第31回 宗教改革Ⅰ

福音学校
第Ⅲ期
教会の歴史ー7
第31回
宗教改革Ⅰ
芦田
【
年
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1467
1473
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1603
表
道夫
】
出来事・人物
グーテンベルグ聖書印刷
デジデリウス・エラスムス誕生
ニコラウス・コペルニクス誕生
マルティン・ルター誕生
フリードリッヒ・ツヴィングリ誕生
コ ロ ン ブ ス 第 1 回 航 海 (アメリカ大陸発見)
ヴィッテンベルグ大学創設
ジャン・カルヴァン生まれる
ルター神学博士、ヴィッテンベルグ大学教授
ルター、ロマ書講義
エラスムスのギリシャ語新約聖書校訂版
ルター「95箇条の提題」
ルターに対するカエタンの審問(アウグスブルグ )
ルターのライプチヒ討論(ヨハン・エック)
ルターの宗教改革三大著作
ルター、ウォルムス国会召喚、破門宣告
メランヒトン「ロキ・コムニス」初版
ルター;新約聖書ドイツ語訳
~25ドイツ農民戦争
ルター・ツヴィングリ会談 (マールグルグ会談)
「アウグスブルグ信仰告白」(メランヒトン)
トマス・クランマー、カンタベリー大司教 (~55)
ルター訳ドイツ語「旧新約聖書」
カルヴァン「キリスト教綱要」初版
カルヴァンのジュネーヴ改革(教会規則)
カトリック「トリエント公会議」( ~ 6 3 )
マルティン・ルター没
アウグスブルグ宗教和議
エリザベスⅠ世即位
英 国 国 教 会 宗 教 条 項 ;「 三 十 九 箇 条 」
「ハイデルベルグ信仰問答」
ジャン・カルヴァン没、シェークスピア誕生
ガリレオ・ガリレイ生まれる(~1642)
ルネ・デカルト生まれる
フランス;ナントの勅令(カトリック国教化)
エリザベスⅠ世没
-1-
注記
1469 マ キ ャ ベ リ 誕 生
1478トーマス・モア誕生
画家ラファエロ誕生
スペインレコンキスタ完了
1503-66ノストラダムス
1513「 塔 の 経 験 」
1513 第 1 回 詩 篇 講 義
ダ・ヴィンチ没
チューリッヒ宗教改革開始
1521/5-1522/3 Wartburg
トマス・ミュンツァー
ルター「大教理問答」
1531ツヴィングリ没
1532ジョン・ロック誕生
イエズス会創設
ジュネーヴ第一次宗教改革
「綱要」仏語版
対抗宗教改革
ルター派承認
1549/ 1562 祈 祷 書
1561F.ベーコン誕生
ミケランジェロ没
1571 ケ プ ラ ー 誕 生
ユグノー戦争(62~)終結
1600英国東インド会社
1.宗教改革概観
「 宗 教 改 革 」と 呼 ば れ る 出 来 事 を 簡 潔 に ま と め る こ と は 非 常 に 困 難 な 仕 事 で す 。
それはこの出来事があまりにも広範囲の領域を巻き込むできごとであるととも
に、その前史とその後の何世紀にも及ぶ影響があるからです。そこでここでは、
それらを非常に単純化して大まかな概観を描いてみます。
(1)宗教改革の三つの流れ
その後の影響からみて、宗教改革を大きく三つの流れに大別することが出来る
でしょう。第一の流れは、ルターに率いられた改革運動です。これはドイツと北
欧に広がります。フランスでは絶対王権が確立していきますが、ドイツでは中世
以来の領邦国家が続き、ルターの宗教改革もその政治的状況下で進みます。つま
り各領邦国家(領主)が領邦内の宗教をローマ・カトリックからルター派へ代え
るという形をとるのです。修道士であったルターは長い年月の中で、カトリック
に積もった汚れを落として再生しようとしました。こうして国家と宗教が結びつ
いて拡大したルター派は近代市民国家ではなく、近代化の遅れた地域に広がるこ
とになったのです。つまりカトリックから無益なものを取り除く改革です。
第二の流れはカルヴァンの影響下に進んだ第二世代の改革運動です。これはス
イスに始まり、オランダ、イギリスへと広がります。個人の自由な生活と信仰に
目覚めた近代市民国家の運動として進むのです。カルヴァン自身が法律を学んだ
人文主義者の一信徒(修道士でもなく、聖職按手も受けていない)として終生を
送ったという事情もあると思われます。カルヴァンはカトリック教会の改革・再
