人間社会形成に於ける指導者精神

人間社会形成に於ける指導者精神
第二世総裁 妙峰庵 佐瀬 孤唱
近来、人間形成と云う言葉が良く使われております。
これは正しい人間像への追求と努力と云う事でありまして、漸く
戦後 20 数年を経た今日、社会が安定し人心が落ち着いた為に各人が
自己の在り方への反省と、正しい人間像への追求心が現われた証拠
であると思い誠に喜ばしい傾向であると思います。然し乍ら逆も又
云い得る事でありまして、どうも世の中がその様な事を蔑ろにする
ので、心ある人が大いに口にするということとも云えましょう。
社会と個人とは対立する別々のものではなく、個人たる人間が有
機的に集団を作り、組織的に結合されたものが人間社会であります
から、人間個人個人の人間形成への追求と努力は即ち社会形成の善
的社会への発展を意味し、ひいては、地球上の人類全体の楽土の建
設と云う所までその目標は展開して行く訳であります。だから人間
形成と云う問題は人間個々の正しい人間像の追求から社会の正しい
形成の問題へ、更には世界楽土の建設と云う方向に自然と展開して
行かねばならないことであると申せましょう。普通人間形成と云う
事はこの様な意味に於て捉えられると思うのであります。
然し乍ら他面、この様な人間形成への努力がなされる様な客観的
条件を具備する環境を作ると云う意味に於ける社会形成への努力も
又なされねばならないかと思われるのであります。人間は自主的で
あり度いと思いますが、然し又人間も客観的条件や環境に支配せら
れると云う現実的一面を無視することが出来ないのではありますま
いか? 茲に私は、常々自己の人間形成への努力とこの様な努力を
我々に醞釀せしめる様な社会の形成と云うことも重大なる事である
事を認識しなくてはならないと思うております。即ち立派な人間が
出来れば立派な社会が出来る。立派な社会が出来れば世界は楽土と
なると云う努力と、立派な社会を作れば立派な人間が出来る、立派
な人間が出来れば世界楽土が出来上ると云う二つのコースを我々は
世界楽土建設の為に歩まねばならないのではないでしょうか。
元来人間を作るとか、修養とか云う事には大別して二つの方法が
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あると思います。一つは人間の内面からの自覚による練心の法、も
う一つは外面から形を整えて内に向かって自覚せしむる法とであり
ます。古来我が国ではこれを文武両道を養うと云い、仏教では自利・
利他の素願を果すと申して居り、自らの人間形成と広い意味に於て
の社会を利益することを願うております。我々は各人が各人毎に人
間形成への努力を為すと共に、私は又、各人が各人毎にそう云う努
力をする人間を一人でも多く作り出す社会と云うものを形成して行
く努力を併せて為して行かねばならないと思うのであります。何故
私がこう申しますかと云いますと、とかく人間形成と云うことを口
にする人達が今日まで人間的自覚:個人の自覚的人間形成というこ
とをのみ強調する事に急であった様に思いますし、又これと反対に
人間形成は唯環境を整備して、所謂、衣食住足りて礼節を知ると云う
方式、即ち客観的社会条件の整備のみを強調する社会科学者があっ
て、この両者が相対立してこの問題を混乱させて居ることがあると
思うからであります。私はどちらにも偏することは誤りであり、人
間個人の自覚と人間個人の自覚を醞釀せしめる客観的条件環境の整
備を共に考えて、個人としての人間形成と社会人としての社会形成
への努力を考えなければならないと思っておるものであります。
本日 私の演題の意図する所は、その様な社会形成への担い手は
誰であるか? そしてその担い手と任ずる人はどうあらねばならぬの
か? もっと端的に申せば現実にその担い手たるべき社会的責任や
立場や地位にある人や、又世に所謂、指導者とか有識者とか知名の
士とか云われて居る人達がその担い手にならねばならぬ。そしてそ
の人達自らが真剣に自己の人間形成への努力を為すと共に社会形成
のリーダーとしての責任を自覚して貰い度いと云う事であります。
さて、話を一転しまして、しばらく最近の社会現象と云いますか、
現代社会の様相について反省してみたいと思います。現代社会の良
い所も多々ありますことは申すまでもありませんが、それはしばら
く置くとして現代社会の病根と云うものを考えてみたいと思います。
何と云っても今日の時代は科学万能・物質万能の時代であり、人
間の考え方もすべて科学的・物質的であると云えましょう。その為
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に人々の観念や思惟はどうしても相対的・対立的にならざるを得ま
せん。国際問題に於ても、国内の政治・経済・労働・教育の諸問題
総ゆる面に、相対―対立という二元的要素が入り組んで混乱と混迷
を招来しておる様に思われるのであります。
私達の日常の生活に於ても、例えば企業の労資の問題を取り上げ
てみましても、全くそこには相容れない二つの要素がかみ合って企
