『受刑者における死亡の分析』

様式2
2015年度環境医学実習報告書1班
『受刑者における死亡の分析』
指導教官 大島 明
実習学生 石川 匠
小川 敦史
大西 陽之
松川 敦紀
1.背景
・日本における刑務所
日本の刑務所ではタバコは明治時代より禁止されている。2006 年までは留置施設では、自費で購
入したタバコについて一日 2 本まで吸うことが許されていた。
しかし、2006 年より自由に身体の移動ができない留置施設において、受動喫煙の防止を徹底する
ため、この留置施設でも全面禁煙となった。
したがって、刑務所、拘置所ではすでに完全禁煙であるため、逮捕または起訴され身柄拘束された
者は、その身柄が解放されるまでタバコを吸うことはできないということになっている。
・日本における判例
公職選挙法違反で逮捕された X さんは、有罪判決確定前に留置場から刑務所に移されたときに、
タバコの所持を認められなかった。X さんは喫煙を認めない根拠とされた旧監獄法施行規則 96 条
が違憲無効であること、そして、喫煙の自由が憲法上保障されていることを主張した。裁判は最高
裁まで争われ、昭和 45 年に判決が出された。
以下、判決、抜粋。
「未決勾留は、刑事訴訟法に基づき、逃走または罪証隠滅の防止を目的として、被疑者または被告
人の居住を監獄内に限定するものである」
「必要な限度において被拘禁者の自由に対し合理的制限を加えること」は許され、その「制限が必
要かつ合理的なものかどうかは制限の必要性の程度と制限される基本的人権の内容、これに加えら
れる具体的制限の態様との衡量の上にたって決せられる」
「喫煙に伴う火気の使用に起因する火災発生のおそれが少なくなく、また、喫煙の自由を認めるこ
とにより通謀のおそれがあり、監獄内の秩序の維持にも支障をきたすものである」。
「喫煙を許すことにより、罪証隠滅のおそれがあり、また火災発生の場合には被拘禁者の逃走が予
想され、かくては、直接拘禁の本質的目的を達することができないことは明らかである。のみなら
ず、被拘禁者の集団内における火災が人道上重大な結果を発生せしめることはいうまでもない。」
「ある程度普及率の高い嗜好品にすぎず、喫煙の禁止は煙草の愛用者に対しては相当の精神的苦痛
を感ぜせしめるとしてもそれが人体に直接生涯をあたえるものではない」
「喫煙の自由は、憲法 13 条の保障する基本的人権の一含まれるとしても、あらゆる時、所におい
て保障されなければならないものではない」
として、結局 X さんの主張は認められなかった。
・オーストラリアの刑務所
2015 年 6 月 30 日、ビクトリア州メルボルンの刑務所で喫煙禁止の規則をめぐって受刑者が暴動を
起こし、所内からは煙も昇っており、約 300 人の受刑者が重警備刑務所で抗議行動を行っていると
報道された。
メルボルンの西、レイブンホールのメトロポリタン・リマンド・センターで、午後零時 20 分頃、所内
で 300 人ほどの受刑者が示威行動を始めた。そのため、刑務所側は鎮圧のため、盾を持った機動隊の
出動を要請した。
午後 6 時前には施設内から銃声も聞こえたと伝えられているが、鎮圧に用いられる催涙弾発射音な
のか、銃声なのかは明らかになっていない。また、犬の吠え声も聞かれると伝えられている。また、刑
務所内の監視のため、ドローンも飛ばされ、警察のヘリコプターや装甲車も現場に出ている。さらに
機動隊員が正門から行進して入っていたとの目撃もある。
ジャン・シュアード矯正局長官は、「大勢の受刑者が騒いでいる。7 月 1 日から州の全刑務所が禁煙に
なるため、それに反対して騒いでいるのかも知れないがまだ確認できていない。状況は平静だが、騒
ぎの原因も何も現段階でまったく不明だ」と発表している。
・ニュージーランドの刑務所
ニュージーランドでは、2011 年 7 月 1 日より国内で smoke-free prison policy が推進されており
受刑者、従業員、訪問者に対して刑務所内での禁煙を促してきている。
2012 年 6 月に発表された調査によると、以前喫煙していた対象者の 67%が完全禁煙に成功したと
伝えている。上述のオーストラリアの刑務所の例とは違い、受刑者にこの政策が受け入れられたの
には3つの要因があると考えられる。第一に、地域の更正課と個々の矯正施設の両方による包括的
な準備があったことである。第二に、禁煙支援サービスの利用しやすさ、幅広さ、基準である。そ