生ではなく、古代教会を手本にしながら聖書から新しい近代市民のための教会を
作り上げようとしました。したがって国家体制と結びつかないこの理念は、国家
や 教 派 を 越 え て 影 響 が 広 が り ま し た 。つ ま り 非 聖 書 的 な も の を 認 め な い 改 革 で す 。
第 三 の 流 れ は 、 再 洗 礼 派 = ア ナ ・ バ プ テ ス ト と し て 知 ら れ る 流 れ で す 。「 宗 教
改 革 史 」 で 有 名 な ローランド・H・ベイントン は 、 ア ナ ・ バ プ テ ス ト を 「( ジ ュ ネ
ーヴの改革者)ツヴィングリ自身の周辺から、初代キリスト教の復元という目標
を 徹 底 的 に 推 進 し よ う と す る 努 力 の 結 果 と し て 起 こ っ た も の で あ る 」(「 宗 教 改
革史」108頁)としています。再洗礼派の名称は、彼らが教会は真に信仰告白
した者だけによって形成されなければならないとして、幼児洗礼を受けた者に、
信 仰 告 白 し た 後 に ( つ ま り 成 人 に )、 も う 一 度 真 の 洗 礼 を 授 け る こ と を 主 張 し た
ことによります。様々な動乱と結びついたため「熱狂派」と見られました。
この運動はカトリックからもプロテスタント(ルター派、カルヴァン派)から
も迫害を受け続けますが、この理念はプロテスタント内に絶えず再生して、その
後の多くの教派に影響を与えていきます。教派としてメノナイト、ブレザレン、
アーミッシュなどが存在しますが、その影響はアメリカのリヴァイヴァル運動を
通して私たちの信仰にまで届いています。
2.宗教改革前史
宗教改革の前史をどこから始めるべきかという問題がありますが、イギリスの
ジ ョ ン ・ ウ ィ ク リ フ (1320~1384)を も っ て そ の 先 駆 者 と み な す こ と が 一 般 的 で す 。
ウィクリフはオックスフォード大学の教授で聖職者でしたが、カトリックの体制
や教義が聖書的でないことを批判し、ラテン語のヴルガータではなく、自国語の
聖書、つまり英語の聖書を翻訳しました。彼の死後もロラード派と呼ばれる追従
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者 た ち が つ づ き 、「 異 端 火 刑 法 」 ( 1401)の 中 を 生 き 残 っ て や が て プ ロ テ ス タ ン ト
に吸収されました。
ウ ィ ク リ フ の 影 響 を 受 け た ボ ヘ ミ ヤ ( プ ラ ハ 大 学 ) の ヤ ン ・ フ ス ( 1369~1415)
はカトリック教義と体制の改革を称え、大きな民衆運動となりました。1414
年フスはコンスタンツ公会議に自説の議論のために召喚されましたが、捕らえら
れて火刑にされてしまいました。しかしボヘミヤ、モラヴィア地方のフス派はカ
トリック側からの弾圧を生き延びて、18世紀モラヴィア兄弟団につながって、
ウェスレーに大きな影響を与えることになります。
さ ら に 宗 教 改 革 前 史 と い う よ り も そ の 背 景 と な っ た 「 ル ネ サ ン ス ( 再 生 )」 を
考 え て お か な け れ ば な り ま せ ん 。 ル ネ サ ン ス は ダ ン テ ( 1265~1321) や ペ ト ラ ル カ
( 1304~1374) の 時 代 か ら 1 6 0 0 年 頃 ま で の 、 ギ リ シ ャ ・ ロ ー マ 古 典 の 復 興 と 研
究、そしてその影響を受けて生まれてきた文化的活動を指していますが、この時
期こそまさに宗教改革と重なるのです。宗教改革をルネサンスの一部と考える人
もいれば、互いの関連を認めつつ別の方向性をもつものと考える人もいます。
(ルネサンスと宗教改革との関連についてはトレルチ「ルネサンスと宗教改革」岩波文庫など参照)
3.宗教改革の背景と今日的意味
なぜこの時代にこのようなかたちで宗教改革が起こったのか、という問題は社
会学的に、宗教学的にたいへん興味あることだと思われます。私たちクリスチャ
ンは、ほとんど神学的側面のみからしか宗教改革を見ないのですが、宗教改革に