業の中に二元的な力が働いて居る事を知ることが出来ます。これは
近代社会の科学的・物質的繁栄の中に生きる現代人の人間形成の上
に於ても、又社会形成の上に於ても大きな悩みであると申さねばな
りますまい。それは所謂、科学的・物質的人生観や世界観を生み、
ひいては、人間の心情の問題に対する冷感を招き、人間相互の不信
感へと進み、又社会形成に於ける迷路となって居る事を日々体験し
ておる訳であります。
一方には労働者の不埓を叫ぶ一団、一方には経営者の不埓を叫ぶ
一団、又一方には国民を愛せざるものとして誹膀する一団、一方に
は国を売るものとしてこれを悪人と叫ぶ一団があるかと思えば、他
方自己の人間性を否定して動物的・衝動的快楽をもって人間の真実
の姿なりと観念しておる人達(ゴーゴー族等)又人間社会への不信を
もって進歩的現代人であるが如く囁き、人間性の埋没を来しておる
様な人間(フーテン族等)があると云う様に、世界が、国が相対的一対
立的闘争の様相を含み、又社会の中に人間性の否認埋没の要素を内
蔵して今日の世界的不安・国際間の不信・国内に於ける人間相互の
不信感を助長して、人類の国家社会の赴くところを混迷せしめてお
り、平和を叫びつつ戦争を遂行し、平和を叫びつつ殺人兵器の充実
が為されねばならないという実に奇妙な現象を呈し、またイスラエ
ルとアラブの戦争は速やかに止めるべきだとし、一方南ベトナムの
戦争は止めないのが良いと云う様な訳の分からぬ平和論が蔓延して
おる様に、小は家庭から大は世界の国際間に至るまで充満しておる
と云う事実を私は悲しむものであります。これを見て人類が滅亡す
ると叫ぶ人すらあると云うのが現代の社会世相の一断面ではありま
すまいか?
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これは正に正しい人間性の確立と正しい社会性の確立が忘れられ
ておる現象と云わねばなりません。そして現代人の相対一対立的思
惟の態様から生じてきたものは、闘争的物の考え方、及び正しい人
間性の開発を忘れた人間性否認、人間性埋没の現象であると申せま
しょう。そしてもっとこれを掘り下げて考えれば結局これは人間の
自我の然らしむる事であり、俺が俺が、と云う小我への執着・偏執
の結果であると申せましょう。又その小我と小我・自我と自我の衝
突が究極に於て人間相互の信頼性を失う事になり、現代の社会形成
上の最大の病根となっておる様に思われるのであります。
それでは一体我々は社会形成の目標・理念をどこに置けば良いの
でしょうか? 私達は常々正しく・楽しく・仲良くと云う事を申し
ておりますが、これを、言葉を換えて社会形成の上に示せば、正義・
自由・平等と云う事になります。これが正しい社会形成の目標・理
念と申して差支えありますまい。しかしながら、これらの高邁なる
理念も目標も社会を構成する人間相互の信頼がなくては、ついに空
念仏となってしまうのではないでしょうか? 先程も申しましたが
人間相互の不信と云う事が、人間社会形成の理念を曇らせて正しい
社会形成の実現を不可能ならしめる要因を為しておるのではないで
しょうか?
私達はこの正しい人間社会形成の実現の為に、この人間社会に於
ける人間相互の不信から速やかに脱却しなければならないと考えま
す。然らば如何にして脱却するかと申せば結局は人々が先ず相対―
対立の観念から絶対大和の真(まこと)を我がものにし、人間性の否
認埋没から人間性の肯定開発へと開悟して深い人間愛を身につけね
ばなりますまい。これをもっと簡単な言葉を以て云い換えれば真の
人となり自他を愛する人となる事であります。更に云えば、小我ヘ
の執着・偏執から脱却すると云う事であり、大我に生き、大道を我
がものにすると云う事であります。そして吾々は勇気と信念を以て
社会形成への具体的諸問題に寄与して行かねばなりません。
実は、私は最近或る経営者の会合に出たのであります。その時色々
な問題が出ましたがなかんずく、対従業員対策と申しますか、企業内の人
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間関係の調整ということで、話が大いに弾んだのであります。そし
て大部分の経営者側の諸君が異口同音に話しますことは、特に最近
の若い青年層従業員の扱い方の問題でありました。それは現代の労
働者諸君の気質の問題であり、彼等が全く誠意が無く利己主義、個
人主義的であって、俗な言葉で云えば「自分の事しか考えない」、
「手
前勝手である」と云う不満の声でありました。私はその時に申した
のでありますが、成る程現代の若い人達にも沢山の欠点があるが、
お互いに今日その問題を基として、自分達経営者又は企業の指導的
役割を持つ人達の自省をして見ようではないか? と提言して、諸
君は一体従業員の誹諦ばかりするが、自分の方は大丈夫でありまし
ょうか? 自分の方に利己主義は無いか? 自分の方に自分善しの
手前味噌的考え方はないか? 自分の方は本当に日常云うが如く真
面目に経営者として、又指導者として誠意を捧げておるだろうか?
