キャリア教育学総論 Ⅱ - 学校法人 東筑紫学園

キャリア教育学総論 Ⅱ
社会人基礎力における
ストレスコントロール力を中心にして
学校法人 東筑紫学園
キャリア教育推進支援センター長
九州栄養福祉大学 兼任講師
中村 吉男 著
目 次
序論 ····································································································· 1
1.人間は誰でも努力と訓練で精神的に強くなれる存在である。 ······················ 4
2.恐怖と不安の脳内回路 ········································································ 6
3.人格(精神)を強くするものとは ························································· 8
4.恐怖の感情とストレス反応 ·································································· 9
5.ストレス学説におけるストレス(特に生物学的ストレス)とは ··················· 11
6.ストレスコントロール ··································································· 16
7.愛他的利己主義の原理 ········································································ 17
8.ストレス学説のまとめ ········································································ 19
9.認知療法の概念················································································· 20
10.恐怖からの脱出―感謝の心を育む教育とキャリア教育 ····························· 23
最後に ·································································································· 24
序論
今まで、本学の研究紀要に 7 本のキャリア教育論を執筆してきたが、すべて、教育に携
わる者を対象にキャリア教育方法論として論述してきたものである。
今回のキャリア教育論は、初めて、学生を直接に対象にしたキャリア教育論となる。以
前、
「就職試験総論」として、学生を対象として論述したものはあるが、今回は、仕事にお
けるストレスを如何に自己の成長(精神的な意味において)に結びつけることができるの
かという視点を中心に論述した。
これは、ストレスマネジメントでありストレスコントロール力の養成でもある。
昨今、教育界もまた民間でも、仕事における心労(精神的ストレス)から、精神的病に
なり、休職もしくは自殺に至るケースが増加の傾向にある。学生の就活の失敗からも、同
様のケースが増加している。
私は、文科省認可公益財団法人新教育者連盟の教育相談所の所長として、多くの親たち
の相談に携わってきた。いじめ、不登校から、家庭内暴力、麻薬中毒、統合失調症からて
んかん症に至る神経各症など、あらゆる子供の問題行動の相談に乗ってきた経験からも、
現代の新たな社会的問題としての死に至る病の解明と対策を講じなければならないと痛感
している。
又、学園(大学・短大・中高等部・附属幼稚園)の人事・労務を統括する法人本部で仕
事をしている関係からも、学生だけでなく、仕事に携わるすべての労働者も対象にした内
容とした。
特に現代人を、死に至る病に至らせている、仕事を通じた精神的病は、教育上からも又、
健全な社会及び国家の発展からも解決しなければならない最重要課題の一つであると認識
している。
本来、人を生かし社会を生かす筈の仕事や勉強が、人を病に導きそして死に至る病まで
なるのでは、何のための人間の教育であるかを問われることになる。
私自身、仕事を通じたキャリア教育に携わる者として、この問題を避けて通ることはで
きない。そして今回、この解決の糸口を私なりに見出したといえる。
困難から逃げずに困難を糧として成長するところに仕事の真の意義がある。困難とスト
レスは、仕事においても又、人生百般においてもつきものであり、誰にでもあるのである。
本来、あらゆる仕事及び人生の問題は、人間を苦しめるためにあるのではなく、人間を成
長させるためにある、と考える必要がある。問題や課題のない仕事は、そもそも仕事とは
言えない。人間が自分の仕事に真剣に取り組めば取り組むほど、新たな問題や課題は発生
するものである。
問題や課題が発生しないというのは、仕事に熱中していないか、仕事をただ自分の生計
を営むための手段であるという考え方をしているかであろう。そういう考え方では、困難
が生じたときや、責任が生じたとき、それから逃避しようとするであろう。困難から逃げ
るものは、精神的に鍛えられることがないから精神的に強くならないのは当然である。
1
精神的に弱いというのは、小さい時から甘やかされて育ったので打たれ弱いということ
ではない。これは、多くの人が、間違えるところである。
過保護に育った子供は、同時に甘い世界だけにいたのではない。過保護ということは、
重箱の隅をつつくように、手取り足取り子供の言動に介入することでもある。
そもそも子供を信頼していれば、必要以上に過保護にはならないのである。過保護であ
るということは、それだけ子供の自立心や考えや行動を尊重していないからこそ生じるの
である。子供がかわいいから生じるのではない。
昔から、
「可愛い子には旅をさせよ」とか、百獣の王は、断崖から子供を突き落して、自
力ではい上がってくるのを見守るという。本当の愛とは、決して甘いものでなく、子供を
自立させるためには、むしろ峻厳なものですらある。
また、最初から精神的に強い人間などこの世に存在しない。人間には、生来的に防衛本
能があり、恐怖や不安から逃避する動物的遺伝子が組み込まれているので、どんな人間で
も、不安や恐怖の感情を持っているのである。それは、動物と同様に生存のために人間に
組み込まれた本能的感情である。
ただ、原始時代の人間と異なり、現代の人間の不安や恐怖は、動物のような肉体的生存
の危険に対する本能的防衛反応だけではなく、精神的危険に対する防衛本能が生じている
ことである。
その精神的危険とは、何か。それは、例えば、何かに失敗して恥をかく、若しくは屈辱
を感じる(人間としての能力を疑われる―ある意味では、人間として評価されない)とい
うようなことに対する不安や恐怖である。このような不安や恐怖の感情は、子供でも大人
でも誰でもが持っている感情である。
動物と人間との違い、そして、子供と大人との違いは、その不安や恐怖の種類(内容)
が異なるだけである。恐怖の感情は同じである。小さい頃の失敗をそのまま大人になるま
で引きずるケースも多い。
また、人間だけが想像力を持っているが故に、過去や未来に対する不安感や恐怖感を持
つ精神的存在である、というところに、ストレッサ―(ストレスの原因)も人間独特な複
雑なものとなる。
職場で常に叱責や皮肉を受け、能力を否定され続けるとき、劣等感が強くネガティブな
傾向が強ければ強いほど、その精神的不安と恐怖は増していくであろう。
動物は、恐怖から逃げることはできるが、人間は職場から逃避することは難しい。
それが現代における人間の精神的ストレスの問題がある。精神的ストレスも肉体的スト
レスと同様に、その反応は 3 段階に現れると考えられる。最初は、警告反応期、次に抵抗
期、そしてこの段階を過ぎ最後の疲憊期、ここまでは、生体の防衛本能に基づくストレス
に対する適応状態と言えるが、最後の疲憊期も超えると死に至ることにもなる。
精神的に弱くなれば、若しくは精神的に弱い状態のままで、ストレスに遭遇すると、一
段と自信をなくし、更に困難に対して打たれ弱くなるのである。これを精神分析学的に言
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うと、潜在意識にマイナス的否定的観念が浸透し、人間の一つの無意識的傾向となってい
くのである。精神分析の創設者フロイドは、それをコンプレックス(潜在意識下の錯綜し
た観念)と呼んだ。このコンプレックスが、大人になっても、無意識の世界で自分でも気
が付かない性格傾向となっていく源である。
ポジティブな性格傾向かネガティブな性格傾向かも同様に形成されていくのである。親
が子供の言動を常に否定的に捉える傾向が強いと、子供自身、自分のことを否定的に捉え
るので、ネガティブな性格傾向が強まってしまうのである。
ポジティブな性格傾向は、当然逆になる。親が、子供を信頼し、できるだけ褒める教育
を行って、子供の言動を肯定的に認めてきた場合、子供自身、自己信頼が強いものとなる。
但し、人間の本性に基づく、本能的欲望は、誰でも同じものであるから、それが満たさ
れないことの不安や恐怖は、たとえ、種類が異なっても誰でもストレスは感じるものであ
