Page 1 Page 2 Page 3 創立70周年を迎えて 戦後の焼野原の中から

第 70回 記念
を
エ ッセ イ&カ ット
作者
目次
入江 一子
創立 70周 年を迎えて
吉江 麗子
2016年 2月 にら、
と考える
糸 田 玲子
“
あの 日、振 りかえ って"
岡田 菊恵
仲 田好江先生の思 い出
「女流の想 い」
宮原 麗子
シシリーの白い道
塩川 慧子
「女流画家協会」よ何処 へ行 く― 女流創立 70周 年に思 うこと
福島 瑞穂
高尾 み つ
パサデナ展記
竹岡 羊子
北の国から 北国事情
上條 陽子
女性画家の台頭
関口 聖子
女流展 への回想
重石 晃子
70回
展 に向けて
高橋 和
女流画家協会展
志村 節子
わかれ道
佐 々木 里加
没後 15年 記念 野村千春展
「女流画家協会展 によせて」
入江一 子・ 宮原麗子
第 70回 記念 女流 面 家協会 特 集 エ ッセイ &カ ッ ト
発行 日 :2016年 6月 29日 発行 :女 流 画家協会 編集 :(委 員)上 條陽子、吉川和美
女流画 家協会事務所 中村智恵美 方 〒 210∞ 24川 崎市川崎区 日進町 1-2-307 TELoFAX:044-272-5200
http://joryugakakyokai.com
4
創立
70周 年 を 迎 えて
入江 一子
戦後 の焼野原 の 中か ら 「女流 の団結」 で、三岸節子、森 田
元子先生な どで女流画家協会を立ち上げました。 私 も引揚 者
として、郷里の萩か ら第 2回 創立会員 として駆 けつ けました。
日本 の 洋画壇 は まだ 男性 中心 の 世界 で、三 岸 節子 先生 も
「女性は会員 にしない」 と、所属の会か ら拒否 され、女性 蔑視
の風潮があ りま した。 先生が こぶ しを振 り上げ、涙なが らに
話 して いた ことを思 い出 します。
お互 いに助 け合 い、女流画家展 を生活 の第 一義 に置きがん
ばって来 ましたが、その後、女流画 家は世界 に羽ばたきま し
た。 フランスのパ リ近代美術館で第 9回 国際美術展、 ニ ュー
ヨー クの リバーサ イ ド美術館、 カ リフォルニアのパサデ ィナ
で 日米合同展な ど、その存在 を世界 にアピール して まい りま
した。
「女流は作品 で勝負 しろ」 と桜井浜江 さんが 叫んで いま し
たが、安井賞受賞者 3名 を出 した ことな ど、 男性 に負 けな い
作品を発表 してまい りました。
女流画家 の仲間 では、 よ く写 生旅行 の会 を いた しま した。
仲 田好江先生 とは、宿泊先で卓球 を した ことも思 い出 します。
赤松俊子 (丸 木俊)先 生の丸木美術館 にも訪れ ました。野村
千春 さんを 日野市 に訪ねた とき、広 い農地 の 中に色 々の野菜
が植 えてあ りました。 自称 「にわ と り小屋」 と言われ るア ト
そ の ときご一緒 した桜井浜江、土田次枝、高須輛子、織 田
彩子、野村 千春 さん も亡 くな り淋 しい限 りです。皆 さん仲 良
く女流展のため に事務所 を引き受 けがんばって くだ さいまし
た。
私 は創立会 員 の生 き残 りの一 人 にな って しまいま したが、
今年 5月 に 100歳 の関所 を越えて、加齢 をなん とか気力でが
んば りた い と念願 してお ります。 10月 26日 よ り日本橋三越
本店 で、 2017年 1月 27日 よ り上野の森美術館で 「100歳 記
念展」 を開催 いた します。
女流画家協会 70周 年記念展 をお祝 い し、 長 い問お 力添 え
リエで、大 きな釜でゆでた とうもろ こしをハーモニ カを吹 く
よ うにして いただいた ことな ど懐か しい思い出です。
賜 りました皆様 に感謝 し、御礼申し上げます。
2016年 2月 にふ と考 え る
吉江 麗子
「人間に上下無 しJあ 、そ うか ?じ ゃあ先生 もく さん>づ
けで良 いのよね。かつてそんな 自由な空気 の学校 で学んだ私。
行 き、零戦の部品造 りだ。 給料か ら月謝 もとられて二年間 ほ
ど無遅刻、無欠勤、表彰 された りして。その間 日本 中の都市
頭 の切れる学友達 の中美術だけは何 とか 前向きで女子美入学。
しか し 1940年 代太平洋戦争は激 しさを増 し男子学 生は戦
地 へ。我 々画学生 も描 くどころではな く学徒動員で軍 需 工場
は米軍 の空襲で焼野 ヶ原、 グ レイオ ブグ レイの何 も無 い広 い
空間忘れ られな い。最後 は私 も死 を覚悟 して いた。 あの時代
は一体何だ つたのだろう ?多 くの国 。人に迷惑 をかけて !!
