山で出会った人からの便り

《竹田高校山岳部通信》シェルパ vol.8
山で出会った人からの便り
梅雨空が続く6月18日(月)、一通の手紙
が竹田高校山岳部宛てに届いた。福島市にお住
まいの管野千代子さんからだった。
山岳部の皆様へ
先日は写真を撮らせて下さいましてあり
がとうございました。写真、送ります。
もっと写したのですがピンボケでこれだ
けになりました。私は福島県の原発避難
民です。浪江町に住んでいましたが東京
電力の原発事故により土地、家を奪われ
福島市内に住んでいます。若い人達の力
で明るい日本を築き上げて欲しいと思っ
ています。まずは勉強して山に登って身
体を鍛えてね。
手紙と一緒に送られたのは、山岳部女子部員
4名のはじける笑顔の写真が人数分。県総体2
日目(6月4日)、久住山に登った後、避難小
屋付近で昼食を取る様子を写したもの。3年生
の一宮、2年生の吉岡、補助員としてこの日初
めて山に登った
1年生の首藤、
重石の4人のス
ナップだ。
山で出会った
人々から写真を
送られることは
さほど珍しいこ
とではない。菅
野さんもそうした方々の1人なのだろうが、手
紙の後半の文面にくぎ付けとなってしまった。
思わず、昨年8月の北アルプス合宿での出来事
を思い出す。
「がんばろう!東北」。サブザックにこのワ
ッペンを付けて私たちは北アルプスの300
0m級の山々を歩いていた。この姿が1人の震
災による被災者の目に留まる。山が好きだった
が震災で命を落とした仲間のための慰霊登山
中に目にした「がんばろう!東北」のワッペン。
東北からはるか離れた大分県の高校が付けて
いたそのワッペンは被災者の胸を打ったとい
う。北アルプスから戻った我々のもとにお礼の
手紙が届いた。
曰く「九州の高
校生が『がんばろ
う!東北』という
ワッペンをザック
に付けて山を闊歩
する姿に元気をも
らった。」
山を歩いていると、中高年の登山者が高校生
山岳部員にあたたかいまなざしを送ってくれ
ることが多い。「自分の孫を見るような感覚な
のかな。」と思ってもみる。しかし、今回の手
紙によるとどうもそれだけではないようだ。高
校生が山を登る姿が何かを訴えるらしい。彼ら
の心の琴線に触れるものは何だろうか。
まずは、写真のモデルとなった1人である一
宮未晴(3年)に撮影当時の話を聞いてみる。
一宮「竹田高校のOGの方かなと思っていまし
た。私たちが昼食をとっているときに話し
かけてこられたと思います。写真を撮らせ
てと言われ、あの写真を撮っていただいた
と記憶しています。浪江町の方だったんで
すか?ちっとも知りませんでした。」
高橋「せっかくだから浪江町についてちょっと
調べてみようか。」
一宮「そうですね、うん、それがいいです。こ
んな素敵も写真をもらったことだし。」
というわけで、浪江町について学習すること
になった。福島県浪江町:浪江町(なみえまち)
は、日本の福島県双葉郡にある町。同県内の太
平洋沿岸地方を成す浜通り地方の中央部近く
に位置する地域の一つ。町内東部の請戸漁港
は、県内最東端にあたる。2011 年(平成23
年)3 月 11 日、東日本大震災で被災。被害の
一つとして発生した福島第一原子力発電所事
故の影響を受けて、同月 15 日以降、仮役場が
同県内の二本松市に設置され、多くの住民が移
動・避難した(避難民と避難所は他にも散在)。
人口は19,212人。竹田市が24,648人。
さほど変わらな
い。
浪江町
施設誘致の歴史
1955 年(昭和30 年)に人口約 28,000 人
を数えた浪江町も、過疎と財政難に悩まされ、
その打開が必要であった。1960 年(昭和35
年)頃、福島県が原子力発電所を誘致するに当
たり、浪江町も候補地となるが、同じ双葉郡の
双葉町と大熊町に跨る地域に決まり、福島第一
原子力発電所(東京電力)として開所する。 折
りしも、1969 年(昭和44 年)に発足を控え
ていた宇宙開発事業団がロケット発射場の候
補地を探しており、浪江町の方から手を挙げた
ものの、原子力発電所の近郊に発射場を建設す
るのは危険と判断され、この構想も消滅した。
ロケット発射場の次は「子供の村」構想への参
画を目指したが、これも頓挫した。しかし、福
島第一原子力発電所建設の経済波及効果は、浪
江町にもあり、1970 年(昭和45 年)に約
21,000 人で底を打った人口は1970 年代末
には 23,000 人に回復し、作業員向けの宿泊施
設、バー、スナックなどが建てられた。浪江町
が、何か誘致できる施設が無いかを調べていた
ところ、東北電力が浪江町と小高町(現在の南
相馬市小高区)に跨る地域に原子力発電所の誘
致を持ちかける。当時、東北電力は女川原子力
発電所の建設計画も進めており、女川町へ原発
と付随する交付金・雇用等を取られてしまうと
いう対抗心もあって町議会は賛成するが、公害
意識が芽生え始めた時期でもあり、地元の自民
党支持層は分裂、自民党反対派は他党と組まず、
長らく反対運動を続けることになる。1982 年
(昭和57 年)の雑誌対談で示された概要図で
は原子炉は 4 基となっていた(のちの浪江・小
高原子力発電所計画)。上述の宿泊施設、浪江
町による水道などの社会資本投資は、原子力発
電所建設を見越した先行投資でもあったた