る。問題は、そのストレスをどのように受け止め、そして、それをどのように克復してい
くか、ということだけである。
人間は、このストレスを積極的に一つの自分自身の警告として捉え、それを乗り越えて
いく努力の中に、人間の精神的な成長があるといっても良い。ある意味では、人間の魂の
修行と言えるかもしれない。
結論から言えば、この精神の不安や恐怖の世界から脱出するのは、困難から逃げずに、
困難に立ち向かっていくのが一番である。先ずは、不安や恐怖の対象となっているストレ
ッサ―の意義と価値を認めることは、そのストレッサ―を主体的に捉える姿勢であるから、
第一段階としては、ここから出発することであろう。
そして、それに立ち向かう訓練を続けるしかない。これに立ち向かう最善の策は、この
ストレッサ―に感謝の気持ちで立ち向かうことである。しかし、この内容は、本論文全部
を通して理解して頂くように構成している。
誰も最初から、強靭な精神も又、勇気も持ってはいない。どんな小さな困難からでも逃
げないで、受けて立ち、更に積極的に挑戦を繰り返し、練習を積むことで、自らの性格傾
向を変えることができるのである。
ネガティブな性格傾向もポジティブな性格傾向も生来的なものではない。但し、肉体的・
本能的生存欲求に基づくもの(生死にかかわるようなもの)は、元来どのような人間でも
ネガティブなものであろう。そこからは、逃げるように本能が機能するであろう。
但し、精神的な性格傾向は、人間の発達段階に応じて、形作られていくと考えられるが、
精神的に感じる困難からの逃避は、肉体が生存の危機に直面したときに、本能的に逃避す
るのと同様の場面となる。それ故、脳の反応も肉体の反応も同様の反応を起こすのである。
それは、アドレナリンやノルアドレナリンの分泌が増加し、肉体の緊張と血管の収縮及び
心臓の鼓動が早くなるというような反応である。
これらの生理的肉体的反応は、敵から身を守るために、戦闘態勢に肉体が入ることを意
味することになる。この戦闘態勢では、精神及び肉体が戦いに集中しなければならないた
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め、すべての血液は心臓に集中することになり、当然その他の本能的食欲も睡眠欲も抑制
されることになる。しかし、この時の精神状態は、敵に対する不安や恐怖そして憎しみや
怒りなどの感情が伴っているのが普通である。
そもそも、不安や恐怖の感情は、自己防衛の本能的欲求から、あらゆる動物や人間に備
わった生来的機能であるともいえる。
また、肉体も脳も、その敵が、虎やオオカミでも、又、格闘技の相手でも、スポーツ競
技の相手でも、更に、試験や面接、憎しみの相手(いじめにあっている場合でも)であっ
ても、同様の反応を起こすのである。
自己防衛反応における肉体の反応は、心臓の高鳴り、呼吸の乱れ、手足の震えや、手に
汗を握る状態、筋肉全体の硬直などで、血管の収縮、脳内では、シナプス(神経回路)の
変化が起きている。
勉強もスポーツも練習で能力が向上するのと同様に、精神的傾向(性格)も訓練で向上
させることができるのである。どんな人間の肉体の成長も、這うところから出発するので
ある。最初からヘラクレスのような強靭な肉体をもって生まれるものは一人もいない。
人間の精神も同様である。特に、自分の人生や仕事にとって困難や嫌なことが生じたと
きが、精神の訓練の最も大切な機会となる。自分の前に現れる困難や問題こそが、人間の
精神を強くしていく(勇気や愛そして知性も育んでいく)最大の機会であるということを
深く認識しなければならない。
人間が本来持っている、勇気も愛も知性も、あらゆる困難との格闘なくして、発現する
ことはないのである。発現する機会と場面が与えられることによって、初めて人間の魂は
磨かれていくのである。
人類の歴史が証明するところである。
人間は、強いから困難や逆境を克復することができるのではなく、たとえ小さな自分だ
けの困難や課題からでも、なんとか逃げずに取組み努力することによって、強くなってい
くのである。その努力と訓練なくして、強靭な精神を培うことはできないのである。
すべての学生が、仕事と人生を通じて、困難を克服し、成長し、そして社会国家に貢献
し、人類の更なる成長と人類社会がますます発展することを願い本書を執筆した次第であ
る。
1. 人間は誰でも努力と訓練で精神的に強くなれる存在である。
「苦しみを通じて喜びへ(ベートーベン)」
音楽家、特に作曲を主にしているベートーベンにとって聴力を失うということは、死刑
宣告にも等しいことであった。しかし、ベートーベンは、致命的でさえある聴力を失った後
に、
「運命」等の人類史上に残る名曲を作曲したのである。
このベートーベンの言葉は、元住友生命会長新井正明氏が、ノモンハン事件で片脚を失
い陸軍病院で悲嘆にくれ苦しみのどん底でもがいていたとき、友人から送られてきたハガキ
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に書かれていた言葉である。
苦悩と絶望の世界から復活し、人類に不滅の曲を残したベートーベンの言葉であるだけ
に、新井氏にとっては、千鈞の重みのある言葉であり、それ故、苦しみのどん底であえぐ彼
を立ち直させることとなった。そして、新井氏は隻脚で人生に立ち向うことになったのであ
る。
同書から、更に引用しよう。
「義足を引きずって歩くのは嫌だと思いましたし、マイナス
の人生でもあります。北澤専務が引き合いに出した重光葵氏は、そういう人生のことを『赤
字の人生』だといっています。しかし、このように励みになる言葉に支えられていると思う
と、これをプラスに変えられるような感じがしてきたのです。同時に、こうした心の中の戦
いが知らず知らずのうちに、自分でいうのも変ですが、私を非常に強くしてくれたようにも
思います。
」
あらゆる経験の中に、意義を見出していく努力、あらゆる経験は、すべて自分を鍛え成
長させる機会であると捉える姿勢が苦難を乗り越える助けになる。そして、その苦難を乗り
越えるごとに人間の精神は強くなっていくのである。
しかし、これも、繰り返し訓練と経験によって、徐々に形成されるものであって、
「ロー
マは一日にしてならず」である。
ところで、恐怖や試練は、それに立ち向かわなければ、恐怖や試練はその大きさを増し、
それ以後、あらゆる恐怖や試練から逃れようとする姿勢が形成されるのである。そして、ま
すます窮地に追い詰められていくという悪循環を辿るものである。それは、世の中には、自
分を害する力が何か働いているという思いが増幅されることになり、ついには、職場に行く
ことが、不安と恐怖の対象となるからである。いわゆる、「サザエさん症候群」とも言われ
ている症状である。
失敗や、人の誹謗中傷そして軽侮を受けることを恐れていては、試練に立ち向かうこと
は難しい。真の勇気とは、そのような辱めに耐え、静かに実力を練り、誠実に務めを遂行す
る言動の中で養われるのである。
ろ くはら みつ
にんにく
それ故、仏教では悟りに至る修行(六波羅蜜)の中の一つに、
「忍辱(人からの辱めに耐
え忍ぶこと)
」がある。
昨今、いじめで自殺する子供が増加しているだけでなく、教師も精神的病で休職してい
る数が全国で 5000 名を超えているという。これらが、社会的教育的大問題となっているが、
この世から仕事の困難や対人関係からくる悩みをなくすことは不可能に近い。しかし、それ
らの困難や対人関係の悩みに屈しないで立ち向かう勇気を養うことはできる。
但し、現実の職場では、相手が上司の場合、その上司に反抗するのは一般的にはほぼ不
可能に近い。問題は、どのように受けて立つかである。そして、上司との信頼関係をどのよ
うに構築するかである。
この信頼関係を構築することがまず先決である。その方法論は後述する。
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2.恐怖と不安の脳内回路
人間が克服しなければならない最大のものは、恐怖と不安の感情である。しかし、その
恐怖と不安の感情は、すべての人間が持っている本能に根差したものであり、誰もが、公
平に与えられた感情でもある。
もし、この恐怖と不安の感情が、人間になければ、人間は、多くの動物や自然の驚異に
よって滅ぼされていたであろう。しかし、人間は、その恐怖と不安から、ただ逃げてばか
りいたのではない。
その凶暴な動物や自然の脅威を克復する工夫や努力も同時に怠らなかったのである。そ
して、今日人類は、完全とは言えないまでも、あらゆる動物の脅威から身を守る術を構築
したといえる。更に、自然の脅威に対しても、ある程度の予測と対応が可能となってきた。
そこには、脅威から逃げるばかりでは、人間は、それらの恐怖や不安を克服できないこ
とを知っていたからである。そして、現代においても多くの人間は、あらゆる困難や壁に
立ち向かって、これを克復し、人生の糧としているのは事実である。
この恐怖や不安の本能的感情があることによって、特に科学や技術を中心とする人類の
進歩が図られたとするならば、恐怖と不安の本能的感情は、人類を殺すために生来的に植
えつけられたものではなく、人類が進歩向上するために植えつけられた本能であると解釈
することができるのである。
問題は、現代における、精神的脅威である。それは、やはり、恐怖と不安の感情を伴う
