第九号 - 法然上人鑽仰会

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侮 月 二 回一 日喝 行日
五月 二十 日
傭=-mg使鋤包可
園田和+掴時
特別佳品
串ga 箆va三五 三 号
昭 和 二+図惇四月 二十八日 還福治 《
刷 四+乞寧 九 月 一自発 行
閉 制四 十七 隼 八 月 二十五 日印
第 三十八 巻
第九号
9
月
九
Eヨ
下'5
•
一一 目
表紙
次 一一
「僧 上寺五百羅漢図 J 除涛達文画
仏性に 11 ‘さぬ よ 3 ・ H ・ H ・- … ……………………………光山明道… … ( 2 )
/1 の吹...・ H ・..… ……………...・ H ・ H ・ H ・..………...・ H ・ -・竹中
fâ
焔…… ( 4 )
私の f!恩人 J' ...・ H ・.....・ H ・......・ H ・ H ・ H ・.....・ H ・..…須藤隆{山 ・ 山内雅人…… (8 )
. 聖典解脱 汚導刈liの.1ê附文〈鋭〉・…........…-… -…ィj、沢勇武…・・ ・ (1 2)
六時礼,itl J
:
.
¥'iî~ 1
1
0
1(巾〉… H ・ H ・-…....・ H ・....佐藤成順 …… ( 15 )
かの秋の日の打; …………....・ H ・-….......・……...・ H ・-平井隆一……(1 9)
ハイという.i!HJ:…………… ・ ……・・… ……一……….. , 1 ,水泡二… … (22)
)'I1 WIμ党〈第九阿〉・一 ..... . ・ H ・ ..…… ・・ ・… …・……・・…・柴
仏教の T びき@
田
六五郎…… (24)
1Jj、仏教の'ぶ il~ につ いて・・ ・ …・・… . ..・ H ・ ..… …ぃ………… ・
(28)
「進J 阿天王、子への道………ぃ・…・・……・………… 一高橋良和 … … (30)
(11土山列組の島断なたずねて……...・ H ・...………… … …………-………….
(
3
2)
蟻地獄か ら の 脱出
一ー彼岸 へ の道一一
新幹線ができて図舎から東京に泊・フのが随分獲になった。替は東京へ泊るか夜汽車
、
帰りするかした遅い時間でも楽に舟寺できるよう心なった。ところか新幹線で気がついた
ことか一つある。それは昔の東海道線時代では汽半が停ってから席を立つのが授通たった
停中駅か近づくと大分手前から今くの人が逸早く山口に法到する。弘の降りる静岡
のに
・
、
ジェット機 地にはカミナ
釈は「ひかりひ」通過のため停m・時間か長いのに必しもが急いで昨怖を立つのである。
それは正しく現代病の現われなのだろう。空にはジャソボ
、
リ族が跳来するスピード時代 議も故もか迫っ駆けっこの生活をしている。欲望と利潤追
い。そんな気持が彼らを新斡級の降り nにとかり立てるのである。
、
h
をすりへらしている生き方。自分さえよければ 自分らの生活さ
それでよいのだろうか。
、
求の時代と呼ばれる所以である。せかせか毎日気ぜわしなく動主廻っている。寸刻も惜し
しかし
人はどうなろとこうなろと。これが個人と集団と階級とを間わず一様に現代
、
欲望充足のために日
えよければ
、
現代の病相なのである。暗い日曜 日 やヒッピーや蒋売や麻楽やハチンコやセック
人が陥っている蟻地獄の係相である。生活の光足を求めながら常に欲求不満にもがいてい
るのが
、
、
、
、
わが身を変身
むしろ被岸への道であって この世の欲望を追い廻す煩悩の虜囚
スが氾濫するのも 突はこのような病相の裏返しといえよう。
急がねばならぬのは
、
たることではなかろう。荒献とした生炉の戦 m明から 災い生命の広崎へと
、
、
これを
させねばならない。それは外への燥を閉じてわか内なるもの 真実の白己の生命へと深く
省ることによってのみ来すことができよう。与えられたる己れ
か限りの生命
一回
(中村蹴隆)
空しく鍍地訴にもかかせてよいのだろうか。現代からの脱皮こそ現代の課題なのである。
-1-
、
、
性
本節の花は
、
、
すく寸くと
その色彩と芳
秋風を肌身に感じては かれんな秋の七背中
と粥の花を思う
略行と形体かすばらしい。
、
みに芽を出した訟や与の的も
、
延び山口ち 人地の臨みを し人じみと布舷く
うけとって自然に感謝の合作する。
粍済大同日本も多鍵な年である。A
辿U
亦4
怒
、
という過激グループの彼与の同志十四人のぎ
やく殺と浅間山荘事件 ついで中近東イスラ
、
、
イル同テルアピプ空港で その亜流という奥
平
、
め
を
ト」町
少しでも叩く知らせいたならば
、
、
'EEJ
m附〆
又は仏
人間として生をうけたから
、
そこに有難さと坊さがある。
相互信頼の上の扶け合いの人間性に目覚
、
、
どなたさまも
めてこそ
く
ごっこは 、ぷ 然に防げ如何られたかも知れない
と思う。文化生活は電化ばかりの生活ではな
さまをれむことな教え仰げたならぽ fmmU
命4
、
彼らに仏教の肉民応判や勧斡思想の思想
ていることは械に残念なことです。
、
事犯が地加し 社会不安が時芸のように舷っ
大・海山増上品寸鉄品光
口氏
ぎ
、
、
安問 岡本得三名による大き mT
く設事
には 社会生活の嶋崎町である仏数の五戒を生
h 白に降り立ちゃれやれと突献の了供問
。北
活のルールとし九ければならないことは今克
件
道
つ
山
目
、
なんともゆ訳もない。州内では刑法
担徳太子は奈良時代すでに五戒を肘分寺と
人やプイルト中コの巡礼者に対するざん殺傷 いうまでもない。
れ件は
-
一 2
仏
、
、
同尼寺に於て 市民と実践修行し 信仰文化
、
、
、
よき人生の果実となり 生活に笑いが
、
、
この点に立って 私は先づ幼児教育の盛行
あり
、
ν ・シャープ lムで参拝旅行もある。い
法要方式や同行念仏等の伝道がある。
、
弁論の伝道
次に伝道です。文古伝道あり
幼児のおいでのHhの御協力をお願いしたい。
三 つチの孤百までとい
を代
期も
したい。普から
生活の怒法として教えられたのです。現
い 、初心忘るべからずと古語は教えている。
伎みよい
、
五戒が実行されるなれば明るく
社会
、
たえない答であります。
人は
々には だれに
悉・有仏性というみ教
、
も生れながらにして 仏性があることを-かさ 近頃は
。
、
ひたすらに念仏せよと教え
、
。
、
、
、
遠に生かすことは 作土宗一万ケ寺の住職や
、
、
、
、
一 一一一一
れている。そうして阿弥陀如米の光い明はづれも仏性に気付いて下さるよき企画であり
、
、
、
したいものです。念仏の戸あるところに立
の人生と生き甲姿があります。
3 ー
-
つも我々を照し「仏性に日ざめよ」と紋いま
のす 仏性のめさめは叉念仏を唱える感謝の
姿ともなり 人生開顕 生き甲山姿を汲みとる
み手を差しのべていて下さる
、
歓誌の生活ともなって行きます。
仏性とは良心の戸であり生れながらの本
性
である。寺院等に於て行われる仏教行事の我
あがめ土宗は 明後年で浄土宗開宗八百年
、
る度毎に 仏伎に日さめよと教え下されてい のよき年を迎える。この記念すべき佳辰を永
る。法然上人は
。
、
、
宗定の各
下さる 我々が合掌して一心に南無阿弥陀仏同信の方々が 寺院の護持に当り
念し
と唱える時には 心の乱れぞいろいろの妄念 種行事と法要を砲信協力のもとに実行
仏こそ阿弥陀如米のお姿なりと合掌念仏して
や慾心が 掠れる雪のように内然に消えて
行きたいものです。特に法然上人を讃仰して
仏性に気付く訳です。
仏性に答える方法はいろいろとある。その
は 念仏の有難さと噂さを自信教し伝道いた
答を引き出すことは 仏教徒の使命ではなか
ろうか。
一一一一一
一一一一一一一一一
、
豆ほととぎす
、
秩の月
冬の一日さへ凶しかり冷り
容は花
、
、
、
、
公判とか 担月伐とか
、
、
スモッグだり
、
、
、
、
信
中
、心 をなぐさめ
た月。擦をさとりの境地のあらたれとし 月愛三 味 (ガツア
、
ものがある。仏教では「真知の月」などといって 滋み切っ
イサンマイ)では月光はよく人の苦悩を除き
日に触れるままに
、
、
つれにすなてふ徹の月
、
、
、
k
、
さとりに
い。これが仏敏
仏教と月とを詠んだ欧を少し
そのま宝仏道の修行
間はま
って「わが心すたわち月給の加し」と心
中 に思い
るといわれている c日吉宗では月輪観(ガツリンカン)とい
とり
ビルの谷間から月を眺めることも
、
でつMFf叫ん方。してみる
伐と
の夜良に 山町風に吹か九なが
至る修訟としている。月dJ
、
、
わしの山
く鎮めてみる。
そこで
に通ずるといえなくはないであるう。
ら
h
戊時記や宗
-吋
w
満った郎会の泡では地むべくも
、
常
名 月 とかとい
K いお い泌をくぐり
月比とか
h 風つip?
