神の霊がすべての人に 五旬祭の福音 5 神の霊がすべての人に 2:14-21 前回に読んだ箇所に、弟子たちが「聖霊に満たされた」という表現があり ました(2:4)。神の生命力が、この人たちを捕らえて、内から一杯になっ て溢れ出て来る感じを、表わしたものでしょう。今日のこの、ペトロの説教 の中では、神が御自分の霊を「注ぐ」という表現が(2:17,18)使われてい ます。英語の“pour out”に相当する「エケオー」 は、容器の中のも のを「注ぎ出す」意味の言葉ですから、生ける神が御自分の命の泉から力を、 どっとばかりに、豊かに注ぎ与える様子を描く、これはまた、生々しいくら いの言葉の絵です。 もう一つは、イエス御自身が使徒たちに言われたお言葉ですが、「聖霊で 浸される」という表現(1:5)があり、これは、「どっぷり浸けられる」と いう感じの言葉です。この言い方は、浸しのヨハネも使ったもので、やがて イエスがどんな力強い御業をなされるかを、自分がヨルダン川でしていた宗 教活動と引き比べて述べたものでした。「私はせいぜい、こうして、川の水 に浸けて『水浸し』の儀式をしているが、私の後に来られる方は、桁違いの 凄いことをなさる。その方はあなた方を『聖霊浸し』にする。『聖霊浸け』 になさる。」(ルカ 3:16) もちろん、どっぷり「浸ける」“immerse”も、ドバッと「注ぎ出す」“pour out”もそうですし、また、はちきれるまでに「詰め込まれる」“filled”と いうのもそうですが、どれも、神の命の力をどんなに豊かに受けるかを、そ れぞれ、たとえの形で言おうとするものです。どんなに激しく、神から来る 聖なるエネルギーで衝き動かされたか、それを表わすのです。その意味では、 聖霊が「落ちてきた」“fell on”というのも、10 章と 11 章にはあります。 - 1 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に 日本語では「降った」(10:44)と訳しています。これは突然、予期せぬ時 に、予期せぬ形で聖霊の力を受けた……その経験を表したものでしょう。10 章のこの言葉のすぐ後には、これは「注ぎ出されている」“poured out”の だ(10:45)と、ペトロは言葉を補っています。私たちは、この 2 章のスピ ーチの中で、「神御自身が注ぎ出すようにして与えた、この凄い命の力を見 よ」と、ペトロが語る言葉を、じっくり噛み締めて読むことにします。以下 は、五旬祭のシモン・ペトロの福音宣言です。五十一日前の「臆病なペトロ」 の姿からは想像もつかない、変貌したペトロが立ち上がるのです。 1.神がなさる御業の力強さ。 :14-18. 14.するとペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユ ダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいこ とがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15.今は朝の九時です から、この人たちはあなたがたが考えているように、酒に酔っているのでは ありません。 16.そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われてい たことなのです。 17.『神は言われる。 終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。 18.わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。 すると、彼らは預言する。 「朝の九時ですから」の意味は、このままでも日本語で通じますが、ユダ ヤ人にとっては、九時と三時は祈りの時間でした。まじめなユダヤ人なら、 朝の祈りの時間の前には、何も食べ物は口にしなかった筈ですから、そのこ - 2 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に とも言っているのです。単に、「朝から酔ってはいない」というだけではな くてです。「私たちも真剣なユダヤ人として、ここへ来ているのです」とペ トロは言いたいのです。 この日、学者でも宗教家でもないガリラヤの人たちが、ローマやクレタや ポントスの巡礼にも通じる言葉で、「神の偉大な業を語って」いたのを見て 驚いた人の中には、信じられないで気味悪がった者もいたことがすぐ前の 13 節に出ていました。 「奴らは新酒を飲んで酔っ払つているとしか思えない。」 ペトロはまず、話の切り出しにそれを利用して、 「これは酒の酔いではない。 神の霊がこの人たちを捕らえた結果なのです。皆さんは、預言者たちがどん な経験をして、主の言葉を語ったかを聞かされて、育ったはずでしょう」と、 語りかけます。彼らは幻を見、また夢を見て、預言しました。この 17,18 節 に出る「預言」という字は、聖書では神の言葉を託されて神の口になって語 る意味に使います。