ところの本能的感情である。
失敗を恐れる感情、人より劣ることを恐れる感情、自分の能力を疑われることを恐れる
感情、恥をかくことを恐れる感情(羞恥心)
、人から悪く見られたり言われたりすることを
恐れる感情、他と意見や考えが異なることで言い争うことによって他に対して怒りと憎し
みを持つ感情、自分の置かれている座(名誉的・権力的)が失われるかもしれないという
不安の感情、いつまでも過去の思いや争いを忘れられないで不安な毎日を送る持越し苦労
の感情、まだ起きてもいない未来に対する不安を抱き続けること(取越し苦労)
、人を信頼
できず疑うことが習慣となること(猜疑心)
、人の成功をうらやむ心(嫉妬心)、病気や死
に対する不安や恐怖の感情など、これらの現代人特有の精神的不安や恐怖の感情を如何に
克服するかが、現代人に課せられた課題である。
ここで、現代の脳科学の最先端の研究に基づいて、人間の感情をコントロールすること
ができるかどうかを論じている著書を紹介する。オックスフォード大学感情神経科学セン
ター教授エレーヌ・フォックス著「脳科学は人格を変えられるか」である。
この次の一節は、脳科学の新しい知見に基づくものである。同書の P264 より引用する。
「恐怖を感じにくい人は生まれつき鉤状束が強く、だから感情のコントロールがもとも
とうまいという可能性もある。だが、脳の可塑性についてこれまで判明したことと考えあ
わせると、その線はどうやら薄い、それよりも有力なのは、年月をかけて幾度も繰り返さ
れた経験や学習が、感情と抑制の中枢を結ぶ回路を強めたというシナリオのほうだ。スポ
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ーツジムで体を鍛えれば筋肉を強くしたり柔軟性を高めたりできるのと同じように、訓練
を行えば、脳の各領域を結ぶ経路を強くすることができる。こうして認識の変更を何度も
繰り返せば、恐怖や快楽に直面した時の脳の反応に確かな変化が生じるようになるのだ。」
この文章に出てきた「鉤状束(こうじょうそく)」とは、扁桃体を含む領域と側頭葉そし
て前頭前野を結ぶ神経の束で、この束の太さは、人間の不安度に反比例するということが
分かっている。これは、不安にあまり感じない人は、この束が太く、鉤状束が強いことを
表しており、長年の訓練や学習によって、強くなるものであるということである。医学的
には、このように鉤状束が強いことを「鈍感力」が強いともいっている。
要するに精神は、鍛えることによって、肉体と同様に強くなれるということを脳科学が
証明しつつあるということである。
逆の言い方をすれば、精神は、誰でも最初から強いのではなくて、例えば、最初は真っ
黒な鉄の塊であった日本刀が、叩かれ、そして、火と水に交互に入れられ、鍛えられ磨か
れることで、最後には、切れ味のよい光を発する名刀となるように、人間の精神も叩かれ
鍛えられ磨かれることで強靭な精神・人格が作られていくのである。
そして、遂に最後は、自らの感情を支配できる強い精神が形成されていくのである。
困難に面して多くの者が慌てふためき不安と恐怖で感情をコントロールできないでいる
とき、そのような状況下においても、動じることなく平常心を保ち、冷静沈着に対処する
ことができるのも強い精神と言える。
又、自分の身に覚えの有る無しに関わらず、人の誹謗中傷や攻撃そして辱めにあっても、
動じることなく、相手を赦すことも同様である。この訓練によって人間の度量も形成され
ることになる。更に、仕事であれ災害であれ、人が躊躇逡巡するような危険な状況下に身
を挺することができるのも同様である。
たいぜんじじゃく
めいきょう し す い
しょうよう
このような精神を昔から「泰然自若」や「明 鏡 止水」そして「従 容 」という言葉で表現
してきた。
人間は誰でも、最初は弱い存在である。幼児は、常に父や母の下で保護されなければ、
生存すらできない。経験の浅い児童も、教師や社会の保護の下で教育を受ける受け身の弱
い存在である。
親や先生に叱られては、泣きべそをかき、喧嘩して負けては泣き、けがをしたと言って
は泣くのが子供である。どこにも強い人間など最初から存在しないのである。
さらに付け加えれば、人間は誰でも、小さければ小さいほど、自他の分離ができておら
ず、自己本位で、そして利己的である。社会性を最初から身に着けている人間などどこに
もいない。
それでは、強い精神が形成される人間と弱い精神のまま、大人になっていく人間との違
いはなんであろうか。又、社会性が形成されず利己的なままの人間と利他的な精神が形成
されていく人間との差はどこから生まれるのであろうか。
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3.人格(精神)を強くするものとは
私の教え子で、高校で番長格の喧嘩にめっぽう強い生徒がいたが、彼に喧嘩の極意を聞
いたことがある。それは、どんなに強い相手であっても決して引いてはいけないというこ
とである。喧嘩は、引いたらおしまいだと言っていた。
喧嘩は腕力だけではない。決して逃げないという精神が勝敗を決するのである、という
ことをその生徒から教えられた。
最初から喧嘩に強い人間もいない。喧嘩に強い人間とは、いかなる強敵からも逃げない
で戦ってきたことによって、その精神が強くなっていった人間であるといえる。
これは、喧嘩の話であるが、人生全般にも言えることである。人生は逃げたらおしまい
である。これは、喧嘩と同様、人生の極意と言っても良い。
人生も、あらゆる困難から逃げずに、立ち向かい、倒れては、又、立ち向かい、これを
繰り返していくうちに、困難に立ち向かうたびに、困難を克服する精神が徐々に形成され
ていくのである。
人間の「勇気」について研究を行っている学者で米国ポートランド州立大学心理学部講
師ロバート・ビスワス=ディナ―は、その著書「勇気の科学-一歩踏み出すための集中講
義-」の中で勇気について次のように言っている。
「勇気とは習慣であり、実践であり、習得できる技能なのです。」
(同書 P50)
「勇気は身
体的な行為だけに限定されるものではありません。突き詰めれば、それは、怖気づきそう
な状況に立ち向かう態度のことです。」(同書 P32)更に同書では、心理学者クリストファ
ー・レイトの「勇気」に関する定義を載せているので、次に引用することにする。
① 危険や脅威が存在すること
② 行動の結果が確実ではないこと
③ 恐怖が存在すること
④ 右記の条件があるにもかかわらず、個人が明確な意志と意図を持って行動すること
と定義し、
「勇気」を恐怖やリスクに立ち向かう意志としている。
あらゆる困難に逃げずに立ち向かうのは、上記の①及び②そして③のすべてに該当する
であろう。
また、組織において、仕事で失敗をしたとき、皆がその責任の転化をし合っているとき
に、自ら進んでその責任をとる態度である。これは、責任を負うことで、辞任などのリス
クを負うことにもなるであろうし、組織の人々からの非難を浴びるという恐怖もある。
また、いかなる人の辱めに耐えることである。これは、精神的危険や脅威の結果、人間
が自信をなくし、軽蔑されることに対する、人間の自尊心が傷つくことに対する恐怖でも
ある。
更に、重要と思われるものは、自ら顧みて、一点の私心も私欲もなく、それでも理想や
正義を貫く態度や行動である。これは、まさに①と②が該当するといえる。
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不安や恐怖の感情は、リスクに伴う不確実な未来に対して、人間が原始的本能的感情と
して、誰もが、持っている感情と言える。
いずれにしても、
「勇気」も、誰でもが、習得できるものであり、そして、養うことがで
きるものであるということである。ここで気を付けなければならないのは、
「勇気」は習得
できるものであるからと言って、人間に本来ないものが、後から付加されるということで
はない。
人間には、元々、本来的に「勇気」の魂を持っている存在であるということである(日
あらみたま
本の神道ではこれを「荒 魂 」と呼んだ)。無限の可能性として潜在的に持っているからこそ、
鍛練によって引き出すことができるのである。ダイヤモンドでなく、ただの石であれば、
いくら磨いてもただの石に変わりはない。しかし、ダイヤモンドも最初から、光輝を放っ
ているのではない。地下深くに眠り、真っ黒な塊であったものを掘り出し、繰り返し磨か
れて初めて光輝を放つのと同様である。
勇気というダイヤモンドは、すべての人間の内部に、その本性として眠っている魂であ
る。これは、勇気だけでなく、愛や知性も同様である。そして又、人間内部には、真・善・
美を追及する本性も眠っており、訓練や努力によって、それは、引き出されていくのであ
る。
それは、脳科学が証明したように、訓練によって、新たなシナプス間の結びつきや、シ
ナプス自体の大きさが増加することによって、強いシナプスが形成され、そして、強い精
神が形成されるのである。
そして、更に言えることは、恐怖とは、逃げるからこそ生じる妄想であって、恐怖に立
ち向かった時には、実は、恐怖心は生じないのである。だから、それを経験すればするほ
ど、脳内における強固なニューローンが形成され、又、恐怖から生じる自律神経の失調も
生じないことになるのである。
肉体もその運動機能も、そして精神もその神経機能も使用すればするほど強固になるの