よって、その後のヨーロッパのあり方が一変し、それによって今日の世界が生ま
れ た と い う 意 味 で 、 ト レ ル チ が 言 う よ う に (「 ル ネ ッ サ ン ス と 宗 教 改 革 」 参 照 )
ルネッサンスよりもはるかに大きな世界的影響を与えたのです。
まず年表に揚げたように、15世紀半ばの活版印刷術の発展があります。ラジ
オ、テレビの出現が第二次マスメディア時代とすれば、活版印刷術の発展は第一
次マスメディア時代の幕開けと言えるでしょう。これによってそれまで教会と大
学に独占されてきた知的遺産が、一般市民に開放されたのです。
また、宗教改革は何よりも聖書による教会の改革であり、それが一部の聖職者
や学者によってではなく、一般信徒を巻き込んだ運動となったことに大きな意味
があります。日本を代表するルター学者である徳善義和氏は、ルターの改革の本
意は一般信徒の信仰が、修道士レベルに引き上げられることにあった、と述べて
いますが、その意味で一般市民が自国語で聖書を読めるということこそ宗教改革
の必須条件であったのです。
特にカルヴァンの改革派系の宗教改革にとって、大きな背景となっているのは
商業都市の発展、都市化と人文主義です。この二つ、古代ギリシャ・ローマ文化
の人間中心主義(人文主義)と、都市化による市民社会の出現(個人主義)は、
地縁・血縁共同体によって成り立っていた中世社会から、いずれも「個」として
の人間に目を向けた契約社会への転換を示しています。
つまり、信仰とは教会共同体に属することではなく、個人個人の主イエスへの
信仰告白によるのである、という転換がなされたのです。したがって改革派の教
会観の根底には、市民としての「個」の確立が前提になっていることを覚えてお
かなければなりません。
-3-
同じ「教会共同体」と言っても、カトリックあるいはルター派(今日では様子
は違ってきているでしょうが)と改革派では、その意味しているところが違うの
ではないかと考えられます。改革派がいち早く近代市民社会となったスイスやフ
ランス、オランダに広がり、市民社会化の遅れたドイツや北欧にルター派が展開
したのは、それなりの必然があったのではなかと考えられるのです。
ヨーロッパのルター派が国教会として発展したのに対して、改革派は個人の信
仰告白によって、すなわち一人一人の神の前における信仰告白によって教会共同
体が形成されていきます。新天地アメリカでは最初から、すべての教派がこの形
態の教会形成となっていきます。そしてアメリカの教会の影響下に発展した日本
の教会も、アメリカと同じような教会形成を図るようになるのです。
しかし、問題は改革派的教会観が信徒の「個」の確立を前提としているにもか
かわらず、日本では今日に至るまで、ヨーロッパで発展したような意味での市民
社会は形成されてないという矛盾です。その意味で宗教改革は五百年前の世界史
的 出 来 事 に と ど ま ら ず 、今 日 の 日 本 の 教 会 の あ り 方 を 考 え る 土 台 で も あ る の で す 。
4.ルターの改革
(1)いきさつ
宗教改革はまずマルティン・ルターを中心に考えるのが一般的です。ルターは
アウグスティヌス会の中でも厳格な派に属する修道士でしたが、エルフルト大学
で学んだ後、1512年、10年前に創設されたばかりのヴィッテンベルグ大学
の聖書学教授となります。そこで聖書の各書に関する講義を行うのです。創世記
から初めて詩篇、ロマ書、ヘブル書、ガラテヤ書など、真剣に聖書に向かい、そ
こからキリスト教信仰とは何かを見いだそうと苦闘するのです。
特に詩篇とロマ書、ガラテヤ書の講解を通して、それまで教えられてきたカト
リック的教義と聖書が言おうとしている真理との矛盾に気づくようになります。
その中心はルターにとって、罪人の義認に現される福音でした。
人間の救いは人間の側(組織としての教会や行為としての善行)によってでは
な く 、 ま っ た く 人 間 の 「 外 か ら 」、 す な わ ち 神 の 恵 み の み わ ざ に よ り 頼 む こ と か
らしかないのだ、ということを確信したのです。
善行や典礼によってではなく、ただ信仰によって罪人が義とされるということ
