2003年度 ロシア語史 第Ⅱ話 スラブ文字の成立と古代ロシア スラブ文字

2003年度 ロシア語史
第Ⅱ話 スラブ文字の成立と古代ロシア
スラブ文字の成立
言語に関する興味はロシアにおいても極めて古くから存在しているが、他の多くの国々におけ
ると同様にこれは宗教と深く関わっている。スラブ世界に文字が最初にもたらされたのはまさ
にキリスト教の弘通によってであった。
この間の事情を伝えるものとして、俗に「パンノニア伝説」といわれるコンスタンティノス
(キュリロス)伝(通称キリル伝)およびメトディオス伝がある。これによれば862年あるい
は863年の何れかに、当時のスラブの一大帝国であった大モラヴィア帝国を築いた西スラブ族
の王ラスチスラフ(在位864−870)が、ビザンツ皇帝ミカエル三世(在位842−867)に布教
団の派遣を依頼したことが、その発端となっている。
キリル伝はこれを次のように伝えている。
モラヴィアの王ラスチスラフは、神によって教示され、自分の公たちおよびモラヴィ
ア人たちと相談してミカエル皇帝の許に使者を送り、言った。「私たちの国人は異教*を
しりぞけ、キリスト教のおきてに従って身を持していますが、自分の言葉で私たちにキ
リスト教の正しい信仰を説き、他の国々もこれを見て私たちに従うような教師をもって
はいません。君主よ、私たちにそのような主教となり節となる者を送って下さい。すべ
ての善いものは、常に貴方がたからすべての国に出ていくものだからです。
これを聴いた皇帝は、サロニカの人コンスタンティノス(キュリロス)を選び、これ
をスラブの地に派遣することにする。皇帝は会議を招集し、哲学者コンスタンティノス
を呼寄せて彼に次のような言葉を聞かせた。「哲学者よ、私は貴方が病弱であることを
知っている。しかし貴方はそこへ行くべきである。この言葉は貴方のようには誰も能く
することができないからであると。」
この同じ箇所は、メトディオス伝によれば次のようになっている。
そこでミカエル皇帝は哲学者コンスタンティノスに言った。「哲学者よ、この言葉を
貴方は聞いたか。貴方以外の誰もこれをすることはできない。貴方には多くの才能があ
る。貴方の兄の司祭メトディオスを連れて行きなさい。貴方たち二人はサロニカ人であ
り、サロニカ人はすべて見事なスラブ語を話すではないか」と。
ここでは兄弟がテッサロニケ人であること、テッサロニケではスラヴ語とギリシア語の二言語
併用が行われていたことが、示されている。このような皇帝の言葉に対し、キリル伝では次の
ような応答があったとされる。
そこで哲学者は答えた。「私は体が弱く、病気ではありますが、もし彼らが自分の言
語で文字をもっていたならば、喜んでそこへ参りましょう。」そこで皇帝は彼に言っ
た。「私の祖父も私の父も、また他の多くの者もこれを深し求めて得ることができな
かった。それなのにどうして私が得ることができようか。」
コンスタンティノスはそこで意を決してスラブ文字を作ることにする。
哲学者は他の助手たちと共に祈りを捧げた。間もなく自分のしもべたちの祈りを聞き
届けられる神が、彼に臨まれた。そしてその時、彼は文字を組立て、福音書の物語を書
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きはじめた。太初に言葉ありき、言葉は神とともにありき、言葉は神なりき、などと。
彼がモラヴィアに着いた時、ラスチスラフは彼を大きな名誉をもって迎え、弟子たちを
集めて彼らに教えるようにさせた。間もなく彼はすべての教会の祈祷(典礼)書を訳
し、彼らに朝の祷り(早課)、時刻の祷り(時課)、昼の祷り(聖体礼儀)、タべの祷
り(晩課)、夜の祷り(晩堂課)、秘祷を教えた。
以上がパンノニア伝説による文字の成立の事情である。
キリル伝はコンスタンティノスの死(869年)の後余り時間の経っていないうちに、恐らく
は彼の高弟で後にマケドニア南西部のブェリッコの主教となったクリメント(916年没)に
よって書かれたものであるとされており、従ってその信頼性も極めて高いと考えられている。
このキリル伝の記述からスラブの文字がモラヴィアに赴く前に作られたこと、ヨハネ伝から始
まる聖書の一部が同時に訳出されたこと、モラヴィアでは翻訳のための学校が開かれたこと、
多くの祈祷書が訳出されたことなどが判る。ただし聖書については全部が訳出された訳ではな
く、日曜の礼拝のための抄訳であると考えられている。
このようなスラブ語の文字の成立の物語はさまざまな形をとって後代に伝えられている。こ
のことからも明らかなように、スラブ世界は文字の創出によって初めて歴史の曙光の中にその
巨大な姿を浮び上らせて来るのであって、その文化史的意義は計り知れないほど大きいと言わ
ねばならない。
ロシア最古の年代記である原初年代記(過ぎし年月の物語)ではこれは次のように記されて
いる。
スロヴェネおよび彼らの公たちが洗礼を受けて暮らしていたとき、ラスチスラフ、ス
ヴャトポルクおよびコツェルは、ミカエル帝に使者を送って言った。「私たちの国は洗
礼を受けましたが、私たちのもとには私たちを導き、私たちを教え、神聖な書物を講じ
るような師がいません。私たちはギリシア語もラテン語も判りません。ある人々は私た