である。しかし、逆に言えば、使用しなければ、シナプス間の神経経路は、その結びつき
もシナプス自体も弱まり、いずれは、機能が低下していくことになるということである。
小さなことでも、逃げることを繰り返していけば、最後は、現実からも社会からも逃避
することにもなるであろうし、人生そのものからも逃避することにもなり兼ねない。
4.恐怖の感情とストレス反応
ストレスの最大のものは、それが、生命の危険にさらされるような状況であろうと、又、
精神的危機に見舞われるような状況であろうと、それは、恐怖の感情である。
肉体的な生存の危機に関するものは、事故や深刻な病気そして経済的な貧困等が主なも
のであるが、そのような、死を予想するケースは、誰でも経験することである。
しかし、精神的危機における恐怖とは、人間の自尊心や名誉欲が強ければ強いほど、自
分の評価が落ちることも、名誉が毀損されることも、又、人前で恥をかくというような面
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子をつぶされることも、ある意味では、人は恐怖の対象となるのである。
更に、権力欲の強いものが、権力を失うことも恐怖の対象となるであろう。金銭欲にし
ても同様である。
肉体的であれ精神的であれ人間の欲望に根差したものの喪失は、その欲望が、強ければ
強い程、恐怖や不安の対象となるのである。
以前、教育相談を受けた不登校の生徒(当時中学校 2 年生で小学校 5 年生から続いてい
るケース)がいたが、ある時、何故学校にいかないのか理由を聞いたことがある。
答えは、音楽の時間に、一人ずつ皆の前で歌わなければならなかったのだが、うまく歌
うことができなくて恥ずかしい思いをした。そして又再び歌わなくてはならなくなったと
き、学校に行くのが怖くて、そのまま、行けなくなった、という話をしてくれた。勿論、
親には一切理由を言っていないということであった。
これも、子供ながらに、恥をかくのを恐れたのであろう。
同じように小学生の女の子で、緘黙児(人前で一切言葉を発することができない症状)
がいた。私は、塾を経営していたが、それを全く知らないふりをして、勉強に関する質問
(簡単な算数の質問)をその子にしたのである。勿論、とっさに答えるしかない状況を作
ったのではあるが。
その時、その子は、私に声を出して答えたのであったが、小学生にしてはハスキーな声
であった。大人には、全く気にならない程度であったが、恐らく、その声を友人たちから、
からかわれたのかもしれないと思った。
声を出せないのではなく、声を出したくなかったのである。先の不登校の小学生と同様
に小学生ながら、恥ずかしい思いをすることを恐れたのであろう。
このようなケースは、スポーツをしている者ならおそらく誰でも経験したことであろう。
一流のアスリートでも、負けて、無様な姿を人前にさらすかもしれない、という思いが強
ければ強い程、プレッシャーを過度に感じることになり、試合に出ることが恐怖の対象と
なるのである。
試験でも同じである。高得点を意識すればするほど、試験恐怖となり、試験前に必ず下
痢をするケースである。
ドーピングが後を絶たないのは、このようなプレッシャーから薬を使って解放されるた
めである。
人間と動物との違いは、その脳の発達の差でもある。その独特な人間の精神の働きこそ
が、動物にはない、人間独特のストレスを生み出す原因となる。
しかし、その精神と一言で言っても、その仕組みは複雑である。深層心理学が証明した
ように、人間の精神には意識と無意識(潜在意識)があり、脳科学でいう自律神経とは、
精神分析でいう、無意識すなわち潜在意識の働きと同じであるといえる。
そういう意味では、動物の本能的働きは、人間の無意識の働きと同じともいえる。但し、
動物の無意識との違いは、動物の場合は、生存のための本能的なものが主であると考えら
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れる。しかし、人間の場合は、意識的世界で経験したものが、無意識の世界に入り込んで
いるがゆえに、その潜在意識に蓄積されたものが、その人間独特の性格傾向を形成してい
くと同時に、自律神経系を通して人体にも影響を与えることになる。
特に不安や恐怖の感情は、人間の本能や欲望と結びついているだけに、たびたび想起さ
れやすく、潜在意識にインプットされ、歪んだ錯綜意識(コンプレックス)が形成されて
いく。認知運動療法では、これを、スキーマと呼んでいる。そして、不安障害や、パニッ
ク障害そして各神経症の原因ともなる。
ストレスを論じるためには、ストレス学説の創設者であるハンス・セリエ博士の学説を
理解する必要がある。
5.ストレス学説におけるストレス(特に生物学的ストレス)とは
前述したように、このストレス学説は、わが国においては、九州大学の池見酉次郎博士
が、
「精神身体医学」として、これを輸入し、現在における心療内科の源流となったもので
ある。池見酉次郎博士は、その後、交流分析という心理療法を提唱されているが、各種の
心理療法におけるストレスコントロール法に関しては、最後に述べることにする。
先ずは、セリエのストレス学説の概要から入ることにする。当然ではあるが、ストレス
反応というものを正しく理解した上でないと、ストレス・コントロール法というものも正
しく把握されないからである。
ストレスの定義を述べるにあたっては、若干注意する必要がある。セリエ博士は、この
ストレス概念を説明するために「現代とストレス」という著書のおよそ 3 分の 2 を費やし
ている。それだけ、慎重を要する概念であるということである。できるだけ、セリエ博士
の言葉によって記述していくことにする。
少し長くて難解な点もあるが、次に引用することにする。
「ストレスという語は、用い方が不正確なばかりではなく、定義めいたものにも夥しい
混乱がみとめられるので、いま私のとる態度としては、明らかにストレスではないものか
ら規定してかかるのも有効な方法の一つだろうと思う。それが慣用とあいまいな誤用に対
決する道である。
.................
① ストレスは単純に神経性緊張ではない。ストレス反応に、神経系を有しない下等動
物にも発現する。警告反応は、神経を除去した手足を機械的に損傷させることによっ
ても起こしうる。事実、ストレスは麻酔下の無意識な患者や生体外に取り出した組織
培養の細胞にもおこりうるのである。
...........................
② ストレスは、副腎髄質からの、ホルモンの緊急放出ではない 。アドレナリンの放出
は、全身に影響をおよぼす緊張ストレスにおいてしばしば見うけられ、かなりの程度
にストレスを惹起しうるけれども、関節炎、結核等全身に波及しやすい炎症系疾患に
は著顕な影響をおよぼさない。また、身体の直接損傷部位に限局された局所ストレス
反応においても、なんらの役割もみとめられない。
11
③
.....................................
副腎皮質からそのホルモン、コルチコイドを分泌させるのはストレスがすべてでは
..
ない。副腎皮質刺激ホルモンである ACTH は、ストレスの形跡がなくてもコルチコイ
ドを放出できる。
...................
④ ストレスは、損傷の非特異的結果ではない。テニスの競技や、熱烈な接吻など、健
康領域の生理的活動も、なんらの障害を与えることなく、相当なストレスを起こすこ
とができる。
.............
⑤ ストレスは、ホメオスタシス、すなわち生体の生理的恒常性から逸脱することと同
じでない。音や光の感覚、筋の収縮等生体の特異な機能は、実際には、その活動器官
の正常な安静状態からの顕著な逸脱を起こす。これは機能亢進に対応する局所的な反
応とみてよく、局所ストレスを起こすことはできるが、その程度も特異な活動強度に
比例するものではない。
..................
⑥ ストレスが警告反応をおこすのではなく、ストレッサーがおこすのである。ストレ
スそれ自体ではない。
............. ... ...............
⑦ ストレスは概して警告反応や G.A.S とまったく一致するものではない。これらの反
応は、ストレスのおこる測定可能な臓器変化によって特徴を与えられている。このた
めに、どうしてもこの変化自身がストレスであるわけにはいかない。
...............
⑧ ストレスは非特異的反応ではない。ストレス反応の類型はきわめて特異的なもので
ある。それは高度に選択的な方法で、ある臓器(たとえば、副腎、胸腺、胃腸内壁系)
に影響をあたえる。
...............
⑨ ストレスは、特異的反応ではない。定義によるストレス応答は、実質的にはいかな
る作因によっても惹起されうるから特異的ではない。
.........................
⑩ ストレスは必ずしもからだによくないものとは限らない 。それはあなたがストレス
をいかにとりあつかうかによる。陽気で、創造的で、成功に満ちた仕事からくるスト
レスは有益であり、失敗、屈辱、病原感などは好ましくないのである。まさにエネル
ギー消費と同様に、ストレス反応は有益効果と有害効果の両面をもっていることにな
る。
.................................
