(5)その他参考資料 ⑤歴史総括 596 599 601 605 623 646 650 686 702 710 718 722 737 741 742 743 745 757 762 768 794 796 811 814 819 834 864 866 870 876 877 879 推古 4 推古 7 推古 9 推古 13 法興寺が完成。 鞍作止利(鳥)は、大和へ入る。 聖徳太子、斑鳩宮を造る。 鞍作止利は、天皇の命で丈六の仏像造りを命ぜられる。 止利が造った丈六の仏像は見事な出来栄えであった。安置する元興寺金堂に入らなか 推古 14 ったのを、止利の工夫で堂戸を破らず納められる。功により、止利には大仁位の位階と、 近江坂田郡において水田 20 町歩を給うが、止利は、それをもって寺を建てる。 鞍作止利は釈迦三尊を造り、法隆寺金堂に納められる。止利は、さらに、金堂の壁絵を 推古 31 画く。 大化 2 改新の詔を宣す。木工寮を置き、飛騨国出身の荒田井直比羅夫を将作大匠とする。 白雉元 比羅夫をして、宮の境標を建てさせる。 天武天皇が没する。大津皇子謀反発覚死刑に処せられる。新羅沙門行心が、謀反に関 朱鳥元 与したという理由で、飛騨国伽藍に流される。当時の寺院としては、光寿庵跡(国府町) や杉崎廃寺(古川町)など 10 カ寺を超えて、存在していたとみられている。 大宝律令施行。賦役令の一部に、斐陀匠条盛り込まれる。飛騨国は、課役を免じて米を 大宝 2 輸し、里毎に匠丁 10 人、四丁毎に廝丁 1 人を徴用するものとされる。 和銅 3 平城京に遷都。 養老 2 養老律令撰修開始。飛騨工、近江国野洲郡三上神社を建てる。 養老 6 木工寮に「飛騨工 37 人」が見える。 夏から秋にかけて、藤原 4 兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)ら高官が相次いで病死す 天平 9 る。 天平 13 諸国に国分寺・国分尼寺の造営を命じられる。 天平 14 甲賀宮(紫香楽宮)の造営始まる。 天平 15 大仏発願、同 19 年鋳造開始。天平勝宝 4(752)開眼会。 甲賀宮造営に従事する飛騨工 38 人と定められる。 天平 17 奈良宮造営に従事する飛騨工 19 人、甲可宮造営に従事する飛騨工 18 人と定められ る。 養老律令の賦役令が施行され、斐陀匠条附則が定められる。斐陀国は庸調は免ぜら 天平勝宝 9 れ、代わりに、里毎に匠丁 10 人、四丁毎に 1 人の廝丁が徴用され、1 年交替で、余丁は 米を輸し、匠丁の食に当てるようにとある。 石山寺造営に飛騨工が多く従事。諸院が建つ。従事し功績の多かった工匠に、散位従 天平宝字 6 八位下勾猪万呂(飛騨国荒城郡の人)の名が見える。 天平宝字年 万葉集が選集される。その中に、飛騨匠を歌った作品が 2 点ある。 間 その 1 は 「かにかくに 物は思はず 斐太人の 打つ黒縄の ただ一道に」 神護景雲 2 飛騨国造高市麻呂、造西大寺大判官に任命される。 山城国平安京完成する。造営に飛騨工従事。飛騨工豊楽院を建てる。豊楽院は飛騨 延暦 13 匠桧前杉光の建造という説がある。「今昔物語」の中の一話「絵師百済河成と飛騨匠技 を競う」に登場した名工は、桧前杉光という。 延暦 15 飛騨工の逃亡者を捜捕させる。 弘仁 2 逃亡した飛騨工の不役は、調庸未進に準じて処理するとされる。 弘仁 5 飛騨工を捜勘させる。 弘仁 10 飛騨国分寺炎上。飛騨工の 1 年の役を、300 日以下 250 日以上と定める。 承和元 逃亡の飛騨匠を捜捕させる。 貞観 6 帰国した飛騨工の徭を免除する。 