講 演 会 - 福井県立南越特別支援学校

講
演
「これからの特別支援学校に期待するもの」
明 治 学 院 大 学 教 授
金 子 健
氏
皆さん、おはようございます。昨日来、北知研研究会1から7までの分科会を覗かせていただき、
最終的にはPTAの第7分科会に腰を据えていました。本当に、皆さんが熱心に発表、質疑応答、協
議をなさっておられて、私も勉強させていただきました。それから、今日の午前中の授業公開と米澤
先生による本校の実践報告に全く敬服しているところです。
○弟の生活を見ていて思うこと
私は、大学 1 年の時から、特殊教育一筋といえば聞こえが良いのですが、その道しか知らないとい
うような状況で、大学に入って 40 年以上が過ぎ、還暦も過ぎました。そもそも、私がこういう特殊
教育、障害児教育に、大学 1 年の時から選んで入ったのは、私と4つ違いの弟が、知的障害であるこ
とが理由にあります。その弟は現在 50 半ばを過ぎていますが、養護学校で 12 年間お世話になりまし
た。今、一般就労を経て、作業所で仕事をしています。お決まりのコースといいますか、卒業したと
きには、なんとか、近所の工場へ就職しましたけれども、今は作業所で、月に八千円ぐらいの賃金を
もらい、なんとかやっています。そんな弟を見ていて、弟に関わる私の母や父の様子を見ているうち
に、私もこの道へということになったわけです。弟が養護学校へ入りましたのは、昭和 30 年代半ば
です。ほとんど特殊学級も養護学校もない時代です。彼が就学を迎える頃に、私の通っていた小学校
に入学するかどうかという話があったのをなんとなく覚えています。彼が養護学校に行くということ
になって、自分の通っている小学校へ入って来ないということでほっとした覚えがあります。養護学
校へは、電車で 1 時間半ぐらいかけて、毎日母と一緒に通っていました。その頃は、ほかのお母さん
方もそうだったのか、学校へ行って、下校の時ももちろん一緒に帰るわけですから、自宅と学校を行
き来することもできないので、
学校でほかのお母さん方と一緒に内職のようなことをやっていました。
それをどこかに売って学校の経費の足しにするということをやっていたようです。そういう生活を 12
年間続けて、途中から彼は、自主通学ができるようになり、そのうち学校が近くに移転したことで、
母の付き添いというものをやらなくてすむようになりました。
それこそ、
当時では珍しい養護学校で、
きめ細かい御指導をしていただきました。言葉がしゃべれたり、ある程度数が数えられたり、お金の
計算ができたり、文字も簡単な葉書ぐらいなら書けるというように、彼は成長しました。彼が高等部
を卒業するときに就職をどうするか、当時は作業所もほとんどない、福祉作業所もなかった時代でし
たから、卒業後は、施設入所か、あるいは、地域のどこかで就職するということでしたが、彼は、近
所の木工の工場に勤めることができました。それは、足踏みミシンの足を入れる木の箱を作るという
下請けの小さな会社でした。ところが、足踏みミシンなんてだんだんなくなっていくわけです。それ
で、仕事がなくなりかけて首になりそうになったんですが、首にならなかったのは、テレビが普及し
てきまして、テレビの木の箱を作るという仕事が、木工の工場ですから、また、注文が来るようにな
って、首は繋がり、結局、その後、だんだん、景気も悪くなって、テレビそのものが木の箱に入れる
ことがなくなっていくわけです。仕事がなくなって、そこの工場は首になり、段ボールの工場ですと
か、いくつか、転々としながら、最終的には、私の母が、ほかの人たちと一緒に地域の中で作った作
業所に勤めています。そういうところが全国にもたくさんありますけど、それも、つい数年前に「N
PO法人」と法人化されました。しかし、最近では、もう、
「身体が疲れた、行きたくない」とか、月
曜の朝になると、
「作業所に行きたくない」と言っています。実は彼には特殊学級を卒業した嫁さんが
おり、八十半ばの母親と一緒に住んでいます。
なぜ弟の話をしたかと言いますと、彼は養護学校できめ細かな御指導をいただきました。先ほど申
し上げたように、文字が書けたり、数が数えられたりするようになりました。しかし、世の中がいろ
いろ変わる中で、
ミシンの足を入れる箱からテレビの箱ですとか、
そんな風に社会的な変動につれて、
職場が危うくなっていって転職するわけです。
卒業してから 30 年も 40 年もたっているわけですから、
それはやむを得ない。社会はその間どんどん変わっていく。どんどん変わっていく社会の中で、彼は
生き続けなくてはならないわけです。今のお子さんたちもそうです。これから 10 年、20 年、30 年と
どういう風に社会は変わっていくのでしょうか。より良くなることを願いますけれども。しかし、社
会の変動の中で、彼らがたくましく生きていくには、いったい学校教育というのは、何が必要かとい
うことを考えてみたい、と思うのです。それは、確かに「生きる力」と言ってしまえば、それまでか
もしれません。それでは、生きる力をどうやって付けていくのか、それを学校教育の中で、是非、考
えていっていただきたい。
もう一つは、彼は、養護学校で 12 年間お世話になり、就職もしました。しかし、時々「周りのみ
んなが僕を馬鹿にしている」と言います。養護学校を卒業したすぐの頃からそうでした。今でも時々
そんなことを言います。
つまり、
周りの人とどのようにつき合ったらいいかが分かっていないのです。
今のような交流という言葉もない時代でしたから、近所の同世代の子どもと触れ合うなんてことは全
くなかったです。それは、兄弟である私の責任もあると今では思います。それこそ、私の友達が家に
遊びに来ると、
「おまえ、引っ込んでいろ」と言って、弟を奥の部屋に閉じこめたりしていました。悪
いことをしたなあと今になって思います。地域との結びつき、地域の人たちとの触れ合いがもっとも
っと欲しかったかなあと思います。それは、彼の性格にもよりますし、家庭の責任もあるわけです。