と・フやら叫夕 胤
フこっ頃
・ 詠ま九ているよ・っ
百一応仰けがこ
フ
ζ
ぬけ亡
を捌けば
、
、
幼い頃の拶を秘めて いまも人々の胸の 小 に開い
、
山コ端から小一大にか占りて
おおどかに穆り行く九い
公許たっ
った文下が日につく符節となった。
、
月の接は
ないか
、
少しくふりかえってみると 仏教と月とのは棋は戊からざる
ている。
-4-
歌
の
月
、
隠t
心の月のあらはれて
かりにあらわt
、
、
.
h
.て
わしの高根にすむ一てありける
さとりえし
c
行
政
法
上
師
人
、
人
向日
みほとけの教えを月に托して詠んだものに
む水の
国
開き所に悩でてムよ
F
上
、
、
かはらぎりけり
月を・つつして
、
、
くもらぬ月を・フつしてそ
'患
混よりも
、
何とて月に隔てやはある
限もなさ
、
色も空にそ
駒のうちの
l
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J
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深き御法の心とはしる
つ
と
りの
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.
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こ渚2
、
月
知の
かげ
る
ら
む
すぐに思い浮ぶのは
誰か
隆
寛
衡
、
法然上人の
良
、
、
、
、
、
法然上人は同様のことを税か
、
遊間をわけて宿るなる。妄念の添はしげれ
三ども
、
、
、
よくよく
、
、
、
muA
するならば
、
、
月のように涼やか
、
眺める自分の心まで すがすがしい気
人の胸の中に宿っているものなのである。
、
月を眺めていると
な心か
れと分らぬが
いるのである。水商心生えた議が邪庇して
心ない人にはそ
まりにでも
れていたのである。み仏の教えは たとえ道端の 小 さい水た
月の影か俗るよ・フに どこにでもゆきわたって
良寛和尚より六百年も前に
心の月はやとるなり」
れば
「たとへば 最のしげき池に 十五夜の月の宿りたるは
よそには月やどりたりとは日比へねども
よくよく立より見
c
良寛和尚のこの歌から
き
あぶ
法語である
lこ・
tこ
り
「
わしの山」とはい・つまでもなく釈尊がつねζに
にそ
いて
法奪経を 説 法 さ ・ れ た 霊 鷲
の山
ことである
フじ
苦F
5-
西
蹄
、
か
る。
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、
、
月そはづかし
生
n
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ip'
知
になってくる。月を心の祖として詠んだ歌がいくつかあ
心μ
、
水にやどれる月形刀
の股与
心をかくす我かげに
いとはで照らす
たおからぬ
恥汁
f盤
台、
守りし
、
、
、
-ての住いか九条月の始にあるところから 月総
、
物心尚而にわたって外艇につくした さきの閃山政
原策実公は
、
殴と呼ばれ 法然上人・唱しばしば月輪駁に歩を迎ばれたので
-6-
道
法
も
け
る
読
メf
通
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段
みに
ふど
も
、
之
身に札ふ
尋
夜し
ぞ放士
す郷E
らへ
なきかの世にこそありけり
人
のり
なた
おる
ぞな
わと
づ忠
あるか
まよひきつらん
白jj
私か
て
訟然上人は月に録がおありになった。終生公らず上人をお
i日も
、
、
買
、
て~!
1Ftる
心の月のすλかねて
いく夜のやみに
7f三
って
はく
一
一
ねれ
をどは
心から
賓士三,
てく
らづ
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づ忘
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人
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く
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法
人の心のすへの払を
法
法
ーち
月な
道
回
行
、
かげ
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"
'
"
、
た
、
伏
くもりゆく
、
、
一しお身にしむ歌である。
、
すむ心かな
水にも月ほ宿る.そと
、
むかしのまま ζ てらす
、
公告の現代よ
にごりある
おもへはやかて
門
柿s
軒
月
は
阪;曳
がれ
紀
阪
ある。政問の月の法話も
、
L
同にこそゆけ
、
しばしば
何といっても
、
月の歌で一番すぐれているのは
、
ヘムづから好まれて
豹千たちにくりかえされたそ・フである。
人のためにな
月をやよそに思ふらん
浄土の教えを月に因んで詠んだ軟には
、
、
、
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さめて
、
なけれども
巡干内規正
しかし
、
ここるにぞすむ
いたらぬ旦は
、
街i
!~
酋へ行く
心にいらぬ
、
虫はれねとも
弥陀たのむ 人は雨夜の月なれや
阿弥陀仏と唱ふる戸に
同へかたふく月をこそムれ
法
、
などがある。
行
葉
月影の
ながむる人の
、
:
J
?
、
、
、
、
、
そわ
「作上京歌」とし
、
二つの大きい意味かこめられている。一つは
ひらく歌わ九ている。
これよは
上
、
、
平等に下界を照らす。
、
、
そ
ηの心の小に滋み削くのであ
こ い
H をすなおにうけとって
月光を仰ぎ λ ることを忘れているものもあろ
、
それをさえぎることもあろう。また批評俗
、
、
月の光は
、
窓をあけて
、
たとえスモ
、
、
わが心をさ
心の奥の奥ま
グで忍んでいても
秋の夜の月は
y
、
、
う。この心がなけ九ば との上-つに提しく澄んだ月の光も
極楽よ川1れようとねか・つ心とを抱くことか大切であるとい
、
裕士ウポの教
-AJMZ-つの心ーーまごころと泌く μずる心と
る。
の心にいささかの曇りのたいも
う。したがって
棋に追われて
時に安が出て
天上から、いささかの伺迭もなしに
月を阿弥陀仏とし、月光を弥陀の大慈悲にたとえる。月光は
て
山中に深く 広い意味を持ったものとして
しかも
である。これは浄土の教えをもっとも端的に
法
人の心の小にまではさし込んでは米ないのである。
え澄明にして眺めるならば
で、すがすがしく照らしてくれるたろう。
- 7
凶
玉
、
須
隆
山山
事ム
,
,
、
、
『
恩
、
人
、
から
子供心に
、
、
、
、こ の町内 のどとの
、
うちのお寺の和尚さんは
H
「お和尚さんにお会いしたら
一ばん偉いのだ山と感じたも の
、
、
どこで会っても必ずお辞儀をしたものでした。
必ず帽子をとってお辞儀をするように」といってたものです
でした。それに母が常日頃
寺の和尚さんよりも立派だ
で
ッキとして浄土宗の寺でした。私の少年時代に そのお寺に
士口元在心というご老僧がおられました。たへ
いん立派なお方
縛林寺というお寺の檀家になりました。倒神林とはいってもレ
、
浄土宗の寺が三つあり、ここへ移住してからは そのなかの
上磯町というところは あまり大きくない 町でし たのに
の
うで
、
弘の実家も
、
、
もとよそこの出であり
、
竹組父の代に北
c
、
、
、
これには全く庇きました。しかし
、
とにかくす派なお拍押さ
て下された放師僧とが 恩人小の大思人であられます。
ところ か たまたまある日
このご必胤聞かわざわざ家にお
弘の生・訴は函館市拾の上機町というまちで、食品店を営
出む
になられ
「あなたのところの次男坊をお寺に上げなさ
w
に
多沖
いそ
家でありました。須閣という牲は官官相川燃mの
前
将
い」といわれたのでした。
、
飯を頂いておる弘といたしましては やはり仏縁をいたたか
して下された警災寺。和尚様と 仏僧 f となって以米 行て
、
〈函館市称名寺住職)
藤
恩人と中しますと 数えきれないほどおられますが お仏
‘一
、
それで弘の史家も代々冷土宗でありました。
、
、
、
、
海泊へ渡つれので寸か 九戸軽地方はなかなか冷土念仏の盛ん んのおすすめでありましたので 相同一十共よろこんでおうけ
し
ゐ開館市の称名寺。 小川降蹴ご伎職のもとに弟干入りさ
なとこるで
ー
8
-
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、、- -ニー~可宅ー『
一一__"圃~・ '-1.1
一一ーー一一ーー 血j ・1
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、
、
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またまた立派なお方であられました
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当時の
小僧とご住臓とでは食膳も遣っておりました。朝
k 人は
して頂いたのでした
小川
内
(NHK 東京放送劇団)
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こととて
食だけは皆いっしょにお茶訟けにタタワンだけという粗末な
そう
山
、
、
、
一三年頃の弘はこの伯父としばしば会
フ
・ 機会が
H
HH
制しそうに
、
そして災にうまそうに鉄
、
、
、
L
そし
ゃあけ
n 分で試し
、
子供心にも何かほのぼのとし
、
、
またその恵さも
お前もおおけなったら飲まにや
、
Q
うまさ
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ち?フんでの:::。』
これはサケられことじ向
て
、
病問の持て両氏1c
『ぁ、 うまい
『そんなにおいしいっ?』と聞く広は
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その雰聞%の良さ
、
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例えばこんな関子で||。
絞一流の駄酒税で笑わせられながらいろいゐ教えられ
小学校二
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の故郷田同に駄酒洛の好きな伯父がいた。父の兄であ
c
あり
る
人
大
雅
、
、
食事でしたか、夜は師僧の食膳はいろいろのご馳走でかぎら
れておりました。すると師僧は 「この子は体が弱いから」
、
、
といって、必ず膳のご馳走の中から 一ばんおいしいような
、
師僧は必ずそつようにして下されたものでした。大正大
と止められるのもきか
ものをとって、私に与えてくれるのでした。奥さんが
、
いうことでは修行にならないから
す
、
、
師僧は宗務所や物上寺へお山出にな
その時は前もって築占を下され 指
たものた
、
時が
ることかありましたか
学に入ってからも
金正
たものを感じたものである
、
酒を愛した伯父ほ
むのだが
、
女を品川る生活がかなえられてお
、
定の場所に弘が行くと、「酒をあまり飲むではないぜ」とい
って たくさんの小遣いをくれたものでした。
払はこの両ム人のお隣で
、
るのです。布彪いことで そのご思はとても筑舌にぷしきれ
ません。
国
てわきまえにゃいかん
,サ
L
- 9-
ぺ!.、
この伯父か
、
、
、
おと
、
、
まち
、
、
ゃ
1.