あらかじめ告げる意味も無いわけではありませんが、預 言の第一の意味は「神から言葉を頂いて伝える」ことです。引用符『 』で 囲んだ部分は、預言者ヨエルの言葉(3:1-5)です。 ただ、預言者の時代とは根本的に違うことがあると、ペトロは注意を促し ます。それは引用の 3 行目、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」というとこ ろです。原文では「肉なるものに例外なく」“upon every flesh”です。こ れはヨエルの原典のヘブライ語 ギリシア語訳聖書の rv'B'-lK; もそうですし、ルカがここに使った も同じですが、「肉なる存在」つまり人 間すべて、差別なく……という意味がこめられていて、それがその後の「息 子と娘」つまり女性にも同じように、「若者も老人も」は、未熟な無経験な 者も例外にせずです。否や時代が変わろうとしている。そのことを、ここで ヨエルは預言しました。それは、2 行目の言葉で言うなら、「最後の究極の 時代」―信仰を持って待った人たちの希望が成る、神の歴史の中の「最終 区分」の時代に当たるのです。 - 3 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に サムエルやサムソンの時代には、選ばれた器にだけ神の霊が臨んだのに、 今は平凡な弱い者も含めて、一人一人に聖霊は臨む。そのことの全部はまだ 起こっていないけれども、さっきまで、皆さんの前で預言していた人たちの 姿に、それを象徴するものを見ませんでしたか。どんな凄いことが、これか ら起ころうとしているかの「予告編」を見た人はいなかったのですか。それ は、みんな、生ける神御自身が御自分の命を、「注ぎ出す」ようにして、豊 かに与えてくださるからなのです。 2.天と地に現れる前兆。 :19-20. ここは、どんな意味でつながって引用されるのか、ちょっと分かりにくい 所です。「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」は、ユダヤ黙示文学 の常套句で、終わりの日の前兆です。「血と火と煙」は戦争と殺戮を象徴し ます。それがなぜ、ここに入ってくるのか……? 若い時に読んだキリストの 教会の神学者マガーヴィの本には、ペトロは最後の「主の名を呼び求める者 は皆、救われる」を結論として引用したかったが、この 15 行は、会堂で読む 時にも一つながりの文章(passage)として知られていたから、中を 6 行抜 かして「主の名を」まで飛ぶと不自然に聞こえたろう、と説明してあって、 その時は「なるほど、納得」と思ったのですが、後から考えてみると、ちょ っと根拠不十分のようにも思えます。終わりの時代のシンボルになるような この言葉を、ペトロはなぜ、神の霊の業の後に言及する必要があったのか…。 19.上では、天に不思議な業を、 下では、地に徴を示そう。 血と火と立ちこめる煙が、それだ。 20.主の偉大な輝かしい日が来る前に、 太陽は暗くなり、 月は血のように赤くなる。 - 4 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に ここは多分、6 行前の「終わりの時に」と結びつくのだと思います。 “In the last days,”「最終的な時代―最後の日々の期間に」というのが、ペトロの 使った《 》の意味です。これはヨエル書の原文に は無い言葉で、ペトロは「これらのことの後」( )というヨエ ルの言葉の趣旨を、彼に与えられたキリスト信仰に基づいて霊感による解釈 を下して言い直しています。「今、我々がこの目で見ているのは、まさに主 が意図された『最終の日々』―聖なる神の計画が最終的に実現する時代な のです。」預言者の語ったことはすべて、この出来事に焦点を絞られていま した。神がお遣わしになるメシアの日、メシアによる救いが完成して歴史が 仕 上げ られる 最後の 日々 が、 いま始 まりま した 。「 その後 それが 起こ る」!ke-yrex]a; hy"h'w9 という、ヨエル書の何でもない一句の中に、それだけの内 容をペトロは読み取ることができた……というより、読み取ることを許され たのです。 その最終の日々が始まっていることの信号を、ペトロは預言者の言葉に託 して掲げました。天では太陽がかげる。月は赤黒く濁る。地上では流血と戦 火とが、今の世界の終わりを暗示する。地も、天でさえも、不動の拠り所に なるものではない。空しいものに希望をかけるな。これが崩れて行くと同時 に、何がほかに見えてくるか。崩れぬ、確かなものは何か? それが、あなた がたには分かるか? 「太陽は暗く」という一句に、ゴルゴタの暗黒を見ることも可能です。「昼 の十二時から全地は暗くなり、それが3時まで続いた。」(マタイ 27:45) 「火と煙」に、五旬祭の「火の舌」を二重写しにする人もいます。「血と火 と立ちこめる煙」は、四十年後のエルサレム潰滅の日の悲惨を予告する、と いう解釈もあります。私はむしろ、もっと広い時間をカバーしするしるし ―時代を越えて、私たちの耳にまで鳴り続けている、恐るべき警鐘だと思 うのです。