2016/5/1 門戸聖書教会 礼拝説教 コリント人への手紙第一 講 解 35 Ⅰコリント 16:1-24 恵みを分け合う教会 1.「つながりを生きる」恵み クリスチャンになって良かったなあと、思 うことのひとつは、日本のどこに行っても、いや、世界のどこ に行 っても、そこに教 会 があり、主 の民 がおり、すぐに兄 弟 姉 妹 としての親しい交 わりをいただくこと ができるということです。 先日、この秋からアメリカに留学される T・R 姉からメールをいただきました。R ちゃんが入学された 大 学の国 際 学部 は、1 年生 の時に、みな留 学することが義 務 付 けられているそうなのです。その留 学先が決まったというメールでした。 「ミネソタ州、T 大学になりました。おすすめの教会を教えてください」というメールでした。 私は、どこかで聞いたことのある大 学の名 前だなあと思 いながら、ミネソタと言えば、K 姉のお姉 さ ん、E・M さんが住んでおられる所だなと思い出しました。それで、住所録で E さんのお家の住所を 見て、この大 学の住 所もインターネットで検 索してみました。すると、何と、E さんのお宅から車で十 数分の所にある大学だったのです。E さんは、年に 1,2 回、日本にも帰国され、その時は門戸の礼 拝 にも出 席 してくださいます。門 戸 の「祈 りのリクエスト」にも「ミネソタ州 で日 本 人 学 生 伝 道 をしてい ます。留 学生たちの救 いのために」と、祈 りの課 題を挙げてくださっております。 ああ、E さんが留 学 生のための働きをしておられる大 学だったのだと合 点がいきました。道 理で聞いたことのある名 前だ ったわけです。 知る人のいない外国に行くことをとても不安がっていた R ちゃんに、そのことをお伝えすると、「わー い !!!!!」(エクスクラメーションマーク×5 本!)と喜びのお返事がきました。 不 思 議 な神 様 の導 きだと思 います。世 間 は狭 いということの一 例 なのかもしれません。 でも、世 間 が広い狭いという以前のこととして、R ちゃんと、E さんが、それぞれ神様につながり、イエス・キリスト のからだである教会 につながっているからこそ、こういう不思 議な導きも経 験させていただけるわけで すね。 国がちがっても、世 界のどこに行っても、イエス・キリストを信じ、主イエスを愛する人は、目に見 え ないキリストのからだ=聖なる公同 の教 会 につながっている。聖霊 によって、ひとつのつなが りを生き るものとされている。だから、世 界のどこに行っても、そこで親しい主 にある兄 弟 姉 妹と出 会 えるわけ です。たとえ、知 り合 いがいなくても、すぐに知 り合 いになれる。そして、一 度 交 わりを持 ったら、 たと えどんなに遠 くに離 れ離れになっていても、互 いに祈り合 う交 わりを生きることができる。キリストにあ ってひとつ。その「つながりを生きる」恵みの素晴らしさを思わされるのです。 1 2.エルサレムの聖徒たちへの献金 さて、いよいよ、長く学んでまいりました『コリント人への第一の手紙』の講解説教も、今日 の 16 章 のところで最終回となります。この箇所は、手紙の結 びのところです。それで、何かの教えが記されて いるというよりは、実 際 的 な指 示 や連 絡、挨 拶 が中 心 になっております。ある意 味 で、説 教をするの が難しい箇所なのですが、当時の教会の様子が実に生き生きと記されているところ でもあります。 まず、最初に出てまいりますのは、献金についてのパウロの指示です。 Ⅰコリント 16:1 さて、聖徒たちのための献 金については、ガラテヤの諸 教会 に命じたように、あな たがたにもこう命じます。 16:2 私がそちらに行ってから献 金を集 めるようなことがないように、あ なたがたはおのおの、いつも 週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。 ここでいう「聖 徒たちのための献 金」とは、教会の活 動のために用 いる通常の献金 のことではなくて、 今 日 でいう「義 援 金 」にあたるものです。 3 節 に、「あなたがたの献 金 をエルサレムに届 けさせましょ う」とありますように、エルサレムの教 会 の困 窮 したクリスチャンたちを助 けるための義 援 金 を、パウロ は諸教会で募っていたわけです。 でも、エルサレムの教会に義援金と聞かれて、変だなあと思われた方もおられるかもしれませんね。 元々、キリストの教 会はペンテコステの日にエルサレムで誕 生しました。聖霊 に満たされたペテロた ちの説教に心刺された人々、三千人がその日のうちにバプテスマを受け、教会がスタートしたのです (使徒 2 章)。いわば大教会だったのです。義援金など必要としないのではないか。しかしこの頃に は既に、迫害が厳しくなり、ステパノが殉 教し(使徒 7 章)、エルサレム教会の殆どのメンバーはあち らこちらに散らされてしまっておりました(使徒 8:1)。それでもかろうじてエルサレムに残っていたクリ スチャンたちは、迫害と困 窮の中におりました。飢饉も追 い打ちをかけたと言われます。