巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ 巻頭エッセイ サメ水族館、世界一への道 内田詮三(In 昭 36) 略歴: 1961 東京外国語大学イン ドネシア科卒業 伊東水族館入社 1971 照島ランド園長 1981 沖縄記念公園水族 館長 1999 博士(農学) 東京大 学 沖縄のサメ・エ イ類の繁殖生態 2002 沖縄美ら海水族館館長 2009 第 2 回海洋立国推進功労者表彰受賞 ことの始まり 東外大という文系の大学を曲りなりにも卆業し たが、就職したのは伊東水族館であった。 志望のイルカ飼育係にはなれなかったが、小規 模水族館のため営業担当とはいえ、セミ飼育係、 トラックドライバー、土産物売店、駐車場整理、 など民間水族館のあらゆる現場仕事に精を出した。 とりわけイルカ飼育は本命の水産大卆の鳥羽山 照夫氏と共に開館前のハナゴンドウのイケス飼育 は二人でこなし、イルカ輸送には常に要員として 従事した。水族館顧問の西脇昌治博士、その弟子 たる鳥羽山照夫博士、この御二人との出会いで、 わが人生が決まったようなものであった。 当時、伊東では川奈、富戸の兩地域でイルカ追 込漁が盛んに行われていた。生け捕りをする事で イルカ追込漁は水族館にとって誠に好都合であり、 日本のイルカ飼育水族館の大半のイルカは追込漁 由来である。食用としての目的種はスジイルカ、 マダライルカ、マイルカ、コビレゴンドウが主た るものだが、飼育適種のバンドウイルカ、オキゴ ンドウ、ハナゴンドウなども獲れた。伊東水族館 におけるハイライトは天下稀なるユメゴンドウ 14 頭が富戸で捕獲され、全頭を輸送搬入し、飼育 したことであった。 このイルカは、19 世紀に大英博物館にもたらさ れた 2 個の頭骨を調べて新種として学名が記載さ れたものであるが姿形はさっぱりとわからず、捕 獲地も単に「南海より」とあるだけであった。そ れから 125 年後の 1952 年に紀州、太地で一頭が 捕獲され、山田致知博士が解体、分離された体の 断片から見事な復原図を作成、やっとその姿を垣 間見せたのである。そして、世界初の 14 頭捕獲 のビッグニュースが再び日本の伊東からもたらさ れたのである。これは、鯨学にとって画期的な出 現で、日本における鯨学のパイオニアである東京 大学の小川鼎三博士が伊東へ観察にお越し頂き、 感激したものである。 イルカ、クジラなどは相当調査が進んでいるグ ループだと勝手に思い込んでいたが、全く見当違 いであり、未調査、未解明の事柄に滿ちているこ とを思い知らされたのであった。このことが、真 正飼育人になるべく、鳥羽山氏に従って伊東を脱 出、福島県の照島ランドへ赴く契機となった。 晴れて飼育屋になる 照島ではすぐにはイルカ担当になれず、トド、 アシカ、アザラシなどの鰭脚類、タイワンザル、 チンパンジー、シカ、クマ、キツネ、タヌキ、ペ リカン、フラミンゴ、ペンギンなどの飼育、園長 になってからは食堂、売店、ヘルスセンター、水 泳プールの管理にも従事した。経営芳しからず、 経営者も最初の個人会社から、宮城交通、帝国観 光と変わり 6 年間で三者の経営者に仕えた。 誠に「名もなく、貧しく、忙しく」の日々であ った。搬入したばかりのチンパンジーからの急性 肝炎ウィールス感染で入院したりで家内にもずい 分と苦労をかけた。しかし、一方イルカ関係では 素晴らしい経験をすることができた、西脇、鳥羽 山のお二人の御蔭である。1970 年には千葉県に鴨 川シーワールドがオープン。鳥羽山氏は館長とし て赴任、私は照島に残った。その頃、ドイツ人の 生物工学者兼イルカトレーナーのエワルド・ヘニ ッグ博士が来日、イルカ調教方法で画期的な技術 展示すれば、それだけで高い誘客力になると確信 したものである。 海洋博終了後、まもなく、全長 3m のオオメジ ロザメの飼育に成功した。 これが、またしても日本新記録種であった。 形態から学名はわかったが、日本新記録であり 和名はついていなかった。名無しでは水族館展示 種として困るので、サメ学の第一人者の谷内透博 士の助言を頂きオオメジロザメとした。