(「重要文化的景観」及び「歴史的風致地域」候補地)1 (PDF

(5)その他参考資料 ⑧農村景観
⑧農村景観(「重要文化的景観」及び「歴史
的風致地域」候補地
22 箇所)
江戸時代の5本の歴史街道沿いに開けた沿
線上の拠点集落の内、22 箇所を文化的景観推
奨地として候補選定(平成 18 年度)をしてい
る。風光明媚な日当たりの良い場所が多く、歴
史的、文化性を持った景観地で、城下町高山か
ら伸びた文化の伝播経路(街道)上に発展した
歴史を持っている。この中には、
「重要文化的
景観地(文化庁)
」
「景観重点区域(国交省)」
の候補地も数件あって、世界文化遺産提案にふ
さわしい大規模な山都を構成する要素となっ
ている。
地域
江戸街道(東)
尾張街道(南)
郡上街道(西)
越中街道(北)
その他
③平湯街道 (高
山地域・七夕岩、
車田周辺)
高山
①江戸街道(高
山地域・山口了
心寺~辻の池)
④江名子川沿い
町家群
②川原町・上川
原町の町並
⑤☆松倉山麓景観
地(飛騨の里、原
山)
⑥滝町棚田
⑦越中東街道(今
村峠、八日町の町
並)
⑧越中西街道(国
府駅前、旧国府役
場周辺)
国府
⑨宮地集落
(多好方伝承地)
⑩長倉、岩井戸
地区集落
上宝
⑪北方周辺集落
丹生川
一之宮
⑫☆桐山・広殿
地区景観地
⑭臥龍桜、一之
宮駅周辺景観地
⑬☆位山街道
久々野
⑮大西集落
朝日
⑯☆江戸街道
(朝日、高根地
区)、沿線集落
高根
⑰野麦、阿多野
集落
⑱日和田、小日
和田集落
清見
⑲了徳寺周辺景
観地
103
⑳せせらぎ街道
(大原集落)
(5)その他参考資料 ⑧農村景観
荘川
21 六厩集落
○
22 惣則集落
○
☆印:合併記念公園
ア)車田、七夕岩周辺(松之木町)
a 松之木七夕
○
平湯街道沿いに「七夕岩」がある。
七夕岩は、
大八賀川の両岸に立つ、男岩と女岩の二つの大
岩からなる。毎年 8 月 6 日(古くは 7 月 6 日)
に、男岩と女岩の両岩に大しめ縄を張り渡し、
飾り提灯や、その年、男の子の生まれた家では
藁の馬を、女の子の生まれた家では糸巻きを吊
し、牽牛織女の二星をまつり、五穀豊穣を祈る。
この行事は元禄時代以前から行なわれてい
たといわれ、
『飛州志』や『飛騨国中案内』
『斐
太後風土記』の中でも紹介されており、古くか
ら遠近に知られていた。
国道 361 号線を横断して張られ、危険なため
に一時中断したこともあったが、当局との折衝
の末、復活をした。歴史もあり、他では見られ
ない貴重な平湯街道沿いの民俗行事である。
b 車田
○
平湯街道沿いに、市史跡「車田」がある。
金森三代の重頼は、鷹狩の帰途この車田に立
ち寄り、当座の一首を詠んでいる。
「見るもうし植うるも苦し車田のめぐりめぐ
りて早苗取るかな」
江戸時代の地誌『飛州志』に、
「田の広さ方
九間ばかり、稲苗一把を中央に置き、それより
円く廻りて菅笠の縫目のように植える。里民は
伊勢神宮の神供米を作ったというが、今は地元
の神社にモチをつくってそなえる。
」とある。
文政 8 年(1825)秋、日下部道堅が建碑を思
い立ち、田中大秀に碑文の執筆を依頼した。右
碑文は車田を「神鳳鈔」にいう飛騨国穴野御厨
(みくりや)であるとし、故老の言を引用して、
昔は環形の内に、一年にかたどり 12 枚の小田
が車輪のようにならんでいたので車田と名づ
けたと述べている。
現在の植え方は、田の中心に杭を打ち、中心
から 7 本の線を出す。
一株の苗を 3 本ずつとし、
一本の線に 5 株植え、あとはその外側に同心円
状に植える。下肥は決して使わない。
古い車田形式の植え方をなお保存している
松之木七夕行事
松之木車田田植
松之木車田稲刈