1945年 夏原爆投下。 あ っけな く敗 戦。 時 の権 力者失墜。
とまどう心 と生きていた という喜び。衣 ・ 食・住す べ て乏 し
か った けれ ど学校 も再開。 三 年生 の 9月 、教室の中の桜井先
生の誠実な ご指導今 も私 の創 る心の原点だ。そ して婦人参政
権、女性 の地位向上、 日本 中が 上下無 しの風 潮 に沸 いた良き
時代 のあの頃た しか美術家連盟 もそ の姿勢だ ったな ?女 流画
家協会 も男性 中心 の美術界を横 目に、 様 々な会の女性 たちが
平等な絵描 きの集 ま りを目指 して出発 した。
70年 後 の現在 さて どうだ ろ う ?参 加 人数が増 えた ことも
あって肩書 きは何段階かに、 これは一種 の陳列 の整理 のため
と私は勝手に思 つているけれ ど…・。
しか しや っぱ り、あ ゝや っぱ りじわ じわ と権威 にのっか り
た いのっか ったつ も りの一部絵描 きもいる。 人間つて残念な
いきものだ。
アー トは黙 ってあ したの 自分 を探す旅、 100年 後 の評価は
現在誰 にもわか らな い。
“あ の 日、振 りかえって "
糸 田 玲子
70回 展、色んな ことがあったけれ ど、 92年 の生涯 を振 り
かえるとき矢張 リー番強烈なのは、 あの 日………。8月 15日
の照 りつ ける暑 さのなか、 不明瞭な短波放送 の玉音。異様 に
静かだ った夏 の 日。
そ の夜、戸 を開け放 って歌 々と電灯 をつ けた ときの解放感
と不安感。 当時、台湾台北市 に住 んで毎夜の空襲 におびえて
ア∼や っと終わつた"と いう気持ちは生涯忘
暮 らしていた。 “
附記
70年 の平和 で今 の私達がある。
今、歴史 をまき戻そ うとす るひそかな不安 を感 じている。 自
然災害 の多 い 日本 に人災 まで起 らな いよ う。言 いた い ことも
口に蓋 をし、疑間を口にすれば"外 では決 して言 つてはいけ
な い"と 言 われ、上の言 うことには唯 々諾 々。そんな時代 に
戻 らな いよう、はっき りNO lと 言える私達であ りたい。
れることができない。
そ の後 の父 の死。母 と 2人 の身 の廻 りだけの引揚 げ。 身一
つになって いた ら若 い とい うだけで何の不安 も感 じる ことな
2016年 3月 11日 記
く、 これか ら思 い つき り絵 を描 いて ゆけるんだナ ンテ只々希
望一杯 にふ くらんで いたっけ。本 当に若 さって財産ナ ンダ。
1949年 の美術 団体連合展 には じまって新制作展 と出品 を
つづ け、女流展 には 8回 展か ら休む ことな く出品 して いるこ
とな ど、改めて長 く描 いて きたナアと思 う。
で も、 まだまだ ¨・。 もっと良い絵が描 きた いと残 り少な い
人生 をもうチ ョッ ト引き延ば して生きて いる毎 日です。今年
も色 々予定が つまって (幸 いに)い るので皆 さんに見て頂き
た いな と思ってます。 とゆうことでよろ しくお願 いしますネ。
仲 田好江先 生の思 い 出
岡田 菊恵
女流展 は戦争中に多 くの社会組織 に動員があ つたよ うに何
等か の国に対 して協 力す るように命令が出て奉公隊 として絵
で来た ものだ と思 います。三岸先生は早 々に退会 され 未だ外
国に行 くの も大 変な頃 に岡田節子・ 桜井悦両先生 の外国研修
画 の協 同制作 をした り工場で働 いた りしました。戦 争が終わ
り平和が来て、新た に女 の画家 の集 ま りとして女流展が誕生
に桜井悦 さんの リュウマチの発病 と女流 としては大 きな二 人
の指導者 を失 つたのです。その後五十年間を引き受けた のが
しました。その主 軸が三岸節子先生で した。 大住閑子先生 の
仲 田好江 (菊 代)さ んで した。 夫君が 日本 にバ ウハ ウスを紹
話では二人や二人 と組み各 自で個人宅 を訪間展覧会 の出品参
介 した仲 田良之助氏であ りご理解 もあった事 で多 くの人脈 を
作 り会の為 に運 営 にも配慮 され紹介等 も良 くなさっていまし
加 を募 って歩 いたそ うです。初め の頃 の先生方 の ご苦労 は大
変 であった と思 い ます。未だ何 も無 い頃です。 よ くもここま
た。気 の強 い人で批評家 の偉 い方で もす ぐ電話 をされ ご自身
の意見 をいわれて ました。女流が段 々大 き くな り内容 も高 く
々 ″ F ル タを︶
l像
