巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 外大発アメフト日本代表 ~ 西ヶ原からドイツW杯・世界一へ ~ 大津俊郎(Mo 平 10) 略歴: 1998 年 3 月、東京外国語 大学モンゴル語学科卒。同 年富士通株式会社に入社、 同社アメリカンフットボ ール部Frontiers にてX リ ーグ(社会人一部リーグ) で活躍。日本代表に選出さ れ、第 2 回ワールドカップ (2003 年、ドイツ)では 日本の二連覇に貢献。2005 大津俊郎日本代表 写真撮影:鷹羽金蔵 年に現役引退し後進の指導の道へ。現在、外大アメリカン フットボール部 Phantoms ヘッドコーチ。 アメフトとの出会い ~ 始まりは西ヶ原から 出会いは突然そして偶然だった。1992 年 2 月、 合格発表を見に西ヶ原キャンパスへ向かった。不安 を抱えながら正門をくぐり掲示板を見た。何とか合 格していた。喜びもつかの間、気が付くと、屈強な 男たちが私を囲み合否を聞き胴上げを迫る。そう、 今も合格発表の名物となっている「アメフト部胴上 げ隊」が待ちかまえていたのだ。 入学すると、教室まで押し掛けてくるなど容赦な い勧誘が始まった。関東大学アメリカンフットボー ル連盟に加盟し 2 年目の外大アメフト部 Phantoms (ファントムズ)は 4 部リーグ所属。しかし、熱い 先輩たちは「日本一も夢ではない」と本気で言う。 先輩だけではない。連盟加盟以来、ご指導いただい てきた関西学院大学アメフト部 OB のコーチからも 言葉巧みに勧誘を受けた。 「京大のように、国立大学 が日本一になれるスポーツだ」 、 「経験したスポーツ が活きるポジションがある」 、 「外大で一番本気で取 り組んでいるクラブだ」 、 「一緒にこのチームを強く しよう」 。 高校 3 年間、ラグビーに打ち込み、大学ではもう 本格的にスポーツをやらないつもりだった。 しかし、 先輩、コーチの熱い言葉に心が動いた。 「騙されたと 思って、一丁やってみるか」 。これが私とアメフトと の出会いだった。 外大アメフト部での 4 年間 外大アメフト部 Phantoms、創部 1986 年、連盟 加盟 1991 年の新しいクラブだった。アメフトは経 験、理解が深まるほど面白くなる奥の深いスポーツ であった。授業が終わるとグラウンドに出て、練習 が終わると対戦相手のビデオをチェックし、トレセ ンが閉まるまでウエイトトレーニング、そんな毎日 だった。母校でもないのに毎週末来てくれる関学出 身のコーチの期待に応えたい、部員数 30 名足らず と少人数ながらも皆必死だった。 しかし、勝てなかった。2 年時、3 年時は優勝を 賭けた最終戦で敗退した。4 年時、主将になると、 毎晩のようにミーティングを繰り返し、選手たちに 問うた。 「なぜ勝てないのか」 、 「選手一人一人が本気 でアメフトに取り組んでいるのか」 。 時には衝突しな がらチーム内で腹を割って議論し、信頼関係を徐々 に構築した結果、チームは家族同然となった。選手 一人一人が率先して取り組むチームは強かった。問 題を一つ一つ解決し先へ進む、 「殻」を破った確かな 実感があった。1995 年秋のシーズン、負ける相手 はいなかった。念願の全勝優勝、初の入替戦に勝利 し、3 部昇格を決めた。 富士通アメフト部 Frontiers での挑戦 1998年入社した富士通のアメフト部Frontiers (フロンティアーズ)は社会人一部の名門、強豪校 出身者が多かった。入社後、Frontiersスタッフから 連絡をもらった、 「一度グランドに来てみないか」 。 激しくぶつかり合う選手を見て、闘争心に火が付い た。 「アメフトから離れることはできない」 、そう感 じた。その日、Frontiers入部を決めた。 大学4部出身者は私だけだったが、過去の実績を 問わず、実力のある選手を使うのがチームの方針だ った。入部1年目、同じポジションのレギュラー選 手が体調不良となり、 控えの私に白羽の矢が立った。 アメフトの場合、控え選手はレギュラーチームの練 習相手となり仮想敵チームを演じることに追われ、 自分のチームのプレイはあまり練習できない。この 機会を逃さぬよう必死に取り組んだ結果、翌週の公 式戦に出場できた。その後も懸命に練習に試合に取 り組んだ。今まで経験のないチーム内の激しい競争 が心地よかった。