立体配座安定性の解釈

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立体配座安定性の解釈
単結合のまわりの回転は周期的におこり,360°ごとに元に戻ります.したがって,内部回
転のエネルギーをあらわそうとする全ての関数は 360°ごとに最初の値を繰り返さなければな
りません.実際には,一般的なエネルギー関数 Etorsion は 360°の中で,それぞれの構造が n 回
繰り返されることをあらわす簡単な関数 Vn の組み合わせとして書くことができます.
E torsion (ω) = V1 (ω)+V 2 (ω)+V3 (ω)
ここで,ωはねじれ角であり,V1,V2,V3 はそれぞれ 360°,180°,および 120°ごとに繰
り返されるωの独立した関数です.これらの関数はそれぞれ,一回対称ポテンシャル,二回対
称ポテンシャル,三回対称ポテンシャルと呼ばれます.
様々な n 回対称ポテンシャルはそれぞれが特定の化学的な減少で見ることができるために有
用です.例えば,一回対称ポテンシャルは過酸化ジメチルの anti 形と重なり形コンホマーのエ
ネルギーの違いを表現し,これに対して二回対称ポテンシャルはベンジルカチオンの平面的な
コンホマーと直交したコンホマーのエネルギーの違いを表現します.化学者にとってより親し
みのある三回対称ポテンシャルはエタンのような分子における内部回転をあらわします.
一回対称
二回対称
三回対称
対称的な分子が一種類あるいは二種類のポテンシャルの組み合わせであらわすことができ
るのに対し,対称性に乏しい分子ではさらに複雑なポテンシャルの組み合わせが必要です.こ
れはフルオロメチルアミンによって説明することができます.
6
立体配座安定性の解釈
117
エネルギー
二面角(゚)
この図の中の太い実線は CN 結合の回転に対する Etorsion を示しています.この曲線が比較的
複雑であり,明らかに単純な一回,二回,三回ポテンシャルに相当しないことに注意してくだ
さい.これには二つの局所安定構造があります.
エネルギーが低い(最安定)構造は CF 結合と窒素の孤立電子対が anti のときに生じ,これ
に対してエネルギーが高く浅い局所安定化構造はほとんど gauche 構造(FCN:二面角~45°)
です.また,二つのエネルギー極大値の一つ(FCN:二面角~115°)が正確な重なり形構造
に一致していないことに注意してください.
この Etorsion の異常な挙動は,各成分に分解すると明らかになります(この場合,これらの成
.一回ポテンシャルの項は CF 結合と窒素の孤立電子対が
分の和が実際に Etorsion に一致します)
syn ではなく anti 構造を優先的にとるということを明確に,そして強く示しています. anti 構
造では CF 結合と窒素の孤立電子対が逆の方向を向くような双極子を持つため,その優位性は
118
エッセイ
静電的な効果によるものでしょう.
双極子が差し引かれる
双極子が加算される
三回ポテンシャルの項も容易に説明することができます.三回ポテンシャルの項は重なり構
造よりもねじれ構造が優先的であることを示しています.この項は一回ポテンシャルや二回ポ
テンシャルの項よりも Etorsion への寄与がずっと小さく,CH2F,NH2 基の立体効果が小さいこと
に一致します.
おそらく最も興味深く,このような解析がない場合には予想もできなかったようなことが二
回ポテンシャルの大きな寄与です.このポテンシャルは平面的な FCN:の配置に大きな優先性
を与え,エネルギーが高い NH2 の孤立電子対の軌道とエネルギーが低い CFσ*軌道の間のπ相
互作用による安定化に寄与することができます.この相互作用は二つの電子だけが関わり,
FCN:が平面的である場合に安定化し,直交した構造をとる場合は安定化が消失します.
syn 平面
anti 平面
直
交
Etorsion の特異的な特徴のほとんどは V1 と V2 の両方に起因すると考えることができます. V1
は最安定化構造である anti 構造と一致しており,一方 V2 はエネルギーの最大値に相当してい
ます.エネルギーが高い局所安定化構造は二面角が小さいところに見ることができます.