、
0
、
・ての訓りに叶ゅう
、
子供も二
、
どんた苦労も慨わぬと 好
消え去ってしまっている
、
たも要ることが山米
、
、
、
、
、
作品の成長も大きいと云えるたろう。
均ah
て
u成り立つ仕事。相互に享受する思が
、
、
、
無限大 グ
、
お晴らし
厳しい道に入り込んど沢行。この無限の忠に報
、
と云うこと
::
森羅万象こ
、
持も悪も
あらゆるキャラ
この共同作撲の一部を畑一う役訴にぷせられる役訓
、
、
歩ゆむの λ と思っている弘である。
、
、
この道に入バ働ぬ慨を尋ねられることがあるが
、
、
その m
、
広の顕には小学校で四年間判任であ一
つれト陵地弥太郎先
、
、
一生懸
A
,円の小刷の一死となるの
f・不を必しC くれ
ではいつも主役を貰い
、
大張り切り:::。そんな弘を先生
、
命戸を出して片端しかっ本を統んだものだ。そして
学主会
たのだと日じているからだ。先生のようになろうと
弘の心の深い々へ
生の頗が浮ぷ。川けつ時間に於ける先生の別抗の
mww
台m
が
段
、
いるには 感謝う心と日々の勿力によって うまい役切と云
わ・九ずとも内民い筏おt ったと云われるよう た一たひたすら
いと向時に
、
その創作を彼露出来るわけたし 制て下さ
、
、
ナ弘述の作岬%でよ fh 放え切れぬ担多くの人 40 協酬が
、
、
他人
、
、
、
そっ思
すべての人物が弘の手本:
れすべて恩師という伏拐で
世に起る一切合切
クターを研究体得しておくことである。つまり
いかなる作品をも具後化附米得るよう
そして
大きけ才ば大きい程
るおが掠あって
、
、
あって
生きていることの楽しさを教えてくれた蚊初の師で
所調芸能界に首を尖込んでから弘も二十年。学生演
、
や司と
かま
ζはきちんとせな。しゃあ
おたごは
作成る時こんなことを去った。『引は
へんありやメメしャ。けと
リヒ思を志-n
たらあかんで
傑から受 4
けに絡を Tンちゅ・フんしゃけんの。』
愉快なこっ伯父も、他界して十年になる。健在ならばじ十
とって
九段、一一層枯れた駄酒芯で笑わせてくれたに違いない。私に
は
さて
あったと云える。
の月日、ぃ
、
バ身として暗々として
、
決器も駄目?し覚えも必い:
ト山山慨に
必い
共同芸術の完成を目指
、
劇で夢中になって鴨び歩いていた頃から綴り・必れば一一一十年 ぷ 思崎川
ι取り固まれて生きているようたもので
、
、
だつの上らぬ役習だペ しかし
きで飛び込んだこのせで
、
と思いつつ
人、邑いた同規も他えて、祭事息災に今日を送れるとは何と
一つ 4つの
いうがせ
、
'H
句
仕切に取り組んでいる彼自である。身体は小約、山可柏
悦、
似
、
、
、
多くの人の hH
に支えられて
それこそ、企く火触NOH々の hM
に鎚ることが川米
とに向歩き続けて仇られたのは
歌も唄えずトンボも切れず
、
こんな弘か
は問仮に
、
たお隣である。どん工仕でも
可能となるのであるうが 綜合芸術
lO ー
-
は
ω
そして
、
、
、
、
、
御日分の
弘を従応から
父付心話したそ・フ
母方に医者が多か?につで
円分の少年時代を見る思いがすると
、
である
医科へ進学させようと考えていた両親を説得して
し教師の道を弘に聞かせようと考えられたのかも知れない。
出身伎である芝中学へ入学させてくれた。行く末 先生と同
表紙の
:giz---
、
μ 入城
三綜山広度院 mk 寺という。天正ト八年徳川家肢が江
、
、浄土宗第八祖酉誉
進められている m上寺である。明徳四年
g稲
T 悶大学に入るや直ちに学内に、円 由鈴台とい
、
理一聡上人が武政闘貝塚に創起しだっか始まりで正しくは
、
スがあると慶応をあきらめた。しかし、吾が心のタネ、芝で
たが
、
ぷた。
.フ。
、
ω
、
時折 弘の化械をけ見て励ましのお乎
弘の生加の思帥といえよ
、
A 口、b限
ている牢せ
守
m の思削に聞ま -A
のタネ会与えてドさった先生こそ
紙を取だいしている
あって前閉しておら J
怯足先生は羽白段、全 学校阿山館協融合 W叩
aMM
一公の出火臓に
1
芯
、
境内
仏散の史伝
、
、
、
徳川米期狩野一むの官による
、
、
同ぶのは
、
、
、
広行
-一闘に五
思想などがとらえたぷ材を町庶に
・
その節目を一析し
、
、
大地の新然をはじめ
、
、人々 の
念仏弘通の削訳本道場として
、
3整備が進め・つれており 昭和間十九年の聞宗八宵年に
いただいた光山明道軌 dvA乞
Lhr
心に
吋で百帆となり、ム川仙の何一かできた
人づっ織かれており、Az
ものてある。現官同守ぺ大野法 4h 下のもと 、今川 ご快晴Z
人の釈祢の高弟をい仙いものであるか
像は
. 蹴棋
。円
『丘.内総決闘行幅』の山日
中間世辿のとこるであるh
る。ここに紹介した絵は
、
存よ
汁せ
閣
にあたって答挺寺とし 陸長一一一年守悶二十万冊げを
う劇団を創り上げたもつである。両親の活胞伝りは烈しかっ
弘は掌せであった それがほぼ三十年に近い前とい・フ を現布地へ移してからっ陪践は寸でに知られるところであ
タを出し
の自由な校風の中ですっかり長われ 卒業する頃には完全に
今回は明宗八百年記念として大般の新築仁事か急ヒヅチで
大本山増上寺( 五百羅漢国百 幅)
説
、
憩いの場として 吏に発展することであろう。
- 1
1-
両貌も、本人にその気が起礼ば、芝中から慈必医大へのコー
解
往
生
と
現
証
善
導
、
、
、
、
、
その現庇ともい・フベきもηか少くない。ここで
ることはぷ仇に受けとりたい。古米の念仏の大徳や妙好人の
伝を μ ると
、
は特心大師 3 おしえを仏えて
日本でゆ上京を聞かれた法然
仁人のご臨終の出僚を 伝 d史料によって憎げておきたい。
、
上人は晩年七十五払で配流の廷に遭い 幾多の圧迫も話っ
の
発
願
(統)
貿.
