アルザスのリハセンター

アルザスのリハセンター
1980 年 11 月中旬、パリは冷気の中にあり、乾燥した空気は静電気を誘発していた。フランス整形
災害外科学会の最終日、パリ東駅から、ストラスブール行きの列車に乗り込んだ。アルザス地方の
ミュルーズのリハ施設を見学するためである。日本を発つ前、別府の「太陽の家」創始者である中村
先生からの紹介状の宛先が彼の地であった。ストラスブールはドイツ国境に近いアルザス地方の中
心都市である。戦争の影響で過去3回ドイツ領に組み込まれた歴史を刻む土地でもある。
果てしなく続く田畑、その中に散在的に出現する町、町の中心としての教会が、同じようなパターン
で次次と出現する。車窓から流れる風景は、一巻の絵巻のようにのどかな田園を映し出していた。し
かし派手な看板は見当たらない。飛び去る景色を眺めていると、美意識、文化政策の違いがこうも
我が国と違うものかと感じさせられる。コンパートメントの車窓から、ぼんやりと外の風景を眺めている
と、旅をしているのだという寂寥感が漂ってくる。雨が落ちている窓ガラスの外の風景に、佐賀線の
田舎の景色が重なり、やがて残像は消えていった。
夕暮れの短時間を車窓で眺め、しばらくして夜のミュルーズに着いた。11 月ともなると、サマータイ
ムで 10 時過ぎまで明るい中で興じていた9月と打って変わって、寒い北国の闇に包み込まれてい
た。駅周辺を歩けば宿が見つかるはずであった。ところがこの街は違っていた。研修と旅行を含んで
3週間という旅程を詰め込んだ2個の大きな荷物を抱えて、低料金の宿を捜し求めて、とぼとぼと歩
き回っていた。長期滞在者は、短期滞在者と異なり限られた資金でやり繰りして生活していかねば
ならない。無情にも小雨までがぱらつき、ジーパン姿でいかにも哀れそうであったのであろうか。一台
のルノーサンクがスーと近付いてきて止まり、中から運転している若いフランス女性が、『なにか困っ
ているのですか』と声を掛けてきた。『この街は初めてで予算がこれこれの宿を捜しているのですが』
と答えると、『一緒に捜してあげるので車に乗りなさい』という。しかし簡単に宿は見つからず、やがて
彼女のアパルトマンに案内された。そこで、彼女はボーイフレンドに電話し、『日本人が宿のことで困
っているので、希望の料金の宿を当たってくれないか』と頼んだ。彼女の男友達が、探し出した駅前
のホテルまで送ってくれ、リハセンターに行く路線バスの停留所も教えてくれた。
早朝のミュルーズの空は、澄み切って高く昇り、それから左右に広がっていた。リハセンターでは、
部長のドルフ医師付きのセレ秘書が、愛想良く出迎えた。施設内に、遠方からの患者や家族に対す
る宿泊施設としての円柱状の建物があった。私が泊まる部屋がそこに用意してあるという。紹介され
たブシエ、シャピの両医師と院内の円形レストランで昼食を取りながら話した。さすがにドイツに近い
町だけあって、トゥルーズの院内食堂と異なり、ビールがワインの座を奪っていた。「飲み物は水でい
い」と言ったら医師達が驚いた。彼らの表情の変化に私が驚いて、慌ててビールを頼んだ。ドルフ医
師に会う。下半身麻痺のため車椅子に乗った姿を見た時は、少なからず戸惑ったが、なんのその、
ハンディをものともせず、いかにもエネルギッシュであり、精力的に仕事をしていた。我が国では考え
にくいことである。症例カンファレンス後に、実際のリハ訓練室を見て回った。理学療法室では、不安
定な板の上に跳び乗って身体のバランス訓練をしていた。今まで見たこともなく、大変興味深い訓
練であった。作業療法の木工室では、患者から直接に説明を受けた。陶芸室では、優しい雰囲気
が感じられる作業療法士が、患者が作った小さな陶器を土産にと差し出した。リハセンターに宿泊
することは念頭になく、手荷物を駅に預けていた。シャピ医師が病棟回診後、駅まで荷物を取りに連