このサメ は世界に冠たるヒト襲撃記録 No.1 の最高危険種 である。 1978 年頃から明らかにサメ共に興味が移り、延 縄で釣った飼育困難なホホメジロザメ、 5.1mは当 時の日本最大標本であり名前がよく知られた種で あるのに、その繁殖様式すら解明されていないの を知り、益々、サメ共に魅力を感じるようになっ た。本種は高知県産の標本調査の内田他(1996) の報告で初めて卵食型の繁殖様式である事が判明 したのである。 1982 年、4.4m、700kg のメスのジンベエザメ で世界初の長期飼育に成功した。1985 年にアメリ カのサメ・エイ類の飼育国際シンポに参加、先発 のアメリカ水族館をはるかに抜いて世界一との評 価を得た。 何を以って世界一とするのか、ジンベエザメ、 イルカからサメへ、そして世界一へ マンタを初めとする豊富な種コレクション、多く 海洋博水族館の展示用イルカは奄美の大島海峡 の世界最長飼育記録、その結果としての世界最多 で捕獲した。驚いたことにそれは未だに見たこと の繁殖記録によるものである。 もないイルカ、日本新記録種のミナミバンドウイ 2002 年にリニューアルされた美ら海水族館が ルカであった。伊東以来 13 年も経過しているが イルカの世界はまだ未解明なことばかりであった。 開館、以来、年平均 270 万人の入館客を迎え常に 国内 67 水族館のトップを保持している。ジンベ これは更に未調査度の高いサメ・エイ類で続々と エザメ、マンタの繁殖を目指して建設された 新記録種が現れる前兆でもあった。 7,500 トンの大水槽では 2008 年に世界初のマンタ 海洋博水族館の目玉は当時、魚類水槽としては の繁殖に成功した。造礁サンゴ 70 種の飼育成績、 世界最大、容量 1,100 トンの「黒潮水槽」であっ 宝石サンゴ類を初めとして、深海性魚類の飼育も た。 世界最良との評価を得ている。このことは沖縄の サメ類は展示予定に入っていたが、半年間の博 覧会開催期間中にはあまり大きな成功はなかった。 海の豊かさの御蔭であることを示すと共に、海の 生物については、如何に未解明、未調査の分野が 何しろ大型サメ類の捕獲、飼育は日本では始めて 拡がっているかをも物語るものである。 のことであり、試行錯誤の連続であった。水族館 世界一の内容を有する水族館を達成した。今や の目前の海で、イタチザメ、ヨシキリザメ、メジ 世界的に大水族館建設は一種のブームのようでも ロザメ、アオザメなどが釣れたが、メジロザメ以 ある。追いつかれぬためには一層の奮励努力をせ 外は長期飼育は難しかった。しかし、3m、200kg ねばなるまい。 のイタチザメを大水槽に入れた時、これはいける と感じた。そして、5m クラスのジンベエザメでも を鳥羽山氏に伝え、更に経験したことのないカマ イルカの調教をしたいとて照島に来館、私にも伝 授された。これにより、日本のイルカ調教→イル カショウに革命的な進歩がもたらされたのであり、 鴨川シーワールド、照島ランドがその先兵となっ た。更に、イルカの「お勉強」としては、寛大な 西脇博士の御配慮により、淡水イルカの学術調査 隊に参加させて頂き、バングラデシュのガンヂス カワイルカ、ウルグアイのラプラタカワイルカの 現地調査に従事した。ガンヂスカワイルカはブラ マプトラ川で捕獲した個体 4 頭を鴨川シーワール ドに輸送した。 一頭は 186 日間生存し、世界で初の多くの生物 学的所見が得られた。1970 年の調査時、バングラ デシュは未だ東パキスタンであり、独立運動もあ り、混沌とした世情の中での開発途上国調査であ り、その訓練を受けたのであった。1975 年には沖 縄国際海洋博覧会開催が決り、その政府出展水族 館の仕事を鴨川シーワールドが受けた。1974 年、 鳥羽山館長から声がかかった、 「沖縄の水族館は どうだ?」と。渡りに船とばかり、沖縄行きを決 めた。こうして悪戦苦闘ではあったが有意義な 13 年間は終了した。
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