3-6 (B) 生体分子のコンピュータモデリング 1.目的 生命科学というと話題がどうしても遺伝子 DNA、RNA、タンパク質に集約されがち であり、一見コンピュータとは縁の無い分野のように思われる。しかし、現実は全く反 対である。生命科学の研究者は日常茶飯事的に遺伝子やタンパク質のデータバンクにア クセスしたり、既存のデータを利用したりしている。考えてみたまえ、タンパク質の構 造を理解するのにコンピュータグラフィックスがいかに役に立っているかを。 生命科学におけるコンピュータの利用は、このような初歩的段階に留まらない。多く の優秀な化学者や物理学者によって発展させられた計算化学の手法は、物質科学や材料 科学の分野に大きな反乱を起こしたが、この波は今や生命科学の分野にも怒涛のように 押し寄せてきた。生命現象を少し掘り下げて考えてみよう。たとえば、酵素はどのよう にして触媒機能を発現するのか、タンパク質はどのような過程を経て折りたたまれるの か、あるいはイオンやある種の化合物はどのようにして生体膜を透過するのか、などな ど。このような現象を理解するためには、一つ一つの原子や分子の動きを高い空間・時 間分解能で追跡できるコンピュータシミュレーションが大いに役に立つ。 生命科学の関心は多岐にわたっている。問題によっては分子の電子状態を厳密に知る ことが必要であり、別の問題では分子そのものの記述には多少厳密さを欠いても、でき るだけ長い時間に渡って運動を追跡したい、というようにである。上で述べた酵素反応 やタンパク質の折れたたみの問題がそれらの良い例である。現在では、問題に応じた 色々なコンピュータプログラムが開発されており、生命科学者の要望に答えられるよう になりつつある。 本実験では、分子軌道計算のプログラムを利用し、分子の電子状態、化学反応の予測、 化学反応の遷移状態、核酸塩基間相互作用、ペプチドや糖などのコンホメーション解析 の方法を学び、分子の性質について理解を深めることを目的とする。 2.理論的背景 テキストは以下の URL から取得せよ。 http://www.cherry.bio.titech.ac.jp/msakurai/ “講義関係”のボタンをクリックすると、量子化学講義ノート1と量子化学講義ノート 2の項目が現れる。いずれも PDF ファイルである。 3.実験 1) 本実験では、学術国際情報センターの教育用コンピュータシステム(図書館横)を 用いる。まず、iMac 端末から、自分のアカウントでログインせよ。 2) 本実験では、Wavefunction 社の SPARTAN という分子軌道計算ソフトウェアを用い 1 て、演習を行う。このソフトの操作マニュアルを、以下の URL からダウンロード し、プリントアウトせよ。 http://www.cherry.bio.titech.ac.jp/msakurai/spartan_manual.pdf プリントアウトを行うときにはブラウザの「ファイル」プルダウンメニューの「ペー ジ設定」を開き、用紙サイズを A4 にしておく。 【1日目】 《演習1》操作マニュアルの第2章にしたがって、アセトニトリルの計算を実行し基本 操作を習得せよ。 《演習2》ホルムアルデヒドの構造最適化計算(geometry optimization)を行い、以下の 事項を調べよ。i) 分子軌道の表示(特に HOMO、LUMO)、ii) 電子密度図の表示、iii) 双 極子モーメントの表示、iv) 静電ポテンシャル図の表示、v) 分子振動の計算(波数と振 動モード) 。 Setup プルダウンメニューの Calculation を開くと、output ファイルに出力する内容を制 御するボタンがある。Compute では IR を、 Print では Orbitals & Energies, Thermodynamics, Vibrational Modes, Atomic Charges をチェックし、Option に”BONDORDER”と入力して ホルムアルデヒドの結果をプリントアウトせよ。 【レポート課題1】 求核反応 メチルアセテート(CH3COOCH3)、アセトアルデヒド(CH3CHO)、N-メチルアセトアミド (CH3CONHCH3)、アセチルクロライド(CH3COCl)の構造最適化計算を行い、波動関数を 求めよ。また、LUMO の電子密度分布を調べ、求核反応の起こる部位を特定せよ。LUMO のエネルギーが低いほど反応性が高いと考えられる。