JOMF NEWS LETTER No.254 (2015.3) 病気の世界地図・トラベルドクターとまわる世界旅行 第7回「森に潜む悪魔の正体~ドイツ・ベルリン」 東京医科大学病院 渡航者医療センター 教授 濱田篤郎 森の海に浮かぶ町 私が先進国を訪問する機会はそ んなに多くありません。そこで、 先進国を訪問した時は出来るだけ、 仕事以外の見聞も広げることにし ています。 2005 年にドイツのベルリンを 訪問した時も然り。本来の目的で あるトラベルクリニックの調査を 終えると、列車に飛び乗ってベル リン近郊のポツダムを訪れました。 ポツダムという名前を聞くと、多 くの人が第二次大戦時のポツダム 宣言を思い浮かべますが、この町 はもともとプロイセン王国の中心 都市でした。そして、王国の成長 期に君臨したフリードリッヒ大王 が、18 世紀末、ポツダムにサンスーシ宮殿を建設したのです。この宮殿は世界遺産にも指 定されているロココ建築の傑作で、歴史好きの私にとっては、万難を排してでも訪れたい 場所でした。いざ宮殿を目の前にすると、意外にも外装は質素でしたが、室内は大変に豪 華で、当時のプロイセンの強大な国力を感じることができました。 JOMF NEWS LETTER No.254 (2015.3) 念願の宮殿を見学できただけでも大 きな感動でしたが、この時にもう一つ 驚いたのがベルリンとポツダムの往復 時、列車の窓から見えた深い森。 「ドイ ツは森の海の中にある」という文章を 以前に読んだことがありますが、まさ にそれを彷彿とさせる光景でした。古 くからドイツの人々が森を畏怖し、そ して森と密な関係をもちながら生活を ポツダムのサンスーシ宮殿 営んできた様子がよくわかりました。 グリム童話と森 森に関する話題といえば、2015 年春にディズニー映画「イントゥ・ザ・ウッズ」が封切 られました。この映画はメリル・ストリーブやジョニー・デップなど名優が共演すること で注目されていますが、そのテーマは、こうしたヨーロッパの森でおこる不思議な出来事。 「赤ずきん」や「シンデレラ」など、ヨーロッパの民話にでてくるキャラクター達が、こ の映画の主人公と森の中で遭遇し、それぞれの人生を変えていく話です。 もともとヨーロッパの民話には森の中でおこる出来事が数多く登場してきました。それ はドイツの民話を集めたグリム童話も然り。この童話には 200 話以上の話が収められてい ますが、その半数近くが森に関係するものです。たとえば「ヘンデルとグレーテル」 「白雪 姫」 「眠れる森の美女」 「ラプンツェル」。数え上げたらきりがありません。そして、こうし た童話から読みとれるのは、森が不思議な出来事のおこる空間であるとともに、そこに危 険なものが存在することを暗示している点です。森の中には危険な悪魔が存在するから、 あまり近づかない方がいい。こうした警報を、グリム童話などヨーロッパの民話は、子ど もたちに伝えているように思えます。 では、森の中に存在する危険な悪魔とは何か。幼い子どもなら、 「ヘンデルとグレーテル」 のように道に迷って遭難することもあったでしょう。そこを根城とする山賊に殺されてし まうこともあったはずです。また、森に棲む動物に襲われる危険性もありました。 「赤ずき ん」の中に出てくるオオカミはそのよい例です。そして私は、森の中に存在する危険な悪 魔の一つに感染症があると思います。 森林破壊が生んだ中世の黒死病 ヨーロッパの森と感染症の関係でよく話 題になるのが、中世の黒死病の流行に関す るものです。黒死病とはペストのことで、 14 世紀中頃にヨーロッパで大流行がおこ り、3000 万人以上の死者がでました。閉鎖 的と言われた中世に、なぜ、これだけの大 中世の黒死病流行(ルツェルン市の橋に描かれた壁画) JOMF NEWS LETTER No.254 (2015.3) 流行がおきたのか。黒死病の流行は、ドイツのように森の海に囲まれた町にも波及してい ますが、森は流行を阻止できなかったのでしょうか。 本来、ペストはネズミとノミの間に流行する病気で、人間は病原体を持ったノミにたま たま刺されて感染します。この当時、ヨーロッパではネズミが大量に繁殖していたため、 このような大流行になったと考えられていますが、ペストに感染したネズミの大群が森の 中を通って次々に町を襲っていたのです。人間にとっては町と町を分断する森であっても、 ネズミにとっては格好の通路になっていました。こうしたネズミによって町が襲われるシ ーンは、グリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」にも登場します。 さらに、この当時、ドイツの森には人間の交通路もかなり整備されていたようです。こ れは 11 世紀からヨーロッパ北部で開墾が急速に進んだためで、黒死病が流行する 14 世紀 までには森が衰退し、町と町の行き来がかなり活発になっていました。森林破壊が黒死病 流行の一因と言うわけですが、 結果的に、 黒死病で多くの死者が出たために開墾は止まり、 森は再生したと考えられています。 このように森と黒死病の間には深い関係がありますが、私が考える森の中に潜む悪魔と は、もっと身近な感染症で、現在も森の中で流行している病気なのです。 マダニが運ぶ感染症 マダニという昆虫がいます。