競争が成長を促し、個人の成長が チーム力向上につながり、強いチームがさらに強く なるのを肌で感じた。 そんな中で心がけたのは「目の前のプレイに集中 すること」、大学時代、コーチから幾度となく聞か された言葉だ。アメフトは、サッカーなど連続性を 重視するヨーロッパスポーツと異なり、1プレイご とに集合し、使用する「作戦」を確認する。そして 各プレイヤーが与えられた役割を果たし「作戦」を 遂行する。「目の前のプレイに集中」し、確実に実 行できるかどうかが、プレイ、試合の成否を決める。 この姿勢を終始貫いたお蔭か、Frontiersでもレギュ ラーを勝ち取ることができた。2002年、東京スーパ ーボウル(社会人一部決勝)に進出したFrontiers は、タッチダウン1本差で惜しくもリクルート・シ ーガルズに敗れたものの、2万人もの大観衆を集め た東京ドームでチームの一員としてプレイし「日本 一になる夢」 を仲間と共有できたのは人生の財産だ。 そして日本代表選出、アメ フト・ドイツ W 杯へ 2003年春、富士通 Frontiersでの活躍が評価 され、ドイツで開催される 第二回アメリカンフットボ ール・ワールドカップの日 本代表に選出された。嬉し さと「自分が日本を代表し 大津日本代表入場 ていいのか?」という不安 が交錯する中、練習が始ま った。当時NFL(米国プロフットボール協会)下部 リーグがあったドイツをはじめ、体が大きく腕っ節 の強い外国人チームとの対戦は経験がなく未知の世 界だった。駐日米軍代表との壮行試合に勝利し、そ の不安は少し解消された 同年7月、ドイツ・フランクフルト。日本は予選 で韓国を大差で下し本大会へ。初戦はフランスと対 戦、終始ゲームの主導権を握り、23-6で勝利、組織 力、プレイの精度、テクニックは日本の方が圧倒的 に上だった。チーム全体に自信が漲った。 決勝の相手は、強豪ドイツを下して波に乗るメキ シコ。サッカー代表を見ればわかるように、メキシ コの選手は小柄だが個々の能力は高くスピードが速 い。1Qはリードを許したものの、フィジカルで優位 に立つ日本は、パワープレイを中心にゲインを重ね る。その後もモメンタムを得て次々と得点、その結 果、ファイナルスコア34-14にて、第一回に続き、 日本はワールドカップ連覇を果たした。アメフトの 本家、米国が不参加ではあったが、日本が「世界一」 になったのは、アメフト選手冥利につきる忘れられ ない思い出となった。 最後に~初の 2 部昇格と 1 部への道のり 思えば富士通でプレイしていなければ、 「日本一」 を目指すことも、ドイツ W 杯日本代表に選ばれ「世 界一」の座を掴むことはなかったろう。そして、外 大でアメフトに出会い、Phantoms に入部していな ければ富士通でプレイすることもなかった。 つまり、日本代表への第一歩は、あの西ヶ原のグ ラウンドから始まったのだ。当時は、広い練習場所 を確保できず、荒川河川敷まで行ったり、他部に遠 慮しながら校庭の端で練習していた。しかし、選手 は腐らず、高い理想を掲げ、少しずつレベルを上げ ていった。目の前の課題ひとつひとつに懸命に取り 組んだ結果、戦うステージが上がり、さらに高い目 標を目指した。仲間と協力し、互いに成長し、目標 を実現してゆく、そんな経験こそが私にとってアメ フトを通じ学んだことだ。もしアメフトに興味ある もしくは自分を変えたい現役生がいたら、ぜひ一度 Phantoms の扉を叩いて欲しい、そこには人生を変 えるだけの魅力がある。 2011 年、Phantoms は無敗でリーグ優勝、武蔵大 との入替戦に勝利し、創部 26 年目で初めて 2 部昇 格を決めた。300 名を越える関係者のご声援を受け ながら、偉業を成し遂げることができた。外語会会 員の皆様からは、昨年度より始まった ICU との春 の定期戦あるいは秋の 2 部公式戦にて、母校の奮闘 にご声援をいただければ幸いである。 私の夢は、ヘッドコーチとして Phantoms を 1 部 に昇格させることである。他大学に比べ、学生数(特 に男性)が少ない外大でもここまで来られた。この 先の壁はさらに高いかもしれないが乗り越えられな いことはないと信じている。 西ヶ原から始まった私のアメフト人生は未だ終 わらない、母校の 1 部昇格を目指して。
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