休みの日に一人で原宿に行ってベンチに座っているなんていうことしか彼には世の中との接点がなか
った。もっともっと地域の中でほかの人と触れ合うことを小さいときからやっていればよかったかな
と思います。
そういう意味では、今、ずいぶんと学校も変わってきました。一人一人のきめ細かな指導というの
はもちろんですけど、それを個別の指導計画、あるいは、個別の教育支援計画の中で、小さな時から
卒業後までの長期間の見通しのもとでの支援計画を作ってくださっている、そのもとでのきめ細かな
御指導、それからもう一つの地域との触れ合いということです。南越養護学校でも、先ほど米澤先生
の実践報告の中で、
「一人一人に」ということと、
「人とのかかわり」ということの二つをおっしゃっ
ていましたが、それが、まさに弟の生活を見ていて感じることとして申し上げたいことです。人との
つながり、社会とのつながりをこちらの学校では意識してやってらっしゃる。とてもすばらしいこと
です。昨日の各分科会での御発表でもそうです。キャリア教育で地域との連携を作るという第 2 分科
会での御発表がありました。あるいは、第 1 分科会での生活単元学習の中でのキャリア教育をずっと
積み上げていくということがテーマになっていましたが、とっても大事なことです。それこそ、30 年、
40 年前の私の弟が通った頃の養護学校に比べてずいぶんと変わってきた。この上更に何を求めるのか、
これからの特別支援学校に期待するもの、これからどんな風にお話をしようかな、ということを考え
ているところです。自分の自己紹介を兼ねて、そんなことをお話しました。
○障害児教育のはじまり
昔の障害児教育はどうだったのか、少し振り返っていきた
いと思います。
これからの特別支援学校に期待するもの
明治学院大学
たかだか 250 年ぐらい前、パリで聾唖学校ができました。
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要するに、公教育として障害のあるお子さんへの教育が始ま
ったのは、世界的に見てもこの 250 年ほど前のことです。パ
リでビクトールという少年がフランスの郊外にあるアヴェロ
金子 健
障害児教 育の誕生と発展
世界の動きと新しい障 害観
障害者施 策の 基礎構造改 革
特殊教育から特別支援教 育へ
障がい者制度改革 推進会議
インクルージョンへ向けて
ンの森の中に裸で走り回っているのが見つかり、それを聾唖
1
学校の耳鼻科の校医さんが連れてきて教育をするというでき
障 害 児 教 育 の 誕 生 と発 展
ごと「アヴェロンの野生児」がありました。ちょうどアヴェ
• 聾 唖 学 校 (パ リ 、 1 7 60 )
• 盲 学 校 (パ リ 、 1 7 84 )
• ア ヴ ェ ロ ン の 野 生 児 ( パ リ 、 1 7 99 )
イ タ ー ル → セ ガ ン ・・・ 知 的 障 害 児 の 教 育
→ 世 界 へ 、日 本 へ
• 肢 体 不 自 由 児 学 校 (ド イ ツ 、 1 83 2 )
ロンの野生児が 1799 年、フランス革命が 1789 年でした。要
するに、古い体制を改革しながら新しい人間の可能性に関心
が向いていた。そういう時代の中で障害のある子どもたちへ
の教育、あるいは、知的障害教育のスタートが切られる。ア
ヴェロンの野生児を指導していたイタール先生の弟子のセガ
2
ンがアメリカに渡ってアメリカで養護学校を作りました。その養護学校を日本から石井亮一氏が見学
に行き、そこでの指導法を日本でも紹介するわけです。イタール先生がビクトール君に感覚運動的な
いろんな刺激を与えることで、彼の人間性を呼び覚まそうとした。ブランコに乗せたり、ざらざらと
かつるつるとか、冷たいとか、大きな音とか小さな音とか、まさに、感覚運動的な指導をするわけで
す。今日も、障害の重いお子さんの教室にブランコがあったり、天井からぶら下がったテープに触れ
るといった感覚や運動を通して、その成長や発達、脳の発達、さらには、感情の発達というものを引
き出していこうとしています。それは、まさに、イタール先生がビクトール君に指導したことが今で
も行われているわけです。
○障害児教育についての世界の動き
障害児・者をめぐる世界の動き
最近の世界の動きに少し触れてみたいと思います。
ノーマライゼーションを目指して
全障害児教育法(米国・1975)・・・LRE,IEP
ウォーノック報告(英国・1978)・・・SEN,SENCO
国際障害者年(国連・1981)「完全参加と平等」
障害者の10年(国連・1983∼1992)
障害者の機会均等化に関する基準規則(国連・
1993)
• サラマンカ声明(ユネスコ・1994)・・インクルージョン
• アジア・太平洋障害者の10年(1993∼2002)
アメリカで全障害児教育法ができたのが1975年ですか
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ら、35年も前になりますが、そこで、IEP(Individualized
Education Program )、 日本で言えば、個別の指導計画とい
うのが義務化されました。私が1980年前後に文部省からお
(最終年フォーラム・大阪 2002.10)
• 国際生活機能分類(ICF :WHO・2001)
金をいただいてアメリカへ行ってきたときに、作るのが大変だ
という話をアメリカの学校の先生方から伺いました。
3
IEP はよく紹介されていますが、LRE (Least Restrictive Environment)
、最小制約環境といい、最
も制約の少ない環境の中で子どもを教育する、という考え方があります。その当時は、養護学校が世
界的に広がっていくわけですが、制約のある環境、特に施設など大きな入所施設の中に作られた養護
学校でした。つまり、一般の子どもたちから隔離されている、切り離されている、それが制約のある
環境といいます。障害のない子とも触れ合いながら、その中でお互いに刺激をし合って、子どもが成