そういうエル サレムのクリスチャンたちを、何とか支援しようと、パウロは義援金を呼びかけていたわけです。 しかし、これは中々すごいことだと思うのです。コリントはギリシャの町です。エルサレムは、遥かユダ ヤの国。直線距離で地中海を横断 すれば、1000 キロ。陸路で行くと、2000 キロくらいでしょうか。な にしろ、2 千 年前の話です。銀行 送 金も、宅急便もありません。青 森から鹿 児島 中 央までがちょうど 2000 キロだそうです。その道のりを、ひたすら自分で大金担いでいかなければならない。 Ⅰコリント 16:3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、 あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。 16:4 しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。 でも、私がすごいなあと思うのは、単に、大変な道のりを超えて献金を届けた ということ以上に、ギリ シャ人 =異 邦 人である彼らが、遥か彼 方 の、ユダヤ人であるエルサレムのクリスチャンたち の苦 難 に 思 いを馳せたということです。国も文 化も習 慣も異なる人たち。恐らくは、一 生 出 会 うことのない人 た ちです。今と違って、写真やビデオで報 告を見 ることもできない。ただ、話を聞 いて、想像するしかな い。しかし、そこで自分と同じキリストを信じ、愛している人が、苦しんでいるということを聞いて、じっと してはいられない。何かせずにはおれない。パウロは、こんな報告をしています。 2 Ⅱコリント 8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたが たに知 らせようと思います。8:2 苦しみゆえの激しい試練 の中にあっても、彼らの満 ちあふれる喜 び は、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。 8:3 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、 8:4 聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。 今回、熊本で震災が起こって、すぐに熊本の教会 の様子 が伝えられてきました。JECA の教会や それ以 外 の教 会 の報 告 。中 に、全 壊 した熊 本 東 聖 書 キリスト教 会 のご様 子 もありました。(写 真 紹 介)。 T 姉のご両親も被災されて、車での生活が続いているということは先週申し上げました。母教会 の 熊本ナザレン教 会も、会堂に天上のパネルが落下してきて、使用不 可となり、1 階 のフェローシップ ルームで礼拝を持っておられるとのことです。(写真紹介)。 熊本東聖書キリスト教会 の事も、実は、初めて知りました。熊本ナザレン教会も、3 年前に T さんが 来られた時に、ホームページを見たくらいで、実際はどんな教会なのかよく知りませんでした。それが、 今回の震災があったことで、遅まきながら祈らされました。 試練があるということは、つらいことです。苦しいことです。しかし、その時に初めて、「祈られている」 恵みを知るということがあります。私たち門 戸聖 書 教会も阪 神 大震 災の時に経験したことですが、本 当 に多 くの教 会 が、痛 みを少しでも共 有 しようと、祈 ってくださり、義 援 金 を送ってくださり、中 にはト ラックで駆けつけてくださった方もいた。普 段、知 らない方が、ただ同じキリストのからだに属している というだけで、本当に犠牲を払ってくださった。 キリストのからだがひとつであるということを、私たちはもっともっと覚え、大切にしたいと思うのです。 3.パウロの予定が問いかけているもの 次に、記されていることは、パウロのこれからの予定 についてです。 Ⅰコリント 16:5 私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつ もりでいますから。16:6 そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるか もしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。 16:7 私は、いま旅の途 中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許し になるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。 パウロは、この手紙を書いた頃、8 節にあるように、エペソに滞在していました。しかし、「五旬節」の 後には、ギリシャの北のマケドニア地 方を巡回して、コリントにも行きますよと言っているわけです。そ れも、ちょっと「顔を見に」立ち寄るということではなくて、「しばらく滞在したい」と。そのまま「冬を越す ことになるかもしれません」と。さらには、その後、「どこに行くとしても、あなたがたに送 っていただこう と思うからです」と言っているわけです。 