な りこれ も折 り折 りの委員 と会 員 と一般 出品者 の協 力があっ
て こそ と感 じます。仲 田先生は笑って、今 一般 出品で 出品 し
た らきっと私 は落選 となるか も知れ ません と言 ってお られ ま
した。 日常生活 を見て くれた 岡田 ヒロ子 さんが世話 して くだ
さったので九十六才 まで長生きされ ました。
関西 の大地震 のあった春四月に三鷹の病院で亡 くな られた、
理 由はわか らな い、お墓 もわか らな い ま ゝ二 十年が過 ぎて し
まった。 ご主 人 の墓は鶴見総持寺であるがそ こにははいれ ま
せんで した。 きっと天空か ら女流 を守 って見て いて下 さる と
思 います。
女流 も今後 は どんな事 に対 して も全体 ひ とつ にな り発展の
ために活動 して行 きた い と思 います。
合掌
「女流 の想 い」
終戦か ら4年 目の 1949年 、 日本人 として初 の ノーベル賞
を湯川秀樹が受賞 した。 当時女子美術大学 の奨学生だ った私
宮原 麗子
作品 と共 に、私 の作品 も展示 され、大変感動 した。女流展が
70回 記念展 を迎える今年、多 くの公募団体 の 中で、 色 々な会
1947年 に第 1回 女流画家協会展が開催 され、 創立 メンバ
ーで あつた森 田元子・ 桜井悦 。三岸節子の 3名 は女子美術大
派 を越えた多様性が特徴 の女流展。創立 メンバ ーの熱意 と意
義 を忘れず、若 いパ ワー と融合 して前進 したい。大村先生の
言葉 に 「人の真似 をするとそ こで終わ り」 とある。
学洋画科 の 同窓生で もあ り、私 は大学、女流展 において も大
変お世話 になった。
今後 も流行 にとらわれず、マイ ペー スで制作活動 を続 けて
行きた い。
は、博士 の講演 を聴 き、新時代 を予感 した。
桜井先生か らは、私 の故郷 の岡谷風景 の制作作品 について
「現場 の仕事は大切だか ら今後 も継続するように」 と講評をい
ただ いた。そ して 1952年 に初入選、 1955年 には会員推挙 と
な り、そ の後 60余 年。春 は女流展、秋 は一水会展 出品 を続
け、今 日となる。
森田元子先生は、 当時男性中心であった 日本社会 において、
新聞小説 の挿絵 を手掛 ける等、女流画家 として実 に素晴 らし
い存在感 を放 って いた。三岸節子先生は長 く南 フランスに定
住 し、 ヨー ロ ッパの作品を数多 く残 している。
私 の娘 も女流展、 34回 の出品者 であ り、文化庁の派遣後ス
ペ イ ンに在住。私 は娘 と共 にスペイ ン各地 を写生取材 し、今
もそ の題材 を元 に 自宅 ア トリエのモチー フと構成 して、制作
を続 けて いる。
偉大な先輩方 の作品は、 この度 ノー ベル賞 を受賞 された大
村智先生 の創設 した韮崎大村美術館 に多数収蔵 されている。
2011年 に開催 された 「女流画家 の世界展」 では先輩方 の
シ シ リー の 白 い 道
石 ころだ らけの自茶 けた禿山をい くつ も越 えて、車は昼下
塩 川 慧子
教会 に面 した広 場 に着 く。真夏 の太陽 を激 しく照 り返 した全
空は深 く青い。暑 い、空気が乾 いている、飲み物が欲 しい。
こんな小 さな村 の教会 に限 つて素晴 らしい絵や彫刻があるは
ずなのに ¨ ……、 と思 って も、村の表情は素っ気なかった。
゛
射 るよ うに降 り注 く陽光 は、二 人 の影 をくっき りと石畳の
く人影のない広場は時を止 め静 ま り返っていた。
上に落 した。
が りに小さな村 に入つた。
四十年前 の こと。石畳 に軋 んだ音 を立てなが ら村 の 中心、
広場 を取 り囲んだ どの建物の扉 も閉 ま り、下 された ブライ
ン ドで閉ざされた窓は、厳 しい陽光 とともに、 侵入者 を拒ん
でいるようにも感 じた。
石畳 を歩 く二 人の足音や声は、周 りの石の建物 に大 きく反
響 して広が り、鳴 り響いた。
彼女はふ と、 ある種 の気配 を感 じて右後 を振 り向 くが、そ
こには何 の変化 もな く、広場は静 ま り返 っている。彼女は少
し奇異 に思 い、神経 を研 ぎ澄ました。
間をお いて、 いきな り左後 を振 り向いた時、
ブライ ン ドの隙間 に白い レースの カーテ ンがわずか に揺れた
のを見逃 さなか った。首 を動かせな くなった彼女は、それか
ら、ゆっくりと眼球だけを動か し、あた りを探った。
今 まで気 づかなか った ブライ ン ドが、 いずれ もわずか に開