長していく、そういうものを目指そう、というのが、最小制約環境です。これまで、障害のある子だ
けを集めて、障害種別に教育を行っていたときには、既定の教育課程・カリキュラム・指導法でやる
ことができました。そうではなくて、一般の子どもたちと一緒にやっていくということになると、よ
り一層きめ細やかな指導計画が必要になってくる、それで、個別の指導計画(IEP)を作りなさい、と
いうことになるわけです。もちろん、一般の子どもたちといつも一緒にいるというわけではなく、必
要に応じて、個別に指導があったり、小集団の指導があったり、そういうものも含めて、子どものア
セスメント・指導法・評価、それが、一人一人について作られている、それが IEP です。みんなと一
緒にやっていくために IEP が必要だということでスタートするわけです。それが、世界的にも広がっ
てきて、イギリスの報告でも、special educational needs (SEN)という、特別な教育的必要性とい
う考え方が出てきます。それに基づいて指導していこうと、それが日本語になった時に、特別支援教
育という言葉になるわけです。
また、たくさんいる先生の中から「あなたやってください」ということで特別支援教育コーディネ
ーターを指名するということが始まり、全国どこでもコーディネーターの方がいらっしゃいます。し
かし小学校や中学校のコーディネーターの方に「私もよく分かりません」と言う方がまだいらっしゃ
るのが困ります。指名というのは、たくさんいる先生の中から「あなたお願い」という制度ではある
が、専任の先生を置くところもでてきました。それは学校の裁量の中でやっているところもあるし、
横浜市では、今年度4月からこのコーディネーターを不登校なども担当する専任として配置するよう
になりました。300もの小学校があり、毎年100人ずつ増やしていくということでやり始めまし
た。このコーディネーターを置くということが最初に出てくるのがイギリスの報告です。
その後、インクルージョンというものに向けて、世界が動いていくわけです。北欧でスタートした
ノーマライゼーションという考え方が世界的に出てくる、言葉としては、このサラマンカ声明、これ
もユネスコとユニセフが一緒になってやった会議の中で、
インクルージョンという言葉が出てきます。
このような世界的な流れがあり、新アジア太平洋障害者の10年というのも、日本政府がかなり力
を入れてやっていて、2002年には、大阪で最終年フォーラムというのをやりました。
そして、そういった国連の流れの中で、国際生活機能分類 ICF という考え方が出てきます。その前
にあった1980年の ICIDH の改訂版としてこの ICF が出て
きました。障害というもののとらえかたを変えていこうとい
うことです。かつては障害のとらえ方は、心身機能や構造、
その人固有の構造、どういう病気があり、だから足が動かな
い、手が動かせない、脳に微細な障害があって言葉がうまく
しゃべれない、など、その人の持っている機能や構造からく
る障害ということでした。障害を考える時には、まずそこに
目がいくかもしれません。時代的にも昔からそうで、医者が
手術や治療で治そうとするわけです。その障害そのものを治
療する、あるいは歩けないということに対してリハビリテーションをして歩けるようにしていく、手
を動かせるようにしていく、言葉をしゃべれるようにしていく、知的障害の場合も文字を読めるよう
にする、一生懸命に訓練や教育をする。その人の持っている障害そのものをなんとか改善していこう
としました。もちろん、それはとても大事なことですが、それだけでは、その障害のある人が、社会
に参加するということができません。確かに、養護学校できめ細やかな指導をいただいても、なかな
か就労に結びつかない、一生施設の中で過ごすということが、かつてはありました。それをなくすに
はどうしたらいいか、その人の尻をたたいて汗水流して歩く練習をする、それだけでは、その人がや
がて社会に参加して、充実した人生を送るということにはなかなか結びつかない、それをよりよくし
ていくにはどうしたらよいかを考えることが、
「社会が変わる」ということです。周りが変わる必要が
あるということを国連が言い始めました。ただ、周りが変わればいいというものではありません。受
け入れ状況や物理的なこともありますが、大事なのは、その受け入れの気持ち、障害のある人・障害
ということに対する理解、あるいは受け入れて一緒にやっていこうという気持ち、そういうものが育
って周りが変わらないと、社会が変わるという具合にはならない。
また、障害のある人にとっても、周りのいろんな活動に参加したり、その地域のお祭りに参加した
りすることによって、地域の人と触れ合うことの楽しさが分かるわけです。だから、
「自分はもうちょ
っとこういうことができるようになろう」と思うようになります。私の弟が養護学校に行っている頃
には、日常生活の指導で、洋服を着替える・靴をはく・ボタンをはめる、その練習を先生がしてくだ
さいました。ボタンがはめられたら「よくできました、じゃあはずしてみましょう」
「よくはけたね、
じゃ脱いでみましょう」何のために靴をはいたのか、何のためにボタンをはめたのか分かりません。
外へ行って友達と遊ぶために靴をはくわけです。いろんな活動に参加するために服を着替えたり、靴
をはいたり、身だしなみを整えたり、そういう周りとの関係の中で、ボタンをはめられるようになろ
う、靴をはけるようになろう、洋服に気を付けよう、そういう力が伸びていくわけです。
「その人が
どういう活動を行うのか、どういう社会的なものに参加していくのかによって、本来のその人の固有
の障害というものも変わっていきますよ」、ということです。周りが変わるから受け入れられるとい
うことではなく、活動に参加することで、その人自身も意欲をもって、今度はこういうことができる
ようになろうという気持ちで教育や訓練にのぞむようになっていくわけです。要するに、周りとの相
互作用の中で、その人の成長もあるという考え方です。
