第1章 EVAに対する関心の高まり 1.経営指標の変遷とEVA EVAとはEconomic Value Added(経済付加価値)の略であり、スター ン スチュワート社が考案した指標である。「企業価値創造」や「株主価値創 造」といった言葉が企業の活動目的として掲げられる昨今の日本において、 EVAは価値創造のための指標として注目されるようになってきている。こ こでは、まずEVAが注目されるようになった背景を、経営指標の変遷と併 せて見ていくこととしよう。 企業が重視する経営指標は、その企業が置かれている環境や時代背景に影 響を受けるという側面が大きい。日本の場合、戦後の高度成長経済において 「規模の拡大」が重視され、 「売上高」や「利益」に注目する傾向が強かった。 特に、利益の項目のなかでも、日本の経済が長らく銀行を中心とする間接金 融に支えられていたこともあり、借入金の利子を支払った後の利益である経 常利益が、経営指標として伝統的に重視されてきた。 ところが時代が低成長経済に移行すると、規模を追求するよりも、いかに 投資の「効率」を高めるかに関心が集まるようになった。そこで、投資効率 3 第1部 EVAとは を測るための手段として、 「総資本利益率(ROA)」「株主資本利益率(RO E)」という指標が注目を浴びることになる。総資本利益率や株主資本利益率 は、これまでの代表的な経営指標であった経常利益のように損益計算書だけ に注目するものではなく、貸借対照表の項目も取り入れていることから、投 資効率を意識するためには適した指標であると考えられた。具体的に言えば、 総資本利益率については、使用した資産(資本)全体に対するリターンを測 ることができるという点で、また株主資本利益率については、従来までほと んど意識されていなかった、株主に帰属する資本に対するリターンを測ると いう点で注目を集めるものとなった。 さらに最近では、このような損益計算書や貸借対照表上の数字ではなく、 実際の現金の出入りを示す「キャッシュフロー」を経営指標として重視する 企業も増えてきている。キャッシュフローは実際の現金の動きを示すもので あるため、会計上の処理に左右されることなく企業の真の姿をより正確に表 わすものであると言われる。企業全体の価値を示す「企業価値」や、株主に 帰属する価値を表わす「株式時価総額」の水準が、企業が将来に生み出すキ ャッシュフローに基づいて決定されるという認識が一般に浸透したことも、 キャッシュフローが注目されるようになった理由の1つと言うことができる。 総資本利益率や株主資本利益率、キャッシュフロー(フリー・キャッシュ フロー)という指標に共通なのは、資産あるいは資本の要素を考慮に入れて いるという点である。資本が外部の投資家によって提供されているものであ ることを考えると、これらの指標は、企業が投資家に対してどれだけのリタ ーンを提供しているのかということを測るものであると言い換えることがで きる。つまり、このような指標が登場してきた背景には、企業の側に、経営 指標は投資家に対するリターンを反映するものでなければならないという意 識が生まれてきたことがあげられる。特に、投資家のなかでも「株主」に対 4 第1章 EVAに対する関心の高まり する意識の高まりは、その存在をあまり意識してこなかった日本企業に対し て、新たな指標を探し求める機会を与えることになった。 EVAが日本企業の間に広がり始めた背景には、まさに日本におけるこの ような株主に対する意識の高まりがあったのである。各企業が株主というも のの存在を強く意識し、企業が株主に対して生み出した価値をより正確に表 わすような経営指標を探し続けた結果、行き着いた先がEVAであったと言 える。 総資本利益率や株主資本利益率、キャッシュフローはそれぞれ重要な経営 指標であるが、本書を読み進んでいけば、これらの指標に基づいて意思決定 を行なうことは、株主に対する価値の創造には必ずしもつながらないという ことがわかるはずである。その点、EVAはその最大化を目指すことが、必 ず株主に対する価値の創造へとつながるため、株主を意識した経営を行なう 際にきわめて有効な経営指標として機能することになるのである。 2.企業統治とEVA このように、EVAが日本において注目されるようになった背景には、企 業において株主の存在が意識されるようになってきたことがある。最近でこ そ「株主重視の経営」という言葉を頻繁に耳にするようになったが、そもそ も日本においては、株主の存在を意識するということが伝統的に希薄であっ た。これは日本における過去の独特な企業統治(コーポレート・ガバナンス) の仕組みに大きく関係している。過去の日本における企業統治の大きな特徴 は、メインバンクと称される銀行が大きな役割を果たしていたことである。 戦後の日本経済を振り返ってみると、希少な資本を重要分野に優先的に配分 するために、銀行などの金融機関が企業と密接なつながりを持つような仕組 5 第1部 EVAとは みづくりが政策的に進められた。このようなメインバンク中心の経済システ ムにおいて、銀行は企業に経営陣を送り込む一方で、融資という形で事業資 金を提供し、長期的な関係を維持することを目的に株式を保有することが一 般的であった。