して第三に、海外での経験から学び、屋内と屋外の両方をカバーするような政策を制定したことで
ある。これらの要因により、ニュージーランドの刑務所における禁煙政策は成功したと考えられる。
2.目的
受刑者の生活習慣は、刑務所等の行政施設に収容される前は一般人口に比して不健康と想像され
るが、日本の場合、刑務所等に収容されて以降は禁酒・禁煙を強制されるため、これが受刑者の健
康にどれ程の影響を与えているかを刑務所等在所中の死亡状況を分析して検証した。
3.方法
法務省矯正統計の年報には,各年末における受刑者の性年齢階級別内訳 と在所受刑者における
死因別死亡データ(2006 年から 2013 年まで)が示されている。受刑者における女性の占める割
合は約 6~8%と少数であった。
在所受刑者における死因別の死亡者数に関しては,矯正統計に示された死因の中から,総数,胃が
ん,肝がん,肺がん,急性心筋梗塞,脳血管疾患,肝硬変,肺炎を選んで集計解析することとした。
なお,外因による死亡に関しては,外因の影響別の死亡数のみが示されているだけで外因別の集計
は示されていないため,自殺に関しては分析できなかった。
一般人口における死亡率は,e‐Stat の人口動態調査死亡統計の,2006 年から 2013 年の性・年齢
別にみた死因簡単分類別死亡率(人口 10 万対)から得た。この死亡率を対応する各年の性・年齢
階級別受刑者の数にかけ合わせその合計として各年の各死因による死亡数の期待値を計算した。こ
こで、各年の年齢階級別受刑者数は、当該年の年末と前年の年末の年齢階級別受刑者数の平均とし
た。また、受刑者の年齢階級別内訳は、15 歳以下、16,17 歳、18,19 歳、20‐22 歳、23‐25 歳、
26‐29 歳、30‐39 歳、40‐49 歳、50‐59 歳、60‐69 歳、70 歳以上となっているが、人口動態
死亡統計における死亡率は 5 歳階級別に示されている。このため、
受刑者における 15 歳以下、
16,17
歳、18,19 歳、20‐22 歳、23‐25 歳、26‐29 歳の年齢階級の死亡数の期待値は、各々10‐14 歳、
15‐19 歳、15‐19 歳、20‐24 歳、20‐24 歳、25‐29 歳、30‐34 歳と 35‐39 歳の平均、40‐
44 歳と 45‐49 歳の平均、50‐54 歳と 55‐59 歳の平均、60‐64 歳と 65‐69 歳の平均、70‐74
歳の死亡率を用いた。このようにして求めた期待値に対する実測値の比の 95%信頼区間は,Open
Source Epidemiologic Statistics for Public Health1)の Standardized Mortality Ratio の Mid-P
exact test によって求めた。
4.結果
2006年~2013年の男性の在所受刑者における主要死因別死亡数の実測値と期待値を最終ページ
の表で示す。死亡総数の総計は、期待値(E)1870.8人に対して実測値(O)は2546人、O/E比は
1.36(95%信頼区間:1.309-1.415)で有意に1より大きかった。胃がん死亡の総計は期待値110.0
人、実測値120人、O/E比は1.09(95%信頼区間:0.9084-1.300)で有意差なく、肝がん死亡の総
計は期待値80.2人、実測値は214人、O/E比は2.67(95%信頼区間:2.328-3.044)で有意に1より
大きく、肺がん死亡の総計は、期待値152.3人、実測値114人、O/E比は0.75(95%信頼区間:
(0.6203-0.8958)で有意に1より小さかった。急性心筋梗塞死亡の総計は、期待値78.5人、実測値
92人、O/E比は1.17(95%信頼区間:0.9502-1.431)で有意差は認められず、脳血管疾患死亡の総
計は、期待値152.2人、実測値233人、O/E比は1.53(95%信頼区間:1.344-1.737)で有意に1より
大きかった。肝硬変死亡の総計は、期待値27.7人、実測値103人、O/E比は3.72(95%信頼区間:
3.051-4.491)で、有意に1より大きかった。肺炎死亡の総計は、期待値67.1人、実測値168人で、
O/E比は2.50(95%信頼区間:2.146-2.904)で、有意に1より大きかった。各年別に死因別の期待
値と実測値をみても総計とほぼ同じような傾向であった。
また、女性の受刑者は少数であったので、集計結果を表示しなかったが、死亡総数の期待値、実測
