水の上のパン 旧約単篇 コヘレトの言葉の福音 水の上のパン コヘレトの言葉 11:1-11 伝道の書の 11 章 1 節からまことに主観的な感想を、ただし私の偽らぬ本当 の実感を述べます。 1.あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るか らである。 私が最初に習った Dungan の解釈学の本には「パン」は文字通りのパンで はなく、これは言葉のあやで、実はパンを作る材料の小麦粉のそのまた原料 である小麦の粒であるとあって、やはり若い時に読んだものが私の記憶の中 からこの聖句のイメージに作用しています。確かあの本では metonymy とい う修辞の項目に出ていて、原因を結果で言い換えるテクニック、原料を製品 で暗示する文学的技巧だと書いてあったように思います。強いて言えば、 「テ キ歩遅々として」という如きものです。この場合「テキ」は牛を指します。 ところで、実際にパンは穀粒を指すとはっきり書いた注解書にはまだお目 にかかりませんけれど、この解釈に基づいて書かれた讃美歌 536 番の歌詞も、 私たちの頭の中でパンを種粒とを二重写しにする効果を上げているようです。 もちろんご存知でしょう。英語では Cast thy bread upon the waters. とい うヘ長調 4 分の 4 拍子のきれいな歌です。日本語の歌詞は…… 報いをのぞまで、人に与えよ、こは主のかしこき、御旨ならずや これでこの聖句の意図と意味を解釈して、テーマを掲げているのですが、 後半の 8 小節に伝道の書のこの 2 行をこうパラフレーズしています。 - 1 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン え 水の上に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか生い立つものを つまり、川の水面に落ちて「あぁもったいない、行っちゃった!」と嘆か せた種も、どこかに流れ着いて芽を出し実を結ぶこともある。決して無駄に なったと悲しんではならないということでしょう。この比喩が最初の「報い をのぞまで、人に与えよ」というテーマに帰ってくるのですね。 1.伝統的解釈を覗いてみる traditional Interpritation 調べてみますと、こういう見方はタルムード、ミドラーシ、タルグムに現 れているラビたちの理解でもあったようです。例えばミドラーンに出てくる ラビ、アキバの言葉に「カパドキアで立派に働きをしていたあるラビから『実 は自分は難船から命からがら助かったことがある』という話を聞いた。私は 『ほう、一体どんな鯨があなたを陸に吐き出したんです? 何の功徳でそんな 奇跡に与ったのですか?』と尋ねると、彼は答えた『私は船に乗るときに、 ある貧しい飢えかけている男にパンを一つ与えたのですが、その時その人が 私にこう申しました「あなたが私の命をお救い下さったように、あなたの命 も救われますように」と』。私はこの話を聞いた途端、伝道の書のあの言葉 を思い出したのである」…… ということは、ラビ、アキバは伝道の書のこの 2 行をあの讃美歌の 1 節前 半のような意味に、つまり「善行が実を結ぶ……」というような意味に受け 取っていたことになります。A.D.100 年前後のことですが…… 「パンを水の上に投げる」という言葉そのものの解説は見つかりません、 多分説明する必要のない位誰でもよく知っている諺で、説明などすればシラ ケて、かえって面白くなかったのでしょうか? それを裏書きするように、ア ラブの諺にも、やはり「善を行え。水の中にあなたのパンを投げよ」という のがあるという Knobel の証言ですが、調べれば同系統のエチオピア語、シ - 2 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン リア語等にも「水の上にパンを投げる」は見つかるかも知れません。 パンを種とは見ないで、文字通りに解する人たちもいます。面白いことに ここの表現は、 「水中に」ではなく「水の表面に」~yIM'h; ynEP.-l[; [al p£nE: hmma6"ym] です。しかも、「投げ捨てよ」%leveh; [hashle6ch]ではなく、「送り出せ、放て」 xL;v; [sha6llach] send forth とあるものですから、水面の上へ放つ、送り出し て行かせるとは何だ……と言葉にこだわる人もいます。デーリッチなどは「パ レスチナのパンは大きくて平たく、薄く焼くものですから、水面に放てばそ のままプカプカと浮かんで流れていくものだ」と説明しますが、どうでしょ う。果たしてそういうイメージがこの一句に込められているのでしょうか? 私には少しくこだわり過ぎのようにも思えます。 でもそういえば、七十人訳も 「送れ、放て」と訳しています ね。原典の ~yIM'h; ynEP.-l[; ^m.x.l; xL;v; が と直訳です。 WNa,c'm.Ti ~ymiY"h; brob.-yKi も とやはり直訳です。 私自身はこの諺の元になっているイメージは、やはり種粒ではないかと想像 します。解釈学の教科書の影響力恐るべしですね。その種をわざと蒔いたに せよ、うっかり水の上に落としたにせよ、風に飛ばされて水面に落ちたにせ よ、結果としては水面に乗って運ばれて行くようにしたわけです。