(大正大学名誉教授)
勇
文
沢
、
ぜ暦二年(一二一二)正月八十歳を以て往生のど
、
の一絹がある
G
これには病状から品以後臨終までの御ありさま
L 人仏必』の小に「御臨終日記」
・ 醍醐本『法然 し
られたとい フ
本僚を遂げられた。常随の弟子労鋭M の日比聞記録をもとに作
洛の盟年
た・中て 老齢の御身には余程応えたことであろうか 敵免帰
、
自市
、
岐を儲じ
、
、
、
、
、
ら耳目.か京えられたか 「死期巴に近づいて背の如く耳打分
明なり」と事かれてあって 意識が別了になり まれ'住生の
、
官向戸念仏されて絶え間がなかった。
、
「正月三日成時」、午後八時)法談の巾終で
予がこのたび
、
は極楽往生したもうかと問うたのに.対し「我れはもと極楽
- 1
2-
大
ある。真宗では臨終に来迎を同期'侍することを必裂としないとか 日をおって時刻までくわしく配されている。
し
「足時二仰小正月二円日
」米の一小食妹m
他力では 一小米迎とまで説くが 思抗酬はともかく級交にあ
に し ニコ年前か
うにあり、それもみ仏の本願の強大なさ・えがあってのことで
陀さまと菩底堅衆の来迎をいただいて 安らかな社生をねか
乙の版文の前半は往相の闘いであって、臨終正念に、阿弥
聖典解説
に復りし身なれば然るベし
られた。
と
、
1
、
山 然中牛肉へ
Mm
るのだと終え
、
、
、
、
もっとも附湿すべき史
めでたき往生の現誕として住窓を
1 て阿弥 陀さまの米
他のいずれの伝記にも見・えている。ど命終か近ずい
以上のような上人ご臨終の悦織は
料に出
、
て意識かはっきりされたこと 雨戸念仏
迎を感じられたことなと
「正 月 十 一 日 辰 時 」 ( 午 前 八 時 ) 前 戸 念 仏 せ ら
法れ
談の中
、
こととされ
、
ぷ倒へ帰る安らかさが伺える。この事も上
ひくところである。また浄土への往生を 、上 人はふるさとへ
K うと語られ 観車u
でも庁向戸念仏すれば阿体陀仏w
か
給
勢宝も
、
還る
、
ろもろの聖衆が現前されているが 持することができるかと
弟子誌に問われ 弟子途が見たてまつらずというと いよい
め
て
上人は指で空を指しこの外にまた仏
、,
、
、圃圃且
念仏せよと勧められた。また病床に安置された本務を拝さ
人。信仰体験として亙視しなくてはならない。
、
を
、
、
守ゐしん・・ろは←がん
、
、
、
、
Lん
、
L じよ a
、
小 間一一一の心では
リ
U公枇から今生に修したあらゆる持似を
川 心
すべて浄土佐生に手向けること ぬ印じに往生して後 大 私
心) 保心(拘怖くらずる心)附向完願心のて一つの心をあげる
、
て 告の衆生を救探せん」とあるのはまさしく還 相 のねがい
,しん
である。浄土門で抗心勺もち々について 至誠 心 (まことの
「かの国に到りおわって 六神過を得て十トHm
介にかえり
L、
よ
、
9
願
れるよう中し上ヴると
を拝することが常であったと答えられた。
、
ましま す 。 こ の 十 余 年 来 極 楽 浄 土 の あ り さ ま や
仏進国叩聞の姿
、
、
、
LL
「正 月 二 十 日 巴 時 」 ( 午 前 十 時 ) 幼 舎
の然科がたなび
に
、
、
き
その小心円形の主が色あざやかで 両像に比るようた仏
を道行く人?ちが日比たという。二十三日二十四日とも 紫
虫火いにたなびき
L 人 D 帥戸念仏絶えず 弟子五六人 かか
わるがわる助苛した。
の
、
、
、
、
別町ヅ『法然上人伝記恥〈九岳伝}等によれば正月日
二、十三 人びととともども往生を願・フ。ここに大衆
精の
神が見られる
、
「尚二 十 五 日 午 時 」 ( 正 午 〉 念 仏 の お 戸 が 弱 吃 り
時
々
附
戸
を
お
こ
し
てこの枇採にかえって官制の衆生を救いたいと羽う
念仏され かよう な
この両而が脱かれる。口分一人たけの住冷いではなく
一 小に懇党大師から相伝の九条の畑山裟をか こと
け 光明偏照の縄文を唱えて限るがごとく命終された。
利他大抵の心をおこして多くの人びとをも放い また多くの
、
相
、
勢観 一
M一
の慰問にまかせて
一
宗
の
嬰
識
を
簡
明
に
一
一
紙
に
作
い
て
の
で
あ
る
。
t
d
心
の
深
ま
り
に
お
い
て
も
そ
う
な
け
ればならない。
与えられた(一枚起請文)。
また法然上人がど往生を本国浄土への帰還
とされているこ
- 1
3-
還
とから
すがた
、
弘たちには上人一代の化益がとりもなおさず還相の
、
と持される。故佐除心火先仲・かヒ人つ生肝 V』A
エを
と極楽に在りし身 』と告げられた上人のお言葉によられたの
もって 紛 ら 孔 、 川 名 な 『 傾 涜 か ら
Ar-とさ・れ九のも、も
τ4r'ぬ
おうとい・フ広大な願いをこめているのである.、
このような遺制のががいは、芯く印位の天相同
H
出誌
や北磁の
、
作止の行として作
、
-A、 縦波などの冗念
一切然生に滋与してともども浄土に願生する
これらの功徳将伎をもって自分たけの安策を求
には
天胡棋善丘の作られた『往生論』これを組述された曇鷲大師
ι
pt州大伽っこ納柚仰を泳けたもにである
、
の『往生Ad
めるのでなく
、
'hu
れてい
るゐこの願えの遣相の願いでは その心を往生後心鉱充され
の遠心机制よどすべて具過す天似通、位聞のあらゆるいド念聞 くは部の衆生とヘに安楽同に計 lq ぜんと一作に
それにほんの・フをすべて愉し亡、ふたたひ込いの
しかもまっ先£人間の現境にかえり来って
zh せん」と仏大集
, かえりてちの衆生ぞ
ている~』一十万削
'r
h
、
る他心地
辺なぶ闘をおこし、ひるく d
川
ハ40MT
ぞH
恥入って悦化を及はす
き得る天耳通、他人が心 の中に思っていることを悉く知リ得
d口
Tハ
世耕 -川
h千代ないことを悦る山川
机、
えて、 ムハ神泊という。
のを忍想とする
に「山首って弥陀の安費削守山到り、融凶にかえりよ二、人夫を
車と
内悩する人ひとを救わ』凡ならない6大師は法た『必れポ」
も得 bれるヘ制以一泊は仏教の川r
町の入川内ら-Aる弘中川市払カ
ω
五通仙人なと乙いう言葉もあって、前の五神通は諸夫や仙人
度せん」と歌っておら・.
「'
。w「鹿空法界も尽きんや わが願
て
、
こっ仏大なね
ひたすら阿弥陀さまに蛸依をささげて駅スを
H
結んでいる。
以し乃ように札制細川相のこえの広大な嗣をおこしおわっ
、
、
λか
な
さ jる。阿弥陀さまの本聞には、日mjに住生寸るもち
もまたかくの如くならん」と云ってあるのは
ι
六神必を仰向るよう冨われているすなわち四十八願の中、第
がいは以き栄てることなき市町立法制介と同様に
永逃に尽きる
、
' までがその本剛である。教化aUA
な不忠誠・刀
・ム鳳からmL願
、
L
がその九討にそなわるのも、すべて仏のお力によるのである
ことがたいであろ・フとの表白である。
、
往生の紫懐を遂げたとい・
2 一品葉もしばしば使われるが浄土
3北とはて
に往生してそれで終るのではない。神辿'u'1・
自らの悲願として十万世界にめぐり入って、苦悩の衆生を救
-11-
げるもとの版刷介へでも思いどおりに飛行できる神民組、世間 ことを鍛えている。『住生礼阻』の脱欧も一勧ごとに「制わ
られる無阪自重な不忠誠なはたらきをいい、これに六磁をあ
コハ神辿LM 、仏欽では阿川んを修すゐことほどによって得 門が鋭か・
であるうか。
,‘
発願と平生念仏
、
浄土 nv仰
b が永遠の道であることを示されて
この先弘文〈は臨終の正念往生をねがい また泌米挺化の
、
また罪捻の深さを自覚する上に立っており
、
したがっ
大師のおしえは、人聞の世界が無常のはかない存在で
、
e
悲願をこめて
いる
あり
て往相のねがいを第一とする。この教えを伝えた日本の浄土
、
ひたすらこれに会主をかけて
臨終も一
r、我われには現誕の瞬間が移り行く市民しか経験
する二とかできない。平生の念仏こそ役一決なのである。浄土
剛健なる浄土信仰において
、日
常に辺帰される意
、
死生ともにわ子
教とても宗教の世界をただ米般にのみありとするのではな
、
い。念仏者は円常 λ仏の光明に摂化せられ
らいなく
〈中〉
義はまた甚だ重要であることが知られよう。
六時礼讃無常備
間以
- 1
5-
門では、凡夫の宗教をその建前とするので、往相の願いを先
み仏の大悲心
。
とすることは言うまでもなく
、
おのずから還相の心へ加休まって行くことであ
hであっても
怠仏することをおしえる。還相の心は分に応じておこすべき
、
、
J
目深のちがいなど区
rn,
y、
対品川
(大正大学問削)
成
ものとし
説ま
に滋かれて
かえ
る。
、
臨終の正念をねがうことは多くの先徳がなされたことであ
終
る。臨終の心はよく一切の柴を潟くといわれるし また AW
時には種々の思紋や隙りがあって江念を妨げることが多いと
中夜礼讃無常俗
常に
されたからである。大師にあってもそうした棋しみがうかが
、
無も
われる。
、
をた
この住願文に次いで
の聴'
{昌き
作土宗の勤行式では在家者のも同弘
中z 諸
件
、
ん
「光明偏照十万世界念仏衆生田悦.取不治」の文を削念
え仏
て
一会を修する次第になってレるc 侶仰生活においては平生も
夜人
のと
自らに
腐りて臭きしかばねを
それとも知らで
抱きて臥することなかれ
不ゆを仮りに人と言う、
重き病いを得たる 身に、
さらに毒矢の入るごとし
苦しみ多く集まれば
、
、
、
あのふしのついたお径が一番壮厳
などか安らに眠るべき。 〈大木惇夫訳)
「今 日 の法要のなかで
だった」という感怨をよく耳にしま寸。「あのふしのついた
。
3 ことは
れたためでしょう
J をよく十
、
、
小同
知鵠人の一つの条件でした
η
、
阿弥陀仏への必烈な帰依の心怖を 美しい浄
とく心、主務は詩的なr能に恵まれています。詩的な才
、
秀れ人の心を引きつけるつは高度なれ州安文化のなかから生ま
が
能を生かして
土讃長の持にみごとにぷ現したのです《
、
『六時礼讃町を読んでいくと、浄土の美しいありさま阿
、
、
みにくい人問。現実
、
、
加深い白分を凝視し却.忠
を
一 告白反
、