け られ、 レースのカーテ ンの隙間か ら光 った 目が二つず つ並
んで いる。よ く見ると、縦 にいくつ も重なっているのだ。
彼女 は硬直 して動けな くな り、傍 らの夫は神経質 になった
妻 の変化 をいぶかったが、やがて、彼 も悟 る。
もはや、 日もきけな くなった妻 を促 して車へ誘 い、 一言 も
交わ さず に村 を出た。
車は白い砂煙 を長 く引き村か ら遠 ざかった。
「女流画家協会」 よ何処 へ行 く
一 女流創 立 70周 年 に思 うこと
福島 瑞穂
NHK教 育テ レビに出演 された三 岸節子先生が 「私 が女流
をやめる時、女流 をつぶ してやめるべ きで した」 と語 られた。
創立 に参加 された仲 田好江・ 桜井浜江両先生 に三岸先生 の本
意を訊ねたが、答えはなかった。
私 は 56年 間女流 に出品 して きた。創立 メンバーは百歳 を
迎え られ る入江 一子先生お 一 人 とな った。 女性差別 という社
会 に激 しく立ち向か つた創立時 の気概は、今 の女流 の私達 に
”一
ギ柱 一
はない。 しか し少な くとも今 日の女流画家協会 を築 いた人達
゛
の栄光 の上に貴女があ く らをか くことは許 されない。「女流画
家協会Jの 役 目は終わったのか。
パサデナ展 記
高尾 みつ
パサデナ展
記
パサ デナ展は女流画家協会 の海外展 の 中で特筆す べ き規模
日本側 の尽 力者は 日本航空株式会社 (初 代社長柳 田誠 二郎
の展覧会 の一つで はな いか と思 います。42年 経た現在画集だ
氏 は女流画家協会 に 日航賞 を提賞 して くだ され 美代子夫人は
女流画家協 会 の委 員 )中 日新 聞社、在住 画家戸沢 タ ミ夫妻
けが残 っていて次第 に印象が薄れ てい くのを危惧 し、 この機
(夫 君は航空パイ ロ ッ ト)。
会 に思 い出だせる範囲で記録 してお きた いと筆 をとりました。
と云 うのは この展覧会 のオー プニ ング レセ プシ ョンに女流画
日本航空 ロス アンゼルス支局長近
。
の
あき子夫妻等そ
他多 くの方 々の支援があ りました。
藤利夫
家協会か らは柳 田美代子委員 の出席 に加 えて私が運 よ く出席
出来たか らです。 この東西女流画家展 はテ レビ、新聞な どで
私がパサ デナで ご一緒 した柳 田美代子夫人は ご主 人共 々女
流画家協会 に貢献 して下 さいました。 柳 田委員は絵画だけで
取 り上げ られた くらい大きなイベ ン トだったのです。
はな く和服研究 家 として も実 績 のある著 名人 であ りま した。
展覧会 の 要項 は以下 の通 りです。
パ シフィカルチュア財団
「東西女流画家展J WOMEN PAINTERS
会場 パ シフィカルチュア美術館
場所
期間
EAST― WEST
カ リフォルニア州パサデナ市北 ロスロー ブル町 46
1974年
7月 17日 ∼ 9月 30日
画集 の 冒頭文 は下記 の方 々が執筆 しま した。
州知事
総領事
会長
館長
RONALD REAGAN
KEIICHI TACHIBANA
MRS GEORGWE ATHOS ADAMSON
DR.」 AC CARMICHAEL
東 西女流 画家協 会展 は ア メ リカ側 のパ シ フ ィカル チ ュア財
団 の 企 画 で 女 流画 家協 会 に offerが あ りま した。 日本側 は 委
多方面 に造 詣深 く立派な作品集 を出版 され ま した。 平成 1年
他界 され、私は岡田節子先生神戸文子先生 と築地本願寺 の告
別式 に参列致 しました。 委員会 には必ず 出席な さってお られ
員が作品 を 1点 ず つ 80号 以内計 40人 が出品、主催者側 の西
部女流画家協会は 70人 の 出品で作 品 の大 きさは 日本側 と同
た温厚な柳 田美代子委員を偲びなが ら書かせて頂きました。
じくらいで した。 展示 に係わった財団の理事 と実行委員は 20
2016年 4月
名、美術館 は 15名 とカ リフォルニ ア美術委員会 の メンバー
で した。
北 の 国 か ら 北国事情
女流画家協会は 2016年 第 70回 記念展 を迎えました。輝か
しくもこの歳 月の重みを生き抜 いた女流展の今 日に思 いを馳
せなが ら、ふ と私は女流展 に出品す る経緯 の周辺 の ことな ど
を思い出 しました。
会 の記録 によれば 1962年 夏、女流委員 と地元 出品者 によ
