巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ まさに世界の大転換期の始まりだった 小島 敦(R 昭 41) (略歴) 1942 年生まれ 1966 年 東京外国語大学ロシア語科卒業、読売新聞 社入社 モスクワ支局長、外報部長、編集局次長、 調査研究本部長を歴任 2006 年 読売新聞西部本社社長 1966 年 に ロ シ ア 語科を卒業、新聞社 に入って 43 年にな る。この間、大半の 期間は、編集局で働 き、一線の取材記者 として原稿を書き、 エディターとして、 編集や企画の仕事を した。新聞記者とし て、こんなにも長期 間、働くことができ たのは、外語のお陰と最近、改めて感謝の念 を深くしている。 外語のもう一つのお陰は、4 年間ボート部 に在籍して体力と精神力を鍛えられたことだ。 新聞記者はもちろん、ひごろの勉強も大事だ が、しばしば不眠、不休の大事件、大事故に 遭遇し、2、3 日ほとんど眠れないといった状 態が続くことがある。そんな時、ものをいう のは、頑健な身体と、強い気持だ。幸い、大 きな病気もせずに記者生活を送ることができ たのは、ボート部時代に猛練習で鍛えられ、 生涯の仲間を得た賜物だ。 ソ連崩壊を取材 最初にモスクワに赴任したのは、75 年 1 月、 入社 9 年目だった。当時はまだ、ブレジネフ 時代で、社会主義体制はそれなりに安定し、 米国と並び、核超大国の地位を誇示していた。 しかし、高度成長期の日本と比較すると、一 般市民の生活水準は劣悪で、あらゆる日常消 費物資を求めて行列するロシア人たちの我慢 強さに驚いたことを記憶している。 それよりも強く心に残ったのは、社会主義 体制下でロシア人たちが建前と本音の二重生 ロシア語とボート 活を強いられていることだった。つまり、建 その一つは、外語でロシア語の基礎を学ん 前では、社会主義体制を賛美しながらも、本 だことである。そもそも新聞社に入ったのは、 音では、共産党を頂点とする全体主義的な体 矛盾するようだが、ロシア語に自信がなく、 制を全く信じていないのだ。「社会主義の祖 商社などに入ってモスクワ勤務にでもなった 国」に極めて大きな疑問を抱いて 1 回目の勤 ら、大変なことになる、と密かに考えたから 務を終えた。 だ。しかし、5 年間の地方勤務を終えて、東 2 回目の勤務は 83 年 3 月から 89 年 3 月ま 京本社に呼び戻されて、配属されたのは、予 での 6 年間だった。赴任時は、前年に 18 年間 想に反して外報部(現国際部)だった。私の 最高権力の座にあったブレジネフが死去した 入社世代にロシア語のできる記者がいなかっ ばかりでソ連社会主義体制の行き詰まりが目 たのが、理由のようだった。 立ち出した時期だった。 やむなく、一からロシア語の勉強を始めた まず、アンドロポフ、チェルネンコ両最高 が、外語一年生の時に、発音やら文法やらを 権力者の在任中の死去という異例の事態に続 徹底的に叩き込まれ、一応の基礎はできてい き、85 年 3 月のゴルバチョフの登場となる。 たので、何とかモスクワ特派員になることが これがいま振り返ると、まさに世界の大転換 できた。結局、70 年代と 80 年代に 10 年近く の始まりだった。その大転換を可能にした最 も、モスクワに駐在し、社内ではソ連、ロシ も大きな要因の一つは、ゴルバチョフがペレ ア問題の専門記者とみなされるようになった。 ストロイカ政策を発動したことだ。 2 ペレストロイカは「立て直し」と日本語に 訳されているが、その結果起こったことは、 むしろ「第二の革命」と呼ぶのにふさわしい。 当初、ゴルバチョフが目論んだのは、深刻な 不振に陥っていた社会主義計画経済の再建だ った。しかし、小手先の修正では、結果を出 すことができないとわかり、政治改革に乗り 出す。