弥陀仏の限りたい♂怠と悲悲の錨写を繰り返していて 人の
Hg な
心を冷上に幸っていきます。伶土のすばらしさ央しさに耽つ
ていると
突然、的文の内科が一転して
mw然とするよう
な
省する航札対に出会います。
、
・
、
、
罪深い現実の白分の
その反行の心をためおすかのよ
峨侮文 ・黛常備という『六時礼
ここに解脱する無常仰が歎われている
、
浄土の治浄さにくらべ
、
砂土の幻想に耽けっていた人が、崎明侮文に出会い
はっと
われにかえり
さらに続いて
、
このよ・フな 浄土讃史
のです。
、
うに
mx
に父ずさ以省していると
、
ほの問カが豊かになり 主都長安を中心に高度な
、
-1
6-
、
芸術的な而でも
、
非常に党斗したし
、
日川教
この俗文が歌わ礼た意味を犯えることができません。この三
、
、
儀礼も蛇仇附されてきました。『六時礼讃』の女慨が芸術的に
段の憎成と転向志 一}
m
介一に身のおき場のない ゆく場所のな
て教義の聞でも
文化が傘聞いた時代です。浄土教もそうした文化に支えられ 讃』の一ニ段の俗成と転聞を念頭において無常出向を読まないと
た時代は
苫潟大剛が『六時礼讃』を作り ゆ土の教えを -M
布してい
、
お経」とは
、
aZ
た初夜礼讃やニ一作礼のことです。
ほかでもなく『六時礼眼(往生礼ぷ)からとっ
,
いmm
かは人間、それか紋われるには弥陀の力にすがるしかな
、
、
、
当時の知必と技術の
仏吸では、人が肉体に執泊する心情を逆に利用して、肉体
が老化し、死体と なり、腐 敗し 、臭気を拡 ってゆく次却を続
。
もん
- 17-
肉体が腐敗し臭気を政つのはなんともいえない機必感をもよ
死者か腐り臭気を放つのをきらい
ん
い、抗
WJ
」しかない、そういう将埠大師の信仰感的の先鋭でし
o『
捜し、日てのきたなさを怠とり、肉ル悼J
ヘ止
れから作れること
ょ・フ。時都大師の伶十.款は、人間が生まれながらに持ってい
を教える思想かあります。特滋大統は、きたない身へのとら
る節感に対する深い刑然と反省に部ずいているのです。
W
われを隊れて、抗仰上にぷ遠の生命を求めることをこの山間交で
「腐りて臭きしかぽねを、それとも知らで自らに、抱きて
教えているのです。
臥することなかれ」。人が自分の肉体に執着するのは自然な
ことです。それだけに、自分が、他人か、死んだ後に、その 後夜礼讃無常渇
おします。これはにおいやきたなさなと市なる物理的な原因
だけではないでしょ・っ。その笹犯、
に動
は物 の死体を日比たと
きよりも、人間の死体を比たときの方がずっといやな感じが
、
りてか
、
のき
に
します。それは、自分と川し生きものだからでわが身にひき
あてる気持かどこかに桝んでいるからではないでしょうか。
さきごろ、前棋院吋代の貴人の墳墓が中闘で発掘されまし
た。二千年以上も経過した遺体が腐敗もせずにほとんどその
か
ままの状態であったことには驚きました。おそらく 近親者
tこ
る
夜'て常聴・
ません。
いると
限りをつくして、遺体か変らないようにとの願いをこめて埋
(大木惇夫訳)
葬したものと思われま r。こ・フいう例はよほど
h財
H
のある人
だったから可能だったのでしょう。一般の人ではそうはいき 「時は・フつりて流転して」。一日中仕事においまくられて
、
魔な
至流 f2.,た
る転をま
なし説え
しぐ
後ごり無に
ちつるも
てる
王 る
をこ
ぞと
悟t 者
え念
か告
まうなと
た時後=諸‘
めを
修行
めず
伴i 念
れに
ちは夜人
死無
の常
勤道
、
時のたつことの早さを庫川感します。すべてにテンポ
。
、
、
、
、
目をさまし
、
まず
、
念仏の
戸、礼輔副の音詞から普海大師の一日が始まる。
闘を
一
ム円
ずか
終南山の静寂な自然のなかに
の早い現代社会のなかで 一日の短さはだれしも切実に感じ 基本的なものです。
、
ますが 大方の人はただそれだけの実感で終ってしまいま
、
す。時の・っつりかわりにふりまわされおいまくられている
、
、
U'
.3
、
一日一日が充実し それたけに短かったに速いありま
伸、.‘
いましがた品籾のお勤め
、
らの修行に動"'でおりをみては市中の光明寺に山むいて 老
紅会の一納献をしりぞき やがて近観点引から野
、
せん。すがすがしい暁光のなかで
って
うちに年老い
、
哲学に止紛し
持の世界に 升
n 柑帯したの
若男氏に凶作土の教えを説き制談相手になっていた大師にと
、
、
その段階からぬきん出て
宗教に
、
、
4 と思想を持った人た
辺の送りを受けるでしょう。判別の ν能
時がうつるというあたりま
けか
えの法則を
ものも
、
、
天才と
そこから色々な迫か生まれ
、
すべてが無常である道理に
、
、
「時ほ・フつりて流転して
、
、
このように
生きている聞に
、
、
、
はっきりと
、
、
、
今円の一日が
抑制常の汗しムをのりこ
、
、
修行
と教えているのです。
ひとときひとときを大切にし
に励み自分の遣を究めるべきである
めて
生命からみれば短い一生なのたから 仏遣にぷすものは せ
えてゆこ・フとする強い符作の回葉で斜ばれています。字街の
の終りは
「追を行ずるもつに告ぐ 幼め修めて俗れかし」。無常侭
気分になってはいけない。
の心怖からではないでしょうか。だからといってなげやりな
しみじ λ時の無常も味わった苔海大師
、
たちまち後佼に歪るなり」。
たすませたばかりなのに もうあたりはすっかり陪に包まれ
、
、
、
です。同じように時のうつりを怠識しても そこが
、
臨吋も 人も
その無常の苦しみを
、
時のうつりの早さを後伎の俗文に歌ったのは
、
夜もふけてしまった。
、
並の人の ものごとに対する制祭カに遣いかあるところです。
あたりまえの白然の法川の免弘
てくるのです。もっとも円然の訟則を先日比しただけでは宗教
、
にはならないでしょう。それを克附加する道が必要なのです。 終ろうとするときに
釈尊は
気ずき
克服する方訟を苦心の末に考
、
多様化
え山喜れたのです。仏数は時
、
、
無常からくるとい
人生の悲哀
、
苦し λ
宗派に分かれました。け
代とともに俊雄化し
し
、
の原因は
れども
う考えかたは仏教のもっとも
18 ー
-
、
.
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ι‘‘.
台、
: :
れほど紙面をとらないほど短篇ですが、こ こには限りな
、
.ー
.・
.・
.・
、
、
、
やはり限りない物務のそれぞれを思いめ
じV4
つい別であったと配慨しております。その3とき
感組の卸一は
六
い物詩が合まれているように思われてなりません。とこ
の「詩想」という中に、「路傍の抱」というのがありま
、
知の万もあろうかと思われます‘ その筋を一応御紹介
お& 。
しますと次のようです。
.・
.・
、
、
、
悔の老木コみ花が咲き受
K の此陀に布
Lゆく旅容の出向きを・フるふしている。
時はうっ?ぞっ潔は倒九
ζ埋めおく。少女は「液人が立寄る小さき茶屋の娘」
で
味い出を結んで
、
、
、
、
F
、
少女の生いた
その家が倒れるにいたるまでつもろもるのでき
、
てどこともなく行ってしまった少女ので添
その少女を
、
「m抑怖さ野」と変りはてたそのあれ'
そり
こを弘ちさっ
ち
宅」のかかわりあい 旅人と茶屋の日常
少ル比か友の宅でたべた紛の尖を持ち帰り 狭山家のが‘根 ぐらすところ心あったように思われ玄す。少女と「友か
、
ろでわたくしはこの作品に舷初にふれたのは たしか十
の
こっ
にもムたない小鮪で
す。文店本にして一へ ihy
「時旭」には同僚の作品が四篇組まれております。御承
りしゃ有ゃを知らず」というのです A文を紹介してもそ
(点以都文京区b 日夜作 )
井
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.
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・
.
・
明治時代の代出品的なえ学者の一人 同本間独歩の作品
.・
隆
.・
平
丘
::
σ〉
.
.
..
日
.,
秋
・
・
「されど雌ありて 此仰な此処にまさし少
19 ー
-
・.
・.
・.
・.
・.
,
ふくめた家族それぞれがあゆむ人生。
、
明治
・大 H
、
昭和の激動の時代に転役
-
H必明治二十一年ですから その時代を
品
この作品つ発 t
ふ宏えるならぷ
、
持ち帰る淡泊な心慢をもった少女ですか
、
できることなら孝街な一生と願・フのは一般的読告に
たといって
ら
とって正はなところでしょう。しかし「年慌て共家倒
f
れ忠
」わ
とあ
するある家鋲の物防仰な忠いえかくことも町内能かと
れりますかに, ぞやさまざ宏たむしいでき市も
、
いことは
、
uh
以歩は自然と人亀戸の炎節 あったにちがいありません。その後その地を公った少ルメ
ます。文学的にいえば 川川水
の牛一好いがどんなものであるにせ之決して平厄なものでた
する文学世芥を形づくったといわれておりま十。したが
想像にかたくないでしニう。
って「運命」 1ーという作品の発表もあります||的な
.
、
、
、
、
t
、
、
しかしよく考えて λま寸とき 民投のたたない人生と
ものとのかかわりあいが設からぬ世界でもあるかもしれ
いうことはいつ回いあるものでしェうか。人の炉史かは
ません。この作品もその微妙た接点への観照の心併を
玄ざまなでき桜が路りつくせぬほどあ
じまって以句
簡潔に公わしているよ・つです。
たろうと芯い言す。 の作品は一つの小説ではありま
政一本十数年ぶりにわたくしは吻』つ作品を説みかっえ
し
ζ
それほ
同じような感想をい たいたのですか、ただわずかたがら
すか わたくしたち日本つ民喰枕会においては
ど奇異なことではない人生の一コマとして、ひと びとの
同時にまた決定的な相違のある読後感であることに気づ
とうもこの宮い点はあ空りに
・大正
・
昭和の時久は社会つ大きくゆれ動く時期であり
きました。それは単純にいってしまえばわたくしの成父 閃之のぼる都実でらあったかと思われます。とくに明治
、
、
すな
三し九でしょう。この止さ、との物厨の少ん%のような境
.