る第 1回 女流展が北海道放送主催 によ り開催 され ました。 当
時私 は福 岡か ら移住 したばか り。会場で初めて桜井浜江先生
にお 目にかか り、 い きな り女流 展出品 を奨め られ ま した。 先
竹 岡 羊子
んは"日 勝美術館 を愛 し、女流展贔贋 ?を 自認 の故菅訓章館
長 の意志 を大切に継 いで行 きた い と思 い ます。
過 日、雑談 の 中か ら思 いがけな いス ポ ンサーサ イ ドの女流
展観 を伺 い ました"
長 い ご交誼 の間柄 にして珍 しく、北国か らの想 いと併せ て
そ の一 端 を記述致 しま した。耳 を澄 ます ともう第 80回 展 の
足音が聞 こえるよ うです。心 して頑張 らなければ と思 う日々
です。
生の トツ トッ と心 をこめて語 る女流 展 の歩み に感動、4年 後
の第 20回 展 に初出品 し現在 に至 っています。
い ま女流展の委員会 (東 京)に 出席 し、その度 に気 になる
々 "`:,ol“
3● ユ イ
ヽ7島
ことは、 世 の 中は概ね 中央集権 の体制 にあ り女流展 もその限
りに非ず、会 の運営 に携わ る人たちの大 へ んな労苦 を目にす
る時、遠 隔地 にいなが ら何かできることはないか ?思 案 の末、
広告 の掲載依頼 を思 い付 きま した。 先ず神田 日勝美術館外二
つのギ ャラリー に直訴 !担 当者か ら掲 載 OKの 連絡 を受 けた
時 の驚 き と喜 びは、 い ま思 い返 して も心が震 えます。 初回 の
広告掲載か ら今 日まで引続 き図録 に一頁 の広告 を常 とす る広
告主に依頼人として感謝の限 りです。
“
第 70回 女流画家協会展 。おめで とうございます"と さ
いとうGalleryか らの ご挨拶。 “
女流は女だか らという立場を
武器 と しな い強 い集 団 に思 え ます "と は アー トホール 東洲
館 々長・ 渡辺貞之氏。神田 日勝美術館学芸員の川岸真 由子 さ
女性画家 の 台頭
昨今世界で女性画家 の活躍はめ ざま
しく、つ くづ く時 の流れ の早さと時代
の進化 と変 化 を感 じる。 つい数 10年
上條 陽子
題 になった。 しか し、 数年後突如亡 く
なった。 あま りに早 い死 に衝撃を受 け
て今 で も忘れ られないが、 数年前、横
前 までは男社会 の 中で女性画家達は無
名 で 殆 ん ど世 に出る ことはなか った。
須賀美術館で間所沙織展が開かれ、久
戦争が終わ り女性達は解放 された。 女
性 の地位、人権、人種差 別、性差別な
桂 ユ キ さん と晩 年 10年 間、 グルー
プ展 で 一緒 だ った。「私 は女流展 をや
ど社会問題が盛ん に取 りあげ られ、次
めたのよ」 とおっ しゃったが、理 由は
第 に女性 も男性 も差別な く自由にな っ
てきた。戦前女性達は家庭 に東縛 され、
桂 さん、私 と招待 された。その後、三
子育 て、 炊事、洗濯、縫 い物等家事 に
追われ絵 を描 くことは大変な労苦 と努
力を強 い られた。
私が出品 し初めた頃、芥川也寸志 の
奥 さんで芥川沙織 さんは、 いろいろな
雑誌 に文章な どを書 き、女流展 に布 に
描 いた作品を出品 していた。 芥川夫人
として一世風び、そ の後、離婚 し、 間
所氏 と結婚、 ニ ュー ヨー クヘ渡米が話
しぶ りに全作品を見 ることが 出来た。
聞かなかった。ある時、船越保武先生、
人 とも病気 になった。 桂 さんは癌 にな
り 「お辞儀 をす るとスカー トがず るず
ると落ちるのよ」 と面 白そ うに云われ
た。それが最後だった。 東京都現代美
術館 の回顧展は圧巻であった。
女流展は女性画家台頭の一翼 を担 っ
て きた。 70年 間 の女流展 は女性 史 の
い しづえ として大 きな役割は、 多大 で
あつた。今後は若い人達 に託 される。
女流展 へ の 回想
女流画家協会展 へ の初出品は第 14回 展 で私は女子美 の一
年生で した。それか ら今 まで幸運な ことに一度 も休 まず 出品
して来 られ ました。 当時はキ ャンバスを巻 いて電車 で持 つて
行 き彩美堂 の木枠 と額 を借 りて 自分 で張 り出品 していました。
結構長 い間そ うして いたがそ の頃 自分が どんな絵 を描 いてい
た のかあま り記憶があ りません。懇親会 には出席 しなかった
関 口 聖子
しいが今 の女流 には魅力が沢 山あると思 い ます。今、会の体
質 と雰 囲気が少 し変わ つて来 ているよ うに思 えます。お互 い