そこでは、銀行が企業と密接な関係を持つことによってその 経営を実質上コントロールし、監視する役目を果たしていたのである。 その後、金融の自由化などにより、銀行主体の間接金融から企業が資本市 場から直接に資金を調達する直接金融への移行が進み、銀行の企業に対する 地位が低下していった。それとともに銀行が企業を監視する役割も徐々に低 下していったが、依然として銀行はいわゆる安定株主という立場で企業との 関係を継続した。ここにおける安定株主とは、いわゆる「物を言わぬ株主」 であり、安定的に配当が支払われていればよいという立場であったと言える。 しかし、バブル経済の崩壊後、金融機関の体力が弱まるにつれて、このよ うな政策的な株式保有が見直されるようになり、金融機関が保有する企業の 株式が徐々に市場に放出されるようになった。この際に放出される株式の受 け皿となったのが国内外の機関投資家、特に外国人投資家である。このよう な投資家は過去の取引関係などに縛られることなく、純粋にその企業に内在 する企業(株主)価値を見きわめたうえで投資を行なう。つまり、従来まで は、企業としても株主というものを特に意識する必要はなかったが、株主に よる経営監視という企業統治システムに移行しつつあるなかで、株主という 存在が、企業にとって大きな意味を持つようになってきているのである。 株主による企業統治システムが進んでいる米国では、機関投資家が株主総 会の議決案に対して異議を述べたり、経営陣に対して直接に経営改善策を提 案するといった行動にまで出る場合もある。日本においてもこのような「物 を言う株主」が出現したことにより、企業は株主に対して十分なリターンを 提供していかなければならないことを強く意識するようになってきている。 6 第1章 EVAに対する関心の高まり 日本ではこれまで、企業を取り巻くステークホルダー(利害関係者)とし て、取引業者や従業員、銀行といったものが伝統的に重視されてきたため、 株主の利益を重視するという考え方に対してはいまだに抵抗感があるようで ある。しかし、第4章で述べるとおり、株主に対して十分な利益を提供する ことは、実は企業のステークホルダー全体に対して十分な価値を分配するこ とにつながるのである。したがって、いわゆる「株主重視経営」は決して株 主の利益のみを追求するものではなく、株主に対して価値を創造することに よって企業を取り巻くすべてのステークホルダーにとっての価値を創造し、 企業全体としての発展を目指すことを目的とするものなのである。 EVAは、日本企業がこのような株主重視経営を進めるうえで、大きな役 割を果たす指標となるであろう。EVAは株主への価値の創造が十分に行な われているのかどうかを測ることができる指標であり、EVAを使用するこ とで、株主と経営者(従業員)との利害関係を一致させた企業統治システム を構築することができる。EVAに基づいた企業統治のシステムを構築すれ ば、価値創造につながるような意思決定が実行されるようになり、企業全体 としての価値創造を達成することができるのである。 3.企業や投資家におけるEVAの活用 企業におけるEVAの活用 EVAを導入した最初の企業は米国のコカ・コーラである。その当時同社 において最高経営責任者(CEO)であったゴイズエッタ氏は、企業価値を 創造するためには、資本を有効活用するという意識を従業員に持ってもらわ なければならないと考えた。そこで、「資本コスト」という概念によって資本 の提供者に対するリターンを意識させる方法、すなわちEVAという経営指 7 第1部 EVAとは 標を採用することを決意したのである。 同社ではそれまで経営指標として投下資本利益率を使用しており、経営陣 の報酬もそれに連動する形となっていた。その結果として、投下資本利益率 の低下につながるような新たな事業は行なわないとする事業判断が下される 可能性があった。具体的に言えば、同社を代表するブランドである「コカ・ コーラ」は非常に投下資本利益率の高い製品であったが、それがネックとな って「チェリー・コーク」 「ダイエット・コーク」「コーク・ライト」などの、 投下資本利益率が相対的に低い後発飲料に手を出しづらいという状況に陥っ ていた。これらの新製品の投下資本利益率は資本コストを十分に上回ること が見込まれていたものの、会社全体の投下資本利益率を低下させるという理 由から、同社はその投入に二の足を踏んでいたのである。 ゴイズエッタ氏のねらいは、EVAを導入することによって、このような 消極的な経営判断を駆逐することであった。本書を読み進んでいくうちに理 解できることではあるが、実際には、資本コストを上回る投下資本利益率の 製品を投入することで企業は価値を創造することができる。EVAを導入す れば、資本コストを上回るリターンをあげる新製品であれば投入すべきであ るという判断につながる。最終的には、同社はEVAを導入することでダイ エット・コークなどの新ブランドの導入に踏み切ることができたのである。 次に、世界トップクラスの電機メーカーであるドイツのシーメンスのケー スにおいて、EVAをもとにした経営システムがどのように導入されたのか を見てみたい。