そのような流れの中で、アメリカの LRE、あるいはノーマライゼーション、インクルージョンとい
う考えが出てきます。周りも変わる、周りが変わるには、小さい頃から障害のある人もない人も共に
暮らしていく、共に学んでいく、ということが求められます。
○国連の動き
そのような中で、国連の障害者の権利に関する条約という
国連・障害者の権利に関する条約
ものが出てきました。2006 年の 12 月、国連総会で満場一致
2006.12.13
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で可決されました。もちろん、日本政府も賛成しています。
一番上に、Nothing about us without us
とあります。
us は障害のある人で、
「私たちに関わることは私たち抜きに
話をしないでくれ」ということです。私たちも参加をして話
し合いをして決めましょう、という考え方です。当事者参加
Nothing about us without us
固有の尊厳、個人の自律及び人の自立に対する尊重
社会への完全かつ効果的な参加及びインクルージョン
合理的配慮
障害のある子どもの発達しつつある能力の尊重、及び
障害のある子どもがそのアイデンティティを保持する
権利の尊重
5
ということです。国連では、何年かかけてこの議論をして、
総会に出されて採択されましたが、その過程で、障害のある
障害者権利条約
国連・2006.12.13
人たちが、話し合いにも参加をしています。日本からも車椅
○障害のある子どもについて、全ての教育段階においてインクルーシブな教
育制度を確保すること。
<第24条第1項>
○必要な「合理的配慮」が講じられること。
<第24条第2項(c)>
○「一般の教育制度」の中で必要な支援を受けること。
<第24条第2項(d)>
○完全なインクルージョンという目標を考慮しつつ、学力面の発達及び社会
性の発達を最大にする環境において、効果的で個別化された支援措置が
提供されること。
<第24条第2項(d)>
子の人や視覚障害の人、知的障害の人も参加しました。国連
の議論の中にも障害者当事者が関わってきています。
○今、日本国内で検討されていること
だから今、日本でも障がい者制度改革推進本部というのが
できて、その推進会議が召集され、今年の1月から十数回の
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会合をやってきています。24人の委員の中で15人が障害当事者あるいはその家族などです。要す
るに、日本でも障害当事者が参加して、この制度改革について進められています。そのそもそもは
Nothing about us without us という考え方、そこから来ています。社会への完全かつ効果的な参加
およびインクルージョンなどが、そこに述べられています。社会に参加するには合理的配慮が必要だ
ということ、特に、子どもの教育についても述べられており、
「障害のある子どもの発達しつつある能
力の尊重、およびそのアイデンティティを保持する権利の尊重」ということで、障害のある子どもの
発達やアイデンティティということについても触れられています。
そういうところから、日本の訳文でも「障害のある子どもについて、全ての教育段階において、イ
ンクルーシブな教育制度を確保する」ということが述べられています。それに続いて、
「必要な合理的
配慮が講じられること」というのが述べられています。合理的配慮というのは、この権利条約全体の
中で常に言われています。次に、一般の教育制度の中で必要な支援を受けること ジェネラル・エデ
ュケーションシステム(一般の教育制度)これをどういうふうに解釈するかということで、今、推進会
議と中教審の委員会との間にギャップがあるとも言われています。つまり一般の教育制度の中で、特
別支援教育がインクルーシブな設定であるかどうか、ということです。このあたりは、微妙な問題で
すが、特別支援教育は学校教育法の中に述べられていたり、教育基本法の改正などもされたりしてい
る、障害に応じた指導をするということが入っている、インクルーシブな教育制度と言った時に、日
本では特別支援教育もそこに含まれるという立場をとるわけです。
それを、日本的なインクルーシブ教育という言葉を使ったりするのは、私としては、
「日本的な」
というのが世界と違うと言ってしまっているわけだから、それはおかしいのではないかと思います。
「日本的な」と付けなくても、ジェネラル・エデュケーションの中に、この子どもたちの教育という
のも入っている、それはどこかで切れ目があるものではない、ないからインクルーシブなのです。障
害のある子は、こちら(特別支援学校)へ来たら交流学習もありませんよというのなら、インクルー
シブと言えないかもしれないが、少なくとも大きな教育制度の中で、それぞれの子どもに応じて、い
ろいろな場面が用意されている。交流学習で一緒に学ぶこともあるでしょう、1人でやる時もあるか
もしれない、小集団でやるときもある、まさにその大きな教育という枠組みの中で、それぞれの子ど
もに応じた教育的な支援がなされる、それがそのままインクルーシブだと言っていいだろう、と私は
思います。変に日本的なインクルーシブ教育と言うものだから、世界の流れとは違う、と言われる。
確かに違う部分もあり、改めていかなければならない部分もある。それは、学校教育法施行令5条
に「障害のある子どもには、市町村の教育委員会は就学通知を出さなくてもよい。施行令の22条3
にあてはまる子ども以外に就学通知を出す」という規定になっています。これはおそらく、権利条約
を批准するときにはネックになるでしょう。それは数年前から指摘されていて、文科省でも、そこは
改正せざるをえないだろうと言っています。しかしまだ表立ってはいません。その中教審の特別委員
会の中でも、就学をめぐってはいろいろな議論がされているところです。全日本手をつなぐ育成会の
全国大会が先日あり、