アウシュヴィツの残虐、広島の炎、南京の死体の山、日本軍に連 れ去られて人間でも女でもないものに潰された朝鮮の婦人たち、スターリン - 5 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に がシベリアに埋めた人たちの骨、原子炉からヨーロッパを蔽った放射能の雲、 オゾン層を破壊したガス、意味もなく身代金を奪って殺される商社員、そし て新しい病気……アダムとエバへの祝福を呪いに変えながら、地を這うよう に蔓延する病気もそうです。 そのすべてが、「滅びはどこにあるか、救いはどこに示されているか」の 信号として、はや二千年をカバーして、次の世紀に繰り越して行きます。ユ ダヤ人が「メシアの陣痛」と呼んだ恐怖をその中に見て、この罪の世界と運 命を共にするなと叫ぶ人が、今もいるか……? ペトロの説教はキリストの名 を 22 節で高らかに歌い出す前の“イントロ”になっているのです。20 節の 「主の偉大な輝かしい日」も、ヨエルが「大いなる恐るべき日」と言ったも のを、希望に満ちたものに言い換えています。 3.その日、生き死にを決めるもの。 :21. 1 行だけが残りました。次の行から始まるイエス・キリストの福音の主題 提示のような一句です。突然鳴り響く、謎をこめた主題に、これから宣言さ れる福音のすべてが込められています。 21.主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 ヨエル書の文脈では、主は「生ける神」です。ヘブライ語聖書の神名「ヤ ハヴェ」hwhy はユダヤ人のラビたちが(口にするのは恐れ多いと考えて)発 音することさえ避けて「主」と読み替えたものですが、ここの「ヤハヴェの 名を」hwhy ( ~veB. も、ルカが使ったギリシア語訳聖書 LXX では、「主の名を」 )と訳して、 「聖なる神のみが最後の日々に救いとなる。 他のものはすべて滅びて過ぎ去る。空しいものにしがみつくな。生ける神を 仰ぐ信仰に帰れ」という呼び掛けで結んであります。ペトロはその、ユダヤ 人なら誰が聞いても「神の名を呼び求めよ」と聞いた言葉を、これから、「主 - 6 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に イエス・キリストを呼び求めよ」という意味に読み替えて行くのです。 「このイエスこそは神がメシアと定めた神の独り子。神を呼び求めるとい うことは、この人を信じてすがることです。神がこれを求めておられるので す。これを私たちは、預言者たちと同じように神から全権委任を受けて、こ こに伝えるのです。」しかし、そのイエスという人は、五十一日前には、今 目の前にいる人たちが憎んで殺した人です。偽者のメシアと断じて、呪って 処刑したのです。その人が「主である。キリストである」という福音は、果 たして、この人たちに伝わるか……。シモン・ペトロの演説は極度の緊張を 孕んで、本論に入ろうとします。 《 結 び 》 イエスの名前はまだ、ペトロの口からは出ません。しかし、主題は掲げら れました。「最終の日々が来ている。天と地を蔽う滅びの徴が見えるか。血 と火と立ちこめる煙が、それだ。罪の世界が間もなく崩れ去るのが見て取れ るか。メシアの国がすでに始まっているのが分かるか」です。ペトロが引用 した、預言者の言葉に注目してください。 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」 資格のある者と、清い者、自信のある立派な者ににだけ、お注ぎになるの ではない。あなたにもお注ぎになるのです。あなたも、サムソンやエリヤと 同じ力を受けるのです。清くないから、失格だから、私には主の霊が注がれ る訳はないと言うか。否。神が決められたことは、人間の価値判断とは違う のです。神は御子キリストの血で、あなたの罪を清めて、キリストを復活さ せた神の命をあなたに豊かに注ぐと言われます。これは、あなたへの言葉、 私への言葉です。 - 7 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に 多くの人は、五旬祭の日に起こった現象ばかりを見て、まねしたがります。 「聖霊のバプテスマ」を、テレビ体操をまねるようにやらせたり、声楽のレ スンのように大声を出して、気分だけ味わわせる宗教家もいないわけではあ りません。しかし、聖霊に浸され、神の霊の注ぎを受けて聖霊で満たされる 経験は、ああいう小規模な予告編をコピーするより、本番の方を一生がかり で経験すべきものです(1コリント 12:13)。予告編だけに熱中する人は冷 めますが、本番をする人には悔いはありません。 「若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのとき には、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」 夢と幻は、厳密には、預言者が見たものを言うのですが、ひとクッション 置いて、あなたの「夢と幻」に見立てることもできます。