こそ福音であると確信したルターは、それを当時普通に行われていた免罪符の販
売という現実問題に於いて問おうとしました。それがヴィッテンベルグの城教会
の 扉 に 貼 ら れ た 有 名 な 「 9 5 箇 条 の 提 題 」 で し た 。(1517年10月31日)
ルターは大学教授として純粋に学問的議論として、当時一般的であった方法に
よって呼びかけただけで、改革運動をしようとしたものではありませんでした。
したがって95箇条は一般人は読めないラテン語で書かれ、ルターの呼びかけ
に応じる人もなく、この95箇条は空振りになってしまいました。ルターは同時
に2人の司教にも送りましたが、やはり無視されています。
こうしてルターの問題提起はそのまま消えてしまうかに見えたのですが、この
95箇条の提題はわずか2週間の間に、ドイツ語に訳され、印刷されてドイツ中
に広がったのです。今日のように交通手段の発達していない当時としては驚異的
な速さで広がったと言われています。
思いがけずドイツ中の騒ぎになってしまったルターの問題提起はローマ教皇庁
-4-
も無視できず、枢機卿カエタンや神学者ヨハン・エックを送り、神学論戦となり
ました。その中でルターは次々と自説による著作を書き、それらが印刷されて大
量に出回ってドイツを始め中部・北部ヨーロッパを揺り動かしていきました。
1521年ヴォルムスで開かれた神聖ローマ帝国国会に召喚されたルターは、
自説を撤回するように求められますが、
「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。
私 は こ こ に 立 っ て い る 。そ れ 以 上 の こ と は で き な い 。神 よ 、助 け た ま え 」
と 拒 否 し て 、「 ア ナ テ マ ( 呪 い ) = 破 門 」 を 受 け る こ と に な り ま す 。
しかしルターはヴォルムスからの帰り道、ルターの身の安全を案じたフリード
リッヒ王によってワルトブルグ城(現アイゼナッハ)に約10ヶ月かくまわれま
す。ルターはこの間も無為に過ごすことなく、新約聖書をギリシャ語(1516
年にエラスムスが出版)からドイツ語に翻訳することに没頭します。後に旧約聖
書も助けをかりて翻訳し、1534年に聖書全巻のドイツ語訳を出版することに
なります。1522年ヴィッテンベルグに戻ったルターは、礼拝改革を始め本格
的な改革運動(主として礼拝改革)を推し進めることになります。
※ルターによって始まった宗教改革の特徴は、ローマ・カトリック教会の体制
批判や典礼や儀礼に対する批判から始まったのではないということです。何より
もそれは聖書研究から生まれてきた「福音」の再発見であったのです。はじめル
ターはその重大さに気がつきませんでしたが、それはローマ・カトリック教会の
教 義 の 土 台 を 崩 壊 さ せ る も の だ っ た の で す 。 そ れ は ル タ ー 以 上 に 、「 福 音 」 に 飢
えていた多くの人々がルターの発見に狂喜したということであったのでしょう。
(2)ルターにおける宗教改革的転回
ルターの出発点は、神は自ら義なる神であってその義を尺度として人間の行為
に当てはめて裁く、というカトリック的な「神の義」の理解でした。そのような
義の神は、恐るべき神、憎むべき神、愛することなどほど遠い神です。
しかし、ルターはこの恐るべき義の神と、詩篇31編1節「あなたの義をもっ
て わ た し を お 助 け く だ さ い 。」( 口 語 訳 )・ ・ ・ ・ 新 協 同 訳 で は 「 義 」 を 「 恵 み の
みわざ」と訳す・・・・やロマ書1章17節「神の義は、その福音の中に啓示さ
れ」る、という聖句の矛盾に苦闘するのです。
自らの意志と努力によって高き神の義に到達し、それを獲得して救いを得ると
教えられてきたルターにとって、神の義をもって助けてください、とか、神の義
は福音の中に(すでに)啓示されている、という言葉は理解できなかったのでし
た 。 し か し 苦 闘 の 中 で 、 お そ ら く 1 5 1 4 年 秋 ( 第 1 回 詩 篇 講 義 の 途 中 )、 神 自
らがイエス・キリストにおいて罪深い人間のところに降って、人間を義とし、救
うという聖書の中心使信の再発見に至るのです。