ひ とりの絵描 き として地面 に 自己 の根 を しっか りと張 つて い
れば方向を誤 る ことはないで しょう。会 として皆 で 前 に進ん
で行 くことを願 つてお ります。
が搬入出は 自分 で して いたため受付で若 い先生方が個性的な
お洒落 を してはつ らつ とテキパキ と仕事 を こな してい らっし
ゃる姿 に憧れ を持 ちま した。 この世界 に入 り私 もあんな風 に
な りた いな と思 った もので した。 また会場では作品を見て廻
っている先生が どなたであるか遠 くの方か らで も判 り感激 し
ました。佐伯米子、 岡田節子、桜井浜江、深沢紅子、秋元松
子、島あふひ先生な どどこかで見た写真そ の ままで した。三
岸節子先生 は女流はやめてお られ ま したが個展会場な どで良
くお見かけ しました。現在 もご活躍の先生を含 める と女流画
家協会 は 日本 の女性画家 の多 くが宝石のよ うに輝 いている会
だ と思 い ます。画風 もユニー クで女性 な らではの魅力 と女性
な らではの思 い付 きにあふれ若 い方 々のポジテ ィブなエ ネル
ギー には 目を見張 ります。創作 のスタイルや考 え方や作品 も
時代 と共 に早 いス ピー ドで変 わ り続 けて い ますが女性 は多忙
な生活 の 中で何 で もキ ャッチす るのが早 い。昔 の女流は懐か
70回 展 に 向けて
重石 晃子
女流画家協会展 も 70回 を迎え、誠 におめで とうございます。
戦後荒れ果てて、絵 を描 くことの難 しい時代 に発足 した女
流画家協会です。発足に当たって、 まだ焼け跡 の残 る街であつ
れています。昭和 30年 は深沢紅子先生が まだ ご健在 で、私は
初 出品。盛 岡 にお いで にな った先生方が何方で あつたのか、
たのに、興奮 して皆集 まった とか、三岸先生がテーブルを ドン
と叩 いて 「女性 は団結 しなければな らない」 とおっ しゃった
盛岡市で も昭和 26年 と 30年 の 2回 女流画家協会展が開か
当時はお名前 も分か りませ んで したが、9月 だ と言 うのに と
とか 聞き及 び ます。発足 に携わった方 々の熱 い情熱 と、ただ
て も寒か つた ことが思 い出され ます。大住閑子先生、桜井浜
江 先生、野村 千春先 生、仲 田好江 先生、 中谷 ミユ キ先 生 と
な らぬ ご苦労が偲ばれ ます。
14-5名 の元気な一 団で した。 当時盛岡は本 当に遠 く、東京
か ら 10時 間以 上はかかって いた と思 います。今は もう鬼籍 に
入 られた方が多 くな りましたが、女流画家協会 の 中心 になっ
て支 えて来 られた方 々です。
創立 当時は美術館 まで 自分 で絵 を運 び、搬入 出手続 きを し
た ものですが、それは当た り前の 日常 で した。全て手造 りの
展覧会 です。 しか し会場 の壁面 を飾 る作品群 は、確立 した個
性 と情熱で圧倒 されるばか りで した。 皆 さん ご存知 のように、
女流画家協会 は確実 に発展 し、立派な受賞者 を沢山輩出 して
きました。大先輩 の方 々のご苦労 のお陰な のです。
時代が変わ り、「男女公平」、そ して 「男女雇用機会均等」
と叫ばれて も、世 の 中 に浸透 して行 くのには時 間が掛か りま
す。今 の 日本画壇 は少 しずつ動 いて いるよ うですが、 まだ女
流創立時 に掲 げた 「女性 の団結」は必要 で しよう。女流の存
在 を強 くア ピール し、新 しき時代 に相応 しい女 流画家協会 で
あ りた いと思 い ます。
女流画家協会展
高橋 和
1955年 、女流画家協会盛 岡展が川徳デパー トで開催 され
た。深沢紀子先生は じめ、森 田元子、仲 田好江、赤松俊子、
桂ユ キ子、芥川紗織他、48名 の忽忽たる先生方 の作品が一堂
に展示 された。 当時盛岡の美術学校 の学生だ った私 に とって
この展覧会 は、初めて直 に沢山 の作品 に出逢 える又 とない機
会 であった。エネル ギー に溢れ る豊かな表現 の 1点 1点 全て
が中央か らの新風 を運んで くれ、勇気 を与えて くれた。 私達
の作品 も展示され嬉 しかった。
それか ら長 い長 い年月を、絵 を描 く事 と仕事 の両輪 で歩 き
\
続けて来た。
第 32回 展大住 閑子先生 の事務所 の時 は、 横溝環 さん と二
人で搬入か ら展覧会 終 了時迄、何で も係 として働 いて いた。