障害者協議会事務局長の尾上さんが、
その推進会議の様子をお話しされていて、
例えば、
「東大阪市は全ての子どもに就学通知が送られる、その次に、通常学級なのか特別支援学級な
のか特別支援学校なのかということの教育相談を受け付ける、希望のある方は来てください、という
形で、今年から進めている」という話がありました。障害があるなしで、最初に分けてしまうという
ことは、この権利条約にも矛盾してきますし、日本的インクルーシブ教育と言っても通じないかもし
れません。そこのところは変わっていくでしょう。だからといってそれが、特別支援学校がなくなる
とか特別支援教育がなくなるという話ではないわけです。まさに、当事者が参加して決めていくとい
うことになるわけです。
そのためにも個別の教育支援計画というのが必要になってくる。これはアメリカの LRE と同じで、
世界はそうなっています。
○日本の障害児教育
・日本の障害児教育のはじまり
日本も、京都で最初の独立した校舎の支援学校ができる1
日本の障害児教育の始まり
878年、それが日本の特別支援教育のルーツです。その後
学制(1872・明治5年)・・廃人学校アルベシ
京都盲唖院(1878)・・・日本の特殊教育の始まり
楽善会訓盲院(1880)・・初の教科書(ヘボン博士)
松本尋常小学校「落第生学級」(1890)
は、視覚障害の人と、聖書のアルファベットを日本語訳に標
•
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記して、それを手で触って分かる凸字本というのを作り、そ
• 滝乃川学園の設立(1891)
すぐに横浜にもできます。明治学院大学を創ったヘボンさん
・・・最初の特殊学級
・・・石井亮一、最初の入所施設
れが、横浜で開校された盲学校で使われたのが、日本の特別
支援教育で使われた最初の教科書だそうです。そこにヘボン
7
さんも参加し、ヘボン式ローマ字が使われました。
松本尋常小学校落第生学級は、日本で最初の特殊学級です。聞こえは悪いですが、その当時、その
学校で一番優秀な先生をその担任に付けました。長野は教育に非常に力を入れていて、山国で地域振
興のためには教育が必要だとして教育に力を入れたことで就学率が高くなりました。高くなるといろ
いろな子どもが来て、その中で勉強についていけない子が出てきて、それをなんとかしようというこ
とで、この特殊学級が始まるわけです。ところが、何年か後に、その学級に通うと周りから馬鹿にさ
れる、いじめられる、親戚に顔向けできないということで、その学級に入る子どもがいなくなり、閉
鎖されるということがあったそうです。
勉強についていけない子をなんとかしようという先生た
特殊教育の整備(1)
ちの思いは、今も同じですね。しかし、そういうところに
• 日本国憲法(1946)
第26条(教育を受ける権利・教育を受けさせる義務)
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、
ひとしく教育を受ける権利を有する。
②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に
普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
通うといじめられる、世間の目が気になるという親御さん
の気持ち、それも今も変わりません。まだまだ、社会的に
• 教育基本法(2006.12改正)
第4条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を
与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位
又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、
十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならな
い。
受け入れられてはいない部分があります。
後で副籍(居住地
校交流)についてもお話しますが、
親御さんが希望すれば居
住地の学校にも副次的に籍を設けることができるという制
8
度で、国でも検討し始めました。希望しない親御さんもい
らっしゃる、それは、兄弟が地元の学校に入るから、健常
特殊教育の整備(2)
な兄弟の通っている地元の小中学校に養護学校に通ってい
• 学校教育法(1947) →改正法施行2007.4.1
る兄弟が時々やってくるということで、いじめられる、だ
第1条(学校の定義)・・小学校、中学校、高等学校、中等教
育学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校
及び幼稚園 →特別支援学校
第72条(特別支援学校の目的)
特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、
肢体不自由者又は病弱者 に対して、幼稚園、小学校、中
学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害によ
る学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要
な知識技能を授けることを目的とする。
第75条
第72条の視覚障害者・・・の障害の程度は、政令で定める。
から上の子が卒業するまでは交流をさせないでくれ、と言
う親御さんも少なくないというのは残念なことです。私自
身も、50年前に弟が自分の小学校に入ってこなくてほっ
としました。でも、今でもそのような気持ちを持たせる社
9
会があるわけです。
・教育基本法、学校教育法の改正
教育基本法が改正され「障害のある者がその障害の状態
に応じて十分な教育を受けられるよう教育上必要な支援を
特殊教育の整備(3)
• 学校教育法施行令
第22条の3(視覚障害者等の心身の故障の程度)
・・・障害の種類と程度に応じた教育の場
