Salon d` AALA 49号

Salon
d’ AALA
サロン
ダーラ
2013.12.1.No.49
特定秘密保護法案について
弁護士 山 下
綾 子
法案は何故出てきたか
安倍政権は、特定秘密保護法案を閣議決定し、国会に提出しました。今までこのような法律がな
くても何も不都合がなく、法律がないために秘密が漏れて国益が損なわれたということも寡聞にし
て聞きません。それなのに何故国民に重罰を科してまで守るべき秘密を作り、法を作るのでしょう
か。それは安倍政権が集団安全保障政策をアメリカと一体となってすすめるために必要だからです。
朝日新聞の天声人語によれば、
「アメリカからもらった情報を守るために自国民を罪に問う法」が必
要だからです。
法案の内容は極めて危険
法案の内容は、防衛、外交やスパイ、テロ活動等に関する情報を「特定秘密」として保護する、
というものですが、具体的に「何が秘密かは秘密」というまるでパロディか笑い話のような内容な
のです。しかし、この秘密を漏らしたり、近寄った者には最高10年もの懲役刑、知ろうとしただ
けでも処罰するというのですから、笑い話どころかこれほど危険な法律はありません。本来人の行
為を罪としてそれに刑を科すためには、罪となるべき事実を予め法律で定めて明らかにしておかな
ければならないという大原則があります。これを法律用語で罪刑法定主義といいますが、この法案
は、罪となるべき事実を法律で定めるのではなく、行政機関の長が決め、しかもその罪となるべき
事実を明らかにせず、秘密にしておくというのですから、国民は何をやったのか自分でも分らない
うちに逮捕され、処罰されることになりかねません。しかも法案では教唆しただけでも処罰されま
す。教唆は原則教唆された者が犯罪を実行しなければ教唆のみ独立して処罰されることはないので
す。この点からも罪刑法定主義からもこの法案は、従来の法体系を逸脱しています。
情報は誰のものか
この法案は、一言でいえば、政府の都合の悪い情報に近づく者は罰として熱いお灸をすえるとい
うとんでもない内容であり、民主主義とは全く相容れない法案です。そもそも、政府が入手する情
報は、国民全体のものであり、国民は原則としてそれを知る権利があります。この権利については、
日本も批准している国連の人権規約の中にも明文で規定されています。その権利を奪い、処罰で威
嚇して社会を委縮させ、原発や外交といった国の根幹にかかる事項について、国民にものを言えな
くさせる法案は百害あって一利もありません。何としても成立は防ぎたいものです。(2013.11.15)
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あ の 9.11 の 波 紋 の 端 に ::::::::
渡 辺 栄 子
【前号の続き】
③ ::::: 12年前の事であるにせよ、デトロイト空港について覚えていることは唯一、
この出国する時の緊張感だった。
娘夫婦に送られて空港の駐車場からターミナルビルに入ったのだが、外も内も
警備の人数が入国した時より多い気がして、緊張の度合いが増していた。
機内へ持ち込む荷物の検査では神経質な程で、娘が「もしも。」という時にと作ってくれたおむすび
の海苔を訝しみ、化粧ポーチの中の物を全部だし、携帯用化粧水の中味を見て、匂いも嗅ぐという
徹底ぶりに、我々の様子をゲートの外で見ていた娘が笑い出した程だった。その次の身体検査もし
っかりポケットに入っている物なども調べられた。その前々日にデトロイト美術館へ行った時も、
持ち物は全て入口で預けた上、一応、身体検査ということでポケット等も調べられた。要するに弾
丸等が入っていないかどうかであろう。
デトロイトとニューヨークは空路で約45分、車で8時間程の所、東京と伊丹間ほどで近い方で
ある。また、自動車産業では世界市場を席巻し、アメリカの有力産業都市なのだが、その頃、フオ
ードを初めアメリカの自動車産業は、日本の小型で燃費がよく、内装、サービスの良い安価な車に
圧されて傾き出した。失業者を多く出し、フォードを初め、各社のビルが売りに出されるほどにな
った。SALE と大きく書かれたビルを見て唖然とした。9.11の事件がこの都市に及ぼす影響はな
かったのであろうか。
短期間であり、アメリカ大陸の小さな「点」程に接してきただけなのだが、感じたことは多民族
が同じルールに従ってひとつの国を成しており、それぞれの文化も育てているのだが、差別や貧富
の差があるのは何処も同じだろう。
地平線から日が昇り、地平線に日が沈む等は見たこともなく、夕日に木々が真赤に染まり、ハイ
ウエイ沿いの景色は見事であったし、10月の午後4時の夕日が大津で見る朝日だと思うと一入の