上の 4 つの化合物を反応性の高い 順に番号をつけよ。 表1 化合物 LUMO energy -1 /kcal mol LUMO 上の最も電 左の原子の LUMO 子密度の高い原子 上の電子密度 CH3COOCH3 CH3CHO CH3CONHCH3 CH3COCl 2 順位 【レポート課題2】 求電子反応 ピロールは、生体分子(ポルフィリン、ビタミン B12)の構成要素として重要である。 これはベンゼンと同様に求電子反応を受ける。たとえば、プロトン化すると 2,5-ジヒド ロピロールが生成する。2, 5 位で優先的に反応が起こる理由を HOMO の性質から説明 せよ。 【2日目】 《演習3》溶媒効果 グリシンの中性型(1)と双性イオン型(2)のエネルギーを真空中と水相中で計算し (AM1 法による構造最適化計算を実行する)、それぞれどちらが安定か調べよ。また、 溶媒和エネルギーを求めよ。以上の結果を溶媒効果の観点から考察せよ(アトキンス物 理化学(上) p.417-418 を参照)。 H2NCH2CO2H (1) H3N+CH2CO2- (2) 表2 真空中のエネルギー -1 /kcal mol 水中のエネルギー -1 /kcal mol 溶媒和エネルギー /kcal mol-1 1 2 ΔE 【レポート課題3】ATP の加水分解エネルギー よく知られているように、生体系において ATP はエネルギー通貨の役割を果たす。ATP のリン酸無水物結合は“高エネルギー”結合と言われ、水中での加水分解により 7.7 kcal/mol(32.2 kJ/mol )の自由エネルギーを発生する。この高エネルギー結合の期限と して、多くの生化学の教科書では、次の 3 つの因子があげられている。すなわち、1) 生成物の共鳴安定化、2)反応物の静電反発、3)水和の効果(反応物は生成物より水和エ ネルギーが小さい)である。例えば、ヴォート生化学(上)16・4 節 p.443 をみよ。 これらのことを実際に分子軌道計算により検証しよう。ただし、ATP の構造は複雑な ので、ここではトリリン酸メチルエステル(MePPPi)をモデル化合物として用いることに 3 する。このとき生成物は、MePPi と Pi である。 1) 真空中及び水中で構造最適化計算を行い、加水分解エネルギーE を求めよ。(HF 法 による構造最適化を実行する。用いる基底は STO-3G)。 この計算は、非経験的分子軌道法(ab initio 法)を用いて行う。具体的には、 STO-3G という基底関数を用いて Hartree-Fock (HF)法の計算を行う。 MePPPi と MePPi については Calculation の Option に“GEOMETRYCYCLES=200” と記入して実行すること エネルギー(kcal/mol) MePPPi H2O MePPi Pi E 真空中 水中 E(水中)-E(真空中) 2) 反応物及び生成物の リン原子や酸素原子上の電子密度を調べ、共鳴安定化説や静電 反発説について考察せよ。 3) 加水分解エネルギーを決めるのに、水和がどのような役割をしているか考察せよ。 それより教科書の記述が間違っていることを指摘せよ。 【レポート課題4】 化学反応の経路と遷移状態 操作マニュアル第3章にしたがって、以下の SN2 反応の反応経路(反応座標)と遷移状 態を求める計算機実験を行え。 Br- + CH3Cl → CH3Br + Clこのとき、真空中での反応と水中での反応両方の場合について反応座標を求め図示せよ。 4 また、以下の表を完成させよ。 表3 エネルギー 環境 反応物 (kcal/mol) 遷移状態 活性化エネルギー 真空中 水中 溶媒極性の増大にともなって、活性化エネルギーや反応速度はどのように変化するか。 また、そのような傾向を示す理由について考察せよ。 【3日目】 【レポート課題5】 分子間相互作用(水素結合エネルギー)の計算 分子 A と分子 B から錯体 A/B が生成する反応のエネルギー変化E は、 E = E(A/B) – ( E(A) + E(B) ) で与えられる。核酸塩基間に働く水素結合エネルギーを計算し、実験の会合定数 K と 比較してみよう。これは生体中で頻繁に見られる分子認識反応の一例である。 まず、以下に示す6つのモノマー(ヘテロ環状塩基)のエネルギーを求めよ。ついで、 錯体 1〜6 のエネルギーを求め、表3を完成せよ。E を lnK に対してプロットし相関を 調べよ。 