→就学指導・就学相談、適正就学指導の基準
講じなければならない」という、「障害」というのが新たに
加えられました。
• 養護学校教育義務制実施1979(昭和54)年
学校教育法施行令22条3では、文言も変わり、それに
基づいて、就学指導、就学相談あるいは適正就学指導もさ
10
れるが、それについても随分柔軟な対応がされるようになりました。保護者の意向を尊重するという
言葉が加えられる、保護者が希望を述べるような機会をもうけなければならないと、随分柔軟性が求
められるようになりました。
・認定就学
また、認定就学者という制度も入ってきています。しかし、「例外として通常の学校に通える」で
はなく、
「希望した場合に特別な場を選べる」という形になっていくことが、これからのインクルーシ
ブな教育環境だろうと思います。
・個別の教育支援計画、個別の指導計画
障害者施策の基礎構造改革
日本の障害者政策、ノーマライゼーションも大きく変わ
ってきています。20世紀後半から21世紀に入る中で、
日本も世界の動きを受け止め、施策を変えてきています。
自立と社会参加が目指されるようになり、新障害者基本計
画の中で、個別の支援計画を作りましょうと書いてありま
障害者基本法(1993、H5)・・・障害者の自立と社会参加
障害者プラン(1995∼2002)−ノーマライゼーション7か年戦略−
新・障害者基本計画(2002.12)・・個別の支援計画
支援費制度の導入(2003.4∼)・・措置から契約へ
→自己選択、自己決定、自己責任、自己負担
• 障害者基本法の改正(2004.6)・・交流及び共同学習
• 発達障害者支援法(2005.4)附帯決議・・・・ともに育ち学ぶことを基本
• 障害者自立支援法(2006.4)
•
•
•
•
す。これが、学校では個別の教育支援計画になってくるわ
⇒ノーマライゼーション・インクルージョン
けです。今度の学習指導要領の改訂で、
「個別の教育支援計
11
画を作成する」ということが入りました。今までは個別の
教育の基礎構造改革
・・・特殊教育から特別支援教育へ
指導計画でよかったのが、
「長い期間を見通した、しかも
様々な機関と連携して支援の計画をつくる」
ということが、
特別支援学校学習指導要領総則の中に入れられました。
•
21世紀の特殊教育の在り方(2001.1)
今後の特別支援教育の在り方 (2003.3)
特別支援教育を推進するための制度の在り方について
(中教審特別支援教育特別委員会 2004.2∼2005.12)
学校教育法施行規則の一部改正(2006.4.1)
通級指導の対象(第73条の21 )・・・自閉症、学習障害、注意欠陥多動性障害
学校教育法の一部改正(2006.615成立、2007.4.1施行)
欠陥を補う→障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために
特別支援学校、特別支援学級、通常の学級での特別支援
附帯決議・・・インクルージョン
中教審答申「今後の教員養成」(2006.7.11)
LD、ADHD、高機能自閉症等への適切な支援
学習指導要領の改訂(2009.3)・・・個別の教育支援計画、センター的機能
⇒
ノーマライゼーション・インクルージョン
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それよりも前に、障害者基本計画の中で「個別の支援計
画を作りなさい」というのが出てきていました。障害者基
本法が改正されて「交流および共同学習」という言葉がそ
こで出てきました。これも、学習指導要領総則の中で、特
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別支援学校においても小学校中学校においても「交流およ
び共同学習」というのが文言として位置づけられていますが、障害者基本法の中で、すでに「交流お
よび共同学習」が述べられていたわけです。発達障害者支援法の中でも附帯決議で「共に育ち学ぶこ
とを基本とする」ということが入っています。
先ほど述べた国際的な流れで、権利条約の中でインクルージョン・インクルーシブ教育などが振っ
て沸いたような受け取られ方があり、障がい者制度改革推進会議の中でも、突然、
「通常の学校に在籍
することを原則とする」ということが出てきたように思われますが、決して突然出てきたわけではあ
りません。日本の障害者施策全体の中では、こんなふうにして受け止めてきています。
・自立支援法
自立支援法については、是非の論があり、自民党政権の時から、改訂するという話がありました。
例えば、手をつなぐ育成会などではそのような要望を出して、応益負担なのか応能負担なのか、とい
う話が随分ありました。ほとんど応能負担(払える部分について払うということ)で、しかも減免の
措置が入ってきました。改善された自立支援法の改正のための手続きが進んでいたのですが、政権交
代で、これがなくなってしまいました。
(*平成 22 年 12 月、改正自立支援法の一部が成立しました。
)
・特別支援学校のセンター的機能
世界が変わり、日本の障害者施策が変わり、そして、教育の制度もずいぶん変わってきました。
学校教育法が改正された時にも、2006年に附帯決議として「インクルージョンをめざす」という
ことがすでに入っています。そして、学習指導要領が改訂され「個別の教育支援計画」と「センター
的機能」ということが盛り込まれています。
文部科学省が出している特別支援教育の対象の概念図に
よると、子どもの数は全体的に減っていて、義務教育段階の
児童生徒数は、1079万人。その中で、特別支援教育を受
けている子どもが23万人います。約2.13%。一時期1%
を切る時がありました。いわゆる特別支援教育離れ、先ほど
述べたような特殊学校には行かせたくないという親御さんも
多くいました。しかし、今や、率として倍以上になりました。
また、2.13%に入らない部分の中にも、学習上あるいは
生活上の課題をもった子どもたちが、
通常の学級の中にも6.