め、1980 年代末時点で 17 人まで減ったもの
の団結力を高め、予定地に共同登記をしていた
反対運動による遅延は、これら商工業者に莫大
な損失を強いるものとなった。原子力発電所の
建設が進まないなか、近隣自治体に新地発電
所、原町火力発電所などが建設されていった。
町の沿岸部は壊滅的被害を受けた。加えて、隣
接する大熊町域で福島第一原子力発電所事故
が発生し、以
後、放射能漏
れによって多
大で長期的な
影響を受ける
こととなった。
3 月 14 日:原
子力事故によ
る放射性物質
漏洩が深刻化
し、同日午前
に原発からの
距離が半径
10km圏内の
全域(請戸地
区等)、同日
午後には浪江
町東部全域が
含まれる半径
20km圏内の
全域に避難指
示が公示され
る。これを受
け、二本松市役所東和支所内に仮役場(浪江町
役場二本松事務所)が設置され、翌 15 日以降、
約 8 千人が移動・避難した(避難住民と避難場
所は他にも散在)。 3 月 24 日:二本松市コ
ミュニティバスが運行(福島交通津島線の代替
運行)を再開。 4 月 1 日:馬場有(ばば たも
つ)町長らがyou tubeにて町民に声明を出す。
4 月 9 日:この時点で、死者 1 人、行方不明
者185 人。 4 月 11 日:原発より半径 30km
圏内]にある地域(西部の大部分)が計画的避難
区に指定され、半径 30km圏外にある地域(西
部の一部)は緊急時避難準備区域に指定される。
4 月 14 日:放射線量が低下したとして、原発
より半径 10km圏内の一部(浪江町では請戸地
区)で福島県警による行方不明者の大規模捜索
が始まる(約 300 人動員)。4 月 22 日:原
発より半径 20km圏内が警戒区域に指定され
る。 4 月 24 日:『ザ!鉄腕!DASH!!』が番組
震災以降
内でDASH村の所在地域
(福島原発より半径
2011 年(平成23 年)3 月 11 日:マグニ
チュード9.0 の東北地方太平洋沖地震が発生し、 20-30km圏内の西部某
所)と被災状況等を公表
浪江町は幾世橋地区で震度 6 強を観測した。さ
する。(以上、wikipedia
らにこの地震が引き起こした大津波によって
より)
●「故郷」を奪われ静かな抗議
一宮「管野さんが原発避難民ということを知り、
お礼と励ましの手紙を書きたいのです
が。」
こうして写真を撮ってもらった4人からお
礼と励ましの手紙を送ることとなった。この山
岳部通信『シェルパ』第8号を添えて。
管野千代子様
素敵な写真をどうもありがとうございました。
4人とも大切にします。私たち竹田高校山岳部
は現在43人(1年生~3年生)の部員がおり、
それぞれ人口壁でのクライミングや登山に頑
張っています。浪江町にご自宅があるというこ
とを手紙で初めて知り、インターネットで浪江
町について調べました。「どうぞ、頑張ってく
ださい」という言葉も不適切な気がして言葉が
見つかりません。ただ、管野さんがおっしゃる
ように私たちが今できることは、自分たちの青
春を満喫することだと思いました。将来、何が
できるかわかりませんが、周囲の人々を大切に
できる大人になるべく、今後も勉強に登山に汗
を流します。理想の自分に向かって変わろうと
すること、このことが私たちなりの復興支援と
考え、7月の九州大会、8月の新潟でのインタ
ーハイに向けて頑張ります!季節柄、体調管理
に御留意下さい。
追伸:浪江町のご当地グルメ「浪江やきそば」
(ふとっちょ焼きそば)をいつか食べに行きた
いなと思います。
浪江町について調べるうちに管野さんの記
事を見つけた。
ひとひと
飯舘撮り続け個展
5)
2012 年 04 月 13 日
管野千代子さん(6
雪原に自慢の大
根を持って集まっ
てくれた母ちゃん
やばあちゃんたち
は、満足そうな笑顔
でこちらを見つめ
ている。服ごと川の
中に入って夢中で魚を取る子どもたちは、カメラの視
線に安心しきっているようだ。原発事故の放射能で大
きな被害を受けた飯舘村で、ここ2年間に撮りためた
写真41枚を4月、福島市内のギャラリーで展示。写
真家として初めて個展を開いた。看護師として健康診
断に通いながら、村の野菜を食べ、お茶を飲みながら
話し込んだ。村人と同じ目線に立ったからこそ、撮ら
せてもらえたものばかり。
「村に残ったマスクの少女」
の1枚を除き、すべて震災前の「人情厚く、美しかっ
たころの飯舘」の姿だ。「こんな村の光景を奪ったの
は誰なのか」という怒りを伝えたかった。個展は「静
かな抗議」でもあった。自らも、浪江町の自宅を医師
の夫とともに追われた。県内外を転々とし、昨秋から
福島市内で暮らす。写真は十歳年上の兄の趣味に憧れ
て始めた。就職して最初の給料で買ったのが一眼レフ
だった。震災直後はとてもカメラを手にする気になれ
なかった。荒廃した「故郷」にレンズを向けるのはつ
らいが、「被災者だからこそ伝えられるものがある」
と思い直した。次の個展は未定だが、避難している飯
舘村の人々に見ても
らいたい。
(本田雅和)
ひょっとすると、
管野さんは「復興」
の兆しを竹田高校
山岳部女子部員の
中に見たのかもし
れない。この記事
を読んで、そう感
じた。部員達が今
後、報道で「浪江
町」のことを見聞
きしたとき、以前
よりも身近に感じ
てくれればと切に
願う。