Etorsion に寄与する項はお互いが完全に独立していて,それぞれが大きな絵の一部分のように
扱われることに注目することが重要です.したがって二つの官能基が平面的である場合に窒素
の孤立電子対から.CFσ*軌道への電子供与が最適であるという観察結果は,双極子-双極子
相互作用による cis 平面構造 anti 構造と比較して不安定であるという観察結果とは独立してい
ます.
フルオロメチルアミンに対して述べたような解析はまだルーチン的には行われませんが,そ
れを行わなくて良いという理由はもはやありません.それらの解析は,たとえ簡単な系でもコ
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立体配座安定性の解釈
119
ンホメーションの優先性はいくつかの要因の組み合わせによって構成され,分子モデリングは
それらの要因を解きほぐす手助けをしてくれるということを指摘しています.
120
エッセイ
7
原子軌道と分子軌道
化学者は分子中の電子を記述するために様々な方法を開発してきました.ルイス構造は最も
慣れ親しんだものです.ルイス構造式では電子対を一つの原子(孤立電子対)や一対の原子(結
合 )に割 り当て ます* .それ らに対 し量子 力学に相 当す るもの が,原 子や分子 に対 する
Schrödinger 方程式の近似解によって得られる原子軌道や分子軌道です.分子軌道は分子全体に
広がっており,“非局在化”しています.このため,ルイス構造よりも解釈が難しくなります.
軌道表面
分子軌道は化学反応性に対して重要な手がかりを提供しますが,この情報を使う前にまず,
分子軌道とはどのようなものかを理解する必要があります.下の図は水素分子 H2 の非占有分子
軌道の“手”描きで描いた絵と Spartan による画像の二つで表現しています.
水素分子の空軌道
“hydrogen empty”を開きなさい.色(軌道の符号)を除けば,両側の画像は同じで
あるということに注意しなさい.“赤”と“青”の領域間の接合部は軌道の値がゼロのと
ころです.終了するときは“hydrogen empty”を閉じなさい.
手書きの絵は二つの円と破線で軌道を示しています.円は正(影付き)あるいは負(影なし)
の特定の値を持つ軌道の領域に一致しており,破線は軌道の値がちょうどゼロになる位置
(“節”
)を示しています.この絵は役に立ちますが制限も受けます.この絵から我々は,二次
元での軌道についての情報を得るだけであり,
“軌道として意味のある”領域の位置を学ぶだけ
です.我々はその領域の内外でどのように軌道が形成され,減衰するのかを知ることはできま
*
これはすべての電子が対になっている系に限定されます.Spartan では対になっていない電子(“ラ
ジカル”,三重項状態,etc)の系も処理することができます.
7
原子軌道と分子軌道
121
せん.
Spartan によって作成された画像は同じ軌道を一定の値の“表面”として表現しています.そ
の表面は電子の動きにおける量子力学方程式の正確な(しかしながら近似の)計算解に由来す
る数学的に正確なものです.さらに重要なことは,この画像は三次元であるということです.
Spartan を使って操作でき,様々な視点から見ることができます.“軌道表面”と呼ぶものが実
際には異なる色で示された二つの異なる表面からなるものであることに注意しなさい.この二
つの表面は手書きでの軌道図での二つの円と同じ意味を持っています.それらは正(青)ある
いは負(赤)の特定の値を持っている軌道領域を示しています.軌道の節は示されていません
が,二つの表面の中間にあると予想することができます(これは軌道の値がゼロを通らないと
正から負に変われないという事実に基づいています).
原子軌道
“原子を描写”する原子軌道は“分子を描写”する分子軌道の中の基本的なビルディングブ
ロックです.実際,より親しみやすい水素原子の原子軌道は一電子系における Schrödinger 方
程式の正確な解です.Schrödinger 方程式の解は無限にあり(“完全系”)
,最もエネルギーの低
いものは電子に対して“最適の”位置をあらわし,よりエネルギーの高いものはそれに代わる
位置をあらわします.