それを悔 やむな、そんなことになるのを恐れるな……ということであれば、やはり「水 面にあなたのパンを乗せて放て」という原文は文学的に見ておかしくはない のですね。さて、私自身にとっての信仰的意味に飛躍する前に、もう一言こ だわってみましょう。 2.新しい研究家の説も聞いてみてから - 3 - from Modern Exegesis Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン 大体において旧約の研究家たちは、ラビたちの解釈を否定し―善行因果 応報論を一度御破算にして、一から出発し直しました。その主要なものは二 つで、一つは海上貿易、一つは農業に関する教訓と取る解説です。 その一。穀物を船に載せて遠く海上貿易に乗り出せ。長い長い航海の後、 投資したものは多くの利益となって帰ってくる。……この見方をする人は、 コーヘレトは外国との大規模な貿易にも手を染めたと取ります。この超人的 な人物は、人間の事業の中でし残したものは何一つなかった(……とちょう どそこまで原稿を書いた所へ、ジャーンと電話がかかって来まして「こちら は何とか海外貿易でございます。非常に有利な投資をご紹介させていただき ますが……」海外貿易と聞いて私もギクッとびっくりしました。もし私が暗 示にかかり易い体質でしたら、これで伝道の書の解釈が決まる所なのですが、 そういう才能もなかったし、投資する金もなかった。これは実際の話、17 日 3 時 20 分のことです。) その二。水の面とは、エジプトのナイル河畔の湿った沃地のことである。 つまりコーヘレトはエジプトの肥沃なデルタを利用して大規模農業をやった ことになりますが、これは陳腐で面白くないですね。(……でも、もしかし て……とペンを置き、一分ばかり電話機をにらんでいましたが、農協からは かかって来ませんでした。) 結局、色々な角度からの分析と説明を読んだ末に、やはりまた讃美歌やラ ビ、アキバの解釈に戻って来ました。ただし、善行、施しとは限る必要はな いでしょう。 あなたの今やっていることが全部無駄で、何の役にも立っていないと思え る時、勇気を失って止めてしまうな。私の伝道、私の努力が少しも良い地に 種を蒔いたような実りを見せず、まるで全部の種が水の面に次から次から落 ちて視界から去って、無駄に流されて行くように見えても、主に委ねて自分 - 4 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン なりの種蒔きの努力をしたのなら、それは決して無駄ではない。その種の幾 つかを生かす生かさぬは主の手の中にある。 これで、この後の三つの節とも一貫して繋がるようにも思えますし、特に 4 節にあるような、全てが不確かで何もかも無駄になってしまう可能性を見 ても、委縮したり、尻込みしない。まるでパンを水に投げているような自分 の事業を見限ったりしない―私の場合、伝道者としての仕事の効率とか effectivenes というようなことで落ち込むとき、この言葉の深い慰めを感じ るのです。これはもちろんイエス・キリストがおられるから、イエス・キリ ストが復活なさったからです。パウロの言葉で言えば「主にあっては、あな たがたの労苦がむだになることは決してない」のです。 (1コリント 15:58) もっとも、キリスト抜きで書いた時点でのコーヘレトの意図を推察してみ るなら、やはりこれも一つのヤケッパチの生活の知恵であったのかも知れま せん。「水の上に投げよ」……と言いながら、「そうするしかないんだ」と 実存主義的にシラケていたのでしょうか? 3.私にとっての水上のパン 伝道者にとって一番淋しいのは、福音を通して人にお役にたった……とい う実感が少ないことですね。福音以外のことで相手は喜んで、慰められて自 分に感謝して下さる。しかし、福音はいらない。こういう時は焦ります。 時々、悩みがあると電話をかけて下さったり、行き詰ったり勇気を失うと、 私を思い出して訪ねて来て下さる方が何人かおられます。ある方なんか「あ と一時間で国家試験がある。第何回目のチャレンジですが、不安で不安でし ょうがない。お声を聞いたら落ち着くかと思い電話しました」と言われるの です。それほど頼りにされて感激したらよいようなものですが、こちらは非 常に淋しいのですね。聖書と福音にはそれほど先方は惹かれていないのです。 - 5 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン 一年に一度か、一年半に一度集会に来られて、その後残って話すのも、心理 的カウンセリングとしてが主です。というより、相手は自分が聞いて欲しい ことを持ってくる。先方があてにしているのは、発散して安心することと、 私がキリストを信じて持っている知恵とか判断力とか、励ましの言葉とか頼 りがいとかです。それだけは利用させて欲しい。キリストはいらないのです。 ところが、こちらは反対で、励ましやカウンセリングは程々にして、聖書 に関心を持って欲しい。キリスト様に目を向けて欲しい。教会の交わりにこ そ溶け込んで、そこから力を得て欲しい。このままではただパンを水に流し ているようで、手ごたえがないこと甚だしい。 それでつい焦りまして、三年も四年も同じことが続くと、こちらも相手を 聖書とキリストの路線に乗せたい一心で、つい申し上げたり書いたりする。 