値、O/E比は各々70.9人、130人、1.83 (95%信頼区間:1.538-2.170)で、肝がん死亡の期待値、実
測値、O/E比は、各々6人、1.9人、3.2(95%信頼区間:1.280-6.568)で有意に1より大きかったが、
他の死因では実測値が小さく有意差は認められなかった。
5.考察
・受刑者の喫煙率について
調査開始当初、刑務所等の行刑施設に収容される前の受刑者の喫煙率に関する正確な調査結果は報
告されていなかった。
しかし,時事通信 2012 年 12 月 20 日配信の記事によると,「警察庁が今年7月に全ての留置人約
1万 1600 人の実態を調べたところ 61%であった」とのことである。この 2012 年7月の留置人の
喫煙実態調査について、
警察庁に問い合わせた結果、以下のようなデータを入手することができた。
・被留置者の喫煙状況に関する調査(警察庁調べ)
○概要
平成 24 年 7 月 9 日~13 日における成人の被留置者の喫煙状況(期間内における被留置者
の人員、喫煙者、男女別)
○調査結果
対象期間内の被留置人員(単位:人)
成人男性 10,313 人(うち喫煙者 6,454 人)喫煙率 62.3%
成人女性 1,298 人(うち喫煙者 588 人)喫煙率 45.3%
全体 11,611 人(うち喫煙者 7,042 人)喫煙率 60.6%
2013 年の国民健康栄養調査(第 75 表)の喫煙率 19.3%(男性 32.2%,女性 8.2%)なので、一般
人口と比較した結果は、実際は男性については一般の 2 倍、女性については 5 倍以上であること
がわかる。
・肺がん死亡が一般人口に比して小さくなったことに対する考察
受刑者が収容とともに禁煙したことが理由であると考えられる。
データを入手することができれば,収容の期間別に見た死亡に関して収容の期間別に分析して、禁
煙と肺がん死亡リスクの軽減との関連をもっと明確に示すことができるが、今回使用した矯正統計
からはそのようなデータを得ることができなかった。
・肺炎死亡が一般人口に比して大きくなったことに対する考察
肺がん死亡は一般人口に比して小さくなっているが、肺炎死亡が一般人口に比して大きくなってい
る。これは、刑務所という閉鎖された空間においては、肺炎を患っている囚人がいた場合に他の囚
人に感染しやすいことが原因かもしれない。
・急性心筋梗塞死亡では一般人口に比して差を認めなかったことに対する考察
収容前の喫煙状況のままであれば急性心筋梗塞による死亡は一般人口に比して高かったはずなの
で、収容に伴う禁煙によって急性心筋梗塞死亡のリスクは減少したが,一般人口より低くはならな
かったことが理由であると考えられる。
一方,受刑者における脳血管疾患死亡は,収容後も一般人口よりもなお高いレベルにとどまってい
た。このことについては、肺がんでは喫煙がその原因の大部分を占めるのに対して,心筋梗塞や脳
血管疾患では喫煙以外の要因も関連しており,収容によるストレスなどの要因のため,禁煙を強制
されてもこれらの疾患による死亡が肺がんのようには大きくは減少しなかったと考えることがで
きる。
・受刑者の肝がん死亡が一般人口に比して大きいということに対して
今回の私達の調査で特徴的だったのは受刑者における肝がん死亡の O/E 比が,男性,女性で各々
2.67,3.16 といずれも有意に 1 より大きく,男の肝硬変死亡の O/E 比も 3.72 で有意に 1 より大き
かったことである。
受刑者においては,覚せい剤の廻し打ちや刺青に関連して C 型肝炎の感染の機会が多く,受刑者に
おける C 型肝炎ウイルスのキャリアの有病率は一般人口よりも高いと推定される。
次に関連する先行研究を提示する。
・関連する先行研究から分かったこと
Binswanger らの研究 2)では、受刑者における喫煙率データと各種統計を用いて,刑務所において
何らかの喫煙規制をおこなっている州における全死因,がん,心血管疾患および呼吸器疾患による
死亡の調整リスク比は、がん死亡以外では有意に 1 より小さくなったことが示された。
米国では刑務所に収容されている受刑者の C 型肝炎慢性感染の有病率は 12~35%で一般人口におけ
る 1.3%に比して非常に高いとされている 3)。
さらに、テキサス州の刑務所に収容された男性における 1992-2003 年の死亡データ
4)
によると,