女流画家協会か ら初の安井賞受賞者が出た年だった。そ の時
の先生 の晴れやかなお顔は、今 も忘れ られない。
画集 の係だ った第 45回 展 では 岡野 マ チエ先生 と撮 影、 印
層1他 の作業 の為 のタイムスケジュール、作業手順 のマニ ュア
ル を作 つた。撮影 は フィルムを使用 の頃で、 ライ トテー ブル
会 の仕事 は地味な作業の連続 で時 間 もかか ったが、 皆 の経
験 の積み上げで今 に至 っている。 今後 はよ り合理的 になるだ
での校正は裏表、天地 の確認等大変だった。
ろうと思 う。
第 46回 展は林田セツ子先生の事務所だったが、ようよう事
務用品類 をダンボール箱か ら使 い易 い様 に小 引き出 しのケー
スに変えた。単純な事な のだが、変える迄の時間は長かつた。
新米会員 の時は、小川孝子先生・ 岡田節子先生 の研究部 の
唯、深沢先生 の言葉 「女流展は皆 の力で作 り上げて行 くの
です」 は重 い。
女性 の画家 。職業人 の立場は今 も以前 と大差は無 い。 これ
手伝 い。思 い出の 1つ である。
か ら、益 々創立時 の先生方 の志 を大切 に歩 んでゆかね ば と、
心 いた してお ります。
わかれ道
志村 節子
静物 に しろ風 景 に しろ、何か 一つの ものを 自分 の形 に しあ
げて いくのはとて も時 間がかかる ことです。
学生 の頃はダイナ ミックで強い絵 を心掛けていましたか ら、
コン プレッサーな どを使 い元気 の良 い抽象画 を描 いてい まし
た。幸 い、 女流展な どで賞 を戴 くこともできたのですが、描
きなが らもどこかで 自分 の感覚 に沿わな い不 自然な感 じがあ
ることに気付 いていました。
もう一度根元か ら自分 を見直そ う…そ う思 って フランス政
府 の給費留学生試験 に応 募 しま した。運 よ く試験 に受か り、
一 九七二 年パ リに着 いて 小さなパスで留学生 の世話 をす る事
務所 に連れ ていかれ ました。そ こで一枚 の切符 を渡 され、あ
とは一 人で行 きな さいとばか りに放 り出され ま した。切符 の
つ きました。 マルセイユ郊外 の森 の木 々 を抽象化 した絵 を見
せた時、 初めて褒め られたのですが、その時、先生か ら言わ
れた ことは昨 日の ことのよ うにはっき りと覚 えています。
・¨ ものを見なが ら自分の解釈 を見つけ出 し、 何 を残 しど
の色が無駄か を考 えて い くこと、なぜ この色 を使 い、なぜ こ
の線 を置 くのかを問 うてみる こと、 そ うした ことが大切なの
だ。 (そ れか ら先生は続 けて言いました)¨ 。「絵 には具象 とか
抽象 とかの区別はな い。 ほ ら、そ こに描かれた ヨ ッ トだ って
三角形の形をした抽象ではな いか」・¨
やがて一年。
何 とも繊細で心 もとな
行き先はマルセ イ ユ。結局三 日間だけパ リに いてす ぐに南仏
に行 つたのですが、マルセイユでの一年間はほとんど絵を描 く
け込んで いるよ うな淡 い
ことはで きませんで した。あまりに強烈な光 と自然に圧倒され
パ リの光 の 中にいる うち
続 け、 カ ラ ン クで 泳 い だ り、
山 々 を歩 き回 つて い る うち に
日々 は 自昼夢 のよ うに過 ぎて
行 つて しまったのです。
パ リで はエ コー ル ・ デ・ ボ
ザールに籍 を置き、 ピエール・
マ ッテ ィという抽象画 の先生に
く、で も、微か に影が溶
に、次第 にキ ャンバス に
向か いた いという気持 ち
が甦 り、 以降、静物や水
辺 の風景な どを手掛 ける
ようにな りました。
一 九七五年 に帰国 し、それか らず っと女流展 に作品を発表
して今 日に至ってお ります。
「女流画家協会展 によせて」
屈折率 の高 い宝石 を集めると、光が
相剋 して直視 しづ らい事 もある。
それ に して もこの 「女流画家協会」
とは何 と魅 力にあふれ た団体 だ ろ う。
一言 では言 い表せな いので古 い事か ら
書 いてみ る。委員 にな って 11年 。初
佐 々木 里 加
と 同時 に 背 中 をバ ー ン と叩 か れ る。
て こられ た先生 も近 年他界 されて、 も
戦時中 に丘の上でスケ ッチ しただけで
つとお話 を聞きたかった とつ くづ く思
スパイ嫌疑 で拘束 され、 半 日後 に解放
された ものの絵はす べ て没収 とい う経
う。 先生が親 しくされていた先輩 もま
