の東京大空襲をはじめ、攻撃対象を軍事施設と限らない無差別絨毯
爆撃は日本全土に及び、国内のほとんどの都市は焦土となりつつあった。
この年の6月から日本はソ連を通じ和平工作に動いていたが、アメリカ軍は
それを知りながら結果を待たず、8月6日に広島にウラニウム原爆、9日には
長崎にプルトニウム原爆を投下、8日にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄
し日本に宣戦布告、満州、南樺太は突然のソ連軍侵攻を受け、日本は10日の
御前会議においてポツダム宣言受諾を決定する。
しかし国内には「本土決戦」を望む声も強く、軍部の一部には政府の要人を
殺してでも降伏を阻止しようとする動きさえあった。また陸軍の「戦陣訓」に
「生きて虜囚の辱めを受けず」とある指針は、新聞報道などにより国民にも広
く浸透し、占領され捕虜になるくらいなら自決を、自決するくらいなら最後の
一人まで戦おう、という世論も作られていたのである。もとよりこのときの日
本人には、国と地域社会・家族への強い思いがあり、戦いをやめること、戦わ
ずに降参することはすでに戦死した方々へ申し訳なくてできないという意識も
あったのだろう。ほとんどの国民は降伏・占領という形で戦争が終わることな
ど想像もしていなかった。
8月14日御前会議において総理大臣鈴木貫太郎は天皇陛下に聖断を仰ぎ、
終戦、ポツダム宣言受諾通告が決定した。そして「終戦詔書」を昭和天皇ご自
身のお声によりレコード盤に録音、15日正午、
「玉音放送」として日本全国に
ラジオ放送され、それによって日本国民は大東亜戦争の終結、日本の降伏を知
ることとなった。
宮城事件(玉音放送前に詔書が録音されたレコードを奪おうと、一部の陸軍
軍人によって起きたクーデター)など、戦争を続行させようとする軍部の動き
はいくつかあったが、いずれも鎮圧され、8月30日連合国最高司令官ダグラ
ス・マッカーサー元帥が厚木に到着、GHQによる間接統治が始まる。連合国
側として日本を占領したアメリカ軍は、沖縄戦での経験などから、日本人から
の激しい抵抗やテロ行為なども予想していたが、そういった事件は起きること
なく平穏な進駐が行われたことは、玉音放送により終戦の事実が国民に一斉に
伝わったことも大きな要因であった
134
終戦詔書
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セム
ト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セ
シメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシ
テ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト
東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨ
リ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚
有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好
転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻
ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続
セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却
スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セ
ムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサ
ルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺
族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ
厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ
固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨
ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共
ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱
リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一
家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ
建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運
ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
(出典)『官報』号外、一九四五年八月一四日。
2)
終戦の日
敗戦を知った時の国民のショックは多種多様であった。それまで戦況は軍部
統制下の「大本営発表」でしか知らされず、それは戦意昂揚を目的として必ず
135
しも正しい情報を伝えてはいなかった。度重なる本土への空襲、神風特攻隊を
はじめとする必死攻撃、日増しに厳しくなる物資の不足、あるいは戦線から帰
国した兵隊による情報などから、実は戦況が不利であることは人々も感じてい
たが、やはり突然の「降伏」はすぐには信じられず、目標を失った茫然自失の
状態であっただろう。大人も子供も悔しさをかみしめ、一方で安堵があったと
すればそれは、もう空襲が来ない、空襲警報の度に防空壕に逃げ込むこともな
い、夜も灯りを点けてすごせる、といったわずかな解放感であるが、それより
も人々は、アメリカに占領されるという大きな恐怖と不安の中にいたのである。
また、当時日本の領土であった外地と呼ばれる満州や朝鮮などで終戦を迎え
た日本人にとっては、引き揚げまでの長い戦いの始まりでもあった。
例えば当時満州・延吉国民学校四年生だった女性のこのような手記がある。
「終戦の日から、日本人と中国人、韓国人の立場が一日にして逆転しまし
た。
連日、日本人家庭への暴動と略奪に見まわれました。南下したソ連兵の
宿舎として日本人官舎は立ち退き命令。
日本兵のほりょ姿は悲惨で筆舌につくしがたい気の毒な光景。あの夏服
姿の日本兵が、極寒のソ連へ連行されて、どうして生きのびることができ
たでしょう。
父は戦争でいまもって行方不明。昭和三十年に遺骨のない葬儀を日本で
いたしました。
私共家族は、日本人集団と共に昭和二十一年十月、博多方面経由で日本
に帰国しました。」
(「8月15日の子どもたち」あの日を記憶する会編)
朝鮮では日の丸の半分を青く塗りつぶした大極旗と「マンセー」(万歳)の
声にあふれる中を、また満州ではソ連軍の侵攻を受けながら、日本人は大変な
苦労をしながら、子どもたちの多くにとってはまだ見ぬ祖国である内地を目指
した。そして中国残留孤児の肉親探しなど今もなお引き揚げは続いている。
3)
敗戦の意識
現在の私たちが終戦時の日本人を考えるとき、GHQ占領下のウォー・ギル
ト・インフォメーション・プログラム政策開始以前と以後では全く状況が違っ
てしまっていることを再認識すべきである。日本人の意識が180度変換した
136
のだとしたら、それは敗戦のショックのためではなく、このGHQの占領政策
によるものであることは、最近の研究により明らかになっている。
終戦当時の日本人は、詔書にある「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志
操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」
のお言葉を新日本建設に向けて力強く受け止めていただろう。例えば松下幸之
助は、8月20日にはすでに電気製品などの民需生産の再開を発表、社員を奮
い立たせている。
次章で書かれている「東京裁判」においていわゆる戦争犯罪人として処罰さ
れた政府高官たちの供述書などは、GHQの検閲により新聞などで当時の国民
が知ることはなかった。もし、裁判の内容、また判事団の中で唯一日本の無罪
を主張したインドのパール博士の判決文がありのまま報道されていたならば、
人々は戦争の意義をどう考え、戦後をどのように生きたであろうか。
領土拡大や戦争という外交手段を取らざるを得なかったことを戒めとしなが
ら、しかし欧米列強からの圧力に屈しようとしなかった自国についての誇りは
持続したのではないだろうか。
次項でも触れる大東亜戦争開戦前、昭和16年(1941年)9月6日の御
前会議において永野修身海軍軍司令部総長のこのような発言がある。
「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡
国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹
するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫
はかならず再起三起するであろう」
(「太平洋戦争への道」角田順)
戦後、混乱と疲弊、物不足にあえぐ日本はアメリカからの、ララ物資などの
食糧、またガリオア・エロア資金などの多大な経済援助を受け、復興を果たす
ことができた。
しかし、同時にGHQによる言論の統制は、戦後の社会に巧妙なマインドコ
ントロールを与えたに等しく、「大東亜戦争」は「太平洋戦争」と呼称を変えさ
せられ、祖国護持の精神は、軍部の独走と罪深き他国への侵略行為へと、国民
の記憶と意識も書き換えられていったのではないだろうか。
137
4)
英霊の言乃葉
敗戦時の日本人、日本の家族を伝える記録
として、戦死した兵士たち、従軍看護婦たち
の遺書がある。特攻隊や戦死者の声はどのよ
うに遺族と、国民に受け止められていたのだ
ろうか。あるものは進んで、またあるものは
やむを得ず故郷のため国のためにと出陣した
ことだろう。しかし彼らのうち誰もが父母を
慕い感謝し、子供たちの幸せを祈り、そのた
めに誇りを持って戦っていたことはどの遺書
からも哀切の情を持って訴えてくる。まさに
「たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神」を
残そうとしていたのではないか。それはとり
もなおさず、家族や生まれた町を守るための
戦いであったのだ。
この項の終わりに彼らの遺書のいくつかを掲げる。
この人々の死なくして、現在の私たちと、日本の繁栄はなかったということ
をもう一度、深く考えるべきではないだろうか。
富澤幸光海軍少佐 神風特別攻撃隊第十九金剛隊
昭和20年1月6日比島にて戦死 北海道出身 23歳
お父上様、お母上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂
いよいよ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖國で二十四
歳を迎える事にしました。靖國神社の餅は大きいですからね。同封の写真は○
○で猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。眼光を見て下さい。この拳を見
て下さい。
父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍
服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲ん
で幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖國神社ではまた甲板士官でもして
大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはな
りません。靖國で待っています。きっと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒
を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が
死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきっとやりま
す。
138
ニッコリ笑った顔の写真は父様とそっくりですね。母上様の写真は幸光の背
中に背負っています。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にいるよ、と
云って下さっています。母さん心強い限りです。
幸雄兄、家の事は万事たのむ。嘉市兄と共に弟嘉平、久平、保則君を援けて
仲良くやって下さい。
恩師に宜しく申し上げて下さい。十九貫の体躯、今こそ必殺轟沈の機会が飛
来しました。小樽の叔父、叔母様に宜しく。函館の叔父、叔母様に宜しく。中
野の祖母様に宜しく。国本帥顕殿、御世話を謝します。叔父さん、幸光は立派
に大戦果をあげます。
久野正信中佐
昭和20年4月6日出撃戦死
第三独立飛行隊
愛知県 29歳
遺書
正憲、紀代子へ
父ハ、スガタコソミエザルモ、イツデモオマエタチヲミテイル。
ヨク、オカアサンノイイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨ
ウニシナサイ。ソシテオオキクナッタレバ、ジブンノスキナミチニススミ、リ
ッパナニホンジンニナルコトデス。
ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
「マサノリ」、「キヨコ」、オトウサンハ、カミサマニナッテ、フタリヲジットミ
テイマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイ
ナサイ。オトウサンハ「マサノリ」、「キョコ」ノ、オウマ(お馬)ニハナレマセン
ケレドモ、フタリナカヨクシナサイヨ。
オトウサンハ、オオキナジュウバク(重爆撃機)ニノッテ、テキヲゼンブヤッツケ
タ、ゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オトウサンノカ
タキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ、
キヨコ
フタリヘ
(注:5歳と3歳の幼児への遺書)
139
(以下一部抜粋)
渋谷健一陸軍少佐
特別攻撃隊振武隊31歳
(娘に宛てて)
父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と
共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はか
なる思慮にて、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当たりを行ひ、尚
且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべきなり。父は悠久
の大義に生きるなり。
一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も又幼少にして父母
を病に亡くしたれど決して明るさを失はずに成長したり。まして戦に出て
壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思はば、空
を視よ、大空に浮ぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。
二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万
民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲良く母
と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。
城山光生陸軍主計中尉
第一四九飛行場大隊
24歳
これまでは我儘を何とも思はず過ごして来ましたが、身に沁みる愛情をもって、
育てて下された御両親の御苦労をしのべば、恩返しも出来ず残念です。
苟(いやしく)も皇軍将校たる者は、死すべき時は潔く死することを武人の嗜
として居ります。
譬(たとえ)、遺骨の還らざる事あるとも、非難することなく、日本人としての
矜持を持って下さい。
國のため命捧げしますらをの
至誠をつげや一億の民
市島保男海軍大尉
神風特別攻撃隊第五昭和隊
23歳
(最後の日記より)
隣の室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな
気持ちでいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。ましてや大和魂を
代表するわれわれ特攻隊員である。その名に恥ぢない行動を最後まで堅持した
い。
俺は、自己の人生は、人間が歩み得るもっとも美しい道の一つを歩んできたと
140
信じている。
精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と
私を囲んでいた人々の美しい愛情のおかげであった。今かぎりなく美しい祖国
に、わが清き生命を捧げ得ることに大きな喜びと誇りを感ずる。
引用・参考文献
「日本史史料 [5]現代」歴史学研究会編
「8月15日の子どもたち」あの日を記憶する会編
「太平洋戦争への道」角田順
「日本史から見た日本人」渡部昇一
「吾、身は幼児となりて母を慕い」櫻井よしこ編
「英霊の言乃葉」
「知覧特別攻撃隊」村永薫編
第6話
1)
天皇制とGHQ
天皇と政治との関わりあいの歴史
天皇制とGHQについて考えるにあたり、日本史における天皇の存在の考
察は避けてとおれないであろう。よって古代から天皇について振り返ってみ
ようと思う。
古代からとなると古事記(成立西暦712年)、日本書紀(成立西暦72
0年)(以下、記紀と称す)の応神天皇以前の記述を資料にしなければなる
まい。ある学説によると記紀における応神天皇以前の記述は事実ではないと
し、それらを神話と位置づけている。「神話」を基にした浅薄なスローガン
や観念は一部で振りかざされ、先の戦争中国民をまとめる手段として利用さ
れた。その結果、「神話」は戦後、歴史教育から抹殺された。しかしながら、
史実としの価値を無くしてしまった記紀における応神天皇以前の物語の舞
台を訪れると、実際にそれらの出来事がその昔あったような気がすると多く
の人が語る。伝説の地ではそれに纏わる遺跡、古墳、神社、その土地土地の
伝説が数多くある。また考古学、民俗学、民族学の見地から「神話」を研究
すると記紀の神話と呼ばれている領域の中に民族の感性上の真実及び史実
と呼べるものもあるいう。よってあえて神話の領域から天皇制を考えてみる。
神話では人々と日本国土を創造する為にイザナギとイザナミの命が出現し
141
た。二人は夫婦となり、大八洲(おおやしま)を始め神々を生み出した。
その後、イザナミは死に、黄泉(よみ)の国へ渡った。イザナギは後を追う
ものの、そこで争いが生じた為、一人帰ってきた。黄泉の国の穢れを祓った
時、最後に誕生したのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つ
くよみのみこと)そして建速須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子であ
る。天照大御神は太陽神・女神で、天上高天原にあって最初の統治者となる。
天照大御神は孫にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)に神勅を下し、天降っ
て天の下を統治するよう命じた。その際、三種の神器(玉・鏡・剣)を邇邇
芸命に授け地上統治者の証とし、その地位を絶対のものとしたという。そし
て、邇邇芸命の曾孫として初代神武天皇が登場する。
その第1代の神武天皇から第125代今上陛下まで万世一系の天皇が統
治してきた国が日本である。今年は皇紀2660年を数えるまでになったと
いう。この間連綿と皇統が絶えることなく続いてきたのである。
では、実際天皇は政治とどの程度関わってきていたのであろう。
ここに第16代仁徳天皇のエピソードがある。(日本書紀より)
ある日、仁徳天皇が高台に登って見渡されたところ、炊事の煙が少しもたち
のぼっていない。これは民が飢えているのに違いないと、三年間課役を廃さ
れた。その為宮殿がいたみ、雨漏りもするようになってしまった。お后がそ
れを天皇に進言すると仁徳天皇は「それ天の君を立つるは、これ百姓(おお
みたから)の為になり。然れば君は百姓を以(も)って本(もと)とす。」
と仰せになったとある。
この時期、天皇は政治に関わっていたと推察されるが、このエピソードから
非常に大らかな統治が想像できる。勿論、古代史の中にはこのような大らか
な統治ばかりではなく、皇位をめぐっての戦乱や民衆が圧制に苦しむ時代も
あったと考える。しかし、長谷川三千子氏が「このエピソードこそが日本の
伝統的な政治思想をあらわす言葉である」と述べているようにこれこそ天皇
が日本国を統治する根源的な政治思想・理念であったのではないか。その後、
大和朝廷では、畿内有力な氏の代表者による合議によって国政が行われた。
飛鳥期に入ると摂政政治という形態も取りいれられた。例えてあげると推古
天皇の時代、聖徳太子が政治を取り仕切っていたようなものである。天皇で
はない聖徳太子が隋の国との交渉をしたのは有名な話である。
「天皇制を問う」の「古代国家における天皇の権力」(直木孝二郎氏著)で
は
本来、天皇は専制権力を志向しており、天皇の権力が豪族を圧倒するに
至っていないときは、豪族と協力し、豪族の意見を尊重する形をとって
いたと思います。(略)専制君主制と、天皇権力を抑制しようとする貴
142
族制の妥協として、律令制ができたのではないでしょうか。天皇が全国
を支配しようとすれば諸豪族の力を借りねばならない。諸豪族も支配階
級としての地位を保とうとすれば天皇の権威を借りねばなりません。も
ちつもたれるの関係から一種の妥協が起る。その結果が古代の律令国家
ですが、そこでも天皇はたえず専制権力を持とうとし、豪族はそれをチ
ェックしようとした。
引用「天皇制を問う」の「古代国家における天皇の権力」
(直木孝二郎氏著)
また、天皇は独裁的な権力は通常持ち合わせてはいなかったという説もあ
る。
西尾幹二氏著書の「国民の歴史」では、そのことを太政官制度(下図参照)
にて説明している。太政大臣は最高の官で、
養老令には「太政大臣一人、右一人に師範た
り」とあり、この一人とは天皇を指している
とされている。天皇の師範でさえあるという
意味であるとのことである。
このように、この時代のことは説が種々あ
るようである。ある説ではあくまでも天皇が
統治者であるとするし、ある説では古代から
天皇は象徴であったというようにである。筆
者は歴史学者でもなく専門家でもないゆえ、
真相はどうであったか定かなところの断定
は出来ない。
さらに時代が下って、平安時代には藤原氏が台頭し臣下で始めて藤原良房
が太政大臣に任ぜられたりしている。その後、武家が実権を握る社会へとつ
ながっていくのである。
鎌倉時代から江戸時代までの間、南北朝時代を除いて天皇が政治の表舞台に
はたってはいなように筆者は考える。
さらに明治期に入って大日本帝国憲法が制定された。憲法条文では「大日
本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」
とし天皇を宗教色の強い存在として示している。条文は「臣民は~」という
文言に始まり、天皇が臣民へ問い掛けるような形式をとっている。しかしな
がら五箇条の御誓文に「広ク会議を興シ万機公論ニ決スヘシ」とあるように
天皇は独裁的な権限を有しているわけではなかった。
戦後の日本国憲法は第4部に記述するが、第一条に「天皇は日本国の象徴
であり、日本国民統合の象徴」と記述されている。天皇は政治と一線を画す
143
存在となっているのは周知のとおりである。
以上、ある時代から、天皇は権威の象徴であり、政治を司る権力は他にあ
ったように考える。そして武家が政権を握って以来、この権威と権力の二重
構造は顕著になったのではないか。このことは将軍を始めとする官位は常に
朝廷が授ける形式となっていたことからも窺えるのではないか。
西尾幹二氏は「日本史には朝廷と幕府の二元体制という、空白をつくらない
権力交代の“安全装置”があった」と書している。この二重システムこそ日
本人の英知なのだと考える。
2)
大東亜戦争前
日本が大東亜戦争へと突入した経過は他の章で記述されているのでここ
では省略する。
昭和16年(1941年)9月6日の御前会議で大東亜戦争は避けられない
ものと事実上開戦を決定した。ところがここでひとつ意外な事が発生したとい
う。通常御前会議では陛下は発言しないのが常となっていた。ところが陛下は
突如発言をし、統帥部が質問に対して満足に答えないことを叱り、懐から短冊
を取り出して一首の和歌を詠みあげた。明治天皇の御製の
「四方の海、みな同朋(はらから)と思う世に、など波風の立ちさわぐらん」
と。
{(日本を取り巻く)四方の海はみな同胞と思うこの世になぜ波風がたち、
さわぎがおこるのであろう。}
この歌をあえて御詠みになったことからも、昭和天皇は何とか戦争を避けた
かったのではないかと考えられる。
太平洋戦争の開戦の詔書
「・・・・抑々東亜ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ、丕顕ナ
ル皇祖考、丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ、朕カ拳々措カサル所、列国
トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト
為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国と釁端(キンタン)を開クニ至ル洵に己
ムヲ得サルモノアリ。豈(アニ)朕カ志ナルヤ・・・」
上記、開戦の詔書を何度読んでも、聞こえてくるのは戦争を避けたかったが
やむを得なかったという悲痛な叫びである。
西洋諸国が作り上げる「国際(インタ-ナショナル)社会」は力と力のぶつ
かり合いを基本原理とする世界である。その力と力のパワーゲームの本質を
理解しないで、知らず知らずのうちにそのうずの中に日本は巻き込まれて行
ってしまった。
144
そうでなければ、敵国に対しての開戦宣言ともいう詔がかようなまで痛恨の
念を入れたものになろうか。これを読む度に胸が熱くなってくる。
昭和天皇に戦争責任があるかどうかについて論議されるところだ。が、責任
があると発言している人々は御前会議で御製を御詠みになるかわりに「朕は
戦争を欲せず」と一言発言すればよかったと言う。はたしてそれだけであろ
うか。その当時の国際情勢、国内事情を考慮すると、単に天皇の一言だけで
戦争が回避されたとは思えない。日本だけでなく、世界中が戦争へのおおき
なうずの中に突き進んで行ってしまったのではないか。
3)
昭和天皇とマッカーサー
昭和20年(1945年)8月15日、
天皇陛下の玉音放送によって日本国民は
終戦を迎えた。その15日後の8月30日
厚木飛行場にレイバンのサングラス、口に
はコーンパイプをくわえたいでたちでマ
ッカーサー元帥が降り立った。時のアメリ
カ大統領トルーマンに史上空前の全権を
与えられての登場であった。元帥は東京の
皇居前にある第一生命ビルに入りそこを
連合軍総司令部(General Headquarters
= GHQ )とした。それから5年8ヶ月
に及ぶマッカーサーによる日本統治が始
まったのである。(昭和27年(1952年)4月28日に発効したサンフ
ランシスコ講和条約によりアメリカの対日本軍事占領が終結した。)一体ど
のような考えでマッカーサー元帥は日本を統治しようとしていたのか、天皇
を裁くつもりだったのであろうか。
西鋭夫氏著の「國敗れてマッカーサー」をもとに考察する。
日本降伏前の時点でアメリカは既に天皇制度をどのようにするかのレポー
トをまとめあげていたという。それは、
「日本の無条件降伏、あるいは完全敗北と同時に、天皇の憲法上の権限は停
止されるべきである。政治的に可能で、実際に実行できれば、天皇とその近
親者たちは身柄を拘束し、東京から離れた御用邸に移すべきである」「天皇
を日本から連れ出さなくてもよい」「もし天皇が日本から逃亡したり、ある
いはその所在が不明の場合には、天皇のとるいかなる行動も法的有効性を持
145
たないことを日本国民に伝えるべきである」「中国およびアメリカの世論も
次第に天皇制の廃止に傾きつつある」。
引用
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
日本の終戦前にこれだけのレポートをアメリカ国務省は既に準備していた
のである。用意周到というか先の先を見越してのアメリカの姿勢が窺える。
アメリカ政府は単に天皇制度を廃止するだけでは問題解決にはならないと
理解していたものの、だからと言って天皇を戦争犯罪容疑からはずすつもり
はその時点ではなかった。というのは終戦2ヶ月前のアメリカ国民の世論調
査(注1)やソ連、中国、イギリス、オーストラリアは天皇を戦犯として裁
くべきだと考えており、天皇制度について早急な決断が出せずにいたのでは
ないか。
「そして、昭和20年(1945年)9月27日、朝10時15分、天皇
は、黒のモーニングとシルクハットを召し、マッカーサーをアメリカ大使館
内のマッカーサーの宿舎に訪問された。宮内省は、天皇の訪問を「非公式な
お出まし」と国民に伝えたが、日本国民はそれまでそうした前代未聞の天皇
の行動を聞いたことがなかった。それまでは外国人が天皇を表敬訪問するの
が礼儀とされていた。天皇のマッカーサー訪問という公式発表によって、日
本国民は、いまや誰が日本の元首であるかを悟った。マッカーサーは、日本
国民に自分の力を示すため、天皇を入り口で出迎えなかった。マッカーサー
の副官二人(ボナー・フェラーズ代将、通訳フォービン・バワーズ少佐)が
正装の天皇を出迎えた。マッカーサーと天皇は35分間、天皇の通訳(奥村
勝蔵)を通し、会談した。
<余談にはなるが奥村は昭和16年(1941年)日米開戦の時、パーティ
をしていて日本政府の宣戦布告をアメリカ政府に渡すのが遅れた職務怠慢
と大失態に関与した人物である。また第4回目の天皇・マッカーサー会談の
通訳もするが、この内容をマスコミに漏らして懲戒免官処分となった。さら
に不思議なことに、占領が終わった直後の昭和27年10月、吉田首相は奥
村を外務次官に就任させている。>
引用
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
どうやら、日本において、政治家、官僚が責任を取らない習慣は戦前、戦後
を通して変わってはいないようである。
この会見で、天皇陛下が言われた言葉が、マッカーサーを感動させた。
天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全
責任を負う者として、あなたに会いに来ました。」この勇気ある態度は
私の魂までも震わせた。と後にマッカーサーは回顧録に執筆している。
引用
146
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
天皇自らはマッカーサーとの会見は「男と男の約
束」として内容を一切後に伝えることはなかった。
また、奥村の残したメモにこの発言がなかったこと
からこの発言の真偽を問う説があるが、青木冨貴子
氏がフォービン・バワーズ氏に取材をした結果から
も天皇が上記の内容の発言をしたことは間違いない。
そして、この第一回目の会談により「戦犯天
皇」に対するマッカーサーの考えも変わって
いった。
昭和20年(1945年)10月26日、アメリ
カ政府はマッカーサーに、「天皇ヒロヒト」は戦
犯として裁判にかけられることからのがれているのではないのか、天皇に対
する裁判は、アメリカの占領目的から切り離されるものではないと通告して
いる。
昭和21年(1946年)1月7日、アチソン政治顧問はマッカーサー
に極秘メモを渡す。
「私の信念ですが(アメリカの同盟国も強く要求していることですが)、
問題がなければ、天皇は戦犯として裁かれるべきであります。日本が真
に民主主義国家になれるのであれば、天皇制は消滅しなければなりませ
ん。これが理想的ではあるが、天皇を裁けば、ひどい混乱を引き起こし、
多くの親日家たちも、政府を維持できるだけの人物を見いだすことは不
可能だと思っています。それ故、“天皇の利用価値”につき我々の目的
を遂行するにあたり、(天皇が我々への)助力を惜しまないことを表明
し、一見民主化を推し進めたいと努力している天皇を利用するのは当
然」と報告している。天皇とマッカーサーの会見後も根強く天皇への戦
争責任追求が示されている。
引用
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
ただし、日本人の天皇に対する思いを考えると統治するアメリカにとって、
天皇を裁くのは不都合が生じるかもしれないとし、あくまでも天皇を利用
する姿勢が窺える。誤ってはいけないのは、アメリカは己の利益の為に(天
皇を助けたいなどというセンチメンタルなものではない)天皇を利用しよ
うとしたのである。
マッカーサーは、日本に上陸して僅か 5 ヶ月後、日本国民の日常生活の
中で、その精神文化の中で、天皇がいかに重要な存在であるかを完全に
把握していた。天皇を死刑にすれば、日本は崩壊し、マッカーサーの統
治は不可能となる。天皇は生かしておかなければならなかった。
147
昭和21年(1946年)1月25日、マッカーサーは陸軍省宛に極秘
電報を打った。この電報が天皇の命を救う。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こ
されるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である。天皇
を葬れば、日本国家は分解する。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民
の憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐の為の復讐は、
天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪
循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある。政府の諸機構
は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方
でゲリラ戦が発生する。私の考えるところ、近代的な民主主義を導入すると
いう希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った
強固な政府が生まれるだろう。そのような事態が勃発した場合、最低百万人
の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに
行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その
人員だけでも数十万人にのぼることだろう。天皇が戦犯として裁かれるかど
うかは、極めて高度の政策決定に属し、私が勧告することは適切ではないと
思う」
引用
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
なんという脅しであろうか。戦後50年を経て、この平和な日本では創造出
来ない世界である。マッカーサーが恐れたものは、日本人の魂と共産主義だ
ったのか。
この電報を受け取った陸軍省は、すぐさま国務省との会議を持ち、国務省と
陸軍省は天皇には手をつけないでおくことに合意した。
引用
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
マッカーサーが次に恐れていたのは天皇の退位問題である。マッカーサーの
日本統治にとって、天皇は絶対に必要であった。東京裁判の判決が下る日に
も天皇はマッカーサーを訪問する予定でいたようである。
その後、天皇とマッカーサーは会談をし、おそらくマッカーサーが引き止め
をしたのであろう。天皇退位の噂は消えていった。
(注1) 終戦2ヶ月前のアメリカ国民の世論調査<出典:國敗れてマッカ
ーサー>
昭和20年(1945年)6月29日に発表された天皇の戦争責任につ
いての世論調査では「天皇処刑」33%、「裁判にかけろ」17%、終
身刑11%という結果だったという。
引用
148
西鋭夫氏著「國敗れてマッカーサー」
4)
現行憲法での天皇陛下
日本国憲法1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ
って、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
ここでいう象徴とは一体なんであろう。第2章第5部で憲法制定の経緯につ
いて記してあるとおり、もともと現行憲法はアメリカ製である。よって、先
に文章となった英語で憲法を読む方がわかり易い個所があるという。象徴は
英語で“Symbol”と記してある。
今度は逆にSymbolという辞書を引くとこう記してある。
「象徴・表象 思想や性質などの抽象的なものを表わすために選ばれたも
の;特にその形態が内容と似ているかとか特別の関連があるとは限らない」。
この部では日本の「象徴」とはについて考えてみようと思う。
憲法上、天皇の役割として下記が制定されている。
「天皇は国会の指名に基いて首相を任命。また内閣の使命に基いて最高裁長
官を任命」
よくテレビで見かける、宮中においてモーニング姿で天皇から奉書を首相が
頂いている光景である。これは本文、第1部で述べた権威と権力の二重シス
テムではないか。時代が変わっても、たとえアメリカ製の憲法となっても、
天皇の役割はそう変わってはいないということにつながるのではないか。こ
れはかなり特異なことである。世界史において王制は武力によって政権を握
り、また武力によって交替を余儀なくされてきた。わが国では武家が権力を
握った後も天皇は君主であった。それより先、平安時代において既に藤原氏
は摂関政治を敷き権力と権威の二重システムを取り入れたと考える。権力を
握った天皇もいれば、権力を持ち合わせない天皇もいた。肝心なことは、天
皇が権力を握っていても握っていなくてもいつも日本の中心には天皇がお
られたことである。そして日本史では、時代が大きく変革する時に天皇を中
心軸とする円の中心方向へ向かう力が強まる。この時代が大きく動く時こそ、
いわば一大事なのであって、その時々の天皇は日本の進むべき道にあって重
要な存在であった。
西尾氏は「国民の歴史」で「天皇は徳があることに越したことはないが、
それが天皇の位の絶対条件ではなかった」と述べておられるが、極端なこと
を言うと平時において天皇は何もしなくてよいのである。では天皇は何をし
ていたのかというと、祭祀者としてのお役目がある。皇祖神、天照大神を崇
敬し、いわゆる日中行事や年中行事、さらに臨時の行事においても常に第一
にお祭りしてきた。毎朝に行われる御拝は宇多天皇(890年)から確かに
行われてきたという。明治以降侍従による後代拝となったが、今日に至るま
で千年以上続いている。また平安時代以降の年中行事を見ても天孫降臨の神
149
話と密接な関係がある新嘗祭や、元旦の四方拝をはじめ数多くの行事が今な
お厳格に続けられている。では皇祖神を崇敬するとはどういうことかと言う
と、生命の連続性への感謝である。
我々は日々生活していて、生命の連続性について忘れがちになってはいまい
か。我々が今ここに存在しているのは、祖先から脈々と生命が連続している
からに他ならない。
それを最も身近に自覚し畏敬、感謝の念を抱いてお祈りしておられるのが皇
室の方々であろう。日本は島国で二千年来、幸運にも異民族に侵されること
もなく過ごしてくることが出来た。一人の人間を産むには二人の親が必要、