3%在籍しているということが、国立特別支援教育総合研究
所の調査で分かり、一定のショックを与えました。そのよう
なことを受けて、学校教育法の中で、通常の小中学校につい
ても、
特別支援教育をするということになってくるわけです。
日本の学校教育制度の中で、通常学級でも特別支援教育をしますよ、というように境がない(ここか
らこっちが特別支援ですよという考え方はなくなり)
、連続帯であるということになりました。
・副籍制度
小中学校、高校、幼稚園にも特別支援コーディネーターがいますが、東京都では、パートナーシッ
プといって、連携していこうというものがあります。東京都では、それを制度として、地域指定校(副
籍を置く学校)をおく「副籍制度」を4,5年前に始めました。特別支援学校に在籍しているお子さん
が希望すれば地域の学校に副次的な籍を持てる、という制度です。全国でやっている「居住地校交流」
を制度化したもの、少しグレードアップしたものと考えてください。かつては学校間交流だけだった
のを、学校間交流だけでは近所に知り合いがいないという状況があるため、住んでいる地域の人と交
流をしましょう、というのが「居住地校交流」で、それを更に進めて、地域の学校に副次的な籍を持
てる、座席表や名簿に名前が載っている、また入学式や卒業式に参加をする、学校によっては始業式
にも出たりしている。つまり、籍があることによって、
「よそのお客さんが遊びに来た」ではなくて、
本来この学校にいるはずの子が今日はこっちに来て勉強をしている、ということ。これも理念的な部
分が多いが、自分たちの仲間としてお互いに触れ合うということが大事だろうと思います。東京都で
は副籍、埼玉県では支援籍、と言っています。埼玉県の支援籍をつくる時には、私もそこの副座長を
やっていました。横浜では副学籍と言います。このようなことを全国に広めていこうと文部科学省も
考えています。ただ、居住地の学校へ行くのは、多い子でも週に1回、少ない子で年に2,3回(行事
などで)程度です。東京などでは、間接交流といってお便りの交換などもその中に含めています。もっ
と進めていただきたいところです。これについて、それぞれの学校の教育課程の中に位置づけるとい
うことはもちろんですが、実際の問題として、通学の問題があります。どこの制度でも、保護者が引
率するとなっています。本来は、特別支援学校の先生がそこへ一緒に行くべきところです。でも、そ
れができないから保護者引率となっています。実際には、福祉のいろいろなシステムを使って、ヘル
パーさんが登校を手伝ったりするということがあります。埼玉は、初めから福祉の制度を活用すると
なっています。登下校については、若干まだ問題があります。しかし、副次的な籍をもつという形で、
自分たちの仲間だと意識しながら交流することが進められています。
・支援の横の広がり・縦のつながりのための情報の共有
いずれにしても、柔軟な行き来・教育の場の選択を可能にするには、この個別の指導計画や個別の
支援計画が必要だということで、だんだん出てきたわけです。先に述べたように、アメリカでは全障
害児教育法の中で「最も制約の少ない環境で教育をするために、よりきめ細かな個人個人のプログラ
ムが必要になる」ということで登場するわけです。日本で
も、きめ細かなというのはもちろんのこと、
「移行支援」と
いう言葉もありますが、進学する・学年が変わる・転校す
るというような場合にも、その支援が継続されていくこと
が必要ですね。そのための支援の横の広がりと縦のつなが
りのためのツールが個別の教育支援計画ということです。
個別の指導計画というのは、その教室の中でのきめ細かな
指導ということが中心になりますが、個別の教育支援計画
というのは、
「長期的な視点で一貫した教育的支援・関係機
個別の指導計画⇔個別の教育支援計画
• IEP・・米国・全障害児教育法1975、LRE
• 個別の指導計画・・具体的なニーズに対応して、指導目標や内容・方
法を盛り込んだ指導計画
(学習指導要領で義務付けられている)
• 個別の支援計画・・障害者基本計画(2002年)
• 個別の教育支援計画・・長期的視点、一貫した教育的支援、関係機
関との連携(学習指導要領2009.3)
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生活地図・支援マップの作成(ICF)・・・支援する人・機関・環境
就学支援計画・・・就学支援シート、早期から就学に向けて
個別移行支援計画(ITP)・・・就労に向けて
サポートブック・・・保護者との連携
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関との連携」というのが、今回の学習指導要領の総則に盛り込まれたことです。これを是非、お子さ
ん方一人一人について作っていっていただきたいと思います。これは、アメリカで導入された時には
大変だという話がありました。日本でもそういう受け取られ方もありました。でも、何年かやってみ
ると、継続していくものなので、先生の頭の中だけや指導要録だけで申し送りされていくものではな
い、より豊富な情報が受け継がれていくわけです。もっと大切なのは、そこに保護者が参加するとい
うこと、これもまだ十分に行われてはいません。アメリカでもそうでした。IEP ミーティングに学校
の先生や医師や心理学者と一緒に保護者も参加して最後にサインをする、となっている。しかし、保
護者は参加せずに最後にサインだけするということもあったようです。今は、ずいぶん変わり、保護
者もそこに参加し一緒に作っていく。日本の個別の指導計画も教育支援計画もそうで、保護者の願い
を書く欄があり、また、本人も参加して計画を作っていく、そのとおりだと思います。
就学支援についても、6歳の春の決戦というのがよくない、突然そこだけで決めようとするから、
なかなか保護者と教育委員会が理解し合えないのです。今、就学支援計画ということが各地で取り組
まれています。東京都でも、就学支援ノートや就学支援ファイルということでやっています。早い時
期から就学に向けてやっていこうということです。今、5歳時健診というのが広がっていて、鳥取大
学の小枝達也教授は、
「就学時健診でもなく1歳半や3歳児健診でもない、ちょうど発達上学習上いろ
いろな問題の出てくる5歳児くらいに、
もう1つ一斉の健診をいれましょう」
とおっしゃっています。
要するに、1歳半や3歳では障害が判断されず、言葉が遅いとか言われながらも、親御さんとしては
もう少し経てばなんとかなるだろうと思う。しかしその
後、就学時健診・入学相談で、
「お子さんはこういう遅れ
があるから、こっちの学級・学校ですよ」と言われて、
すぐには納得できない、というのが親御さんの心情とし
てあるわけです。だから、もっと早くからお子さんにつ
いての情報をお互いに共有していきましょう、というこ
とです。これも当然のことです。一度決めたら、それが
そのままということではなく、その後も、教育の場を変
えるということも含め考えていく、ということ。いずれ
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にしても、それが、個別の教育支援教育の中で進められ