「こうしてあなたが行き詰った時や不安な時に、私がお役に立つのはとても 嬉しいことですが、これでは本当の意味での根本的問題の解決にはなりませ ん。聖書の学びとキリスト様を知ることに一緒に目を向けて、初めてあなた の不安とか悲しみを内から解決することができます。どうです、熱が出た時 に熱さましを呑んで済ますようなことではなく、もっと本気で聖書を読んで みませんか。このままでは私たちは表面だけで触れ合って、結局私は何のお 役にも立たなかったことになりますよ」 ご想像がおつきになるでしょうか、この方は結局、私が迷惑しているのだ ろうと思って、去って行かれました。「あぁ、判断を間違えたかな、もう四 ~五年あのままで心理的カウンセリングだけして、表面的な触れ合いだけで も続けていた方が良かったのだろうか……」と悔いてみたり、「いやいや、 こうして躓いて去って行ったように見えるのも、“流れていくパン”なのか も知れない。祈って主に委ねよう」と考えて苦痛から解放されたりもします。 まあケース・バイ・ケースですから、どこで線を引くかは伝道者の判断で - 6 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン すけれど、いくら短気な人でも半月つき合って「君は聖書に関心を示さない から、つき合いはこれで終わりにしよう」というほど短気な人は無いでしょ うが、五年、十年、十五年、二十五年、聖書とキリスト以外のことであなた のお世話になりたい。あなたがキリストに触れて得られたものや、溢れたも ののおこぼれが嬉しい。だけどキリストは嫌いだ……という人に仕えている と、これは結局無駄ではないか、薄っぺらいパンがプカプカ流れて行くどこ ろか、パンはクチャグチャになって沈みナマズの餌になって、残りは腐って いるのではないか……と悲しくなります。 うちの家内などは、私より気が長いですから、そういう形のつき合いが随 分多いですね。歯医者の奥さん、盲人のボランティアの仲間、録音の技師、 移動図書館の奉仕の仲間、洋裁のおつき合い、特にお向かいやお隣とは兄弟 が親類みたいにやっています。彼女にはそういう優しさと魅力があるのです ね。(これは僕が惚れてるから言うのではありません)やはりキリストがこ の人を通して輝かす何かがあって人が寄ってくるのです。良く言えば、私の ように「イラチ」ではなく、永い目でジーッと長期的展望に立ってカウンセ ラーとして人と接している。悪く言えば、本当に福音で触れ合うような証へ の切り替えが下手というか、非能率で遅いわけです。それでも全然キリスト を証しないのかというと、そうではなくて、何年かつき合った人はちゃんと 知っているのです。彼女のその変わった考え方や生き方はキリスト信仰から 出ていることもよく知っているのです。相手はそれを知って、キリストから 出た副産物だけ拝借したいのです。でもキリスト様と自分とが正面から向き 合って関わりを持たされるのは御免こうむる。これは非常にハッキリしてい ます。 でも、それが伝道であるという考えの人もいますね。キリスト者はこう生 きる、こういう考え方をする。その秘密はキリストだ。その後信じるか信じ ないかは、相手の責任だ。これも一つの立派な伝道観でしょうが……、そこ が召された福音伝道者とそうでない人との違いで、伝道者はそれではあまり - 7 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 水の上のパン にも淋しい。我慢できないのです。教会学校でも自治会でも PTA でもそう ですが、例えば教会学校に子供を連れてくる親は「よろしくお願いします」 とは言いますが、子供が親の言うことをきくように、賢くして欲しいが、実 は「この子を“耶蘇”にしたら許さない」というのが本音なのでしょう。自 治会や PTA の仕事をするとき「これは主のための証だ」と自分に言い聞か せてお手伝いするのですが、相手はそんなものを求めてはいない。そんな中 で、少なくともその何%かを福音を通してお役に立つような関係に早く変え たい。そうでないとパンが見ている前で流れて行ってしまう。 《 結 び 》 こうして「イラチ」の私には、伝道の書 11 章の慰めは、少し逆説的なよう ですが、次のような形でいつも響いて来るのです。 パンを水に流してばかりいては仕様がないが、どうやってもパンが流れて 行く時は、勇気を失うな! 流れなかった部分は生きていることはもちろん だが、流れた分も本当は生きている。主の手にある限り生きている。多くの 日の後、結実するものもあるんだ。 コーヘレトが本当にそういうつもりで言ったかは知りません。しかし、私 にはそう聞こえるので、ヘタでも止めずにやっているのです。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで 主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになること はないと、あなたがたは知っているからである。(1コリント 15:58) (1984/04/08) - 8 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
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