二代前には四人の祖父母、三代前には八人の曽祖父母と計算すると十代前ま
では千人台に、二十代前には百万人台、三十代前には十億人台に達する。日
本人の血が流れている人は誰でもどこかで天皇とつながっているという。そ
の皇室が生命の連続性を日々感謝しておられる。その生命の連続性の中には
祖先への感謝だけでなく未来の人々に対する思いも含まれているであろう。
五穀豊穣(自然の恵み)、国家の安定、そして世界平和なしには、生命の連
続性はありえない。それらは国民の最も希求するものではないか。日本を代
表してそのようなことを天皇が祈る行為そのものが憲法で言われる「象徴」
であると解釈する。
余談
これを執筆するにあたり、天皇制の起源を神話から記述した。
戦前は天皇を神聖な存在とする目的で神話を誤った解釈で教育現場に持ち
込んだ。その為民主主義を推進しようとするGHQにとって障害となると判
断された神話は戦後、教育現場から抹殺された。GHQにとって神国ニッポ
ンはどうしても消し去れなければならなかった概念である。しかしながら、
150
神話の世界では日本が他の国と比べて勝っているなどと一言も触れてはい
ない。欧米人にとって神=GODとは唯一神であり、日本人が考える神の概
念とは違う。日本人は森羅万象全てを神と考えている。神は天に、山に海に
森にはたまた屋敷の中にもおられる・・・・。そのように日本人は神をとら
えている。ましてや戦前において天皇を人間ではなく「神」そのものだと思
っていた人などいないと考える。現人神であると解釈していたとしても、決
して天皇だけを神とは思ってはいなかったはずである。この異文化が欧米人
には理解出来なかったのではないか。GHQは神=天皇の図式をそっくり消
し去ろうとした結果、神話は歴史教育から抹殺されてしまった。
だが、昨今の考古学、民族学、民俗学の発展に伴い、それらの見地から古代
史の研究が盛んに行われている。戦後50年以上過ぎた現在、GHQからの
呪縛を解き、記紀神話を歴史教育として見直していい時期になったと考える。
教育とは教え育むものである。その教育は五感で体感するものであるのが真
の姿であろう。神話を読むと、その五感で体感するところがとても大きいよ
うに思えてならない。住んでいる身近な場所から、はたまた旅をすることに
よってそれらの五感を磨くことこそ教育上重要な要素であると考え、あえて
神話を記述した。
さらに、天皇制度の考察はあくまで筆者の考えによるものであり、その判断
の正否は読者にまかせることにしようと思う。
参考文献
「國敗れてマッカーサー」西鋭夫著 中央公論新書
「国民の歴史」西尾幹二著 産経新聞ニュースサービス
「教育勅語のすすめ」清水馨八郎著 日新報道
「天皇制を問う 歴史検証と現代」 直木孝二郎著 他 人文書院
「日本神話を見直す」水野祐著 学生社
「天皇家のふるさと日向をゆく」梅原猛著 新潮社
「日本歴史再考」所功著 講談社文芸文庫
「マッカーサー元帥と昭和天皇」榊原 夏著 集英社新書
「皇国史観とは何か」長谷川三千子著 諸君 1999年11月
「天皇・マッカーサー会見」を追って 青木冨美子著 新潮45
1999年9月
151
第7話
日本国憲法の制定
日本国憲法が制定される直接の原因はポツダム宣言の受諾であり、その根
本精神はアメリカ人の草案に基づいていることは周知の事実である。新憲法
制定は連合国軍総司令部(GHQ)の日本民主化政策の根底をなすものであ
る。この新制憲法は戦後半世紀以上たった今でも、一度の改正も、修正もし
ていないが、果たして、現在の世の中に即しているのだろうか。この日本国
憲法の下で、日本は、国際社会の中で応分の地位を得て、応分の役割をこな
せるのだろうか。 また、何故、現在の日本の経済的繁栄にも貢献したのも事
実である我が国の憲法が国民に誇りに思われていないのであろうか。その成
立過程に原因が潜んでいるのではないか。
「アメリカ人草案の日本国憲法」
GHQの指示により時の幣原内閣は 1945 年明治憲法改正のために「憲法
調査委員会」を設け、国務大臣松本蒸治を委員長に任命した。1946 年総司部
に提出された松本案( 憲法改正要綱 )は天皇陛下の統治権を残そうとする
ものだとして拒否された。総司令部は自ら作成した改正原案(マッカ-サ-
草案)を日本国政府に示し、これを最大限考慮して新憲法を作ることを要求
した。総司令部の要求の要点は、「天皇陛下の象徴性と人民主権」を定めた
第一条及び「戦争放棄」を定めた第九条であり、この二点を日本政府が受け
入れない場合には天皇陛下の安泰を保証できない旨強調した。現にオ-スト
ラリア、ニュ-ジ-ランドは天皇陛下を戦争犯罪人名簿に含めGHQに提出
したのも事実である。天皇主権 (天皇陛下が統治権を総攬すること) に固執す
る事が、事実上不可能である事を悟り、せめて我が皇室の安泰を願い、天皇
陛下を戦争犯罪人にすることだけは回避したかった幣原内閣、続く吉田内閣
はこの GHQ 原案を基に作り直した改正案(日本政府草案)を「日本国憲法」
として同年 11 月 3 日公布し、1947年 5 月3日より施行した。 以上の制
定過程を見ればわかるように、新憲法制定という一国の一大事業が全国民の
議論を待たずして性急におこなわれてしまった。その性急さとは、要するに
民衆が敗戦の空しさ、虚脱感から立ち直り、やがて、自分たちの手で国民生
活、社会、政治のありかたを決める憲法制定の機運が高まる前に、というこ
とだ。国民の要求が、天皇制の全面的な廃止に向かうのか、もしくは、天皇
統治権の続投か、あるいは社会主義に向かうのか、総司令部にも、また日本
152
政府にもわからなかった。日本の社会主義化は当然アメリカの望むところで
はないし、天皇陛下を日本統治の手段として上手く利用したかったGHQに
は、天皇陛下の身分が不安定なことも避けたかった。このあたりに、日本国
民の自発性による変革を阻止し憲法問題に早急に決着をつけたかったGHQ
の事情が伺える。 実際、現行憲法の雛形となっているマッカ-サ-草案は
彼の第一子分、ホイットニ-率いるGHQ民政局によって、僅か6日間で完
成し、その2週間後の 1946 年 3 月2日には最初の日本政府案が作成された。そ
の後たった 2 日間の討議を経て、3月 5 日には「日本政府草案」ができあ
がり、3月 7 日には即刻全国に向けて発表された。 余談になるが、8 月の
衆議院での上記草案の採決では、421票の賛成に対し 8 票の反対票がでた。
その内の6票が共産党で、皇室の廃止、日本の自衛権を要求してのことであ
った。
「アメリカ民主主義」
戦後マッカ-サ-率いるGHQは、日本の非軍事化を徹底するため、アメ
リカ流の民主化を日本に要求した。もちろん前文と本文11章103条から
なり、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重を三大原則とする新憲法制定
もアメリカの要求するところの一つであり、またその根本であったことは、先
に述べた通りである。しかし、ここで忘れてはならないのは、新憲法が日本
国民の世界に誇るべき民主主義憲法、平和憲法であると言い切れるかという
問題である。それは、民主主義の親であることを自負するアメリカ自身が平
和主義ではないし、非軍事化もしていないことだ。ここ10年の軍縮は平和
主義の思想によるところであると言うより、単に、予算の都合であることも
明らかだ。そもそも太平洋戦争を終結するために日本に大量殺戮兵器の原爆
を投下したアメリカが平和主義を唱い「軍国主義に対する自由の勝利」を宣
言し、またスタ-リンが言うところの帝国主義の西洋諸国が「ファシズムに
対する民主主義の勝利」を唱えるのは不自然きわまりない。彼らは、アジア
に植民地を作らなかったのか、昭和初期世界を襲った恐慌のとき閉鎖的なブ
ロック経済を構築しなかったか。日本の大戦敗戦後アジア植民地政策を再開
しなかったか。ここに欧米諸国の美辞麗句に対する不満と欺瞞の念を抱かざ
るをえない。欧米諸国の行う植民地政策は侵略戦争的な色合いが無いとでも
言うのか。日本に民主化を要求したアメリカをはじめとする欧米諸国の偽善
に今や多くの日本人が気がついていることも、米国製日本憲法が日本国民に
愛され、遵守されない理由の一つに挙げられるのは間違いない。また、抽象
153
的な表現になってしまうが、未だ米国流の民主主義が日本で定着していない
現実をみると、それは、日本人の体質、気質、魂、文化に根本的に合わない
性質のものだと思えてならない。
「象徴天皇」
新憲法の明治憲法との決別を最も端的に表していることの一つに象徴天皇
制があげられる。象徴天皇とは主権を有する国民の総意に基づいて認められ
た御立場であり、万世一系の天皇陛下が統治権を総攬されるとされた天皇主
権の明治憲法と180度転換した地位である。GHQの占領政策が終わり、
占領法体系の再編が試みられ、日本国憲法の全面的見直しの気運が高まった
ことがある。1954年成立の鳩山内閣の時である。動機は、再軍備化、天
皇陛下の元首化、9条の改正等が柱であった。しかし1964年ごろ再び憲
法改正が政治問題になる頃には天皇陛下の元首化論は既に下火になり、当時
の改憲論を唱えた代表的な人々さえ、「天皇の元首化の主張がかえって天皇
制に対する反感を煽るようなことがあったら、なにも、無理してまで明文化
する必要はなかろう。既に実際の運用においても、諸外国の取り扱いにおい
ても天皇は国家元首とされているのであるから。」と述べている。そもそも
1946 年(昭和 21 年 1 月 1 日)の年頭詔書(俗に言う人間宣言)において
天皇陛下が超憲法的神格を持たない旨述べられたが、それとて国民意識に対
してさほど大きな影響はなかったといえる。神格といっても誰も一神教の神
のように思っていたわけでもなく、「かけがえのない御方」の意味であったか
らだ。キリストや仏陀を否定するのとはそもそも次元が違っていた。重要な
ことは、戦前も、戦後も同じ天皇陛下がおられた事であり、同じ天皇陛下が
おられるという安心感・一体感によって日本国民は敗戦による非常に大変な
時期を乗り越えられたのだろう。「象徴天皇」という憲法上の立場は問題視す
る程のことではない、というのがこの問題の正しい現状認識であろう。
「他国の例」
国民に親しまれ大切に守られる憲法は、自国民の手によって作られなければ
ならない。外部のものが作ったものを、硬直的に守っているのは先進国で日本
だけであろう。実際、イギリスは成文憲法を持たないから始終手直しをしてい
るようなものだし、世界最古の成文憲法であるアメリカ合衆国憲法も既に27
154
条もの修正条項がある。また、合衆国憲法は修正とまでいかなくても微調整
は始終行っている。また日本国憲法より古い憲法を持つ国は14あるが、い
ずれも度々改憲している。50年以上も改正していないのは日本国憲法だけ
である。他国もしたから日本もやれと言うわけではないが、時代変化、社会
情勢、国際情勢の変化に合わせて、修正しているのが国際社会に見るところ
の慣例になっていることも一つ心に留めておかねばならない。条文解釈を極
端なまでにゆがめて解釈し、社会の現状に合せ、こじつけ、容認する(自衛
隊の存在、私学助成の問題等々)といった今までの日本流のやりかたは、と
ても正しい態度だとは思われない。
「憲法第九条」
日本国憲法で最も多く論議をされているのは間違いなく戦争放棄を唱う第
九条である。第九条は第一項と第二項から成る。第一項の後半「国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段と
しては永久にこれを放棄する」とあるが、ここがよく論議を呼ぶ。戦争、武
力威嚇、武力行使の放棄が全面絶対的なものかあるいは、条件付きかという
問題がある。これは「国際紛争を解決する手段としては」の捉え方にかかっ
ている。国際法上の歴史にのっとっても、親、兄弟、家族、子供、を守りた
いという、人間の本来持ち合わせている善良なる本能を考えてみてもこの部
分を「侵略戦争、武力威嚇、武力行使」を禁じたと解釈するのが妥当であり、
自衛戦争を否定したものではないと思う。しかし、第二項において、戦力の
不保持を規定した為に、実際には自衛戦争すら出来なくなった。第九条の解
釈としてはこの考え方が最も自然でかつ憲法学者の間でも多数派意見だろう。
しかし、肝心なことは、我々日本人はこの立派な平和憲法を持っているだ
けで国家と家族を守れる訳ではないということだ。もし、仮に外国から先制
攻撃を受けたらどうするのか。「日本は平和憲法は持つが、戦力は持たない
平和国家だ。」と唱えているだけで攻撃にさらされるままでよいのか。日米
安全保証条約を根拠に多数の米軍が日本に駐留しているが、日本人は「日本
国土と日本国民はアメリカが守るもの」と本気で思っているのか。もしそん
な人がいるなら平和ボケも甚だしい。日本が外国に攻められ、それをアメリ
カ兵が血を流して守り、日本人達は第九条を理由に戦わない姿がアメリカの
茶の間に流れたら、市民は猛反発し、米軍は撤退を余儀なくされるだろう。
現に戦争状態にない今でもアメリカ社会に日本の安保ただ乗り論(実際には
日本政府は莫大な金額の税金を駐留米軍に投入している)が叫ばれていると
155
いうのに、緊急時に日本人は戦はないで、アメリカ人が命をなげうってまで
助けてくれるという発想は夢に等しいだろう。
また、敵国による攻撃下での、米軍撤退後の日本の無様な姿は想像に難く
ない。ここで一つ付言しなくてはならないのは、「駐留米軍は日本を睨んで」
と言う見方も現に存在し、その恐ろしい見方を完全に否定し、恐怖を完全に
払拭するに足る明快な理由も見あたらないことだ。
話を元に戻すと、日本の非武装化政策を強行した GHQ のマッカーサー元
帥自身が、朝鮮戦争勃発という歴史の皮肉によって日本に7万5千人に及ぶ
大規模な警察予備隊の創設を命じたのは周知のことだ。この警察予備隊がい
まの自衛隊の基礎になったのは言うまでもない。その後マッカーサーが戦力
放棄の憲法第9条と自らの関わりを否定すべく立ち回ったのも当然だ。自分
の先見性の無さ、判断ミスに気がついたからだ。
いづれにせよ、自分たちの国、社会、家族は自分たちで守っていこうと思
うことが責任ある大人の考え方である。
以上考察してきた通り、現在の我々の日本国憲法は、様々な矛盾、不具
合を含んでいる。その制定過程からくる生来の矛盾、時の流れと共に時代に
合わなくなってくる矛盾、環境権、プライバシー権等あらたに追加すべき条
項の不足。
今、我々日本人に必要なのは、アメリカを非難する態度でもなく、マッカ
ーサーを恨む事でもなく、自分たちの国をどうしようか、国の方向性を定め
る憲法は何を言っているのか、不具合は無いのか、といった国家や憲法に対
する愛着、興味を持つことではないか。もし、不具合があるのなら、「衆議
院と参議院のそれぞれの総議員の三分の二以上の賛成でもって国会で発議し
国民投票で過半数の賛成を得る」という非常に厳しい条件付きではあるが改
憲の手立てもある。もし、現憲法と実社会に隔たりがあるのなら大いに議論
すべきだし、それをしないのならそれは日本人の怠慢である。
今、日本人に失われている愛国心を呼び起こす為にも、冷めている若者達
の心を喚起する為にも、戦争を体験している年配の方々の実話に基づいた意
見を聞けるうちに是非全国民の絶大なる関心の上に大きな憲法論議を呼び起
こしたい。自国の伝統ある文化、歴史に純粋に誇りを持つという、他の国々
では当たり前過ぎるほどに当たり前な事を日本でも実現するためにも。
参考文献
「國敗れてマッカーサー」
西鋭夫著
156
中央公論新書
「国民の歴史」 西尾幹二著
産経新聞ニュースサービス
「日本史からみた日本人・昭和編」 渡辺昇一著 詳伝舎
「日本の憲法」 長谷川正安 岩波新書
「憲法読本」 杉原泰雄 岩波ジュニア新書
157
第4章
第1話
終戦以降
東京裁判(極東国際軍事裁判)
無言の講演
昭和41年10月3日午後、訪日したインド名誉法学教授ラノハビノッド・パル博士
は、胸部を強い痛みに襲われた。清瀬一郎、岸信介両氏の招待による昼食を終えた直後
だった。
胆石が博士の持病である。主治医からも、「命にかかわる」と訪日を止められていたの
だ。しかし、博士は「人生のたそがれどきに、ぜひもう一目だけ、日本を見たい」との
強い願いから、無理を承知で我が国の土を踏んだのだった。
この日の朝、慣れない寒さからか、博士は体調に異常を覚えた。しかし、その不調を
圧して午前の日程をこなした。無理が午後になりたたったのだろう。薬を飲んだが痛み
は引かず、ベッドに身を横たえた。午後3時からは、尾崎記念館で新聞社主催の講演会
が予定されていた。
会場に発病の一報が入ったのが、3時15分。まず、清瀬氏が博士の業績と経歴を紹
介した。しかし、定刻をとうに過ぎても博士の姿は見えない。聴衆も病を伝え聞いて、
半ばあきらめかけたときであった。4時40分、黒い背広の老紳士が会場の後ろから入
ってきた。博士だ。細いからだを両脇から支えられた博士は、合掌したまま中央通路を
進み、下手から演台に上った。
聴衆が固唾をのみ見守る。静かな緊張が走った。だが博士は合掌をして深い黙礼を送
るだけである。前かがみの姿がかすかに震えている。沈黙の中、長身を不器用に折り曲
げた黒い影がゆれている。苦痛のせいなのか。いや違う。聴衆は気付いた。強い感動が
博士の心をとらえ、そのからだを震わせているのだということを。中老の紳士が鳴咽の
声をあげた。これをきっかけに、すすり泣く声が会場に広がった。
どのくらいの時間が経過しただろう。「無言の講演」は終わった。博士はまた中央通路
を通り出口に向かう。老婦人がかけ寄りそのおぼつかない足もとにひざまずいた。別の
ひとりが言った。「すわったまま、見送っては失礼でしょう。」身を固くした聴衆が我に
返り、立ち上がって拍手を送った。そして、その殆どは合掌して博士を車まで見送った。
無言が人々の心に雄弁に語りかけた数分間であった。
帰りの車中、博士はもらしたという。「胸がいっぱいで、口を開くことができなかっ
た。」ホテルに戻りベッドの上に端座すると、博士はまた長い合掌を続けた。最後の訪日、
80歳のできごとだった。
パル博士は、一体誰に向かい、何に向かって合掌をしたのか。そして、聴衆はなぜ無
言に感動し、涙したのだろうか。
157
戦勝国による裁判の不公平さ
日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏
したことにより、連合国は同宣言第十項の「吾
等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪ニ
対シテハ厳重ナル裁判ヲ行フベシ」との条項に
基づき、戦前・戦中の日本陸海軍の軍人、外交
官、政治家、民間活動家の中から合計28人を
戦争犯罪人として起訴し、裁判を行った。これ
がいわゆる東京裁判(極東国際軍事裁判)であ
る。昭和 20年(1945 年)12 月 16 日から 26 日までの間にモスクワで開催された米・
英・ソ三国外相会議の結果、26 日にモスクワ協定が発表されました。東京裁判はその第
五項「最高司令官ハ日本降伏条項ノ履行、同国の占領及ビ管理に関スル一切ノ命令並ニ
之ガ補充的指令ヲ発スベシ」に依り、日本の占領政策遂行の権限を与えられたマッカー
サー連合国最高司令官が昭和 21 年(1946 年)1 月 19 日に発表した「極東国際軍事裁判
所設置に関する特別声明」に基づいて設置された、極東国際軍事裁判所によって行われ
た裁判であった。同じ1月 19 日、マッカーサー司令官はこの裁判を行うに当って、裁
判所が準拠すべき法令として「極東国際軍事裁判所条例」を制定公布した。ドイツの戦
争責任を裁くために制定されたニュールンベルグ条例は、4大国がロンドン会議で長い
交渉を重ねた結果、生み出されたがこの極東国際軍事裁判条例ではこのような会議は開
かれずマッカーサーがアメリカ統合参謀本部の命を受け、行政命令として制定したもの
であった。条例そのものはアメリカ人、ことにショセフ・B・キーナン主席検察官によ
って起草され、他の連合国は条例が発令されてのちにはじめて協議にあずかった。この
条例により裁判官を出す国は降伏文書に調印した9カ国、すなわちアメリカ・イギリス・
中国・ソ連・フランス・オランダ・オーストラリア・カナダ・ニュージーランドとなっ
ていたが、同年 4 月 26 日条例の一部が改訂され、新たにアメリカの保護国であったフ
ィリピン・イギリスの属領であったインド両国からも裁判官を出す事になり合計11カ
国となった。後ほど述べるがこの改訂によりインドからも裁判官を出す事になり、後に
全被告無罪の意見書を出したラドハビノッド・パル博士がインド代表判事として東京裁
判に参加されることになったことは、このことだけをみれば意味のあることになりまし
た。しかし、条例のなかではアメリカが一方的に手続きをとり裁判官の選定がすべて連
合国から選ばれ、中立国や敗戦国からは一人も選ばれなかったことは明らかに不公平で
あり、これだけをみても裁判の名を借りた勝者の敗者に対する一方的な復讐、つまり「勝
者の裁き」といえるのではないでしょうか。
さらにこの条例で問題になってくるのは裁判において日本にとっては有利な証拠が
次々と却下されるといった証拠採用の不公平さと、当時すでに確立されていた国際法に
基づいたものではなかったことにあります。
158
証拠採用の不公平さ
裁判の審議は、おおむね証拠調べが中心となります。数々の証言や文献資料の中で、
何を取り上げ法廷証拠として採用するかどうかが、審議を左右する重要問題です。弁護
側は審議の過程で、日本に有利な証拠の数々を法廷に提出しましたがそんれらのほとん
どが却下されました。弁護側の証拠が却下された理由は「証明力なし」「関連性なし」「重
要性なし」というものでした。どいうものが却下されたかを挙げてみますと①当時の日
本政府・外務省・軍部等の公的声明がすべて却下されました。敗戦国の正式な言い分を
認めないというのが、この裁判の本質だったのです。②共産主義の脅威および中国共産
党に関する証拠は大部分が却下されました。とりわけ、日本の正当な権益を脅かした組
織的な排日運動があった事実は全く無視されたのです。③満州事変以前に、満州人の自
発的な民族運動が、独立運動であった資料はすべて却下されました。これは満洲国が日
本の傀儡政権であることを強調するためでした。④「この法廷は日本を裁くものであっ
て、連合国を裁くものではない」という理由から連合国側の違法行為の証拠資料は大量
に却下されました。アメリカの対日戦争準備や原爆投下等の問題はすべて不問にされた
のです。それこそ検察側の証拠は、たとえ伝聞証拠であってもほとんどが法廷証拠とし
て採用され、言いたい放題だったのです。
因みに、俘虜虐待等戦争法規違反に関するものとして、検察側が証拠として提出し受
理された 600 通中、本人が証人として出廷、宣誓した上で受理された物は 30 通(5%)
に過ぎず、残り 570 通(95%)は、ただ文書だけが証拠として受理されたのである。裁
判所条例には「偽証罪」に関する規定ががなかったため、法廷に証人として出廷せず、
従って弁護側の反対尋問を受ける事なく、その陳述書のみが証拠として受理された者は、
その中に如何に事実を誇張して、歪曲し、極端な場合には、全く嘘のことを書いても、
そのことが暴かれ、処罰されることを恐れる必要はなかったのです。
「本官が差当たり考慮するところは…まだ出廷しないある特定の者が、ある事実に
関して言明したといわれる場合、同人は証人台に召喚されなければならず、そう
でなければ同人の言明は証拠として受理されないとする部分である。かような言
明は、言明者の知識がどれ程広かろうとも、個人が召喚されて、証人台から証言
しない以上、信を措かれ、または証拠として受理されるべきではない。法廷は
この規則を守らなかった。この主の伝聞証拠を除外することの基礎は、それが本
質的に証明力を欠く事にあるのではない。伝聞証拠の除外される理由は、証言を
なす者の観察、記憶、叙述、及び真実性に関して生じ得る不確実性は、証言者が
反対尋問に付せられない場合、試験されぬままとなる、ということある。かよう
な不確実性は担当判事に、証人の証言の価値を公正に判断させることが出来る程度
に、反対尋問によってあばくことが出来るかも知れない。本審理中に提出された証
拠の大部分は、この種の伝聞からなるものである。これらの証拠は、反対尋問する
ために法廷に現れなかった人々からとった陳述である。この種の証拠の価値を判断
159
するにあたっては、深甚の注意を払わなければならない。」
パル判事の意見書より
事後法で裁判を行う不公平さ
極東国際軍事裁判所条例中には、裁判所が被告達を裁くための裁判管轄権を持つ犯罪
として①「平和に対する罪」②「通例の戦争犯罪」③「人道に対する罪」の3つを規定
していました。しかし、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した当時、国際法
上存在していた戦争犯罪は、俘虜虐待、民間人の殺害、財物の掠奪など、「通例の戦争犯
罪」といわれるものだけであって、①の「平和に対する罪」と③の「人道に対する罪」
は国際法上存在していなかった。従って、条例中にかかる犯罪を規定することは、「法な
き所に罪なく、法なき所に罰なし」とする、「事後法」の制定による裁判の施行を非とす
る近代文明国共通の法理に反した行為であり、このことは公判開始後、法廷で大きな論
争の的となりました。
11 名の裁判官の中には戦勝国から選出されているという不合理だけではなく、法廷に
持ち出された事実に前以って関係していたり、必要なことばがわからなかったり、本来
裁判官ではなかったりした者もおりましたが、その中でただ一人国際法の専門家がおら
れました。その名がインドのラドハビノッド・パル博士で、国際法を蹂躪して東京裁判
を強行した連合国を批判して法の権威と人類の正義と平和を守るために、敢然と日本の
全被告の無罪を訴えたのです。
パル判事は「平和に対する罪」が 1945 年以前に
は存在しなかったとと述べ、連合国が国際法を書き
改め、それを遡及的に適用する権限はないと結論し
ました。パルの意見書によれば「勝者によって今日
与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行う
事は、戦敗者を即刻殺戮した者とわれわれの時代と
の間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺
するものである。かようにして定められた法に照ら
して行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために、
法律的な手続きを踏んでいるいるようなふりをする
ものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。」と
述べ、次のように結論した。「戦争が合法であったか否かに関してとられる見解を付与す
るものではない。戦争に関するいろいろな国際法規は、戦敗国に属する個人に対しての
勝者の権利と義務を定義し、規律している。それゆえ本官の判断では、現存する国際法
の規則の域を越えて、犯罪に関して新定義を下し、その上でこの新定義に照らし、犯罪
を犯したかどうかによって俘虜を処罰する事は、どんな戦勝国にとってもその有する権
限の範囲外であると思う。」
160
侵略戦争の定義の不確かさ
裁判所の判決は日本が関係した事件・事変・戦争をすべて日本の連合国に対する侵略戦
争であったと述べていますが、侵略戦争が犯罪であるか否かの問題に関連して、「侵略」
が定義しうるか、という問題が出てきます。ニュルンベルグ裁判でアメリカのジャクソ
ン検察官は、『侵略』とは①他国に宣戦を布告すること、②宣戦布告の有無に拘わらず、
その軍隊により他国の領土に侵入すること、③宣戦布告の有無に拘わらず、その陸・海・
空軍をもって他国の領土、艦船、航空機を攻撃すること、④他国の領土内で結成された
武装軍隊に支援を与えること、またはこれら武装軍隊に対する支援を一切行わないよう
被侵略国から要請されたにも拘わらず、その要請を拒否することなどの行為の一つを最
初に行った国であると一般的に考えられている、と述べた上で『我々の立場は、ある国
家がどれ程不幸をもっていようとも、また、現状がどれ程不幸を持っていようとも、ま
た、現状がどれ程その国にとって不都合であろうとも、侵略戦争はかかる不幸を解決し、
またはこれらの状態を改善する手段として違法である、ということである』と述べた。
ところが、ソ連、オランダが先に対日宣戦布告をしている事実を考える時、この二国を
含む訴追国は『侵略』判定の基準を他に求めなければ理屈に合わなくなります。そうし
なければ、ジャクソン検察官提案の侵略判定の基準に従えば、この二国は日本に対して
侵略戦争を開始した罪を犯したことになり、そのような犯罪を犯した国々が自己陣営の
中にあることは等閑に付して、敗戦国民だけを同様の罪を犯した廉で訴追するというこ
とはとうてい考えられず、従って、連合国はこの『侵略』ということに関しては、他の
基準を採用したこものと考えなければならない。
この問題に対してもパル判事は「おそらく現在のような国際社会においては、『侵略者』
という言葉は本質的に『カメレオン的』なものであり、単に『敗北した側の指導者たち』
を意味するだけのものかもしれない。」と結論しました。それにもかかわらず、定義は絶
対に必要である。「法の最も本質的な属性の一つとしては、その断定性が挙げられる。…
法による定義の優れている点は、裁判官がいかに善良であり、いかに賢明であっても、
彼等の個人的な好みや彼等特有の気質にのみ基づいて判決を下す自由を持たないという
事実にある。戦争の侵略的性格の決定を、人類の『通念』とか『一般的道徳意識』とか
にゆだねる事は、法からその断定性を奪う事に等しい。」最後にパル判事は侵略を定義し、
戦争を違法化しようとする試みの背後に隠された理念に反対した。
侵略戦争は犯罪であるか
裁判所は、ドイツのニュルンベルク裁判において同裁判所が示した見解に同意しつつ、
侵略戦争は犯罪であるとする裁判所の見解を、次のように表明している。
①裁判所は、ニュルンベルク裁判に同裁判所が示した、「パリ不戦条約調印国が同条約に
おいて、国家的政策遂行の手段としての戦争を厳粛に放棄したことは、このような戦争
は国際法上不法であり、このような不法な戦争を計画し、遂行することは、そうするこ
とにより犯罪を犯す事になるのである」との見解に、全面的に同意する。②侵略戦争は、
161
ポツダム宣言発出よりずっと以前から、国際法上犯罪だったのである。③パリ不戦条約
批准に先立って締約国のあるものは、自衛のために戦争を行う権利を留保し、その権利
の中には、ある事態がそのような戦争を必要とするか否かを自ら判断する権利を含む、
と宣言した。自衛権の中には、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えるこ
とが正当であるか否かということを、第一次的には、自分で判断する権利を含んでいる。
しかし、不戦条約を最も寛大に解釈しても自衛権は、戦争に訴える国家に対してその行
動が正当であるかどうかを最終的に決定する権限を与えるものではない。これ以外の如
何なる解釈も、この条約を無効にしてしまう。本裁判所は、この条約締結に当って、諸
国が空虚な紙芝居をする心算であったとは信じない。
これに対し、パル判事のみが侵略戦争が違法であるという主張そのものを斥けた。パ
ル判事の理論に従えば、パリ条約の締結後も「国際生活において、従来存在した戦争の
法律的地位は、なんらの影響も受けなかった。」「或る戦争が自衛戦であるかないかとい
う問題が依然として裁判に付することのできない問題として残され、そして当事国自体
の『良心的判断』のみに俟つ問題とされている以上、同条約は現在の法律になんら付加
するところがない」と書いた。また、「国際法」というものに関連し、「侵略戦争は犯罪
である」という国際法が存在しても、戦争を始めた国が戦敗国となった場合は戦勝国が
その戦争を始めた戦敗国を処罰することは出来るが、戦争を始めた国が戦勝国になった
場合には、その戦勝国を処罰することが出来ず、このような場合は国際法はその存在理
由を失ってしまうことを延べた後、「もしそれが『法』であったとするならば、戦勝諸国
は何れも何らの法を犯したことはなく、かつ、かような人間の行為について、彼等を詰
問することを誰も考えつかない程世界が堕落していると信ずることは、本官の拒否する
ところである」と連合国が敗戦国たる日本が行った戦争のみを「侵略戦争」として裁判
に付そうとする悔いを批判している。
パル判事の結びのことば
「この恐怖を齎した疑惑と恐れ、無知と貪欲を克服する道を発見するために、平和を望
む大衆が費やそうとする尊い、僅かな思いを、裁判所が使い果たしてしまうことは許さ
れるべきではない。感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は、
教育的というよりは寧ろ興行的なものであった。恐らく敗戦国の指導者だけが責任があ
ったのではないという可能性を、本裁判所は全然無視してはならない。指導者の罪は、
単に恐らく、妄想に基づいた彼等の誤解に過ぎなかったかもしれない。かような妄想は、
自己中心のものにすぎなかったかもしれない。しかし、そのような自己中心の妄想であ
るとしても、かような妄想は至るところの人心に深く染み込んだものであるという事実
を、看過することは出来ない。
「こうして日本は侵略国にされた」パル判決第 7 部『勧告』中のパル判事の意見より
沈黙する予言
162
「時が熱狂と偏見を和らげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取っ
たあかつきには、そのときこそ正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の
多くにそのところを変えることを要求するであろう。」パル判事の判決文の中の予言であ
る。あれから50年あまりの歳月が過ぎた。この予言は的中しなかった。連合国が持ち
込んだ虚偽は、現在では誰もが疑わない。我が国国民の手で、虚偽は守られつづけてい
る。
この姿を、パル博士はどのように見ているだろうか。我が国の正義を勇気を持って主張
しつづけた外国人に思いを馳せるべきときがやってきている。
参考文献 「こして日本は侵略国にされた」冨士信夫著
「教科書が教えない歴史」藤岡信勝著
「東京裁判 勝者の裁き」リチャード・H・マイニア著
「20世紀どんな時代だったのか」読売新聞社編
第2話
平和条約締結と日本が行った戦後補償
1.平和条約締結
昭和26年(1951年)9月4日から8日までの日程で、サンフランシスコにて
対
日講和条約諦結のための会議が開かれ、52カ国が参加した。
日本に対する最大の交戦国だった中国については、毛沢東の中国共産党が支配する中
華人民共和国を呼ぶか、蒋介石の国民党が支配する中華民国を呼ぶかで、イギリスとア
メリカの間で意見が割れたため、招請状がどちらにも出されなかった。5日にソ連全権
(グロムイコ外務次官)は、条約の修正案を提出し
中国代表の参加を要求したが拒否
された。これに対して中国の周恩来外相は中国不参加の対日講和条約は非合法であり無
効であると声明。
インド、ビルマ、ユーゴスラビアの3国は、アメリカ軍の日本からの撤退、台湾の中
華人民共和国への返還を要求し、出席を拒否した。また会議に出席したソ連、チェコス
ロバキア、ポーランドの3国は新しい戦争のための条約であるとして調印を拒否。9月
8日の調印ではそれら3か国を除いた日本を含む49カ国が調印した。
対日平和条約の中で、現在まで緒を引いている問題のひとつに第二章 領域 の第二条
がある。それは日本が権利を放棄する地域を決めているのはいいが、その帰属について
は何も規定していないことである。特に(b)項の台湾、澎湖諸島及び(c)項の北方
領土については今日に至っても未解決のままであり、対中ソへの問題を現在にまで残す
163
条文となっている。
(c)項については日本とロシア(旧ソ連)が、昭和31年(1956年)の日ソ共同
宣言で国交を回復したものの、いまだに平和条約を結べないでいるのは、択捉、国後、
歯舞、色丹の北方四島をめぐる領土問題が解決されていないからである。北方領土に関
しては、4.北方および南方の領土問題に詳細を述べる。
昭和20年(1945年)7月17日~8月2日、ドイツのポツダムで日本の降状条
件を決めるためのポツダム会談がスターリン(ソ連)とチャーチル(英)
・トルーマン(米)
の出席のもと行われた。
この会談に基づいて「米・英・中 三国宣言」がチャーチル・トルーマンと蒋介石の名
によって発表された。一般にはポツダム宣言といわれている。この会談の時、ソ連はま
だ日本と戦争状態にはなく、対日戦線に入った段階でこの宣言に加わることになってい
た。そのためヤルタ会談の時ドイツ敗北の3~4カ月後にソ連が対日戦線に参戦すると
いう秘密協定があり、スターリンはその秘密協定通り8月8日参戦したというのである。
しかしポツダム会談に入って、まもなくアメリカは、原爆実験に成功し、アメリカとイ
ギリスは、ソ連の参戦は不要だと考えていた。しかしスターリンは、戦後処理の政治的
な計算も含め参戦したのである。
その後、日本は8月14日、天皇がポツダム宣言を受諾する意思表示をし、9月2
日、ミズリー号上で、最終的に連合国との降伏文書に調印した。しかし、日本がポツダ
ム宣言を受諾し、8月15日以降、全ての武装解除を始めたにも関わらず、ソ連側の「9
月2日までは戦闘状態であるから、我々はそれまでに歯舞諸島や他の3島を占領したの
であり、何も間違ったことはしていない」というのは、どうしても理解できないところ
である。
2.平和条約と日米安保条約
昭和24年(1949年)夏以後の国際情勢は、大国の協調は乱れ、世界は民主、共
産の両陣営に分裂し、民主陣営は、共産陣営の活発な浸透を受け、その抑制と均衡の回
復に苦悩する状況にあった。アメリカを指導者とする民主陣営は、ヨーロッパと極東で
ドイツと日本に独立を回復させ、対等の協力者として民主陣営の防衛体制内に迎え入れ
る政策を考えていた。だから平和条約は戦勝国と敗戦国の立場に立った戦後処理とは違
い、敗戦国が自由に国力を回復し、伸張しうる条件を設定して、日本(またはドイツ)
を、自己陣営の防衛に協力させようとするものであった。従って連合国が、自らの安全
と日本の安全を考えた平和条約と安保条約は、ふたつの条約として別々のものでありな
がら、その成立は密着不離の関係にあった。
日本は平和条約を締結することによって、東西の間に中立をまもり、全面平和が可能
となるまで気長に待つか、それとも民主陣営の一員として国の安全をはかり、世界の平
和に力をかし、共産諸国との関係を正常化するか、この2つのどちらに進むべきか、は
っきり選択をしたのである。それは日本という国家の在り方に関し、最も重大な選択で
164
あったといえる。
国連憲章からいえば、中立はあるべかざるものであり、真に中立に徹しようとすれば、
スイスのように国連の外に立つほかない。国連に国の安全を依頼し、国連の一員として、
世界の平和のために働く、といいながら中立的態度をとることは、弱者の態度であり、
勇気のない態度であり、国家永遠の策として、とるべきではあるまい。従って日本が、
アメリカと安保条約を締結するに至った日本の立場は、たやすく理解できるであろう。
(両条約とも発効は昭和27年4月28日)
参考文献
・
小和田 哲男
・
「日本の歴史がわかる本」(三笠書房)
「読める年表」
(自由国民社)
・
保阪
正康
「太平洋戦争の失敗・10のポイント」(PHP 文庫)
・
西村
熊雄
「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約」(中央公論新社)
3.日本の戦後補償問題
ここ数年、第二次世界大戦時に、日本政府・軍が、強制的・半強制的に戦争行為に、
巻きこむことによって死亡した人の遺族、また著しい損害を被った人々や、その遺族か
ら損害や不払いに終わった賃金、軍票等の補償を求める動きが高まってきた。これらの
人々は、日本軍に徴用されて戦犯とされた人、強制連行されて労働に従事した韓国・朝
鮮人や中国人、インドネシア人、在日韓国・朝鮮人の傷痍軍人・軍属、朝鮮半島から連
行されて、広島で原爆の被害を受けた被爆者、同じくサハリンに残留を余儀なくされた
韓国・朝鮮人、そして軍が徴用した従軍慰安婦であり、従軍慰安婦には韓国・朝鮮人の