3 私は、最初、これを読みまして、パウロ先生、なかなか面の皮が厚いぞと思ったのですね。この『コリ ント人 への手 紙 第 一 』をご一 緒 に学 んで、みなさんも、気 づかれたと思 うのですが、パウロはコリント のクリスチャンたちに、相 当 厳しいことを言 っています。激 しい言 葉で叱 責しているところもあります。 そういう厳しい態 度で怒っておきながら、近々、あなたがたの所 に行きますよ、準 備 をしておいてくだ さいね、ひと冬 越 すことになるかもしれませんよというわけです。さらには、次 にどこに行 くにしても、 「あなたがたに送っていただこうと思う」 -つまり、旅 費や必 要なものを全て、あなたがたに出してもら いたいので、そちらについても準 備しておいてくださいねと言 っているわけです。これは、私だったら、 中々言えないのではないかと思う。 しかし、ここが大 切なところなのでしょうね。牧師とは何なのか。牧 師は、誰 によって、何のために立 てられているのかが問われるのです。ひとつのキーワードがここにあります。7 節です。 Ⅰコリント 16:7 私 は、いま旅 の途 中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。 主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。 「主 がお許 しになるなら」-パウロは、ただコリントのみなさんが懐 かしいから、近 々行きますねと言 っているのではない。主がお許しになるなら、主の働きのために、行きますと言っているのです。牧師 は、自 分 自 身 は何 者 でもないのです。全 くもって大 した者 ではない。しかし、主 イエスがみなさんへ の牧 師として、立ててくださっているから、牧 師なのです。ですから、パウロも、面の皮が厚 い強 心 臓 の人物だからこう言っているのではない。徹頭徹尾、主のお働きだから、そう言えたわけです。 実 は、この後 に、テモテの話 も出てきます。テモテは少 し早 く、パウロとは別 行 動 をとってコリントを 目 ざしていた。それで先 に着 く可 能 性 があった。でも、このテモ テという若 い伝 道 者 は、弱 冠 、線 が 細 いというか、繊 細な人 だったようですね。海 千 山 千 のコリントの 信 徒 相 手 に、太 刀 打 ちできるかパ ウロは心配だった。それで、こう釘を刺した。 16:10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。 彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。 16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安 のうちに送り出して、私 のところに来させてくだ さい。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。 ここでも、パウロは繰 り返 しています。テモテの性 格 には、はっきりいって弱 いところがある。 経 験も まだまだだろう。でも、そんなことは関 係ない。「だれも彼 を軽んじては」ならない。なぜなら「彼 も、私 と同じように、主 のみわざに励んでいるからです」。主イエスのしもべとして、主 のわざをなしているか らです。 本 当 に、祝 されている教 会というのは、やはりここのところがはっきりととらえられているように思うの です。ただ人 間 的 に牧 師 と信 徒 の関 係 が良 いということではない。牧 師 も、信 徒 も、「主 がお立 てく ださっている」ということを、真 正 面から受 け止めていく。そして、それぞれの立 場で、「主のみわざに 励んで」いく。 4 4.恵みを分け合う教会 辻 宣 道 先 生という方 が、若 い頃、 修 養 会 に呼ばれて四 国の教 会 に行 ったことがあったそうです。 1 空港に着くと、驚いたことに、その教会の長老さん(役員さん)がずらっと並んで出 迎えてくださった。 帰りも同じように、ずらっと並んで送ってくださった。辻 先 生 は震 えるような思 いにされたというのです ね。こう言われています。 「若 い伝 道 者をこうまで尊んでくれるわけはなにか。思うにその人 格 に対してではありません。その 職 の尊 さを重 んじてくれたのです。自 分 が伝 道 者 として召 されていることの意 味 をそのときほど感 じ たことはありませんでした。召しに対するふるえるような思い。その責任。伝統ある教 会には説 教者を して 十 分 語 ら し める 祈 り の 配 慮 が あ り ま す。 説 教 者 は 祈 っ て くれ る 会 衆 を 背 後 にも って 育 っ て い く。・・・召された召しの尊 さと、それに仕える喜びを知らせてくれるのは、牧師をささえ祈ってくれる会 衆です。・・・牧師 が育 つのは、キリストに従おうとするひとが、ひとりふえ、ふたりふえ、三 人寄って祈 ってくれるときです。ここで牧 師 はつくられます。つくられた牧 師 はまた会 衆 を育てます。