この人を見よ!

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ヨハネによる福音 66
この人を見よ!
18:38-19:16
「茨の冠」という言葉から詩人や画家たちが描いたイメージは、教父クレ
メンス以来 1700 年間は変わらなかったもので、
「血潮したたる主の御かしら」
という聖ベルナルドの詩に代表されます。ゼフィレッリさんの映画“Jesus of
Nazareth”の写真集で、その場面を確かめてみましたら、昔の絵のような「お
いたわしや」という感情を刺激する、バラの棘ではなくなっていますが、や
はり大多数、大方のイメージを壊さないような形のを、ロバート・パウエル
さんのイエス様に巻きつけてあります。
私たちが聖画で見るようなイメージを作った人は、アレキサンドリアのク
レメンスという学者です。バッハも「マタイ受難曲」を書きながら大体同じ
ような絵を頭に描いていたと思います。おもに苦痛を与えるために鋭い棘が
突き刺さるような冠です。
この冠は王冠ではないという考えは、「冠」と訳した語「ステファノス」
からも言われてきました。王の頭上の冠は、「ディアディマ」と呼
ばれ、英語の diadem はこのの訛ったものです。薄い金属のバンド
か鉢巻のように頭に巻いて留めました。これに対し、ここに使われている「ス
テファノス」は、オリンピックの勝者などが受けた「花かずら」や「月桂冠」
に模したもので、王権の象徴とは違うとは、古い注解書が一致して書いてい
るところです。これを「茨で」編んだとすれば頭に載せて押し付けた時には、
棘が食い込んで血が流れるような、苦痛の道具として理解されてきました。
Morris の注解書も“an instrument of torture”―「拷問の道具」と見る
古来の見方が正しいとします。
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ところが、これは 5 節のピラトの漫画的演出から見ても、王冠に見立てて
いる意味の方が強いのではないか、と見直す人たちも出ました。ステファノ
スは、オリンピックの月桂冠ゃ祭礼の花かずらを指す用例が多いけれども、
この場合、兵営内のあり合わせの木の小枝か、草を巻いて作ったから「ステ
ファノス」(巻き冠 <,巻く)と呼んだもので、やはり王様の漫画
を作って、嘲笑するのが主目的だったろうと、見直す人たちも現れたのです。
ちなみに diadem も、語源の意味からだけ言えば、(巻く)に由来し
て「巻き冠」で同義の言い換えになります。
25 年前に出た Hart という人の研究は、Tasker の注解書に紹介されていま
す。私も 10 年前の「(旧)マルコによる福音」で、この研究に注目しました。
Hart の論文というのは、当時のコインなどに描かれている王冠の特徴などか
ら見ても、「トゲの冠」というのは、上に向かってトゲトゲがこう、放射状
に並んでいる「ラジアル形状の冠」であろうという推定です。この場合イエ
スにかぶらせたのは、材料は多分シュロの葉かそれに似たもので、そのトゲ
トゲかピラピラが「立つ」形の冠をこしらえて漫画にした、という説明です。
これではあまり痛くないので、イメージが壊れた人も多かった代わりに、5
節の戯画的演出が生きてきました。「茨の突き刺さる冠」でなく「トゲトゲ
の形の王冠」です。
1.国王の漫画を作って演出するピラト。
18:38-19:6a.
38.ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言っ
た。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。 39.ところで、過越祭には
だれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の
王を釈放してほしいか。」 40.すると、彼らは、「その男ではない。バラバ
を」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。 19: 1.そこで、ピラト
はイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 2.兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭
に載せ、紫の服をまとわせ、 3.そばにやって来ては、
「ユダヤ人の王、万歳」
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と言って、平手で打った。 4.ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの
男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も
見いだせないわけが分かるだろう。」 5.イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を
着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 6.祭司長た
ちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と
叫んだ。
ピラトの演出の目的は、無様なイエスに対する憐憫を、群集に感じさせる
ためでした。こんな憐れな無力な奴を、反逆罪で訴えたことが滑稽に思える
くらい、イエスを見苦しくボロボロにして見せる。そのための小道具の一つ
として、トゲトゲが上を向いて立った冠を用意したのです。5 節ではまさに
そんな姿で、イエスは群衆の前に引き出されます。
ピラトのセリフ、「見よ、この人だ」は、讃美歌の歌詞にあるような、「こ
の人を見よ。この人にぞ……」のイメージとは違って、「見るがいい。こや
つだ」、「こんなザマだぞ」という感じで、は新共同訳の
「見よ、この男だ」が近いでしょう。もっとも、このラテン語訳“Ecce homo.”