ほかに中国、台湾、フィリピン、オランダ人等をも含むことが明らかになっている。
これらのそれぞれケースの異なる被害者たちは、個人で、あるいは集団で、補償や未
払い賃金の支払いを要求して、日本政府や労働者を雇用した企業に対して訴訟を起こし
ている。
日本政府は、これに対して国家間の平和条約や賠償協定によって「補償問題は法的に
決着済」との立場をとっている。戦争とは、国家間の問題であって、個人の利害は、国
家によって代表されるとする立場である。しかし、日本と同じく全体主義による侵略を、
近隣諸国に対して引き起こしたドイツは、ユダヤ人やナチスの迫害を受けた人々に、連
邦補償等で補償を行っているほか、空襲を受けた被害者にも補償を行い、明白に個人を
対象としている。……以上のような内容のことが平成4年(1992年)頃、日本のマ
スコミに急浮上し、なかでも従軍慰安婦問題とドイツの個人補償というまったく別個の
二つの概念が、大きく取り上げられるようになった。
165
ここで問題になるのは、「個人補償」という言葉に関する感傷的誤解である。
ドイツは国家賠償を済ませた後で、それでは足りないからより手厚い、心のこもった人
道的措置として、「個人補償」をさらに重ねているという、前提ですべてが語られ、その
ためドイツの償いの仕方が礼讃されている。とすると日本はまだ本当の補償をしていな
いのではないか、という不安と劣等感に襲われてしまう。近代戦争史では敗戦国が、戦
勝国に「国家賠償」を支払うのが普通であり、戦勝国の被害者ひとりひとりに、個別に
「国家賠償」をしたことはなく、まずここに大きな事実誤認がある。
ところで、ドイツはまだ国家賠償をしていない。これは東西分割国家であったからで
あるが、さらに、旧交戦国のどの国とも、講和条約を結んでいない。よく考えれば驚く
べき事実である。
ドイツの巨額補償は、賠償ではなくナチ犯罪に対する「政治上の責任」の遂行である。
したがって、どこまでも「個人」の次元で処理されるべきものであり、「集団の罪」を認
めない歴代ドイツ政府の立場は、ここでこそ貫かなければならない。ナチ犯罪に、ドイ
ツ国家は、「道徳上の責任」を決して負わないし、あくまでも個人の犯罪の集積であって、
償いは、どこまでも「個人」に対してなされるべきである。ただし、ドイツ国家が「政
治上の責任」を果たすために、財政負担をするという理屈ではある。
個人補償は、そのような背景から出てきた例外措置で日本人が感傷的に誤解したよう
な、より手厚い心のこもった、人道的措置ではない。戦後処理に個人補償など考えられ
ないことであり、ドイツのこの例が、おそらく歴史上最初であり最後であろう。
サンフランシスコ講和条約では、対日無償賠償政策をとるアメリカの強い圧力で、連
合国のほとんどが、賠償請求権を放棄し、日本政府が、講和条約の規定に基づいて、賠
償支払いの要求に応じたのは、フィリピン、インドネシア、ビルマ、南ベトナムの4カ
国だけとなった。日本は、とどこおりなく、すべてを処理した。但し、韓国とは、戦争
をしていないから、賠償も支払っていない。
ただ日韓基本条約締結時に、3億ドルの無償供与と、2億ドルの低利貸付の協定を結ん
だ。今なら安いが当時の5億ドルは当時、日本国家予算(一般会計)の20分の1であ
る。
他方中国は賠償を放棄した。しかし我が国は国交回復以来、中国には莫大な「経済援
助」をつづけ、その金額のなかには、謝罪と償いの意志が含まれているのである。経済
援助と呼ぶのは、サンフランシスコ講和条約で、戦勝国が、賠償を放棄した為「賠償金」
と言う呼び方ができず、「経済援助」と呼ぶだけで、実質的には、戦後補償の意味が込め
られていることは言うまでもない。しかし中国政府は国民に、この情報を伏せているら
しい。中国国民は賠償を放棄し、日本に恩義を与えた、という事実だけを知らされ、日
本からの積年にわたる巨額援助については、なにひとつ知らされていないという。しか
し一方では日本の財産であった、南満州鉄道、撫順炭坑、大連港、重化学工業、鉱山な
どの施設を、没収している。このことを黙許するのは、日本の外交上の失点である。
以上のように、日本とドイツは、償いの方式が違うのであり、日本は、国に対する賠
166
償を基本とし、一方ドイツは、被害者個人への「補償」を柱にしているのである。
日本政府は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と台湾を除き「国家間の賠償と財産請
求権の問題は解決済み」としている。
慰安婦問題は、平成5年8月当時の河野洋平官房長官が発表した、慰安婦関係の調査
結果に関する談話というのが元凶になった。慰安婦の強制連行を示す証拠のないままに、
謝罪と反省を表明してしまったのである。その後、それが韓国政府との政治的妥協に過
ぎなかったことが明らかにされても、河野談話は、撤回されないままに終わっている。
証拠のない自虐の産物が、日本から発信され独り歩きし、それが、日本への謝罪・賠償
請求となって返ってくる。このように、日本には、どんな理不尽な要求を突き付けても
いいんだ、という空気を、このまま放置していては大変なことになる。
日本人として注意すべきことは、戦争犯罪には時効がないこと、またそれについては、
事後法で裁かれることが、国際法上認められていること、この二つを、きちんと認識し
ておくことである。戦争犯罪は、不遡及の原則の範囲外とされているのである。
謝罪することは前提の事実関係を認めることであり、損害賠償と原状回復を求められ
るのは、当然になってしまう。要するに謝罪は、国際法上の不法行為責任を、国家が認
めたということ、と同義になるのである。
戦後補償に関して、日本政府は「決着済み」とはっきり言うべきであり、そもそも特
命全権大使が、南京事件で事実関係を認めてしまったり、内閣官房長官が、安易な謝罪
表明をするような謝罪外交は、自分で自分の首を絞めるということを、是非我が国政府
は、肝に銘じるべきである。
参考文献
・
「世界ニュース・ダイジェスト」(自由国民社)
・
西尾
幹二
「国民の歴史」
(産経新聞社)
・
吉田
裕
「日本人の戦争観」
(岩波書店)
「正論」2000.4
(産経新聞社)
・
(参考条約)
1)日本国との平和条約
以下抜粋
(昭和26年9月8日調印・昭和27年4月28日発効)
連合国及び日本国は、両者の関係が、今後、共通の福祉を増進し且つ国際の平和及び
安全を維持するために主権を有する対等のものとして友好的な連携の下に協力する国家
の間の関係でなければならないことを決意し、よって、両者の間の戦争状態の存在の結
果として今なお未決である問題を解決する平和条約を締結することを希望するので、
日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲章の原則
を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力し、国際連合憲章第55条及び第
56条に定められ且つ既に降伏後の日本国の法制によって作られはじめた安定及び福祉
の条件を日本国内に創造するために努力し、並びに公私の貿易及び通商において国際的
167
に承認された公正な慣行に従う意思を宣言するので、
連合国は、前項に掲げた日本国の意思を歓迎するので、
よって、連合国及び日本国は、この平和条約を締結することに決定し、これに応じて
下名の全権委員を任命した。これらの全権委員は、その全権委任状を示し、それが良好
妥当であると認められた後、次の規定を協定した。
第一章
平和
第一条
(a)日本国と各連合国との間の戦争状態は、第23条の定めるところに
よりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了
する。
(b)連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を
承認する。
第二章
領域
第二条
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含
む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求
権を放棄する。
(c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマ
ス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸
島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原
及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあった太
平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連
合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わ
ず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの
部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び
請求権を放棄する。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、
孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに
沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に
おくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。こ
のような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれら
の諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び
168
一部を行使する権利を有するものとする。
第三章
安全
第五条
(a)日本国は、国際連合憲章第二条に掲げる義務、特に次の義務を受諾
する。
(ⅰ)その国際紛争を、平和的手段によって国際の平和及び安全並び
に正義を危うくしないように解決すること。
(ⅱ)その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使は、い
かなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際
連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むこと。
(ⅲ)国際連合が憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連合
にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合が防止行動又は強制行動
をとるいかなる国に対しても援助の供与を慎むこと。
(b)連合国は、日本国との関係において国際連合憲章第二条の原則を指
針とすべきことを確認する。
(c)連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に
掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が
集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。
第六条
(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみ
すみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国か
ら撤退しなければならない。但し、この規定は、一又は二以上の連合
国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締
結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果として
の外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものでは
ない。
(b)日本国軍隊の各自の家庭への復帰に関する千九百四十五年七月二十
六日のポツダム宣言の第九項の規定は、まだその実施が完了されてい
ない限り、実行されるものとする。
(c)まだ代価が支払われていないすべての日本財産で、占領軍の使用に
供され、且つ、この条約の効力発生の時に占領軍が占有しているもの
は、相互の合意によって別段の取極が行われない限り、前記の九十日
以内に日本国政府に返還しなければならない。
第四章
政治及び経済条項
第五章
請求権及び財産
第14条
(a)日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠
169
償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を
維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の
損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行す
るためには現在充分でないことが承認される。
よって日本国は、現在の領域が日本国軍隊によって占領され、且つ、日
本国によって損害を与えられた連合国が希望するときは、生産、沈船引
揚げその他の作業における日本人の役務を当該連合国の利用に供すること
によって、与えた損害を修復する費用をこれらの国に補償することに資す
るために、当該連合国とすみやかに交渉を開始するものとする。その取極
は、他の連合国に追加負担を課することを避けなければならない。また、
原材料からの製造が必要とされる場合には、外国為替上の負担を日本国に
課さないために、原材料は、当該連合国が供給しなければならない。
第六章
紛争の解決
第七章
最終条項
第23条
(a)この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によって批准され
なければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主た
る占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオー
ストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、
ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン
及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄
託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ず
る。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書
の寄託の日に効力を生ずる。
(b)この条約が日本国の批准書の寄託の日の後九箇月以内に効力を生じ
なかったときは、これを批准した国は、日本国の批准書の寄託の日の
後三年以内に日本国政府及びアメリカ合衆国政府にその旨を通告して、
自国と日本国との間にこの条約の効力を生じさせることができる。
第24条
すべての批准書は、アメリカ合衆国政府に寄託しなければならない。同
政府は、この寄託、第二十三条(a)に基くこの条約の効力発生の日及び
この条約の第二十三条(b)に基いて行われる通告をすべての署名国に通
告する。
第25条
この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第
二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場
合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第
170
二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国
でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるもの
ではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のい
かなる規定によっても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のた
めに減損され、又は害されるものとみなしてはならない。
第26条
日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入
しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列
記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、
この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和
条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、
この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国
との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平
和処理又は戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条
約の当事国にも及ぼさなければならない。
第27条
この条約は、アメリカ合衆国政府の記録に寄託する。同政府は、その認
証謄本を各署名国に交付する。
以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。
アルゼンティン、オーストラリア、ベルギー王国、ボリヴィア、ブラジル、
カンボディア、カナダ、セイロン、チリ、コロンビア、コスタ・リカ、キ
ュバ、ドミニカ共和国、エクアドル、エジプト、サルヴァドル、エティオ
ピア、フランス、ギリシャ、グァテマラ、ハイティ、ホンデュラス、イン
ドネシア、イラン、イラーク、ラオス、レバノン、リベリア、ルクセンブ
ルグ大公国、メキシコ、オランダ王国、ニュー・ジーランド、ニカラグァ、
ノールウェー王国、パキスタン、パナマ、パラグァイ、ペルー、フィリピ
ン共和国、サウディ・アラビア、シリア、トルコ共和国、南アフリカ連邦、
グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国、アメリカ合衆国、ウ
ルグァイ、ヴェネズエラ、ヴィエトナム、日本国
議定書(省略)
宣言(省略)
2)日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
(昭和26年9月8日調印・昭和27年4月28日発効)
日本国は本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、
平和条約の効力発生のときにおいて固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。
無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国に
171
は危険がある。よって日本国は、平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ず
るのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。
平和条約は日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを
承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利
を有することを承認している。
これからの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国
に対する武力攻撃を阻止するため日本国及びその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維
持することを希望する。
アメリカ合衆国は、平和と安全のために現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその付
近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が攻撃的な脅威となり又は
国際連合憲章の目的及び原則に従って平和と安全を増進すること以外に用いられうべき
軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的
に自ら責任を負うことを期待する。
よって、両国は、次のとおり協定した。
第一条
平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空
軍及び海軍を日本国内及びその付近に配備する権利を、日本国は、許与し、
アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平
和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又
は干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じょうを
鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、
外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用すること
ができる。
第二条
第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事
前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力
若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通
過の権利を第三国に許与しない。
第三条
アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその付近における配備を規律する
条件は、両政府間の行政協定で決定する。
第四条
この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と
安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若
しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国
の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。
第五条
172
この条約は、日本国及びアメリカ合衆国によって批准されなければなら
ない。この条約は、批准書が両国によってワシントンで交換された時に効
力を生ずる。
173
国別条約・協定一覧表
相 手
中華民国
国
ビルマ(ミャンマー)
条約・協定・宣言・声明
平和条約(日華平和条約)
平和条約
発
効
昭和27年(1952年)
日
昭和30年(1955年)
日
8月
5
4月16
賠償及び経済協力に関する協定
フィリピン
ソ 連
賠償協定
日ソ共同宣言
インドネシア
平和条約
〃
〃
昭和31年(1956年)7月23日
昭和31年(1956年)12月12
日
昭和33年(1958年) 4月15
日
賠償協定
ラオス
〃
〃
昭和34年(1959年) 1月23
日
昭和35年(1960年) 1月12
日
昭和34年(1959年) 7月 6
日
経済及び技術協力協定
ベ ト ナ ム ( 南 ベ ト ナ 賠償協定
ム)
カンボジア
経済及び技術協力協定
友好条約
タ イ
大韓民国
マレーシア
中
国
協定のある規定に代わる協定
基本関係に関する条約
(日韓基本条約)
昭和35年(1960年) 8月21
日
昭和37年(1962年) 5月9日
昭和40年(1965年)12月18
日
財産及び請求権に関する問題の解
〃
〃
決並びに経済協力に関する協定
(日韓請求権・経済協力協定)
昭和42年(1967年)9月
昭和43年(1968年) 5月 7
21日の協定
日
共同声明
昭和47年(1972年) 9月29
日
平和友好条約
昭和53年(1978年)10月23
日
174
第3話
教育について( 教育基本法)
教育基本法
1.終戦
昭和20年(1945年)8月15日、国民はそれぞれの場所、たとえば
子どもたちは集団疎開中の田舎のお寺などで、ラジオから聞こえてくる天
皇 陛 下 の 、「 耐 え が た き を 耐 え 、 忍 び 難 き を 忍 び , ,,,, 」 と い う 玉 音 放 送 を
聞いた。
15年に及ぶ長かった戦争は、多くの都市を焦土と化し、310万人以上
の犠牲を出して、終戦を迎えた。国民の多くは住む家も無く、衣類や食料
に も こ と 欠 く 状 態 で あ っ た 。 そ れ で も 人 々 は 平 和 の 尊 さ を 実 感 し 、「 戦 後 」
を受け入れようとしていた。
2.新日本の教育方針
焦土と化した国土と飢餓にさ迷う国民を背負って、多難な道を歩んでいか
なければならない戦後初代の東久邇内閣が成立したのは終戦三日目の昭和
20年(1945年)8月18日、文相となった、前田多門は、ラジオで
疎開地や学校が焼けたりしていわゆる“寺子屋”で不自由をしのんでいる
こどもたちを元気づけるため、いい体をつくり、知恵をみがこうと放送し
た
次 に 、「 青 年 学 徒 に 告 ぐ 」と い う 放 送 も 始 ま っ た 。そ の 内 容 は 、武 力 を 持 た
我々の進む道は、文化の日本の建設であり、それは青年学徒の双肩にかか
っている。科学的思考を養い、徳と知を高めなければならない、というも
のだった。
現代からすればいたって平凡なものではあるが、わずか一ヶ月前には学徒
出身の特攻隊員が体当たり攻撃を繰り返していたことを思えば、どれほど
か新鮮に感じられたことであろう。
こ う い う 手 順 か ら す れ ば 、こ ん ど は 全 国 民 に 対 し て 新 た な 教 育 方 針 を 訴 え る 番
だろう。
同年9月15日教育の新しい理念が「新日本建設の教育方針」という表題
で文部省から発表された。
前文では、文化国家、道義国家建設のための文教諸施策を行うことを簡潔
に述べ、方針のくだりで「今後の教育は、ますます国体護持に努むると共
に軍国的思想および施策を払拭し、平和国家の建設を目途として、謙虚反
省、ひたすら国民の教養を深め、科学的思考力を養い、平和愛好の念を篤
くし、知徳の一般水準を昴めて、世界の進運に貢献するものたらしめんと
している」と、決意が述べられている。
175
あとの各論には教科書や教職員の措置、社会教育、文部省機構の改革など
10項目にわたった。
GHQからは教育方針についてまだなんの指示もない段階ものであり、今
後、GHQの判断によっては修正される可能性があるとしても、終戦から
わずか一ヶ月後に発表されたこの「教育方針」は、教育の大きな転換点で
あった。
3 . 民 間 情 報 教 育 局 Ci vi l In fo rm at io n an d E d uc at io n se ct i on
先に発足したESS(経済科学局)につづいて、GHQ内に文教政策を
担当する部門、すなわちCIE(民間情報教育局)が正式に発足し、日本
の 文 教 政 策 が 日 本 の「 自 発 自 立 」で は 行 え な く な っ て き た の は 、「 教 育 方 針 」
発表の一週間後、9月15日である。
他の八局が10月に発足するのに、それにさきがけて作られたのは、ア
メリカ側がいかに日本の軍国主義教育の一掃に神経をとがらせていたのか
のなによりの証明であろう。
そしてCIEは東京・千代田区内幸町の旧NHKビル(放送会館)の四
階に本拠を置いて、日本の教育改革に向けて、まっしぐらに走り出す。
GHQは10月に憲法の自由主義化と人権確保の五大改革を指示したの
に続いて、10月22日、前文「日本新内閣に対し、教育に関する占領の
目的および政策を充分に理解せしむる連合国最高司令部はここに左の指令
を発する」と始まる、教育についての主要指令「日本教育制度に関する管
理政策指令」が発せられた。その内容を簡単に紹介しよう。
「 A 門 」と し て「 教 育 内 容 は 、左 の 政 策 に 基 づ き 、批 判 的 に 検 討 、改 訂 、
管理せられるべきこと」として、二つの項目があげられている。
第一は軍国主義、国家主義の禁止で、軍国主義的及び極端な国家主義的
イ デ オ ロ ギ ー の 普 及 の 禁 止 、 軍 事 教 育 ・教 練 の 全 廃 。
第二は言論、思想、集会、信教の自由の確立である。議会政治、国際平
和 、 個 人 の 権 威 と 思 想 、 集 会 ・言 論 ・ 信 教 の 自 由 な ど 基 本 的 人 権 の 思 想 に 合
致する諸概念の教授と実践の確立を奨励すること、というものだった。
「B門」は「あらゆる教育機関の関係者は、左の方針に基づき、取り調
べられ、その結果に従い、それぞれ留任、退職、復職、任命、再教育また
は転職せられるべきこと」とあって、5項目がある。
総合すると、教師や教育関係の関係者は、できるだけ早く、公的機関で
軍 国 主 義 者 だ っ た か の 調 査 を 受 け 、そ う だ っ た も の は 追 放 さ れ る 。戦 時 中 、
自由主義、反軍主義者として追放されていた者はただちに復職させられる
し、人権、国籍、信教、政見などの差別待遇は禁止される。学園内での理
知的な授業批判はむしろ望ましい。これらと並行して占領軍の目的は大い
176
に知らされる必要がある。
「C門」は教育の実際面について触れ、第一項では、現在の教科書や教
育指導書などの中から軍国主義的な一面を速やかに削除すべし、と言い、
第二項で「平和的かつ責任を重んずる公民の養成を目指す新教科目、新教
科書、新教師用参考書、新教授用材料は出来る限り速やかに準備」せよと
言う。そして第3項で、初等教育の教員養成を急げと指示する。
あ と は こ の 、「 指 令 」を 実 行 し て た め の 、具 体 的 な 手 順 を し め し た も の だ
った。
三教科の停止
敗戦という歴史的な事実を経験した昭和20年(1945年)は、激動のま
ま に 新 た な 年 に 移 ろ う と す る 1 2 月 3 1 日 、「 修 身 、日 本 歴 史 及 び 地 理 停 止 に
関する件」が出された。
CIEは関係の教科書50冊を調べたが、大部分が古代史を扱っており、
うち43冊が広範囲にわたって好ましくなかったという。
したがって3教科とも、教科書の部分的な削除で処理できないことがわか
ったため、3教科の全面的な授業停止に踏み切り、新教科書(21年春か
ら二年間使用する暫定教科書)ができるまではCIEが認めた方針にそっ
て、討論会方式で社会、経済、政治の真実を学ぶことが望ましいとの意向
をだした。
軍 国 主 義 追 放 の た め の 大 手 術 で は あ っ た が 、一 時 的 に せ よ 小 中 学 校 か ら 、
修身、日本歴史、地理の3教科の授業が停止されるという事態は、教育関
係者に改めて敗戦の意味の重さを感じさせたに違いない。
教育使節団
昭和二十一年一月5日の新聞によればマッカーサー元帥は四日、米陸軍
省にたいし日本の複雑な教育制度の再建とその民主主義的発展のために、
有力な米国教育家よりなる使節団を日本に派遣して、連合国最高司令部役
員、日本文部省及び教育委員会との間に教育の技術的事項につき強調せし
めるよう要請した。
こ れ を う け 、米 国 務 省 を 中 心 と し て 人 選 が 始 ま り 、大 学 教 授 な ど 二 十 六 人 が 来
日し、調査研究の上、報告書(いわゆるミッションリポート)が作成される。
教育使節団報告書
各 種 の 調 査 を 終 え 、米 国 使 節 団 は 、い よ い よ 報 告 書 の 作 成 に 取 り か か る 。
団 長 の ス ト ッ ダ ー ド 氏 の 報 告 書 作 成 に 対 す る 姿 勢 と い う の は 、「 も ち ろ
ん わ れ わ れ 使 節 団 に と っ て 、報 告 書 を 書 く こ と が も っ と も 重 要 な 仕 事 だ が 、
177
だからといってその報告書が、例えは国務省や東京のGHQオフィスのだ
れかの頭の中にアイデアを生ませるといったたぐいのものであってはなら
な い 。」
つまり、単なる″日本教育視察記″
た報告書とすべきだという考えだった。
であってはならない、きちんとし
そして報告書は、滞日最後の一
週間で作成した。団員たちは四つの分科会に分かれて、その作業に打ち込
んだ。
使節団の調査によって日本の教育改革についていくつかの″問題点″がク
ローズアップされたが、その一つに『ローマ字改革』がある。
日本の国語表記を漢字からローマ字に改めるというこの問題にはかなりの
時間論議された。
ともかく、戦争とは全く関係のないこのような改革をなぜ実施しようと
す る の か 。こ れ を 実 行 す る た め に は 、中 国 の 歴 史 を 考 え な け れ ば い け な い 。
美術的な観点や習慣など、さまざまな関係がある。この人類の四分の一ぐ
らい数の人間が営んできた三千年以上も前の中国の文明、それと深くかか
わっている日本の国語表記を考えると、とてもローマ字改革には賛成でき
ない。とする反対意見に対して、ローマ字改革派には、中国及び日本の文
明を考えていなかった方が多かった。その論拠は、従来の漢字を教えるこ
と は 、教 育 の 時 間 を 二 、三 年 も 損 を す る と い う と こ ろ に あ っ た 。「 漢 字 を 習
うことが、ローマ字を覚えることよりどれほど人間の能力を伸ばす上で損
をするか。それは結果的には国にとってもマイナスである、というふうに
ローマ字改革論者は説く。
こ の 問 題 に お い て CIE 内 部 で は ロ ー マ 字 推 進 論 者 が 多 く い た が 使 節 団 と し
ては否定的な意見をだすことになっている。これにより国語表記が守られ
たと言ってもいいだろう。
もうひとつのテーマである、学制に話を移そう。
わが国の六・三制が発足したのは、昭和22年(1947年)4月から
である。
それまでの学制は小学六、中学五、高校(専門学校)三、大学三年が基
本型で、義務教育は小学校だけだった。それが六・三制では中学を含めた
九年になった。
まさに日本の「教育改革」だが、この
六・三 制 の 誕 生 に は 教 育 使 節 団 の 報 告 書 が 基 礎 に な っ て い る 、と い う の が ″
通 説 ″ で あ る 。報 告 書 の な か で 使 節 団 は 、日 本 に ふ さ わ し い 学 制 と し て 六 ・
三 制 を う た い 、 そ の あ と で GHQ が こ れ を ″ 指 針 ″ に 日 本 政 府 に 実 施 さ せ た
というのである。
178
使節団の一人であったポールス氏は、どうこの間題を考えていたのだろ
う。
「人間は大人になるまでの発達領階で、三つのレベルに分かれるが、十三
歳から十五歳までが、さまざまな意味でだれもが一番苦しむ時期だ。だか
ら 、六・三 制 の 三 は 非 常 に 重 要 ′ で あ っ て 、そ れ は 日 本 と か ア メ リ カ と か 、
またはヨーロッパとかの限定された国家や地域の問題ではなくて、人間の
教育のためにそう考えなくてはならないというわけだ
それならば、人間
の教育の尊厳にかかわる重大な事柄は(占領軍であるGHQが日本政府に
対して)命令するのではなくて、この重要な意味を十分に説明して、六・
三制を実施するかどうかについては日本側に任せたほうが良い、というの
が 私 た ち 使 節 団 の 大 方 の 考 え 方 だ っ た 。」
だから『やらなくてはいかん』というよりも『そういうふうに解決した
ほうがいい』というように、使節団報告書には述べることにした。
使 節 団 が 書 き 上 げ た 報 告 書 は 、こ れ か ら は 使 節 団 の 手 を 離 れ た 独 自 の「 報
告書」として、疲弊の底にある日本の上にかぶさっていく。
日本の教育のさまざまな分野に根本的な改革をもたらすであろう、また
そのことをアメリカ側が強く期待する「米教育使節団報告書」は、それだ
けの内容と量をもっている。
日本語に翻訳された報告書の全文は、四百
字詰め原稿用紙にしてざっと二百二、三十枚になり、それはやや薄目の一
冊の単行本になる量である。したがって、ここで全文を紹介するわけには
いかないが、幸い当時文部省が翻訳し、それをダイジェストした「要旨」
があるので、これも長文ではあるが、読んでいくことにする。また、全訳
『 ア メ リ カ 教 育 使 節 団 報 告 書 』( 村 井 実 訳 )が あ る の で 併 せ て 利 用 さ せ て い
ただく。
報 告 書 は 、緒 言 、序 論 、一 日 本 の 教 育 の 目 的 及 び 内 容 、二
三
初 等 学 校 及 び 中 等 学 校 に お け る 教 育 行 政 、四
五
成人教育、六
高等教育、七
国語の改革、
授業及び教師養成教育、
報告書の摘要、付録という構成になっ
て お り 、各 章 、た と え ば 第 三 章 は 、教 育 の 諸 目 的 、カ リ キ ュ ラ ム 、教 科 書 、
道徳と倫理、歴史と地理、保健と体育、保健教育、体育、職業教育という
ふうに細かに項が立てられている。
そして緒言の中で「使節団は、以下において知られるように、行動に移
すべき多くの提案を残すであろう。その大部分は、すでに日本の教育界に
強く現れている傾向を支持するものである。少数ではあるが、教育組織自
体を大幅に変革するような一連の行動も含まれている。事を進めるために
は、教育者の諸グループは、使節団の仕事を受け継いだところから出発し
179
て、できるだけ早急に適正な改革を行わねばならない」と、日本の教育改
革を強くうながす。
また報告書が、とりわけて当時の日本の教育界に感動的な衝撃を与えた
のは「序論」であった。
「われわれは決して征服者の精神をもってきたのではなく、すべての人間の
内部に、自由と、個人的・社会的成長とに対するはかり知れない潜在的欲求
が あ る と 信 ず る 経 験 あ る 教 育 者 と し て 来 た の で あ る 。」
しかし、われわれの最大の希望は子供たちにある。子供たちは、まさに
未来の重みを支えているのであるから、重苦しい過去の因襲に抑圧される
よ う な こ と が あ っ て は な ら な い 。」
「われわれは、いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用
いて、自分自身あるいは全世界に役立つ何かを創造する力を有していると
信じている。それこそが自由主義の信条である。われわれは画一性を好ま
ない。教育者としては、個人差・独創性、自発性に常に心を配っている。
それが民主主義の精神なのである。われわれは、われわれの制度をただ表
面 的 に 模 倣 さ れ て も 喜 び は し な い 。わ れ わ れ は 、進 歩 と 社 会 の 進 化 を 信 じ 、
全世界をおおう文化の多様性を、希望と生新なカの源として歓迎するので
あ る 。」「 本 来 、 学 校 は 、 非 文 明 主 義 、 封 建 主 義 、 軍 国 主 義 に 対 す る 偉 大 な
闘争に、有力な協力者として参加するであろう」
米国教育使節団は、本報告書の作成に当たり日本に本年3月の一か月間
滞在し、その間、連合国最高司令部民間情報教育局教育課の将校及び日本