感動があった。
無事、関西行きのノースウエスト機に乗り込むと、空席70%のエコノミークラスは殆ど長椅子
状態で皆、足を伸ばすことが出来た。しかし、乗客となって、しばらくは落ちつかず、誰しもがま
だ、安心していないように思われた。機が高度を上げていく時、眼下に美しい彩りの続く秋の風景
があり、機内に歓声があがった。機内の空気はそこでようやく落ち着いた。
やっぱり地球は美しい。人間は一体何を考えているのだろう。地球にとって人間ほど厄介なもの
はないであろう。人間が地球の寄生虫にならぬよう。
9.11テロ事件の波紋にひっかかったが恨みと報復の連鎖が
続かぬようにと祈るばかりである。
訂正
前月号の②の項目で7頁の下から6行目の左側、「みているとアメリカがイラクへ空爆をしたニュースが入
って」はイラクの個所は「アフガニスタン」の間違いでしたのでおわびもうしあげます。
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王 野 茂 美
メキシコ~46号からのつづき
ユカタン半島は広い、メリダは大きな町で暑かった。イスラモへレスからガテマラへ向った。メ
キシコの国境の町
Chetumal から国境までは三日先までバスがないと分かり、ヒッチハイクで行っ
た。Chetumal から日本人学生のY君と一緒になった。メキシコを出国する時、ご多分に洩れずいい
がかりをつけられた。日本のコイン55円を渡し、罰金とやらの話をつけた。ガテマラの Tikal(テ
ィカル)というマヤの遺跡を観るために BELIZE という国を通った。当時は独立国ではなかった。人々
は英語を話していた。陽気な人たちとのんびりしたバスで Belize City で一泊し、一日半でガテマ
ラに入国した。フローレスという町からティカルへ、その時乗ったバスは、ラジエータが壊れてい
るのか走行中運転手は川や池を探しながら走っていた。途中何度か助手の少年がバケツを持って、
水を汲みに走った。Tikal
に着いた。
「ティカルは中南米最大規模を誇るマヤ古代都市」と
最近の旅行本に書いてある。
(当時、私は本を持たず旅して
いたと思う)遺跡は壮大で圧倒されジャングルの中にあった。
静かで神秘的だ。小さなホテルはあったが、私とY君は草葺きの
小屋に泊った。私のメモにはただ「蚊なし。フリオー」と書いている。小屋のことは誰に聞いたの
か、何の小屋なのか、所有者は誰なのか判らなかった。ハンモッグが吊ってあった。食事は着いた
日のメモに「チキン唐揚げ・マメ・イモ・パン・カフェコンレチェ」とある。別の日には「自炊」
と書いているが、火も鍋も皿もないところでどうしていたのか思いだせない。ほとんど近くの家で
若い女の人が食堂らしきことをやっていて、うす暗い土間で薪を燃やし、豆を煮たり、卵を焼いた
りしていて、私たちはそればかり食べていた。フリフオーレス
イ ウエボス
四日間神殿など見
学した。観光客は少なかった。見学。研究者でもないので眺めたり、ピラミッドに登ったり、ウロ
ウロして写真を撮ったりするだけ、暑くなかったのでのんびりしていた。ティカルからガテマラ市
へ向った。
(Y君は先に出発)メキシコ市を出発する時、画家のMさんがメキシコのビザのためガテ
マラに行くということで、ガテマラ市で会う約束をしていた。今考えると私がガテマラ市に着くま
での日程をどうしていたのか不思議だ。私がMさんから聞いていたのはガテマラ市の 10 ca 11 10AV
にペンションメサという安いホテルがあるということだけだった。私はペンションメサに着いた。
有名なところで、若い旅行者が多く、日本語で注意の伝言が
あった。南下する人のためにスペイン語が解らず泥棒と間違
われてピストルで撃たれて亡くなった日本人旅行者がいると
聞いた。数日後、Mさんもメサに着いた。私とMさんはガテ
マラ市に少し滞在し、メキシコへ向った。
【次号へ続く】
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Photo Essay ⑩
ボランティアで福島訪問
来住 徳郎
11月13日から16日まで、「福島・南相馬ボランティア」に参加いたしました。
【被災地の今を知り、「原発ゼロ」の日本へ心ひとつに!】
ボランティアの募集スローガンそのものの行動でした。
浪江町 壊れたままの民家
帰還困難区域への通行規制中
浪江町 陸に上がった漁船
松川浦漁港 津波でここまで来た
コンクリート建物の一部
浪江町
浪江町
ここで亡くなら
れた方の搭婆
瓦礫は持ち出せないが、遺体捜
索のため集められたもの
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