以上のエネルギー計算は PM3 法を用いて行うこと。Calculation で Semi-empirical,PM3 を選択する。 分子構造をつくるときは、各原子の混成軌道の型を間違えないように注意せよ。例え ば、-NH2 は sp3 である。 錯体をつくるには、まず、2つの分子を同一ファイル上にコピーする(新規ファイル を作り、分子構造のコピー(Edit→Copy)と貼り付け(Edit→Paste)を行う) 。そして、 2つの分子を同一平面上に置き、水素結合している二つの重原子間距離(水素原子間 の距離ではない)を3Å程度に調整する。 1-methylcytosine 1-methylthymine 5 9-methyladenine 9-methylguanine N-naphthridinylacetamide model 1 6-amino-2-pyridone model 2 model 3 model 4 6 model 6 model 5 表4 モノマーE の和 錯体 E E K /M-1 model 1 3.2 model 2 1.3×102 model 3 3.1 model 4 5×103 model 5 5×104 model 6 1.7×104 エネルギーの単位は kcal mol-1 【4日目】 【レポート課題6】 ジペプチドのコンホメーションエネルギー L-アラニル-L-アラニン(L-Ala-L-Ala)の中央の C-N 結合周りのコンホメーションエネ ルギーを求めよう。この二面角を 10°おきに固定し他の自由度を最適化する計算を行 い、以下の表を完成し図示せよ。この結果より、シスとトランスのところに極小値をも つことを確かめよ。また、このとき C-N 間の結合次数はいくらか。 表5 C-N 結合二面角 /degree 最適化エネルギー /kcal mol-1 結合次数 0 (シス) 10 : 180 (トランス) 【レポート課題7】 糖のアノマー効果 以下に示すシクロクロロヘキサン誘導体のアキシアルおよびエカトリアルコンホマー 7 のエネルギーを AM1 法(時間が許せば ab initio STO-3G)で評価し、実験と比較せよ。 表6 axial E equatorial E E(eq-ax) chlorocyclohexane E(実験) -0.5 (X=CH2) 2-chlorotetrahydropyran 1.8 (X=O) エネルギーの単位は、kcal mol-1。 【5日目】 【レポート課題8】分子の吸収波長と構造の関係 化合物 1~6の分子軌道計算を実行し、HOMO と LUMO のエネルギーを求めよ。ついで、 HOMO-LUMO エネルギーギャップから吸収波長max を予想し、実験値と比較せよ(アトキン ス物理化学(上) p.418-419 を参照)。また、5の化合物の吸収波長が特に長い理由を考 察せよ。なお、5はロドプシンの発色団、6はβカロチンである。 表7 HOMO (eV) LUMO (eV) (HOMO-LUMO) (eV) max (nm) 1 163 2 217 3 252 4 304 5 610 6 450 8 【レポート課題9】キノン類の還元電位 キノン類は、容易に電子を受け取り、ラジカルアニオンを与える。溶液中で一電子を 受け取るキノンの能力は、一電子還元ポテンシャルとして定義され、実験的に数多くの 測定がなされている。理論的に電子を受け取る能力(電子親和力)は LUMO のエネルギ ーと関係づけられる。以下の化合物 1~11 について、LUMO のエネルギーを評価し、実 験値との相関を調べよ(アトキンス物理化学(上) p.418 を参照)。 9 表8 LUMO (eV) Reduction potential (eV) 1 0.010 2 0.023 3 0.067 4 0.165 5 0.235 6 0.783 7 0.484 8 0.576 9 0.401 10 0.401 11 0.154 10 4.参考文献 1) 櫻井実、猪飼篤 編、計算機化学入門、丸善、1999. 2) ヒーリーら(幅田陽一 訳)、有機化学のための分子モデリングワークブック、CRC 総合研究所、2000. 3) ヒーリーら(園田ら 訳) 、計算有機化学実験、アイネック学術出版、1996. 11
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