104
(5)その他参考資料 ⑧農村景観
のは、ここと佐渡だけで、平湯街道沿いの県指
定無形民俗文化財である。
車田保存会
イ)見座、小瀬、立岩集落(朝日町)
江戸街道を長野方面(東)に山口を通って進
み、辻の池を通って降りたところが朝日町「見
座」である。ここから橋を渡ると甲(かぶと)
に着くが、渡らないで東へ行くと、
「日面」と
いって南向きの良好景観が残る 3 集落を通過
する。
現在、農村集落として景観が保全されている。
a
○見座(みざ)
飛騨川の右岸、標高 720m 余の地。地名の由
来について『後風土記』は、当地の飛騨川にか
かる橋は古来重要路にあたっていたため、罔象
女(みずはのめ)をまつり、流失しないように
祈ったことから「みずは」の地名が起こり、の
ち約して「みざ」となったものか、としている。
村高は「元禄検地帳」123 石余、
「天保郷帳」
「旧高旧領」では 155 石余。
『国中案内』では
村高 124 石余・家数 25。
『後風土記』によれば
家数 30・人数 176、産物は米 96 石・稗 134 石
余・大麦 12 石余・小麦 13 石・大豆 20 石余・
蕎麦 6 石余・大繭 14 貫・小繭 83 貫・真綿 10
把・薪 4 間・山鳥 5 羽・キジ 3 羽・川魚 8 升な
ど。寺社に産土神の座王権現社がある。阿多野
川に罔象(みざめ)大橋があり、板橋で長さ
18 間・幅 9 尺。
見座集落の西方、高山側の曽伝原に池があり、
「辻之池」と称した。池の東西直径 60 間・南
北直径 40 間・周囲 200 間で毎年夏季にオシド
リ・カモ・ケリなどの群が飛来。当村の東方は
小瀬村へ 4 町、西方は小屋名村へ 10 町、南方
は甲村へ 8 町、北は辻村へ 10 町、また高山へ
2 里 28 町。(『角川日本地名大辞典』21 岐阜県
697 頁より)
b 小瀬(こせ)
○
飛騨川の右岸、小瀬谷との合流点付近に位置
105
見座集落
見座集落
(5)その他参考資料 ⑧農村景観
する。地名の由来は、
「此村の下なる阿多野河
(飛騨川)に小瀬ある故に、村名に負いしなら
む」といい、往古は中切村のうちであったと伝
える(後風土記)
。
「元禄検地帳」の村高は 62 石余、
「天保郷帳」
「旧高旧領」では 78 石余。
『後風土記』によれ
ば村高 78 石余・家数 16 戸・人数 99 人、産物
は米・稗・大麦・蕎麦・大豆のほか、大繭 10
貫目・小繭 50 貫目・真綿 5 把・サンカマチ 35
丁・檜角 7 本・薪 2 間・児馬 2 匹・山鳥 5 羽・
キジ 3 羽・松茸・シメジなど。産土神は白山社。
村より東方立岩へは 6 町、西方見座へは 4 町、
高山へは 2 里 32 町。明治 8 年朝日村の大字と
なる。(『角川日本地名大辞典』21 岐阜県 338
頁より)
c 立岩(たていわ)
○
竜岩山の麓、飛騨川と立岩谷の合流地付近に
位置する。地名は、当地の字岩樔山に屹然と卓
立した数十丈の大岩があることによるという
(後風土記)。
村高は「元禄検地帳」93 石余、
「天保郷帳」
「旧高旧領」では 114 石余。
『国中案内』では
村高 91 石余・家数 28。
『後風土記』によれば
家数 36・人数 219、産物は米 80 石・稗 440 石・
大麦 20 石・小麦 28 石・大豆 30 石・蕎麦 44 石・
大繭 30 貫・小繭 110 貫・真綿 10 把・榑 432 束・
サンカマチ 40 町・檜角 8 本・薪 5 間・児馬 1
匹・山鳥 8 羽・キジ 5 羽・川魚 1 斗、松茸・シ
メジなど。産土神の立岩社は俗に白山三社・石
仏と称した。宝蓮寺は真宗で、永正 12 年釈明