た女流 の故委員 で、 太宰治 の 「饗応夫
験 もされた とき く。今では想像 もつ か
人」 のモデルになった この方は、重 く
ない歴史の中を、絵 を描 きなが ら通つ
熱 く静かな烈 しさを秘めたお作品 を残
出 品 、 初 受 賞 が 1994年 の 春 の 事 。
元 々女子美 の 出身で、 安井賞展 の西武
され た。齢 90を 越 されて もお煙草 を
美術館が 自転車圏 にあ り、会の名前 を
燻 らせていつ も深 く何かを思慮 されて
いるよ うなお貌で い らしたのを覚 えて
よ く目に してお り出 してみた。歴 史 を
いる。
もう少 し遡 ると、私 の 中学校 の美術 の
ご存命 の先生方 の思 い出も沢山ある
先生は、女流 の故委員 の方だ つた。 当
が、 この 10倍 位 の長 さにな るか らや
時はそれ を知 る由もないが、その先生
は いつ もき りりとしてお り、言 うこと
めてお く。
今 自分は この歴 史 のつ まった団体 の
会計 で、 宣伝ポスター も作 らせて頂 い
を聞か な い男子 達 によ く響 く声 で一
喝、す るといつのまにか悪がき共は大
入 しく絵 を描 きは じめるのだった。聞
たが、 とにか くこの会の為 に何か した
けば先生 の母 上は 岡山の県議会議員 で
出品 され る 方 の 数 も増 えて、 自分 が
そ の元 で働かれた事 もあ り、お作品 も
白く凛 々 しい巨木が画面 を横切るダイ
ナ ミズム。逢 えば 「元気か│?」 の言葉
100歳 になって もいや あと何百年か経
か った。 お客様 に沢 山い らして頂 き、
って も、 この愛す べ き宝石箱が存在 し
ていて くれた らいいと、そ う思 う。
己
念 野 村 千 春 展
没後15年 言
なつ か しく、若 い頃 を思 い出 します。 当時、桜井浜江、
織 田彩子、土田次枝、高須輌子様な ど、 一緒 にスケ ッチ旅
行 をし、宿では女流画家展 の、 団結な ど語 りあい、絵 に情
熱 をかける楽 しい 日々で した。現在は生きの こりの一人だ
け にな り淋 しい限 りです。
野村先生 のア トリエ には、」R日 野駅 の近 くの畠 の 中 に
あ りました。 まわ りは野菜畑で、 いろい ろた くさん育てて
い ました。 トウモ ロヨシな どいろいろ育てて いま した。 ト
ウモ ロコシな ど、大 きい釜 の中でゆで、 丸か じりで食べ さ
せて頂き、野村 さんの絵 を想像 させ る生活で した。
野村 さんの ご主人は、「たき火だ、た き火だ」 の歌 で有
名な 「たつみせ いかJ先 生で、私 のつ とめて いた学校 の校
歌 も作 つて下さいました。
今で も和服姿の野村 さんが笑 う声がき こえる様 です。
当時 の女流画家 の純粋な助け合 い、絵 にかける情熱 をと
りも どした い今 日此 の 頃 です。
2015年
5/21-8/24
市立岡谷美術考古館
御主人様 の事 も「お酒が大好 きでね 一 ¨・ 」
展で御 一緒 の時、
と話 されていたのを懐か しく思い出す。御主人は世代 を超
えた名曲 として歌 いつがれている童謡 「たきび」 の作詩 で
有名な巽聖歌 (歌 人・ 児童文学者)で ある。
画業 70年 、 二つの美術館 の追悼展会場 で先生 の、 自然
や大地、 また素朴でた くましい野の花な どの作 品を前 に し
て改 めて先生の、ひたす ら黙 して制作 し続 けた真摯な姿勢
に心よ り感月
侵した。
(宮 原麗子)
1908年
故 野村 千春 1947年
画歴
諏訪郡平野村生まれ
女流画家協会に創立会員として参加
1952年 、54年 女流画家協会賞を受賞
2000年 逝去 (享 年91歳 )
(入 江 一 子 )
野村千春先生の思 い出
2015年 、野村千春先生 の没後 15年 記念展が故郷 。長野
県立岡谷美術館 と諏訪市美術館 で 開催 された。私 は野村先
生 と同郷、又長野県諏訪湖 のほとり岡谷東高校 の同窓生で
もある。私 の父、高橋貞 一郎が春陽会 に出品 して いた頃、
よ く私 の実家 に父 を訪ねて こられた事 を覚えて いる。女流
野 いばら (1996年 )
ア トリエの野村千春展さん
女流画家協会 の思 い 出
森 田元子 先生
仲 田好江先生 (1985年 11月 15日
)
第 11回 展 (1957年 )
[
岡田節子先生 と西村百古先生 (1985年 11月 15日
)
青木純子先生
`
二キ
原光子先生 (1998年 4月 20日
)
競
女流画家協会