ちに自己流に教え、また別の人々は私たちにこれまた自己流に教えています。そのため
に私たちは書物に書かれた姿(語形)とそれらの力(意味)を理解できないのです。で
すから書物の言葉と、ことわりを説くことのできる師を私たちに送ってください」と。
ここで「書物」とあるのは言うまでもなく聖書のことである。また「自己流に教え」るとい
うのは、教える内容のことではなく、教えるのに用いる言語のことであると理解される。これ
を聞いたビザンツ皇帝ミカエルは、学者に諮ってテッサロニケの二人の兄弟、コンスタンティ
ノス(キュリロス)とメトディオスを選び、スラブの地に派遣した。
これら二人が到着した時、彼らはスロヴェネのアルファベットの文字を組立て始め、使徒行
伝および福音書を翻訳した。スロヴェネは自分の言葉で神の偉大さを聞いて喜んだ。その後二
人は詩篇とオタタエーコスとその他の書物を翻訳した」と原初年代記は伝えている。
出典 「ロシア中世文法史」山口巌著、名古屋大学出版会、1991年
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古代スラブの2つの文字体系
古代スラブ人は2つの文字体系を使っていたとされる。これは「キリル文字」と「グラゴル
文字」に相当する。スラブ文字が成立し、流布されたとするモラヴィアのみならず、ルーシで
もこれら2つの文字による記録が残されている。キリル文字の名称は、サロニカ出身の哲学者
コンスタンチン・キリルの名にちなんでいて、スラブ文化圏では今日まで多く使われている。
またグラゴル文字はスラブ語の „·„Ó·ÚË(話す)に由来しているが、文字の考案者は不明で
ある。2つの文字体系は、古代スラブではほぼ同時期に併存併用されていたと考えられる。
グラゴル文字による記録は、壁面や粘土板に残されている。10世紀のキエフ文書、10世紀末
のゾグラフ福音書、1047年のノブゴロド僧正予言書などに代表される。次の文書は、10世紀
にグラゴル文字で書かれたキエフ布教書の一部である。
キリル文字の普及
キリル文字は、文字発祥の地とされるモラヴィアからパンノニア、チェコ、ブルガリア、セ
ルビア、ルーシ、そしてあるいはポーランドに伝播していった。それはスラブ東部と南部地域
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ではグラゴル文字を駆逐していった。しかし西部地域ではローマカトリック教会の影響のもと
ラテン文字が使われるに至った。ルーシでは10世紀末のロシア洗礼以後、キリル文字が優位に
立ち、現在に至るまで使われている。以下はキリル文字のアルファベットである。
キリル文字の優勢に対してグラゴル文字は、急速に衰退し、歴史から姿を消していった。し
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かしクロアチアのダルマチン沿岸付近で17世紀のグラゴル文書が発見されている。また秘密文
書の記録にはグラゴル文字が使用されることもあった。
[参考資料1]スラブ人の異教的風習
彼らは固有の慣習と父祖の掟と伝承をもち、それぞれ独自の習俗を保っていた。ボリャーニ
ン族はその祖先から伝わる温順で平和な気風をもち、わが子の嫁や自分の姉妹、母親や父親を
尊敬し、嫁は夫の両親と兄弟をふかく敬っていた。婚礼のしきたりもあった。すなわち、花婿
が花嫁を迎えにゆくことはなく、花嫁が夕方花婿のもとへ連れてこられ、翌朝嫁入支度が運ば
れてくるのであった。一方、ドレブリャーニン族はけだもののような風習になずんで暮らし、
家畜さながらの生活をしていた。たがいに殺し合い、あらゆる不潔なものを食べ、婚礼という
ものはなく、掠奪によって娘たちをさらってくるのであった。ラジミチ族もヴャチチ族もセヴ
ェリャーニン族も同一の慣習をもっていた。彼らはすべての野獣同様森のなかに住んで、あら
ゆる不潔なものを食べ、父親や嫁のまえで卑狼な言葉を吐いた。彼らのもとには婚礼はなく、
村々のあいだで歌垣を催した。人々は踊りやあらゆる悪魔的な歌を楽しむためにこの歌垣に集
まり、そこで男たちはだれでも話のついた女を連れ去った。彼らは二人あるいは三人ずつの妻
をもっていた。人が死ぬと故人のために供養を行ない、そのあとで大きな薪の山をつくり、そ
の上に死者をのせて焼き、それから骨を集めて小さな壷に収め、それを路傍の柱の上にのせ
た。ヴャチチ族は今でもこうしている。この風習はクリヴィチや他の異教徒のもとにもあっ
た。彼らは神の掟を知らず、自分で掟をつくっていたのである。
出典「原初年代記」中村喜和編訳、筑摩叢書
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[参考資料2]9世紀∼12世紀初頭のルーシ(古代ロシア)
参考資料1の「原初年代記」に記述があったボリャーニン族や異教的な風習を指摘されたドレ
ブリャーニン族、ラジミチ族、ヴャチチ族、セヴェリャーニン族は、地図の中段左側から順に
東方に移動したところに位置している。
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