1 - 真宗光明団

2004年誕生会
【講題】
堤 日出雄 先生
第1講
人 と 生 ま れ て
―誕 生 の 課 題―
1、誕生の中の闇
( 折指と未生怨 )
九州福岡からまいりました堤日出雄と申します。よろしくお願いします。
今回は誕生会ということで、住岡夜晃先生の誕生会を記念した会座なのです。
よく知らなかったので、改めて夜晃先生の生年月日を確認させていただきまし
た。明治 28 年 2 月 15 日のお生まれです。明治 28 年というと 1895 年です。今
日が 2004 年ですから、この 2 月 15 日、明日の先生の誕生日をもって、先生が
もしご在世であれば 109 歳です。そして、先生のご誕生を記念した会座はいつ
から始まったのか、改めて団の年表で確認しましたら、先生は昭和 24 年に亡く
なられまして、誕生会が始まったのは昭和 29 年です。1954 年です。この間、2
月本部の例会が、先生の誕生を記念するというような意味があったようです。2
月 11 日から 15 日まで、11 日は夜からでしょうから、4 日間の会座なのです。
毎年 2 月、先生の誕生日の 15 日を最後とする 4 日間の会座があったようです。
そして昭和 29 日から正式に先生の誕生を記念した『誕生会』という、今日の我々
の会座が始まっているのです。
そうすると、昨年の『誕生会』2003 年が 50 回であったわけです。今年は第
51 回目の『誕生会』になるわけです。昨年の『誕生会』のときに、もちろん夜
晃先生のお誕生を記念した会座であったわけですけれども、それをもう一つ、
そもそも人間の誕生はどういう意味をもっているのかということを、夜晃先生
初め私どもの誕生のもつ深い意味を仏法に尋ねてみようという、そういう趣旨
にしてはどうかという、これが岡本英夫先生の提案だったわけです。これは非
常にいいではないかということで、単なる先生の誕生日を記念した会座から、
我々の誕生の問題を考えてみようではないかと。ちょうど、符号したように、
50 回という時に、そういう新たな大きな誕生の意味づけを見出して、『誕生会』
を通して我々が新たに歩ませてもらおう、ということに変わったということで
す。それを受けて、今回 51 回目なのです。
皆さんの案内状とか、光明誌にも『誕生会』のことについて、その趣旨を書
いておきました。ご覧になっていただいたかと思います。私ども私の誕生のも
っている課題を、皆さんとともに尋ねてみたいという趣旨でございます。時間
は、今日・明日になりますので、時間数にして 6 時間、6 回しかお話できません
ので、どのくらい申し上げられるかよくわからないのですが、できるだけそう
いうことを考えてみたいと思っております。
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2004年誕生会
堤 日出雄 先生
第1講
そこで、「人と生まれて」という月並みなテーマですが、「誕生の課題」と。
まずどういうことを問題にしたいかといいますと、
「誕生の中の闇」という問題
です。これはすぐ後に触れますけれども、言葉として善導大師の『観経疏』
(『観
無量寿経』の注釈書です)の序分義に出てくる、阿闍世太子の問題です。阿闍
世という名前に関連して、「折指」、「未生怨」という名前が出てくるわけです。
ちょうど本部で毎年 2 回、6 月と 10 月でしたか、善導大師の『観経疏』を原典
に基づいて勉強会をしています。幸い亡くなられた細川先生が春の聖会でずっ
と『観経疏』のお話をしておられて、すいぶん長く『光明誌』に連載されてお
りますので、今序分義ですが、そういうものを参考にしながら、廣瀬杲先生の
優れた『観経疏に学ぶ』という本も参考にしながら、勉強会を年に 2 回してお
ります。
『聖典に親しむ会』という名前なのですが、この問題を不十分ながら勉
強しまして、改めて私も非常に驚きをもってこの誕生の問題を考えてみたくな
ったわけでございます。
誕生の中の闇。特別な例外を除けば非常に祝福されて、人間が生まれる。子
どもからいえば、お母さんのおなかの中は恐らく暗い闇であったに違いないの
です。それが明るい光の世界に現れた。皆が祝福してくれる。そういうことで、
どうして闇なんてあるのかということにもなりますけれども、隠れた闇が実は
人間が生まれたという誕生の中に潜んでいるのであるということを、この「折
指」と「未生怨」という言葉が実によく表していると私は思うわけです。