ていく。小さい時の記録がある、保育園や病院に通っていた時の記録がある、学校へ行きながらもい
ろいろな支援を受けている、など情報を共有されるということが大事だろうと思います。
サポートブックもいろいろなところで、親御さんが作っています。多くは親御さんの組織で、県の
予算をもらったりしてやっています。その中に、子どもさんの小さい頃からのいろいろな記録が載っ
ています。母子手帳の拡大版のようなもので、そこにどのような医療的な支援・教育的な支援があっ
たのかが書いてあります。そもそもなぜ作り始めたかというと、いろいろな相談や進学する度に、産
まれた時の体重はどうだったか異常はなかったか、ということを何度も聞かれるのは嫌だということ
で、1つまとめてあれば、ということで、親御さんの発想として始まりました。行政が作っていると
ころもあります。厚労省が制度化する準備を進めています。
○これからの特別支援教育に期待するもの
このように、一貫した支援や様々な機関との連携、そしてそれが縦につながっていくということが、
いろいろな場面で可能になりつつあります。子どもたちは、いろいろなところで地域の人たちとつな
がっている、それを踏まえて、学校での教育的支援を作っ
ていきましょう、ということです。
「一人一人にきめ細か
保護者との連携
く」そして「地域とのつながり・人と人との結びつきとい
うのを重視していこう」これは、私が話してきた根幹をな
すものです。それは、南越養護学校の米澤先生の実践報告
にも出てきた2本の柱、そのものです。
親御さんと共に歩む姿勢ということについて、大切なの
は、課題を明確にしていくことです。そのお子さんにとっ
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当事者性の尊重・・・国連・障害者の権利条約
自己選択・自己決定の尊重
共感的理解・・・・保護者の心情を理解する
共に歩む姿勢・課題の明確化
エンパワメント・・・ 当事者の自立する力を支え、高める。
PTA、親の会(育成会など)
兄弟支援について
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て今何が必要なのか、そして、将来具体的にどのような成
長や生活を願うのか、それを学校の先生と保護者が共有し
障がい者制度改革推進会議
て、その中でどのような課題を設定していくのか、その下
で個別の教育支援計画を作っていくわけです。
エンパワメント(当事者の自立する力を支え、高める)と
いうのも盛んに言われています。家族も含め当事者の力で
す。昨日のPTAの分科会でも活発な意見が出ていて、悩
• 障がい者制度改革推進本部
• 障がい者制度改革推進会議
平成21年12月∼
•
平成22年1月∼
第1次意見→本部→閣議決定(平成22年6月29日)
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「障害者総合福祉法」(仮称)
「障害を理由とする差別の禁止法」(仮称)
• 中央教育審議会初等中等教育分科会・特別支援教
育の在り方に関する特別委員会」(特特委員会) 7
月20日∼
みはいろいろありますが、その中で親御さん同士が手をつ
ないでいく、そして学校の先生や地域の人などいろんな
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方々と連携していくということは、子どもにとって本当に
障がい者制度改革推進会議
必要なことです。育成会の会員が減ってきていますので、
是非御参加いただきたいと思います。その会の中でも障害
種別でいろいろな問題があるので、連携していかなければ
ならないところです。
兄弟支援については、こちらの学校でも兄弟の会をやっ
ていらっしゃるということで、すばらしいと思います。私
が30年位前にアメリカへ行ったときに、アメリカではそ
(2010年1月∼)
・ 障害の有無にかかわらず、すべての子どもは
地域の小・中学校に就学し、かつ通常の学級
に在籍することを原則とし、本人・保護者が望
む場合のほか、ろう者、難聴者又は盲ろう者
にとって最も適切な言語やコミュニケーション
の環境を必要とする場合には、特別支援学
校に就学し、又は特別支援学級に在籍するこ
とができる制度へと改める。
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ういうプログラムをやっているのを聞いて感動しました。
日本でもずいぶん兄弟支援が行われるようになってきました。兄弟も含めて家族支援、家族の機能を
高めていく、それによってお子さんの社会参加も可能になっていく、そういうことを学校が支援して
いるということが、とても大事なことだと思います。
どういうふうになっていくか見えないところもありますが、インクルーシブ教育システム構築の理
念を踏まえ、体制面・財政面も含めた教育制度の在り方について、今検討しています。閣議決定され、
「今年度内に、基本的方向性について結論を得るべく検討を行う」ということで、忙しい話です。そ
ういった制度改革について、内閣府のホームページに載
っているので、是非御覧ください。そこに、医療・労働
などいろいろな側面の中に、教育があり、
「障害のある子
どもが障害のない子どもと共に教育を受けるインクルー
シブ教育システムの構築」と書いてあります。
その教育制
度の在り方について「22年度内に」結論を出すとあり
ます。
このように、推進会議で議論されていますが、学校か
らあるいは親御さんから、こういう教育、こういう学校
障がい者制度改革推進本部
(閣議決定2010年6月29日)
• (2)教育
• ○ 障害のある子どもが障害のない子どもと共に教育を受け
るという障害者権利条約のインクルーシブ教育システム構築
の理念を踏まえ、体制面、財政面も含めた教育制度の在り
方について、平成22 年度内に障害者基本法の改正にもか
かわる制度改革の基本的方向性についての結論を得るべく
検討を行う。
• ○ 手話・点字等による教育、発達障害、知的障害等の子ど
もの特性に応じた教育を実現するため、手話に通じたろう者
を含む教員や点字に通じた視覚障害者を含む教員等の確
保や、教員の専門性向上のための具体的方策の検討の在
り方について、平成24 年内を目途にその基本的方向性につ
いての結論を得る。
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を実現してほしいということを、発信してほしいと思います。全特連機関紙の11月号にも、私が書
きました。学校はどうあるべきか、子どもたちの生活はどうあるべきなのかを、学校や親御さんが一
緒になって声を出していくということが、今ほど必要な時はないだろうと思います。
先生方のますますの研鑽、親御さんの御努力を期待して、私の話を終わりにさせていただきます。
長時間お付き合いいただきありがとうござました。これからも先生方、親御さん方といろいろな形で
情報交換をしながら、これからどうあるべきかを一緒に考えていきたいと思います。
御清聴ありがとうございました。