そのものなのでしょうか
しかもその相進
遇のひとびとは決してなかったとはいいきれ沿いので
、
も乱作としす きているよ・フでr
す。これもまた庇尖の一コマとしてうけとらざるを得な
、
いことであるのかないのか そつことは今のわたくし自
わち成長がわたくし£とって ちるいぷ人削にとってい
、
身にも見当のつきかねることなのです。
いものです。
巾明後わたくしたちは平和思店手間思想ともいうべ
、
き かち
か。ーだもの宅でいただいた仰の裂をとても挺味し
っる意味では付けなかれま滋のようなものが円併の位
その少女。生涯はいかばかりでありましたでしょう
20 ー
-
一…
叫
………一一
….....・・_.・・・・……・・……・・……
界にもちこまれ
、
かえっ d精
L 神的貧悶と云々されるよ・フ
、
6
、
の決してのがれることのできない現実として 己 n身を
、
、
、
卜
良きにつけ思しきにつけ
な近年です。勿品 ポ・和を願わない時中福を求めないひと すハ
l ラッフするとき
はないでしょう。しかしそれは願う求めるという如何盟だ 六 七才の時分とは決定的にかわっている己をは出さず
、精神 的なも
にはぶれないのです。物質的なものにせよ
尖現されないのに潟担する気持は
のにせよ
けでは民税されない
でるりましょう。一生をかけて会人俗的な充足感を得る
それそれは孤立して云々できるものではない
残っている。また去極的にたとえば物質的な簡にのみ縞
ことがどのようなものか
、
足感をえて人絡全体の充足感を得たと錯覚する。だから
とのできないものでありましょう。コンピューターにデ
あ
、
竹川
とのような時代になっても
、
「彼の丘のhL
、
人間の「硬さw」
qが
、
かの紋の自の丘」をじっと心
た・Hな
A いことからう九ずけることかと応います。
とは
.タを入れればすぐに答の削てくる恨のものではないこ
、
それは決して結論をいそぐζ
日常のつまらないことに拘泥し、悩むというととになっ
c
、
少女のそれを一つの民宋
たりするのではないでしょうか。さまざまな憂え事のあ
る人生を現裂としてとらえる
の市淀として恕織する。郎行は無常といわれる如く
すなも知れぬ一生をカいっぱい生きつづけることこそ肝
、
々向上の原動力ではないでしょうか。少 'K
のその生涯を
のおくに眺め 、「憂き砕しげき位」に御していくのはひ
自覚しなければいつま
とたる本米的なつとめであると
、
の大きく変っているのに気づきました。
これもまた生誕として把出したとき わたくしは己自身
でたっても宰福なるものは己のも勺とはならないのでは
、
、
ざまな中に「生かされている」という機雌な認論こそ
、
命」 あるいは己白身でいきているのではない世のさま
ないでしょうか。いわぽ独歩的たことばでいえば「運
様々のこと彼を
、
「詩想」の四箱の作口聞のうち「丘の白雲」というの
、
「此
があります。誌が丘にのぼり空に漂う白雲を眺め住むつ
証も憂き原しげき世の人となりつ
、
しまい夢をみる。その拶は非常に叙情的であるか
後
z
うか。
いでし
本当のぷ米を約以してくれるものに他ならないのではな
、
悩ましける。そのおりおり偲ひ起して弘僻ふすは舷の丘
、
の白雲 かの駄の自の丘行りき。」と結ばれている。つ
まり「憂きかしげき位。人」となっていくことは 一つ
21 ー
-
、
ひとむかし前心くらべると この頃の豆は
、
、
、
随分涼しくた
イ
、
、
、
克似され
、
、
、
、
、
次第に冷えてゆき
います。
C
nu
ものか
k-フとし
一ん 地球そ
、
、
、
、
と
あ
そし
団扇の手動期から 扇風憾の初期の機械化湖
現代勺クーラーの時代へと め京ぐるしく進んで ひと
、
、
このよ・フに 人問。生きている尽境そのものか たんだん
であろうと FJ する科学台もいます。
、
J
門川捌か枇削れ人
て却は滅亡する
と二十万年も絞っと 一内び氷
とこるが
頃の扱い夏は
て
のM
地問械文明が急激に進歩したため冷
にM の雌仙人も むかし
ったといわれています。
ノ、
、
、
と冷却化してゆくてベ人聞の心もまた知らず知らずのう
ちに ・主化な・りぬ冷化をしているようです。
、
事
本
を
.
x
r
.
E
(神奈川県藤沢市藤沢在住)
山
、
ささやかな善意を示すために どれほど熱い弱気を
氷りついたよ・フな行動が社会全体に氾澄してい
返
、
、
、
若い店 n が
刊にしました
、
弘のとなりぷ
、
弘たちは
際よく客の注文を
T
、
、
本気にな
次から次
入学生と品うけられる三人の何
、
、
先日都内のあるデパートのす仙吸いコーナーでこんな
そのうち
へとさ.はいてゆきます。
威勢のいい
情妖を日に比
私は
って与えなければたらないのではないでしょうか。
この冷えた心を温めてゆく手だてを
必民としなければならぬ時代となったことでしょう。
る今回
、
う
冷やかな
し、
、
忙がしく
年が立ち寄りました。三人は注文の品が届く問も
- 22-
t
一一_t_l.
.
、
出未あかつ
ι 』n
一を手にした店員の
雑談にふけっています。
その時
「野菜きしめんの人/
・一
という戸か店のなか一杯に響きました。
「ハ i イ/・」
、
ハ
、
、
、
、
l
、
イって出ちゃうんだ
別に冗談でしているわ
ハ
かの男もまた答えています。
イていうの鮮だな。」
l
ると、その青年の連れの一人が彼にいうのです。
と、くたんの苛年のなかの一人が、その戸に応じました。す
「お前
、
その言葉を受けて
すぐ
Hは
二人の M年
伊自然にやっているのです。
、
「うん 人に呼ばれると
よ。棉怖かな」
、
この奇妙な会話を
けではなく
ハイという返供、それを鮮という官業でぶ現するのはふさ
。
、
ハイという宮葉の尖しさか
、
若い人たちに分らなく
わしくないとしても、習慣といえば習慣のようなものでしょ
たた
J
・「
、
いることに、さびしさを惑しざるをえないのです。
僚だとか習慣的なものと受けとられるようになって
なって
ハイという返事で人柄かわかるといわれます。それはま
か
た
、
、
、
ハイとい・フ返下でその育った環境 、す なわち家庭と
、
少し大げさにいえ.は 人生がわかると古いかえてもよい
でしょう。
、
、
、
、
「呼ばれたらハイと返事をしなさ
ハイほ、相手の仏心を敬う心から発する応答であるといわ
れます。そして 打てば響くように娘発をいれずはねかえっ
ハイの美しさと噂さかあります。
禅宗のお坊さんはハイは端的な自己表現であるといい
昔
貌が子供に
、
てくるところに
ました。
ところで
、
、
、
口分のおかれた情況ばかり説
いろいろ口答えをするのですむその理山か妙に理屈ぽ
ハイとぷ dι 必鮮かでないで
い」とさかんに、教えても なかなか答えなくなりました。
明し
、
、
こ勺ハイか口然に山るには
、
押けった家庭とい・つも
、
くて閤ります。
親と子つ関係とい・フものは ほかに干与であるかも知れま
、
、
せんが、対等ではないはr です。親子にかぎらず なべて
ハイは出ないといわれます。
そして
対等怠品の強い人心は
うにすることが大切なのではないでしょうか。
事ができるよ・つな雰問気をつくりそのなかで子供述が行つよ
ののもつ膨智力が大きいよ・つに忠われます。家庭にハイと返
- 23-
一けふ
司、
、
、
、
武家六十五家
・
、
、
議れ
、
神社二百二十余社
放八千庁余を焼きつくし
k
に炎上した。
三千
、
、
寺院九百
二条械もとも
読経念仏する点覚の脳裏には 昨日御所の築地の誌に
、
ニト八 ぽ憎む被作町敬三千百余町 家数およそ十八万
る。公家
後に天明の大火と称せられた京では未曽布の火慢であ
長
第九倒
、
ケ除あたりの百姓の檀
が、一面の水ぶくれはヒリヒリと痛んだ。妙倍は岡家の
っくいを引っかけて底的の隅に積みあげたり甲
々し
武
A山
く立ち働いた。真覚も左のめ年を手拭で包んで手伝った
、
b 炉成る慨に水をかけ十り 島抽 で焼けぼ
った。人々は 水
日
徒である。その人殺は次第に
mえて門判明には十取引近くな
戚汚のよい山'に振り向くと
(滋賀県近江八幡市在住〉
柴田六五郎
覚
と云・つことやで」
僧
、
/・
それに其覚さんも
/
あん
さながらの火事の円が生々しく想い附されて作易に殺つ
、
仮住にもせよ年で起附するとなるとさ人は
ちの地獄
の離毘を引き払司たのは秋のかかりである。
は亀れ
のめされた様子もなかった。焼跡の整惑と仮令.の建築の
為に慌しく 円が流れた。北野天神の細川に借りていた僧家
あちこちに横宇わっていた
艇気が
脅か
をきかせて持容してくれた米を炊いだりして打ち
、
へたり込んたまま動こうとしなかった老人の顔が
今籾
姿が次々と浮んた。
東山から帰る途すがら
m
v
「和尚さん、和 尚さん
、
たらはお経をあげることしか知 つ
A んで叶わんの・フ。UT
よ
跡かたづけや:::いや。まあ斯んな時でもお経あげる
、
とこが坊さんの伶いとこかも知れんか 随分焼け死んだ
- 2.1-
異
かれなかった
ι
、
殊に妙位はひどく澗を樹ぶらせている様
子であったか、そのうちにひどい咳をするようになり
c
火 Vの日以本の不 n-m
