なぞめいた女 その女は夕暮れの街を、なにか思いつめたようすでさまよっていた。二十歳ぐらい。容貌も悪くはなかっ た。しかし、通りがかった*1 警官は、気になるものを感じを声をかけた。 「もしもし、不審尋問をしようというではありませんが、何かお困りのことでも...」 万一、川や線路に飛び込み、自殺などされたらことだと思ったからだった。女は立ち止り、顔を上げた。だ が、首をかしげたままで、答えようとなかった。警官はいつもの癖で、手帳を出しながら質問をつづけた。 「お住まいはどちらですか」 「それが...」 女は言いかけたが、そこで口ごもった。 いえで 「ははあ、 家出 をなさったのですね。考え直したほうがよろしいと思いますよ。家出はすべて、哀れな始末 になるものです。もし、ひとりで帰りにくいのでしたら、お送りしましょう。さあ、お名前と住所とをおっ しゃってください」 「それが...」 女はまた口をつぐんだ*2 。 「遠慮なさることはありません。どうなさったのです。家出ではなく、別な事情があるのですか。さしつか えなければ、お話になってください」 女は手でひたいを押さえながら、やっと話し始めた。 「お話ししたいんですけれど、なにも思い出せないんです。住所や名前さえも...」 警官はしばらく、目をぱちぱち*3 させるだけだった。こんな事件は、はじめてだ。 「ははあ、記憶喪失症とかになったわけですね。なんで、そんなことになったのです」 「それも思いだせませんわ」 記憶喪失なら、それも当然だろう。事情が分かってみると、ほっておくこともできない。署に連れて帰るこ とにした。 警察は、とんでもないものをしょいこんだ形になってしまった。まず、ハンドバッグを開けさせたが、名刺 や定期券のたぐいは見当たらず、役に立ちそうな品はなかった。署長たちは、思いつくままに、いろいろな質 問をし、彼女のほうも首をかしげたり、目をつぶったり、つめをかんでみたりした。だが、事態は少しも進展 しなかった。 容疑者なら、おどかして口を割らせることもできるが、この場合はそうもいかない。また、身元不明の死体 かいぼう よりも、はるかに始末が悪かった。死体なら発見した場所を手がかりにもできるし、服をぬがせて 解剖 して調 べることもできる。しかし、生きていては... やがて、警察の嘱託医*4 が呼ばれた。一通り診察を済ませたあと、 「頭を殴られたり、薬品を飲んだりしたようすもありません。心理的なショックが原因ではないかと思われ ます。私の手には負えません。一流病院の、専門医に任せるべきでしょう」 それを聞き、みなは頭をくもらせた。専門医に任せるのもいいが、全快までどれぐらいかかるものか、 *1 一般説通りががり、通りかかる 嘩む *3 又如:ぱちぱちと手をたたく; 暖炉のたきぎがぱちぱち燃える; ぱちぱち写真を撮る *4 しょくたくい、特約医生 *2 1 けんとう すじょう *5 がつかない。本人の 見当 素性 が分からないのだから、健康保険も利用できない。もし、この症状がつづいた ら、金がかる一方だ。 せつゆ 犯人なら検察庁へ送ればいいし、酔っ払いなら 説諭 して追い返せる。死体ならば、冷凍室に入れっぱなしで もいい。だが、記憶喪失では、そうもいかないのだ。 その夜はいちおう、署内にとめることにした。明日まで待ち、やはり変化がないようなら、新聞社に連絡 し、記事にしてもらうよりほかに方法はなさそうだ。写真を見て、知人が現れないとも限らない。 次の朝、警官は女に聞いた。 「どうですか。ひと眠りなさって、なにか思い出しませんでしたか」 「ええ、だめですわ。だけど、数字が浮かんできましたわ。あたしと関係があるような気がするんですけ ど...」 と、女は一連の数字を言った。警官はそれを書きとめ、しばらく考えていたが、「もしかすると、電話番号 かもしれません。これを手がかりに、調べてみましょう」 てはい さっそく 手配 がなされ、電話の持ち主である男が出頭*6 してきた。 「お忙しいところをおいでいただいて、もうしわけありませんが、じつは、あの正体不明の女をもてあまし、 みなは困りきっているのです。あなたがご存知だと、助かるのですが」 警官の指差す女を見て、男はうなずいた。 あくじ 「知っていますとも。私はある劇団の演出家*7 で、彼女は俳優です。どうしてここに... なにか 悪事 でも...」 警官はほっとした。確実な引き取り先が見つかれば、それでさわぎは終わりとなる。 「いや、保護して差し上げただけです。どうぞ、お連れになってください。彼女になにか、精神的なショッ クを受けているようです。なぐさめてあげれば、すぐよくなるでしょう」 「そういえばきのう、劇のことちょっと注意をしました。そんな下手な演技が通用するのは、しろうとか子 供相手のときぐらいだろう。真価を発揮してみせろ。そうでないと、こんどの主役など、とんでもない。と、 いったようなことです。しかし、そうひどいショックを与えたとも思えませんが」 男は弁解めいた口調で不思議がった。だが、警察にとって、そんなことまで立ち入る必要はない。問題さえ 片付けばそれでいいのだ。 「何はともあれ、われわれは安心しました。一時は、どうなるかと思いましたよ。では、お大事に」 警察は二人を送り出した。男にともなわれて帰りながら、女はこっそりとささやいた。 「こんど上演する「記憶を失った女」の主役のことですけど...」 *5 訓読「みあたり」時多了一個意思=さがしていたものが見つかる (現代では多く否定の形で使う)「めがねが見当らない」 被傳喚 *7 導演、舞台監督 *6 2
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