の文部大臣の指名にかかる日本側教育者委員、及び日本の学校及び各種職
域の代表とも協議をとげた。
本報告は、本使節団の各員の審議を基礎と
して作成し、ここに連合国最高司令官に提出する次第である。
本使節団は、占領当初の禁止的指令、例えは帝国主義及び国家主義的神
道を学校から根絶すべしというが如きものの必要は十分認めるものではあ
るが、今回は積極的提案をなすことに主要な重点を置いた。
本使節団は斯くすることにより、日本人が自らその文化の中に、健全な
教育制度再建に必要な諸条件を樹立するための援助をしようと努めた。
一、日本の教育の目的及び内容
高度に中央集権化された教育制度は、仮にそれが極端な国家主義と軍国
主義の網の中にとらえられていないにしても、強固な官僚政治にともなう
害悪を受ける恐れがある。教師各自が画一化されることなく適当な指導の
もとに、それぞれの職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要
である。
斯くするとき教師は初めて、自由な日本国民を作りあげる上に、その役
割を果たし得るであろぅ。この目的のためには、ただ一冊の認定教科書や
180
参 考 書 で は 得 ら れ ぬ 広 い 知 識 と 、型 通 り の 試 験 で は 試 さ れ 得 ぬ 深 い 知 識 が 、
得られなくてはならない。
カリキュラム(教科課程)は単に認定された一体の知識だけではなく、
学習者の肉体及び精神的活動をも加えて構成されているものである。それ
には個々の生徒の異なる学習体験及び能力の相違が考慮されるのである。
それゆえに、それは教師を含めた協力活動によって作成され、生徒の経験
を活用し、その独創力を発揮させなくてはならないのである。
日本の教育では独立した地位を占め、かつ従来は服従心の助長に向けら
れてきた修身は、今までとは異なった解釈が下され、自由な国民生活の各
分野に行きわたるようにしなくてはならぬ。
平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神及び日常生活における理想的
技術精神、これらは、皆広義の修身である。これらは、民主的学校の各種
の計画及び諸活動の中に発展させ、かつ実行されなくてはならない。
地理及び歴史科の教科書は、神話は神話として認め、そうして従前より
いっそう客観的な見解が教科書や参考書の中に現れるよう、書き直す必要
があろう。初級中学校に対しては地方的資料を、従来より、いっそう多く
使用するようにし、上級学校においては優秀なる研究を、種々の方法によ
り助成しなくてはならない」
ずいぶんと生硬な言葉、例えは「理想的技術精神」などが出てくるが、報告書提出直
後の訳文だけに、止むを得まい。
『米教育使節団報告書』
の続き。
「保健衛生教育及び体育の計画は、教育全計画の基礎となるものである。
身体検査栄養及び公衆衛生についての教育・体育と娯楽厚生計画を大学程
度の学校にまで延長し、またできるだけ速やかに諸設備を取り代えるよう
勧告する。
職業教育はあらゆる水準の学校において強調されるべきものである。よ
く訓練された職員の指導のもとに、各種の職業的経験が要望され、同時に
工芸及びその基礎たる技術及び労働者の寄与に対しては、これを社会研究
のプログラム中に組み入れ、かつ独創性を発揮する機会が与えられるべき
である。
国語の改革
国 語 の 問 題 は 、教 育 実 施 上 の あ ら ゆ る 変 化 に と っ て 基 本 的 な も の で あ る 。
国語の形式のいかなる変化も、国民の中から湧き出てこなければならない
ものであるが、かような変更に対する刺激のほうは、いかなる方面から与
えられても差しかえない。単に教育計画のためのみならず、将来の日本の
青年子弟の発展のためにも、国語改革の重大なる価値を認める人々に対し
181
て、激励を与えて差しつかえないのである。なにかある形式のローマ字が
一般に使用されるよう勧告される次第である。適当なる期間内に、国語に
関する総合的な計画を発表する段取りに至るように、日本人学者・教育指
導者・政治家より成る国語委員会が、早急に設置されるよう提案する次第
である。
この委員会は、いかなる形式のローマ字を採用するかを決定するほか、
次の役目を果たすことになろう。
① 渡期における国語改革計画の調整に対する責任をとること。
② 新 聞・雑 誌・書 籍 及 び そ の 他 の 文 書 を 通 じ て 、学 校 及 び 一 般 社 会 な ら
びに国民生活にローマ字を採用するための計画を立てること。
③ 口語体の形式をより民主的にするための方策の研究。
かかる委員会は、ゆくゆくは国語審議機関に発展する可能性があろう。
文字による、簡潔にして能率的な伝達方法の必要は十分認められていると
ころで、この重大なる処置を講ずる機会は、なかなかめぐって来ないであ
ろう。
言語は交通路であって、障壁であってはならない。この交通路は国際間
の相互の理解を増進するため、また知識及び思想を伝達するために、その
国境を越えた海外にも開かれなくてはならない」
これからが報告書の眼目ともなる六・三制の勧告のくだりである。
「一、初等及び中等学校の教百行政
教育の民主化の目的のために、学校
管理を現在の如く中央集権的なものよりむしろ地方分権的なものにすべき
であるとう原則は、人の認めるところである。
学 校 に お け る ( 教 育 ) 勅 語 の 朗 読 、( 天 皇 の ) 御 真 影 の 奉 拝 な ど の 式 を あ げ
る こ と は 望 ま し く な い 。文 部 省 は 本 使 節 頗 の 提 案 に よ れ は 、各 種 の 学 校 に 対 し
技術的援助及び専門的な助言を与えるという重要な任務を負うことになるが、
地方の学校に対するその直接の支配カは、大いに減少することであろう」
『米教育使節団報告書』を続ける。
「市町村及び都道府県の住民を広く教育行政に参加させ、学校に対する
内務省地方官吏の管理行政を排除するために、市町村及び都道府県に一般
投票により選出せる教育行政機関の創設を、われわれは提案する。
か か る 機 関 に は 学 校 の 認 可・教 員 の 免 許 状 の 付 与・教 科 書 の 選 定 に 際 し 、
相当の権限が付与されるであろう。現在はかかる権限は全部中央の文部省
に握られている。
課税で維持し、男女共学制をとり、かつ授業料無徴収の学校における義
務教育の引き上げをなし、修業年限を九か年に延長、換言すれは生徒が十
六歳に達するまで教育を施す年限延長改革案を、われわれは提案する。
182
さらに、生徒は最初の六か年は現在と同様小学校において、次の三か年
は、現在小学校の卒業児童を入学資格とする各種の学校の合併改変によっ
て創設さるべき『初級中等学校』において、修学することをわれわれは提
案する。
これらの学校においては、全生徒に対し職業及び教育指導を含む一般的
教育が施されるべきであり、かつ個々の生徒の能力の相違を考慮し得るよ
う、十分弾力性を持たせなくてはならない。
さ ら に 三 年 制 の『 上 級 中 等 学 校 』( 注 、現 在 の 高 校 )を も 設 置 し 、授 業 料
は無徴収、ゆくゆくは男女共学制をとり、初級中等学校よりの進学希望者
全部に種々の学習の機会が提供されるようにすベきである。
初級と上級の中等学校が相伴って、課税により維持されている現在のこ
の程度の他の諸学校、すなわち小学校高等科・高等女学校・実業学校及び
青年学絞等の果たしつつある種々の職能を、継続することになろう。
上級中等学校の卒業は、さらに上級の学校への入学条件とされるであろ
う。本提案によれば、私立諸学校は、生徒が公私立を問わず相互に、容易
に転校できるようにするため、必要欠くべからざる最低標準に従うことは
当然期待されるところであるが、それ以外は、完全な自由を保有すること
になろう。
教授法と教師養成教育
新しい教育の目的を達成するためには、詰め込み主義、画一主義及び忠
孝のような上長への服従に重点を置く教育法は改められ、各自に思考の独
立・個性の発展及び民主的公民としての権利と責任とを、助長するように
すべきである。
例えば修身の教授は、口頭の教訓によるよりも、むしろ学校及び社会の実
際の場合における経験から得られる教訓によって行われるべきである。
教師の再教育計画は、過渡期における民主主義的教育方法の採用をうな
がすために、樹立せらるベきである。それがやがて教師の現職教育の一つ
に発展するよう提案する。
師範学校は、現在の中学校と同程度の上級中学校の全課程を修了したも
のだけに入学を許し、師範学校予科の現制度は廃止すべきである
わが国に初めて″六・三制″実施への提案がなされた。また教育委員会の
設置が強く要望された。いずれも日本の新教育への新鮮な鼓動であった。
「現在の高等師範学校とほとんど同等の水準において、再組織された師範
学校は四年制となるべきである。この学校では一般教育が続けられ、未来
の訓導や教諭に対して十分なる師範教育が授けられるであろう。
183
教員免許状授与をなすその他の教師養成機関においては、公私を問わず
新師範学校と同程度の教師養成訓練が、十分に行われなくてはならない。
教育行政官及び監督官も、教師と同等の師範教育を受け、さらにその与
えられるべき任務に適合するような準備教育を受けなくてはならぬ。
大学及びその他の高等教育機関は、教師や教育開係官使がさらに進んだ
研究をなし得るような施設を拡充すべきである。
それらの学校では、研究の助成と教育指導の実をあげるべきである。
成人教育
日本国民の直面する現下の危機において、成人教育は重大な意義を有す
る。民主主義国家は個々の国民に大なる責任を持たせるからだ。
学校は成人教育の単なる一機関に過ぎないものであるが、両親と教師が
一体となった活動により、また成人のための夜学や講座公開により、さら
に種々の社会活動に校舎を開放することなどによって、成人教育は助長さ
れるのである。
一つの重要な成人教育機関は、公立図書館である。大都市には中央公立図
書館が多くのその分館と共に設置されるべきで、あらゆる都道府県におい
ても適当な図書館施設の準備をなすべきである。
この計画を進めるには、文部省内に公立図書館局長を任命するがよい。
科 学 、芸 術 及 び 産 業 博 物 館 も 図 書 館 と 相 ま っ て 教 育 目 的 に 役 立 つ で あ ろ う 。
これに加うるに、社会団体、専門団体、労働組合、政治団体を含むあらゆ
る種類の団体組織が、座談会及び討論会の方式を有効に利用するよう、援
助すべきである。
これらの目的の達成を助長するために、文部省の現在の『成人教育』事
務に活を入れ、かつ民主化を図らなくてはならぬ。
高等教育
日本の自由主義思潮は、第一次世界大戦に続く数年の間に、主として大
学 専 門 学 校( カ レ ッ ジ・単 科 大 学 )教 育 を 受 け た 男 女 に よ っ て 形 成 さ れ た 。
高等教育は今や再び自由思想の果敢な探究、及び国民のための希望ある行
動の、模範を示すべき機会に恵まれている。これらの諸目的を果たすため
に、高等教宵は少数者の特権ではなく、多数者のための機会とならなくて
はならぬ。
高等程度の学校における自由主義教育の機会を増大するためには、大学
に進む予科学校(高等学校)や専門学校のカリキュラム(教科課程)を相
当程度自由主義化し、もって一般的専門教育を、もっと広範囲の人々が受
けられるようにすることが望ましい。
184
このことは、あるいは大学における研究を、あるいはまた現在専門学校
で与えられるような半職業的水準の専門訓練を彼らに受けさせることにな
るが、より広範囲の文化的、社会的重要性をもつ訓練でいっそう充実する
ことになろう」
『米教育使節団報告書』の最後の部分である。
「大学専門学校の数を増加するほかに、適当な計画に基づいて大学の増設
が行われるよう、われわれは提案する。
高等教育機関の設置や、先に規定した諸条件の維持に関する監督には、
政府機関に責任を持たせるべきである。
開校を許可する前に、申請せる高等教育機関の資格審査、及び上述の第
一 要 件 を 満 足 さ せ て い る か 否 か を 確 認 す る 役 目 以 外 に は 、そ の 政 府 機 関 は 、
高等教育機関に対する統制権を与えられるべきではない。
その高等教育機関は、自ら最善と考える方法でその目的を追求するため
に、あらゆる点において完全な自由を保有しなくてはならない。
学生にとって保証されるべき自由は、その才能に応じてあらゆる水準の
高等な研究に進み得る自由である。有能な男女で学資のないために研究を
続けられぬ人々に、続いて研究ができるよう確実に保証してやるため、財
政的援助が与えられるべきである。
現在準備の出来ているすべての女子に対し、今ただちに高等教育への進
学の自由が与えられなくてはならない。同時に女子の初等中等教育改善の
処置もまた講ぜられなくてはならぬ。
図書館・研究施設及び研究所の拡充をわれわれは勧告する。かかる機関
は国家再建期及びその後においても、国民の福利に計り知れぬ重要な寄与
をなし得るのである。
医療・学校行政・ジャーナリズム・労務関係及び一般国家行政のごとき
分野に対する専門教育の改善に対し、とくに注意を向ける必要がある。医
療及び公衆衛生問題の全般を研究する特別委員会の設置を、われわれは要
望する」
こ の 報 告 を 受 け た GHQ は 、 4 月 7 日 、 ワ シ ン ト ン の 米 国 務 省 と 同 時 に こ
の報告書全文を発表した。そのさいマッカーサー元帥は「この報告書は、
民主主義的伝統における高き理想を示すもの」であるが、この教育方針に
関する勧告は「広い視野に基づく研究と、将来に対する計画を立てるに当
たっての、一つの指標としてのみ役立つもの」との声明を出した。
この四月二十六日、政府は前年11月1日現在で行った人口調査の結果
を発表したが、それによると総人口約七千百万人のうち一割弱の六百万人
が 失 業 し て い る こ と が わ か っ た 。ま た 5 月 1 2 日 に は 、東 京・世 田 谷 の「 米
よこせ区民大会」が赤旗を立てて皇居内にデモをするという″異常事態″
185
が発生した。
戦争・敗戦がもたらした危機が怒涛のように日本列島をおおっていた。
そういうとき、たとえ民主と自由の高い理想を掲げてあるとしても、報
告書の勧告は日本人にとって過酷な指標であった。
ともかく、3月7日から同30日まで、24日問の使節団の活動はこの
報告書に集約された
報告書が教育界に与えた印象は鮮烈だった。現在教育評論家で、そのころ
東
京・港区の愛高国民学校高等科で教えていた金沢嘉市氏に聞こう。
「ザラ紙にガリ版刷りにされて学校に回って来たのを読んだ。私は敗戦で
教師としての責任の深さに思い悩み、もう教師を続けていく自信をなくし
て い た 。そ の 私 を 力 づ け て く れ た の が 、前 後 し て 発 表 さ れ た 新 憲 法 草 案 と 、
この報告書だった。
これならやっていける、と思った。新憲法精神を基にした教育こそ私が
望んでいたもので、私に新たな決意が生まれた。
報 告 書 で 大 変 印 象 的 だ っ た の は 、『 教 師 の 最 善 の 能 力 は 、自 由 の 空 気 の 中
においてのみ十分現される。子供の持つ計り知れない資質は、自由主義と
いう日光の下においてのみ実を結び、その自由の光を与えることが教師の
仕事である』
-
これだった。
それと六・三制の義務教育。私の学校は上級学校に進学できない貧しい
家 庭 の 子 供 た ち が 多 か っ た が 、そ う い う 子 供 た ち に 九 年 間 の 教 育 を 保 障 し 、
上級学校にも進める希望のもてる″開かれた″形になったのは本当にうれ
し か っ た 。」
教育基本法
「新しい時代に処する教育の根本方針が、憲法において、国民の代表た
るわれわれの手によって作られることが適当ではないかと思うが、文相は
い か に 考 え て い る の か 。」
のちに文相となる社会党の森戸辰男議員が、政府の文教政策理念の確立
について、こうただしたのは21年6月27日の衆院本会議においてだっ
た。
この「第九十回帝国臨時議会」の最大の案件は「憲法」の改正だった。
それゆえ森戸議員は、新憲法に教育の目標をしっかりと掲げるべきだと主
張した。
質疑に応じたのは第一次吉田内閣の田中耕太郎文相であった。
文相はまず、これまでの教育の大本とされてきた教育勅語について、私見
186
を 述 べ 、続 け て「( 新 し い 教 育 の 方 針 を )憲 法 の 規 定 に と り い れ る の に つ い
て は 、そ の 内 容 が 複 雑 で 、ま だ 一 定 の 形 が 出 来 て い る と は 言 え な い 。( 中 略 )
この際は憲法の中に、これに関する規定を置かず、教育に関する根本法を
制 定 す る 際 に 、そ の 中 に 取 り 入 れ た い と 考 え て い る 。( 中 略 )少 な く と も 学
校教育の根本だけでも議会の協賛を経るのが民主的態度で、目下その立案
の 準 備 に 着 手 し て い る 。」
これが、戦後教育の理想をうたいあげ、そして現在も教育法の冒頭に掲げ
られる全十一条の「教育基本法」制定への発端だった。
田中文相発言の趣旨は新しい教育の理念を新憲法の中だけで示すことは技術
的 に む ず か し い 。そ の か わ り に 国 民 の 代 表 で あ る 議 会 議 決 を 得 、法 令 で 定 め た
“ 教 育 の 根 本 法 ”に よ っ て 、そ の 理 念 を 実 現 し た い と い う 強 い 意 思 の 表 現 だ っ
た。
こ の あ と 田 中 文 相 は 「 教 育 基 本 法 」「 学 校 教 育 法 」「 教 育 委 員 会 法 」 の 制 定
に深くかかわっていく。しかし、教育の理想の実現に向かって、第一歩を
ふみだしたといえる答弁に対してCIEは必ずしも好意的ではなかった。
と い う の は 教 育 行 政 関 係 者 に C I E 側 に と っ て 好 ま し く な い「 教 育 勅 語 観 」
を持つ、人々の存在があった。そのひとつの例として田中文相の国会答弁
で 展 開 し た 、「 教 育 勅 語 観 」 を 紹 介 し よ う 。
「教育勅語が今後の倫理教育の根本原理として維持されなければならない
かどうか、結論を言うと、これを廃止する必要を認めないばかりでなく、
か え っ て そ の 精 神 を 理 解 し 昂 揚 す る 必 要 が あ る と 思 う 。( 中 略 )教 育 勅 語 を
完全無欠なものとしても、これに国民道徳の方針全部が含まれているとは
考えず、道徳の原理を広く古今東西に求めなければならないと思うが、民
主主義の時代になったからといって、教育勅語が意義を失ったとか、ある
いは廃止されるべきものだという見解を、政府はとっていない」
こういった価値観が教育勅語の処理に頭を悩ませていたCIEに強い衝撃と不満をあたえ、勅語を
廃止にする方針が打ち出され、あとで述べる、文部省に「自然消滅的」なやり方で放棄させた。
基本法を作るため文部省は21年8月28日、大臣で官房に審議室を設
け、本格的な立案に入った。
審議室は同年12月4日に調査局審議課となるが、本来は教育刷新委員
会( 日 本 側 教 育 者 に よ る 審 議 委 員 会 )に 事 務 局 と し て お か れ た も の だ っ た 。
しかし、教育基本法や教育委員会など重要教育法案については、案文だけ
ではなく、その内容に深くタッチし、法律制定の大きな原動力となった。
教育刷新委員会は最優先テーマを「教育の根本理念に関する事項」とし
て協議を重ね「教育勅語に類する新勅語は奏請しない。勅語及び詔書の取
り扱いについては、文部省の方針を承認する」との結論に達した。
187
文部省は、これを踏まえて、次官通達を出した。
一、教 育 勅 語 を わ が 国 の 教 育 の 唯 一 の 淵 源 と す る 従 来 の 考 え 方 を 去 る と と
もに、古今東西の倫理、哲学、宗教などに求める。
一、式 日 な ど に こ れ ま で 教 育 勅 語 の 奉 読 を 慣 例 と し て い た が 、 今 後 は こ れ
を読まないこととする
一、勅 語 及 び 詔 書 の 謄 本 な ど は 引 き 続 き 学 校 で 保 管 す べ き だ が 、そ の 保 管 、
奉読にあたっては神格化するような取り扱いをしない
CIEの“自然消滅”作戦どおりの結末だが、とにかくこれによって戦後
の 勅 語 論 争 に 事 実 上 の ピ リ オ ド が 打 た れ た 。( 閣 議 に お け る 正 式 な 決 議 は
あとだったがそれも事実上の追認だった)
委員会は休む間もなく教育基本法要綱草案をまとめあげた。
まだ「われらは、さきに、日本憲法を確定し・・・」で始まる前文はなか
ったが、第一条(教育の目的)や第二条(教育の方針)などにはたくさん
の時間を費やして検討された。
特に第一条の「人格の完成」の言葉をめぐって熱心な議論を展開し、倫理
的・道徳的であり過ぎると「人間性の開発」という表現も出ていたが最終
的には田中文相の意見で「人格の完成」で落ち着いた。
第 三 条( 教 育 の 機 会 均 等 )、第 四 条( 義 務 教 育 )は ま さ に 憲 法 第 二 十 六 条 の
「教育を受ける権利、受けさせる義務」を受けた規定で、これにはさした
る異論はなかった。
CIEはこれらの審議にあまり口を挟まなかったが、最初にクレームをつ
けたのは「男女共学」の問題だった。
第五条(男女共学)は「男女は互いに敬重し、協力し合わなければならな
いものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない」とな
っている。草案では「女子教育
男女はお互いに敬重し、協力し合わなけ
ればならないもので教育上原則として平等に取り扱われるべきものである
こと」と単に女子教育の尊重を唱えたものだった。
これに対してCIEは男女共学をハッキリと盛り込むことに懸命だった。
第六条(学校教育)に続く、第七条(社会教育)も新しい理念の規定であ
る 。「 家 庭 教 育 及 び 勤 労 の 場 所 そ の 他 社 会 に お い て 行 わ れ る 教 育 は 、国 及 び
地 方 公 共 団 体 に よ っ て 奨 励 さ れ な け れ ば な ら な い 。国 及 び 地 方 公 共 団 体 は 、
図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な
方法によって教育の目的の実現に努めなければならない」となっている。
社会教育については、アメリカの教育使節団報告書でも「成人教育
成人
のための夜学や講座公開により、更に種々の社会活動の校舎を開放するこ
と等によって成人教育は助長されるのである(中略)これらの目的を達成
188
するために、文部省の現在の『成人教育』事務に活を入れ、かつその民主
化をはからなくてはならない」と指摘があり、教育基本法ではこれを受け
た形で社会教育の重要性を強調している。
教 育 基 本 法 第 十 条( 教 育 行 政 )は 、「 教 育 は 、不 当 な 支 配 に 服 す る こ と な
く、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもので
ある。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸
条件の整備確立を目標として行われなければならない」
民 主 主 義 国 家 に お け る 教 育 と 国 民 の 関 係 を 規 定 し た 一 項 の く だ り に は「 教 育
は 一 般 行 政 の よ う に 官 僚 機 構 を 通 じ て 、間 接 的 に 責 任 を 負 う の で は 不 十 分 で あ
る」とあって、教育分野の官僚統制を抑制する内容である。
二項は、教育行政の任務と限界を定めた重要な規定であり、戦前の視学
のような形での教育への介入を戒めている。さらに、教師と子供が、より
良 い 環 境 で 教 え 、学 ぶ た め の 条 件 整 備 を 促 し て い る 。「 教 育 行 政 」の 条 項 に
ついては第一特別委では、初め「教育行政は、学問の自由と教育の自主性
とを尊重し、教育の目的遂行に必要な諸条件の整備確立を目標として行わ
れなければならない」と結論づけた。
教 育 基 本 法 は 、 こ の ほ か に 第 八 条 ( 政 治 教 育 )、 第 九 条 ( 宗 教 教 育 )、 そ
れに第十二条(補則)を加え、全十一条から成っている。
教育基本法には、制定の理由とその理想とするところをうたいあげた前
文がある。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設
して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理
想の実現は、根本において教育のカにまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期
するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育
を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、数百の目的を明示して、新しい日本
の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」
憲法は別として、普通の法律に前文を置くのは異例のことであり、教育
基本法が″教育憲法”と呼ばれるゆえんである。
文部省の教育基本法要綱草案には、前文の構想はなかったが、委員の意
見を聞き、文部省で何度も練り直して成文化された。
教育基本法はCIEと刷新委と文部省の合作だった。そのどちらに主導権
があったかは別として「マッカーサーの押しつけ」と言われる憲法とは違
っ て 、C I E に よ る“ 指 導 ”は あ っ た に し ろ 、「 教 育 基 本 法 は 日 本 人 の 手 に
189
よって成った」という点では、関係者の認識は一致している。
戦後教育改革の最大のテーマである義務教育の九年制は、この教育基本
法の中のわずか二行(第四条・義務教育)によって著わされている、同法
と、その実施内容を具体的に規定した学校教育法が、22年3月の″最後
の帝国議会″で成立し、ここに六・三制がスタートしていく。
資料
教育基本法
<前文>
われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設し
て、世界の平和と人類の福祉に貞献しようとする決意を示した。この理想
の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成を期
するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育
を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本
の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第 1 条(教育の目的)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、
真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神
に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第 2 条(教育の方針)
教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現させなけれ
ばならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生
活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と
発展に貢献するように努めなければならない。
第 3 条(教育の枚会均等)
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えら
れなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済
的地位又は門地によって、教育上差別されない。
国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によっ
て修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
190
第 4 条(義務教育)
国 民 は 、そ の 保 護 す る 子 女 に 、9 年 の 普 通 教 育 を 受 け さ せ る 義 務 を 負 う 。
囲または地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業
料は、これを徴収しない。
第 5 条(男女共学)
男女は、互いに敬重し、協力し合わねばならないものであって、教育上
男女の共学は認められなければならない。
第 6 条(学校教育)
法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団
体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚
し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分
は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
第 7 条(社会教育)
家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地
方公共団体によって推奨されなければならない。国及び地方公共団体は図
書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適用な方
法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
第 8 条(政治教育)
良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければ
ならない。
法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための
政治教育その他政治活動をしてはならない。
第 9 条(宗教教育)
宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上こ
れを尊重しなければならない。
国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育そ
の他宗教活動をしてはならない。
第 10 条 ( 教 育 行 政 )
教育は、不当な支配に服することはなく、国民全体に対し直接に責任を
191
負って行われるべきものである。
教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件
の整備確立を目標としなければならない。
第 11 条 ( 補 則 )
この法律に掲げる諸条件を実施するために必要がある場合には、適当な
法令が設定されなければならない。
参考文献
教育のあゆみ
教職課程
教育再興
教 育 基 本 法 Q&A
戦後教育五十年
教育基本法(施行後)
教育基本法はわが国の教育体制を根底において規定する法律であり、いわば教育憲法的性格を有
するだけに、その全体および各条について、これまで実にさまざまに評価され、解釈がほどこされ
てきた。しかもその解釈はしばしば厳しい対立を伴った。とくに評価が分かれるのは教育の目的に
関してであり、解釈が激しく対立するのは、教育行政に関してである。
そうした状況から、これまですでにその制定過程の究明や詳細な条文解釈など、多くの研究がなさ
れている。教育基本法について私なりの解釈を加えて、その制定過程の分析を行なって、この教育
基本法に対する評価が制定当時から今日に至るまでの間にいかなる変遷をとげてきたかがわかる。
世間ではあまり知られていないことだが、教育基本法に関する評価は実に劇的な変化をみせてきた。
教育基本法が公布されたのは昭和22年(1947年)3月31日のことだが、その当時この法律
に関する国民の関心は決して高くはなかった。むしろその重要性に比べて低かったといってよい。
アメリカの占領期間を通じてひろく教育界の関心を集め、高い評価を与えられていたのは、教育基
本法ではなくて、対日アメリカ教育使節団報告書であった。この報告書こそ「日本の教育改造に関
する根本的で革命的な報告」であり、戦後の教育改革は「凡てこの報告の線に添うて、アメリカの
具体的な指導の下に進行している。改革は端的に言って自分の手で行われたものではない」と判断
されたからである。
「宗像誠也『教育の再建』より引用」
この報告書への非常な関心と讃辞に比べ、わが教育基本法に対する関心は乏しく、その評価もまた
意外に低いものであった。大熊信行氏の観察によれば、「教育基本法の存在をかえりみるものが皆無
だという教育界の実情」(「平和教育と教育基本法」「内外教育版」昭和24年12月20日号)で
あった。昭和22年(1947年)3月13日に上程された教育基本法案は両院ともわずか3~4
192
日の審議を経ただけで3月25日には原案通り可決成立しているのである。
鈴木英一氏によれば「議会は、22年4月の総選挙を控えて、選挙気分で動揺しており、慎重に審
議することなく、無修正のまま通過した。
各派とも一時審議打切り、新国会の審議に委すべきである趣旨の決議案を上程しようという動きも
みられたが、同年4月からの六三制強行という占領軍の意向におしきられた。新聞は歓迎の意を表
明して、「教育基本法の重大性」について、若干のPRを行なったが、国民の関心は低かった。当時
の経済危機の中にあって、教員組合運動は、賃金闘争に主力を注ぎ法案闘争に見るべきものはなく、
一般国民も法案のもつ意味を理解できる生活的余裕をもたなかった。
これは要するに、教育基本法は、国民不在のままに一部のエリート的知識人・官僚・占領軍の三者
の「密接な連絡のもとで」立案され、そのまま成立に至ったのであり、国民の関心が低いのも当然
であった。今日であればこれだけの重大法案がかくも短期間の審議で無修正のまま通ることはあり
えない。その点では、まさに戦後的状況の下でのみなしえたドサクサ立法であった。
昭和22年(1947年)3月13日
〃
3月25日
〃
3月31日
教育基本法案上程
教育基本法案可決成立
教育基本法交付
この「民主主義国日本の公認の教育目標」について、「ここには、一息で読みくだせないほどに、い
ろいろの理想の条件がならべられている。見事な作文である。どこからつっこまれても、逃げ場所
が見つかるような、八方美人的な、どちらにでも解釈が自由にきくような文章」である。
「日高六郎『教育基本法の評価の変遷』より引用」
教育的基本法の理想は「あまりにも明るすぎ、あまりにも見事であり、あまりにも安楽椅子的であ
りすぎ」起草者たちの善意は疑わないにしても、ここには「時代的歴史的な危機意識にうら打ちさ
れ、日本の教師と子供たちをとりまいている暗い現実の認識」が欠けている。
昭和20年代における教育基本法の解説はそのほとんどが文部省関係者によって書かれている。こ
れに反し、教育基本法とこれの起案に当たった教育刷新委員会に対する評価は左翼にゆくほど厳し
いものがあった。たとえば日教組が「日本の教育基本法という法律は『人格の完成』というきわめ
て抽象的な原理宣言を公にしているが、それでは教育の目的は明らかにならない」といった調子で
きめつけていた(「解説・教師の倫理綱領」昭和26年)のも、今からでは想像もつかないことであ
る。最左翼に位置していた「民主主義教育協会」(民教協)に至っては、「刷新委員会の委員こそ、
委員長安部能成以下全面的に刷新さるべきである」とまで極論していたのである。
以上のような論調に変化が生じるきざしが見え出すのは昭和29年のいわゆる教育二法反対運動の
頃からであり、昭和30年代の前半において政府と日協組の見解が相互に入れ替わったかのごとき
現象が次第に出てくる。それは、昭和30年(1955年)11月に成立した第三次鳩山内閣の文
相に就任した清瀬一郎氏が、教育基本法について不満を表明したことに始まり、昭和35年(19
60年)7月からの第一次・第二次池田内閣の荒木萬寿夫文相が教育基本法改訂の意図を示すに至っ
て決定的となった。
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清瀬文相の批判は、主として教育基本法第1条に向けられた。人格の完成・平和な国家と社会・真
理・正義・個人の価値・勤労・責任・自主的精神の八つの教育目的自体が悪いというのではないが、国に
対する忠誠心、父母・祖先に対する報恩感謝の念など、日本人としての伝統的な徳目を欠いたコスモ
ポリタン的なものだというのである。荒木文相のそれもほぼ同様であって、要するに教育基本法の
内容自体は結構だが、立派な日本人をつくるという観点が乏しく、どこの国の教育基本法だかわか
らないということにあった。このように文教行政の責任者が教育基本法の改訂意図を示し始めるに
つれて、これまでのこの法律に批判的であったり、関心がうすかった進歩的文化人や教育学者たち
が、にわかに積極的な関心を寄せ、教育基本法擁護の側にまわるようになる。いままでのわれわれ
自身に、教育基本法などを無視してしまう習慣があった。 これは、昭和22年3月、この法が制定
されたあとのことをふりかえってみればよくわかる。たいていの場合、文部官僚は、いわゆる進歩
陣営の批判などに、何か答えるときにそうしたのである。ではその進歩陣営はどうしたのか。ここ
に規定されているようなことは、もうわかりきったことのように考えた。このような法律は、天皇
の勅令にかわって、国会が決めたという点では、きわめて画期的であるとは考えていても、どうせ
その国会で大きな力をしめていたのは保守党の連中だから、ブルジョア民主主義の教育方針をうち
たてたにすぎないと、心中では批判していた。そこから、この法を無視してしまうか、この法にケ
チをつける態度が当然生まれたのだった。一方からいえば、なにかしら革命的になりすぎて、戦後
の日本では、民主主義革命を課題とするのではなくて、社会主義革命を課題とするのだというよう
な雰囲気があった。そのため教育基本法などを拡大ないし拡張解釈して、それによって仕事をやり
つづけるという考え方すらあった。そこから、いざ、アメリカ合衆国首脳をはじめ、国内の保守反
動勢力が、この教育基本法を(もちろん憲法をも)改悪しようとしたり、この精神によってする教
育実践にケチをつけたりすると、「さあ、たいへんだ」ということで憲法擁護・教育基本法擁護の声
が、ようやくあがってくる。教育基本法擁護の運動がたかまる契機となったのは、教育基本法に再
検討の余地ありとする政府文教担当者の言辞であったが、肝心の教育基本法改正構想はなんら具体
化することもなく、立ち消えとなった。マスコミ、野党各党、日教組などの反対にあって、もろく
も挫折してしまい本音はともかく、少なくとも建前としてはかえって教育基本法尊重を確認する結
果に終わるのである。憲法改正問題もそうだが、これは自由民主党の定型的な行動パターンの一つ
といえよう。教育基本法は抽象的であり、世界のどこにも適用する普遍性をもっているが、それだ
けに日本の今日にぴったり合っているかといえば、そうとは断言できない。
第4話
北方及び南方領土問題
1、北方領土
1)北方領土の第2次世界大戦までの領有権
北方領土とは歯舞群島(はぼまいぐんとう)・色丹島(しこたんとう)・国後島(くな
しりとう)・択捉島(えとろふとう)の4つの島を言う。北海道根室半島、納沙布岬と知
床半島の間から、ソ連領のカムチャッツカ半島の方向に飛び石のような形で続いており、
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北海道本島から一番近い歯舞群島の貝殻島までは3.7km、一番遠い択捉島でも109.