“実際の”多電子原子の軌道は通常,水素原子の軌道と似ているとみなさ
れ,唯一の違いは水素とは異なり最低エネルギーの原子軌道が利用されるということです.実
際の量子力学計算において,多電子原子の原子軌道は水素のような軌道の有限解の和や差から
作られます.
原子軌道のすべてを内殻と原子価軌道に分け,前者を“無視”することは共通に行われてい
ます.周期表中の第一周期の元素に対しての原子価軌道は 2s, 2px, 2py, 2pz となり,第二周期の
元素に対しては 3s, 3px, 3py, 3pz となります.第一周期の元素の場合,その下に 1s 軌道があり(こ
れが内殻軌道)
,一方,第二周期の元素では五つの軌道の集まり 1s, 2s, 2px, 2py, 2pz が下にあり
ます.
“fluoride and chloride”を開きなさい.上の列はフッ化物イオンの四つの原子価軌道
で,下の列は塩化物イオンの四つの原子価軌道です.モデルを(マウスの左ボタンで)ク
リックすることで分子を選択できます.まずフッ化物イオン中の三つの 2p 軌道(2px, 2py,
2pz)は方向が違うだけで同じものであるということに注意しなさい.塩化物イオンの三
つの 3p 軌道についても同じです.次に,塩化物イオンの原子価軌道がフッ化物イオンの
ものよりも大きいことに注意しなさい.一般に,周期表の中で下にある原子はその上の類
似原子よりも大きくなります.終了するときは“fluoride and chloride”を閉じなさい.
122
エッセイ
軌道と化学結合
分子軌道とルイス構造はともに分子中の電子の分布をあらわすために使用されますが,他の
様々な目的のためにも利用されます.ルイス構造は各原子の周りの結合性および非結合性電子
を数えるために利用されます.分子軌道は電子数を数えるのには適していませんが,軌道の形
や軌道エネルギーは化学結合や反応性をあらわすのには有効な手段です.この項ではいくつか
の一般的な軌道の形を示し,それらが化学結合や反応性を解釈するためにどのように使われる
のかを説明します.
分子軌道表面は原子数の変化に対応して広がることができます.もしも軌道表面が一つの原
子に制限されるのならば,その軌道は非結合性であるとみなされます.軌道が二つの隣り合う
原子上に絶えず広がる表面を持っていれば,その軌道はそれらの原子に関して結合性であると
見なされます.そのような軌道に電子を加えるとそれらの原子間の結合を強め,互いの原子を
より引き寄せる要因となりますが,電子が除かれると反対の効果がもたらされます.下の図は
二つの異なる種類の結合性軌道の線画と軌道表面を示しています.左側の線画と軌道表面はσ
結合に,右側のものはπ結合に相当しています.
σ結合性軌道
π結合性軌道
“nitrogen bonding”を開きなさい.左の画像は N2 のσ結合性軌道に相当し,右の画
像は二つの等価なπ結合性軌道の一つに相当しています.Transparent モデルか Mesh モデ
ルに切り替えて,その下にある分子骨格を見なさい.Windows 版では,表面のどこかをク
リックし,画面右下にあらわれるメニューから Mesh あるいは Transparent を選択しなさ
い.Mac 版では,グラフィック上にカーソルを置き,左または右ボタンを押したまま,そ
ばにあらわれたメニューから選択しなさい.σ軌道では(NN 結合が関係するところでは)
一色で描かれていますが,π軌道には“赤”と“青”の部分があることに注意しなさい.
これは節”あるいはπ軌道の区切りを示しており,NN 結合には関係しません.終了する
ときは“nitrogen bonding”を閉じなさい.
7
原子軌道と分子軌道
123
また,隣り合う二つの原子の間の部分を個々の“原子”に分けるような節を持つ軌道もあり
ます.そのような軌道はそれらの原子に関して反結合性であるとみなされます.反結合性軌道
に電子が入ることで結合は弱まり,原子を“離れるように”します.一方,この軌道から電子
が出ていくその反対の効果がもたらされます.下の図は二つの異なる種類の反結合性軌道の線
画と軌道表面を示しています.上述したように,左側と右側がそれぞれ,σ軌道とπ軌道に相
当します.