思 えば、牧 師と会衆 はいつも相 互牧 会的な中を生きています。どちらもひとりでは生きられない。孤立は成 長を もたらしません。」 以前にもお話したことですが、私が門戸に赴任してきて数年という頃だったでしょうか。恩師の舟喜 信先 生と電 話でお話ししたことがありました。その時の用件 は忘れました。でも、信先生に、「牧 会は 楽 しいでしょ」と聞 かれたのです。 その時 、私 は何 も答 えることができず絶 句 してしまったのですね。 正 直 に言 えば、「牧 会 は大 変 でしょ」とか「けっこう辛 いでしょ」と言 われたら、「アーメン!そうなんで すよ」と、わーっと色々話していたと思います。 牧 師 に対 する期 待 の裏 返 しなのだと思 うのですが、「先 生 、もっとこうしてください」「こうしなけりゃ だめですよ」「門 戸ではこのことができていませんよ」と、色々なご批 判、ご 意 見 をいただきました。そ して、私 なりに頑 張るわけですが、とても要 求 される水 準 には達しない。イメージとしてはですね、広 い野 球 のグラウンドを一 人 で守っているイメージでした。「先 生 、ライトががら空きですよ」と言 われて そっちに走っていくと、「先 生、レフトです。レフト、レフト!」と声が飛んでくる。「キャッチャーフライで す。早く、早く!」と言われてそっちに駆けだすと、「センターオーバーの大飛 球です!」と言われる。 まるで千本ノックを受けているようで、疲れ果ててしまいました。 それで、何年目くらいでしょうか、腹をくくったのです。もう、人 の声に右往左 往するのはよそうと。何 を言 われてもいいと。どの道 ふさわしくない者 であるのは、初 めから分 かっているのだから 、とにかく 主の前にベストを尽 くして、守るべきところを守 ろうと。それでいいと。それでも、ダメなら、主が首にし てくださるだろうと。最低限、守るべきところはどこなのか。それはこの講壇なのだと。 そうして、開き直って、主に委ねて、気が付いてみると、牧師が届かないところで、牧会をしてくださ る信 徒 が現 れ、祈 ってくださる方 が現 れ、熱 心 にメッセージに耳 を傾 けてくださる方 が現 れてきまし た。 1 『教 会 生 活 の処 方 箋 』(辻 宣 道 、日 本 基 督 教 団 出 版 局 )p.145 5 そういう方の祈りに励まされ、ちょっとした言葉に慰められ、具体的な助けに支えられて、ここまで、何 とか辞 めずにやってこられたのだと思 います。それで最 近 ようやく、少しだけですが、「牧会 は楽しい でしょ」と言 われていた信 先 生の言 葉 の意 味 がわかるように思 える時が、あるような気 がします。まだ、 気がしますという程度ですが。 それは、ひとつのことが分かってきたということなのだと思います。教 会とは、 牧 師 が信 徒のために、 何かをしてあげるところではなくて、牧師も信 徒も共 に、キリストの恵みを分かち合い、共にその恵 み に与るところなのだということです。 私 が何 とかしなきゃいけないのではないのだなあということが、遅 まきながら分かってきたわけです。主がしてくださる。主がすべてのすべてなのだと。 この後で聖 餐 式をしますが、パンとぶどう酒は十 字 架 の上 に咲かれたキリストのからだと血を象 徴 しています。牧 師は祈り、役員 がそれを配 ります。しかし、何と言っても大切なことは、牧師や役 員で はない。キリストが、ご自身をわたしたちに差し出してくださっているということです。主が、いつも私た ちに、罪の赦しと、生きる力と、永遠のいのちを与えるべく、圧倒 的な恵みで教会に臨在してくださる ということです。ただ、私は、その恵みをみなさんと分かち合い、共にキリストを喜び、キリストを味わえ ばよいのだ。そのことが分かって楽になりました。 この手紙の最後にも、色々なクリスチャンたちの名前が出てきます。 雄弁なアポロがいます。パウロ の身 の周 りの世 話 をすることで主 に仕 えたステパナがいます。家 を開 放 して、次 々と「家 の教 会 」を 作って行った、アクラとプリスカのご夫婦 がいます。そういう色々な賜 物、色々な形 の仕え方があって、 キリストのからだが建て上 げられていく。ただ、大 いなる主 イエスの恵 みを分 かち合 う共 同 体 として。 主の愛のうちにひとつとされた、キリストの愛に生かされる共同体として。 パウロの最後の挨拶は、ただ、私たちが、この愛と恵みに生きるようにという願いと促 しでしょう。 Ⅰコリント 16:21 パウロが、自分の手であいさつを書きます。 16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。 16:23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。 16:24 私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。 ただ、この恵みに生きる教会になってまいりましょう。 祈ります。 6
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