EVAを導入する際にシーメンスが目指していた方向性は、 世界的な競争の激化のなかで社内管理システムの改革を行ない、長期的な競 争力を確保することであった。実際のEVA導入に際してシーメンスは、価 値の創造という唯一の目的に全従業員の意識を集中させることに努めた。同 社に適したEVAの定義づけや、投資判断を行なうためのツールの開発など 8 第1章 EVAに対する関心の高まり を経た後、まずはEVAに連動した報酬制度を一部の対象者に導入した。続 いて、EVAに関する研修および啓蒙活動が行なわれ、EVAの動向を意識 させるための社内報告制度の改革も行なわれるとともに、EVA連動型の報 酬体系の対象者の拡大が行なわれた。 コカ・コーラやシーメンスの他にも、世界各国において数多くの企業がE VAに基づく経営システムを導入している。たとえば、JCペニー、イーラ イリリー、トイザらス、モンサント(以上米国) 、ディアジオ、メトロ(以上 欧州)、ナショナル オーストラリア銀行、テレストラ(以上アジア太平洋地 域)など、米国をはじめとして、中南米、欧州、アジア諸国などにおいてさ まざまな企業がEVAを導入している。また日本においては、花王、ソニー、 旭化成、キリンビールといった企業がEVAに基づく経営システムを導入し ている。 さらに注目すべきことは、全米郵便公社(US Postal Service)などの公営 企業においてもEVAが導入されているという事実である。EVAにおいて は、資本コストという概念を用いることによって、公営企業の業績を見る際 にも、通常の民間企業であればどの程度の利益をあげることが求められてい るのかを考慮することになる。世界各国の公営事業において、コスト意識や 事業効率の改善が求められるなか、このような形でEVAが注目されるのは 自然の流れと言えるのかもしれない。 以上のように、EVAは決して米国においてのみ利用されている経営指標 というものではなく、異なる文化・商習慣の国々において幅広く活用されて いるものであり、民間企業だけでなく、公営企業においても活用されている 経営指標なのである。 EVAが世界各国に急速に広まった背景にはいろいろな要因があるものと 思われるが、もっとも大きな要因としては、EVAの概念自体が非常にシン 9 第1部 EVAとは プルであり、理解しやすいということがあげられる。簡単に言えば、EVA とは、事業活動における利益から使用した資本に対する「使用料」を差し引 いたものである、と説明することができる。このため、高度な財務知識を持 たない従業員でも理解しやすく、受け入れやすい概念となっている。この結 果、あらゆる階層の従業員がEVAに基づいた意思決定を行なうことができ、 全社的な価値創造活動を行なうことが可能になる。EVAは、経済学や企業 財務理論にその理論的な根拠を置くものであるが、理論的な側面だけではな く、その簡便性や実用性にも焦点が置かれるものでもあったが故に、広く浸 透することが可能であったと言うことができる。 投資家におけるEVAの活用 EVAは、このように企業の間で経営上の意思決定ツールとして活用され ている一方で、企業評価の尺度として投資家やアナリストの間でも幅広く活 用されている。たとえば、世界最大規模の年金基金であるカリフォルニア州 職員退職年金基金(CalPERS、通称カルパース)は、議決権を行使する対象 企業を選定する際にEVAを利用している。また米国だけでなく、日本を含 めた世界各国において、証券アナリストやファンドマネジャーが株式の投資 判断の基準としてEVAを活用する状況が広がりつつある。具体的には、投 資家は、その企業が十分なリターンをあげることができているのかどうかを EVAを使って見きわめることになる。さらに、EVAは企業の価値評価に も使用することができるため、その企業の株価が割安かどうかをEVAを使 って判断することも可能である。 このように、投資家も企業のEVAに注目しているということから、企業 の側としても、EVAを経営指標として導入するだけで自社の株価が上昇す るのではないかと期待する向きもある。たしかに、EVAを導入することを 10 第1章 EVAに対する関心の高まり 発表した直後に、株主を意識した経営を心がけているということで株価が上 昇した企業も少なくない。しかし、本当に重要なのはEVAを単に指標とし て導入するという事実ではなく、いかにEVAを社内の経営システムに組み 込むことができるのかという点である。 企業がEVAの導入を発表した場合、投資家は、その企業が単に自社のE VAを計算するだけで済まそうとしているのか、それとも本気で経営上の意 思決定に活用しようとしているのかを見きわめようとする。特に投資家は、 その企業の報酬制度がEVAに連動しているのかどうかに大きな関心を寄せ る。報酬制度をEVAに連動させている企業は、社内の従業員と社外の投資 家との利害を一致させようとしている企業として評価される。EVAを報酬 に連動させることは、従業員を株主と同じ目線に立たせることを意味してお り、株主に対して価値を創造するという企業の強いコミットメントとして受 け取られることになるのである。 11
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