口に国民の幸福を説き、口に世界の平和を説き乍ら実は自己の幸福
と自己の平和だけを追求しておる様な、まま我々の目に写る所謂世
の指導者に成り下がってはおらないだろうか? もっと言えば口に
大義名分を掲げつつ、実は自己一身の御都合で心を働かせておるの
では無いか? と大いに反省を促したのであります。
私は僅かの経験ではありますが、自らも又事業の経営者の一角に
おらせて頂き、又経営者関係の団体にも出入りさせて頂き、又他人
様の仕事も時々見せて頂いておる関係で色々勉強させて頂いておる
ものでありますが、労資どちらの側に於ても同じ様な「不信の声」
を聞くのであります。考えて見ればまさに「目糞が鼻糞をあげつら
う」状況を見ておるのであります。 どうも相手を利己主義と云う人
も結局は自分の利己主義から出て来る言葉であり、小さな自己の立
場に左右される我執から出て来ておる様に思われます。先程、現代
社会の悲劇は人間相互の不信感にあると中しました。そしてそれは
自我―小我への執着―偏執から発しておると申しましたが、正に
その通りであると思うのであります。私は目糞鼻糞を笑い、鼻糞目
糞をあげつらう様な事をしていたのでは何時まで立っても問題は解
決しない。どうしても我々はこの相対-対立の関係を断ち切る勇気
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をもって実践をせねばならない。そうでないと人間は、社会は、何
時までも混乱と混迷を続けなければならなくなると考えて居るので
あります。
さて、そこで私はこの人間相互の不信、人間社会に於ける不信的
様相を先ず誰が責任をもって解決する担い手になるべきか? それ
は世に云う指導的立場にある人に、その解決への勇気を奮い起こす
事を願うものであります。知名の士とか、社会的責任を双肩に担う
有識の人こそ真剣にこの担い手にならねばならぬと思うのでありま
す。そして先ずその人達が人間不信の病根たる小我への執着から自
己を解放する人間形成への努力をせねばなりません。小我―我執か
ら大我一大道に即する心境を自ら間発して、云う所の「真」と「愛」
の精神を体得して頂かねばならぬと思うのであります。
ここで私は真と深い愛を以て事を処した一例として、誰でもが知
っている明治維新に於ける江戸城の明け渡しを無血平和裡に為した
一幕を考えて見ます。これは南州翁が軍司令官としての面子とか新
政府の威信とかの小我の見を離れ、本当に人を愛する暖かい心情と
海舟翁や鉄舟老が幕閣の人と云う小さな立場や一身の危険を省みず、
真と深い愛に依って問題を解決したものと云えましょう。これこそ
真と愛に依る一大人間の事蹟と云えるのではないでしょうか?
まさに南州翁の云う「敬天愛人」の事蹟ではないでしょうか?私の
云う「真」と「愛」、南州翁の云う「敬天愛人」の精神こそ指導者精
神であり、指導者たる人はこれを身に付ける事への努力をせねばな
りません。これが私の云う指導者精神であります。これは容易な事
ではありません。自らを有識と思い、又責任者としての立場にある
と自覚する人、又将来その様な人たらんとする若い人達皆が小我の
我執を除き、自他の畔を取り外した境地を身に付けて頂き度いので
あります。
勿論、誰でもがこれを心がける事が望ましい事ではありますが、
私は敢えて現代人のこの精神的危機の時に於て、社会のリーダーた
る人に先ずその事を訴え、実践して貰わねばならないと考えて居る
ものであります。これこそ現代の指導者の急務である事を痛感して
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おるものであります。
大部時間も経過しましたので、結びに急ぎますが、要は真と愛の
二字を本当に身に付けて信念と勇気を持って社会形成への努力に一
段と目を向けて貰い度いと思うのであります。その為にはどうすれ
ば良いか? 具体的な事は機会を改めてお話する事もあるかと存じ
ますが、人間形成への正しい行を実践する必要があります。 どんな
行であるかと申せば、先ず静坐安心の法を行ずることであります。一
日に一時間でも、三十分でも宜しい。静かに自己の心と称する、憎
い・可愛い・寒い・暑い・面白い・面白くない、あいつ・こいつ、
と起こる念慮を静かに鎮めて心の本体に触れる行であります。私達
はこれを数息観と申しておりますが、この数息観の行を先ず実行さ
れるならば、何時の日か必らず小我の自我から誰でも相対一対立を
超越した絶対の心境と云うものを掴む事が出来ます。この上に立っ
て始めて正しい人間像を確立する事が出来、そして真と深い人間愛
の道を歩む事が出来る人と成り得る事を申し上げて置き度いのであ
ります。
表題に掲げました私のつたない話が帰する所は茲に落ち着きまし
たが、私は今日の社会世相と云うものを考え、この中から生まれて
来る幾多の社会的諸問題を考え、どうしても我々がお互いに、より
良き社会への建設に努めねばならぬ事を痛感し、現代社会に於ける
指導的立場にある人達にその重大なる責任が負荷されておる事を自
覚して頂き、各界各層の有識・知名・学識・高度の責任ある人達が
先ず人間形成の問題、正しい人間社会形成の問題について、自己の
小さな面子・経験・地位等に囚われず、大所高所から現代的悲劇を
取り除かんとする勇気をもって貰いたいと思うのであります。
これをもちまして、本日の私の講演を終ります。
合
掌
(昭和 42 年 10 月 21 日)
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