6kmの距離しかない。1855年2月7日アメリカとの通商開始に伴いロシアとの通商
の開始日露通好条約が提携され、全9条の第2条に「今より後、日本国と魯西亜国(ロ
シアコク)との境、エトロフ島とウルップ島の間にあるべし。エトロフ全島は日本に属
し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島は、魯西亜に属す。カラフト島に至っては、
日本国と魯西亜国の間において、界を分かたず、是まで仕来の通りたるべし」と歯舞群
島・色丹島・国後島・択捉島の4つの島は友好的な雰囲気の中、日本の領土であること
が明記された。しかしこの時、唯一、樺太を共同の雑居地としたことで火種を残す結果
となり、日露両国間で紛争が絶えなかった。ロシア側は樺太に囚人を送り込み、軍隊を
駐屯させたが、日本側は幕末維新の騒乱などもあって樺太に対する援助が十分でなく、
ロシア人による日本人家屋の焼き払いなども行われた。このような事態を受け、187
5年(明治8)樺太・千島交換条約が結ばれ、日本は樺太を放棄する代わりに、得撫島
から占守島(シュムシュ)までの千島列島をロシアから割譲された。さらにオホーツク
海とカムチャッカ沿岸の入港や漁業の従事に関して、日本国民にロシア国民と同様の権
利と特典を与えたのであった。その後1905年日露戦争に決着をつけたポーツマス条
約により、北緯50度以南いわいる南樺太がロシアから日本に割譲され、この後40年
間北方4島は継続して日本の領土であった。
2)北方4島の侵略
1941年4月13日、日ソ中立条約が結ばれ、期限は5年間として期限終了の1年
前に廃棄を通告しない場合はさらに5年間延長されと言うものであった。その年8月ド
イツ軍のポーランドへの侵攻により第2次世界大戦が勃発し、1945年ソ連は日ソ中
立条約の廃棄を通告したが条約の規定通りなお1年間の有効期限(1946年4月)を
も言明した。しかしソ連は同年2月米英両国とヤルタ協定を結び、戦争への参戦の代償
として「樺太の南部及びこれに隣接するすべての島々をソ連に返還し千島列島はソ連に
引き渡される」と密約していた。1945年8月9日、ソ連はヤルタ協定にのっとり対
日参戦した。同年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を決めた後の
18日、ソ連軍は占守島へ上陸、31日までに得撫島を占領し、最終的には北海道の北
半分(釧路と留萌を結ぶラインから北)を占領することを目標としていたが北海道はア
メリカの強硬な反対を受け断念した。しかし北方4島に米軍がいないことを確認すると、
ソ連軍はそこに兵力を集中させ、8月28日に択捉島、9月1日色丹島、2日国後島、
3日には歯舞諸島、5日には北方4島の占領を完了した。占守島を除く全ての島では日
本軍は一切抵抗せずに占領は完全に無血で行われ、さらには9月2日ソ連は平和条約も
ないまま千島列島北方4島は自国の領土であると宣言をしていた。一方、北方4島にす
んでいた人たち1万7000余名の日本人は1948年までに強制的に島を追われたの
であった。
195
3)協定違反・約束違反
ソ連は北方領土問題について、ヤルタ協定を引き合いに出すがヤルタ協定並びにカイ
ロ宣言では「第1次世界大戦で得た太平洋の諸島、満州、台湾および澎湖島、朝鮮、そ
して暴力及び貪欲により日本国が略取した他の全ての地域から追い出さなければならな
い」としており、平和的に元々日本の領土であった北方4島には該当しない。さらにヤ
ルタ協定は当時の連合国の間で戦後処理の方針を述べたにすぎない、最終的な連合国の
決定ではない。さらにヤルタ協定自体に日本が参加していないのでこの協定に日本が拘
束されないのである。ヤルタ会談に参加していた米ソ軍事代表団が密かに作成した「ク
リル列島分割地図」が97年秋、米国公文館で発見された、そこには米ソが対日戦にお
ける軍事行動の範囲を定め、ソ連は北千島4島のみを占領し得撫島までの千島列島と北
方4島は米軍の占領するところになっており、北方4島の占領は米ソの密約までも無視
しているのである。
4)サン・フランシスコ講和条約
1951年9月、連合国48カ国と日本の間で、サン・フランシスコ講和条約が締結
されるが、北方領土に関しては第2条で日本は1905年のポーツマス条約で獲得した
南樺太及び千島列島を放棄する事とされたが、ソ連はこの条約に調印しなかった、ちな
みにこの条約25条には条約に署名批准しない国は連合国とは認められないとあり、ソ
連は日本から領土を獲得する権利はないことになる。
またこの条約で北方領土の問題を曖昧にしているがこれには米国による琉球諸島や小
笠原諸島の支配に対する批判逃れや、日ソ関係の接近を妨げるべく意図も見え隠れする。
5)現在もなぜロシアは4島を支配するのか
日本は国土を海に囲まれ他国との国境がはっきり分かれており、たとえ戦争で他国の
領土を占領しても、日本本土は広がることはないが、ソ連などの国々ではいにしえの時
代から民族間の領土争いが続いており、領土は戦争によって得るもので、戦争に負けな
ければ領土を手放す訳にはいかないと考え方の違いも多く影響している、さらにソ連は
現在でも他の国々の領土を占領しており、日本に返還をした場合他の国々からも同じよ
うな請求を受けることになり、戦争によって領土広げることが世界の国々に避難をあび
る現在領土を簡単に手放すわけにはいかないであろう。
●日露通好条約
1855年(安政元年)、伊豆下田において「日露通好条約」
が締結されました。 この条約で初めて日ロ両国の国境は
択捉島と得撫島の間に決められ、 択捉島から南は日本の
領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロ
シア領土として確認され、また樺太は今までどおり国境
を決めず両国民の混住の地と定
196
められた。
●樺太千島交換条約
1875年(明治8年)、明治政府は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償として
ロシアから千島列島を譲り受けました。 この条約では、日本に譲渡される千島列島の島
名を一つ一つあげているが、 列挙されている島は得撫島以北の18の島であって、択捉島
以南の北方四島は含まれていない。
●ポーツマス条約
1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約
が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となった。
●サン・フランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条
約に調印しました。 この結果、日本は千島列島と北緯50
度以南の南樺太の権利、権限および請求権を放棄した。
しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島
は含まれない。
※
地図は北海道総合企画部情報政策課作成のホームページより
http://www.pref.hokkaido.jp/menu.html
2.南方の領土問題
1)尖閣諸島
尖閣諸島は、南西諸島西端に位置する魚釣島、
北小島、南小島、久場島(黄尾嶼)、大正島
(赤尾嶼)の沖の北岩、飛瀬などからなる
島々の総称で、尖閣諸島の総面積は約6.3
平方キロメートルで、富士の山中湖を少し小
さくしたくらいの面積で、そのうち、一番大
きい島は魚釣島で約3.6平方キロメートル
ある。
この尖閣諸島は、昔カツオブシ工場などが
197
あり、日本人がある時期、住みついたこともあるが、現在は無人島となっている。
と
ころが、昭和43年(1968年)秋、日本、中華民国、韓国の海洋専門家が中心とな
り、エカフェ(国連アジア極東経済委員会)の協力を得て、東シナ海一帯にわたって海
底の学術調査を行った結果、東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性
があることが指摘されると、これが契機になって、尖閣諸島がにわかに関係諸国の注目
を集めることになり、さりに、その後、中国側が尖閣諸島の領有権を突然主張しはじめ、
新たな関心を呼ぶこととなった。
昭和45年(1970年)後半になって、台湾の新聞等は、尖閣諸島が領土である旨
主張し始めるとともに中華民国政府要人も中華民国の議会等で同様の発言をしている旨
報道されたが、中華民国政府が公式に尖閣諸島に対する領有権を主張したのは昭和46
年(1971年)4月が最初であり他方、中華人民共和国も同年12月以降尖閣諸島は
中国の領土であると公式に主張しはじめた。
このように、尖閣諸島の領有権問題は、東シナ海大陸棚の海底資源問題と関連して急
に注目をあびた問題であり、それ以前は、中国を含めてどの国も尖閣諸島がわが国の領
土あることに異議をとなえたことはなかったのである。
尖閣諸島は先占という国際法上の合法的な行為によって平和裡にわが国の領土に編入
されたものであって、日清戦争の結果、明治28年5月に発効した下関条約の第2条で、
わが国が清国から割譲を受けた台湾(条約上は「台湾全島及其の附属諸島嶼」となって
いる。)の中に含まれるものではない。
また第2次大戦中、1943年(昭和18年)には、英・米・華の3主要連合国は、
カイロ宣言を発表し、その中でこれら3大同盟国の目的は、「満州、台湾及澎湖諸島ノ如
キ本国ガ中国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還」することにあるという方
針を明らかにしていましたが、わが国も、1945年(昭和20年)8月15日ポツダ
ム宣言を受諾し、9月2日降伏文書に署名したことにより、これを方針として承認する
ところとなった。
カイロ宣言において示された主要連合国のこのような方針は、やが
てわが国と連合国との間の平和条約の締結に当たり、実際の領土処理となってあらわれ、
戦前わが国の領土のうち、戦後も引き続きわが国の領土として残されるものと、もはや
わが国の領土でなくなるものとが、法的に明らかにされた。
即ち、サン・フランシスコ平和条約においては、カイロ宣言の方針に従ってわが国の
領土から最終的に切り離されることとなった台湾等の地域(第2条)と、南西諸島のよ
うに当面米国の施政権下には置かれるが引き続きわが国の領土として認められる地域
(第3条)とが明確に区別された。
また、サン・フランシスコ平和条約に基づく右のような領土処理は1952年8月に
発効した日華平和条約第2条においても承認され、なお、尖閣諸島が第2次大戦後も引
き続きわが国の領土としてとどまることになったことに対しては、後で詳しく述べる通
り、中国側も従来なんら異議をとなえなかった。
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このように尖閣諸島を含む南西諸島は講和後も引き続き我が国の領土として認められ,
サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき20年間にわたり米国の施政の下に置かれ
てきましたが,昨年6月17日に署名されたいわゆる沖縄返還協定により,昭和47年
5月15日をもってこれらの地域の施政権が我が国に返還され(同協定によって施政権
が返還された地域は,その合意された議事録において緯度,経度で示されていて,尖閣
諸島がこれに含まれていることは明白である。)
以上の事実は,我が国の領土としての尖閣諸島の地位を極めてめいりょうに物語って
いるといえる。
2)中国の対応
中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは,サン・フランシスコ平和
条約第3条に基づいて米国の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭
和28年12月25日の米国民政府布告第27号により緯度,経度で示されている)に
対して,従来何ら異議をとなえなかったことからも明らかである。のみならず,先に述
べましたように,中国側は,東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになっ
た昭和45年(1970年)以後初めて,同諸島の領有権を問題にしはじめたにすぎな
いのである。
げんに,台湾の国防研究院と中国地学研究所が出版した「世界地図集第1冊東亜諸国」
(1965年10月初版),及び中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」
(1970年1月初版)(第2図)においては,尖閣諸島は「尖閣群島」という我が国の
領土であることを前提とする呼称の下に明らかに我が国の領土として扱われている。
(これら地図集及び教科書は,昨年に入ってから中華民国政府により回収され,尖閣
諸島を中華民国の領土とし,「釣魚台列嶼」という中国語の島嶼名を冠した改訂版(第3
図)が出版されている。)
3.竹島問題
1)竹島
島根県隠岐島北西85海里(北
緯37度9分、東経131度55
分)に位置。
東島(女島)、西島(男島)と呼ば
れる二つの小島とその周辺の数十
の岩礁からなり、総面積は約0.
23平方km(日比谷公園とほぼ
同面積)。
199
我が国では古く「松島」の名によって今日の竹島がよくしられていたことは多くの文
献、地図等により明白。(例えば、1650年代に伯耆藩(鳥取)の大谷、村川両家が「松島」
を幕府から拝領し経営していたという記録があり、また、経緯線投影の刊行日本図とし
て最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置
関係正しく記載。その他にも明治に至るまで多数の資料あり。)
1905年(明治38年)2月には、閣議決定及びそれに続く島根県告示により、日
本政府は近代国家として竹島を領有する意志を再確認。
対日平和条約前の一連の措置は、いずれも日本国領土の最終決定に関するものではな
いと明記されており、竹島が日本の領域から除外されたものではないことは明白。又、
もとより我が国の領土である竹島はカイロ宣言に言う「暴力及び貪欲により略取した地
域」にあたらず。(注:1954年(昭和29年)9月、我が国は本件問題につき国際司
法裁判所に提訴することを提案したが、韓国側は右提案を拒否。なお、日韓両国間では
国交正常化の際に「紛争の解決に関する交換公文」を締結。)
2)韓国の主張
竹島の東島に1954年7月頃から韓国警備隊員(警察)が常駐。 宿舎、燈台、監視
所、アンテナ等が設置され、年々強化されている模様。 1996年2月8日、外務部は
竹島に接岸施設の建設を行う旨発表。
15~16世紀頃の古文献に、于山島又は三峰島という名で竹島の記述あり。(注:于
山島や三峰島が竹島に該当していることを実証できる積極的根拠はない。むしろ、右文
献はそれが竹島でないことを示す。)また、1905年の竹島編入の島根県告示は、一地
方官庁により隠密裏に行われたものであり無効。またこの編入は、日本がそれまで竹島
をその領土の一部と考えていなかった有力な証拠。(注:告示は正式に公示された上、新
聞報道もされており隠密裏ではない。竹島の島根県編入は歴史的根拠を踏まえて近代国
家の行政区分に組み入れ、領有を再確認したもの。)
戦後の対日占領政策実施にあたり、1946年1月29日付総司令部覚え書き第67
7号が、小笠原諸島等若干の外郭地域の日本からの分離を行った際、竹島は日本領土か
ら分離され、日本漁船の操業区域を規定したマッカーサーラインの設置にあたっても、
竹島がその線の外におかれた。また、1943年のカイロ宣言にある「日本は、暴力及
び貪欲により略取した一切の地域より駆逐さるべし」の規定は、島根県編入という侵略
行為によって日本に併合された竹島にも適用あり。
文献
外務省文章
産経新聞
200
第5話 天皇陛下と戦争責任
はじめに
多くの日本人は、程度の差こそあれ「昭和天皇には戦争責任があるが、政治的判断で訴追さ
れなかった」、「昭和天皇の戦争責任はあいまいにされた」と感じているのではないだろうか?昭
和の時代を振りかえる時、何かすっきりしないものがあるのはそのためであろう。この稿では昭和
天皇と戦争責任について読者とともに考えてみたい。
まず一つ気になることは「戦争責任」を論ずる場合、実はそれ以前に「天皇制自体に対する感
情」、「好意の有無」という主観的な問題が、「責任論」と言う法的あるいは客観的事実に関する
問題を左右しがちなのではないか。「見方によっては責任があるとも言えるし無いとも言える」と
いうのは「相対的な責任論」に過ぎない。
次に問題なのは、一口に「責任」と言うがその定義があいまいである。
通常法的な責任という場合『誰が(責任主体)、どのような行為に基づくいかなる結果ついて(帰
責事由)、誰に対して(責任の相手方)、どのような内容の責任を負うか(制裁を受けるとか義務
を負う等)(責任内容)』が特定されなければならない。
また、この帰責事由があるというには、『ある人の特定の行為の結果として、ある事態が発生し
た』かどうか『因果関係の立証』が必要である。しかし、法的責任原因としての因果関係は、社会
的に相当な(合理的な範囲内の)因果の流れの結果発生した原因結果の間にだけ認められな
ければならない。何故なら自然界に限らず、人間社会の全ての事柄は、無限の因果関係の連
鎖のなかにある。故に、ある人の特定の行為とある事態の発生の間に、どんなに細くとも原因結
果の糸が通じているとするならば、極めて些細な行為でも、因果関係の連鎖の結果として重大
な事態に結びつくこともあり、正義に反すること甚だしいからである。
そして、この相当な因果関係の範囲内にあるかいなか、客観性と合理性を備えた事実認定の
結果、認定されなければならず、そこに主観や感情をさしはさむことが許される性質のものでは
ない。
また陛下に限らず、いわゆる戦争責任問題は、一般に「日本が負けたから言われている」とい
う結果論的な側面があると思われる。一部の例外はあるものの、一般に「日露戦争を引き起こし
た」として明治天皇が非難されることもなく、第一次大戦では、日本は米英とともに連合国の一
員として戦った為、米英からは当然ながら「日本が戦争をした事に対する非難」は無い。また「戦
争犯罪」が問題とされることも無かった。にもかかわらず、第二次大戦後「平和に対する罪」(戦
争を起こし平和を乱したこと自体に対する罪)などという新しい罪名を作ってまで日本人が起訴
されたのは、日本が米英と道をたがえ、その結果敗北したという事実に起因している。敗戦とい
201
うマイナスの事態からさかのぼって、開戦責任論が構成されていくというのが実状ではないか?
