ビザンツ帝国 ・394 年、ローマ帝国が東西分裂し、東ローマ帝国を形成

☆ビザンツ帝国
・394 年、ローマ帝国が東西分裂し、東ローマ帝国を形成。ゲルマン民族の侵入をあまり受けず、伝統を維持。商業と 貨幣経済の繁栄が続いた。
・都は[コンスタンティノープル](旧名[ビザンティウム])が繁栄。
・ローマ帝国以来の官僚制を維持、その頂点の皇帝は専制君主として権威を持った。皇帝は教会の首長を兼ねる[皇帝教
皇]主義にたち、[ギリシア正教会]を直接支配。 西ローマ帝国滅亡後、地中海世界の統一の再現を目指した。
☆ユスティニアヌス帝
・最盛期、[ユスティニアヌス]帝は[ヴァンダル]王国、[東ゴート]王国を征服。地中海の旧ローマ帝国領を回復した。
・東方では[ササン朝ペルシア]の[ホスロー一世]と対抗。交易ルートがメソポタミアや紅海からアラビア半島内陸部に
移った。
・「[ローマ法大全]」を集成。[トリボニアヌス]らに命じ、534 年完成。[ハギア=ソフィア]聖堂を建設。ビザンツ様式
の代表的建造物。中国から養蚕技術を学び、絹織物業を起こした。
・大帝の死後、次第に[ギリシア]化が進んだ。ラヴェンナの[サン=ヴィターレ]聖堂に大帝のモザイク画がある。
六世紀のビザンツ帝国全盛期
a
東ゴート王国
5
ミラノ
b ヴァンダル王国
6
コルドバ
c
フランク王国
7
カルタゴ
d
西ゴート王国
8 アレクサンドリア
e ササン朝ペルシア 9
1
コンスタンティ
10
ノープル
イェルサレム
ダマスクス
2
テッサロニケ
11
アンティオキア
3
ラヴェンナ
12
クテシフォン
4
ローマ
☆領土の縮小
・ユスティニアヌス帝の死後、次第に領土を縮小。西方ではイタリアの大半を[ランゴバルド]王国、[フランク]王国に
奪われた。東方では、ササン朝との抗争によりイスラーム勢力が進出、シリア・エジプトを失った。北部ではバルカ
ン北部にスラブ民族が移住。トルコ系の[ブルガール]人の国家を形成した。
・七世紀初め[ヘラクレイオス一世]、[軍管区]制([テマ]制)を施行、領土を回復。
☆聖像崇拝論争
・八世紀、フランク王国と結んだローマ=カトリック教会と対立。当時、小アジアに侵攻してきたイスラーム教勢力が
偶像崇拝を非難していたため、726 年、ビザンツ皇帝[レオン三世]は聖像画([イコン])の使用を禁止した[聖像禁止]令
を出した。ローマ教会はこれを拒否。東西教会の対立が始まった。
・800 年、フランク王国[カール大帝]がローマ皇帝の戴冠、ビザンツ皇帝との対立強まり、後にビザンツ帝国でも聖像画
を作成するようになった。その後も東西教会の対立は修復されず、1054 年、ローマ教皇がコンスタンティノープル総
主教を破門、最終的に分裂。
☆マケドニア朝の繁栄
・867 年、[バシレイオス一世]が世襲王朝を開いた。十~十一世紀、一時勢力を盛り返した。軍管区制、[屯田兵]制を充
実させた。キエフ公国と結び、キエフ公国の[ウラディミル一世]は[ギリシア正]教に改宗。1018 年、[バシレイオス二
世]は[ブルガリア]王国を破り併合。
☆ビザンツ帝国の衰退
・1071 年、[セルジューク]朝が小アジアに侵入し、彼らに[マンジケルト]の戦いで敗北。ビザンツ皇帝はローマ教皇に
援助を要請。西ヨーロッパ諸国、[十字軍]運動開始。
・11 世紀末、軍役奉仕の代償に貴族に領地を与える[プロノイア]制を実施。
・1204 年、ヴェネツィアなどを中心とした[第四回十字軍]がコンスタンティノープルを占領し、[ラテン]帝国を建
国。1260 年、ビザンツ帝国復活。しかし 14 世紀、小アジアに興ったトルコ人の[オスマン]帝国がビザンツ帝国を東方
から脅かした。1453 年、[メフメト二世]によってコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国滅亡。
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☆中央集権的軍事力の強化
・はじめはローマ帝国以来のコロヌス制による大土地所有制度であったが、七世紀以降、独自の土地制度を採用、その
ため封建社会の形成はなかった。
・軍管区の軍司令官に軍事権と行政権を与える[軍管区]制([テマ]制)、軍管区司令官が部下の兵士に土地を分与し、代