⑪ ストレスは避けられないものでもなく、また避けられるべきものでもない 。ストレ
スは、からだのいかなる要求にも非特異的に反応するからにはだれもが常にある程度
のストレス状態に在る。静かな睡眠中といえども心臓は拍動を続け肺は呼吸を行い、
脳は夢をみる。ストレスは死によってのみ回避できる。
『彼は目下ストレス状態にある』
という表現は『目下体温を測定中である』と同じくあまり意味がない。そのような文
章で本当に意味があるのは、ストレスや体温が過度である場合なのである。」
(P71~P73)
以上が、ストレス概念を消去法的に、セリエ博士が定義したものであるが、この内容に
は当然医学的専門用語が種々使われているので、補足説明を必要とするが、初めに、最後の
項目である⑩番及び⑪番目に書いてある内容から補足説明を行いたい。
ストレスがいかなる内容であれ、ストレスそのものが、人生において意味のあるものと
12
して対応する必要があるのは、あくまで、それが過度である場合である。
ストレス(特に有害ストレス)が過度であり、しかも、継続する場合は、身体のストレ
ス反応によるホルモン分泌に異常をきたし、最後は死を招くこともあるからである。
しかし、ストレスには、上記の⑩番に書いてあるような、人間の仕事の能率を上げる高
揚感を伴った陽気で、
創造的そして成功に満ちた仕事に従事しているときに受ける有益なス
トレスもあり、それ故、ストレスは「避けられるべきものでもない」のである。更に「避け
られないものでもない」というのは、自らの力でストレスをコントロールすることも可能で
あるということである。セリエ博士のストレス対処法に関しては後述する。
①番から⑨番までは、ストレスのメカニズムに関することであり、大きく 2 つの内容に
大別できる。
一つは、ストレスにおける非特異的反応と特異的反応の違いであり、二つ目は、ストレ
ス反応におけるホルモン分泌(コルチコイド・アドレナリンなど)の問題である。先ずは、
順に解説していくことにする。
作因(ストレスの原因)の如何にかかわらず、実際に眼に見えるあらゆる生物学的効果
は、加えられる損傷に対して特異的な作用と非特異的な作用の総和を表す。この場合の非特
異的というのは、一般的・普遍的という意味である。特異的というのは個別・特徴的という
ことになる。
どのような原因であれ、症状として身体に現われるものが、同じであるとき「非特異的」
ということになる。たとえば、発熱などは、風邪でも、怪我でも、食あたりでも現れる一般
的・普遍的症状である。
セリエ博士のストレス学説の体系化は、まさに、病気の原因が異なるにもかかわらず、
病気として現れる症状が同じである点に特に注目したことから始まったのである。
その症状(ストレス反応)として現れるものを具体的に空間的なものと時間的なものと
に分けてこれを一つの症候群として体系化したのである。
先ず空間的には、副腎刺激の事実、リンパ諸器官の退縮、胃腸潰瘍、体組成に固有の変
化 が み ら れ る 体 重 の 減少 な ど で あ る 。 こ れ を全 身 適 応 症 候 群 ( General Adaptation
Syndrome,G.A.S)と名付けた。さらに、ストレスによって、直接に影響を受けた組織に
は局所適応症候群(Local Adaptation Syndrome,L.A.S)があるが、これらの症候群とホ
ルモンの関係を、セリエ博士の著書から次に引用する。
「ストレスによって、直接に影響を受けた組織には局所適応症候群(Local Adaptation
Syndrome,L.A.S)が発現する。たとえば、病原微生物の生体内侵入ではその部位に炎症
が存在する、など。
L.A.S と G.A.S は密接に対応している。化学性の警告信号は直接にストレスを受けた組
織、すなわち、L.A.S の発現部位から神経系の調節中枢まで、さらには内分泌腺、とくに下
垂体や副腎まで発送されるのである。このことは適応ホルモンをつくり出して身体の磨耗に
対応することになる。このような全身的な反応(G.A.S)は再び L.A.S の局所に作用を与え
13
ることになる。
大よそのところ、適応ホルモンは二つの群にわけられる。その一つは抗炎症性ホルモン
又は糖質コルチコイドホルモン(ACTH、コーチゾン、コーチゾール)であり、過度の防衛
反応を抑制する。他の群は促炎症性または鉱質コルチコイドホルモン(STH、アルドステ
ロン、DOC)であり、防衛反応を刺激する。
・・・
(中略)
・・・。
すべてのこれらの物質の効果は、その他のホルモン(アドレナリン、甲状腺ホルモン)、
神経性反応、食事、遺伝、ストレス性組織記憶などにより収縮され、条件付けされうる。こ
の G.A.S メカニズムの脱線は適応病、すなわちストレス病を生むことになる。
簡潔に言うならば、ストレスに対する反応は三つの部分のメカニズムを有しており、⑴
ストレッサー(たとえば、血液感染、激しい神経興奮、極度の筋疲労などのストレスを惹起
するもの)の身体に及ぼす直接効果、⑵細胞組織の防衛を刺激するか傷害物質の破壊を助け
る内部反応、
それに⑶不必要又は過大の防衛反応を抑制することによって細胞組織の降伏を
引き起こす内部反応、など。対抗と適応はこれら三つのメカニズム要因の適当な均衡に依存
することになる。
」
(P65~P66)
ストレッサーによって刺激を受けると生体は警告信号を発し、それは大きく二つの作用
を及ぼす。一つは、抗炎症性ホルモンによる、過度の生体の防衛反応を抑制する機能と、促
炎症性ホルモンによる、生体の防衛反応の促進(刺激)である。
本来、生体に備わる大自然の摂理として、あらゆるストレッサーに対して生体が防衛反
応を持っているという点、
これこそがセリエ・ストレス学説の発見の最大のものと考えるが、
このストレッサーに対する対抗と適応の防衛反応こそ、ストレス反応のメカニズムであり、
ストレスの本質である。
多くの作因により非特異的に惹起された変化(症候群によって表された状態)が、スト
レスそのものの像である。セリエ博士の言葉を次に引用する。
「生物学的ストレスの状態とは、からだを介してからだに迫る侵襲と抵抗の間の拮抗状
態が発達することによる、本質的に調節なのである。」(P75)
そして、この全身適応症候群(G.A.S)と名付けられたものの逸脱(適応異常―高血圧、
心臓血管病、腎臓病、リュウマチおよびリュウマチ性関節炎、皮膚や眼の炎症性疾患、感染、
アレルギー性および感覚過敏性の疾患、精神神経症、性的障害、消化器病、癌、その他の抵
抗一般の病気)がストレス病(適応病)であり、生体の病気といわれるものの本質である。
それ故、あらゆる病気の要素となるものが、まさにストレスなのである。
特に現代における心理療法の対象となっている神経症や精神の病も、このストレス病(適
応異常)
が重要な役割を演じているということが常識になっている点は注意すべきであろう。
次にストレス反応の時間的展開について述べることにする。これは、適応の 3 段階発達
ひ は い
(G.A.S の 3 相期)とも呼ぶ。それは、警告反応期、抵抗期、疲憊期よりなる。以下セリエ
博士の著書より引用する。
「ストレスはその症状発現が時間の経過とともに変化するけれども、これら三つの期間
14
中はいつでも存在する。さらに、一つの G.A.S を語る場合、それがかならず三期を経過す
るものと考える必要はない。ただ最も激しいストレスだけがついに疲憊期に進み、死にいた
る。身体的または精神的負荷の大部分や、感染その他われわれに作用する種々のストレッサ
ーは、第一と第二の時期にだけ相当する変化を惹起する。この初めの期間で、ストレッサー
は、まずわれわれのからだの調子を狂わせて警告を発するであろうが、やがてそれに慣れて
しまう。
正常な人間生活にあっては、だれもが何度となくこのような初めの二つの時期を潜り抜
けていくものである。さもないと、われわれは人間の宿命でもあるあらゆる活動を行い、あ
らゆる傷害に抵抗しながらこれに適応していくということができなくなってしまう。
・・
・
(中
略)
・・・。
適応のこの三段階発達は、このように医師だけが完全に評価しうる生体活動、たとえば
炎症にもまた特有であるということは一般にあまり知られていない。ある猛毒を持つ微生物
が皮下に侵入したならば、まず、いわゆる急性炎症(発赤、膨隆、痛み)を引き起こす。そ
れから慢性炎症(腫瘍あるいは膿腫の成熟)をともない、けっきょく、炎症の亢進から化膿
液の排出となって局所組織の崩壊につづくのである(膿瘍の流出)。」
生物学的ストレスの説明は、これで十分であろう。今回の私の論文で問題にするのは、
現代社会における精神的ストレスとそのストレスを如何にコントロールするかであるから
である。しかし、このヒトの精神的ストレスのメカニズムに関しては、セリエ・ストレス学
説では、未だ解明にはいたらなかった。
セリエ博士のストレス学説では、ストレス反応の内分泌経路は、脳下垂体→副腎皮質刺
激ホルモン→副腎皮質→コルチコイド→胸腺、リンパ組織となるが、脳下垂体に副腎皮質刺
激ホルモンを分泌させる実体を解明したのは、彼の弟子たち(ギルマンやシャリー)であっ
た。
一方、セリエ博士は、ストレス反応を起こす経路には、内分泌系によるものと自律神経
系によるものと 2 種類あることを示したが、自律神経系の経路に関する解明はできなかっ
た。現在においても未だその全貌は解明されてはいない。
但し、生体の精神的興奮がストレス中に何らかの形で胃に通じる神経経路を通って、潰
瘍の形成に重要な役割を持つことは、明らかであった。この間の消息を、適応病である消化
器病を例にとって、セリエ博士の著書から引用する。
「消化管は特に全身ストレスに敏感である。食欲の減退は重大な『まさしく病気である
症候群』の初期兆候の一つである。しかも、これには嘔吐や下痢、あるいは便秘などがつき
物である。
消化管の刺激と混乱の兆候は、
どの型の情緒的ストレスにも現れやすい。
これは、
戦場の緊張した待機とその間の情緒的ストレスを経験した将兵はもちろんのこと、口述試験
の順番を待ちながら――確かに理由もないのにほとんど等しくたいへん緊張をして――私
の研究室のドアの前の廊下をあちこちと歩きまわる学生にたいしてもよく知られている。
胃潰瘍や十二指腸潰瘍は、どこか彼らの仕事に適応できず、かつ一定の緊張と欲求不満
15
に悩んでいる人々に最も発生しやすいのである。』
(P240)
敵意や憤怒又は不満や憤りなどの何らかの情緒的(精神的)興奮が情緒的ストレスとな
って内分泌系のホルモン分泌に影響を与え、潰瘍を生じていることは事実である。
セリエ学説では、この神経系の経路は前述したように解明できなかったが、帝京大学医
学部名誉教授の杉晴夫氏が、その著書である「ストレスとは何であろう」
(講談社ブルーバ
ックス)で、その神経系の経路に関して、現代における脳科学が到達している範囲内ではあ
るが、長く続く精神的ストレスが徐々に自律神経の失調を引き起こし、慢性的な色々な疾患
を発現させるメカニズムの解明を行っている。
いずれにしても、精神的・情緒的ストレスが、生体の疾患となって発現するのはセリエ
博士のストレス学説でも実証されている。
それ故、そのストレスの対処法自体に関しても、同じ「現代社会とストレス」に詳述さ
れており、精神的ストレスコントロールの方法として現代でも重要な意義を持つものである。
6.ストレスコントロール
「大事なことはわれわれに振りかかる物(ストレッサー)のことではなくて、それを受
け入れる仕方(ストレス)にこそ問題があるということである。
」
(『現代社会とストレス』P173 より)
...