本稿は、詳細な法律論争を意図したものではない。しかし、現在言われている戦争
責任とは、あまりに漠然とした概念である為、少なくとも「戦争責任」とは何を指すのか
を明らかにする必要があると考える。
一つの考えとして、戦争責任は次のような分類が可能である。
(帰責事由に基づく分類)
1. 開戦責任:
戦争を開始したことに関わる責任
2. 戦争遂行責任:
戦争を遂行した過程に関わる責任
3. 終戦責任:
戦争を終結した事に関わる責任
4. 敗戦責任:
戦争に敗北した事に対する責任
(責任の相手方に基づく分類)
1. 国際責任:
他国家、他国民に対する責任
2. 国内責任:
自国家、自国民に対する責任
(責任の内容に基づく分類)
1. 法律的責任:
不法行為をなした場合に課せられる法律的制裁
2. 政治的責任:
権力の行使によって生み出された結果に対する政治行為
者の責任
3. 道義的責任:
前記の責任を免れたとしても自己の良心において負担する
内的な責任
以上の通り、理論上は一人の責任主体に対して上記それぞれによって24通りの組合わせが
可能になる。これらは明確に区別して論じられるべきである。一般に昭和天皇の戦争責任につ
いて問題にされるとすれば、「開戦責任」に関する主として国際的(戦勝国に対する)な法律的、
政治的、道義的責任であろう。
開戦責任を理解する為のいくつかの前提
1、
現人神ということ
現在、森総理大臣の「日本は天皇を中心とした神の国」という失言(?)により、政
界はにぎやかである。しかし、国民の多くが「現人神」というご存在を誤解していると
思われる。天皇は、神に対して祭りを行う「祭り主」であって「祭りを受けられる神」
ではない。ちょうど神社の神主さんが、ご祭神に対して神事を執り行われるように、天
202
皇陛下は祖先神である「皇祖皇宗」の御霊に対し祭りを執り行われる。天皇は神に接近し
皇祖神の神意に相い通じ、精神的に皇祖神と一体たるべく不断の努力をなさっている。
すなわち地上において神意を表現なさるお方である。その意味では地上の神とも考えら
れる。しかし、戦前は天皇が唯一絶対の神であり、超法規的存在であったとするような
短絡的な考え方は間違いである。
2、
祭政一致
保守派の論壇の一部に、天皇の戦争責任問題を回避する目的で、「日本は律令制の昔
から『政教分離』であり、天皇に政治的実権がなかった為、戦争責任も生じない」とす
る考え方がある。しかしこの考え方は、いわば苦肉の策とも言うべきで、日本の国体(国
柄とか国の本来のあり様のこと)を正しく伝えていない。
まつりごと
まつりごと
日本においては、古来より「祭り事」と「政り事」は一体であった。すなわち天皇の「祭祀
大権」と「統治大権」はもともと一体であり、このような考え方は中国においても見られる。
しかし、決定的に違うのは、日本においては祭り主である天皇とご祭神である「皇祖皇宗」
は、先祖と子孫の血縁関係であるのに対し、中国皇帝とその主祭神である『天』の関係
は、血縁ではなく天命に基づくものである。このため別の者に新たな天命が下れば、易
姓革命が起こり王朝は交代する。祭政一致と言う事は、ともすれば「権謀術策」の場とな
りやすい政治の世界の上に「神聖感」を置く事を象徴している。あくまでも「祭政一致」が
日本古来の正しい「国体」の姿を顕わしている。
3、国体と政体
そうらん
明治憲法下では天皇が「統治権を 総攬(まとめおさめること)」するとされているが、実際に
天皇が司法、立法、行政の複雑多端な問題に直接介入なさるわけではない。だからといっ
て統治大権そのものが天皇に帰属するとの理義を失ったわけではない。国体というのは時
代の変遷に関わらず不変のものである。しかし、実際の政治の運用となるとこれは政体の問
題であり、その時代に応じた政治形態に変遷を遂げてきた。ゆえに国体と政体、この二つの
事は明確に区別を要する。
4、立憲君主制
明治以降の日本の政体は、「立憲君主制」である。君主としての天皇はおられるが、天皇
は中国皇帝のような超法規的権力者ではなく、憲法を尊重し自らも憲法に規定されるご存
在であった。すなわち天皇は憲法の規定に従って、帝国議会の協賛を受けて立法権を行
ほひつ
い、国務大臣の 輔弼(権能行使による助言)と枢密顧問の答申を受けて国事行為を執り行
われた(注)。
203
(注)明治憲法〈大日本帝国憲法〉第4条に、統治権の総覧があるが、それは、「こ
の憲法の条規に依って行う」とされている。つまり、天皇でさえも憲法に規定され
る存在であり、憲法の枠の中で憲法に従って統治行為をされる御存在であった。ま
た、第55条、56条に、国務大臣が天皇を輔弼し、枢密顧問が審議によって天皇
に応える形で重要な国務を行うと記されている。
実際には、輔弼は内閣によって行われ、責任も内閣がこれを負った。輔弼が天皇を法的
に拘束するものと解すれば、日本国憲法に置ける、内閣の『助言と承認』とほぼ同じ意味
になる。
開戦責任の法律的、政治的な問題について
それでは、昭和天皇の開戦に関する責任について法律的な問題はどこにあるのだろうか?帝
国憲法第13条には「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ諸般ノ条約ヲ締結ス」とあり、昭和天皇が内閣の
奏請に対して「宣戦の詔書」に署名をなさった行為は、この条文に基づいた国務大権の発動で
あり法的には全く問題がない。
他方、後にも述べるように、『国家主権の発動である交戦権』というのは、過去も、また現在も国
際法上認められた合法的な行為である。合法的な国家主権の発動について国際法上の法律
的な責任を問われるいわれはないのである。ましてや、国際法上最高の独立性が認められた国
家主権の行使にあたって、これをなした元首が他国に法律的な責任を問われるということはあり
えないのである。
我々は今の価値観でものを考えやすいが、法律というのは時代により社会の要請に応えて変
わるものである。逆に今の日本の法律では何ら問題とされない行為でも、未来の法律では、「違
法」と見なされるかもしれない。しかし、後に出来た法律で過去の出来事を裁く事は不合理であ
り(注)、そんな事を許していれば、我々も将来思いもよらない過去の罪で裁かれるかもしれない。
また帝国憲法第55条には、その一に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」とあり、その
二に「詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とある。これは、法的には天皇の「責任阻却事由規定」で
ある。つまり明治憲法においては、天皇の統治大権は国務大臣の輔弼を要し、かつその責任
は輔弼した大臣が負うことになっている。
開戦行為に関しても、東条首相以下、各国務大臣の輔弼(全員が一致して賛成)によって適
法になされたものであり、憲法の解釈に従うならば、この行為に関しては法律的責任も政治的
責任も全く生じない。驚かれるかもしれないが、これが事実である。
204
(注)「法はさかのぼらず」=遡及的立法の禁止、「法律なければ刑罰なし」=罪刑法定主
義の原則。
立憲君主としての昭和天皇のお立場
先に述べたように、天皇に統治権がなかったと言うわけではない。統治権はあったが立憲君
主制に基づく運用上の実態が、責任ある輔弼当事者が正式に上奏した事柄は原則としてご裁
可になったということなのである。さらに昭和天皇が、政策の決定に直接的に関与されるのを自
制される事件が起こった。それは、張作霖爆死事件の関係者の処分を巡り、責任者の処分を求
める陛下のご発言がきっかけで、田中義一内閣が総辞職してしまった事件である。これ以来、
陛下は、議会と内閣の決定に直接的な異議を唱えないという姿勢を強められた。開戦にいたる
昭和 16 年 4 月から、11 月 27 日に米国からの最後通牒とされる、「ハルノート」を突き付けられ
るまで、日本は必死の外交交渉を進め、できるなら日米衝突を避けるべく努力を続けていた。そ
の間、昭和天皇が 9 月 3 日の御前会議をはじめとして、たびたび「間接的」表現であるが、戦争
回避のお気持ちを吐露されている。間接的というのは、陛下が立憲君主としてのお立場を遵守
されたからである。
開戦時において陛下には、閣議の決定に対して「形式的な裁可を下された」という事実はある。
しかしここで問題とされるとすれば「道義的責任」のみであり、道義的責任とは立場や見方で変
わる相対的な責任である(注)。繰り返すが、開戦の決定自体は、法的、政治的には何らの責任
も派生しない。
(注)「平和に対する罪」
天皇の道義的責任を追及するとすれば、戦勝国が戦後作り出した「平和に対する罪」、
すなわち「戦争を起こし世界の平和を乱した事に対する罪」であろう。
そもそも、これは先に述べた『法は遡らず』=遡及的立法の禁止、『法律なければ刑罰な
し』=罪刑法定主義の原則に違反するものであり、近代的に重要な法律の原則に反する。
行為時に違法とされていなかった行為について、後にできた法律によって処罰を受ける不
合理はだれの目にも明らかである。
現在でも「国家主権の発動である交戦権」というのは国際法上、一般に認められており、
「平和に対する罪」を当時の日本にだけ適用するのは不合理であろう。少なくとも戦勝国に
日本を裁く権利があるとは思われない。なぜならば、アメリカも共産国もあれだけ多くの戦
争をしながら、その後「平和に対する罪」が問われた事例はない。この事実から、国際政治
上、「東京裁判」で言い出された「平和に対する罪」というものが如何に一過性で、アメリカ
205
の都合で作られた罪であったかが分かるというものである。過去百年のレンジで考えて、こ
のような「裁判」は国際法的に無効であり、従って「平和に対する罪」への「責任」(当然天
皇の責任も)そのものが成り立たないと考える。
終戦責任(終戦に際する昭和天皇のご決断)について
開戦の決定とは対称的に、終戦の決定は陛下お一人の決断で、通常とは異なる手順でなさ
れた経緯を現代の日本人は知らないのではないか。
戦争の結末は、もし陛下がそう命じれば、一億玉砕のような状況もありえたかもしれない。一般
論であるが、普通の君主なら、人民をいくら犠牲にしても自分が助かる道を選んだであろう。広
島、長崎の原爆投下、講和の仲介役を期待していたソ連は、日本との中立条約を破棄して一
方的に日本に宣戦布告した。このような危機が刻々と迫る中、軍部も内閣も、陛下の御身を思
えばこそポツダム宣言受諾をなかなか決議できないでいた。ところが、御前会議において、陛下
ご自身が、身を捨ててポツダム宣言を受諾する旨、意見を述べられたのである。御前会議で陛
下が発言され、それに基づいて会議の決定とされたのは、異例中の異例であった。参考の為に
この経緯を記す。
終戦を決定した御前会議の様子は、さまざまな書物に書かれているが、本文は、その場面に
立ち会った一人であり、内閣書記官長として列席していた、迫水久常(さこみずひさつね)氏の
証言に基づいている。
第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内、のみなら
ず、あるいは北海の地に、あるいは南溟の空に失いました。それにもかかわらず、当時の最高
戦争指導会議においては、ポッダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つ
に分れて、どうしてもきまらなかったのであります。そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御
聖断を得るほかなしと、当時の鈴木総理は決意をして、昭和二十年八月九日の二十三時から、
地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議をひらくことになりました。
「陛下は足どりも重く、お顔は上気したるごとくにて、入ってこられました。今も深く印象に残っ
ておりますのは、髪の毛が数本額に垂れておられたことです。会議は総理が司会致しまして、ま
ず私がポッダム宣言をよみました。日本にたえがたい案件をのむのでありますから、まったく、た
まらないことでした。次に外相が指名されて発言しました。その論旨は、この際、ポッダム宣言を
受諾して戦争を終るべきであるということを、言葉は静かながら、断乎申されました。次に阿南陸
軍大臣は、外相の意見には反対でありますと前提して、荘重に涙と共に今日までの軍の敗退を
おわびし、しかし今日といえども、必勝は帰し難しとするも、必敗とは決まっていない。本土を最
後の決戦場として戦うにおいては、地の利あり、人の和あり、死中活を求め得ベく、もし事、志た
がうときは、日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史にとどむることこそ本懐であると存じま
206
す、といわれました。次の米内海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であり
ます、といわれました。平沼枢密院議長は列席の大臣総長にいろいろ質問されたのち、外相の
意見に同意であるといわれました。参謀総長、軍令部総長は、ほぼ陸軍大臣と同様の意見であ
ります。この間、二時問半、陛下は終始熱心に聞いておられましたが、私は、ほんとうに至近の
距離で陛下の御心配気なお顔を拝して、涙のにじみ出るのを禁じえませんでした。一同の発言
のおわったとき、私はかねてのうち合せに従って、総理に合図いたしました。総理が立ちまして、
おもむろに、『本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで意見はまとまりま
せん。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれ多いことではござ
いますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、それによって私どもの意見をまとめたい
と思います』とのべられ、静かに陛下の御前に進まれました。そのとき阿南さんは、たしか『総理』
と声をかけられたと思います。しかし総理は、おきこえになったのか、おきこえにならなかったの
か、そのまま御前に進まれまして、ていねいに御礼をされまして、『ただ今お聞きのとおりでござ
います。なにとぞおぼしめしをお聞かせ下さいませ』と申しあげました。陛下は総理にたいし、席
に帰っているようにとおおせられましたが、総理は、元来、耳が遠いためによく聞きとれなかった
らしく、手を耳にあてて、『ハイ』というふうにして聞きなおしました。この間の図は、聖天子の前に
八十の老宰相、君臣一如と申しますか、何ともいえない美しい情景でありました。総理は席へ帰
りました。天皇陛下はすこし体を前にお乗りだしになるような形で、お言葉がございました。緊張
と申してこれ以上の緊張はございません。陛下はまず、
『それならば自分の意見をいおう』
とおおせられて、
『自分の意見では、外務大臣の意見に同意である』
とおおせられました。陛下のお言葉の終った瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前におい
てあった書類にしたたり落ちました。私のとなりは梅津大将でありましたが、これまた書類の上に
涙がにじみまじた。私は一瞬各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえた気がいたしました。次
の瞬間はすすり泣きであります。そして次の瞬間は号泣であります。涙の中に陛下を拝しますと、
はじめは白い手袋をはめられたまま、親指をもって、しきりに眼鏡をぬぐっておられましたが、つ
いに両方の頬を、しきりにお手をもって、お拭いになりました。陛下もお泣きになったのでありま
す。
陛下のお心のうちは、けだし、想像を絶するものがあったにちがいありません。みんなが号泣し
ているうちに、なお陛下は、しぼりだすようなお声で、念のために理由をいっておくと、次のような
意味のことをおおせられました。
「太平洋戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、たいへんちがう
場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、さきほどものべたが、しかし侍
従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、ゆきわたってはいないということである。この
ような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、ひじょうに心配である。あるいは日本民族は、
皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本
207
を子孫につたえることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を、子
孫につたえることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人
たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。こ
のまま戦をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干
渉のときのお心もちをも考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍びがた
いことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」。
陛下のお言葉は、人々の号泣の中に、とぎれとぎれに伺いました。日本国民と、さらに世界人
類のために、自分のことはどうなっても構わないという、陛下の広大無辺なる御仁慈にたいし、
ただひれ伏すのみでありました。陛下のお一言葉はさらに続きまして、国民がよく今日まで戦っ
たこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者にたいするお心もち、また遣族のこと、さらにま
た、外国に居住する日本人、すなわち今日の引揚者にたいして、また戦災にあった人にたいし
て、御仁慈のお言葉があり、一同はまた新たに号泣したのであります。陛下のお言葉はおわりま
した。総理は立って陛下に入御を奏請し、陛下はお足どりも重く室をお出になりました。
時に午前二時でありました。
以上、(迫水氏述「終戦の真相」より)
駐日アメリカ大使ラィシャワー博士は、その研究書「太平洋の彼岸」の中で、じっさいには政治
にたずさわれなかった日本の天皇の、ただ一つの政治に関係して、そのもっとも重大な、しかも、
もっとも勇気ある決意を示されたのは、このときであると述べている。終戦の詔書にある、「帝国
臣民ニシテ 戦陣ニ死シ 職域ニ殉ジ 非命ニ斃レタル者 及ビソノ遺族ニ想ヲ致セバ 五内為
ニ裂ク」とは、まさにこのときの陛下のお気持ちそのものであった。
後年、陛下は、「2.26の時と、終戦の時と、この 2 回だけ、自分は、立憲君主としての道を踏
み間違えた」とおっしゃっている。(侍従、入江相政氏の「天皇さまの還暦」による)
筆者もかなり前だが、新聞記者の質問に、陛下が同様に答えられたのを拝読した記憶がある。
しかし、そのときは、陛下のおっしゃっている意味が良く理解できなかったように思う。あたりまえ
だが、立憲君主と聖人君主とは観点が違う。陛下のお言葉は、陛下がどこまでも「明治憲法を遵
守し、憲法の規定に従って」行為なされようと心がけてこられた心情の現れである。それは前述
の通り、国務大臣と枢密顧問の衆議による決定を尊重する事である。しかし、2.26 事件の時と、
終戦の決定の時は、陛下は、いわば、「超法規的に」独断で振舞われた。ご自分の意志によっ
て、直接政治的に決定にされた、ただ二つの事件である。その理由は、「2.26 事件発生の直後
は、総理大臣が生きているのか死んでいるのか分らないので、自分が進んで〈決起した青年将
校たちに対する〉態度を決めるように指導した。終戦の時は、議論がまとまらず、総理大臣が(陛
下に)意見を求めたから、自分の考えを述べた」とおっしゃったそうである。
マッカーサーは、終戦後、9 月 27 日に初めて天皇陛下と会見し、この時の模様を、Remini
208
scences(マッカーサー回想記)の原文P288において、以下のように述べている。
当初の、「天皇は命乞いに来た」というマッカーサーの予想に反して、昭和天皇は、「戦争遂
行の過程において取られたあらゆる政治的、軍事的決定に対して、自分は、唯一の責任を負う
者として(マッカーサー)閣下が代表する権力に自分の身をゆだねる」とおっしゃた。陛下の勇
気あるご態度に、元帥は文字通り「骨の髄まで揺さぶられた」と書き残している。〈詳しくは、参考
資料参照〉
つまり陛下は、責任があるとは言っておられないが、「責任を負う」と言っておられるのである。
陛下のご態度は、自分が助かりたいために東京裁判で嘘をつき(嘘をついたことは、後に自身
が認めている)、責任を一方的に日本になすりつけた、満州国皇帝、溥儀の態度と180度異な
る。Reminiscencesが出版されたのは、1964年であり、戦後20年近くたってなお、マッカーサ
ーが作り話までして昭和天皇を弁護する理由はないであろう。
昭和天皇のお人柄は、非常にご誠実にして立憲君主制の原則に忠実であられた。このため、
大東亜戦争を阻止できなかったという道義的責任を問う考えがあることは事実であろう。しかし、
それは憲法に則った立憲君主としての御決定の結果であり、当時の憲法(大日本帝国憲法)に
おいては、その御決定は輔弼者たる臣下(開戦決定の御前会議に列席した東条首相以下の政
府・軍首脳)の実質的な責任において御裁可を仰いだ結果であったことは先に述べたとおりで
ある。また、戦禍に倒れた人々に対するお心の痛み(内的、道義的責任)は、陛下ご自身がおり
に触れ述べられている。
外交上の宣戦布告を含む条約が、天皇の名によってなされたからと言って、「昭和天皇自らが
真珠湾攻撃を企画立案した」などと言う論説は、日本の伝統的な政治形態を理解せず、当時の
日本の国家体制が戦時体制とはいえ立憲君主制であったことを故意に無視した欧米の暴論で
ある。
一方、ご自身の生命の危険をも顧みず、唯お一人で終戦の決断を下された大いなる勇気と誠
実さは、永遠に昭和史に輝く史実であり、我々日本人がいつまでも心に留めておくべきである。
(参考資料)
マッカーサー回想記 (訳文)
(本文は、1964年に出版された、Douglas MacArthur 著、Reminiscences の中で、
昭和天皇との最初の会見の様子を記した、P288を和訳したものである。訳文は、
昭和39年1月25日付け、朝日新聞より引用している。傍線は、本稿筆者が付した。)
天皇は落ち着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。天皇の通訳官以
209
外は、全部退席させた後、私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。
私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。そのタバコの火をつけ
て差し上げたとき、私は、天皇の手が震えているのに気がついた。私は、できるだけ天皇のご気
分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、
私には、よくわかっていた。
私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴え始めるのではないか、
という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろと言
う声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭
に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになる
かが、よく分っていたので、そう言った動きには強力に抵抗した。
ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんな事をすれば、少なくとも
百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処
せられる事にでもなれば、日本に軍政をしかねばならなくなり、ゲリラ戦が始まる事は、まず間違
いないと私は見ていた。結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、
天皇は少しも知っていなかったのである。
(昭和天皇のお言葉)
「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する、
、、、、、、
全責任を負う ものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねし
た。」
私は、大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実
に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。
、、、、、、、、、、、、、、
この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇
が、個人の資格においても、日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。
(付記)
マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。あ
んな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。
(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、ニューヨークでマッカーサー元帥を尋
ねたときの談話による。)
他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。彼の人間常識では計算
されない奥深いものを感じたのだ」〈中山正男氏、日本秘録98項〉
「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、陛下ほど自然そのままの純真な、善良な
方を見た事がない。実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」〈吉
田茂、回想十年〉などの記録がある。
マッカーサー元帥は、陛下がお出での時も、お帰りのときも、玄関までは出ない予定であった。
210
しかし、会見後、陛下がお帰りの際には、思わず玄関までお見送りしてしまい、慌てて奥に引っ
込んだ事が、目撃されている。〈吉田茂、回想十年104項以降〉。
第6話 人種差別の壁を崩した日本
戦後の徹底した、情報操作によって,我々自身が,日本は最もひどい差別をした国だと思っている
のではないか。しかし,皆さんは、本当に当時の状況をバランス良く,公平に理解されているだろうか?
今まで我々の目に触れ無いように隠されていた事実にも光を当て、考えていただくのがこの項の目的で
ある。
人が人をつないだ鉄の鎖(ワシントンの博物館で見たもの)
筆者は以前、ワシントンの国立自然博物館において、かつてアフリカの奴隷をアメリカにつれてくる際
に使われた、鉄の鎖を見た。人が人を犬のようにつないだ鉄の鎖である。1441年、ポルトガルは、航
海王ヘンリーの時代から、盛んにアフリカ西海岸を、探検し、多数の黒人を捕らえて奴隷として連れ帰
る事を始めた。これ以来、スペインなど他のヨーロッパ諸国も追従し、黒人は、「黒い象牙」と呼ばれ、
「商品」として売買された。スペインは、無敵艦隊の威力を背景に、盛んに中南米にも進出し、激しい
植民地支配を行った。黒人奴隷達は、ヨーロッパ本国についで、キューバ、ハイチ、ブラジルなどの砂糖
のプランテーションで働く労働者として盛んに連行された。イギリスは、後に奴隷貿易の独占的支配権
を持つようになり、ヨーロッパの安価な品物を、ギニアの海岸で奴隷と交換し、大西洋を超えて西インド
諸島に運んで、砂糖や鉱物と交換し、本国へ持ち帰ると言う、「三角貿易」を盛んに行うようになる。
当時の支払い例によると、男一人あたりラム酒100ガロン、女一人あたり85ガロンであったと言う。奴
隷となった黒人は、会社の印のついた「焼きごて」を胸に当てられ、狭い奴隷船にほとんど身動きできな
いほど詰め込まれて航海した。あまりの不衛生のため、奴隷船は3回も航海すれば捨てられたが、それ
でも莫大な利益が上がったという。航海の途中、多くの奴隷が発病し、それに加えて反乱を起こした
者も、容赦無く海に投げ捨てられた。
アメリカと言う国は、今でこそ、自由と民主主義の国,あるいは人権の擁護者のように振舞っているが、
その根底は、人種差別と奴隷制度によって支えられて来た国である。人が人を犬のように鎖につなぎ、
あるいは、家畜のように市場で品定めをして売買する。ヨーロッパ人が言う、キリスト教的な博愛とは、
「同じ宗教を信ずる白人同士に限られた話し」であって、異教徒や有色人種は、当時、博愛の対象
ではなかったことを記憶されたい。(もしこの博愛が,全人類的博愛であれば,宗教戦争も,世界の植
民地化もありえない事である。)
国立アメリカ歴史博物館では、第2次大戦中の「日系人」に対する差別の展示もあった。法の下の
211
平等とは言っても、それは言葉の上の事で、程度の差はあるものの、ほとんどの白人は、心のどこかに
有色人種に対する優越感を持っている。第2次大戦中、米国民であるはずの日系人12万人が、家
や財産を没収され、強制収用所に送られている。しかし、同じ敵性国民であった、ドイツ系、イタリア
系アメリカ人が、強制収用所に送られる事は無かった。その理由はなぜだろうか?
アメリカと言う国は、歴史的に調和を欠いた国である。白人と黒人、白人とインデアン、キリスト教徒と
ユダヤ教徒、黒人と韓国人、韓国人と日本人、さまざまな対立と闘争が、ずっと繰り広げられてきた。
また、アメリカの歴史とは、開拓の歴史であり、開拓の歴史とは、すなわち侵略の歴史とほぼ等しい。
This land is mine, God gave it to me.と言う歌があるが、白人の勝手な言い分に聞こえるのは
私だけだろうか。今でこそ、「人種差別はいけないこと」と言うけれど、人類の歴史には、いずこにおいて
も人種差別の概念があり、特に白人が、躊躇なくアフリカ、中南米、北米、そしてアジアを次々と侵略
し、植民地としてきた歴史の裏側に、「根強い人種差別意識」がある事を忘れてはならないだろう。
「人種差別の壁」によって近代の世界は形成され、白人の利益を基準にコントロールされてきたことを、
我々は、もしかすると忘れてしまったのではないだろうか。
日本の提出した人種差別撤廃法案
第一次大戦後、戦後処理を行った「パリ講和会議」(1919年1月18日開会)において,アメリカ全
権であったウイルソン大統領は,世界秩序回復の為の、14か条を提唱した。しかし,この会議には,
実は日本の代表団が提出した、「15番目の提案」があった。それは,「国際連盟の盟約として、人種
平等の原則が固守されるべき事」と言う提案であった。法案提出の事情には,当時、唯一有色人種
の国家として、先進国の仲間入りをしつつあった日本が、人種的偏見によって不当に扱われるのを避
ける狙いもあったであろう。しかし,1919年当時としては,「人種差別を撤廃する」と言うのは非常に
画期的な主張であったと思われる。事実,当時アメリカで人種差別と闘っていた、「全米黒人新聞協
会」は、「我々黒人は,講和会議の席上で,人種問題について激しい議論を戦わせている日本に,
最大の敬意を払うものである」、「全米1200万の黒人が息をのんで,会議の成り行きを見守ってい
る」とコメントしている。
アメリカのウイルソン大統領は,理想的人道主義者のように言われているが、自分の国内の事情もあ
り(注)、この法案の投票結果が17対11で賛成多数となると、突如,このような重要法案は,「全会
一致でなければならない」として、「不採決」を宣言し、日本の提出した「人種差別撤廃法案」を葬り
去ってしまった。
当時、日本が取った行動と,アメリカがそれを葬り去った現実を比べてみると、一概に「日本が人種差
別主義で,アメリカが人権の擁護者」と決め付けて良いのだろうか?
(注)当時のアメリカの状況について
我々日本人が,アメリカの歴史の中で、如何に白人が黒人を差別し、黒人が差別撤廃のために闘
って来たかを想像するのは容易な事ではない。アメリカでは、1857年に最高裁判決で,「差別をして
も憲法違反にならない」、「黒人は市民ではなく,奴隷であり,憲法は白人のためのみにあるものであり、
212
黒人は、白人より劣等な人種である」とはっきりと宣言している。その後の歴史はまさに、リンチと暴動と,
暗殺の歴史である。特に,武器が民間人にも容易に手に入るアメリカにおいては、白人が集団で黒
人をリンチし,むちで叩くとか,家を壊す,火をつける、ひどい場合には,電柱につるして銃で蜂の巣にす
るような事が公然と行われた。1908年(スプリングフィールド)の暴動では、黒人,白人あわせて2百
人が拘留されたが、「白人で処罰された者は、一人もいなかった」。なぜだと思われるか?
パリ講和会議が行われたのと同じ1919年には、シカゴで大規模な暴動が起きている。原因は、ミシ
ガン湖畔で、「白人しか遊泳が許されていない水泳場に、無断で泳いで行った黒人青年が溺死した」
事が発端であった。暴動によって街は無法地帯と化し、双方に多数の犠牲者が出た。家を焼かれたり
壊されたりした黒人の数は,1000人を超え、同じ年に,アーカンソー,ネブラスカ,テネシー,テキサス、
コロンビア特別区でも同様の暴動が起きている。さかのぼって,ややさかのぼるが、1905年には,カリフ
ォルニアで「日本人排斥運動」が起きている。これが,日本が「人種差別撤廃」を打ち出した当時、こ
れを否定したアメリカ国内の偽らざる状況である。
大東亜共栄、五族協和の目指したもの
(このテーマはもう少し検討が必要)
世界が誤解している,日本のユダヤ人の保護政策
(杉原千畝は、日本のシンドラーか?)
日本とドイツを比較して、どちらもホロコーストを行った国だと言われることが少なくない。しかし、実は、
日本人自身が良く分っていないのだが、日本が取った対ユダヤ政策と言うのは、当時,世界では画期
的であった事が、近年,ユダヤ人研究者らによって次第に明らかになってきている。
もっとも有名なのは,命のビザを発給して,ユダヤ系住民を国外に逃がした,当時リトアニア領事代
理,杉原千畝である。筆者は,杉原氏についても,ワシントンのホロコーストミューゼアムにその功績が
記されているのをこの目で見た。しかし,杉原氏の功績は,当時,ドイツと同盟関係にあった日本政府
の意向を,独断で無視した,いわば個人的な人道行為であったとされてきた。しかし,当時の日本政
府が、同盟国ドイツからの強い抗議を無視して、半ば公然とユダヤ人の救出にあたったと言う事実が,
次第に明らかになってきている。
ボストン大学教授、ヒレル・レビン氏、日本イスラエル商工会議所会頭、藤原宣夫氏、そして実際に
杉原氏によって救出されたユダヤ人の生き残りであり,時代の生き証人である、シカゴ・マーカンタイル
取引所名誉会長、レオ・メラメッド氏らの証言をもとに,当時の状況を再現してみよう。
まずは、レオ・メラメッド氏の体験から。1939年、ヒットラーの軍隊によるポーランド侵攻で、多くのユ
ダヤ系ポーランド人は生活を根底から破壊され、リトアニアへ逃げ込んだ。すでにソ連軍の掌握下にあ
213
った、リトアニアの森の中で避難生活をする間に,「もし通過ビザを入手する事ができれば,日本経由
でどこか別の国へ移住できる」と言ううわさを聞いた。その為,数千人のユダヤ人が、通過ビザを求めて
リトアニアの日本領事館を取り囲んでいた。メラメッド氏は、当時、リトアニア領事代理であった杉原氏
のご子息の弘樹さんと友達になり、何十年も後、東京で再会した折に、弘樹さんから当時の状況を
聞かされた。それによると杉原氏は,家族全員を集めて,「これだけの人達が避難ルートを求め,通過
ビザを望んでいるのに、それを拒否したら、彼らに残された道は死しかない。ビザの発給を拒否するのは
良心に反する」と家族の意見を求めた。弘樹さんも「あれだけ大勢の子供たちが、毎日領事館を取り
囲んでいるのです。ユダヤ人の子供を助けてください」と言ったとのことである。
よく人は、オスカー・シンドラーと杉原氏を比較するが、シンドラーは、ユダヤ人を自分の経営
する工場で、奴隷労働させるために助け,後に同情的になっただけだと言う。杉原氏は,人道的な
見地からユダヤ人を救ったわけで,もし杉原氏がいなかったら、間違いなく大勢のユダヤ人が殺さ
れていた。
ビザを手にした人々は、リトアニアからシベリア鉄道で2週間かけてウラジオストクに向かった。ウラジオス
トクにつく少し前に、「ピロビジャンの検閲所」があり、ロシア軍が政治犯だと称して、ユダヤの智識人た
ちを連行していった。
ウラジオストクから,船で3日かかって、日本の「敦賀」に着いた。メラメッド少年らが見た日本は、美しい
山々に囲まれ、そこに住む日本人は、礼儀正しく親切でフレンドリーだった。家もなく,無一文で行く宛
てのない、私たち難民に親身で接してくれた。そこから神戸に着くと、しっかりしたユダヤ人コミュニティー
があり、ユダヤ難民の為に義援金を集めたり生活を助けてくれた。メラメッド少年らは、日本に4ヶ月滞
在し、その間、着物と風景の彩り、青い空と木でできた家々の記憶に加えて,「日本人の並外れたホ
スピタリティー、言葉が通じないのに、見知らぬ私達に差し伸べてくれた親切心を忘れる事ができない」
と述べている。その後,アメリカ渡航の許可を得て,避難民達はアメリカへ向かった。
1939年と言えば、大東亜戦争の直前であり、また悪魔のような日本人が、南京で大虐殺を行ったと
言われる、1937年からわずか2年も経っていない頃のことである。
メラメッド氏の証言からは、当時一人のユダヤ人少年の目を通してではあるが、美しい日本の風
景と、そこに住む心やさしき日本人の美風を垣間見る事ができる。ところが、近年の研究によって、
杉原氏の行為は、一外交官の良心の問題にとどまらず、もっと大きなバックグラウンドがあった事
が明らかになりつつある。杉原氏は1930年代にハルピンの満州国外交部におり、その後、彼の
後ろ盾となったのが、山脇正隆大将だったと言われる。杉原氏がたんに個人的な思いつきでビザを
発給したわけではなく、すなわち日本が、領事とか公使館レベルではなく、陸軍省とか外務省のレ
ベルでユダヤ人の救出作業を始めた事が、レビン教授の綿密な調査によりわかってきたと言う。教
授によれば、杉原氏がビザを発給することによって救われたユダヤ人の数は、1万人前後に達する。
じつは、スイス人やフランス人が、個人のレベルでユダヤ人をかくまったりした事例はあるが、杉
原氏ほどの規模でユダヤ人を救ったケースは他に世界に例がないと言うのである。しかも、近年、
日本の外務省外交資料館で発見された資料の中には、杉原氏のほかにも、ウイーン、ハンブルグ、
ストックホルムなど欧州12箇所の日本領事館で、ユダヤ避難民へ、数百件のビザが発行された記
214
録が見つかっている。これら記録は、たんに杉原氏だけが思いつきでビザを発給したわけではない
ことを裏付けている。レビン教授は、「杉原氏はユダヤ人救出の為の何らかのネットワークを持って
いたと確信する」と言う。
さらに、教授によれば、当時欧州各国の日本領事館から、ユダヤ人ビザ申請者を不平等に扱うべき
か否かを問い合わせた通信文書が見つかっている。結果的に、これら日本領事館は、ユダヤ人申請
者に対しても平等に対応した。さらに驚いた事に、これらユダヤ人難民達が日本にたどり着いたとき、
日本政府はすんなりと彼らを受け入れた。「日本の入国官吏官は、通過ビザのチェックに意外なほど
寛大だった」(生存者の一人、杉原ビザのリスト17番、イサック・レビン)と複数のユダヤ人が証言してい
る。それだけではない、最終目的地のビザも旅費もなく、途方にくれていたユダヤ人難民が、ごく普通の
日本人によって手厚く遇された記録も次第に明らかになってきつつある。
日本側の当時の対応は、逆に多くのユダヤ人がいたはずのアメリカが取った非協力的な対応に比べ、
天と地の差があるという。
杉原氏以外にも、実はもっと大規模にユダヤ人の救済に奔走した人物があると言われる。1938年
(昭和13年)当時、関東軍ハルビン特務機関長であった、「樋口季一郎少将(後に中将)」である。1
938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約2万人のユダヤ人難民が、ソ連と満州の国境の駅、オ
トポールに集まった。国境を挟んで満州側には、満州里の駅がある。ユダヤ人たちは、満州経由で上
海へ向かいたかったのであるが、満州国外交部は、友好国ドイツへの配慮から、ユダヤ人の入国を拒
否した。このため、ユダヤ人避難民達は、満州国境まで来て足止めを食らい、オトポールの駅で野営
生活を強いられたのだった。満州国境の3月は、寒さが厳しく食料もなく彼らは凍死寸前だった。そこ
で、ハルビン在住の極東ユダヤ人協会会長、アブラハム・カウフマン氏の要請により、樋口少将が満州
国外交部の責任者と会って説得した。一方で、樋口少将は、南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援
列車を要請し、12両編成の列車13本が、行き場を失ったユダヤ人救出のため出動したと言われ
る。
この救出劇は、当然のように、ドイツ外務省より厳重な抗議を受けた。このため、当時の参謀長、東
条英機中将が、樋口少将を参謀本部へ呼びつけた。そこで樋口少将は、東条参謀長に持論の正
当性を熱心に説明したところ、なんとそれは東条参謀長に受け入れられ、樋口少将の行為は不問に
付されることとなったと言う。
樋口少将が、後にこの人道的行動に出た背景には、もともと少将がヨーロッパ駐在武官をしていた
頃、当時のヨーロッパでは日本人に対する差別が相当あり、ドイツなどでは普通の家庭に泊めてもらえ
なかった。そんなとき温かく迎えてくれたのがユダヤ人の家庭だった為、「昔の恩を返すのが当たり前と言
う気持ちだった」と自ら語ったと言う。
ところが、さらにさらに、これらユダヤ人救済に活躍した人々の行為が、再度強調しなければならない
が、同盟国ドイツの反発を買うにもかかわらず、日本政府や軍部によって許されてきた、大きな背景が
存在する事が明らかになった。日本には、国家なきユダヤ人に国家を与える為、5万人のユダヤ人を
満州へ受け入れる移住計画があった。これは、一方では、アメリカとの関係を良好に維持する政策の
215
現われでもあった。1938年12月、日本政府の最高方針を決める五相会議において、「ユダヤ人を
排斥する事は、我が国が多年に渡り主張してきた人種平等の原則に反する」、「日本は満州、中国
に居住するユダヤ人を排撃することなく、他の外国人と同等に扱う」などを宣言し、日本政府として、
満州や日本国内にいるユダヤ人を擁護する事を正式に決めていたのである。日本国内や満州に、ユ
ダヤ人避難民を救援するユダヤ人組織がすでにできていたのはその為である。日本の保護のもとで、
一人のユダヤ人も殺害されていない事は明記すべき事実である。当時、神戸で難民生活を送ったユ
ダヤ人女性によれば、「当時あらゆる国が官僚的にユダヤ人に門戸を閉ざしていた時代に、日本政府
が、ほとんど有効期限のないビザを受け入れ、長期間延長を認めた事が忘れられない。この日本政
府の行為は、神戸での人道的体験とあいまって全く独特なものだった」と述べている。
そう遠くない将来、レビン教授が、杉原千畝を主人公に書いた本が、ハリウッドで映画化されると言う。
戦後長く日本人を苦しめてきた大きな理由の一つに、日本がドイツの同盟国であったが故に、日本の
ユダヤ人政策が誤解され、偏見をもって見られていた不幸があったように思う。現在、ユダヤ人から受け
ている誤解と偏見が解かれるとき、日本の置かれている立場に劇的な変化が訪れる事は、疑いを入
れない。
なぜ台湾は親日で、韓国は反日か(歪められた当時の状況)
(詳細はもうしこし研究を要す)
戦時中から始まった、アジア諸国の独立
(欧米諸国から独立のため、日本に支援を求めたアジア諸国)
日本の敗戦後、植民地を取り返しに来た欧米諸国、敗戦後も原住民義勇軍といっしょに、彼らの
独立のため戦った日本軍人たち
アジア諸国は、死をも恐れぬ「日本精神」で連合国と戦いぬき、白人はついにアジア人を支配する事
をあきらめた
(ヨーロッパ人に、日本を裁く権利がはたしてあるのか?)