これは阿闍世の物語です。阿闍世というのは原語の発音を漢字にしているわ
けです(音写と申します)。これはあまり詳しくはありませんが『観無量寿経』
にも出ます。韋提希夫人。夫は頻婆娑羅王。お釈迦様がご在世であった頃の北
インドの大国であったマガダ国の大王です。その 2 人の間に生まれた子どもが
阿闍世です。それは一人息子でありまして、必ず跡を継ぐという皇太子であっ
た。その皇太子阿闍世が、何かのものに拠ると 17 歳であったと聞いていますが、
いろんな事情があって父を殺して王位を奪うのです。クーデターです。国王の
位を奪って自分が国王になるのです。こういう反逆の大事件を起こした。そこ
にはいろんな経緯、いわれがもちろんあるわけです。父親は殺された。韋提希
は危うく殺されかかったけれども、何とか命だけは助けられて、牢の中に閉じ
込められて、悲嘆と苦しみ、苦悩と悲しみの極みにあった。それを知ってお釈
迦様は、韋提希のために、耆闍崛山、山の上の説法、説教、会座を中断して、
弟子達を置いて、韋提希一人を救うために敢えて山を下りて、王宮の韋提希の
もとに行く。こういう物語が『観無量寿経』序分です。
そこで、今は阿闍世の問題です。これは『観経疏序分義』です。善導大師で
す。中国は唐の時代にお出になった善導大師です。中国における浄土教の完成
者です。この善導大師が『観無量寿経』を深く自らいただいて注釈書をおつく
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りになった。それまで中国で『観無量寿経』は、いろんな優れた方々がたくさ
ん学んで注釈書を作っていらっしゃるのです。そういうそれまでの『観無量寿
経』の優れた人の了解と全く異なって、お釈迦様の真意は何であるか、それを
明らかに善導大師がいただいてくださった。
特にその『観無量寿経』の序分に阿闍世の問題等が出るわけです。言葉とし
てこういうものがあります。「阿闍世というは、すなはちこれ西国の正音なり。
この地の往翻には未生怨と名づけ、また折指と名づく」。これが原文なのです。
阿闍世という名前は、西の国というのは要するにインドのことですが、インド
の正しい発音、原音が阿闍世という。
「この地」というのは、経典が中国に入っ
てきますから、その中国において。
「往」ですから昔という意味になります。過
ぎ去った昔です。
「翻」は翻訳です。中国に入った当初の昔の翻訳には、阿闍世
という原語を、その意味を、
「未生怨」と訳したのだ。さらに折指と訳したのだ。
こういうふうに書いてあります。
未生怨とか折指の意味にはこれから触れますけれども、阿闍世の名前に触れ
たのは『涅槃経』なのです。島地聖典では 12-100 頁(東 259 頁)です。
「「阿
闍」とは、名づけて不生となす。
「世」とは、怨に名づく。仏性を生ぜざるをも
ってのゆえに、すなわち煩悩の怨生ず」とあって、不生怨となっているのです。
聖人がご引文の信巻です。
『涅槃経』では阿闍世のことを不生怨という。この未
生怨と不生怨とは明らかに意味が違うのです。あとで触れます。この場合には、
未は未来で、未だ生じていない怨みです。まだ表にあらわれていない、生じて
いない怨みという意味になります。こちらになると、不生、生じることのない
怨みになります。その根拠はどこにあるのか、往翻ですから、善導大師が見ら
れた翻訳の中にこの未生怨という訳があったのでしょう。
『涅槃経』ではこうな
っているのです。これも誰が訳したのかということもあるのでしょうけれども。
今はどこまでも未生怨という言葉で、その意味を考えてみたいと思います。
確認しますと、未生怨という言葉をそのまま意味をとりますと、まだ(未だ)
生じていない怨みです。まだ今は表に生じていない、現れていないけれども、
必ずそのうちに表にあらわれてくる怨み。そこまで読みとっていいかと思いま
す。つまり潜在的な怨みです。もって生まれてきた。本人ももちろん気づいて
いない。したがって、生まれて後に、何らかの縁によって、縁を待って、現れ
てくるであろう。つまり、このような私としてここに生まれたという、この私
が生まれたという事実の中に、意識はできないけれども、無意識のうちにも抱
えている怨み。未生怨ということばはこういう意味に取ることができる。今は
阿闍世の問題です。阿闍世太子という一人の人です。しかしそれが、私ども、
私も含めたすべての人間存在の問題・課題を言い当てている言葉ではないのか。