節
節
σ反結合性軌道
π反結合性軌道
“nitrogen antibonding”を開きなさい.左の画像は N2 のσ反結合性軌道(σ*)に相
当し,右の画像は二つの等価なπ反結合性軌道(π*)に相当します.画面右下の Style メ
ニューを用いて Transparent 表面か Mesh 表面に切り替えて,その下にある分子骨格を見
なさい.σ*軌道は一つの節(
“赤”から“青”への色の変化)が NN 結合の中間にあり,
π*軌道には二つの節(一つは NN 結合の中間に,もう一つはその結合沿いに)があるこ
とに注意しなさい.終了するときは“nitrogen antibonding”を閉じなさい.
結合は二つの異なる方法,すなわち一つは結合性軌道に電子を加えることによって,もう一
つは反結合性軌道から電子を除くことによって強められるというのが結論です.この逆もまた
おこります.結合は結合性軌道から電子を除くか,反結合性軌道に電子を加えることによって
弱められます.それらの例は“電子を取り除いたり加えたりするとどうなるか”の中で解説し
ています.
一重項メチレン
一般に,多くの原子を含む分子の分子軌道は分子全体に広げられます(“非局在化”).非局
在化した軌道は複雑な形をしていて,結合性,非結合性,反結合性あるいはそれら三つが混合
した.複数の相互作用を伴っています.それにもかかわらず,これらの形は二原子相互作用に
分割され,先に述べた原理を用いて解析されます.この過程を三原子分子である“一重項”メ
チレン,CH2,で説明します(“一重項”とはこの高い反応性を持つ分子の中に八個の電子があ
り,それらは四つの電子対にまとまっており,各々の電子対が異なる分子軌道を占めるという
124
エッセイ
ことからきています)
.
一重項メチレンの最も低いエネルギーを持つ分子軌道は炭素上の 1s 原子軌道のように見え,
この軌道はそれほど重要ではありません.この軌道を占める電子はその動きを炭素の原子核に
最も近い領域に限定され,結合に重要な影響をもたらしません.このような制限と軌道エネル
ギーがとても低いことから,この軌道は“内殻”軌道と呼ばれており,その電子は“内殻”電
子と呼ばれています.
メチレンの内殻軌道
その次の軌道は,はるかに高いエネルギーを持っています.この軌道表面は三つの原子を含
む一つの面から構成されています.これは各 CH 原子の対が同時に(σ)結合していることを
意味しています.
メチレンの CH 結合性軌道
次に高いエネルギーを持つ軌道は一つの CH 結合領域を取り囲む正(青)の表面ともう一つ
の CH 結合領域を取り囲む負(赤)の表面の二つの表面であらわされます .それぞれの表面が
*
結合を取り囲んでいるため,これらの軌道も各 CH 原子対に関して同時に(σ)結合を形成し
ており,これは軌道の結合性を強めています.二つの表面を分けている節は炭素核上を通って
いますが,どちらの CH 結合領域にも通っていないので,結合には影響しません.
メチレンの CH 結合性軌道
* 分子軌道の絶対符号(色)は任意ですが,相対符号(色)は結合性や反結合性の特性を示すことに注意
しなさい.
7
原子軌道と分子軌道
125
したがって,一重項メチレンにおける Lewis 構造の二つの CH 結合は,二つの“結合性”分
子軌道によって“置き換え”られます.
最高被占分子軌道(HOMO)もまた二つの軌道表面によってあらわされます.一つの表面は
二つの水素の反対側にある炭素の“非結合性”領域に広がっています.もう一つの表面は二つ
の CH 結合領域を取り囲んでいます.この図で節の正確な経路をたどることは難しいですが,
ほとんどぴったりと炭素を通っています.これはこの特殊な軌道が弱い CH 結合性(H---H 結
合)のみを持っていることを意味しています.つまり,この軌道の非結合性は結合性よりも重
要であり,一重項メチレンが電子対供与体(求核試薬)として振舞うことができることを示し
ています.