は余りによく知られて、エルサレムには「Ecce homo の会堂」というチャペ
ルまで建てられました。「見るがいい・こやつだ」の会堂と読んでしまえば、
恰好がつかないでしょうが。
総督ピラトとしては、何とか同情心に訴えて、「もう許してやれよ」とい
う心情をかき立てたいのですが、ことは総督の目算とはますます離れて来ま
す。何がどうあっても、イエスを十字架刑にしてさらしものにしたい祭司長
らの執念を、ピラトは誤算していました。「惨めな王様」の喜劇は「受けな
かった」のです。
18 章の終わりの所は、祭の時の恩赦の特典をこの男に与えてやれ、という
総督の暗示です。「ユダヤ人の王」はただの狂信者で、ゲリラでも工作員で
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もないことは明白ではないか、と鎌を掛けるのですが、相手は乗ってこない。
乗ってこないどころか、本物のゲリラらしいバラバを釈放してやれと言いま
す。よほど人気があったのです……バラバの方が。
それで今度は鞭で打ち据えて、ズタズタにしたのを見せて、「もうよかろ
う。こんなのが王に見えるか」と持ちかけたが、どうしても十字架刑にして
殺せと群衆は息巻きます。ピラトの作った漫画は効果なしです。漫画といえ
ば、トゲトゲの立った棕櫚の王冠もそうですが、紫の上着はこれも、王の威
厳を漫画化したものです。材料は、ローマ軍の下士官か将校のものを持って
きて着せた―どうせ古手のコートでしょう。
こうして 5 節では、イエスは仕立てられた王者よろしく、トゲトゲの王冠
を頭に載せ、紫の上着を被せられた姿で、群集の前に出てこられます。この
絵に「見るがいい。この男だ」が重なるのですが、これを書いているヨハネ
としては、また別の視点から読者に、謎をかけています。
「見よ、この人を!」
―これは果してだれの王か? あなたは王の支配を仰がずに、自分を自分で
治めるつもりなのか!
2.ピラトの圧力と群集の脅迫。
6b-12.
ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わ
たしはこの男に罪を見いだせない。」 7.ユダヤ人たちは答えた。「わたした
ちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子
と自称したからです。」 8.ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 9.
再び総督官邸の中に入って、
「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。
しかし、イエスは答えようとされなかった。
「十字架につけろ」(6a)はギリシャ語では一語で、「スタヴロソン」
です。英語では crucify him. と目的語を入れないと他動詞がし
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まらず、二語になります。音節から言っても、英語より一拍少ないのですが、
これで、「スタヴロソン、スタヴロソン」とシュプレヒコールが始まって、
停まらなくなります。これに対するピラトの返事は、イヤミというか、意地
悪い拒絶です。
「お前たちが自分で連れて行って、自分で十字架刑にせよ。」ユダヤ人の
側では、それが不可能だから連れて来ているのです。石撃ちの刑なら宗教裁
判の延長で黙認されているけれども、十字架はローマ軍と総督府による処刑
に限られていました。それをどうしても、自分たちユダヤ人の力で実現した
い。イエスを何としても「木の上に」さらしたい。この執念に対してピラト
が、「やりたければやれ。お前たちにできるか!」と突っぱねた言葉です。
「私の判決ではこの男は無罪。ローマ法に触れる犯罪の嫌疑は何も無い。」
ユダヤ人の 7 節の答えは、「総督閣下が無罪とおっしゃっても、我々の宗
教法に照らせば死罪。これをあなたが認めないと、まずいことになりますぞ。」
この時、「自分を神の子と主張した」という言葉が、ピラトの迷信的恐怖心
をかき立てたか、このあと、イエスを邸内に引き戻して尋ねた時のイエスの
お言葉が、何かピラトの心を動かしたか、逆にイエスは単なる狂信者だとい
う確信を裏付けたのか……その対話はこうです。
10.そこでピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限
も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」 11.
イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の
権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重
い。」 12.そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。
ユダヤ人たちは、ここで「最後の切り札」を出して総督を脅迫します。
しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなた
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は皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
中途半端にこの男を赦したら、あなたの首が飛びますぞ、という意味です。
皇帝の側近へは、我々の側でもパイプは通じている。「ユダヤで起こった皇
帝への大逆罪をピラトは見逃した。総督は務めを怠った。」そう報告しても
宜しいか……という脅迫です。実際、ローマ史を読んでみると、ローマ皇帝
は当時、総督とユダヤ議会の両方にパイプを持っており、互いに牽制させて
いたことが知られています。これで総督の首はいくつも飛んだのです。映画
「ベン・ハー」の中でも、ユダヤ総督に任ずという勅書を受けたピラトが、
わが身の不運を呪う場面がありました。ユダヤ人指導者たちの圧力は、ピラ
トには決定的な一撃になったはずです。「首を危険に曝してまでローマの正
義と良心の判断を守ることはない。」
3.ピラトの最後の皮肉と最終的判決。13-16.