このストレッサーを受け入れる仕方の中に、人間の「考え方(ストレッサーの受け方)
=認知」に焦点を合わせた心理療法に「認知行動療法」がある。これに関しては後述する。
果たしてストレスは、コントロールできるであろうか。セリエ博士は、同書で、更に次
のように述べている。
「ストレスの研究はさらに、広範な影響力を持つ哲学的意義をもっている。ストレスが、
老化、個性の発達、自己表現の必要、さらに人間の究極的目標のような、各種の生命現象
において演じる役割について、われわれは多くのものを学ぶことができる。一般化してい
えば、ストレスは全体のうちにある各部分が、自己保存(ホメオスタシス)のためにはら
う苦闘の帰結であるとみることもできる。人体のうちにある個々の細胞についても、社会
にいる個人についても、さらに全動物界における個々の種についても、このことはあては
まる。人間相互の関係を支配する情緒(承認の欲求、非難される恐怖、愛情、嫌悪、感謝、
さらに復讐など)をしらべると、われわれの活動によって、他人に感謝の気持ちを起こさ
せることが、われわれの安全を一番適確に保証することになりそうだという結論に到達し
た。生活の長期にわたる目標としてこの結論を意識的に求めてもいいのではなかろうか。
自己防衛の価値をなんら損なわないで、事前にもっているあらゆる利己主義的な衝動を、
必然的に利他主義にふりかえるすばらしい性質は、他の哲学のうちには見当たらないと思
われる。
」
(P331~P332)
セリエ博士は、上記の人間の利己的な衝動を必然的に利他主義にふりかえる方法を「愛
他的利己主義」として推奨している。また、他人の感謝を得たいために、人間は働いてい
16
るとしている。感謝されるとは、表現を変えれば、他からの評価を得ることであろう。そ
れは、心理学者のマズロー流にいえば、認められたい・愛されたいと思う人間の基本的欲
求でもある。
その認められたい、評価を得たい、更には多くの人の役に立つことによって感謝を得る
ために、人間は、自己実現(自己表現)の欲求や偉大性への欲求をもつことになるのであ
る。他人の感謝を得るためには、それだけの努力が必要であり、そして、何よりも人類社
会への貢献度が高いものでなければならないからである。
セリエ博士は、それらの基本的欲求を、ある意味では「利己的」と呼び、そして、他か
らの感謝と評価を得るために努力し、たゆみなき自己表現と偉大性を追及することによっ
て人類に貢献することが、人間の究極の目標や使命を果たすことになるとすることが、真
の「愛他主義」と捉えているのである。
それ故、
「愛他的利己主義」の哲学は、同時に「感謝の哲学」となる。そしてそれらの人
間の志向は、眼に見えぬが、人間及びあらゆる生物そして宇宙の中に働いている自然の法
則への発見と確信につながり、感謝と喜びの生活への橋渡しとなるものである。
これは、分野は異なるが、革命的幼児教育の唱道者であった、やはり元々は障害児教育
を専門とした医学者であるマリア・モンテッソーリの幼児教育論とも機を一にする哲学で
ある。このモンテッソーリの科学的教育学については、平成 24 年度東筑紫短期大学の研究
紀要で「キャリア教育方法論の新たな視座(3)-M.モンテッソーリの生命の解放の教育
を中心に-」に詳述したので参考にして頂ければと思う。
セリエ博士が、ストレス対処法の中でも、最も重視したと思われるものは、やはり、自
らの使命につながるところの自己表現である。有害ストレスを有益ストレスに転換するこ
とが、究極のストレスコントロールとなるのである。
セリエ博士自身の言葉で見ていくことにしよう。
7.愛他的利己主義の原理
「倫理的に正しいものとして、利己主義と個人の資産を貯えるための労働を容認する倫
理的取り決めを、どのようにしたら広めることができるのか?「愛他的利己主義哲学」は、
われわれが行った、あるいは将来行うようになることに対する愛と善意と感謝のインスピ
レーションを介して、達成感と安心感とを創りだすことを支持する。
『愛のストレス』で説明したとおり、基本概念とガイドラインは次の通りである。
...................
1.あなた自身のストレス・レベルを知ること。日常生活の危急に合致しており、また
将来の安全と幸福を保証する価値があると考える仕事の量と種類に属する、人々の判
断は違う。そして、この点に関しては、われわれのすべては、遺伝的資質と社会的期
待によって影響を受ける。われわれは、計画的に自己分析を行い、自分が真に望むも
のをはっきりさせよう。伝統に関する基本的な変化と破壊の危険性に余りにも保守的
17
にふるまうため、自分の生活のすべてに困難を生じている人が多すぎる。
.......
2.愛他的利己主義。われわれの隣人の善意、尊敬、尊重、支援及び親愛の利己的な蓄
積は、われわれの閉じ込められたエネルギーを開放し、楽しく、美しく、さらには役
に立つ物事をつくり出すための一番有力な方法となる。
...........
3.汝の隣人の愛を受けよう。このモットーは支配的な愛とは異なり、人間の自然な構
造に合致している。さらに、それは愛他的利己主義に基くものの、倫理的に攻撃され
ないですむだろう。自分に対して他人が豊かな慈悲の心をいだいてくれるために、好
ましい幸福感や恒常性が確保できるならば、誰もそれを拒否しないだろう。しかも、
誰でも依存する人達を攻撃したり破滅に追いやったりはしないから、事実上責め立て
られることはない。
人間は文字どおり社会的動物であるから、あなたを取り巻く過密社会の真っただ中で、
独りぼっちになってはいけない。一見信用できそうでなくても、また友人がいなくても、
助けて貰えなくても、人々を信用しなさい。隣人から愛されるようになれば、独りぼっち
にならずにすむだろう。
これら三つの主要原則は、細胞ばかりでなく、人々、さらには社会全体のホメオスタシ
スを保ち、また、生存や安全、福祉のために絶え間なく戦いを続けなくてはならないスト
レッサーに直面したさいに助けとなる基本メカニズムの観察から導きだされたものである。
これらの原則は進化の途中で本能にまで発達したが、進化はまだ最終的に完成されたとは
いえない。いまもなお、進行中である。それはともかく、われわれは、自覚しての理解と、
意識しての積極的なコントロールによって、この原則を最もよく利用できるわけである。
しかしながら、生活の質を改善する価値が純然たる経験的観察によって確立されている
テクニックもたくさんある。もっとも、それらは、なんらかの特定の目標を達成しようと
はしていない。ただ間接的に、心身の健康を改善するのに役だつだけである。このグルー
プについては、すでに述べた筋肉運動、高温浴、サウナ、さらに超越瞑想、ヨーガ、禅な
どがあるが、その一般的健康や精神活動への好影響を身体的用語ではまだ完全に説明でき
ないものもある。しかし、われわれの脳もまた身体の一部であり、従ってまた、必然的に
身体機能を支配する悠久の自然法則に支配されなければならないから、時と共にこれも当
然説明できるようになろう。
化学物質(アドレナリン、セロトニン、その他の精神作用薬)や神経活動によって行わ
れる役割に関する知識が大いに進歩している現状からみて、生物法則に基く行動の取り決
めが一段と進歩する期待は、将来に向けて最大級に開けているといえよう。」
(P402~P404)
愛されること、認められること、感謝し、感謝されること、自己表現(自己実現)を通
じて使命を達成すること、これが、ストレスコントロールの最大の方法であるとセリエ博
士は考えたのである。それは、人間の生体の持つ自然の本性に最も従う道だからである。
最後に、セリエ博士の愛他的利己主義哲学を補うであろうイエスの言葉でセリエ・スト
レス学説を締めくくりたいと思う。
18
さば
「人を審くな、さらば汝らも審かるる事あらじ。人を罪に定むな、さらば、汝らも罪に
ゆる
あた
定めらるる事あらじ。人を赦せ、さらば汝らも赦されん。人に與えよ、さらば汝らも與え
られん。
」
(新約聖書ルカ伝福音書第 6 章)
8.ストレス学説のまとめ
人間は、生存のための防衛機能(ホメオスタシス)が、生体内に自然の摂理(法則)と
して存在している。その正常な機能がストレスであり、症状として現れたものがストレス
病であるが、その正常な機能の逸脱が、疲憊期における死にいたる病である。
ストレスが、あまりに激越で慢性化されるときは、その疲憊期にいたるが、その前の警
告反応期及び一見安定している抵抗期におけるストレス状態を緩和もしくは有害ストレス
を有益ストレスに転化(精神分析学では昇華ともいう)させることが重要な鍵となる。
この方策が、本論文のテーマである「ストレスコントロール力」である。セリエ博士も
論じているように、人間はあらゆる精神的・身体的ストレス状態の中にありながら、その
最大のものは、他からの感謝や評価を受けない事のストレスである。それは、ある意味で
は、心理学者マズローが唱えているように、愛されたい、認められたい、そして、その上
で、真の自己実現を図りたいという、人間の幼児から大人まで共通の基本的欲求に基づく
ものだからである。
この人間の根本欲求が満たされないことに強くストレスを感じる場合に、身体的・精神
的不適応の状態になることが明らかになってきたのである。
特に現在問題となっているうつ病や不安障害なども、その原因が心理的ストレスに端を
発していることが、明らかになってきている。
しかし、ストレッサーに対する各人の受け止め方(人間の認知の仕方)は、さまざまで
あるが、一旦、うつ病や、不安障害などの病気や、人間の問題行動となって表れる現象は、
...