大型の吸血性のダニで、世界中の森に棲息しています。こ のマダニが様々な感染症を媒介することが知られており、たとえば最近日本でも話題にな った SFTS(重症熱性血小板減少症候群)もその一つです。そして、ヨーロッパでは、古く からダニ媒介性脳炎という病気が流行していました。私はこの病気が森の中に潜む悪魔で はないかと考えています。 ダニ媒介性脳炎の流行地域はドイツから東欧、ロシアまで広範囲に及び、日本の北海道 でも過去に患者が確認されたことがありました。この病気の病原体はデング熱や日本脳炎 をおこすウイルスと近縁のもので、このウイルスをもつマダニが人間を刺すと感染がおこ ります。そして、感染してから 1 週間ほどで発熱やカゼのような症状が出現します。この 初期症状は数日で消失しますが、患者の約 10%が 2 回目の発熱をおこし、意識障害や痙攣 など重篤な脳炎症状を発病します。この状態になると半数近くの患者にマヒなどの後遺症 が残り、死亡するケースもみられます。 ドイツでは南部を中心にダニ媒介性脳炎が流行しており、現在でも毎年 200 人以上の患 者が発生しています。流行時期は春から夏にかけてですが、この時期になるとハイキング などで森の中に入る人が増えるためとみられています。 「白雪姫」や「眠れる森の美女」に秘められた隠喩 ダニ媒介性脳炎は、おそらく中世の頃もドイツや東欧などで流行していたのでしょう。 森の中に遊びにいった子どもが、マダニに刺されて、この病気を発病したケースも数多く あったはずです。 そんな過去の悲しい出来事を繰り返さないようにするため、 民話の中に、 森の中は危険だというメッセージが込められていったのではないでしょうか。 JOMF NEWS LETTER No.254 (2015.3) 実は、私が森の悪魔としてダニ媒介性脳炎にこだわるのには、それなりの理由がありま す。それは、グリム童話の「白雪姫」や「眠れる森の美女」で、主人公のお姫様が不思議 な意識障害を起こしている点です。たとえば「白雪姫」では、継母の陰謀で森の中に捨て られたお姫様が、毒りんごを食べさせられて仮死状態に陥ります。ところが、そこを通り かかった王子様の愛によって意識が戻るという展開です。 「眠れる森の美女」はその題名か らも分かるように、意識障害の物語です。100 年間、森の中で眠り続けたお姫様が、やは り王子様の愛で意識を回復させます。いずれも、森の中で重篤な意識障害に陥り、その後、 意識を回復させるという、まさにダニ媒介性脳炎を彷彿とさせる症状なのです。 さらに、 「眠れる森の美女」では、お姫様が縫い針を指に刺して意識障害になっています が、これもマダニに刺されてかかる病気を連想させます。 いずれにしても、グリム童話の中には、ダニ媒介性脳炎を匂わせる隠喩が色々と秘めら れているようです。 悪魔の撃退法 時を経て現代。ダニ媒介性脳炎は今もドイツや東欧、ロシアなどで流行しています。2001 年には 60 歳代の日本人男性がオーストリアでこの病気にかかり、その後、亡くなるという 痛ましい事件がおきました。最近は、日本からの駐在員や観光客がドイツの森を散策する 機会も増えていますが、この病気をどのように予防したらいいのでしょうか。 まず、森を散策する時にはマダニに刺されないように防備すること。できるだけ皮膚の 露出を少なくし、露出する部分には昆虫忌避剤(虫よけ剤)を塗るようにしましょう。ま た、森を散策した後は皮膚にマダニがついてないかチェックをしてください。マダニは大 きさが 1 センチ近くあるため、皮膚についていればすぐにわかります。時間がたつと、皮 膚からとれにくくなるので、その時は無理をせずに皮膚科を受診しましょう。 なお、マダニが媒介する病気は他にもライム病や SFTS(重症熱性血小板減少症候群)な どがあります。この2つの感染症は日本でも流行しているので、国内で森に入る際にも同 様の注意をしてください。 そして、ダニ媒介性脳炎の予防にはワクチンという切り札があります。ワクチンを接種 しておけば、この病気にかかる心配はなくなります。現在、ドイツや東欧では多くの人が このワクチンを受けており、最近は患者数がかなり少なくなっているそうです。残念なが ら日本では販売されていないワクチンですが、このワクチンを輸入して海外渡航者に接種 している国内の医療機関も増えています。 ベルリンフィルの演奏を枕に ポツダムから戻った晩、さらにもう一つ大きな感動がありました。現地のドクターがベ ルリンフィルのコンサートチケットを予約しておいてくれたのです。私はあまりクラシッ クに詳しくないのですが、ベルリンフィルの名前はカラヤンが指揮者をしていた頃から知 っています。その時の演目はチャイコフスキーの曲だったと思いますが、心地よい旋律と 旅の疲れで、私はコンサートの途中で眠りについてしまいました。夢の中で先ほど見たポ JOMF NEWS LETTER No.254 (2015.3) ツダム周辺の広大な森の風景が広がります。ヨーロッパの作曲家の作品にも、深い森は大 きな影響を及ぼしているようです。 ヨーロッパの森は、そこに住む人々の生活、文化、芸術を形成するとともに、その地に 蔓延する病気にも大きくかかわっているのです。
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