1 文化のアイデンティティを根幹とするナショナリズム ナショナリズム

文化のアイデンティティを根幹とするナショナリズム
ナショナリズム→自己の属する民族ならびに国家の統一と独立、自由と繁栄を促進する 思想と運動を意味する
ナショナリズム→「国民主義」、「国家主義」あるいは「民族主義」と多義的に理解さ れているように、現実に意味するところは、時代、場所によって異なる。
ナショナリズムという言葉→「国民」、「民族」、「国家」を意味するネーションという言
葉から派生している。ネーションは「生まれる」という意味のラテン語に由来する言葉
である。西欧近代におけるネーションは、生まれたところ、すなわち郷土を基礎にもっ
ているが、多分に政治的な意味を含んでいる。
誰でも生まれたところに誰でも愛着をもつ←このような感情は郷土愛(Heimatliebe)と か、愛郷心(patriotism)と呼ばれる←こうした感情は、人間にとって普遍的なもので、 時代、場所を問わず存在するのである
自分が生まれたところ、自分が子供の時から見知っている人が属する範囲←土着的なも のである←その範囲の大きさによって部族、種族、あるいは民族と呼ぶ
※最近学界で使われる言葉にエスニシティーethnicity(ethnic group)がある←これは 言語、宗教、文化、風習、あるいは血縁などの面で同じものの集団を意味する
国とエスニシティーは同一ではない←一国のなかで多様なエスニシティーがあるのは当 然である
例えば、中国では、漢族のほかに満州族、チベット族、ウィグル族などのエスニシティ ーがある
旧ソ連→アルメニア、グルジア、ウズベクなど100近いエスニシティーがあった
単一民族(homogeneous)と言われる日本→大和民族、アイヌ民族、朝鮮民族、沖縄民 族が存在する
ネーションと自己を一体化して、その国家としての独立、統一、発展に最上の価値を置 く考えや運動をナショナリズムと呼ぶ
幾つかの国家に分裂していたものを一つの国家に統合したいとか、ある国家を外国の抑 圧から解放したいとか、国家の経済力を向上させたい、オリンピックでのメダル獲得数 を増やしたいとかいう意識は、総てナショナリズムである
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民族をエスニシティと訳すとして、民族の定義は実にさまざまである→どの尺度を取っ ても例外が多く、民族の定義は甚だ複雑である
ナショナリズムの歴史
ナショナリズムの観念→西ヨーロッパに発生し、それがアジア・アフリカに普及してい
った
ナショナリズムが発生したのはフランス革命においてである。
※フランス革命以前はフランスという国家の枠組みは存在していたが、そこに住んでい る人々は、フランス人という認識を持たなかったのである。革命以前のフランスは、 第一身分、第二身分、第三身分に上下に分かれていたのだが、革命によって住民の大 多数であった第三身分が権力を掌握し、軍隊も国民軍が生まれる←ここにおいて、国 家は国民と合体したのである→教育やフランス語の統一が行われ、国民意識の目覚め があった。外国の干渉戦争やナポレオン戦争を通じてナショナリズムが高揚していく ナショナリズムにもいろいろな形態があり、イギリスでは最初に政治的な枠組みが出来
上がり、ネーションを構成してきた→イングランド人、スコットランド人は習慣・言語
は違うのであるが、政治的に統合されてひとつのネーションを構成してきた
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これに対して、ドイツ、イタリアは言語・習慣を基礎にして民族が形成されてきた。ド イツ、イタリアは政治的に長いこと分裂状態にあり、たとえばドイツはバイエルンとか ブランデンブルク、プロイセンといった領邦に分かれていたが、そのなかで経済的に強 大であったプロイセンがヴィルヘルム1世(在位1861~88)の時代にビスマルク (在任1862ー90)を登用し、領邦国家同士の話し合い、つまり民主主義的な国家 統一を断念し、“鉄”(武力)と“血”(兵士)による統一を推進した→1866年に普墺
戦争を起こして勝利を収めて翌1967年に北ドイツ連邦を成立させた
同様にイタリアでもナポリ王国、サルディニア王国などの諸国に分裂していたが、サル ディニアのヴィクトルーエマヌエル2世が統一運動を起こし、オーストリアと1859 年に戦争を行い、1861年にイタリア王国を成立させている→非常に排外的な色彩の 強い自民族の優越性を唱えるナショナリズムとなり、そのまま対外進出政策、すなわち 帝国主義のイデオロギーとなっていった←ドイツ、イタリアは国家の統一が遅れたため に政府による強引な方法で富国強兵策が図られた→例えば、ビスマルクは1870年に 普仏戦争を起こし、鉄と石炭の豊富なアルザス・ロレーヌ地方をフランスから奪い、ド イツ資本主義の発展に役立てた。このように自国のためには他国を犠牲にするというナ ショナリズムは国家主義とかウルトラ・ナショナリズムと呼ばれる←戦前の日本の大東 亜共栄圏などの発想はこのウルトラ・ナショナリズムの考えである
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こうしたナショナリズムに対して、東ヨーロッパでは、言語・文化・民族性の同化がな かなか行われえなかった。諸民族のモザイク社会であった。地域的にも社会的にもそう 2