それは、自らの救いのためには何もなしえない人間のために、神が十字架にお
いて、イエス・キリストに我々の罪を負わせ、キリストの義が我々に転嫁される
(義認)という福音(神の愛)の発見でした。ルターはこれはイエス・キリスト
への信仰のみによって起こる出来事であると聖書から確信したのです。ルターは
信仰義認こそキリスト教が立ちもし、倒れもする要であるとしました。そしてル
ター派の神学はすべてこの信仰義認を中心に展開されていきます。
-5-
(3)ルターの礼拝改革
宗教改革は何よりも、説教改革であり、説教を中心とする礼拝改革でありまし
た。ルターは「95箇条の提題」以前、すでに1514年ころからラテン語では
なく、ドイツ語での説教を始めていたと推定されています。著作に於いても大学
教授の著作としてはめずらしくドイツ語の著作を次々に出していきます。それら
は一貫して、ルター自身が再発見した福音を民衆に伝えたい、という一心から出
たことだったのでしょう。
ル タ ー は 、 1523 年 に 『 会 衆 の 礼 拝 式 に つ い て 』 と い う パ ン フ レ ッ ト を ま と め
ました。そこでルターは礼拝の原則を明らかにし、カトリック教会で行われてい
た、礼拝の 3 つの誤りを指摘しています。
第 1 は、神の言が黙していることであって、教会の中には、朗読と歌唱だ
けがある。
第2は、神の言が黙していたので、聖書物語や歌や説教の中に多くの非キ
リスト教的な寓話がはいりこんでいる。
第3は、そのような礼拝が、神の恩寵と救いを確かめるわざとして行われ
ていることである。
いまこれらの乱用を改めるため、私たちはまず第一に、キリスト者の会衆
は 、ど ん な に 短 く て も 神 の 言 が 説 教 さ れ 、祈 り が 捧 げ ら れ る の で な け れ ば 、
集まるべきではないことを知らねばならない。
「会衆の礼拝式について」ルター著作集第一集5、275頁
ここで言われているように、礼拝改革の第一は、御言葉の説教の回復です、
改革に慎重であったルターは、しばらくの間、説教はドイツ語ながら礼拝式文
は 従 来 通 り の ラ テ ン 語 で 行 っ て い ま し た が 、 1525年10月29日 の 礼 拝 に 初 め
てドイツ語による礼拝を行いました。そしてそれらを整理した手引き書が26年
に 出 版 さ れ た 「ドイツミサと礼拝の手引き」 で す 。(ルター著作集第一集6、419頁以下)
自国語(民衆の言葉)での礼拝において重要な役割を果たすのは、説教・祈り
・ 聖 歌 で す 。そ の な か で 今 日 に ま で 至 る ル タ ー の 礼 拝 改 革 の 重 要 な 遺 産 の 一 つ は 、
讃 美 歌 「 コ ラ ー ル 」( 会 衆 賛 美 ) の 導 入 で す 。 ル タ ー は 、 訓 練 さ れ た 聖 歌 隊 で し
か歌えないような難しいラテン語の歌詞を聖歌ではなく、一般会衆が声を合わせ
て神を賛美できる単純な旋律と自国語の歌詞をもった賛美歌を音楽家の協力を得
て多数作り、賛美歌集として出版します。こうしてカトリックのミサが、聖職者
による祭儀を見、聖歌を聞くものであるのに対して、ルターは会衆が神の言を聞
いて理解し、自ら神への賛美を捧げるという参与的な礼拝へと回帰させました。
(4)ルターの改革のまとめ
「 信 仰 の み 」、「 恵 み の み 」、「 聖 書 の み 」 と は 宗 教 改 革 の 有 名 な ス ロ ー ガ ン で
す が 、 そ こ に お い て な さ れ た 重 要 な 教 会 改 革 は 、「 万 人 祭 司 ( 聖 職 層 の 否 定 )」、
「 サ ク ラ メ ン ト 改 革 ( 洗 礼 と 聖 餐 )」、「 自 国 語 に よ る 礼 拝 改 革 ( 会 衆 の 礼 拝 )」
にまとめられるでしょう。
ル タ ー の 宗 教 改 革 三 大 著 作 ;「 ド イ ツ の キ リ ス ト 者 貴 族 に 与 え る 書 」
「教会のバビロン捕囚」 「キリスト者の自由」
【課題】ルターの宗教改革三大著作の一つ「キリスト者の自由」を読む。
岩波文庫「キリスト者の自由・聖書への序言」¥483
次回
10月14日 「宗教改革Ⅱ」
-6-