これが考えてみたいテーマです。そのことはまた後具体的に触れます。
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ついでに折指ということばです。これは一番わかりやすいです。指が折れて
いるという意味です。生まれたときにすでに小指が折れていたのです。阿闍世
は自分の小指が折れているのを、物心ついて気づいたでしょうが、どうして小
指が折れているのか全くわからない。常にそれが気にかかっていたに違いない。
これも非常に象徴的な意味です。生まれながらに私は指が折れている。つまり
何か私には人と比べて欠けているものがある。何か足りないものがある。劣っ
ているものがある。そういう問題にもつながってくるのです。具体的な事実と
して、だいたい人と比べるのです。普通の人と比べる。そのように物心がつい
てから意識する。
これは普通の言葉では、劣等感です。何かひけ目を感じるようなものが自分
の中にある。劣等感やひけ目をもたざるを得ないもの。もちろん、ほとんどな
い人もあるでしょう。一番わかりやすい例でいえば、生い立ちです。自分が生
まれてきた生い立ち、育ってきた幼少時のことも入れてきていいかと思います。
そこに出てくるのは親の問題です。どういう親のもとに生まれたのか。あとで
触れますが、私どもは親を選んで生まれることは全く不可能なわけで、気がつ
いてみればこういう人を縁として両親(父母)として、今日の私が生まれてい
る。これは事実です。どうしてこんなと言いたいことがある。能力、頭が悪い
とか、勉強できないとか。容貌・容姿、これは見逃せません。それから性格。
細かにいえば色々あるかもわかりませんが、だいたいそういったものがわかり
やすいでしょう。障害を持っているという問題もそうでしょう。大小さまざま
な障害を抱えて生まれてくる。こういうふうな問題を抱えている者は、否応な
く、常に自分と人とを比べて、何か欠けているとか、不満に思うもの、ひけ目
に感じるものがある、という問題です。
具体的に人を上げてみましょう。耆婆。これは先ほどの『観無量寿経』に出
てきます。耆婆大臣です。これは音写です。耆婆という人は、阿闍世と兄弟に
なるのです。お母さんが違うのです。父親は同じです。頻婆娑羅大王の子ども
なのです。この耆婆の母親の問題について、
『観経疏』にも少し出てきますけれ
ども、これは率直にいって、母は奈女という記録があります。あまり詳しくは
わかっていないけれども、この女性は正式な頻婆娑羅王の奥さんではないので
す。正式な手続きをとって、王の奥さんになった人ではなくて、いわゆる私的
な、今は響きがあまりよくないので使いませんが、昔は妾といいました。今は
愛人といいます。そういう立場の人です。非常に美しい童女であったといいま
す。奈女という女性を我が物にしようと何人かが競争するような形にあって、
その中で頻婆娑羅王がいち早く自分の物にしたのです。その奈女との間に生ま
れた子どもが耆婆なのです。だから、耆婆というのは恐らく、少年時代はずい
ぶん苦しんだのではないでしょうか。その当時にはそういうのはたくさんあっ
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たのかもしれませんけれども。そういう自分の生まれの問題を受け取るために
耆婆は苦しんだに違いないと思います。これは本当に歴史上の人物かどうかは
わからないというような問題もあるかと思いますけれども、一応そういうこと
で、経典に出る人です。
蓮如上人はどうか。これはまさに実在の人物です。第 8 代の本願寺の払子で
す。15 世紀の人です。1415 年から 1499 年です。蓮如上人は、お生まれはもち
ろん本願寺で、お父さんは存如上人です。それはもちろん紛れもなかったけれ
ども、お母さんが実は・・・。その当時の本願寺は非常に貧しかったのです。
浄土真宗の他の派、仏光寺派とか興正寺派とか木辺派とか、ずいぶん栄えてい
たけれども、その当時の本願寺はとくに落ち込んでさびさびとして、ほとんど
参詣者もない状態であったといわれています。そういう本願寺に生まれたので
す。その本願寺の中で、存如上人の身の周りというか、お寺の下働きの世話を
する使用人。昔の言い方をすれば女中さんです。今ならお手伝いさんですか。
そういう女性との間に生まれたのです。もちろん結婚しているわけではありま
せん。存如上人は 19 歳です。若いですから、ついそういうふうになってしまっ