貞観 8 飛騨工貢進の数を減らす。年間 100 人のうち、60 人を 3 年間停止する。 飛騨国大野郡を分けて、益田郡が分立する。南部の集落発展が著しいことの証拠であ 貞観 12 る。 貞観 18 朝堂院・神泉苑などの造作のため、飛騨工 100 人が貢上される。 元慶元 飛騨工、大極殿の工事に従事する。 元慶 3 大極殿等の作事が終わり、飛騨工は祝宴に参会することを許される。 82 (5)その他参考資料 ⑤歴史総括 881 887 927 928 959 961 1156 1192 1311 元慶 5 仁和 3 延長 5 延長 6 天徳 3 応和元 保元元 建久 3 応長元 鎌倉時代 元中 7 応永 15 応永年間 文明 11 長享 2 天正 9 貞観 18 年に朝堂院等の工事作事のために徴した飛騨工 100 人から 40 人を減ずる。 大工猪名部有吉は、外従五位下を授けられる。 延喜式成立。中務省時服条に、「木工寮飛騨匠 37 人、修理職飛騨匠 63 人」と見える。 内裏の朝堂院の火災消火隊に飛騨匠の姿が見える。 飛騨工が修理職辺で弾正と乱闘する。 内裏再建が完成し、飛騨匠に祝宴参会を許される。 内裏の棟上げが行われ、飛騨匠は玄祥門があてがわれる。 源頼朝、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。 飛騨匠の藤原宗安(飛騨権守)郡上郡長滝の白山長滝寺を建てる。 飛騨匠、近江西明寺(甲良町)の本堂・三重塔を造る。 1390 荒城神社(国府町)本殿(国重文)が建てられる。 1408 飛騨安国寺(国府町)経蔵(国宝)が建てられる。 飛騨匠、江戸円融寺の釈迦堂を建てる。 1479 京都東山銀閣寺が建てられる。「飛騨匠の妙手なり」と伝える。 1488 白川郷中野に照蓮寺が建てられる。 1581 久津八幡宮拝殿が建てられる。桂川孫兵衛が棟梁。 金森長近、飛騨国を所領とした。順次、高山城や増島城(古川町)などを築き、飛騨国 1586 天正 14 分寺や千光寺を再興する。さらに、高山や古川・舟津などの街づくりに着手。 1593 文禄 2 藤原棟教、遠江国佐野郡飛鳥村の永江院を造る。 1600 慶長 5 関ヶ原合戦で、徳川家康大勝利をおさめる。 1603 慶長 8 徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 金森可重、将軍徳川秀忠に、批目面桶・塗木地 2 組と雉 1 連を献上する。これは、飛騨 1612 慶長 17 春慶の初見とされている。 ※ 里中満智子ほか作画 「マンガで見る日本まん真ん中おもしろ人物史シリーズ 5」 『飛騨の匠』 企画発行 岐 阜県 2002 年 3 月 209 頁年表より キ)名工 東雲(あずも)家の系譜 (飛騨の名工を代表する一人の松田太右エ門に師事し、多くの社寺建築を建てた。) 1717 ~享保2 1788 ~天明8 光頼・勘三郎 信濃守護 小笠原政康と遠祖。 その子朝康が所領飛騨を受けた 貞光 文明5来飛。阿曽布村の東雲に 移住したことによる 光則・勘四郎 長男 1785 ~天明5 大正秘蘊 長光・勘七 長男 長政・半三郎 早死 称讃寺本堂 1743 松田太右ェ門に師事 今井庄兵衛と共に高弟 日枝神社拝殿 弟 久光太四郎―享保12『秘伝書図解』 兄勘四郎と共に太右ェ門に師事 坂野家へ婿に 坂野 常俊・半三郎 頼光 則光 万石八幡 立岩拝殿 宝蓮寺 早死 3男 正覚寺 宗猷寺本堂 1811 ~文化8 83 忠光・勘蔵 谷口与三郎紹芳と 不遠寺本堂(M8焼失) (5)その他参考資料 ⑤歴史総括 1820 ~文政3 1863 ~文久3 兄長康 