メチレンの HOMO
以上の解析は,一重項メチレンの被占軌道が三つの原子上に広がっている,あるいは“非局
在化”しているときには被占軌道が持つ意味を容易に理解することができるということを示し
ています.それらの軌道は,一つの低エネルギー“内殻”軌道と三つの高エネルギー“原子価”
軌道の二つに分けられます.後者は二つの CH 結合性軌道と炭素上の一つの非結合性軌道から
構成されています.これらの軌道と Lewis 構造との間には 1 対 1 の一致はありません.結合性
軌道は特定の軌道とは結びつきません.非結合性軌道もまた結合性相互作用を伴います.
“methylene bonding”を開きなさい.四つの画像は一重項メチレンの内殻と三つの原
子価軌道に相当します.画面右下の Style メニューを用いて Transparent 表面か Mesh 表
面に切り替えてその下にある分子骨格を見なさい.終了するときは“methylene bonding”
を閉じなさい.
一重項メチレンは空軌道も持っています.その空軌道は被占軌道よりもエネルギーが高く
*
(より正)
,空の軌道であるため一重項メチレンにおける電子分布をあらわしません .それで
も空軌道の形,特に最低空軌道(LUMO)の形はメチレンの化学反応性を理解する上で有益な
情報を提供してくれるため,考察する価値があります.
*空軌道と(結合電子対と孤立電子対をあらわすための)Lewis 構造間に直接的な類似点はありません.
126
エッセイ
メチレンの LUMO は非結合性であり,炭素上の 2p 原子軌道上のように見えます.このこと
は一重項メチレンが電子対受容体(求電子試薬)として振舞うことができることを示唆してい
ます.しかし,その分子が電子を受け取ると,
“過剰”の電子がこの炭素の非結合性軌道を占め
ることになります.すなわち,炭素はより電子に富みますが CH 結合には影響しないことに注
意しなさい.
メチレンの LUMO
“methylene LUMO”を開き,画面右下の Style メニューを用いて Transparent 表面か
Mesh 表面に切り替えてその下にある分子骨格を見なさい.終了するときは“methylene
LUMO”を閉じなさい.
フロンティア軌道と化学反応性
化学反応は通常,“電子供与体”(塩基,求核試薬,還元剤)から“電子受容体”(酸,求電
子試薬,酸化剤)への電子の移動を伴います.この分子間の電子移動は分子軌道間の電子移動
とも考えることができ,
“電子供与体”と“電子受容体”の軌道の性質は化学反応性を理解する
上で重要な情報を与えてくれます.
化学反応の分子軌道図を描く第一段階は電子供与性軌道と電子受容性軌道として最もふさ
わしい軌道を決めることです.電子供与性軌道は被占軌道から,電子受容性軌道は空軌道から
選ばれるのは明らかですが,多くの組み合わせがあります.
通常は.軌道エネルギーがそれらを決める要因になります.一般に,最高被占軌道(HOMO)
が最も電子供与性軌道としてふさわしい軌道であり,最低空軌道(LUMO)が電子受容性軌道
に最もふさわしい軌道です.例えば,一重項メチレンの HOMO と LUMO(それぞれσとπの
非結合性軌道)はそれぞれ電子供与性軌道と電子受容性軌道の役割を果たします.HOMO と
LUMO をひとまとめにして“フロンティア軌道”と呼び,ほとんどの化学反応はそれらの間で
電子移動を伴います.つまり,電子移動に必要なエネルギーは最小限に保たれるのです.
7
原子軌道と分子軌道
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空軌道
エネルギー
フロンティア
分子軌道
被占軌道
化学者にとって重要な問題の一つは化学的な選択性です.試薬の組み合わせが一組以上ある
反応において,どの組み合わせがまず反応するのか,その答えはフロンティア軌道エネルギー
を検討することによって調べることができます.電子供与体の HOMO から電子の供与を必要
とするような化学反応における電子供与性の試薬について考えてみましょう.一番高いエネル
ギーの HOMO を持つ電子供与体が最も簡単にその電子を手放すことができるため,高いエネ
ルギーを持つ HOMO が最も反応性が高いと考えるのが合理的です.電子供与性試薬の場合は
その逆となります.最も低いエネルギーの LUMO を持つ試薬は最も容易に電子を受け取ること
ができるため,最も反応性が高くなります.いくつもの供与性,受容性試薬の混合物の組み合
わせに対して,最も速い化学反応は HOMO-LUMO 間のエネルギーギャップが最小になる試薬
の組み合わせでおこると予想されます.