きわめて特異的である。
今回、心理療法の一つである認知療法の概念を紹介して、このストレスと心理的不適応
のメカニズムに触れたい。更に、最後に、ストレスの根本になっている人間の成育段階で
の精神的傾向(考え方―但し、これは無意識に形成されているので、本人自身も自覚でき
ないところの無意識的傾向である)
、これを精神分析学的にコンプレックス(錯綜した複合
感情)と呼んでいいが、この抑圧された一定の精神的傾向(それは、復讐の念や憎悪そし
て怒りの念及び病的傾向に結びつくところの傾向となる)が、あらゆる子供の問題行動の
奥にあることを、実証例を挙げながら論述した「子どもの問題行動の奥にあるもの」も参
考論文として最後に収録した。問題行動及び有害ストレスに悩む、生徒や学生、更には社
会人の為の教育指導の参考になると考える。
9.認知療法の概念
セリエ・ストレス学説が解明した生体の非特異的症候群(G.A.S)としてのストレス反応
19
に対するストレス・コントロールは、セリエ博士自身も説かれているように、ストレッサ
ーそのものよりも、その受け止め方(ストレス)そのものにおいて、各人異なるものであ
るから、ストレス・コントロールも一様ではないということである。
アーロン.T.ベックが創始した心理療法の「認知療法」は、ストレッサーに対する受
け止め方を認知の仕方(考え方)として定義し、心理的障害における、その考え方そのも
のや思い込みを分析することによって、患者自身にそれを気づかせ、その修正を図ること
によって治癒を行う療法である。
特にこの療法は、現代病である「うつ病」の治療法として行われているが、極端なスト
レス状態に対しても、ストレスコントロールとして大いに活用できる療法である。
先ずは、認知療法の定義をベック自身の文章から引用する。
(ジェフル.K.ゼイク編「21
世紀の心理療法 1」誠信書房刊より引用)
「人の意識の流れのなかのさまざまな認知、すなわち言語的、絵画的事象は、その人の
根底にある信念や思い込みとかかわっています。患者は、自分が欠点だらけであるという
信念にあまりにも厳しく従いすぎていると自己判断するかもしれません。自分が無力だと
いう信念のために、問題を処理するプランや方略をうまく作り出せないこともあるでしょ
う。また、自滅的な前提にもとづいて考えたりすることもあるでしょう。
この療法は、一定の制限された時間のなかで、構造化された手続きのもとにしかも能動
的に行われますが、これまでうつ病、不安、恐怖症、心理・身体的障害、摂食障害、そし
て慢性的な痛みの問題の治療に用いられ、成功を修めてきています。」
(P256)
人間の断定的な思い込みや先入観というものが、人間の否定的な(もちろん肯定的な場
合もあるが)考え方や人間観を形成し、それが、ストレスの極端な状態や心理的傷害を引
き起こしていると捉えているのである。
この思い込みの形成に、子どものころの家族における親子関係の中で形成された点を中
心に治癒を図る心理療法として、論理療法やそして交流分析や家族療法などがある。
しかし、この幼児から形成された思い込みや不安コンプレックスなどは、人間の潜在意
識に蓄積されているので、自分では中々自覚する事が難しいのである。それで、フロイド
の創始した精神分析学においては、この潜在意識における(識閾下という)隠れた(これ
を抑圧という)コンプレックスを意識化におくために、
「自由連想法」や「夢判断」を行う
のである。
この認知療法におけるコントロール法(認知的技法)の前提となる認知モデルの基本原
則を同著より、少し長くなるが、非常に重要な視点であるので、次に引用する。
「ここでの認知的モデルは、8 つの特殊な原則にもとづいています。最初の原則は、個人
が状況をどのように構造化するかが彼の行動の仕方や感じ方を決定する、ということです。
例えば、人がある状況を危険だと解釈すると、彼は不安になり、自分を守る手段を考えた
り、その状況から逃避したりするでしょう。認知的に状況をどのように構造化するかが特
定の感情を引き起こし、それが個人を行動へと駆り立てたり、行為を解除したりします。
20
喚起される感情は不安、怒り、悲しみ、もしくは愛情であり、それにともなう行動は逃避、
攻撃、引きこもり、接近といったものです。
第 2 の原則である解釈とは、外的状況を評価したり、自己の処理能力を評価したり、さ
まざまな方略を用いた場合に見込まれる利点や危険性や損失などを評価することを含む、
まさに能動的な行為であり、またそれはたえず変化する過程そのものです。人は自分の重
要な関心にかかわる問題だと判断すると、危険や喪失や自己高揚に関して自己中心的にな
りやすく、未分化でいくぶん大雑把な評価を行いやすいのです。
認知モデルの第 3 の原則は、結果的に心理的苦痛を体験するか否かの感受性と傷つきや
すさは人によって異なる、ということです。ある人には大きなストレスを引き起こす出来
事も他の人には何のストレスも生じさせないかもしれません。人がどのようなものに心理
的苦痛を体験すると感受するかは、一般にストレスをもたらす特異な要因の組み合わせに
よって決まります。
第 4 に、人の感受性の多様さは、ある程度人格構造の基本的相違によるものです。自立
的な人格の人はある種のストレッサーに反応しますが、社会志向的な人格の人は、別の刺
激に反応します。したがって、精神医学的傷害はかなりの程度まで個人の人格構造と関連
している傷つきやすさに付随します。
第 5 に、認知的体制化の正常な活動がストレスによって阻害されます。人が、自分の重
要な関心が脅かされていると判断すると、原始的で自己中心的な認知システムが活性化さ
れます。そのために、個人の判断は、極端になったり、一面的になったり、絶対論的にな
ったり、また未分化な判断になりやすいのです。さらに、人は、自分の思考過程に対する
意図的な制御が失われるために、強烈な個人特有な思考を無視できにくくなります。この
意図的制御の喪失によって、その人の推理、記憶、注意集中の能力は大きく低下します。
認知モデルの第 6 の原則は、うつ病や不安障害のような心理的症候群は、特定の症候群
を特徴付ける固有の内容を持ったスキーマが異常に活動的になっていることによる、とい
うことです。特殊な認知的布置が各症候群を制御し、その結果特徴的な感情と行動傾向が
生じます。心理的症候群の認知的内容は、正常な体験において類似の感情と行動を引き起
こす内容と連続体をなしています。
第 7 に、他者とのストレスに満ちた相互交渉は、不適応的認知を相互に強めあうような
サイクルを作り出します。枠づけ、極性化、自己中心的といった認知様式などのメカニズ
ムが、いろいろな心理的症候に結びついているメカニズムをますます活性化するようにな
ります。
最後の原則は、個人は、脅威そのものが物理的であれ象徴的であれ、脅威に対しては同
じ身体的反応を示します。その脅威の意味が「身体的攻撃」か「社会的批判」にかかわら
ず、人が一連の攻撃―逃避―釘付けという対処行為をとるときには、そこに同じ認知-運
動システムがかかわっています。
」
(P257~P259)
ストレッサーに対する反応は各個人の人格的特徴によって異なるというのは、セリエ・
21
ストレス学説でも解説してきたところであるが、この認知行動モデルで興味を引くのは、
ストレス状態に置かれているときの人間の身体的特徴(非特異的症候群)のみならず、ス
トレスによる心理的障害における人間の感情及び行動においても、特徴的傾向を有すると
いう点である。
特に、
「うつ病」や「不安障害」の認知的モデルにおいて、それがいえるのである。具体
的には、3 つの主要な認知的パターンが提示されている。
..
「うつ病」の特徴は、個人の自分自身および自分の体験そして自分の将来に対する否定
.......