わりに軍役を課す[屯田兵]制、貴族に国有地を貸与して軍役を奉仕させる[プロノイア]制を採用した。
☆ビザンツ帝国の文化
・古代ギリシア文化とギリシア正教を融合させた文化。[ギリシア]語を公用語とし、古典研究を受け継いだ。[ギリシア
正]教を国教とする独自の文化とし、独自のキリスト教神学が発展。建築物は[ビザンツ]様式で、その特徴は、ドーム
と[モザイク]壁画。代表例は[ハギア=ソフィア]聖堂、[サン=ヴィターレ]聖堂のモザイク壁画。
・スラブ民族の文化を開花させると共に、ギリシア古代文化を保存しルネサンスに伝えた。
☆東スラブ人 ・862 年、ノルマン人([ルーシ])が[リューリク]に率いられ[ノヴゴロド]国を建国。先住民のスラブ人と同化。これがロ
シア国家の起源とされている。
・882 年、ノヴゴロドからドニェプル川中流のキエフに移動し[キエフ]公国を建国。十世紀末、[ウラディミル一世]の
時、領土を周辺に拡大し、繁栄。988 年、ビザンツ帝国皇帝[バシレイオス二世]の妹と結婚し、[ギリシア正]教に改
宗。農民の農奴化が進んだ。
・1237~1240 年、モンゴルが侵入。[バトゥ]によってロシアの大半が征服された。1241 年、ポーランド・ドイツ連合軍
はモンゴル軍に[ワールシュタット]の戦いで敗北。1243 年、[キプチャク=ハン]国のロシア支配が開始。ハンは南ロ
シアのサライに居住。その後、支配(間接統治)が約 240 年続いた([タタールのくびき])。
・[モスクワ]大公国は商業都市を中心として発展し、東北ロシアを統一した。1480 年、[イヴァン三世]はビザンツ帝国
の滅亡後、その後継者となり[ツァーリ]を初めて称した。16 世紀、[イヴァン四世]が中央集権体制を固め、東ヨー
ロッパの大勢力となった。
☆南スラブ人
・[セルビア]人は六世紀、[バルカン]半島南西部に移動、ビザンツ帝国に服属し[ギリシア正]教に改宗。12 世紀に独立
し、14 世紀前半に勢力強大となった。1389 年、オスマン帝国の侵入。コソヴォの戦いで敗れバルカンのイスラーム化
が始まった。
・[クロアティア]人と[スロヴェニア]人は、フランク王国の影響下、[ローマ=カトリック]を受容。14 世紀以降、イス
ラーム教国のオスマン帝国の支配下に入った。
☆西スラブ人
・ポーランド人が[ローマ=カトリック]を受容。十世紀に[ポーランド]王国を建国。12 世紀末からドイツの[東方植民]
にバルト海沿岸を奪われた。
・1241 年、[ワールシュタット]の戦いでドイツと連合してモンゴルに対するも敗北。14 世紀前半、[カジミェシュ三世]
のときに全盛期。法典整備や通貨を発行。
・この間、バルト海沿岸の[リトアニア]人が国家統一を進めた。1386 年、[ドイツ騎士団]に対抗し、両国合体し[リトア
ニア=ポーランド]王国となり、[ヤゲウォ]朝が成立。15 世紀にもっとも強大化。
・七世紀、[チェック]人の国家、モラヴィア王国を建設したが、九世紀にマジャール人に征服された。その後ローマ=
カトリックを受容。
☆スラブ人以外の民族
・トルコ系民族[ブルガール人]人はバルカン半島に移動。七世紀、第一次ブルガリア王国を建国、スラブ人と同化し、
ギリシア正教に改宗。その後ビザンツに併合。聖職者[キュリロス]によって[キリル]文字が作られた。12 世紀にビザ
ンツ帝国から独立(第二次ブルガリア王国)。14 世紀、オスマン=トルコの支配。
・ウラル語族の遊牧民[マジャール]人は先に西進した[アヴァール]人などを同化。九世紀末、パンノニアに移動後、定
住。955 年、[オットー一世]と戦い敗北。十世紀末、[ハンガリー]王国を建国。[ローマ=カトリック]を受容。
・バルカン半島のドナウ川北岸、ローマ帝国の属州となって以来、ラテン系ルーマニア人が居住。スラブ人・ゲルマン
人・マジャール人の侵入を受けた。
東欧諸民族と宗教
ローマ=カトリック
ポーランド人(スラヴ)・チェック人(ス)・スロヴァキア人(ス)
・マジャール人(アジア)・クロアティア人(ス)
ギリシア正教
ロシア人(ス)・ルーマニア人(ラテン)・セルビア人(ス)・ブルガール人(ア)
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