世界じゅうで始まったドミノ倒し、白人はその瞬間、神ではなくなった
最初のドミノは日本が倒した
(日本が、アジア諸国の独立に火をつけ、それはやがてアフリカに広がった)
大東亜戦争前の世界地図、大東亜戦争後の世界地図の比較
(要旨)
大東亜戦争で、日本はアジア諸国を侵略し、耐えがたい悲しみと苦痛を与え、アジアの人々から憎
まれている。このため、政治家が繰り返し謝罪し、歴史教科書を通じて罪悪感だけを植え付ける教育
216
が行われている。しかし、この歴史観は、大東亜戦争のほんの一面しか表していない。事実、アジア諸
国には、親日的な人々、あるいは、日本に感謝する人々が大勢いる。我々が目にすることのできる情
報と言うのは、やはりマスコミによって一度ふるいに掛けられ、「操作されている」と言わざるをえない。
基本的な認識として
1、
日本が戦ったのは、アジアの国々の住民ではなく、そこを200年も支配してきた、白人(ヨーロ
ッパ人)である。
2、
日本の植民地支配がひどく、欧米のそれは緩やかであったような認識は、誤りである。日本は、
住民に学校を作って教育を与え、病院を建てたり、子供たちに予防接種をすることを始め、道路
港湾、鉄道など社会資本を整備した。(「日本が現地人に現地語を禁止し日本語を強制した」
と言うのは間違いである。日本語はあくまでアジア共栄圏の中で、アジア人が意思の疎通を図る
ための言語であり、例えばインドネシアでは、それまで250もあった島々の言語を「バハサインドネ
シア」に統一し、学校教育で普及させた。「言語の統一」は、インドネシア人の「感情、行動、民
族」の統一に驚くべき力を発揮した。)また、議会を開設し、現地人にも政治参加の機会を与え
た。また日本は、アジア諸国の独立を助けるため、現地人に軍事教育を与え、軍事的な能力を
与えた。これが決定的な欧米支配との違いである。それに反して、欧米人は武器を持たせるどこ
ろか、現地人には、「人間としての価値を認めなかった」。共に泳ぐ事も許されず、青年の団体行
動は(反乱に結びつくとして)禁止され、教育どころか徹底的な「愚民政策」により、識字率はわ
ずか数パーセントであった。土地は奪われ、住民は農場で強制労働に借り出され、オランダ統治
時代のインドネシア人の平均寿命は35歳だった言う。もちろん、独立運動の指導者は投獄され
たり、処刑されたりした。イギリスやオランダ経済の三分の一以上が、植民地からの収奪でまかな
われ、現地人はただの奴隷であった。当時、多くのアジア人にとって、白人は抵抗しがたい「神の
ような存在だった」。
3、
インド、インドネシア、マレーシア、ビルマを始めとするアジア諸国では、「日本軍が独立の為に
戦ってくれた」ことを忘れていない人も多い。インパール作戦など、まさにインド独立の為に、日本
がインド国民軍と共にイギリスと戦ったのであり、「我々インド人は、我々のために死んでくれた日
本人戦死者に子々孫々まで感謝したい」と言う。インドやビルマの人達は、自分たちの独立の為
に日本の青年20万人が死んでくれたと言う事を未だに忘れていない。
4、
日本が、アジア諸国の人々に与えた衝撃とは、今まで神のように犯しがたい存在であった「白
人が、同じアジア人の軍隊に破れて白旗を掲げた」のを見た瞬間であった。これが、アジアの人々
の潜在意識に革命的な転換をもたらした。
5、
日本が連合国に敗れた後、今でこそ、日本の植民地支配を非難する連合国は、どのような
行動をアジア諸国に対して起こしたのか。日本の教科書がこういうことをきちんと教えていないのは、
「自国に対する正しい歴史観が欠落している」からである。連合国は、日本によって追い出された
アジア植民地を「再び取り返しに来た」のである。インドネシアは、3万人のイギリス軍と15万人の
オランダ軍による連合軍と、4年間に渡る死闘を繰り広げている。その結果、住民80万人以上
が犠牲となった。しかし、生き残った人々の証言によると、彼らが連合国と戦い抜く事ができた理
217
由は、日本統治時代に、日本軍が軍事的能力を自分たちに与え、また四万丁にも及ぶ小銃や
弾薬を、日本敗戦後渡してくれたからだと言う。そうでなければ、誰が彼らに武器を与え独立を支
援してくれただろう。また、敗戦後も日本へ帰る道を選ばず、「インドネシア人と共に戦った日本兵
が約2000人もおり」、この半数以上がインドネシア独立の為に戦死している。何より、彼らインド
ネシア人が独立を勝ち得たのは、死をも恐れぬ頑強な精神力、すなわち日本人が教えた「日本
精神」であったと言う。この精神があったおかげで、武力では圧倒的に優位であったイギリスでさえ、
最後には、とうとうインドネシア人を支配する事を「あきらめた」。
6、
「大和魂」、これは、今の日本では必要無いように思われているかもしれない。しかし連合国
から独立を目指す我々(当時の独立運動の指導者)には、独立のために不可欠な精神だった。
民族として正しい意志を持つこと、これなしに独立を勝ち得ることはできなかっただろうと言う。
7、
1955年バンドンで行われたアジア・アフリカ会議において「民族の自決」と「反植民地主義」
が掲げられ、アジアで起こったドミノ倒しは、アフリカ諸国へ波及して行った。アジア独立運動に関
わった人々は、「大東亜戦争が無ければ、アジア・アフリカ会議は無かった。日本はアジアの国々
の独立を助け自由をもたらした」と言っている。
以上の事が、アジアの国々で、当時の事を「本当に知っている」人々によって守られ
ている。それが正しく伝えられず、後にさまざまな政治的意図で歪められて子供たちに
伝えられるのは、自らの悪事を認められない「勝った」連合国の情報操作によるもので
ある。日本の行った戦争には、はっきりとした「思想」があったと、独立運動の指導者
が言う。日本は、敗れはしたが、結果としてアジアは、数百年に渡るヨーロッパ人の支
配から解放された。日本がやらなければ誰にできたであろう。当時、日本の人々の心の
中に「アジアの共栄」があった事は紛れも無い事実であり、それが作り事であったと物
知り顔で言うことこそ、後の作りごとである。
218
第5章
第1話
結論として「明るい豊かな社会を築き上げよう」
教科書の周辺について
さいたく
1)「 採択」、実質採択するのは教師である。
わいきょく
教科書のひどい歪 曲の現状を「教科書の現状について」や「南京虐殺」「従軍慰安婦」で
見てきたが、なぜこのような教科書が選択されてしまうのだろうか。教科書を取り巻く状況
について少し触れてみたい。
教科書は各市町村の「教育委員会」によって検討され採択される。しかし、現状は全教科
の教科書を教育委員会だけで選定することは困難であり、その下に「調査員」が設置される。
......
調査員はほとんど教師によって構成されている。そこで検討され、良いとされる 数社の教科
書が最終候補として絞り込まれる形になる。絞られた中から最終決定するのが教育委員会の
仕事となる。(他に学校投票制もある。国立私立は校長。)二つとも自虐度の高い教科書が
最終候補として残ってしまえば、そこからいい教科書、よりましな教科書は選ばれるはずは
ない。
そこで問題になってくることがいくつか見つかってくる。調査員は誰なのか。なぜその教
科書が選ばれたのか。決定に至るいっさいが情報公開されていないという点である。
明らかな不自然さが、教科書の周辺に起こっている。たとえば、新潟県議会の風間直樹氏
ただ
(当新しい教科書づくり委員会委員)の質疑中、調査員と教科書会社の関係について質され
た義務教育課長が「自分の教員在職中、両者の間に物品の供与を通した関係も、事実として
あったと聞いた」と答弁し、議会に波紋を呼び、現在県警によって調査されている。宮城県
で使用されている公立小中学校の社会三教科(歴史・公民・地理)の教科書は、過去10年
間東京書籍に独占されている。原因として、教育委員会のOB四名が東京書籍の関連会社に
天下っていた癒着の事実が指摘されている。
まだまだ周辺から出てきそうだが、私にはもっと深刻な問題があるように思える。それは、
調査員が誰であれ、普段直接関わっている筈の教師達が、なんの違和感を覚えずにこのよう
な教科書で教えているという事実ではないだろうか。微妙なニュアンスを言うのではない、
「教科書の現状について」で見てきたようなあきらかな歪曲の内容についての指摘が、外部
からしか起こらないこと。これが大きな問題だと思うのだが。気づいて個別に授業で補おう
とした教師もいるであろうが、なぜこの問題を自分たちの手で取り上げ問題にしなかったの
か。一部の調査員の判断を云々するより、この問題の方が深刻ではないだろうか。外部から
の強い指摘がなければ、あの「乳房切り残虐壁画」は今もなお掲載されていただろう。
教育界の異常と思える事態について、新聞その他のマスメディアから知り得たことにもう
少し触れておきたい。ひとつに関係者の自殺が、組合勢力の活発なところで多発しているこ
と。広島世羅高校の校長など耳目にまだ新しい。勤務評価オールBでも、過去につるし上げ
220
で自殺者が出ている。ほかにもまだでている。幾度となく不幸な結果を招いたことに対し、
し ん し
果たして 真摯な改善が行われてきたのだろうか。あるところでは就業中に組合活動を慣例と
して行って来て、不正給与の実体が明るみに出るまで何ら疑問を持ってこなかった。教科書
問題と同じく、外部から指摘がなされるまで現状に気づかないという特徴があるようだ。さ
らに問題点を指摘した常識ある教育者達に、何処よりか卑劣な脅迫・圧力がなされるなど、
教育界とその周辺では、人間教育とはほど遠いと思える首をかしげたくなるような事柄が続
出してはいないだろうか。校長と徹底的に戦うためのマニュアルを作ったり、反日の丸、反
君が代で教育をそっちのけにしてイデオロギー闘争に子供達を巻き込んではいないだろうか。
教科書・教育界のありよう、このような「教育」にふさわしくない自浄能力の欠如した状況
に、読者は何も感じないか。
.....
.....
「教育の現場では、教科書がどうのといっている暇などない。大変なんだ ! (だから素
人が口など出すな ! )」と言って逃げおおせるものでもない。たしかに教師たちのストレス
も近年強くなっていると聞く。学校に問題が多いことも知っているつもりだ。しかし子供を
救えるのは大人達しかいない。この現状を大人が自ら解決しなければならないことなのだ。
2)「反戦平和教育」と「愛国心」について
....
「反戦平和教育」「教え子を再び戦場に送るな ! 」、その耳障りのいい言葉の真の意味 は、
「近・現代の歴史学習を大切にし、加害の面に視点をあてた実践が重要」(日教組第35回
定期大会資料/運動の過程と今後の課題1999,5/29~5/30)と明言されているとおり、自虐教
育を意味している。つまり「反戦平和教育」は、自虐教育そのものであると言えるのではな
いか。太平洋戦争において「日本は悪かった」と教え、どんなことがあっても二度と戦って
はいけない、アジアに謝罪し続けなければならないとても罪深いことを父祖達は行ってきた
んだと教えることが平和教育だとしている。一部では、さらに多感な子供達を「平和博物館」
.........
なるものに連れて行き、いい加減な残虐写真を見せ、ひたすら強烈な印象を与え罪悪感を植
え付ける。「詳細な事実確認よりも、ひたすら日本軍の酷さが伝わればいい」(ある現役教
師の趣旨文章)と思っているのであろうか。子供たちへの悪影響は大きすぎる。(あなた達
の地域の子供たちは、そのようなところへ連れて行かれていないか?) そして国家意識を
世界に類を見ないほど低くするのに、現在の教育が大きな役割を担っているように思える。
総務庁が発表した「第4回世界青
第4回世界青年意識調査
年意識調査」(1988年調査)による
日本
13
と、「あなたは自分の国のために役
西ドイツ
41
立つことであれば、自分自身の利益
イギリス
48
を犠牲にしてもよいか」と言う質問
スエーデン
48
に対して、「はい」と答えた者はア
62
韓国
メリカ70%、シンガポール70%、
中国
65
中国65%、韓国62%、スウエー
シンガポール
70
70
アメリカ
デン48%、英国48%、西ドイツ
0
10
20
30
40
50
60
70
80
41%、日本は13%で、この国の
221
「愛国心」は世界で最低と言える。読者は読みながら軍国主義を思い浮かべ気にしていると
思うが、世界の中で「愛国心」の言葉さえ使えない国は、おそらく日本だけだろう。我々は、
決して軍国主義者ではないし、これからも軍国主義に陥ることはない。世界の意識とあまり
にもかけ離れた今の日本の状況(第1章・第1話 世論調査から見える自信の喪失や上記ア
ンケートの愛国心の欠如)が、いつか回復不能なところまで落ちてしまわないうちに、少し
でも修復したいと願うだけである。今の日本はそれさえも受け付けない状況だろうが・・・。
「教え子を再び戦場に送るな」の気持ちは分からなくはないが、筆者にはどうしてもその
スローガンが正しいと思えない。「人間らしく生きる」ことを守るためには、命がけでそれ
を守らなければならない場合も時にはあるのだということを、子供達に教えることが大切な
人間教育のひとつだと思うからだ。人間らしく生きたいという気概や、命より大切なものが
この世にあることを教えられない教育など必要ないと思う。そんなもの絶対いらないのであ
る。全てを失ってからいったいどうしようというのか。
日教組が掲げる反戦平和主義の、湾岸戦争時にも見せた、戦争や侵略で混乱している国を
救ってもいけない。アメリカなどの後方支援をしてもいけない。この趣旨のどこに、平和の
思想がある? あるのは一国平和主義の、世界に通用しない愚かなエゴではないか。独りよ
がりの理念に酔いしれて、大切な友人を見殺しにしろといっているようにしか聞こえない。
我々は、教師だけにすべての責任を押しつけるつもりは毛頭ない。日本を包んでいるうす
甘い自虐に対して、大人がまず変わらなければいけない。歴史と教育にもっと関心を持って、
積極的に関わっていかなければならないと考えている。この国の歴史教科書を教師といっし
ょに考えていこう !!
第2話
世紀の遺書
現在の歴史教科書は、過去に日本人が犯した罪とそれに対して謝罪と補償を求める声のオンパレ
ードである。しかし、その罪はいったい誰が犯した罪だろう?どうして、おじいさんが犯した罪をその孫
やひ孫が引き継いで、謝罪したりお金を払って償わなければならないのだろう。一体誰に対して?江
沢民主席は、歴史認識の問題は永遠だと言っているけれど?
実際に捕虜を虐待したり、原住民を虐殺したとされた日本の軍人は、B・C級戦犯として、内地や外
地で戦後捕らえられ、4000人以上が投獄された。その内、1068人が、銃殺刑または絞首刑となり、
処刑を免れた人も長く牢獄につながれている。つまり、罪を犯した犯人は、50年も前に「死を以って
罪を償っている」のである。もちろん、南京虐殺を行ったとされた将兵は松井大将以下、すべて死刑
にされている。このことを一体どれだけの日本人がわかっているだろうか?どうしてそれが日本の教科
書にきちんと書かれていないのか?
ただし、このB・C級裁判というのは全くでたらめな裁判で、明らかに人違いで処刑された無実の人が
多く含まれていたと言われる。(連合国は、あまりにでたらめな裁判であったが故に、その資料を100
年間非公開と決めた。)
222
筆者の手元に「世紀の遺書」と題した一冊の本がある。戦犯として処刑された人々のうち、可能な限
り収集された701名の方の遺書をまとめた本である。筆者がまず他人事に思えないのは、処刑された
人々のほとんどが30代の半ば前後であり、我々JCメンバーと全く同世代であったからである。ほとん
どの人は、妻とまだ幼い子供、あるいは両親に宛てて最後の言葉を残している。処刑される2,3分前
にザラ紙に鉛筆で書いたものも多い。看守の目を盗んで、面会人が靴の底に隠して持ち帰ったもの
も多い。内容はさまざまである。少数であるが、死の直前にキリスト教に改宗した人もある。またこの中
には、朝鮮、台湾出身の軍属や通訳が45名含まれている。軍人だけでなく、民間人や文官も196名
含まれている。中には、処刑されるまでの数ヶ月間の詳細な日記も含まれており、701名の遺書の全
てに目を通すのは容易なことではない。
しかし、これらの遺書と向かい合っていると、筆者には今日の教科書問題の「原型」が見えてくるよう
な気がする。
筆者は大勢の方々の遺書を読んでいるうちに、これらの遺書には「いくつかの共通点」があることに
気がついた。戦犯の処刑は、中国だけ出なく広く東南アジアに渡る50ヶ所以上の刑務所で行われて
いる。全く違うところで、別々の戦勝国(中華民国、米国、英国、仏国、オランダなど)によって裁かれ
たにもかかわらず、戦犯の裁判には、不思議な共通点が見られる。
それは、こういうことである。まず例外的に、ごく少数の日本兵による戦争犯罪があったことは事実で
ある。(現行の歴史教科書は、この一部の例外的な事件を全ての日本軍人、あるいは全ての日本人
が悪事を働いたように受け取れるように事実を歪めて伝えている。しかし、現代の日本にさえ凶悪犯
はいる。それは事実である。だからと言って日本人の全てが凶悪犯であるはずもなく、また凶悪犯なら
ば中国にも韓国にもどこにでもいる。過去の日本人だけが悪人であったはずはない。)
ところが、戦争中の自分の行為に「心当たり」があった人々は、戦争が終わると一目散にどこかへ逃げ
てしまった。逆に、身に覚えのない真面目な、あるいは住民に親切に接してきた人たちは、何ら後ろ
めたいことがないから戦争が終わってからも逃げる必要を感じていなかった。ところがある日突然、戦
犯として捕らえられ戦争犯罪人として裁かれることになる。罪状は、「自分には全く身に覚えの無い住
民の虐殺」であり、不思議なことに、自分が一度も会ったことの無い証人が「自分のことを知っている」
と言って、虐殺のことをぺらぺらしゃべり始める。「証人のプロ」のような者が、いたるところの裁判所に
現れている。自分の反論、あるいは弁護してくれる人の証言は全て却下される。このような一方的な
裁判で、判決は有罪。処刑方法は、銃殺刑か絞首刑。
ところが、公判の途中で「虐殺された住民の数が水増しされた」と言う不思議(?)なことが行われて
いる。もともと当人にとっては、全く身に覚えの無いことで、さっぱりどうなっているのか解らない。ところ
が裁判をしている側では、どうせ処刑してしまうのだから、「住民3人を虐殺したと言っても、300人を虐
殺したと言っても同じ事」と考えたようである。そして、それらの虐殺が、当時、毎日華々しく「新聞記
事として世界に発表された」。ここが最大のポイントである。すなわち、戦勝国としては、自らの正当性
をアピールするために、逆に日本軍の残虐性、悪辣さを強調し、「世界に発表する」必要があったの
である。このカラクリは、裁判の当事者でり、戦犯とされた人々にしかわからなかったことである。当時、
大方の日本人は、戦時中報道統制がされていたために、隠されていた「事実」が今ようやく「明らかに
なった」と正直に受け止めた。そして、新聞が書きたてる「今、明らかになる恥ずべき日本の悪事」を真
223
に受けてしまったのである。この時に発表された「事実」が、今日まで50年以上に渡り、日本の教科
書における「事実」として受け継がれてきたのである。
戦勝国は、何故か(?)この「真相が多数発見された」、裁判の記録を100年間非公開と決めた。し
かし、そろそろ戦勝国から発表されたこれら事実の「裏づけ」を検証すべき時が来ているのではない
だろうか。(注)
日本人は、もっと外国から与えられた情報に疑問を持つべきである。それが、「歴史の真実から目を
そらさない」本当の態度ではないだろうか。
(注)
東京裁判において、日本軍の戦争犯罪を裁く証拠として捕虜虐待、民間人の殺害、財物の
掠奪等に関して600通の供述書が受理された。(もちろん南京大虐殺の証言もこれに含まれて
いる。)ここで銘記すべきは、この600通の供述書によって日本は犯罪国家と決定されたのであ
る。ただしその内、供述者が法廷に出廷し宣誓の上受理された宣誓供述書は30通のみであり
(5%)、全体の95%は、文書だけが証拠として受理された。またこの裁判には、偽証罪の規定
が無かった為、文書の中にどんな誇張や事実の歪曲、極端な場合には、全く虚偽の陳述をして
もそれがそのまま認められたのである。(証言者が出廷すれば、弁護側が反対尋問を通じて真
偽を確かめることができる。しかし、相手が出てこないにもかかわらず、裁判所が一方的に証拠
として採用したものに反論のしようが無かったのである。)このような、不公平かつ不確かな証拠
が、日本を犯罪国家と決定した東京裁判の証拠の95%を占めている事を、どうか読者は記憶さ
れたい!
実は、サイパンにおける供述書の中に、弁護側が一人だけ「若松誠」という日本人名を見つけ
た。この人物を探したところ(他の証言者は、南洋諸島や中国大陸のどこの誰だか探しようがな
かった)、この人物が長野県軽井沢町で雑貨商をしている事をつきとめた。若松氏は弁護側の
要請に応えて出廷し、「確かにアメリカ人将校の尋問を受けたが、それは先方が用意したものに
先方が書きこみをし、出来上がった書類の内容は、日本語で聞かされることは無かった。ただ
英文で署名せよと言う事だけだった。」と証言した。この若松氏本人の出廷により、アメリカ人将
校の作成した証拠は、内容が日本側に不利になるように勝手に書きかえられている事が明らか
になった(詳細は誌面の都合で割愛)。
これが、検察側の証拠捏造が明らかになった、唯一つの事例である。残念ながら、その他の5
69通は、恐るべきことにそのまま「事実」として裁判所によって認定されている。逆に日本側が提
出した、「日本軍の行動開始以前における中国本土の状態に関する証拠」、また「日本軍が中
国に平和を快復し静謐をもたらした事を示す証拠」などは一方的に却下された。
この実体を知らない者に、「南京大虐殺30万人説」が正しいか正しくないかを論ずる資格はな
い。
つまり、戦勝国による戦争裁判は、「最初から一つの目的を持った裁判」であったと言わざるを得な
い。具体的には、「事件が起こったとされる年月日には、まだその地に赴任していなかった人」まで、
何の弁明も聞き入れられずに処刑されている。通訳が数多く犠牲になっているが、それは、原住民が
「通訳以外の名前を知らなかった」ため、犯人として名指しされたからである。本当に罪は何でも良か
224
ったし、裁かれるのは、誰でも良かったのである。ただ、正義の戦勝国が、悪の日本軍人に罰を与え
治安を回復したと言う形式が必要であったのだ。そしてこの裏に隠されている大変重要な意味は、戦
勝国=旧宗主国(日本が来る前に、その地を統治していた国)には、悪の日本を裁き正義を実現す
ることで、再び植民地体制に復帰する布石を打つ意図があったと言う事実である。例えば、フィリピン
における裁判はアメリカが、シンガポールにおける裁判はイギリスが、インドネシアにおける裁判はオラ
ンダが裁判の当事国となっている。原住民はあくまでかやの外であり、捕らえられた日本軍人は、戻
ってきた欧米の植民地主義者によって裁かれたのである。裁判には、一度追い出されたことに対する
報復がこめられていたことは察して余りある。(注)
(注)
裁判の当事国別に見ると、オランダに裁かれて処刑された日本人が273人と最も多い。次が
英国の254人、中華民国の175人、米国の167人と続く。
非常にタイムリーであるが、先日(平成12年3月31日)発表された新聞記事によると、B.C級戦犯を
一国ではなく、多国間からなる「国際法廷」で裁こうとする構想が、「裁判の長期化を嫌う英国の主張
で葬り去られた」との公文書が、英国立公文書館で発見されたという。記事によれば、英国は「アジア
で大英帝国を一刻も早く再建する必要があり、戦犯裁判に時間を掛けたくなかった」とのこと。別の角
度から見れば、戦犯とされた人達は、欧米による植民地支配の一刻も早い復活のため手っ取り早く
処刑されてしまったことになる。
だからこそ、本人が行ったこともない場所や、会ったこともない人の虐殺、掠奪、虐待が、それを「偽
証」する現地人や元捕虜が一人でもいれば、それだけで有罪であった。
中には、友が処刑の銃弾に倒れるたびに、見物に来ている中国人が歓声を上げている様子も書か
れている。イギリス人の看守が、どうせ処刑されるのだからと日本人の捕虜を虐待し、配給の牛乳を奪
ったり水を与えない、トイレに行かせないなどして苦しめている。そうかと思うと、中国人の看守が「気
の毒で言葉もない」と漢字で書いてタバコをくれたり、「自分に金か力があれば逃がしてやりたいと涙
を流した」ことが記してあるものもある。
自分一人を処刑して、部下は許して欲しいと嘆願した上官の遺書も数多い。
もう一つの共通点は、いくつもの刑務所において処刑場所は独房のすぐ近くにあり、後に残された
者は、先に呼び出された戦友が「処刑される瞬間の声や様子を自分の番がくるまで見せられつづけ
た」ことである。
友が万歳を叫ぶ、その直後、「ガチャーン」と言うすごい音がする。絞首台の足場がはずされ、二階か
ら一階まで落とされて宙吊りになった音らしい。このすごい音で「ああ逝った…!」とわかり、そのたび
に「脇の下に冷たい汗が流れた」と書かれている。こんな残酷な拷問があるだろうか。「塗炭の苦しみ」
とここで書かずにいられない。
これが、戦勝国の作り出した正義であり、この正義は、今でも東南アジアの国々の教科書に「史実」
として書かれている(実は、日本の残虐行為を書いたものは華僑用の中国語版だけである)。ところが、
225
ここがまた重要なポイントなのだが、日本の歴史教科書は、「東南アジアの子供たちが学ぶ日本の侵
略」と称して、向こうの教科書に紹介された日本軍の蛮行を「転載」している(注)。日本の教科書会社
は、これら蛮行が「歴史的な事実」だとは一言も言っていない。ただ蛮行が、向こうの教科書に「載っ
ていること自体は事実」と言いたいのであろう。しかし、転載された蛮行を二次的に学ぶ日本の子供
達は、これらの蛮行が「歴史的な事実」だと認識してしまう。ここに恐るべき理論のすり替えがある。
(注)
「日本の軍人が、赤ん坊を宙に投げて銃剣で突き刺した」とか、「妊婦の腹を裂いた」とかいう
たぐいの残酷な話しが、まことしやかに伝えられている。教師の中には、好んでこのような話しを
生徒に聞かせる者があるという。筆者はもちろんその現場を見ていないから、そんな事があった
か無かったか「断定」する立場にはない。しかし、いろいろ学んで分った事は、これらの残虐行
為は、中国の文化にこそ古くからある事であり、その昔はこれと全く同じ行為をモンゴル兵がや
った事になっている。中国文化の忠実な模倣者である朝鮮でも、例えば光州事件(1980年)の
際に、「抵抗した女性達が裸にされ、木にくくりつけられてつき刺された」、「妊婦を刺し、胎児を
つかみ出して投げ捨てた」と言う噂が流れたと言う。もちろんこのときの犯人は日本兵ではなく韓
国兵であり、一キリスト者の証言として残酷な様子が詳しく活字になっている。だが事の真偽に
は疑問点も多いらしい。
また、こういういわゆる「虐殺話」には、虐殺が行われた際の「被害者と加害者の詳しい会話の
様子」が書かれているのが特徴で、それは「南京大虐殺」と言われる日本軍の残虐行為を伝え
る記事にも共通である。南京の場合には、詳しくは紹介しないが、どうして中国に来てわずか2ヶ
月ばかりの日本兵が、このような複雑な「南京語」(中国は地方によって全く言語が異なる)を理
解できたのだろうか?という疑問がどうしてもぬぐえない。例えば、日本兵は80歳の老婆に至る
まで女性と見れば全て陵辱したと言う(?)ある80歳の老婆を強姦する際に、「私はあんたのお
ばあさんくらいの年なんだよ」と言う老婆に対して、日本兵は「おれは何もお婆さんに、おれの子
供を生んでくれと言っているわけじゃないんだよ…」と応えたとされるなど、この手の話しが延々と
続く。
この「裸にして木にくくりつけて刺す」、あるいは、「狭い箱に閉じ込める」と言うのは、大陸独特
の文化である。日本文化が持っているものではない。ついでに言えば、鼻をそぐことも中国伝統
りょうち
の刑罰にあり、手首足首を切るのは世界で最も残酷な刑罰と言われる 凌遅処死(凌遅の刑)の
名残である。凌遅とは、ゆっくり苦しめて死なせると言う意味で、石の寝台の上で斧を使い、指先
から切り落として、後は人体を生きたままレンコンのように寸刻みにゴツゴツと輪切りにしていく。
そのたびに血肉が飛び散り骨が砕け、あまりの痛さに気を失っても喉が笛のように鳴るのだそう
だ。次に腹を裂いて腸を引き出す。出来るだけ長く苦しめ、不様な格好で死なせるのである。
中国人の残酷さこそ、日本人の想像を絶するものがあり、明らかに中国文化と日本文化は異質
である。
226
りょうち
凌遅処死について、明代の書(邱叡撰『大学衍義補 』)によると正式な刑罰になったのは、
元代の事であるらしい。この処刑方法は、木に縛り付けて少しずつ切り裂く方法でも行われ、清
の時代にこの刑を行っている残酷極まりない写真も残されている。
りょうち
驚く事に、この中国の伝統文化の中にある「 凌遅処死」をモデルにして、中国軍の宣伝部隊が
書いた絵が、日本軍の残虐行為を示す絵として日本の小学生用の教科書につい最近まで載
せられていた。日本の教科書執筆者は恐るべき悪意を持ってこの絵を利用しようとしたのである。
絵を見せられて、このような残虐行為を「日本人がやったと教えられた小学生たちのショック」は
想像に難くない。
中国4000年の歴史と聞くと現代の日本人には漠然とした憧れを抱く者が多いかもしれない。
しかし、その内実は王朝が滅びるたびに大掠奪と大虐殺が繰り返された残酷な歴史である。ま
た中華思想によれば、中国とは国家ではなく「天下」であるという。そこから「天下は全て中国の
もの」とする発想が出てくるといわれる。
日本においては、阪神大震災のような未曾有の大惨事に際しても、人々は困難と不自由に耐
え、スーパーの列にじっと並び一人として掠奪に走るものはなかった。この様子は中国、韓国で
も放映され、彼らは日本の社会を「掠奪無き社会」と呼んで驚いたと言う。中国、韓国だけでは
ない、北米でも南米でも、世界中のどこにおいてもあのような混乱時には、人々が商店の品物を
勝手に持ち去る事は珍しくない。
「我慢強く社会の秩序を重んじる」のは、日本人の国民性の中にある特性である。筆者は昨今、
この伝統は揺らぎつつあるが、戦前の日本人は今の日本人よりその美徳を有していたと考える。
ご高齢者との日常体験の積み重ねから筆者はそう思う。
やや話題がそれるが、ある航空会社の関係者によると、「古き良き日本人はブラジルに残ってい
る」という。「美しい日本語、謙虚な態度、勤勉さ」など、本国の我々が無くしてしまった「日本人ら
しさ」をブラジルから来られる日系のお年寄り達は持っている。そのお年寄り達は、「自分たちは
開拓で非常に苦労したが、祖国日本が現在こんなに繁栄している事を非常に誇りに思ってい
る」と言うのだそうだ。また皇室を敬慕する思いは我々の想像を超えたものだという。
それから個人名を出して恐縮だが、機内で(ルバング島から帰還された)小野田さんのお世話を
したある乗務員は、「素晴らしい人柄だった。きっと昔の軍人さんというのは皆、あんな風に立派
だったのだろう」と述懐したと言う。
その日本人が、戦時中「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」という三光作戦を行ったと現行の
歴史教科書は子供たちに教えている。
ご存知の方も多いと思うが、これは日本軍の作戦では断じてない。「光」と言う字に「~しつくす」
と言う意味は日本語には無く、この作戦はもともと中国の作戦なのである。この点に関しては、中
華民国の辞典、「増訂中共術語彙解」(1977年増訂再版)には、三光作戦は「中国共産党が
行った作戦」と書いてあり、逆に中共側の「中国人民術語辞典」(1950年)には、「国民党反動
派軍隊が解放区に向かって攻撃した際の作戦」と書いてある。と言う事は、いずれが正しいにし
227
ても、三光作戦は「日本軍とは無関係」なのである。日本軍と無関係の作戦を、日本軍の作戦と
断定し、子供たちに罪悪感を押し付ける教科書執筆者とは一体どういう人達だろうか?