もう一つの選択性に関する問題は分子が複数の反応部位を持っているときに生じます.この
場合,軌道エネルギーは“位置選択性”に関しては役に立たないので,関連する軌道の形だけ
が重要となります.例えば,下に示す酢酸エチルのエノラートは二つの異なる部位で求電子試
薬(E+)と反応する可能性があります.
アニオンが電子供与体として働くため,その HOMO の形を検討することによってその反応
の優位性を解く糸口を見つけることができます.HOMO はいくつかの部位にわたって非局在化
していますが,最も大きな寄与は明らかに末端の炭素原子に由来しています.それゆえ,この
炭素上で電子の移動と結合の生成がおこり,左に示した生成物を与えると予測することができ
ます.
128
エッセイ
酢酸エチルエノラートの HOMO
“ethyl acetate enolate HOMO”を開き,Mesh 表面と Transparent 表面を切り替えて
その下にある分子骨格を見なさい.終了するときは“ethyl acetate enolate HOMO”を
閉じなさい.
Woodward-Hoffmann 則
複数のフロンティア軌道の相互作用を考えなければない場合があります.これは特に 1,3-ブ
タジエンとエチレン間の Diels-Alder 反応のような“付加環化”反応に当てはまります.
この反応のカギとなる点は反応物が同時に二つの結合を形成することにあります.これは二
つの異なる部位でフロンティア軌道相互作用がおきることを意味しています(形成される新し
い結合は反応中にお互いに相互作用がおきないくらい十分に離れています).
各分子の末端炭素
の相互作用に焦点を当てると,三つの異なるフロンティア軌道の組み合わせが考えられます.
軌道の相互作用
軌道の相互作用
強められる
相殺される
全ての組み合わせで“上側”の軌道は同じ符号であり,それらは好ましい重なりとなってい
ます.左と真ん中の二つの組み合わせについても,下側の軌道も好ましい重なりとなっていま
す.つまり,二つの相互作用は強められ,フロンティア軌道相互作用全体としてはゼロでなく
7
原子軌道と分子軌道
129
なります.その結果,電子の移動(化学反応)がおこります.右端の組み合わせの場合はそれ
と異なります.この組み合わせは好ましくない重なりになっており(相互作用をおこす部位で
軌道が逆の符号を持っている)
,重なり全体としてはゼロになります.この場合は電子の移動も
化学反応もおこりません.
実際,上に示した Diels-Alder 付加環化反応におけるフロンティア軌道相互作用は中央に描か
れた図のようになります.すなわち,上側と下側の相互作用が強められ,反応が進みます.
“1,3-butadiene + ethylene”を開きなさい.上の画像はエチレンの LUMO で,下の画
像は 1,3-ブタジエンの HOMO です.それらは当然,相互作用のために“固定”されてい
ますが,このデータではそれらを単独に動かすことができます.終了するときは
“1,3-butadiene + ethylene”を閉じなさい.
しかしながら,二つのエチレン分子の付加環化では(下図),右端の図のようなフロンティ
ア軌道の組み合わせを持つため,反応はおこりません.
“ethylene + ethylene”を開きなさい.上の画像は片方のエチレンの LUMO で,下の
画像はもう片方のエチレンの HOMO です.それらは一つずつ,またはまとめて操作する
ことができます(Ctrl キーを押しながら回転や平行移動させます).この場合,二組の“原
子-原子”相互作用はキャンセルされることに注意しなさい.終了するときは“ethylene
+ ethylene”を閉じなさい.
「なぜ,ある一定の反応は容易に進むのにその他の“類似反応”はまったく進まないのか」
を考える上で軌道の重なりの重要性を初めて提唱したのが Woodward と Hoffmann です.そして,
彼らの考えの集大成が現在,Woodward-Hoffmann 則として知られています.
130
エッセイ