「敷石」という名の庭(13 節)は、長い間土に埋もれていましたが、その
一部を保存して礼拝堂を建てたために、その地下室の床になって、今も見ら
れます。あちこちに古代の落書きや、掻き傷が残っています。よく写真集に
出るものでは、ローマ軍の兵士がチェスのようなゲームに使ったらしい、粗
い将棋盤の目のようなものが、床に残っています。
ピラトがついに「裁判の席に」着いたというのは、いよいよ腹を括って判
決を下す気になったことを指します。総督の心境は複雑でした。
13.ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語
でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 14.それ
は過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見
よ、あなたたちの王だ」と言うと、 15.彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字
架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」
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と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」
と答えた。 16.そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに
引き渡した。
最後の「彼らに引き渡した」というのは、もちろん、十字架刑を宣告して、
ローマ軍の処刑隊をつけて、祭司長らの無理を通したのです。このとき少な
くとも将校がひとり、処刑の責任者として付けられたとは、マタイ、マルコ、
ルカの証言です。百人隊長と、それに兵士が少なくとも四人。これは以下の
文からも分かります。
最後の祭司長らのセリフ、「皇帝陛下以外に我らの王は無い」は、この場
を動かすためには、総督への殺し文句として効いているのですが、端無くも
ユダヤの霊的指導者の地位にある人が、「主なる神が我らの王」という信仰
―サムエルやギデオンの信仰(士師記 8:23,サムエル上 8:7)を否定する
言を吐いたわけで、福音史家の記録はここで、イスラエルが神への信仰を捨
てたことを、皮肉にも象徴しています。
《 まとめ 》
前回は「私は王である」という題で、イエスとピラトとの対話を読みまし
た。今日の箇所では、「王」の意味には洞察の無いピラトが、「見るがいい。
お前たちの王様だぞ」とうそぶいたり、「お前たちの王であるような尊いお
方を、私が十字架刑にしてよいのか」と毒づいたりします。ピラト自身は自
分の言葉に、「この男は王でも何でもない」という嘲りと「愚かな狂信的な
ユダヤ人め」という軽蔑を込めているのですが……。
日本聖書協会口語訳の文体は、どうも、高い講壇の上から重々しい声で読
むように、また黒いガウンを着た教職が、きばって威厳のある声で朗誦して
も可笑しくないように「恰好をつけて」訳してあるので、こうなっています
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が、本当はそんな衣装を脱いで、肩から息を抜いて読むと随分違ってきます。
「見ろ、このぶざまな男を!」
「よく見るがよい。お前たちの王様かこれが!」
「このわしが、そんな尊い方を十字架にはりつけできるか!」という響きで、
その場の空気を感じさせますし、理性と情緒はあるが“神ぬき”の人間がイ
エスを見る限界を示しています。
しかし「この人を見よ」のチャペル ―“Ecce Homo”会堂を建立した人
たちが感じたもう一つの意味を、ヨハネはこの文に込めてもいます。
「見よ、
この人を!」、「見よ、あなたの王を!」自分という王様にも治めきれない、
またあなたの誇る知性も意志力も治めきれない、罪と死を内に持つ存在を直
視せよ。このイエスこそ、あなたが信じて服すべき真の王だ! あなたを清め
て新しい命を吹き込む「王の中の王」だ! このイエスを王と仰いで力を受け
るか―それが、この章を読む現代の読者への、ヨハネの抑えた問いかけで
す。
(1987/12/06)
《研究者のための注》
1.前置きで触れた「血潮滴る主のみかしら」は讃美歌の 136 番。原詩はクレルヴォーの
ベルナルド。マタイ受難曲に使われたドイツ語訳“O Haupt voll Blut und Wunden”
は Paul Gerhardt のものとされます。
2.「イエスを鞭で打たせた」はこの場合、文脈から見て、イエスをできるだけ惨めな状
態にしてユダヤ人に見せるのが、ピラトの目的であったと思われます。このような場
合に使われた革鞭には、金属片や骨片が縫い付けてあり、打たれると肉は裂けて骨や
内臓が露出した、という記録も残っています。福音書はそのようなリアルな記述は避
けて、「そして鞭で打った」と二語です。
3.Ecce Homo はラテン語で ecce が behold、homo が man です。ヨハネの原文
のラテン訳が ecce homo になります。
4. (14 節)は「過越祭の前日」と読む人もいますが、Morris と Tasker に従
って「金曜日」の意味に受け止めました。この意味の用法は現代ギリシャ語の
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(金曜日)に続いています。ちなみに日曜日は「主日」月曜
日は「第二日」以下(火水木)、土曜日はヘ
ブライ語源のです。大文字は近代西欧語の習慣から。
5.マルコ 15:26 の「第 3 時」とヨハネの「第 6 時」の矛盾をどう説明
するかが問題になります。Tasker は「共観福音書はユダヤ式に夜明けから計算し、ヨ
ハネは真夜中から計算した」として、同じ時間になると言います。新改訳はこの計算
法に基づいて訳し、裁判開始が 6 時、十字架刑の執行が 9 時とします。口語訳、新共
同訳、フランシスコ会訳は、同じユダヤ式に計算して、矛盾はそのままにしてありま
す。Morris の説明は、福音書の記述は昔の時間計算の例にもれず“おおざっぱ”と見
て、「正午前であった」程度の意味とします。
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