な生活と
た cその世相は今なお諸家に泌放されている。
の名号を何百何千と山き連ねてn他の魂の救済を祈念し
さて時咳 eh叱tPた
もともと痩せきずの胞が怠に浪ちて米るのが真覚の限に
4妙日忠弘一持ば起つことが出ぷなかった
もありありと映った 6心配した和尚の連れて米止医者の が、妹のはるも叉姉に習って出家を判明んた。卜八才のは
るか、向し三河出身の寺町二条俊発院の住持問符覚仙に
道路は務咳と診断した
無理が出添ったのであるう。「郷里の=一河へ帰る」と言う
連れられて大蓮寺の門をくぐったのは、寛政二年の在の
何がしかの金子を包んで労った e 三条大締まで同道した
真覚は一見して彼女の突しさに魅せられてしまった。
妙信£、和尚は大差+守再建の為には未だ乏しい財布から
彼洋前である。
門の小さな唇。それに、何よりも心ひかれたのは 疑い
形よく磁を描いた居。耐震かな頗を引きしめる心もち受け
と利発そうに動いよか、やや良く波い臨がその法制に一
gavw
とレうことを知らぬけな戒しい限光。その阪はくるくる
、
ろ療を限で追いながら、
真覚を時折り昆返りつつ、力無げに歩みを運ぶ妙倍の後
Q
「企の+
のう此門町役m人
では無い」
も
la
と、彼は胸の小でつぶやいた。加茂の河川郎から吹きあ
-っと、彼の鉢はわなわなと民えた。民えながら彼は
AJ
抹の憂いを捌いている。その民がハッと聞いて視線
が
AH
、
た。
げる師走の風が伎のその胸の小を冷たく吹き抜けて行っ
て
、
二年の限月であった。
土い仰の厚い土地柄である。
妙臼の郷笠三河は古来AW
徳川家肢も「悶祭阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と弥陀
和尚の手で髭が剃
なねれた。式とい
C
R
している間二、
てー、リ覚ががを
僧取れが与えられ
、
、
句 =帰戒を授け
一
J 位式が行
今日が彼岸の入り・』一・日、本企ではhろ
州
一部を貰いうけて来て特院にし、本位も漸く一内位されになった真覚に漸く背中併の血がたが』り始めていたせいで
どうにか寺の怖好が控った。まことに目まぐるしい もあった。
その背息女の茶が此の守心的民
府祈願をこめたという
白からべ曜日間を民にする歓びに思わず心か郵んた。その心
rの
4 るの出しさもさることながら、既に二十五才
凶縁を煩って算定した和尚ト、焼け時間った御所の他物の の弾みは ゆ
25 ー
-
、
、
和尚は未だ充分整わぬ本堂の荘厳(かざり)の非財に
しょ一,,.‘
で「お願いします」と顕をさげた。
ついて何も彼も聞いているらしく、慢しみを込めた笑顔
、
なあんたに鍛える」
紋切り口問で技は司けったが妙 'P
同4既に姉から刊同党に
今度は御恩返しのつもりで
るたけである。和尚は無茨情で惜し.けもなく黒い笠を落
んたのお姉さ~に色々と教えて貰うて前
一に人
なった。
わしの覚えたところはムん
、
mx
は丸に無残に失なわれていたか そこに
して行く GN民党は限を眠った。授戒を始めた和尚の戸に
限を聞くと
。
は九々と形のよい顕があった。何故か安W
備にも似たもの
。。
を彼は感じた
妙 ι と名付占リたぷるの仰としての指導のすべてを和尚
は点党に委せた。夜になると彼はかつてその姉とそうし
、
、
Lら
、
、
、
たよ・フに 文相批を肋悦んで妙かと向い合った。
』
V頭
丸めた
忙
し
く
毎日縁故者を訪ねて不在勝ちであった。点党は
明記ある時とは起を削除にして突しさが彼・官民国し妙 hw
のお経の穣古か終ると 久しく忘れたよ・フになって
“
た。彼は机のドでグッと桜頗を抑えながら 「わしはあ
妙らの
いた絵椛をもち出した。彼が好んで同くのは伏比
mm例m
の
、
福助
、
等の土仰は
おか AU
、
、
、
辺りで売る伏見人形である。僧減食い 制泌 14 了守
伎の泥臭い官致に相応し
り
い材料であった。昨吋心は逢坂山の辺りで往き交いの庶民
にひさぐ大津詰の奔紋な閃柄を真似たりもした。仏画も
、
hL
、
「これは俺の嬰九」
、
彼は
次第に復興してゆ
、
あったが 品つ念仏や 行人仰をトハぷ喰えられて慌てふ
ためく絵が依の得意であった北の念仏を削きながら
、
、
と吉・フ点覚心 妙港
戸 が「なぜ ? 」と反問しても
充分説明することは出米なかったが
く街の泌を見ながら彼は一つの疑問を抱いた。一婦の焼
け野以に先づ符卸が起されたのは武士の邸宅である。汰
- 26-
た
、
H い方であっ
大きな商家も寸 A十
他かに身を入れるばかりのものを作
、
しかし多くの庶民は銑げただれた仮切などを沿い集
ω
いで守や官が泌総され
めて犬小島HM然の
、
、
、
再控などこの次三の次で
、
、
先づ耐水無きおよ家を飢えた
、
明
る者に食を与える乙とこそ仏者の使命ではないのか ? 成
る寺では和尚か抗印m
刷b掠
zめては尽くこれを米に山え
るのか精一杯である。それも出来ぬ朽ヰは お放い小 amH 名怠仏してて焔米していると聞く。これこそ以の的と云
寺
?
疑問はそのまま和尚 ζ対する不信の思い
であるうか
、
えようか。大む和尚は一体斯る気持を持ち合せているの
、
の路刊の下や神社の将殿 或いは僑下に一夜のねぐらを
と呼ばれる施飯所に群がり 辛うじて飢をしのぐと
につな.かつて行きそうであった。そして自らも経を請し
、
、
予a
t
e
「 H山渇の念仏
Hはわしのことや」
と白叫せずにはおれない。悶々として策しまぬ彼の唯
後必気が狂いそうであった。
祈韓する以外何の能も無い鈍物であることに思い到ると
或いは自ら身を泥沼に投じた。これこそ地
求めて蛸来した。そのうちに何時しか乞食の訴に島 討を投
、
してしまったものもあると聞く。年ごろの FK は多く売
りとばさ礼
はでなくて何である・フ。地訣は死んだ人間の行く処で4M
、
此の欧こそ地球なのだ。一切衆生(あらゆる人
-の戎い いや逃げ場は 妙怖と佼の一刻を知るζとつみ
球「33
随想的ぷ
大学の庭に宗教を説き哲学を議じて二十有余年。東山沿いの
哲学の小径を泊遣しながら若人に語っかけし符長と人生との
であった。彼の絵が二人に話のきっかけを作ってくれた。
27一
-
なく
々)の為に説かれたと 五
一 ・フ仏訟は果してこの人々を交う
、
ことが出米るのであろうか?若しそうだとすれ.は 寺の
軌跡
京協市、山
房
戸 川 霊 俊箸
『
若
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発行所
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予備八ハδ 円
臼
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初
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つのですか。
、
、
、
四十八願といわれま寸が
、
、
、
答
、
、
、
お念仏の宗派ですか。
、
、
泌守聖人を問組と仰
、
親 T 聖人は 浄土宗の開祖、法然上人に師事し
品伊氏以という宗派で
門虻川市とい-f
ば、引火剤の戸内・本町をおもいうかべます
正式には
e
F
灯ずるほかに別の守細かない」といっているように、持
然上
た一人の門弟で寸.、「よき人 rb品をの仰せ守こうすりて
いでいます
か
門徒宗というのも
特徴ということができましょう。
よって極楽往生するという念願の祈りか 凶作士教のおしえの
、
はなるまい」といっておられるように 弥陀の無円川,の技いに
c
りに救お・フ もし往生できないようたことかあるならば仏に
、
ー品開土真宗と祢宗|
帰依、
その大部分は衆
そのま十八願に『まごこ
お念仏するものはその聞い通
日本仏教の宗派について
、
径一孟寿という意味で
M も給実に住する人の寿命
仏の H命
帰命という意味です。阿弥陀仏とは
、
仏のめぐみは無益であり
ともに無比であるということから 阿弥陀仏と名づけら
、
仏に帰命します」という意味です。
弥陀の本願は
、
n 分か漏w
楽浄土に仲間生しようと思
生数慌のことを説いでいるもので
、
、
れたのでありま寸。このように耐無阿弥陀仏とは「阿弥陀
も
、
南無阿弥陀仏の南無とは お t,の文字であるサン九ク
、
前無阿弥陀仏を唱えるということはど・フいう意味をも って たとえ十念であっても
ぴ
りットのナモという言葉の普去の訳で よりすかる
間
仏
るから仏を信じねがって
問
-2
8
手
答
人に絶対の帰依をされた人です。「非僧非俗」といって家庭
、
日
別であ
、
人間本来のすがたにおいて念仏を中すべきことた説き
、
をもったまま教われてゆくことを強闘したのです。そして競
、
馬宮人口・りが尖践し 人間としてきわめて目然の生
り
で寸 'd
、
、
「以外別伝 不立
r。こ札は
4
凶曲穴などによらないというコで
、
符宗の場、一 臥ヒ怖をすることによって自己の心の本位を弘
、
きわ・0安心つに f を送るのが立 前 ですが
ぷ字一といって
、
、
、
凶作ぶといっても いるいろっ派がありまナが
行訟に d、大きく 三 つに分けることができ京す。
.