覚の開基。当村の東方は青屋村へ半里、西方は
小瀬村へ 6 町、南方は川、北方は山、また高山
へ 3 里余。(『角川日本地名大辞典』21 岐阜県
468 頁より)
ウ)野麦、阿多野集落(高根町)
a 野麦(のむぎ)
○
乗鞍岳の南方、益田川上流域に位置し、東は
信濃国に接する。地名は野にまいた麦が生育し、
穂も熟したので、村をつくり居住したことによ
ると伝える(後風土記)
。
村高は「元禄検地帳」5 石余、
「天保郷帳」
「旧
高旧領」では 14 石余。
『後風土記』によれば家
数 38・人数 145、産物として稗 20 石余・ソバ
27 石余・大豆 6 石余・小豆 4 斗・粟 4 斗・荏 2
斗・大繭 500 目・小繭 3 貫 500 目・真綿 30 目・
蕨粉 20 石・山鳥 2 羽・山葵 1 石・湯花 6 斗・
生馬 4 匹など。村の北・南方は山で北は乗鞍岳、
106
小瀬集落
立岩の宝蓮寺
野麦 西家
(5)その他参考資料 ⑧農村景観
東方は国境へ 1 里半・信濃国川浦へは 3 里、西
方は阿多野郷村へ 1 里半、高山へは 12 里。当
村は高山から野麦峠を経て信濃国へ至る街道
沿いにあり、信州寄合渡まで 16km の馬継場で
10 俵の買請米が与えられていた。
明治~大正期には当地の野麦峠を越えて飛
騨の多くの少女たちが信州の製糸工場へ働き
に出た。その苦難の峠越えは「あゝ野麦峠」
(山
本茂実著)で知られる。女工の宿所がこの集落
にあった。今も西家(市文化財)が残る。
(
『角
川日本地名大辞典』21 岐阜県 580 頁より)
野麦 西家
b 野麦峠(のむぎとうげ)
○
乗鞍岳の南、大野郡高根村と長野県奈川村の
境界にある峠で標高 1,672m。近世初頭から明
治中期まで、飛騨と信濃を結ぶ野麦峠(野麦街
道)の難所として有名。天正年間、飛騨の大名
金森長近が改修するまでは牛馬や駕籠の通行
も困難であった(国中案内)
。商人や出稼人の
往来が盛んで、天保年間に飛騨郡代が峠の頂上
に御救い小屋を建てたという(飛騨の街道)。
その頂上に地蔵堂、初代小屋番重助の墓がある。
幕末から特に明治~大正にかけては、飛騨各地
から糸引女工が集団でこの峠を越え、岡谷・諏
訪方面へ出稼ぎに向かったことはよく知られ
ている。中央本線・高山本線の開通後、この峠
の利用は減った。近年自動車道路が開通し、北
に乗鞍、南に御岳の雄大な山容を眺める野麦県
立自然公園として観光開発が進んでいる。
(
『角
川日本地名大辞典』21 岐阜県 580 頁より)
c 阿多野郷村
○
江戸期~明治 8 年の村名。村高は「元禄検地
帳」『国中案内』では 3 石余、
「天保郷帳」
「旧
高旧領」では 8 石余。
『後風土記』によれば村
高 8 石、家数 39・人数 143。産物は稗 7 石余・
ソバ 10 石余・大豆 1 石余・小豆 2 斗・粟 5 斗・
大繭 300 目・小繭 2 貫 500 目・蕨粉 6 石余・菅
筵 15 枚・山葵 3 貫目・山鳥 5 羽・岩魚 2 貫目・
生馬 5 匹。村の東方は野麦へ 1 里半、西方は上
ヶ洞へ 1 里半、南は日和田へ 1 里半、北は乗鞍
岳で高山へは 10 里半。当村より木曽街道を通
り、野麦峠を経て信濃国へ向かう街道は江戸街
道として重視され、金森氏の治世には道路改修
に意が注がれた。阿多野郷内の各村は、山間部
であるため生業に恵まれなかったが、春・秋の
一時期に山中に小屋を設けワラビを採取。婦女
子はワラビ粉をとり、男はワラビ縄をない、越
中の商人に売り、米・塩・魚などとの交換をし
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野麦峠 政井みねの像
阿多野集落