これは決して、こ じつけの拡大解釈にはならないと、私は思っています。この地上での 60 年か 70 年の間、そんな「聖なる夢」を見続ける人として、生きたいと思いません か! あなたが「若者」の時に見た幻は、「老人」になっても消えないもので す。キリストが消させないのです。これは、自分で経験した者として証言で きます。 (1992/03/29) 《研究者のための注》 1. ペトロが、「聖霊浸し」についての主のお言葉と五旬祭の聖霊体験を、間接的に結び 付けて言及するのは、使徒 11:16 です。ペトロはこの時、聖霊が「落ちて来た」 《 》と表現しています。また、ルカは 10 章の記録の中で、同じように聖霊 が「落ちて来た」《 》と表現した後に、同行したユダヤ系の兄弟たちが、 異邦人にも聖霊が賜物として「注ぎ出されている」《 》のに驚いたと書い ています(10:44,45)。この 10 章と 11 章の記事を根拠に、五旬祭に弟子たちが聖霊 に「満たされた」出来事が即、主の言われた「聖霊浸し」の成就であったと結論され るのが普通です。しかしペトロの《 》からそれがイエスの御言葉の全成就 - 8 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に であると結論するのは不正確で、この出来事は「すべての肉」の上に起こる聖霊浸し を象徴する徴であったと理解すべきだと思います。 2. 「朝の9時」は、今の時間に計算してありますが、原文は、「日が上がって第3時」 です。 3. 祈りの時間は一日二回(あるいは三回)守られたもので、3時の祈りは 3:1 に言及さ れます。 4. 聖書の訳語としての「預言者」、「預言」には「予」や「豫」を使わずに、「預」を 使います。最初の訳者たちがこの字を使うことで、キリシア宗教の予(豫)言者と区 別したかどうかは、明らかではありません。副詞としては「預」も「豫」と同じく「あ らかじめ」です。[現代中国語の用例をも参照。]この「預言者」という書き方は、 主の「言」を「預かる」者と記憶すると便利です。 5. ペトロが引用した「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に」(ヨエル 3:3)の原文 は ar'ANh;w9 lAdG"h; hw"hy9 ~Ay aAB ynEpl. i とは訳さずに ですが、最後の ar'ANh;w9 を LXX は、 と訳し、ルカはそれ(輝かしい)を引用しています。 6. 一時的な(例えば「異言」現象を伴うような)聖霊浸しの二番煎じでなく、一生がか りの「本番」を経験せよという勧めで結びました。恐らく「聖霊で浸される」という 表現でこのような恒久的な霊的体験に言及する唯一の聖句は、 「一つの霊で浸されて、 一つの霊を染み通らせられた」という使徒パウロの言葉(1コリント 12:13)であり ましょう。この新共同訳や前の口語訳では、「一つの霊によって」と「バプテスマさ れ」とがかなり離れて書いてあるため、「霊で」と「バプテスマ」があまり繋がらず、 関係がないように読めます。その上ここは、入信の時に私たちが洗礼を受けた経験に 言及すると誤解されがちで、洗礼が何か聖霊と関係がある(聖霊によって有効にされ る等)と受取られることが多いようです。新改訳と日本正教会訳は二つを隣同志にな らべて、「一つの御霊によってバプテスマを受け」たとしていますが、これも洗礼式 とに結びつけて訳したようです。 7. パウロの言葉(1コリント 12:13)自体に、「入信時の全身水没と聖霊」という連想 が無かったとは言えませんが、このコリント書の箇所では、「霊で浸される」、「聖 霊で漬けられる」は、全身水没のことではなく、更に重大な霊的経験を表していると 考えます。のみならず、ここの表現と文型は、イエス御自身が言われた《 - 9 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 神の霊がすべての人に 》と並行した文《 いるのです。パウロの意図が恐らく、《 こ の 一句 と共 に《 《 …… 》になって 》を強調することにあるのと、 》 が間 に介 在す る ことが 《 》と 》を離して訳出する理由でしょうが、これでは「霊で」と「浸され た」との意味上のつながりが弱まり、「浸された」が表現する「聖霊の力に捕らえら れ、圧倒的な力を被り、保存される」という本来の意味が薄められてしまいます。「霊 で」と「浸された」の間に 5 語が介在するとは言え、二語の間に距離を置かず、新改 訳や日本正教会訳のように連続して訳す方が良いと私は思います。1コリント 12:13 についての私の解釈は、大阪聖書学院の機関紙「たねまき」1987 秋号所載の小論「聖 霊にどっぷり」を参照してください。 - 10 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
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