たのでしょう。そして子どもが生まれてしまった。だから、ある意味で蓮如上
人は初めは周りから歓迎されない生まれ方なのです。しかしそこで育てられて
いくのです。
お母さんはだいたい西の国、備後の国の出身だといわれています。尾道のほ
うの人ではないかといわれます。蓮如上人が満 5 歳を迎えたときに、この存如
上人は正式な奥さん、正妻を、しかるべきところから迎えるという話がもちあ
がってくる。名前もはっきり残っていない存如上人の使用人であった、蓮如上
人を生んだお母さんは、備後の国の身分も卑しい(低い)氏素性のはっきりし
ないような、そういう女性だったものだから、したがって、とても自分はこの
お寺に残ることはできないと、密かに覚悟して、満 5 歳のかわいい盛りの蓮如
上人を置いて、黙って出て行くのです。胸が本当にかきむしられるのです。蓮
如上人の姿を、鹿の子袖の着物を着せて、専門の絵描きに書かせるのです。今
も残っています。それをもっていかずに本願寺においたのがおもしろいという
か、本願寺に残して出て行くのです。もちろん二度と帰ってこられません。後
に蓮如上人は、人を遣ったりして捜されます。結局わからない。こういうふう
な悲劇。そんな中でやがて正妻としてやってきた継母にあたる人に、子どもが 4
人生まれます。一人は男の子。オウゲンでしたか。だから、事毎に蓮如上人は
冷たい扱いを受けていくのです。そういう中にあって、蓮如上人は大変な苦労
をされるのです。生木を引き裂かれるように、僅か 5 歳で母と別れる。愛別離
苦でしょう。それから、その後継母のもとで、いろんな形で冷遇され、屈辱を
受ける。これは怨憎会苦です。嫌な、嫌いな、憎むしかない存在、あるいは憎
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まれるという関係の存在と、一緒に暮らさなければならない。愛別離苦・怨憎
会苦という、厳しい苦悩の中に蓮如上人は立たされた。
43 歳まで、いわゆる部屋住みというのですけれども、ちゃんと跡継ぎとは認
められないのです。継母のほうの子どもが一人いまして、そのお母さんが自分
の子どもをなんとか跡継ぎにしたいと思っていますから、やはり見通しはない
ですね。0 歳から 43 歳。ここで存如上人が亡くなりますから、ようやくおじさ
んとかの努力があって、正式に第 8 代の払子になるのです。それから、84 歳。
これは絵に書いたように、蓮如上人の前半生と後半生が違うのです。初めは本
当に逆境の時代です。普通なら耐えられないような逆境の中です。しかしお母
さんがたった一つ、お前は、どうかしっかり親鸞聖人の教えを興してくれ、本
願寺を興してくれ、というふうに言葉を残して行っているのです。それを蓮如
上人は聞いたのです。恐らくその後、別の使用人とかがくり返しそういうこと
も言ったに違いないけれども、それがずっと蓮如上人の頭の中に、心の中に残
っていますから、果実を期して黙々と勉学に励むのです。そして、ある意味で
後半は至福の時代です。ずっと耐えて、ちょうど人生の半分から、払子になっ
てから、怒涛の勢いで本願寺を興していくという活動をしていく。これは雄飛
ですね。蓮如上人はまことに生い立ちは不幸であった。その中を決して挫けず
に負けずに。
それから、広田太郎さんという方があります。これは横浜の寿町のホームレ
スの人です。横浜の寿町でそういうホームレスの人に対するいろんな取り組み、
福祉を担当しておられた方が、この広田太郎さんという方に出あって、この人
の生い立ちの話を聞いた。それが本になっています。野本三吉という人の『親
とは何か』という本があります。これはだいぶん前の本です。ちくま少年図書
館から出ています。本屋では手に入らないかと思いますが、図書館に行けばあ
るかと思います。
その中に、このホームレスの人に出あったことが書いてあります。この人は
栃木県の児童相談所の玄関の前に捨てられていた人、捨て子なのです。ぜんぜ
ん親がわからないのです。誰もあと取りにこないし。、誰も教えないし。やむを
得ず児童相談所の人が預かって、さらに適当な施設に預けるけれども、名前も
ない生年月日もわからないのです。そこで、拾われた年の月日を生年月日とし
て、この立派な名前はその当時の栃木県の県知事さんがつけてくれたのだそう
です。別の施設に預けられて、一応元気に育って、学校にも行く、就職もした。
結婚もしたけれども、その奥さんが妊娠中か出産のときか、事故で亡くなるの