れて行った。帰路に外科系病院に寄り、担当患者をカンファレンスで整形外科医達と相談する姿勢
から、患者のための連携の良さを知った。
ハイデルベルクに行く話をたまたまドルフ医師にしたら、ならばと「彼の地のリハセンターにいる友人
パスラック教授を紹介するから寄って行きなさい」と言う。「ドイツ語は忘れたので」と辞退しようとする
と、「彼は英語を話すから大丈夫」といい、早速、秘書にその旨を伝えた。観光目的のハイデルベル
クであったが、ドイツのリハも見たいとの欲求が掻き立てられ、嬉しさと迷惑が混在した複雑な気持と
なった。ドルフ医師は、「日本の海苔が好物で、帰国したら送って欲しい」と微笑みながら言った。海
苔が好きだとフランス人に言われたのは初めてで、日本人としては嬉しい。翌日、ドルフ医師は、パ
スラック教授への面会について念を押して、学会出席のためパリに発った。リハセンターには4日間
滞在する予定であったが、パスラック教授も学会で明日午後には不在となるため、明朝に会いたい
旨の連絡を至急受けたとセレ秘書が伝えに来た。そのため、一日早く、心暖まるミュルーズの人達
を深層に刻んで、センターを辞去した。
ストラスブールを経由してドイツ行きの列車に乗る。国境の車内でパスポートの検査があった。検査
は厳めしかったが、車掌は親切であった。ドイツのカールスルーエで乗り換えて、ミュルーズを出発し
てから4時間半後に列車から解放されて、ハイデルベルク駅に足を降ろした。駅でローテンブルク方
面の列車時刻を確認し、町地図、日本語版案内書、ホテルリストを入手した。夕刻の雑踏を迎える
にはまだ時間がある。駅から外に出ると、湿った雲に覆われた空には、来る夜を予感させる薄暗さが
すでに広がっていた。駅に面する通りのホテルを手っ取り早く決め、荷を降ろした。
町を歩くとすぐに気付いたことがある。フランスと異なり、赤信号で渡る人はいないのである。そのた
めかどうか、信号が変わるのが早くてめまぐるしい。車は来ないのにぼさっと待つ必要はないという合
理主義のフランス。片や、規則を第一義に重んじるドイツ。信号の待ち方さえもが、二国で異なること
が面白い。歩行者天国をてくてく歩くと、通りは意外と長く伸びていた。しかし大通りも夜の8時台にな
ると、人がめっきり少なくなった。マクドナルドや類似のファーストフードの店が目に留まり、その中の一
つの店でドイツビールを飲むと、当地に足が着いた安堵さがやっと感じられた。丘の上では、道を往
来する観光客を睥睨するように、橙色に照らし出された城が君臨していた。
昨日とは打って変わった晴れ渡った空の下、女性運転手のタクシーで、リハセンターに向かった。
ネッター川の対岸には家家が整然と建ち並び、手前の木木が重なって美しい。時間厳守のドイツ人
であるため身構えたが、パスラック教授は思ったより気さくであった。ここでは、人の背も部屋の天井
の高さもフランスより高い。カンファランスに出席し、回診に付き添う。フランスに近いためか、仏国の
女性リハ医もいた。患者の外泊や退院を、担当医一人ではなくリハスタッフの合議により決めること
に感心した。医師達とともに昼食を取った後、秘書に折鶴を渡してリハ施設を辞した。バスに乗って
町中心部に戻った。
不安定板を使った訓練に関するフランス医学書を手に入れ、帰国して翻訳した(『膝・足関節・足
部の新しい神経-運動器協調訓練』)。後に訓練法と理論を発展させて本を上梓した(『関節トレ−ニ
ング』)。ミュルーズのリハセンターで目にしたものを形としたことで、彼の地の人が示した厚情への恩
返しができたようである。リハセンターでもらった陶器の花瓶は 30 年後の今でも、部屋の一隅を飾っ
ている。本の行間や花瓶の空間には、〝袖振り合うのも多生の縁〟が刻まれている。
九州労災病院勤労者骨・関節疾患治療研究センター 井原秀俊