この過程で劇的な効果をあげたのが、 通常、 「情報公開」という日本語に置き換えら れているグラスノスチの進行だった。 ソ連社会主義体制で隠蔽されていた統計や 資料が次々に明らかにされ、国民に大きな衝 撃を与えた。当時はアフガニスタンに軍事介 入を続けていたが、これによるソ連兵の死傷 者数は一切公表されていなかった。麻薬など の犯罪統計も存在しないことになっていた。 何よりも、ロシア、ソ連の歴史が歪められた ままで、フルシチョフが始めたスターリン批 判も封じ込まれていた。 社会主義体制にとって、都合の悪い資料や 統計は一切出さないという方針が徐々に転換 され、少しずついろいろな事実が新聞、雑誌 に出て来るようになり、これを発見して記事 にすることが重要な仕事となった。 同時に、それまでは官製の歴史しか公認さ れていなかったのに対し、これを覆したり、 否定したりする歴史資料も次第に出て来るよ うになった。特に、影響が大きかったのは、 スターリン批判の解禁であり、これが最終的 には 1917 年のロシア革命の正当性を問うま でに至った。この「歴史の見直し」では、多 くの歴史的人物に出会った。 中でも、最も強烈な印象を受けたのは、革 命の指導者の一人、ブハーリンの未亡人、ア ンナさんだった。知り合ったのは、87 年初め で当時すでに 73 歳だった。父親がブハーリン の親友で、夫よりも 25 歳以上も年下だったた め、夫がスターリン粛清の犠牲となったあと も過酷な強制収容所暮らしを生き残った。モ スクワに帰ってからは、夫の法的、政治的復 権を求めて共産党当局と戦っていた。 最終的に、88 年 2 月、ソ連最高裁がブハー リンらスターリン粛清の指導者たちを「起訴 事実なしの無罪」とする決定を下し、アンナ さんの 50 年の戦いは勝利を収めた。この間、 幾度となくアンナさんの自宅を訪れ、時には ウオツカをご馳走になりながら、苦難の道の 東京外語会会報 № 116 りを取材した。 アンナさんは当時、再婚した夫との間に生 まれた娘、孫と暮らしていたが、時折、ブハ ーリンとの間に生まれた画家の長男も同席し た。いつも、一家で暖かく迎えてくれ、粛清 の犠牲者たちの家族の消息を気遣っていた。 こうした取材を通じて、ロシアの歴史の悲 劇の断面に触れ、国家権力の不条理に翻弄さ れた犠牲者たちの生々しい体験を聞くことが できたのは、一新聞記者として、大変貴重で、 忘れることのできない思い出だ。 母校にジャーナリスト講座を 当時は新聞やテレビで約 20 人のモスクワ 特派員の露出度が極めて高かった。そんな中 で、外語ロシア語出身者が日本人記者団の半 数前後を占め、ペレストロイカ報道の先頭に 立っていた。特に、私の所属する新聞社はそ のころまで全員、外語のロシア語だった。も ちろん、社が違えば競争は激しいが、やはり 同じキャンパスで学んだ同士、プライベート では先輩にお世話になり、後輩にはできない なりにも面倒をみるように努めた。 ロシア語をはじめ、中国語、スペイン語、 アラビア語など語学によっては、ジャーナリ ズムに進む外語卒業生はかなり多く、国際報 道の分野で優れた仕事をした、あるいはして いる記者も多い。 私の同世代や、前後の世代でも新聞、テレ ビ、通信社、出版社などで活躍している外語 出身者が多数存在している。これまであまり 指摘されてこなかったが、外語には優れたジ ャーナリズムの伝統の蓄積があると思う。こ れを母校のために活用できれば、大学の大き な資産になる可能性がある。例えば、ジャー ナリズム講座を作り、経験豊富な先輩たちに 講義してもらうのも一つの方法だろう。もし、 そのような機会が与えられれば、多くの優れ た卒業生たちは協力を惜しまないと思う。 3
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