です。せっかく結婚して幸せな人生をと思ったところを、その奥さんが出産の
ときに亡くなってしまう。悲劇が続くのです。そういうことで、この人はまと
もな仕事に就いて働くことが困難になってしまう。そういう状況でホームレス
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になっていったということがあるのです。
涙をポロポロ流して自分の生い立ちを語った。その母親はどんな人か。特に
お母さんに対する思い。だから、町を歩いていて中年の女性を見ると、私の母
親はあんな人だったろうかと思ったりする。生きているこの自分という存在の、
命の根っこが抜けている感じがする。頑張らねばといっても、頑張れない、と
いうふうに言っていたという話です。もうだいぶん前の話ですから、今は頑張
っておられるかもしれませんが。そういう話が実際にありました。そういうこ
とがたくさんあるわけです。そうでない人ももちろんある。
もう一人だけご紹介しましょう。これはまだ元気な人で、藤井輝明さんとい
う方です。たまたま気分転換に本屋でウロウロしていましたら、
『運命の顔』と
いう本がありました。新刊です。これは熊本大学の教授なのですけれども、こ
の人は顔が、ほとんど生まれつきといってもいいのですが、海綿状血管腫とい
って、顔の皮膚の下の脂肪とか筋肉の中を通っている血管が、異常に増えて膨
らんで大きく広がって、良性だけれども腫瘍になっているのです。それで物凄
く顔が歪んでしまっているのです。とてもまともに見れない顔になっている。
けれども、頭もいいし、学校に行く。もちろんいじめの対象です。オバケだと
か何とかいって。そういう苦労をする。けれども、両親が非常に支えていくの
です。優れた能力も持っていたから、努力し努力して、教授をしていらっしゃ
るのです。顔は治らないのです。手術は受けたけれども。女性だったら、まず
は顔を見るから、さらに大変だと思うけれども。そういう悲劇を抱えて生きな
ければならない人もある。
そういう生い立ちの問題。自分はどうしようもない。選びようがない親の問
題。そういう問題を折指で表すのです。そういう現実、事実、人と比べてとて
もそれを受け取れないような問題を抱えている私。そうすると、自ずから、ど
うして私はこんな私に生まれたのか、と怨みを持たざるを得ないでしょう。
この折指という事実(これは具体的な事実です、いろんな形はあるけれども)
を受け取ることができない。したがって、いつまでも怨みとして抱えざるを得
ないという問題、これは未生怨の中に入るでしょう。こう理解したらいいので
はないかと思います。
このことについて広瀬先生のお言葉を紹介すると、
『観経疏に学ぶ』でしたか、
その中の言葉です。
「阿闍世という名に託して語られている人間の問題を二つに
視点において押さえた。それが未生怨と折指という言葉のもつ基本的な意味な
のだ」。つまり、阿闍世という古代インドのマガタ国に生まれた一人の太子の話
は、同時にあらゆる人間存在、時代を越え、時を越え、場所を越えて、あらゆ
る時代、したがって今日我々のところにおいて、直ちに問題にしなければなら
ない、人間そのものが抱えている普遍の課題を明らかにしようとしている。こ
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ういう押え方です。これは非常に説得力があります。
たとえば先ほどの折指という問題についても、
「私にはそういうことはありま
せん。普通に生まれて、何もそういう問題はありませんでした」という人が大
半かもわかりません。しかし、どうなのだろうか。その時のいろんな状況によ
って、この問題、劣等感の問題です。これにつながってくるのです。生まれた
ままの姿形の欠陥のあるなしという問題を越えて、もっと掘り下げていけばい
いのです。自分がこのありのままの今の私が受け取れないという問題です。す
でに私でありながら、私を生きている、私以外に何者でもないこの私、その私
と、この私が一つになれない。現実の事実の私と、その私をこういう私と思っ
ている私と、二つあるのです。後の方は自我意識、自意識の中の私です。自分
の思いで、自分はこういう人間だ、こういう私だと思っている。それと実際の
自分とどうしてもズレがあるのです。そういう問題と折指の問題はつながって
いるのです。そういうところで考えてみたいと思います。
もう一つ、阿闍世の出生の秘密の問題について触れておかねばなりません。