三光作戦と直接関連するわけではないが、毛沢東は国民党との内戦のさなか、
1947年12月、陝西省で開かれた中国共産党の中央委員会において、作戦の要諦として
シーダーチュンシーユアンツオ
十大軍事原則 を述べている。その中で人民解放軍に対して「包囲殲滅」についてこう訓示して
いる。
「その3:敵の兵員の殲滅を主要目標とし、都市や地域の保持または奪取を主要目標とはしな
い。」
「その4:どの戦闘でも、圧倒的に優勢な兵力を集中して、四方から敵を包囲し、一兵も逃がさな
いように極力完全殲滅をはかる。」
戦後教育を受けた我々の常識で、当時の状況を想像したり断罪しようとするのは無理があり、
机上の空論とならざるを得ないと筆者は考える。
日本人は、今、中国人や韓国人から責められているが、どう言う罪で責められているのか実はよく分
っていない。だから敢えて書くのだが、元慰安婦や捕虜の証言として、上記の残虐行為に加え、「日
本人は、中国人捕虜の頭でスープを作ったとか、首を切り落とした後、内蔵を引き出して、そのうち心
臓と肝臓を食べた」とか言う話しがまことしやかに宣伝されているのである(注)。こういう話しを真に受
ける人達が、ヒステリックに日本人を鬼呼ばわりしている。言うまでも無く、これも日本古来の文化には
全く無い。日本人は、もともと魚を主として食べており、肉を食べる習慣自体一般には明治以降の事
である。ましてや人間の内臓を食べる風習など我々の文化にはもともと無い。これ以上書くのもはば
かられるが、要するにこれらの残虐行為というのは、「彼らの文化の中にある残虐性を想像で膨らませ、
彼ら自身が考え出した」としか、日本人には理解のしようが無い。
(注)
韓国の独立記念館には、日本人が韓国の女性の腹を切り裂き、横には大きな鍋が火にかけら
れ、内臓を煮ている蝋人形まで展示されていると言う。
この記念館は韓国の子供たちの修学旅行コースになっており、こういう教育を行う人達が日本の
子供たちに「歴史認識を共有せよ!」と迫っているのである。いくらなんでもそれは無理というも
のだろう?韓国の反日教育は異常であり、その実体を知らずに歴史認識の共有を考える日本
人こそ度が過ぎたお人良しである。
それから、どなたかご存知ならば教えていただきたい事がある。それは、日本軍の残虐行為を写し
た写真の事である。どこの図書館でもこの手の写真集の一冊や2冊は置いてあるだろう。中でも、例
えば「上半身シャツを着て帽子をかぶり、右手の軍刀を右斜め上に片手で持って(左手はだらりとた
れている)、今にも捕虜の首を切るところ」と説明される写真。この写真、多少なりとも剣の心得のある
者から見ると、とても首を切れる姿勢と思えない。もっと言えば、確かに手に持っているのは日本の軍
228
刀に間違い無いが、この将校に、日本の剣の心得があるように見えないのだが、この人物は本当に
日本の軍人なのだろうか?
また、「今にも僧侶を撃ち殺すところ」として、後ろ手に縛られた僧侶の頭に、「モーゼル銃」のような
拳銃を、いかにもポーズを取ったという感じで構えている写真がある。これらの写真は、日本の軍人に
よる残虐行為の証拠写真として「平和教育」に使われているのだが、どうも腑に落ちない事がある。そ
れは、「どうして犯罪を行おうとするものが、その犯行現場をわざわざ写真に残すのか?」という事であ
る。犯罪者は、どう考えてもなるべく証拠を残さないようにするのが普通であり、「なんの為にこのような
動かぬ証拠写真を残す必要があったのか?」あるいは、「誰がこの写真を何の目的で撮ってどう使っ
たのか」という事が不可思議ではないか。(戦意昂揚の為と言うのも考えにくい。なぜなら、強い敵を
倒したと言うならいざ知らず、無抵抗の民間人殺害の写真を、「誰に見せて何を自慢する?」と言うの
だろうか。)
本題に戻って、最後に多くの遺書に共通するのは、そしてどうしてもここで書き記しておきたいことは、
これら処刑された人々のほとんどが、「言われるような罪に、全く心当たりはない。自分が処刑されるの
は、敗戦国の罪を背負って行くのである。自分が処刑される事で敵対国との遺恨が水に流され、将
来両国の友好の礎となるなら喜んで捨石になる」と述べていることである。またこうも言う、「ただ、わが
身を賭して護った日本を立派に護りとおしてくれ!」と。最後の言葉は、愛する妻や子に対して「永遠
ニサヨウナラ」があり、日本万歳、天皇陛下万歳も多いが、それだけではなく、中華民国万歳、アジア
万歳とも結ばれている。いくつかの遺書を紹介したい。
あと二分 (趙文相、朝鮮、開場府出身、軍属、裁判国英国、執行場所チャンギー、絞殺)
若松大尉宛
しょげたら駄目だよ。待っています。元気でついてきてください。「あまり大したもんじゃないですよ」体
は腐っても必ず魂魄は!何とか在りつづけます。故国日本、朝鮮のいやさかを祈りつつ行ったと言っ
てやって下さい。(中略)
あくびが出る、体の反応だ。背伸びを数回やる。「はやくはじまらんかー」皮膚の色が少しばかり暗くな
ってきたようだ。ずいぶん真面目な気持ちになる。やはり少し気がめいる。しかし、しょうがない。人間
だもの。しかし、ただ信じて行こう。信ずるように努めよう。神様すべてを許して下さい。人生最大の苦
しみだ。この部屋を出るまでだ。それも、もう八分は済んだ。あと二分だ。俺よ!頑張れ。9時の号鐘。
伸びやかにゆったりと鐘が鳴る。父よ母よ有難うございました。姉よ弟よ幸あれかし。
一番列車出発!偉い偉い。俺もまねる。あと二、三分だ。俺もあんな万歳を叫ぼうよ。来た。いよいよ
らしい。これでこの記を閉づ。この世よ幸あれ。
東洋の血 (金長緑、朝鮮、全羅北道出身、軍属、裁判国英国、執行場所チャンギー、絞殺)
原田閣下
閣下の言われたことをそのまま信じて行きます。お元気で。この気持ちをそのまま言い表すことができ
ません。うれしいような、良かったというような気持ちです。うそじゃないです。ほんとにお世話になりま
した。元気で行きます。
死の直前に際して (中野忠二、愛媛県出身、元海軍上等機関兵曹、シンガポールチャンギーに
て刑死)
229
父は去り行くとも決して淋しく思うな。また、悪事で刑を処せられたのではない。父たちのことが必ず世
に現れる時が来るから、人々に恥じることなく、一生懸命勉強して成功して下さい。年老いた祖父に
仕え、病弱の母を助けて、長く幸福に暮らす様、父はいつも傍らに居てお守りします。父の死の事情
も遠からず解ることでしょう。多くの人達と一緒に、天皇陛下万歳を三唱して去ります。では元気でお
暮らし下さい。
いつか日本が国際社会に復帰した時に、きっと誰かが、この不当な裁判に光を当て、自分の無実
を証明してくれる時が来るだろう。彼らはそう信じていた。あるいは、そう信じて行くしかなかったのであ
ろう。
しかし、現状はどうだろう。戦後の日本人は、戦犯として処刑された人々の遺族に向かって、「戦犯の
子供!」と悪辣な言葉を吐きつづけ、学校の教師などまで差別に加わった。時がたって、今の日本人
には、この人達の無実などどうでも良いことになり、そのような人たちがいたことすら忘れられてしまっ
た。あるのは、ただ繰り返される謝罪と反省だけである。
記録によると、終戦直後、南京の処刑場(雨花台)で戦犯として処刑された人は7名である。(松井
大将はA級戦犯として巣鴨で処刑されたので含まない。)内訳は、中将2名、少佐2名、憲兵曹長2名、
曹長1名、合計7名である。その他に、南京虐殺の実行犯として1名が、広東で処刑されている。中将
2名は師団長であるから、すると虐殺は、残りの6名によって行われたことになる。しかし、このうちの2
名は、日本刀による100人切りをやったと言う「誤報」によって、全く無実の罪で処刑された人たちで
ある。(注1)
すると、南京大虐殺の被害者は、江沢民主席の主張する(正しい)歴史観によると30万人とされてい
るが、この30万人は、残りの4名によって殺害されたことになる。さらにこの4名のうち、2名は憲兵であ
り、憲兵と言うのは一般の兵隊の戦争犯罪を取り締まる兵隊で、第一線で戦闘行為をすることはない。
すると残ったのは2名であり、この2名が30万人殺害の実行犯ということになる。あなたは何かおかし
いと思わないか?これが、「終戦直後」、戦犯をさばいた南京の裁判記録に基づく「南京大虐殺の実
体」である。
さまざまな事実を突き合わせると、南京大虐殺というのは、後にアメリカと中国の意図で作られた「政
治的事実」であると言わざるを得ない。(注2)
事実は戦勝国の都合の良いように大きく捻じ曲げられ、昨今、その捻じ曲げはますますひどくなって
いる。「30万人と言う大虐殺は、無かったのではないか」と口にするだけで、サイバーテロのハッカー
に攻撃され、同胞からも白い目で見られる。しかし、筆者は無念の死を遂げられた人々に代わって、
「それでも言わなければならない事がある」と決意している。戦後50年以上たっているが、皆さんは、
あの江沢民主席の態度を見て、日中の友好が日に日に深まってきたと言いきれるか?もしそうでない
としたら、それは一方的に日本だけに責任があることだろうか?
もし筆者の言うことが、にわかに信じられないとしたら、それは皆さんが学生時代、あるいはその後の
社会生活において、マスコミを通じてさまざまな「歪曲された情報」に触れてきたからであろう。オウム
に洗脳された信者が、外部の人に説得されてもにわかに信じられないのと全く同じである。
しかし、「南京大虐殺30万人説」の主張のおかしさは、冷静にちょっと常識を働かせて考えれば誰
にでも理解できる事である。
230
(注1)
南京虐殺の実行犯として、100人切りの野田少佐と向井少佐(ともに昭和12年当時には少
尉)が処刑されている。この事件は、野田少尉が東京日日新聞の記者に、冗談でどちらが先に
戦場で100人切るか競争していると語ったことが記事となり、二人の写真が掲載された。戦後、
この記事が「唯一」の証拠となって、この二人は、南京虐殺(当時は大虐殺とは誰も言っていな
い)の実行犯として処刑されてしまった。記事の内容は、戦意昂揚のために作られた物であり、
明らかに日本軍が南京に入城する前の話である。新聞記事は、昭和12年11月10日に掲載され
たもの。日本軍が南京に入城(中国の都市は、城郭都市である)したのは、12月13日であるから、
明らかにこの記事は、言われるような「南京市内の住民虐殺」とは何ら関係が無い。百歩譲って、
全く関係無い場所からいくら白骨が出てきても、野田、向井両少尉は、「南京虐殺の犯人とは言
えない」のである。しかも、両名とも12月2日に負傷するなどして、実際に南京に入城していない。
記事の発端は、野田少尉が冗談で記者に語ったことであり、向井少尉には何の関係もない。た
だいっしょに並んで写真を撮っただけである。にもかかわらず、これが「南京市内の一般住民虐
殺があった証拠」であり、この二人が実行犯であるとされ、二人とも処刑されてしまった。今でも、
「南京大虐殺記念館」(正 式 に は 「 侵 華 日 軍 南 京 大 屠 殺 遇 難 同 胞 紀 念 館 」 ) に行くと、
両名の写真が大きく掲げてあると言う。またこの記念館には、近年、日本の政治家、土井タカ子
さんも表敬訪問したと書かれているそうだ。さぞかし江沢民主席の言う「正しい歴史観」を学び、
歴史認識を深められたのであろう。
(注2)
なぜアメリカ、中国、ドイツ、そして日本の共産主義者にとって南京大虐殺が必要なのか?
アメリカの理由:
原爆を2度も落として民間人を「30万人」も虐殺したということは、人類の歴史に永遠に残る悪事。
この悪事を帳消しにするような、日本の悪事が必要であった。30万人という数字は、もともとは、
裁判の当事者であった中華民国(当時南京は、国民党政府の首都であった)から出たものでは
なく、第3者であるアメリカから出たもの。当時、南京事件を裁く裁判では、何故かアメリカから派
遣された調査官が、熱心に宣誓供述書を求めて南京の住民に聞き取りをして回っている。
中国の理由:
日本の喉もとの肉の、一番おいしいところに食らいついた出来事。今後、謝罪と補償を引き出す
ために、最大限に宣伝して活用したいと考えている。(近年、急に関連の映画を作ったり、記念
館を建てている。)
ドイツの理由:
自分だけが、歴史に残る残虐なホロコーストをしたとはどうしても思いたくない。道連れが欲し
い。
日本の共産主義者:
旧日本軍の最高責任者は、形式上、天皇陛下である。旧日本軍の悪事は、天皇陛下の責任を
追及する為にどうしても必要である。
最初からでっち上げであるから、如何なる申し開きも聞き届けられなかった。最近、向井少尉のご遺
231
族が、遺族のその後の悲しみと少尉の無念を言論誌に書かれている。筆者は、ご遺族の主張を全く
その通りだと思う。しかし、誠にお気の毒な事ながら、「世紀の遺書」(もちろん向井少尉の遺書も含ま
れている)を読む限り、これは向井少尉に限ったことではなく、戦犯として処刑された人はほとんど、数
字で表すのは難しいが、おそらく9割がたは無実であったろうと思われる。裁判を取り仕切る戦勝国の
側からすれば、「罪など何でもよく」、もっとハッキリ言えば「犯人など誰でも良かった」と言うふしがある。
だから公判の資料を100年間封印したのである。
(誤解の無いように記するが、中華民国関係の資料の中には、一部公開されたものもある。しかし、
B.C級裁判全体からすれば、ほんの一部である。)
これが、江沢民主席の言う「正しい歴史観」の正体であり、その「正しい」歴史観を子供たちに植え
付ける為に利用されているのが、「日本の」歴史教科書である。あなたは、日本人として、何の憤りも
感じないのか?
これらの遺書と向き合う時、我々は、少なくとも自分は、いかにいいかげんな時代を生きているのか、
自問せざるを得ない。一方、自分の死を以って日本国の犯した「罪を償う」と言われた人達は、いまさ
ら中国共産党によって蒸し返される「罪」をどう思っておられるだろう?しかも、その後日本は、講和条
約に基づいて戦後補償に取り組み、賠償金を支払って和解が成立したのである。
戦後50年以上経った今日、子供たちが、自分が犯したわけでもない犯罪について、「未来永劫、
謝罪と補償を繰り返さなければならない」と教えられ、その罪悪感にさいなまれている。今の状況は、
異常ではないか?現在の歴史教科書には、日本が罪を償ったことには全く触れずに、今後「謝罪と
個人補償に応じることが、国際社会に認められる道である」と書いてある。これはどう考えても「歴史の
捏造」であり、間違っている。
何度も言うが、それが日本を取り巻く「大国の政治的思惑」で動かされていることが最大の問題である。
子供が外交の人質に取られているのである。こんな理不尽なことを見過ごしていて、親としての責任
が果たせると言えるのか?
第3話 如何にして正義を取り戻すか
1) 日本の正義
ここまでくれば、賢明な読者ならば、「それでは正義を取り戻すためには、もう一度戦争をして、今度
こそ勝つしかない」ということに気づかれるであろう。全くその通りであるが、それを肯定する者はいな
いだろう。それではこのまま不正義を押しつけられ、ただ「働いては、外国に貢物をするアリのような民
族」になりたいか?私は決してそう思わない。
我々は、戦勝国の都合作られた歴史教科書を破棄し、封印された日本の立場、日本の主張、日本
の正義に基づく「日本人の為の歴史教科書」を自らの手で作ることを提言する。これ以外に平和的に
我々の正義を取り戻し、罪をなすり付けられて死んで行った人達の無念を晴らす方法はないと信ずる
からである。
ある中国の首脳は、オーストラリアの首脳に対して、日本などという国は、あと20年もすれば、無くな
232
ってしまう国だと言ったという。我々は、我々の子孫に対して立派にこの国を引き渡す責務があると信
ずる。政治に対する不信、官僚の腐敗、青少年犯罪の急増、公衆マナーの低下。全ての諸問題に
対し我々の取るべき道は、まず「日本の背骨を立て直す」こと、我々の手で日本の「歴史を見直し」、
「誇りある国家」を再建すること、これ以外にないと確信する。
2) 民族の正史に誇るべき日本軍の強さ
現代では、「軍備を持つこと自体が害悪であり、日本は軍国主義だからその意味で最低最悪」と考
えている人が多いであろう。しかし、当時世界の強国はどこも立派な軍隊を持っており、今日でも軍隊
を持ち国際紛争の最後の手段として戦争を行う諸外国では、この体質は何も変わっていない。ゆえ
に、一人日本だけが責められるべき話しではない。これまで述べてきたような事情で、日本人自身が、
日本の軍隊は「特別残酷で卑劣でしかも好色であったようなイメージ」を持たされているのではない
か。
この稿の最後に銘記しておくが、日本軍は、世界史上、比類無き勇敢で精強な軍隊であった。この
事実を証言するのは、当時日本軍と戦った中国国民党軍、あるいは米英軍等の将兵である。(注)
「日本軍は、良く訓練されており軍律は厳しく、何より勇敢であった。日本兵は死をも恐れず、倒れ
た戦友の亡骸を飛び越えて突撃してきた。このような強い精神は、武士道や大和魂によるもので、敵
といえども我々の学ぶべきことである。この精神は、残念ながら我が軍には不足していた」というような
証言は枚挙に暇が無い。後世、事実を知らない世代が憶測でいろんな事を言っているようだが、当
時実際に戦った敵国の軍人が、「敵ながらあっぱれ」と舌を巻いているのは本当である。日本の戦っ
た相手はいずれも世界の強国であり、中国とアメリカという二大超大国を相手に、一体他に誰が8年
間も(日中の全面戦争を昭和12年からとすれば)戦いつづけることができたと言うのか?
大東亜戦争の敗因には諸説あるだろうが、最終的には国力の差であろう。武器弾薬、燃料、食料、
何を取っても敵のほうが格段に豊だった。しかし、劣勢にもかかわらず我が先祖は男も女も立派に戦
った。日本軍が他に比較を見ないほど強かったことは、民族の誇りとして後世に伝える価値がある。
(注)
筆者はここで、上海戦において日本海軍陸戦隊に対して最初の一発を放った国民党軍、第
八十八師の孫元良の「回顧録」を引いている。しかし、日本軍の強さは、蒋介石をはじめ、ジュ
ーコフ、アイケルバーガー、ニミッツなど日本軍と戦った相手が 皆認めるところである。付言す
れば、中国兵が弱かったという先入観を持つ方がおられるとすれば、それは誤解である。特に
上海戦における国民党の正規軍は、チェコ製の機関銃を始め外国製の武器弾薬を豊富に持
ち、その陣地はドイツから招いた将校の指導の基に作られており、非常に強力であったことは事
実である。また中国兵も勇敢に戦った事は、日本側にも多くの証言がある。
233
第4話終わりに
1)伝統的な日本文化
21世紀を目前に控え、次世代を担う子供達の教育について再考すべき時期にきている。
現代の教育を考えると、本当に今の教育で良いのか、戦後の教育は全て正しかったのか、も
う一度検証してみる必要がある。以前の日本は非常に文化や倫理道徳を大切にしていた時代
があった。たとえば、平安中期(978)には、紫式部が「源氏物語」、清少納言が「枕草
子」を執筆し、世界的文学史の上でも女流作家として非常に稀有な存在である。また、西行
(1118~90)・藤原定家(1162~1241)は平安後期・鎌倉前期の歌人で両名
とも花鳥風月を五感でとらえ詩にする様は芸術の域である。そして、世阿弥(1364~1
444?)は室町前期の能役者で、父観阿弥が残した業績に基づき、世に有名な「秘すれば
花、秘せねば花なるべからず。」という能の域をこえた芸術書である「風姿花伝」を執筆し
ている。世界的に見ても、シェークスピアより200年も先に戯曲をかき、しかもその著書
が単なる理論からうまれたものではなく、自作自演の経験から、さらに深い芸術論を展開し
ているところが、世界でもまれである。また、「葉隠」は、山本常朝(1659~1719
・佐賀鍋島藩士)の武士道に関する談話を同藩の後進田代陣基(つらもと)が筆録編集した
もので、およそ七年の歳月をかけて、享保元年(1716)に完成した。「武士道とは、死
ぬことと見つけたり」という言葉があるが、これは「ただ死に急ぐ」ことを言っているので
はなく、「生きることの大切さ」を表しているのである。死ぬことの意味がわからなければ、
生きている意味もわからない。明日死ぬかもしれないからこそ、今日生きている意味もわか
るし、一日一日を大切に生きようと思う。武士道において無意味な死は、「犬死」として蔑
まれた。このような西洋の「騎士道」にも通じる「武士道」は、新渡戸稲造によって「BUSHIDO」
The Soul of Japanとして英文で約100年前に出版され世界的ベストセラーになり、その後和
訳された。今日、失われてしまったとても大切な人としての「情操教育」「徳の教育」がこ
れらの中に込められている。
2)誇りある日本の創造に向けて
このようにかつての日本は海外からも文化や礼節を大切にする国民と称賛されていた。し
かし、現代は、校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊と、礼儀や
思いやりの心の欠如が一因と考えられる教育現場の荒廃も極まった感がある。今の教育は偏
差値を追及する余り、全ての段階において正解主義、数値化、序列化が台頭し、「心」を忘
れたかのような学歴偏重主義に陥っている。その「心」を育てる為の歴史教育は捻じ曲げら
れ、他国の論理だけに偏り自虐的になっている。人は、その人の人生観や哲学を歴史を学ぶ
ことによって得ることが多い。その歴史教育がゆがんでいては、将来を担う子供達がこの国
を誇りに思って背負って行こうという気持ちはなくなる。今、求められていることは、何が
「善」であり、何が「悪」であるのか。はっきりと見定め、未来の日本人の為の歴史教科書
をリベラルな視点で作成していかなくてはならない。
海外に目を向けても「愛国心を持ち自国の文化を大切にすること、そして自国を象徴する
国歌や国旗を粗末にせず、国民としての自覚と誇りをもつことが、国際化には一番大切であ
る。」と教育されている。また、イギリスの教科書には「教育勅語」が徳の教育として紹介
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されているものもある。このように教育の世界でも日本の常識が世界の非常識であることが
非常に多い。
文化を軽視し、誇りを持たない国は衰退する。家族や地域を愛することが延いては国を愛
し、文化を築きあげる。自国に誇りの持てる子供達を育てることが、共存共栄できる21世
紀に繋がる。ただ、自虐的になっているだけではなく、正しい歴史を学び帰属しているもの
に対して「誇り」をもち、自己に「プライド」をもてるからこそ、相手を尊重できる。その
心こそが、共存共栄の世界を創り地球市民としての大切な心構えになる。正確な歴史認識を
したうえでの教育こそが重要であり、貧富の差なくなんびとにも与えられた 人間としての最
高の特権であり、そのことを踏まえた上での人格完成(人格形成)こそが究極目標である。
3)最後に
この本が将来を担う子供達の正しい成長の一助になればと思い、歴史学者ではなく我々J
Cメンバーが、苦労に苦労を重ね執筆した。主観の違いもあるかもしれないが、限りある時
間を精一杯使い真剣に様々な文献を調べ「本当にこの国を良くしたい」熱意のもと書き上げ
た。戦後教わらなかったこのような「歴史の真実」があることを少しでも認識して頂ければ
と思う。
第5話
結論として、「明るい豊かな社会を築き上げよう」
我々JCが、親の世代として我々自身の手で「新しい教科書」をつくる意義を述べた。しかし、これだ
けで子供たちに注がれる「現行歴史教科書の害悪」は阻止できない。もう一つ、JCマンとしてのご協
力をお願いしたい。
まず我々は、各地域で使用されている、現行の「狂った歴史教科書」を一度、冷徹な目で読んでみ
る必要がある。(教科書は教科書扱いの書店で誰でも購入できる。)もし本稿の読者がそれをなせば、
直ちにその趣旨を了解されるであろう。
ここまで一貫して、歴史教科書の偏向を正すことの意義を訴えてきたが、その重要性はご理解いた
だけたと思う。ところが、偏向を正すと言っても我々自由主義者は、異なった価値観に立つからと言っ
て、その存在までも否定するわけにいかない。共産主義的教科書執筆者の共産的社会への憧れは、
我々が自由主義社会を堅持しようとする思いと同様に、強固であることを推測すれば、彼らを説得し
て教科書を書き直させるのは不可能であろう。そうであれば、彼らに共産主義史観の教科書を作る自
由は与えても、そのような教科書が学校で使われない、子供たちに届かないようにすることが望ましい。
(どの教科書を使うかは、各自治体を中心とした採択区の「教育委員」にその決定権がある。次の教
科書採択は、平成13年4月から7月に行われ、各地域で採択された教科書は、平成14年4月から各
中学校で使用される。JCにも我が委員会と別に「教科書採択を考える会」があり、採択に関する運動
を展開されているので志のある方は参加されたい。)
もし本当に、「明るい豊かな社会を築き上げよう」と誓うのであれば、明るい豊かな社会が築けるよう
な「新しい歴史教科書」が、皆さんの地域で採用されるように行動を起こしていただきたい。
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日本をこのまま崩壊させて良しとするのか?それとも、「青年としての英知と勇気と情熱をもって」日
本を救う為に立ち上がるのか?日本の未来は、「志を同じゅうする」JCの仲間たちの心意気にかかっ
ていると言っても過言でない。JCが動けば、日本は必ず変わる。
(付記)JCについて
JCは、国内の右派の団体であると定義する者がある。この定義は正しくない。なぜなら、JCとは、日本
国内の右派とか左派の問題ではなく、その起源を1915年、アメリカ、ミズリー州に置く団体であるから
だ。JCI綱領は、自由主義経済の発展を支持することを明言しており、またJC宣言において、「自由と
公正を保障する国家を基盤とする」とあるのは、その基盤とする国家体制を、自由主義体制に置く、
言いかえれば社会主義体制には置かないという明確な宣言である。アメリカにおける自由主義とは保
守主義のことであり、これは伝統主義とも呼ばれている。すなわち、自国の歴史と伝統を尊重する立
場に立つということである。この意味において、日本JCの会員が意識するか否かに関わらずJCの結
成精神は、ほぼ同時期(1917年)にロシア革命を指導したマルクスレーニン主義とは相容れない。
あ と が き、(小さな誇り)
我々は元より歴史家ではない。中小企業の経営者である。執筆した内容にはできる限り正確を期し
たつもりであるが、調べれば調べるほど史実は深淵であり、一部には誤りがあるかもしれない。執筆を
終えて、自分は一体何をしているのだろうと思う。浅学非才を顧みず膨大な資料にあたったこの数ヶ
月間は、仕事そっちのけの日々であった。家内や子供には、その分迷惑がかかることと思う。しかし執
筆を終えて、今、自分が妻と一緒に暮らし子供を抱いてやれることの幸福を心底思う。
筆者の祖父は、陸軍砲兵隊の少尉として昭和12年11月、上海郊外で戦死している。聞くところによ
れば、祖父は双眼鏡で敵陣を観察中に、物陰に隠れていた中国の狙撃兵に心臓を撃たれ一言も発
する事ができずに落命したそうである。祖父は高級将校ではなかったし、子供以外にこれといって名
誉も財産も残さなかった無名の軍人である。今の世の中からは全く忘れ去られた遠い過去の人であ
ろう。
戦争の事についてほとんど語ることのなかった祖母が、以前、私に語った事が一つあった。昔だっ
て、しょうゆを飲んでわざと体を壊して戦争から逃げた人だっていた。けれど「おじいさんは、お国の為
に『志願して』人のいやがる戦地に行った」という事だった。
「お国の為に自らの意志で」、その一言だけがあとに残された祖母にとっては「小さな誇り」であり支え
だったのだと思う。
祖父とは言っても、享年30歳であった。私はすでに祖父の年齢をはるかに超えてしまった。私は祖
父に呼びかけたい。あなたがいてくださったおかげで、今、あなたのひ孫は私の腕の中で安らかに眠
っております。どうかこれからもこの子をお守り下さい。
私を突き動かして止まないもの、それは我々の先祖に対する、言葉で言い表せない熱い思いである。
戦闘中に倒れた人、密林で食べ物も無く病死した人、冷たい海に沈んだ人、終戦後シベリアに抑留
され過酷な条件下で病死した人、戦犯として処刑された人、祖国の土を夢見て息絶えた人、みんな
敬愛してやまない我々日本人の先祖である。私は死んで行った大勢の先祖たちの、その無念を知る
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が故に、その無念を知っている者が「少なくともここに一人いる」と言うことを先祖の魂に呼びかけたか
ったのである。
この文章を書いたことで我々のことを右翼とか、軍国主義者と呼ぶ人があるだろう。しかし、私は心
底思うのだが、戦犯として非業の死を遂げられた方々のつらい思いに比べたら、我々に対する非難な
ど取るに足らない事であろう。そして我々の文章に触れたJCマンの一人でも二人でも我々の思いを
感じる人が出てくれれば、もはや何も言うことは無い。その方々に心の底から「有難う」と申し上げたい。
亡くなられた方々の名誉を回復することは、もはやできないかもしれないが、それでも我々は申し上げ
たい。「皆さん、本当にご苦労様でした」、どうかこの思いが天上の皆様に届きますように。「小さな誇
り」は、我々の中で今も確実に生き続けております。先祖の血汐が温かく我々の身体を流れるように。
合
掌
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