早世 1844 ~明治17 1922 ~大正11 政光・勘蔵 日枝神社本殿 国分寺三重塔設計 萩町明善寺本堂と鐘楼 1832 吉政・喜四郎 陣屋の門(天保3) 一本杉拝殿 大秀に師事して雅楽 水無本殿修理 長則・勘七 水無神社獅子頭 芳国舎の渋草製陶所 中教院本堂 土川宗左ェ門宅 『飛騨の番匠議定書』 『大和めぐり』 則康・栄蔵 旧姓笠原 高山郵便局、青龍台、東照宮朝日稲荷、錦山神社社殿、大野郡病院 村山群鳳 長男 1928 ~昭和3 光康・寅之介 青龍台、宮村大鐘寺、東照宮拝殿、川原町秋葉社、高山病院 ク)高山地域における平安時代~戦国時代 平安時代、飛騨は平家の支配を受け、平安時 代末、三仏寺城(三福寺町)には平時輔(たい らのときすけ)が飛騨の守(かみ)として在城 している。 室町時代になると、京極家の被官多賀徳言が 文安年中(1444~)天神山城(多賀山城ともい う。現在の城山)を築いた。後、永正年間(1504 ~)高山外記(たかやまげき)が天神山(てん じんやま・現在の城山)に城を築き、外記の城 の近くを高山と呼ぶようになったという。 戦国時代になると、三木氏が南方から高山へ 進出して、高山外記らを攻略し、松倉城を築城。 さらに北方の江馬氏を滅して飛騨を手中に収 めた。しかし、富山の佐々成政(さっさなりま さ)と同盟したため、豊臣秀吉は越前大野城主 であった金森長近に飛騨の攻略を命じたので ある。長近は、養子可重と 2 隊に分かれて三木 氏を攻め、天正 13 年(1585)飛騨を征圧した。 荘川町の向牧戸城では進出をはばまれ、いっ たん引いて郡上の遠藤氏の加勢を得てようや く城を落とし、進軍できたという。 ケ)飛騨全体における中世の時代 飛騨の山脈は東南西に隣国との障壁を築い ている。越しにくい自然地形の障壁は、飛騨国 に独得の国づくりと統治の歴史を与えること になった。険しい山、峠を越えて東西南北から 文化が流れ込み、高山盆地や国府、古川盆地を 中心に留まり続け、上質、上品な文化として熟 84 三仏寺城 天神山城 飛州志から (5)その他参考資料 ⑤歴史総括 成を重ねている。飛騨の匠が、宮殿造りに活躍 した古代以来、様々な人物と歴史の波が押し寄 せたが、中世は複雑でわかりづらい。天正 13 年(1585)には金森長近が飛騨へ入国し、そし て安定した治政期に入るが、そこに至るまでの 飛騨を次に記する。 ―鎌倉時代―諸国に守護・地頭が配置された が、飛騨に守護が設置されたかは明らかではな い。地頭は建久 4 年(1193) 、飛騨国荒城郷に 多好方(おおのよしかた)が補任されている (『吾妻鏡』)。好方は都の楽師で、飛騨に鶏芸 をもたらしたと伝わる。 ―室町時前半―室町時代、守護の初見は、鎌 倉幕府が滅んだ年である元弘 3 年(1333)岩松 経家の補任(北朝から)で、この経家は建武 2 年(1335)の「中先代の乱」において戦死、の ち、延文 4 年(1359)近江の守護佐々木道誉が 飛騨の守護に補任された。佐々木氏は、応永 2 年(1395)に隠岐、出雲両国の守護も兼ね、本 国の近江を含め、四カ国の守護となり、その後 六角家と京極家に分かれている。 一方、南朝側からは建武年中(1334~1338) に姉小路家綱が国司として下向している。姉小 路は、古川(飛騨市古川町)を中心とした飛騨 北部を治めたのに対し、北朝守護側の勢力は主 に飛騨南部を中心としていたのである。 応永 18 年(1411) 、足利四代将軍義持の命を 受けた京極高数らは、国司姉小路を討ち、後に 姉小路は古河、小島、小鷹利の三家に分裂した。 