受刑者における肝がん死亡はテキサス州人口を標準とした場合の期待値の 4.7 倍(95%信頼区間:
4.0-5.6)
,米国全体を標準人口にした場合の期待値の 6.3 倍(同 5.3-7.5)であった。
6.まとめ
受刑者は社会経済的にハンディキャップを有しており,不健康な生活習慣,慢性疾患,そして精
神障害を抱えている人が多いが、受刑者に対する適切な保健医療の提供は,公衆衛生上無視するこ
とができない重要な課題である。さらに,退所後の「健康的」な生活習慣の維持も重要な課題であ
る。今回の調査研究の結果を受けて,日本における受刑者の健康管理の今後のあり方に関し,退所
後の禁煙継続のための支援を行うこと,そして入所時の C 型肝炎検診と発見した C 型肝炎ウイル
スのキャリアに対する適切な治療を組織的系統的に実施することを私たちは提言したいと思う。
7.参考文献
1)Open Source Epidemiologic Statistics for Public Health. Standard Mortality Ratio.
2)Binswanger IA, et al.: BMJ. 2014 Aug 5; 349: g4542.
3)Weinbaum C, et al.: MMWR Recomm Rep. 2003; 52:1-36.
4)Harzkea AJ, et al.: Prev Med. 2009 ; 48(6): 588–592.
表:2006年~2013年の男性の在所受刑者における主要死因別死亡数の実測値と期待値
死因
死亡数
2006
2007
2008
2009
年
2010
2011
2012
2013
総計
総数
実測値(O)
318
324
354
341
368
273
280
288
2546
期待値(E) 237.7 245.5 245.2 241.1 236.8 235.7 219.2 209.6
1870.8
O/E
1.34 1.32 1.44 1.41 1.55 1.16 1.28 1.37 1.36(1.309-1.415)
胃がん
実測値(O)
14
14
13
23
24
12
10
10
120
期待値(E)
14.6 14.9 14.6 14.4 13.9 13.2 12.5 11.9
110.0
O/E
0.96 0.94 0.89 1.60 1.73 0.91 0.80 0.84 1.09(0.9084-1.300)
肝がん
実測値(O)
25
32
18
23
27
29
31
29
214
期待値(E)
11.6 11.6 11.3 10.5
9.9
9.1
8.5
7.7
80.2
O/E
2.16 2.76 1.59 2.19 2.73 3.19 3.65 3.77 2.67(2.328-3.044)
肺がん
実測値(O)
12
15
19
17
12
10
9
20
114
期待値(E)
18.0 19.0 19.6 19.4 19.5 19.2 19.0 18.6
152.3
O/E
0.67 0.79 0.97 0.88 0.62 0.52 0.47 1.08 0.75(0.6203-0.8958)
急性心筋梗塞
実測値(O)
5
11
16
12
15
10
13
10
92
期待値(E)
10.5 10.3 10.3 10.2
9.7
9.8
9.2
8.5
78.5
O/E
0.48 1.07 1.55 1.18 1.55 1.02 1.41 1.18 1.17(0.9502-1.431)
脳血管疾患
実測値(O)
34
19
44
45
29
24
18
20
233
期待値(E)
20.4 21.0 20.6 20.0 19.2 18.2 17.0 15.8
152.2
O/E
1.67 0.90 2.14 2.25 1.51 1.32 1.06 1.27 1.53(1.344-1.737)
肝硬変
実測値(O)
10
15
23
9
15
5
12
14
103
期待値(E)
4.2
4.1
3.9
3.7
3.4
3.1
2.8
2.5
27.7
O/E
2.4
3.7
5.9
2.4
4.4
1.6
4.3
5.6 3.72(3.051-4.491)
肺炎
実測値(O)
23
19
21
21
20
20
23
21
168
期待値(E)
7.8
8.4
8.7
8.3
8.5
8.9
8.4
8.1
67.1
O/E
2.95 2.26 2.41 2.53 2.35 2.25 2.74 2.59 2.50(2.146-2.904)