基調講演:体育・スポーツのイーハトーヴを求めて

2014 年 8 月 26 日岩手・盛岡
基調講演:体育・スポーツのイーハトーヴを求めて
山 本 徳 郎
(講演のなかに出てくる文献・事柄で抄録集に示してないものを、板書のつもりでメモしました)
1 はじめに
盛岡市立北松園中学校『イーハトーヴ岩手からの風 私たちの手づくり学校物語』1999 年
イーハトーヴを求めねばならないのは何故か? → 体育・スポーツに顕在化した「負の部分」
清水重勇、成田十次郎、山本徳郎『私たちと近代体育』1970 年
拙著『教育現場での柔道死を考える―「子どもが死ぬ学校」でいいのか!?』2013 年 2 月
学校管理下の柔道死・・1983 年から 28 年間に学校管理下の柔道で 114 名(年間 4 名)
内田良(名古屋大学・教育社会学)
・・・学校リスク研究所
拙稿(拙著)への感想 W.K.
「柔道死問題に象徴されている体育学やスポーツ科学の病理、指導者養成制度の問題、いずれもわ
たしたちの存在理由に関わる大問題です。
・・・わたしたちの師範学校的体育の存在理由は・・・
カニバリズム的指向性にある」 (ジャック・アタリ『カニバリズムの秩序』
、1984 年に邦訳出版)
2 われわれは今、何故イーハトーヴを求めなければならないのか? 現実は?
文科省報告書『学校における体育活動中の事故防止について』2012 年
1998~2009 年の 12 年間に死亡 470 件、障害(1~3 級)120 件、計 590 件が報告されている。
年間約 50 名の子どもたちが生命・生活を奪われていた! → 知っていたか?
突然死の問題・・・武道と同時に中学校で必修化された「ダンス」に突然死はあるか?
要するに、教材(種目)と指導法に問題がある!
突然死も人為的原因!(自覚せよ!)
文科大臣の国会答弁:
「生徒の体育活動中の事故に関する報告を廃止する」
(1989 年の閣議決定)
学会関係者(柔道関係者)→「日本スポーツ振興センター」資料を疑う不適切発言
体育学(学会)の学術的貧困(拙著 p.25~)を示すもの(学術的「良心」の欠如!)
40 年前の私の主張(
『東京体育学研究』第 1 号、1974 年 6 月、p.80)
体育・体育科学の在り方や体質から事故は当然生み出されるとして、次のように言う。それは「自
分たちの実践活動を合理化してしまい、それを客観的に、批判的に検討する立場を弱くし・・体制順
応的な研究、あるいは研究者を生む原因であったことを我々は常に反省していかなければならない。
」
グーツムーツの定義:Gymnastik ist Arbeit im Gewande jugendlicher Freude. (1793)
①
②
③
成田十次郎訳:体育は若々しい喜びにあふれた作業である。( ③ jugendlicher Freude に注目)
グーツムーツ(成田訳)
『青少年の体育』明治図書、1979 年 p.129)
時代背景:高度成長期、
『ホモ・ルーデンス』邦訳(1963 年)期(竹之下休蔵:
「プレイ論」時代)
拙訳:体育は若々しい喜びとみせかけた苦役である。( ② im Gewande に注目)
拙稿「
『みせかけ』型体育からの脱皮を!」
『学校体育』2002 年 3 月 p.23
「棺桶作りの目」
・・ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』の中の「肉体への関心」参照
「測定的事実」
・・・拙稿「
『個』の身体性と近代の教育」奈良女子大付幼紀要 16 集、1988 年
背景:現代思想(
『啓蒙の弁証法』
、
『監獄の誕生』
)の影響、苦役を強いられる子どもとの体験
宮沢賢治:イーハトーヴとは「仮面によって欺きを与えんとするものではない」1924 年
苦役は憲法違反!・・・日本国憲法第 18 条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪
に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
」
暴力的指導(シゴキ文化、拙著 p71~)
・・・苦役ではないのか?
3 われわれは今、何をしなければならないか?
カニバリズム的現実からの脱皮を、夢に終わらせないために・・・まず、その原因は?
原因:
「シゴキ文化」の温存、それを許したのは、
「師範学校的」子ども観の名残
戦前の「子ども観、人間観」
末川博「師範教育と軍隊教育は臣民としての意識を植え付けた」1969 年
逸見勝亮「師範学校制度史研究の課題と方法」北大教育学部紀要 34、1979 年 12 月より
師範学校的? 軍隊教育的? 戦前の遺物、脱皮できているか?(改革が復古調に?)
拙稿「体育・スポーツの歴史と 1945 年」
『体育・スポーツ評論』1985 年 12 月
梅根悟『私の中審答申批判』明治図書、1970 年、・・・必読「運動場の歴史」の項目
戦後教育改革:特に注目すべきもの・・・指導者養成を「師範学校」から「大学」へ
教育勅語の人間観・・10 数行中 5 ヵ所に「臣民」→ 天皇の臣下、人的資源、もの扱い
1938(昭和 13)年厚生省・・徴兵検査、体力章検定(人間を「測・計る」
)
教育基本法・・人間観の大転換 →「臣民」育成から「国民」教育へ
この変化の意味が、
「シゴキ文化を信奉する指導者」に理解されているか?
師範学校(中等教育・内容の固定化)から大学(高等教育・学術の継承発展)へ
「広く・浅く」から「狭く・深く、そして広がり・応用力を養う、教養科目重視」大綱化?
現実の大学での指導者養成・・・ 学生は、大学生としての学習をしているか?
授業中は居眠り、部活動重視 → 大学のコマーシャルに貢献?
1964 年東京オリンピックの頃の再来?・・・
「スポーツバカ量産体制」
(牛島秀彦、1970 年)
カニバリズム的現実から脱皮するために
教養教育の見直し(スポーツ教育の再検討を!)
・・・メダル争いは二の次にすべし!
クーベルタンも「十本の松明」
(1926 年)を提唱
① 個人の生存そのものを規定する四領域の知識 :天文学・地理学・歴史・生物学
② 人間の精神的道徳的発達に関わる三領域の知識:数学・美学・地学
③ 最後に人間の社会生活を支配する三領域の知識:経済学・法学・民俗学(言語学)
成田十次郎編著『スポーツと教育の歴史』不昧堂出版、1988 年
体育学・スポーツ科学はどこに属するのか?
直ちにできること!
複数教科の免許の義務化、救急救命士の資格、国家試験の導入(大学体育連合も試み?)
子どもの命にかかわるのだ。卒業年数が伸びてもいいではないか。
「最後の砦は指導者!」 → 全国柔道事故被害者の会の叫び!
4 おわりに
ハンナ・アーレント(考える人間は強くなる)
・・・
「ナチは私たち自身のように人間である」
茨木のり子『倚りかからず』
「球を蹴る人―N.H.に―」ちくま文庫、2007 年 p104,105
「この頃のサッカーは商業主義になりすぎてしまった
子どもの頃のように無心にサッカーをしてみたい」
私も初心に帰り、体育・スポーツ(オリンピックも含めて)の再構築(初期化)を試みたい!