結局、飛騨は、神岡(飛騨市神岡町)に江馬 氏、古川盆地に姉小路三家、南飛騨に京極家と 三氏が鼎立(ていりつ)していた。この時、飛 騨には北朝側京極氏の被官として三木氏が置 かれたが、この三木氏は先に登場した佐々木氏 の一族である。京極側では北飛騨の国司姉小路 をどんどん攻め、一族の多賀氏を派遣、高山に 多賀山城(高山城の位置)を築かせた。しかし 繁栄した京極家も応仁の乱(1477)頃には相続 争いで没落した。争いにまきこまれなかった京 極家の被官は土着し、飛騨各地域で勢力を伸ば すことになる。 ―室町時代後 半(戦 国時代)― 応仁の 乱 (1477 頃から)の飛騨は南北朝時代からの争 いを経て、たくさんの群雄が割拠する。北飛騨 に江馬氏(平家を祖とする) 、古川盆地周辺に 小島、小鷹利両家、広瀬(高山市国府町広瀬)に 広瀬氏、白川郷(白川村)に内ヶ嶋氏がいた。 また、高山を見ると、天神山城(後の高山城) に高山外記、中山に岡本豊前守、三枝(さいぐ 85 飛騨匠木鶴大明神像(市文化財) 多好方碑のある宮地集落周辺 姉小路基綱画像 江馬館(飛騨市神岡町) (5)その他参考資料 (5)その他 ⑤歴史総括 さ)郷に山田紀伊守、江名子に畑六郎左衛門、 大八賀郷には鍋山豊後守等が割拠している。こ れらの勢力は、隣国信州にある上杉、武田の影 響を受けながら牽制し合っていた。 上杉、武田の衰退により力を伸ばしてきたの が三木氏で、三木自綱は広瀬氏と組んで婚戚関 係にあった城主まで討ち、南飛騨、高山周辺を 手に入れた。さらには、北飛騨最大の勢力であ った江馬輝盛を飛騨分け目の八日町合戦(高山 市国府町)で滅し、飛騨を支配した。後、三木 氏は姉小路の国司の名跡を継ぐべく、姉小路と 名乗っている。 コ)金森氏の成立 金森氏は美濃国守護であった土岐氏の流れ である。後、土岐郡大畑(現多治見市)に移り、 当主は「大畑定近」であった。金森可近(後の長 近)は大永 4 年(1524)、多治見市大畑で二男 として生まれ、今度は、一家で金ヶ森(現在の 滋賀県守山市)へ移り住んだ。そこで「金森」 の姓を受け、天文 10 年(1541) 、可近 18 歳の 時、織田信長に仕えた。 可近を長近に名を変えたのは、弘治元年 (1555)、32 歳の時である。天正 3 年(1575) 、 長篠戦役に功があったとして、越前大野一国を 与えられた。10 年後の天正 13 年、秀吉は長近 に飛騨攻めを命じ、三木氏を攻略した。 翌天正 14 年、長近は飛騨を領国、2 年後の 天正 16 年には高山城築城を開始し、16 年かけ て日本にまたとない名城「高山城」を完成させ た。 慶長 13 年(1608)8 月 12 日、京都に卒去、 年 85 才。法号を金龍院殿前兵部尚書法印要仲 素玄大居士という。 サ)金森氏の入国 越前大野(福井県大野市)城主であった金森 長近は、天正 13 年(1585)秀吉の命を受けて 飛騨の三木氏を攻略し、飛騨を平定した。翌年 8 月 7 日、長近は飛騨国 3 万 8 千石の国主とし て入府している。関ケ原の戦いでは徳川方につ いて前線で戦い、美濃国上有知(みののくにこ うずち)1 万 8 千石、河内国金田(かわちのく にかねた・大阪府)3 千石が加増されている。 飛騨へ入国した長近は、当初、高山盆地東南 方向の郊外にある漆垣内町鍋山城(県史跡)に 城下を構えたが、土地条件が整わず「天神山古 城」に城を築くことにした。 城の建築は天正 16 年(1588)から始め、慶 86 三木の居城、松倉城 飛騨の里 雪 金ヶ森(滋賀県守山市) 美濃市上有知
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