これは事実そのとおりだったかどうかはわからないのですけれども、こういう
ふうに『観経疏』の中に善導大師が述べています。その元になっている経典が
あるのでしょうけれども、こういうふうに出ています。頻婆娑羅王には跡継ぎ
の子どもがなかった。自分も年をとってくるし、早く跡継ぎが欲しい。大きな
国であって、跡継ぎがないということは、いろんな内乱、争いごとの種になる。
そういうことももちろんあった。国を平和に治めていくためにも。そこで、占
い師(相師と書いてありますから、手相とか人相を見るのではないでしょうか)
に聞いた。今山の中に一人の仙人がいる。その人が命を終ったら、その代わり
にあなたの子どもとして生まれ変わるであろう。それが跡継ぎの太子になる。
その仙人はまだ 3 年は命が終らない。3 年は待たなければならない。仙人がこう
ことを予言したということを占い師から聞く。ところが、頻婆娑羅王は、国の
大王は、3 年間なんて待てないでしょう。自分は一国の王である。この自分の治
めている国も人民も、すべて我が物なのだ。そのへんに傲慢さがあるわけです。
はっきりいってエゴなのです。そこで、しかるべき家来をその仙人に遣って、
そういう事情で跡継ぎが欲しい、あなたが死んだら跡継ぎが生まれてくると聞
いたから、どうか死んでくれないかという。仙人は、そんなことはできない、
あと 3 年の命が私には保証されている、3 年間は死ぬ必要がないのだ、できない、
といって断る。家来が帰って王様に伝えたら、それこそ腹を立てて、もう一回
たのんでみろ、尚且ついやだといったら、もう仕方がない、殺してしまえとい
うのです。そこで、家来がもう一回行って一生懸命に頼んだけれども、それは
受け入れられない。そこで結局殺すわけです。仙人殺害。
その時に怨みの言葉。自分を殺した王を、人を使って必ず殺すであろうとい
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う、恨みの言葉を残して仙人は死んだわけです。その後予言どおりに子どもが
宿りました。そこでまた占い師に見てもらったら、占い師が予言して曰く。こ
の子は成長して必ず父である王であるあなたを殺すであろうと。初めはそんな
ことがあるものかといって、頻婆娑羅王は無視していたけれども、実際に子ど
もが生まれるとなると、恐くなる、不安になるのです。それで子どもがまさに
生まれる時に韋提希に相談をする。具体的にはよくわからないけれども、高殿
に韋提希が上って、そこからお産する、下に産み落としたのです。誰も受けな
い。そうすると、間違いなく命終るであろう。そういうことを一応韋提希も納
得して、時期がきて、高殿に上って産み落とした。ところが幸いに命助かった
のです。けれども小指が折れた。それが折指太子です。そういう生い立ちをも
って生まれた。もちろん本人は知りません。周りの者たち、家来達は、だんだ
んわかって知っているのです。噂話をしている。折指とか未生怨とかいうのは、
どうも噂で言ったのではないかと思います。これはしかし翻訳として出ている
というのです。阿闍世という言葉。頻婆娑羅と韋提希が、殺そうとは思ったけ
れども幸い命が助かって、思い直して自分たちが育てるのですから、それを未
生怨という名前をつけるとはとても思えませんけれども。単なるニックネーム
のようなことで周りの者がうわさのように言ったのではないかと思います。実
際にそういう意味をもった名前を親がつけるはずがありません。別のものには、
善見太子というような名前もついています。善見というのはとてもいい名前で
すから。ここは非常に曖昧なところがあります。
それが阿闍世の出生の秘密なのです。それを後に、お釈迦様のいとこであり、
幼い時からライバルであった提婆達多が利用する。頻婆娑羅大王は、お釈迦様
の今日でいえばスポンサー(後援者)ですから、頻婆娑羅王を亡きものにして、
釈迦教団の勢力を少しでも削いで、自分が釈迦教団を乗っ取るというような企
みがあるのです。それで、頻婆娑羅の息子阿闍世に、実はお前の生まれはこう
だったのだと、出生の秘密をばらして、それで、謀反の気持ちを起こさせて、
親を殺させようとする。まだ 17 歳くらいの少年だった阿闍世に、もろに提婆達
多の話が影響して、ついに父を殺す。こういう話になっているわけであります。
そういうことで、もう少し未生怨という問題を尋ねてみたいと思います。
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