、
沼話縛といわれる臨済 川 時間仰の也州京
、
,
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E 帆 ・「J
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、
、
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万店側仰とは公申公正火によって絡に進んでゆくみ仏
仰の賞提山市の
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つであります。
それは
、
笠岡伸つ炎践空万法にもちがいがあっますか。
、
いという意味です。
経奥(え晶子か不用とい・フ意味でほなく
文字にとらわれな
極楽
と~な境遇にあっても一心にお念仏をとなえるζ とが
、
浄土宗と同しよう,h 「十防相然阿弥陀仏」ととな
阿え
弥陀
、
、
インド古
小田で中川 一般に「だるまさん」とい
仰という廿来は
、
蝿仰慮とか一心と釈さ比 心を一点に止めて散
答
浄土への起であるとおしえるのです。もちろんこのお念仏
は
、
刊つおこり必
、
- 川氏た
d
射が初Mm
ですが
い
、
凶作宗という宗派についておしえてしださい。
仏の本闘にすがって往生しよ・つというのです。
答
われる
代 にあっても
、
、
とは工火ずることで 制から与えら・仇た公主をじれパし
解決
、
、
、
ながら念仏を唱えることによって成仏を仰ょうというので
29 ー
、
また賀県は隠一冗持師によってそ九ぞれわが国に弘め
、
令 栄両係師により wu制宗は必元祁師と HA山抑制に
す。い軍司
川
、
それにかわるもつを付におくので
、
してゆく同作法でナ。また 黙照俸というのは ただ峨々と小一
Q
必は
怖をし
制作に梢避するのをい・フのです。念仏仰というの
、
、
よって
ここではもちろん坐仰のことですか M 除と
作法など日常の生活がそのまま修然である
、
すべての嘆に全力をつくして行わなけれ.ばならないの られたのであ
一ります。
d怠
r。行とい
怖のボという京
械
。の名前は 怖を主とするとこるから起った
、
、
卜 つ
食 H
う場合の行は
色であります
か
から
、
1
>
:
問
名称で 凶作京では 他宗にみら刊日るような数段がないのが特
乱動揺を隠れに状一以をい・フ今です。
仏
問
、
c
王
、
寺
の
道
I~
ι
但輿し
る
、
ω
、
、
、
四天王
四天王寺前と
駅名を決めるの ι
、
c
なんとしても
夕陽ケ丘
、
ω
、
、
般的はよ仏堂とい・つお浮かあった
'刷災で跡かたもなくなっているし
その上郡山ハ品物札所の
e
とこるかそのぷ場のある四天王寺に
、
来日
立場とったえるとこ
良
、
念仏 Yはどこですか」とたずねても
、
、
、
、
この念仏堂の
「さあとの辺だったで
この開宗八百年を機会に
主場としての札所の右往を建てて欲しいとおねがい
、
、
、
行の応糾をくぐって入った左側である。
、
そのお町田は跡かたもなくなくなっているが 合は念仏品川一と
とこるを
この念仏情は 大日本仏法仮初回天正母とい・フ石住を述っ
している。
復興と
そこでなんとか
しょう」ということにもなりかねない。
、
裕士山爪の方がこの間天守に怠-回附し「
て法然と 主制の
石柱もなくなっている
E肋の析しい泣千が新掠式で庶民の心を釦和んでい か
し
なんとしても火以市民の寺である
、
その四天王手の前を地下鉄か開通して
立見か出ていたようであったか
四天王寺の名を加えたところなどは
寺は大阪にあってなくてはならない寺である
、
橋
というのがその足場の御詠歌である。
~
部二次大京誕戦小で耽災を・フけた伽藍も、そのほとんどが るのおずかないのである
大阪とともに生きぬいてきた古利でもある
聖徳太子関創の大阪の名利四天王寺は 庶民の寺であり
天
刊での四天王与は法然ヒ人の二十五霊場のなかの
第六番の
札所である。
あみだ仏と心は凶に・フっせみの
もぬけはてたる戸ぞすYしき
一
- 30
四
そ吊れ、ー徳太
f
、
6
このお訟で念仏し f とったえている
‘
U
、
が紋初にここで怠仏されたとい・っところ
も、円 Jy
・ ?とも称したよ・フである
は
であるから、法然ム人もこの綜りの問 大正守に診必の折に
、
それもさることなから、この二十五 E場となったわけは
四十八を伝の第卜六のところに
僧郡上人所造の「選択集」を銭覧して、こ の苫のおもむ
き、いさ、、か細執なるところありけりとおもひて、寝 られ
高野の学僧間切温的都のこ
保く法
党を抽結えることか出米たという、
漸く 4.
、
それを法然上人の念仏のありかたさを
このことと 3 い、おかゅの箆食というのも、口分はとるに
、
足らぬ凡火であるが
知らしてもらって
切迫僧 w
仰の心の遍除をあ Fわしたものと恕像出氷る。
抗印土宗の社会福祉のはじまりであ
、
社会福祉に活動する人は解釈する向もある。
、
またこの施食のことを
ると
、
、
、
、
二一品法相 真言のおしえを学びなが
弘然よ人のあと
、
その弟子の法性守空河
なかなか妹のあることはであるといえる。
午お山仰の追を水め仰なかったことをあらわした法現
、
夢を来店に解釈すれば、そ のような設が出ても当然のこと
である一ω
、
mm
逼僧郎ひとりが
らも
、
この念仏堂は 、久安 年間(一一四五
一一五O) に、鳥羽
E
ここで不断念仏な修したという記録もある。
この念仏立℃は
としては
が
控制されて
、
、
.
、
、
本宗の名刺一心寺かある。この
凶門のあたりが一だんと錠しくなっているe
、
守は部七設であるか旬
h弘ほど酔れて 、山此臥かこつあるの
も珍しい。最近は地下必とともに 門前の道路もすばらしく
四天王守剖門の向い側心
c
て早くわたしたち浄土宗の手で復興したいと期待している
、
に 昭和二十年三月の笠獲で 焼失してしまった。なんとかし
法皇が並立したとったえられているc 然し先にも述べたよう
たる夜の少に、-入七ヰ寸の尚門白川、病脅かずもしらずなや人
、
「ぷ人にかあらん」
ふせるを、-人の剛山(ひしり』の外にかゆ・ぞいれて、匙を
もちて病人のいごとにいる、あり什り
、
、
ととふにかたはらな人こたへて 「訟然上人なり」い・フと比
てさめ向。
とあり 、こ この伯郡というのは
また第 十 六 の 第 三 章 に 、
とである。
、
L人と、切迫僧都との問符のあ '
ったことを
上人天王寺におはしけるとき僧都普光寺市世詣の市ありける
かゑ々
と配して、訟然
詳しくつづっている。この間容のあと、切迫他都は
然上人に帰依したとい・つことである。
31 ー
-
を た
ず ね て
しゃうしえの本
ちうち
くきゃう寺
墨蹟
浄 土 宗列祖の
ちょっきょにて
い。この女口仰が自の内容は、「知思院の般向状友人・却にお見
ょに読み方と聞w
げを付しておいたので怠考心していただきた
c
この旨を御述
とおっしゃ・れました£おめでとうございます
せしたとこる、下位同飯沼弘続中守の住持に常紫おハを叫制仲げ
よくわからないがこの時一絡に幽された漢文体の倫旨と今せ
必いたしますよというものである。この女ぽ伊丹だけでは
、
一年(一六三四}五月十九日 明正天内dから弘純寺住持樹蛍
てみると具体的な亨突かはっきりする。論旨によれば寛永十
雪念が常紫衣の若用を許可されており、女房品中川もこの時の
守
ものであることがわかる&川川崎荊衣4
との
は除代住持に紫衣の
mL 与
む別得、大光院
伝通院。数少ない。飯削弘UW
点すの
・
が許可になったのであるう。
f 姫の仲介により常線引A
、
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る一代繁女よりも陥・か上である。側双Lの
円作
以布院の中でも
、
着剤を許可するものであり 化職個人に紫火の将用安昨日巧す
左小弁一トふさの国
場合は
かしく
、
人の常帥耐火の
今凶は砲件作飯沼弘位
Vに
十現作ずる山間後川]l念
、
、
に促輿され、陥川休守院の小でもヒ位を市め
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この KMW移仰を μ ると、市砕叶念。時代には
国時代に多賀谷氏の守乱にまきこま品、飯 mm
と紡械に分かれ
てしまったが
流鹿なかな官庁でありしかも芯く順序に特殊な規則がある。 料である。
、
枇初判酬にかけて多く出された子紙でちり
非常に興味深い史
の命を・つけて漢文体で白かれた輸固いと一一対になるものる
で出
あ可になっていたことがわか'
るK
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伶乃はお町時代から近
勅命を・つけてかな併で山口いて出した川状である。こ飯
れ沼は
山は完
弘火
経寺
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M山
什は人口側近の kwn
が
作品邸 時 貯 を 紹 介 し て み た い 。
女岬
間投首念は後に刷上守二十位とんはる仙刷別である。弘山抑守は
にて候いひぬまの
め=ちおん院まツ守
かきいたし川中し院へは
めてたく錠ひるう
。御ふミのやう
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は写真を述ていただければわかるように非常に
る。 km 指 HA
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一南誉雪念常紫衣の女房奉書一
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