である。第一次世界大戦が、ロシアを中心とするスラヴ系諸民族の統一運動であるパン =スラヴ主義とドイツ、オーストリアを中心とするゲルマン系民族の統一運動であるパ ン=ゲルマン主義の対立であったように非常にさまざまな民族がさまざまな地域に居住 していた。また、社会階級によっても違った言葉を話し、商人、高利貸などに従事する ものの多くはドイツ人、ユダヤ人であった。さらに東欧の特色として外国人都市の発達 が上げられ、ポーランドにはドイツ人都市であるダンチヒが、ユーゴスラヴィアにはイ タリア人のフィウメが港湾都市として発展した。これらの都市は周囲とは遊離した形で 機能していたのである。
東ヨーロッパ→オスマン・トルコ帝国、ロシア帝国、ハプスブルク帝国が代わる代わる 支配したが、19世紀に諸民族のナショナリズムが起こった→第一次大戦が終了する
と、ヴェルサイユ体制によって、これら3帝国からポーランド、ユーゴスラヴィア、
チェコスロバキア、ハンガリーなどの東欧諸国が独立した→国境を設けても国内に異
民族を抱えたり、国境の外に同一民族を残したりした←これがヒトラーによる第二次
大戦開戦の口実になった→ヒトラーはヴェルサイユ体制の打倒を外交上のスローガン
にし、1938年9月のミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を併合
したり、ポーランドに対してヴェルサイユ体制で国連管理下の自由市とされたダンチ
ヒとポーランド回廊(西プロイセンとポーゼン地方北方)の返還を要求したりした←
1939年9月1日にポーランドに対してこれらの要求を掲げて侵攻を開始した→こ
のように東ヨーロッパは民族の構成が複雑であり、ドイツ住民の多い地方の返還を要
求してドイツは第二次大戦の口実をつくった
民族自決主義→民族自決主義とは他民族の干渉を排除し、民族の独立と自由を主張する主 義である。この考えは第一次大戦後、盛んになった←東欧とかバルカンの諸民族はこ の原則によって一応の自由と独立を達成することができた←第一次大戦の後に確立さ れたこの原則は、多分にヨーロッパ中心の考えであり、アジアやアフリカのヨーロッ パ諸列強の植民地諸民族にこの原則が適用されるようになったのは、第二次大戦の後 になってからである→しかしながら、第一次大戦の後で唱えられたこの原則が、アジ アやアフリカの諸民族に民族独立運動の重大な動機を与えたことは明らかである
諸民族が入り交じって住んでいるような東欧諸国←この原則を適用するのは難しかった 東欧諸国では民族の基準を何にするかで、非常に不明瞭であった→言語は民族の一つの 基準になりうるが、例外的なケースが東ヨーロッパでは数多く存在し、民族範囲を特定 するのが困難であった。(ポーランド回廊=第一次大戦後ヴェルサイユ条約によってポ ーランドに割譲された旧ドイツ領のうち、東プロイセンをドイツの他の部分から切り離 す役目をしている部分。ダンチヒ港に接し、ポーランドのバルト海への通路となったの で、この通称がある。後に、ドイツとポーランド間の係争の対象となって、第二次大戦 を導くに至った)。
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これらの民族が合同して国をつくる必然性はないが、民族合同の国家形成を主張したチ
ェック人主導のもとに国家建設が行われた
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民族自決主義→1960年の「植民地諸国・諸人民に対する独立付与に関する宣言」に おいて認められているように、国際法上の原則として確立している
アジア・アフリカのナショナリズム→植民地化・半植民地化された国内の状況に抵抗し て展開された。反帝国主義を前面に押し出したという点で共通性があるものの、アジ ア諸国とアフリカ諸国の間にはネーション、すなわち国家、国民の在り方において性 格が違っている
アジア諸国、たとえば中国ではヨーロッパ列強、また日本の侵入以前においては清とい う王朝が存在して主権をもっていたし、ベトナムでは元朝(1802年~1945年) という王朝が存在していた(1883年にフランスの植民地になる)
インドでもイギリス政府が直接植民地インドを支配した期間であるインド帝国(185 8年~1947年)以前はイスラム帝国であるムガル帝国が支配していた
(インド帝国=イギリス王がインド皇帝を称すべきことが定められていた)
アジア諸国では植民地主義に対する抵抗は国の権利、国家の主権を回復するという性格 をもっていた
これに対して異なる言語をもつ諸部族が分立していたブラック・アフリカ→ヨーロッパ 植民地主義に対する抵抗に関しては、共通の立場にたっていたが、その意識をアフリカ の人間の固有の言語で表せなかった
アジアにおいて、反植民地民族運動の指導者になったのは、ガンジー、スカルノのよう な民族主義者と毛沢東、ホー・チミンのような共産主義者がいた。共産主義というのは イデオロギーにおいて世界が共産化することを目指すものであるから、原則においては ナショナリズムと相入れないものがある←しかし、毛沢東は抗日を唱え、またホー・チ ミンは(ベトミン)反帝国主義民族統一戦線を組織したように、中国やベトナムの共産 主義運動は甚だナショナリスティックであった
アジア・アフリカ諸国の一部→国内の経済発展に専念する傾向にあるが、人口問題、飢
餓、スラム化などの問題を抱え、政治的にも不安定で、国際的・国内的紛争の火種を抱
えている
現在では民族固有の文化への心情的な共感が高まり、その傾向はクルド人など を見れ
ば明らかである。クルド人は明らかにクルド人国家を志向するよういなっている。
少数民族の分離・独立運動→政治のレジテマシー(正統性)を強く求める訴えである
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