的な見方や解釈である。自分には欠陥があり不完全な人間であり、現在に不快な状況(敗
北や剥奪そして降格など)は、自分の肉体的、精神的、道徳的欠陥の故であり、将来にわ
たって現在の困難や苦痛が続くであろうという精神的傾向(考え方・認知の仕方)である。
「不安障害」の特徴は、ベックの解説から直接引用する。
「主観的な不安によって、生体は危機に対する防御的行為をとるようにあおりたてられ
ます。釘付けのような、危機に対する直接的反応はほぼ瞬間的に起きます。つまり、不安
は、個人の中にあって状況を危険だと判断評価させた後に、それに適切な方略を選択させ
る機能を持っています。また不安は個人を刺激して、現実の危険を減少させるための能動
的な対処メカニズムを発動させます。このように不安そのものには、生体にとって重要な
防御的機能が備わっているのです。そして、状況から遠ざかる事によって危険を低くしよ
うとする動機付けは不安の低減によって強化されます。
不安障害の人は、客観的には脅威をもたらす条件が何一つない状況でさえ不安を体験し
ます。というのは、問題状況に対する彼の(危険であるとの)判断が誤っていたり極端で
あるからです。彼のそのような判断の仕方が客観的に見て適切であるというような条件は
もともと存在していないので、その人の、対処スキルが適切な対応であるという可能性は
ないといえます。
」
(P262~P263)
このうつ病も不安障害も、正常なメカニズム(生体の防衛反応)が過剰に機能している
か、不適切に機能している状態の表れであると捉えるのは、セリエ・ストレス学説と同様
である。
生体の持つホメオスタシス(恒常性維持機能)は、身体のみならず、人間の精神と行動
においても同様に機能しているのである。但し、その防衛機能としての逃避行動が、過度
にそして不適切に機能することによって、引きこもりになったり、また、自己否定が極限
に達して自殺に及んだり、更には、自己破壊衝動が過度に形成される事によって、反社会
的破壊行動に転化することが問題なのである。
特に幼少時に形成された、スキーマ(人間の思考パターンの根本となっている思考の枠
組み)やコンプレックス(錯綜した複合観念)をいかに修正していくかが、心理的障害者
のみならず、あらゆる人間にとってのストレスコントロールの最大のものの一つとなると
考える。
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10.恐怖からの脱出―感謝の心を育む教育とキャリア教育
感謝の心を育む教育は、キャリア教育における経済産業省が唱える「社会人基礎力」や
文科省の唱える「生きる力」そして厚生労働省が唱える「就業力」等を育む原点となる教
育である。
そして、教育の原点は、すべての子供たちの内に神の栄光を観、そして、その内に宿る
神の栄光を表すことである。
神の栄光とは、すべての子供たちの内に宿る、真善美を追求する心であり、すべての人
や物や事に感謝することのできる心である。
それは、同時に人類や社会国家のお役に立ちたいとういう心であり、仕事にいそしむ心
である。
その心は、後から教育やしつけによって植えつけられる心ではない。すべての人間に本
性として生まれながらに内在する心である。一人一人に宿る使命と言っても良い。
人類史上における教育界の大家であるコメニウス、フレーベルそしてペスタロッチやモ
ンテッソーリが、子供たちの内に見たところの神の栄光である(モンテッソーリは、自然
の本性とか生命という表現を用いているが)
。
感謝の心は、最もポジティブな感情である。そして、あらゆる人や物や事に対して主体
的積極的に関わる心である。勇気をもって人生を切り開いていく心である。
感謝の心と反対の心は、不平不満の心である。不平不満の心は、最もネガティブな感情
である。そして、あらゆる人や物や事に対して、否定的、消極的に捉える感情である。
感謝の心は、包容する心である。どんな人をも許し受け入れる心である。例え、自分を
傷つけるような悪感情をも、これは自分を磨き高めそして強くしてくれる感情であると感
謝の心で受け止めることのできる心である。
包容する心とは、自分に対して良い感情を持っている人達のみを受け入れる心ではない
のは当然であろう。包容する心とは、ただ単に清濁併せ飲むだけの心でもない。
キリストが、
「己を憎み悩ませる者のために祈れ」と言った心である。そのような感謝の
心を育むためには、天地万物そして親やすべての人々によって人間は生かされているので
あるということを知ることから始めなければならない。それは、かつて親の恩というよう
な言葉でも表現されていた内容である。同じように天地万物の恩、すべての人々の恩とい
う風にも言える。そういう意味では、国家及び人類社会の恩も知らなければならないであ
ろう。
国家によって国民の生命自由及び財産が守られているのであり、それは、国家によって
国民は生かされているとも言える。又、人類社会の進歩発展に基づく恩恵によって人類は
生かされているのであり、経済も政治もそして教育も情報もグローバル化した現代の人類
社会では、それは尚更言えるであろう。
感謝の心とは、すべての人や物や事の光の面(美点)を見る心である。自分に関係する
すべての人々、自分に関係するすべての事象(事柄)、それらは、すべて自分を生かし、高
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めてくれるものであると捉える心である。
しかし、自分に直接関係しない人々の恩恵にも浴していることも理解しなければならな
い。
最後に
感謝の心は、恐怖を克復する。感謝の心は、柔軟に相手を受け入れる心であると同様に、
積極的にそして主体的にあらゆる人や物事に対して受けて立つことになる。
あらゆる恐怖は、そこから逃げ出そうとする心から生じる感情である。感謝の心は、あ
らゆる困難や自分をののしる相手に対してさえも、主体的に立ち向かい、そして、相手の
いかなる悪い感情も受け入れ、その上で、その人間の善性と美点を観ようとする、意識的
努力である。
ななたび
これは、赦しでもあり、真の意味で愛と言っても良い。キリストが、七度の七十倍度赦
せと言われ、汝の敵を愛せよといわれたところの究極の愛である。
仏教でいえば、人間が、不安や恐怖の苦しみから解脱するための修行として四無量心
(慈・悲・喜・捨)というものある。
これは、利他的心を育む意識的努力課題であるが、他を慈しみ同悲の心は、四つの中で
も養いやすいといわれているが、喜心を行じる(他の喜びを自分の喜びとする心を養う修
行)と捨徳(あらゆる執着から心を放つ修行)はなかなか難しいものがあるとされる。
人間は、地位や名誉だけではなく、富にも執着する(捉われる)と、心は、それに縛ら
れ、逆に、いつそれを失うかもしれないという不安と恐怖から、精神的ストレスは続くで
あろう。
恐怖の感情は、本能的に敵を想定する感情であるから、敵の攻撃から自己を防衛する必
要から、肉体が眠らないように、又、食欲を起こさないように、精神も肉体も緊張度を高
めるストレス反応(アドレナリンやノルアドレナリンが分泌され心拍数が上がり、その結
果血管は収縮し血圧が上がる状態)が生じるのである。それ故、ストレス反応は、ある意
味では、自己防衛という生体の自律神経が本来持っているところのホメオスタシス(生体
恒常性)ともいえるのである。
但し、ストレス学説のところで詳述してきたように、それが継続的に繰り返されていく
とき、肉体的疾患や精神的疾患が慢性化していくことになる。
いずれにせよ、不安や恐怖の感情の前提となる敵を想定する感情をコントロールするこ
とが、ストレスコントロールとなるのであるが、その不安と恐怖の前提となっている、ス
トレスの根本因でもある、敵を想定する感情を如何に克服するかが問題である。
ここに、仏教やキリスト教の宗教的解脱の方法や、カウンセリングの方法論、更に認知
療法などの心理療法が、その問題の解決に大きな役割を持つことになるのである。
ハンス・セリエ博士が『愛他的利己主義哲学』と名付けたストレスコントロールの方法
も宗教的原理と同じである。しかし、愛されるためには、先ず自分から愛さなければなら
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ないであろうし、信用され信頼されるためには、自分から積極的に人を受け入れ信用し信
頼しなければならないであろう。又、人から感謝されるためには、自分から積極的に、感
謝しなければならないのは当然である。人の善意と感謝と愛を受けることを、ただ待って
いるだけでは、それは、子供の世界や教育の世界ではあり得ても、実社会では難しいのは
誰でも理解できることであろう。
キリストの教えのように「与えよさらば与えられん」というのが、正しい心の法則であ
ろう。自らが積極的にこれらの諸徳を行じることが、最大のストレスコントロールとなる
のは間違いない。
カウンセリングにおける「受容」や「無条件の積極的尊重」そして「共感的理解」とい
うのも同様の修行であるといえる。
愛と感謝の心で、主体的に、すべてを受け入れるとき、そこにストレスはないのである。
まさしく、キリストが言われたように、
「愛は世界最強力の力」である。
更に、最後に付け加えたいのは、仕事にせよ勉強にせよ、また、スポーツにおけるトレ
ーニングにせよ、それを嫌々ながら、義務的に、又、受身的に行うのであれば、それは、
精神的ストレスになるであろう。
筋肉を鍛えるのでも、筋肉に負荷がかかるのであるから、肉体にとっては実にきついも
のであるが、自らの肉体を鍛え強靭なものにするために、積極的にそして主体的にこれを
行うとき、いくら肉体はきつくでも、精神的ストレスはないであろう。
人間の精神も同様である。精神的に負荷(ストレッサ―)がかかることによってのみ人
間の精神も鍛えられ、強靭なものになっていくのである。
仕事でも勉強でも義務的にやらされているとういう受け身の姿勢では、仕事も勉強も労
役となり、自分の血にも肉にもならないのである。
自分に与えられた仕事や課題を、与えられた以上に主体的積極的に全身全霊を捧げると
き、精神的に有害なストレスは生じない(ストレス学説で述べたように仕事や勉強の達成
感からくる有益ストレスはある)
。しかし、そのためには、仕事や勉強の意義や価値を知り、
人類社会に貢献する、または、奉仕する気持ちで、高い目標をもって取組む必要がある。
仕事や勉強を、ただ生計を得るためだけだとか、又、地位や名誉や財産を得ることだけ
を目的にした場合、仕事や勉強は、そのための手段となるので、仕事や勉強と自分の心が
一体とならないが故に、精神的な有害ストレスが生じるだけでなく、仕事や勉強の成果(社
会や国家に貢献できる成果)も結果的には上がらないものとなるのである。
スポーツでも芸術でも一流の人物は、高い目標をもって、自らの内なる完全性を追求す
るために寝食や時間を忘れて、その仕事や勉強に全身全霊を捧げているものである。経済
界でも医学や法学の世界でも、いかなる世界でも、それは同様である。
有害ストレスを有益ストレスに変えるもの、それは、何事にも感謝と愛の心を以て意識
的に主体的積極的に臨む姿勢と行動である。それが、究極のストレスコントロールである。
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